実録! 書名が決まるまで――『面白いほどわかる!クラシック入門』を書いて

松本大輔

著者
そうそう、一応自分が考えているタイトルは『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』かな~と。

編集者
出版条件;書名;16歳からのクラシック入門

著者
タイトルは『16歳からのクラシック入門』でいきますか??
50代女子も読んでくれますかね・・・
対象を絞らない意味では『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』も好きですが。
著者
うちの50代女子は「「16歳から」でも買う人は買う、かえってそのほうがインパクトある」、とも申しておりました。サブタイトルはありですか?

編集者
理屈から言えば「16歳から100歳まで」なんですが(笑)、読者にはどう伝わるか、ですね。サブなしで一本勝負と考えていますが。

著者
あれから本のタイトルのことをいろいろアンケート取ってたのですが、「「16歳からの」と題名についてたら手に取らないと思う」、「「16歳から」だと読者を限定しそう」というような意見が多かったです。
うちのかみさんにいたっては「16歳からっていわれたら自分は関係ないと思うわ」と言ってました。
まあ一番の問題はあの本を書いた自分自身が、あの本のターゲットを40、50代の初心者に置いていたので、「16歳からの」という意識をまったく持って書いてないことですが。

編集者
書名、そうですか。では、
『いちばんやさしいクラシック入門』
『クラシック音楽って簡単!――14歳から大人までの入門書』
『やさしい!簡単!クラシック入門』
などでしょうか。もっと考えます。
松本さんも、『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』のほかにいくつかご提案ください。
当社は「世界一」などの語感にどうも腰が引けるので。
総合して決めましょう。
編集者
社内から大募集中です。あとでメールします。
私案
『交響曲を聴けばわかる!クラシック入門』
『交響曲から始めるクラシック入門』
などはどうですか?

著者
唯一原稿を呼んだスタッフが「決して世界一やさしくはないと思いますが」と言ってました・・・^^;
ただ、「やさしい」「はいりこみやすい」「聴きたくなる」というのはウリにしたいのですよね・・・
いっぱい出てきたので、いただいた候補と一緒に列挙します。
『いちばんやさしいクラシック入門』
『やさしい!クラシック入門 ~14歳から大人まで』
『交響曲を聴けばわかる!やさしいクラシック入門』
『きっと聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
『まつもと兄弟クラシックの旅 やさしい!クラシック入門』
『まつもと兄弟クラシックの旅 聴きたくなるクラシック入門』
『クラシック音楽って簡単!――14歳から大人までの入門書』
『やさしい!簡単!クラシック入門』
『交響曲を聴けばわかる!クラシック入門』
『交響曲から始めるクラシック入門』
何か思いついたらぜひお知らせください!

編集者
書名は「メインに交響曲があると、入門者にはハードルが高い=そもそも交響曲が何かを知らないから」という社内意見もあって、迷いに迷っています。

著者
それは言えてるかも・・・
そもそも交響曲が何かを知らない人に読ませたいので書名に交響曲があると手にも取ってくれない・・・
著者
書名候補追加
『聴きたくなる!クラシック入門の旅』
自分がこの本を書いていたときの気持ちに一番近いかも。

編集者
あと二晩考えますが、社内からは以下が出ました。
『みんな最初はクラシックがわからなかった――やさしいクラシック音楽入門』
『クラシックの聴き方がわかる本』
『クラシックは交響曲を聴けばだいたいわかる』
『ゼロからわかるクラシック入門』
『入門 クラシックの世界』
『何から聴けばいいかわからない人のためのクラシック入門』
『クラシックの良さがわからない――16歳からのクラシック入門』
『ベートーヴェンがわからない――16歳からのクラシック入門』(モーツァルトでも)
『誰もがはじめはクラシックを知らない――交響楽でたどる早わかり入門書』
『クラシックは交響曲から聴こう!――14歳から大人までの入門書』
『交響曲で学ぶざっくりクラシック入門――14歳から大人までの入門書』
で、いまのところ一番人気は
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
です。
「の旅」はヨーロッパ観光ガイドと誤解される、という意見が大勢です。
とりあえず。

著者
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
いいですね~!
『絶対聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
という意見も出てきました。^^
> 「の旅」はヨーロッパ観光ガイドと誤解される、という意見が大勢です。
な、なるほど・・・確かに・・・

編集者
書名を
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
で決めたいのですが、いかがでしょうか。

著者
> 『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
了解です!
これがすっきりです!!
よろしくおねがいします。

編集者
諦めが悪くてスミマセン。最後の最後の案です。
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
で決めましたが、
『クラシックが面白いほどわかる!』
『クラシックが面白いほどわかる!―――14歳からの入門書』
のどちらかは、やはりNGでしょうか。

著者
> 『クラシックが面白いほどわかる!』
あ、『面白いほどわかる!クラシック入門』はどうですか??
確かに他の入門書に比べたら「面白い」かなと思うし・・・
あ、
「たのしいクラシック入門!」
とか。。。
「年齢入れ」は不評なのでやめておくとして。
よけい混乱させてしまいましたね。

編集者
では、
『面白いほどわかる!クラシック入門』
で決定します。もう、変えません!

著者
> 『面白いほどわかる!クラシック入門』
よろしくおねがいします!

