サックスを身近に感じてください――『まるごとサックスの本』を書いて

岡野秀明

 2012年6月、青弓社の編集の方から書籍刊行のオファーが届きました。根が偏屈で疑り深い性質なので「自費出版」の誘いかと身構えたところ、そうではないことがわかり会ってみることに。

 すると、先にヴァイオリンやピアノについての「まるごと本」があり、その何匹目かのドジョウになるかもしれないとの企画(失敬!)にどういうわけか私に白羽の矢が当たったということが判明します。
 しかし! いまやサックスは非常にポピュラーな楽器になり、いまさら私みたいなヘッポコ野郎がそんな広く市民権の行き渡った楽器についてえらそうなことが書けるはずはないので、「えらそうではないこと」を書いてみることで、世の中の数多あるサックス関連書籍と差異化を図ろうとしてみたのが本書『まるごとサックスの本』であります。

 つまり、表現者としてのミュージシャンは「超絶フレーズ集」「テクニック大全」といった楽器コントロールにおける技術的なことや模範演奏音源付きの「楽譜集」をリリースしていて、広く音楽業界からは音楽大学の先生方や楽器メーカーからのニュースを含めた、サックスの吹奏法・練習方法や新しい楽器や周辺機器、果ては消耗品までにいたるさまざまな情報がサックスを取り巻くトレンド集の塊のごとく業界雑誌として毎月のように発行されています。
 ですので、私がなんらかの情報を書籍の形で発信していこうとすれば、こうしたサックスの「送り手」側からの情報ではなく、「受け手」つまり「買う方、習う方、落ち込む方」の目線を重視した、サックスに取り組む方のいわば「側面支援本」とするのが編集方針の軸になると思ったのです。
 すると、案外そうした受け手側の情報でまとまった本、というのはあるようでなく、執筆開始1年半後、刊行後まもなくして「こういうサックスについての本が読みたかったのだ」「サックスを始めたくて悶々としていた背中を押してくれた」といったご感想をいただいて、この機会を得たことに深く感謝感激している次第であります。

 サックスにかぎりませんが、そもそも楽器を「ある程度楽しめるようになる」というのはそんなに簡単なことじゃございません。私も30年付き合っていますが、まだまだ納得いくような扱いはできていません。長年吹いている人間でさえしばしばこの事実に直面するのです。にもかかわらず、こと初心者さん(本書では「初心者以前さん」という表現も用います)が「音感悪い自分はダメだろうな」「譜面読めないし」「肺活量ないし」と言いながら、実は【楽器を始めたくてウズウズしている人】がものすごく多いのです。こうしたみなさんはサックスに挑戦し始める、または吹き続けることは無謀なんでしょうか?

 ミュージシャンが手ほどきする「技術」を自家薬籠中の物にし、音楽業界がリリースする「適切なる情報」で武装しなければサックスを吹いてはいけないのか!?
「キラキラの見てくれがよかったから買っちゃった」「彼女の前でいいカッコしたいからとりあえず買ってみた」。私はそんなきっかけでサックスを手にしたあなたを応援する立場です。動機が不純だっていいじゃないですか。本書では楽器業界に叱られそうなことも書いていますが、楽器店で推薦されたフランス製の高い楽器なんか無理して買うことないです。「長く続けるならそれなりのレベルのものを」という理屈もなくはないですが、現在台湾製のサックスはかなり「使える」ようになりました。中古だってきちんと調整されたものであれば何の問題もありません。
 クリスマスのイベントで、会社のパーティーで、ママ友の女子会で、「え、サックス始めたんだ、聴かせてー!!」と言われ、恥ずかしがりながらも演奏する楽しみに一途になれる。楽器ってこんなに楽しかったんだ! サックスっておじさんおばさんからでも吹いていい楽器だったんだ! こんなサックス吹きの裾野がもっと広がったらすてきだと思いませんか?

 でもですね、一つだけ付け加えます。それは、楽器はオブジェや飾りではありません。特に管楽器であるサックスはあなたの息が音になる楽器です。いわばあなたのパートナーであり分身です。あなたのもう一つのボイスを獲得するためのちょっとした方法があります。長年この楽器に関わって何人もの先生やミュージシャンに教えてもらった内緒のエッセンスもシェアしたいと思います。ぜひページを開いてみてください。きっとこの本を通じてサックスがあなたの人生に、より彩りを添える存在になることを確信しています。

 GoodLuck!

