ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第1回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

乳幼児を対象とした展覧会

 2010年の夏、東京都現代美術館で「赤ちゃん(1)から大人まで楽しめる」参加型・体感型の展覧会「こどものにわ(2)」がオープンした。同館では、それまで教育普及プログラムの一環として、乳幼児を対象にしたワークショップやギャラリーツアーを実施していたが、展覧会として実施するのは、これが初めてだった。結果的には約2カ月の会期中に8万3,000人を超える入場者があり、展示室入り口のベビーカー置き場は、連日ベビーカーであふれかえることになった。この展覧会は、卑近な例で恐縮だが、私自身が4年越しで準備して実現した展覧会だった。
 展覧会は通常、館の学芸員による企画会議で各学芸員からのプロポーザルなどと年間のプログラムの予算、同時期開催予定の展覧会同士の内容のバランス、実施のタイミングなどをもろもろ検討しながら決まる。この展覧会に限って言えば、実施が決まるまで3年、実施決定から展覧会オープンまで1年を要した。3年間、企画会議で却下されるたびに、何度も案を練り直し、ブラッシュアップした企画書を作成し続け、その根拠となるための調査研究を進めた。なかでも、上司から言われたいちばんの却下理由は、「赤ん坊にアートを見せても、わからないのでは? 展覧会に連れてくる意味があるのか?」というものだった。そう、そもそも赤ちゃんにアートを見せても、わかるのだろうか。赤ちゃん向けの展示というものはあるのだろうか。ギモン5「日本人向けの展示ってあるの?」では、日本人向けの展示に関するギモンを入り口として、キュレーションを取り巻く文化の表象の問題について考えてみた。本ギモンでは、同じ日本人でも世代が異なる場合、特に乳幼児を対象とした展覧会のケースについて、まず前半となる第1回で、近年の乳幼児の認識能力に関する研究についてひもといていきながら、赤ちゃんと美術館の関係について考えていきたい。また後半の第2回では、「こどものにわ」を具体的な事例として取り上げながら、世代や背景が異なる人々に対する展覧会や社会的包摂のことを考えた展示について、その可能性を探っていきたい。

「こども向け」の展示とは?

 もういまから15年以上前の話だが、当時2歳になったばかりの息子をベビーカーに乗せて、広島市現代美術館で開催されていたシリン・ネシャットの展覧会(3)に行った。息子は、親の仕事の都合上、0歳児の頃から美術館には連れ回されているのだが、その日も、たまたま帰省先の広島で開催中のシリン・ネシャットの展覧会に息子連れで訪れた。シリン・ネシャットはイラン出身の女性アーティストで、イスラム世界の女性の存在などをテーマにした写真や映像作品で国際的に活躍している。扱っている写真や映像は、黒いベールを被った女性や儀礼の様子、イスラム社会の男女の対比を描くものなど、深刻で重い内容のものがほとんどである。息子には悪いが、完全に親の趣味で行った展覧会だった。だが、『パッセージ』(2001年)という映像作品の部屋で息子が釘付けになり、ほかの展示室を回った後も、その部屋に戻って何度も観たがり、ほかの展示室はそそくさと後にして、ずいぶん長い時間、その部屋で過ごすハメになった。作品自体は埋葬の儀礼が題材になっていて、前半は、黒いスーツ姿の男性たちが海辺から砂漠へと屍を運んでくるシーンと、黒装束の女性たちが砂漠で埋葬用の穴を手で掘り進めるシーンで構成される。最後に屍が運び込まれて、大地が激しく燃え上がる圧巻の映像と、ミニマル・ミュージック(4)で知られる作曲家フィリップ・グラスが書き下ろした崇高なサウンドで締めくくられる。そんな作品にベビーカーに乗った息子が反応するとは思いもよらなかったのだが、この話はここで終わらなかった。家に帰ってしばらく自分の部屋にこの展覧会のチラシをうれしそうに貼っていた息子だったが、美術館に訪れた際に予約受け付け中だったカタログが後日、自宅に届いたときに事件は起こった。包みからカタログを取り出して、息子に「広島で行った展覧会のカタログが届いたよ」と話しかけたところ、「◯◯(自分の名前)の!」と言ってそのカタログを持ち去って、お気に入りの某きかんしゃキャラクターの絵本などが並ぶ自分の部屋の本棚にしまい込んでしまった。私は1ページもカタログを読む暇もなく、あっけにとられてしまった。それまで「こども向け」の本やイベントやテレビ番組などはカラフルで楽しげなもの、といった先入観にどっぷりハマって子育てしていた私にとって、お世辞にも「楽しい」とは言えない、かなり渋いシリン・ネシャットのカタログが息子にとっては、展覧会を観て、しばらく時間がたっていても、忘れ難いお気に入りの思い出の品になっていたことは、まさに灯台下暗しの、目からウロコの事件だった。そこから、大人が勝手に考えている「こども向け」展示ではない展覧会の可能性について、真面目に探求してみようとリサーチを始めることになった。

乳幼児の世界観

 1970年代頃までは、1890年にアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが「咲き誇るがやがやとした混乱(5)」と形容したように、乳幼児が知覚する世界は混沌としている、と多くの発達理論家が考えていた。生まれたばかりの赤ちゃんは目が見えない、痛みの感覚が鈍い、何もわからず何もできない、といった無力な赤ちゃん像が一般的だった(6)。しかし、近年の脳科学をはじめとする諸分野の研究成果から、乳幼児はいままで考えられていたよりもさまざまなことを認識し、感じていることがわかってきた。例えば、赤ちゃんは胎児のときから音を聞き、生まれたばかりの新生児でも目が見える。ただし視力は悪く、新生児は0.001程度で、生後半年までに急速に発達し、その時点で0.2程度(7)、4、5歳になってようやく大人並みに見えてくる。しかし、そのようなぼんやりとした視覚世界にいる生まれたばかりの新生児でも丸と三角の形を区別できるし(8)、人の顔も早い段階から認識し、特に母親の顔は生後数日でも注目することができる(9)。また、こうした乳児の視覚、聴覚、触覚などの個々の感覚は、関連することなくばらばらに独立して機能していると思われていたが、近年の研究で、乳児の個々の感覚は、生まれたときから調和してはたらき、統一された世界を知覚することがわかっている(10)。さらに、赤ちゃんは、外からの刺激によって反射的に動いているだけではなく、生まれた直後からすでに「意識的に四肢を動かしている」ことも明らかになっている(11)。このように赤ちゃんは、高度の認識能力を備え、能動的に行動していることがわかってきた。さて、ここで「赤ちゃんはアートをわかるのか?」という初めの問いに戻ると、美術館や展覧会に来た赤ちゃんは、少なくとも全く何もわからないわけではなく、むしろ、普段とは違う環境に置かれて、かなりさまざまな刺激を受けている可能性が高いと言えるだろう。特に現代美術の場合、視覚だけでなく、聴覚や触覚、ときには嗅覚など、五感を使って感じる作品も多い。しかし、公園に出かけるのと、美術館に出かけるのとでは、赤ちゃんにとって何か違いはあるのだろうか。

作品を観る行為と他者への共感

 これまでのギモンでも見てきたが、あらためて美術館、あるいは展覧会という場所を特徴づけているものは何か、と考えると、美術館は、美術作品が展示してあり、それを鑑賞する場、ということが挙げられる。作品は、一般的な事物と異なり、多くの場合、作家やキュレーターが、その作品をほかの人に鑑賞してもらうことを前提として制作・展示したもの、という人の意図が込められている。他者の意図を汲み取ること、あるいは作家やほかの鑑賞者の思いに共感することは、乳幼児にとって(そして大人にとっても)美術を鑑賞する行為をほかの日常的な営みとは異なる特別な体験とする重要な要因になっていると思われる。
 これまでに、2歳児でも、意図的に作られたものは絵と認めるが、偶然できたものは認めない、という興味深い実験結果がいくつか報告されている。例えば、男性の形に見える絵を見せて、一方のグループには、それが意図的に描かれたことを伝え、もう一方にはそれが偶然の産物だと伝える。つまり、一方には「ジョンがお絵描きの時間に、先生にあげようと絵の具で絵を描きました。それはこんな感じでした」と伝え、もう一方には、「ジョンのお父さんが壁にペンキを塗っていたときに、ジョンがうっかりペンキを何滴か床に落としてしまいました。それはこんな感じでした」と伝える。そして、その後、それぞれに「これは何かな?」と質問すると、意図的に描かれた絵だと説明を受けたグループは「男の人」など描かれた対象を答える傾向が強く、偶然できたものと説明を受けたグループは、材料の「ペンキ」と答えることが多かった(12)。さらに年齢が低い0、1歳児だと、言葉によるコミュニケーションが難しく先のような実験はできないが、別の実験や観察から、少なくとも他者の意図を汲み取ったり、他者の感情を理解したりすることは、かなり早い段階からできることが明らかになっている。
 乳児は、生後1年間の間に自分と他者を区別し、またさらに他者や自分以外のモノとの関係性を徐々に培っていく。生後2カ月頃には、大人がほほ笑みかけると、それに応じて乳児がほほ笑む、という「社会的微笑」と呼ばれる現象が現れ、自分と他者を区別して知覚する人-人の二項関係が成立し始める(13)。また生後5、6カ月には事物に関心が向かうようになり、見せられた物をつかんだり、振ったり、口に入れたりなどするようになり、人-物の二項関係も成立する。この頃から、他者が見ているものを目で追うことができる「共同注意」と呼ばれる現象も見られ始める(14)。さらに生後9カ月頃には、自分が遊ぶオモチャを大人に見せてその反応をうかがう、など乳児-物-他者の三項関係が成立するようになる(15)。また乳児は、成長するにつれて、自分の情緒について経験するだけでなく、他者の情緒に対しても共感したり理解するようになっていく。もっとも初期の他者との情緒の交流の形として、新生児に大人の「喜び」「悲しみ」「驚き」といった表情を見せると、大人と同じ表情を模倣する「新生児模倣」が知られている(16)。新生児模倣は、その後、成長すると観察されなくなってしまうが、生後2カ月には、先に述べた社会的微笑が観察されるようになる。さらに、生後7カ月頃から、乳児は周りの状況を判断する際に、母親などの信頼できる人の様子をうかがいながら自分の振る舞いに適用するようになる(17)。このような現象は、「社会的参照」と呼ばれている。有名な実験に、生後12カ月の赤ちゃんを見せかけの断崖である「視覚的断崖」に載せると、断崖の向こう側にいる母親が見せた表情によって行動が変わるというものがある。この視覚的断崖は、深さ約30センチの溝の上にガラス板が渡してあり、見た目は断崖だが、ガラスの上を渡ることができ、また断崖の向こう側には魅力的なおもちゃが置いてあるという装置である。この実験で赤ちゃんは、母親が否定的な表情や不安そうな表情を示すとガラス面の上を渡ろうとはしないが、母親がほほ笑むなど肯定的な表情を見せると大半が渡ることがわかった(18)。また、共感に関するメカニズムは、1990年代以降、脳のなかに他者の経験を自己に鏡のように写し取るようなミラーニューロンシステムと呼ばれるものがあることが明らかにされている(19)。例えば、快または不快な刺激を受けた他者の表情を知覚すると、観測者自身が同様の快・不快の刺激を知覚したときのような神経活動が脳内で生じる(20)。ミラーニューロンシステムについては未解明の部分も多いが、近年の実験で、6、7カ月の赤ちゃんも成人と同様に他者の行動を見るだけで、他者と同じ運動関連部位の脳活動が見られることがわかっている(21)。
 乳幼児の美術鑑賞に関しては、美術教育の分野でも比較的最近になって扱われるようになった分野であり、科学的な研究の方法論が確立されているわけでもない。そのため、あくまで推論にすぎないが、これまで見てきたような乳幼児の高い認識能力を考えると、「作品」として認識し始めるのは2歳ぐらいからだとしても、二項関係が成立しはじめる0歳児からでも、ある程度の大人の関わりなどがあれば、それぞれの年齢や発達段階に応じて美術鑑賞を楽しむことはできそうである。公園や家などの日常的な場所と異なり、美術館では、まず何よりほかの人が作った作品を「観る」という行為が特徴的である。乳幼児にとっては、美術館という場所は、新奇なモノがたくさんあること自体が興味の対象であるとともに、大人が観ている行為や、大人の反応や心の動きも、自らがそのモノをどう判断するかの基準になっていることだろう。大人が楽しそうに観ていれば、その気持ちが伝わってくるし、逆に自分が面白いと思ったものに対して、大人がそれを共有してくれることはこどもにとって喜びとなるだろう。また、気になった作品に手を伸ばしたときに大人に咎められれば、触らずに大切に観なければならないものがある、など、美術館での鑑賞のルールも成長に応じて徐々に理解していくだろう。

子育て支援と美術館

 赤ちゃんを連れて美術館に行くことは、赤ちゃん自身だけでなく、一緒に行く大人にとっても普段の生活では気づかない、さまざまな発見や驚きを得られる機会になる可能性を秘めている。考えてみれば当然のことだが、赤ちゃんが自らの意志で美術館に来ることはない。赤ちゃんを美術館に連れてくるのは、たいていお母さんをはじめとする周りの大人たちだ。子育て中の母親などの育児者が、普段の生活のなかで行ける場所はスーパーマーケットや公園などに限られがちだ。だが、子育てをしていても、文化的な刺激を受けたいと思っている人はたくさんいるはずだ。小さなこどもがいても、映画やコンサートにだって行きたいし、美術館にも行きたいかもしれない。近年は、赤ちゃんを連れて鑑賞できる映画館も増えたし(22)、0歳児からの音楽会も開催されている(23)。では、美術館はどうだろうか。
 日本では、核家族社会での子育て中の母親の孤立化について、1980年代頃からその問題が指摘されてきたが、90年代に入ってようやく行政も子育て支援施策を本格的に展開するようになった(24)。また、それまでこどもを預けてまで仕事をしたり、趣味に興じることは親のわがままである、と否定的にとられていたが、現代の子育て事情をふまえて、「親子が心身ともにリフレッシュする時間を持つことの重要性から肯定的に受け止めることも必要(25)」であると、これまでの母性観の転換がみられるようになった。確かに一昔前と違って、最近の傾向として、こどもを預けて大人だけで何かを楽しむのではなく、こどもと一緒に楽しむ、また母親だけでなく、父親もさまざまな催しに参加する姿が見受けられる。中谷奈津子は、子育て家庭のための「継続的・定常的な「縁側」のような地域の居場所づくりへの支援」の必要性を説いているが、その際に行政主体の「預かる」「教える」子育て支援、遊びや遊び場の提供型支援だけでなく、子育てをする母親自身が主体的に組織や活動に「参加」するよう促進していく必要性を指摘している(26)。美術館は、自らが主体的に美術を鑑賞することで、こども自身だけでなく、周りの大人もさまざまな感性を呼び覚ますことができる場となりうる。特に現代美術では、これまでのギモンでも見てきたとおり、観客の主体的な参加を促す作品やプロジェクト型の作品が近年増加して、美術と社会の関係について広く議論されている(27)。美術館を地域社会により開かれた場としていくことで、美術館が地域の子育て家庭にとって、既存の提供型支援施設とは異なる第三の「居場所」になれる可能性は高い。
 一昔前までは、美術館の「こども向け」のプログラムと言えば、教育普及事業の一環として開催される小学生以上を対象としたギャラリー・ツアーやワークショップが主流だった。だが、美術館での赤ちゃん向けプログラムは、赤ちゃんが保護者と一緒に展示を観て回るギャラリー・ツアーなどを中心に近年、増加傾向にある。ただし、それらへの参加は、運営上の制約などもあり、人気があっても人数や回数が限定されることが多い。また、小さなこどもを連れて遠方に出かけるのは至難の業なので、子育て家庭が、ベビーカーだけで移動でき、いつでも気軽に行けるプログラムをもつ美術館が自分の住んでいる地域にないと参加しづらい。
 こうした状況をふまえて、2010年に開催された「こどものにわ」では、まず、それまで美術館を訪れたことがない美術館近隣在住の子育て家庭が美術館に来るきっかけになるように、美術館がある東京都江東区の協力を得て、展示に先駆けて区内4カ所の子ども家庭支援センター、児童館、保育園などの子育て関連施設で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを展覧会に参加する作家のKOSUGE1-16とおこない、その成果を展示の一部とした。また会期中に近隣の商店街と美術館をつなぐ形で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを同じく参加作家の大巻伸嗣とおこなった。そして、美術館では、ワークショップやギャラリー・ツアーなどのように一過性で終わるものではなく、小さなこどもを連れた家庭がよりいつでも気軽に美術館を訪れることができるように、約2カ月半の会期で開催する「展覧会」という形式のプログラムを実現した。次回は、「こどものにわ」で展示された作品についてもう少し具体的に見ていきながら、「赤ちゃん向けの展示」がもたらしたものについて、掘り下げて考えていきたい。

大巻伸嗣《Echoes-INFINITY》(2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館
出田郷《reflections》(2009/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館


