外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。

背中を押してくれたこと――『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』を書いて

萩原由加里

 かれこれ10年以上に及んだ研究を1冊の本としてまとめる作業は、思っていたよりも骨が折れる作業だった。特に、本書のベースになった博士論文の提出から6年が過ぎている。博士論文の提出後から現在に至るまで、さまざまな大学で非常勤講師をしてきたが、教壇に立ってからのほうが、大学院に在籍していたころよりも学ぶことが多かった。単に調査を進め、新たな事実が明らかになったことだけではない、自分自身の研究手法の変化が、本書を執筆するにあたって最も苦労した点である。本書の随所に、10年間にわたる著者の成長が反映されていて、各時期の論文がパッチワークのように組み合わされているので、パートによって雰囲気が違うことに気づいた読者もいるかもしれない。
 そして、一度構築した博士論文を、再構築するという作業にも苦戦した。例えば「あとがき」に図版を入れているが、これは本書のために新しく撮影しにいった写真である。苦肉の策として「あとがき」に組み込んでみた。8月の猛暑のなか、君野直樹氏に同行して政岡憲三の墓を訪れ、汗だくになりながら草取りをしたときの写真である。余談ながら、筆者の趣味はガーデニングであり、草取りには自信がある。このようなところで自分の趣味が生かされるとは思いもよらなかった。
 ところで、この数年間でアニメーションに関する研究は急速に進んでいて、どこまで最新の知見を盛り込むかという点でも悩んだ。学術として、より完成度が高いものを求めれば求めるほど、この本は永遠に刊行できないままだと途中で覚悟を決めた。あくまでも博士論文を基礎とし、その後の調査で得た資料を追加するという形に落ち着いた。十分な分析をできなかった資料もあり、また目は通していたものの文中では言及できなかった著作や論文が多い。本書は基礎研究としての位置づけであり、それぞれの学問分野から政岡憲三という人物を研究するきっかけになってくれれば幸いである。
 なお、本書は著者が大学院時代に所属していた研究科から助成金を受けて刊行したものである。2014年の秋、助成金は14年度で最後になるとアナウンスされた。この助成金に採択される条件の一つが、14年度3月末までに刊行されることである。このころ、本書の刊行時期は未定だった。しかし、この知らせを受けて、3月末までに刊行することが決まった。そこからスケジュールを逆算して、怒涛の勢いで作業は進んでいった。そのせいか、完成した見本を手にした後で、うっかり参考文献一覧の類いを掲載し忘れたことに気づいた。読者のみなさまには何かとご不便をかける本である。
 その肝心の助成金だが、2015年度も継続することになった。その知らせが著者の元に届いたのは15年4月1日であり、最初はエイプリルフールのジョークかと疑ったほどだ。しかし、14年度で助成金が最後になるという知らせがなければ、著者は本書を刊行する最後の決心がつかなかったはずである。物事には勢いというか、時の運というものもあるのかもしれない。

