対抗政治の可能性――『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』を書いて

中谷いずみ

 本書の刊行から約2年が経過した。刊行後すぐにこの文章を書くことになっていたのだが、考えていることをうまく整理できず、ぐずぐずしているうちに時間がたってしまった。この間、さまざまな人から本書の感想をいただいた。島木健作や火野葦平、太宰治、豊田正子など取り上げた作家や作品と戦時との関わり、戦後の生活記録運動や日本教職員組合の平和運動、原水爆禁止署名運動など社会運動へのジェンダーや階級的観点からのアプローチ、生活綴方や教育2法案などに見られる子どもらしさの規範、語りの様式による表象形成と政治的動向の関わりなど、それぞれの立場や関心から多くの意見をいただいた。私が気づいていなかった問題への接続や、意識していなかった方法的広がりを示唆してもらったこともあり、また運動に関わる立場から私の論考の意味自体を問われたこともあった。それらのいただいた意見を踏まえながら、本書の「原稿の余白」に言葉を継ぎ足してみたいと思う。
 タイトルにある「民衆」とは、誤解を恐れずに言うならば、無標のマジョリティを指す言葉として用いている。それは時代や発言者が属する場所によって「大衆」「人民」などと変化しうるものであり、便宜上「民衆」という言葉を当てたにすぎない(もちろん言葉が帯びる政治性や使われる際の文脈、力学などがあるのだが、本書ではむしろそれらの問題よりも、以下に述べるような無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治の考察に主眼を置いた)。この無標のマジョリティの存在は、世論の動向が力をもつ社会では常に意識される。もちろんそれはメディア言説との関わりで考えなければならないのだが、しかし政治家や批評家を含めて多くの人びとが、世論を動かす主体として無標のマジョリティを見ていることは確かである。だからこそ、しばしば、多数派の素朴な声を代理/代表する者として、無標のマジョリティのなかの誰かが発見される。その声が社会の主流的価値観を代表するものと見なされ、メディアで大きく取り上げられる際には、世論の趨勢を必要とする政治的決定や社会制度の構築など、その声の称揚がどこに接続されるのかを注意深く見ていく必要があるだろう。
 だがさらに留意すべきは、無標のマジョリティを代理/代表しうる人物は、決して無標ではないということである。それは望ましいとされる規範を体現する者でなければならない。なぜなら、名もなきマジョリティとしての〈われわれ〉の代理表象は、みなが共感できる望ましさにおいて〈無傷〉でなければならないからである。本書では、こうした規範の体現者がどのような基準でどのような場面で見いだされたかを論じた。1930年代後半の転向者による大衆追随の言説が戦時の国家体制に結び付いていく過程や、50年代前半の社会運動で女性表象が機能していく過程で、誰が無標のマジョリティとして発見されたのか、誰の声が主流の価値観を代理表象するものとして承認されたのかを追った。例えば本書では、政治的イデオロギーへの弾圧が激しくなるにつれて、政治色をもたないと見なされた子どもや女性の訴えが純粋素朴な真実を表すとして称揚され、運動の場やメディアで取り上げられた事例を分析した。政治的主張を忌避する傾向がある社会では、しばしば、子どもや女性の声が真実性を帯びた信用に足るものとして受容される。それらの声の前景化は運動のエンパワーメントという面で効果的に機能するのだが、一方で政治的な強度をもつ主張を潰そうとする動きを補強してしまうような面ももつ。つまり意図せざるかたちで〈われわれ〉を代表しない声を排除する動きに寄与し、結果的に運動の幅を狭めてしまう危険を孕んでいるのである。また、この場合の女性の声の称揚には、知性/感情、理性/本能という二項対立の前者を男性、後者を女性に割り当てるような見方が潜在していて、既存のジェンダー秩序を強化してしまう可能性もある。そしてそれが、既存の女性らしさの規範に即して〈傷〉があるとされる女性をより沈黙させてしまうかもしれないのである。
 このように、過去に見られる無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治は、さまざまなリスクの所在を示唆してくれるものである。もちろん、直近の差し迫った事態に抗する場面ではそんなことを意識していられないかもしれない。この文章を書いているわたし自身も悪化する政治状況に抗することを最優先に考えていて、過去からの知をもって現在進行形の運動での禁止リストを作ってしまうような事態は避けなければならないと思っている。ただ一方で、そのように割り切れない現実のなかであがく際に、リスクのありかを少しでも知っておくことは大切だとも思う。竹村和子氏は「わたしたちの営為は、約束された未来に頼ることができず、あらゆる対抗表象はリスクを背負うものである」がゆえに、一種の「賭け」の継続になると記している(竹村和子「「グローバル・ステイト」をめぐる対話――あとがきにかえて」、ジュディス・バトラー/ガヤトリ・C・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』所収、竹村和子訳、岩波書店、2008年)。割り切れない、約束された未来もない現実のなかで、対抗政治を可能とするための「表象」は常にリスクを伴うのである。さまざまな生のありようが保障されるような、複数性の実現を目指すという点からいえば、受け止めるべき声とそれに該当しない声との選別を許すことで運動の幅を狭めてしまうことも、既存のジェンダー秩序を強化してしまうことも望ましいことではない。強大な力に抗する際に、場面によっては妥協も必要であり、戦略も必要である。しかしその妥協を固定化しないためにも、また戦略による仮の状態を本質化しないためにも、リスクの所在を過去から学んでおくことは有効だろう。
 さらに、わたしが重視したいのは、現実的な対抗政治への志向と同時に理念としてのそれへの志向を持ち続けることである。現状のなかであがきながら、理念的かつ現実的でもある対抗政治の可能性を模索し挫折し再度模索していくこと、また他者や自分と交渉し論争し、ときに和解し、ときにずらし、ときに衝突しながら進むこと、そしてそこに潜む問題や危険にさらされながらそれへの対処を、あるいは回避を試みながら「賭け」を続けていくことで対抗政治を生成し続けることが重要なのだろう。竹村氏は現在進行中の「賭け」を、「未決の課題というよりも、それこそが、実現不可能なものを求める生そのものである」と述べているが、現実と交渉しながらもそれを脱構築して「実現不可能なもの」を求めていく営為によってこそ、現状打破の道が、複数性の実現に向けた道が開けていくのではないだろうか。
 一時の猶予も許さないような現在の政治状況で、本書が、現在進行中の「賭け」の継続という「実現不可能なものを求める生そのもの」の営みに、そして理念的かつ現実的な対抗政治の生成に貢献するものであることを切に願っている。

