無駄や遊びがあることが豊かさの原点――『企業スポーツの栄光と挫折』を書いて

澤野雅彦

 「企業スポーツ」は、以前から書いてみたいテーマでした。バブルのころ、金が余った多くの企業がスポーツチームを結成し、有名・有望スポーツ選手のスポンサーリングに名乗りをあげ、スポーツにとってはいい状態のように見えましたが、どこか釈然としない感じも持ちました。経営学が専門ですから、「企業スポーツ」が企業労務問題を起源に持つことも知っていましたし、企業でのヒアリングなどで運動部の部長や監督が労使関係などで一定の役割を果たしていることも聞いていました。ところが、このころから広告宣伝や売名行為としか思えないスポーツへの進出が続き、こんなことでは企業スポーツの信頼が失われると感じたのが動機です。
 当時は富山にいたので私のゼミからも何人か地元企業に就職していました。それまで「企業スポーツ」とは無縁だった企業が、サッカー・ワールドカップ誘致の流れで、国立サッカー場建設受注を目指してサッカーチームに出資するに及んで、これは「企業スポーツ」とは何か、経営学徒としてきちんと調べて議論しておく必要を感じたのです。
  それから10年以上が経過し、案の定そのサッカーチームは解散し、社会問題にさえなりました。また、バブルの崩壊を契機に状況は180度転回し、この間「企業スポーツ」も暗転して、チームの休・廃部が新聞紙上を賑わすようになりました。だから、もともとは、「こんなことでいいのか?、企業スポーツ」という議論をするつもりが、「がんばれ! 企業スポーツ」という論調になってしまいました。
  書いてみると、思わぬところから反響があり、驚きました。看護学校の先生から、「以前は学生のクラブ活動がいっぱいあり、看護学校の対抗戦に出ていたのに、学生の元気がなくなるとともに、近年では先生が陣頭指揮に立っても学生は踊らず、ほとんどのクラブで試合に出られない状態になったのも同じ話ですね」といわれました。また、ゼミの学生は、「この本を読んで、出身高校では入学早々に、できるだけ運動系クラブに入るように指導を受けたことを思い出しました。生徒が元気にスポーツをやっていれば問題を起こさずにすむからでしょうね」と話してくれました。
  大学で若い人と接していていちばん気になるのは、どんどん忙しくなっていることです。もちろん社会全体が忙しくなり、世知辛くなっていますが、若い人まで「利益にならないことはしない」ポリシーを持ちはじめて、何か言っても「どんな利益があるのですか?」と聞かれるのは心が寒くなります。また、以前はどこにでもいた仕切り屋とか宴会部長といったインフォーマルな役どころをこなす人も減っています。そんな縁の下の力持ちのようなことをしても、企業でも学校でも、業績や成績に反映されないからでしょうか。そのために、クラブ活動を含むレクリエーションがなくなりつつあります。
  そうはいっても、社会からレクリエーションがなくなるわけではなく、これは、業務となり外注化して生き延びています。よく問題を起こす合コン・合ハイ斡旋業をはじめ、仕切り屋に毛の生えた起業家が登場し、仲間内でその場を盛り上げてきた宴会部長はタレント化してテレビで笑いを売るようになりました。
  これはこれで、雇用を増加しGDPに貢献するのだから、とやかく言うことではありませんが、企業や大学など組織の元気を失わせることは否めず、また、組織のなかの種々の組織運営ノウハウを失わせていることは明らかです。
  最近マスコミなどでは、スロー・フードやスロー・ライフなどといって、個人生活の豊かさに注目する運動をおこなっています。レストランや食堂などでは価格競争が厳しくなって、セントラル・キッチンによるファスト・フードばかりが目立つようになり、ぎりぎりの人員削減によって馬車馬のように急き立てられて働かざるをえない人(私たちの職業も完全にそうなりました)が増えた状況で、難しいことだと思います。しかし、非経済的豊かさに、もう一度注目することが必要だと思います。
  個人生活ばかりではありません。多くの人は人生の3分の1は何らかの組織で働いているのですから、そんな組織のなかでの生活の豊かさを、もう一度考えてみる必要があるように思います。そんな思いを込めて、「企業スポーツ」の再興を論じてみました。無駄や遊びがあることが豊かさの原点であると、もう一度、この社会を考え直す機会として、ぜひこの本を読んでみてください。