幻の補論――『人工授精の近代――戦後の「家族」と医療・技術』を書いて

由井秀樹

 本書で主に語られているのは、戦後間もなく日本でもはじめられた、提供精子を用いた人工授精(非配偶者間人工授精;AID)の歴史だ。これは私の博士論文がベースになっているのだが、そこには組み込まれなかった幻の補論がある。その内容は、AIDで生まれた方へのインタビュー調査から、彼らが何を思って生きているのか、検討したものだ。なぜこれが組み込まれなかったかといえば、「歴史研究としての性格が不明瞭になるからやめておけ」とのアドバイスを異口同音にいろいろな方からいただいていたからだ。
 たしかにそれはそのとおりだ。こうして、補論になる予定だった原稿はあえなく幻となってしまった(ただし、その一部は単発の論文にはまとめてあり、某学術雑誌に掲載されている)。
 もともと私はAIDで生まれた方へのインタビュー調査をもとにした質的研究をおこなっていた。ここで、少しだけインタビュー調査で明らかになってきたことを書いておきたい。彼らは、大人になってから自身がAIDで生まれたことを知り混乱していた。やがて、生物学上の父を知りたいと思うようになるが、今日に至るまで精子提供者の匿名性は原則的に維持されており、自身の半分を構成する情報が得られないことでアイデンティティーの危機に瀕する。ここまでのことは先行研究でも言われ尽くされているのだが、物語には続きがある。精子提供者を知りたいという思いがある一方で、提供者に対して否定的な感情をもっている方もいた。また、なかには親族の男性からの提供精子で生まれていて、つまり、提供者が特定されているケースもあり、その方は親族男性(の家族)との関係でも悩んでいた。ここから、提供者を知ることができた時点で納得するケースもあれば、そこから先の人間関係の調整が必要になってくるケースも存在するであろうことが示唆される。
 このようなことがわかってきたのだが、研究を進めていくうちに、このAIDなるものがどういった経緯ではじめられ、今日まで続けられているのか、という疑問がわいてきた。それは既存の二次文献をどれだけ調べてもよくわからなかった。AIDの歴史を正面からまともに取り組んでいる研究者などいなかったのだ。こうして私はフィールドワークと並行して、歴史研究をおこなうようになった。
 では、なぜ自らわざわざ歴史をも調べるようになったのか。それにはいろいろと理由がある。とりあえず4つほど書いておくと、第1に、隙間産業だったのでそれなりに需要はあるだろう、という何とも打算的な理由。第2に、手広くいろいろな研究をおこないながらも、科学史を専門にする師匠の影響。第3に、「家族」をキーワードに研究を進めていたのだが、現在のAIDと「家族」の関係を、過去のそれを理解せずして把握することが不可能だったという一応学術的な理由。そして第4に、たぶんこれがいちばん大きな理由だろう。「そもそも、この技術がどういった経緯ではじめられたのかさえ、わからない」、こんなことをAIDで生まれた方が語っていて、それが心のどこかにひっかかっていたのだ。歴史を調べたところで彼らが置かれている状況が変化するわけではないことは重々承知していたが、それでも、何かしらの役には立てるかもしれない。そんな思いがどこかにあった。
 さて、この原稿を書いているのは2015年4月初頭なのだが、周知のように日本にはAIDや卵子提供、代理出産といった、第三者が関わる生殖補助技術を規制する法律はない。ただ、それを作ろうとする動きはある。その際、最も真摯に議論を重ねなければならないのは――補論は幻になってしまったが――、第三者が関わる生殖補助技術で生まれた方のことだろう(実は本書第4章で取り上げた1950年代の法学者たちの議論でも同じようなことが語られていた)。どのような方向に進むにしても、法制化の動向から目は離せない。
 しかし、ここでいったん立ち止まってみたい。立法は概してその後の制度設計を念頭に置いている。もちろん、未来を見据えることは重要だ。だが、未来を見据えるのは現在である。そして、過去があったからこそ、現在があり、現在を理解するには過去を理解しなければいけない。それにもかかわらず、過去のことはよくわかっていない。要するに――私が歴史を調べ始めた第3の理由とも重なるが――、第三者が関わる生殖補助技術をめぐって、私たちはいま、どこに立って未来に目を向けているのかよくわからず、足元さえ定まっていないのだ。本書が過去から現在を経て、未来へと続く道筋――それは決して平坦な一本道ではなく、ぐねぐねと複雑に入り組んでいるのだろうが――に多少なりとも光を照らすことができているのか。手に取ってくださった方々の判断を待ちたい。