 

絵本と、いつもうまく書けなかったある夏のこと――『絵本で世界を学ぼう!』を書いて

柏原寛一

 夏のあいだ、図書館の仕事のあとはいつも同じ店に入って、(大したものを注文もせず)くる日もくる日も絵本を読んだ。112冊(当初)の一つひとつに紹介文を書くつもりだった。ぼくの計算したところによると、1日5冊ずつ書いていかなければ、締め切りには間に合わない。絵本を詰め込んだリュックは重たかった。

 子どものための図書館で働き、子どもたちが絵本を選び、とびらを開くところにふれ、また、子どもの本に向き合う図書館員らと過ごしているうちに、ぼくにとって絵本は特別なひかりを帯びていった。美しく、清潔で、強いひかりだ。手軽に語ることをためらわせるような。
(いつもうまく言い表すことができないのだけれど)絵本はけっして「かんたん(イージー)」なものでなく、一人ひとりの作家によるかけがえのない厳しさ、優しさをもってつくられる。ぼくは、そう思っている。

 どんなものごとも、ほんとうに言い切ってしまうのは難しい。たとえば土とかコップのために、わたしたちはどんなふうに言い切ることができるのだろう。
 はじめに取りかかる絵本について、ひと文字も書きだすことができなかった。この仕事の途方のなさに気がつき、息苦しくなる感じがした。いったい何を書けばいいのだろう。あらすじ? もし、正しくその物語を表そうとするなら、そのまま書き写すほかないじゃないか。
 書けないとわかると、(この気持ちを説明することは難しいのだが)読むことができていない、と感じるようになった。きわめて後ろめたかった。
 ああ、今夜もちっとも進まなかった。こんなことに手をつけていいのだろうか……。
 そういう何日かが過ぎて、ぼくは少しずつ書くようになった。あるいは、いくつかの初々しい情熱を手放してしまったかもしれない。しかし、とにかく、ぼくは書き始めた。その絵本がどのような作品であるか(自分なりに)読み取り、そのあとで、自分が感じたことをそっと書きつけた。仕事のあとはいつもの店に行き、休みの日は大きな図書館にかよった。
 ぐん、と重たいリュックをかついだ夏の夜の帰り道、その昼その夜に読んだ絵本のことを考えて歩いた。またうまく書けなかった、と思いながら、あくる日に読む作品のことを思い浮かべた。何かに追い立てられるような、何かに立ち向かうような、ちぐはぐな気分だった。苦しくも、りんりんと勇気がわくようでもあった。

 図書館に勤めた日々、子どものための本と付き合う日々は、ぼくをいくらか偏った大人にしたかもしれないが、そのことを大切にしていたいと思う。むちゃくちゃな絵本、ちょっと変わった図書館員、子どもたち。ぼくはきみたちのことが好きだ。
 引き返しができない目つきでそれぞれの作品に向かい、それらに宛ててけんめいに書きたいと思った。せめて、そのようでなければ、一人ひとりの作家、翻訳者の仕事には近寄れないはずだから。
 ほかのブックリストがどのように編まれるものか、ぼくは知らない。おそらく、こんなふうにはだれも考えていないだろう。
 とはいえ、ぼくは、風変わりなものを書こうと考えていたわけではない。一つひとつの絵本について、誤りなく、だれにとってもわかりやすい紹介文であるように心がけた。夏につくった下書きのうち、あまりに熱っぽいところはそのあと数カ月をかけて取り去った。

 本書の刷り上がりと店頭に並ぶまでの10日ばかりに、この文章を書いてしまおうと思っていた。でも、うまく書きだすことができなかった。今夜こそ、と入る新しい喫茶店の席は空いておらず、結局いつもの店に向かう交差点で信号を眺めて立ち止まるとき、こんなことがあったよな、と思う。雨上がりの夕方はひどく蒸し暑い。そうだ、一つ前の夏のあいだも、汗をかき、どちらかと言えばうつむいて、絵本を背負い、ぼくはこの信号が変わるのを待っていた。

 

世代を超えて受け継がれていくもの――『有島武郎をめぐる物語――ヨーロッパに架けた虹』

杉淵洋一

 水滴が着水すると、水面に波紋が広がっていく。第一の波紋が、有島武郎が小説『或る女』を世に送り出したときだとするならば、1926年のパリでのフランス語版『或る女』の出版を第二の波紋としてとらえることも可能だろう。本書はこの第二の波紋について、その原因となる水滴がどのように構成されたのか、そして、どのように水面を波紋が広がっていったのかについて、2人の翻訳者である好富正臣とアルベール・メーボンを起点として著者なりに考察をおこなった努力の痕跡である。あえて「努力」という言葉をここで使うのには、この書籍は2013年に名古屋大学に提出した「有島武郎の思想とその系譜」という博士論文が原型となっていて、もともとは研究論文として書いたものが大部分だからである。
 有島武郎が自宅で主宰していた学生サロン「草の葉会」の芹沢光治良、谷川徹三、大佛次郎といった参加者たちが、有島について語った文章を読めば読むほど、有島武郎という人間が単なる作家という範疇に収まる人物ではなく、日本の近代化の一翼を担った人物として浮かび上がってくる。有島武郎の考え方や生き方は、当時の鎖国から解き放たれ、世界の列強と対峙する必要に迫られた日本の若者たちを激しく鼓舞していたのである。そういったこれまでの有島武郎像からは零れていた側面を本書では描きたかったのである。
 そして、この書籍を上梓するに至るまでに、本当にたくさんの人々のお世話になってきた。もともとは研究のためにと書いた論文の集まりではあったが、お世話になってきた人々へ感謝の証しとして、博士論文から本書に書き改める際は、できるだけ日常的な表現を用いて、内容について理解しやすいような文章を心がけた。特に芹沢光治良の四女・岡玲子様や芹沢光治良の出身地である沼津の沼津市芹沢光治良記念館には、本書の出版にあたって貴重な写真や証言を提供していただき、そのご厚情には深く深く感謝する次第である。芹沢光治良が「世の中を裨益する人間になりたい」という思いを強く抱く一端となった有島武郎の社会に対して真摯な生き方を、芹沢文学の愛読者の方々には少しでも本書から感じ取っていただけることを願っている。また、ここ10年以上にわたって参加させていただいた愛知県常滑市の有志の方々が運営している谷川徹三を勉強する会にも深く感謝を申し上げておきたい。有島武郎と谷川徹三の関係について考察した章などでは、この会で学んだことが大いに役立っている。この会の会長であり、大学時代に谷川徹三の教え子だった杉江重剛様の谷川についての実像に迫った証言は、有島と谷川の具体的な関係性を示唆するところが多く、本書の執筆を大いに助けたことをここに付言しておきたい。
 なぜ、有島武郎の『或る女』がフランス語に翻訳されたのか。それは、有島が、世界を渡り歩きながら、日本という国を牽引していくことになる当時の若者たちにとっての憧れの的だったからである。このような稀有な人間の実像について学ぶことは、SNSや移民などの問題によって21世紀の新たな意味での開国を迫られている我々にとっても、今後の社会が進むべき道を判断していくうえの指標にもなるだろう。本書が有島武郎という人間のすべてを描ききれているわけではなく、多くの点を見落としてしまっているところもあることは、私の力の至らなさによるものであり、その点についてはご寛恕いただければ幸いである。しかしながら、本書を手に取って、明治、大正という時代を駆け抜けるようにして去っていった有島の姿から、心に残る何かを感じ取っていただけるのならば著者にとっては望外の喜びである。
 有島武郎の恩師である新渡戸稲造の「願はくはわれ太平洋の橋とならん」という言葉はあまりにも有名だが、新渡戸はこの「橋」について、「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれて初めて架けられる」と述べたとされている。ある世界と別の世界をつなぐ橋は、思いを受け継いだ者たちによって、緩やかながら確実に架けられていくものなのである。私は本書を通して、近代化の最中にあった日本からヨーロッパに有島武郎の思いを乗せた虹の橋が架けられていく軌跡をわずかばかりでも描きたかったのである。