(1)母子健康法では「赤ちゃん」を次のように定義していて、本稿でもそれに準じて各用語を用いる。新生児:出生後28日未満の乳児、乳児:1歳未満のこども、幼児:1歳から小学校就学前までのこども。
(2)「こどものにわ」2010年7月24日―10月3日、東京都現代美術館
(3)「第6回ヒロシマ賞受賞記念 シリン・ネシャット展」2005年7月23日―10月16日、広島市現代美術館
(4)ミニマル・ミュージックは、音型の反復や持続などで構成される現代音楽の形式の一つ。1960年代から70年代にかけてアメリカを中心に隆盛し、世界的な音楽文化にも影響を与えた。
(5)原典はWilliam James,‘one great blooming, buzzing confusion,’The Principle of Psychology, Macmillan, 1890.
 スイスの発達心理学者のジャン・ピアジェも「赤ちゃんは無力な存在である」と唱えた。またオーストリアのジークムント・フロイトをはじめとする精神分析の理論家は、乳児は「混乱しているというより、最初は周りの世界と関係していない」と考えていた(P・ロシャ『乳児の世界』板倉昭二/開一夫監訳、ミネルヴァ書房、2004年、32ページ)。
(6)榊原洋一「赤ちゃん理解の急速な進歩と赤ちゃん学」、産経新聞「新・赤ちゃん学」取材班『赤ちゃん学を知っていますか?――ここまできた新常識』所収、新潮社、2003年、346―351ページ
(7)山口真美『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』(平凡社新書)、平凡社、2006年、17―18ページ
(8)小西行郎『赤ちゃんと脳科学』(集英社新書)、集英社、2003年、37ページ
(9)山口真美『赤ちゃんは顔をよむ――視覚と心の発達学』紀伊國屋書店、2003年
(10)前掲『乳児の世界』34-35ページ
(11)前掲『赤ちゃんと脳科学』110ページ
(12)ポール・ブルーム『赤ちゃんはどこまで人間なのか――心の理解の起源』春日井晶子訳、ランダムハウス講談社、2006年、109―113ページ
(13)岡本依子/菅野幸恵/塚田-城みちる『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理学――関係のなかでそだつ子どもたち』(新曜社、2004年)129―130ページでは、二項関係の成立を生後3、4カ月頃と紹介しているが、P・ロシャは、2カ月としている。三項関係の成立については、ロシャも同じく9カ月としている(前掲『乳児の世界』194―198ページ)。
(14)前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』146―148ページ
(15)同書129―130ページ
(16)同書121―122ページ
(17)前掲『赤ちゃんは顔をよむ』105―106ページ
(18)同書106―107ページ、前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』50―51ページ
(19)福島宏器「他人の損失は自分の損失?――共感の神経的基盤を探る」、開一夫/長谷川寿一編『ソーシャルブレインズ――自己と他者を認知する脳』所収、東京大学出版会、2009年、192―195ページ
(20)同書194ページ
(21)嶋田総太郎「自己と他者を区別する脳のメカニズム」、同書所収、66―70ページ、嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者――身体性と社会性の認知脳科学と哲学』(日本認知科学会編「越境する認知科学」第1巻)、共立出版、2019年、146―149ページ
(22)TOHOシネマズは2003年から赤ちゃん連れで楽しめる「ママズクラブシアター」を展開している(〔https://www.tohotheater.jp/theater/009/info/mamas_club_theater.html〕)。
(23)代表的なものにソニー音楽芸術振興会の「Concert for KIDS 0才からのクラシック®」がある(〔https://www.smf.or.jp/concert/kids/〕)。
(24)中谷奈津子「地域子育て支援施策の変遷と課題――親のエンパワーメントの観点から」、国立社会保障・人口問題研究所編「社会保障研究」第42巻第2号、国立社会保障・人口問題研究所、2006年、168ページ(〔http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/18095307.pdf〕)
(25)同論文168ページ
(26)同論文170ページ
(27)日本での具体的な事例のドキュメントとして、例えば荻原康子/熊倉純子編『社会とアートのえんむすび1996-2000――つなぎ手たちの実践』(ドキュメント2000プロジェクト実行委員会、2001年)など参照。

 

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ギモン5:日本人向けの展示ってあるの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)

「他者」の表象と日本の現代美術の表象

 ギモン1の「美術館と展覧会の歴史的背景」のところで少し述べたが、「美術史」と言えば、長年「西洋美術史」を示すことが欧米社会だけでなく、それ以外の地域でも一般的な認識だった。だが、1980年代末の冷戦の終焉と90年代の物流や経済のグローバル化、テクノロジーの発達による情報化の波を受けて、文化の面でも変化を余儀なくされ、そのなかで非欧米地域の美術史についての検証と理論化が進められてきた。現代美術史も長らく単線的な西洋美術の歴史の延長線上に位置づけられてきたが、90年代にポスト・コロニアル(ポスト植民地主義)の議論が盛んになるにつれて、複眼的な視点から、これまで美術史の外に置かれていたアジアやアフリカなど多様な地域の美術も含めて美術史を編み直す動きが見られた。国際的なビエンナーレやトリエンナーレでも非欧米地域の現代美術とその表象が大きなテーマとして各地で積極的に取り上げられるようになった。そこでの議論の中心になったのは、「他者」の表象を取り巻く言説だった。
「他者(the Other)」という英語表記で大文字の「O」を用いる言葉は、ポスト・コロニアルの言説でしばしば用いられる特殊な哲学用語である。「他者」とは、要は、異性愛者の白人男性から見た「他者」であり、有色人種、女性、そして近年よく耳にするLGBTなどの同性愛者やトランスジェンダーといった社会的少数派、マイノリティーを指す。こうした「他者」は、歴史的にも政治・経済・社会活動で表舞台から排除され、社会的弱者としての立場を余儀なくされてきていて、現在もその不均衡はまだまだ是正されきっていないのが現実である。美術の世界でもその傾向は同じであり、例えば一般的な美術史の教科書に名を残すような女性アーティストの数は、国や文化によって多少の差はあるものの、歴史的に見れば男性アーティストの数よりも圧倒的に少ない。また欧米諸国のアーティストに比べて非欧米諸国のアーティストは、1990年代に入るまでほとんど欧米で紹介されることがなかった。それが、グローバル化と情報化の流れを受けて、一気に世界中が簡易に移動できたり、瞬時にネットワークでつながるような動きが加速し、美術の世界でもこれまで知りうることが困難だった遠方の地での情報がリアルタイムで入手できるようになった。こうした状況に伴って、これまで文化的にも「周縁」とみなされてきた非欧米地域の美術が90年代に入って一気に紹介される機会が増大した。またこうした非欧米地域の美術を紹介する展覧会は、主に欧米のキュレーターが欧米の観客のためにキュレーションする、という帝国主義的・植民地主義的手法が長く主流を占めてきた。だが、そうしたアプローチに批判が高まってきたのも90年代であった。
「表象」という言葉についてもここで少し補足しておきたい。「表象(representation)」という言葉は、「他者」同様、記号論や人類学などで用いられる哲学用語である。文字どおり訳すと「(何かや誰かの)代わりに示す、表現する」という意味になるが、美術の場合だと、作品をある文化的な特徴を「表象」するものとして捉えたり、あるいはある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会のことを、その国・地域の美術を「表象」する事象として扱う。例えば、日本の現代美術作品を集めた展覧会は、日本の現代美術を表象するもの、ということになる。このように「他者」の表象というのは、現代美術の場合、非欧米地域の文化や美術をどのように作家やキュレーターが表し、紹介しているのか、という意味で用いられている。
 先に述べたとおり、1990年代に入って、非欧米地域の美術を欧米のキュレーターが欧米の観客に向けて紹介するという植民地主義的な展覧会への批判が高まった。それに対して、当該地域出身のキュレーターであれば、よりオーセンティックな、本物らしい、その地域の美術を表象できるのではないか、という期待が、欧米の美術関係者のなかでも寄せられていた。例えばアフリカの美術の展覧会ならアフリカ出身のキュレーター、アジアの美術ならアジア出身のキュレーターのほうが、欧米出身のキュレーターよりもより忠実にその地域の美術を理解し、欧米出身のキュレーターにはできない視点からよりオーセンティックな展覧会を作れるのではないか、と思われたのである。先に紹介した戦後の日本美術を紹介する2つの展覧会が実施されたのは、そうした論争が盛んになった時期でもあった。

ディアスポラなアーティストとキュレーターの登場

 グローバル化が進むなかで、同時に台頭してきた世界的な傾向が、グローバルとは対極にある「ローカル」を志向する流れであった。欧米中心主義で画一的なグローバルに対して、自分たちが住む国、地域、地元ならではの個性、良さ、価値観、文化を大切にして、それを外に向けてアピールするような流れである。美術の場合はそれが先に述べた国際展などで顕著に現れた。またこうした国際展も、それまではヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタ(ドイツ)、あるいはホイットニー・バイエニアル(アメリカ)など欧米を中心として開催されていたが、1990年代に入って、光州(韓国)、上海、台北、横浜、アジア太平洋(ブリスベーン、オーストラリア)などアジアを中心とする非欧米地域で新しいビエンナーレやトリエンナーレが次々と立ち上がった。こうした新興の国際展は、欧米のそれと差別化を図るうえで、その土地ならではのローカルな文脈を強調したり、その地域・国らしさを売りにする戦略が多く見られた。そしてこれらの国際展で台頭してきたのが、非欧米地域出身のキュレーターやアーティストだった。これらの国際展では、それまでの欧米の国際展では紹介されてこなかった、その開催地域出身のアーティストが、同じく開催地域出身のキュレーターによって数多く紹介された。だが、こうした非欧米地域出身のアーティストやキュレーターの多くは、実は欧米で教育を受けたディアスポラなアーティストやキュレーターが大半を占めていたことで、この「本物らしさ」や「その国・地域らしさ」をめぐる表象の問題はより混迷を深めることになった。
 ここで「ディアスポラ」という聞き慣れない言葉が突然登場してしまったので、少し説明しよう。「ディアスポラ」とは、ギリシャ語で「離散」を意味する言葉で、もともとはパレスチナを離れて世界各地で暮らすユダヤ人のことを指していた。それが転じて近年は、政治的・思想的な理由で国を離れ、自国以外の場所を拠点として活動をおこなう者のことを意味する。現代美術の世界では、1989年の天安門事件をきっかけとして、多くの中国人アーティストやキュレーターがほかの知識人とともにニューヨークやパリへと移り住み、ディアスポラなアーティストやキュレーターの先駆けとなった。また90年代は、アジアやアフリカの富裕層の子弟や国費留学生などが欧米に留学することが一般的になり、彼らが大学卒業後に自国に戻って活躍する機会が増えた。例えばタイでは、主にアメリカの大学や大学院に留学したアーティストやキュレーターが、タイに戻ってアーティスト・ランのスペースを設立して運営したり、アートプロジェクトを企画するなどの動きが活発化した。こうした欧米で教育を受けたディアスポラなアーティストやキュレーターは、英語、フランス語、ドイツ語などの欧米の主要言語と、アートの専門用語(ジャーゴン)という二つの特殊な「言語」を駆使することに長けていて、欧米の専門家に対して、わかりやすく非欧米の表象について語ることができるという、ある意味、特権的な立場にいた(28)。つまりこうしたアーティストは欧米の美術関係者に対して、わかりやすいオーセンティックな「ローカル」の作品を提示することを得意としたのである。またキュレーターは、そうしたアーティストを、「グローバル対ローカル」や「グローカル」「ハイブリッド」などのはやりの言説を巧みに用いながら、その地域の美術を代表するものとして積極的に紹介する役割を果たした。だが、こうした他者の表象の立役者だった彼ら自身が、それまで欧米出身者が主流だった「スター・キュレーター」「スター・アーティスト」と呼ばれる国際展の常連組に同じように名を連ねるようになるには、時間はかからなかった。皮肉なことに結果的には、世界中どこの国際展に行っても、同じディアスポラなスター・キュレーターが選定する同じくディアスポラなスター・アーティストの顔ぶれによる企画が散見されることになった。そしてこうした非欧米地域の美術についての展覧会は、同じく非欧米地域出身のキュレーターの手によるほうがよりオーセンティックな表象になる、という一種の幻想的な期待が欧米・非欧米双方の美術関係者のなかで徐々に崩れ始めていった。

共同キュレーションによる新しい試み

 2000年代に入って、こうした他者の表象をめぐる議論は、世界各地で盛んにおこなわれた共同キュレーションなどの試みによって、新たな方向性を模索していくようになった。そこでは誰が誰をというよりは、お互いがお互いに対話を通して新しい表象の可能性を切り開くというスタイルが主流になっていて、その傾向はいまも続いている。日本では、国際交流基金アジアセンターが主催した「アンダーコンストラクション――アジア美術の新世代」展がその好例の一つになった。この展覧会は、インドネシア、インド、韓国、タイ、中国、日本、フィリピンから9人の若手キュレーターが、アジア各地でリサーチして、アジアの表象について共同で模索する、という一大プロジェクトだった。このプロジェクトでは、2000年から参加キュレーターによる調査とセミナーがおこなわれ、01年から02年にかけて、アジア7都市で単独あるいは共同でキュレーションした展覧会を実施し、最終的には東京でそれまでのローカル展を総括する展覧会を開催した。このプロジェクトをきっかけにして構築されたアジア人キュレーターやアーティスト、美術関係者のネットワークは、その後の日本国内外のアジアの表象をめぐる展覧会にも大きく貢献することになった。
 また2013 年に森美術館で開催された「六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト――来たるべき風景のために」もオーストラリア人のキュレーター、ルーベン・キーハンとアメリカ人キュレーターのガブリエル・リッターが森美術館の片岡真実と共同でキュレーションをおこなった。「六本木クロッシング展」は、同館で04年にスタートした3年に一度開催される、日本における多様なジャンルのアーティストやクリエーターを紹介する展覧会である。4回目となった13年は、海外から日本の現代美術に精通している2人のゲストキュレーターを迎え、若手作家だけではなく、異なる世代の作家や海外在住の日本人作家なども加えて、日本の現代美術を多角的に検証する機会とした。ここで大切なのは、キーハンが述べているようにこの展覧会が、「日本美術とは何なのか、何だったのかという問いではなく、日本美術がどうなりうるか、そして何ができるのか」を日本に対して、それも「単に約1億3,000万人の住む列島という場ではなく、何十億という人々がその意味を共有し、協議している日本という考え、概念に対して何ができるのか(29)」と問題提起している点である。

「日本の」現代美術

 さて、ずいぶんとまわり道をしてしまったが、「日本人向けの展示というのはあるのだろうか」という今回のギモンを発端にして、ある特定の国や地域の美術を表象することについていろいろと考えてきた。ここでいちばん考えたかったことは、日本の現代美術は、誰にとって、誰が発信する「日本らしさ」「日本文化らしさ」なのだろうか、というギモンと、現在の日本人にとって、あるいは世界の人々にとってその国らしさを表象するということはどういった意味をもつのだろうか、という大きな問いだ。というのも、一国の文化をプロモーションするというのは、それが誰に向けたものであれ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの一大文化プロパガンダや、戦時中の日本の文化統制などを彷彿とさせるナショナリズムな動きと切り離して考えることができない、危険と背中合わせの行為だからである。異文化はもとより、LGBTや障害者など多様な背景をもつ人々に対する社会的包摂(インクルーシブ)が必要とされる現代社会で、ある特定の文化を表象することについて、私たちは注意深くあるべきである。
 また、ここでこれまで当たり前のように用いてきた「日本の」現代美術が規定する「日本」や「日本らしさ」は、実は一定の決まりきった概念ではなく、時代によっても、また個々人によってもその定義は揺らいでいるものであることには留意する必要がある。日本は長らく単一民族による単一国家であるという幻想があったが、近年のアイヌや琉球文化への見直しや、日本に長期滞在している日系ブラジル人やアジア人労働者などの地域コミュニティとの関わりへの眼差しなどは、そうした考え方に一石を投じている。
 また、同じ「非欧米地域」の「アジア」ではあっても、例えば日本の現代美術の国内外での紹介のされ方と、植民地支配を経験したほかのアジア諸国の現代美術の紹介のされ方を同一視することはできない。もっと言えば、「東洋」というコンセプト自体も、西洋側に規定されてきたものであり、そのことを忘れて十把ひとからげに「アジア」の美術とか、「日本」の美術という言い方をすることは、非常に乱暴な態度である(30)。したがって「日本の」現代美術の展覧会が開催されるときに、それが誰によって、誰のために開催されているか、というその背景にある文脈によって、その定義は常に流動的であることは頭の片隅に置いておく必要があるだろう。
 先に登場した「他者」や「表象」といった言葉も、もともとは英語の「the Other」「representation」という欧米の知識人層で用いられる専門用語である。そもそもこれまで見てきた展覧会や美術館という枠組みそのものや、現代美術というカテゴリー自体が西洋生まれの概念だった。明治の時代に翻訳された「美術」という用語が日本でなじみがなかった概念であったように、文化や地域によって「美術」や「現代美術」の定義そのものも統一されたものではないことは、ローカルの文脈を考えるうえで大切な要素だろう。
 国を挙げて推進されてきた東京2020の文化プログラムに関連する展覧会の多くは日本で実施され、コロナ禍の影響によって当初想定していた海外からのインバウンド客ではなく、日本国内の観客がその主たる対象になった。これらの展覧会を鑑賞する側から見れば、政府や組織委員会の思惑とは裏腹に、それが外国人向けに作られようと日本人向けに作られようと、もはや結果的には大差がないように見受けられる、というか比較検証することも物理的にできない、というのが正直なところだ。これらのプログラムの多くは、主には「海外」の観客に向けて日本文化を発信するものだったが、「海外」と一口に言っても、それは日本人や日本文化の定義が一様ではないように、「海外」を「日本以外」とした、かなり大ざっぱで漠然とした定義であると言えるだろう。先に見てきたように多言語化対応で中国語と韓国語が英語に加えられたことは、想定されていたインバウンド客のなかでもアジアの観客を意識したことは推察される。だが、ここで言う「アジア」も正確には東アジアの観客で、ここには西アジアや東南アジアは含まれていない。

