男性たちの第一歩のために――『ジェンダーの考え方――権力とポジショナリティから考える入門書』出版に寄せて

池田 緑

 これまでジェンダー論の授業を複数の大学で担当してきて、ずっと感じていたことがありました。ジェンダー論の授業なのですから、ジェンダーについての知識や議論を紹介することはもちろん重要なのですが、それ以上に、ジェンダーに対する視角・態度が重要なのではないか、ということです。せっかくの知識も、頭ではわかっていても、実際に男性の支配と直面したときにうまく対応できない、引け目を感じてしまう、丸め込まれてしまうといったことが起きやすく、それらを克服するためには単なる知識だけでは難しい。ジェンダーに対する態度というか、視点というか、現象学的社会学でよく使われる「自然的態度」をチェックしなおすことが必要なのではないか、と感じてきました。
 これはとくに女子学生においてですが、身近な男性(家族、彼氏、アルバイト先の人など)とジェンダーをめぐって衝突し、マンスプレイニング全開で説教されて言い返せず、悔しい思いをした話をたくさん聞いてきました。そういう彼女たちがジェンダーの授業を受けて知識とロジックを獲得して、「よし、今度は言い返してくる」「今日は負けないぞ」と意気揚々と帰っていくのですが、しばしば「言い返せなかった~」「また言いくるめられた~!」と半べそをかきながら戻ってくることもありました。
 話を聞いてみると、様々なごまかしのロジックや、彼女らが内面化しているジェンダーの、他者に対する葛藤を恐れる部分などを、男性たちは見事に突いてきているのでした。ジェンダーを内面化する過程で、女性たちにはいわば「つけ込まれやすいポイント」とでも表現できる部分が埋め込まれ、男性たちはまさにそこにつけ込んでいたのでした。
 ただし、別の発見もありました。ジェンダー論の授業を担当しはじめたころの話です。彼女たちが身近な男性にジェンダーの授業で学んだ内容を話すと、いちばん多い反応は「どうせ、ヒステリックなおばさんが言ってんだろ」といった、集団間の権力関係を個人の資質に還元して無化しようとする典型的なごまかしの対応でした(本当はもっと聞くに堪えない罵詈雑言が多いのですが、ここではマイルドな表現にしました)。そのときに「いや、若い男の先生だよ」と彼女たちがいうと、男性は黙るというのです(そのころは私も若い教員でしたので)。
「あ、そこは黙るんだ」というのが、発見でした。女性に言われてもごまかせることが男性に言われるとごまかせず、その結果沈黙せざるをえない。男性たちは、女性からのクレイムに対してはあれこれごまかす方法を熟知していても、同じ利害にある男性からの告発やクレイムに対しては脆弱なのです。それを否定する根拠も、ごまかすロジックも、同じ利害を共有しているという関係性(同じポジショナリティ)のために構造的にも準備しにくいからです。
 私が男性による女性に対する支配や権力作用の“手口”を焦点化しようと考えたのも、男性たちがつけ込むポイントを開示することで、女性たちにそのごまかしのポイントを示すこと。それ以上に、男性たちに「もうこの手は使えないよ」と、自らのありようを見つめ直す機会を共有したかったからでした。
 もちろん、そのような試みに対しては批判もありうるでしょう。しかし、女性に対して頻繁に使用している「黙殺」「無視/スルー」は、同じ利害関係にある男性に対しては使いにくくなるでしょう。「黙殺」「無視/スルー」は、非対称的な権力関係では効果を発揮できますが、同じ利害関係にある者同士では効果が十分に期待できないからです。
 必要なのは、男性同士での、自らがおこなってきた権力行使についての情報の共有と議論だと思います。その過程で利益を失いたくない男性たちと、女性たちとの関係性を変えたいと願う男性たちの間で、対立やいさかいも起こるかもしれません。しかしそのような対立やいさかいこそ、男性たちにとって必要なものだと思うのです。
 男同士が、自らの利害を開示しながら争う姿をみせること。これが重要と思います。これまで女性たちは、分断された利害をめぐって争わされてきました(本書の第6章で少し考察しました)。男性たちは、自分たちがその争いの原因を作ったにもかかわらず、女性たちの争いをニヤニヤと眺めていただけでした。分断支配という状態です。今度は、男性たちがそのような姿を女性たちにさらす番だと思うのです。それが、両性が平等で対等な位置づけに立つための一歩になり、男性たちが自らのありようを刷新する出発点になると信じます。
 社会学者ハーバート・ブルーマーは、シンボリック相互作用論を唱えるにあたって、大きな理論から細部や現象を定義的に説明するのではなく、社会や現象を捉える際に大きな方向性を与え、概念から細部や現象の現実の個別性に至るようなものを「感受概念」として論じました。私はジェンダー論(ジェンダー規範やジェンダーそのものではなく)こそ、典型的な感受概念と感じてきました。本書には、そのようなジェンダーをめぐる現実の現象や事例に接近するための、感受概念として作用しうるポイントを、主に権力作用という観点から整理するという目的で書いた面があります。
 ジェンダーにまつわるあれこれについて現実の現象や関係のなかで直面したとき、それをどのように捉えて考えるのか、その大きな方向性や枠組みとして本書のささやかな試みが機能するならば筆者としてはうれしいかぎりです。本書の書名を『ジェンダーの考え方』としたのも、そういった含意があったからでした。