 

旅が流れ着く場所――『お遍路ズッコケ一人旅――うっかりスペイン、七年半の記録』を書いて

波 環

 これを書いているのは2020年4月18日です。全都道府県を対象に新型コロナウイルス対策としての行動自粛要請が発表されて2日目です。世界中が緊張感で満ちています。そんな世の中に、あれよあれよという間に本書を出版しました。
 いまは、このタイミングで出版することがお遍路のゴールだったように思えています。お遍路を歩いているときのゴールは八十八番札所でした。歩き終わったあとは、終える気持ちを成仏させるために書き留めておこうと思いました。書いた先にこんな世の中が待っていました。
 思えば、1冊目(『宝塚に連れてって!』青弓社)を出版した22年前は妊娠中でした。ちょうどつわりがひどい時期に校正などをおこない、何でこんなことになったのか、そもそも自分から始めたことなので、どうもこうもないのですが、考える暇もないほどで、その先に本ができあがってきました。その本をもって私は、宝塚が大好きなおねえちゃんから、母親になりました。書くことでおねえちゃん時代を卒業したように思います。
 そこから30代は子育てと仕事で記憶なし。保育所や学童保育と会社と家の三角移動で10年ほど過ぎました。荒っぽく育てた息子は、そのうちに自分でごはんを炊けるようになっていました。彼がごはんを炊いたりカップ麺にお湯を入れたりできることを確認したころに東日本大震災があって、お遍路を歩き始めたという経緯は本書に述べたとおりです。
 東日本大震災→お遍路→本書という時間の流れがあるのですが、絶妙な、このタイミングしかないというところで出版できたと思っているのです。しばらくはスペインには行ける気がしませんし、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂も巡礼事務所も閉鎖になっていると聞きます。お遍路もしかりで、札所のお寺は参拝の受け入れを中止したり大きな法会をとりやめたりしているようです。タイミングとしては、巡礼もお遍路もぎりぎりセーフだったのです。
 さあ、こんなあとから考えると何もかもぎりぎりセーフの本書ですが、出版までの作業もぎりぎりでした。入稿したのが2月末。私が住む北海道は、早くから行動規制が始まっていて引きこもり生活は原稿執筆にぴったりでした。2月のころはまだ、3月になったら上京して青弓社を訪ねて打ち合わせをしようと日程を調整していました。が、みるみるうちにそれはかなわなくなりました。3月は飲食店への出入りも自粛になってきましたので飲み会もなくなり、今度は校正作業の日々。青弓社から「印刷所に入れましたので、来週からは当社も基本的には在宅勤務です」という連絡を受け取ったときには本当にありがたく思いました。青弓社のみなさんも、印刷所の方々も、デザイナーの和田悠里さんもカバーイラストを描いてくださった霜田あゆ美さんも、日々のリスクのなかで完成までたどり着いてくださったものになりました。
 出版について友人たちに触れ回ったときにいちばんに予約をしたと言ってくれたのは、看護師をしている2人の友人でした。それぞれ専門的な分野の仕事をしていて、いまは緊張の日々です。そんななか、届くのが楽しみだと言ってくれた2人に本書を届けることができて本当によかった。土曜の夜に食べるチョコレートのように、少し笑ってくれるのなら何かの役に立てる気がする。マスクを作ったり募金を集めたりするようなことはできませんが、長い旅のゴールに届けるものができたことは幸せです。本書には16歳のころから出会ってきた人たちがたくさん登場しています。しばらく会えないことになるかもしれない彼らにも、私からの長い長い手紙を届けることができました。
 本書を手にしてくださる方たちにも、長い手紙、長いおしゃべりをするつもりで書きました。会ってお話をするということさえ、あらためて貴重な時間であることをみんなが知りました。
 飛行機も列車も運行が減り、買い物に出ることさえはばかられるような時期に世の中に出ることになった本書、ましてや旅の本は不運なのか幸運なのか。それはまた何年かあとにわかるでしょう。どんなゴールが待っているのでしょう。本書で書いたように、私は執念深いようなので会って時間を忘れて長々と話せる日常が戻ることを諦めることはありません。それまではどうか四国の川の流れやスペインの風を想像しながらご一緒にそのときを待っていただけるよう、本書をお届けします。

