高橋明彦
2015年が終わろうとしている。今年は全般的にろくでもない年だったように思うが、私にとっては楳図かずおデビュー60周年に間に合って、デビュー作『森の兄妹』刊行日の6月25日に合わせて本書を発表できたという意味でだけ、いい年だった。難産だったこの本は、私も一時期は、出てくれるだけでもう十分、誰も読んでくれなくたっていいよとさえ思っていたのだが、そうした悲しい予感に反して、それなりに好評をもって迎えられ、たいへんありがたいことだと感じている。まず、楳図先生からは拙宅宛てにお花を贈っていただいた。また、書評としては、松田有泉(「サンデー毎日」〔毎日新聞出版〕)、トミヤマユキコ(「図書新聞」)、武田徹(「朝日新聞」)、飯倉洋一(「西日本新聞」)、栗原裕一郎(「週刊読書人」)、風間誠史(「北陸古典研究」〔北陸古典研究会〕)の各氏に書いていただくことができて、望外の幸せとはこのことである。ネットで評してくださった方々も含めて、あらためてお礼を申し上げたい。なお、これらの文章は私の個人サイト(「半魚文庫」〔http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/〕)からリンクを張ってあって、すべて読めるようにした。拙著がどれほどすばらしい本なのかは、これらの書評を読んでくれると、それはもう非常によくわかるようになっているのだ。
冗談はおくとしても、そうすると今度は私自身が自著を評する番かな、とも思う。という次第で、いろいろ書きたい気もするが、いまは次の3点を記しておこう。
1つ目は、楳図理解に関する私のもくろみについてである。もくろみとはもちろん、これまでの楳図観の更新にある。神田昇和さんによる(感謝!)特徴的 Characteristic(キャラの立った)な装丁の配色になぞらえるなら、楳図には、赤・黒・白の3つの様相がある。赤い楳図とは、テレビやイベントで見せる楽しく愉快な姿であり、「グワシ!」の楳図かずおである(なお、グワシは物をつかむときの擬音を旧仮名遣いで表記したもので、楳図氏本人は「ガシ!」と発音している。楳図マメ知識)。ふだんの氏はハイテンションなわけではなく、あれはあくまでサービス精神旺盛ゆえの一様相なのだ。黒い楳図とは、残酷で陰惨な猟奇趣味の楳図かずおである。『赤んぼ少女』のタマミは、差別され怖がられ憎まれ、そして死んでいった。しかしそこに感じられる憐憫には、甘美な陶酔への誘惑がないだろうか。美にこだわり醜さを恐れ、その間に停滞し沈殿し、汚辱にまみれたわが憐れさに自己陶酔するような、倒錯的な世界である。自分は理想を捨てた下劣で汚れたケモノにすぎないのだ(ちょうどいま日本が罹患している悪性感冒の闇・病みのように)。この黒い楳図を一言で表している楳図自身による言葉が「人など好きになったから、おまえ今日からへび少女」である。知は絶望するためにはたらいている。
白い楳図とは、理知的かつ倫理的で、知的洞察ゆえに絶望を抱きつつも、その果てに希望を見いだそうとする、求道者であり預言者としての楳図かずおである。
赤・黒・白の3つの様相は、互いに混じり合い中和されることなく、対立しつつ共存している。さて、私の『楳図かずお論』は、この白い楳図を強調したものである。つまり本書の楳図理解には多少の偏りがある。それは、これまで赤い楳図がデフォルトで、それは決して間違いではないが、あまりに浅い表面的な理解であったし、それに対して楳図に黒さを見いだすことこそが楳図理解だったような面があった、と私は感じてきたからだ。本書はそうした傾向に対する抵抗であり、状況に応じた戦略をとるものであり、実際私は本書で『洗礼』も『赤んぼ少女』も『神の左手悪魔の右手』も、黒ではなく、白い物語として読解したのである。
なお、白い楳図の具体像は、認識論から存在論へと遷移した恐怖として、一般化することができる。認識論的恐怖を一言で表している楳図の言葉が「追っかければギャグ、追っかけられれば恐怖」であり、存在論的なそれを表す言葉が「宇宙ではどんな想像も許される」であるが、これらの詳細については本書でるる述べている。念のため簡単に繰り返すなら、前者は立ち位置によって対象の意味が変化する遠近法主義 perspectivism である。後者は、この世界が存在する必然性はどこにもなかったかもしれないという、偶然的な可能性がもつ恐怖である。ただしこの恐怖は、「可能性が可能性のままでいられるありかた」(九鬼周造)をいうものであり、人間の自由の源泉でもあるのだ。
2つ目に移ろう。本書において私は自身の文学論(芸術論)を再編成した。楳図論を書きつづってきたこの10年は、私が若い頃から信奉してきた記号学・テクスト理論・脱構築を捨て去るプロセスだった、ともいえる。サバラ!わが青春よ。