原爆投下から70年、広島の祈りから見えてくるものとは――『8月6日の朝』を出版して

浦田 進

「8月6日、広島。忘れてはいけない日なのに、東京にいるとついつい疎遠になってしまうから、この写真でいろいろな人に伝わるといいなと思う」「戦争はいやだね、夏になるといやなことを思い出す」「線香の匂いがしてくる」「(子供の写真は)生まれ変わって拝んでいるよう」「声が聞こえてくる」「刑務所でこの写真を見たら、みんな自白してしまうよ」。これらの言葉は、『8月6日の朝』に収めた写真をベースに2012年夏に新宿で写真展を開催したとき、来場者が語ってくれた写真の感想です。この写真展では1週間で300人近い方にご来場いただきました。50枚近い写真を展示しましたが、じっくり時間をかけて1枚1枚丁寧に写真を見てくださる方が多く、なかには涙を流しながら見入る方もいらっしゃって、多くの方が心の奥深いところで、写真から何かを感じ取ってくださったように思いました。
 この写真展は私にとって、広島の祈りの力、普遍性、多義性を改めて強く感じさせてくれた機会でしたし、写真でしか表現できないもの、写真独自の秘めた記録性・神秘性にも改めて気づかされた体験でもありました。これは私にとって、その後も広島の撮影を継続する大きな契機の一つになり、祈りの厳かな場所で撮影した責任として、多くの方のご助力をいただいて写真集として「伝える」一つの形として結実することができたことを大変感慨深く思っています。

 本書に収めた77点の銀塩モノクロームの写真は、2009年から14年までの6年間、8月6日の朝、広島平和記念公園・原爆死没者慰霊碑前で撮影したものです。
 8月の広島の強く鋭利な日差しを浴びて、ときには暑さで朦朧とする意識を必死でつなぎ留めながら集中力を高めて撮りました。撮影中、特に心がけたことは、フレーミングを意識しないようにしながらも、1カット1カットを丁寧に謙虚に、祈っている方の想いに少しでも近づく気持ちでシャッターを切るということでした。
 1945年8月6日、この場所で起きたできごとを想い、この場所にいた人々のことを想う。一瞬とそれから長く続く痛みと苦しみを想像する。
 慰霊碑前では、「ありがとうございました。やっと来れたよ」と祈りながら泣いている方もいらっしゃいました。長い時を経ても、決して痛みと苦しみは和らぐことはなく、私自身、カメラを向けることを躊躇した場面も多々ありました。8月6日にこの場所に来ること、そして手を合わせることの意味は、訪れる人の想いの数だけあるのだろうと思います。
 人間が祈る姿は、厳かで尊く美しいと思いますし、手を合わせることは、それぞれが内なる自己と対話しているようにも感じます。人間にとって、祈る行為そのものが、生まれる前から不思議と魂のようなものに刻み込まれているようにも感じます。

 原爆投下から70年。広島の祈りから見えてくるものとは。これらの写真を見る人が自由に何かを感じ取ってくださったら、と思います。そして少しでも8月6日の広島に眼を向けていただけたらとも思います。

 なお、この写真集の解題では、歴史社会学者の福間良明さん、宗教学者の島薗進さん、写真家の新倉孝雄さんの3人に、それぞれの立ち位置から、8月6日広島と祈り、私の写真についてご寄稿いただきました。3人の方の解題は写真集に大きな広がりと奥行きを与えてくださいました。

