泰斗がいう「根源」を見極めようとした――『苦学と立身と図書館――パブリック・ライブラリーと近代日本』を出版して

伊東達也

「図書館を受験勉強のためにのみ利用した青年が、将来図書館の真の利用者になるというような甘い夢におぼれてはならない。(略)この学生問題の発生の根は深いところにある。それを図書館だけで解決することも、また逆にこれに触れないで通ることもできない。積極的に地域の課題として問題提起をし、学校その他の機関とも交流しながら実情に応じて具体的に問題を解決する方向を打ちだしたい」(日本図書館協会『中小都市における公共図書館の運営』日本図書館協会、1963年、128―129ページ)

「ここで席貸しについて注意しなければならない。図書館は資料を提供するところであって、座席と机だけを提供するところではない。いいかえれば席貸しは図書館の機能ではない。(略)図書館は学生生徒を含めたすべての住民に資料提供というサービスをすべきである。学生に限らず誰に対しても、席貸しは図書館サービスとは言えない。もちろん席だけを求めてくる市民をしめだすことはできない。しかし、これによって図書館が繁昌しているような錯覚にとらわれないよう、また図書館サービスが圧迫されることのないようにしなければならない」(日本図書館協会『市民の図書館』日本図書館協会、1970年、15ページ)

 先日、本書に目をとめてくれた大先輩から、「前川さんが生きていたら、この本をみて何と言っただろうね」という言葉をもらった。
 今年2020年4月、惜しくも亡くなった図書館界の偉大なリーダー前川恒雄。日本の公共図書館に革命を起こした報告書『中小都市における公共図書館の運営』(通称『中小レポート』)の作成に深く関わり、「市民が自由に本を借りて読めることが民主社会の基本で、それを支えるのが図書館」という信念を貫いて、「何でも、いつでも、どこでも、誰でも」と、貸し出しによる住民への資料提供を第一とする図書館サービスの模範を示し続けた伝説のライブラリアンである。

「私が日野市立図書館を移動図書館一台だけでスタートさせた最大の理由は、閲覧室(つまり勉強部屋)のない図書館を作りたいということだった。(略)本当の図書館を日本で初めて作るには、まず図書館の意味を分ってもらわなければならず、そのためには図書館の最も根本の部分だけをとりだして、市民の前でやってみせなければ、どうにもならなかったのである。(略)場所を貸すところから本を貸すところに変わったとき、図書館は市民のものになった」(前川恒雄『われらの図書館』筑摩書房、1987年、15―17ページ)

 いまから25年前、開館したばかりの小図書館の司書だった私は、公共図書館づくりのバイブルだった『市民の図書館』の前川の教えに従って、読書席を占領している受験生一人ひとりを説得し、広報誌で市民と論争して、とにかく勉強しにくる学生を図書館から追い出そうと必死になっていた。『中小レポート』には、「この学生問題の発生の根は深いところにある」とある。ならばその「根源」を見極めてやろうと、その頃ふと思い立ったのが本書のもとになった研究の発端である。
 前川先生なら、何とおっしゃっただろうか。

 

重いものを軽くするには――『近代日本のジャズセンセーション』を書いて

青木 学

 出版してからの感想を述べたい。「苦労話」というほどのものではないが、制作時のエピソードをいくつか披露しよう。
 執筆の過程で労力を費やしたのは図版だった。掲載した図版は全部で149点。2、3ページに1回は図版に出くわすような内容である。もちろん、これは意図してやったことで、図版を多く載せたのには理由がある。
 編集の担当者である矢野未知生さんもウェブサイト「版元ドットコム」掲載のエッセー「博士論文を本にする」で指摘しているが、カタい博士論文をいかに広く多くの人に読んでもらうかというコンセプトは、自身も折に触れて重要だと思っていた。
 せっかく労力を費やして明らかになった事柄を、小難しい(読者にいちいち辞書を引いてもらうような)言葉をチョイスして伝えたい内容が濁ってしまうのは、執筆者と読者の双方にとってデメリットだし、基本的には伝わってこそ価値があると思う。ましてや一般書であればなおさらで、少しでも多くの人に理解されるような内容と構成に努めなければならない。そんな思いが自分のなかにもずっとあった。
 ただ、そう大きな口をたたいてはみるものの、もともとが「博士論文」という性質のうえに「ジャズ」という大変軟派なテーマを学術的なアプローチで提示することにこそ意味があるとも考えていたため、どうしても硬い表現になったり注釈が出てきてしまい、結果として、学術論文の域を出ることは難しかったように思う(たとえ論文であってもスルスル飲み込めるような感動的にうまい文章力が備わっていればよかったのだが……。大いに精進すべき点である)。
 それを案じて、論文特有の硬さをカバーするためにどうにか少しでも面白くなるようにと苦心した末が「図版」だった。精読しなくても、ページをめくるだけでなんだか気になる、目でも楽しめるような内容を目指した。
 しかし、肝心の図版収集にはずいぶんと時間かかった。「あとがき」でも触れたが、掲載している史料は音楽大学などが所蔵しているものが多く、そのため収集の際はあらゆる大学図書館、資料館などに出向いた。
 ご存じの方もいると思うが、大学の図書館を利用する場合は紹介状が必要で、毎週のように自身が所属する大学図書館のレファレンスを訪ねては申請を依頼していた。おそらく「また、こいつか」と思われていただろう。自分だったら、思う。
 それほどレファレンスの方々にはお世話になった。執筆にあたってもっともお世話になった方々といってもいいだろう。
 そんなことも含めて、史料収集は決して自身の力だけではなく様々な人の支えがなければ、書籍は仕上がらなかったことを改めて実感している。
 本当のところを言えば、掲載したい図版はもっともっとあったが、くどい印象を与えると察し、断腸の思いでカットした。それについてはどこかでお披露目できればと思う。
 あと、もうひとつ、「原稿の余白に」に記しておくことといえば、執筆時のモチベーションとの付き合い方だろうか。
 書籍はふがいないことにスケジュールどおりとはいかず、出版までに約3年の月日を要した「長期戦」だった。
 いくら音楽好きであり好きなテーマといえども、根性だけでは押し通せない。やはり、壁にもぶち当たる。そうなるとモチベーションの保ち方というのは重要で、音楽や映画など当時の風景をイメージできるものは何でも頼った。いかに気分を軽くするかである。はたから見れば遊びにしか見えないが、これが結構大事な要素だった。
 残念ながら、現在、100年以上前の話を鮮明に語れる人物などほとんどいない。その時点で100点満点の「正解」にたどり着くことはまずない。だからこそ、当時の感覚に少しでも近づこうとしながら書くことはとても重要な作業だと思っている。
 戦前の音楽や映画などに触れ続けていると、テレビも「YouTube」もサブスクリプションもない時代の感覚になったような不思議な感覚に陥るときがある。感覚的なタイムスリップというのだろうか。このときに得られる「もしかしたら、当時の人たちもこういう感覚だったのかもしれない」という感覚を自分ではとても大切にしていて、執筆時の原動力にもなった。そういう意味で、音楽や映画を含めた文化は過去に誘ってくれる魔法とさえ思っている。
 戦前・戦後を問わず、もしその時代の空気に触れたいときは、ぜひ残存する当時の文化に触れてみるといいだろう。きっと時代の理解に役立つはずである。
 本書を手に取る機会があれば、こうした「B面」もイメージしながら、気軽にページをめくっていただければ幸いである。

