外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。