 私が広島で聞いた、いまも忘れられない被爆者の方の言葉があります。
「あの匂いと青白い光は忘れられない。広島は人骨の上にある。戦争はいいことが何一つない。平和は努力しないと維持できない。憎しみからは憎しみしか生まれない。大河も一滴から始まる、小さな一滴からの活動が大事」
 昨年の8月6日の広島は43年ぶりの雨でした。現在の不穏な社会状況を想うとき、この雨は原爆で犠牲になった方の涙だと直感的に思った人は私だけではないはずです。
 私はいつも不思議に感じます。広島を去るときに感じる、この去りがたさの哀感はいったいどこからくるのだろうかと。

 最後に、写真集発売に合わせて、この夏、東京と広島で写真展も開催します。銀塩モノクロ半切32点を展示します。お時間が許すようでしたら、こちらもぜひごらんください。
■東京展(ギャラリーNP原宿 特別企画展)
  開催場所 ギャラリーNP原宿
  開催期間 2015年7月28日(火)から8月10日(月)まで
       平日 10:00から18:00
       土日 10:00から17:00 最終日14:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒150-0001 渋谷区神宮前6-13-11 NPビル3F
  Tel 03-3486-6984
  http://www.nationalphoto.co.jp/gallery/

■広島展
  開催場所 gallery718
  開催期間 2015年8月12日(水)から8月23日(日)まで
       10:00から19:00 最終日18:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒730-0036 広島市中区袋町7-18-2F
  Tel 082-247-1010
  http://www.gallery718.com/

これからのスポーツ〈場〉の動きをどう読むか――『アスリートを育てる〈場〉の社会学――民間クラブがスポーツを変えた』を書いて

松尾哲矢 

 本書では、スポーツ〈場〉の社会学を標榜する一方で、温故知新ではないが、これまでの〈場〉の動きがわからないままにこれからのスポーツ〈場〉の動きは構想できないのではないか、またスポーツ〈場〉がかかえている現在的・実質的課題にどう向き合えばいいのかについて、何らかのヒントが得られないかとの思いを抱きながら取り組んだ。
 そこで本書で得られたインプリケーションとスポーツをめぐる現代的課題や状況との関係についてふれておきたい。
 2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。その動きに連動して、15年5月13日、日本のスポーツシーンを変える法案が可決・成立した。スポーツ行政を総合的に推進することを目的としたスポーツ庁を設置するための文部科学省設置法改正案が参院本会議で満場一致で可決・成立したのである。これで15年10月1日に文部科学省の外局としてスポーツ庁が発足する。
 これまでスポーツ行政は、その多くが文部科学省スポーツ・青少年局を中心に、健康運動や障害者スポーツは厚生労働省、公園での運動などは国土交通省、スポーツ産業は経済産業省など、その機能に合わせて多省庁が独自に管轄してきた歴史がある。スポーツ庁はこれまで複数の省庁がそれぞれおこなっていたスポーツ行政を一元的に担い、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた選手強化や施設整備、国民の健康づくり、地域スポーツの推進、スポーツを通じた地域振興や国際交流などに取り組むことになる。
 これまでスポーツ関係団体の多くが文部科学省の管轄のもとで活動してきたため、そこで醸成されてきたスポーツのあり方は、一言でいえば「教育としてのスポーツ」観を基盤として形成されてきたといっても過言ではないだろう。スポーツ庁になった場合、どのようなスポーツのあり方を理念として構想すればいいのだろうか。スポーツがもつ外在的な価値(リーダーシップ、協調性、礼儀作法など)を強調するきらいがあった「教育としてのスポーツ」のあり方だけでは、対応することは難しい。これからはスポーツそのものを目的的に楽しむあり方、勝敗にこだわらない楽しみ方、遊び文化としての楽しみ方など、スポーツがもつ内在的な価値を生かしたスポーツのあり方を含め、新しい袋にあった理念と内容の議論が不可欠だろう。
 本書では「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」というスポーツのあり方、スポーツ〈場〉のダイナミズムについて検討したが、これからのスポーツのあり方を議論する契機になれば望外の喜びである。
 また、本書でスポーツ〈場〉での振り子の“振り戻し”のような現象が起こることについて言及したが、例えば、2007年、プロ野球界で発生したアマチュア選手への金銭供与問題を契機として、日本学生野球連盟憲章に違反する授業料免除などの特典を付与された特待生の問題が表面化した。この問題を重くみた日本高等学校野球連盟(以下、高野連と略記)は、調査を実施して7,000人を超える特待生の存在が明らかになった。高野連は有識者会議を設置、本会議に今後のあり方について諮問した。本会議は条件を定めて特待生を認める答申を出したが、そのなかで、「特待生制度運用の現状をみると、一部の学校においては、勝利至上主義に陥り、教育の一環としての部活動の趣旨に反する指導が行なわれている」として、「野球の部活動は、他のスポーツ部活動と同じく、教育的見地から認められる」(高校野球特待生問題有識者会議答申〔座長:堀田力〕、2007年10月11日)ことを改めて明示、強調している。
 この一連の動きのなかで、高等学校運動部のスポーツはあくまでも教育のためにおこなわれるものであり、「教育としてのスポーツ」のあり方が強調されている。高野連はこれまでも教育としてのスポーツを顕示してきているので、高野連内部での“振り戻し”とはいえないが、この動きは、「競技としてのスポーツ」やプロフェッショナルなスポーツのあり方が拡大しつつある青少年期のアスリート養成〈場〉全体に対するアンチテーゼの主張ととらえることも可能であり、アスリート養成〈場〉全体の動きからみれば「教育としてのスポーツ」への“振り戻し”現象の一つとして把捉することもできるだろう。
 青少年期のスポーツのあり方をめぐっては、これからも「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」の間で往還運動を繰り返しながら〈場〉が動いていくことが予想され、その動きに注目していく必要があるだろう。
 最後に、民間クラブ団体のみなさまへの感謝を一言。本書を執筆するにあたって、青少年を対象とした民間スポーツクラブの誕生とその後の動きに関する資料の少なさには正直戸惑った。例えば、日本スイミングクラブ協会に見られるように種目団体によっては誕生からの動きをまとめている団体もあるが、民間クラブの動きを知る手がかりが非常に限定されていて、まとまって残っている資料がほとんど見当たらなかった。それは、各民間クラブが、独自に起業し、クラブの運営・経営と向き合いながら日々取り組んできた歴史があり、全体の動きをつかむことが容易ではなかったことが挙げられる。さらには、本書でもふれたように、学校運動部を中心としたスポーツ〈場〉のなかで後発の民間クラブが承認を得ていくことは容易ではなかった。そのなかで民間クラブ自体が、その存在を積極的に発信していくことにいくらかの躊躇があったのかもしれないし、その動きを積極的に取り上げた雑誌記事や論考はきわめて少なかった。
 そこで今回、各民間クラブ・団体が発行している雑誌や資料、会議の議事録などを可能なかぎり収集し、それらを丹念に読み解くことに力を傾注した。このためかなりの時間を要したし、関係者のみなさまのお力添えなしに上梓することはかなわなかった。ここに改めて感謝を申し上げたい。