 

暴力のなかで生きた人・中村哲に思いをはせながら――『体罰・暴力・いじめ――スポーツと学校の社会哲学』を書いて

松田太希

 昨夜、出来上がった本書が手元に届いた。早速ページを繰ってみる。どういうわけか、自分が書いた書籍だとはうまく実感できなかった。夜、一人きりの家だったからかもしれない。今後、何らかの反響やコメントなどが届けば、きっと実感できるのだろう。
 当たり前のことだが、こういう本を書いたということは、体罰やいじめに関する研究者として見なされることになる。つまりこの本は、ある意味では、私の名刺である。しかし、そんな名刺をいったい誰が喜んで受け取るだろうか。多くの場合、警戒心を抱かれてしまうだろう。決して明るい話題ではないので、みんな、やはり難しい顔になってしまうのではないだろうか。
 ただ、本書でも繰り返し強調していることだが、私は、体罰やいじめを一刀両断に評価するのではなく、それらを徹底的に考え抜くために書いた。それは私の思考の可視化であり、それによる読者の思考の触発である。書籍は学術論文とは違い、一般の方にも届きやすい。困っている方々や、問題意識を共有できる人たちとの出会いを待ちたいと思う。
 本書では、「暴力をなくしたい」という直接的な表現を努めて控えたが、このコラムでは、その思いが思考の根底に強烈にうごめいていることをはっきりと表明しておきたい。
 とはいえ、このことを表明するのはずいぶん躊躇した。なぜなら、ある意味では素朴すぎるその願いが、場合によっては暴力現象の分析・考察を妨げ、あるいは、自分自身の暴力性を高める可能性があることを自覚していたからである。リード文に村上春樹の一文を引用したことには、その意味を込めている。しかし、結局はこうして表明したわけだが、その動機にはある日本人医師の悲劇的な死がある。中村哲の死である。
 私の実家はペシャワール会の会員だったので(現在は諸事情により会費を払っていない)、哲先生(彼の小柄な体格と人柄が私にこう呼ばせる)の存在は、昔から心の中にあった。その、アフガニスタンに身を捧げた人が、凶弾に倒れた。誤報か何かだろうと思った。しかし、そうではなかった。信じられなかった。そのとき、私は坂本龍一の「ZERO LANDMINE」を聴いていた。哲先生が建設した学校では、子どもたちが地雷の対処の仕方について学んでいる。坂本龍一は、「ZERO LANDMINE」の付録に、「人が殺されることのない世界を望むことは、果たして青くさい妄想なのだろうか?(略)全ては「希望する」ことから始まるのではないか?」と記している。そして、哲先生は、アフガニスタンの大旱魃とアメリカ軍ヘリからの機銃掃射というすさまじい暴力的状況のなかで、「武器ではなく命の水」を求め、現地の人々と日々、格闘していた。響き合う非暴力への願い。込み上げてくるものがあった。
 あるジャーナリストは、その記事で「哲先生が死に際して猛烈に悔しがっただろう」という趣旨の文章を記していたが、はたして本当にそうだろうか。「誰をも敵と見なさない」。哲先生は、あるインタビューでそう答えている。哲先生は、おそらく、静かにその死を受け入れたのではないか。「このときがきたのか」と。彼の『天、共に在り――アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版、2013年)を読めば、かの地に対する哲先生の深い慈悲があふれていることがわかる。悲しみは消えないが、哲先生はその死によって形而上的な存在になり、いつまでも天で私たちとともにあるだろう。ご遺族には不謹慎な言い方になってしまうが、凶弾に倒れたというその悲劇が、皮肉にも、その神話性を彩っているように感じる(こういう演出的解釈を哲先生は嫌うだろうが)。
 哲先生の死は、「暴力をなくしたい」という思いを、ここで私に表明させた。その思いは、長く続いた暴力研究のなかで、目に見える形で浮上することを許されていなかった。理由は既に述べたとおりである。しかし、暴力の解決のためになされない暴力研究などありえない。解決を目指さないのであれば、暴力研究など必要ではない。暴力の現実を、そのまま放っておけばいいのだから。
 暴力を解決しなければならない理由の一つは、それが命に関わるからである。体罰やいじめによって、既に若い命が失われている。ただし、私の実感では、「命の大切さ」という言い方が現代ではどうも響きにくい。基本的な安全が確保され、命があることが、ある意味ではきわめて自明のことになっているからだろう。それはすばらしいことではある。私たちがその尊さを自覚的に理解している限りで。
 形而上的・神話的存在となった哲先生は、日々の暮らしや命の大切さへの自覚を、私たちに促している。しかし、スポーツや学校で命が失われているという日本の現実。日々の暮らしの上に立つ、ある意味では過剰なものである文化や教育の現場で命が奪われている現実。この現実を乗り越えていくための神話が、私たちにはあるのか。
 キリスト教神学者の滝沢克己は『競技・芸術・人生』(内田老鶴圃、1969年)のなかで、スポーツの意味を日常生活の雑多な制約から解き放たれる点に認めている(滝沢は、『天、共に在り』で哲先生が参照しているカール・バルトに師事していた)。滝沢は日本のスポーツ哲学に大きな影響を及ぼした人だが、彼のこうした指摘を簡単に引用できなくなっているのが、現代スポーツの状況だろう。例えば、スポーツ推薦制度。授業料免除などの日常生活に恩恵をもたらすその制度は過剰な競争を駆り立て、滝沢がスポーツに見ていたような爽やかさを奪っているようにも見える。
 本書は、暴力を乗り越えていくための神話ではもちろんなく、神話、あるいは物語が要請されるような現実、そして、その現実を構成している人間存在のむごさを描き出している。しかし、なぜ神話・物語は要請されるのか。暴力の現実を徹底的に分析できたとしても、暴力の必然性が見えてくるだけ、と言えば、それだけだからである。
 本書でも指摘したが、どこまでいっても暴力の可能性は残る。それが現実なのである。だから、その厳しい現実に埋没しないために、私たちは神話・物語を求めるのだろう。しかし、価値観が多様化した現代で、私たちを包摂するような神話・物語は可能なのだろうか。もっとも、それは歴史だけが知るところなのかもしれない。私たちにできるのは、この生=時間を、日々、充実させていくことだけだろう。哲先生とアフガニスタンの人々が、護岸の石を一つ一つ積んでいくように。その結果として、河川がかの地の人々の暮らしを潤すように、私たちの日々の積み重ねが神話・物語へと昇華し、過酷な現実に希望という潤いを与えるように。