たしかに記号学とテクスト理論が主張したように、超越論的シニフィエ(作品の絶対的意味)は不在であり、意味は未決定である。しかし、いつもどんなときも作品の意味は未決定なのか。私がかくかくしかじかのものとしてこの作品を読むということは、まったくなんらの根拠をもたない空疎で偶然的な暗闇の飛躍でしかないのか。そうではない、と言いたい様々な理論がありうるだろうが、私は本書において、アンリ・ベルクソンの身体論やジル・ドゥルーズのイデア論を利用してこれを述べている。まず、ベルクソンに依拠した、機械論と目的論とをともに超える「ゆるやかな目的論」については、索引を頼りに本書で探してお読みいただければ幸いである。読解は、ああも読めるこうも読めるという単なる知的ゲーム(脱構築)ではなく、それなくしては私が私として生きていけないような、一つの行動性である。それはある種の反知性主義であり(2015年に流行したそれとは違う意味です)、認識(テオリア)に対して行動(プラクティス)を駆動させるものである。
ドゥルーズについては、本書では個体化の問題(虚構と現実の関係の再編成として)、シーニュの習得論(ベルクソンの知覚との比定において)、モナド解釈(可能世界論批判として)などではふれたが、イデア論については書ききれなかったので、備忘のために記しておこう。元祖たるプラトンのイデア論は本質分有説と呼ぶべきもので、まずイデアの何たるかはあらかじめ決まっている。その本質=正解たるイデアに対して、個々の実在はそれぞれの出来不出来が分有率のごとくに点数化され、序列づけられた存在である。反哲学や脱構築はイデアの完全なる否定を目指したものであろうが、ドゥルーズのイデア論は完全な否定ではなく、問題解決説と呼ぶべき、転倒的なある種の肯定である。イデアとは純然たる問題であって、個々の実在は問いに対する解として、自らを自らが置かれた状況に応じて解として、肯定しうる存在である。出来不出来はさておき、自分はこの状況に応じたあり方で生きているのだ。例えば、美というイデアを体現しているような完璧な美術作品がこの世にすでに存在していたとしても、それでも私にもまだ新たな作品を作る権利があるのは、このドゥルーズ的なイデア論を認めているからである。
さて、ドゥルーズは、プラトンに加えてイマヌエル・カントも批判しているが、実はカントもまた反プラトン的であって、ドゥルーズに近いらしい。柄谷行人は、カントのイデア(理念)論が構成的理念と統整的理念とに区別されていることを重視している(柄谷行人『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』〔〔岩波新書〕、岩波書店、2006年〕など)。構成的(constitutive)が本質分有的であるのに対して、統整的(regulative)とは、正解は決まっていないが、解を引き出すための目標のようなものだという。言い方を換えればそれは問題解決的である。少し話は飛ぶが、丸山真男に「「である」ことと「する」こと」という有名な論文がある(丸山真男『日本の思想』〔岩波新書〕、岩波書店、1961年)。これもおそらく系譜的にはカントの子孫であり、ドゥルーズや柄谷の兄であろう。デアルは構成的であり、スルが統整的なのだ。丸山には「憲法第9条をめぐる若干の考察」(丸山真男『後衛の位置から――『現代政治の思想と行動』追補』未来社、1982年)という論文があって、今年読んでみて感銘を受けたが、ここでも同じ構えが生かされている。9条は戦争を放棄したデアルの状態を宣言するものでなく、また平和の柵を設置して権力を制限させるものでもなく(それは静的消極的だとしてさほど評価していない)、政策決定を平和へと方向づけスルのだといっている(ただし、丸山は実効的 operative という言葉を使っている)。9条第2項と現実の自衛隊や国家間紛争の存在とは決して矛盾せず、9条が有する動的積極的な実効性は現実の矛盾を超えてなしうる平和運動としてはたらく、というのである。
いい思想には、モダンもポストモダンもないのだろう。丸山には「現代における態度決定」(『新装版 現代政治の思想と行動』未来社、2006年)というエッセーもある。真理を求める無限プロセスであるところのテオリア(認識)をあきらめ断ち切るときにはじめて行動が可能になるといっているのだが、読解もまた、ああも読めるこうも読めるという知的ゲームではなく、その作品が私の状況にとって、あなたの状況にとって、どんな有効性をもつかということにだけ意味があるのだ。
3つ目である。本書では『14歳』を具体的に論じることがなかった。いま、私は自分の授業で『14歳』を4年かけて講義している。来年は3年目だが、そう遠くないうちに、私の楳図研究第2弾として『14歳』論を完成させ、出版しようと考えている。分量は手軽な新書程度がいいなあ。タイトルはもう決まっている。「楳図かずおの生命思想――『14歳』を読む」。『14歳』は楳図の現在最後のマンガ作品でSF超大作である。日本の首相や世界の首脳会議を描いて、そしてバイオテクノロジーやメディア戦略、暴力とテロル、貧困と奴隷制、エネルギーと環境問題を描いて、きわめて今日的であり、今年的な作品である。人間的尺度を超えて、そこには生命全体への、愚直なまでの愛がある。それは、恐怖と背中合わせの自由と希望である。
甘美な絶望をとりあえず拒否して、白い楳図を見習いたいと思う。とはいえ、年内にこの原稿を矢野未知生氏(本書を刊行にまで導いてくれた)に送ることが、いまの私がなしうるせめてもの誠意でしかない。2016年はもっとひどいことが起きるかもしれないが、未来に希望をつかむとき、元気な赤い楳図が再び復活するだろう。グワシ!
(2015年12月25日執筆)