私たちの出発点――『クラシック音楽と女性たち』を書いて

玉川裕子

『クラシック音楽と女性たち』を上梓してから、1カ月半あまりが過ぎた。「あとがき」にも書いたことだが、この本が誕生したそもそものきっかけは、執筆者全員が会員である、女性と音楽研究フォーラムが2013年に結成20周年を迎えたことだった。
 同フォーラムでは、これまで会員の研究発表や講師を招いての研究会を中心に、女性作曲家の作品による種々のコンサートを開催してきた。詳細についてはフォーラムのウェブサイト(http://www.ac.auone-net.jp/~women/)を参照していただきたいが、ほかの企画への協力なども含めると、20年の間に開いたコンサートは、レクチャーコンサートなども含めて15回前後にのぼる。それに対して出版活動は、アメリカの音楽学分野でのフェミニズム/ジェンダー研究の第一人者であるスーザン・マクレアリの『フェミニン・エンディング――音楽・ジェンダー・セクシュアリティ』の翻訳(新水社、1997年)1点にとどまる。ほかに、フォーラム創立から15年にわたって代表を務めた小林緑編著による『女性作曲家列伝』(〔平凡社選書〕、平凡社、1999年)があるが、同書には多くのフォーラム会員が執筆しているとはいえ、出版自体はフォーラムとしての事業ではなかった。
 こうしたなか、発足20年を機に、これまで私たちが考えてきたことを改めて世に問うような書籍を出版したいという声が起こった。2012年初秋のことである。もちろん、出版事情が厳しい状況にあることは承知していた。それでも怖いもの知らずのメンバーの声に押されて出版社探しを始めると、なんと引き受けてくださる出版社が見つかったのである。それが青弓社だった。対応してくださった編集の矢野未知生氏は、男性大作曲家のミューズとしての女性をテーマとする書籍はちらほら見かけるにしても、クラシック音楽での女性そのものの活動を正面から取り上げた書籍はこれまでにほとんどないのでぜひ作りましょう、とおっしゃってくださった。それから足かけ4年、本書はついに日の目を見たが、辛抱強く私たちの作業を見守ってくださった矢野さんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。
 ところで、女性と音楽研究フォーラムの会員は、なぜ入会したのだろうか。演奏家から教育者、研究者まで、多方面の職業に携わる個々のメンバーの入会の動機はさまざまである。なかでもいちばん多いのは、女性作曲家と彼女たちの作品に引かれたという理由だろう。クラシック音楽というと男性の作曲家しか存在しないようなイメージがあるが、あるきっかけで女性作曲家もあまた存在したことを知って、これまで彼女たちとその作品が知られていなかった理由を考えながら、できるだけ多くの人に、できるだけ多くの女性作曲家とその作品を紹介したいと考えている会員。あるいは、ある特定の女性作曲家の曲と出合って魅了され、その作品を紹介していきたいと考えている会員。また、作曲家や音楽作品とは違うルートで、女性と音楽の関わりに関心を抱いた会員もいる。たとえば、近代日本での自らの体験や、学術テーマとして家庭教育を考えるなかで、音楽が女性の嗜みとされていた事情に関心を抱いた研究者など。
 編著者である私自身についていえば、個人的体験が出発点になっている。1960年代前半のある日、我が家にアップライトピアノがやってきた。「ピアノやる?」と母にきかれた記憶はない。高度経済成長が始まった時期に、典型的な都市中産階級の家庭で育った娘は、ピアノをやるのが当たり前だった。やるからには徹底的にと考える母のもと、優等生の娘は15年後に音楽大学に入学した。しかしこの頃から従順だった娘は考え始める。なぜ、私はピアノをやっているのだろう? しかも、日本という文化圏で筝や三味線ではなく、西洋音楽を。答えを出す前に音大を卒業。私たちを迎えたのはバラ色の未来ではなく、どうやって食べていくかという問題だった。近代社会で女の子がピアノを習うのは自立のためではないらしいということに気づいた私は、そのほかさまざまな偶然の出会いもあって、この問題を胸に抱きながら研究の道に入っていくことになった。
 当時の私を知る友人の一人が、本書の感想をさっそく送ってくれた。そのなかで、私が30年前と同じテーマを相も変わらず扱っていることに半ばあきれながら(たぶん)、状況が大きく変わっていることもあわせて指摘してくれた。ピアノ教師をしている彼女によると、カルチャーセンターでもピアノ教室は閑古鳥が鳴き、わずかな生徒も年配の方が多いとのこと。そのうちの女性は、働いている母親にかわって孫の面倒をみなければならず、練習時間をとるのに苦労しているとも書かれていた。また70代の男性が『乙女の祈り』を弾きたいと、練習してレッスンにもってきたこともあったという。
 状況は変わった。しかし、いったいどういう方向に向かっているのだろう。よりよい方向に向かっているのだろうか。音楽と関わる道はさまざまなのだから、ピアノを習う子どもが少なくなったことを嘆くのはお門違いだろう。昔、私の世代の女の子たち(と少数の男の子たち)が、いやいやながらピアノを弾かされ、(クラシック)音楽嫌いになるケースが続出していたことを思えば、現代の子どもたちがピアノのレッスンを強要されないのは、むしろ歓迎すべきことだろう。年配の方たちも、好きな曲を楽しんで弾く自由がある。巷には音楽があふれ、その気になれば古今東西のさまざまな音楽にアクセスすることができる。なによりも、多くの女性音楽家たちが活躍しているではないか。
 でもはたして、女性たちは、そして男性たちも、過去3世紀に比べて、より自由に音楽と関わっているのだろうか。もし自由だとして、この自由な音楽との関わりは、すべての人に開かれているのだろうか。2015年に世界で起こった出来事を見るにつけ、音楽によって人種や宗教やジェンダーの垣根が揺さぶられて取り払われ、憎悪を乗り越え、誰もがより豊かな生を謳歌する可能性が開ける、と信じるほど私たちは無邪気ではいられない。そうであればこそ、少なくとも音楽との関わりが差別や他者の排除に加担するような結果にならないよう、注意深く考えていく必要はありそうだ。女性と音楽との関わりを切り口に過去の音楽の営みを振り返ることは、その小さな一歩である。私たちは新たな出発点に立っている。

(2015年12月29日執筆)

 