コロナ禍における文化の表象

 ある特定地域の美術の表象が1990年代に問題になったように、それを享受する観客についても、単純に「日本」の観客、「アジア」の観客と一括りにすることは、このグローバルな現代社会で、時代錯誤的な発想であると言わざるをえない。むしろコロナ禍という特殊な状況で、どこの国のアーティストもキュレーターも、そして観客も自由に移動することが制限され、自国にとどまることを余儀なくされたことで、この問題はまた新たな局面を迎えているのではないだろうか。
 例えば、コロナ禍で展覧会や美術関係のシンポジウムもオンラインのプログラムが増えて、どこにいても、世界中のプロジェクトやプログラムを自宅にいながらにして享受できるようになった。そうしたプログラムでは世界各地をリアルタイムで同時に結ぶものも多い。そうなった場合に、対象となる観客の居住地域はもはや重要な要素ではなく、開催されるプロジェクトのテーマや内容に関心がある層であれば、言語や時差の問題はあるかもしれないが、基本的には誰でもどこからでも参加できる。そこでは何がオーセンティックなのか、ということはもはや問題にされないし、逆にいまを生きる私たちに何が必要なのか、またそれを異なる文化や社会に生きる各自がどう受け止めるか、それぞれの状況でどう対処しているのかを互いに学び、共有し合うことのほうが喫緊の課題になっていると言えるだろう。それは、キーハンらが提起した日本の現代美術に対する問いと共通する姿勢ではないだろうか。
 これまで見てきたように日本の現代美術の表象は、時代とともに変化し続けている流動的なもので、今日のグローバルな文脈では、日本の現代美術も、ほかの地域の美術の表象と同じく複眼的に思考されることが求められていると言える。一方で、本ギモンの冒頭で少し例示したように、「日本の現代美術」と言われて、私たちが何となく曖昧にそれらしく思い描くもの、があることも事実である。それが東京2020の文化プログラムでは、よりはっきりと極端な方向性をもって可視化されることになった。だが、そもそも「日本人」にしかわからない「日本の現代美術」の展示などあるのだろうか。「日本人」のアイデンティティや定義が揺らぐなかで、同じ日本人でも年齢や住んでいる地域、生きている時代、自らの関心の対象によって、現代美術の受け止め方もそれぞれであるにちがいない。そして展覧会で「わかる」ことは重要なのだろうか。次のギモンでは、こうした問いについてまた一歩考えを進めていくために、赤ちゃん向けの展示があるのかという問いを通して、展覧会の観客について、また別の観点からあらためて考えていきたい。


(28)ディアスポラの知識人については、香港出身のレイ・チョウ『ディアスポラの知識人』(本橋哲也訳、青土社、1998年)を参照されたい。
(29)ルーベン・キーハン「喪失の構造、解放の構造」、森美術館編『六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト――来たるべき風景のために』所収、平凡社、2013年、212ページ
(30)タイの美術史家であるアピナン・ポーサヤーナンは、こうした「西洋」に対するアジアの単一的な「東洋化」や「アジア化」といった見方に対して異を唱えている。Apinan Poshyananda, “Roaring Tigers, Desperate Dragons in Transition” in Apinan Poshyananda eds, Contemporary Art in Asia: Traditions/Tensions, Asia Society Galleries, New York,1996, p. 24.

 

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ギモン5:日本人向けの展示ってあるの?(第1回)

第1回 現代日本の美術とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)

 突然だが、あなたは「日本美術」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。日本画や絵巻物、掛け軸、屏風絵などの墨や岩絵の具を使った絵画、浮世絵などの版画、あるいは漆器や陶磁器、金工、竹細工などの工芸品だろうか。仏像や寺院を思い浮かべる人、着物などの染色や織物を思い浮かべる人もいるかもしれない。では、「日本の現代美術」と聞くとどうだろうか。水玉で埋め尽くされる草間彌生のインスタレーションや、アニメのキャラクターを想起させる村上隆の作品などは、アートに普段なじみがない人でも、目にしたことはあるだろう。これらの「日本の現代美術」には、何らかの共通項があるのだろうか。また「日本の」現代美術は、世界のそのほかの地域の現代美術と何か異なるのだろうか。「日本」というキーワードをめぐる美術作品やその展示というのは、現代の瞬時につながるネット時代のグローバル化した世界でどういった意味をもつのだろうか。また、そうした「日本の現代美術」作品を展示するキュレーターは、日本人である場合とそうでない場合に、何か違いはあるのだろうか。そして「日本の現代美術」の展示を鑑賞する観客が日本人の場合とそうでない場合に、その受け止め方にどのような違いがあるのだろうか。あるいは、そういったことは大差がないことなのだろうか。そもそも日本人向けの展示というものはあるのだろうか。
 ギモン4で、ミシェル・フーコーの言葉を手がかりに作者と作品の関係を考えた際に、「作家」や「作品」をめぐる言説はそれを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景となる時代や文化によって多様な姿を見せている、と駆け足で述べた。本ギモンでは、この点にもう一度立ち返り、日本の文化や歴史、社会的背景と日本の現代美術の関係に焦点を当て、いままでとはまた別の角度から作家、作品、展示、キュレーター、観客にまつわるギモンを捉え直す。そして「日本の現代美術」を日本人のキュレーターが日本の観客に向けて展示することについて、国内外である特定地域の美術に焦点を当てた展覧会のキュレーションの動向なども踏まえながらあらためて考えてみたい。

東京2020と文化プログラム

 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、東京2020と略記)の開催が決まった2013年頃から、「インバウンド」というカタカナ言葉をやたら耳にするようになった。インバウンド(inbound)とは、もともとは「本国行きの」「市内行きの」など外側から内側へ向かう移動を意味する英語だが、日本では、もっぱら海外から日本を訪れる旅行、すなわち訪日外国人旅行のことを指す。日本は、07年に観光立国を目指して観光立国基本推進法を制定し、翌08年には観光庁を設置した。これを受けて、ビザの緩和や免税措置などさまざまな振興策が功を奏し、05年に670万人だった訪日外国人旅行者数は、15年には1,973万人を超えるまでに急増した(1)。また20年のオリンピック開催に向けて4,000万人まで全世界からの誘客を目指し、18年から3カ年計画での一大プロモーションが観光庁の旗振りのもとに計画された(2)。
 一方、東京都と文化庁でも、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と緊密に連携をとりながら、それぞれ東京2020に向けて展覧会事業や公演事業などの各種文化プログラムを推進すべく、さまざまな政策をとってきた(3)。2020年春には、新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大によって東京大会が21年に延期され、それに伴って各種文化プログラムもその計画の多くは21年に延期され、さらにこの原稿を執筆している時点(2021年5月)でも、3回目となる緊急事態宣言が6都府県に発出され(4)、不透明な状況へと変更を余儀なくされていて、関係者の胸中を察するに余りある事態になっている。だが、この東京2020を契機として進められた文化・観光面での政策やプログラムの数々と、今日のコロナ禍が世界各地の美術展事業にもたらす影響は、現代美術の展示での「日本」というキーワードをめぐるあれこれについて考えるうえで、いくつかの有益なヒントを与えてくれると思われるので、ここで少し詳しく見ていきたい。
 はじめに、そもそもオリンピック開催がなぜ文化プログラムの推進と関係があるかについて疑問に感じた方もいるかもしれないので、まずは簡単におさらいしておこう。国際オリンピック委員会(IOC)が定めた近代オリンピックに関する規約であるオリンピック憲章では、その根本原則でオリンピズムを「人生哲学」と位置づけ、「肉体と意思と知性の資質を高めて融合させた、均衡の取れた総体としての人間を目指すもの」としている。そして同憲章の第5章第39条に、オリンピック競技大会組織委員会は、オリンピック村の開村期間に「複数の文化イベントのプログラムを計画しなければならない」と定めている(5)。つまり、文化プログラムの実施は、オリンピック開催国の義務になっているのだ。また近年の文化プログラムは、オリンピック開催期間を超えて長期化・大規模化していて、なかでも東京2020関係者の多くが参照している第30回のロンドン大会(2012年)での文化プログラムは、開催年に向けて4年間にわたるカルチュラル・オリンピアードという公式プログラムが過去最大規模でロンドンだけでなくイギリス全土で約17万7,000件以上が実施され、観光産業やクリエイティブ産業に大きく貢献したことは記憶に新しい。特にオリンピック開催中を含む12週間にカルチュラル・オリンピアードの締めくくりとして実施されたロンドン・フェスティバルは、200以上のプログラムが美術や音楽、映画、障害者芸術などの多岐にわたる分野で実現され、2,000万人が参加した(6)。
 こうしたロンドンでの大きな成功事例を踏まえ、東京2020でも、文化プログラムをオリンピック開催前から長期にわたって日本国内各地で実施することが東京2020の基本方針にも位置づけられた。また2016年には国の文化審議会で、文化庁の移転や、東京2020を契機とした文化プログラムの推進による遺産(レガシー)の創出という2つの課題を踏まえて文化政策の機能強化について審議され、16年11月には、「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(7)」という答申がとりまとめられた。このなかで、東京2020を世界が日本に注目し、日本から世界に文化発信をする好機と捉えている。さらに東京2020終了後も、そのレガシーの創出までを政策のなかに位置づけて、メディア芸術などを含めた幅広い分野での新たな文化芸術活動への支援や人材育成、基盤整備を進め、「文化芸術立国」を目指すとしている。つまり、この東京2020が契機になって、観光立国と文化芸術立国という国の政策が文化プログラムを通して推進されることになったというわけである。

日本らしさと日本文化発信

 こうして東京2020を取り巻く文化政策は、日本人が考える日本文化をさまざまな文化プログラムを通して海外に向けて発信することを目的として進められている。まず、インバウンドを促すには、ビザの緩和などの法的な整備に加えて、日本の良さ、日本でしか味わえない魅力、日本らしさを海外に向けてアピールすることが肝要であることは言わずもがなだろう。こうした魅力を備えた、いわゆる観光資源のプロモーションのなかで、日本文化が果たす役割は大きい。美術の分野で考えると、文化財などのほか、日本美術のコレクションを擁する美術館や博物館も重要な観光資源である。例えば、東京2020に向けて、公共交通機関や文化財が所在する観光地などに加えて、美術館や博物館も国立博物館・美術館を皮切りに2015年前後から多言語化対応が進められてきた。日本語、英語はもちろんのこと、特に近年急増したアジアからの観光客を意識して中国語、韓国語も含んだ4カ国語による作品解説やキャプション類は、いまでは国立の博物館・美術館では、常設展示だけでなく企画展示でも対応している。解説の文字情報が多い場合は、QRコードから各国語の言語の解説を観客がスマートフォンで読み込んでダウンロードする、といったケースも少なくない。またこうした他言語への翻訳は、外部の翻訳会社などの翻訳者に発注するだけでなく、国立の博物館では各言語を母国語とするスタッフを採用したり、日本美術を専門とする外国人スタッフを採用するなどして、こうしたスタッフが多言語対応にとどまらず、海外の美術館・博物館との人物・学術交流や、国際的な展覧会事業のコーディネートなどを務めている(8)。
 また文化プログラムの一環として、文化庁主催の博物館や芸術祭などの展覧会を開催年に先立って国内外で開催しているほか、東京をはじめとする日本国内各地で、文化庁が中心になって「日本博(9)」という一大文化事業が企画されている。日本博は、総合テーマである「日本人と自然」のもとに「美術・文化財」「舞台芸術」「メディア芸術」「生活文化・文芸・音楽」「食文化・自然」「デザイン・ファッション」「共生社会・多文化共生」「被災地復興」という8つの分野にわたって「縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外へ発信し、次世代に伝えることで、更なる未来の創生」を目的としている。これには文化庁が主催するもの、美術館や博物館と共催するもの、また地方公共団体や民間企業の事業を補助する事業などがあり、2021年現在もコロナ禍によってさまざまな会期・内容変更などがあるものの、実施・計画されている。
 この「日本博」が掲げるテーマと各分野は、現在の日本人が考える日本らしさ、日本の文化、日本の美術を海外から日本に来る外国人に向けて発信する一連の事業であり、各分野でどのような事業を展開しようとしているかという「日本博」のウェブサイトでの説明(10)と、実際にどのような事業が実施・採択されているのかを見渡してみると、大変興味深い。なかでも特に近年現代美術の領域として展覧会が実施されている機会が増加する傾向にある「メディア芸術」が、「美術・文化財」とは切り離されて一つの独立した分野になっているのは、長年「文化庁メディア芸術祭(11)」を実施してきた文化庁や、経済産業省が中心となって官民が連携して推進している「クールジャパン」戦略(12)と無関係ではないだろう。また全体のテーマは縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外に発信、継承していくことを謳っているが、これはあたかも日本の美術が縄文時代から現代にいたるまで、単線的に発展してきたかのような印象を与える。だが、いまの日本の美術を形成している要素の多くは縄文時代よりもずっと後になって中国大陸や朝鮮半島からもたらされた文化の影響が大きく、さらに明治時代の近代化による西洋文化の影響や戦後のアメリカ文化の流入など、さまざまな要素を折衷的に取り入れてきたという事実を、日本のオリジナリティを強調するために都合よく排除しているようにも思われる。
 このように今回の東京2020を契機とした海外に向けて発信する「日本らしさ」や「日本美術」というものは、国を挙げて戦略的にプロモーションされたものだった。この「日本らしさ」や「日本美術」というコンセプトや枠組みは、現代美術の文脈では、日本の現代美術が海外、特に欧米で紹介される際にさまざまな物議を醸してきた。ここで少し時間を巻き戻して、1980年代、90年代の欧米での日本の現代美術の紹介のされ方について、特に現代美術に焦点を当てて見てみよう。

1980年代から90年代の欧米での日本の現代美術の紹介

 海外での大々的な日本美術の紹介はギモン1でも少し触れたが、古くは19世紀の万国博覧会が大きな役割を果たした。これを戦後の現代美術の分野に絞ってみると、日本の場合は、1952年に初参加したヴェネチア・ビエンナーレをはじめとする国際展への参加が主な舞台だったと言えるだろう。その後も66年にニューヨーク近代美術館で開催された「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展などいくつか日本の現代美術に焦点を当てた展覧会は開催されたものの、その評価は「日本の現代美術は欧米の模倣である(13)」という見方を長く欧米の美術関係者に印象づけるものだった。それが80年代に入って、日本がバブル経済で国際的な経済大国として注目を浴びるようになった時期と同じくして、日本の現代美術を紹介する展覧会が欧米の美術館で盛んに実施されるようになり、そのなかで日本の現代美術に対するアプローチも多様化した。日本の現代美術を海外で紹介することについては、72年に外務省の監督のもとに国際文化交流事業を通して国際相互理解の増進と国際友好親善の促進をおこなうことを目的に設立された国際交流基金のはたらきも大きい。ここでは紙幅の関係上、詳細は割愛するが、国際交流基金は、現在もヴェネチア・ビエンナーレ日本館の主催者であり、また特に80年代から90年代にかけては、海外の美術館などと共催して日本の美術を紹介する展覧会事業を数多く手がけてきた(14)。なかでもパリのポンピドゥー・センターで86年に実施された「前衛芸術の日本 1910-1970展(Japon des avant-gardes 1910-1970)」は、戦前から戦後にいたる日本の美術を絵画や彫刻、インスタレーションのほか、建築、デザイン、工芸、写真など多岐にわたるジャンルの作品を通して包括的に紹介した大規模な展覧会であった。また94年に横浜美術館で開催され、その後グッゲンハイム美術館やサンフランシスコ近代美術館に巡回した「戦後日本の前衛美術展 空へ叫び(Japanese Art after 1945: Scream against the Sky)」は、約100人の作家による絵画、彫刻、写真、ビデオ、インスタレーションなど180点の作品が展示されるという、戦後日本の前衛美術の流れを展観するニューヨークでは過去最大規模の日本美術展になった(15)。研究者の光山清子は、その著書『海を渡る日本現代美術』で戦後から95年までの日本の現代美術の海外での受容について、欧米で実施されてきた展覧会を詳細に分析・考察している。ここでは光山が取り上げたなかでも、欧米の日本美術研究者にいまでもよく参照されている「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」の2つの重要な展覧会について、彼女の分析と考察を参照しながら、少し見ていこう。

「前衛芸術の日本」展での日本の美術とその受容

「前衛芸術の日本」については、そのキュレーションについては、「展覧会は国際交流基金との共催であったが、このような包括的なもの〔視覚芸術だけでなくそれと関連した領域を取り込んだアプローチ:引用者注〕を提案し、全行程を通じてイニシャティヴをとったのはポンピドゥー・センター」であり、こうした包括的アプローチは「企画当初からの重要な原則であった(16)」という。この展覧会に先立って、ポンピドゥー・センターでは「パリ―ニューヨーク 1908-1968」(1977年)や「パリ―モスクワ 1900-1930」(1979年)などパリを中心とするフランスと他国の都市とのある時代の文化的関連に焦点を当てるような展覧会を催していた。したがって「前衛芸術の日本」も、日本がどのように西洋の前衛運動と関わったかを検証することを目的としていた。だが、そのアプローチは、特に日本の批評家や美術関係者からは、ヨーロッパ中心主義であるとの批判を受けることになった。この展覧会で扱う年代の区切りである1910年から70年という設定は、あくまでも国際的な前衛運動に対して設けられたものであり、日本のそれとは関係がない。またこの展覧会では、彼らが用いた「前衛」の概念に基づいて、ヨーロッパ的な観点からの日本美術紹介になったことが問題視された(17)。ここで興味深いのは、光山が指摘するように、こうした日本での批判に対して同展に関わった高階秀爾と千葉成夫が「この展覧会はフランスのイニシャティヴによってフランスの観客のために企画されたものであると述べてこれを擁護している(18)」ことである。つまり、フランス人のキュレーター(19)たちは、この展覧会がフランスの観客にとっては初めて20世紀の日本美術を包括的に紹介する展覧会となることを重要視し、観客が「慣れ親しんだヨーロッパ前衛美術運動の歴史に沿うかたちをとること」で、「日本美術には不案内な観客にも参照事項を与えられるだろうと考えた(20)」。しかし結果的には、こうしたキュレーター側の意図とは裏腹に、観客の大半は、この展覧会を通して、日本の前衛美術はヨーロッパの前衛美術の模倣であると受け止める結果になった(21)。