「写真にしゃべらされている」のかも――『写真を〈読む〉視点』を書いて

小林美香

  私は大学での講義を生業にしていて、写真史やデザイン、現代美術に関する講義を担当しているが、仕事の内容は無声映画や幻灯会(写し絵)の「弁士」のようなものかもしれない、と思う。パソコンをプロジェクターにつなげて、薄暗くした部屋のなかでスクリーンにさまざまな図版を投映しながら話をする。90分という講義時間を埋めるためには、相当数の図版を用意している。講義中は、それらの図版について自分が知っていること、考えていることを「話している」というよりも、図版のほうから何かの指示を受けて「しゃべらされている」、という感覚に近い。聴講している学生が、私がしゃべるのを見ていて、何かに取り憑かれているようだと感じる(実際、一人の学生からそう指摘されたことがある)ならば、たぶんそのとおりなのかもしれない。つまり、私は写真に取り憑かれて、しゃべらされているのである。
  この「取り憑かれている」感覚は、しゃべることを仕事にするようになる以前から自覚していた。写真を見るということに関心を持つようになったのは、高校生の頃(1988-91年)だったように思う。写真が発明され150年という節目の年(1989年)に重なっていたこともあって、写真史に関する本が刊行されたり、雑誌で特集が組まれたりしていた。当時広島で高校に通っていた私が、写真集を見ることができたのは県立図書館の美術書・大型書のコーナーだった。書棚の前に立って手当たり次第写真集をめくったり、高価すぎて自分では買えない写真集を何度も見たい一心で、数回同じ本を借りたりしていたことを記憶している。その後大学、大学院と経て現在にいたるが、勤務先の大学の図書館であれ、外国の美術館の図書室であれ、書棚に並べられた写真集に手を伸ばして写真に見入っているときの気持ちは、ほとんど変わっていないような気がする。
  見ることをしゃべることへと結びつけていったのは、学校という場所で仕事にするようになってからのことだが、「しゃべること」を体得すべき技や芸としてより強く意識するようになったのは、自主的に企画してきたレクチャーを通してだったように思う。学校での講義は一種の義務的な関係のうえで成立しているが、年齢・職業などさまざまな立場・関心を持つ人に対して、自分の知っていることや考えていることをしゃべり、そのことでお金をいただくということがどういうことなのか、を試行錯誤しながら学んできた。聞き手にも、そして自分にも満足のいく「しゃべり」をすることは難しく、芸の道は厳しく長いものだと思う。
  『写真を〈読む〉視点』というタイトルは、2003年におこなった「写真史の視点」というシリーズ・レクチャーと、2005年におこなった「写真を「読む」」というシリーズ・レクチャーのタイトルを組み合わせている。いわば、ここ数年の講義やレクチャーのような「しゃべり仕事」をまとめる機会をいただいて形になったものである。論文を発表することはあったものの、単著としてまとめることが初めての経験だったこともあり、「しゃべる」ことを「書く」ことへ転換させることは、私にとっていろいろな意味でチャレンジといえる経験だった。書き終えてみて、これまでに人の前でしゃべってきたことが、本という形になって見知らぬ人の手に届く「もの」になった、ということがどういうことなのか、ということに思いを巡らしたりもしている。自分の作った「もの」に対してどう責任をとっていくのかという新たな課題を手にしながら、これから何をしゃべろうかと思案したりもしている。

