平林直哉
今回上梓した『クラシック名盤名演奏100』だが、このなかには自分が制作したCDがいくつか含まれている。なぜ、こうしたCD制作を始めるようになったのか、そのきっかけについては旧著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』を読んでいただきたいのだが、もうひとつ私が日頃から気をつけていることがある。それはCDの解説書である。
LPを買い始めた頃、あの見開きのデラックス・ジャケット盤はあこがれであった。わくわくして、神妙に見つめていた。そこに書いてあることがまだ完全に理解できたわけではないが、読めばなんとなく偉くなったような気がした。写真類もあれこれと掲載されていた。たとえば、ベートーヴェンが生きていた頃の街並みとか、作曲家が作品を仕上げた別荘、あるいは録音セッション風景、アーティストとその家族の写真とかである。それらを見て、あれこれといろいろなことを想像したのであり、こうした行為はいま思い出しても実に楽しい日々だった。
ところがこの時代、CDも「安ければよし」という風潮に染まっている。CDを作ったことがある人にはわかりきったことだろうが、この解説書(ブックレット)はコストが高い。したがって、制作者が真っ先にこれをカットするのは十分に理解できる。けれども、何も書いていない、あるいはありきたりのことがごく少量書かれているだけとか、そんなCDを手にすると、少なくとも私は聴く意欲がさほど湧いてこないのである。
「文藝春秋」2009年12月号には「ユニクロ栄えて国滅ぶ」という浜矩子氏の一文が掲載されていた。その内容をごくおおまかに言えば、利益がないに等しい商品は賃金を低くし、消費はさらに低迷し、結果として生活を圧迫する悪循環を生むというものである。この文に追従する形で同誌2010年1月号に、作家の塩野七生氏が「価格破壊に追従しない理由」を寄稿していた。塩野氏は「価格破壊は文明の破壊」と位置づけ、その理由を「想像力の欠如」としている。たとえば、塩野氏自身は高価なハンドバッグを買うと、これに合う服は何か、あるいはどういうスタイルで持てばいいのか、と想像力が刺激されるというのである。そして印象的だったのは、塩野氏の「想像力とは筋力に似て、使わないと劣化するという性質を持つ」という言葉だった。さらに自身の創作についても、「損をさせません、と言える作品を書くには、頭脳と時間とおカネは充分に使う必要がある」、だから結果的に高くならざるをえないとも結んでいる。
私がこれまでに作ったCDのブックレットには、埋もれさせておくには惜しい原稿を再使用したり、海外の文献を訳してもらったり、さらにはCDのために新規に依頼したインタビューを掲載したことも少なくない。要するに時間とお金はそれなりにかけているのである。こうした文章のなかには、たとえば「クナッパーツブッシュの地鳴りのような音」とある。これはいったいどんなものだったのか想像したくなるに違いない。また、「フルトヴェングラーの指揮で同じ曲を何度も演奏しても飽きなかった」というのはなぜなのか、その理由を多少なりとも考えたりするのではないだろうか。
あしらいに使用したプログラム類にも気を遣った。ときには「なんでこんな薄っぺらい紙切れ1枚にあんなに高額を払ったのだろう」と後悔することもあったが、このプログラムを手にした人はどんな職業だったのかとか、その人はどれほどの感慨を抱いて帰路についたのかといったことに思いをめぐらせていくうちに、そうした苦労は次第に忘れてしまう。
表紙に使用するアーティスト写真も重要である。いくらPD(公的所有物)音源とはいえ、先人たちの数々の苦労によって生み出された音源を拝借してCDを制作するのである。そこに、ありきたりの写真を使用することなど、とても失礼ではないか。手抜きブックレットにすれば、おそらく現在の倍以上のペースで発売することも可能である。しかし、そうしてしまえば、それこそ自分の想像力が一気に低下してきそうである。
物書きなのにこんなにCD制作をしていていいのか、とときどき思う。でも、そうした作業を通じて、原稿に生かせるものをたくさん吸収していることも事実である。物書きとCD制作を通じて、最近特に強く思うことがある。それは「世の中には自分の知らないことが多すぎる」である。