やるべきことを、やるべきときにやる――『海外ルーツの子ども支援――言葉・文化・制度を超えて共生へ』を出版して

田中宝紀

 約1カ月前、私の初めての単著『海外ルーツの子ども支援――言葉・文化・制度を超えて共生へ』を出版しました。
 私が海外ルーツの子ども支援に携わり始めたのが2010年。その頃の私は、現場のど真ん中で日々子どもたちや保護者と向き合い、必要があれば学校に出向いて交渉や相談を重ねる「支援者」でした。ときには自宅を繰り返し訪問したり、自治体の担当者に状況の改善を求めたりなど、“いま、目の前の子どもに必要なこと”を手探りで続けていました。
 そのような日々のなかで、子どもたちの現状や課題について「書いて発信する」ことを意識し始めたのは、この仕事に携わるようになってから5年後の2015年のことです。きっかけは、同年2月に神奈川県川崎市で発生したある事件で、当時中学1年生だった被害者の男子生徒が、河原で10代の少年たちにナイフで殺害された、残忍で痛ましい出来事でした。
 当時、メディアによる連日の報道によって事件の背景が明らかになるにつれ、私は主犯格の少年が海外にルーツをもっていることを知りました。そしてその主犯格の少年が置かれた環境から、もしかしたらこの少年は「シングルリミテッド」(母語を喪失し、日本語モノリンガルだが、その日本語力が小学校低学年程度でとどまっている状況)なのではないかと感じました。その直感をもとに、個人ブログの記事としてシングルリミテッド状態に置かれた子どもの苦しさや大変さ、なぜシングルリミテッド状態に陥る子どもが存在しているのか、その要因である日本語を母語としない子どもの教育機会が不十分な実態などを、主犯格の少年を理解する手掛かりになるのではないかという趣旨で書いて公開しました。
 正直にいうと、記事を公開するまでは不安や怖さがあり、強い批判を浴びるのではないかと感じていました。どちらかというと、記事の内容が主犯格の少年を“擁護”していると受け取られても仕方ないものだと思っていたからです。しかし、私の小さな懸念が吹き飛ぶくらいその記事は拡散され、最終的に何万もの人読まれました。そして記事を読んだ人から届いた感想やコメントのほとんどが、シングルリミテッド状態に陥る子どもの苦しさについて共感するものや、「(主犯格の少年に)そうした背景がある可能性を知ることができてよかった」といった内容のものでした。また、記事の内容の多くは、日頃海外ルーツの子どもと関わりをもつ私たち支援者にとっては「あるある」の事柄でしたが、読者からは「初めて知った」「気づかなかった」「重要な課題なのでもっと知りたい」といった声を寄せていただきました。
 この出来事をきっかけに、私は私たちの「あるある」がどれほど閉じたものだったか、そのことを「一般化して伝えること」や「身近に海外ルーツの子どもがいない人にわかりやすく伝えること」がどれほど大切であるか、に気づきました。

 それ以降、私は「課題の社会化」を活動テーマのひとつとして掲げ、海外ルーツの子どもやその家族が置かれた状況がどれほど困難なのか、その課題がどれほど重要なのか、どうやってそれを解決していけるのか、などを書いて発信していきました。もちろん、「わかりやすさ」は諸刃の剣であり、ときに偏見を強化することにつながったり、海外ルーツの子ども自身を傷つけたりする可能性も感じてはいました。それでも、伝わるように伝えなければいつまでも子どもたちが置かれている状況は変わらず、その存在さえも「見えない」ままになってしまうという危機感に後押しされ、発信を続けてきました。そしてその発信がどのような広がりとつながりをもたらしたかについては、拙著で書いたとおりです。

 現時点でも海外ルーツの子どものことを知らない人や、知っていても詳しくはわからない人はまだまだたくさんいますが、それでも国や自治体、教育関係者や公益活動の担い手など、海外ルーツの子どもたちにとって重要な役割を担う人々の間では少なからず「課題認知」は進んだ、という実感をもっています。
 半ば意図しない状況から「あるあるを書き、発信する」という役割を(勝手に)担って歩んできたこの数年間。書くべきときに書くべきことを書けないと悩んだり、批判を受けてもう書くことをやめようと思ったり、(私自身にとっては大きな)山も谷もそれなりに経験してきました。それでもなんとか書くことを続けてきた、その結果が、少しでも子どもたちの状況改善や課題解決につながってくれているのであれば、これほどうれしいことはありません。

 今回、これまでの歩みと経験から見いだした「あるある」をまとめたことで、私が担ってきた役割は一段落した、と肩の荷を少し下ろすことができました。これから先、私が書く文章がどのような役割を新たに担うかは、いまはわかりません。
 ただ、いまでも目の前に子どもたちがいて、コロナ禍のなかで状況はよくなる気配をまだみせていません。
【やるべきことを、やるべきときにやる】
 これからもそんなシンプルな日々を積み重ねて、子どもたちの未来を開き、多様な人々がともに生きることができる社会を実現する。その実現に向け、多くの方々とともにその一端を担い続けていきたいと思います。

 

答え合わせ――『言語聴覚士になろう!』を出版して

みやの ひろ

 得てして、職業紹介本はお堅いイメージがある。特に医療系の職業となればなおさらだろう。
 本書の依頼がきたとき、従来のイメージを払拭した、手に取りやすく読みやすい本を書くことが私に課せられた命題だと勝手に考えた。
 幸いにも、編集者から提示された「言語聴覚士になろう!」というタイトルはポップで親しみやすい。このタイトルに合うように、内容面にもある程度の“遊び要素”を取り入れてやわらかさを出し、かつ、メリハリをつけることでストレスなく読み続けられるよう工夫を施すことを提案する。