   写真を見ながらしゃべるラジオ、「デジオ+写真」を不定期に更新しています。
   http://www.think-photo.net/mika/dedio/

絵はがきという窓から何が見えるのか――『絵はがきで見る日本近代』を書いて

富田昭次

  先日、東京・上野にある東京藝術大学大学美術館に足を運んだ。6月11日から開かれていた「柴田是真(ぜしん)展」を見るためである。  
  同展の開催は、やはり、ある美術展を見にいったときに気が付いた。「明治宮殿の天井画と写生帖」という副題の文字に引かれたのである。明治宮殿の天井画とは、千種之間の天井を華やかに彩った、直径1メートルを超える花丸の絵のこと。本書でも千種之間の絵はがきを収めただけに、その制作過程に関心があったのだ。
  とはいうものの、柴田の名は初めて聞いた。原稿を書くときに参考にした『宮城写真帖』や『明治宮殿の杉戸絵』には彼の名前が見当たらなかったからである。だから、同展は二重の意味で興味深かった。
  柴田は円山派の絵師として、また蒔絵師として活躍した。千種之間の天井画112枚(正確には下絵で、これをもとに京都で綴織が制作された)は、宮殿内装の総責任者・山高信離(のぶあきら)の依頼で制作されたという。同展では、長年、花鳥を描いてきた柴田の面目躍如の活躍ぶりが伝わってくるようであった。
  1枚の古い絵はがきが私の好奇心を刺激してくれる。この小さな紙片に興味を持つようになったのも、それが最大の理由だろうか。だから、本書を書いていて実に楽しかった。柴田と明治宮殿の天井画のことも、その絵はがきと出会えなかったら、展覧会に足を運ぶこともなかったかもしれない。
  本書は、歴史的に意味のある内容の絵はがきを時代に沿って並べ、本編は1ページに1点という形で並べたが、そういうルールでそろえると、お見せしたくてもお見せできなかった絵はがきが何点もあった。
  例えば、肉弾三勇士として自爆した3人の兵士の母親たちを写し出した絵はがきである。彼女たちは言うまでもなく、栄誉ある息子の殉死を喜ぶわけでもなく、悲痛な思いに暮れていた。また、函館の大火で焼け出され、着の身着のまま青森駅まで逃れてきた人々を写し出した絵はがきもあった。彼らの途方に暮れた表情が忘れられない。
  そうかと思うと、絵はがきを渉猟するなかで奇妙なものにも出会ったが、収まりどころが見つからず、紹介できなかった絵はがきもある。その1枚に、朝鮮総督府鉄道局発行のものがある。絵柄はこうだ。背負子(しょいこ)のようなものをそばに立てかけて、男が線路を枕に横たわっている。そして、次の一文が印刷されている。 「線路枕○みの仮 明けりゃ妻子の涙○ 皆さんどうか安全な所へお連れください 線路に仮睡死亡者は一ケ年七八人」
  判読できない文字は○としたが、およその見当はつくだろう。どうやら、線路上で仮眠をとっている間に、列車に轢かれ、命を落としてしまう人がいるというのである。いまでは考えられないことだが、なぜ、人々は線路上で仮眠をとっていたのだろう。
  その答えはまだ見出せないが、絵はがきはこのように庶民の暮らしが滲み出ているものも少なくない。近代に生きた人々の生活臭……それもまた絵はがきの魅力のひとつなのである。
  本書を上梓した前後、絵はがきに関する大著が相次いで刊行された。ひとつはブライアン・バークガフニ編著『華の長崎』(長崎文献社)、もうひとつは田中正明編『柳田國男の絵葉書』(晶文社)である。
  前者は、従来から見られるように、ひとつの都市の歴史などを絵はがきを通じてまとめたものだが、大判で、絵はがきも大きく収録されているので、見応えのある体裁に仕上がっている。
  一方の後者は、珍しい切り口で絵はがきを捉えている。民俗学者・柳田國男が旅行先から家族に宛てた絵はがき270枚を通じて、柳田の思考や言動、家族への思いを探ったものである。本書でわかったことだが、柳田も一時期、絵はがき収集に凝ったそうである。収集自体は途中でやめてしまったということだが、絵はがきへの関心が本書に結実したとも言えるのではないだろうか。
  小さな絵はがきの風景の向こうに何かが見える。ひとつのテーマで収集すれば、また一層大きな何かが見えてくる。絵はがきへの興味は尽きることがないようだ。