「ガイジン」のキュレーションによる「戦後日本の前衛美術」

 1995年は、第二次世界大戦後50周年を迎える節目の年だったが、それに先立つ1年前の94年に「戦後日本の前衛美術」展が横浜美術館で企画され、その後94年から95年にかけてニューヨークとサンフランシスコに巡回した。この展覧会のキュレーションを担当したのは、当時ニューヨークと東京を拠点に活動していた20世紀の日本美術研究者でインディペンデント・キュレーターであったアメリカ人のアレクサンドラ・モンローだった。本展でモンローは日本の前衛美術がいかに「西洋美術の範疇で分類されることを拒み、理論の構築を「自己」の内に求めた(22)」かを描き出そうとし、日本国内の美術関係者のなかでもそれまでになかった視点を持ち込み、日本で大きな論争を引き起こした。それに対してモンローは、この展覧会が「ガイジン」によってキュレーションされたという「誤解」があったと弁明し、そうではなく、主催者である横浜美術館の学芸員との協議を踏まえながらキュレーションをおこなったと主張した(23)。だが、この点については、光山も指摘するように、本展のカタログに記載された主要テキストの大半を執筆したのはモンロー自身であり、「日本側がコンセプトのレヴェルで展覧会に本質的な貢献をしたとは考えにくい(24)」。光山は、モンローの高い日本語能力と日本文化に関する豊富な知見に根ざしたキュレーションによる本展とそれを支えてきた研究について、「戦後日本美術史の構成・修正に大きく寄与するところがあった(25)」と高く評価している。例えば、書や陶芸など、いわゆる伝統美術の分野で活動する前衛作家は、日本国内でも、戦後美術史の文脈のなかで見落とされてきていたが、この展覧会では墨人会(26)や走泥社など前衛書家や前衛陶芸家のグループに属する作家たちの作品も紹介され、こうした動きを再評価した。つまりこの展覧会は、日本のことをよくわかっていない「ガイジン」ではなく、日本研究を専門とするアメリカ人キュレーターが企画したものであり、日本美術の展覧会企画で、必ずしも日本人だけが優れた企画、より日本美術の実態に忠実なオーセンティックな(本物らしい)企画ができるとはかぎらないことを立証することになった。
 このように海外で日本の現代美術を紹介した記念碑的な2つの展覧会である「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」は、性格は異なるものの、いずれも欧米出身のキュレーターが主導した展覧会であり、これまでにない切り口とスケールで欧米の観客に日本の現代美術を紹介することになった。しかしその手法に対して、現地だけでなく、(後者は横浜美術館で展覧されたこともあるが)、日本国内の美術関係者が物議を醸したことは興味深い。そこには、やはり日本美術のことは欧米人よりも日本人のキュレーターのほうがよりオーセンティックな企画ができるという幻想があったように思われる。それは、特に1990年代にアジアやアフリカなどの非西洋、非欧米地域(27)の現代美術を欧米に紹介する展覧会で、当の欧米諸国でも美術関係者の間でさまざまな物議を醸した動きとも関係している。そこで議論の中心になったのは、誰が誰(あるいは何)を誰のために表象するのか、といった問題だった。これは展覧会の場合で言えば、どこの国や地域出身のキュレーターが、どの国や地域の美術をどこの国や地域にいる観客に向けて企画するのか、という問題である。第2回では、ある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会で、特に90年代に現代美術関係者の間で大きな問題になった「他者」の表象に関する論争から見ていこう。


(1)JTB総合研究所「インバウンド」「観光用語集」(https://www.tourism.jp/tourism-database/glossary/inbound/
(2)観光庁「訪日旅行促進事業(訪日プロモーション)」(https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kokusai/vjc.html
(3)本稿では、詳しく紹介できなかったが、東京都が進めている文化プログラムについては、「Tokyo Tokyo FESTIVAL」事業を参照されたい(https://tokyotokyofestival.jp)。
(4)東京都、大阪府、京都府、兵庫県の4都府県に2021年4月25日から5月11日まで発出。5月12日からは愛知県と福岡県も加わり、5月31日までの延長が決まった。緊急事態宣言に追加される県は2021年5月現在も増加傾向にあり、5月31日に解除される見通しも立っていない。
 また5月12日からの延長に際して、当初、東京国立博物館、東京国立近代美術館、国立新美術館、国立科学博物館、国立映画アーカイブの国立館5館は開館、都の美術館・博物館は31日まで臨時休館延長となり、国と都での対応が異なるというちぐはぐな状況が生じた。これについて都からの要請を受けて、国立5館も休館を継続することが5月12日に決まった。
(5)オリンピック憲章と文化プログラムの関係については、文化審議会第14期文化政策部会(第2回)議事次第資料1-1文化庁説明資料参照。「文化プログラムの実施に向けた文化庁の取組について――2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を契機とした文化芸術立国実現のために」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/seisaku/14/02/pdf/shiryo1_1.pdf
(6)“Reflections on the Cultural Olympiad and London 2012 Festival”(http://www.beatrizgarcia.net/wp-content/uploads/2013/05/Reflections_on_the_Cultural_Olympiad_and_London_2012_Festival.pdf
(7)文化審議会第14期「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(答申)――「新・文化庁」を目指す機能強化と2020年以降への遺産(レガシー)創出に向けた緊急提言」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_16/pdf/bunkageijutsu_rikkoku_toshin.pdf
(8)例えば、東京国立博物館では、2018年の時点では中国人2人、韓国人2人、アメリカ人1人のスタッフが国際交流室という部署で業務にあたっている(東京国立博物館「多言語対応から感じた日本と中国の美意識」〔https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/06/29/多言語対応/〕)。
(9)日本博については、文化庁ウェブサイト「「日本博」について」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/nihonhaku/pdf/r1413086_02.pdf)を参照のこと。「日本博」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp
(10)例えば、「美術・文化財」と「メディア芸術」のそれぞれの分野の説明を比較して読んでみると、「メディア芸術」が「美術・文化財」から不自然に切り離されているような印象を受けるのは、私だけだろうか。文化庁「美術・文化財」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/art_and_cultural_treasures/)、「メディア芸術」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/media_arts/
(11)文化庁メディア芸術祭は、「アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門において優れた作品を顕彰するとともに、受賞作品の鑑賞機会を提供するメディア芸術の総合フェスティバル」であり、1997年から実施されている。詳細については文化庁「文化庁メディア芸術祭」(https://j-mediaarts.jp)を参照のこと。
(12)クールジャパン戦略については、内閣府の知的財産推進事務局による以下のウェブサイトを参照のこと。内閣府「クールジャパン戦略」(https://www.cao.go.jp/cool_japan/about/about.html
(13)光山清子『海を渡る日本現代美術――欧米における展覧会史 1945~1995』勁草書房、2009年、65ページ
(14)国際交流基金に関しては拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)でも詳しく紹介しているので、参照されたい。
(15)両展覧会のデータについては、国際交流基金文化事業部編『国際交流基金展覧会記録――1972-2012』(国際交流基金、2013年)を参照した。
(16)前掲『海を渡る日本現代美術』158ページ
(17)同書159ページ
(18)同書161―162ページ
(19)同展では「コミッショナー」という呼称を使用しているが、キュレーターとほぼ同義なので、本文では便宜上、キュレーターと記す。
(20)前掲『海を渡る日本現代美術』162ページ
(21)同書162ページ
(22)同書167ページ
(23)同書166ページ
(24)同書166ページ
(25)同書168ページ
(26)墨人会は1952年に京都で結成された書家のグループ。走泥社は、48年に京都で結成された陶芸家のグループ。いずれもモンローが本展で紹介したことで、日本の現代美術史の文脈のなかに彼らの活動が位置づけられる大きなきっかけになった。例えば走泥社については、2019年に森美術館で特集展示が組まれ、本展示の共同企画者であったアーティストの中村裕太が、1950年代から60年代の現代陶芸に呼応する新作インスタレーションを発表するなど、ユニークな試みがおこなわれている。森美術館ウェブサイト「MAMリサーチ007:走泥社―現代陶芸のはじまりに」(https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamresearch007/index.html
(27)本稿では、便宜上、「西洋」「欧米」といった用語を使用するが、「西洋」や「欧米」といった場合に、同じ西洋のなかでも正確には特に西欧諸国、また北米だけを指しており、東欧や北欧、中南米は、アジアやアフリカ諸国同様に長らく周縁地域とみなされていたことに留意することは重要である。

 

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ギモン4:作品って何?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「作品」は誰が作るのか

 これまで美術館をはじめとする、「作品」を展示する環境と、その歴史的な成り立ち、また「作品」が展覧会での展示を通して「作品」として成立するうえでのキュレーターの役割などについて見てきた。これらのギモンでは、アーティストが「作品」を作り、キュレーターがそれを「展示」する、という大前提を基本にしていた。だが、ギモン1で少し触れた1990年代以降に急増した参加型の作品は、作品が成立するうえでアーティスト以外の複数の人が関わることが多く、こうした「大前提」にさまざまな問いを投げかけている。
 ところで、「作品」を複数の人による協働作業で作る、という行為自体は、美術史的に見れば、実は新しいものではない。ヨーロッパでは、特に中世からルネサンス期にかけて工房制度が長きにわたってあり、絵画の制作は、アーティスト個人の表現活動というよりは、工房で分業による集団作業でおこなわれていた。近代以降、師弟関係に基づく工房制度の時代とは、美術作品の制作のあり方も様変わりしたが(1)、現代美術では、単一の作者としてのアーティストという存在にかわって、地域住民や観客が作品の制作に関わることがごく一般的になってきた。例えばギモン1に登場したリクリット・ティラヴァーニャの「無題(デモステーション)」シリーズを思い起こしてみよう。展覧会の会期中、会場に用意された仮設舞台を、地元のバンドや俳優といった人たちが活用していき、そのプログラム自体が、作品の完成に結び付く。ティラヴァーニャは、作品のための設えを用意し、ファシリテーター的にそこでの出来事を見守る。このような展覧会においては、「作品」は誰が作ると言えるだろうか。そしてこうして作られた「作品」は、誰のものと言えるだろうか。またキュレーターは、こうした作品の「展示」に対して、どのような役割を担うのだろうか。
 今回のギモンでは、「作品」とは何かを考えるなかで、特に「作品」の作り手にまつわるギモンに着目し、近年盛んになっている参加型の作品や、アーティスト以外の人々との協働制作の形式をとるような作品を中心に、具体的な事例をいくつか見ながら、参加者・観客側の視点から考えていこう。またそれを受けて、あらためてキュレーターの役割についても考察してみたい。

「参加型」アートとは?

 ここで「参加型」という言葉の、本稿での位置づけを明確にしておきたい。そもそも展覧会は、観客が来て、作品を鑑賞する、という行為のもとに成り立っている。絵画や彫刻作品を観て、それについて観客が何かを感じる、ということも広義の「参加」にはなるかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの感染拡大による美術館休館ですっかりおなじみになった、オンラインでのライブ配信型の作品やVR(仮想現実)で撮影された展覧会を視聴することも「参加」と言えるだろう。逆に作品との直接的な接触などを伴ういわゆるインタラクティブ(相互作用的)な作品を思い浮かべる人もいるかもしれない。ボタンを押したら何かが動作するとか、観客が展示室に入るとセンサーが観客の動きを感知して映像のプロジェクションや音などに反映される、といったタイプの作品だ。極端な話、どの作品も、最終的には鑑賞者がいてはじめて作品が完成する、とも言える。だが、本稿で主に扱う「参加型」の作品は、観客や地域住民などが参加するプロセスそのものが、作品成立に深く関わっている類いのもの、そしてその結果を「展覧会」という枠組みのなかで展示する作品を論じることにしたい。例えば、台湾出身でニューヨーク在住のリー・ミンウェイは、1990年代から作家自身と参加者による直接の対話に基づくプロジェクトや、展覧会場を訪れた人が、リーの設えた環境で、何らかの作業や行為をすることを作品化したプロジェクトを数多く発表している。ニューヨークのロンバード=フレイド・ギャラリーで2000年におこなわれた「プロジェクト・ともに眠る(The Sleeping Project)」では、画廊のなかに作られた隣り合ったベッドをもつ寝室空間で、抽選により招かれたゲストがリーと一夜をともにし、さまざまな出来事を語り合う。ゲストは、普段、自分が眠る際に手元に置いている時計や写真立てなどの私物を持参し、ベッド脇のナイトテーブルに置いて帰る。会場を訪れた人は、ナイトテーブルの上に残されたものを見ながら、そこで交わされた会話などを想像する。この作品は、もともとリーが高校生のときに夜行列車でパリからプラハに向かった際に乗り合わせた年配のポーランド人男性と一晩を過ごした体験から着想を得ている。その人物はホロコーストの生還者で、当時の収容所での様子や体験などをリーに語り終えたあと、眠りについた。だがリーは、話を聞いて、その昔、もしかしたらいま、自分が乗っている列車と同じ線路のうえを走っていた列車に夜通し乗せられて、朝まで生きながらえなかった人もいたかもしれないなどと思いをめぐらせ、眠ることができなかった。この私的で強烈な体験をもとに、何年もたってから、「眠る」ことと、「(誰かと)ともに眠る」ことについて、作品にしようと考えたのがこのプロジェクトだったと彼は語っている(2)。このように自分以外の誰かと行為をともにすることが、リーの作品の根幹をなしている。その行為は、作家と直接協働作業をおこなう場合もあれば、展覧会場で観客の手に委ねられることもある。例えば「プロジェクト・手紙をつづる(The Letter Writing Project)」(1998年)では、会場内に障子の部屋を思わせる、すりガラスと木枠で三方を囲まれた3つのブースが設けられ、観客は、そのブースのなかに入って手紙を書いたり、読んだりすることができる。ブースのなかには机と便箋と封筒が置いてあり、観客は、誰かへの感謝、許し、あるいは謝罪の手紙を書くように促される。手紙を書き終えたら、持ち帰らずにブースの内側の壁に設えられた木枠に手紙を挟んでその場をあとにする。手紙の封はしてもしなくてもいいが、封をしていない手紙はほかの人が自由に読んでいいことになっている。そして封筒の表に送り先の住所が書いてあれば、作家か美術館スタッフがかわりに投函してくれる、というプロジェクトだ。ここでは、手紙を書く、あるいは読むという観客の参加、そしてその行為によってそれぞれが個人のストーリーに思いをめぐらすことが作品の重要な一部になっている。
 リーやティラヴァーニャのような参加型作品は、最終的な発表の場が美術館やギャラリーでの展覧会のことが多いが、こうした地域住民や観客の直接参加などを伴う作品は、1990年代後半から、リレーショナル・アート、コミュニティ・アート、あるいはソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)といった名称で、地方自治体や学校でのアートプロジェクトやワークショップとして美術館やギャラリー以外の場所でも実施される機会も多く見られる。例えばイギリスのアーティストであるジェレミー・デラーは、何らかの共通項をもつ地域住民など特定のコミュニティと協働して作品を制作することで知られている。初期代表作の一つ、『アシッド・ブラス』(1997年)は、街中のブラスバンドと、電子音楽とクラブ・カルチャーに端を発するアシッド・ハウスという一見全く異なる音楽文化の間に奇妙な共通性を見つけたデラーが、イングランド北部の町ストックポートを拠点として活動するブラスバンドにアシッド・ハウスの生演奏を依頼したことから始まったプロジェクトだ(3)。『アシッド・ブラス』は瞬く間に人気を博し、イギリス各地で演奏されたほか、アルバムも発売されて、バンドのレパートリーとしても演奏される長期プロジェクトになった。この作品についてデラーは、自身の制作のターニング・ポイントだったと述べている。「モノ(オブジェ)を作らなくてもいいんだ、と気づいた。こんなふうにイベントをやって、何かを巻き起こして、それを人々と一緒にやって楽しめばいいんだ。乱雑で野放しでオープンエンドなプロジェクトをすることで、伝統的なアーティスト像にこだわらなくてもよくなった。ブラスバンドが僕を解放してくれたんだ(4)」。デラーのプロジェクトは、単なる音楽のコラボレーションの域を超えて、それぞれの背景にある社会史を浮き彫りにし、異なるコミュニティ同士の新しい出会いを生み出すなど、さまざまな広がりを見せるプロジェクトになった。このように参加型作品の多くは、絵画や彫刻などのように物質的な「作品」として残るのではなく、何らかの出来事が起こり、そのプロセスや結果が共有されることそのものが「作品」になることを特徴としている。よって作品の形態も美術館での展示だけではなく、街中などでおこなわれるパフォーマンスやイベント、あるいはコンサートや映画など多岐にわたるケースも多い。だが、こうした作品を実現するにあたっては、展覧会やアートプロジェクトなど、アートの枠組みがその背景にあることがほとんどである。
 デラーは、このような手法を国際展の場でも取り入れている。例えば、ギモン1で少し触れたミュンスター彫刻プロジェクトは、ドイツの中世の面影が色濃く残る街ミュンスターで10年に一度開催される大型の国際展だが、デラーは2007年に参加した際に次回開催の10年後である17年まで続く作品を発表した。デラーは、ドイツで盛んな「クラインガルテン」、あるいはクラインガルテン運動を広めたシュレーバー博士の名にちなんで「シュレーバーガルテン」と呼ばれる市民農園に着目した。そしてミュンスター郊外にある50以上のクラインガルテン協会に、各農園での四季折々の天候や植物の移り変わりの様子、各協会での社会的・政治的な活動などを10年間にわたって日誌に記録してもらうよう依頼した。10年後の17年には、そのうちの一つのクラインガルテン内にある小屋に、各農園の10年にわたる日誌約30冊を自由に閲覧できるスペースを設けた(5)。各日誌にはそれぞれの農園の個性が反映されていて、家族やメンバーで集まってバーベキューやパーティーをしたときの写真や、収穫された野菜の写真、新聞や雑誌の切り抜きなどが思い思いにスクラップされ、子どもたちが描いた絵やメンバーが書いた詩などとともにつづられていった。またミュンスター彫刻プロジェクトに訪れた人も、メッセージやイラストなどを記すことができるように、農園のメンバーが使っていたものと同じ様式の白紙の日誌も用意され、会期中次々と来場者によって書きつづられていった。
 クラインガルテンの活動自体は、デラーの呼びかけとは関係なくドイツで200年以上の長きにわたって市民に親しまれている営みである。そのため、それだけでは「作品」にはならない。だが、アーティストが展覧会という仕組みや仕掛けを使って、普段であれば、関わっている当事者たちも気がつかないような人々の市民農園での活動を、当事者たち、市民農園のことを知らない人々、国内外から集まる展覧会の観客に、目に見える形で提示、共有する場を農園のメンバーたちと10年という長いスパンをかけて作っていくことで、一つの「作品」になった。このように参加型アート作品は、それを通してさまざまな人々が有形無形のつながりをもつことが特徴である。また、参加型作品の大半は、長くても2、3ヶ月程度の会期の展覧会に向けて準備され、そのあとは終了してしまうのだが、『アシッド・ブラス』やクラインガルテンでのデラーの息の長い活動は、展覧会やアート作品の枠組みを横断しながら、それらを超えて、参加者側がその試みに自発的に参加し、ともに作り上げていると言えるだろう。また通常は、展覧会での発表が作品の最終的な完成形だと見なされがちな参加型作品だが、このように長期のプロジェクトでは、どこまで(いつまで)参加すれば、その作品が完成したと言えるのか、どこからどこまでが「作品」なのか、という問いを図らずも投げかけている。