 

「女性展望」を探し集めた頃のこと――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を書いて

桑原ヒサ子

「よく集めたもんですね」と驚かれることがある。
「女性展望」の創刊は1932年だから、ほぼ90年前の出版物である。歴史的にはそう古くはないが、ナチ時代の官製雑誌だったから戦後ドイツの保存の意思はきわめて薄かった。いずれにせよ漏れなく集めるのは容易でないという驚きだろう。『ナチス機関誌「女性展望」を読む』を刊行して、「女性展望」を収集し始めた頃の大胆で幸運に恵まれた自分を思い出した。
 フェミニスト歴史家だった加納実紀代さんが勤務校である敬和学園大学に赴任され、第2次世界大戦期の女性雑誌などのメディアの表象分析を通して、戦争とジェンダーについて国際比較をする共同研究会を立ち上げた。2005年のことである。
 ドイツを担当することになったものの、ナチス期の女性雑誌は読んだことも見たこともなかった。少し調べたら、当時出版部数第1位だったのが「女性展望」とわかった。最も読まれていたのだから、これを取り上げるしかない。でも、どうやって集めるのか。
 ドイツ文学を研究していた私は、日本国内で手に入らない文献はドイツに出向いて探して、コピーしていた。2005年の夏は、まだ別の仕事の資料をゲッティンゲン大学図書館で探していたが、ついでに検索しても「女性展望」は出てこなかった。途方に暮れたが、ネット時代の到来が雑誌の収集を助けてくれることになった。

 自宅のパソコンから古書店のサイトに試しにアクセスしたら、なんと「女性展望」が売られているではないか。ナチ時代には牛乳1リットル程度だった価格は、1,000円から2,000円ほどになっていた。複数冊をまとめてたたき売りしている場合もあった。ドイツの大都市から名も知らぬ村まで、古書店の店主とどれだけメールのやりとりをしただろう。クレジットカードを使えず、郵便局から送金したこともあった。毎晩古書店サイトを探し回り、12年半にわたって発行された「女性展望」全282号中57パーセントを数カ月で一気呵成に手に入れた。しかし、その後は一向に出回らず、買い尽くした感があった。
 マニアックな収集熱は収まらず、2006年夏にドイツで収集するために、これまた自宅のパソコンから検索が可能になった大学図書館の蔵書を検索しまくった。案の定「女性展望」を所有する図書館はまれで、所蔵していても部分的だった。手元に欠けていたのは主に最初の2年間と廃刊までの2年半、そしてその間の購入できなかった号だった。検討を重ねた末、ハイデルベルク大学図書館、ベルリン国立図書館、エアランゲン大学図書館で残りすべてを手に入れられることがわかった。

 まずハイデルベルクの司書にメールした。すぐに返信があり、確認したところ閲覧に堪えられる状態ではないということだった。それで、図書館が所有する最後の3年半分すべてをデジタル化して私のためにCDを作ってもいいというのである。その費用の半分の400ユーロを私が負担するという条件だった。由緒正しきハイデルベルク大学図書館が、見ず知らずの個人とこんな交渉をするかと唖然としたが、古書店で相場を熟知していた私には願ってもない申し出だった。さらに驚いたのは、「女性展望」の全号のデジタル化を計画し、私が作成した「女性展望」所蔵大学図書館リストに従って、まずエアランゲン大学図書館に話をもちかけたということだ。当時、どの図書館も書籍のオンライン化を進めていた。しかしエアランゲンの回答は、よりにもよってなぜナチズム関係の雑誌を優先するのかという拒絶だったそうだ。
 私はハイデルベルク大学図書館を予定どおり訪れてCDを受け取った。そのうえ図書館は、ベルリンから私が必要としたマイクロフィルムを取り寄せておき、デジタル撮影機器を手配してくれていた。私は、ベルリンへ行かずして、デジタル撮影が無料でできたのである。
 エアランゲンでも問題は生じた。デジタル撮影を依頼していたが、撮影係がバカンスで不在のため、私のドイツ滞在中にCDを手渡すことは無理だと言われたのだ。だが、撮影代金を前払いすれば、日本に郵送するという。前払いは心配だったが、初秋にはちゃんと、創刊から2年分の2枚のCDが自宅に届いた。こうして私は「女性展望」のすべての号を手に入れたのである。