広告写真は時代を映し出す投射装置である ――『広告写真のモダニズム――写真家・中山岩太と一九三○年代』を書いて

松實輝彦

 本書は神戸と芦屋を拠点に活躍した写真家・中山岩太が1930年に撮影した一枚の広告写真をめぐって、当時の写真界や商業美術と呼ばれたデザイン界の動向、それらを含めた視覚文化メディアがどのような反応を示し、どのような文化的変容を経験したのかを写真史の観点から考察した、興味深い試みである。と前口上を切ると、たった一枚の写真がはたしてモダニズムの時代を揺さぶり、戦前期のメディアを変容させたのかと、しばしあっけにとられるかもしれない。たしかにこれまでの概説的な写真史の本ではそんな図太い発想のままに記述されることはなかった。あまり前例がない、という点から「冒険する研究書!」といったあおりの惹句を本書のどこかに追加すべきかもしれない。
 では考察の主要な対象となる中山岩太とはどのような写真家なのか。この人物紹介が案外と難しいのである。関西の写真史研究の基盤を築いた故・中島徳博氏は、中山岩太を語る際に、その生き方が似ているとして、アンドレ・ケルテスをよく引き合いに出していた。中山の生年が1895年、ケルテスは94年にハンガリーのブタペストに生まれている。ふたりとも同時期にパリに移り住み、多くの芸術家たちと交流をもつ。ケルテスの写真といえばソファでおどける踊り子や仔犬を懐に抱く少年を思い浮かべるのだが、中島氏はピエト・モンドリアンのアトリエを撮影した作品に注目した。なにげなく写されたようでいて緻密に画面構成された室内風景は長く印象に残り、中山の出世作となった広告写真「福助足袋」ともどこか通じるものがある。しまった、このことは本書ではふれずじまいだった。
 本書を中山の紹介から書きだすにあたって、中島氏に倣いながら、当初はアーウィン・ブルーメンフェルドを引き合いにするつもりだった。ちょうど初稿をまとめている2013年の春に東京都写真美術館で回顧展が開催されていて、「ヴォーグ」などのファッション誌で活躍したブルーメンフェルドの作品群に接して感銘を受けたから。彼も1897年にドイツ・ベルリンに生まれ、1930年代にパリで広告写真の仕事をしている。最晩年、「私のベスト写真100選」で自ら取り上げた最後の作品は、モデルの両足の裏だけを撮影して構成したモノクロームの写真だった。それは中山の「福助足袋」とほとんど同じ構図であり、大いに驚いたものである。もしものたとえではあるが、中山が長命であったならば、ブルーメンフェルドのようなファッション写真を撮っていたかもしれない、と思った。きっと洗練された優美さとシャープな感覚が一体となったすてきな作品だったろう、と。しかし結果的に「はじめに」では、ケルテスでもブルーメンフェルドでもなく、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』(スタジオジブリ、2013年)の主役人物のモデルとなった戦闘機の設計技師・堀越二郎に登場してもらった。どうしてそうなったかについては、本書の冒頭にあるので手に取って確かめていただきたい。
 本書ではこれまで紹介される機会がなかった中山自身の言葉を資料の束のなかからできるかぎり拾い出し、モダニズムの写真家の思考に迫ろうとした。と同時に写真家を取り巻く戦前期の時代環境や、海港都市である神戸、保養地の芦屋といった地域環境、生活のため日々働いた百貨店の写真室という職場環境にそれぞれ注目した。そしてそれぞれの環境がどのように構成されていたかを示す資料もできるかぎり収集し、新たな資料の掘り出しにも精いっぱいの力を注いだ。そうすることで、総体的に中山が広告写真といかに関わっていったのかを捉えようと努めた。研究としては、まったくもって当たり前のことではあるが、準備にはたっぷりと時間がかかってしまった。
 ひとわたり書き終えて実感することは、つくづく広告写真はその時代を映し出す投射装置だということ。それがたった一枚の写真であっても、すぐれた写真であるならば、そこには必ず時代のかけらがなにかしら封じ込められ、見る者の心のスクリーンに美しい影を投げかける。中山岩太の広告写真「福助足袋」には、日本のモダニズムに関するとびきり上等ないくつものイメージが内包されている。そこからどんなイメージが読者一人ひとりに投影されることやら。前口上はこのへんにして、つづきはどうぞ本書でご観覧あれ。

ラジオというメディアの魅力――『コミュニティFMの可能性――公共性・地域・コミュニケーション』を書いて

北郷裕美

 この原稿を書いている2月21日は(僭越ながら)私の誕生日である。以前から続いている「Facebook」のタイムラインには、新年の挨拶に匹敵するたくさんのメッセージがいまも入ってきている。年齢を意識する場面は日常のなかで極力減ったが、まあきょうくらいはいいかなと、一人ひとりに一生懸命返信していたところである。
 そのなかに学生時代の友人の名前もちらほらある。「Facebook」で復活した友人たち。今度会おうぜ、が挨拶がわりになってしまっている。そんな彼らと共有していた昭和の時代は、机の横に必ずトランジスターラジオ(のちにラジカセに出世するが)があった。自分も「ながら族」の典型だったが、夜の帳のなかで器用に勉強と両立していたかはかなり疑問である。現在も続く深夜放送のプロトタイプ番組のそのなかで、自分はさまざまなことを思いめぐらせていた。その行為は消費するという感覚ではなく、貪欲にかつ積極的に受容するものだった。「ラジオの前のあなた」とパーソナリティーから一人称で発せられるメッセージも、演歌から歌謡曲、映画音楽、ポップスからロックまで混在するチャートがあった頃の音楽も、さまざまな下世話で役立つ情報も、すべて……。
 ラジオを聴くシチュエーション。そこにたたずむのは自分一人。深夜の孤独な時間をまさに積極的に享受していた。アクセスなどという積極性ではなく、スイッチを入れたらあとは音声に任せてしまう。ただビジュアルが伴わない分、頭のなかのスクリーンにはフル回転で映像が投影され続ける(結局、学業は疎かになる)。落合恵子の声に、吉田拓郎の歌に、大政奉還やミトコンドリアが重なっては消えていく……。メランコリーな誰にもじゃまされない深夜の一人遊びである思考体験を、次の日の朝、教室という名のオフ会の場で他者の視点をもって反芻して再度味わう。
 著作とは重ならない話と思われるかもしれないが、今回世に問い直した「コミュニティFM」というラジオ媒体は、私と同じような年代の人には懐かしく、若い人にはいにしえの媒体として「先生、聴いたことないんですけど……」と、平気でゼミの学生にものたまわれる。「コミュニティFM」ラジオを地域活性やコミュニケーションのツールとしてその価値を、特に地域という文脈のなかで、今回真摯な気持ちで書き下ろした。そのことはいまも信念をもって伝えたいことと自負している。ただ、ラジオという音声媒体に対する共感や有意性は言葉では伝えられない。あの時代をともに生きた者たちにとってはセンチメンタルなまでに共有物だったものが、世代を超えてつなげることの難しさをいまは感じている。多様な媒体が生まれたことや、社会環境の大きな変化など、理由を探れば枚挙にいとまはない。だが、メディアは印刷媒体も含めて何か一つのもの(電子媒体など)にすべて収斂されるのは自分はいやだ(およそ研究者らしくない物言いだが)。これらのメディアは、すべて過去の文化遺産にならないでほしい。なぜならどの媒体もまったく違う存在価値をもち、物語を共有し、それにふれた体験をずっと内包し続けられるものだから。とりわけラジオは人間くさいのである。寄り添う媒体なのである。だから子どもたち(ラジオを聴かない若者たち)に過去の遺物としてではなく、今回著した音声媒体を時制の枠を超えて「現時進行形」の媒体として、認めてほしい、使ってほしいなと思っている。そして彼らに新たな価値創造を加えてもらえるなら、時代を超えてすてきな物語を紡ぎ続けられるという期待をもっている。
 ここまで書いて思ったのは、絶対「余白」にしか書けない文章であり、ヘタをすれば「余白の外に」追いやられそうな気配もあるのでこのあたりで締めたいと思う。