「すてきなお考えですね。まずは自由に書いてください」

 編集者からの理解も得られ、新しいイメージの職業紹介本の作成に取り掛かる。原稿を書いているうちに、多少、“遊び要素”の域を超えたおふざけの箇所も入ってしまったが、それはそれで一興だろう。
 編集者がどんな反応をするのかワクワクしながら原稿を提出する。そして、数日後、編集部で遊び要素をほぼ削除した校正刷りが手元に届く。
 ……従来どおりのお堅い本になっとるやないかーーーーい! え? 原稿提出段階では面白いって言ってたよね? 個性的って言ってたよね? 自由に書いてくださいって台詞は嘘だったんかーーー!!!
 まさかの全ボツ。最高にハイなスタンド使いも真っ青の無駄無駄ラッシュだ。なぜこうなったのか。よくよく編集者の台詞を思い出す。

「まずは自由に書いてください」。自由に書いていいと言っている。
「まずは自由に」。絶対に言っている。
「まずは」。まずは……!? そのまま採用するなんて一言も言ってない!

 これは、まさか! 叙 述 ト リ ッ ク!
 ……してやられたーーー! まさか一編集者が高校生探偵でも見逃してしまいそうな高等技術を駆使してくるとは! さすが出版業界、レベルが高ぇぇぇぇ!!!
 だが、こちらだって言葉のスペシャリストの異名をもつ職業。やられっぱなしで終わるわけにはいかない。編集者に気付かれないように、いや、むしろ編集者が賛辞を贈るようなトラップを仕組んでやろうじゃないか!
 そう、それはまさに超高難度ミッション。二重三重に張りめぐらせた網の先に、ついに編集者からその言葉を引き出すことに成功する。

「このコラムのタイトル、とてもすてきですね」

 ……よっしゃーーー! してやったぜーーー! ついに、ついに編集者にバレることなくトラップを仕掛けることに成功したぜーーー!!!
 というわけで、本書は遊び要素たっぷりでお送りしました。本書とは全く関係がない「原稿の余白に」でごめんなさい。
 ちなみに遊び要素とは漫画や映画などのパロディーです。わかりやすいものもあれば、すっごく巧妙に隠しているものもあります。最低でも1章につき1つは埋め込んでいますのでぜひ探してみてください(この「原稿の余白に」にもいくつか埋め込んでいます)。
 そういえば、この文章のタイトルは「答え合わせ」でしたね。ですが、トラップの経緯に一生懸命で答えを書く紙幅がなくなってしまいましたので自力で見つけてください。ちなみにヒントのひとつは海賊王です。では、答えの続きはウェブで。なんちて(笑)。

 

防犯のAI化と犯行手口の進化――『万引き――犯人像からみえる社会の陰』を出版して

伊東ゆう

「万引きする人って、そんなにたくさんいるんですか?」
 初めて会う人が私のキャリアを知ると、必ずといっていいほどに驚かれる。そのほとんどが犯罪とは無縁の人たちだから、至極当然のことだろう。その一方で、過去の悪事を告白してくる人も珍しくない。
「学生のころ、捕まったことあるよ。ほしいけど高くて買えないもの、平気で盗(と)っていた」
 万引きは軽く思われがちだからなのだろうか、あの店やこの店であんなものやこんなものまで盗っていたのだと、泥棒自慢をされることもある。
「このくらい、いいじゃないか」
「みんな、やっていることだ」
「捕まらないようにうまくやればいい」
 これこそが万引き行為に至る被疑者の心理といえる。しかしながら悪い心を完璧に隠すのは難しく、その多くは挙動に表れ、いずれ私たちの目に留まることになる。万引きの成功体験をどんなに多くもっていても、絶対に捕まらないという保証はどこにもないのだ。
「万引きという言葉が軽いから、いっこうに減らないのではないか。万引きと呼ばずに窃盗と呼べばいい」――そんな意見をよく耳にする。万引きとは商業施設内での窃盗の形態や手口を表す言葉で、スリや空き巣、置引、ひったくりなどと同じように使われている。被害届や逮捕手続書などの罪名欄を見れば一目瞭然、「窃盗(万引き)」と記載されるのだ。「万引きは窃盗だ」と声高に叫ぶ人もいるが、そんな当たり前のことを周知する必要性は感じたこともない。万引きが悪いことだと知らない人は、まずいない。それに万引きを窃盗と呼ぶことになれば、調書などの罪名欄が「窃盗(窃盗)」になってしまう。現場知識がないための意見だろうが、耳にするたびに「そうじゃないんだよ」と説明したくなってくる。
 同様の例を挙げると、オレオレ詐欺を特殊詐欺、盗撮行為を迷惑防止条例違反と呼んでいるが、被害が減るなどの変化は見られない。たとえ万引きを店内窃盗などに言い換えても、目に見える防犯効果は期待できないだろう。
 ちなみに、私自身は捕まえた被疑者との会話で万引きという言葉を極力使わないようにしている。そのかわりに「泥棒」だとか「盗みにきた」という厳しめの言葉を多用する。再犯防止のために、少しでもいやな記憶を残してやりたいのだ。その日を最後にしてくれるなら、多少恨まれてもいい。これからも、そんな気持ちで被疑者と接していくつもりでいる。
 最先端の防犯機器を用いた万引き防止対策は、ここ数十年でかなり進化している。防犯機器を導入する予算がある商店に限られるが、特に顔認証技術は向上していて、常習者情報の共有範囲を拡張する動きも盛んになってきた。防犯カメラ映像の解像度は急速に向上していて、人物の特定はもちろん、手にしている商品や紙幣、小銭までも明瞭に記録できる。映像検証による被害の特定が容易になった結果、被害届が受理される確率は高まり、その後の捜査で逮捕に至るケースも増えた。しかしながら、その多くは大量または高額の被害で、毎日一つだけ盗んでいくような高齢常習者までは対応できていない。私が推奨する「店内声かけ」は、こうした高齢常習者に対して効果的な万引き抑止対策の一つなのだが、新型コロナウイルスの影響で店内で他人と対話する機会は失われ、声をかけることさえもが難しい状況だ。犯行を思いとどまらせるすべは目合わせくらいで、それに気づかないままに実行されてしまえば、たとえ後期高齢者でも被疑者ならば捕捉するしかないのである。
 防犯システムがめざすところは、無人店舗での防犯のAI(人工知能)化のようだ。多様化する精算方式に合わせて、各種セルフレジのほか、精算端末付きのカートを導入している商店も現れ、店舗の無人化を見据えた動きは加速している。支払いに利用する電子マネーなどには身分確認を経た個人情報が保管されていて、そうした状況下で犯行に及ぶとすればホームレスなどによる緊急避難的な行為しか思い浮かばない。そのような人の多くは電子マネーを利用できる環境になく、店舗への入場さえ許されないこともあり、人権問題にまで発展する可能性もある。万引きさせない店づくりの完成形といえるかもしれないが、人間味がなくなると商店としての魅力が欠けることは確かで、そのあたりの調整が難しそうだ。いずれにせよ、近い将来には店内でのすべての行動が記録されるようになることは間違いなく、私たちの仕事が形を変える日もすぐだろう。そうはいっても、万引きは社会情勢や時流に影響を受けやすい側面がある。犯行手口も進化することを忘れてはならない。
 本書の多くは、2018年3月からウェブサイト「サイゾーウーマン」に隔週で連載してきた「オンナ万引きGメン日誌」をリライトして、現実の事件に近づけて再現したものだ。ここで初めて話すことだが、「オンナ万引きGメン日誌」の主人公である澄江のモデルは実在するが、その内容のほとんどは私自身の体験談なのである。女性向けサイトでの連載なので、読者が感情移入しやすいように考えてキャリア40年のベテランオンナGメン澄江を創作して書き始めたのだ。近頃は、澄江の話を聞きたいと各メディアから取材を申し込まれるまでになり、どこか心苦しく感じていた。そろそろ実情を告白しようかと思っていたところ、公私ともに深くお付き合いしている香川大学の大久保智生准教授から青弓社の矢野恵二さんを紹介してもらって、タイミングよく出版オファーを受けた。連載当初から「いつか書籍にしたい」と思いながら書いてきたが、こんなに早く実現するとは予想もしていなかった。自分を主人公にして書き直したいという気持ちもあったので、二つ返事で引き受けた次第だ。サイト内のアクセスランキングで1位になりそこそこ話題になった作品も複数所収しているので、ぜひお楽しみいただきたい。