 ハイデルベルク大学図書館で現在、「女性展望」の1941年7月第1号から廃刊になる1944/45年号まで誰でもどこにいてもオンラインで簡単に閲覧できるのは、私の問い合わせがきっかけになり、私が資金の半分を捻出したからである。ネット上の私の論文を読んだという明治大学の女子大生から2016年にメールがあって、「女性展望」を読んでみたいと言ってきた。そこで、ハイデルベルクのことを紹介した。念のためにサイトをひさしぶりに開いたら、「女性展望」の号数検索画面に進む前に、06年にはなかった警告画面が現れた。
「ハイデルベルク大学図書館は「デジタル図書館」で学問・研究・教育の目的で現代史の資料を公開しています。この資料のなかにはナチズムの時代の雑誌・新聞も含まれていることを注意しておきます。ハイデルベルク大学図書館は、いかなる人種差別、暴力賛美、そして国民社会主義的内容から距離を置くことを表明します」
 ドイツでは、20世紀末以来ネオ・ナチズムや保守化が問題になっている。一見誇張してみえる図書館のこの表明には、ナチズムに対して現在もなお堅持されている厳しい公的姿勢を見て取ることができるだろう。

 

実録! 書名が決まるまで――『面白いほどわかる!クラシック入門』を書いて

松本大輔

著者
そうそう、一応自分が考えているタイトルは『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』かな~と。

編集者
出版条件;書名;16歳からのクラシック入門

著者
タイトルは『16歳からのクラシック入門』でいきますか??
50代女子も読んでくれますかね・・・
対象を絞らない意味では『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』も好きですが。
著者
うちの50代女子は「「16歳から」でも買う人は買う、かえってそのほうがインパクトある」、とも申しておりました。サブタイトルはありですか?

編集者
理屈から言えば「16歳から100歳まで」なんですが(笑)、読者にはどう伝わるか、ですね。サブなしで一本勝負と考えていますが。

著者
あれから本のタイトルのことをいろいろアンケート取ってたのですが、「「16歳からの」と題名についてたら手に取らないと思う」、「「16歳から」だと読者を限定しそう」というような意見が多かったです。
うちのかみさんにいたっては「16歳からっていわれたら自分は関係ないと思うわ」と言ってました。
まあ一番の問題はあの本を書いた自分自身が、あの本のターゲットを40、50代の初心者に置いていたので、「16歳からの」という意識をまったく持って書いてないことですが。

編集者
書名、そうですか。では、
『いちばんやさしいクラシック入門』
『クラシック音楽って簡単!――14歳から大人までの入門書』
『やさしい!簡単!クラシック入門』
などでしょうか。もっと考えます。
松本さんも、『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』のほかにいくつかご提案ください。
当社は「世界一」などの語感にどうも腰が引けるので。
総合して決めましょう。
編集者
社内から大募集中です。あとでメールします。
私案
『交響曲を聴けばわかる!クラシック入門』
『交響曲から始めるクラシック入門』
などはどうですか?

著者
唯一原稿を呼んだスタッフが「決して世界一やさしくはないと思いますが」と言ってました・・・^^;
ただ、「やさしい」「はいりこみやすい」「聴きたくなる」というのはウリにしたいのですよね・・・
いっぱい出てきたので、いただいた候補と一緒に列挙します。
『いちばんやさしいクラシック入門』
『やさしい!クラシック入門 ~14歳から大人まで』
『交響曲を聴けばわかる!やさしいクラシック入門』
『きっと聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
『まつもと兄弟クラシックの旅 やさしい!クラシック入門』
『まつもと兄弟クラシックの旅 聴きたくなるクラシック入門』
『クラシック音楽って簡単!――14歳から大人までの入門書』
『やさしい!簡単!クラシック入門』
『交響曲を聴けばわかる!クラシック入門』
『交響曲から始めるクラシック入門』
何か思いついたらぜひお知らせください!