外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。

背中を押してくれたこと――『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』を書いて

萩原由加里

 かれこれ10年以上に及んだ研究を1冊の本としてまとめる作業は、思っていたよりも骨が折れる作業だった。特に、本書のベースになった博士論文の提出から6年が過ぎている。博士論文の提出後から現在に至るまで、さまざまな大学で非常勤講師をしてきたが、教壇に立ってからのほうが、大学院に在籍していたころよりも学ぶことが多かった。単に調査を進め、新たな事実が明らかになったことだけではない、自分自身の研究手法の変化が、本書を執筆するにあたって最も苦労した点である。本書の随所に、10年間にわたる著者の成長が反映されていて、各時期の論文がパッチワークのように組み合わされているので、パートによって雰囲気が違うことに気づいた読者もいるかもしれない。
 そして、一度構築した博士論文を、再構築するという作業にも苦戦した。例えば「あとがき」に図版を入れているが、これは本書のために新しく撮影しにいった写真である。苦肉の策として「あとがき」に組み込んでみた。8月の猛暑のなか、君野直樹氏に同行して政岡憲三の墓を訪れ、汗だくになりながら草取りをしたときの写真である。余談ながら、筆者の趣味はガーデニングであり、草取りには自信がある。このようなところで自分の趣味が生かされるとは思いもよらなかった。
 ところで、この数年間でアニメーションに関する研究は急速に進んでいて、どこまで最新の知見を盛り込むかという点でも悩んだ。学術として、より完成度が高いものを求めれば求めるほど、この本は永遠に刊行できないままだと途中で覚悟を決めた。あくまでも博士論文を基礎とし、その後の調査で得た資料を追加するという形に落ち着いた。十分な分析をできなかった資料もあり、また目は通していたものの文中では言及できなかった著作や論文が多い。本書は基礎研究としての位置づけであり、それぞれの学問分野から政岡憲三という人物を研究するきっかけになってくれれば幸いである。
 なお、本書は著者が大学院時代に所属していた研究科から助成金を受けて刊行したものである。2014年の秋、助成金は14年度で最後になるとアナウンスされた。この助成金に採択される条件の一つが、14年度3月末までに刊行されることである。このころ、本書の刊行時期は未定だった。しかし、この知らせを受けて、3月末までに刊行することが決まった。そこからスケジュールを逆算して、怒涛の勢いで作業は進んでいった。そのせいか、完成した見本を手にした後で、うっかり参考文献一覧の類いを掲載し忘れたことに気づいた。読者のみなさまには何かとご不便をかける本である。
 その肝心の助成金だが、2015年度も継続することになった。その知らせが著者の元に届いたのは15年4月1日であり、最初はエイプリルフールのジョークかと疑ったほどだ。しかし、14年度で助成金が最後になるという知らせがなければ、著者は本書を刊行する最後の決心がつかなかったはずである。物事には勢いというか、時の運というものもあるのかもしれない。

