さまざまなオペラに出合うために――『オペラ鑑賞講座 超入門』を書いて

神木勇介

 オペラを楽しむためのちょっとした「コツ」をご存じですか? オペラに興味をもった人がはじめの一歩を踏み出すとき、その案内役となるように、本書『オペラ鑑賞講座 超入門』ではその「コツ」を書きました。

 オペラに興味をもつ……このことだけでも、一般的に考えれば珍しいことではないかと思います。オペラはクラシック音楽の一つのジャンルであるわけですが、交響曲やピアノ曲に比べて、親しみにくいものかもしれません。一見すると、時代錯誤の舞台衣装を身にまとった体格のいい男女が、オーバーな演技をしながら大声を発している──現実離れしているこの世界に、即座に拒否反応を示す人もいるのではないでしょうか。

 でも、例えば「自分の好きな作曲家がオペラも書いている」「好きなメロディーがオペラからの抜粋だった」「豪華なオペラハウスの写真を見た」など理由はどうであれ、まずは興味をもつところまできたとしましょう。そこからオペラの世界をのぞいてみるわけですが、これが少々やっかいかもしれません。オペラにはいろいろな種類があって、たまたま出合ったオペラが自分の好みに合っているとはかぎらないからです。

 実は私もそうでした。音楽大学を目指して声楽のレッスンを受けていた私は、その先に「オペラ」があることを見据えていましたが、まったく知識がなかったため、とりあえず何でもいいからオペラを聴いてみることにしました。何も考えずに、ある有名なオペラ作品を鑑賞したのです。でも、まったく楽しめませんでした。当時の自分には合わなかったのですね。演奏時間は長いし、どこが聴きどころかもわからない。これは私とは異質の世界なんだと勝手に自分に言い聞かせて、それ以降は歌曲や声楽曲に関心が集中しました。

 それでも結局、私はオペラが好きになりました。なぜなら、その後さまざまな機会で、オペラの「多面的」な魅力にふれることができたからです。ヴェルディのオペラ・アリアを歌ったときは、シンプルな音楽なのにこんなに劇的な表現が可能なのかと驚きました。もちろんプッチーニのオペラで、主役のソプラノとテノールが歌うアリアにも感動しました。モーツァルトのオペラには親しみやすい重唱が多くあり、仲間とアンサンブルを楽しみました。初めて接したワーグナーのオペラは、パトリス・シェロー演出の『ニーベルングの指環』でしたが、とにかく長かったという感想をもったものの、「演出」に興味をもちました。リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスのオペラの多彩な音楽表現に気がつくと、オーケストラの演奏を楽しめるようになりました。

 同じオペラでも、作曲された時代や場所によってまったく別物のように印象が異なります。また、オペラは、「声」「歌」「音楽」「演出」などのさまざまな観点から楽しむことができます。こうしたもろもろのことを知ったうえでオペラを鑑賞していけば、必ずや自分に合ったオペラが見つかるはずです。

 オペラについて「声」「歌」「音楽」「演出」などのあらゆる側面を順序立てて知ることができるように、本書『オペラ鑑賞講座 超入門』では全体を12の講座に分け、オペラとは何かというところから名作オペラの楽しみ方まで、できるだけ丁寧に解説しました。本書を読めば、オペラを楽しむための「コツ」をつかむことができるのではないかと思います。

互いの理解が「いい音」を生む――『まるごとヴァイオリンの本』を書いて

石田朋也

 一般的なヴァイオリンのイメージはどうも高貴なものらしい。「白亜の大邸宅に響く音色」「深窓の令嬢が弾く楽器」のイメージがあるようだ。現実に、そのイメージを体現する形として絢爛豪華な音楽ホールが建設されるし、美人ヴァイオリニストが次々とデビューして使い捨てられていく。

 ところが、その高貴なイメージに似つかわしくない音色でのヴァイオリンの音は相当に聴き苦しいもの。漫画などでひどいヴァイオリンの音と揶揄されることがあるが、これは作品中での誇張ではなく多くの人にとって現実のこと。ピアノやギターならリズムが合っていれば音色のコントロールが乏しくともまずまず聴けるものだが、ヴァイオリンの場合は適切に楽器を響かせる音で弾かなければ、文字どおり聴くに堪えない「貧弱な音」が出る。

 生涯学習が唱えられて久しい。「大人の○○教室」は多く開講されているし、ヴァイオリンも大人を対象にした教室が増えている。わたし自身も大人向けのヴァイオリン教室を運営していて、この原稿を書いている前日もヴァイオリンのレッスンを9時間おこなった。子どものころに習っていたが大人になって再開することにした人、大人になってからヴァイオリンを手にするようになった人など、それぞれに事情と思いがありヴァイオリンを習っているのだと思う。

 大人になってもやりたいこと、欲しいものというのは、子どものころに憧れたこと、欲しいと思ったものが多いと思う。子どものときにかなわなかった夢を子育てや仕事から解放され、やっと実現できたという思いが大人にはあるのだろう。始めた年齢が高いほどその思いは厚く積もっていると想像する。その思いの深さを教室の運営側が理解し大切にしなければならないはずだが、現実には冷淡に扱われていることも多いようだ。

