インターネットから生まれた学術書――『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』を書いて

瀬畑 源

 本書『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』は、学術書の出版としてはやや異例の経緯をたどって出版された。
  そもそもこの本は、2009年の秋に、編集者の矢野恵二氏が私のブログ(「源清流清――瀬畑源ブログ」http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/)を読んで執筆をもちかけたことから始まる。私は当時大学院博士課程の院生であり、論文も多く書いているとは言いがたい研究者だった。そのため、公文書管理問題についてこういうことを書いてほしいという明確な要望があるのだろうと思いながら矢野氏に会いに行った。
  ところが、矢野氏は会って早々、私に「どういうことが書きたいですか?」と投げかけてきた。そこで、思い付いたことをとめどなく話すと、「では企画書を私に提出してくださいますか?」と言った。私は内心「本どころか博論さえ書いていないのに、私に任せてしまって大丈夫なのか?」と逆に心配になってきた。すると矢野氏は、「ブログを見て、これだけのことが書ける人ならば大丈夫だと思っている」というような趣旨のことを話してくれた。
  私はこのとき、「ああこの方は、ブログや論文といった掲載された「媒体」で判断するのではなく、「書いたもの」をそのまま評価してくださったんだ」と感じた。それは私にとっては何よりもうれしいことだった。
  私のブログは、国(宮内庁)を相手とした情報公開訴訟を他の方に知ってもらうため、2006年8月に作ったものだった。初めは読者を引き付けるために、研究テーマである天皇制に関する時事問題を中心に取り上げ、公文書管理問題はあくまでも副次的なものにすぎなかった。しかし、自分が資料公開で苦しんでいる原因が公文書管理制度にあることに気づきはじめ、公文書管理問題についての記事が少しずつ増えていった。
  私のブログが公文書管理問題に偏っていくきっかけになったのは、2008年1月に歴史学研究会総合部会で情報公開法と公文書管理問題について報告したことである。この部会にはアーカイブズ関係者が多数おとずれ、用意していた教室に入りきらないほどだった。もちろん、集まった方の多くは他の報告者が目当てだっただろうが、なかには私のブログを読んでくださっている方もいた。そして、私が話した情報公開請求などで培ってきた知識を面白がってくださる方もいた。これまで私はブログを「自分の裁判のため」に書いてきたのだが、それにとどまらない広がりがあることに気づかされた。
  ちょうどこの時期は、福田康夫氏が首相に就任し、公文書管理法制定の動きが現実化し始めたときだった。裁判も終わり、ブログを今後どう運営していこうか考えていた私は、このまま福田首相の公文書管理法制定の動きを追い続けることが、せっかくこれまで読んでくださっていた方の期待に応えるものだという考えに至った。また、一人の研究者として、この問題についてブログを書くことが、自分の研究成果を社会に還元する方法になるとも考えた。そこで、論文を書くレベルの緻密さを保ちながら情報をわかりやすく伝えるという方針をもって、ブログを書き紡ぐことにした。
  そして、公文書管理法制定の動きについてブログを書けば書くほど、様々な分野の方が私のブログの存在に気づき、読んでくださるようになっていった。次第に、メールで直接連絡をとってくださる方も現れ、私自身も公文書管理法制定運動に深く関わるようになった。歴史学の学会では知り合えない様々な分野の方とブログを介してつながることができ、私が普段知りえないような情報をたくさん教えてもらった。その知見をもとに、さらにブログを執筆していくという好循環ができていった。
  自分にとっては、このブログは「社会への窓」の役割を果たしていた。だからこそ、わかりやすく読みやすい文章にしようと何度も推敲を重ねてから記事をアップロードしていた。そして私には、論文を書くこととブログを書くことは、同じくらい重要な意味を持つものになっていった。矢野氏はそのブログの文章を評価してくださったのである。
  本書の執筆中には、調べてわからなかったことをtwitterで聞いてみたり、ブログなどを通して知り合った方にメールで問い合わせたりした。まさに、インターネットがあったからこそ生まれた本だったと改めて思う。
  人と人とのつながりの不思議さを感じながら、今後もその関係を大切に、そして広げていきたいと思う。