幻の補論――『人工授精の近代――戦後の「家族」と医療・技術』を書いて

由井秀樹

 本書で主に語られているのは、戦後間もなく日本でもはじめられた、提供精子を用いた人工授精(非配偶者間人工授精;AID)の歴史だ。これは私の博士論文がベースになっているのだが、そこには組み込まれなかった幻の補論がある。その内容は、AIDで生まれた方へのインタビュー調査から、彼らが何を思って生きているのか、検討したものだ。なぜこれが組み込まれなかったかといえば、「歴史研究としての性格が不明瞭になるからやめておけ」とのアドバイスを異口同音にいろいろな方からいただいていたからだ。
 たしかにそれはそのとおりだ。こうして、補論になる予定だった原稿はあえなく幻となってしまった(ただし、その一部は単発の論文にはまとめてあり、某学術雑誌に掲載されている)。
 もともと私はAIDで生まれた方へのインタビュー調査をもとにした質的研究をおこなっていた。ここで、少しだけインタビュー調査で明らかになってきたことを書いておきたい。彼らは、大人になってから自身がAIDで生まれたことを知り混乱していた。やがて、生物学上の父を知りたいと思うようになるが、今日に至るまで精子提供者の匿名性は原則的に維持されており、自身の半分を構成する情報が得られないことでアイデンティティーの危機に瀕する。ここまでのことは先行研究でも言われ尽くされているのだが、物語には続きがある。精子提供者を知りたいという思いがある一方で、提供者に対して否定的な感情をもっている方もいた。また、なかには親族の男性からの提供精子で生まれていて、つまり、提供者が特定されているケースもあり、その方は親族男性(の家族)との関係でも悩んでいた。ここから、提供者を知ることができた時点で納得するケースもあれば、そこから先の人間関係の調整が必要になってくるケースも存在するであろうことが示唆される。
 このようなことがわかってきたのだが、研究を進めていくうちに、このAIDなるものがどういった経緯ではじめられ、今日まで続けられているのか、という疑問がわいてきた。それは既存の二次文献をどれだけ調べてもよくわからなかった。AIDの歴史を正面からまともに取り組んでいる研究者などいなかったのだ。こうして私はフィールドワークと並行して、歴史研究をおこなうようになった。
 では、なぜ自らわざわざ歴史をも調べるようになったのか。それにはいろいろと理由がある。とりあえず4つほど書いておくと、第1に、隙間産業だったのでそれなりに需要はあるだろう、という何とも打算的な理由。第2に、手広くいろいろな研究をおこないながらも、科学史を専門にする師匠の影響。第3に、「家族」をキーワードに研究を進めていたのだが、現在のAIDと「家族」の関係を、過去のそれを理解せずして把握することが不可能だったという一応学術的な理由。そして第4に、たぶんこれがいちばん大きな理由だろう。「そもそも、この技術がどういった経緯ではじめられたのかさえ、わからない」、こんなことをAIDで生まれた方が語っていて、それが心のどこかにひっかかっていたのだ。歴史を調べたところで彼らが置かれている状況が変化するわけではないことは重々承知していたが、それでも、何かしらの役には立てるかもしれない。そんな思いがどこかにあった。
 さて、この原稿を書いているのは2015年4月初頭なのだが、周知のように日本にはAIDや卵子提供、代理出産といった、第三者が関わる生殖補助技術を規制する法律はない。ただ、それを作ろうとする動きはある。その際、最も真摯に議論を重ねなければならないのは――補論は幻になってしまったが――、第三者が関わる生殖補助技術で生まれた方のことだろう(実は本書第4章で取り上げた1950年代の法学者たちの議論でも同じようなことが語られていた)。どのような方向に進むにしても、法制化の動向から目は離せない。
 しかし、ここでいったん立ち止まってみたい。立法は概してその後の制度設計を念頭に置いている。もちろん、未来を見据えることは重要だ。だが、未来を見据えるのは現在である。そして、過去があったからこそ、現在があり、現在を理解するには過去を理解しなければいけない。それにもかかわらず、過去のことはよくわかっていない。要するに――私が歴史を調べ始めた第3の理由とも重なるが――、第三者が関わる生殖補助技術をめぐって、私たちはいま、どこに立って未来に目を向けているのかよくわからず、足元さえ定まっていないのだ。本書が過去から現在を経て、未来へと続く道筋――それは決して平坦な一本道ではなく、ぐねぐねと複雑に入り組んでいるのだろうが――に多少なりとも光を照らすことができているのか。手に取ってくださった方々の判断を待ちたい。