 一方、しばしばヴァイオリンを習う生徒側が先生を軽く見ていることがある。インターネットの掲示板やブログには、先生を評価する段階ではない生徒が簡単に先生の指導方針を評価してしまっていることがある。教室の先生がこれまでどれだけ苦労を重ねてきたか、また生徒に対してどれだけ期待をもって指導をおこなっているか、その思いを生徒側が理解し尊重する必要があると感じる。

 この連載を読む人の大半は、ヴァイオリンを弾いたことがないと思う。世間でのイメージと異なり、演奏者にとってヴァイオリンはとてもサディスト的な楽器といえる。演奏者にこれでもかと精神面、肉体面、金銭面に苦痛を与えるし、ヴァイオリン教育も音楽教育のなかで最も厳しいもののひとつだと思う。優雅に弾くヴァイオリニストのイメージとは裏腹に、ヴァイオリニストやヴァイオリンの先生は過去にいくつものの体の傷と心の傷を負って、そして大きな出費を強いられてきたことが多いはずだ。

 特に大人に対する教育では、先生は生徒を、生徒は先生を理解する必要があるだろう。相互理解の必要性はヴァイオリン教育に限ったことではない。小学校などでの学級崩壊も、先生と保護者を含めた生徒側との相互理解の不足に一因があると思うし、また、医者と患者、社長と社員なども同様の問題を抱えていると感じる。そして、互いを十分に理解し合っているときに、「いい音」が生まれるのだと思う。

 ヴァイオリンの場合には、先生と生徒の関係だけでなく、演奏者と楽器との関係もある。これも演奏者と楽器が互いを理解できたときに「いい音」が出るものだ。すなわち、演奏者がヴァイオリンに「いい音を出せ!」強要してもヴァイオリンは反発するだけで「いい音」は出ない。演奏者側がヴァイオリン側の声を聞くという視点があるとヴァイオリンから「いい音」を引き出すことができる。

 相手を理解しようと視点を少しばかり変えれば、ヴァイオリンはサディストからいい友だちになる。この視点のシフトが本書で示せていればと願っている。直接的にはヴァイオリンをいい音で奏でることができるために、最終的にはヴァイオリンを友だちにするためにごらんいただく本になっていれば幸いである。

バカバカしいからこそ――『妖怪手品の時代』を書いて

横山泰子

 子ども時代の一時期、手品を練習しては家族に見せていた。父はあまり家にいなかったので、母に見せ祖父に見せ祖母に見せ妹に見せ……と一通り披露したが、同じ芸をやっていると仕掛けがわかってしまうので何度もできないのがつらいところであった。
 そんなとき、祖母の弟(Oのおじさんとしておこう)が飲みにきた。彼は本当にお酒が好きなようで、酔っぱらってくると他人の家でも靴下を脱いでくつろいでいた。その日の私はいつものように「こんにちは」を言いにいったが、普段と違うのは手にトランプを持っていたことだった。同居人には披露ずみのトランプ手品を、お客さんに見てもらいたかったのだ。
私「こんにちは」
おじさん「ああ、こんにちは。かわいいねえ」
私「トランプ手品をやってもいいですか?」
おじさん「手品か、いいよ」
 といった会話が交わされたかと思う。私はトランプを出してよく切って、
「こちらに見えないようにして、一枚好きなカードを選んでください」
とカードを抜いてもらった。それをおじさんだけが見て、カードの山のなかに戻してもらった。さらにトランプを切った後、私はこれぞという一枚を選び出し、
「おじさんの選んだのはこれでしょう?」
と得意げに見せた。ところが、なんと彼は
「あれえ、これだったかなあ?」
と言うのだ。絶対に自信はあったので私は動揺し、もう一度やってもらった。しかし、何度やっても彼は、
「あれえ、これだったかなあ?」
と言う。どうやら、おじさんは酔っぱらっていてカードの絵や数を忘れてしまうのだった。
 このとき私は「酔っぱらいには細かい手品は不向きである」という教訓を得た。そして、子どもの移り気さゆえに手品に対する興味を失い、この日の教訓も忘れてしまった。
 
 新著『妖怪手品の時代』では、江戸時代に素人(しろうと)が宴会で楽しんでいた手品について取り上げた。当時はアマチュア向けの手品の解説本が作られていて、現代人にはなかなか考えつかないようなさまざまな芸が紹介されている。人がお化けに扮する方法などが記されていて、「ちょっとふざけすぎではないか」と思うようなくだらない仕掛けもある。調査を始めたころはあまりのバカバカしさにあきれていたが、突然Oのおじさんのことを思い出した。
 酔っぱらいには細かい手品は不向きなのだった。宴席でお互いに隠し芸を見せ合うようなときには、演技をする本人も酔っぱらっているかもしれない。演じる側・見る側の双方にとって、本格的な奇術よりも笑いをとる芸の方がふさわしいのではないか。江戸時代の奇想天外な手品は、そのバカバカしさゆえに酒宴を盛り上げるのではないか。
 そんなことを考えながら原稿を書いた。当時の手品がどんなに奇抜かは、ぜひ本書を手に取ってごらんいただきたい。

