広告写真は時代を映し出す投射装置である ――『広告写真のモダニズム――写真家・中山岩太と一九三○年代』を書いて

松實輝彦

 本書は神戸と芦屋を拠点に活躍した写真家・中山岩太が1930年に撮影した一枚の広告写真をめぐって、当時の写真界や商業美術と呼ばれたデザイン界の動向、それらを含めた視覚文化メディアがどのような反応を示し、どのような文化的変容を経験したのかを写真史の観点から考察した、興味深い試みである。と前口上を切ると、たった一枚の写真がはたしてモダニズムの時代を揺さぶり、戦前期のメディアを変容させたのかと、しばしあっけにとられるかもしれない。たしかにこれまでの概説的な写真史の本ではそんな図太い発想のままに記述されることはなかった。あまり前例がない、という点から「冒険する研究書!」といったあおりの惹句を本書のどこかに追加すべきかもしれない。
 では考察の主要な対象となる中山岩太とはどのような写真家なのか。この人物紹介が案外と難しいのである。関西の写真史研究の基盤を築いた故・中島徳博氏は、中山岩太を語る際に、その生き方が似ているとして、アンドレ・ケルテスをよく引き合いに出していた。中山の生年が1895年、ケルテスは94年にハンガリーのブタペストに生まれている。ふたりとも同時期にパリに移り住み、多くの芸術家たちと交流をもつ。ケルテスの写真といえばソファでおどける踊り子や仔犬を懐に抱く少年を思い浮かべるのだが、中島氏はピエト・モンドリアンのアトリエを撮影した作品に注目した。なにげなく写されたようでいて緻密に画面構成された室内風景は長く印象に残り、中山の出世作となった広告写真「福助足袋」ともどこか通じるものがある。しまった、このことは本書ではふれずじまいだった。
 本書を中山の紹介から書きだすにあたって、中島氏に倣いながら、当初はアーウィン・ブルーメンフェルドを引き合いにするつもりだった。ちょうど初稿をまとめている2013年の春に東京都写真美術館で回顧展が開催されていて、「ヴォーグ」などのファッション誌で活躍したブルーメンフェルドの作品群に接して感銘を受けたから。彼も1897年にドイツ・ベルリンに生まれ、1930年代にパリで広告写真の仕事をしている。最晩年、「私のベスト写真100選」で自ら取り上げた最後の作品は、モデルの両足の裏だけを撮影して構成したモノクロームの写真だった。それは中山の「福助足袋」とほとんど同じ構図であり、大いに驚いたものである。もしものたとえではあるが、中山が長命であったならば、ブルーメンフェルドのようなファッション写真を撮っていたかもしれない、と思った。きっと洗練された優美さとシャープな感覚が一体となったすてきな作品だったろう、と。しかし結果的に「はじめに」では、ケルテスでもブルーメンフェルドでもなく、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』(スタジオジブリ、2013年)の主役人物のモデルとなった戦闘機の設計技師・堀越二郎に登場してもらった。どうしてそうなったかについては、本書の冒頭にあるので手に取って確かめていただきたい。
 本書ではこれまで紹介される機会がなかった中山自身の言葉を資料の束のなかからできるかぎり拾い出し、モダニズムの写真家の思考に迫ろうとした。と同時に写真家を取り巻く戦前期の時代環境や、海港都市である神戸、保養地の芦屋といった地域環境、生活のため日々働いた百貨店の写真室という職場環境にそれぞれ注目した。そしてそれぞれの環境がどのように構成されていたかを示す資料もできるかぎり収集し、新たな資料の掘り出しにも精いっぱいの力を注いだ。そうすることで、総体的に中山が広告写真といかに関わっていったのかを捉えようと努めた。研究としては、まったくもって当たり前のことではあるが、準備にはたっぷりと時間がかかってしまった。
 ひとわたり書き終えて実感することは、つくづく広告写真はその時代を映し出す投射装置だということ。それがたった一枚の写真であっても、すぐれた写真であるならば、そこには必ず時代のかけらがなにかしら封じ込められ、見る者の心のスクリーンに美しい影を投げかける。中山岩太の広告写真「福助足袋」には、日本のモダニズムに関するとびきり上等ないくつものイメージが内包されている。そこからどんなイメージが読者一人ひとりに投影されることやら。前口上はこのへんにして、つづきはどうぞ本書でご観覧あれ。