アートと日々の営み、人々の働き――『芸術は社会を変えるか?――文化生産の社会学からの接近』を書いて

吉澤弥生

 編集者から『芸術は社会を変えるか?』という書名を提案されたとき、これは私には荷が重いのでは……と気後れしたのを覚えている。それからの数年間、何とかその輪郭に収まるように執筆を進めてきた。本書の大半を占める大阪での事例研究のなかには進行中の事業も多く、「いつまで」参与観察を続けるべきかを悩み続けた。結果的に、大阪市立近代美術館建設計画と大阪府立江之子島アートセンター建設計画が始動し、ダブル選挙が決まり、おそらくいろいろ状況が変化してここ10年の大阪の〈芸術運動〉が次の段階に入るであろう年に本書を上梓できたことは、何かに導かれたようなタイミングだった。
  第3章第2節を中心に取り上げたブレーカープロジェクトに、新たな展開があった。2008年以降はまちなかで神出鬼没に制作発表していて恒常的な拠点をもっていなかったのだが、今年度から地域に根ざした創造拠点をつくり、若手アーティストなどの作品制作や発表の場として整備していくことになったのだ。拠点となるのは西成区にある「福寿荘」。持ち主はきむらとしろうじんじん『野点』の開催をはじめ、当初からブレーカープロジェクトに参加して折にふれ協力してきた住民である。自らが一から作った(!)このアパートを壊すのではなく、地域の子どもや高齢者が集えるような場所にしていきたいというその住民の思いを大事にしながら、スタッフは初夏からその築60年を迎えようとする古い木造アパートに入り、掃除と改修作業に取り組んだ。その後も、参加アーティストとサポートスタッフはじめ多くの協力者とともに改修して展示空間づくりを進め、ちょうどいま、その「新・福寿荘」で梅田哲也展覧会「小さなものが大きくみえる」が会期を迎えている(2011年12月4日まで)。夜間限定プログラムなど、滞在場所があるからこその試みも用意された。数十年間さまざまな人が暮らし、去っていき、そしてここ数年は床が傾き壁が剥がれていた建物を、アートプロジェクトとして再生させたさまざまな人の思いと働き。人々の日々の営みからアートは生まれ、そして再び日々のなかへとゆっくりとその波紋を広げていく。
  さて、数年にわたる現場のフィールドワークを通して政策上の課題を考察する作業と並行して、筆者は次第に現場の人々のさまざまな仕事に関心を抱くようになった。第5章第2節「芸術という労働」がそれにあたる。もちろんアートプロジェクトはアーティストがいてこそ成立するが、実際の現場は多様な人々の働きによってつくられている。肩書はキュレーター、ディレクター、アドミニストレーター、マネージャーなど、立場はフリーランス、派遣社員、嘱託職員、NPOスタッフなどさまざまだ。ボランティアスタッフの存在も欠かせない。こうした人たちの多くはプロジェクトの表面には出てこない、いわば「名もない」労働者である。そしてリサーチ、進行管理、渉外、書類整備、そして関係づくりのための作業(感情労働)といった、表には出にくい、あるいは形として残らない事務作業を担っている。
  労働への関心を抱いたのは、自身がアートNPOで仕事をしている経験も大きい。NPOでは毎月の定例会議、理事会、年に一度の総会があるが、たいていメンバーは他の仕事(生活費を得ている仕事)を終えてからの開催なので、夜も遅くなると体力的にきつい。理事・監事といった役員ももちろんボランタリーである。事務局は書類作成、会計、広報、備品管理などなど、順調に進めば進むほど目に見えない仕事を担う。ちゃんと雇用できればいいが、一般的にみて簡単なことではない。ディレクターは事業ごとに先方との打ち合わせや調整を進め、メンバーはそれぞれに割り振られた業務を遂行するが、支払いがたいてい納品後なので、それぞれが労働している時点でその対価を受け取ることはできない。まさに季節労働者だ。筆者も経験があるが、毎月ある程度の収入を見込めなければ、仕事のための投資もままならず、社会保険などはどうしても後回しになる。
「芸術」と「労働」を同じ地平で論じることにはいろいろな反発があるだろう。しかし現在のアートプロジェクトやアートNPOの活動に、労働は不可欠だ。筆者としてはまずアートに携わる人々の労働がどんな様子なのかを知るところから始めたいと、少しずつ聞き取り調査を進め、今年(2011年)春にインタヴュー集『若い芸術家たちの労働』を制作して公表した。現在、来春に公表するその続篇のために調査を進めている。これからも日々の営み、そしてさまざまな人々の働きのなかに、アートの輪郭を見定めていきたいと思う。

千里の道の第一歩――『「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』を書いて

張嵐

「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』のもとになった博士論文の執筆からすでに2年近く経った。中国残留孤児をめぐる事情も「中国残留孤児国家賠償請求訴訟」の事実上の和解と「新たな支援策」の実施によって大きく変わった。
  厚生労働省が2005年3月に公開した「中国帰国者生活実態調査」(2003―04年実施)によると、現在の生活状況が「苦しい」「やや苦しい」の合計が孤児64.6パーセントだった。それに対して10年10月に公開された「平成21年度中国残留邦人等実態調査結果報告書」によれば、「苦しい」「やや苦しい」と答えた帰国者は28.6パーセントで、前回調査より30パーセント以上減少した。また、「収入が増えた」「気持ちのゆとりが増えた」「役所・福祉事務所の対応が良くなった」「親族訪問に行きやすくなった」などの理由で、「新たな支援策」に対して、約80パーセントの残留孤児は「満足」「やや満足」と答えている。さらに、帰国後の感想についても、約80パーセントの帰国者は、帰国して「良かった」「まあ良かった」と答え、前回調査(64.5パーセント)より大幅に増加している。
  中国残留孤児をめぐる問題を円満に解決し、彼らが望んでいた「日本人らしい」生活をようやく送れるようになったのだろう。だとしたら、裁判の結果が出る前の彼らの暮らしをいま書く意義はどこにあるのかと思う人もいるかもしれない。
  しかし、一つ忘れてはならないのは、裁判の朗報を聞けず失意のままこの世を去った残留孤児は決して少なくないことである。論文の執筆中、残留孤児の訃報を何度も受けた。
  一人の調査協力者が癌をわずらったと聞き、手術後にお見舞いに訪れた。裁判の中心メンバーとして積極的に参加していた人物である。声を出すことすら困難だったが、私に対して「裁判は絶対勝ちます」と力強く訴えた。しかし、その一カ月後に訃報が届いた。裁判の結果が出るわずか数カ月前のことだった。
  その協力者はきっと裁判の結果を自分の耳で聞きたかったのにちがいない。裁判の勝利を信じる、そのときの目の輝きをいまでも忘れることができない。そして、その無念を思うと心が痛む。
  中国残留孤児は、一般人の想像を超える辛酸を嘗めながら中国と日本の狭間でさまざまな困難と闘い、一生懸命生きてきた。そのときどき、その時点の彼らの気持ちをそのまま記録することに大きな意義があるように思う。本書が彼らが懸命に生きてきた証しになれたらとてもうれしく思う。そして、残りの人生をどうか健やかに穏やかに過ごしてほしいと切に願う。
  日本と中国は古来から「一衣帯水」と喩えられ、お互いに欠かせない大切な隣国である。しかし、戦争のせいで中国国民だけではなく日本国民の多くも犠牲になった。日中戦争の記憶が現在も両国関係に大きく影響し続けているのも事実である。
「忘却」は恐ろしい。過去を忘れると同時に、過去の失敗から学べる教訓も一緒に忘れてしまうかもしれないからだ。それは再び同じような過ちを犯す恐れにつながるだろう。豊かで平和な日常に埋没している多くの人たちが、第2次世界大戦を忘れ、世界の戦乱に関心をもたなくなった。戦争の悲惨さと痛々しい教訓を継承しなければいけない。「戦争とは、決してあってはならないもの」と戦争経験がない世代へ伝えなければならない。戦争経験者が少なくなったいま、戦争経験がない私たちの世代の責任である。
  中国の春秋戦国時代の思想家である老子がこう言った。