テキヤの生き方――『テキヤ稼業のフォークロア』を書いて

厚 香苗

 できあがったばかりの本書を調査協力者に手渡すために、私は2012年2月24日、東京・墨田区東向島の地蔵坂を訪ねた。最寄りの曳舟駅の改札を出ると、完成を5日後に控えたスカイツリーがすぐ近くにあって、すでに航空障害灯が点滅していた。その白いLEDの光を見て、30年ほど前、曳舟駅前の大きな工場の屋根に群生していたタンポポの黄色い点々を思い出した。まず地蔵坂通り商店会会長の西村寅治さんを訪ねた。西村さんをはじめ、かつてお世話になった方々は変わりなく過ごしていて安堵した。しかし地蔵坂のほうはというと縁日なのに人がまばらで活気がない。
 露店は3店舗しか出ていなかった。冬とはいえ少なすぎる。そのうちの1店舗では顔見知りの「テキヤさん」がたこ焼きを売っていた。私のフィールドワークにつきあってくれたのは東京会(仮名)のテキヤがほとんどだった。その方は東京会のテキヤではないけれども、彼が所属するテキヤ集団も東京会と同様に、おそらく近世以前から続く古い集団だ。あいさつをするとうれしいことに私を覚えていてくれた。東京会の方々から教えてもらったことをまとめたと伝えて本書を1冊手渡すと、「字が細かくてダメだ」とすぐに返された。読んではもらえなかったが、とりあえず地蔵坂で商いをする現役のテキヤに本を見てもらえたのでよかった。ではたこ焼きを買って帰ろう、そう思って私はたこ焼きの値段を尋ねた。すると彼は「いいよ」と言う。代金はいらないから、ひとつ持っていけということだ。いまは「新法」でテキヤが困っているから本を出してもらうと助かる、と感謝されたのである。この「新法」とは、2011年10月に施行された東京都の暴力団排除条例のことだろう。
 地蔵坂に行った翌日、かつて地蔵坂の縁日のセワニンを務めていたが、すでにテキヤを引退しているS夫妻の千葉県にある自宅を訪ねた。8年ほど前に目印として教えられた県道沿いの看板はすでになく、さんざん道に迷った末に見覚えがある一軒家にたどり着いた。インターホンを押すと妻であるネエサンが出て、夫のSさんも在宅していた。2人とも久しぶりの再会を喜んでくれて、勧められるままに家に上がり込んで本書を差し上げた。そしてコーヒーをいただきながら思い出話に花を咲かせた。
 Sさんは、かつて自分が所属していた東京会の近況を少し知っていた。最年長者だった大正生まれのオヤブンは数年前に亡くなり、その下の世代のオヤブンも何人かはテキヤを引退、別のテキヤ集団に「養子にいった」若いオヤブンもいるとのことだった。話の内容から、テキヤ社会の擬制的親族関係が現在でも崩れていないことがうかがえる。また本書で紹介した神農像は、Sさんがテキヤを引退するときに東京会の現役のテキヤに譲ったという。神農信仰も続いているようだ。
 江戸=東京は人口が多く、年中行事や祝祭空間も豊富なので、ほぼ常店といっていいような安定した露店商いがおこなわれてきた。それをテキヤたちも自覚している。だから学術的な関心からテキヤの「伝統」を考察する本を出しても、イタリアのカモッラを題材としたノンフィクション・ノベル『死都ゴモラ』を出版したことで、警察の保護下にあるというロベルト・サヴィアーノのようにはなりえない――そんな確信のような思いが下町育ちの私にはあった。本人たちが「テキヤは3割ヤクザだ」と言うのだから、まったく何も心配していなかったといえば嘘になるが、フィールドワークというものは対象によらず、やってみなければわからないものだ。本書の出版からもう1カ月以上がたった。関係者に本を配り歩いて、喜ばれたり、呆れられたりしたが、身の危険は感じていない。「3割ヤクザ」だから「新法」に影響されたりするものの、やはりテキヤは第一に祝祭空間を彩る昔ながらの商人なのだろう。
 西村さんに「Sさんの家を訪ねるつもりです」と言うと、「もしSさんに会えたら遊びに来るように伝えて」と頼まれた。Sさんにそれを伝えると「そうね。そのうち行ってみるか」と笑顔で答えた。しかし祝祭空間とは縁が薄い静かな郊外で暮らし、日帰りバスツアーに参加して神社仏閣めぐりを楽しむこともあるという、そろそろ古稀を迎える老夫婦が、引退したテキヤとして地蔵坂に出かけることはおそらくないだろう。西村さんもそれを承知しているような気がする。私も自宅の住所と電話番号をS夫妻に知らせてきたけれども、連絡はないだろうと思っている。

〈音楽する〉ことの原点へ ――『同人音楽とその周辺――新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念』を書いて