「作品」は誰のものなのか

 さて、ここでいま一度考えたいのは、こうした協働制作などを伴う参加型作品は誰のものなのか、またどこまでが作家の手によるもので、どこからが参加者の手によるものなのか、というギモンである。それを考えるうえで、2000年にロンドン北部の小学校の児童がイギリス人アーティストのトレイシー・エミンと作った作品をめぐるエピソードを1つ紹介したい。この作品は、ロンドン北部と東部にある教会や礼拝堂などの宗教施設でおこなわれた「聖なるところにあるアート(Art in Sacred Spaces)」という著名な現代美術作家12人によるグループ展の一環として展示されたものだった。エミンは、小学校の8歳児12人に「美しいと思うものを教えて」というテーマで、言葉を募るワークショップをおこなった。そして「木」「日の出」「イルカ」「おばあちゃん」などの単語をつづったフェルトの文字が、子どもたちが持ち寄ったカラフルな端切れに子どもたち自身の手によって縫い付けられていった。最終的には、こうして制作したパッチワークでできたキルトを、地元の教会の祭壇に1週間展示した。ここまでは、よくある地元の子どもたちとのワークショップで協働制作された作品の話で、普段は自らのプライベートを暴くようなスキャンダラスな作品で知られるエミンの別の一面を見せるプロジェクトで終わるはずだった。だが、話はこれで終わらなかった。展覧会から約4年たった04年に、この作品をめぐる騒動が起きたのだ。作品を保管していた小学校が、この作品を長期間、安全かつ劣化しない形で保管するための方策として、アクリル製の展示ケースを製作してはどうかと見積もったところ、4,000ポンドかかるとわかった。そのような費用を捻出することが難しいと判断した学校が、苦肉の策として、同作品を競売にかけて、その売り上げ(3万ポンドから3万5,000ポンド相当の見込み)を同校の芸術棟を充実させるために有効活用しようとした。だが、オークションハウスで有名なサザビーズは、この作品をまずはエミン本人が自身の作品だと認めないかぎり、作品の価値は端切れ代程度にしかならない、と学校側に伝えた。これに対してエミンは、もし作品を競売にかけるのであれば、それを自分の作品だと認めることを拒否するばかりか、作品の返還も求めると言い出す騒ぎになった。最終的にはこの騒ぎの顛末は、展示ケースのための費用4,000ポンドをエミンが負担する、ということで決着がついた(6)。作品を実際に00年に制作したときには、エミンがコンセプトを考え、子どもたちとのワークショップにも立ち会い、エミンが参加するグループ展の一環として展示された。だが、このキルト作品が「トレイシー・エミンの作品」として、いざ評価額をつけるとなったとき、それは純粋に作家の作品と言えるのか、それとも協働制作者である子どもたちもまた作家と言えるのか、また作った作品は一体誰のものなのか、という作家と作品の曖昧な関係性を図らずも明るみに出すことになった。一口に「協働制作」と言っても、参加している側の作品への作り手としての意識や作品に対する思い入れ、そして作家自身の参加者や作品に対する考え方は、作家によって一律ではないし、同じ作家による同じ枠組みで実施されたプロジェクトであっても、関わる人々が変われば異なってくるかもしれない。ここで「作品」の作り手についての考察をもう一歩進めていくうえで、エミンのプロジェクトとは全く異なる参加型アートを実践している、藤浩志の「かえっこ/Kaekko」を紹介したい。

システムとしての「作品」

「かえっこ」は、藤浩志が2000年から始めたプロジェクトの総称で、家庭で不要になったおもちゃを交換するという仕組みそのものを作品化した、いわばシステム型の作品である。もともとは1997年頃に藤の家で生じたゴミ出し問題に端を発し、家庭内でゴミを排出せずに、ゴミを再利用して表現行為に転換する「家庭内ゴミゼロエミッション」プロジェクトが「かえっこ」へと繋がった。そこから2000年の福岡アジア美術館での開館1周年イベントの一環として開催されたアーティストフリーマーケットに、藤が自身の子どもたちと出店したことがきっかけになり、その後、子ども向けのワークショップとして国内外の美術館やアートプロジェクトの場で「かえっこバザール」などの名称で盛んに開催されるようになった。そのなかで、交換したおもちゃがかえっこバンクで「カエルポイント」として発行され、その貯まったポイントで気に入ったおもちゃを購入したり、オークションをおこなったりする仕組みが生まれた。また、おもちゃをもってこなくても、スタッフとして「かえっこ」の運営を手伝ったり、ワークショップの活動に参加するとカエルポイントがもらえるなど、おもちゃの交換をめぐってさまざまな活動が誘発される仕組みが整えられていった(7)。のちにこのシステムそのものを「Kaekko」というローマ字で藤は使い分けている。ここで注目したいのは、この「かえっこ/Kaekko」が、瞬く間に美術館やアートプロジェクトでおこなわれるアーティスト藤浩志のワークショップ型プロジェクトから、誰でも開催できるシステム型プロジェクトとして広まり、環境問題に関心があるNPOや子育て支援グループ、街づくりの関係者など、従来のアートに従事する層とは異なる団体などがこぞって開催するようになったことだ。「かえっこ」を開催するにあたっては、藤の妻である藤容子が担当するかえっこ事務局に連絡をすると、開催情報のウェブ掲載などの広報協力を受けることができるほか、カエルポイントを押すためのカエルスタンプやかえっこカードなどの開催に必要なツール、最初のおもちゃの貸し出しなどを受けることができる。だが、ここで「かえっこ」がほかの参加型作品と大きく異なる特徴的な点は、「かえっこ」の開催の規模や目的は、主催者の裁量に任されているということだ。つまり「Kaekko」は、システムとして誰でも使えるようになっていて、そこにはもはやアーティスト藤浩志の名前は登場しない。私も当初は「かえっこ」を藤のワークショップ型プロジェクトとして認識して、実際に美術館やアートプロジェクトの現場で開催された「かえっこ」を見てきたのだが、ある日、ローカルのニュース番組で「かえっこ」が取り上げられていたのを目にして、ちょっとしたショックを受けた。その番組では、とあるNPO団体(子育て支援系だったか、街づくり系だったかは記憶が定かではないが)の女性の主宰者が、「かえっこ」を開催していて、その活動について生き生きとした口調で語っている様子が取材されていた。そこに映る映像は、以前、藤のプロジェクトとして見ていた「かえっこ」そのものだった。おもちゃを交換する仕組みや、カエルポイント、運営をお手伝いする子どもたちなどが、レポーターにより「市民による素敵な取り組み」風に紹介されていた。だが、ニュースレポートはそこで完結し、それがもともとは藤浩志の発案だったことや、アート作品であることなどには全く言及がなく、当時、「え、これって藤さんの作品だよね? 著作権、大丈夫なの?!」とあらぬ心配をしてしまったことを覚えている。藤は「かえっこ」について次のように述べている。「《かえっこ》は最初から「仕組み」の表現作品だと考えていました。使う人がコンセプトやプログラムを決めることでどんどん変わっていくタイプの作品です(8)」。さらに藤は、このシステムとしての「Kaekko」をそこで終わりにせず、それを利用して『Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)』というインスタレーション作品として再び一つの形ある「作品」として引き戻す作業をおこなっている(9)。『Happy Paradies』は、マクドナルドの子ども向けのおもちゃ付きセットで知られる「ハッピーセット」でもらえるおもちゃと、それに類似したおもちゃ約14,000個、おもちゃの一部や破片約250個、おもちゃで作られた『夢の鳥』や『Toys Saurus』などの複数のオブジェからなるインスタレーション作品である。これらの素材になった大量のおもちゃは、全国で開催される「かえっこ」事業の終了後に残ったおもちゃが返却される過程で、次の「かえっこ」へと循環して活用されることがない、いわば「子どもたちでさえ不要と思うおもちゃ」である。それらを色や形、大きさ、キャラクターなどによって数百種類に分類し、インスタレーション作品の素材として用いている(10)。さらにこの作品を展示する際には、「美術大学の学生との関係を尊重し、同じような、あるいは理想的にはもっと若い、まだ感性が柔らかい状態の学生」が、作家の指示どおりではなく、「自らの感性と意志で自由に並べること」を重視している(11)。このように「Kaekko」から派生した『Happy Paradies』もまた、形ある「作品」でありながらも、複数の他者の手による開かれた展示のシステムを提供している作品になっている。エミンの作品で争点になった協働制作による作品の「作家性」は、藤の「Kaekko」や『Happy Paradies』では軽やかに解体されてしまい、物理的なモノではなく、システムそのものに宿る。藤のこのような実践は、小説などの文学作品の作者と読者の関係を想起させる。小説などの作品を書くのは作者だが、その作品をめぐる多様な解釈は、実際に作品を読む読者一人ひとりの手に委ねられていて、作者自身の作品に込めた意図に必ずしも縛られることはない。ここで参加型アートにおける作家についての考えを深めるための手がかりとして、文学作品での作者と読者の関係をめぐる議論を少しのぞいてみよう。

参加型アートの「作者」とは?

 文学作品などの「作者」については、1960年代のフランスで、ロラン・バルトが『作者の死』(1968年)、ミシェル・フーコーが『作者とは何か?』(1969年)と相次いで論考を発表している。なかでもバルトは、「作者の死」という象徴的な言葉で、テキストをめぐる作者と読者の関係について論じていて、その考え方はアートの理論にも大きな影響を与えている。バルトは、「一遍のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュール〔引用注:「書かれた言葉」〕によって構成され(12)」た「引用の織物である(13)」と言う。そしてこの多元的なエクリチュールによって織物のように編まれた作品の「多元性が収斂する場」は、「作者ではなく、読者である」とし、次のように結論づける。「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならないのだ(14)」。つまり、作者が書いた織物のようなものである作品は、作者の手を離れて、読者によって自由に解釈されていくというのだ。それまで作者というのは、作品の意図や解釈を支配する神のような存在と思われていた。だがバルトの「作者の死」は、作者ではなく、作品の受け手である読者がその作品を読む行為によってそれぞれの意味を見いだすと説く。これは、従来の作者と作品の関係性を根本から問い直すような考え方だ。それは、まるで美術作品の唯一の作り手とされてきたアーティストと作品の関係性が、参加型アートの台頭によって揺らぐさまと呼応しているかのようだ。例えば、先に見た藤の「Kaekko」システムは、参加者・鑑賞者によって藤浩志という一人のアーティストの手から離れて、自由に運用され、享受されている。だが、このことは、「Kaekko」というシステム型作品を生み出した藤自身の存在を完全に消し去ってしまうわけではない。
 バルトが言う「作者の死」に対して、フーコーは作者について、実在するものとして異を唱えている。ただし、ある一冊の書物を記した一個人としての作者、という存在としてではなく、作者というものが果たす「機能」に着目し、作家と作品の関係性をさまざまな角度から分析している。例えば、ジークムント・フロイトというのは単に『夢判断』という本の作者であるだけではなく精神分析学の創始者であり、それによって精神分析に関するさまざまなテキスト、概念、仮説などの言説を生み出す機能をもっている(15)、と説く。フーコーは、「機能としての作者」は、「言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的システムと結びつく」と言う。そしてそれは、時代や文明の形態によって「一律に同じ仕方で作用するものではない」と指摘している。さらにフーコーは、こうして生まれた言説は、それを生み出した「ある現実の個人」に帰属させるのではなく、「複数の立場=主体を同時に成立させることができる(17)」と述べている。美術作品に当てはめて考えてみると、バルトやフーコーの「作者」と「作品」をめぐる論考は、参加型アートにおいて、非常に興味深い視点を与えてくれる。作家と鑑賞者が、それぞれ作品の「作り手」と「受け手」としてはっきりと分断されていた従来の作品と異なり、参加型アートの場合、鑑賞者も書き手になり、織物のように作品を作り出していく。ただしそこで作者はバルトが言うような「死」を迎えるのではなく、フーコーが言うように作者も鑑賞者も複数の作り手になり、多元的・主体的に作品を形成していく。それぞれの作家の作品は、もともとは作家の個人的な原体験などから着想を得て、生まれているが(リクリットの祖母の家での料理、リーの夜行列車での体験など)、それが参加者を招くことで、それぞれの参加者個人の体験や経験などと重なり合いながら、「作品」になっていく。そういった意味では、「作品」は作家一人のものではないが、作家自身の存在を否定するものでもないと言えよう。そしてフーコーが言うようにこうして生まれた「作家」や「作品」をめぐる言説は、それを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景になる時代や文化によって、多様な姿を見せている。

参加型アートでのキュレーターの役割

 これまで協働制作を伴う参加型の作品における、作家と参加者・鑑賞者の関係について見てきたが、ここで少し視点を変えて、こうした作品でのキュレーターの役割についても考えてみよう。先に紹介したデラーのような実践は、ソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)という枠組みで論じられることも多い。ソーシャリー・エンゲージド・アートというカタカナの用語は、特に2000年代になって日本でも使われる機会が増えてきた。これらの多くは、美術館のなかではなく地域のコミュニティなどで実践され、ときにその地域が抱える社会的な問題を解決するための手立て、あるいはそうした問題をあぶり出すためのツールとして、アートの手法を使っていることが多い。イギリスの美術史家クレア・ビショップは、こうしたソーシャリー・エンゲージド・アートの実践を著書『人工地獄』で、美術史や美術批評に照らし合わせながら、パフォーマンス、演劇、美術教育なども含めた幅広い参加型の実践を、多数のアーティストや参加者たちへのインタビューなどを交えながら多角的な視点から紹介し、分析を試みた。そこで彼女はキュレーターの役割について、次のような重要な指摘をしている。「各プロジェクトに責任を持ち、ときに――しばしばアーティスト以上に――一部始終に立ち会う唯一の存在となるキュレーターの手に、参加型アートの主な語り手としての権利が委ねられる」。ビショップは、そうした「キュレーターたちの語りにおいて、批評的な客観性が排されていること」に失望し、そのことが彼女の研究の重要なモチベーションになったと述べている。ビショップが言うとおり、プロジェクト全体を把握しているキュレーターや、それについてキュレーターの言葉を頼りに研究・批評する者にとって、特に「プロジェクトの中心要素に人間関係の形成があり、それが特定の主体によるリサーチに否応なく影響を与えてくるような場合」に「かかわりが深まるほど、客観的で居づらくなる(18)」ことは確かだ。こうした状況に対して、ビショップは美術史家としての立場からあくまでも客観的に分析を試みるが、そもそも、参加型プロジェクトで、当事者としてのキュレーターが参加者、アーティストとともに人間関係を形成していくのは、ある意味必然的な結果であり、逆にそうした人間関係が形成されなければ、しばしば長期にわたるプロジェクトを遂行することは不可能になるだろう。そのプロセスのなかで、キュレーターは、そのプロジェクトの推進者、アーティストや参加者の伴走者であることが求められる。同時に、最終的にはその結果を展覧会やアートプロジェクト、あるいはカタログや報告書として外に向けて発信していく役割も担う。そこでビショップが言うような客観性をどこまで担保する必要があるかは、プロジェクトの目的や、対象にする観客によっても異なってくるだろう。ここで最後に参加型アートにおいて、こうした作品は誰のために作るのかについてあらためて考えてみたい。