編集者
書名は「メインに交響曲があると、入門者にはハードルが高い=そもそも交響曲が何かを知らないから」という社内意見もあって、迷いに迷っています。

著者
それは言えてるかも・・・
そもそも交響曲が何かを知らない人に読ませたいので書名に交響曲があると手にも取ってくれない・・・
著者
書名候補追加
『聴きたくなる!クラシック入門の旅』
自分がこの本を書いていたときの気持ちに一番近いかも。

編集者
あと二晩考えますが、社内からは以下が出ました。
『みんな最初はクラシックがわからなかった――やさしいクラシック音楽入門』
『クラシックの聴き方がわかる本』
『クラシックは交響曲を聴けばだいたいわかる』
『ゼロからわかるクラシック入門』
『入門 クラシックの世界』
『何から聴けばいいかわからない人のためのクラシック入門』
『クラシックの良さがわからない――16歳からのクラシック入門』
『ベートーヴェンがわからない――16歳からのクラシック入門』(モーツァルトでも)
『誰もがはじめはクラシックを知らない――交響楽でたどる早わかり入門書』
『クラシックは交響曲から聴こう!――14歳から大人までの入門書』
『交響曲で学ぶざっくりクラシック入門――14歳から大人までの入門書』
で、いまのところ一番人気は
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
です。
「の旅」はヨーロッパ観光ガイドと誤解される、という意見が大勢です。
とりあえず。

著者
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
いいですね~!
『絶対聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
という意見も出てきました。^^
> 「の旅」はヨーロッパ観光ガイドと誤解される、という意見が大勢です。
な、なるほど・・・確かに・・・

編集者
書名を
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
で決めたいのですが、いかがでしょうか。

著者
> 『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
了解です!
これがすっきりです!!
よろしくおねがいします。

編集者
諦めが悪くてスミマセン。最後の最後の案です。
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
で決めましたが、
『クラシックが面白いほどわかる!』
『クラシックが面白いほどわかる!―――14歳からの入門書』
のどちらかは、やはりNGでしょうか。

著者
> 『クラシックが面白いほどわかる!』
あ、『面白いほどわかる!クラシック入門』はどうですか??
確かに他の入門書に比べたら「面白い」かなと思うし・・・
あ、
「たのしいクラシック入門!」
とか。。。
「年齢入れ」は不評なのでやめておくとして。
よけい混乱させてしまいましたね。

編集者
では、
『面白いほどわかる!クラシック入門』
で決定します。もう、変えません!

著者
> 『面白いほどわかる!クラシック入門』
よろしくおねがいします!

 

絵本と、いつもうまく書けなかったある夏のこと――『絵本で世界を学ぼう!』を書いて

柏原寛一

 夏のあいだ、図書館の仕事のあとはいつも同じ店に入って、(大したものを注文もせず)くる日もくる日も絵本を読んだ。112冊(当初)の一つひとつに紹介文を書くつもりだった。ぼくの計算したところによると、1日5冊ずつ書いていかなければ、締め切りには間に合わない。絵本を詰め込んだリュックは重たかった。

 子どものための図書館で働き、子どもたちが絵本を選び、とびらを開くところにふれ、また、子どもの本に向き合う図書館員らと過ごしているうちに、ぼくにとって絵本は特別なひかりを帯びていった。美しく、清潔で、強いひかりだ。手軽に語ることをためらわせるような。
(いつもうまく言い表すことができないのだけれど)絵本はけっして「かんたん(イージー)」なものでなく、一人ひとりの作家によるかけがえのない厳しさ、優しさをもってつくられる。ぼくは、そう思っている。

 どんなものごとも、ほんとうに言い切ってしまうのは難しい。たとえば土とかコップのために、わたしたちはどんなふうに言い切ることができるのだろう。
 はじめに取りかかる絵本について、ひと文字も書きだすことができなかった。この仕事の途方のなさに気がつき、息苦しくなる感じがした。いったい何を書けばいいのだろう。あらすじ? もし、正しくその物語を表そうとするなら、そのまま書き写すほかないじゃないか。
 書けないとわかると、(この気持ちを説明することは難しいのだが)読むことができていない、と感じるようになった。きわめて後ろめたかった。
 ああ、今夜もちっとも進まなかった。こんなことに手をつけていいのだろうか……。
 そういう何日かが過ぎて、ぼくは少しずつ書くようになった。あるいは、いくつかの初々しい情熱を手放してしまったかもしれない。しかし、とにかく、ぼくは書き始めた。その絵本がどのような作品であるか(自分なりに)読み取り、そのあとで、自分が感じたことをそっと書きつけた。仕事のあとはいつもの店に行き、休みの日は大きな図書館にかよった。
 ぐん、と重たいリュックをかついだ夏の夜の帰り道、その昼その夜に読んだ絵本のことを考えて歩いた。またうまく書けなかった、と思いながら、あくる日に読む作品のことを思い浮かべた。何かに追い立てられるような、何かに立ち向かうような、ちぐはぐな気分だった。苦しくも、りんりんと勇気がわくようでもあった。

 図書館に勤めた日々、子どものための本と付き合う日々は、ぼくをいくらか偏った大人にしたかもしれないが、そのことを大切にしていたいと思う。むちゃくちゃな絵本、ちょっと変わった図書館員、子どもたち。ぼくはきみたちのことが好きだ。
 引き返しができない目つきでそれぞれの作品に向かい、それらに宛ててけんめいに書きたいと思った。せめて、そのようでなければ、一人ひとりの作家、翻訳者の仕事には近寄れないはずだから。
 ほかのブックリストがどのように編まれるものか、ぼくは知らない。おそらく、こんなふうにはだれも考えていないだろう。
 とはいえ、ぼくは、風変わりなものを書こうと考えていたわけではない。一つひとつの絵本について、誤りなく、だれにとってもわかりやすい紹介文であるように心がけた。夏につくった下書きのうち、あまりに熱っぽいところはそのあと数カ月をかけて取り去った。

 本書の刷り上がりと店頭に並ぶまでの10日ばかりに、この文章を書いてしまおうと思っていた。でも、うまく書きだすことができなかった。今夜こそ、と入る新しい喫茶店の席は空いておらず、結局いつもの店に向かう交差点で信号を眺めて立ち止まるとき、こんなことがあったよな、と思う。雨上がりの夕方はひどく蒸し暑い。そうだ、一つ前の夏のあいだも、汗をかき、どちらかと言えばうつむいて、絵本を背負い、ぼくはこの信号が変わるのを待っていた。