赤い楳図、黒い楳図、白い楳図――『楳図かずお論――マンガ表現と想像力の恐怖』を書いて

高橋明彦

 2015年が終わろうとしている。今年は全般的にろくでもない年だったように思うが、私にとっては楳図かずおデビュー60周年に間に合って、デビュー作『森の兄妹』刊行日の6月25日に合わせて本書を発表できたという意味でだけ、いい年だった。難産だったこの本は、私も一時期は、出てくれるだけでもう十分、誰も読んでくれなくたっていいよとさえ思っていたのだが、そうした悲しい予感に反して、それなりに好評をもって迎えられ、たいへんありがたいことだと感じている。まず、楳図先生からは拙宅宛てにお花を贈っていただいた。また、書評としては、松田有泉(「サンデー毎日」〔毎日新聞出版〕)、トミヤマユキコ(「図書新聞」)、武田徹(「朝日新聞」)、飯倉洋一(「西日本新聞」)、栗原裕一郎(「週刊読書人」)、風間誠史(「北陸古典研究」〔北陸古典研究会〕)の各氏に書いていただくことができて、望外の幸せとはこのことである。ネットで評してくださった方々も含めて、あらためてお礼を申し上げたい。なお、これらの文章は私の個人サイト(「半魚文庫」〔http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/〕)からリンクを張ってあって、すべて読めるようにした。拙著がどれほどすばらしい本なのかは、これらの書評を読んでくれると、それはもう非常によくわかるようになっているのだ。
 冗談はおくとしても、そうすると今度は私自身が自著を評する番かな、とも思う。という次第で、いろいろ書きたい気もするが、いまは次の3点を記しておこう。
 1つ目は、楳図理解に関する私のもくろみについてである。もくろみとはもちろん、これまでの楳図観の更新にある。神田昇和さんによる(感謝!)特徴的 Characteristic(キャラの立った)な装丁の配色になぞらえるなら、楳図には、赤・黒・白の3つの様相がある。赤い楳図とは、テレビやイベントで見せる楽しく愉快な姿であり、「グワシ!」の楳図かずおである(なお、グワシは物をつかむときの擬音を旧仮名遣いで表記したもので、楳図氏本人は「ガシ!」と発音している。楳図マメ知識)。ふだんの氏はハイテンションなわけではなく、あれはあくまでサービス精神旺盛ゆえの一様相なのだ。黒い楳図とは、残酷で陰惨な猟奇趣味の楳図かずおである。『赤んぼ少女』のタマミは、差別され怖がられ憎まれ、そして死んでいった。しかしそこに感じられる憐憫には、甘美な陶酔への誘惑がないだろうか。美にこだわり醜さを恐れ、その間に停滞し沈殿し、汚辱にまみれたわが憐れさに自己陶酔するような、倒錯的な世界である。自分は理想を捨てた下劣で汚れたケモノにすぎないのだ(ちょうどいま日本が罹患している悪性感冒の闇・病みのように)。この黒い楳図を一言で表している楳図自身による言葉が「人など好きになったから、おまえ今日からへび少女」である。知は絶望するためにはたらいている。
 白い楳図とは、理知的かつ倫理的で、知的洞察ゆえに絶望を抱きつつも、その果てに希望を見いだそうとする、求道者であり預言者としての楳図かずおである。
 赤・黒・白の3つの様相は、互いに混じり合い中和されることなく、対立しつつ共存している。さて、私の『楳図かずお論』は、この白い楳図を強調したものである。つまり本書の楳図理解には多少の偏りがある。それは、これまで赤い楳図がデフォルトで、それは決して間違いではないが、あまりに浅い表面的な理解であったし、それに対して楳図に黒さを見いだすことこそが楳図理解だったような面があった、と私は感じてきたからだ。本書はそうした傾向に対する抵抗であり、状況に応じた戦略をとるものであり、実際私は本書で『洗礼』も『赤んぼ少女』も『神の左手悪魔の右手』も、黒ではなく、白い物語として読解したのである。
 なお、白い楳図の具体像は、認識論から存在論へと遷移した恐怖として、一般化することができる。認識論的恐怖を一言で表している楳図の言葉が「追っかければギャグ、追っかけられれば恐怖」であり、存在論的なそれを表す言葉が「宇宙ではどんな想像も許される」であるが、これらの詳細については本書でるる述べている。念のため簡単に繰り返すなら、前者は立ち位置によって対象の意味が変化する遠近法主義 perspectivism である。後者は、この世界が存在する必然性はどこにもなかったかもしれないという、偶然的な可能性がもつ恐怖である。ただしこの恐怖は、「可能性が可能性のままでいられるありかた」(九鬼周造)をいうものであり、人間の自由の源泉でもあるのだ。
 2つ目に移ろう。本書において私は自身の文学論(芸術論)を再編成した。楳図論を書きつづってきたこの10年は、私が若い頃から信奉してきた記号学・テクスト理論・脱構築を捨て去るプロセスだった、ともいえる。サバラ!わが青春よ。
 たしかに記号学とテクスト理論が主張したように、超越論的シニフィエ(作品の絶対的意味)は不在であり、意味は未決定である。しかし、いつもどんなときも作品の意味は未決定なのか。私がかくかくしかじかのものとしてこの作品を読むということは、まったくなんらの根拠をもたない空疎で偶然的な暗闇の飛躍でしかないのか。そうではない、と言いたい様々な理論がありうるだろうが、私は本書において、アンリ・ベルクソンの身体論やジル・ドゥルーズのイデア論を利用してこれを述べている。まず、ベルクソンに依拠した、機械論と目的論とをともに超える「ゆるやかな目的論」については、索引を頼りに本書で探してお読みいただければ幸いである。読解は、ああも読めるこうも読めるという単なる知的ゲーム(脱構築)ではなく、それなくしては私が私として生きていけないような、一つの行動性である。それはある種の反知性主義であり(2015年に流行したそれとは違う意味です)、認識(テオリア)に対して行動(プラクティス)を駆動させるものである。
 ドゥルーズについては、本書では個体化の問題(虚構と現実の関係の再編成として)、シーニュの習得論(ベルクソンの知覚との比定において)、モナド解釈(可能世界論批判として)などではふれたが、イデア論については書ききれなかったので、備忘のために記しておこう。元祖たるプラトンのイデア論は本質分有説と呼ぶべきもので、まずイデアの何たるかはあらかじめ決まっている。その本質=正解たるイデアに対して、個々の実在はそれぞれの出来不出来が分有率のごとくに点数化され、序列づけられた存在である。反哲学や脱構築はイデアの完全なる否定を目指したものであろうが、ドゥルーズのイデア論は完全な否定ではなく、問題解決説と呼ぶべき、転倒的なある種の肯定である。イデアとは純然たる問題であって、個々の実在は問いに対する解として、自らを自らが置かれた状況に応じて解として、肯定しうる存在である。出来不出来はさておき、自分はこの状況に応じたあり方で生きているのだ。例えば、美というイデアを体現しているような完璧な美術作品がこの世にすでに存在していたとしても、それでも私にもまだ新たな作品を作る権利があるのは、このドゥルーズ的なイデア論を認めているからである。
 さて、ドゥルーズは、プラトンに加えてイマヌエル・カントも批判しているが、実はカントもまた反プラトン的であって、ドゥルーズに近いらしい。柄谷行人は、カントのイデア(理念)論が構成的理念と統整的理念とに区別されていることを重視している(柄谷行人『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』〔〔岩波新書〕、岩波書店、2006年〕など)。構成的(constitutive)が本質分有的であるのに対して、統整的(regulative)とは、正解は決まっていないが、解を引き出すための目標のようなものだという。言い方を換えればそれは問題解決的である。少し話は飛ぶが、丸山真男に「「である」ことと「する」こと」という有名な論文がある(丸山真男『日本の思想』〔岩波新書〕、岩波書店、1961年)。これもおそらく系譜的にはカントの子孫であり、ドゥルーズや柄谷の兄であろう。デアルは構成的であり、スルが統整的なのだ。丸山には「憲法第9条をめぐる若干の考察」(丸山真男『後衛の位置から――『現代政治の思想と行動』追補』未来社、1982年)という論文があって、今年読んでみて感銘を受けたが、ここでも同じ構えが生かされている。9条は戦争を放棄したデアルの状態を宣言するものでなく、また平和の柵を設置して権力を制限させるものでもなく(それは静的消極的だとしてさほど評価していない)、政策決定を平和へと方向づけスルのだといっている(ただし、丸山は実効的 operative という言葉を使っている)。9条第2項と現実の自衛隊や国家間紛争の存在とは決して矛盾せず、9条が有する動的積極的な実効性は現実の矛盾を超えてなしうる平和運動としてはたらく、というのである。
 いい思想には、モダンもポストモダンもないのだろう。丸山には「現代における態度決定」(『新装版 現代政治の思想と行動』未来社、2006年)というエッセーもある。真理を求める無限プロセスであるところのテオリア(認識)をあきらめ断ち切るときにはじめて行動が可能になるといっているのだが、読解もまた、ああも読めるこうも読めるという知的ゲームではなく、その作品が私の状況にとって、あなたの状況にとって、どんな有効性をもつかということにだけ意味があるのだ。
 3つ目である。本書では『14歳』を具体的に論じることがなかった。いま、私は自分の授業で『14歳』を4年かけて講義している。来年は3年目だが、そう遠くないうちに、私の楳図研究第2弾として『14歳』論を完成させ、出版しようと考えている。分量は手軽な新書程度がいいなあ。タイトルはもう決まっている。「楳図かずおの生命思想――『14歳』を読む」。『14歳』は楳図の現在最後のマンガ作品でSF超大作である。日本の首相や世界の首脳会議を描いて、そしてバイオテクノロジーやメディア戦略、暴力とテロル、貧困と奴隷制、エネルギーと環境問題を描いて、きわめて今日的であり、今年的な作品である。人間的尺度を超えて、そこには生命全体への、愚直なまでの愛がある。それは、恐怖と背中合わせの自由と希望である。
 甘美な絶望をとりあえず拒否して、白い楳図を見習いたいと思う。とはいえ、年内にこの原稿を矢野未知生氏(本書を刊行にまで導いてくれた)に送ることが、いまの私がなしうるせめてもの誠意でしかない。2016年はもっとひどいことが起きるかもしれないが、未来に希望をつかむとき、元気な赤い楳図が再び復活するだろう。グワシ!