  九層の台は、塁土より起こり、千里の行も、足下より始まる。

 高層の建物も一盛りの土を丹念に積み重ねることででき、千里の道も一歩より始まるという意味である。一人だけの力は限られる。しかし、いくらどんなことでもはじめは小さいことから始まる。この言葉は私の座右の銘であり、この道理が日中友好関係の構築にも通じると私は考えている。歴史・過去から学ぶと同時に、お互いの違いを認識し、理解し、小さいことから始めることが大切である。本書を私にとっての千里の道の第一歩にしたいと思っている。

風景の呪縛――『トポグラフィの日本近代――江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』を書いて

佐藤守弘

 本書で考察した対象は、題にあるとおり近代における〈トポグラフィ〉、すなわち場所/環境の表象だが、そのなかで重要な役割を果たすキーワードが〈旅行/観光〉である。にもかかわらず、私自身はとにかく生来の出不精で、観光旅行というものを好まない。京都に生まれ育ち、東京とニューヨークに遊んだ10年ほどを除いては、35年もこの偏狭な盆地に暮らしていることとなるが、京都市内でさえ知らないところが多い。普段の行動範囲は相当に限られていて、物を買うのもネットでの通信販売が多い。もちろん学会や校務出張などの目的があれば遠出もするが、基本的に旅行そのものには楽しみを見いだせないのである。だから、「気ままなぶらり旅」などは考えられない。ニューヨークに6年ほど住んでいたが、アメリカのその他の場所に旅行した経験は片手で足りる。いまでも、京都から大阪に行くことさえ、気分としては〈小旅行〉なのである。
  とはいえ、それでも家族というものがあると、観光旅行のようなこともおこなわなければいけないわけだが、そうなるともう大騒動となる。なんとか旅行に目的を見いだそうと、ウェブを検索し目的地の情報を収集する。その場所の歴史を調べる。そこを描いた絵画や写真を捜し出す。現地のガイドに負けないくらいの予備知識を詰め込んで旅に出るのである。同行者こそいい迷惑で、延々と私の講釈を聞かされるはめに陥る。さらに、あれも見よう、ここにも行こうと分刻みのスケジュールを立ててしまって、同行者を疲れさせて、迷惑をかけることになる。もちろん私自身もそれ以上に疲れ果てる。あげくの果て、旅行なんて大嫌いということになるのである。
  そんな人間が、旅と抜きがたく関わるトポグラフィックなイメージをなぜ扱うことになったのだろうか。考えてみたら、これは、京都という観光都市で生まれ育ったことと無関係ではないのかもしれない。幼少期から日常のなかに観光者の存在があり、私はそのまなざしに晒され続けていた。もちろん観光者にとって、私がとくに注目するべき存在であったと言いたいわけではない(べつに祇園祭のお稚児さんの格好をして歩いていたわけではないし)。むしろ彼ら/彼女らの視野の端に気づかれることもなくたたずむネイティヴだったのだろう。いわば、私自身も風景だったのだ。
  ところで、以前、京都芸術センターが発行していた「diatxt.」という雑誌の第二期に「ピクチャリング・キョウト」という、視覚文化のなかでの京都をさまざまな角度から検証するエッセイを連載していたことがある(第9号〔2003年4月〕―第16号〔2005年9月〕)。連載のタイトルを「ピクチャリング・キョウト」としたのには理由があった。英語のto pictureという動詞には、「描く」という意味だけではなく、「想像する」という意味がある(本書でもたびたび引いたジェームズ・ライアンの“Picturing Empire”という本のタイトルから借用した)。私のような生活者にとって京都という都市は、さほど特殊な街ではない。居酒屋があって、パチンコ屋があって、コンビニがあって……。普通の日本の地方都市と一切変わりはない。それがメディアに登場した途端、「宮廷文化の香りの漂う古都」になったり、「はんなりとしたもてなしのある街」になったり、「和とモダンの溶け合う街」になったり、ときには「実は革新的な街」にまでなったりしてしまうのである。すなわち、イメージ、あるいはテクストによって表象された時点で、京都という都市は、想像された〈キョウト〉となるのである。
  この連載エッセイの一部は、『トポグラフィの日本近代』の第3章「伝統の地政学」へと引き継いだのだが、それだけではなく、江戸泥絵における江戸(第1章「トポグラフィとしての名所絵」)、横浜写真における日本(第2章「観光・写真・ピクチャレスク」)、芸術写真における無名の山村(第4章「郷愁のトポグラフィ」)の、それぞれが表象する場合も同様である。そうした表象による場所性の構築を解きほぐすことで、トポグラフィに反乱を起こさせてみようというのが本書の試みであったことは、中平卓馬や辺見庸の言葉を借りて、「あとがき」に記したとおりである。
  私自身、京都の風景の一部だったのだろうし、メディアの表象による「京都性」の言説に翻弄されてきた。私がトポグラフィの研究に携わってきたもともとの理由は、もしかすると京都の呪縛から逃れたい、それを除霊したいという、そんなごくごく私的な理由からであったのかもしれない、と初の単著を上梓したいま、思う。