 

世代を超えて受け継がれていくもの――『有島武郎をめぐる物語――ヨーロッパに架けた虹』

杉淵洋一

 水滴が着水すると、水面に波紋が広がっていく。第一の波紋が、有島武郎が小説『或る女』を世に送り出したときだとするならば、1926年のパリでのフランス語版『或る女』の出版を第二の波紋としてとらえることも可能だろう。本書はこの第二の波紋について、その原因となる水滴がどのように構成されたのか、そして、どのように水面を波紋が広がっていったのかについて、2人の翻訳者である好富正臣とアルベール・メーボンを起点として著者なりに考察をおこなった努力の痕跡である。あえて「努力」という言葉をここで使うのには、この書籍は2013年に名古屋大学に提出した「有島武郎の思想とその系譜」という博士論文が原型となっていて、もともとは研究論文として書いたものが大部分だからである。
 有島武郎が自宅で主宰していた学生サロン「草の葉会」の芹沢光治良、谷川徹三、大佛次郎といった参加者たちが、有島について語った文章を読めば読むほど、有島武郎という人間が単なる作家という範疇に収まる人物ではなく、日本の近代化の一翼を担った人物として浮かび上がってくる。有島武郎の考え方や生き方は、当時の鎖国から解き放たれ、世界の列強と対峙する必要に迫られた日本の若者たちを激しく鼓舞していたのである。そういったこれまでの有島武郎像からは零れていた側面を本書では描きたかったのである。
 そして、この書籍を上梓するに至るまでに、本当にたくさんの人々のお世話になってきた。もともとは研究のためにと書いた論文の集まりではあったが、お世話になってきた人々へ感謝の証しとして、博士論文から本書に書き改める際は、できるだけ日常的な表現を用いて、内容について理解しやすいような文章を心がけた。特に芹沢光治良の四女・岡玲子様や芹沢光治良の出身地である沼津の沼津市芹沢光治良記念館には、本書の出版にあたって貴重な写真や証言を提供していただき、そのご厚情には深く深く感謝する次第である。芹沢光治良が「世の中を裨益する人間になりたい」という思いを強く抱く一端となった有島武郎の社会に対して真摯な生き方を、芹沢文学の愛読者の方々には少しでも本書から感じ取っていただけることを願っている。また、ここ10年以上にわたって参加させていただいた愛知県常滑市の有志の方々が運営している谷川徹三を勉強する会にも深く感謝を申し上げておきたい。有島武郎と谷川徹三の関係について考察した章などでは、この会で学んだことが大いに役立っている。この会の会長であり、大学時代に谷川徹三の教え子だった杉江重剛様の谷川についての実像に迫った証言は、有島と谷川の具体的な関係性を示唆するところが多く、本書の執筆を大いに助けたことをここに付言しておきたい。
 なぜ、有島武郎の『或る女』がフランス語に翻訳されたのか。それは、有島が、世界を渡り歩きながら、日本という国を牽引していくことになる当時の若者たちにとっての憧れの的だったからである。このような稀有な人間の実像について学ぶことは、SNSや移民などの問題によって21世紀の新たな意味での開国を迫られている我々にとっても、今後の社会が進むべき道を判断していくうえの指標にもなるだろう。本書が有島武郎という人間のすべてを描ききれているわけではなく、多くの点を見落としてしまっているところもあることは、私の力の至らなさによるものであり、その点についてはご寛恕いただければ幸いである。しかしながら、本書を手に取って、明治、大正という時代を駆け抜けるようにして去っていった有島の姿から、心に残る何かを感じ取っていただけるのならば著者にとっては望外の喜びである。
 有島武郎の恩師である新渡戸稲造の「願はくはわれ太平洋の橋とならん」という言葉はあまりにも有名だが、新渡戸はこの「橋」について、「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれて初めて架けられる」と述べたとされている。ある世界と別の世界をつなぐ橋は、思いを受け継いだ者たちによって、緩やかながら確実に架けられていくものなのである。私は本書を通して、近代化の最中にあった日本からヨーロッパに有島武郎の思いを乗せた虹の橋が架けられていく軌跡をわずかばかりでも描きたかったのである。

 