記録する社会とフィールドワーク――『「創られた伝統」と生きる――地方社会のアイデンティティー』を書いて

金 賢貞

 本書は、筆者が韓国人留学生として筑波大学大学院に在学した2001年から07年までの約6年間フィールドワークを続けた茨城県石岡市の通称「石岡のおまつり」をめぐるさまざまなローカルな出来事や言説に注目して、石岡という現代日本での地方社会の周縁性を論じたものである。では、なぜ「石岡」だったのか。調査地措定のきっかけや選定の条件についてはすでに本書のなかで述べているので、ここで改めてふれることはしない。
 実は、6年間ずっと石岡のことばかりを調べていたわけではない。市内の多くの町内を歩き回りながら、集中調査地の選定に悩んだこともあれば、母国である韓国と明らかに違う、いわゆる「日本的」な社会構造や文化様式を求めて村落へ調査地を変えようとしたことも何度かある。それでも、最終的に石岡に決めたのは、ナショナルなレベルでそれほど有名ではない石岡のおまつりに対する地元の人たちの愛情と熱意、また、筆者の調査に対する積極的かつ友好的な協力があったからである。
 本書の刊行後、中身に関連して最も評価されたのは、分析対象として提示した資料の深さだと思う。つまり、韓国人の筆者が、祭礼費用の内訳やそのお金をめぐるコンフリクトまで、インタビューによるオーラル・データだけでなく、ローカルで個人的な文字資料まで獲得できたことに対する評価だろう。
 しかし、これは、筆者のフィールドワーカーとしてのキャパシティーによるものではない。もちろん、石岡の人たちとのラポールが浅いものではなかったが、それだけが功を奏したわけではない。これは、最近の韓国でのフィールドワークを通して実感している。
 筆者は、石岡の研究から得た知見を韓国の事例研究によって実証し、ゆくゆくは日韓の比較研究につなげたいと考えている。そこで現在は、韓国のまちづくりのなかでも、地方にたくさん残る植民地時代の建造物を活用して地域活性化を図っている浦項(ぽはん)市の九龍浦(ぐりょんぽ)という漁村地域で調査している。
 1995年にソウル市内の「朝鮮総督府」が取り壊されたことは、日本でもよく知られている。その出来事からもわかるように、韓国の独立後、各地に残った植民地期建造物は「負の遺産」として破壊されるか、政局の混乱、朝鮮戦争、財政窮乏などによってそのまま利用された。しかし、高度経済成長期を経て88年のソウル五輪開催をきっかけに国家の威信を本格的に意識し始めた政府は、「仕方なく」使い続けた植民地期建造物を、日帝残滓の清算の一環として大々的に取り壊す作業に着手した。このように、韓国の植民地期建造物は、破壊か否定的な使用の対象にすぎなかったが、90年代末から変化が現れ始め、2001年にはそれらの保存と活用を促す登録文化財制度が成立した。このナショナルな制度のもとで各ローカル社会では、具体的にどのような変化が起きているのかをローカル・アイデンティティーの観点から調べている。
「近代文化歴史通り」を作った九龍浦でのフィールドワークは、事業内容そのものよりも、関係する住民たちの関わり方や考え方に焦点を当てておこなわれている。やはり、住民と行政、住民の間にもかなり葛藤があったようである。それでその話を聞く。しかし、当時、賛同する住民で作った協議会の正確な名称さえ確定できない。会の代表を務めた人に聞いても状況は変わらなかった。
 2、3回目の聞き取りの際、代表に議事録か会議の配布資料などはないかたずねたが、「そんなものはない」と言い切られた。しかし、会う回数が増え、別の話題についても話し合える仲になると、地元図書館の倉庫のような部屋にもしかしたら当時の文字資料があるかもしれないと言われた。そして、山積みの埃まみれの文書類から関係資料がやっと見つかった。筆者が、このようなものは郷土資料として重要なので、ちゃんと整理して保管したほうがいいとアドバイスしたら、「日本人みたい」と言われた。
 石岡のフィールドワークでは、関係者たちが語る内容を補足し、そのオーラル・データの信憑性を高めるための文字資料の獲得に、ここまで苦労したことは一度もない。集団の代表は言うまでもなく、普通の人たちでも会合などでよくメモし、そのメモや配布資料などを簡単には捨てない。そのため、聞き取り調査は文字資料の獲得にスムーズにリンクした。しかし、そういう環境に慣れていた筆者による韓国の調査はなかなか進まず、悩みの種になっている。
 韓国人として言葉も文化も違う日本でフィールドワークをするのは大変だろうとよく言われる。そのような大変さも決してなくはなかった。しかし、言葉も文化もある程度共有しているはずの韓国の調査のほうが行き詰まりがちなのは、「記録」という文化の違いが影響しているからだろう。

「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけたい――『戦後日本の聴覚文化』を書いて

広瀬正浩

 このたび青弓社から『戦後日本の聴覚文化――音楽・物語・身体』を出す機会を得ました。これは私にとって初の単著となります。
 この本を書店で手に取ってくださった方、あるいは青弓社のウェブサイト内にあります本書の紹介ページをごらんになった方ならご承知かと存じますが、本書はきわめて雑多なテーマを扱っています。
 序章でアニメの『けいおん!』にふれたうえで、冒頭の2つの章で小島信夫という通好みの作家の小説を登場させ、細野晴臣や坂本龍一などといったミュージシャンの実践についての議論を展開したあとに、マンガ『20世紀少年』の作品分析を続けるのです。そして、室生犀星『杏っ子』という古くて渋めの小説から「声フェチ」的な問題をえぐり出し、その流れで、私の暗い(?)情熱に支えられた初音ミク論を展開させる……。このように雑多なテーマを扱っているため、研究書としては無節操だ、と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんね。
 ただ、執筆した本人は、無節操だとは露ほども思っていないのです。
 本書の「あとがき」でもふれたことですが、私はここのところずっと、「音声から考える他者論」というのを考えていました。誰かの声を聴くことで、その聴取者はその相手に対し、どのような想像力を構成するのか。音楽の実践を通じて浮き彫りになる、文化の“内”と“外”とははたしてどのようなものなのか。……そうした問題意識を抱えながら、自分が興味をもったさまざまな対象を引き寄せて論じてみたところ、結果的に、文学や音楽などといったジャンルの境界なんて最初から存在しないかのような振る舞いを形成してしまっていた、というわけなのです。おおまじめに取り組んだあげ句、無節操なものに見えてしまうという、この皮肉さ。
 しかし、この雑食的な性格のため、本書を“商品”として発信してくださった出版社や書店の方々は苦労したのではないか、と思います。本書は「文学研究」のコーナーに置かれるべきなのか、「音楽研究」のコーナーに置かれるべきなのか、それとも「文化研究」のコーナーなのか……。この本のどの章を重視するかで本書の位置づけが変化してしまいます。出版社や書店の方々もいろいろと工夫なさったのではないでしょうか。ご尽力に感謝します。