ラジオというメディアの魅力――『コミュニティFMの可能性――公共性・地域・コミュニケーション』を書いて

北郷裕美

 この原稿を書いている2月21日は(僭越ながら)私の誕生日である。以前から続いている「Facebook」のタイムラインには、新年の挨拶に匹敵するたくさんのメッセージがいまも入ってきている。年齢を意識する場面は日常のなかで極力減ったが、まあきょうくらいはいいかなと、一人ひとりに一生懸命返信していたところである。
 そのなかに学生時代の友人の名前もちらほらある。「Facebook」で復活した友人たち。今度会おうぜ、が挨拶がわりになってしまっている。そんな彼らと共有していた昭和の時代は、机の横に必ずトランジスターラジオ(のちにラジカセに出世するが)があった。自分も「ながら族」の典型だったが、夜の帳のなかで器用に勉強と両立していたかはかなり疑問である。現在も続く深夜放送のプロトタイプ番組のそのなかで、自分はさまざまなことを思いめぐらせていた。その行為は消費するという感覚ではなく、貪欲にかつ積極的に受容するものだった。「ラジオの前のあなた」とパーソナリティーから一人称で発せられるメッセージも、演歌から歌謡曲、映画音楽、ポップスからロックまで混在するチャートがあった頃の音楽も、さまざまな下世話で役立つ情報も、すべて……。
 ラジオを聴くシチュエーション。そこにたたずむのは自分一人。深夜の孤独な時間をまさに積極的に享受していた。アクセスなどという積極性ではなく、スイッチを入れたらあとは音声に任せてしまう。ただビジュアルが伴わない分、頭のなかのスクリーンにはフル回転で映像が投影され続ける(結局、学業は疎かになる)。落合恵子の声に、吉田拓郎の歌に、大政奉還やミトコンドリアが重なっては消えていく……。メランコリーな誰にもじゃまされない深夜の一人遊びである思考体験を、次の日の朝、教室という名のオフ会の場で他者の視点をもって反芻して再度味わう。
 著作とは重ならない話と思われるかもしれないが、今回世に問い直した「コミュニティFM」というラジオ媒体は、私と同じような年代の人には懐かしく、若い人にはいにしえの媒体として「先生、聴いたことないんですけど……」と、平気でゼミの学生にものたまわれる。「コミュニティFM」ラジオを地域活性やコミュニケーションのツールとしてその価値を、特に地域という文脈のなかで、今回真摯な気持ちで書き下ろした。そのことはいまも信念をもって伝えたいことと自負している。ただ、ラジオという音声媒体に対する共感や有意性は言葉では伝えられない。あの時代をともに生きた者たちにとってはセンチメンタルなまでに共有物だったものが、世代を超えてつなげることの難しさをいまは感じている。多様な媒体が生まれたことや、社会環境の大きな変化など、理由を探れば枚挙にいとまはない。だが、メディアは印刷媒体も含めて何か一つのもの(電子媒体など)にすべて収斂されるのは自分はいやだ(およそ研究者らしくない物言いだが)。これらのメディアは、すべて過去の文化遺産にならないでほしい。なぜならどの媒体もまったく違う存在価値をもち、物語を共有し、それにふれた体験をずっと内包し続けられるものだから。とりわけラジオは人間くさいのである。寄り添う媒体なのである。だから子どもたち(ラジオを聴かない若者たち)に過去の遺物としてではなく、今回著した音声媒体を時制の枠を超えて「現時進行形」の媒体として、認めてほしい、使ってほしいなと思っている。そして彼らに新たな価値創造を加えてもらえるなら、時代を超えてすてきな物語を紡ぎ続けられるという期待をもっている。
 ここまで書いて思ったのは、絶対「余白」にしか書けない文章であり、ヘタをすれば「余白の外に」追いやられそうな気配もあるのでこのあたりで締めたいと思う。

戦争の時代の化粧品広告――『戦時婦人雑誌の広告メディア論』を書いて

石田あゆう

 戦争のさなかにあっては化粧どころではない。私もそう思ってきた。女性が化粧を楽しめるのは、平和な時代であってこそだと某ジャーナリストも言って(書いて)いた。だがそれがそうとも言い切れないのではないか、というのが本書の出発点である。
 女性の化粧に対する情熱と、その欲望を糧に肥大化した化粧品産業は、ちょっとやそっと節約や倹約の時代になったところで姿を消さなかった。もちろん派手な化粧は御法度で、人目はコワイ。だが自然な化粧や素肌美人はどうだろう。女性の化粧は艶やかさやけばけばしさが真骨頂ではない。いまも昔も肌荒れを避け、素肌を美しく保つために化粧品は必須である。戦時期には真っ白な白粉や口紅といった化粧品広告はなりをひそめるようになるが、素肌美人や若々しい女性でいるために化粧をしましょう、と積極的な商品宣伝がなされた。戦時下にあって健康美が奨励され、国産愛用運動が展開されたこともその傾向に拍車をかけた。日本人の肌色に合っていて自然に見えるということで、国産オークル系ファンデーションはこの時期の人気商品になった。
 そんな化粧品広告を戦時下の「主婦之友」(主婦之友社)をはじめとする婦人雑誌に見ることができる。これも私にとって奇妙なことだった。「主婦之友」という雑誌メディアは、戦時期にあって女性の戦争動員/協力を引き出すのに積極的な役割を担ったプロパガンダ・メディアだというのが通説だからだ。1937年の日中事変以後、誌面や出版広告には戦争への意識を高めようとする内容が盛り込まれるようになる。そうした誌面の横では化粧品広告の美人たちがほほ笑んでいた。この矛盾した内容の誌面はどういう方針によるものだったのか。
「主婦之友」という雑誌は、創業者である社長の石川武美の方針で「一社一誌主義」を掲げ、「主婦之友」だけにすべての労力を注ぎ、このただひとつのメディアを選んでくれる読者の信頼を裏切らないことをモットーにした。1926年の「読売新聞」の連載「雑誌界の人物」に登場した石川は、雑誌出版について次のように語っていた。

 私は明治33年17才の時東京に出て本屋に入り、雑誌を中心に仕事をしてゐましたがそれ以後は徹頭徹尾雑誌のためにつくしてゐます。私はいつも雑誌を生命としてゐます。雑誌は私の学校であり教師であって今日まで一度もそれを裏切ったことはありません。
最早、現代に於いては宗教は雑誌に移って来なければなりません。印刷の発明は宗教や政治や実業の上に大革命を与へました。若し今日キリストが生れて来たならば印刷宣伝をやり記者になって神の道を説くでありませう(「雑誌界の人物(15)――石川武美氏」「読売新聞」1926年7月7日付)。