 そういえば、旅が嫌いな理由は、もうひとつあった。乗り物が嫌いなのである。たとえば電車に乗っている時間が楽しめない。じゃあ、眠ればいいのだが、これが眠れない。出張などのとき、なんとか時間をつぶそうと本を数冊――研究書、小説、エッセイなどをバランスよく――、それに駅で雑誌を買い、仕事もできるようにラップトップ・コンピュータ。以前はそれに携帯音楽プレイヤーと携帯ゲーム機を持っていっていたが、iPhoneを手に入れてからは、少しは荷物が少なくなった。でも荷物が重いのには変わりない。これが海外旅行となるとえらいことになってしまう。というわけで、現在取り組んでいるテーマのひとつが、〈鉄道の視覚文化〉なのだが、これもまたこじつければ、前例のとおり除霊作業なのかもしれない。

殺人と〈殺人〉――『死刑執行人の日本史――歴史社会学からの接近』を書いて

櫻井悟史

死刑執行人の日本史』は、わたしの初の単著である。高校生のころ作家志望だった身としては、自分の書いたものが1冊の本になることほどうれしいことはない。ただ、当時は、締め切りに追われるという言葉の響きにさえ憧れを抱いていたが、実際に経験してみると、ただただ大変なものでしかないことが、今回よくわかった。締め切りに間に合うように送ったゲラが、宛名と依頼人の名を間違えて書いてしまったために戻ってきたときなど、血の気が引く思いだった。このような間の抜けたミスもする、まだ右も左もわからぬような一大学院生が本を出版することができたのも、ひとえに編集者の矢野未知生さんをはじめとする関係各位のおかげである。あらためて感謝したい。
  さて、本書の執筆にあたって最も心を砕いたのは、死刑の存置か廃止かといった議論からいかに距離を置くかということだった。
  どのような研究をしているのかと問われ、死刑執行人についての研究ですと答えると、必ずといっていいほど、あなたは死刑存置派かそれとも廃止派かといった問いが返ってくる。それが重要な問いであることは重々承知しているが、わたしの関心は、犯罪ではない殺人=〈殺人〉にある。そのために、死刑存廃について個人的に考えていることもあるが、そこはあえて明確にしなかった。
  刑法199条に規定されている殺人事件が発生したとき、多くの人は憤る。その一方で、多くの人が〈殺人〉としての死刑執行を赦すばかりか、むしろ積極的に勧めさえする。〈殺人〉を拒否すると、非難されることさえある。だが、実際にアメリカ合衆国で起こった事件として、死刑が執行された後に、死刑執行を停止する命令が届いたことがあった。また、イギリスでは死刑執行後に冤罪が発覚する事件があった。そうした事件に直面したとき、犯罪としての殺人と、犯罪ではない〈殺人〉との境界線はきわめて曖昧なものでしかないことに気づかされる。わたしの関心は、その殺人と〈殺人〉の区分の曖昧さから生じる問題にこそあった。その問題を最も肌で感じているのが死刑執行人であり、そのために彼らはつねに殺人と〈殺人〉の類似性に悩んできたのではないだろうか。それが、死刑執行人の苦悩なのではないか。
  死刑執行人の苦悩を持ち出すと、必ず指摘されるのは、職務なのだから仕方がない、いやならば辞めればいい、死刑が廃止されれば問題は解決する、といったことである。しかし、それほど単純な話ではない。極論すれば、それを述べるためだけに本一冊分の歴史記述が必要だったのである。だから、もしもこの点がうまく記述できているとすれば、まだまだ未熟な本書であっても、多少の意義はあったのではないかと思うが、そこは読者のみなさまのご判断に委ねたい。
  ここでも繰り返しておけば、本書から「したがって死刑を廃止すべきである/存置すべきである」といった答えを導き出すことはできない。なにか提言できるとすれば、明治から現在にいたるまで、誰が死刑執行を担うべきか、死刑執行を担うとはどういうことか、といったことがほとんど議論されないまま、なしくずし的に刑務官の職務の一部とされてしまっている現状があるため、死刑執行を一時停止し――死刑判決の停止までは提言できない――、そのことについてきちんと議論したほうがいい、というぐらいのことである。そこでの議論の争点は、「なぜ人は人を殺してもいいのか」になるのではないだろうか。
  人を殺すことについて多くの示唆を与えてくれる映画として、本書でも取り上げた『ダークナイト』(監督クリストファー・ノーラン、2008年、アメリカ映画)を挙げておきたい。この映画は、バットマンに人を殺させようとするジョーカーと、殺させられることを拒みながらジョーカーと戦うバットマンのストーリーである。バットマンがジョーカーの罠に落ちて、人――ジョーカー自身も含む――を殺してしまったなら、それはジョーカーの勝利となる。ジョーカーと戦って勝利するためには、ジョーカーを殺さずに戦い続けるしかない。だが、バットマンは、どうやってジョーカーに勝利すればいいのだろうか。かくして、ジョーカーはいう。「どうやら永遠に戦い続ける運命だぜ」
  しかし、本当にそうなのだろうか。もし、そうだとすれば、それはいったい何を意味するのか。そして、殺させようとする力にどう抗すればいいのか。わたしがいちばん気になるのはこの点であり、今後も考えていきたいと思っている。
  最後に、『ダークナイト』に限らず、わたしは自分の関心についての多くの示唆を、映画、小説、漫画などの創作作品から得た。本書では、そのことに少ししかふれられなかったが、この場を借りて、すばらしき作品たちに感謝の意を表したい。