(2015年12月25日執筆)

 

軍隊らしからぬ軍隊の魅力――『軍隊とスポーツの近代』を書いて

高嶋 航

 本書のもとになった論文は「菊と星と五輪――1920年代における日本陸海軍のスポーツ熱」(「京都大学文学部研究紀要」第52号、京都大学大学院文学研究科、2013年)と「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」(「京都大学文学部研究紀要」第53号、京都大学大学院文学研究科、2014年)である。いずれも京都大学の学術情報レポジトリ「KURENAI」(http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/)でダウンロードすることができる。両論文のアクセス数を見ると、「菊と星と五輪」が887件、「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」が1,253件(2015年8月24日現在)で、1年遅れて発表されたにもかかわらず「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」のほうが多い(これだけの人が本書を購入してくれれば、増刷間違いなしだが……)。これは著者にとってはやや意外な結果だった。というのも、著者には「菊と星と五輪」で扱った大正時代の軍隊のほうが興味深かったからである。これまで日本の軍隊にほとんど関心をもたなかった著者のような人間にとって、日本の軍隊といえば戦時中のそれをイメージするが、大正時代の軍隊はそのようなイメージを覆す、まるで軍隊らしくない軍隊だった。しかもその軍隊がスポーツ熱にとらわれていたというのだから、ますますもって軍隊らしからぬ軍隊だった。軍隊とスポーツの取り合わせがあまりに意外で新鮮だったので、著者本来の研究領域からかなり離れたテーマだったにもかかわらず、ずるずると引き寄せられていった。
 自信がない軍隊の姿は、戦後の自衛隊の姿と重なり合う。少なくとも、著者は、現在の自衛隊の姿から大正の軍隊を想像した(もっとも、ここ数年で自衛隊とそれを取り巻く状況には大きな変化があった)。大正の軍人も戦後の自衛隊員も、主流の男らしさから取り残された存在だった。そしてともに社会に門戸を開き(スポーツを通じた交流もその一環である)、社会の認知を得ることで、自信を取り戻そうとしたことも共通している。大正の軍隊と戦後の自衛隊の軟らかいイメージはこうした軍隊の姿勢に由来するのだろう。しかしながら、昭和の軍隊が大正の軍隊から生まれたのは紛れもない事実である。萌えキャラで隊員を募集している自衛隊が、今後硬いイメージに転換することもありえないことではないのである。
 大正の軍隊の軟らかいイメージとして紹介したいのが、『Our Army Life 1922』(編者、出版社、刊行年不明)である。