 石川はクリスチャンでもあったが、よりよい情報を雑誌を通じて読者に届けるというメディア・コミュニケーションのありようを宗教とのアナロジーで語っている点がおもしろい。
 しかし「一社一誌主義」はその一誌を失えば数多くの読者とのつながりも信頼もすべてを失ってしまう危険があった。読者のためを思って雑誌は編集されるが、その内容を当局が時局にふさわしいと思うかどうかは別問題である。だからこそあらゆることを想定して、発禁になることだけは「読者のため」に避けなければならなかった。さらに系列雑誌をもたなかったため、「読者のため」に価格を抑えるには広告への依存度が高くなった。
こうして「読者のため」の雑誌「主婦之友」は、倹約の戦時宣伝と消費の商品広告が奇妙に共存する不徹底なプロパガンダ・メディアになっていったのである。付け加えておくならば、敗戦後、戦争責任を認め廃刊することが決定した「主婦之友」だが、やはり「読者のため」に、と一転、続刊になった。ここから戦後をも代表する長寿雑誌として道を歩み、実質廃刊になったのはそれから63年後、2008年のことであった。

複写カウンターでの1人芝居――『〈スキャンダラスな女〉を欲望する――文学・女性週刊誌・ジェンダー』を書いて

井原あや

 1月半ばに、拙著『〈スキャンダラスな女〉を欲望する』の見本が届いた。ようやくできあがったのだという安堵感と、これからこの本が人前に出るのだという緊張感が入り交じった思いでページをめくっていたとき、ふと思い出したことがある。女性週刊誌の記事を集め始めた頃の、自分の姿だ。その自分の姿を、「原稿の余白に」として綴ってみたい。
 例えば国立国会図書館では、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっておらず、データベース化されてもいない。そのため、閲覧室で雑誌そのものを開いて、その内容を1つひとつページをめくりながら確認し、必要であれば複写を申し込むことになる。こう書くと、国立国会図書館に行ったことがある方なら誰しも「そんなことは当然だ。女性週刊誌や週刊誌に限ったことではない。お前1人が大変ではないのだ」と思われるだろう。また、「週刊」ではなく毎日刊行される新聞を研究対象に選べばなおのこと目を通す分量は増えていくので、女性週刊誌などの週刊誌というメディアを読むこと自体の苦労をここで語りたいのではない。こうしたことは、本を出されるような方、あるいは論文を書かれる方であれば誰しもが経験することであって、私などがそれを「苦労」と呼ぶのは申し訳ない。
 では何が「苦労」だったのかといえば、複写申し込みである。いまとなっては、それは苦労でも何でもなく、単なる自意識過剰なので笑い話でしかないが、女性週刊誌などの週刊誌には、必要以上に大きく目を引くように書かれたタイトルや写真がつきものだ。それが戦略なのだし、私もそうしたページが欲しいので、複写を申し込まなくてはならない。先にも述べたように、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっていないし、データベース化されているわけでもないので、当然、複写申し込みの列に並んで、そこでページを複写係の方と確認することになる。列に並んで待っている間、私の前の方が申し込みの部分を確かめておきたいのか、ページを開いていた。見ようと思って見たわけではないが、きちんとした論文の複写を申し込まれるのが、何となく目の端に入った。対して私はといえば、読者の興味関心を引く、いわばかなり「キツめ」のタイトル――例えば、「衝撃!」だとか「情死」といった見出しが躍るページを複写カウンターで開いて複写係の方と確認していくのだ。待っている列とカウンターは離れているので、待ち時間に列でページを開かないかぎり周囲には見えないのだが、もしも何かのはずみで後ろの方にページが見えたらどうしよう、その方が、私には到底理解できない数式が並んだ論文や天下国家を論じたものなどを複写するような方であれば、私のことをどう思うだろうか、あるいは複写係の方が、私の前後の方と私の複写申し込みの部分を比べながら、「今日はバラエティーに富んだ日だった」と1日を振り返ったらどうしよう(当然、図書館の方は仕事なのでそんなことは思わない)、などと悶々としながら、それでも平静を装って、複写ページを確認して申し込んだ――真新しい拙著のページの間から立ち上ったのは、周囲の目を気にして、自意識過剰に複写申し込みの列に並び、複写担当の方におかしく思われないか、ドギマギしていた自分だった。
 もちろん、いまはもう、ふてぶてしくなったのか成長したのか、複写申し込みの列にも堂々と並べるけれど。