戦争の時代の化粧品広告――『戦時婦人雑誌の広告メディア論』を書いて

石田あゆう

 戦争のさなかにあっては化粧どころではない。私もそう思ってきた。女性が化粧を楽しめるのは、平和な時代であってこそだと某ジャーナリストも言って(書いて)いた。だがそれがそうとも言い切れないのではないか、というのが本書の出発点である。
 女性の化粧に対する情熱と、その欲望を糧に肥大化した化粧品産業は、ちょっとやそっと節約や倹約の時代になったところで姿を消さなかった。もちろん派手な化粧は御法度で、人目はコワイ。だが自然な化粧や素肌美人はどうだろう。女性の化粧は艶やかさやけばけばしさが真骨頂ではない。いまも昔も肌荒れを避け、素肌を美しく保つために化粧品は必須である。戦時期には真っ白な白粉や口紅といった化粧品広告はなりをひそめるようになるが、素肌美人や若々しい女性でいるために化粧をしましょう、と積極的な商品宣伝がなされた。戦時下にあって健康美が奨励され、国産愛用運動が展開されたこともその傾向に拍車をかけた。日本人の肌色に合っていて自然に見えるということで、国産オークル系ファンデーションはこの時期の人気商品になった。
 そんな化粧品広告を戦時下の「主婦之友」(主婦之友社)をはじめとする婦人雑誌に見ることができる。これも私にとって奇妙なことだった。「主婦之友」という雑誌メディアは、戦時期にあって女性の戦争動員/協力を引き出すのに積極的な役割を担ったプロパガンダ・メディアだというのが通説だからだ。1937年の日中事変以後、誌面や出版広告には戦争への意識を高めようとする内容が盛り込まれるようになる。そうした誌面の横では化粧品広告の美人たちがほほ笑んでいた。この矛盾した内容の誌面はどういう方針によるものだったのか。
「主婦之友」という雑誌は、創業者である社長の石川武美の方針で「一社一誌主義」を掲げ、「主婦之友」だけにすべての労力を注ぎ、このただひとつのメディアを選んでくれる読者の信頼を裏切らないことをモットーにした。1926年の「読売新聞」の連載「雑誌界の人物」に登場した石川は、雑誌出版について次のように語っていた。

 私は明治33年17才の時東京に出て本屋に入り、雑誌を中心に仕事をしてゐましたがそれ以後は徹頭徹尾雑誌のためにつくしてゐます。私はいつも雑誌を生命としてゐます。雑誌は私の学校であり教師であって今日まで一度もそれを裏切ったことはありません。
最早、現代に於いては宗教は雑誌に移って来なければなりません。印刷の発明は宗教や政治や実業の上に大革命を与へました。若し今日キリストが生れて来たならば印刷宣伝をやり記者になって神の道を説くでありませう(「雑誌界の人物(15)――石川武美氏」「読売新聞」1926年7月7日付)。