井手口彰典

 音楽漬けの学生時代、部活のオーケストラだけでは飽き足らず、夜な夜なDTMで楽曲を自作しては酒のツマミにと学友らに聴かせて悦に入っていた。刺激にもオリジナリティーにも欠ける当時のサウンドを聴き返せば、思わず赤面して逃げ出したくもなる。だがいまや30も半ばのオッサンとなった旧友らに「いや~あれは若書きの習作だったから」などと軽口を叩きながらも、音楽の流れを自ら組み立て、それを誰かに聴いてもらうという「あの」プロセスが、たとえようもなく楽しいものだったことを私は確かに記憶している。
 そんな形容しがたい楽しさに突き動かされつつ、誰に望まれるわけでもない曲を戯れに書きつづっていたある日、中学時代の悪友との再会があった。下宿で酒を酌み交わしながら、私はいつものように自作曲を披露してみせた。一通り聴き終えた後で奴が発した言葉の具体的な文言こそ忘れてしまったが、そのインパクトだけは強く印象に残っている。つまり、「これ即売会で売ってみないか?」。
 あくまで20世紀末の一般的な大学生と比べての話だが、当時から私は、いわゆるオタク系文化にずいぶん馴染んでおり、したがってコミケット(コミックマーケット)や同人文化についても「知識として」ある程度まで知っていた。ただ、そこに実際に参加したことはそれまで一度もなかったし、参加するという可能性を検討したこともなかった。そんな私を、悪友は「とりあえず」とコミケットにいざなったのだ。その際に受けた衝撃を、どう表現すればいいだろう。まだ社会にオタク的なものが今日ほど氾濫しておらず、インターネットも常時接続化されていないナローバンドが主流の時代、初めて東京ビッグサイトに足を踏み入れた私の頭のなかは、「ナンナンダ、コレハ」と完全にフリーズした。
 数日後になんとか冷静さを取り戻したとき、私の脳裏には二つの思いが並立していた。第一に、悪友の甘言に乗って表現者(本書の用語を使えば「サークル参加者」)として作品を発表してみるのは相当に面白いのではないか、という予感。そして第二に、ひょっとすると自分が目にしたこの文化は、そのうち取り組まなければならない修士論文にとって恰好のネタになるのではないか、という打算。かくして私は、同人音楽の世界へと足を踏み入れることになる。
 以来、趣味なのか研究なのか自分でもよくわからないまま、十数年にわたって同人音楽との関係を続けてきた。そうした緩やかで輪郭のぼやけた営みの集大成として、本書がある。いま改めて考えてみれば、それは非常に幸福なことだ。一般的に語られる「学者は自分の好きなことを研究できる」というイメージが必ずしも妥当でないことは、たとえばさまざまな社会問題(DVにせよアルコール依存にせよ)の専門家が決して当の問題を「好き」なわけではないことを考えればすぐに理解できるだろう。しかし幸いにも私は、純粋に自分の興味・関心に沿って考え抜いた結果を、こうして書籍の形で世に問うことができている。人生のめぐりあわせに感謝しなければなるまい(ただし悪友本人にそんなことを言うのは癪なので黙っておくが)。
 とはいえもちろん、自分の好きな対象を研究するというプロセスは、ただ楽しいというばかりではない。そこには慣れ親しんだ領域だからこそ生じるさまざまな問題もある。たとえば我々は、身近なものをほかよりも贔屓目で見てしまいがちだ。あるいはよく知っている文化であるがゆえに、それを(エラそうにも)研究する自分と、勝手に研究「されてしまう」人々との意識のズレをつい忘れてしまいそうになる。自分では「身内を訪ねている」ようなつもりが、当事者には「他人が家に土足で上がり込んできた」と受け止められてしまう可能性は決して低くない。そんな過ちを犯していないだろうか、という省察は、本書を執筆し推敲するなかで繰り返し自問してきた事柄だ。
 ただ、先に述べたようないくつかの危険性を十分に自覚しながらも、しかし同人音楽について何かを語ることは、やはり私にとって非常に魅力的な、心躍る作業だった。同人音楽とはおそらく、〈音楽する〉という意志の、現代における最も純粋な発露のひとつだ。優れているとか劣っているとかではなく、ただ楽しいから、やる。そのようにして生み出されてきた諸々のサウンドに耳を傾けながら、私はかつて自分自身が味わっていた同様の楽しさを追体験しているのかもしれない。
 実はこのエッセイを執筆している現在、拙著の書店への配本はまだ完了していない。一般の読者諸氏から、あるいは同人音楽コミュニティーから、いったいどのような反応をいただくことができるのか。戦々恐々としつつ、しかし「やれるだけのことはやった」と半ば開き直りつつ、座してその結果を待つことにしたい。