「山ガール」現象と「アルプ」の世界――『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』を書いて

中村 誠

 湊かなえの小説に『山女日記』(幻冬舎)というのがある。結婚や離婚、生活・仕事上の悩みなど、人生の節目に直面したアラサーからアラフォー世代の女性たちが、様々な思いを抱きながら登山する物語である。山岳小説というよりは、直面する諸問題にどのように対処しようかとさまよう現代の女性群像を連作として描いたものといったほうがいい。言わば、山は舞台として配されたにすぎない。しかし、そういう舞台として山が設定されたということ自体が、山や登山が身近になったことを示している。数日前には、髙橋陽子『ぐるぐる登山』(中央公論新社)というのも書店で目にした。こちらは読んでいないのでうかつなことは言えないが、これも直接的な登山行為に絡む物語ではなく、状況設定に「山ガール」が一役買っているというもののようだ。いまや、家庭や職場などと同様に、山は女性作家が描く小説の場面として使われ、「山ガール」が登場人物の中心となりうるご時世なのである。
 本書の校正を終えて久しぶりに出かけた鈴鹿山脈の御在所岳でも、センスがいい登山ウエアで身を固めた「山ガール」に何組も出会った。いつまで続くかは別として、現状ではこの現象は確かに定着しているようである。一方、そういう女性たちと共に中高年登山者も依然多い。「山の日」が制定される土壌として、このような登山の一般化・大衆化があったのだろう。山から遠いところにいるのは青年・壮年の男性たちだけのようである。
 しかし、そういった登山隆盛と言える今日にあっても、登山関係の本に親しむ人はそう多くはない。入門書やハウ・ツーものは登山人口に比例して需要があるが、山や登山について考えたり、登山を通して自己を探求したりするような書物が読まれる状況にはない。無論、今日にあっても登山行為をテーマとした山岳小説は存在する。また、登山や山に関する映画や漫画も結構あるが、それらの多くはエンターテイメントとしてある。
 今日では、山に登る意味などについて深く考える作業は敬遠されがちだということであるが、かつての登山者は山に登ることと同等の重みで著名な登山家の著作や遺稿を読み、自分の登山についても考えようとしていた。あるいは、そういった読書と登山体験を媒介として人生観をも深めていった。そういう山の書籍としては、例えば、大島亮吉の登山論や随想、槇有恆の紀行、今西錦司の山岳論、加藤文太郎や松濤明の遺稿……などがあり、これらは登山者共通の読書体験としてあったと言っていい。登山者は自分自身の登山とそれらの著作で描かれた山行の追体験を通して、登山行為と自分という存在について思い巡らせたのである。本書で取り上げた山の文芸誌「アルプ」や串田孫一・辻まことなどの山に関する書物も、そういう時代のなかで多くの読者を得ていた。
「アルプ」は1958年(昭和33年)に創刊され、四半世紀の間に300号を刊行し、1983年(昭和58年)に終刊となった雑誌である。「アルプ」の特色は、登山を単に肉体的な行為として終わらせず、登山が持つ精神性を文芸表現として昇華しようとしたところにある。その「アルプ」の終刊からすでに30年以上が経過したいま、そんな古い時代の山岳文学や山の詩について書いた本は陳腐で、いまさら「アルプ」でも串田孫一でもないと思われる向きがあるかもしれない。
 しかし、たとえその30年の間に、登山がより大衆化し、その装備が機能的かつファッショナブルになり、登山の意味が変容したとしても、自然としての山岳が持つ存在感が薄れたわけではない。先にあげた小説で、様々な岐路に立つ女性たちが自らの思いを整理する場として山が使われたことは、山が日常生活の場とは異なる特殊な空気を有するという点でいまも変わっていないということを示している。そして、現代であっても、登山は精神的な行為に通じる要素が潜んでいるということも示している。したがって、現代の登山者が登山をレジャーととらえ、その行為に重い意味を置かなかったとしても、彼らが先にあげたような書籍や「アルプ」の作品を受け入れ、共感することは十分にありうる。本書で描いたような山岳文学の世界に未知だっただけであり、もしそれにふれる機会があるならば、どっぷりとはまるかもしれない。串田孫一の山に関する〈断想〉や辻まことの〈山の画文〉はいまでも十分“オシャレ”で、格好いい文体であり画風である。きっと、いまの若者も興味と関心を持つことができるものだと思う。
『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』では、串田孫一・尾崎喜八・鳥見迅彦をはじめとする様々な詩人たちの詩作品も扱った。山の本であると同時に詩(文学)についての本でもある。ぜひ、多くの方々がこの本を手にし、登山行為と表現行為を融合させて登山を芸術として結晶させた「アルプ」の豊穣な世界にふれていただきたい。

