一生の趣味として楽しもう!――『まるごとアコギの本』を書いて

山田篤志

 本書は、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」(http://ac-guitar.com)にこれまで書いた原稿に加筆してまとめたものです。私にとって書籍の執筆は初めての経験で、右も左もわからない状態で書き始めました。実際のところは既存のサイトをもとに執筆したので、一から企画や構成を考える必要もなく、素人の私でも執筆はそれなりに進み、楽しい作業になりました……と思っていたのですが、それは私だけだったようなのです。

 7月31日に本書が発売されて、すぐにお盆がきました。毎年、お盆には実家に帰省するのが恒例となっていて、今年も妻と2人で戻りました。私の両親も本書のことを気にかけてくれていたようで、当然のように話題になりました。
父:「執筆は大変だったろうね?」
私:「まぁ、そうでもないよ。既存のサイトをまとめ直しただけだからね」
鬼の形相の妻:「そんなことないでしょ。だって、用事を頼んでも執筆中だからって全部断ってきたじゃない。理由を全部締め切りのせいにして、あたかも売れっ子作家になったかのような言い草だったでしょ!!(怒)」
鬼の形相の母:「(私に向かって)そりゃー、アンタが悪いわ!」
私:「えっ、出版おめでとう…じゃなくて!? 俺が悪いの!?」
 まぁ、こんなものです。いまから考えると妻には迷惑をかけていたかもしれませんね。青弓社にも……。この場を借りてお礼を申し上げます。

 さて、本書では「アコギは趣味として楽しいよ、一生の趣味になるよ」ということをわかりやすく解説したかったのですが、本当に読者に伝わっているかどうかが気になるところです。実際には、発売から2カ月がたった現在、「ツイッター」や「アマゾン」のレビューなどで少しずつ反響があり、まあまあ伝わっているなという感じで、ホッとしています。
「基本部分から歴史やコード理論など非常に勉強になりました」
「アコギに興味を持たせる、さらにはアマチュア演奏家として弦楽器に興味を持たせてくれる本としては非常に秀逸」
「リズムを意識したり、耳コピにチャンレジ、さらにはオリジナルの作曲まで視野を広げることが可能になる本だと思う」
 こういうご好評をいただくことは書き手冥利に尽きます。本当にありがとうございます。

 本書の「あとがき」でも書いたように、アコギを趣味としたとき、その可能性は2つあると思っています。
 1つ目は人生を豊かにするということ。豊かな人生といっても人それぞれで、私が押し付けるようなものでないことは十分に承知していますが、趣味を持つと人生が豊かになるといいます。まったくそのとおりだと思います。
 趣味の定義も難しいのですが、私は「自分が没頭できるもの」と考えています。人に認められなくても、お金にならなくてもいい、忙しいときでも時間を作ってまでもやりたい、たとえ上達しなくてもそれをやっていると楽しい、仲間が増えて一緒に盛り上がりたい……そういったものが趣味なのでしょう。
 例えば私の場合、友人の誕生日会で「「ハッピーバースデートゥーユー」を弾いて!」と言われればすぐに、子どもに「「アンパンマンのマーチ」を弾いて!」と言われればその場で、弾いてあげたいのです。うまく弾けなくてもいいのです。その場が盛り上がって、みんながハッピーな気持ちになることが大事だと思っています。
 また、過去に私のサイトを見た人から、こんなメールをいただきました。
「このサイトを見て基本の大切さを切に感じました。C→F→Cのチェンジが2週間でなんとか弾けるようになり、はずみがつきました。これからも貴サイトでレッスンを続けていきます。病院でボランティアをしているので、早く上達して、入院している方を少しでも元気づけられたらと思っています」
 うれしかったですね。とても穏やかな気持ちになりました。

 2つ目は自分の演奏をインターネットで世界中に配信できること。自分の演奏を録音したり動画に撮ったりして発表することも簡単にできます。そのあたりのコツも本書に書きました。もちろん私もSNSを使って楽しんでいます。会ったこともない外国の人と、翻訳ソフトと闘いながらメールでやりとりしています。趣味をきっかけに世界中の人とつながることは本当にすばらしいことです。

 アコギは奥が深いのでプロレベルまで極めようとすれば難しいのですが、趣味での演奏なら弾けるようになるまで時間はそれほどかかりません。このような可能性があるので、「音楽が好き、カラオケが好き」という方はぜひ本書を読んで、アコギを趣味としていただきたいのです。
 さらに、本書で書けなかったことも含め、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」で少しずつですが更新しています。興味がある方は、ぜひのぞいてみてください。
 みなさんのアコギライフがすばらしいものになるよう切に願っています。

 