 これは姫路の歩兵第39連隊の大正11年度1年志願兵が作成した卒業アルバムである。本書171ページにも白黒写真を掲載しているが、ぜひカラーで見てもらいたいので、この場を借りて紹介しておく。この種の卒業アルバムはたくさん作られたが、これほどほのぼのとした表紙はほかに見たことがない。英語のタイトルもきわめて珍しい(ふつうは『陸軍士官学校予科第9期生卒業記念写真帖』とか『大正13年度志願兵4等水兵修業記念』とかである)。卒業アルバムは軍隊生活の実態を知るうえでたいへん有用な資料だが、残念なことにまとまったかたちで保存されていない。ぜひ、公共の図書館で収集・公開してほしい。
 ちなみに著者は『Our Army Life 1922』を2013年9月にオークションで手に入れた。ちょうど「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」の原稿を書いているときで、こまめにオークションをチェックしていたところ、「貴重 大正11年 歩兵第39連隊の写真帖 陣中勤務 休息」という商品が出品されたのを知った。陸軍で最初にスポーツを始めた39連隊、しかもちょうどスポーツを始めた時期のアルバム(欲をいえば、もう1年前のものがよかった)、これは手に入れるしかない。祈るような思いで、オークションが終わるのを待った。ほかに入札者はおらず、2,980円で落札した。実際に手にしたアルバムは予想以上にすばらしいもので、スポーツ連隊と呼ばれた39連隊の往時をしのぶことができた。海軍関係のアルバムが多いなか、陸軍、しかも著者が欲しいと思っていた時期・連隊のアルバムが出品されたのは、奇跡に近いように思われた。
『Our Army Life 1922』は著者にとって奇跡に近かったが、研究をやっていると、このような出合いはけっして少なくない。もう一つだけ紹介しておこう。子どもを連れて志摩スペイン村に行ったときのこと、久々に伊勢神宮でも行ってみようかという気を起こし、外宮に立ち寄った。おなかがすいたので、近くのウナギ料理店に入ったところ(いうまでもないが、ウナギが高騰する前のことである)、なんとそこは阪神タイガースの投手で、フィリピンで戦死した西村幸生の実家だった。なぜそれがわかったかといえば、「喜多や 御来店記念」と書かれた短冊が置いてあり、そこに西村のことが書かれていたからだ。ほかにも紹介したいお宝(がらくた?)はたくさんあるが、きりがないのでやめておこう。

 もちろん、最後まで出合いがないこともある。今回もっとも残念だったのは「軍隊のスポーツ化」という新聞記事が探し出せなかったことである。陸軍戸山学校でスポーツをいち早く取り込んだ加藤真一によれば、彼が大学の運動部関係者を集めて軍隊でスポーツを実施する打ち合わせをしたところ、新聞記者がそれをスクープしたため、永田鉄山に呼び出されたという。陸軍戸山学校のスポーツ導入の過程を解明するうえで重要な資料になるはずだが、結局見つけることができなかった。ご存じの方がいたら、ぜひ教えてほしい。

 

ボーイズラブは本当に楽しかった――『BLカルチャー論――ボーイズラブがわかる本』を書いて

西村マリ

 自分なりのBL論を書こう。私がそう決意したのは2007年の夏だった。早い話、「ユリイカ」の腐女子マンガ特集(「総特集 腐女子マンガ大系」「ユリイカ」2007年6月臨時増刊号、青土社)に刺激されたのだ。
 まずは友人たちにBL研究スタート宣言をぶちかました。
 みんな、私に本を貸し、情報を流してくれた。BLゲームをプレイしてくれた友人もいる。この本をまとめることができたのはそんな友人たちあってのことである。まずは感謝を捧げたい。
 実際、私の周りにはBLや二次創作が好きな人が多い。こちらがカミングアウトするとヒットする確率が高いのだ。とはいえ、みんなオタク的情熱という点では同じだが、性格も違えば好みもまったく違う。二次創作に熱中しながら進化系マンガをたくさん読んでいる人もいれば、黎明期から雑誌を読み続け、王道タイプの小説を好む人もいる。ちなみに彼女はハーレクインも大好き! 一方、BLも読むが、男性分野のラノベやアニメ、萌えゲームに詳しい女性もいる。「腐女子とは?」という問いはあまり意味がない。これは実感だった。
 ところが、いざ研究と勢い込んでも、どこから攻略すればいいのかさっぱり見当がつかなかった。そもそもBLは歴史も長いし規模も大きく、その内容も実に様々だ。広い世界のなかにBLを位置づけなければ意味がない。そう思った。そのためには男性サイドの動きもチェックする必要がある。萌えのあり方や戦う女性キャラについては、ヒントをくれるありがたい男性たちもいたのだ。

ブログの時代

 ところで私は2002年に『アニパロとヤオイ』(〔「オタク学叢書」第7巻〕、太田出版)というオタクな本を出している。アニパロ(二次創作)の世界を扱ったディープな本だが、風邪ネタ、記憶喪失ネタ、子供ネタ、女の子ネタといった定番ネタを軸に読み解いた。
 今回も、年下攻め、ヘタレ攻め、オヤジ受け、男前受け、襲い受けといった、BL界で定番化しているキーワードを道標にして語ることにした。
 このように2冊の本のスタンスは共通しているのだが、相違もある。前著を執筆していたころはインターネットの普及はまだまだで、ひたすら同人誌を買い集めるか友人に貸してもらうしかなかった。
 しかし今回は違う。すでにネット通販が主流になっていて、作品を入手しやすかっただけではない。2007年の研究開始当時は、ちょうどブログの全盛期で、充実したコンテンツがあふれていた。作品レビューだけでなく、キーワードでピックアップしたオススメ作品リストから年度ごとの名作ランキングまで、熱気あふれるブログの面白さに魅了され、研究が行方不明になりそうなくらいだった。ブログ主の方々にはおおいに感謝している。
 つねにブラウザを立ち上げ、何かアイデアが浮かんだら、即、検索ボックスにキーワードを投入! 出てきた作品をまとめて読んだ。
 楽しい! ものすごく楽しい!
 新しい視点を発見する研究の楽しさはもちろんだが、どんどんBL脳が発達し、微妙な差異がわかってくる。同時に、これらのキーワードが特集タイトルになっているアンソロジーを年代順に並べて調べた。結果、BLの変遷がクリアになってきた。それはもう、ワックワクの大興奮だった。