広告写真は時代を映し出す投射装置である ――『広告写真のモダニズム――写真家・中山岩太と一九三○年代』を書いて

松實輝彦

 本書は神戸と芦屋を拠点に活躍した写真家・中山岩太が1930年に撮影した一枚の広告写真をめぐって、当時の写真界や商業美術と呼ばれたデザイン界の動向、それらを含めた視覚文化メディアがどのような反応を示し、どのような文化的変容を経験したのかを写真史の観点から考察した、興味深い試みである。と前口上を切ると、たった一枚の写真がはたしてモダニズムの時代を揺さぶり、戦前期のメディアを変容させたのかと、しばしあっけにとられるかもしれない。たしかにこれまでの概説的な写真史の本ではそんな図太い発想のままに記述されることはなかった。あまり前例がない、という点から「冒険する研究書!」といったあおりの惹句を本書のどこかに追加すべきかもしれない。
 では考察の主要な対象となる中山岩太とはどのような写真家なのか。この人物紹介が案外と難しいのである。関西の写真史研究の基盤を築いた故・中島徳博氏は、中山岩太を語る際に、その生き方が似ているとして、アンドレ・ケルテスをよく引き合いに出していた。中山の生年が1895年、ケルテスは94年にハンガリーのブタペストに生まれている。ふたりとも同時期にパリに移り住み、多くの芸術家たちと交流をもつ。ケルテスの写真といえばソファでおどける踊り子や仔犬を懐に抱く少年を思い浮かべるのだが、中島氏はピエト・モンドリアンのアトリエを撮影した作品に注目した。なにげなく写されたようでいて緻密に画面構成された室内風景は長く印象に残り、中山の出世作となった広告写真「福助足袋」ともどこか通じるものがある。しまった、このことは本書ではふれずじまいだった。
 本書を中山の紹介から書きだすにあたって、中島氏に倣いながら、当初はアーウィン・ブルーメンフェルドを引き合いにするつもりだった。ちょうど初稿をまとめている2013年の春に東京都写真美術館で回顧展が開催されていて、「ヴォーグ」などのファッション誌で活躍したブルーメンフェルドの作品群に接して感銘を受けたから。彼も1897年にドイツ・ベルリンに生まれ、1930年代にパリで広告写真の仕事をしている。最晩年、「私のベスト写真100選」で自ら取り上げた最後の作品は、モデルの両足の裏だけを撮影して構成したモノクロームの写真だった。それは中山の「福助足袋」とほとんど同じ構図であり、大いに驚いたものである。もしものたとえではあるが、中山が長命であったならば、ブルーメンフェルドのようなファッション写真を撮っていたかもしれない、と思った。きっと洗練された優美さとシャープな感覚が一体となったすてきな作品だったろう、と。しかし結果的に「はじめに」では、ケルテスでもブルーメンフェルドでもなく、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』(スタジオジブリ、2013年)の主役人物のモデルとなった戦闘機の設計技師・堀越二郎に登場してもらった。どうしてそうなったかについては、本書の冒頭にあるので手に取って確かめていただきたい。
 本書ではこれまで紹介される機会がなかった中山自身の言葉を資料の束のなかからできるかぎり拾い出し、モダニズムの写真家の思考に迫ろうとした。と同時に写真家を取り巻く戦前期の時代環境や、海港都市である神戸、保養地の芦屋といった地域環境、生活のため日々働いた百貨店の写真室という職場環境にそれぞれ注目した。そしてそれぞれの環境がどのように構成されていたかを示す資料もできるかぎり収集し、新たな資料の掘り出しにも精いっぱいの力を注いだ。そうすることで、総体的に中山が広告写真といかに関わっていったのかを捉えようと努めた。研究としては、まったくもって当たり前のことではあるが、準備にはたっぷりと時間がかかってしまった。
 ひとわたり書き終えて実感することは、つくづく広告写真はその時代を映し出す投射装置だということ。それがたった一枚の写真であっても、すぐれた写真であるならば、そこには必ず時代のかけらがなにかしら封じ込められ、見る者の心のスクリーンに美しい影を投げかける。中山岩太の広告写真「福助足袋」には、日本のモダニズムに関するとびきり上等ないくつものイメージが内包されている。そこからどんなイメージが読者一人ひとりに投影されることやら。前口上はこのへんにして、つづきはどうぞ本書でご観覧あれ。