ロンドンでは本書を片手に巡り歩いてほしい――『ブリティッシュロック巡礼』を書いて

加藤雅之

「いま思えば、行っておけばよかった」――年を経るにつれて、こんな後悔が増えてくるのは自然の成り行きだろう。
 学生時代に熱心に聴いたブリティッシュロックを本場で体験しようと思ったのは、ロンドンに転居してから3年がたち、娘の学校への送り迎えから解放されてからだ。ロンドンに住んでいるのだからいつでも伝説のロッカーたちのコンサートへ行けるだろう、そんな甘い考えを捨てることになったきっかけは、ファンだったクリームのベーシスト、ジャック・ブルースの死(2014年10月25日)だった。
 調べてみると、ジャックはさまざまなフォーマットで6回は来日している。仕事で忙しかったり、ジャズやクラッシック、はたまたイタリアポップスなどロック以外の音楽に関心が移っていたり、と理由はいろいろある。ただ、改めて思い知ったのは、演奏する側にも聴く側にも、時間は迫っているということだ。それから、「冥途の土産ツアー」と勝手に銘打って、すでに70歳前後になっているロック黄金期のアーティストのコンサートに通い詰めることにした。
 これと並行して、いわゆるロック聖地巡りも始めたのだが、ここでも時の流れの残酷さを感じることになる。忘れ去られて正確な所在地が不明だったり、再開発で取り壊されたり。はたまた富裕層向け分譲地にあるジョン・レノンやリンゴ・スターの旧宅はセキュリティー強化で近寄ることさえ不可能になっていた。
 そこで、もしロックファンがロンドンへ行ったり住んだりする機会があれば最後のチャンスを逃さないでほしい、そんな思いに駆られて執筆したのが本書である。
 コンサート通いや家探しを続けるなかで、いろいろわかってきたことも多い。
 音楽的に言えば、世界的に成功したビートルズのようなバンドでもイギリスでは流行歌の一種ととらえられ、その時代の刻印が強く押されていること。言い換えれば、それ以降の世代以外からは古い音楽とみなされて、敬遠されてしまう。日本やアメリカでのように世代を超えてビートルズが聴かれるということはなく、さらに言えば、現在ではロックそのものが時代がかった音楽とみなされている印象を受けた。
 また、アメリカで成功してイギリスに戻ってこない人間に対する冷たさにも驚いた。アメリカに移住してしまったジョン・レノンやスティングに対する扱いは、日本ではちょっと想像できないだろう。ロックだけではない。イギリスが生んだ偉大な映画監督、チャールズ・チャップリンやアルフレッド・ヒッチコックについても、二人が生まれ育ったロンドンには記念館など存在しない。ハリウッドで成功したのが気に入らないのだと思われる。
 そして、イギリス人は英語を母語とする白人であっても、その人間がイギリス人か否か、を日本人が想像する以上に気にする。日本にも通じる島国根性とでも言うのだろうか。
 コンサートに行って衝撃を受けたのは、その飲酒文化。まあ、飲むこと飲むこと。ストイックな音楽性をもつキング・クリムゾンのような例外を除き、ほとんどのロックコンサートは酒が飲めるところで音楽もやっているぐらいに考えたほうがいい。演奏中も周りの観客がビールを買いに行ったり、トイレに行ったりと、ちっとも落ち着かないことも多かった。だが、それが本場、イギリスでのロックの聴き方なのだ。
 ロックの聖地巡りでは、外部の人間がめったに足を踏み入れない郊外の田舎町なども訪れた。そこでしばしば感じたのは、ロンドンの街中ではなかなか味わえない「よそ者」に対する疑わしげな視線だ。帰国直後の2016年6月の国民投票でイギリスは欧州連合(EU)脱退を決めてしまったが、排他的な民族主義の一端を垣間見た気がした。
 執筆のためいろいろ調べているうちに初めて知ったエピソードも多い。そのなかで特に面白いと思ったのは日本との関係だ。黄金期のブリティッシュロックに直接関わった日本人としては、いずれも末期のフリーとフェイセズに参加した山内テツ(b)が有名だが、カーブド・エアのカービー・グレゴリー(g)をたどっていくと加藤ヒロシ(g)という名前に行き当たった。カービーが巻き込まれた偽フリードウッド・マック事件に関連するストレッチというバンドに一時加入していたからだ。この加藤さん、リンド&リンダーズという関西のグループ・サウンズのメンバーで、元キング・クリムゾンのゴードン・ハスケル(b,vo)とジョー(JOE)というバンドも組んでいる。そこで、プロレスラー藤波辰巳のテーマ曲「ドラゴン・スープレックス」を発表したり、山口百恵のロンドン録音のアルバム『GOLDEN FLIGHT』でプロデュース・演奏したりと、なかなかの活躍ぶりなのだ。
 また、加藤さんは元Tレックスのスティーブ・ティックとも一時活動したが、同時期にティックとセッションしていたのが高橋英介(b,g)という人で、グループ・サウンズのZOO NEE VOOの出身。奥深い世界である。
 こういった本書に盛り込めなかったエピソードや写真を、書名と同じ「ブリティッシュロック巡礼」のブログhttps://ameblo.jp/noelredding/で順次公開しているので、興味がある方はぜひのぞいてみてほしい。

 

