松浦 桃
『セカイと私とロリータファッション』を上梓して数カ月。ありがたいことに思いがけなく多くの人から反響をいただいている。執筆中にはこのような反響を全く予想していなかった。いや、書くからにはもちろん誰かに読んでほしいと思いながら書いていた。しかし、原稿を書いていた私の脳裏を去らなかった悩みは、実際にこの本を手に取るのはどのような人たちになるのだろうかということであった。本書の内容はロリータファッションを着ている当事者たちには自明のことも多い。一方、ロリータファッションにいまだ出合わない、あるいは出合ってもそれを着ようとは思わない人たちにとって、この本が何の役に立つのだろうか。そんな疑問にずっと答えが出せないまま、書き続けていた。
本書ができあがってから、あらためて私にとってロリータファッションとは何だろうか、何に私は引かれたのだろうかと考えてみた。いままでに私が撮りためてきた、ロリータファッションの女性たちのたくさんの写真を整理して考えさせられたこと。それはファッションそのものが「着て歩く」ことをルールとしたゲームであるということだ。その洋服を着て人の目にふれる場に出る、それだけが「ファッション」=ゲームの場にいるための条件である。ゲームには勝ち負けが必ず意識される。しかし勝ち負けだけに執着していては人はゲームを本当に楽しむことはできない。勝ち負けが決まる前の宙ぶらりんの状態におかれることを楽しむことが「遊び」の心である。
私たちはいま、華々しい遊びに、祝祭に飢えている。どこも似たような灰色に映る都市のなかを漂う私たち。平日のオフィスや学校で流れる退屈な「日常生活」に満ちた時間に倦んでいる私たち。ロリータファッションはそれをまとうだけで自分の周りに「祝祭の空間」を作り出す。それは他の誰かのためではなく、着ている私のための「ハレ」の心である。また同じファッションを楽しむ仲間と一緒にいれば、お互いの「ハレ」を私たちは共有する。そこにいるだけで、ロリータたちは「遊園地」や「特別なパーティ」を作り出すことができるのだ。
相変わらず週末には、ロリータファッションでお洋服を物色に出かける私。そんな私と友人たちの間で交わされた会話のなかで印象に残ったのが、「私たちお洋服のマニアは、友達と会うときに、最初に友達の顔よりも友達の着ている服を確認している」という話である。この話は、お洋服に執心する私たちが、まさにファッションというゲームのなかでお互いのカードを確認しあう作業に熱中していることを示している。
もっとも、華やかな装いならば、ショッピングモールのなかにほかにいくらでも用意されている。そこから私はなぜ、この花と、お菓子と、フリルとレースをいつも選ぶのだろう。私個人についていえば、女の子中心のファンタジーにいつも飢えているからだと思う。いつも飢えている。もっともっと「かわいい」が欲しいのである。どうしてこれほどまでに「ロリータ的」なモチーフを求めて飽きないのか、それを語りきるには字数が足りない。
これほどまでに私を含めた多くの女性たち、最近では男性の心までをもとらえているロリータファッションとは何か。それらはどこから生まれ、どこへいこうとしているのか。少女的なるもの。少女そのもの。主体としての少女。主張としての「少女」。男性の書き手によって客体として論じられてきた「少女論」ではなく、まさに自らがすでに「少女」である、より「少女」たろうとする、主体としての「少女」。そしてその主張。
3年間そんなことを考えてきたにもかかわらず、そうしたものに私の目はなお引き付けられたままである。私は飽きない。もっともっと「少女」を語りたい。もう絶対に「少女」などとは呼ばれない年齢になっても、きっと私はどこかで私の「幻想の少女」になりたい。そんな気持ちを捨てきれずにいる。だから、今日もロリータファッションを着る。着るだけでは足りなくて、私の心は「彼女たち」の周りを漂い続けている。
ファッションという「戯れ」のなかにありながら、何か確固たる主張を感じさせるこの不思議な現象をその熱を保ったまま記録したかった。本田和子が書く、「ひらひら」と日常性の支配をかわし続けてきた、しなやかで、したたかな「少女」。その「少女」の現在進行形。ストリートのそこかしこに、彼女らはかくれんぼをするかのように遊び、見え隠れしている。
ファッションであるというだけでは、個人の思い出のアルバム以外には残らず、忘れ去られていくかもしれない、こうした「いまだ言葉にならない何か」をできるかぎり追い、記録したいと考え、まとめたのがこの本である。本になったおかげで、私自身がなかなか足を延ばせないような遠隔地でも、この本と出合ってくださった読者がいる。また、入れていただいた図書館も多い。そこでは1冊の本が何人もの読者と出合っていくことだろう。そうした多くの「出合い」のなかから新しい視点や議論が生まれていくことを夢見ながら筆をおくことにする。