 そのような感想とは別に、本書の執筆・編集過程では貴重な体験がありました。本書は私が書いたものの、同時に青弓社編集部のみなさんとの共作という感想をもっています。編集部から戻ってきたゲラは真っ赤で、本当に細かな言い回しにいたるまで、ジェンダー論の入り口に立った読者にどのようにして届けるかという視点からの提案にあふれていました。指摘を要約すると、論点はシンプルに、学問的な思いなどは初学者に伝わりにくいからバッサリ切れ、言いきるべきところは言いきって議論にメリハリをつけよ、といったものでした。その結果、私がこれまで書いてきたものとは相当異なる文体・表現になりました。文体だけでいえば、まるで別人格です。しかし、あとから読み返すといずれも適切な提案で、別人格を引き出してもらえたなどということは本当に稀有で貴重な体験と思います。
 また本書のサブタイトルには「ポジショナリティ」という言葉が入っていますが、提案された当初はポジショナリティは必ずしも本書全体のサブテーマとまではいえないと思い、入れるのをためらっていました。しかし編集部内はもちろん、営業部の方々も様々な声を集約してくださり、本書の特徴を打ち出すためにぜひ入れてほしいと言われ、そこまでしていただけたのであればと入れることにしました。
 見本を手に取ったときにあらためて読んでみたところ、本書でポジショナリティという用語が登場するのは第5章ですがそれ以後は頻出していて、また第4章までの記述も「ポジショナリティ」という用語こそ使用していないものの、相当にポジショナリティを意識した議論になっていました。サブタイトルに入れるにふさわしい言葉だったと、あらためて思いました。私自身も把握していなかったような本全体の構造を見抜く、プロの慧眼に驚いた経験でした。
 
[青弓社編集部から]
4月27日(日)の14時から、大妻女子大学で本書の書評会を開催します。

評者として、江原由美子さんと木村絵里子さんがコメントくださり、著者の池田緑さんが応答します。

対面とオンライン(アーカイブあり)がありますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。

『ジェンダーの考え方』書評会
4月27日(日) 14:00-16:30
方法:対面とオンライン
場所:大妻女子大学千代田キャンパスのH棟313室(オンラインはZoom)
参加料:880円(税込み)

対面での参加チケット
https://seikyusha.stores.jp/items/67e5fae1006ad14c8a3db9fc

オンラインでの参加チケット
https://seikyusha.stores.jp/items/67e5fc24c6aee7ae031a6f43

 

あるアーティストのファンであり続けること――『ライブミュージックの社会学』出版に寄せて

南田勝也

 私が『ライブミュージックの社会学』を編むことにしたのは、新型コロナウイルス感染症禍のくすぶった日々に考えていたひとつの問いがきっかけである。その問いとは「あるアーティストのファンであり続ける●●●●●ことはどのようにして可能か」というものである。このアジェンダは本書では展開していないので、このコラム欄で私の思念の道筋を記してみたい。
 
 現在、あるアーティストのファンであり続けることは、どんな条件で担保されているだろうか。もちろん往年のミュージシャンや解散バンドのファンの場合は「心のなかのナンバーワン」を永続的に定めているだろうが、そういうことではなく、活動の存続がそのまま経済基盤になっている現在進行形のアーティストとそのファンの関係についてだ。
 元来それは文化産業が守ってきた。音楽関連会社のマネジャーやエージェントが、世間知らずで気まぐれなアーティストに代わって、ファンの前に姿を現すスケジュールを組んできたのである。そのなかでもっとも重要な活動は新作のリリースであり、シングル盤なら数カ月に1枚、アルバム盤なら年に1枚のペースが大方にとっての標準になっていた。
 ディスクを発表すれば、音楽批評家によって新譜評が書かれ、音楽誌にインタビューが掲載されて露出の機会が増える。まず何よりも、心待ちにしていたファンがプレゼントを渡されたときのように喜ぶ。いそいそと街のレコード店に出かけてディスクを手に取り、帰りの電車で開封の儀を済ませ、帰宅するとうやうやしく再生する。その音源をリピート再生しながら次のアルバムが出る日を楽しみに待つ。つまり、ずっとファンでいてくれる。
 もうひとつはツアーだ。アーティストはいまも昔も巡業を好む。ギター1本で移動できるシンガーは旅の歌をレパートリーにもっているものだし、ライトバンに機材を詰め込む小所帯のバンドは深夜高速を利用して全国を回る。アリーナクラスのアーティストになるとそうはいかないが、近年ではライブ使用可能なハコモノが各地に設置されているので、当該地域のファンの欲求はそこで充足される。重要なことは継続性であり、とくに地方在住者にとっては数年に一度でも自分の住む地域に来てくれれば揺るぎない信頼につながる。
 ツアーのチケットがなかなかとれない人気者の場合は、ライブ参加のためにファンクラブの入会を半ば義務づけているパターンもある。これは批判の対象になりうるが実のところうまい仕組みであり、今回は抽選に外れても会員であるかぎり次のチャレンジは約束されているので、ファンがファンであり続けることに持続的に貢献する。
 また、そうしたクローズドなつながりとは反対のオープンな仕組みも進展していて、それがフェスである。現代的なフェスが誕生してから四半世紀、多様な出演者が彩る開放的な雰囲気が受け入れられ、全国各地で四季を通じて開催されている。ツアーの行程にフェス出演を組み込むアーティストは多くいる。ファンにとってはフェスのチケット代は割高だが入手は容易で、単独公演ならチケット争奪戦になるライブアクトを見る好機になっている。
 