旅が流れ着く場所――『お遍路ズッコケ一人旅――うっかりスペイン、七年半の記録』を書いて

波 環

 これを書いているのは2020年4月18日です。全都道府県を対象に新型コロナウイルス対策としての行動自粛要請が発表されて2日目です。世界中が緊張感で満ちています。そんな世の中に、あれよあれよという間に本書を出版しました。
 いまは、このタイミングで出版することがお遍路のゴールだったように思えています。お遍路を歩いているときのゴールは八十八番札所でした。歩き終わったあとは、終える気持ちを成仏させるために書き留めておこうと思いました。書いた先にこんな世の中が待っていました。
 思えば、1冊目(『宝塚に連れてって!』青弓社)を出版した22年前は妊娠中でした。ちょうどつわりがひどい時期に校正などをおこない、何でこんなことになったのか、そもそも自分から始めたことなので、どうもこうもないのですが、考える暇もないほどで、その先に本ができあがってきました。その本をもって私は、宝塚が大好きなおねえちゃんから、母親になりました。書くことでおねえちゃん時代を卒業したように思います。
 そこから30代は子育てと仕事で記憶なし。保育所や学童保育と会社と家の三角移動で10年ほど過ぎました。荒っぽく育てた息子は、そのうちに自分でごはんを炊けるようになっていました。彼がごはんを炊いたりカップ麺にお湯を入れたりできることを確認したころに東日本大震災があって、お遍路を歩き始めたという経緯は本書に述べたとおりです。
 東日本大震災→お遍路→本書という時間の流れがあるのですが、絶妙な、このタイミングしかないというところで出版できたと思っているのです。しばらくはスペインには行ける気がしませんし、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂も巡礼事務所も閉鎖になっていると聞きます。お遍路もしかりで、札所のお寺は参拝の受け入れを中止したり大きな法会をとりやめたりしているようです。タイミングとしては、巡礼もお遍路もぎりぎりセーフだったのです。
 さあ、こんなあとから考えると何もかもぎりぎりセーフの本書ですが、出版までの作業もぎりぎりでした。入稿したのが2月末。私が住む北海道は、早くから行動規制が始まっていて引きこもり生活は原稿執筆にぴったりでした。2月のころはまだ、3月になったら上京して青弓社を訪ねて打ち合わせをしようと日程を調整していました。が、みるみるうちにそれはかなわなくなりました。3月は飲食店への出入りも自粛になってきましたので飲み会もなくなり、今度は校正作業の日々。青弓社から「印刷所に入れましたので、来週からは当社も基本的には在宅勤務です」という連絡を受け取ったときには本当にありがたく思いました。青弓社のみなさんも、印刷所の方々も、デザイナーの和田悠里さんもカバーイラストを描いてくださった霜田あゆ美さんも、日々のリスクのなかで完成までたどり着いてくださったものになりました。
 出版について友人たちに触れ回ったときにいちばんに予約をしたと言ってくれたのは、看護師をしている2人の友人でした。それぞれ専門的な分野の仕事をしていて、いまは緊張の日々です。そんななか、届くのが楽しみだと言ってくれた2人に本書を届けることができて本当によかった。土曜の夜に食べるチョコレートのように、少し笑ってくれるのなら何かの役に立てる気がする。マスクを作ったり募金を集めたりするようなことはできませんが、長い旅のゴールに届けるものができたことは幸せです。本書には16歳のころから出会ってきた人たちがたくさん登場しています。しばらく会えないことになるかもしれない彼らにも、私からの長い長い手紙を届けることができました。
 本書を手にしてくださる方たちにも、長い手紙、長いおしゃべりをするつもりで書きました。会ってお話をするということさえ、あらためて貴重な時間であることをみんなが知りました。
 飛行機も列車も運行が減り、買い物に出ることさえはばかられるような時期に世の中に出ることになった本書、ましてや旅の本は不運なのか幸運なのか。それはまた何年かあとにわかるでしょう。どんなゴールが待っているのでしょう。本書で書いたように、私は執念深いようなので会って時間を忘れて長々と話せる日常が戻ることを諦めることはありません。それまではどうか四国の川の流れやスペインの風を想像しながらご一緒にそのときを待っていただけるよう、本書をお届けします。

 