「作品」は誰のために作るのか

 協働制作を伴う参加型アートで誰がその作品を享受するのか、ということを考えると、一義的には、そのプロジェクトに直接参加したある特定の個人やグループ、コミュニティの人たち、ということになるだろう。だが、それがアートの文脈で語られるとき、作品はその一義的な参加者のためだけのものにとどまらない。作品の展示やパフォーマンスのお披露目、映像上映などで、それらを鑑賞するより多くの人々が、一義的な参加者たちの体験を追体験したり、各々の記憶や体験、人生のストーリーなどと結び付けたり、重ね合わせたりしていく。もちろん、プロジェクトの協働制作を直接担った参加者と、それを展示室などで鑑賞する鑑賞者が全く同じ体験ができるわけではないだろう。それでも、一つの「作品」として展覧会の文脈で発表され、多くの人に共有され、享受されることで、最終的には、広義の「参加型作品」が成立すると言える。また参加型作品の作り手は、作家一人にとどまらず、参加者、鑑賞者も主体的にそのプロセスに関わり、キュレーターも加わって、多元的な織物のような「作品」とそれを取り巻く言説を作り上げていく。

 あらためて、「作品」とは何か、というギモンに立ち返ると、「作品」を成立させる諸条件は、作品を取り巻く環境、歴史的背景、作品制作の方法論など非常にさまざまな要素が絡み合っていることがわかる。参加型の「作品」をめぐって、作品が一人の作家により作り出され、完成し、展示されるもの、という前提から大きくはみ出していくなかで、作家と観客の間にある境界線が曖昧になっていき、アーティストとキュレーターの役割も交錯していく。従来の作品を作る人=作家、見る人=観客、作品を選んでその場を設える人=キュレーターといった構図がより有機的・複合的に絡まっていることを、これまで見てきた事例からも垣間見ることができる。本ギモンの後半では、参加型作品をめぐる作家と観客、キュレーターの関係について少し駆け足で論じたので、消化不良を起こした方もいるかもしれない。それらについては、これから続くギモンでまた別の視点を交えながら、あらためて解きほぐしていきたい。


(1)ただし、こうした工房制度スタイルは、現代美術でいまでも一部健在であり、それについては近い将来、また別の機会に論じてみたい。
(2)“LEE MINGWEI: THE SLEEPING PROJECT, 2000”(https://www.perrotin.com/artists/lee_mingwei/550/the-sleeping-project/48708)。オリジナルの作品では、交わされた会話は録音され、会場で聞くことができたようだが、近年の再制作では、ゲストが持ち込んだオブジェがナイトテーブルに置かれるだけになっている。なお、本稿に登場するリーの作品の日本語タイトルは、すべて森美術館「リー・ミンウェイとその関係」展(2014年)に掲載されているものを採用した。
(3)『アシッド・ブラス』については、BBC2で2012年2月24日に「The Culture Show」で放映された「Acid Brass: Jeremy Deller」に簡潔にまとめられている。“Acid Brass – Jeremy Deller – The Culture Show (24/02/2012),” YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=gBJxMQGYXM4
(4)“Acid Brass, 1997,” Jeremy Deller(https://www.jeremydeller.org/AcidBrass/AcidBrassMusic.php
(5)Skulptur Projekte Münster 2017カタログ、170ページ
(6)この事件については複数のイギリスメディアが報道しているが、本稿は以下のウェブサイトを参照した。“Blanket refusal,” The Guradian, March. 30, 2004(https://www.theguardian.com/artanddesign/2004/mar/30/art.schools),“Emin wants school quilt returned,” BBC News, March. 30, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3584273.stm),“Emin pays to show school’s quilt,” BBC News, April. 6, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3603787.stm
(7)「かえっこ」誕生の詳しい経緯については、「《かえっこ》から《kaekko》までトークバトル」(『「かえっこについてかたる。」――かえっこフォーラム2008記録集』所収、水戸芸術館現代美術センター、2009年)16―29ページを参照のこと。
(8)同書24ページ
(9)『Happy Paradies』についての考察は、同作品を収蔵した金沢21世紀美術館の野中祐美子による以下の論考を参照されたい。野中祐美子「藤浩志《Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)》――拡張する作品概念」、「Я[アール]――金沢21世紀美術館研究紀要」第7号、金沢21世紀美術館、2017年、92―96ページ
(10)同論文92ページ
(11)同論文95ページ
(12)ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年、88ページ
(13)同書85―86ページ
(14)同書88―89ページ
(15)ミシェル・フーコー「作者とは何か?」『作者とは何か?』清水徹/豊崎光一訳(ミシェル・フーコー文学論集1)、哲学書房、1990年、53―55ページ
(16)同書50ページ
(17)同書50ページ
(18)クレア・ビショップ『人工地獄――現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年、20ページ

 

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ギモン3:何を展示するの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 

コロナ禍に寄せて――「ギモン3:何を展示するの?(第2回)」の前に

 いま、コロナ禍のなかで展覧会やキュレーションについて考えることが非常に困難な状況となっている。
 この2カ月あまりの間に新型コロナウイルスの感染拡大により、文字どおり世の中が一変してしまった。ここで今回、これまでの連載の続きを掲載する前に、この場をお借りして、この状況下で展覧会やキュレーションに向き合うことについて、少しふれてみたい。書いたところでいますぐ何かの解決につながるわけではないのだが、とにかく私自身、本連載を続けるうえで、刻一刻と変わるいまの状況を備忘録的に書き留めながら、思考していくという以外にこれから先の原稿を書き進めるすべがない状況に陥っているので、このような脱線をお許し願いたい。またここで書いたことについては、今後も状況に応じてもともとの本連載全体の構成をアップデートしながら、連載後半の内容に反映していきたい。

 2011年の東日本大震災のあとも、しばらくアートについて考えることができない、あるいはすぐにアートを通じて何らかの行動を起こすことが難しいと感じる美術関係者は、私自身も含めて大勢いたと思う。もちろん、さまざまな芸術を通した救援活動やチャリティー、また津波被害にあった作品のレスキュー事業(1)などもおこなわれていたが、それは被災者支援、復興に向けた活動だった。現在進行中の世界的なパンデミックと9年前に東日本で起きた震災と放射能汚染では、単純に比較することはできないが、本連載でも追って危機的な状況に私たちの社会が陥ったあとのアートや展覧会のあり方などについて、考察していきたい。
 今回のコロナ禍について現時点(2020年4月末)で言えることは、1つの地域、あるいは1つの国にとどまらず、まさに地球規模で私たちが生きるということそのもの、また社会生活や経済活動に深刻な影響を及ぼしていて、しかもその「異常事態」が数カ月というごく短いスパンでもはや日常化しつつある、ということである。このような現況において美術の分野に限って簡単にこの2カ月あまりを振り返ってみると、中国を皮切りに韓国、ヨーロッパ、アメリカなど世界各国の美術館が2月から3月にかけて軒並み臨時休館に入り、多くの展覧会やアートフェアなどが中止・延期となった(2)。また私立美術館の多いアメリカでは、MoMAやメトロポリタン美術館をはじめとする名だたる館でスタッフの解雇が始まっている(3)。日本も首都圏など7都市を対象に緊急事態宣言が4月7日に発令される前から、大規模なイベント実施に関して自粛モードに入り、2月末からは美術館や博物館も床面積1,000平方メートル以上の館を中心に臨時休館に入っていたが、発令後には、細々と開けていたギャラリーも休廊を余儀なくされた。そして緊急事態宣言が4月16日に全国に拡大されてからは、実質的に日本国内の展覧会という展覧会が中止や再開見込み不透明なまま延期などに追い込まれている。
 このような状況下でも、なんとか芸術活動を続けようと世界各地でさまざまな試みがなされている。音楽や舞台芸術、パフォーマンスの分野で動画配信、ライブ配信などがおこなわれるのに続き、美術館でも、オンラインで公開するコレクションを充実させたり、展示したものの休館せざるをえなくなった展覧会をウェブサイト上で写真や動画を交えて紹介したり、カタログテキストをウェブサイト上で閲覧できるようにするなど、各館がしのぎを削っている。だが、展覧会というメディアは、本連載の冒頭でも述べたとおり、そもそもが非常にアナログなメディアであり、展覧会に観客が実際にいってなんぼの世界である。したがって、今回のような事態にすぐさま対応しろと言われても、そう簡単にはいかないのも事実だ。また今日の現代美術の展覧会は、国際的な協力のもとに成り立っているものも多く、作品を国内外に輸送することや、展覧会場に国を超えてアーティストやキュレーター、クーリエなどの人が移動することができない現状のなか、作品を展示する、という行為自体が不可能になっている。またアーティストやフリーランスのキュレーターなどについては、予定していた展覧会が中止や延期となり、収入が断たれる人も多い。ドイツ政府は、この事態のなかいち早く「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要な存在(4)」と断言し、フリーランサーや芸術家、個人業者に向けて500億ユーロという大規模な支援を約束した。日本では、ドイツのような国レベルでの動きは鈍いが、地方自治体が独自の支援策を打ち出したり、各芸術団体やアーティスト、民間企業などが、立ち上がって、基金を設立したり、クラウド・ファンディングや、各種の署名活動などが始まっている。
 明日の暮らしをどうするのか、を考えなくてはならない事態のなかで、こうしたいますぐ必要な支援や対応について、それぞれができることを考え、動いていくことは大事だ。だが、同時にポスト・コロナ、ポスト・パンデミックの世界について考え始めることも重要である。感染の収束にはまだ相当の時間がかかりそうだし、この状況によりさまざまな価値観の変容が否が応でも起こっていることは確かである。世界的にこの危機的状況を共有した(大半がまだそのただなかにあるが)あとのポスト・コロナの世界では、私たちの暮らしのあらゆる面で、従来どおりというわけにはいかないことは明らかだろう。それは、人間の文化活動でも当然同じであり、本連載の根本的なテーマである、展覧会やキュレーションとは何か、またどうあるべきか、という問いにもつながっている。

 連載は、ギモン3の第2回を執筆当時(2月中旬)のままの原稿で以下、掲載するが、ギモン4以降はそうしたポスト・コロナ社会で求められる展覧会やキュレーションとは何か、といった問題も考えながら、あらためて執筆していきたい。なお、本連載の書籍化の際には、これまでの執筆分も含めて大幅に見直しが必要となってくる部分も出てくると思われる。というか、見直さざるをえない状況にいると言ったほうが正しい。こんな時期に展覧会やキュレーションのことを論じるのか、と言われるかもしれないが、こんな時期だからこそ、見えてくるものがあると信じて、今後の連載を継続したい。


(1)文化財レスキューの具体的な事例については、例えば東京文化財研究所の「被災文化財レスキュー事業 実施状況」などを参照のこと(https://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/110627/index.html)。
(2)なお、先に流行して早くから都市封鎖に入った上海の美術館は、3月中旬から再開、北京の美術館も4月下旬から再開している。イタリアの美術館も5月中旬以降、再開の予定となっている。
(3)「MOMA AND NEW MUSEUM AMONG NY INSTITUTIONS CUTTING JOBS TO CURB DEFICITS」「ARTFORUM」2020年4月3日(https://www.artforum.com/news/moma-and-new-museum-among-ny-institutions-cutting-jobs-to-curb-deficits-82681)、「METROPOLITAN MUSEUM OF ART LAYS OFF EIGHTY-ONE EMPLOYEES」「ARTFORUM」2020年4月22日(https://www.artforum.com/news/metropolitan-museum-of-art-lays-off-eighty-one-employees-82782
(4)モーゲンスタン陽子「ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援」「ニューズウィーク日本版」2020年3月30日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92928.php

 

 

第2回 展覧会に出す「作品」を選ぶ行為

 展覧会では、世の中にあまたある「作品」から、ある特定のものを選んで展示する。その特定のものを選ぶ基準を決めて、何をどのように展示するかを決めるのが、キュレーターの仕事とも言える。
 ギモン2の順路の話のところで少し触れたが、キュレーターは、一本の展覧会に通底するストーリー、あるいは展覧会のテーマ、企画のコンセプトを考え、それに基づいてアーティストとその作品を選ぶ。アーティスト自身が企画をする場合はキュレーターを立てないこともあるが、その場合でも、アーティストがキュレーターの役割を兼務することには変わりない。つまり展覧会は、キュレーターによってなんらかの価値基準の下で選択される作品で構成される、極めて恣意的なものである、ということだ。
 旧東ドイツ出身の哲学者・美術批評家であるボリス・グロイスは、著書『アート・パワー』のなかで、キュレーターやアーティストによってもたらされる展覧会の恣意性について次のように述べている。
「アーティストやキュレーターはこれら芸術の対象とされる物すべてを、純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する。このようにしてアーティストやキュレーターは、選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会を得るのである(6)」
 グロイスの指摘は、半分当たっているが、半分は正直、首を傾げたくなる。確かに展覧会で何を展示するかは、キュレーターあるいはアーティストが決めるにせよ、「純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する」ことができるなら、世の中のキュレーターたちはこんなに苦労していないだろう。そんな思いどおりの夢の企画が実現できることは、まずないと言ってもいい。大抵は、予算の問題や物理的な制約、また人的・政治的要因などさまざまな軋轢があるなかで、それでも自分の理想とする展示に向けて、あらゆる創意工夫をして、多くの人の協力を得て、ようやくなんとか納得できる形に落とし込んでいく、というのがキュレーションの現場の実態に近いと思う。
 ただ、グロイスの指摘のうち、ここで注目したいのは、半分当たっているほうの部分の話だ。先に述べたように、キュレーターの仕事の根幹をなす部分は、展覧会のコンセプト作りとそれに基づく作品の選定にある。展覧会は、グロイスが言うとおり、「選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会」にはちがいない。だが、それは単に自分が好きなものを展示して終わり、ではない。展覧会の規模や種類にもよるが、都内の美術館での大型展覧会となると、家が一軒買えるぐらいの予算を扱う。これが公立館の場合なら、その財源は市民や都民の税金ということになる。特に公金を投じるタイプの展覧会の場合、キュレーターがある選択をして展示する以上は、その作品をどのように美術や美術史の文脈に位置づけるのかについて観客に公的に説明する責任が生じる。一つの展覧会を作るときに、あるコンセプトやテーマを設定した場合、それに沿ってさまざまな選択のプロセスが生まれる。ときには、そのプロセスのなかでコンセプトやテーマそのものを軌道修正していくことも少なくない。なぜAという作家ではなくBという作家を選ぶのか、あるいは同じ作家の手によるものでも、なぜCという作品ではなくDという作品を展示するのか、など一つひとつの選択をしながら、その理由を展覧会の形で広く観客に向けて示していくことが必要になる。またなぜその会場で、このタイミングで、そのテーマの展覧会をやるのか、ということも問われるだろう。それでも、この「選択」という展覧会の宿命は、ときにキュレーターにある種の権力を生み出す危険性もはらんでいる。
「作品」は、作家の手で生み出されて、展覧会場に置かれて、観覧されることではじめて「作品」として多くの人が知ることになる。この「作品」を「作品」として位置づけるのがキュレーターだとすると、キュレーターがもつ責任は非常に重大だと言えるだろう。「作品」がなければ展覧会は始まらないが、キュレーターが選ばなければ、「作品」は日の目を見ることはない。ここでキュレーターは、その選定の根拠をしっかり説明する必要がある。ウォールテキストやカタログは単なる飾りや展覧会の付属物ではなく、展示だけでは足りない部分を言葉を使って補足する大切な役割を担っている。特に近年の多様化する現代美術の場合、見ただけではわかりにくく、その背景について説明を要する作品も多い。こうした展覧会に展示された作品を、その展覧会全体の説明や個々の作品に関する説明も含めて鑑賞した観客の反応、さらには美術史家や美術評論家といった人たちがそれらを論じていくことで、あらためてキュレーターのキュレーションや作品の意義や位置づけが問われていくのだ。

現代美術における作家とキュレーターの関係

 現代美術の場合、作家が現役で活躍していることも多いので、展覧会に合わせて新作を作ってもらう、ということもできてしまう。ときには、評価が定まっていない作家の作品を展示することもあり、若手の作家にお願いすることは、最後まで結果が見えないというリスクも大きい。これは近代美術までのキュレーションとの大きな違いである。既存のものを見いだし、ときには全く新しい文脈から光を当てて選ぶという行為までは近代美術までの美術も現代美術も変わりないが、現代美術の場合、それに加えて、新しく作り出すという行為が可能になってくるのだ。そうしたプロセスにおいて、まさに展覧会で「作品」を「作品」として位置づける行為は、ある種作家とキュレーターによる共同作業になっていくとともに、緊張関係を生み出す。
 1990年代に入って、特に現代美術の展覧会でキュレーターの役割が世界各地で急激に台頭してきたなかで、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタといった大型の国際展を華々しく取り仕切るキュレーターは、「スター・キュレーター」ともてはやされた。そのスター・キュレーターに選ばれる作家はスター・アーティストと呼ばれ、国際展の常連組となり、作品が高値で取り引きされ、世界の名だたる美術館で展覧会が開催されていった。そうした国際的な舞台で活躍するにはスター・キュレーターのお眼鏡にかなう必要があり、そうしたキュレーターと「ワイン&ダイン(食事やお酒を一緒に飲んで仲良くする、の意)」するのが作家として成功への近道であるかのように揶揄されることも多かった。その一方で、そうした作家とキュレーターのパワーゲームに異を唱えるように特に2000年代以降、「アーティスト/キュレーター」と呼ばれるキュレーションを自ら積極的におこなうアーティストが登場したり、複数のキュレーターが一つの展覧会を作る共同キュレーションの試みなど、既存の一人のキュレーターがすべてを取り仕切る形とは異なる新しいキュレーションの方法が次々と実践されている。あるいは、従来の美術の展覧会の枠組みではなく、社会的な問題意識から、アーティストなどが自発的にプロジェクトを立ち上げるなど新たな方法論を模索する試みも近年増えている。例えばアーティスト集団のwah document(ワウ・ドキュメント)は、東日本大震災後の東北の被災地に赴き、子どもたちとワークショップを通してお手製の映画館を作った(7)。あるいは、詩人の上田假奈代が主宰するNPO法人のココルームは、日雇い労働者や路上生活者が多く住む大阪のあいりん地区・釜ヶ崎で「釜ヶ崎芸術大学」という名の地元の「おじさん」たちを対象とした狂言、書道、音楽、美術、天文学など幅広いジャンルを扱う市民大学、ワークショップを継続的に実施している(8)。
 こうしたさまざまな新しい試みは、「作品」を「作品」として位置づける行為が、これまでアーティストが「作品」を創り出し、キュレーターがそれを「展示する」という前提に成り立つ行為であったことを浮き彫りにする。と同時に、近年のキュレーションのあり方の見直しや、観客やコミュニティーが作品制作のプロセスに大きく関わるなかで「作品」を創り出し、それを「作品」として位置づける行為の主体者が必ずしもアーティストやキュレーターとはかぎらないという、現代美術ならではの状況が発生している。
 これまで見てきたとおり、展覧会は、確かに作品を「作品」と定義づけ、美術の文脈のなかに位置づける装置であったと言える。だが、その担い手については誰が「作品」を創るのか、という問いも含めて、あらためて考える必要がある。「作品」が「作品」として成立するときについて、本ギモンでは主にキュレーターの立場から考えてきたが、次のギモンでは、視点を変えて、観客とアーティストの立場からもう一度考えてみることにしよう。