オペレッタの楽しみを伝えたくて――『オペレッタの幕開け――オッフェンバックと日本近代』を書いて

森 佳子

「あとがき」にも書いたように、本書は、2014年に出版した私の前著『オッフェンバックと大衆芸術――パリジャンが愛した夢幻オペレッタ』(早稲田大学出版部。博士論文をもとに書いたもの)の「続篇」である。着想から2冊の本の完成までにかなりの年数がかかってしまったが、17年になってやっと出版することができた。
 最初にテーマの着想を得たきっかけは、次のようなものである。オペレッタの創始者ジャック・オッフェンバックの名は日本でも有名で、最高傑作の一つ『地獄のオルフェウス』に挿入される「フレンチ・カンカン」の音楽だけを知っている人も多い。若い世代でさえ、この曲を「運動会の音楽」として認識している。私にはその点が気になった。明治時代から主にドイツのクラシック音楽の影響下にあった日本で、なぜあの曲が昔から知られているのか、不思議だったのだ。
 それに加えて、オッフェンバック作品のすばらしい上演に巡り合ったことが、このたびの執筆に大きな影響を与えている。まずは15年以上さかのぼるが、パリのオペラ・バスチーユで『ホフマン物語』を初めて観て、大きな憧れを抱いたことがその始まりだった。印象的で洗練されたメロディー、時空を行き来し、夢と現実の境が見えない物語構成の面白さ、人形や悪魔あるいは音楽の女神ミューズなどの魅力的な登場人物たち……あの「フレンチ・カンカン」と同じ作曲家の作品とは信じられず、これをテーマに何か書いてみたいと思った。
 そして2007年になって、パリのオペラ・コミック座でオッフェンバックのオペレッタ『ラ・ペリコール』を観て、大きな衝撃を受けたことがあった。本書でも触れた、ジェローム・サヴァリによる「ミュージカル風」演出の上演である。サヴァリはジャズをかなり勉強した人らしいが、このときに使っていた音楽には大変驚かされた。オッフェンバックのオリジナル音楽に、ジャズやロックが交ざったようなアレンジを加えていたと記憶しているが、物語の舞台がペルーということもあってうまくマッチしていた(サヴァリ自身によれば、同時代の南アメリカの独裁政治を舞台で表現したという)。しかもそのうえ、オッフェンバックに扮装した「謎の人物」(小さな丸メガネに薄い頭髪、黒っぽい毛皮付きガウンといった格好)がたびたび舞台上に現れ、観客の笑いをとっていたのが印象的だった。ちなみに本書でも触れたが、彼自身に扮した人物を舞台に出すのは、20世紀初頭によくおこなわれた演出方法である。もっとも、こうした「翻案」上演は、オーソドックスなものを好む人には評価されないかもしれないが、当時の私にとっては新鮮な驚きだった。
 このようなかつての様々な体験のなかで、オッフェンバック作品が秘めている多彩な上演の可能性を見いだしたことが、博士論文と2冊の本の執筆に向かう出発点になっている。しかし博士論文では、オペレッタのように娯楽性が強いジャンルが受け入れられるかどうかわからず、困難な道になるだろうと予想した。だが、幸運なことにそれはうまくいき、学術書と一般書の両方を書き上げるにいたったのだ。
 博士論文と前著の執筆に際しては、オッフェンバックが晩年に影響を受けた「夢幻劇」の調査にかなり時間を費やしたが、後続の本書でもそうした地道なアプローチの姿勢は崩していない。例えば第3章「オッフェンバックとは何者か」では、オッフェンバックがテーマになったムーラン・ルージュのレビューに関して、パンフレットなどの一次資料を読み込んだうえで書いている(フランス国立図書館はまとまった数のパンフレットを所蔵していて、これらが役に立った)。また第6章「日本人とオッフェンバックの出合い」と第7章「花開く日本のオペレッタ」の日本のオペラやオペレッタ上演に関する項目でも、できるかぎり当時の雑誌などにあたったり、オペラ団体からパンフレットを取り寄せたりして、様々な資料に基づいてまとめている。ただし「浅草オペラ」に関しては、知られざる資料がまだまだ眠っていると思われ、十分な情報が得られたとは言いがたい。私にとってはそれが心残りだが、これらが世に出てくることを切に願っている。
 さらに今回の執筆では、次のような点でも苦労した。まず論文から一般書に書き換える際には、かなり工夫しなければならない。例えば、学術の世界で説明が不要のことでも、一般書の場合はそれが必要になる。なおかつ、丁寧で簡潔な表現でなければならない。同時に、単なる「オッフェンバックの伝記」にとどまらない、多くの読者が興味を持てるような構成にしたい。ある意味では、前著を一歩でも乗り越えたいという気持ちもあり、正直言って完成するまでの道のりは平坦ではなかったと思う。
 おそらく、いわゆる「研究書」と呼ばれる本のなかには、専門家だけでなく一般の読者や大学生にも面白いと思えるテーマがたくさんあるだろう。しかも書き方や構成の工夫次第で、それらはもっと興味深く、読みやすいものになると思う。今回はその点で、青弓社にずいぶんサポートしてもらった。私にとってはこれが貴重な第一歩である。

 

「ホームルーム」後の講師室にて――『アイドル論の教科書』を書いて

塚田修一

 本書では「ホームルーム」で講義を終えたので、ここでは、さしずめ「ホームルーム」後の講師室で、本書にまつわるこぼれ話を、というような雰囲気で書いてみたい。

 実は、本書の著者2人がそろって格闘していたものが2つある。
 まずは「経年変化」である。周知のように、アイドル文化は変化が早い。盛り込んだ最新のネタも、すぐに古くなってしまうのである。アイドル文化界隈の情報を定期的に仕入れながらの、記述のアップデート作業が私たちに付きまとった。
 もう一つが「距離感」だ。よく言われることだが、アイドルファンは、物理的にも、心理的にも、どこかでアイドルとの「距離感」を楽しんでいる。アイドル(文化)を論じる際にも「距離感」、つまり、どのようなスタンスで記述するかに頭を悩ませた。
 高踏的な論じ方は「鼻につく」(「学術論文」としてならば、それでいいのかもしれないが)。オタク的な知識や偏愛の披露では、「ツマラナイ」。さらに、教科書(参考書)というコンセプト上、読者が真似できない「名人芸」になってしまうのも避けなければならない。――アイドル文化を論じる、最適な「距離感」を模索して、私たちはあれこれ悩んだ。
 ぶっちゃけてしまえば、私たちはこれらを解決できたわけではない(いまだに格闘中である)。
 だが、暫定的な解決策として、本書では、「読者に積極的に委ねる」という形にしたつもりである。つまり、読者によって考えられ、埋められる「余白」とした、ということだ。――これが本書の重要な仕掛けである。
「経年変化」については、読者が各々アップデートして、「応用篇」をつむいでいってもらえるようにした。また「距離感」についてもやはり、読者によって書かれるべき「応用篇」を設定することで、読者の思考の参入を呼び込むかたちにして、「鼻につく」「ツマラナイ」「名人芸」――これらは要するに、読者が参入できないことに起因するものだ――をなんとか回避したつもりである。
 これを「読者に丸投げしている」とは捉えないでほしい。
 先述の暫定的解決策は、著者2人の、「余白」の必要性への敏感さから講じられたものだからだ。
 例えば、私たちは大学や予備校での講義の際にしばしば、ある問題の思考方法から正解までをすべて説明してしまうのではなく(その場合、実は教育的効果は低いはずだ)、思考方法を示したうえで、「あとは自分で考えてみなさい」と指導するときがある。私たちは、「すべてを説明すること」が、必ずしも最善手でないことを体得的に理解している。そして、生徒や学生にわざと考えさせる、あるいは判断を委ねることの「効用」を知っているのである。
 このようにして本書は、読者の手によって「余白」が埋められること、つまり読者によって「応用篇」が書かれることを想定した、少々奇妙なスタイルの「学術書」になっている。

 そういえば、先日、知り合いの研究者からこんな連絡をもらった。指導しているゼミの女子学生が、本書を発売日に購入し、「国語」講を参照しながら、「女性が女性アイドルを応援すること」をテーマに、「握手会におけるコミュニケーション」の会話分析をおこなっているという。さっそく、本書の「応用篇」が試みられているのだ。――これほどうれしい知らせはない。