 

テュケーを追いかけて――『アニメと声優のメディア史――なぜ女性が少年を演じるのか』を出版して

石田美紀

 少年役を演じる女性声優の歴史を記述することは、長く苦しい体験でした。もともと遅筆の筆者ですが、今回はそれだけではなかったように思います。声は人間にとって基本的な表現手段のひとつです。そのため、声優と呼ばれる声の演技者の活動領域は多岐にわたります。
 1963年に放送が始まった連続テレビアニメの原点『鉄腕アトム』(フジテレビ系)も、声優という職業の出発点ではありません。テレビの黎明期である50年代初頭から、声優は海外テレビドラマや洋画の吹き替えで活躍すると同時に、連続人形劇でもさまざまなキャラクターを演じてきました。さらにテレビが登場する以前の声のメディアであるラジオも、声優なしでは成立しませんでした。特に敗戦後の連合国軍の占領期には、女性声優たちが自分とは性別も年齢も異なる少年役を演じ、連続ラジオドラマという新しいジャンルを日本に根づかせ、花開かせました。
 声の表現者たちの調査は、本書の執筆開始当初には想定もしなかった時代とメディアへと、筆者を誘っていきました。新しい領域にさしかかるたびに筆にはブレーキがかかり、議論の方向も変わっていきました。そのため、本書を担当した編集者のおふたりの手をずいぶん焼かせてしまいました。
 そしていま、本書の執筆で経験した紆余曲折は、「幸運の女神」を追いかける道のりだったと感じています。「幸運の女神には前髪しかない」という有名な警句があります。チャンスはそれが訪れた瞬間につかまなければものにできないよ、ということですが、ここで言っている幸運の女神とは、古代ギリシャでテュケーと呼ばれた運命の女神です。実は、本書の出発点のひとつになった発表で、筆者はテュケーと遭遇しています。なんとまあ大げさな、と思われるかもしれませんが、いましばらくお付き合いください。
 2018年2月、ドイツのある大学で、現代の大衆文化のなかのキャラクターを主題にシンポジウムが開かれていました。ヨーロッパ各地やブラジル、そして日本から参加した研究者が、アメリカのコミックスからマーベル映画、はたまた『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー、1818年)に代表されるゴシック小説まで、それぞれが関心をもつ領域・メディアのなかのキャラクターを考察し、意見交換をおこないました。
 筆者は1990年代のアニメを選び、キャラクターを構成する絵と声がアクロバティックな関係を取り結びながら、ジェンダーとセクシュアリティの多様性を切り開いていったことを発表しました。分析の中心になったのは、少年役から青年役を得意とする緒方恵美さんが演じた女性キャラクターである天王はるか/セーラーウラヌスです。「らしさ」を華麗に一蹴するこの女性キャラクターが、女性が演じる少年役という日本の連続テレビアニメの慣習と、そこに蓄積された声の演出から生まれたことを論じました。
 発表のあと、聴衆のひとりが「あなたはテュケーを追いかけているんですね」とコメントをくれました。それは思いもかけない感想だったのですが、すぐに、ああ、と腑に落ちました。この方は、アニメというシステムを確実に作動させるために少年役を演じる女性声優の声が、システムが予期しなかった女性キャラクターを生み出したことを、不意に現れる幸運の女神になぞらえていたのです。
 テュケーという名を聞いて、画家アルブレヒト・デューラーが16世紀に描いた運命の女神の姿が頭に浮かびました。このデューラーの銅版画は『ネメシス(運命)』と題しているとおり、描かれているのはテュケーではありませんが、ネメシスはテュケーとともに運命をつかさどる存在です。
 デューラーの手になる運命の女神は、球体に乗って空中を移動しています。不安定な球体は、予測不能な運命の寓意です。筆者にはこの球体が回転しているように見えるのですが、回転という運動は規則的であり、予測を裏切ることはありません。予測がつかない運命の女神の乗り物がこのうえもなく安定した運動を見せるのなら、彼女は安定したアニメのシステムから生まれた型破りな女性キャラクターのもうひとつの姿かもしれない。そう筆者は考えました。
 たしかに、これはネメシスとテュケーの区別もつけない乱暴な思い込みでしょう。ただ、そのときから筆者にとって、アニメのシステムと少年役を演じる女性声優について考えることは、まるでテュケーをつかまえるかのようでした。もちろん簡単にことは運びません。なにしろ相手は運命の女神ですから、あっちに行ったかと思えば、こっちに戻ってしまう。それを何度も繰り返し、ようやく記述がまとまったのは、新型コロナウイルスに翻弄された2020年が終わろうとする頃、つまりこの文章を書いている四カ月前のことです。
 はたして、運命の女神はこの本のなかに収まっていてくれるのだろうか。不安はいまでも絶えないのですが、その一方で、気まぐれな女神はいつかどこかに行ってしまうだろうと覚悟も決めています。