最後に心残りについて書いておきたい――海外BLの輸入

 昨年夏に一応脱稿したのだが、その後待ち時間が長かったので、変更個所が増え担当の矢野未知生さんにはお手数をおかけしてしまった。それでもBL界の重要な展開を拾いきれなかった部分もある。海外BLの輸入である。
 新書館のモノクローム・ロマンス文庫をはじめ、このところいくつかの出版社から海外BLの翻訳が出されている。とりわけ驚かされたのはハーレクイン・ラブシックの登場である。本書では、「第3章 BLの王道」で、ハーレクインとの比較もおこなった。ジェイン・オースティンまでさかのぼる伝統的なロマンスの典型を受け継ぐハーレクイン。そのハーレクインがまさかのBL?!
 当初筆者は日本支社独自の動きにちがいないと思ったのだが、2014年末から翻訳ものも出始めた。調べてみると、なんとハーレクイン本社系列のCarina Pressがgay fictionを扱っているではないか。時代は本当に変わったのだ。
 あぁ……残念! この件を本文に入れたかった……。読者のみなさま、ぜひ頭の中で補って読んでくださいね。
 それだけではない。新しい動きはいつも二次創作同人界からやってくる。『オメガバース・プロジェクト』(〔POE BACKS〕、ふゅーじょんぷろだくと、2015年―)が興味深い。ちなみに本書のカバーイラストを担当してくださったyocoさんが美麗なカバーイラストを描いているので、ぜひチェックしていただきたい。
 オメガバースとは、英語圏の二次創作の世界で生まれた特殊設定で、人狼ものに基盤がある。この設定が日本の二次創作に輸入されたのだ。しばらく前から流行していたのだが、ついに商業出版にも登場したわけだ。モノクローム・ロマンス文庫で人気を集めているJ・L・ラングレーの『狼を狩る法則』シリーズ(冬斗亜紀訳〔モノクローム・ロマンス文庫〕、新書館、2013年―)も、オメガバースのバリエーションである。どうやら、BLの未来は輸出/輸入のリバーシブルな関係から展開しそうだ。

 BL作家のみなさまありがとうございました。
 そしてエンディングはやっぱりこの言葉。
 ボーイズラブは楽しい!

ブログ:「やおい/ヤオイ/YAOI 西村マリ」

 

対抗政治の可能性――『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』を書いて

中谷いずみ

 本書の刊行から約2年が経過した。刊行後すぐにこの文章を書くことになっていたのだが、考えていることをうまく整理できず、ぐずぐずしているうちに時間がたってしまった。この間、さまざまな人から本書の感想をいただいた。島木健作や火野葦平、太宰治、豊田正子など取り上げた作家や作品と戦時との関わり、戦後の生活記録運動や日本教職員組合の平和運動、原水爆禁止署名運動など社会運動へのジェンダーや階級的観点からのアプローチ、生活綴方や教育2法案などに見られる子どもらしさの規範、語りの様式による表象形成と政治的動向の関わりなど、それぞれの立場や関心から多くの意見をいただいた。私が気づいていなかった問題への接続や、意識していなかった方法的広がりを示唆してもらったこともあり、また運動に関わる立場から私の論考の意味自体を問われたこともあった。それらのいただいた意見を踏まえながら、本書の「原稿の余白」に言葉を継ぎ足してみたいと思う。
 タイトルにある「民衆」とは、誤解を恐れずに言うならば、無標のマジョリティを指す言葉として用いている。それは時代や発言者が属する場所によって「大衆」「人民」などと変化しうるものであり、便宜上「民衆」という言葉を当てたにすぎない(もちろん言葉が帯びる政治性や使われる際の文脈、力学などがあるのだが、本書ではむしろそれらの問題よりも、以下に述べるような無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治の考察に主眼を置いた)。この無標のマジョリティの存在は、世論の動向が力をもつ社会では常に意識される。もちろんそれはメディア言説との関わりで考えなければならないのだが、しかし政治家や批評家を含めて多くの人びとが、世論を動かす主体として無標のマジョリティを見ていることは確かである。だからこそ、しばしば、多数派の素朴な声を代理/代表する者として、無標のマジョリティのなかの誰かが発見される。その声が社会の主流的価値観を代表するものと見なされ、メディアで大きく取り上げられる際には、世論の趨勢を必要とする政治的決定や社会制度の構築など、その声の称揚がどこに接続されるのかを注意深く見ていく必要があるだろう。
 だがさらに留意すべきは、無標のマジョリティを代理/代表しうる人物は、決して無標ではないということである。それは望ましいとされる規範を体現する者でなければならない。なぜなら、名もなきマジョリティとしての〈われわれ〉の代理表象は、みなが共感できる望ましさにおいて〈無傷〉でなければならないからである。本書では、こうした規範の体現者がどのような基準でどのような場面で見いだされたかを論じた。1930年代後半の転向者による大衆追随の言説が戦時の国家体制に結び付いていく過程や、50年代前半の社会運動で女性表象が機能していく過程で、誰が無標のマジョリティとして発見されたのか、誰の声が主流の価値観を代理表象するものとして承認されたのかを追った。例えば本書では、政治的イデオロギーへの弾圧が激しくなるにつれて、政治色をもたないと見なされた子どもや女性の訴えが純粋素朴な真実を表すとして称揚され、運動の場やメディアで取り上げられた事例を分析した。政治的主張を忌避する傾向がある社会では、しばしば、子どもや女性の声が真実性を帯びた信用に足るものとして受容される。それらの声の前景化は運動のエンパワーメントという面で効果的に機能するのだが、一方で政治的な強度をもつ主張を潰そうとする動きを補強してしまうような面ももつ。つまり意図せざるかたちで〈われわれ〉を代表しない声を排除する動きに寄与し、結果的に運動の幅を狭めてしまう危険を孕んでいるのである。また、この場合の女性の声の称揚には、知性/感情、理性/本能という二項対立の前者を男性、後者を女性に割り当てるような見方が潜在していて、既存のジェンダー秩序を強化してしまう可能性もある。そしてそれが、既存の女性らしさの規範に即して〈傷〉があるとされる女性をより沈黙させてしまうかもしれないのである。
 このように、過去に見られる無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治は、さまざまなリスクの所在を示唆してくれるものである。もちろん、直近の差し迫った事態に抗する場面ではそんなことを意識していられないかもしれない。この文章を書いているわたし自身も悪化する政治状況に抗することを最優先に考えていて、過去からの知をもって現在進行形の運動での禁止リストを作ってしまうような事態は避けなければならないと思っている。ただ一方で、そのように割り切れない現実のなかであがく際に、リスクのありかを少しでも知っておくことは大切だとも思う。竹村和子氏は「わたしたちの営為は、約束された未来に頼ることができず、あらゆる対抗表象はリスクを背負うものである」がゆえに、一種の「賭け」の継続になると記している(竹村和子「「グローバル・ステイト」をめぐる対話――あとがきにかえて」、ジュディス・バトラー/ガヤトリ・C・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』所収、竹村和子訳、岩波書店、2008年)。割り切れない、約束された未来もない現実のなかで、対抗政治を可能とするための「表象」は常にリスクを伴うのである。さまざまな生のありようが保障されるような、複数性の実現を目指すという点からいえば、受け止めるべき声とそれに該当しない声との選別を許すことで運動の幅を狭めてしまうことも、既存のジェンダー秩序を強化してしまうことも望ましいことではない。強大な力に抗する際に、場面によっては妥協も必要であり、戦略も必要である。しかしその妥協を固定化しないためにも、また戦略による仮の状態を本質化しないためにも、リスクの所在を過去から学んでおくことは有効だろう。
 さらに、わたしが重視したいのは、現実的な対抗政治への志向と同時に理念としてのそれへの志向を持ち続けることである。現状のなかであがきながら、理念的かつ現実的でもある対抗政治の可能性を模索し挫折し再度模索していくこと、また他者や自分と交渉し論争し、ときに和解し、ときにずらし、ときに衝突しながら進むこと、そしてそこに潜む問題や危険にさらされながらそれへの対処を、あるいは回避を試みながら「賭け」を続けていくことで対抗政治を生成し続けることが重要なのだろう。竹村氏は現在進行中の「賭け」を、「未決の課題というよりも、それこそが、実現不可能なものを求める生そのものである」と述べているが、現実と交渉しながらもそれを脱構築して「実現不可能なもの」を求めていく営為によってこそ、現状打破の道が、複数性の実現に向けた道が開けていくのではないだろうか。
 一時の猶予も許さないような現在の政治状況で、本書が、現在進行中の「賭け」の継続という「実現不可能なものを求める生そのもの」の営みに、そして理念的かつ現実的な対抗政治の生成に貢献するものであることを切に願っている。