アップデートする――『現代美術キュレーターという仕事』を書いて

難波祐子

 原稿を書く仕事は基本的には締め切りがあるものだが、今回は書籍ということで、ある意味、ゆるやかな締め切りだった。だが、展覧会となると、そうはいかない。展覧会の会期はずいぶん前から決まっていて、必ずその期日までに準備をしてオープンさせなければならない。何かの事情で準備に支障をきたしても、よっぽどでないかぎりオープンの日を変更することはできない。本書でも少しふれたが、現代美術の展覧会をおこなうときはアーティストに新作をお願いすることも多い。それが物故作家の展覧会とは違った同時代の美術を扱う展覧会ならではの醍醐味であったりする。だが、まだ見ぬ作品を想像しながら、展覧会オープンの日という絶対の締め切りを控えた展覧会準備というのは、本当に心臓に悪い。展覧会は、たいてい内覧会というパーティーを一般公開の前日の夜などにおこなうのだが、そういった催しには、お世話になったスポンサーの方々や協力してくださった大使館の大使など、大事なお客様がおおぜいお見えになる。さらに記者会見も内覧会前に開かれることもあり、報道関係者にも展覧会の説明などをしなければならない。直前まで設営のためジーンズ姿で現場をバタバタ駆け回っていても、内覧会前の10分ぐらいで小綺麗な格好をして、何食わぬ顔であいさつをしなければならない。さらになんとか無事にオープンできても、油断はできない。会期中もよりいい展示を目指して掲示や案内表示を増やしたり、作品のメンテナンスをするなど細かい手直しがけっこうある。会期中はトークやレクチャー、ワークショプなどの関連イベントも開催されることが多く、たいていは展覧会が開けても休む暇はない。展覧会は、それを観に来てくださるお客さまがいて初めて命が吹き込まれる。展示してそれで終わりではなく、会期中、改善できるところは改善し、少しでもいいものにして終わらせなければならない。何が起こるかわからない不確定な要素満載の展覧会をおこなう現代美術のキュレーターは、ある意味、本当に博打打ちだと思う。実施に際してトラブルが続くと、正直、何を好き好んでこんな仕事をやっているのだろう、と展覧会をするたびに思うことも少なくない。だが困ったもので、「喉元過ぎれば」で、展覧会が終わってしばらくたつとまたやりたくなってしまうのだ。こうなると、もう病気なのかもしれない。
 本書も、準備にずいぶんと時間がかかってしまったが、多くの方々のご好意とご協力をたまわり、おかげでようやく世に送り出すことができた。だが、展覧会と同じで、出版してしまえばこれで終わり、ということはない。この本を手に取ってくださった方々にとって、本書が現代美術に関わる何かのヒントになったり、刺激になったりすれば本望であるし、お気づきの点やご意見があれば、フィードバックをお寄せいただきたい。また現代美術という「ナマモノ」を扱った本書は、時間の経過とともにアップデートする必要に迫られるだろう。さまざまなフィードバックをもとに、なんらかの形で今後も本書をよりいいものにしていくことができればと願っている。

インターネットから生まれた学術書――『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』を書いて

瀬畑 源

 本書『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』は、学術書の出版としてはやや異例の経緯をたどって出版された。
  そもそもこの本は、2009年の秋に、編集者の矢野恵二氏が私のブログ(「源清流清――瀬畑源ブログ」http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/)を読んで執筆をもちかけたことから始まる。私は当時大学院博士課程の院生であり、論文も多く書いているとは言いがたい研究者だった。そのため、公文書管理問題についてこういうことを書いてほしいという明確な要望があるのだろうと思いながら矢野氏に会いに行った。
  ところが、矢野氏は会って早々、私に「どういうことが書きたいですか?」と投げかけてきた。そこで、思い付いたことをとめどなく話すと、「では企画書を私に提出してくださいますか?」と言った。私は内心「本どころか博論さえ書いていないのに、私に任せてしまって大丈夫なのか?」と逆に心配になってきた。すると矢野氏は、「ブログを見て、これだけのことが書ける人ならば大丈夫だと思っている」というような趣旨のことを話してくれた。
  私はこのとき、「ああこの方は、ブログや論文といった掲載された「媒体」で判断するのではなく、「書いたもの」をそのまま評価してくださったんだ」と感じた。それは私にとっては何よりもうれしいことだった。
  私のブログは、国(宮内庁)を相手とした情報公開訴訟を他の方に知ってもらうため、2006年8月に作ったものだった。初めは読者を引き付けるために、研究テーマである天皇制に関する時事問題を中心に取り上げ、公文書管理問題はあくまでも副次的なものにすぎなかった。しかし、自分が資料公開で苦しんでいる原因が公文書管理制度にあることに気づきはじめ、公文書管理問題についての記事が少しずつ増えていった。
  私のブログが公文書管理問題に偏っていくきっかけになったのは、2008年1月に歴史学研究会総合部会で情報公開法と公文書管理問題について報告したことである。この部会にはアーカイブズ関係者が多数おとずれ、用意していた教室に入りきらないほどだった。もちろん、集まった方の多くは他の報告者が目当てだっただろうが、なかには私のブログを読んでくださっている方もいた。そして、私が話した情報公開請求などで培ってきた知識を面白がってくださる方もいた。これまで私はブログを「自分の裁判のため」に書いてきたのだが、それにとどまらない広がりがあることに気づかされた。
  ちょうどこの時期は、福田康夫氏が首相に就任し、公文書管理法制定の動きが現実化し始めたときだった。裁判も終わり、ブログを今後どう運営していこうか考えていた私は、このまま福田首相の公文書管理法制定の動きを追い続けることが、せっかくこれまで読んでくださっていた方の期待に応えるものだという考えに至った。また、一人の研究者として、この問題についてブログを書くことが、自分の研究成果を社会に還元する方法になるとも考えた。そこで、論文を書くレベルの緻密さを保ちながら情報をわかりやすく伝えるという方針をもって、ブログを書き紡ぐことにした。
  そして、公文書管理法制定の動きについてブログを書けば書くほど、様々な分野の方が私のブログの存在に気づき、読んでくださるようになっていった。次第に、メールで直接連絡をとってくださる方も現れ、私自身も公文書管理法制定運動に深く関わるようになった。歴史学の学会では知り合えない様々な分野の方とブログを介してつながることができ、私が普段知りえないような情報をたくさん教えてもらった。その知見をもとに、さらにブログを執筆していくという好循環ができていった。
  自分にとっては、このブログは「社会への窓」の役割を果たしていた。だからこそ、わかりやすく読みやすい文章にしようと何度も推敲を重ねてから記事をアップロードしていた。そして私には、論文を書くこととブログを書くことは、同じくらい重要な意味を持つものになっていった。矢野氏はそのブログの文章を評価してくださったのである。
  本書の執筆中には、調べてわからなかったことをtwitterで聞いてみたり、ブログなどを通して知り合った方にメールで問い合わせたりした。まさに、インターネットがあったからこそ生まれた本だったと改めて思う。
  人と人とのつながりの不思議さを感じながら、今後もその関係を大切に、そして広げていきたいと思う。