 ところで、本書のタイトルの印象から、戦後期の日本人の聴覚的な経験を記録した資料を網羅的に扱った研究書だ、と本書のことを想像なさった方も、いらっしゃるかもしれません。半分埋もれかけた歴史的な資料を掘り起こし、そこから「事実」を浮き彫りにしていくという、いわゆる「文化研究」によく見られるスタイルは、本書では第5章、8章、9章あたりで少し見られますが、では本書全体では、どのようなスタイルが採られているのか。……私自身の言葉で言うならば、“「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけ出していく”というスタイルです。
 言うまでもなく、一般に、他の人でも言えることをわざわざ自分が言う必要など、どこにもありません。特にそれが「研究」となると、なおさらです。他の人でも容易に獲得できるような視点によっておこなわれる研究は、別に自分がおこなわなくても、他の誰かがしてくれるのです。もし自分が何かについて研究をするならば、他人が簡単には思いつかないような視点、「不思議な視点」で対象を捉え、一見すると何げない、退屈そうに見えるもののなかから「不思議なもの」を見つけていく。そういう実践を通して、私たちのなかに潜在する未開発な感覚を刺激していく。そんなスタイルこそが、私の好むスタイルです。本書では、特に第2章、第9章、第10章あたりが、そうしたスタイルを少しは貫けたかなと自負する章になります。
「不思議な視点」を獲得するためには、「文学研究」「音楽研究」「映像研究」などの諸領域のなかの1つに閉じていてはいけないだろう、と思います。音楽のことを考えながら文学のことを考える、アニメのことを考えながら音楽のことを考える、という“複眼的”な思考が大切なのだろう、と思います。もっともっと貪欲に、いろいろなものを見ていかなければならないのでしょう。

 40歳になる手前でなんとか単著を出せたことに、ひとまず安堵しているところです。しかし、それほどのんびりしているわけにもいきません。私の周りにはきっと、まだ見ぬ「不思議なもの」がいっぱい転がっているはずですし、何よりも私は自分自身の好奇心で窒息してしまいたい。
 私はこれからも、「不思議なもの」を追いかけていきたい。でもそんな私自身が、「不思議なもの」を追いかけたいと考えている誰かの支えになることができればいいな、とも考えています。

クロマチックハーモニカ時代の到来――『まるごとハーモニカの本』を書いて

山内秀紀

 昨年(2012年)暮れ、執筆依頼状が届いた。ハーモニカの本を出版することなど、まったく頭になかったが、「クロマチックハーモニカを主体にしたハーモニカの本でいい」ということだったので、気持ちにスイッチが入った。年明けの1カ月は、資料を集めたり、ハーモニカメーカーに取材をしたり、海外資料の翻訳作業やインターネットなどでの情報収集で、あっという間に過ぎていった。秋にはコンサートが控えていたので、遅くともそれまでに出版が間に合うようにスケジュールを立て、短期集中型の私は、4カ月程度でほとんど書き終えた。文章を見直したり、校正作業などで9月刊行になったが、なんとかイベントにも間に合いホッとしている。
 ハーモニカという楽器は、誰でも知っているが、ハーモニカのなかで楽器としての完成度がいちばん高いクロマチックハーモニカについて知っている人は少ない。「ハーモニカは、おもちゃのような楽器であり、ヴァイオリンやサックスと同じレベルで語るなんて、とんでもない」と多くの人は言うかもしれない。しかし、そんな人にこそ、クロマチックハーモニカのすばらしさを伝えたいとの思いで本書を書いたので、ぜひ読んでほしい。そして最近は、インターネットで誰でもクロマチックハーモニカの音色を聴くことができるので、その音色も聴いてほしい。きっと、ハーモニカのイメージが変わるはずだ。15年前、私が感じたように……。
 さて、本書の内容だが、まずはハーモニカがどんな楽器であるかを理解してもらうために、第1章では起源や歴史について書いてみた。いろいろ調べていくと、まったく関係ないと思っていた事柄が実はどこかでつながっていたりと歴史はなかなか面白い。自分で執筆しながらハーモニカの新たな魅力も発見できた。本書は、これからクロマチックハーモニカを始める人や興味をもった人が主な対象だが、楽器やハーモニカメーカーの歴史や、奏者の生い立ちなどは、すでにクロマチックハーモニカを始めている人でも十分楽しめるだろう。第2章では、クロマチックハーモニカの魅力や可能性、奏者の紹介から日本で発売されているクロマチックハーモニカをすべて紹介している。さらに吹き方の基礎からメンテナンスや楽しみ方までも取り上げて、ここまで盛りだくさんの内容を1冊にまとめた本はいままで出版されたことがない。クロマチックハーモニカの情報をまるごと詰め込んだ、文字どおり「まるごとハーモニカの本」に仕上がったと思う。
 本書を読んでいただいた演奏家の方々からも過分なるお褒めの言葉をいただき、また発売の次の日には、読者から感謝のメールが届いた。
 ハーモニカのなかでクロマチックハーモニカは、いままであまり注目されていなかったが、そろそろ主役の番が回ってきてもいいころだ。クロマチックハーモニカを吹いている人も、なぜいままでこのハーモニカの専門書がなかったのかと感じているにちがいない。何より、私自身がこんな本を探していたのだから。
 本書の執筆作業などで肝心のハーモニカの練習がおろそかになってしまったが、クロマチックハーモニカの歴史や背景、楽しみ方を知る前と後では、演奏するときの気持ちも変わってくるだろう。楽器は、音を奏でてなんぼだ。
 クロマチックハーモニカの魅力を知ってもらうため、10月には出版記念コンサートも企画している。本書を執筆したことが私自身の演奏に反映すると信じているし、読者のみなさんの演奏力向上に少しでもお役に立てば幸いである。