 

『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』を『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』へ

李承俊(イ・スンジュン)

 本書は、名古屋大学大学院文学研究科に提出した博士論文をもとに、一般書として書き直したものです。博士論文のタイトルは、『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』です。これが、『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』になったわけですが、大幅な改訂や修正をおこないました。特に、外国人の不自然な日本語を数回にわたってチェックしてくださった出版社の方々に、改めて感謝を申し上げます。
 本書に関する感想としてよく耳にするのは、「新しい」という言葉です。疎開に対するとらえ方が新しい、論じているテキストの選定が新しい、疎開体験の語りを戦後という枠内で読み解いていくという試みが新しい……など。研究のレベルでいえば、先行研究に対するリスペクトが見えない、ともなるでしょう。そのような声は謹んで拝聴したいと思います。
 もし本書が新しいとしたら、それは2019年現在、疎開体験者の声に耳を傾ける人々が増えることを願ってのことです。いままでの疎開に関する研究や体験者のさまざまな声は、津々浦々に届いて読み手・聴き手に何らかの感化を巻き起こしてきたと思います。現在、戦時期の体験としてもっともよく語られるのが、疎開体験です。一方で、いままでと同じ言い方、論じ方で同じ内容を繰り返すだけでより多くの方々に疎開体験について考えてもらうことができるかどうか、自問自答せずにはいられませんでした。そこで私は、人文学研究という領域では諸刃の剣である「新しさ」というものを、あえて、しかし徹底して追求していくことにしました。その成果である博士論文は、そもそも一般書になる運命を定められていたかもしれません。
「新しさ」を追求した結果ともなるでしょうか、本書には終章がありません。全体の議論をまとめて、できなかった点を反省し、今後の課題を提示するような部分がない、といっていいと思います。実をいうと、あえて書きませんでした。もしより学術的な方向性をもつような本だったら、終章にあたる部分は必要だったと思います。たとえば、戦時期の疎開体験が戦後に語られる際に主に3つの位相を呈する、第1は戦争体験とする語り、第2は戦争体験としない語り、第3は「田舎と都会」の出合いとしての語り、という具合になるでしょうか。こうまとめてしまうと、なぜか3つの位相がそれぞれ独立して存在しているような印象を読者に与えてしまうのではないか、ということを思わざるをえませんでした。
 本書は、まとめずに終えた、といえます。博士論文では以上のように整理し、それが現代社会の戦争という問題とどのように接続するのか、今後の展望のようなことを述べました。対して本書は、第9章「疎開を読み替える――戦争体験、〈田舎と都会〉、そして坂上弘」で終わります。ここでは、本書のそれまでの議論を取り入れてまとめていくかのようであって、第2部「戦争を体験しない疎開――「内向の世代」・黒井千次・高井有一」で取り上げた「内向の世代」の坂上弘をいきなり召喚します。1970年前後の高度経済成長期というコンテキストを下敷きに、坂上が自らの体験に基づいて書いた疎開体験の表象をどのように読み取ることができるのかに関して述べて終わります。
 第9章の後に終章を入れなかったのは、疎開というキーワードが、どこまで広がっていき、どの領域にまで接ぎ木されていくのかという「実験」のプロセスと結果を、より鮮やかに感じ取ってもらいたいという、私の勝手な願望によります。たくさんの読者に、一般書として本書を読んだことをきっかけに疎開をめぐって自由に想像の翼を広げてもらいたかったのです。終章の空白は、読者に向けて仕組まれた余白です。

 これらに対する評価も批判も、本書を手に取ってくださったみなさまの自由です。ぜひ聞かせてください。本書の扉を開くことで、疎開ということに関して改めて考えてみるという内向きの体験が生じ、それを機におじいちゃん・おばあちゃんの疎開体験はどのようなものだったのか、それがいまどのように語られているのか、といったような興味が湧くという外向きの体験が生じるのであれば、本書の役割は果たされたと思います。

 