原爆投下から70年、広島の祈りから見えてくるものとは――『8月6日の朝』を出版して

浦田 進

「8月6日、広島。忘れてはいけない日なのに、東京にいるとついつい疎遠になってしまうから、この写真でいろいろな人に伝わるといいなと思う」「戦争はいやだね、夏になるといやなことを思い出す」「線香の匂いがしてくる」「(子供の写真は)生まれ変わって拝んでいるよう」「声が聞こえてくる」「刑務所でこの写真を見たら、みんな自白してしまうよ」。これらの言葉は、『8月6日の朝』に収めた写真をベースに2012年夏に新宿で写真展を開催したとき、来場者が語ってくれた写真の感想です。この写真展では1週間で300人近い方にご来場いただきました。50枚近い写真を展示しましたが、じっくり時間をかけて1枚1枚丁寧に写真を見てくださる方が多く、なかには涙を流しながら見入る方もいらっしゃって、多くの方が心の奥深いところで、写真から何かを感じ取ってくださったように思いました。
 この写真展は私にとって、広島の祈りの力、普遍性、多義性を改めて強く感じさせてくれた機会でしたし、写真でしか表現できないもの、写真独自の秘めた記録性・神秘性にも改めて気づかされた体験でもありました。これは私にとって、その後も広島の撮影を継続する大きな契機の一つになり、祈りの厳かな場所で撮影した責任として、多くの方のご助力をいただいて写真集として「伝える」一つの形として結実することができたことを大変感慨深く思っています。

 本書に収めた77点の銀塩モノクロームの写真は、2009年から14年までの6年間、8月6日の朝、広島平和記念公園・原爆死没者慰霊碑前で撮影したものです。
 8月の広島の強く鋭利な日差しを浴びて、ときには暑さで朦朧とする意識を必死でつなぎ留めながら集中力を高めて撮りました。撮影中、特に心がけたことは、フレーミングを意識しないようにしながらも、1カット1カットを丁寧に謙虚に、祈っている方の想いに少しでも近づく気持ちでシャッターを切るということでした。
 1945年8月6日、この場所で起きたできごとを想い、この場所にいた人々のことを想う。一瞬とそれから長く続く痛みと苦しみを想像する。
 慰霊碑前では、「ありがとうございました。やっと来れたよ」と祈りながら泣いている方もいらっしゃいました。長い時を経ても、決して痛みと苦しみは和らぐことはなく、私自身、カメラを向けることを躊躇した場面も多々ありました。8月6日にこの場所に来ること、そして手を合わせることの意味は、訪れる人の想いの数だけあるのだろうと思います。
 人間が祈る姿は、厳かで尊く美しいと思いますし、手を合わせることは、それぞれが内なる自己と対話しているようにも感じます。人間にとって、祈る行為そのものが、生まれる前から不思議と魂のようなものに刻み込まれているようにも感じます。

 原爆投下から70年。広島の祈りから見えてくるものとは。これらの写真を見る人が自由に何かを感じ取ってくださったら、と思います。そして少しでも8月6日の広島に眼を向けていただけたらとも思います。

 なお、この写真集の解題では、歴史社会学者の福間良明さん、宗教学者の島薗進さん、写真家の新倉孝雄さんの3人に、それぞれの立ち位置から、8月6日広島と祈り、私の写真についてご寄稿いただきました。3人の方の解題は写真集に大きな広がりと奥行きを与えてくださいました。

 私が広島で聞いた、いまも忘れられない被爆者の方の言葉があります。
「あの匂いと青白い光は忘れられない。広島は人骨の上にある。戦争はいいことが何一つない。平和は努力しないと維持できない。憎しみからは憎しみしか生まれない。大河も一滴から始まる、小さな一滴からの活動が大事」
 昨年の8月6日の広島は43年ぶりの雨でした。現在の不穏な社会状況を想うとき、この雨は原爆で犠牲になった方の涙だと直感的に思った人は私だけではないはずです。
 私はいつも不思議に感じます。広島を去るときに感じる、この去りがたさの哀感はいったいどこからくるのだろうかと。

 最後に、写真集発売に合わせて、この夏、東京と広島で写真展も開催します。銀塩モノクロ半切32点を展示します。お時間が許すようでしたら、こちらもぜひごらんください。
■東京展(ギャラリーNP原宿 特別企画展)
  開催場所 ギャラリーNP原宿
  開催期間 2015年7月28日(火)から8月10日(月)まで
       平日 10:00から18:00
       土日 10:00から17:00 最終日14:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒150-0001 渋谷区神宮前6-13-11 NPビル3F
  Tel 03-3486-6984
  http://www.nationalphoto.co.jp/gallery/

■広島展
  開催場所 gallery718
  開催期間 2015年8月12日(水)から8月23日(日)まで
       10:00から19:00 最終日18:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒730-0036 広島市中区袋町7-18-2F
  Tel 082-247-1010
  http://www.gallery718.com/