1927年(昭和2年)の「クリスマスの催し」――『ホテル百物語』を書いて

富田昭次

 青弓社から『ホテルと日本近代』を出してちょうど10年。振り返れば、筆者の近代史への興味は、いつもホテルが入り口になっていた。昔のホテルの絵はがきやパンフレット、ホテルでの過去の出来事が筆者を日本の近代へと誘ってくれた。昨2012年の『ホテル博物誌』も、新刊『ホテル百物語』も、そんな流れから派生したものといえるだろう。
 ことに史料との出合いが出発点になって、調べることが多かった。
 そうだ、いい機会だから、書き漏らした素材をひとつ、俎上に載せてみよう。
 手元に『クリスマスの催し』と記された小冊子がある。帝国ホテルが1927年(昭和2年)に発行したものだ。この年、帝国ホテルは昼の部と夜の部に分けて「クリスマス祭」を催していて、それぞれ、食事や活動写真、漫談、音楽、舞踊などの企画が用意されていた。ダンスは夜の部に限られているが、午後8時から11時まで「表食堂」で楽しめるようになっていた。
 そして、当時の支配人・犬丸徹三が次のように呼びかけている。
「御子供様方の為めに  一日の御嬉遊
紳士淑女方の為めに  一夜の御清興
当日、独特の御献立、高尚な音楽、面白い余興、誠心こめたサンタクロースの贈物など、何卒御来館の程を御待申上げて居ります」
 また、小冊子の表4には、次の文が記されている。
「待ちにまった/クリスマス/帝国ホテルで遊びませう/父さま 母さま/兄様 姉様/サアご一しょに/まゐりませう」
 こういった文章を読むと、当時の子供たちが喜びで頬を紅潮させるさまが思い浮かび、こちらもその場にいるかのような浮き浮きした気分にさせてくれる。いや、郷愁の思いといったほうがいいだろうか。
 ところで、この史料を見て、ひとつの疑問が湧いた。クリスマスの一夜を楽しむ習慣は、日本ではどのような形で広まり、いつごろから盛んになったのだろうか、と。
 それで、手近の資料で調べてみた。
 石井研堂の『増訂 明治事物起原』(春陽堂、1926年)を見ると、初期のころはキリスト教信者だけが集まって贈り物の交換などをおこなっていたようだが、1888年(明治21年)ごろにはクリスマスカードの輸入が見られ、「三十四五年頃の絵葉書流行も手伝へて一般の趣味ハイカラに赴きクリスマスが自ら本邦年中行事の一となるに至れり」となったという。
 次に『明治ニュース事典 第七巻 明治36年―明治40年』(毎日コミュニケーションズ、1986年)を見ると、1904年(明治37年)12月17日付の「日本新聞」の記事が紹介されている。
「東京市内に於けるクリスマス飾りの率先者たる、京橋銀座二丁目のキリンビール明治屋にては、本年は皇軍戦捷と家屋増築の祝意をかね、例年よりはいっそう花やかに、去る十五日よりクリスマス飾りをなし、毎夜イルミネーションを点じつつあり」
 これらを読むと、明治も後半期を過ぎると、クリスマスは、キリスト教信者に限らず、広く日本人の間に浸透しつつあったことがうかがわれる。
 では、ホテルでは、どんな光景が見られたのだろうか。
『明治ニュース事典 第四巻 明治21年―明治25年』(毎日コミュニケーションズ、1984年)には、1888年に横浜のグランドホテルで開かれたクリスマス夜会の様子を報じる12月11日付の「東京日日新聞」の記事が掲載されていた。
「この夜会に連なる者は男女とも日本の衣類を着用する事となり、男は黒紋付に仙台平の袴、女は裾模様にシッチン、緞子その他思い思いの丸帯を〆め」
 仙台平とは絹地で礼装用の袴、シッチンとは繻子地に金糸・銀糸などで模様を浮き彫りにさせた織物のことである。当時、グランドホテルに出入りしていたのがおもに外国人だったことを考えると、一種の仮装パーティーが催されたということなのか。
 帝国ホテルではどうだったのだろう。詳しい記述ではないが、『帝国ホテルの120年』(帝国ホテル、2010年)には、大正時代のクリスマスの写真とともに、こんなキャプションが記されていた。
「大正時代初期の帝国ホテルでおこなわれていたクリスマス。この催しも、林愛作支配人が取り入れたアイデアで、多くの人たちにホテルに足を運んでいただく工夫であった」
 林愛作は、山中商会のニューヨーク支店に勤め、欧米の上流階級の生活様式に精通していた。なるほど、そういう人物だから、一種の販売促進として、クリスマス・パーティーが導入できたということなのだろう。先の写真は、家族が食事を楽しんでいる光景を映し出している。林支配人の策が見事、功を奏したようだ。
 さて、それから十数年後。1927年「クリスマスの催し」の夜の部では、水谷八重子が出演する舞踊が企画されていて、「三味線」や「長唄」の文字も見えていた。つまり、邦楽が演奏されたわけである。クリスマスに邦楽――こんな和洋折衷の組み合わせを見ると、この時期にはもうしっかりと、日本人らしいクリスマスの楽しみ方ができていたということなのかもしれない。

 なお、昭和2年(1927年)の「クリスマスの催し」は12月26日に開かれた。なぜかといえば、前年の12月25日に大正天皇がこの世を去り、昭和2年の12月26日が諒闇明けで、服喪期間が終わった日だったからだ。

身体を加工する動物=人間――『美容整形と〈普通のわたし〉』を書いて

川添裕子

 立ち居振る舞いやしぐさから外見の整え方に至るまで、人の身体は一生を通して文化的に加工され続けます。本書のテーマである美容整形は、多様な身体加工術の一つといえます。では美容整形はどのような特徴をもった加工技術で、その経験はどのようなものなのでしょうか。ここでは、読者が面白かったと言ってくれたなかから4点を取り上げて、本書で見えてきたことを少し紹介したいと思います。