 さて、2016年最大のアイドル関連ニュース(男女を問わず)といえば、SMAPの「解散」――「卒業」ではなく――だろう。私たちもやはり気になっている。
「解散」の時間モデルはどうなっているのだろうか。一応、「卒業」と同様の、〈線分〉の時間の〈終わり〉ということになるのだろうか。だが、それは「卒業」のように美化されたものでも、予期(期待)されたものでもないし、そもそもジャニーズのアイドルに「卒業」制度は存在しない。
 また、SMAPファンはどうなるのだろう? ファンたちは、キャンディーズ「微笑みがえし」のキャンペーンを彷彿とさせるような運動(「世界に一つだけの花」の購買運動など)をおこなっているが、「解散」を翻意させるまでには至らなさそうである。では、ファンたちはうまく「あがる」または「おりる」ことができるのだろうか――。そんなことをあれこれ考えているところである。

 

代理出産、特別養子縁組、里親、児童養護施設をつなげる視点――『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』を書いて

土屋 敦/松木洋人

「ふつう」の親子? 「ふつう」の子育て?

 血縁でつながっている実の親と子どもとの関係。これが多くの人がイメージする「ふつう」の親子関係だろう。同様に、我々が「子育て」という言葉を使うとき、それはたいてい実の親が実の子どもを育てる営みのことを意味している。
 しかし、この「ふつう」の親子関係とは異なる関係のもとで、子どもが生まれたり育てられたりする場合がある。たとえば、近年、子どもがいる男女が結婚することで形成されるステップファミリーへの注目が高まっている。ステップファミリーでは、夫と前の妻との間に生まれた子どもは、血のつながりがない「新しいお母さん」と生活をともにして、さまざまなケアを受けることになる。

「ハイブリッドな親子」と血縁・家族へのこだわり

 本書の書名になっている「ハイブリッドな親子」という概念は、ステップファミリーのように、子どもの生育に生みの親以外の大人が関与するさまざまな状況に光を当てるために我々が新たに考案した言葉である。「ハイブリッドな親子」にも多様なかたちがあるだろう。例えば、代理出産における「産む親」と「遺伝的親」の分離をめぐる問題、養親と養子の関係、里親と里子の関係や、児童養護施設で実親と切り離されながら養育される子どものケアなども含まれるだろう。
「ハイブリッドな親子」は、一方では血縁にとらわれていない点がポジティブに捉えられることもある。子どもの親にとって大事なのは子どもへの愛情であり配慮だと考えるならば、血縁がもつ意味は二次的なものになるだろう。たとえば、養親子関係のもとで育てられた子どもが、実際に自分を育ててくれた親こそが「ほんとうのお母さん、お父さん」であって、顔も覚えていない生みの親のことは「親でもなんでもない」と考えるというような場合である。
 他方で、本書も含めて、これまでさまざまな研究が示してきたのは、「ハイブリッドな親子」関係を生きる人々が、血縁へのこだわりと向き合いながら生きているということである。さきほどのステップファミリーの例でいうならば、「新しいお母さん」は、子どもが実の母親と会っていることに複雑な感情を抱いているかもしれないし、子どもも「新しいお母さん」のそんな気持ちに気づいて、実の母親と会っていることを隠そうとするかもしれない。また、養親子関係のもとで育てられた子どもも、自分を育ててくれた養親への感謝の念は大きく、自分はこのお父さんとお母さんの子どもだという思いは強くても、それと同時に、心のどこかで実の親への思いをぬぐい去ることができないような場合もあるだろう。
 このような人々の血縁へのこだわりは、血縁でつながった実の親と子どもの関係、そのような関係のもとでなされる子育てが「ふつう」であり、そうでない関係や子育てと比べて、なにか特別な価値をもつものとする規範に由来している。
 本書では、家族社会学の視座から人々の血縁へのこだわりや実の親と子どもの関係を価値づけている規範を解きほぐす作業に力を注いだ。その結果明らかになるのは、このこだわりや規範の強固さであるかもしれない。しかし、社会学的な分析は血縁へのこだわりを社会的プロセスのなかに置くことで相対化する作業でもある。本書は、子どもが実の親だけではなく、多様な大人との養育関係のなかで「ふつう」に育まれる社会をイメージして、その輪郭を浮き彫りにすることを心がけた。現代の日本社会では、家族に子育ての責任が過度に集中することの問題が指摘され、「育児の社会化」の必要性が主張されているが、本書が示そうとしている新たな社会のイメージは、「育児の社会化」を構想するうえでも新たな視点を提供してくれるはずだ。

■代理出産■
 現代社会のテクノロジーの発展にともない、「ハイブリッドな親子」の血縁・家族へのこだわりが最も顕著に表出しているのが、代理出産や第三者の配偶子(精子・卵子)を用いた体外授精の場だろう。代理出産は、自らの卵子を用いて自分で妊娠出産をおこなえない女性が、第三者の女性に妊娠出産腹を委託する行為をさし、「遺伝的親」と「産む親」の分離がおこなわれる。また、カップルのいずれかの不妊が著しい場合、第三者の精子や卵子を借りて出産がおこなわれる場合もある。
 日本国内で代理出産は2008年4月に日本学術会議から出された提言によって原則禁止されていて、この問題に関する法はいまだに整備されていない。他方で、アメリカで代理出産をし、出生児の戸籍上の扱いをめぐって03年に訴訟を起こした向井亜紀・高田延彦夫妻の事例は有名だが、日本人による代理出産自体は、アメリカへの渡航はもちろん、インドやベトナム、タイなどのアジア諸国で生殖ツーリズムとして展開されている。
 また、精子提供や卵子提供による非配偶者間人工授精(AID)、特に精子提供は1949年に慶應義塾大学病院で開始され、これまでに約1万5,000人あまりの子どもが精子提供で生まれている。他方で卵子提供は、日本国内では原則禁止されているものの、アメリカやインド、タイやベトナムなど、海外で提供を受けることが頻繁におこなわれている。
 本書では、こうした代理出産や卵子提供などの生殖ツーリズムの拠点になっているタイやベトナムなどの経験者に取材して、提供者になっている女性たちの身体観や血縁・家族へのこだわりを浮かび上がらせた。そこから見えてくるのは、出産や生殖をめぐる文化的規範のあり方であり、彼女たちが身体感覚の位相で抱く、出産に対する意味づけの差異である。