(6)ボリス・グロイス「多重的な作者」齋木克裕訳、『アート・パワー』石田圭子/齋木克裕/三本松倫代/角尾宣信訳、現代企画室、2017年、151ページ
(7)詳しくは「wah in 東北 9日間の活動レポート」(「wah document」〔http://wah-document.com/blog/2011/07/wah-in-東北%E3%80%809日間の活動レポート/〕)を参照。
(8)釜ヶ崎芸術大学については下記を参照のこと。「NPO法人こえとことばとこころの部屋cocoroom」(http://cocoroom.org/釜ヶ崎芸術大学・大学院2019/)。なお、釜ヶ崎芸術大学は、2014年の横浜トリエンナーレに作家として参加している。

 

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ギモン3:何を展示するの?(第1回)

第1回 展覧会における「作品」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 これまで「展覧会」という時空間についてさまざまな角度から見てきたが、ここで基本に立ち返って質問を一つ。展覧会では何を展示しているのだろうか。そりゃぁ、「作品」に決まってるでしょ、とおそらく大半の人は躊躇なく答えるにちがいない。そもそも人は「作品」を観に展覧会に行くわけだし、それは映画館に映画を観にいったり、コンサートホールに音楽を聴きにいくのと同じくらい自然なことのように思われる。だが、ゴッホやモネ、ルノアールなど近代美術あたりまで美術館や展覧会で当たり前のように鎮座していた「作品」の「当たり前感」が、現代美術では、デュシャンを機に著しく崩壊あるいは変容しつつあることは、本連載をこれまで読んでくださったみなさんにはもうおわかりいただいていることだろう。展覧会に「作品」を展示するというよりも、ある意味、美術館や展覧会に展示してあるから「作品」が「作品」として成立する、という一種の逆転現象が現代美術の場合、多発している。本連載の冒頭で、「作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る」とさらりと述べた。キュレーターの仕事の要になるのは、展覧会に一体何をどう展示するのか、ということに尽きるだろう。
 今回のギモンでは、作品はどのように「作品」となるのかについて、キュレーターの立場から考えてみよう。具体的には、美術の展覧会で私たちが普段、至極当たり前のように見ている「作品」について、なかでもとりわけ現代美術特有の事情を抱えた「作品」の展示について、主に次の2つのキュレートリアルな視点からあらためて考えてみたい。まず1つ目は、「作品」を「作品」として展覧会のなかで位置づける行為について、そして2つ目は、「作品」を展覧会のために選ぶという行為について考える。どちらも「作品」を展示するにあたってキュレーターが大きく関わる行為であり、それが特に現代美術の場合、近代までの美術の展示では見られなかったようなさまざまなギモンを呈する。さて、何がどう問題なのか、これから一つひとつ具体的に見ていこう。

「作品」が「作品」になるとき

 まずここであらためて私たちが普段、現代美術の展覧会で「作品」を鑑賞するときのことを思い起こしてみよう。近代までに制作された絵画や彫刻などなら一目で「作品」と判別できるのに、現代美術となると、「これが作品?」「え、これも作品?」と途端にわかりにくくなってしまうのはなぜだろうか。言葉は悪いが、正直、一見ゴミみたいなものも「アート」だったりすることも少なくない。展示室内にあればまだしも、屋外のインスタレーションを中心とした展覧会になってくると、一体どこに作品があるんだ、となかなかに紛らわしい事態が発生する場合もある。逆に無造作に道端に積まれたバケツなどの日用品が、その色合いや積まれ具合が絶妙な味を醸し出して「これって現代アートじゃん」と言われそうになることだってあるだろう。さらにモノの展示ならまだしも、ハプニングやイベント、パフォーマンスなど形に残らない作品の展示になってくると、混迷を極める。例えばティノ・セーガルの『This is Propaganda(これはプロパガンダ)』という作品は、展示室に観客が足を踏み入れると、看視員に扮した人がおもむろに「This is Propaganda, you know, you know.(これはプロパガンダ、知ってるでしょ、知ってるでしょ)」と歌う。こうなってくると、もう気づく人は気づくが、それが「作品」なのかどうかよくわからずに通り過ぎてしまう人が続出してもおかしくない。展覧会場で作品を鑑賞するというときに、私たちは一体どこでそれが「作品」だと判別しているのだろうか。
 MoMAが建築やデザイン、映画、写真などを美術館で展示してコレクションにも加えることで、それまでアートと目されなかったものがアートの文脈に位置づけられてきたことは、ギモン1ですでに見てきたとおりだ。このように美術館や展覧会で何かを展示するという行為は、それを「作品」として美術の文脈に位置づける行為になる。現代美術は、領域横断的な性格を近年ますます強めていて、視覚美術にとどまらず、音楽やファッション、建築などの他ジャンルの芸術、あるいは科学や人類学、社会学、工学、医学、福祉などの芸術以外の分野と横断・協働する作品や展覧会が増加の一途をたどっている。これらの試みのなかには、従来の絵画や彫刻といったモノによるアウトプットだけではなく、地域のコミュニティーを巻き込むようなプロジェクト型になっていたり、最終的な形にはこだわらず、そのときどきの行為やプロセスを重視した形がない「作品」もたくさんある。多様化する現代美術で、「作品」や「アート」の概念は常に再定義を迫られる宿命にある。そもそも現代美術自体、何が「作品」なのか、何が「アート」なのかを開拓、挑戦し続けていくことを本分としているようなところもある。良く言えば懐が深いのだが、下手するとなんでもアリになってしまう危険もはらんでいる。そうした状況のなかで、ホワイト・キューブという展示空間や展覧会という枠組みで「作品」を「作品」として位置づけるのが、キュレーターの大事な仕事の一つである。では具体的に、キュレーターはどうやって「作品」を「作品」として位置づけているのだろうか。

逆パルメザンチーズ再考

 ホワイト・キューブの展示空間の場合は、そこに置かれているだけで「作品」と認識されやすい、というのはギモン1でも見てきた。だが、「作品」はただ展示室にポンと置かれているだけで自動的に「作品」と認識されるとはかぎらない。デュシャン の『泉』を思い出してみると、単に男性用小便器を展示室に持ち込んだだけであれば「作品」とはならないし、あんな一大事件にもならなかった。便器が「作品」になったのには、まず「泉」というタイトルをつけて、制作年と作家によるサインを添え、「展覧会」に出品し(実際には出品されなかったわけだが)、展示台にひっくり返して展示をする、という一連のこまやかな展覧会での決まりごとを経て、さらにそれについて美術雑誌で評論を掲載する、というところまでを全部含めて「作品」が「作品」として美術史における歴史的大事件として位置づけられた。
 ホワイト・キューブという環境、あるいは「展覧会」という枠組みそのものは、「作品」を「作品」たらしめる一種の舞台装置である。この舞台装置で「作品」を「作品」として、よりわかりやすくする小道具がいくつかある。ここで本連載の初めに登場した「逆パルメザンチーズ」に再登場してもらい、作品の展示を構成していた小道具とその役割をいま一度整理してみよう。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」

 まず「周り全部白いバック」が舞台となるホワイト・キューブ空間とすると、「白い台」と「ケース」がそれぞれ小道具の筆頭となる展示台と展示ケースになる。平面作品ならば、額も同じ部類の小道具と言える。これらは作品を保護すると同時に、壁や床に作品を展示することを可能にし、展示室内での作品の位置を明確に示してくれる。もっとも現代美術の場合は、額装されていない平面作品も多いし、展示台を使わないで床に直接配置するような立体作品も多い。次に「周りになんか紐みたいなの張って」いるのが「結界」と呼ばれるもので、ワイヤー状のものや金属製のバーなどがある。これも作品を保護したり、逆に作品によって観客がけがをしたり服を汚さないようにするなど観客を保護する役割がある。そしてこれらの小道具のなかでその最たるものが「四角い紙みたいなのに」あれこれ書いてあるキャプションだ。キャプションというのは、通常、白い四角いパネルなどに黒字で印字してあるもので、作家名、作品タイトル、制作年、素材・技法などを明記して作品のそばに掲示されている。ときには簡単な作品解説などのウォールテキストが別途添えられていることもある。屋外の展示の場合でも、立て看板のようになっているものや、長期的な展示の場合は、金属製のプレートなどで作られて台座などにしっかりと設置されているものもある。

キャプションをつける

「キャプション」という用語は知らなくても、ここまでの説明で「あぁ、あれね」と思い当たる人も多いだろう。あんな小さな四角い紙切れみたいなものが、そんな大事な小道具なのかと思う方もいるかもしれない。だが、おそらくいまこの文章をお読みになっているあなたも、作品だけを観て、キャプションにあるタイトルや作家名を確認せずに展示室を後にすることは少ないのではないだろうか。例えばルーヴル美術館で『モナ・リザ』の絵を観て、そこに「モナ・リザ」という作品名と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という作家名を記したキャプションを見て、「あぁ、いま、自分はあの『モナ・リザ』を観ているのだ」と確認する人は案外多いのではないだろうか。あるいは、近年日本でも人気が高まっているフェルメールの展覧会に行くと、そもそも現存する作品が30数点という寡作で知られるフェルメールの作品は、大抵フェルメール以外の画家の作品と一緒に展示されている。そこで人だかりができるのは、やはりフェルメールの作品だ。人々はキャプションをチェックして、似たような作風の同時代の他の画家の作品には目もくれず、「フェルメール」と記されたキャプションを確認して熱心にそのキャプションが示す作品に見入る。作家名をキャプションで認識するという行為、またそれが自分の知っている作家なのかどうかを確認する行為は、現代美術作品の場合でもよく見られる光景だ。いわば、私たちはキャプションとセットで作品を鑑賞している。こうした作家名や作品名など、作品にまつわる情報を一枚のキャプションの形で整えて展示室に作品と一緒に掲示するのは、キュレーターである。このキャプションは、作品を鑑賞するうえで多くの人がその解釈の手がかりにするものであり、作品が作品として展覧会のなかで位置づけられるプロセスを目に見える形で示す。このキャプションのなかに記されている一つひとつの要素をここで見ていきたい。

キャプションを構成する要素

 まずは作家名だが、通常は、作家名に加えて出身地や活動拠点、並びに生没年を添えることも多い。この情報だけで、その作家を知っているかどうか、ということだけでなく、その作品はどういった場所で活動した(あるいは活動している)作家の手によるものなのかがわかる。また制作年を見ながら、その作家が何歳ぐらいのときに作られたものなのか、どういった時代背景の際に作られたものなのか、といったことが明らかになる。
 そしてキャプションに記載された情報のなかでも、その作品を解釈するうえで最大の手がかりになるのが作品タイトルだ。作品タイトルをつける行為自体は作家によるものだが、キャプションにそれが示されることで、観客は目の前の作品とキャプションを見比べながら、それが何を表そうとしているのかをあれこれ想像することができる。作品の実物を先に見て、次にキャプションのタイトルを見てから、再びその作品の内容について考える人も多いだろう。

作品タイトルいろいろ

 作品とタイトルの関係については、古典的な例としては、ベルギーのシュルレアリスト画家、ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』(1928―29年)を思い起こす人もいるだろう。喫煙具のパイプの絵の下に「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプではない)」とフランス語の文章が添えてある一枚の油彩画である。絵柄としては「パイプ」だが、「イメージの裏切り」というタイトルが示すとおり、それはパイプではなく、一枚の絵にすぎない。マグリットのこの作品については、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが著書『これはパイプではない』(1973年)で言葉と物の関係について主題的に論じているので、ここでは割愛したい。だが、作品の主題を読み解くうえで、言葉と物の関係は切っても切れないこと、また作品タイトルは実に多くのことを示唆することが、マグリットのこの一枚の絵からも想像できるだろう。
 現代美術作家たちも、作品に実にさまざまなタイトルをつけている。例えば、1970年に大阪万国博覧会のペプシ館を水を使った人工の霧で覆った『霧の彫刻』で有名な中谷芙二子は、これまで手がけた霧の作品タイトルに必ず「国際地点番号」と呼ばれる5桁のアラビア数字を付している。これは、世界各国にある観測所に一つずつ割り当てられた番号で、各地点で観測された気象情報は、この番号とともに各国気象機関の世界的なネットワークで共有される。例えば、インド洋に浮かぶ大小1, 200ものサンゴ礁の島々からなるモルディブ共和国の首都マレの国際地点番号は43555である。同地の国立美術館に隣接する緑豊かな公園に出現した作品は、『霧の彫刻#43555「モルディブの雲樹」』と命名された。霧は、風や人の流れ、温湿度、光などによってその表情を刻々と変化させる。筆者が2012年にモルディブで企画した展覧会では、中谷は現地の気象台を訪れ、年間を通したマレの温湿度、風向や風速などの精密なデータを調べた。そして年間平均気温が30度前後という気象条件で、霧を見ることがないモルディブで人工の霧を出現させた(1)。あるいは、08年の横浜トリエンナーレの際に横浜市内にある有名な日本庭園である三渓園で発表された作品は、その外苑のいちばん奥にある人工の滝がある場所に設置され、『「雨月物語―懸崖の滝」 Fogfalls #47670』と題された。自然の物語を語る風の化身として、変幻自在に舞う霧を「雨月物語」になぞらえ、最後に横浜の国際地点番号が付されている(2)。中谷の霧は、芸術であると同時に科学的な眼差しに貫かれていて、それはそのタイトルにも色濃く反映されている。
 一方で1950年代半ばから70年代初頭にかけて関西を中心に活動した前衛美術グループ、具体美術家協会(通称「具体」)の作家たちの作品タイトルには、「無題」や「作品」などほぼタイトルらしいタイトルがつけられていないケースが多い。これは文学的な題名を嫌ったリーダーである吉原治良の意向によるものということだが(3)、具体のメンバーたちの作品タイトルは、押し並べて「作品」「無題」といったものが多い。例えば、具体の主要メンバーの一人、田中敦子は、エナメル塗料でカラフルな円と曲線で構成された絵画を数多く制作したが、そのほとんどが「無題」か「作品」だけ、あるいは「作品 66-SA」「WORK 1964」など、「作品」や「WORK(英語で「作品」、の意)」という言葉の後に制作年を表す数字やアルファベットを付しただけのタイトルにとどまっている。その昔、田中敦子の個展(4)の展覧会カタログの編集のお手伝いをしたことがあったが、とにかく作品を同定するのが大変で、作品画像とサイズ、制作年を必死に照らし合わせる羽目になった。キャプションも「作品」というタイトルと制作年だけ、素材もほぼ同じであるため、間違わないようにつける必要があるが、キャプションがついたところで、観客にとっては、「無題」や「作品」のほかは制作年が異なるぐらいなので、ただひたすらに目の前の絵画に向き合うしかない。既成の絵画や彫刻の概念を解体しようとした具体の意図に鑑みれば、作品につきもののキャプションにタイトルを付さず、ただそこに表現された作品をなんの先入観も与えずに観客に提示するというのは、誠に理にかなってはいるものの、私たちがいかに普段、タイトルを手がかりに作品を鑑賞しているかをあらためて認識させられる。
 このようにタイトルがつけられていないキャプションというのは、鑑賞者にとってはなかなか手強い相手だが、これとは真逆で、岡崎乾二郎は、一編の詩のように長いタイトルをつけることで知られる。岡崎の絵画作品のなかに、2枚1組になっているアクリル絵の具で描いた抽象画のシリーズがあるが、同じ大きさのカンヴァスの左と右でそれぞれタイトルがついている。例えばセゾン現代美術館所蔵の2001年に制作された作品は、左が「平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける」、右が「それを辿れば間違いなく家に戻れる一つしかない煉瓦敷きの道をゆっくり歩いていれば、どっと笑いがとまらない。やがて死ぬ景色は見えず蝉の声。陽の光をさんさん受けた気楽な世界のただ中で影に包まれ、爪先だって歩いている。自分が茄子であるのか南瓜であるのか分らなくてもよい。一生のうちに一回きっと蝶は飛んでくる(5)」という具合である。描かれた絵画自体は、色とりどりの絵具をコテのような形状のペインティングナイフで画面にのせて押し広げたり、絵具の盛り上がりをナイフで丁寧に造形したりした痕跡がわかるようなリズミカルな画面となっている。左と右とで見比べると、同じようなパターンが色の組み合わせや大きさなどを変えたりしながら、左右の同じ位置や、異なる位置にそれぞれ配された画面構成となっている。タイトルのほうは、左と右の文字数は合わせてあるが、それぞれの文章は関連があるようで、ないようで、一つの物語と、もう一つ別のありえたかもしれない物語のように左右のタイトルの関係性について考えさせられる。二枚一組の絵と、左右で対になっているタイトルの文章を鑑賞者は見比べながら、しばし反芻する。岡崎の絵とタイトルは、このように同じような重きを持って鑑賞され、キャプションと言えど、それは単なるタイトルを示す小道具の域を超え、もはや作品の一部となっている。
 と、少々脱線したが、作品タイトルにかける(あるいはあえてそれを意識させないようにする)作家たちのこだわりは、それだけタイトルが作品で非常に重要な役割をもっていることを端的に示している。もっとも、現代美術の場合、展覧会に向けて新作を発表する作家も多く、オープンギリギリまでタイトルが決まらなくて、キュレーターは冷や冷やさせられることもしょっちゅうだ。また作家のほうも、やっと決まったタイトルを時間がたつと忘れてしまったり、あとから変更してしまうことも少なくない。と、なんとも悩ましいものではあるが、作品にとってタイトルは不可欠な存在であり、そんなタイトルも、キャプションがなければ、観客はその作品がどういうタイトルなのか、誰による作品なのか、皆目見当がつかない。つまり、展示室で、ただ作品が置かれるのではなく、キャプションにそのタイトルと作家名が示されることで、「作品」が「作品」として位置づけられることは間違いないだろう。狭い会場であれば、ときに壁にはキャプションをつけずに、会場マップを別途用意してそこにタイトルがまとめて付されていることも珍しくない。ただいずれにせよ、私たちは、普段、タイトルや作家名を見ることなく作品のみを見る、ということはしない。
 ちなみに先に紹介したセーガルの場合は、実は、展示室内にキャプションをつけること自体を許さない。さらに作品を写真や動画で記録することもご法度であることで知られている。これは、キャプションを軽視しているのではなく、展覧会や美術館という枠組みのなかで「作品」を展示する際にいかにキャプションというものが作品を作品らしく見せているか、また、そうした枠組みのなかで作品を展示するという行為そのものに対する痛烈なインスティチューショナル・クリティークとなっている。

