私は、あの奇才ともいえるフランス・ロマン派の作曲家ベルリオーズの『音楽のグロテスク』の翻訳を出版できた。大変に光栄なことである。
翻訳にあたっては大層苦労した。本書の各小話はたんに感じたままをつづった軽いエッセイではなく、じつはさまざまな角度から見ることができる深い内容をもっている。まず、この天才の頭のなかを解読し、しかも19世紀に生きた彼が感じたことを、翻訳する際に私自身の ものにしなければならなかった。著者には自分が優れているという自負があり(もちろん彼だからこそできるのだが)、他人を見下すことに余念がない。しかしそんな彼の頭のなかは、普通の人間である私にはむろんすぐに理解できるものではなく、悪戦苦闘を強いられた。それでも訳しながら、著者のあまりの皮肉屋ぶりに、私はあきれながら一人笑っていた……。それはフランス人特有の滑稽ともいえるが、ぜひ日本語でも広めたい味わい深さがある。いわば、「粋」な嘲笑による、知的な言葉遊びともいえるものだ。
ところで、ベルリオーズの音楽について、私が感じるところを簡単にふれておこう。27歳のときの作品『幻想交響曲』は、前著『クラシックと日本人』(青弓社)でも書いたとおり、昔から日本人に愛好されている作品の一つである。私は子供の頃に、指揮者の小澤征爾がこれを熱演しているのをテレビで初めて見て圧倒された覚えがある。その音楽はじつに視覚的であり、グロテスクで、いままでに聴いたことがないものだった。魔に取りつかれて幻惑される話というのはクラシック音楽で多くみられるが、実際、これほど優れた曲はこの世にいくつもないのだと確信している。普通、作曲活動とは、誰かからの強い影響を自分のものにしてさらに発展させるのが常だが、ベルリオーズからはあまりそれが感じられない。彼の音楽語法は天才ゆえの独創性、すなわち「我流」の要素が大きい。構成は支離滅裂だし、美しいメロディーは故意に避けられている。しかし何かに取りつかれたように執拗なメロディーが、禁断のものを見たいという感情を巻き起こす。その躍動感は一見明るいけれどもわざとらしく、その先にはブラックホールのような不気味さが見え隠れする。それは、彼が愛したロマン派文学の世界を音楽に翻訳したものなのだろうか……。また、『幻想交響曲』以外で私が昔から好きなのは『イタリアのハロルド』である。これはヴィオラ独奏にオーケストラが伴う形式の曲で、やはり相当に風変わりな作品である。ヴィオラのメロディーは一聴したところ郷愁を誘うが、使われている和声が奇抜で、聴く者を「おや?」と思わせる。フェイドアウトして終わる方法も意外性に富んでいる。オペラで特筆すべきなのは、『トロイアの人びと』を別にすればやはり『ベンヴェヌート・チェリーニ』だろうか。私はパリのオペラ座でこれを見たことがあるが、演劇的な奥行きのある音楽と演出は本当に圧巻であった。
さて、『音楽のグロテスク』の話に戻ろう。あの『幻想交響曲』のように、この評論集もときとしてどこまでが現実でどこまでが空想なのかわからなくなるときがある。また、裏の裏をかくことが彼のくせになっていて、読み慣れると面白いのだが、素直な考え方をする読者にとっては少しばかりの苦労が強いられるかもしれない。そうはいっても、これは短い評論の集成なので、面白そうだと思うところから読んでもかまわない。ただ、前後関係によって全体は緩やかに統一されていて、通して読み終えたときにバラバラの話を集めたという印象を受けない、ということは強調しておこう。ときには「グロテスク」たちを中心とした、本書の登場人物の生き生きとした会話がふんだんに取り入れられていて、評論集とは思えないくらいに臨場感がある。それは読者に、映像を見ているかのような錯覚を起こさせてくれる。当時のフランスの音楽事情を知らないと理解が困難な部分もあるが、その場合はギシャールの注を参照されたい。いまの日本がかかえている音楽界の問題が、意外にも19世紀のパリのそれと似ていることに驚くことだろう。
フランス人が音楽について書いたものはまだまだ他にもたくさんある。それだけ彼らのなかには、「音楽について何か言ったり、書いたり」したくてしょうがない人が大勢いたのだろう(それはいまの日本も同じである)。それらのなかでもこの『グロテスク』は、相当に強烈なインパクトのある本で、表現もいささか辛辣である。音楽評論に王道が存在するとすれば、まさに本書は「裏」バイブルである。人は封印されたものや真実を知りたいという欲求には勝てないのであり、本書がそうした人びとの心を充実させてくれるものと思っている。