・伝統的な身体加工
 伝統的な共同体で慣習としてなされる加工には、形態美以外にも広い意味があります。たとえば共同体メンバーが参加する儀礼のなかで、身体に瘢痕文身(はんこんぶんしん:皮膚を刃物などで切ったりすることで文様を描く)が施されることで、その人は特別な力を得る、異なる段階へ進む、あるいはまた別の存在になります。加工に伴う痛みは必須の試練とされ、できあがった形の細部が気に入らなくて何度もやり直すといったことは基本的にはありません。これらは見栄えの向上に特化した美容整形とは異なる点です。ただし、伝統的な身体加工と現代的な身体加工を排他的に分けてしまうことは適切ではありません。瘢痕文身に対する認識も変化してきていますし、美容整形にも見栄えをよくするだけではない面が見えてくるからです。

・負傷兵治療と美容整形
 病気やケガ、刑罰などによる外見の悩みを解消しようという試みは古くからありましたが、近代的な美容整形は麻酔術や消毒法が確立した19世紀に入ってから本格的に始まります。その技術は、クリミア戦争や2つの世界大戦での負傷兵の治療を経て発展してきました。ケガの治療と美容整形では患者を取り巻く状況は全く違いますが、使われる技術や執刀する外科医は基本的には同じです。ですからケガや病気と美容を単純に二分化してしまっては、外見の問題を十分に検討することができなくなります。本書では男性患者への聞き取りはわずかしかできませんでしたが、「美容整形=美=女」ではなく、「美容整形=外見=人」という立場で検討しています。

・普通文化と儒教
 少し前まで日本では、美容整形は「親からもらった身体を傷つけない」という儒教の教えに背くといった意見が聞かれました。しかし、日本以上に儒教が浸透している韓国で調査してみると、整形して異性の目を引き付け結婚し子どもを産めば、孝や先祖祭祀を重視する儒教に適(かな)うという見方もできることがわかります。身体に何を「すべき」で、何が身体を「傷つける」のかの判断は、社会によっても時代によっても変化しうるといえます。現在のところ美容整形についての対応は、日本では「秘密」と「普通」を強調する声が意外に多く、韓国ではかなりおおっぴらな美の追求というように対照的です。しかしこれも「世間」と「ウリ(われわれ)」という独特の人間関係から捉え返してみると、日本では話さないほうが社会に対して、韓国では話すほうがウリ仲間に対して、関係を損なわないと考えられていることがわかります。日本の患者の「普通」の訴えにも社会的影響がみられます。「普通」であることが肯定的に評価される日本社会で、美容整形は人びとが信頼を置く大学病院から長い間排除されてきました。美容整形を受けることは「普通でないことをしない」というタブーを犯したとみなされかねません。だから話さないし、とびきりの美男美女にもならない。「秘密」と「普通」は日本社会での無難な選択でもあるのです。これは、美容整形をすることが「普通」とみなされるようになったら、整形をしないわけにはいかない風潮が生まれる可能性も示しています。さらに確固とした実態があるわけではない「普通」や「美」を数値や図像などに同一視していくだけでは、〈普通でないわたし〉や〈醜いわたし〉ばかりが量産されることにもなります。

・鏡や写真に映る〈わたし〉
 メディアで伝えられる美容整形のイメージは両極端になりがちです。一つは別人のようになって新しい人生を歩みだすハッピーな物語、もう一つは整形を繰り返すことで破滅に向かう不幸の物語です。実際の調査では、この2つの面は同一人物の同じ時期にも生じうることがわかりました。身体は生きる基盤です。劇的な変化、新しい身体の痛みや違和感、その身体で他者の前に出ることなどを経験していくなかで、「生まれ変わる」ことを実感する可能性があります。しかし身体の状態を常に監視して、反省して、問題があれば対処する習性を身につけた現代人からは、「これでいいのか」という思いが消えることはありません。鏡や写真に映った自分を見てさらなる整形が必要と思えば、「整形リピーター」になるのは簡単です。美容整形とは、儀礼を通して出来事的に人を変える伝統的な身体加工と、監視し反省し対処するという近・現代の身体加工の狭間を揺れているというのが本書の結論です。
 身体は、人が属する社会の価値観を踏まえて加工されます。美容整形は近・現代社会の方向性と合致しているからこそ流行しています。美容整形について、同時代を生きる人間の身体のありようについて、一緒に考えてみませんか。