「ドラムで工作もあり」です――『まるごとドラムの本』を書いて

市川宇一郎

 タイトルからして『まるごとドラムの本』なのだから、ドラムにまつわるいろいろな話を盛り込んで、だれにでも面白く読んでもらおうと企図して書いたが、いざできあがってみると、「アレも書いておけばよかった、コレも入れておけばよかった……」と思うことしきりである。
 そのひとつに、ドラムの改造・修理がある。ドラムは叩くだけでなく、イジって遊べる楽器でもあるのだ。これは工作や機械イジりが好きな人にとってはたまらない。しかも、「木工」も「金工」も両方楽しめる。
 たとえば、ドラムのボディーである。その多くは木製の合板(プライ・ウッド)でつくられている。これは数ミリの薄い板を何層にも重ね、接着剤を塗り、圧着して成形するが、古楽器だと、経年劣化のため層が剥がれることがまれにある。修理は、剥がれたわずかなスキマに接着剤を丹念に塗り込み、クランプで圧着する。その際、剥がれの状態によって、木工用ボンドを使うか、エボキシ系の接着剤にするか、あるいは瞬間接着剤にするかを判断するのだが、これがなかなかむずかしい。層が剥がれたボディー内部の状態がどうなっているのかわからないから、最終的には一か八かの選択を迫られる。ホームセンターの接着剤コーナーをウロウロ歩き回り、どれにしようかと悩みに悩む。しかし、これもまた楽しいひとときなのだ。
 器用なドラマーのなかには、ボディーのエッジ角度やスナッピーのえぐり底(スネア・ベッド)を削り直して、好みの音に微調整する人もいる。一般に、エッジの角度が鋭くなるにつれて反応がいい鋭角な音になり、反対に鈍角の丸いエッジになるにつれて、反応は鈍いが、ドシッとした太い音になる。しかし、望みどおりの音になるかどうかは、やってみなければわからない。だからこそ、うまくいったときの喜びは大きいのだ。
 塗装を楽しむ人も少なくない。ボディーの塗装の剥がれた部分に、同じ色の塗料を探してきてきれいに塗り直し、表面を磨き上げ、ニンマリしている人もいる。これは、愛車のキズをていねいに修理するカー・マニアの姿と重なり合う。
「色に飽きた」と言って、ボディーのカバーリングを張り替える人もいる。もともと張られているセルロイドや塩化ビニールのカバーリングをきれいに剥がし、新しいのに張り替えるのだが、前もってボディーに取り付けられている金属パーツをすべて取り外さなければならないから、けっこう大変な作業になる。
 それで思い出したが、ボディーから取り外した部品(ラグの類)をネジ留めするときは、決して強く締めてはいけない。スプリング・ワッシャーがつぶれたところから、ほんの少し締める程度でいい。演奏中、緩まないようにと、力まかせにギュッと締めると、ネジ山を破損させるだけでなく、音の響きを損ねてしまうことになる。なんと、鳴らなくなってしまうのだ。こういったことは、補修のプロなら周知の事実だが、一般にはほとんど知られていない。
 さて、ネジを壊したり、なくしたりしたら、どうするか。最近の製品なら、楽器店で手軽に入手できるが、ヴィンテージ・ドラムのネジだと、まず店にも用意がない。取り寄せもできない。そこで「ネジ屋」を探し歩くのだが、小さなインチ・ネジやナットはどこにでもあるものではない。筆者の経験では、秋葉原のイリベ螺子店の在庫がとにかく豊富だ。こんなネジはないだろうなというものまで、ちゃんともっている。先日も、「ユニファイ仕様の細目(さいめ)インチ・ネジ」でお世話になった。たった数個のネジでも、いやな顔もせず親切に対応してくれる。秋葉原ならではの、品揃えがいい、ありがたい店である。
 本書の巻末にはみなさんに紹介しておきたいロックとジャズのドラマーを掲載したが、日本人ドラマーを紹介しなかったのは残念だ。とりわけ1970年代は、ロック畑もジャズ畑も個性的な活動をし、あとに続く者に道を切り開いてくれたドラマーが多かった。そういったすぐれた先達の業績を正当に評価し、その名を活字に残しておくのは、あとに続く私たちの責任だと思っている。
 とまぁ、話は尽きないが、キリがないので、このへんでやめておく。あとは、ぜひ本編でお楽しみください。

トランペットを心から楽しむために ――『まるごとトランペットの本』を書いて

荻原 明

「クラシック音楽家」。それは、生まれたときから楽器がおもちゃで、物心がつくころには何時間も練習させられて、レッスンが怖い嫌い行きたくないと泣いても毎週のように連れていかれ、気がつけば音楽大学に通い、そしていつの間にかプロとして活動している人たち……。そんなふうに思われているかもしれません。
 確かに、これに近い人生を歩んできた音楽家も少なからずいると思います。しかしそれらの多くは、ヴァイオリンなどの弦楽器やピアノの世界の話であって、トランペットやトロンボーン、クラリネット、サクソフォン、打楽器などの管・打楽器系の音楽家のほとんどは、まったく別の道から音楽の世界へ足を踏み入れています。別の道、それは小・中学校の吹奏楽部です。
 私も中学校の吹奏楽部にひょんなことから入部し、第1希望だったアルトサックスは希望者が多数のためにかなわず、しかたなくトランペットを始めました。それまでは音楽とは無縁の生活でしたから、恥ずかしながら1年以上楽譜が読めないまま、ごまかしごまかし演奏していたくらいです。きっと多くのプロ管楽器奏者も(私ほどひどくはないでしょうが)、「吹奏楽、楽しそうだな。やってみようかな」と、はじめは気楽な動機だったと思います。
 このように、だいぶ異なる音楽人生を歩んできた弦楽器奏者と管楽器奏者。さまざまな違いはありますが、なかでも決定的なもの、それは「最初の教わり方」です。
 例えば、ヴァイオリンはまず、楽器の構え方だけでも相当な時間をかけ、それができるようになると、次は弓の持ち方と動かし方(ボーイング)についてみっちりと教わります。習っている子が飽きてしまおうがなんだろうが、そこは妥協しません。なぜなら、楽器の構え方と弓の使い方がきちんとできない人は、演奏上さまざまな支障が生じてしまい、その後どんなに練習しても一流のプロになることは難しいからです。
 一方、管楽器はというと、吹奏楽部はとにかく時間がありません。放課後の短い時間を使って活動しているにもかかわらず、吹奏楽コンクールや学校行事の演奏など、年間を通して演奏する機会がけっこうあります。そんな状況ですから、吹奏楽部では音の出し方などのいわゆる基礎について教わる時間が非常に少なく、そして雑です。例えば私の場合、「唇を横に思い切り引っ張って強く息を出せば、ブーーッて出るから!」。ほぼこれだけ(しかも間違った吹き方なのでまねしないでください)。
 ほかの人もここまで雑に教わったかはわかりませんが、最初の教わり方が決していいとはいえない状況で練習を始めてしまった結果、吹奏楽部には「とりあえず吹ける人」が大量生産されてしまいます。とりあえず吹ける人は、とりあえず楽譜に書いてあることがそれっぽく吹けるので、どんどんみんな合奏に参加させられますが、案の定、すぐさま壁にぶつかります。なかでもトランペットは主旋律やソロを吹く機会が多く、とても目立つポジションなので、先生から「もっときれいな音色で!」「なんで高い音が出ない!」「バテるな! 最後まで吹き通せ!」と厳しい指摘を受けることが多いのです。しかし、とりあえず吹ける人たちは、どうすればいいのかよくわかりません。そこで、解決策を求めて本や雑誌、さらには、いまではインターネットでも調べてみると、待ってましたといわんばかりにまちかまえている膨大な量の情報やアドバイス、解決方法に出合います。なかには正しい奏法とは真逆の行為を推奨していたりと、真偽が定かではない大量の情報に何が正しいのか見当がつかなくなり、その結果、トランペットを吹くことはとても難しいと思ってしまったり、正しい奏法を追い求めすぎて、それが最終目標になってしまう人が増えてしまうように感じます。楽器は音楽をするうえでの手段でしかないのに、その楽器の扱いに翻弄されてしまうようでは、心から音楽を楽しめません。
 そもそも、トランペットから音を出すのはそこまで難しいことではありません。音の出る原理なんてとてもシンプルなもので、ややこしくしているのは情報を発信している人たちではないでしょうか。
「奏法のことばかりにとらわれないで、もっと楽しくトランペットを吹いてもらいたい」、そうした思いから書き始めたのが「ラッパの吹き方」(http://trp-presto.jugem.jp/)というブログでした。毎週毎週こりずに更新を続けているうちに、おかげさまでいまではたくさんの人に読んでもらえるになり、そして念願の単行本を刊行できました。うれしいかぎりです。
 本書は、奏法について混乱してしまった人にとっては解決の糸口に、これからトランペットを始める人には最初でつまずかないように、そしてたくさんの人が、いつまでもトランペットを楽しく演奏できるように、そんな気持ちで書きました。
 本書を読んでくださった人に、いままで以上にトランペットに親しみを感じ、そして、演奏すること音楽をすることの楽しさを実感してもらえたら幸いです。