自然体の軽やかさ 追悼・熊谷元一先生―― 『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』 を書いて

矢野敬一

 手元からいつの間にか小型のカメラを取り出し、シャッターを切る。その所作がいかにも自然で軽やかだ。だからこそ被写体も構えることなく、写真に収まる。10年ほど前のことだろうか、筆者が見た熊谷元一先生の撮影場面での印象だ。熊谷元一写真賞授賞式の後、かつて先生が勤務したこともある長野県阿智村の小学校でのことだった。自然体が身についたその姿は熊谷先生の生き方そのものだ、と改めて思ったことがいまも印象に残っている。
  大型のカメラとたくさんの機材を使って、構図一つ決めるのにも時間をかける撮影方法もある。しかし熊谷先生のやり方は、およそその対極といってよい。先生自身、その仕事を三足のわらじ、と言っていた。小学校教師、童画家、そして写真家の三つだ。だが写真家については、絶えず自分はアマチュアだ、ということを強調されておられた。そしてアマチュアでしかできない仕事を自分はするのだ、ということも。先生の写真家としての仕事の軌跡を見ていると、アマチュアに徹したことのすごみ、さえ感じる。
  代表作の岩波写真文庫『一年生』は、小型のキヤノンⅡDで主に撮影した。フラッシュは用いない。撮影という点では、かなり制限があったことになる。だが受け持ちの新入生を被写体とする一年に及ぶ撮影の日々は、いきいきとした子供たちの姿をカメラに収めることに成功した。一発勝負、ではなく時間をかけて関係性を築き上げ、その可能性をフルに活かすというのが、熊谷先生の撮影手法といってよい。根気強い撮影ができるアマチュアならではのやり方だ。
  それは自分の生まれ育った村を被写体とし続けたことにも通じる。戦前、若き小学校教師時代に朝日新聞社から刊行された写真集『会地村 一農村の記録』から、その写真家としてのキャリアは始まった。当時、郷土という問題が注目されていたこともあり、この本は一躍脚光を浴びる。戦後になると、今度は農村婦人の問題がたまたま社会問題となっていたこともあり、岩波写真文庫から『農村の婦人』を刊行する。だがその後社会問題となった過疎や出稼ぎといったジャーナリスティックな被写体は、ことさら追い求めることはなかった。そういったこともあって、絶えず日常の生活を記録し続けても写真集として刊行する機会を得ない年月がその後続く。普通なら、そこで撮影を中断なり断念してしまうだろう。それをしなかったところが、熊谷先生のアマチュアとしての足腰の強さだ。昭和50年代以降になると昭和を回顧する機運の高まりとともに、熊谷先生の写真は時代の証言者として再び注目される。そして『ふるさとの昭和史』での日本写真協会賞功労賞、『熊谷元一写真全集』全四巻での毎日出版文化賞特別賞他、多くの受賞につながっていく。
  なぜ熊谷先生にだけは、こうした仕事ができたのか。先生の口からよく出たのは「~をするとおもしろいんではないか」という言葉だ。そんな軽やかな自然体で「おもしろさを見つける達人」だからこそ、ありきたりの暮らしのなかからもおもしろさを見逃さず、被写体にし続けることができたのではないか。そうした姿勢は童画家としての仕事、教師としての仕事にも一貫していた。童画家としての代表作『二ほんのかきの木』は、カキの木を中心として、村の一年の生活を風情豊かに描いた作品だ。あたりまえすぎる題材におもしろさという生命を吹き込むという姿勢は、ここにも息づいている。教え子との関係も、そうだ。自然体で接するなかから、その後教え子とのコラボレーション『五十歳になった一年生』や『一年生の時戦争が始まった』が生み出されていった。
  そうした日常の暮らしの現場からおもしろさを見出し、70年以上にわたってカメラや絵筆でつぶさに写しつづけてきたまなざしが、閉じられた。熊谷元一、享年百一歳。最後にお目にかかったのは、今年七月。誕生日のお祝いにご挨拶に行った折だ。もうその温顔に触れることができない寂しさを胸に、先生のご冥福をお祈りする。

