ヴァーグナーを(で)笑え?――『ヴァーグナーの「ドイツ」──超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ』を書いて

吉田 寛

 先日、私の勤務先の大学で、フランス人とカナダ人の研究者と一緒にランチをする機会があった。前者はフランスから集中講義のために来ている哲学研究者で、私とは初対面、後者はフランス語圏カナダ人の政治学・経済学者で、私の同僚である。その場にいた私以外の全員がフランス語を話せるが、私はフランス語を話せないので、私が会話に加わると全員が(バイリンガルであるそのカナダ人以外にとって不慣れな)英語にスイッチしてくれる。だから、以下で紹介する会話は英語でおこなわれたものだ。
  最初の自己紹介の折に、その場にいた私の別の同僚(日本人)が、私が最近ヴァーグナーについての本を出版したことをそのフランス人研究者に伝えた。おそらくはそのためだろうが、そのランチの途中で(文脈は忘れてしまったのだが)ヴァーグナーの話題になり、フランス人研究者は私に「ウッディ・アレンのヴァーグナーに関するジョークを知っているか?」と尋ねてきた。彼の口ぶりではかなり有名なジョークらしく、いかにも当然知ってるよね?といった感じで聞かれたのだが、私は本当に知らなかったし、その場の日本人は全員知らなかったようだったので、せっかくなので(話題を流すこともできたのだが単純に知りたかったこともあり)教えてもらうことにした。
「私はそんなに長くワーグナーを聴けない。ポーランドを征服したくなる衝動にかられるから」というのがそのジョークである。後で調べたところ、ウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)という映画に出てくるせりふらしい。フランス人研究者はこれをわれわれに紹介して、隣のカナダ人研究者と一緒に大爆笑。ただ私は(他の日本人もおよそ同様だったが)意味はわかるが、どこが面白いのかわからず、つられて苦笑するのがやっとであった。
  さて、この日のランチ以降、現在まで私が解決できていない問題は、この「笑い」のギャップは何だったのか、ということだ。言うまでもなく、ポーランドを侵攻したヒトラーがヴァーグナーを好んで聴いていた、という歴史的事実(およびそれに関する知識)が、このジョークの「意味」を形成している。だが、そのジョークで「大爆笑」できるかどうかは(すべてのジョークがそうであるように)、そうした「意味」とはまったく別の次元にある。意味がわからなければ(普通は)大爆笑はできないが、意味がわかったからといって(私がそうだったように)大爆笑できるとはかぎらないのだ。そして想像するに、私の周りの人々(分野は様々だが大半は日本人の研究者)はそのジョークの意味は理解できるはずだが、それを聞いて大爆笑はしないはずだ。ちなみにそのカナダ人の同僚は、日頃の笑いのツボはわりあい私と似通っているのだ。
  これは単にジョークや「笑い」に対する国民性の違いなのか(いわゆるフレンチ・ジョーク?)。それともとりわけ日本人が第二次世界大戦の影をまだ引きずっているからなのか。あるいは(その映画を見ていないから何とも言えないのだが)、歴史の大きな暗部をも「大爆笑」に変えてしまうウッディ・アレンの才能が特別なだけなのか。それはわからない。とにかく私はいま、ヴァーグナーなるものの本質は依然としてまったく謎だなあと落胆しており、だがそれと同時に、その日に目にした「大爆笑」が未来に向かうどこか明るい兆しであるような気がしている。
  ところで、私が『ヴァーグナーの「ドイツ」』をお送りした方々のひとりに、同年代の友人で、ドイツに留学してベートーヴェン研究で博士学位を取った新進気鋭の音楽学者がいる。その彼は、本を受け取ると即座に丁寧な御礼のハガキを私に送って寄こし、しかもそのハガキにヴァーグナーをあしらった絵葉書を用いる、という小粋なプレーを演じて私を脱帽させた。その絵葉書には「ヴァーグナーの音楽は聞こえほど悪くはない(Wagner’s music is better than it sounds)」というマーク・トウェインの言葉がドイツ語と英語で併記してある。
  さあ、またしてもヴァーグナー・ジョークだ。要は、何だかんだ言っても結局はひどい音楽だ、というわけである。しかも驚いたことに、後で本人の口から聞けば、この絵葉書はバイロイトのヴァーグナー記念館で買ったものだという。確かにそう聞いたうえでよく見ると、それまでは気付かなかったが、背景の絵は祝祭劇場のバルコニーと思しき場面であるし、隅っこに小さく「バイロイト:リヒャルト・ヴァーグナー祝祭」と印刷されてもいる。だが、バイロイトでこのような絵葉書をこっそり(かどうか知らないが)売ってしまうユーモアの感覚は、先に紹介した「大爆笑」とは違う意味でだが、やはり私には(その友人も同様の感想を述べていたが)理解しづらいものであり、また意外でもあった。一般的には日本人以上に「お堅い」と言われるドイツ人もなかなかやるじゃないかという感じだ。
  こうしたユーモアやジョークの感覚、あるいはその効果としての笑いは、先に述べたように、表面的な知識や解釈の層ではなく、人間の心のより深い部分に根ざしている。したがって、それを分析対象として捉えて、言語化し、議論の俎上に載せることは容易ではない(昨今のいわゆる「お笑い論」のようなものがしばしば失敗しているのはそのためだろう)。だがそうした部分にまであえて踏み込まないと、今日において本当にヴァーグナーについて考えたこと、論じたことにはならないのではないか、と私は、以上で記した体験を踏まえて、いま痛感しているところだ。次にヴァーグナーについての本を書くときには、ぜひこうした「笑い」の心性までをも視野に入れてみたいと意気込む一方、どうせジョークそのものの力には勝てないのだからと諦めてもいる。だったらいっそのこと新しいヴァーグナー・ジョークの1つでも作ってやるか、という野心はかえって身の程知らずだろうか。