アートと日々の営み、人々の働き――『芸術は社会を変えるか?――文化生産の社会学からの接近』を書いて

吉澤弥生

 編集者から『芸術は社会を変えるか?』という書名を提案されたとき、これは私には荷が重いのでは……と気後れしたのを覚えている。それからの数年間、何とかその輪郭に収まるように執筆を進めてきた。本書の大半を占める大阪での事例研究のなかには進行中の事業も多く、「いつまで」参与観察を続けるべきかを悩み続けた。結果的に、大阪市立近代美術館建設計画と大阪府立江之子島アートセンター建設計画が始動し、ダブル選挙が決まり、おそらくいろいろ状況が変化してここ10年の大阪の〈芸術運動〉が次の段階に入るであろう年に本書を上梓できたことは、何かに導かれたようなタイミングだった。
  第3章第2節を中心に取り上げたブレーカープロジェクトに、新たな展開があった。2008年以降はまちなかで神出鬼没に制作発表していて恒常的な拠点をもっていなかったのだが、今年度から地域に根ざした創造拠点をつくり、若手アーティストなどの作品制作や発表の場として整備していくことになったのだ。拠点となるのは西成区にある「福寿荘」。持ち主はきむらとしろうじんじん『野点』の開催をはじめ、当初からブレーカープロジェクトに参加して折にふれ協力してきた住民である。自らが一から作った(!)このアパートを壊すのではなく、地域の子どもや高齢者が集えるような場所にしていきたいというその住民の思いを大事にしながら、スタッフは初夏からその築60年を迎えようとする古い木造アパートに入り、掃除と改修作業に取り組んだ。その後も、参加アーティストとサポートスタッフはじめ多くの協力者とともに改修して展示空間づくりを進め、ちょうどいま、その「新・福寿荘」で梅田哲也展覧会「小さなものが大きくみえる」が会期を迎えている(2011年12月4日まで)。夜間限定プログラムなど、滞在場所があるからこその試みも用意された。数十年間さまざまな人が暮らし、去っていき、そしてここ数年は床が傾き壁が剥がれていた建物を、アートプロジェクトとして再生させたさまざまな人の思いと働き。人々の日々の営みからアートは生まれ、そして再び日々のなかへとゆっくりとその波紋を広げていく。
  さて、数年にわたる現場のフィールドワークを通して政策上の課題を考察する作業と並行して、筆者は次第に現場の人々のさまざまな仕事に関心を抱くようになった。第5章第2節「芸術という労働」がそれにあたる。もちろんアートプロジェクトはアーティストがいてこそ成立するが、実際の現場は多様な人々の働きによってつくられている。肩書はキュレーター、ディレクター、アドミニストレーター、マネージャーなど、立場はフリーランス、派遣社員、嘱託職員、NPOスタッフなどさまざまだ。ボランティアスタッフの存在も欠かせない。こうした人たちの多くはプロジェクトの表面には出てこない、いわば「名もない」労働者である。そしてリサーチ、進行管理、渉外、書類整備、そして関係づくりのための作業(感情労働)といった、表には出にくい、あるいは形として残らない事務作業を担っている。
  労働への関心を抱いたのは、自身がアートNPOで仕事をしている経験も大きい。NPOでは毎月の定例会議、理事会、年に一度の総会があるが、たいていメンバーは他の仕事(生活費を得ている仕事)を終えてからの開催なので、夜も遅くなると体力的にきつい。理事・監事といった役員ももちろんボランタリーである。事務局は書類作成、会計、広報、備品管理などなど、順調に進めば進むほど目に見えない仕事を担う。ちゃんと雇用できればいいが、一般的にみて簡単なことではない。ディレクターは事業ごとに先方との打ち合わせや調整を進め、メンバーはそれぞれに割り振られた業務を遂行するが、支払いがたいてい納品後なので、それぞれが労働している時点でその対価を受け取ることはできない。まさに季節労働者だ。筆者も経験があるが、毎月ある程度の収入を見込めなければ、仕事のための投資もままならず、社会保険などはどうしても後回しになる。
「芸術」と「労働」を同じ地平で論じることにはいろいろな反発があるだろう。しかし現在のアートプロジェクトやアートNPOの活動に、労働は不可欠だ。筆者としてはまずアートに携わる人々の労働がどんな様子なのかを知るところから始めたいと、少しずつ聞き取り調査を進め、今年(2011年)春にインタヴュー集『若い芸術家たちの労働』を制作して公表した。現在、来春に公表するその続篇のために調査を進めている。これからも日々の営み、そしてさまざまな人々の働きのなかに、アートの輪郭を見定めていきたいと思う。

