メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる〈日本人〉――『アメリカ雑誌に映る〈日本人〉――オリエンタリズムへのメディア論的接近』を書いて

小暮修三

  まずは、僕がまだアメリカ留学したばかりの頃のエピソードをひとつ。
  ある日、大学院生専用図書館のコンピュータ室でデータ処理をしていたところ、近くに座っていたアメリカ人女性が「オーマィガッ!」とPCを前に慌てふためき始めた。僕が彼女の方に目をやると、彼女は部屋を見渡し、僕と目が合うやこちらに近づいて話しかけてきた。
 「ごめんね、ちょっとファイルが消えちゃったんだけど、元に戻せるかな?」
  どうやら、レポートを書いている最中にデータが消えてしまったらしい。僕は、彼女が使っていたPCをイジり、自動バックアップ用のデータを開いてあげた。彼女は、感謝の言葉とともに、僕がどこから来たのか尋ねた。僕が日本だと答えると、「ちょっと待って」と言って、自分の大きなカバンのなかをかき回し始めた。お礼に何かくれるのかなという淡い期待に少しだけ胸を膨らませながら待っていると、僕の目の前にウォークマンを差し出して、こう言った。
 「これ、ちょっと音の調子が悪いんだけど、直せるかな?」
  あまりにパンチが効いた質問だったので、彼女が言っている意味が全くわからなかった。僕の目が泳いだ状態になると、彼女は日本人だったら直せるかと思って試しに聞いてみただけだと早口で続けた。僕が無理だと答えると、彼女は「じゃぁイイ」と言って何もなかったかのように自分の作業に戻っていった。もちろん、「わけのわからないことを人に頼んどいて、「じゃぁイイ」じゃねぇーよ、無礼なヤツだな、オメェ!」と言い返せなかったのは言うまでもない。
  その後、アジア人留学生やアジア系アメリカ人男性がメカに強く、特に日本人男性であればメカはお手の物だというステレオタイプ(固定観念)が、多くのアメリカ人に根強くあり、その背景となる言説がテクノ・オリエンタリズムと呼ばれていることを知った。少なくとも僕の滞米時期(2000年以降)、日本人男性のステレオタイプは、メガネをかけた出っ歯で、カメラを首に掛け、ジャルパックのカバンを肩から提げて、何にでもお辞儀し、バカ高いみやげ物を買いまくるニンジャの子孫というものではなかった。そこで、本書の「はじめに」で書いたように、アメリカ人の前では、あえて古い日本人男性のステレオタイプに拠った自己紹介をしてウケを狙ったのである。
  ここでウケるか否かは、そのステレオタイプの古典性をどれだけ相手と共有しているかにかかっている。特定の意味作用システムを共有していなければ、そこに「笑い」は生まれてこない。そして、幸か不幸か、当時のアメリカではテクノ・オリエンタリズムの視線の下で、古典的なオリエンタリズムに基づくネタが「笑い」の対象として認知されていたのである。しかしながら、僕がテクノ・オリエンタリズムに基づくネタとして「メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる」とボケた場合、それは「笑い」ではなく「事実」として受け入れられてしまっていただろう。つまり、そこには特定の意味作用システムが共有されていないのである。このような考察から、テクノ・オリエンタリズムという特定の意味作用システムと、その形成過程についての調査・分析が始まり、古典的なオリエンタリズムの形成も含めた内容の本書を世に問う次第となった。
  そのリサーチは、研究にたずさわる者のご多分に漏れずヒジョーに地味なもので、大学の図書館に常駐し、古雑誌のページをシコシコめくり、必要な部分をスキャンする作業の繰り返しだった。アメリカ人の友人からは、「スキャナーの番人」という称号まで与えられた。そして、あまりにも毎日のように図書館で作業しているものだから、常勤のスタッフと勘違いされてか、はたまたテクノ・オリエンタリスティックなステレオタイプのたまものか、アメリカ人学生にPCやソフトの使い方を聞かれたり、ノートPCの修理を頼まれたり、iPodの使い方まで尋ねられるまでに至る。実際には、そんなもん知らねぇっつーの。しかしながら、そのようなステレオティピカルな視線を日常的に浴びることも、リサーチの収穫のひとつではあった。
  さらにリサーチを進めるなかで、ここでも特筆すべき点は、世界に冠たる科学雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」のほぼ1世紀前の写真の「パクリ」を発見したことである。本書でも触れたが、同誌記者の撮影とされる日本に関する最初の「カラー写真」の何枚かが、実際は、日本人カメラマンの撮影によるみやげ物用「彩色写真」をトリミング(切り取り加工)したものだった。これは、シコシコ何万枚もの同誌に掲載された写真を見続けてきた過程で生じた違和感から、日本の古写真をも調べたことによって見つけ出すことができた。この発見によって、オリエンタリズムの相互補完関係という僕のロジックが、より強固なものになったと信じている。と同時に、同誌と同誌日本版発行元から目の敵にされることが想像できる。誠に名誉なことである。

  そんなこんなの明け暮れで、このような研究契機、リサーチ、そしてさらに地味なPCモニター監視員と化した分析を経て書いた本書を、楽しみながら読んでもらえれば幸いである。