ラジオというメディアの魅力――『コミュニティFMの可能性――公共性・地域・コミュニケーション』を書いて

北郷裕美

 この原稿を書いている2月21日は(僭越ながら)私の誕生日である。以前から続いている「Facebook」のタイムラインには、新年の挨拶に匹敵するたくさんのメッセージがいまも入ってきている。年齢を意識する場面は日常のなかで極力減ったが、まあきょうくらいはいいかなと、一人ひとりに一生懸命返信していたところである。
 そのなかに学生時代の友人の名前もちらほらある。「Facebook」で復活した友人たち。今度会おうぜ、が挨拶がわりになってしまっている。そんな彼らと共有していた昭和の時代は、机の横に必ずトランジスターラジオ(のちにラジカセに出世するが)があった。自分も「ながら族」の典型だったが、夜の帳のなかで器用に勉強と両立していたかはかなり疑問である。現在も続く深夜放送のプロトタイプ番組のそのなかで、自分はさまざまなことを思いめぐらせていた。その行為は消費するという感覚ではなく、貪欲にかつ積極的に受容するものだった。「ラジオの前のあなた」とパーソナリティーから一人称で発せられるメッセージも、演歌から歌謡曲、映画音楽、ポップスからロックまで混在するチャートがあった頃の音楽も、さまざまな下世話で役立つ情報も、すべて……。
 ラジオを聴くシチュエーション。そこにたたずむのは自分一人。深夜の孤独な時間をまさに積極的に享受していた。アクセスなどという積極性ではなく、スイッチを入れたらあとは音声に任せてしまう。ただビジュアルが伴わない分、頭のなかのスクリーンにはフル回転で映像が投影され続ける(結局、学業は疎かになる)。落合恵子の声に、吉田拓郎の歌に、大政奉還やミトコンドリアが重なっては消えていく……。メランコリーな誰にもじゃまされない深夜の一人遊びである思考体験を、次の日の朝、教室という名のオフ会の場で他者の視点をもって反芻して再度味わう。
 著作とは重ならない話と思われるかもしれないが、今回世に問い直した「コミュニティFM」というラジオ媒体は、私と同じような年代の人には懐かしく、若い人にはいにしえの媒体として「先生、聴いたことないんですけど……」と、平気でゼミの学生にものたまわれる。「コミュニティFM」ラジオを地域活性やコミュニケーションのツールとしてその価値を、特に地域という文脈のなかで、今回真摯な気持ちで書き下ろした。そのことはいまも信念をもって伝えたいことと自負している。ただ、ラジオという音声媒体に対する共感や有意性は言葉では伝えられない。あの時代をともに生きた者たちにとってはセンチメンタルなまでに共有物だったものが、世代を超えてつなげることの難しさをいまは感じている。多様な媒体が生まれたことや、社会環境の大きな変化など、理由を探れば枚挙にいとまはない。だが、メディアは印刷媒体も含めて何か一つのもの(電子媒体など)にすべて収斂されるのは自分はいやだ(およそ研究者らしくない物言いだが)。これらのメディアは、すべて過去の文化遺産にならないでほしい。なぜならどの媒体もまったく違う存在価値をもち、物語を共有し、それにふれた体験をずっと内包し続けられるものだから。とりわけラジオは人間くさいのである。寄り添う媒体なのである。だから子どもたち(ラジオを聴かない若者たち)に過去の遺物としてではなく、今回著した音声媒体を時制の枠を超えて「現時進行形」の媒体として、認めてほしい、使ってほしいなと思っている。そして彼らに新たな価値創造を加えてもらえるなら、時代を超えてすてきな物語を紡ぎ続けられるという期待をもっている。
 ここまで書いて思ったのは、絶対「余白」にしか書けない文章であり、ヘタをすれば「余白の外に」追いやられそうな気配もあるのでこのあたりで締めたいと思う。

戦争の時代の化粧品広告――『戦時婦人雑誌の広告メディア論』を書いて

石田あゆう

 戦争のさなかにあっては化粧どころではない。私もそう思ってきた。女性が化粧を楽しめるのは、平和な時代であってこそだと某ジャーナリストも言って(書いて)いた。だがそれがそうとも言い切れないのではないか、というのが本書の出発点である。
 女性の化粧に対する情熱と、その欲望を糧に肥大化した化粧品産業は、ちょっとやそっと節約や倹約の時代になったところで姿を消さなかった。もちろん派手な化粧は御法度で、人目はコワイ。だが自然な化粧や素肌美人はどうだろう。女性の化粧は艶やかさやけばけばしさが真骨頂ではない。いまも昔も肌荒れを避け、素肌を美しく保つために化粧品は必須である。戦時期には真っ白な白粉や口紅といった化粧品広告はなりをひそめるようになるが、素肌美人や若々しい女性でいるために化粧をしましょう、と積極的な商品宣伝がなされた。戦時下にあって健康美が奨励され、国産愛用運動が展開されたこともその傾向に拍車をかけた。日本人の肌色に合っていて自然に見えるということで、国産オークル系ファンデーションはこの時期の人気商品になった。
 そんな化粧品広告を戦時下の「主婦之友」(主婦之友社)をはじめとする婦人雑誌に見ることができる。これも私にとって奇妙なことだった。「主婦之友」という雑誌メディアは、戦時期にあって女性の戦争動員/協力を引き出すのに積極的な役割を担ったプロパガンダ・メディアだというのが通説だからだ。1937年の日中事変以後、誌面や出版広告には戦争への意識を高めようとする内容が盛り込まれるようになる。そうした誌面の横では化粧品広告の美人たちがほほ笑んでいた。この矛盾した内容の誌面はどういう方針によるものだったのか。
「主婦之友」という雑誌は、創業者である社長の石川武美の方針で「一社一誌主義」を掲げ、「主婦之友」だけにすべての労力を注ぎ、このただひとつのメディアを選んでくれる読者の信頼を裏切らないことをモットーにした。1926年の「読売新聞」の連載「雑誌界の人物」に登場した石川は、雑誌出版について次のように語っていた。