■特別養子縁組■
「ハイブリッドな親子」と聞いて最も多くの方が思い浮かべるのが、養子縁組の親子関係かもしれない。そこでは、「遺伝的親」と「育ての親」の分離がある。本書では、養子縁組のなかでも特別養子縁組制度の立法化過程を取り上げた。
 普通養子縁組制度では、養子になった子どもは戸籍上、実親と養親の2組の親をもつことになる。だが、特別養子縁組制度は戸籍上、養親の子どもになり実親との関係がなくなる。特別養子縁組制度が誕生したのは1987年のことだ。長い養子縁組の歴史を振り返れば、近年になって誕生した新たな制度だといえるだろう。
 血縁関係に基づく親子観は、「ごく自然で自明のもの」として想起されやすい。他方で、特別養子縁組制度の立法過程をさかのぼるなかで見えてくるのは、「ごく自然で自明のもの」として意識されがちな親子観が、過去のある時点で偶然生じたものであったり、政治的な交渉のなかで恣意的に選択されたものであったりする、親子観をめぐる血縁のポリティクスとも言うべき事態である。本書で意識的に心がけたのは、「血縁」という一見強固に見える親子観を換骨奪胎しながら、そこで議論される政治的な交渉の背景をつぶさに浮かび上がらせることである。

■里親■
「ハイブリッドな親子」のなかでは、里親制度の親子のあり方もまた大きな主題である。養子制度が戸籍の変更を伴う親子関係構築の場であるのに対し、里親制度は児童福祉法に位置づけられた制度であり、虐待を受けた子どもなど、実親のもとでは養育が困難な子どもを第三者が一時的に養育する社会的養護の一つであるところに特徴がある。
 この社会的養護の実践の場で、乳児院や児童養護施設などの施設養護が望ましいのか、それとも里親委託のほうが望ましいのかという論争は長年にわたり繰り広げられてきた。だが、特に2000年以降の潮流は圧倒的に後者の里親委託への支持に傾斜している。本書で取り組んだのは、この潮流のなかで「里親」の位置づけはどう変化したのかを明らかにすることである。
 里親制度は児童福祉法に基づく福祉制度である。そのため、この制度は、「親」であること、「家族」であることを社会がどう評価・実践するのか、という問題と向き合いながら作り上げられてきた。里親制度で近年生じてる事態は、血縁・家族へのこだわりの今後を読み解いていく際、大きな試金石になるだろう。

■児童養護施設■
 里親制度などの「家庭的養護」と対比して語られるのが、乳児院や児童養護施設などでの子どもの養育であり、それは「施設養護」と呼ばれる。「施設養護」は里親制度と並んで日本の社会的養護を担ってきた代表的な場だが、近年、要保護児童の養育に占める「施設養護」割合の高さが大きな問題になっている。国連子どもの権利条約(1989年)では、実親家庭での生活が困難な子どもに家庭的な場での養育を保障することが盛り込まれ、日本の施設養護の多さに3度の国連勧告がなされてきた。
 子どもの「施設養護」は、家庭的な養護からは最も隔てられた場所でなされる育児である。そうした場所での育児規範は、「ふつうの家族」における育児規範とどのような交錯関係のなかで形成されてきたのだろうか。本書で試みたのは、「施設養護」における育児規範の歴史的な変容を跡付ける作業であり、1960年代から70年代に大きな画期があったことを明らかにしている。

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「ハイブリッドな親子」における血縁・家族へのこだわりを解きほぐしていく最大の意味は、ある種の息苦しさも含む「家族」から少し距離を置いて現在の親子関係を検証していく視座を確保することであり、血縁や実親子へのこだわりを一度カッコにくくり、多様な親子関係に目を向けていくことを世に喚起することにある。まずは多様な「現実」と向き合い、理解するということ――それが、個々人がもつ「こだわり」を解きほぐすことにつながる第一歩だと、そう信じている。

 