 石川はクリスチャンでもあったが、よりよい情報を雑誌を通じて読者に届けるというメディア・コミュニケーションのありようを宗教とのアナロジーで語っている点がおもしろい。
 しかし「一社一誌主義」はその一誌を失えば数多くの読者とのつながりも信頼もすべてを失ってしまう危険があった。読者のためを思って雑誌は編集されるが、その内容を当局が時局にふさわしいと思うかどうかは別問題である。だからこそあらゆることを想定して、発禁になることだけは「読者のため」に避けなければならなかった。さらに系列雑誌をもたなかったため、「読者のため」に価格を抑えるには広告への依存度が高くなった。
こうして「読者のため」の雑誌「主婦之友」は、倹約の戦時宣伝と消費の商品広告が奇妙に共存する不徹底なプロパガンダ・メディアになっていったのである。付け加えておくならば、敗戦後、戦争責任を認め廃刊することが決定した「主婦之友」だが、やはり「読者のため」に、と一転、続刊になった。ここから戦後をも代表する長寿雑誌として道を歩み、実質廃刊になったのはそれから63年後、2008年のことであった。

複写カウンターでの1人芝居――『〈スキャンダラスな女〉を欲望する――文学・女性週刊誌・ジェンダー』を書いて

井原あや

 1月半ばに、拙著『〈スキャンダラスな女〉を欲望する』の見本が届いた。ようやくできあがったのだという安堵感と、これからこの本が人前に出るのだという緊張感が入り交じった思いでページをめくっていたとき、ふと思い出したことがある。女性週刊誌の記事を集め始めた頃の、自分の姿だ。その自分の姿を、「原稿の余白に」として綴ってみたい。
 例えば国立国会図書館では、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっておらず、データベース化されてもいない。そのため、閲覧室で雑誌そのものを開いて、その内容を1つひとつページをめくりながら確認し、必要であれば複写を申し込むことになる。こう書くと、国立国会図書館に行ったことがある方なら誰しも「そんなことは当然だ。女性週刊誌や週刊誌に限ったことではない。お前1人が大変ではないのだ」と思われるだろう。また、「週刊」ではなく毎日刊行される新聞を研究対象に選べばなおのこと目を通す分量は増えていくので、女性週刊誌などの週刊誌というメディアを読むこと自体の苦労をここで語りたいのではない。こうしたことは、本を出されるような方、あるいは論文を書かれる方であれば誰しもが経験することであって、私などがそれを「苦労」と呼ぶのは申し訳ない。
 では何が「苦労」だったのかといえば、複写申し込みである。いまとなっては、それは苦労でも何でもなく、単なる自意識過剰なので笑い話でしかないが、女性週刊誌などの週刊誌には、必要以上に大きく目を引くように書かれたタイトルや写真がつきものだ。それが戦略なのだし、私もそうしたページが欲しいので、複写を申し込まなくてはならない。先にも述べたように、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっていないし、データベース化されているわけでもないので、当然、複写申し込みの列に並んで、そこでページを複写係の方と確認することになる。列に並んで待っている間、私の前の方が申し込みの部分を確かめておきたいのか、ページを開いていた。見ようと思って見たわけではないが、きちんとした論文の複写を申し込まれるのが、何となく目の端に入った。対して私はといえば、読者の興味関心を引く、いわばかなり「キツめ」のタイトル――例えば、「衝撃!」だとか「情死」といった見出しが躍るページを複写カウンターで開いて複写係の方と確認していくのだ。待っている列とカウンターは離れているので、待ち時間に列でページを開かないかぎり周囲には見えないのだが、もしも何かのはずみで後ろの方にページが見えたらどうしよう、その方が、私には到底理解できない数式が並んだ論文や天下国家を論じたものなどを複写するような方であれば、私のことをどう思うだろうか、あるいは複写係の方が、私の前後の方と私の複写申し込みの部分を比べながら、「今日はバラエティーに富んだ日だった」と1日を振り返ったらどうしよう(当然、図書館の方は仕事なのでそんなことは思わない)、などと悶々としながら、それでも平静を装って、複写ページを確認して申し込んだ――真新しい拙著のページの間から立ち上ったのは、周囲の目を気にして、自意識過剰に複写申し込みの列に並び、複写担当の方におかしく思われないか、ドギマギしていた自分だった。
 もちろん、いまはもう、ふてぶてしくなったのか成長したのか、複写申し込みの列にも堂々と並べるけれど。