 

私たち一人ひとりができる対策をとろう――『図書館の新型コロナ対策ガイド』を出版して

吉井 潤

 私が予想していたように、新型コロナウイルス感染症の感染者が11月・12月になってから増えている。7月初旬に柏原寛一さんとの共著『絵本で世界を学ぼう!』(青弓社)が印刷工程に進んだ頃のことである。私は、これから夏本番が近づくのにかなりの感染者数が出ていることから、寒くて乾燥しはじめる11月以降には感染者が一気に増加するだろうと思った。そこで、普通なら本を1点出すと一息つくが、実務に役立つ新型コロナウイルス感染症対策本がまだなかったので、青弓社の矢野恵二さんに相談した。そのときの記憶では9月1日に脱稿し、12月までに出版予定だった。だが脱稿後にスケジュールを聞くと、書店発売日は10月26日と私が想定していたよりかなり早かった。
 このように特急で出版まで進めてもらったのは初めてだ。出版社内で原稿の制作を複数人で鋭意進めてくれていたと推測する。書店発売日とここ数日の感染拡大の状況をふまえると、発売を早めてよかったと思う。青弓社のみなさんに感謝している。
 本書を手に取った知人から、第2章「新型コロナウイルス感染症とは何か」を書くにあたってどのように情報を収集し整理したのか、と聞かれることが多い。私が研究の対象にしている図書館情報学は、図書館に関係することだけではなく、情報やメディア、それらの生産から蓄積、検索、利用までを対象とする幅が広い学問だ。検索は得意なほうで、何を見なければならないのかもある程度はわかっていたので、仕事を終えた平日の夜中と土・日、お盆休みは部屋にこもって調べた。そのあと、集めた情報をどのように整理すればいいのか考えながら組み立てていた。とはいうものの、本書で初めて医学の知識が必要になることから、一般書レベルとしては間違っていないように専門家と医師の2人に脱稿前に確認してもらった。医師には図表が入ったあとの1回目のゲラも確認のため見てもらっている。
 新型コロナウイルス感染症の流行は現在進行形でもあることから、青弓社からゲラを受け取ったときには情報が更新されている場合もあり、それをどこまで修正するかも迷った。たとえば、3.1.4「感染が疑われる場合の対応フローチャートを作成する」では、4ページにわたって本人に感染の疑いがある場合と家族または同居人に感染の疑いがある場合の2パターンでフローチャートを作成した。
 朝から自宅で医師と2つのフローチャートを確認したが終わらなかった。近くのカフェで昼ごはんを食べたらすぐにゲラをテーブルに出して続きをおこない、「ここは変わらないけど、こっちの矢印は違う」などと言い合い、2つの図だけでほぼ1日費やしてしまった。「PCR検査して陰性だった場合はこちらに進むけど」という私たちの会話は、近くの席にいたお客にとっては気になったかもしれない。
 もともと図があった箇所が赤線と赤字だらけになって、受け取った青弓社のみなさんは驚き困ったと思う。私が見たかぎりではコロナ関係本でこのようなフローチャートはまだなく、図書館に限らずどこの職場でも応用できるので、ぜひ活用してほしい。今後、家庭内感染がさらに増えることが予想されるので、どのように判断すればいいのか迷うときに手元にあると安心だろう。
 最後に2点、新型コロナウイルス感染症の今後数カ月の予想を記す。1点目はインフルエンザの流行であり、2点目は緊急事態宣言のことである。
 1点目、インフルエンザの流行は、おそらくマスコミがあおるほどではないと予想している。理由は2つある。1つ目は、現時点では外国からそれほど人が訪れていないからである。流行している国や地域から日本に渡航してくる人が多ければそれだけ、インフルエンザが持ち込まれるリスクは高い。けれども、現在は日本に来ている外国人が少ないから、持ち込まれる確率は下がる。インフルエンザの流行はあるが、思っていたよりも少ないだろう。2つ目は、新型コロナウイルス感染症対策とインフルエンザ対策は基本的に同じだからである。手指衛生、うがい、換気、3密を避けるなどはインフルエンザにも効果的である。医療機関によっては予防接種のワクチンが不足していることを報じていて、マスコミの影響力はすごいと思う。
 2点目の政府による緊急事態宣言の発出は、おそらくないだろう。というのも、4月のときのように緊急事態宣言を発出することで倒産する企業、閉店する飲食店などが増えて、景気が一気に悪くなる。休業と補償がセットになっているのが理想だが、国債の発行でしのげるのかは不透明だ。現時点でも、テレビでは東京都の1日の新規感染者数が速報として画面に表示される。毎日500人以上になるのに時間はかからず、そればかりか人口規模を考えれば1,000人いてもおかしくはない。政府が緊急事態宣言を出すほどに感染拡大が進まないよう、私たち一人ひとりができる対策をとるしかない。
 1年間に2点も青弓社から出版することができた。次回は明るいテーマで企画から進めることができれば、と思っている。

