小林美香
私は大学での講義を生業にしていて、写真史やデザイン、現代美術に関する講義を担当しているが、仕事の内容は無声映画や幻灯会(写し絵)の「弁士」のようなものかもしれない、と思う。パソコンをプロジェクターにつなげて、薄暗くした部屋のなかでスクリーンにさまざまな図版を投映しながら話をする。90分という講義時間を埋めるためには、相当数の図版を用意している。講義中は、それらの図版について自分が知っていること、考えていることを「話している」というよりも、図版のほうから何かの指示を受けて「しゃべらされている」、という感覚に近い。聴講している学生が、私がしゃべるのを見ていて、何かに取り憑かれているようだと感じる(実際、一人の学生からそう指摘されたことがある)ならば、たぶんそのとおりなのかもしれない。つまり、私は写真に取り憑かれて、しゃべらされているのである。
この「取り憑かれている」感覚は、しゃべることを仕事にするようになる以前から自覚していた。写真を見るということに関心を持つようになったのは、高校生の頃(1988-91年)だったように思う。写真が発明され150年という節目の年(1989年)に重なっていたこともあって、写真史に関する本が刊行されたり、雑誌で特集が組まれたりしていた。当時広島で高校に通っていた私が、写真集を見ることができたのは県立図書館の美術書・大型書のコーナーだった。書棚の前に立って手当たり次第写真集をめくったり、高価すぎて自分では買えない写真集を何度も見たい一心で、数回同じ本を借りたりしていたことを記憶している。その後大学、大学院と経て現在にいたるが、勤務先の大学の図書館であれ、外国の美術館の図書室であれ、書棚に並べられた写真集に手を伸ばして写真に見入っているときの気持ちは、ほとんど変わっていないような気がする。
見ることをしゃべることへと結びつけていったのは、学校という場所で仕事にするようになってからのことだが、「しゃべること」を体得すべき技や芸としてより強く意識するようになったのは、自主的に企画してきたレクチャーを通してだったように思う。学校での講義は一種の義務的な関係のうえで成立しているが、年齢・職業などさまざまな立場・関心を持つ人に対して、自分の知っていることや考えていることをしゃべり、そのことでお金をいただくということがどういうことなのか、を試行錯誤しながら学んできた。聞き手にも、そして自分にも満足のいく「しゃべり」をすることは難しく、芸の道は厳しく長いものだと思う。
『写真を〈読む〉視点』というタイトルは、2003年におこなった「写真史の視点」というシリーズ・レクチャーと、2005年におこなった「写真を「読む」」というシリーズ・レクチャーのタイトルを組み合わせている。いわば、ここ数年の講義やレクチャーのような「しゃべり仕事」をまとめる機会をいただいて形になったものである。論文を発表することはあったものの、単著としてまとめることが初めての経験だったこともあり、「しゃべる」ことを「書く」ことへ転換させることは、私にとっていろいろな意味でチャレンジといえる経験だった。書き終えてみて、これまでに人の前でしゃべってきたことが、本という形になって見知らぬ人の手に届く「もの」になった、ということがどういうことなのか、ということに思いを巡らしたりもしている。自分の作った「もの」に対してどう責任をとっていくのかという新たな課題を手にしながら、これから何をしゃべろうかと思案したりもしている。
写真を見ながらしゃべるラジオ、「デジオ+写真」を不定期に更新しています。
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