美術批評の魅力から始めて――『メルロ=ポンティの美学――芸術と同時性』

川瀬智之

『メルロ=ポンティの美学』のあとがきにも書きましたが、この本は私の博士論文を基にしたものです。博士論文を書いている間、苦労したことの一つは、もちろんメルロ=ポンティの哲学が難解だということでしたが、もう一つは論文というものをどうやって書いたらいいのかわからないということでした。
 多摩美術大学の学部時代、私が中心的に読んでいたのは、1970年代から90年代にかけての日本の美術批評でした。指導教員の峯村敏明先生や、ゲスト講師として授業を聞いたことがあった松浦寿夫先生が書いた批評に感動し、そこから刺激を受けて、「美術手帖」(美術出版社、1948年―)や「みづゑ」(美術出版社、1946―81年)のバックナンバーを古書店で探して読んでいました。卒業論文ではワシリー・カンディンスキーを扱いましたが、自分では論文というよりも批評を書いているつもりでした。
 学部在籍中には、彫刻家の黒川弘毅先生の、(いま思えばおそらく西洋やイスラムの中世思想を背景にした)授業を聞いて衝撃を受け、哲学にも関心をもちましたが、そのとき読んだものの一つは、書店で偶然見かけた井筒俊彦の『意識と本質――精神的東洋を索めて』(岩波書店、1983年)でした。当時、イマヌエル・カントの『判断力批判』なども読んでいたと思いますが、私のなかにいまも残り続けているのは井筒です。私は、井筒の強烈に神秘主義的な思想はもちろん、その文体にも魅力を感じていたのだと思います。井筒は、もちろん国際的に著名な大学者ですが、いま学術的な論文として受け入れられているものとは違う、パッションに満ちた書き方をする人でした。こういったわけで、当時の私のなかでは、学問的・学術的ということはほとんど意識していませんでした。
 その後、修士論文ではアルベルト・ジャコメッティの彫刻や絵画を扱いましたが、そのとき読んだ文献で論じられていたモーリス・メルロ=ポンティの名前が、美術家の李禹煥の著作にも登場していることに気づき、その思想に興味をもつようになりました。そして、これを研究しようと東京大学の美学芸術学研究室に修士課程から入りました。様々な意味で自由だった多摩美から東大に移って驚いたことの一つは、学術論文という批評よりもはるかに厳密な形式とその作法でした。特に、修士課程から博士課程に入って数年間は、学問というもの、そして要求されるレベルの高さに適応するために苦労しました。指導教員の佐々木健一先生や西村清和先生をはじめとして、東大美学芸術学研究室の先生方は、このような私に懇切丁寧に論文の書き方を指導してくれました。今度の『メルロ=ポンティの美学』はその成果です。「学術的」「アカデミック」になっているかといえば、足りないところは多々あるかもしれませんが、読者のみなさまに確かめてもらえたらと思います。

 

放送の自由を守るために――『政治介入されるテレビ――武器としての放送法』を書いて

村上勝彦

「文庫本を読むのにも1週間かかるのに、2日で読んだ。モヤモヤしていたものが消えた」「倫理規定とか義務規定とかというのは、学者の話と思っていたが、放送法の目的から説明があってはじめてその意味がわかった」
 本書を読んでくれた先輩や仲間の感想である。言いたかったことが伝わったと、素直に喜べた。
 実は私は放送局で長年仕事をしていたので放送法はある程度知っているつもりだったが、誤った理解しかしていなかった。放送法は放送局を規律するためにある、と思っていた。というのも、放送法第3条に「番組編集の自由」があるが、そのすぐあとの第4条に「善良な風俗」「事実はまげない」などの番組準則が続いているために、それに反すれば社内で処分を受けるのはもちろんこと、郵政省や総務省から注意されても仕方がないと単純に思っていた。放送は免許事業であるため、放送番組には一定の枠があり、その枠に触れるかどうかを判断する権限を行政はもっていると何の根拠もなく思い込んでいた。あたかも行政が司法判断をする裁判所であるかのように、である。
 しかし、放送法制定時の国会で辻寛一電気通信委員会委員長が述べた、軍や官僚が放送を握って軍事宣伝の道具にした歴史を繰り返さないために放送法を制定する、という委員会報告を読み、はじめてその出発点を知った。これで、視点と理解が百八十度変わった。そして、戦後に新聞紙法や出版法が廃止されたにもかかわらず、なぜ新憲法の下、放送法ができたのかがすんなり理解できた。つまり放送法は、放送が限られた電波を使っていて影響力が大きいために、権力の介入を許さず、それを防ぐために制定されたという、ごく当たり前のことを知ったのである。
 放送局で働く多くの人たちは、「放送の自由を守る」という思いをもっている。私もそうである。しかし「放送の自由」とは何か、何から何をどう守るのかということをしっかり考えることはなかった。ひと言で言えば、自由とは拘束されないことだ。拘束するには権限がいる。しかし放送法は、放送番組に関して拘束する権限を行政に与えていない。放送法は、放送局が自ら枠を決めて自ら律することを求め、その枠の基本を第4条に記しているのだ。そして自律しているかどうかの判断を政府や国家に許していない。その判断は放送局が自律的におこなうものであり、それを評価するのは視聴者である。
 この基本を知らないと、「放送の自由を守る」という言葉は、理論が伴わない単なるスローガンにしかならない。同時に、「自律」がとてつもなく重いものであることも十分には理解できないのである。
 本来ならば放送局で働く人が知っておかなければならない放送法のこの意味を、社内研修などでは残念ながら聞いたことはなかった。そのためか、「公共の電波を使うので規制が必要」といわれると、そうだろうなと思ってしまうのである。私はそうだったし、多くの仲間もそうである。それではいけないと思い、できるだけわかりやすく放送法の意味を伝えられないかとこの本にまとめたつもりだ。
 放送法を知っているつもりだった私があらためて放送法に関心をもったきっかけは、5年ほど前に、先輩の紹介で日本マス・コミュニケーション学会の会員になったことである。年に2回発行されている学会誌に投稿論文の場があり、それに投稿した。学生時代、リポートは書いたことがあるが、論文というものは経験がなく書き方の基本も知らなかった。
 最初の投稿は、番組への行政指導と放送局の自律という大テーマで、査読者もお粗末さにびっくりしたのだろう、参考文献をはじめ論文のイロハを丁寧に教えてもらった。そのおかげで、国会議事録を中心に一から事実を積み上げ、行政が放送法の解釈を変えてきたこともよくわかった。その際最も参考になった1つが『放送法を読みとく』(鈴木秀美/山田健太/砂川浩慶編著、商事法務、2009年)であり、「目からうろこ」だったのは、先に記した放送法制定時の辻寛一委員長の発言だった。今年初めの学会誌にようやく投稿論文が掲載され、自分の放送法の解釈に誤りはないと思い、青弓社の矢野恵二氏や社員のみなさんのお力で本にすることができた。
 現代は、真偽取り交ぜて様々な情報が飛び交い流布され、その一方で官邸を中心とした政府の情報統制が進んでいる。そんな時代だからこそメディアの真価が問われる。特に放送は放送法を理解し理論武装しないと政府にからめ捕られる恐れが強い。