「わたしは」「思う」――『海辺の恋と日本人――ひと夏の物語と近代』を書いて

瀬崎圭二

 5年前に、博士論文をほぼそのまま出版する形で『流行と虚栄の生成――消費文化を映す日本近代文学』(世界思想社、2008年)を刊行した際、反省させられたことがいくつかあった。この本には、私の〈専門〉である日本近現代文学研究の外側へ歩み出そうという意図があったし、なるべく私とは専門が異なる方々に読んでもらいたいという願いもあった。しかし、私の力不足や専門書という限界も手伝って、それらを完全に実現することはできなかったように思う。
 このたび、青弓社から刊行した『海辺の恋と日本人――ひと夏の物語と近代』では、とにかくこの点を少しでも改善したかった。拙著はやはりそれなりの紆余曲折、試行錯誤を経て、最終的に「青弓社ライブラリー」の一冊として刊行されることになったのだが、それは自分自身が望んだことでもある。かねてから私も読者としてこのシリーズを何冊も読んでいて、かたさとやわらかさとが入り混じったその体裁を気に入っていたからだ。
 今回の目標を、専門が異なる方々だけではなく、人文学に関心などない方々、戦前の古い文学、表現などにあまり興味を示さない学生たちにも読んでもらうことに定め、私自身もこれまで書いてきた文体を大幅に変えることにした。とはいえ、文学の研究論文の文体に慣れ親しんでいた私が、「青弓社ライブラリー」にふさわしい文体で文章を書くには多少の苦労があった。これまで守ってきた文体のルールを破らなくてはならなかったのである。
 私が大学の卒業論文を書いていた頃、こう指導されたことがある。「「わたし」という一人称を使ってはならない。「思う」という語を使ってはならない。研究論文というものは、厳正に客観的な事実を書くものである」と。以来、私はその言いつけをかたくなに守って、たとえ中身が適当でいい加減なものであっても、文体だけは断定調、あたかも自分が言っていることが〈客観的な事実〉であるかのように書いてきた。
 このたびの拙著の「はじめに」を書いていた頃のこと、担当編集者の矢野未知生さんがこんなことを求めてきた。「読者の「読書したい」という気持ちを「はじめに」でつかむために、自分の経験などを書くようにしてみてください」。自分の経験を書くとなると、「わたし」という一人称や、「思う」「思われる」という語を使わざるをえない……。こうして、私は卒業論文執筆以来15年以上守ってきた禁を破ることにしたのである。
 私としては今回の拙著はエッセーだと考えているし、少しでも多くの方々や、人文学に無縁な方々に読んでもらいたいという願いがある。そうした読者を念頭に置いたとき、やはり「わたしは」「思う」というところからスタートしないと伝わらないだろう。また、〈客観的な事実〉を書くことを厳密に重視した結果、最終的に「わたし」という一人称で語るしか術がないという認識に達し、それを選ぶことも一つの学問的態度であるだろう(実際、文学研究者のなかにはそのように論文を書いている方もいる)。
 禁を破って書いた「わたしは」「思う」の文体は、特に拙著の「はじめに」や「おわりに」の部分に顕著だが、これが意外に難しく、結局うんうんうなりながら書くはめになった。最も時間がかかったのはこの個所であることは間違いない。「わたしは」「思う」と書くことが、なんと不自由で責任を伴う表現であることか……。そして、もはや本当に思っているかどうかもよくわからなくなってきたようなことを「わたしは」「思う」と書いて、「おわりに」を結んでしまった。
 さて、拙著を脱稿して数日後のことである。大学の教員をしている私の研究室に、指導を希望する学生が論文の草稿を持ってきた。ざっと目を通し、少し困ってしまった。そこには「わたしは」「思う」というあの記述が列挙されているのである。以前なら、かつての私の先生が指導してくださったように書き改めるように言うのだが……。
 しばしの間考えあぐむのであった……。

エイズ問題との関わりを通して見えてきた日本と/の「ゲイ」 ――『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』を書いて

新ヶ江章友

 本書を書き上げたあと、様々な不安が心をよぎった。その不安はいまも続いている。調査対象者とのラポール関係を築くのが難しかったと書いたが、あのようなことを書いてもよかったのだろうか。このようなことを考え始めると、本が出版できたことの喜びとともに、憂鬱な気持ちが何度も心を去来していった。
 私は2006年に、「HIV感染不安の身体――日本における「男性同性愛者」の主体化の批判的検討」という論文を筑波大学の紀要に書いた。この内容は大幅に改稿して、本書の第3章として所収している。この論文は筑波大学附属図書館のウェブサイトからダウンロードが可能で誰でも読むことができるが、これ自体が、いわゆるエイズの活動をおこなっている「ゲイ・コミュニティ」のなかで物議を醸してしまったようなのである。この論文は、日本の「ゲイ・コミュニティ」を批判したものとしてゲイ・アクティビストやエイズ・アクティビストたちに受け入れられてしまった。書いた文章が一旦筆者の手を離れると、それを読んでどのように解釈するのかは読者に委ねられる。読者による解釈の意図がどのようなものだったかはまた別の問題として、私の論文が「ゲイ・コミュニティ」に対して何らかの刺激を与えたことで、私は今後「ゲイ・コミュニティ」とどのように関わっていくことができるのかを常に思い悩みながら現在に至っている。
 私が書いた2006年の論文は、読み方によってはたしかに「ゲイ・コミュニティ」批判ととらえられかねない側面もある。しかし私があの論文で述べたかったことは、特定の個人やコミュニティを批判することではなかった。2000年代当時、世界だけではなく日本の「ゲイ」の間で、HIV/AIDSをめぐる公衆衛生施策を通して一体何が起ころうとしていたのかを、その活動に巻き込まれながらも距離をとるという人類学的「反省」の視点から現場を見ることが、そのときとても重要であるように感じたのだ。その現場で一体何が起こっているのか――そのことを言語化し、自分なりに納得したいと思った。その成果が、本書『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』だと言える。
 日本の「ゲイ」とエイズをめぐって、どのような知が形成されていったのか。そのうえで、MSM(Men who have Sex with Men、男性と性行為をする男性)が「ゲイ」という主体としてどのように立ち上がっていくのか。本書では、この点を執拗に追い求めている。
 科学的知識が決して価値中立的で客観的なものではなく、研究者たちが生きる研究室のなかの日常的実践の延長線上で生成されるという、科学人類学におけるいわゆる「実験室研究」の見解は、MSMのHIV/AIDS感染リスク行動の調査研究にもあてはまる。純粋科学としての数学や物理学などの知識生成とは異なり、社会とより密接なつながりをもった疫学の知識生成では、その政治性がより顕在化してくると言えるだろう。厚生労働省の研究費の配分の仕方、アンケートを収集するための「ゲイ・コミュニティ」と研究者との連携のあり方、誰が味方で誰が敵かなど、そのような人間関係(=権力関係)のもとで、客観的だと言われている科学的知識(この場合、疫学的知識)はより政治性を帯びながら生成されてくる。しかし本書で描かれていることは、日本の「ゲイ」とHIV/AIDS研究をめぐる様々な実践のうちの、ほんの氷山の一角を示したにすぎない。その背後には、実はもっと多様な権力をめぐるドラマが隠れているのだ。
 本書の大きなテーマの一つになっているのが、「ゲイ」というアイデンティティと国家との関係である。私たちは国家を、人間の生き方や行動を統治していく一つの暴力機構としてとらえることもできる。その国家との結び付きを強めながらエイズ施策を展開していくという「ゲイ・コミュニティ」の構図そのものが、一体何を意味するのか。1980年代の雑誌「薔薇族」(第二書房)は、HIV/AIDSの流行にともなって日本の「ホモ」たちに批判の目が向かないよう、読者たちにおとなしくしようと呼びかけていた。だが弱者の立場に置かれたマイノリティが国家の政策と連携し始めるとき、そこで一体何が起こるのだろうか。社会学者の森山至貴は『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房)で、「ゲイコミュニティ」についていけなさという重要な問題提起をおこなっている。しかし私にとって、「ゲイ・コミュニティ」は何か不安なものに見えてくる。ここで言う「ゲイ・コミュニティ」とは、東京・新宿二丁目などの繁華街を指しているのではない。私が言いたいのは、同性愛者同士のつながりそのものに不安を感じるのではなく、「ゲイ・コミュニティ」をコミュニティとして語ろうとする人々の語り方そのものに、何か不安なものを感じるのである。
 日本の「ゲイ」のあり方を国家との関係から分析するという試みは、まだ端緒についたばかりだ。海外では同性婚をめぐる法の整備が進んでいるが、日本では今後どうなるのだろうか。本書に示したとおり、1980年代のエイズ問題に対してこの国がどのような反応を示したのかを見ればわかるが、同性婚をめぐる問題に対しても、「対岸の火事」としてすませるわけにはいかない日がくるのではないか。そのとき、生殖医療をめぐって国内でくすぶっている様々な問題が、今度は同性婚と接続されながら議論されることになるのかもしれない。この問題は、文化人類学のなかで長年議論されてきた親族研究に、新たな一ページを刻んでいくことにもなるだろう。研究だけではなく日常生活でも、同性婚は親族や家族の意味そのものを大きく書き換えていく可能性を秘めている。そのとき、この日本という国自体が、そして日本の「ゲイ」自身が、この問題に対してどのような反応を示すのだろうか。日本で同性愛の生の様式が真の意味で試されるのは、おそらくはこれからだろうと私自身は考えている。