 

刊行後のよしなしごと――『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』を出版して

永吉雅夫

 この年齢になって、ようやく単著を一冊まとめた。それが本書である。かなりの原稿量になっていることはわかっていたが、500ページを超えるものになろうとは思いもよらなかった。しかし、いわば古参の初陣としては、それぐらいでかえって見苦しくなかったのではないかと、いまは思っている。
 刊行後のよしなしごとのあれこれを記してみよう。
 ちょうど、定年退職を1年前倒しして2020年度末での退職を伝えた時期でもあったのでいい区切りの一冊にはなったが、わたしに退職記念という意識はそもそもない。しかし、知人たちは、なるほど退職するんだと受け止め、そのように言ってくる人もあったので、いやいや、そうではありません、これを最初の一歩としてこれから……と応じると、ニコニコ顔であきれられた。
 あきれるというと、出版した本が『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』であることに多くの知人がオドロイタ、そのことに、かえってわたし自身が驚かされた。なにも、読んで拍案驚奇、一読三嘆というような話ではない。知友諸氏の多くが、わたしを近世の文学・芸能の徒と見なしていたらしく、その男の出版物なら、いまの関心からいけば石川五右衛門か歌舞伎を扱ったものにちがいないと思ったらしい。確かに、大学での担当科目ということで言えば、近世文学関係のシラバスが同僚諸氏の目には触れることが多かったのだ。それが、「戦時昭和」で「芥川賞」だったから、友人が面食らったというのも無理はない面はある。しかし、わたし自身はずっと日本文学近世・近代を守備範囲と決めて、そのように文章も書いてきたつもりだったから、諸氏のそうした反応にこちらが驚かされたのである。主観と客観のズレ、というと大仰にすぎるが、しかし、セルフ・イメージと第三者の眼というものはなかなか一致し難いものかもしれない。
 それとは少しズレるが、まして、ご時世、自己の信念の前では第三者にどう見えるかなど塵、芥、そんなものにこだわるのは信念薄弱か、へたをすると単なる八方美人の風見鶏だと思われかねない。その結果、第三者の眼を仮構して自己を検証するという、オトナなら当然の自己省察までがスキップされてしまい、逆に確固たる自恃が疑われるような事態が出来しているのではないだろうか。
 たとえば、「教養がじゃまをする」という言い回しを聞かなくなって久しい。こういうふうにすれば自分が得をする、有利になるということはわかりきっているのだが、そうであるからこそかえってそのように振る舞うのははばかられる、自分で許せない、そんなとき苦笑交じりに「教養がじゃまをして」とつぶやいて、結局、みずから自分の得や有利を取り逃がしてしまう。現在では絶滅危惧を通り越して絶滅、はっきりと死語になってしまったとみえる。その言い回しには教養の一種の特権化のにおいもあって、現在ではそれはある程度、平準化されたから、という面もあるだろうが、それ以上に、大学の教育課程に占めていた教養部の解体を通じて教養の時代の終わりを促し後押しした結果、加速された現象かもしれない。
 かわりに台頭したのが「効率」だろう。それは「教養がじゃまをして」というような対処を、目的合理性を欠いた行動とみなす立場の展開である。目的が定まれば、精神的・物理的、そして時間的にいかにローコストでそれを実現し、成果を手に入れるか、その最短性こそがなにより優先され、二者択一の選択を繰り返す場に、教養というかたちのその人のいわば人間が投企されることはないのだろう。そう考えなければ、わたしのような昔人間には理解不能な出来事が、わたしの職場から永田町に至る日本だけでなくアメリカをはじめ世界規模で頻発している。「戦時昭和」の人間模様はけっして過去のことではない。
 コロナの時代でなかったなら、友人諸氏はきっとそれぞれに祝杯の誘いをかけてくれたことだろう。いつもなら飲もうと言う人たちも、まあ、高齢者同士だからお互い誘うのがはばかられるのだ。といって、オンライン飲み会のような新様式にはとてもなじめない。東京大空襲のあと、焼け出された永井荷風は、勝山(岡山)に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねる。先輩に対する谷崎夫婦の接遇は、宿や酒食から切符の手配に至るまで実に行き届いているばかりか、許されるかぎりの贅をつくしたものだった。荷風は、なかなかお目にかかれなくなった白米や牛肉そして日本酒に、涙を流さんばかりに「欣喜」する。モノがない時代ゆえの欣喜落涙でもあるが、戦火をくぐり抜けてともにする知己との飲食なればこその感慨も大きかったにちがいない。いまは、幸いモノはある。しかし、人間関係の一次的な直接性がおびやかされている。知己を目の当たりに実感する荷風の欣喜落涙は、現在、我々にどのように可能だろうか。

 

「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンをめぐって――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を出版して