 私は明治33年17才の時東京に出て本屋に入り、雑誌を中心に仕事をしてゐましたがそれ以後は徹頭徹尾雑誌のためにつくしてゐます。私はいつも雑誌を生命としてゐます。雑誌は私の学校であり教師であって今日まで一度もそれを裏切ったことはありません。
最早、現代に於いては宗教は雑誌に移って来なければなりません。印刷の発明は宗教や政治や実業の上に大革命を与へました。若し今日キリストが生れて来たならば印刷宣伝をやり記者になって神の道を説くでありませう(「雑誌界の人物(15)――石川武美氏」「読売新聞」1926年7月7日付)。

 石川はクリスチャンでもあったが、よりよい情報を雑誌を通じて読者に届けるというメディア・コミュニケーションのありようを宗教とのアナロジーで語っている点がおもしろい。
 しかし「一社一誌主義」はその一誌を失えば数多くの読者とのつながりも信頼もすべてを失ってしまう危険があった。読者のためを思って雑誌は編集されるが、その内容を当局が時局にふさわしいと思うかどうかは別問題である。だからこそあらゆることを想定して、発禁になることだけは「読者のため」に避けなければならなかった。さらに系列雑誌をもたなかったため、「読者のため」に価格を抑えるには広告への依存度が高くなった。
こうして「読者のため」の雑誌「主婦之友」は、倹約の戦時宣伝と消費の商品広告が奇妙に共存する不徹底なプロパガンダ・メディアになっていったのである。付け加えておくならば、敗戦後、戦争責任を認め廃刊することが決定した「主婦之友」だが、やはり「読者のため」に、と一転、続刊になった。ここから戦後をも代表する長寿雑誌として道を歩み、実質廃刊になったのはそれから63年後、2008年のことであった。

複写カウンターでの1人芝居――『〈スキャンダラスな女〉を欲望する――文学・女性週刊誌・ジェンダー』を書いて

井原あや

 1月半ばに、拙著『〈スキャンダラスな女〉を欲望する』の見本が届いた。ようやくできあがったのだという安堵感と、これからこの本が人前に出るのだという緊張感が入り交じった思いでページをめくっていたとき、ふと思い出したことがある。女性週刊誌の記事を集め始めた頃の、自分の姿だ。その自分の姿を、「原稿の余白に」として綴ってみたい。
 例えば国立国会図書館では、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっておらず、データベース化されてもいない。そのため、閲覧室で雑誌そのものを開いて、その内容を1つひとつページをめくりながら確認し、必要であれば複写を申し込むことになる。こう書くと、国立国会図書館に行ったことがある方なら誰しも「そんなことは当然だ。女性週刊誌や週刊誌に限ったことではない。お前1人が大変ではないのだ」と思われるだろう。また、「週刊」ではなく毎日刊行される新聞を研究対象に選べばなおのこと目を通す分量は増えていくので、女性週刊誌などの週刊誌というメディアを読むこと自体の苦労をここで語りたいのではない。こうしたことは、本を出されるような方、あるいは論文を書かれる方であれば誰しもが経験することであって、私などがそれを「苦労」と呼ぶのは申し訳ない。
 では何が「苦労」だったのかといえば、複写申し込みである。いまとなっては、それは苦労でも何でもなく、単なる自意識過剰なので笑い話でしかないが、女性週刊誌などの週刊誌には、必要以上に大きく目を引くように書かれたタイトルや写真がつきものだ。それが戦略なのだし、私もそうしたページが欲しいので、複写を申し込まなくてはならない。先にも述べたように、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっていないし、データベース化されているわけでもないので、当然、複写申し込みの列に並んで、そこでページを複写係の方と確認することになる。列に並んで待っている間、私の前の方が申し込みの部分を確かめておきたいのか、ページを開いていた。見ようと思って見たわけではないが、きちんとした論文の複写を申し込まれるのが、何となく目の端に入った。対して私はといえば、読者の興味関心を引く、いわばかなり「キツめ」のタイトル――例えば、「衝撃!」だとか「情死」といった見出しが躍るページを複写カウンターで開いて複写係の方と確認していくのだ。待っている列とカウンターは離れているので、待ち時間に列でページを開かないかぎり周囲には見えないのだが、もしも何かのはずみで後ろの方にページが見えたらどうしよう、その方が、私には到底理解できない数式が並んだ論文や天下国家を論じたものなどを複写するような方であれば、私のことをどう思うだろうか、あるいは複写係の方が、私の前後の方と私の複写申し込みの部分を比べながら、「今日はバラエティーに富んだ日だった」と1日を振り返ったらどうしよう(当然、図書館の方は仕事なのでそんなことは思わない)、などと悶々としながら、それでも平静を装って、複写ページを確認して申し込んだ――真新しい拙著のページの間から立ち上ったのは、周囲の目を気にして、自意識過剰に複写申し込みの列に並び、複写担当の方におかしく思われないか、ドギマギしていた自分だった。
 もちろん、いまはもう、ふてぶてしくなったのか成長したのか、複写申し込みの列にも堂々と並べるけれど。