「山ガール」現象と「アルプ」の世界――『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』を書いて

中村 誠

 湊かなえの小説に『山女日記』(幻冬舎)というのがある。結婚や離婚、生活・仕事上の悩みなど、人生の節目に直面したアラサーからアラフォー世代の女性たちが、様々な思いを抱きながら登山する物語である。山岳小説というよりは、直面する諸問題にどのように対処しようかとさまよう現代の女性群像を連作として描いたものといったほうがいい。言わば、山は舞台として配されたにすぎない。しかし、そういう舞台として山が設定されたということ自体が、山や登山が身近になったことを示している。数日前には、髙橋陽子『ぐるぐる登山』(中央公論新社)というのも書店で目にした。こちらは読んでいないのでうかつなことは言えないが、これも直接的な登山行為に絡む物語ではなく、状況設定に「山ガール」が一役買っているというもののようだ。いまや、家庭や職場などと同様に、山は女性作家が描く小説の場面として使われ、「山ガール」が登場人物の中心となりうるご時世なのである。
 本書の校正を終えて久しぶりに出かけた鈴鹿山脈の御在所岳でも、センスがいい登山ウエアで身を固めた「山ガール」に何組も出会った。いつまで続くかは別として、現状ではこの現象は確かに定着しているようである。一方、そういう女性たちと共に中高年登山者も依然多い。「山の日」が制定される土壌として、このような登山の一般化・大衆化があったのだろう。山から遠いところにいるのは青年・壮年の男性たちだけのようである。
 しかし、そういった登山隆盛と言える今日にあっても、登山関係の本に親しむ人はそう多くはない。入門書やハウ・ツーものは登山人口に比例して需要があるが、山や登山について考えたり、登山を通して自己を探求したりするような書物が読まれる状況にはない。無論、今日にあっても登山行為をテーマとした山岳小説は存在する。また、登山や山に関する映画や漫画も結構あるが、それらの多くはエンターテイメントとしてある。
 今日では、山に登る意味などについて深く考える作業は敬遠されがちだということであるが、かつての登山者は山に登ることと同等の重みで著名な登山家の著作や遺稿を読み、自分の登山についても考えようとしていた。あるいは、そういった読書と登山体験を媒介として人生観をも深めていった。そういう山の書籍としては、例えば、大島亮吉の登山論や随想、槇有恆の紀行、今西錦司の山岳論、加藤文太郎や松濤明の遺稿……などがあり、これらは登山者共通の読書体験としてあったと言っていい。登山者は自分自身の登山とそれらの著作で描かれた山行の追体験を通して、登山行為と自分という存在について思い巡らせたのである。本書で取り上げた山の文芸誌「アルプ」や串田孫一・辻まことなどの山に関する書物も、そういう時代のなかで多くの読者を得ていた。
「アルプ」は1958年(昭和33年)に創刊され、四半世紀の間に300号を刊行し、1983年(昭和58年)に終刊となった雑誌である。「アルプ」の特色は、登山を単に肉体的な行為として終わらせず、登山が持つ精神性を文芸表現として昇華しようとしたところにある。その「アルプ」の終刊からすでに30年以上が経過したいま、そんな古い時代の山岳文学や山の詩について書いた本は陳腐で、いまさら「アルプ」でも串田孫一でもないと思われる向きがあるかもしれない。
 しかし、たとえその30年の間に、登山がより大衆化し、その装備が機能的かつファッショナブルになり、登山の意味が変容したとしても、自然としての山岳が持つ存在感が薄れたわけではない。先にあげた小説で、様々な岐路に立つ女性たちが自らの思いを整理する場として山が使われたことは、山が日常生活の場とは異なる特殊な空気を有するという点でいまも変わっていないということを示している。そして、現代であっても、登山は精神的な行為に通じる要素が潜んでいるということも示している。したがって、現代の登山者が登山をレジャーととらえ、その行為に重い意味を置かなかったとしても、彼らが先にあげたような書籍や「アルプ」の作品を受け入れ、共感することは十分にありうる。本書で描いたような山岳文学の世界に未知だっただけであり、もしそれにふれる機会があるならば、どっぷりとはまるかもしれない。串田孫一の山に関する〈断想〉や辻まことの〈山の画文〉はいまでも十分“オシャレ”で、格好いい文体であり画風である。きっと、いまの若者も興味と関心を持つことができるものだと思う。
『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』では、串田孫一・尾崎喜八・鳥見迅彦をはじめとする様々な詩人たちの詩作品も扱った。山の本であると同時に詩(文学)についての本でもある。ぜひ、多くの方々がこの本を手にし、登山行為と表現行為を融合させて登山を芸術として結晶させた「アルプ」の豊穣な世界にふれていただきたい。