人の手から手へ渡すためのクリニーングと補修――『古本屋になろう!』を書いて

澄田喜広

 本書で紹介できなかったクリーニング・補修方法ついて書きます。

 本のクリーニングをするには、本の構造をよく知っている必要があります。
 まず、本には本体と付属品があります。カバーや帯、函(はこ)などは付属品です。付属品については、状態以前の条件として、ある/なしが問題です。しかし、ないものについてはもともとあったのかどうかわかりません。もちろん、すべての本について知っているにはこしたことはありませんが、それは無理なので一般的な知識で補います。具体的な知識については本書をお読みください。
 次に、本の各部分の名称を覚えましょう。そうすれば、その部分ごとに本を見ることができるので、汚れを見つけやすくなります。

カバー
天、小口、地
表紙、裏表紙、背表紙
のど、みみ
チリ
はなぎれ
見返し
遊び紙

 カバーをクリーニングするときは、本体からはずしてしまうよりも本体にかけたままのほうがやりやすいことが多いのですが、カバーの裏側が汚れていたりすることもあるので、必ず一度ははずして見ましょう。その際、本体の背表紙や裏表紙不具合がないか見ます。
 本体の鉛筆による書込は消しゴムで消しますが、消しゴムは本の内側から外側へ一方向にだけ動かします。前後に動かすと紙にしわが寄ることがあります。また、紙の目はページに対して縦に通っています。その目に逆らって消しゴムをかけると、紙が毛羽立つので慎重にやってください。なお、消しゴムのカスはブラシで払ってください。のどに入った場合は書道の毛筆で取ってください。
 ページの端が折れてしまっていることがあります。爪で直そうとすると紙にしわが寄ります。油絵用のヘラなどで慎重に起こしてください。
 本体と表紙をつなぐ部分が緩んで取れそうになっているときには、フィルムプラストで補修するより、パラフィン紙をかけて現状維持するほうがいいでしょう。
 スピン(しおりの紐)がある場合には下に垂らさず、折り曲げて端をページのなかに収めます。棚に並べたとき、紐がはみ出していると非常に見苦しくなります。
 とくに注意すべきところは、カバーの背表紙部分とチリ部分です。
 まず、天を見てほこりがある場合はブラシで取り除きます。次に本を開いて本文を見ます。書き込みがひどかったり、破れてページが失われているものは、商品にならないので、この時点で処分します。
 本文が大丈夫なら、本格的にクリーニングに入ります。まず、カバーのチリ部分を見ます。たいてい縁取りしたように汚れていますので、固く絞った雑巾で拭き取ります。次に、背表紙と表紙をきれいにしましょう。とくに背表紙は、本棚に並べたときに最初に目に付く部分です。一点のくもりもないように磨きましょう。
 水だけでとれない場合は、洗剤を染み込ませた布で拭きます。ただし、ビニールコートされているカバーだけです。洗剤は台所用、ガラス拭き用などが適しています。溶剤を用いることもあります。ベンジンやエーゼット社の雷神を当店では使っています。
 油性マジックの記名などは、消しゴムで取ります。
 万年筆や蛍光ペンのインクは塩素系の漂白剤で消えますが、消し跡が残ります。漂白剤はしばらくしてから効くので、つけすぎに注意。
 ビニールコートされていない場合には、きれいな消しゴムでこすると汚れが取れることがあります。汚い消しゴムを使うと、かえって汚れがついてしまいます。
 見返しに蔵印などがある場合は、砂消しゴムでこするか、またはセロテープを何度も貼ってはがすと、紙の表面が削れて消えます。
 カバー、帯、本文のヤブレはペーパーエイドで直します。セロテープは決して使わないでください。あとで大変なことになります。
 いずれ傷みそうな部分はパラフィン紙で補強します。