桑原ヒサ子

 10月1日掲載の「原稿の余白に」ではナチス機関誌「女性展望」の全号を入手するまでの顛末を記したが、今回はナチ時代の女性の髪形について書きたい。
『ナチス機関誌「女性展望」を読む』のカバーには長い三つ編みを頭部に巻いた若い女性の絵を掲載している。全国女性指導者のゲルトルート・ショルツ=クリンクも同じヘアスタイルであることから、あの髪形には何かナチ的決まりごとがあるのではないか。もしそうであれば不可解なことがある、と知人から質問があった。「キリストの幕屋」という宗教団体に所属する女性たちが同じ髪形をしている、というのである。その団体はキリスト教団体であるものの、ユダヤ教を基軸にしているそうで、反ユダヤ主義を掲げたナチスと同じヘアスタイルをするのはおかしいのではないかとのことだった。
 この疑問に私は答えることはできない。しかし、あの髪形はナチスが考案したわけでも、ナチスの専売特許でもないから、ナチズムとは関係なくあの伝統的な髪形にこだわることは大いにありうる。

 髪形としての三つ編みの歴史はきわめて古く、古代エジプトの絵画や古代ギリシャの彫像にもお下げ髪は見られる。ルネサンス期の複雑な編み方を駆使したヘアスタイルを別にすれば、中世以降、お下げ髪であれ、三つ編みを頭部に巻くスタイルであれ、三つ編みは身分の高い女性の髪形というよりも、農村女性や下働きの女性、結婚前の若い女性の髪形だった。
 労働や家事をする際に長い髪を束ねたり結い上げたりすることは、動きやすさや安全性、衛生面でも理にかなっていただろう。そのうえ、三つ編みには装飾性もあった。少女たちがお下げ髪をする一方で、腰まで髪が伸びると、ようやく三つ編みを頭部に巻けるようになる。後者のヘアスタイルをドイツ語では「三つ編みの冠」(両耳脇から2本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)あるいは「農民の王冠」(1本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)と呼んだ。

 ナチ時代には、「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンがあった。この表現では、一定のヘアスタイルの推奨というより、政治的な主張が髪形の違いに象徴的に込められている。「三つ編み」という表現には、長い髪という伝統的女性像と、ナチズムが重要視した農業を女性性として捉える意味合いが合体されている。しかし、ショルツ=クリンクとお下げ髪の少女のわずかな数の写真を除けば、三つ編みが見られるのは民族衣装をまとった農村女性を描く絵画がほとんどである。絵画はアーリア人的な金髪の三つ編みに碧眼のイデオロギーを真面目に描いたが、本書に掲載した写真に写る中産階級の女性たちのヘアスタイルには「三つ編みの冠」も「農民の王冠」も全く見られない。「三つ編み」という言葉には「時代遅れ」の意味もあった。若いナチ女性たちは、時代遅れの三つ編みではなく、流行の髪形、すなわちウエーブがかかったショートヘアを好んだのである。ウエーブをつける電気器具やエッセンスなど多種多様な宣伝広告が「女性展望」には載っている。どんなにナチ指導部がイデオロギーの発信をしても、流行を求める女心には届かず、「ユダヤ人的」ヘアスタイルのほうが好まれたのだった。ショルツ=クリンクは、全国女性指導者という立場から手本を示すために「三つ編みの冠を被った」のだろう。
「ショートヘアはユダヤ人的」という表現も、ドイツ革命によって誕生したヴァイマル共和国を批判する道具でしかない。社会主義者にユダヤ人が多かったことに加えて、ヴァイマル政府の政治家にもユダヤ系ドイツ人がいたし、男女同権を謳ったヴァイマル憲法もユダヤ系の憲法学者によって起草された。そうした女性解放の空気のなかで、ショートヘアにミニスカートの「新しい女性」が登場した。もちろん、ショートヘアの「新しい女性」がみなユダヤ人だったわけではなかった。しかし、それは問題ではなく、ショートヘアはユダヤ的ヴァイマル共和国、ヴァイマル憲法を表象していたのである。

「農村のヴィーナス」1939年
ヨーゼフ・ゲッベルスが1万5,000マルクで購入した。

 本書のカバーに掲載した三つ編みの女性の絵のタイトルは「赤い首飾り」である。画家はゼップ・ヒルツで、ナチ時代に農村画家として一世を風靡した。たびたびミュンヘンの「ドイツ芸術の家」における大ドイツ美術展で作品が展示され、1939年の「農村のヴィーナス」(図参照)で農村画家として不動の地位を築いた。ヒルツはヒトラーのお気に入りの画家のひとりで、総統はヒルツの作品をいくつも購入し、画家に土地を与えて、ベルクホーフの別荘を設計したアロイス・デガーノにヒルツのアトリエを建てさせている。さらにヒルツを「天分豊かな人々のリスト」に加え、召集を免除した。42年に「ドイツ芸術の家」に展示された「赤い首飾り」もヒトラーが5,000マルク(当時の高校教員の年収はおよそ4,000マルクだった)で購入した作品だった。「赤い首飾り」は現在、ベルリンのドイツ歴史博物館に所蔵されている。

 

泰斗がいう「根源」を見極めようとした――『苦学と立身と図書館――パブリック・ライブラリーと近代日本』を出版して

伊東達也

「図書館を受験勉強のためにのみ利用した青年が、将来図書館の真の利用者になるというような甘い夢におぼれてはならない。(略)この学生問題の発生の根は深いところにある。それを図書館だけで解決することも、また逆にこれに触れないで通ることもできない。積極的に地域の課題として問題提起をし、学校その他の機関とも交流しながら実情に応じて具体的に問題を解決する方向を打ちだしたい」(日本図書館協会『中小都市における公共図書館の運営』日本図書館協会、1963年、128―129ページ)

「ここで席貸しについて注意しなければならない。図書館は資料を提供するところであって、座席と机だけを提供するところではない。いいかえれば席貸しは図書館の機能ではない。(略)図書館は学生生徒を含めたすべての住民に資料提供というサービスをすべきである。学生に限らず誰に対しても、席貸しは図書館サービスとは言えない。もちろん席だけを求めてくる市民をしめだすことはできない。しかし、これによって図書館が繁昌しているような錯覚にとらわれないよう、また図書館サービスが圧迫されることのないようにしなければならない」(日本図書館協会『市民の図書館』日本図書館協会、1970年、15ページ)