「ヒップホップ」を通して見えてくる世界があるはずだ――『ヒップホップ!――黒い断層と21世紀』を書いて

関口義人

 2003年に青弓社から上梓した『バルカン音楽ガイド』から数えてちょうど10冊目となる今回の本は、なんと「ヒップホップ」がテーマだ。自分でも意外と言えば意外だった。何しろバルカン、ブラス、ジプシー、アラブ、ベリーダンスというここまでの流れの先に「ヒップホップ」なのだ。青弓社と出版を合意したものの、昨年(2012年)末までは資料集めや全体の構想の決定だけに相当まごまごし、書き始めたのは年が変わってからだった。私自身長い海外生活の結果、自分の“いわゆる”アイデンティティーが希薄になり続け、どこに立っているのかが見えにくくなった。そんなときに語りかけてきたのが「ラップ」であり、聞こえてきた音楽が「ヒップホップ」だった。この音楽には、アメリカという故郷はあっても、長じた先の環境は世界中のいたるところにあるとしか言いようがないのだ。そこに焦点を絞って書いていこうと決めたものの、そこに行き着くまでの論議が薄っぺらでは説得力がない。そこで結局、ヒップホップ生誕の地であるブロンクスからまずはアメリカを縦横無尽に走り抜け、イギリス、日本を巡って世界の五大陸へと筆を進めることになった。
 私が「ヒップホップ」を愛聴しはじめて15年になる。しかしここで書きたかったのは自分のヒップホップ愛ではない。
 1989年(東欧革命)、2001年(アメリカ同時多発テロ事件)、11年(東日本大震災)と世界(そして日本)が激変し、自分たちが生まれた惑星である地球の様相が一変してしまった現在、世界を見渡す羅針盤としての意図せざる役割がヒップホップには生じた気がする。実は日本のヒップホップは世界的に見ても非常に特殊な内容を表している。それはそのまま日本社会が歩んできた「移民なき国家」の姿であり、それゆえに20年遅れてやってきた階級社会の図でもあるのだ。
 一方で世界は良くも悪くも20世紀の前半に既に階級社会が定着した。そこに生じた労働、経済、言語、社会、宗教、文化などの対立やら闘争なりが“くびき”として市民社会の上に重くのしかかった。世界が東西に分断された1945年以降も、その分岐線が南北に分かたれた80年以降の世界でも、問題の基軸の一つが「移民」だったのだ。そしてこのテーマにもっとも敏感かつ過激に反応したのはどこの国でも10代の若者たちだった。そしてそんな彼らが放ったのが「ラップ」だったのである。社会に放たれた異物としての「移民」にとっては生死をかけた一生に一度の賭けなのだ。言葉も不自由で、社会制度にもなじめない土地で彼らが獲得した、同胞との連帯とそれを支えるコミュニティー、そしてそこで交わされるコミュニケーションとしてのラップとヒップホップの激しいビートは、そのまま彼らの生の叫びであり、取り上げられるテーマは彼らの日々の苦しみなのだ。
 私が本書のタイトルに「断層」の語を選んだのはそういう理由による。それは移民としての身分の問題や、そこで加えられる差別の問題もあるし、ときには移民同士のなかにさえ火種が燻る。ヒップホップ発祥の地アメリカ東部にあっても、この音楽は明らかに移民生活を続けた人々やその子どもの世代に起爆した。それはあくまで「遊び」や「集い」のなかにしか娯楽や楽しみを見いだせなかった彼らの日常のフラストレーションの発散の手法だった。しかしやがてこの文化をになった1980年代のヒップホップ後継者たちが、そこに政治や社会的意見を持ち込んだ。ここにはじめてアメリカのブラックピープルによる言論が立ち上がったのだ。その意味で、これまでにアメリカに響いたブルース、ゴスペル、ソウル、ジャズなどの黒人が中心に発展してきた音楽と“ヒップホップ”は根本的に相違がある、と私は考えたのである。