千里の道の第一歩――『「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』を書いて

張嵐

「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』のもとになった博士論文の執筆からすでに2年近く経った。中国残留孤児をめぐる事情も「中国残留孤児国家賠償請求訴訟」の事実上の和解と「新たな支援策」の実施によって大きく変わった。
  厚生労働省が2005年3月に公開した「中国帰国者生活実態調査」(2003―04年実施)によると、現在の生活状況が「苦しい」「やや苦しい」の合計が孤児64.6パーセントだった。それに対して10年10月に公開された「平成21年度中国残留邦人等実態調査結果報告書」によれば、「苦しい」「やや苦しい」と答えた帰国者は28.6パーセントで、前回調査より30パーセント以上減少した。また、「収入が増えた」「気持ちのゆとりが増えた」「役所・福祉事務所の対応が良くなった」「親族訪問に行きやすくなった」などの理由で、「新たな支援策」に対して、約80パーセントの残留孤児は「満足」「やや満足」と答えている。さらに、帰国後の感想についても、約80パーセントの帰国者は、帰国して「良かった」「まあ良かった」と答え、前回調査(64.5パーセント)より大幅に増加している。
  中国残留孤児をめぐる問題を円満に解決し、彼らが望んでいた「日本人らしい」生活をようやく送れるようになったのだろう。だとしたら、裁判の結果が出る前の彼らの暮らしをいま書く意義はどこにあるのかと思う人もいるかもしれない。
  しかし、一つ忘れてはならないのは、裁判の朗報を聞けず失意のままこの世を去った残留孤児は決して少なくないことである。論文の執筆中、残留孤児の訃報を何度も受けた。
  一人の調査協力者が癌をわずらったと聞き、手術後にお見舞いに訪れた。裁判の中心メンバーとして積極的に参加していた人物である。声を出すことすら困難だったが、私に対して「裁判は絶対勝ちます」と力強く訴えた。しかし、その一カ月後に訃報が届いた。裁判の結果が出るわずか数カ月前のことだった。
  その協力者はきっと裁判の結果を自分の耳で聞きたかったのにちがいない。裁判の勝利を信じる、そのときの目の輝きをいまでも忘れることができない。そして、その無念を思うと心が痛む。
  中国残留孤児は、一般人の想像を超える辛酸を嘗めながら中国と日本の狭間でさまざまな困難と闘い、一生懸命生きてきた。そのときどき、その時点の彼らの気持ちをそのまま記録することに大きな意義があるように思う。本書が彼らが懸命に生きてきた証しになれたらとてもうれしく思う。そして、残りの人生をどうか健やかに穏やかに過ごしてほしいと切に願う。
  日本と中国は古来から「一衣帯水」と喩えられ、お互いに欠かせない大切な隣国である。しかし、戦争のせいで中国国民だけではなく日本国民の多くも犠牲になった。日中戦争の記憶が現在も両国関係に大きく影響し続けているのも事実である。
「忘却」は恐ろしい。過去を忘れると同時に、過去の失敗から学べる教訓も一緒に忘れてしまうかもしれないからだ。それは再び同じような過ちを犯す恐れにつながるだろう。豊かで平和な日常に埋没している多くの人たちが、第2次世界大戦を忘れ、世界の戦乱に関心をもたなくなった。戦争の悲惨さと痛々しい教訓を継承しなければいけない。「戦争とは、決してあってはならないもの」と戦争経験がない世代へ伝えなければならない。戦争経験者が少なくなったいま、戦争経験がない私たちの世代の責任である。
  中国の春秋戦国時代の思想家である老子がこう言った。

  九層の台は、塁土より起こり、千里の行も、足下より始まる。

 高層の建物も一盛りの土を丹念に積み重ねることででき、千里の道も一歩より始まるという意味である。一人だけの力は限られる。しかし、いくらどんなことでもはじめは小さいことから始まる。この言葉は私の座右の銘であり、この道理が日中友好関係の構築にも通じると私は考えている。歴史・過去から学ぶと同時に、お互いの違いを認識し、理解し、小さいことから始めることが大切である。本書を私にとっての千里の道の第一歩にしたいと思っている。