 最後に古本屋の補修は、本を作り直すことや、出版時の状態を復元することではなく、「現状を維持すること」であるべきです。とくにコレクション対象の本では、新たに作ったり、復元したりすることは嘘につながります。人の手から手へ渡ってきた現在の状態を肯定して、そのまま次の所有者の手へと渡していくのがいいでしょう。

空論・謬見を正す20年間の調査の成果――『ロバート・キャパの謎――『崩れ落ちる兵士』の真実を追う』を書いて

吉岡栄二郎

 いつかロバート・キャパの『崩れ落ちる兵士』についての真相を書かなければならない、と思っていた。
 無鉄砲な20歳代に進めていた5,000メートル級の山登りと、熱砂のタクラマカンの砂漠を渡って遺跡を調査するという探検家のような生活からも足を洗い、30代になるとある美術館から新たな写真部門を構築するというプロジェクトを任されることになった。この写真史コレクション収集のひとつとして集めたのが「ロバート・キャパ・コレクション」だった。
 キャパの作品は弟のコーネル・キャパが管理していたために市場に出ることはほとんどなかった。そんななか、第2次世界大戦当時にキャパが撮影して通信社に送って新聞に掲載された写真が、偶然にオークションで高値で売買されることがあった。例えば、代表作「Dデー」などは100万円が相場とされるほど高価だった。
 美術館は収集したキャパの作品を構成し20回以上の「キャパ展」をおこなった。最初におこなった東京・日本橋の三越美術館では、鑑賞者が7階の会場から各階の階段つたいに列をなし、最後尾は地下1階の地下鉄の改札口という盛況だった。
「キャパ展」の場合、入場者数の合計はおよそ5万人と予想していた。この人数は大きな野球場のドームがいっぱいになるほどだが、ドーム球場で見る満員の客と同じくらいの数の人たちが展覧会場に来ていただいていたのかと思うと、感慨深いものがあった。2000年の「ロバート・キャパ賞展」は全国11会場で開催したが、その際の入場者数は55万人に達した。それよりも、このときは世界中に散っている受賞写真家と連絡をとって作品を集めるのが至難だった。特にアフリカ国内で内戦が多く、シェラレオーネ、ナイジェリアの紛争地帯の最前線と電話とメールまたは電報で連絡をとるという作業を24時間続けた。シェラレオーネで取材を続ける女性報道カメラマンから「電話がある次の村には3日後に着くから」という連絡が入っていた、というような悪条件だった。
 そんななか、2013年に横浜美術館ではロバート・キャパ生誕100年を記念する「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー二人の写真家」展(主催:横浜美術館・朝日新聞社)が始まった。それに合わせて月刊「文藝春秋」2013年新年特別号(文藝春秋)誌上では作家の沢木耕太郎氏が「キャパの十字架」と題して300枚以上の原稿でロバート・キャパに対する新たな推理を発表した。
「ここに1枚の写真がある」から始まる本文の中心課題は、「『崩れ落ちる兵士』は、撃たれてもいない、死んでもいない――。1人の兵士が足を滑らせて転んだ瞬間だ。それはゲルダ・タローによって写された」という結論を述べていたことだ。以前から沢木氏は「キャパの『崩れ落ちる兵士』は演出されたものではないだろうか」という意見を論じていた。
 しかし、今回は「その兵士は滑って転んだ一瞬の写真だった」という空想好きな少年が描くような驚くべき推論を展開していた。この考えはNHKの特別番組『NHKスぺシャル』でも放送され、非常に多くの反響を呼んだ。その多くは「近頃にない、とてもおもしろい番組だった」という声だった。しかし、そこには、「キャパの作品は“ヤラセ”だった」「“盗作”だった」としか伝わらないこと、それによってキャパの全人格、作品までもが全否定されるという危険性を孕んでいた。
 ここで、私にできることは沢木氏の立論を作られた話として全く無視するか、徹底的に間違いを指摘するかのいずれかだった。しかし私は、この機会に、20年間にわたって考えてきた『崩れ落ちる兵士』の真相を書き起こすことを決めた。
 スペイン、ニューヨーク、パリへは普段の美術館の調査で出かけていたことから基礎的な情報は得ることができた。だが、海外の研究者によるキャパの研究はこの間にも相当な勢いで進み、新たな資料の収集に手間がかかった。本書の最終校正の段階でドイツから入手した資料によって、ゲルダ・タローが使っていたカメラはそれまでローライ・フレックスと思われていたものが、実は同時代のレフレックス・コレレというカメラだったことがわかったこともそのひとつだ。このため、本文中に「ローライ・フレックス」と表示していた十数カ所を書き換えるという作業も冷や汗をかきながらおこなった。
 もうひとつ、『崩れ落ちる兵士』を理解するためには、この写真が撮られた1930年代という時代が、現在のような客観的な報道という姿が作られる前の20世紀初頭のジャーナリズムの形だったということを理解しておかなければならない。つまり、この時期の記者とカメラマンの多くは、自分が支援するイデオロギー、党派に属するメディアの新聞・雑誌のために活動していたのである。それは、大きな2つの世界大戦の狭間で生き抜くためには当然のことだった。キャパが描き出した『崩れ落ちる兵士』はその最たるものだった。ユダヤ人を死に追い詰めるファシスト、アドルフ・ヒトラーの悪を国際的に知らしめる必要があったからだ。
 この時代背景をこそ、本書の読者は理解して読んでいただきたい。

