この本に描き出した「子どものシーン」の原型となった子どもたちは、(残念ながら)そのほとんどが、私のフィールドワークの期間中に亡くなっていった。
病棟に(基本的に)週1回しか行けないフィールドワーカーの私にとって、終末期/臨死期の子どもと会った翌週のフィールドワークは、とても気の重いものだった。まず、ナースステーションに入る。挨拶もそこそこにおそるおそる入院中の子どもの名札を見る。個室に入室している子どもの名前に目をやる。そこに先週会った彼/彼女の名前はない。
私は彼/彼女が、短い人生の最後のひとときを母親とすごしただろう個室の前に立つ。新しい個室入室者はまだいない。引き戸のドアをスライドさせてなかに入る。がらんとしたベッドがきれいに掃除されて、ぽつんと部屋のなかにある。ものすごい違和感だ。彼/彼女の痕跡はまったくない。しんと静まりかえっている。沈黙そのものですら押し黙っている感じだ。あるいはしんという音がうるさいくらい耳ざわりだ。ついこの前までこの個室で、子どもが死に逝きつつあることを知っている母親は、どのような気持ちで、子どもとの最後のひとときをすごしたのだろうか? 身体がどんどん悪化して苦しくなるなか、子どもは迫りくる自分の死というものをどのように認識していたのだろうか?
小児がんの病棟で、子どもは、(まだ)生きていること、子どもであることの証として、遊んだり泣いたりしていた。ときにぶっきらぼうになり、ときに熱心になって私に受け答えをしてくれた。あるいはときに悲しそうに。ときに苦しそうに。ときにさびしそうに。ほんとうにいろいろな姿を母親に、私に、ほかの子どもたちに、医師や看護師にみせてくれた彼/彼女は消えてしまった。
あるいは(今週は)もう会えないくらい病状が悪化していて、完璧に個室で母親と2人きりになっている子ども。もちろん、治療をする/看護行為をする以外の者は、その個室に入ることがすでにできなくなっている。私は、彼/彼女ともう会うことはない。顔を見ることもない。私が、どんなに母親やその子どもと仲がよかったとしても、もう彼/彼女は死に捕らわれてしまっている。死の覆いがすべてを包み込んでいる。唯一、母親だけが、その子どもという命を産み出した母親だけが、自分がこの世にひとつの命として産み出した子どもの、刻々と死に逝きつつある状況を子どもとともにする。子どもの命に寄り添っている。そして(おそらく)次の週には、彼/彼女の名前はない。
思い返してみて、こうして死に逝きつつ死に至るという時期でさえ、そこにあるのは社会的な営みを維持しながら死んでゆくための子どもと母親の営為である。もっと具体的に言えば、母親との最後の関係を維持しつつ、きわめて社会的に死に逝こうとする子どもの姿が、死とともにそこにあるということだ。そして、ここに至るまでにさまざまな方法とニュアンスで子どもは(そして母親は)小児がん病棟を構築し、それを支えるために通底する社会的文脈を絶えず維持・生成する方向でのダンスを踊る。壊す方向ではもちろんなく。そのような「破壊」につながる方向での言動・行動はタブー視され徹底して回避する方向で。病棟社会を構成する人々が、それぞれの役割を存分に担い合いながら。
いま、こうして本が上梓されることになって、振り返ってみると、ほんとに眩暈がするくらいの社会的な営為の積み重ねが、病棟社会のそこここに展開していたことがよくわかる。幼い子は幼い子なりに、母親は母親なりに。かように、人間は人間であるがゆえに(最後まで人間であるために)、社会/関係という鎧をしっかり着込んで病気なり、死が近しくなるにつれて、病棟社会の社会的属性、鎧を脱ぎ捨てながら(幼い子どもは赤ちゃん返りして)死に逝く。母子関係という原初的な関係は最後まで維持しながら。それらは、死に子どもと母親が近づくことよって、治療を究極の社会目標とする病棟社会の一員である必要がなくなるということだ。ここにおいて初めて、子どもは子どもに、母親は母親に(再び)存分に帰っていくのである。病院にくるはるか以前の、ごく普通の「健康」だった子どもと母親の関係に。
最後に、本文ではあまりふれることができなかったが、医師と看護師の献身的な治療と看護に言及しておきたい。
治療・看護対象が子どもだということもあると思う。彼らとは、本来、死んではいけない存在なのだ。元気に走り回っている存在なのだ。だからこそ、医師も看護師もそれこそ、その小児がんに子どもが罹患するという理不尽さに全力で抵抗し戦っていた。もてる力を出しきりながら懸命に子どもにかかわっていた。それが、短い生涯を全力で生き、全力で死んでいった子どもらへの「畏敬」と「はなむけ」の証であるかのように。
最後の最後に。
なによりも子どもと母親に。そして、医師と看護婦に。心から感謝の気持ちをこめて。ほんとにありがとうございました。