 先日、本書に目をとめてくれた大先輩から、「前川さんが生きていたら、この本をみて何と言っただろうね」という言葉をもらった。
 今年2020年4月、惜しくも亡くなった図書館界の偉大なリーダー前川恒雄。日本の公共図書館に革命を起こした報告書『中小都市における公共図書館の運営』(通称『中小レポート』)の作成に深く関わり、「市民が自由に本を借りて読めることが民主社会の基本で、それを支えるのが図書館」という信念を貫いて、「何でも、いつでも、どこでも、誰でも」と、貸し出しによる住民への資料提供を第一とする図書館サービスの模範を示し続けた伝説のライブラリアンである。

「私が日野市立図書館を移動図書館一台だけでスタートさせた最大の理由は、閲覧室(つまり勉強部屋)のない図書館を作りたいということだった。(略)本当の図書館を日本で初めて作るには、まず図書館の意味を分ってもらわなければならず、そのためには図書館の最も根本の部分だけをとりだして、市民の前でやってみせなければ、どうにもならなかったのである。(略)場所を貸すところから本を貸すところに変わったとき、図書館は市民のものになった」(前川恒雄『われらの図書館』筑摩書房、1987年、15―17ページ)

 いまから25年前、開館したばかりの小図書館の司書だった私は、公共図書館づくりのバイブルだった『市民の図書館』の前川の教えに従って、読書席を占領している受験生一人ひとりを説得し、広報誌で市民と論争して、とにかく勉強しにくる学生を図書館から追い出そうと必死になっていた。『中小レポート』には、「この学生問題の発生の根は深いところにある」とある。ならばその「根源」を見極めてやろうと、その頃ふと思い立ったのが本書のもとになった研究の発端である。
 前川先生なら、何とおっしゃっただろうか。

 

重いものを軽くするには――『近代日本のジャズセンセーション』を書いて

青木 学

 出版してからの感想を述べたい。「苦労話」というほどのものではないが、制作時のエピソードをいくつか披露しよう。
 執筆の過程で労力を費やしたのは図版だった。掲載した図版は全部で149点。2、3ページに1回は図版に出くわすような内容である。もちろん、これは意図してやったことで、図版を多く載せたのには理由がある。
 編集の担当者である矢野未知生さんもウェブサイト「版元ドットコム」掲載のエッセー「博士論文を本にする」で指摘しているが、カタい博士論文をいかに広く多くの人に読んでもらうかというコンセプトは、自身も折に触れて重要だと思っていた。
 せっかく労力を費やして明らかになった事柄を、小難しい(読者にいちいち辞書を引いてもらうような)言葉をチョイスして伝えたい内容が濁ってしまうのは、執筆者と読者の双方にとってデメリットだし、基本的には伝わってこそ価値があると思う。ましてや一般書であればなおさらで、少しでも多くの人に理解されるような内容と構成に努めなければならない。そんな思いが自分のなかにもずっとあった。
 ただ、そう大きな口をたたいてはみるものの、もともとが「博士論文」という性質のうえに「ジャズ」という大変軟派なテーマを学術的なアプローチで提示することにこそ意味があるとも考えていたため、どうしても硬い表現になったり注釈が出てきてしまい、結果として、学術論文の域を出ることは難しかったように思う(たとえ論文であってもスルスル飲み込めるような感動的にうまい文章力が備わっていればよかったのだが……。大いに精進すべき点である)。
 それを案じて、論文特有の硬さをカバーするためにどうにか少しでも面白くなるようにと苦心した末が「図版」だった。精読しなくても、ページをめくるだけでなんだか気になる、目でも楽しめるような内容を目指した。
 しかし、肝心の図版収集にはずいぶんと時間かかった。「あとがき」でも触れたが、掲載している史料は音楽大学などが所蔵しているものが多く、そのため収集の際はあらゆる大学図書館、資料館などに出向いた。
 ご存じの方もいると思うが、大学の図書館を利用する場合は紹介状が必要で、毎週のように自身が所属する大学図書館のレファレンスを訪ねては申請を依頼していた。おそらく「また、こいつか」と思われていただろう。自分だったら、思う。
 それほどレファレンスの方々にはお世話になった。執筆にあたってもっともお世話になった方々といってもいいだろう。
 そんなことも含めて、史料収集は決して自身の力だけではなく様々な人の支えがなければ、書籍は仕上がらなかったことを改めて実感している。
 本当のところを言えば、掲載したい図版はもっともっとあったが、くどい印象を与えると察し、断腸の思いでカットした。それについてはどこかでお披露目できればと思う。
 あと、もうひとつ、「原稿の余白に」に記しておくことといえば、執筆時のモチベーションとの付き合い方だろうか。
 書籍はふがいないことにスケジュールどおりとはいかず、出版までに約3年の月日を要した「長期戦」だった。
 いくら音楽好きであり好きなテーマといえども、根性だけでは押し通せない。やはり、壁にもぶち当たる。そうなるとモチベーションの保ち方というのは重要で、音楽や映画など当時の風景をイメージできるものは何でも頼った。いかに気分を軽くするかである。はたから見れば遊びにしか見えないが、これが結構大事な要素だった。
 残念ながら、現在、100年以上前の話を鮮明に語れる人物などほとんどいない。その時点で100点満点の「正解」にたどり着くことはまずない。だからこそ、当時の感覚に少しでも近づこうとしながら書くことはとても重要な作業だと思っている。
 戦前の音楽や映画などに触れ続けていると、テレビも「YouTube」もサブスクリプションもない時代の感覚になったような不思議な感覚に陥るときがある。感覚的なタイムスリップというのだろうか。このときに得られる「もしかしたら、当時の人たちもこういう感覚だったのかもしれない」という感覚を自分ではとても大切にしていて、執筆時の原動力にもなった。そういう意味で、音楽や映画を含めた文化は過去に誘ってくれる魔法とさえ思っている。
 戦前・戦後を問わず、もしその時代の空気に触れたいときは、ぜひ残存する当時の文化に触れてみるといいだろう。きっと時代の理解に役立つはずである。
 本書を手に取る機会があれば、こうした「B面」もイメージしながら、気軽にページをめくっていただければ幸いである。