風景の呪縛――『トポグラフィの日本近代――江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』を書いて

佐藤守弘

 本書で考察した対象は、題にあるとおり近代における〈トポグラフィ〉、すなわち場所/環境の表象だが、そのなかで重要な役割を果たすキーワードが〈旅行/観光〉である。にもかかわらず、私自身はとにかく生来の出不精で、観光旅行というものを好まない。京都に生まれ育ち、東京とニューヨークに遊んだ10年ほどを除いては、35年もこの偏狭な盆地に暮らしていることとなるが、京都市内でさえ知らないところが多い。普段の行動範囲は相当に限られていて、物を買うのもネットでの通信販売が多い。もちろん学会や校務出張などの目的があれば遠出もするが、基本的に旅行そのものには楽しみを見いだせないのである。だから、「気ままなぶらり旅」などは考えられない。ニューヨークに6年ほど住んでいたが、アメリカのその他の場所に旅行した経験は片手で足りる。いまでも、京都から大阪に行くことさえ、気分としては〈小旅行〉なのである。
  とはいえ、それでも家族というものがあると、観光旅行のようなこともおこなわなければいけないわけだが、そうなるともう大騒動となる。なんとか旅行に目的を見いだそうと、ウェブを検索し目的地の情報を収集する。その場所の歴史を調べる。そこを描いた絵画や写真を捜し出す。現地のガイドに負けないくらいの予備知識を詰め込んで旅に出るのである。同行者こそいい迷惑で、延々と私の講釈を聞かされるはめに陥る。さらに、あれも見よう、ここにも行こうと分刻みのスケジュールを立ててしまって、同行者を疲れさせて、迷惑をかけることになる。もちろん私自身もそれ以上に疲れ果てる。あげくの果て、旅行なんて大嫌いということになるのである。
  そんな人間が、旅と抜きがたく関わるトポグラフィックなイメージをなぜ扱うことになったのだろうか。考えてみたら、これは、京都という観光都市で生まれ育ったことと無関係ではないのかもしれない。幼少期から日常のなかに観光者の存在があり、私はそのまなざしに晒され続けていた。もちろん観光者にとって、私がとくに注目するべき存在であったと言いたいわけではない(べつに祇園祭のお稚児さんの格好をして歩いていたわけではないし)。むしろ彼ら/彼女らの視野の端に気づかれることもなくたたずむネイティヴだったのだろう。いわば、私自身も風景だったのだ。
  ところで、以前、京都芸術センターが発行していた「diatxt.」という雑誌の第二期に「ピクチャリング・キョウト」という、視覚文化のなかでの京都をさまざまな角度から検証するエッセイを連載していたことがある(第9号〔2003年4月〕―第16号〔2005年9月〕)。連載のタイトルを「ピクチャリング・キョウト」としたのには理由があった。英語のto pictureという動詞には、「描く」という意味だけではなく、「想像する」という意味がある(本書でもたびたび引いたジェームズ・ライアンの“Picturing Empire”という本のタイトルから借用した)。私のような生活者にとって京都という都市は、さほど特殊な街ではない。居酒屋があって、パチンコ屋があって、コンビニがあって……。普通の日本の地方都市と一切変わりはない。それがメディアに登場した途端、「宮廷文化の香りの漂う古都」になったり、「はんなりとしたもてなしのある街」になったり、「和とモダンの溶け合う街」になったり、ときには「実は革新的な街」にまでなったりしてしまうのである。すなわち、イメージ、あるいはテクストによって表象された時点で、京都という都市は、想像された〈キョウト〉となるのである。
  この連載エッセイの一部は、『トポグラフィの日本近代』の第3章「伝統の地政学」へと引き継いだのだが、それだけではなく、江戸泥絵における江戸(第1章「トポグラフィとしての名所絵」)、横浜写真における日本(第2章「観光・写真・ピクチャレスク」)、芸術写真における無名の山村(第4章「郷愁のトポグラフィ」)の、それぞれが表象する場合も同様である。そうした表象による場所性の構築を解きほぐすことで、トポグラフィに反乱を起こさせてみようというのが本書の試みであったことは、中平卓馬や辺見庸の言葉を借りて、「あとがき」に記したとおりである。
  私自身、京都の風景の一部だったのだろうし、メディアの表象による「京都性」の言説に翻弄されてきた。私がトポグラフィの研究に携わってきたもともとの理由は、もしかすると京都の呪縛から逃れたい、それを除霊したいという、そんなごくごく私的な理由からであったのかもしれない、と初の単著を上梓したいま、思う。

 そういえば、旅が嫌いな理由は、もうひとつあった。乗り物が嫌いなのである。たとえば電車に乗っている時間が楽しめない。じゃあ、眠ればいいのだが、これが眠れない。出張などのとき、なんとか時間をつぶそうと本を数冊――研究書、小説、エッセイなどをバランスよく――、それに駅で雑誌を買い、仕事もできるようにラップトップ・コンピュータ。以前はそれに携帯音楽プレイヤーと携帯ゲーム機を持っていっていたが、iPhoneを手に入れてからは、少しは荷物が少なくなった。でも荷物が重いのには変わりない。これが海外旅行となるとえらいことになってしまう。というわけで、現在取り組んでいるテーマのひとつが、〈鉄道の視覚文化〉なのだが、これもまたこじつければ、前例のとおり除霊作業なのかもしれない。