「当事者」が書いたファン文化論――『台湾ジャニーズファン研究』を書いて

陳怡禎

 このたび青弓社から『台湾ジャニーズファン研究』を出版する機会をいただいた。初めて編集の方から本書のお話がきたのは2011年秋ごろだったから、3年前になる。当時新卒で日本の会社に就職し、すでに日本の社会文化への勉強にすべての精神力を尽くしていた私は、多忙を言い訳に執筆のことを先延ばしにしていたが、12年冬に学校に戻り、約1年間をかけてようやく刊行できた。「あとがき」でも書いたように、本当にたくさんの方のご協力・ご指導をいただいている。改めてお世話になったみなさまに感謝する。また、本書を上梓して約1カ月、ありがたいことに多くの方から反響や質問をいただいている。この場をお借りして私の考えを改めて述べようと思う。
「なぜ台湾のジャニーズファンを研究しようと思うの?」「ジャニーズが好きなの?」。こういった質問がいまでも苦手である。だが、修士論文にこのテーマを選んでから、インフォーマントを含めてたくさんの方によく尋ねられる。なぜ簡単に答えられないのかというと、私は「30代の台湾のジャニーズファン」だからである。言い換えれば、私は当事者の立場から台湾のジャニーズファンを研究している。私は台湾の政治大学のジャーナリズム学部出身で、冷静かつ客観的に物事を伝えなければならないと教わってきたので、当事者と研究者という二重の身分を持つため研究に盲点があるかどうか、常に不安である。だが一方、「ファン仲間である」という当事者の立場でジャニーズファンにインタビューした際に、なんとなく話がうまく進められる。なぜなら、ジャニーズファンのコミュニティーは、わかりやすそうに見えるが、実は複雑であり、「人間関係」が重視されるからである。ファンの間には暗黙のルールもあれば、外部の人間ではわからない「雰囲気」もある。さらに言うと、ジャニーズファンたちはファン同士の関係性を大事にしているために、外部からの割り込みを許せない、といっても過言ではないだろう。そのため、最初からジャニーズファンのコミュニティーを観察するという「研究者」の姿勢をとるよりも、台湾のファンコミュニティーがおこなうファン活動に参加して「当事者」目線でインフォーマントを考察し、本書を書き上げた。だから、多くの方々から、本書は「当事者ならではのファン文化論」と評価していただいたのだが、私自身もこのように本書を位置づけたい。
 また、「なぜ台湾のジャニーズファンが友情ものを重視しているのか」という質問を多くいただいている。本書は、台湾のジャニーズファンたちが、アイドルの関係性を媒介として「友情」の理想像を浮上させることを考察した。しかし、なぜほかの感情ではなく、同性同士の「仲がいい関係性=友情」なのか。筆者は以下2点の理由があると考えている。
 1つは、台湾社会は仲のよい優しい社会を目指し、さらにこのような欲求の影響も、女性ジャニーズファンが構築している小さな社会に至るからだと考えられる。言い換えれば、機能(利益)面でも精神面でも、台湾社会では「優しい連帯」が求められている。例えば抗議やデモ活動などの社会運動でも、「警察と仲良くしよう」「お互いに尊重しよう」という呼びかけが多い一方、「闘争」「けんか」「暴力」などのマイナスな性格は台湾の民衆に批判される(最も顕著な例は、2014年3月に起こった「ひまわり学運」と名付けられた学生運動である)。台湾社会では、直接的対立や競争より、どの場合でも円滑な関係性が求められる。このような価値観もファンコミュニティーという小さな社会空間にそのまま再現されると考えられる。
 2つ目の理由は、女性同性同士の友情は現在の台湾社会、さらにアジア社会ではいまだに不可視な存在であるため、彼女たちは男性同士の関係性をモデルとして、女性同士の関係性に再現しようとするしかないからである。この点については本書でも詳しく論じたが、台湾女性の教育、就業、参政率など様々な社会参加率はアジアのなかでは優れているほうである(だが、このような優劣基準は最初から男性が支配する社会構造のもとに評価されているだろう)。しかしながら、教養や経済面で恵まれているといっても、台湾女性は、常に男性が主体とする台湾社会の下で自らの居場所を探っているうえに、女性が主体とし、女性同士だけの関係性が構築される社会空間は、台湾社会では稀な存在である 。その現状の下に、台湾のファンたちは、「ジャニーズアイドル」という趣味をきっかけに、女性を主体とするコミュニティーを構築していた。こういった文化的領域の内部に、彼女たちは仕事や家庭での役割から解き放たれ、新たな女性主体の「社会」を能動的に構築しているが、この小さな社会のなか、彼女たちは、 いままで経験したことがない同性同士の(辻泉さんがいう)「関係性の快楽」を享受しながら、理想な関係性のかたちをどのように構築するかを模索している。そのとき、彼女たちの目に入ったのは、同じく同性同士だけ構築しているジャニーズアイドルの関係性だろう。さらに、彼女たちがジャニーズアイドルに読み取る関係性のフレームに、台湾社会共通の「優しい連帯」という価値観のフレームを重ね合わせ、自ら女性同士の「仲がいい関係性=友情」のフレームを形づくると考えられる。また、こういったかたちで女性ファンに重視される、同性同士の「仲がいい関係性=友情」の価値の上昇は、台湾社会に重視される「優しい連帯」の参照枠組みの一つになるのではないかと考えられる。