「ドラムで工作もあり」です――『まるごとドラムの本』を書いて

市川宇一郎

 タイトルからして『まるごとドラムの本』なのだから、ドラムにまつわるいろいろな話を盛り込んで、だれにでも面白く読んでもらおうと企図して書いたが、いざできあがってみると、「アレも書いておけばよかった、コレも入れておけばよかった……」と思うことしきりである。
 そのひとつに、ドラムの改造・修理がある。ドラムは叩くだけでなく、イジって遊べる楽器でもあるのだ。これは工作や機械イジりが好きな人にとってはたまらない。しかも、「木工」も「金工」も両方楽しめる。
 たとえば、ドラムのボディーである。その多くは木製の合板(プライ・ウッド)でつくられている。これは数ミリの薄い板を何層にも重ね、接着剤を塗り、圧着して成形するが、古楽器だと、経年劣化のため層が剥がれることがまれにある。修理は、剥がれたわずかなスキマに接着剤を丹念に塗り込み、クランプで圧着する。その際、剥がれの状態によって、木工用ボンドを使うか、エボキシ系の接着剤にするか、あるいは瞬間接着剤にするかを判断するのだが、これがなかなかむずかしい。層が剥がれたボディー内部の状態がどうなっているのかわからないから、最終的には一か八かの選択を迫られる。ホームセンターの接着剤コーナーをウロウロ歩き回り、どれにしようかと悩みに悩む。しかし、これもまた楽しいひとときなのだ。
 器用なドラマーのなかには、ボディーのエッジ角度やスナッピーのえぐり底(スネア・ベッド)を削り直して、好みの音に微調整する人もいる。一般に、エッジの角度が鋭くなるにつれて反応がいい鋭角な音になり、反対に鈍角の丸いエッジになるにつれて、反応は鈍いが、ドシッとした太い音になる。しかし、望みどおりの音になるかどうかは、やってみなければわからない。だからこそ、うまくいったときの喜びは大きいのだ。
 塗装を楽しむ人も少なくない。ボディーの塗装の剥がれた部分に、同じ色の塗料を探してきてきれいに塗り直し、表面を磨き上げ、ニンマリしている人もいる。これは、愛車のキズをていねいに修理するカー・マニアの姿と重なり合う。
「色に飽きた」と言って、ボディーのカバーリングを張り替える人もいる。もともと張られているセルロイドや塩化ビニールのカバーリングをきれいに剥がし、新しいのに張り替えるのだが、前もってボディーに取り付けられている金属パーツをすべて取り外さなければならないから、けっこう大変な作業になる。
 それで思い出したが、ボディーから取り外した部品(ラグの類)をネジ留めするときは、決して強く締めてはいけない。スプリング・ワッシャーがつぶれたところから、ほんの少し締める程度でいい。演奏中、緩まないようにと、力まかせにギュッと締めると、ネジ山を破損させるだけでなく、音の響きを損ねてしまうことになる。なんと、鳴らなくなってしまうのだ。こういったことは、補修のプロなら周知の事実だが、一般にはほとんど知られていない。
 さて、ネジを壊したり、なくしたりしたら、どうするか。最近の製品なら、楽器店で手軽に入手できるが、ヴィンテージ・ドラムのネジだと、まず店にも用意がない。取り寄せもできない。そこで「ネジ屋」を探し歩くのだが、小さなインチ・ネジやナットはどこにでもあるものではない。筆者の経験では、秋葉原のイリベ螺子店の在庫がとにかく豊富だ。こんなネジはないだろうなというものまで、ちゃんともっている。先日も、「ユニファイ仕様の細目(さいめ)インチ・ネジ」でお世話になった。たった数個のネジでも、いやな顔もせず親切に対応してくれる。秋葉原ならではの、品揃えがいい、ありがたい店である。
 本書の巻末にはみなさんに紹介しておきたいロックとジャズのドラマーを掲載したが、日本人ドラマーを紹介しなかったのは残念だ。とりわけ1970年代は、ロック畑もジャズ畑も個性的な活動をし、あとに続く者に道を切り開いてくれたドラマーが多かった。そういったすぐれた先達の業績を正当に評価し、その名を活字に残しておくのは、あとに続く私たちの責任だと思っている。
 とまぁ、話は尽きないが、キリがないので、このへんでやめておく。あとは、ぜひ本編でお楽しみください。