本書が受けるかもしれない誤解についての釈明――『怪獣から読む戦後ポピュラー・カルチャー――特撮映画・SFジャンル形成史』を書いて

森下 達

 エピローグにも書いたとおり、本書は、筆者の博士学位論文がもとになっている。博士論文を母校に提出したのは2014年12月のこと。そのときには、まさか2016年に新しいゴジラ映画が封切られることになろうとは――そして、それにふれた文章を書籍化した拙論に付け加えることになろうとは――夢にも思っていなかった。
 2015年7月、『シン・ゴジラ』(監督:庵野秀明、2016年)の製作発表に胸をときめかせた3カ月ののち、博士(文学)の学位を取得することに成功した筆者は、前後して改稿作業に力を注いでいった。最終的には、400字詰め原稿用紙に換算して150枚ほどの分量を削っている。もともとの論文にあった回り道や脱線を削除していけばいいのだから、これはそれほど大変な作業ではなかったのだが、問題は書名だった。
 すでに読んだ方はわかってくださると思うが、本書はいささか特殊な問題設定をおこなっている。特撮映画やSFを扱った本、というと、まず思い浮かぶのは、そのジャンルに包摂される作品に対する著者自身の熱い思いを紡いでいくことでジャンルの根本精神を深く深く掘り下げる体のものだろう。ファン向けのムックから評論本、学術的な香りをもった著作まで、読みの深さや議論の精度はそれぞれだが、こうしたスタイルを採用した書籍がもっとも広く世の中に流通している。
 そのほかに、著者の関心が作品よりも背後の社会に向けられている本も、学術書を中心にしばしば見ることができる。すなわち、ポピュラー・カルチャー作品を、社会の空気や時代の風潮をなんらかのかたちで反映しているものとして捉え、その変遷から社会の変化の重要な一側面を切り取って叙述する、というスタイルの書籍だ。
 だが困ったことに、本書はそのどちらでもないのだった。本書が焦点を当てるのは、前者の本がしばしば当たり前に存在するものとして議論の前提にする「特撮映画」や「SF」という「ジャンル」が、はたしてどのようにして形作られていったのか、ということだ。検討の過程では、ジャンルに包摂される作品そのものが第一に問題になるわけだから、この点では前者の著作にも通じる要素が本書にはある。しかし、ジャンルの存在を議論の前提とはしないので、これだけにとどまらず、主として同時代の作品評に着目して、当時どういったジャンル認識が通用していたのかも問題にしていく。その際、ジャンル形成の力学を、時代や社会との関係でもって論じることが多い点では、後者の著作にも近いところがある。こうした重層的な分析によって、ポピュラー・カルチャーという領域が「政治」や「社会」から切り離されたものとして形成されていった、その一断面を描き出してみようというのが本書の意図だった(成功しているかどうかについては、読者諸兄の判断を仰ぎたい)。
 しかし、このような執筆意図を、どのような書名でわかりやすくパッケージングすればいいのか。博士論文では、「「特撮映画」・「SF(日本SF)」ジャンルの成立と「核」の想像力――戦後日本におけるポピュラー・カルチャー領域の形成をめぐって」とタイトルを付したが、いかにも論文っぽくてぎこちなく、商業書籍の題名にはふさわしくない。研究者仲間に相談したら、『怪獣と政治』というすてきな書名を提案してくれたものの、なんの本かわからず「Amazon」が分類に困るということでこれもダメ。編集を担当してくださった矢野未知生さんからもさまざまなアイデアをいただき、紆余曲折を経て、『怪獣から読む戦後ポピュラー・カルチャー――特撮映画・SFジャンル形成史』に決定した。
 とはいえ、この書名が、「戦後ポピュラー・カルチャー」という領域の存在を前提にしたうえで、、、、、、、、、、、、、、、「怪獣というキャラクターがそこでどのような活躍をしてきたか」を歴史的に解説した本だという印象を与えかねないものでもあることに、筆者は一抹の不安を抱いてもいる。そのような期待を胸に本書を手に取り、購入するジャンルのファンがいるのではないかという懸念も、いまだにないではない。怪獣対決路線の映画が論じられていないとか、ガメラのほうが好きなんだとか、ウルトラマンを出せとか、「期待していたのと違う!」と、さまざまな不満を抱く方もいらっしゃるかもしれない。本当にすみませんでした、と、まずはこの場を借りて頭を下げておきたい。
 と同時に、「そういう趣味的な解説本ではなくて、あなたが興味をもっているそれらの領域がどのように形成されたかを外側から見る本なんです」ということも、あらためてここで強調しておこう。ポピュラー・カルチャーにはまった経験がある人にこそ、じっくりと読んでほしい。本書の問題設定を理解していただいたうえで、お付き合いいただければ幸いです。

 

本書の敵はディズニーマニアとディズニー? ――『ディズニーランドの社会学――脱ディズニー化するTDR』を書いて

新井克弥

 本書の執筆については、2つの「恐れる読者」を想定した。そして、これへの対応にかなりの時間を費やした。

 1つは本書でDヲタと表記したディズニーマニアの一群だ。彼らにとってディズニー世界は自らのアイデンティティーのよりどころ、そしてTDR(東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)は、それを確認しに向かう聖地。この部分に、いわば「ツッコミ」を入れているのが本書なので、必然的に彼らのアイデンティティーに抵触することになる。アイデンティティー=自己同一性という言葉が示すように、これらディズニー世界は彼らの人格を反映する、あるいはディズニーのことは自分のことというふうに認識している(ただし、膨大なディズニー情報から自らにとって親和性が高いものを抽出して、自分だけのディズニー=マイディズニーを構築しているのだけど)。そのために、TDRにツッコミを入れることは、筆者の意図の有無にかかわらず、結果として彼らの存在や人格にツッコミを入れることにもなる。
 当然、TDRが批判的に書かれていると受け取ればDヲタは傷つくわけで、そうなると一挙に反撃ののろしが上がることが想定される。その際の典型的な反撃法は内容のトリビアルなところに着目し、そこにツッコミを入れるというものだ。具体的には表記や事実関係の誤りへの指摘という形をとる。細部の誤りを指摘し、「こんなことさえ間違えているから、この筆者が書いていることはデタラメだ」と、細部の誤りを槍玉にあげながら、全体、とりわけ展開そのものを否定するやり方で、このパターンは筆者に対するブログのコメントでさんざん経験している。とにかく、彼らは知識がハンパではないので難敵ではある。
 書き手としては、当たり前だが中身をちゃんと読んでもらいたい。そこで、こうした指摘をできるだけ封じようと、2つの側面についてかなりの時間を割くことにした。1つは「事実関係の確認」。筆者とディズニーの関わりは50年に及んでいて、本書ではこの間の記憶をたどるかたちでの表記をいくつか含んでいるが、自分の記憶のなかで確認がとれていない内容については、最終的にすべて掲載を諦めた。例えば1983年のディズニーランドの開園と同時にプロモーションの一環としてディズニーアニメの短篇がテレビ放映された際、番組のCMのなかに松田聖子が登場するものがあったのだけれど、今回、本書を記すまで、このCMは服部セイコー(現セイコーホールディングス)の時計と思い込んでいたのだ。これは当時、廉価ブランドとして同社がALBAを発表し、このキャラクターに松田(「聖子のセイコー」というわけ)を起用していたからだ。ところがあらためて調べてみると、これがなんと靴の月星(現ムーンスター)だった。人間の記憶などあてにならないものだ。