ライトノベルの歴史に向き合って――スタンスをめぐるあれこれ

――『ライトノベルよ、どこへいく――一九八〇年代からゼロ年代まで』を書いて

山中智省

 言説資料を手がかりにライトノベルの歴史と動向を捉え直す。そんな本書の試みをいま一度振り返ってみると、あらためて実感するのは歴史認識と資料選定の重要性、あるいはその難しさである。
  例えばライトノベルの歴史をめぐる議論のなかで、「歴史のスタート地点をどこに見出すのか?」という問題は避けて通れないものだろう。これに対して「それは○○年/年代からだ!」と即答できる方もいるかもしれない。しかし「答えに迷うなぁ…」という方もけっこう多いのではないだろうか。当然「ライトノベルの歴史」と言っても、いつ、どこから、どのように捉えるかによって、浮き彫りになる歴史は様々に形を変えうる。場合によっては数百年前、それこそ『源氏物語』の時代にまでさかのぼってみることも不可能ではないのだ。したがってライトノベルの歴史に向き合おうとすれば、まずはそのスタンスを明確にすることから始めなければなるまい。
  私も学生時代、本書のもとになった修士論文執筆時にこうした作業をおこなったものの、いざ考え始めるとこれがなかなか難しい。スタート地点ひとつとっても、朝日ソノラマ文庫や集英社コバルト文庫の創刊、新井素子や氷室冴子といった作家がデビューした1970年代か、はたまた角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫の創刊、神坂一『スレイヤーズ!』(富士見ファンタジア文庫)が登場した1980年代末頃か………これまでの指摘を踏まえると様々な候補が思い浮かぶ。さて、どうしたものか。すでに収集済みだった資料と向き合いながら悩んだ末、今回は冒頭で述べたテーマとカルチュラル・スタディーズの応用である文化研究のスタンスを軸に、ライトノベルという名称が誕生したとされる時期に絞り込むことで落ち着いた。
  しかし安心したのも束の間、続いては資料の選定作業が待ち構えていて、こちらも一筋縄ではいかなかった。どのような資料をそろえるか次第で歴史の見え方も変わってくる以上、選定作業は万全を期したいと考えていた。とはいえ、掲げたテーマに沿う資料は非常に膨大で、ある時は市立図書館で「活字倶楽部」や「SFマガジン」を、県立図書館で「出版月報」や「出版指標年報」を10年から20年分閲覧請求し、またあるときは国会図書館で「電撃hp」や「ザ・スニーカー」のバックナンバーを読み漁り………気がつけば図書館めぐりに明け暮れる日々。かさむ交通費とコピー代。新たに収集する資料も次から次へと増えていき、果てしない宇宙をさまようごとく途方に暮れたこともしばしばだった。
  そんなときは恩師・一柳廣孝先生やゼミメンバーから「ちゃんと絞り込もうね~」とのあたたかい(?)助言をいただきつつ、先の歴史認識を考慮したうえで「特定の小説群が「ライトノベルとして」語られた言説資料」という枠組みで収集するよう努めた(とは言うものの、興味深い資料を見つけるとついつい集めてしまったのだが)。そういえば、かつてゼミの先輩からこうした作業について「それが決まれば研究の6割から7割は終わったも同然」と言われたのを憶えている。誇張もあると思うが、要するに「研究の6割から7割」を占めるほど重要性が高いというわけで、いま思えば苦労して当然のことだったわけだ。そうした苦労の果てに本書があることを思うと、いまさらながら感慨深い。
  さて、以上の過程を経て紡ぎ出されたのが、本書で示したライトノベルの歴史と動向である。今回浮き彫りになった事柄によって、これまでのライトノベルを捉え直す、あるいはこれからのライトノベルの行く先を考えるきっかけにしていただければ幸いである。また今後のライトノベル研究のなかで、ジャンル認識や文学/文芸観の変遷をめぐる議論の叩き台として本書をご活用いただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはない。

 最後にもうひとつ。本書のために素敵なイラストを描いてくださったゼミの大先輩・佐藤ちひろさんに、あらためて深く感謝申し上げます。内容と見事にシンクロしたイラストの魅力を、読者の方々もぜひご堪能ください!