トランペットを心から楽しむために ――『まるごとトランペットの本』を書いて

荻原 明

「クラシック音楽家」。それは、生まれたときから楽器がおもちゃで、物心がつくころには何時間も練習させられて、レッスンが怖い嫌い行きたくないと泣いても毎週のように連れていかれ、気がつけば音楽大学に通い、そしていつの間にかプロとして活動している人たち……。そんなふうに思われているかもしれません。
 確かに、これに近い人生を歩んできた音楽家も少なからずいると思います。しかしそれらの多くは、ヴァイオリンなどの弦楽器やピアノの世界の話であって、トランペットやトロンボーン、クラリネット、サクソフォン、打楽器などの管・打楽器系の音楽家のほとんどは、まったく別の道から音楽の世界へ足を踏み入れています。別の道、それは小・中学校の吹奏楽部です。
 私も中学校の吹奏楽部にひょんなことから入部し、第1希望だったアルトサックスは希望者が多数のためにかなわず、しかたなくトランペットを始めました。それまでは音楽とは無縁の生活でしたから、恥ずかしながら1年以上楽譜が読めないまま、ごまかしごまかし演奏していたくらいです。きっと多くのプロ管楽器奏者も(私ほどひどくはないでしょうが)、「吹奏楽、楽しそうだな。やってみようかな」と、はじめは気楽な動機だったと思います。
 このように、だいぶ異なる音楽人生を歩んできた弦楽器奏者と管楽器奏者。さまざまな違いはありますが、なかでも決定的なもの、それは「最初の教わり方」です。
 例えば、ヴァイオリンはまず、楽器の構え方だけでも相当な時間をかけ、それができるようになると、次は弓の持ち方と動かし方(ボーイング)についてみっちりと教わります。習っている子が飽きてしまおうがなんだろうが、そこは妥協しません。なぜなら、楽器の構え方と弓の使い方がきちんとできない人は、演奏上さまざまな支障が生じてしまい、その後どんなに練習しても一流のプロになることは難しいからです。
 一方、管楽器はというと、吹奏楽部はとにかく時間がありません。放課後の短い時間を使って活動しているにもかかわらず、吹奏楽コンクールや学校行事の演奏など、年間を通して演奏する機会がけっこうあります。そんな状況ですから、吹奏楽部では音の出し方などのいわゆる基礎について教わる時間が非常に少なく、そして雑です。例えば私の場合、「唇を横に思い切り引っ張って強く息を出せば、ブーーッて出るから!」。ほぼこれだけ(しかも間違った吹き方なのでまねしないでください)。
 ほかの人もここまで雑に教わったかはわかりませんが、最初の教わり方が決していいとはいえない状況で練習を始めてしまった結果、吹奏楽部には「とりあえず吹ける人」が大量生産されてしまいます。とりあえず吹ける人は、とりあえず楽譜に書いてあることがそれっぽく吹けるので、どんどんみんな合奏に参加させられますが、案の定、すぐさま壁にぶつかります。なかでもトランペットは主旋律やソロを吹く機会が多く、とても目立つポジションなので、先生から「もっときれいな音色で!」「なんで高い音が出ない!」「バテるな! 最後まで吹き通せ!」と厳しい指摘を受けることが多いのです。しかし、とりあえず吹ける人たちは、どうすればいいのかよくわかりません。そこで、解決策を求めて本や雑誌、さらには、いまではインターネットでも調べてみると、待ってましたといわんばかりにまちかまえている膨大な量の情報やアドバイス、解決方法に出合います。なかには正しい奏法とは真逆の行為を推奨していたりと、真偽が定かではない大量の情報に何が正しいのか見当がつかなくなり、その結果、トランペットを吹くことはとても難しいと思ってしまったり、正しい奏法を追い求めすぎて、それが最終目標になってしまう人が増えてしまうように感じます。楽器は音楽をするうえでの手段でしかないのに、その楽器の扱いに翻弄されてしまうようでは、心から音楽を楽しめません。
 そもそも、トランペットから音を出すのはそこまで難しいことではありません。音の出る原理なんてとてもシンプルなもので、ややこしくしているのは情報を発信している人たちではないでしょうか。
「奏法のことばかりにとらわれないで、もっと楽しくトランペットを吹いてもらいたい」、そうした思いから書き始めたのが「ラッパの吹き方」(http://trp-presto.jugem.jp/)というブログでした。毎週毎週こりずに更新を続けているうちに、おかげさまでいまではたくさんの人に読んでもらえるになり、そして念願の単行本を刊行できました。うれしいかぎりです。
 本書は、奏法について混乱してしまった人にとっては解決の糸口に、これからトランペットを始める人には最初でつまずかないように、そしてたくさんの人が、いつまでもトランペットを楽しく演奏できるように、そんな気持ちで書きました。
 本書を読んでくださった人に、いままで以上にトランペットに親しみを感じ、そして、演奏すること音楽をすることの楽しさを実感してもらえたら幸いです。