「音楽」は音楽であってほしい――『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』を書いて

戸ノ下達也

 懸案だった『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』をようやく刊行できた。「あとがき」でも書いたように、これはひとえに本当にたくさんのみなさま方のご協力、ご尽力、ご指導のたまものである。改めて、お世話になったみなさまに心から感謝を申し上げたい。
  実際に「音楽」を題材とする本書を書き進めるうえで励まされたのは、「海ゆかば」をはじめとする当時の楽曲群の「音」であった。これら生き証人である当時の楽曲を聴きながら、そのメロディーやハーモニーが当時どのように鳴り響いていたのか、また今日どのように聴こえているのかを意識せずにはいられなかった。そのこだわりが、本書を仕上げる唯一の機動力だったともいえるだろう。
  本書発売後の2月16日、上野の旧東京音楽学校奏楽堂で、私の拠り所でもある洋楽文化史研究会主催で「再現演奏会1941-1945――日本音楽文化協会の時代」を開催した。本書第2章で言及した社団法人日本音楽文化協会が何らかの形で関わった楽曲を中心に、第1部は寺嶋陸也のピアノや荒川洋のフルートによる器楽曲を3曲、第2部は栗山文昭指揮、コーロ・カロスの合唱による声楽曲14曲を演出付きで再演した。そこから聴こえてくるメロディーやハーモニーは、音楽の素晴らしさと表裏一体となった怖さ、社会と音楽文化の関わりを実感させるものであった。やはり音楽は、ナマの「音」で演奏し聴いてみないと本来の姿が理解できない。「Tokyo Cantat 2004オープニングコンサート」として開催された演奏会「《菩提樹》がうたいたい」のときに痛感した当然の事実を、改めて身をもって思わずにはいられなかった。本書の刊行と「再現演奏会」は意図して同じ時期に重なったわけではなく、偶然の結果だったのだが、本書で縷々述べてきた私自身の問題意識をこのタイミングで実際の「音」から考えることができたのは、本当に幸せであった。このような取り組みは、今後もぜひ継続していきたいと思っている。
「戦争の時代」の音楽は、その生まれた時代から現在に至るまで社会の荒波に翻弄され続けている。確かにその一部は「懐メロ」としてもてはやされた時期もあったが、受け手の世代の変遷とともに忘却の彼方へと葬り去られている。本書で取り上げた時代の音楽の営みは、その生まれながらにして背負わされた「重み」ゆえに、忌まわしい記憶、悲しい青春の記憶がないまぜになって人々の心の奥底に秘められている。「戦争の時代」を記憶している先達にとってはつらく苦しい思い出であることはよく理解できる。しかし昨今の社会の有り様を考えてみると、いまこそ歴史を正視し、その重みを再確認しなければいけない時期にあることもまた事実なのではないだろうか。そのためには「音」を再演し、また資料を読み込み、オーラルヒストリーを記録し、といった客観的かつ科学的で地道な作業を続けていく以外に方策が思いつかない。
  本書は、これまで書き溜めたのものを土台に現時点での総括を、と考えてまとめてみた。それであるために、試論や今後の課題を抽出して終わってしまっている問題も多い。特に戦後への見通しはこれからじっくりと見据えていきたいと考えている。
なぜ「戦争の時代」の「音楽文化」にこだわり続けるのか、自問自答の日々である。このこだわりは、私の意識のなかに通奏低音として響いている、イデオロギーや民族を克服してはじめて見えてくる人類究極の理想であるはずの「恒久平和」への祈りや願いを、自分なりに解決していきたいという想いを抱いているからなのかもしれない。本書で発信した課題を引き続き深化させていくことができれば……。まだまだたくさんの空白や課題が残されたままである。でも何より、いつも音楽は人々の慰安であり娯楽であってほしいと切に願うものである。