 

「女性展望」を探し集めた頃のこと――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を書いて

桑原ヒサ子

「よく集めたもんですね」と驚かれることがある。
「女性展望」の創刊は1932年だから、ほぼ90年前の出版物である。歴史的にはそう古くはないが、ナチ時代の官製雑誌だったから戦後ドイツの保存の意思はきわめて薄かった。いずれにせよ漏れなく集めるのは容易でないという驚きだろう。『ナチス機関誌「女性展望」を読む』を刊行して、「女性展望」を収集し始めた頃の大胆で幸運に恵まれた自分を思い出した。
 フェミニスト歴史家だった加納実紀代さんが勤務校である敬和学園大学に赴任され、第2次世界大戦期の女性雑誌などのメディアの表象分析を通して、戦争とジェンダーについて国際比較をする共同研究会を立ち上げた。2005年のことである。
 ドイツを担当することになったものの、ナチス期の女性雑誌は読んだことも見たこともなかった。少し調べたら、当時出版部数第1位だったのが「女性展望」とわかった。最も読まれていたのだから、これを取り上げるしかない。でも、どうやって集めるのか。
 ドイツ文学を研究していた私は、日本国内で手に入らない文献はドイツに出向いて探して、コピーしていた。2005年の夏は、まだ別の仕事の資料をゲッティンゲン大学図書館で探していたが、ついでに検索しても「女性展望」は出てこなかった。途方に暮れたが、ネット時代の到来が雑誌の収集を助けてくれることになった。

 自宅のパソコンから古書店のサイトに試しにアクセスしたら、なんと「女性展望」が売られているではないか。ナチ時代には牛乳1リットル程度だった価格は、1,000円から2,000円ほどになっていた。複数冊をまとめてたたき売りしている場合もあった。ドイツの大都市から名も知らぬ村まで、古書店の店主とどれだけメールのやりとりをしただろう。クレジットカードを使えず、郵便局から送金したこともあった。毎晩古書店サイトを探し回り、12年半にわたって発行された「女性展望」全282号中57パーセントを数カ月で一気呵成に手に入れた。しかし、その後は一向に出回らず、買い尽くした感があった。
 マニアックな収集熱は収まらず、2006年夏にドイツで収集するために、これまた自宅のパソコンから検索が可能になった大学図書館の蔵書を検索しまくった。案の定「女性展望」を所有する図書館はまれで、所蔵していても部分的だった。手元に欠けていたのは主に最初の2年間と廃刊までの2年半、そしてその間の購入できなかった号だった。検討を重ねた末、ハイデルベルク大学図書館、ベルリン国立図書館、エアランゲン大学図書館で残りすべてを手に入れられることがわかった。

 まずハイデルベルクの司書にメールした。すぐに返信があり、確認したところ閲覧に堪えられる状態ではないということだった。それで、図書館が所有する最後の3年半分すべてをデジタル化して私のためにCDを作ってもいいというのである。その費用の半分の400ユーロを私が負担するという条件だった。由緒正しきハイデルベルク大学図書館が、見ず知らずの個人とこんな交渉をするかと唖然としたが、古書店で相場を熟知していた私には願ってもない申し出だった。さらに驚いたのは、「女性展望」の全号のデジタル化を計画し、私が作成した「女性展望」所蔵大学図書館リストに従って、まずエアランゲン大学図書館に話をもちかけたということだ。当時、どの図書館も書籍のオンライン化を進めていた。しかしエアランゲンの回答は、よりにもよってなぜナチズム関係の雑誌を優先するのかという拒絶だったそうだ。
 私はハイデルベルク大学図書館を予定どおり訪れてCDを受け取った。そのうえ図書館は、ベルリンから私が必要としたマイクロフィルムを取り寄せておき、デジタル撮影機器を手配してくれていた。私は、ベルリンへ行かずして、デジタル撮影が無料でできたのである。
 エアランゲンでも問題は生じた。デジタル撮影を依頼していたが、撮影係がバカンスで不在のため、私のドイツ滞在中にCDを手渡すことは無理だと言われたのだ。だが、撮影代金を前払いすれば、日本に郵送するという。前払いは心配だったが、初秋にはちゃんと、創刊から2年分の2枚のCDが自宅に届いた。こうして私は「女性展望」のすべての号を手に入れたのである。

 ハイデルベルク大学図書館で現在、「女性展望」の1941年7月第1号から廃刊になる1944/45年号まで誰でもどこにいてもオンラインで簡単に閲覧できるのは、私の問い合わせがきっかけになり、私が資金の半分を捻出したからである。ネット上の私の論文を読んだという明治大学の女子大生から2016年にメールがあって、「女性展望」を読んでみたいと言ってきた。そこで、ハイデルベルクのことを紹介した。念のためにサイトをひさしぶりに開いたら、「女性展望」の号数検索画面に進む前に、06年にはなかった警告画面が現れた。
「ハイデルベルク大学図書館は「デジタル図書館」で学問・研究・教育の目的で現代史の資料を公開しています。この資料のなかにはナチズムの時代の雑誌・新聞も含まれていることを注意しておきます。ハイデルベルク大学図書館は、いかなる人種差別、暴力賛美、そして国民社会主義的内容から距離を置くことを表明します」
 ドイツでは、20世紀末以来ネオ・ナチズムや保守化が問題になっている。一見誇張してみえる図書館のこの表明には、ナチズムに対して現在もなお堅持されている厳しい公的姿勢を見て取ることができるだろう。