これからのスポーツ〈場〉の動きをどう読むか――『アスリートを育てる〈場〉の社会学――民間クラブがスポーツを変えた』を書いて

松尾哲矢 

 本書では、スポーツ〈場〉の社会学を標榜する一方で、温故知新ではないが、これまでの〈場〉の動きがわからないままにこれからのスポーツ〈場〉の動きは構想できないのではないか、またスポーツ〈場〉がかかえている現在的・実質的課題にどう向き合えばいいのかについて、何らかのヒントが得られないかとの思いを抱きながら取り組んだ。
 そこで本書で得られたインプリケーションとスポーツをめぐる現代的課題や状況との関係についてふれておきたい。
 2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。その動きに連動して、15年5月13日、日本のスポーツシーンを変える法案が可決・成立した。スポーツ行政を総合的に推進することを目的としたスポーツ庁を設置するための文部科学省設置法改正案が参院本会議で満場一致で可決・成立したのである。これで15年10月1日に文部科学省の外局としてスポーツ庁が発足する。
 これまでスポーツ行政は、その多くが文部科学省スポーツ・青少年局を中心に、健康運動や障害者スポーツは厚生労働省、公園での運動などは国土交通省、スポーツ産業は経済産業省など、その機能に合わせて多省庁が独自に管轄してきた歴史がある。スポーツ庁はこれまで複数の省庁がそれぞれおこなっていたスポーツ行政を一元的に担い、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた選手強化や施設整備、国民の健康づくり、地域スポーツの推進、スポーツを通じた地域振興や国際交流などに取り組むことになる。
 これまでスポーツ関係団体の多くが文部科学省の管轄のもとで活動してきたため、そこで醸成されてきたスポーツのあり方は、一言でいえば「教育としてのスポーツ」観を基盤として形成されてきたといっても過言ではないだろう。スポーツ庁になった場合、どのようなスポーツのあり方を理念として構想すればいいのだろうか。スポーツがもつ外在的な価値(リーダーシップ、協調性、礼儀作法など)を強調するきらいがあった「教育としてのスポーツ」のあり方だけでは、対応することは難しい。これからはスポーツそのものを目的的に楽しむあり方、勝敗にこだわらない楽しみ方、遊び文化としての楽しみ方など、スポーツがもつ内在的な価値を生かしたスポーツのあり方を含め、新しい袋にあった理念と内容の議論が不可欠だろう。
 本書では「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」というスポーツのあり方、スポーツ〈場〉のダイナミズムについて検討したが、これからのスポーツのあり方を議論する契機になれば望外の喜びである。
 また、本書でスポーツ〈場〉での振り子の“振り戻し”のような現象が起こることについて言及したが、例えば、2007年、プロ野球界で発生したアマチュア選手への金銭供与問題を契機として、日本学生野球連盟憲章に違反する授業料免除などの特典を付与された特待生の問題が表面化した。この問題を重くみた日本高等学校野球連盟(以下、高野連と略記)は、調査を実施して7,000人を超える特待生の存在が明らかになった。高野連は有識者会議を設置、本会議に今後のあり方について諮問した。本会議は条件を定めて特待生を認める答申を出したが、そのなかで、「特待生制度運用の現状をみると、一部の学校においては、勝利至上主義に陥り、教育の一環としての部活動の趣旨に反する指導が行なわれている」として、「野球の部活動は、他のスポーツ部活動と同じく、教育的見地から認められる」(高校野球特待生問題有識者会議答申〔座長:堀田力〕、2007年10月11日)ことを改めて明示、強調している。
 この一連の動きのなかで、高等学校運動部のスポーツはあくまでも教育のためにおこなわれるものであり、「教育としてのスポーツ」のあり方が強調されている。高野連はこれまでも教育としてのスポーツを顕示してきているので、高野連内部での“振り戻し”とはいえないが、この動きは、「競技としてのスポーツ」やプロフェッショナルなスポーツのあり方が拡大しつつある青少年期のアスリート養成〈場〉全体に対するアンチテーゼの主張ととらえることも可能であり、アスリート養成〈場〉全体の動きからみれば「教育としてのスポーツ」への“振り戻し”現象の一つとして把捉することもできるだろう。
 青少年期のスポーツのあり方をめぐっては、これからも「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」の間で往還運動を繰り返しながら〈場〉が動いていくことが予想され、その動きに注目していく必要があるだろう。
 最後に、民間クラブ団体のみなさまへの感謝を一言。本書を執筆するにあたって、青少年を対象とした民間スポーツクラブの誕生とその後の動きに関する資料の少なさには正直戸惑った。例えば、日本スイミングクラブ協会に見られるように種目団体によっては誕生からの動きをまとめている団体もあるが、民間クラブの動きを知る手がかりが非常に限定されていて、まとまって残っている資料がほとんど見当たらなかった。それは、各民間クラブが、独自に起業し、クラブの運営・経営と向き合いながら日々取り組んできた歴史があり、全体の動きをつかむことが容易ではなかったことが挙げられる。さらには、本書でもふれたように、学校運動部を中心としたスポーツ〈場〉のなかで後発の民間クラブが承認を得ていくことは容易ではなかった。そのなかで民間クラブ自体が、その存在を積極的に発信していくことにいくらかの躊躇があったのかもしれないし、その動きを積極的に取り上げた雑誌記事や論考はきわめて少なかった。
 そこで今回、各民間クラブ・団体が発行している雑誌や資料、会議の議事録などを可能なかぎり収集し、それらを丹念に読み解くことに力を傾注した。このためかなりの時間を要したし、関係者のみなさまのお力添えなしに上梓することはかなわなかった。ここに改めて感謝を申し上げたい。