 しかしこのようなルーティーンに基づく活動は、現在では崩壊寸前の状況にある。
 インターネット、とりわけサブスクリプションの登場は、シングル盤やアルバム盤のフィジカルな単位を無意味化させた。それどころか、それが新曲なのか過去曲なのかという時間の概念さえ曖昧にさせている。そもそも新人は別にしてベテランになるとアルバムは数年ごとのペースになりがちだし、シングル盤は出したとしても「一斉に店頭に並ぶ」販売スタイルが失われた結果、話題として盛り上げにくいものになっている。そして新人たちはフィジカルでの販売を放棄し、配信オンリーで独自のプロモーションを展開している。
 そこで頼りになるのはチャートのはずだが、多様に存在するポータルサイトの集計はまちまちで、著名なアーティストでもリリースに気づかれないままランク外へと埋もれていく。かつてなら誌面だけでなく広告面でも援護射撃していた音楽雑誌は、長引く出版不況によって全盛期の力を期待できない。音盤の発売スケジュールに寄り添って「ファンであり続ける」ことは確実に難しくなっている。
 となると、ライブが唯一的に残された紐帯になる。ライブでのアーティストは、新曲を演奏しようがしまいが、現在進行形の姿でファンの前に現れてくれる。ツアーのたびに新しいデザインのグッズも用意されて、記憶と記録の双方に痕跡を残してくれる。非線形的なインターネットの時空間に漂う楽曲群の不確かさとは対照的に、はっきりと線形的で確実な「ともに年月を重ねていく」感覚を与えてくれるのだ。これが2019年までは順調に推移していたアーティストとファンの関係式だった。
 しかしその幸福な関係式は、2020年2月以降のコロナ禍によって断絶の時を迎える。
 
 コロナ禍は生活のさまざまな場面にストレスをもたらしたが、私がもっともめいったのは、大学教員という職業柄もあるだろう、身体的・精神的に本来もっとも活発な若い世代が身動きできずに日々落ち込んでいく姿を目の当たりにしたことだった。
 あるゼミ生は、好きなバンドのライブ映像を見る気が起きないと語った。映像を見るとその空間に自分がいないことを自覚してしまう。ライブキッズだった彼女にはそれがつらすぎるのだ。また、あるゼミOGは、10枚以上の「使われることはなかった」チケットの写真を「Instagram」に投稿した。彼女はチケットを「この子達」と表現し、理不尽な現実に悲しみを覚えながらも、ファンであり続けるため踏ん張っていることをメッセージした。さらに、あるゼミOBは、学生時代からバンドを続けていて、2020年は大型イベントに誘われることが決まり、飛躍の年になるはずだった。しかしそのイベント自体が中止になった。
 コロナ禍がライブ市場にもたらした損失は、経済的なものにとどまらず、アーティストとファンの心理的な関係に及んでいた。当たり前に訪れるだろうと思っていた明日はぷつりと途絶え、次はどんな音を聴かせてくれるのだろうという高揚感は失われ、継続こそがバンドの命綱なのにそのモチベーションさえ奪われてしまった。
 私は、彼や彼女の顔を思い浮かべながら、コロナ禍が明ければライブミュージックに関する書籍を出版すると決めた。音楽研究として歴史性と現場性を存分に描ける執筆者に集ってもらい、学術書としてはイレギュラーなほどに写真をふんだんに用いたのは、ライブの魅力を人々に伝えて裾野を広げるためだ。
 幸いなことに、ゼミOBのバンドは、コロナ禍を乗り越えてライブ巧者の異名をとるほどに成長し、都内の中規模ライブハウスをソールドアウトにするレベルに達している。人間が出せる最高スピードの時速36kmで突っ走る彼らには追い付けないかもしれないが、私は彼らに倣い、ライブ研究の論文発表というツアーを継続していきたいと考えている。
 
『ライブミュージックの社会学』試し読み