 もう1つは、ディズニーに関わる名称の表記だ。ディズニー世界には膨大な語彙が広がっている。基本的に横文字のカタカナ化なのでスペースに該当する部分を「・」で結べばいいと考えたいのだが、事はそんなに甘くない。登記されている商標に沿っていなければならない。たとえば東京ディズニーシーのミュージカルが催される建物は「ブロードウェイ・ミュージックシアター」で、ミュージックとシアターの間に「・」がない。また、ここで上映されている「ビッグバンドビート」も、これで一文字という扱い。これらはすべてディズニー(TDR)のオフィシャルサイトに準拠して表記することにした。記載する項目が非常に多い分、このチェックだけでも大変な作業だった。
 とはいうものの、それでも最終的には何らかの間違いを指摘されるのは避けられないだろう(例えば、厳密なことを言えばTDRは2つのパークだけでなく、隣接する商店街イクスピアリなども含むのだけれど、こちらとしては、このへんはいくらなんでも省略してもいいでしょ?とは考えているのだが、こんなところにさえツッコミを入れてくる恐れがある)。

 もう1つの「恐れる読者」はディズニーカンパニー、そしてTDRを運営するオリエンタルランドだ。執筆にあたっては紙面をより視覚的で見やすくするために、当初かなりの量のイラストを挟んでいた。しかしこれに編集のほうから「待った」がかかる。「弁護士に相談したところ、著作権のことで裁判を起こされる可能性が高いので、原則カットでお願いします」。ということで、ディズニーに関わるイラストは本文中にパレードのフロートに関するものがたった1つ、しかも徹底的に単純化したものということで落ち着いた(117ページ参照)。カバーのイラストも○が3つとティアラの組み合わせ。この○3つはミッキーの顔と耳の比率とは微妙に異なっている。つまり、あくまで「○3つ」。そしてその上に描かれているのも、あくまで「ただのティアラ」。とはいうものの2つを並べると、一般読者には何を意味しているのかはわかってしまう寸法。「その手があったか!」と思わせるような巧妙なイラストに仕上げていただき、デザイナーには感謝している。

「恐れる読者」には、とにかく彼らを攻撃しているわけではまったくないこと、そしてディズニーという文化が、結果として現在日本でこのように受容されていること、さらにこの受容形態が今後とも続くことで、よりJapanオリジナルなものになっていくことを理解してもらえればと考えている。

 現在、年間3,000万人強の入場者を誇るTDRだが、その歴史は本家と比べればまだまだ。この先ずっとTDRが続き、ディズニー世界がもっと日常的な存在になったとき、言い換えれば、アメリカのように、夢中にならなくてもそこにあるものになったとき、ディズニー世界は完全に日本の伝統文化に組み入れられたことになるのだろう。そうなるのはまだ数十年先と筆者は考えている。

 

石井敦先生に捧ぐ ――『人物でたどる日本の図書館の歴史』を書いて

小川 徹/奥泉和久/小黒浩司

 近代日本図書館史研究の先駆者である石井敦は、いまから20年ほど前に『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』(1995年)という本を自費出版した。石井はその「まえがき」で、同書を編んだ目的を次のように述べている。

    個々の図書館でひたすら利用者へのサービスに尽してきた人、資料の重要性を深く認識し、周囲の無理解にもめげず、散逸しそうな資料を発掘し、収集し、組織化してきた人たちなど、100年以上の歴史をもつ日本の図書館界にはたくさんいたのである。こういう先輩たちの仕事をもっと明らかにし、司書の社会的評価を獲得すると共に、これから図書館員を目指す人たちを増やしたい。また図書館にこういう専門的な人が必要なことを証明したい。

 石井はさらに次のようにも述べているが、それは彼の図書館史研究が、図書館とそこで働く人々に対する敬意によって立つものであることを示している。

    もっと積極的に先輩たちの業績を見直し、どれだけ地域の文化発展に寄与してきたか、学生や研究者たちのために役立ってきたか、同業者として評価すべきだろう。自分たちの先輩の仕事を無視することは、まさに天に唾するもの、自らの仕事の無視でもある。自分の仕事に誇りをもつならば、先輩たちの仕事にも同様、目を向けて然るべきだろう。今日からみれば、無意味に見える仕事も、当時の厳しい環境の中では心血を注いで取組んだものもあったこと、そこには利用者への限りないサービス精神の発露していたこと、資料(書物)の社会的価値を洞察し、信念をもって官憲から守ってきたことなどなど、丹念に掘り起こし、再評価すべきだと思う。

 今日、図書館をめぐる環境には厳しいものがある。それだけに、地域社会のなかに図書館を定着させようとした先人の努力の跡を掘り起こし、そこから何かを学び取る作業をゆるがせにしてはいけないと考える。
 私たち3人が『人物でたどる日本の図書館の歴史』をまとめた原点はここにある。その思いを汲み取ってくだされば幸いである。

 

青春の記録は苦悩に満ちている ――『80年代音楽に恋して』を書いて

落合真司

 1980年代は、わたしが高校生・大学生として過ごした貴重な時間。
 ネットもスマホもない時代のきらめいた青春の日々。
 その青春は常に音楽とともにあった。

 いきなり格好をつけて3行書いてみたが、拙著の「あとがき」あるいは「執筆裏話」として書こうとすると、もう苦悩しかないので、格好などつけず正直に苦悩のメイキング・エピソードを綴っていく。

《苦悩1》
 7年ぶりの出版だ。編集に関わる仕事はしていたものの、専門学校の講師やデザインの仕事に専念していたため、完全なブランクと言える。スポーツ選手が引退してから7年後に復帰するのがどれだけ大変か想像してもらいたい。とにかく書けないのだ。「えっと、原稿ってどうやって書いていたんだっけ?」という状態。「もう終わったな、自分」と毎日へこんで病んで自暴自棄になったりもした。
 超人的なスピードで原稿を書きまくって多数のヒット作を生み出している西尾維新先生は絶対に現在の人じゃない、きっと未来人で時間をコントロールするテクノロジーをもっているんだ、とバカなことを考えて自分を無理やり納得させた。10分もしないうちに再び自己嫌悪に陥るのだが。
 それでも少しずつ書かなければ本当に人として終わってしまいそうなので、キーボードをカタカタ叩いてみる。10分原稿を書いて50分休むというダメ人間。無駄に部屋の掃除を始めたりマンガを読んだりするクズ人間。
 気持ちが乗ってすらすら書けるときもあるが、あるアーティストのデビュー・アルバムについて書こうと思うと、当然あらためて聴き直すことになる。じっくり何度も聴く。別のアルバムも聴いてみる。気がつくと何時間もたっている。きょうはこれで終わりにしよう。言うまでもなく翌日もこのループ。