暴力のなかで生きた人・中村哲に思いをはせながら――『体罰・暴力・いじめ――スポーツと学校の社会哲学』を書いて

松田太希

 昨夜、出来上がった本書が手元に届いた。早速ページを繰ってみる。どういうわけか、自分が書いた書籍だとはうまく実感できなかった。夜、一人きりの家だったからかもしれない。今後、何らかの反響やコメントなどが届けば、きっと実感できるのだろう。
 当たり前のことだが、こういう本を書いたということは、体罰やいじめに関する研究者として見なされることになる。つまりこの本は、ある意味では、私の名刺である。しかし、そんな名刺をいったい誰が喜んで受け取るだろうか。多くの場合、警戒心を抱かれてしまうだろう。決して明るい話題ではないので、みんな、やはり難しい顔になってしまうのではないだろうか。
 ただ、本書でも繰り返し強調していることだが、私は、体罰やいじめを一刀両断に評価するのではなく、それらを徹底的に考え抜くために書いた。それは私の思考の可視化であり、それによる読者の思考の触発である。書籍は学術論文とは違い、一般の方にも届きやすい。困っている方々や、問題意識を共有できる人たちとの出会いを待ちたいと思う。
 本書では、「暴力をなくしたい」という直接的な表現を努めて控えたが、このコラムでは、その思いが思考の根底に強烈にうごめいていることをはっきりと表明しておきたい。
 とはいえ、このことを表明するのはずいぶん躊躇した。なぜなら、ある意味では素朴すぎるその願いが、場合によっては暴力現象の分析・考察を妨げ、あるいは、自分自身の暴力性を高める可能性があることを自覚していたからである。リード文に村上春樹の一文を引用したことには、その意味を込めている。しかし、結局はこうして表明したわけだが、その動機にはある日本人医師の悲劇的な死がある。中村哲の死である。
 私の実家はペシャワール会の会員だったので(現在は諸事情により会費を払っていない)、哲先生(彼の小柄な体格と人柄が私にこう呼ばせる)の存在は、昔から心の中にあった。その、アフガニスタンに身を捧げた人が、凶弾に倒れた。誤報か何かだろうと思った。しかし、そうではなかった。信じられなかった。そのとき、私は坂本龍一の「ZERO LANDMINE」を聴いていた。哲先生が建設した学校では、子どもたちが地雷の対処の仕方について学んでいる。坂本龍一は、「ZERO LANDMINE」の付録に、「人が殺されることのない世界を望むことは、果たして青くさい妄想なのだろうか?(略)全ては「希望する」ことから始まるのではないか?」と記している。そして、哲先生は、アフガニスタンの大旱魃とアメリカ軍ヘリからの機銃掃射というすさまじい暴力的状況のなかで、「武器ではなく命の水」を求め、現地の人々と日々、格闘していた。響き合う非暴力への願い。込み上げてくるものがあった。
 あるジャーナリストは、その記事で「哲先生が死に際して猛烈に悔しがっただろう」という趣旨の文章を記していたが、はたして本当にそうだろうか。「誰をも敵と見なさない」。哲先生は、あるインタビューでそう答えている。哲先生は、おそらく、静かにその死を受け入れたのではないか。「このときがきたのか」と。彼の『天、共に在り――アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版、2013年)を読めば、かの地に対する哲先生の深い慈悲があふれていることがわかる。悲しみは消えないが、哲先生はその死によって形而上的な存在になり、いつまでも天で私たちとともにあるだろう。ご遺族には不謹慎な言い方になってしまうが、凶弾に倒れたというその悲劇が、皮肉にも、その神話性を彩っているように感じる(こういう演出的解釈を哲先生は嫌うだろうが)。
 哲先生の死は、「暴力をなくしたい」という思いを、ここで私に表明させた。その思いは、長く続いた暴力研究のなかで、目に見える形で浮上することを許されていなかった。理由は既に述べたとおりである。しかし、暴力の解決のためになされない暴力研究などありえない。解決を目指さないのであれば、暴力研究など必要ではない。暴力の現実を、そのまま放っておけばいいのだから。
 暴力を解決しなければならない理由の一つは、それが命に関わるからである。体罰やいじめによって、既に若い命が失われている。ただし、私の実感では、「命の大切さ」という言い方が現代ではどうも響きにくい。基本的な安全が確保され、命があることが、ある意味ではきわめて自明のことになっているからだろう。それはすばらしいことではある。私たちがその尊さを自覚的に理解している限りで。
 形而上的・神話的存在となった哲先生は、日々の暮らしや命の大切さへの自覚を、私たちに促している。しかし、スポーツや学校で命が失われているという日本の現実。日々の暮らしの上に立つ、ある意味では過剰なものである文化や教育の現場で命が奪われている現実。この現実を乗り越えていくための神話が、私たちにはあるのか。
 キリスト教神学者の滝沢克己は『競技・芸術・人生』(内田老鶴圃、1969年)のなかで、スポーツの意味を日常生活の雑多な制約から解き放たれる点に認めている(滝沢は、『天、共に在り』で哲先生が参照しているカール・バルトに師事していた)。滝沢は日本のスポーツ哲学に大きな影響を及ぼした人だが、彼のこうした指摘を簡単に引用できなくなっているのが、現代スポーツの状況だろう。例えば、スポーツ推薦制度。授業料免除などの日常生活に恩恵をもたらすその制度は過剰な競争を駆り立て、滝沢がスポーツに見ていたような爽やかさを奪っているようにも見える。
 本書は、暴力を乗り越えていくための神話ではもちろんなく、神話、あるいは物語が要請されるような現実、そして、その現実を構成している人間存在のむごさを描き出している。しかし、なぜ神話・物語は要請されるのか。暴力の現実を徹底的に分析できたとしても、暴力の必然性が見えてくるだけ、と言えば、それだけだからである。
 本書でも指摘したが、どこまでいっても暴力の可能性は残る。それが現実なのである。だから、その厳しい現実に埋没しないために、私たちは神話・物語を求めるのだろう。しかし、価値観が多様化した現代で、私たちを包摂するような神話・物語は可能なのだろうか。もっとも、それは歴史だけが知るところなのかもしれない。私たちにできるのは、この生=時間を、日々、充実させていくことだけだろう。哲先生とアフガニスタンの人々が、護岸の石を一つ一つ積んでいくように。その結果として、河川がかの地の人々の暮らしを潤すように、私たちの日々の積み重ねが神話・物語へと昇華し、過酷な現実に希望という潤いを与えるように。

 

『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』を『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』へ

李承俊(イ・スンジュン)