最新の名探偵ホームズがわかる本――『ホームズなんでも事典』を書いて

平賀三郎

 ホームズ100周年(1987年)のころには各社からたくさんのホームズ本が出版されたが、その後は繰り返しになったのか、出版業界の不況の影響を受けたのか、ホームズ研究本の新刊はやや滞った感がある。
 一方、日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)が設立されて30年、その活動のなかで発表された国産研究も多い。欧米の先行研究や各種の解説についての再チェックが進んだのである。2000年ごろまでに活字になった本は、半世紀、四半世紀前に発表された欧米での研究レベルを出ないものが多いが、その後クラブのフォーラム、セミナーや支部例会で発表されたものにはなかなか充実した新しい研究がある。
 たとえば、作家のコナン=ドイルは、2人の夫人と5人の子ども全員に「コナン」の名を与えている。ミドルネーム・洗礼名としては、これはおかしい。家族全員がコナンを名乗っている事実は、ドイルに関する本を読んだほとんどのシャーロキアンは知っている。しかし、これが姓なのか名なのかは、欧米の研究では取り上げられているものがあるが、わが国ではJSHCの年次大会でもクラブの会誌でも公然と発表されてはいなかった。作家研究も、本人の自伝や子息の友人が書いた好意的な伝記が翻訳されているが、これだけを読んで、それを無批判に信用するのでは研究にはならない。どうやら自分の代から複合姓にしたようである。
 ホームズの愛好者シャーロキアンの特徴は、すなわちアイドルのファンクラブとの違いは、この「研究」にある。架空の人物が、あたかも18世紀から19世紀のロンドンで活躍した歴史上の人物のようにとらえ、事件簿全60編を読み解き、当時の地理・歴史・文化・社会上の事実に照らした作品研究をおこなうのである。もちろん、会員相互の親睦を忘れてはならないが、この「ホームズ学」こそ、事件簿が出版されて130年を経た今日まで読み継がれ、世界各国にシャーロキアン団体が結成されている最大の理由だろう。
 クラブも30年たった時点での国産研究の成果をとりまとめ、2009年に、平賀を編著者として会員13人の共著で『ホームズまるわかり事典』(青弓社)を上梓した。ホームズを読む人、これから研究する人を対象にして、JSHC内の発表のなかから出版にふさわしいものを選択し、 101項目を「読む事典」として編集した。約30年前に出版された『シャーロック・ホームズ雑学百科』(小林司/東山あかね編、東京図書、1983年)や、約10年前に編集された『シャーロック・ホームズ大事典』(小林司/東山あかね編、東京堂出版、2001年)などの会員による労作からは30年なり10年なり進んだ、新しい研究を反映させたものを目指している。
 代表的な辞典の『広辞苑』(新村出編、岩波書店、1955年)も版を重ねるたびに項目が入れ替わり、記述も補正される。そもそも事典は、最終不動のものではなく、学問や社会の進歩によって内容は次々と更新されるべきもので、その時点で最新のものであっても翌日から古くなっていく宿命にある。
 ホームズに関するその時点で最新の解説や研究の項目は、とても前著の101項目にとどまるものではない。今回は第2弾を『ホームズなんでも事典』として刊行した。大学教授や単著で出版している作家なども加わったシャーロキアン19人の共著で、103項目を所収している。
 冒頭は「青いガーネット」である。クリスマスの宝石盗難事件だが、わが国の「義理堅い」シャーロキアンのなかには「ガーネットは赤い宝石で、青いガーネットなどありえない、荒唐無稽な事件である」と批判する人がいたり、「本来は赤い宝石が青いからこそ珍しいのである」と擁護する人がいたが、鉱物学的に結論が得られた。宝石の色は微量の成分の差によるので、青いガーネットもありうるし、自然科学の発展途上であった当時、ほかの青い鉱物をガーネットと思い込んだ可能性もあるという研究書が発表された。「青いガーネット」はこの最新の研究に基づく項目である。
 次は「アビ・ハウス」。ロンドンを訪れたシャーロキアンが必ず立ち寄ったベーカー街221番地に立ち、1951年の英国フェスティバルで地元の区役所がホームズの部屋を復元して展示した建物である。しかし、最近再開発され、入り口に掲げられていたホームズの横顔のデザインのプレートも姿を消した。シャーロキアンにとって、ロンドンで必ず訪れる場所が失われ哀愁をさそう項目である。
 以下「ワトスンの結婚」まで、興味をもった項目から自由に読んでいただけるものとして編集している。

〈孤独〉という創造力――『写真の孤独――「死」と「記憶」のはざまに』を書いて

伊勢功治

『写真の孤独』という本書の書名は、書き下ろしの「写真の孤独――ジャコメッリと須賀敦子の出会いから」からとった。通常、原稿を書いた後に書名を付けるものだが、まず、最初にこの書名が頭に浮かんだ。これは私にとって、はじめての経験だった。自然に生まれたものだったが、〈孤独〉という言葉に格別の思い入れがあったわけではない。
  私にとって写真は〈死〉の表象として常にそばにあり、写真はいつも〈孤独〉とともにあった。これまで人の死や病、そして別れが写真についての文章を書かせたような気がする。写真は遺影のように〈記憶〉をよみがえらせ、立ち止まって書くことによって追悼してきたともいえる。本書に書いたもののほとんどがそうだった。そして、この書き下ろしの原稿を書くにあたり、誰をその中心軸にするかが最大の課題となった。
  あるとき、イタリアの写真家マリオ・ジャコメッリの神父たちを捉えた写真が目に飛び込んできたときに、はじめてこのテーマで書けるという確信のようなものを得た。
  また、須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋、1992年)のなかのジャコメッリの写真との出会いに関する記述が筆を進める後押しになった。この2人の作家の根底には、詩から多くのインスピレーションを得て、世界を広げ、自らの作品に浸透させて生まれた結晶がある。
  私にとって須賀の最初のエッセイ『ミラノ 霧の風景』(白水社、1990年)は、私がブックデザインの仕事を始めた頃の記念碑的な本でもあったので、運命的な再会のようなものを感じた。出会いはいつも深層の〈記憶〉のなかから生まれる、そんな気がした。
  写真作家について知りたいという気持ちが、ひとつひとつの川を渡るように筆を進める力になったのは事実だ。写真評論を生業としていないため、興味のある写真家や写真だけを取り上げることができたことは、幸いだったといえるかもしれない。
  本書に収めた10年ほどの間の写真家についての文章を振り返ると、作家の写真に直接入り込むことを避けるかのように、詩や音楽、映画などを経由しながら、写真に近づいていったことがわかる。ときには筆を止め、思考が道草することもあった。迂回し、遠回りしながらいちばん落ち着く場所を見つける、これまでの自分の歩み方にどこか似ているような気がする。
  ジャコメッリに関する資料を集める段になって、日本では多木浩二と辺見庸の著作以外にないことがわかり、洋書を集めることになった。そのために多くの時間を費やしたが、ジャコメッリという写真家について知れば知るほど、一筋縄ではいかないその奥行きの深さに興味が湧いた。
  特に彼が、詩や美術といった他分野の芸術から敏感に、かつ深く感応する芸術家でありながら、一方で現実に真摯に向き合う姿勢に強く惹かれた。従来の写真の様式にとらわれることなく、最前線の流行からも自由だった。彼は孤独を愛し、〈写真の孤独〉こそが創造の源泉であった。
 