 8章からなる本書には1,000人にも及ぶ「ステージネーム」の保有者の名前が登場する。ヒップホップに関わるDJやトラックメーカー、ラッパーなどはほとんど自らのサイン代わりにステージネームを採用し、その名前で活動する。そういうこともあって読者、ことにヒップホップになじみがない読み手にとって本書には咀嚼しにくい部分も多々あるだろう。しかし、それこそがこの文化の根幹に関わる要素であるのだから、お許し願うしかない。
 一方で普段からヒップホップをライブや音源で聴いている人々に本書がどう受け取られるかに私は大きな関心をもっている。固有のラッパーやDJについての好き嫌いにはあまり言及せずに、彼らが残してきた作品を中心に周囲の状況などとも絡めて解説を加えた。世界中で響くラップをその国の言語で理解できるリスナーは世界を探してもそう多くはいないだろう。“ことば”の表現であるヒップホップには結果として(言語の)「壁」が立ち塞がる結果になる。しかしそれが世界の現実だし、世界とはそうした場所なのである。移民はまず、その壁と闘いながら新たな土地での生活を築いていかなければならないのだ。世界に断層が存在すること自体は否定してもはじまらない。しかしそれらの対立や軋轢が人々の対話や粘り強い交渉によって、または「ラップ」の応酬によって平和裏に解決されることを心から願って、本書を書き上げた次第である。相当に疲れた。しかし充実した仕事になった。

占いは人間の営みの一つ――『占いにはまる女性と若者』を書いて

板橋作美

 今日の日本に、占いはあふれている。ところが、占いについて、それを真正面から論じたものはないに等しい。それどころか、私が占いについての本を書くと言うと、周囲から、とくに大学のような「知的」な場所では、うさんくさいものを見るような顔をされる。
 私は、昨2012年、小学校高学年から中学校低学年の生徒を対象とした占いについての本を監修したのだが、出版社の編集者から、ちょっとしたことで文部科学省に問い合わせたら、「占いですか?」と学校教育に占いなどありえないという反応だった、という話を聞いた。もちろん、それは当然で、私も学校で占いを教えるべきだなどと思ってはいない。
 ただ、人間というものを考えようとしたら、占いの問題は、避けて通りすぎるわけにはいかない問題の一つではないだろうかということだ。占いは、科学などよりもはるか昔からあり、また科学が発達した今日でもなくなることがない。それほど、占いは人間のあり方と深く結び付いている。
 占いは、人間の営みの一つである。いったい、人間以外の動植物の何が占いなどするだろう。占いは、人間が人間であるゆえん、人間が文化をもち、社会のなかで生きるということそのものに関わっている。
 私は占いの専門家ではない。私は、迷信とか俗信とか言われるもの、具体的には禁忌やまじないや予兆、あるいはキツネ憑きなどの憑きもの信仰に関心をもっている。そして、そういう迷信を人はなぜ信じるのかを考えてきた。占いは、その一部である。
 中村雄二郎は、現代思想・現代哲学の主要ポイントの一つは〈深層的人間〉の発見であり、1960年代初頭に出た3冊、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960年)、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』(1961年)、そしてクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962年)がその問題に初めて光を当てたとしている(『西田幾多郎Ⅱ』〔岩波現代文庫〕、岩波書店、2001年、10-12ページ)。子供、精神病者、未開人らの深層的人間、そして中村がそれに加えた女性は、近代社会の内部と外部であるいは固定化され、あるいは見捨てられてきた。彼らにおいては、生は、意識的・主知的でなく、無意識的・身体的であり、またパトス的・共感的原理に支配されているとされてきた。
 彼らは、その感性的資質のために迷信にとらわれやすい人とされてきた。逆に言えば、迷信とはそういう人に固有な知識あるいは思考とみなされたのである。未開人は迷信に支配され、子供の知識と思考は迷信的であり、女性は迷信に弱いとされる。迷信の一つ、憑霊信仰では、霊的存在に憑依された者は異常な言動を示し、それは医学的には精神を病んだ人、つまり彼らは精神病者とみなされる。
 しかし、本当にそうなのだろうか。深層的人間の知識と思考は、男女の別なく、ごく普通の現代人にも潜んでいるし、われわれの知識と思考のなかには、子供、精神病者、未開人、女性と通底する何かがあると私は考えている。迷信は、一部の人間の特殊な精神に関わるものではなく、すべての人間にとって根源的な何かと結び付いているのではないかと考えるのである。柳田国男も、迷信について、「時あつては我々自身の、胸の中にさへ住んで居る。現に自分なども其一例で、今でも敷居の上に乗らず、便所に入つて唾を吐かず、竈の肩に庖丁を置かず、殊にくさめを二つすると誰かが蔭口をきいてるなどと、考へて見る場合は甚だ多い」(「青年と学問」『定本 柳田國男集』第二十五巻、筑摩書房、1964年、257ページ)と書いている。
 迷信は、特別な思考法とか論理によるものではなく、ごく日常的な思考法や論理に基づいているからこそ、いまでもなくなることがないのだ。占いは、そういう迷信の一つなのである。