 本書は、名古屋大学大学院文学研究科に提出した博士論文をもとに、一般書として書き直したものです。博士論文のタイトルは、『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』です。これが、『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』になったわけですが、大幅な改訂や修正をおこないました。特に、外国人の不自然な日本語を数回にわたってチェックしてくださった出版社の方々に、改めて感謝を申し上げます。
 本書に関する感想としてよく耳にするのは、「新しい」という言葉です。疎開に対するとらえ方が新しい、論じているテキストの選定が新しい、疎開体験の語りを戦後という枠内で読み解いていくという試みが新しい……など。研究のレベルでいえば、先行研究に対するリスペクトが見えない、ともなるでしょう。そのような声は謹んで拝聴したいと思います。
 もし本書が新しいとしたら、それは2019年現在、疎開体験者の声に耳を傾ける人々が増えることを願ってのことです。いままでの疎開に関する研究や体験者のさまざまな声は、津々浦々に届いて読み手・聴き手に何らかの感化を巻き起こしてきたと思います。現在、戦時期の体験としてもっともよく語られるのが、疎開体験です。一方で、いままでと同じ言い方、論じ方で同じ内容を繰り返すだけでより多くの方々に疎開体験について考えてもらうことができるかどうか、自問自答せずにはいられませんでした。そこで私は、人文学研究という領域では諸刃の剣である「新しさ」というものを、あえて、しかし徹底して追求していくことにしました。その成果である博士論文は、そもそも一般書になる運命を定められていたかもしれません。
「新しさ」を追求した結果ともなるでしょうか、本書には終章がありません。全体の議論をまとめて、できなかった点を反省し、今後の課題を提示するような部分がない、といっていいと思います。実をいうと、あえて書きませんでした。もしより学術的な方向性をもつような本だったら、終章にあたる部分は必要だったと思います。たとえば、戦時期の疎開体験が戦後に語られる際に主に3つの位相を呈する、第1は戦争体験とする語り、第2は戦争体験としない語り、第3は「田舎と都会」の出合いとしての語り、という具合になるでしょうか。こうまとめてしまうと、なぜか3つの位相がそれぞれ独立して存在しているような印象を読者に与えてしまうのではないか、ということを思わざるをえませんでした。
 本書は、まとめずに終えた、といえます。博士論文では以上のように整理し、それが現代社会の戦争という問題とどのように接続するのか、今後の展望のようなことを述べました。対して本書は、第9章「疎開を読み替える――戦争体験、〈田舎と都会〉、そして坂上弘」で終わります。ここでは、本書のそれまでの議論を取り入れてまとめていくかのようであって、第2部「戦争を体験しない疎開――「内向の世代」・黒井千次・高井有一」で取り上げた「内向の世代」の坂上弘をいきなり召喚します。1970年前後の高度経済成長期というコンテキストを下敷きに、坂上が自らの体験に基づいて書いた疎開体験の表象をどのように読み取ることができるのかに関して述べて終わります。
 第9章の後に終章を入れなかったのは、疎開というキーワードが、どこまで広がっていき、どの領域にまで接ぎ木されていくのかという「実験」のプロセスと結果を、より鮮やかに感じ取ってもらいたいという、私の勝手な願望によります。たくさんの読者に、一般書として本書を読んだことをきっかけに疎開をめぐって自由に想像の翼を広げてもらいたかったのです。終章の空白は、読者に向けて仕組まれた余白です。

 これらに対する評価も批判も、本書を手に取ってくださったみなさまの自由です。ぜひ聞かせてください。本書の扉を開くことで、疎開ということに関して改めて考えてみるという内向きの体験が生じ、それを機におじいちゃん・おばあちゃんの疎開体験はどのようなものだったのか、それがいまどのように語られているのか、といったような興味が湧くという外向きの体験が生じるのであれば、本書の役割は果たされたと思います。

 

美術批評の魅力から始めて――『メルロ=ポンティの美学――芸術と同時性』

川瀬智之

『メルロ=ポンティの美学』のあとがきにも書きましたが、この本は私の博士論文を基にしたものです。博士論文を書いている間、苦労したことの一つは、もちろんメルロ=ポンティの哲学が難解だということでしたが、もう一つは論文というものをどうやって書いたらいいのかわからないということでした。
 多摩美術大学の学部時代、私が中心的に読んでいたのは、1970年代から90年代にかけての日本の美術批評でした。指導教員の峯村敏明先生や、ゲスト講師として授業を聞いたことがあった松浦寿夫先生が書いた批評に感動し、そこから刺激を受けて、「美術手帖」(美術出版社、1948年―)や「みづゑ」(美術出版社、1946―81年)のバックナンバーを古書店で探して読んでいました。卒業論文ではワシリー・カンディンスキーを扱いましたが、自分では論文というよりも批評を書いているつもりでした。
 学部在籍中には、彫刻家の黒川弘毅先生の、(いま思えばおそらく西洋やイスラムの中世思想を背景にした)授業を聞いて衝撃を受け、哲学にも関心をもちましたが、そのとき読んだものの一つは、書店で偶然見かけた井筒俊彦の『意識と本質――精神的東洋を索めて』(岩波書店、1983年)でした。当時、イマヌエル・カントの『判断力批判』なども読んでいたと思いますが、私のなかにいまも残り続けているのは井筒です。私は、井筒の強烈に神秘主義的な思想はもちろん、その文体にも魅力を感じていたのだと思います。井筒は、もちろん国際的に著名な大学者ですが、いま学術的な論文として受け入れられているものとは違う、パッションに満ちた書き方をする人でした。こういったわけで、当時の私のなかでは、学問的・学術的ということはほとんど意識していませんでした。
 その後、修士論文ではアルベルト・ジャコメッティの彫刻や絵画を扱いましたが、そのとき読んだ文献で論じられていたモーリス・メルロ=ポンティの名前が、美術家の李禹煥の著作にも登場していることに気づき、その思想に興味をもつようになりました。そして、これを研究しようと東京大学の美学芸術学研究室に修士課程から入りました。様々な意味で自由だった多摩美から東大に移って驚いたことの一つは、学術論文という批評よりもはるかに厳密な形式とその作法でした。特に、修士課程から博士課程に入って数年間は、学問というもの、そして要求されるレベルの高さに適応するために苦労しました。指導教員の佐々木健一先生や西村清和先生をはじめとして、東大美学芸術学研究室の先生方は、このような私に懇切丁寧に論文の書き方を指導してくれました。今度の『メルロ=ポンティの美学』はその成果です。「学術的」「アカデミック」になっているかといえば、足りないところは多々あるかもしれませんが、読者のみなさまに確かめてもらえたらと思います。