外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。

背中を押してくれたこと――『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』を書いて

萩原由加里

 かれこれ10年以上に及んだ研究を1冊の本としてまとめる作業は、思っていたよりも骨が折れる作業だった。特に、本書のベースになった博士論文の提出から6年が過ぎている。博士論文の提出後から現在に至るまで、さまざまな大学で非常勤講師をしてきたが、教壇に立ってからのほうが、大学院に在籍していたころよりも学ぶことが多かった。単に調査を進め、新たな事実が明らかになったことだけではない、自分自身の研究手法の変化が、本書を執筆するにあたって最も苦労した点である。本書の随所に、10年間にわたる著者の成長が反映されていて、各時期の論文がパッチワークのように組み合わされているので、パートによって雰囲気が違うことに気づいた読者もいるかもしれない。
 そして、一度構築した博士論文を、再構築するという作業にも苦戦した。例えば「あとがき」に図版を入れているが、これは本書のために新しく撮影しにいった写真である。苦肉の策として「あとがき」に組み込んでみた。8月の猛暑のなか、君野直樹氏に同行して政岡憲三の墓を訪れ、汗だくになりながら草取りをしたときの写真である。余談ながら、筆者の趣味はガーデニングであり、草取りには自信がある。このようなところで自分の趣味が生かされるとは思いもよらなかった。
 ところで、この数年間でアニメーションに関する研究は急速に進んでいて、どこまで最新の知見を盛り込むかという点でも悩んだ。学術として、より完成度が高いものを求めれば求めるほど、この本は永遠に刊行できないままだと途中で覚悟を決めた。あくまでも博士論文を基礎とし、その後の調査で得た資料を追加するという形に落ち着いた。十分な分析をできなかった資料もあり、また目は通していたものの文中では言及できなかった著作や論文が多い。本書は基礎研究としての位置づけであり、それぞれの学問分野から政岡憲三という人物を研究するきっかけになってくれれば幸いである。
 なお、本書は著者が大学院時代に所属していた研究科から助成金を受けて刊行したものである。2014年の秋、助成金は14年度で最後になるとアナウンスされた。この助成金に採択される条件の一つが、14年度3月末までに刊行されることである。このころ、本書の刊行時期は未定だった。しかし、この知らせを受けて、3月末までに刊行することが決まった。そこからスケジュールを逆算して、怒涛の勢いで作業は進んでいった。そのせいか、完成した見本を手にした後で、うっかり参考文献一覧の類いを掲載し忘れたことに気づいた。読者のみなさまには何かとご不便をかける本である。
 その肝心の助成金だが、2015年度も継続することになった。その知らせが著者の元に届いたのは15年4月1日であり、最初はエイプリルフールのジョークかと疑ったほどだ。しかし、14年度で助成金が最後になるという知らせがなければ、著者は本書を刊行する最後の決心がつかなかったはずである。物事には勢いというか、時の運というものもあるのかもしれない。

幻の補論――『人工授精の近代――戦後の「家族」と医療・技術』を書いて

由井秀樹

 本書で主に語られているのは、戦後間もなく日本でもはじめられた、提供精子を用いた人工授精(非配偶者間人工授精;AID)の歴史だ。これは私の博士論文がベースになっているのだが、そこには組み込まれなかった幻の補論がある。その内容は、AIDで生まれた方へのインタビュー調査から、彼らが何を思って生きているのか、検討したものだ。なぜこれが組み込まれなかったかといえば、「歴史研究としての性格が不明瞭になるからやめておけ」とのアドバイスを異口同音にいろいろな方からいただいていたからだ。
 たしかにそれはそのとおりだ。こうして、補論になる予定だった原稿はあえなく幻となってしまった(ただし、その一部は単発の論文にはまとめてあり、某学術雑誌に掲載されている)。
 もともと私はAIDで生まれた方へのインタビュー調査をもとにした質的研究をおこなっていた。ここで、少しだけインタビュー調査で明らかになってきたことを書いておきたい。彼らは、大人になってから自身がAIDで生まれたことを知り混乱していた。やがて、生物学上の父を知りたいと思うようになるが、今日に至るまで精子提供者の匿名性は原則的に維持されており、自身の半分を構成する情報が得られないことでアイデンティティーの危機に瀕する。ここまでのことは先行研究でも言われ尽くされているのだが、物語には続きがある。精子提供者を知りたいという思いがある一方で、提供者に対して否定的な感情をもっている方もいた。また、なかには親族の男性からの提供精子で生まれていて、つまり、提供者が特定されているケースもあり、その方は親族男性(の家族)との関係でも悩んでいた。ここから、提供者を知ることができた時点で納得するケースもあれば、そこから先の人間関係の調整が必要になってくるケースも存在するであろうことが示唆される。
 このようなことがわかってきたのだが、研究を進めていくうちに、このAIDなるものがどういった経緯ではじめられ、今日まで続けられているのか、という疑問がわいてきた。それは既存の二次文献をどれだけ調べてもよくわからなかった。AIDの歴史を正面からまともに取り組んでいる研究者などいなかったのだ。こうして私はフィールドワークと並行して、歴史研究をおこなうようになった。
 では、なぜ自らわざわざ歴史をも調べるようになったのか。それにはいろいろと理由がある。とりあえず4つほど書いておくと、第1に、隙間産業だったのでそれなりに需要はあるだろう、という何とも打算的な理由。第2に、手広くいろいろな研究をおこないながらも、科学史を専門にする師匠の影響。第3に、「家族」をキーワードに研究を進めていたのだが、現在のAIDと「家族」の関係を、過去のそれを理解せずして把握することが不可能だったという一応学術的な理由。そして第4に、たぶんこれがいちばん大きな理由だろう。「そもそも、この技術がどういった経緯ではじめられたのかさえ、わからない」、こんなことをAIDで生まれた方が語っていて、それが心のどこかにひっかかっていたのだ。歴史を調べたところで彼らが置かれている状況が変化するわけではないことは重々承知していたが、それでも、何かしらの役には立てるかもしれない。そんな思いがどこかにあった。
 さて、この原稿を書いているのは2015年4月初頭なのだが、周知のように日本にはAIDや卵子提供、代理出産といった、第三者が関わる生殖補助技術を規制する法律はない。ただ、それを作ろうとする動きはある。その際、最も真摯に議論を重ねなければならないのは――補論は幻になってしまったが――、第三者が関わる生殖補助技術で生まれた方のことだろう(実は本書第4章で取り上げた1950年代の法学者たちの議論でも同じようなことが語られていた)。どのような方向に進むにしても、法制化の動向から目は離せない。
 しかし、ここでいったん立ち止まってみたい。立法は概してその後の制度設計を念頭に置いている。もちろん、未来を見据えることは重要だ。だが、未来を見据えるのは現在である。そして、過去があったからこそ、現在があり、現在を理解するには過去を理解しなければいけない。それにもかかわらず、過去のことはよくわかっていない。要するに――私が歴史を調べ始めた第3の理由とも重なるが――、第三者が関わる生殖補助技術をめぐって、私たちはいま、どこに立って未来に目を向けているのかよくわからず、足元さえ定まっていないのだ。本書が過去から現在を経て、未来へと続く道筋――それは決して平坦な一本道ではなく、ぐねぐねと複雑に入り組んでいるのだろうが――に多少なりとも光を照らすことができているのか。手に取ってくださった方々の判断を待ちたい。