 放送に携わる人たちをはじめ放送に関心がある人たちに、無知だった筆者の悔恨が詰まった本書を手にしていただければ幸いだ。そして、放送法を闘う武器としてともに生かせればと思っている。

 

その後のPTA――『PTAという国家装置』を出版して2年

岩竹美加子

『PTAという国家装置』を刊行してから早くも2年たった。
 この間の変化の一つは、2017年に個人情報保護法が改正されて、学校が子どもの名簿をPTAに渡すことが問題とされるようになったことだ。PTAは学校に付随した組織なのではなく、学校からは独立した組織であること、学校の名簿をPTAに渡すのは個人情報保護上、問題があることが知られるようになった。PTAは、加入を希望する保護者の名簿を自分で作ることが求められるようになったのだ。
 二つ目は、PTAが任意加入であることを周知する動きである。これまでは子どもが小学校に入学したら自動的・強制的に加入するものと思われてきたが、実は加入は任意であることを保護者に知らせるようになった。
つまり、この二つの変化には任意加入という関連がある。
 しかし、加入が任意であることを周知することで、「会員がゼロになったらどうするのか」「PTAがなくなったらどうするのか」という恐れが常につきまとう。その結果、「任意であることを通知しても、こうすれば加入率は減らない」というようなノウハウが広く流布されている。
 例えば、 「できる人が、できることを、できるときに」や「やりたい人が、やりたいことを、やりたいときに」というシステムである。従来のように、仕事を休んだり、病気を押したり、幼児や病人の世話を人に頼んだりして、強制的にPTA活動に参加させられるのではなく、自分ができること、やりたいことを選べるシステムだという。これによって、 これまでの強制参加から希望参加制に、あるいはボランティア制、サポーター制に変わるとされる。非加入を避けるための工夫だが、結局「できない」「やりたくない」とは言わせない仕組みでもあるようだ。また、このシステムで「私はしているのに、あなたがしないのはずるい、許せない」という、PTA活動につきまとう感情を変えていけるだろうか。
 そのほかの改革案として、活動を年度始めに一覧にする、通年の活動と1度だけの活動を明確に整理して参加者を募集する、業務をスリム化する、不要な役職を減らす、手紙での連絡ではなくメール配信の導入を考える、個人情報に配慮する、などを挙げるPTAもある。「活動を年度始めに一覧にする」のは、会員自身が、自分たちに必要と考える活動計画を立てるのではなく、すでに決められていて、与えられる活動や行事をこなしていくPTAのあり方を前提にしている。しかし、一覧にすることで「改革」とされるようだ。
「業務をスリム化する」「不要な役職を減らす」は、1970年代頃にも言われていたことで、それがいまだに実施されていないことを示す。「メール配信の導入」と「個人情報に配慮する」のは、現在の社会では当然だろう。PTAは、その「不活性化」や「危機」「停滞」が危ぶまれ、数十年間にわたって「活性化」「改革」「再生」などの言葉で語られてきた組織である。任意加入の通知と個人情報保護という新しい要素は加わったが、現在の動きもそうした流れの継続として見ることができる。
 昨2018年10月、大津市教育委員会は「PTA運営の手引き」を公立学校の校長などに配布した。ほかにも「無理な役員選考をしないよう」「退会者の子どもへの扱いが変わらないよう」注意を促す通達や手引書を学校の管理職に対して発行した教育委員会もあるという。また、加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを複数公表したり、PTAの違法・強制から保護者を守ってくれる教育委員会の「お助け通知」を公開したりしているインターネットのサイトもある。
 教育委員会がPTAの違法・強制から保護者を守ってくれるという考えは、信憑性があるだろうか。教育委員会は、PTAを維持しようとする教育行政の一部である。学校でのいじめ問題では、しばしば証拠隠蔽や改竄を繰り返し、いじめはなかったと公表する。また子どもの虐待問題では、必ずしも適切な判断や行動をしていないことが報道される。そうした組織が、PTA入会の問題で保護者を守ってくれるだろうか。
 現実には、非加入を選んだ保護者に対して、その子どもを登校班に入れない、卒業式に子どもが胸につけるコサージュをあげない、卒業記念品をあげない、などのいやがらせが各地でおこなわれている。私自身、同様の経験がある。PTA入会申し込み用紙には「入会する」と「入会しない」の選択肢があったので「入会しない」に印をつけて提出したところ、子どもをPTAの催しに参加させないという脅しを受けた。加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを作れば、問題が解決するわけではない。
 最大の問題は、PTAがほぼ日本全国の学校にあることだ。保護者が、それぞれの場で自分たちの必要に応じた組織を形成、計画し活動するのではなく、PTAがすでに強固に存在して国家装置として機能し、保護者の動員に使われていることが問題なのだ。
 学校に行くことは「登校」、学校から家に帰ることは「下校」と言われる。学校は上位に、家庭は下位に位置付けられていて、学校と家庭は対等の関係にはない。また、日本の学校は入学式、始業式、終業式、卒業式など、式をことさら好み、卒業式の練習には多くの時間と労力を割く。文部科学省の「小学校学習指導要綱」は、学校行事で「厳粛」な気持ちを味わうことを規定している。また、日本の学校では運動会、謝恩会、最近では二分の一成人式などの行事が重視される。PTAはこうした学校行政の一部に組み込まれていて、それは保護者間の同調圧力を強化する仕組みにもなっている。
 広い意味でPTAのあり方は、最近、問題にされるようになったブラックな校則や部活動、先生の長時間労働などの学校の問題とも関連するものだ。日本の学校には問題が山積しているのだが、PTAが声を上げたり、一歩踏み出したりすることはない。
 日本は教育の公的支出が非常に少なく、 2018年の発表ではOECD加盟国中で最低である。憲法は、義務教育を無償とすると定めているが、PTA会費は学校予算にも回されていて、会費を自動的に引き落とす学校もある、しかし、保護者は学校に対する発言権をもたない。
 こうしたことが成り立って続いているのは、日本の公教育が義務を強調して権利を十分に教えず、近代国家での個人と行政のあるべき関係が知られていないことに一因がある。国民に権利を与えたくない国家と、国家が権利を侵害していることに気づくことができない国民の双方が、PTAを維持している。
 毎年、PTAに関して同じような不満が表明され、同じような「改革」案が出され、同じような議論が繰り返される。それは「仕方ないんだ」「みんな我漫してるんだ」といったあきらめの気分を醸成する効果がある一方、任意加入が周知されたことによって「徐々に空気が変わる」という期待もあるようだ。しかし、それは構造的な問題に切り込むものではない。「空気が変わる」のを待つのではなく、構造を変えていく必要があるだろう。