  洋書のなかで、Enzo Carliの Giacomelli, CHARTA, 1995 の冒頭でJean Claud Lemagnyが書いたIntroductionの日本語訳は、早稲田大学院生の今中菜々さんにお願いした。この場を借りてお礼を言いたい。

(本書のオノデラユキに関する文章のなかで書いた私の詩が「小見さゆりが書いた」と間違えて表記されてしまった。小見さゆりさんには深くおわびを申し上げます)

「賢治する」と鉱物や樹木と共感できる――『宮沢賢治と天然石』を書いて

北出幸男

  『宮沢賢治と天然石』のカバー表の写真は花巻農学校の教師時代、28歳の宮沢賢治。『心象スケッチ 春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』を出版したころで、作家として覇気と、おそらくは野望に満ちていた時期でした。鹿皮の陣羽織を仕立てなおした上着を着ていて、坊主頭や写真の雰囲気からはうかがいにくいのですが、けっこうおしゃれな人だったようです。
  カバー裏の石の写真は、1点は自然のいたずらで「愛の店」とも「愛の石」とも読めるソーラークォーツ、メノウを核に鍾乳石状に発達した水晶を輪切りにしたものです。世界全体の幸せを願った賢治に似つかわしいと思います。もう1点は切断したメノウに現れた天然の模様で、「見立て」の力を使うと氷山を背景に船が浮かんでいるように見えます。賢治の代表作『銀河鉄道の夜』にはタイタニック号の遭難事件で犠牲となった若者と彼に連れられた幼い姉弟が登場します。他者の救済のために自分を犠牲にしたこの事件に、賢治はいたく感動したようです。
  2点の鉱物の写真は石好きだった賢治が驚くようにと選んであります。偶然にもこれらの石をここで紹介できるようになったのは、不思議といえば不思議なことですが。
    
『銀河鉄道の夜』や『雨ニモマケズ』『風の又三郎』の作者として知られている宮沢賢治は、鉱物や地質学の専門教育を受けた民間の科学者で、短い期間、農村指導者として過ごしました。80年ほど前に現代的なフリースクールを創設したことでも有名です。
  賢治は霊視できる、幻臭を嗅ぐなど、生来のシャーマン的気質のために、容易に意識を変性させて向こう側へと行ってしまえる人でした。日常的な視覚を超えることで開けてくる世界を〈心象スケッチ〉とよび、幻想的で透き通った詩や物語を残しました。
  本書の第1部では、シャーマン的な気質のために生きることに難儀したこちら側での賢治の生涯を追いました。
  第2部ではシャーマン的気質と変性意識との関係を分析し、〈心象スケッチ〉は特異なものではなく、私たちも体験できることを検討しました。意識を変容させて賢治ふうの「行ってしまった景色」に遊ぶためのメソッドを付けています。
  第3部では、賢治と天然石に的をしぼり、彼が天然石をどのように眺めていたかを特集しました。蛋白石(オパール)・琥珀(アンバー)・玉髄(カルセドニー)・瑠璃(ラピスラズリ)・土耳古玉(ターコイス)など、賢治作品中の使用例を引いて、賢治と天然石の関係を解説しました。
  全体としてはポスト・ニューエイジの賢治論とでもいった味わい。「これまで誰も試みたことがない〈心象スケッチ〉の21世紀的解釈」となっています。
    
  ポスト・ニューエイジへのこだわりがぼくにはあって、宮沢賢治との出会いは、自分なりにそれを再考する機会になりました。
  日本ではオウム真理教事件以降、ニューエイジは地に落ちたようで、いまでは「スピリチュアル」という言葉も、幼児向けのガチャポンか女性誌の星占いと同程度に扱われています。「闇と暴力と混沌に満ちた世界ではなしに、透き通った愛と光にあふれた世界、精神の解放が水瓶座の時代なのである」(マリリン・ファーガソン『アクエリアン革命―― ’80年代を変革する「透明の知性」』堺屋太一監訳、実業之日本社、1981年)とうたわれたニューエイジはどこへいってしまったのか。このままでは、自分だけが得をすればいい、他人に迷惑さえかけなければ後は何だっていい、という風潮しか子どもたちの世代に残せないのではないか、といった心配は、ひとりひとりの人が「賢治する」ことで、その人のまわりから少しずつ解消されていくだろうと期待しています。
  ぼくと賢治とのかかわりは、本を1冊書いたから終わりというわけではなく、開催時期は未定ですが、今後は自分の店ザ・ストーンズ・バザールで「賢治と天然石展」のようなものを開き、ブログでは本書をまとめるにあたって省略した部分の紹介や、お気に入りの賢治作品のポスト・ニューエイジふう解説などを書いていこうと考えています。
  これらの情報には「ストーンズ・バザール」または「北出幸男」で検索するとアクセスできます。新刊の『宮沢賢治と天然石』をもっともっと楽しんでもらえるよう努めます。
  真昼の空や夜の月を眺め、草や木や石たちを眺めて、「きれいだなあ、おい」と、みんなのひとりひとりが言えるといい。