絵はがきという窓から何が見えるのか――『絵はがきで見る日本近代』を書いて

富田昭次

  先日、東京・上野にある東京藝術大学大学美術館に足を運んだ。6月11日から開かれていた「柴田是真(ぜしん)展」を見るためである。  
  同展の開催は、やはり、ある美術展を見にいったときに気が付いた。「明治宮殿の天井画と写生帖」という副題の文字に引かれたのである。明治宮殿の天井画とは、千種之間の天井を華やかに彩った、直径1メートルを超える花丸の絵のこと。本書でも千種之間の絵はがきを収めただけに、その制作過程に関心があったのだ。
  とはいうものの、柴田の名は初めて聞いた。原稿を書くときに参考にした『宮城写真帖』や『明治宮殿の杉戸絵』には彼の名前が見当たらなかったからである。だから、同展は二重の意味で興味深かった。
  柴田は円山派の絵師として、また蒔絵師として活躍した。千種之間の天井画112枚(正確には下絵で、これをもとに京都で綴織が制作された)は、宮殿内装の総責任者・山高信離(のぶあきら)の依頼で制作されたという。同展では、長年、花鳥を描いてきた柴田の面目躍如の活躍ぶりが伝わってくるようであった。
  1枚の古い絵はがきが私の好奇心を刺激してくれる。この小さな紙片に興味を持つようになったのも、それが最大の理由だろうか。だから、本書を書いていて実に楽しかった。柴田と明治宮殿の天井画のことも、その絵はがきと出会えなかったら、展覧会に足を運ぶこともなかったかもしれない。
  本書は、歴史的に意味のある内容の絵はがきを時代に沿って並べ、本編は1ページに1点という形で並べたが、そういうルールでそろえると、お見せしたくてもお見せできなかった絵はがきが何点もあった。
  例えば、肉弾三勇士として自爆した3人の兵士の母親たちを写し出した絵はがきである。彼女たちは言うまでもなく、栄誉ある息子の殉死を喜ぶわけでもなく、悲痛な思いに暮れていた。また、函館の大火で焼け出され、着の身着のまま青森駅まで逃れてきた人々を写し出した絵はがきもあった。彼らの途方に暮れた表情が忘れられない。
  そうかと思うと、絵はがきを渉猟するなかで奇妙なものにも出会ったが、収まりどころが見つからず、紹介できなかった絵はがきもある。その1枚に、朝鮮総督府鉄道局発行のものがある。絵柄はこうだ。背負子(しょいこ)のようなものをそばに立てかけて、男が線路を枕に横たわっている。そして、次の一文が印刷されている。 「線路枕○みの仮 明けりゃ妻子の涙○ 皆さんどうか安全な所へお連れください 線路に仮睡死亡者は一ケ年七八人」
  判読できない文字は○としたが、およその見当はつくだろう。どうやら、線路上で仮眠をとっている間に、列車に轢かれ、命を落としてしまう人がいるというのである。いまでは考えられないことだが、なぜ、人々は線路上で仮眠をとっていたのだろう。
  その答えはまだ見出せないが、絵はがきはこのように庶民の暮らしが滲み出ているものも少なくない。近代に生きた人々の生活臭……それもまた絵はがきの魅力のひとつなのである。
  本書を上梓した前後、絵はがきに関する大著が相次いで刊行された。ひとつはブライアン・バークガフニ編著『華の長崎』(長崎文献社)、もうひとつは田中正明編『柳田國男の絵葉書』(晶文社)である。
  前者は、従来から見られるように、ひとつの都市の歴史などを絵はがきを通じてまとめたものだが、大判で、絵はがきも大きく収録されているので、見応えのある体裁に仕上がっている。
  一方の後者は、珍しい切り口で絵はがきを捉えている。民俗学者・柳田國男が旅行先から家族に宛てた絵はがき270枚を通じて、柳田の思考や言動、家族への思いを探ったものである。本書でわかったことだが、柳田も一時期、絵はがき収集に凝ったそうである。収集自体は途中でやめてしまったということだが、絵はがきへの関心が本書に結実したとも言えるのではないだろうか。
  小さな絵はがきの風景の向こうに何かが見える。ひとつのテーマで収集すれば、また一層大きな何かが見えてくる。絵はがきへの興味は尽きることがないようだ。