《苦悩2》
 ずっと以前、「神戸新聞」に「愛しの80年代」というタイトルでコラムを書いたことがある。それが思った以上に好評だった。「あ、これはいけるかも」と手応えを感じたが、オヤジの(昔はよかった的な)昔話ほどつまらないものはない。だからそういう書き方は避けて、しっかり時代背景と音楽をリンクさせようとする。
 ところが、どんなに調べて分析して考えても、時代性と音楽性に密接な関係が見えてこない。どうしよう。ますます原稿が進まなくなる。

《苦悩3》
 わが青春の80年代。ネタには困らない。そう思っていたが、本当にたくさんのことがあったのにうまく思い出せない。高校生のギャグマンガを描いているマンガ家が、「高校時代にバカなことをたくさんしたはずなのになかなか思い出せず、ネタがなくて困っている」と語っていたことがあったが、まさにそれ! 原稿は依然として進まず。

《苦悩4》
 レコードのジャケットを掲載することになった。スキャンするために探してみるが見つからない。見つかっても掲載したいアルバムではないものが出てくる。
 多くの音楽ファンはそうだと思うが、愛聴していたレコードがCD化された時点でCDを買うので、それまでのレコードは押し入れの奥のほうにしまい込んでしまったりすると思う。引っ越しを繰り返し、やがてレコードは行方不明になる。わたしも同じである。
 できればCDではなくレコードのジャケットを掲載したい。そこで、中古レコード店やネットオークションを探し回って手に入れることにした。これが意外にも高額なのだ。300円ほどで買えるだろうと思っていたら、定価よりも高い値がついていることもあり、とんだ出費になってしまった。
 これまた多くの人が経験すると思うが、ネットで何かを探していると、あっという間に時間が過ぎてしまう。つまり、そういうことだ。原稿はまったく進まない。

《苦悩5》
 気がつくと3年がたっていた。やっと書き上がった。読み直して愕然。書き始めた頃と最近とで文章のテイストが変わっているではないか。書き直しかぁ、ぞっとするなぁ。
 また、80年代音楽は自分にとって結局何だったのか、クリーンヒットな答えが見つからないまま編集作業が進み、再校の段階でやっと書き直すという危険な行為に出てしまう。
 
《苦悩の果ての感謝》
 原稿もまともに書けないくせに、装丁を自分でやりたいと申し出てしまうバカな自分。
 だが、すでに構想はあった。デザインの専門学校で進級制作を担当したとき、80年代風のすてきなイラストを描く学生がいた。オタク系ネット世界ではそこそこ有名な絵師だったその学生にカバーイラストをお願いしようと思い、久しぶりに連絡を入れてみた。卒業して仕事をしているはずなので、忙しくて描いてくれないかもしれないが、まあダメ元で。すると、絵の活動をしながら、実はまだ卒業せずに学校に残っているとのこと(同じ学校にいて顔を合わせない不思議)。よし、これは描いてくれるかも。
 おかげですてきな装丁になった。
 そして、こんなダメ人間なわたしに付き合ってくれた青弓社の矢野さんや編集者、営業のおかげで、やっと今度こそ本当に完成した。「本を一冊完成させるってこんなに大変なんだ」とあらためて思い知り、同時に多くの人に感謝する本になった。ありがとうございました。

 

植民地の図書館事業を再考するために ――『図書館をめぐる日中の近代』を書いて

小黒浩司

 本書の執筆・校正と並行して、戦前期の図書館用品のカタログを復刻する計画を進めてきた。こちらは現在その解題などの校正中だが、ゲラを見ていてあらためて気付いたことがある。
 図書館用品店のカタログには、それぞれの用品類を採用した図書館などの名称が写真入りで多く掲載されているが、その相当部分を植民地の図書館が占めている。植民地では図書館事業の改善に意欲的で、それが新しい用品の導入につながったと考えられる。植民地の図書館事業が内地に比べて「進んでいた」ことの一つの表れなのかもしれない。
 一方、用品店は内地の図書館への売り込みに苦労していた。そこでその打開策として植民地の図書館に積極的な攻勢をかけた結果でもあるのだろう。それでは、内地での販売がなぜ振るわなかったのだろうか。その理由としては次のようなことが考えられる。
 例えば木製の目録カードケースであれば、わざわざ用品店に注文しなくても、近所の木工業者に作らせたほうが手っ取り早いし、何かと融通がきいた。しかも総じて安上がりだった。
 品質の面でも問題はなかった。日本には伝統的な技術、高度な技術を有する木工業者(指物師)が多数存在していた。船箪笥などを見ればその優れた技がわかるだろう。地元業者も、専門店に勝るとも劣らない製品をたやすく作ることができたのである。
 さらには従来からの出入り業者への配慮も必要だろうし、地域の産業の保護・振興も考えなければならなかっただろう。新興のよそ者の用品店への発注は、さまざまな点から異例だったと考えられる。
 これに対して、植民地には「しがらみ」がなかった(もちろん、植民地でも本来は現地企業の育成を図らなければならないはずなのだが)。図書館は購入したいと思う用品を買うことができた。「金に糸目を付けない」経営が可能だったのである。
 図書館用品店は植民地の図書館との取引によって利益を確保し、技術を高めることができた。この国の図書館用品業の黎明期を支え、その後の発展の基礎を築いたのは外地の図書館だった。それは単に図書館用品だけではなく、この国の近代の産業全体の構図だろうし、他の列強諸国にもある程度共通していた事情だろう。
 植民地の図書館事業に対して、日本の植民地経営総体に対して、肯定的な評価をする人たちが少なくない。しかし、そうした見方こそがこの国の「近代」に対する偏向した見方であり、世界史的な視点に欠けた論といえるだろう。