 

オカルト番組って……なくならないんじゃないの?――『オカルト番組はなぜ消えたのか――超能力からスピリチュアルまでのメディア分析』を書いて

高橋直子

「えっ、消えたの?……なくならないんじゃないの?」
 本書の刊行直前(2019年1月26日)のこと、見本のカバーを見つめたまま、T先生はそうおっしゃった。私は答えに窮した。現状でオカルト番組がまったく放送されていないわけではないし、本書はオカルト番組が消えると予想するが、消えるかどうかを問題としているわけでもない。どこからどう答えたらいいものか、尊敬する先生を前に逡巡してしまった。回答できずにいる私に、先生は「まぁ、読めということですね」とおっしゃった。恐縮至極。
 その家路、執筆時に考えたあれこれが思い浮かんでグルグル回り、ふと、フリードリヒ・エンゲルスのことを思い出した。教科書にカール・マルクスとセットで名前が出てくる、あのエンゲルスである。1870年代、交戦国同士がともに戦場で最新式の銃を使用したことに驚いた彼は、兵器がここまで進歩したからには、もうこれ以上は兵器改良の余地はないと考えた。隣国が軍備に力を入れれば、それと同等の軍備をもたなければならないという状況では、軍事費が増大して遠からず国家財政はもちこたえられなくなる、と予想したのである。この予想が無残に裏切られたことはいうまでもない。たしかに軍備競争は国家の出費を増大させたが、財政破綻を引き起こしはしなかった。反対に、戦争準備行動は、数々の工場を稼働させることで、ある種の経済問題を解決するのに役立ちさえした。工業の進歩の結果、戦闘の諸条件や技術は新たな次元へと突入していったのである。
「消えたの?」という問いかけは、「現状、消えてないよね?」という単なる疑問なのではなく、オカルト番組が消えるという予想は無残に裏切られるのではないか、という反論である場合が多いのではないかと思う。いまは下火といっても、また新たなスターが出現すればブームが起こるのだろうという見方は、馴染み深いものである。また、BS、CSとチャンネルが増えたことは、オカルト番組の出口が増えるということでもある。
 私がエンゲルスのことを思ったのは、この頃、ロジェ・カイヨワの『戦争論』(原題はBELLONE ou la pente de la guerre〔「ベローナ、戦争への傾斜」〕。ベローナは古代ローマの戦争の女神)を読んでいたから。カイヨワは戦争を礼賛する言論によって、戦争が人びとの心をいかに引き付けるかを考察して、「戦争と祭りはともに社会の痙攣である」と論じた。痙攣は、意志も反省も到達できない内臓の深みで起こる。戦争も祭りも、知性では理解することも制御することもできない、社会(集団)の根底にある恐ろしい力の沸騰・噴出のようなものである、というカイヨワのひそみにならえば、オカルトもまた社会の痙攣に連なる現象である。
 2019年1月29日、『オカルト番組はなぜ消えたのか』刊行。この書名の本が書店に並ぶことは、10年前ではありえなかったのではないか――いま、「なぜ消えたのか」と問うことが了解される(との前提で出版される)ということは、本書の内容にかかわらず、ある意味をもつものだと思う。
 デジタルメディアの長足の進歩の結果、オカルトがエンターテインメント化される諸条件や演出は新たな次元へと突入していくことだろう。そうであればこそ、いま、その歴史の一端を振り返る意味があると思う。
 本書は、かつてどのようにしてオカルト番組が成立し、オカルト番組を介したコミュニケーションがどのように変化してきたか、その経緯と現状を分析している。本書の分析が、新たな次元へ備える一助となるならば、たとえオカルト番組が消えなかったとしても、著者としてはこのうえなく幸せである。