 さて、ここまでは「展覧会に一体何をどう展示するのか」ということについて、キャプションなどに象徴される作品展示にまつわる物理的な設えを中心として見てきた。だが、「作品」を「作品」として位置づけるうえでさらに大切なキュレーターの仕事がある。それは、その「作品」を美術の文脈のなかに位置づける、という論理的な設えだ。逆パルメザンチーズのエピソードで言えば、最後の部分、「「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明」を書く、という部分である。つまり、作品に関するテキストを書く、作品について論じるということである。テキストというとカタログを思い浮かべる人もいると思うが、カタログそのものについては、また追ってのちほど少し考える機会をもちたい。ここでは展覧会のためにある作品を選んで、それについて説明する、テキストを書くということについて次回考えてみよう。


(1)難波祐子「呼吸する環礁(アトール)――連なりの美学」、国際交流基金『呼吸する環礁(アトール)――モルディブ 日本現代美術展』所収、国際交流基金、2012年、59ページ
(2)『横浜トリエンナーレ2008カタログ――time crevasse』横浜トリエンナーレ組織委員会、2008年、197ページ
(3)加藤瑞穂氏へのメールによるインタビュー、2019年11月6日
(4)「田中敦子――アート・オブ・コネクティング」(2011―12年)、アイコンギャラリー(イギリス)、カステジョン現代美術センター(スペイン)、東京都現代美術館を巡回。
(5)岡崎の作品画像とタイトルは以下の記事を参照のこと。影山幸一「デジタルアーカイブを開始した美術家「岡崎乾二郎」」「artscape」(http://www.dnp.co.jp/artscape/artreport/it/k_0602.html

 

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ギモン2:展示の順番と見る順番は違うの?(第2回)

第2回 時間軸がある作品の展示

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 近年、現代美術の展覧会で、映像作品が占める割合が著しく増えている。これは映像を撮影するための機材や編集するためのコンピューターのソフトウエアなどの開発が1990年代以降、飛躍的に発展し、廉価でコンパクトで性能がいいものが急速に大量に出回るようになったことが大きい。展示の方法も、シンプルに壁にプロジェクターで投影したり、モニターで見せるほか、コンピューターのプログラムを介して複数の映像を同期させたり、空間全体を作り込むようなインスタレーションの形で見せるものも多い。このほか、音を使ったサウンド・インスタレーションやパフォーマンス、また光や音、映像、インスタレーションなどを総合的に組み合わせてコンピューターでプログラミングし、演劇のように見せるメディアアートなど、特定の時間軸をもつ作品の展示が、旧来の劇場やコンサートホール、映画館といったスペースだけでなく、美術の展覧会の枠組みのなかにも入り込んで盛んにおこなわれている。こうした時間軸をもつ作品が展覧会で展示されているとき、あなたは普段どのように鑑賞しているだろうか。先に考察した順路については、キュレーターの設定した順路に沿って見たり、逆に自分の好きな順路とペースで見ることが可能である。だが映像作品やパフォーマンス作品のなかには、起承転結がはっきりしていたり、始めから終わりまでの流れと長さが決まっているものも多く、そうなると途端に自分の見るペースが乱される。美術館で展示される映像作品の大半は、数分程度と短めに編集されていることが多いものの、上映時間のスタートが決まっているもの、あるいは長篇の映像の場合だと、どうしても作品の途中で展示をのぞくことになってしまう。展覧会の規模にもよるが、通常は、美術館で一本の展覧会を鑑賞する場合、1時間、あるいは長くてもせいぜい2時間程度で見終わることが一般的である。だが、近年の映像作品の増加によって、すべての映像作品を始めから終わりまできちんと見ようとすると、4時間近くかかってしまう展覧会も少なくない。こうなってくると、よっぽど覚悟を決めてかからないと、全部を消化するのは不可能になってしまう。その場合、何らかの取捨選択をしながら一本の展覧会を見ることになるが、その際にあなたにとっては何が決め手になるだろうか。

音楽を「設置」する展覧会

 ここで2017年の春にワタリウム美術館(東京)で開催された「Ryuichi Sakamoto async 坂本龍一設置音楽展(4)」(以下、「設置音楽展」と略記)を具体例として少し丁寧に見ていきながら、キュレーターがデザインする時間、作品がもつ時間、ならびに鑑賞者の体験する時間の関係について考えてみよう。「設置音楽展」は、17年にリリースされた坂本龍一のアルバム『async』を「立体的に聴かせる(5)」ことを意図した展覧会だった。展示は3フロアに分かれていて、2階からスタートして3階、4階と上がっていき、最後に地下1階のショップでアナログ盤の同アルバムなどを視聴できるような構成になっていた。
 2階の入ってすぐの部屋には、展示ケースのなかに坂本がアルバムを制作する際に着想のもとになった書籍や写真、メモ、譜面などが導入的に展示され、奥に進むと『async』の楽曲が5.1chの高性能スピーカー6台で流れる部屋へと続き、そこで四方から音に囲まれる。壁には、縦型に配置された8台のフラットなモニターに高谷史郎による映像がリアルタイムで生成される。3階にはアルバムの制作のために坂本が過ごしたニューヨークのスタジオとその周辺などを撮影した映像と音風景を、24台の iPhone と iPad でスケッチのように見せるニューヨーク在住のアーティスト・ユニット Zakkubalan によるインスタレーション、4階にはタイ人アーティスト・映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンが同アルバムから着想を得て制作した映像作品が展示された。

「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.

 このように「設置音楽展」は、3フロアを通して、坂本とさまざまなアーティストとのコラボレーションによって『async』という一枚のアルバムがもつ世界観を多角的に展示する展覧会だった。だが、私はこの展覧会をかなりの時間をかけて見終わった後、なんとも言えない違和感を覚えて会場を後にした。その違和感について、展覧会が終わった後も事あるごとに何が原因なのかを考えることが多かった。その後、2018年の秋にソウルで坂本のデビューから現在までの40年にわたるさまざまな活動を音楽、映像、インスタレーションなどを通して振り返るような個展(6)を見る機会があった。同展では、映画音楽に始まり、1980年代のナムジュン・パイクとの実験的なビデオ作品や長年活動をともにしているミュージシャンのアルヴァ・ノトとのライブ映像、高谷史郎とのインスタレーション作品のほか、「設置音楽展」とはまた少し異なる形で『async』に関する展示もあるなど、盛りだくさんな内容だった。そこで3時間近くを過ごしたあげく、閉館時間になってしまいあえなく会場を出たが、久々に「時間」を忘れて一つの展覧会を堪能するという体験をした。そしてこの展覧会では「時間」が幾重にもなって大切な要素になっていると実感した。同時に改めて「設置音楽展」のことを思い出し、そこで覚えた違和感の背後に展示を取り巻く「時間」の問題が潜んでいるのではないか、とようやく思い当たった。特に「設置音楽展」のなかでも2階の展示は、アルバムの音楽を立体的に展示する、という同展覧会の中核をなす展示であるとともに、最も違和感を覚えた展示でもあった。どうやらこの展示に向き合うことが、特定の時間軸をもつ作品とその鑑賞体験の関係について、いくつか思考するためのヒントを与えてくれそうだ。そこでここでは、「設置音楽展」のなかでも、この2階のインスタレーションについてもう少し掘り下げながら読み解いていき、展示を取り巻く「時間」の問題を改めて考えてみたい。
 通常の映像インスタレーションやサウンド・インスタレーションでは、「出入り自由」であることが多く、「設置音楽展」でも3階と4階の展示については、各展示室を観客が比較的自由に自分のペースで見て回る姿がよく見られた。だが、2階のインスタレーションについては、整った音環境のなかで「一枚のアルバムを聴く」という行為が組み込まれていたがために、そこにいた観客のほとんどは、一度展示室に足を踏み入れると、退出することなく、かなり長い時間、音楽そのものを聴きながら高谷の映像を見ていた。高谷の映像は、坂本のニューヨークのスタジオにあるピアノや書籍、譜面、マレット(打楽器用の枹/バチ)、指揮棒、裏庭の植木鉢などさまざまな事物を撮影したものをベースに構成されている。モニターに映し出される映像は、右側あるいは左側のモニターから一定方向に徐々に時間差で変化していき、8台で一つの風景を作り出す(7)。無数の細い横線からなる画面は、左側からあるいは右側からゆっくりとスキャンするように1ピクセルずつ実写した動画へと変換されていく。動画は徐々に隣のモニターへとスライドしていくように流れ、動画の部分が終わると、その端から1ピクセルずつ順に画面上に固定されていき、静止画となる。こうして線の映像は動画へ、動画は静止画へと変換され、一つのイメージが織物を織るように生成されていく。8面の静止画のイメージができあがると今度は逆に、静止画のイメージが1ピクセルずつ引き伸ばされて、時間の経過とともにその痕跡が無数の横線になって堆積していく。こうして8面のイメージは徐々に分解され、最後には幾重にも積み重なった横線が再びすべての画面を覆う。そしてまたこれらの線が少しずつ変換され、新しいイメージが立ち現れていく。高谷の映像は、アルバムの音と同期しているわけではないが、刻一刻と表情を変え、アルバムの音が作り出す時間軸に並行して、潮の満ち干のように展示室に流れるもう一つの時間軸を視覚的に鑑賞者に強く印象づける。

「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.
「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.

 展示室内に「設置」された「音楽」を体感するという行為は、最初から最後までの時間を演者側がコントロールし、大勢の人が一斉に鑑賞するライブや映画、舞台とは何が異なるのだろうか。ここで、通常の音楽アルバムを聴く行為と、展示空間でインスタレーションという形で『async』というアルバムを鑑賞する行為について比較しながら少し考えてみよう。

音楽アルバムを聴くという行為

 レコードの登場は音楽の鑑賞体験に大きな革命を起こしたが、1970年代に普及したカセットテープはさらなる変化をもたらした。カセットテープは、ラジオやレコードの音楽を聴き手が自ら編集・録音することを可能にした。さらにコンパクトなカセットテープは、カーオーディオにも組み込みやすく、車で移動しながら自分の好みの音楽を聴くことを可能にした。またカセットテープのポータブルな再生機として開発された79年のソニーのウォークマンの登場は、音楽を文字どおり持ち歩くことを可能にした。現在では録音される媒体は、レコードやカセットテープからCDへと変わり、さらにネットから配信されたり、ダウンロードした音楽を iPhone などのスマホで聴くことが一般的になっている。
 カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドは、1966年に発表した「レコーディングの将来」という評論で、録音音楽による演奏音楽家の役割の変化、編集技術者や作曲者、聴き手への影響などについて鋭く洞察している。なかでも、従来の「受動的な分析者」ではない編集意識をもった新しい聴き手の可能性を次のように予見している。「かれは協力者であり、将来といわず現在すでにかれの趣味、嗜好、傾向は、かれが注意を寄せる音楽経験の周辺部分を変えている。音楽芸術の未来は、かれのさらなる参加を期待している(8)」
 通常、一枚のアルバムを聴くという行為は、音楽ホールなどである特定の日時に生演奏を聴く行為と異なり、すでに録音された音楽を再生して聴く。したがってアルバムそのものは、作り手によってその一枚にバランスよく収まるように編まれているものの、その聴き方は、グールドが予見したとおり、聴き手の自由にかなり任されている。自分の好きなようにスキップさせたり順序を入れ替えたり、途中で止めたり、同じ曲を繰り返し聴くことも可能である。またアルバムを聴くシチュエーションも、スマホで通勤・通学時に聴いたり、自室で何か作業をしながら流したり、車を運転しながら聴いたり、と自分の好きなところ、好きなときに好きなペースで聴くことができる。そういった意味では、「演奏会」や「展覧会」という時空間でしか成立しない作品鑑賞のあり方と比べて、比較的自由な鑑賞を可能にする。
 もともと『async』のアルバムは、一般的なコンサートやライブなどステージ上で再現するのが難しいタイプの楽曲で構成されていて、録音されたアルバムの形で鑑賞することを前提として坂本が作り込んだものだ。そういう意味では、このアルバムは本来、アルバムとして通常の音楽アルバムと同様に鑑賞することが期待されている。だが同時に、このアルバムについて坂本は、次のような重要な発言をしている。それは、このアルバムをもともと「音を空間に配置するつもりで作った(9)」ということである。つまり、このアルバムは、アルバムという形を取りながらも、展示を前提とした音楽として考えられていたのだ。そして「設置音楽展」は、そのアルバムを「良質な環境で音楽に向き合ってもらえたら(10)」という坂本自身の思いからスタートし、自らが展示ディレクションを手がけた展覧会だった。

展示室に設置されたアルバムを鑑賞する行為

「async」というのは、そもそも「同期しない」「非同期」という意味である。これは普段、演奏や鑑賞において同期を前提としている音楽というメディアの本質を根本から問い直すような試みである。収録している楽曲も、いわゆるメロディーを追って聴くような楽曲だけでなく、坂本自身がさまざまな音を収集し、それらを配置・編集した楽曲で構成されている。林のなかを枯れ葉や小枝を踏みながら歩く足音、三味線の擦れる音、6月の裏庭の雨音、ピアノの弦をはじいたりこすったりする音など、それぞれの音が固有のテンポをもちながら、複層的な時間が流れる音楽となって「架空のタルコフスキー映画のサウンドトラック(11)」というコンセプトのもと、一枚のアルバムに編まれている。
 実際に展示室で流す際には、市販されている『async』のアルバムよりも少し長めに編集した音源が展覧会のために用意された。具体的には、収録曲のうちの一つをオリジナルの5分9秒の長さから6分5秒とわずかながら長めに編集し、また通常のアルバムには収録されていない曲をボーナストラックとして一曲加えて構成した。これは、「出入り自由」なインスタレーションの形で聴かせる展示を意識しながらも、アルバムを立体的に鑑賞させるという目的に軸が置かれていたため、「アルバムからあまり大きく離れないように少し長くする(12)」ことを基本とした結果であるという。最終的な全体の長さについては、坂本自身が現場で聴き比べながら判断して決めた。高谷の映像は、物語性を排除し、坂本の音とあえて同期しないことで、その世界観と展示空間で流れる時間を可視化する『async』のアルバムと不可分なインスタレーションになっていた。
 結果的に、この展示は、一見「出入り自由」な映像インスタレーションの体裁を取りながらも、実際には、ライブを鑑賞するように作品の時間軸に沿ってじっとその場で鑑賞する観客を多く生み出すことになった。これは、この展示が、一般的なアルバムの観賞よりもライブ体験に近いことを物語っている。同時にステージ上で再現することが難しい音楽アルバムを個人による鑑賞やライブ会場での鑑賞とは異なる手法で「立体的に聴かせる」には、展示室でのインスタレーション/設置の形が最良の手段だったと言えるだろう。そういった意味では、同展は、通常の一枚のアルバムを聴くという行為と、映像インスタレーションを鑑賞する行為、さらにはライブ鑑賞をする行為のちょうど中間に位置するような展示であり、一つのライブ・パフォーマンス的なインスタレーション作品として提示されていた。言い換えれば、今回の「設置音楽展」の2階のインスタレーションは、単なる音楽アルバムの鑑賞ではなく、「async」というアルバムタイトルが象徴するように、多様な時間の層が交錯する鑑賞のあり方の可能性を開く先駆的・過渡的な試みだったと言える。私が初めにこの展示に対して抱いた違和感は、一つの展覧会のなかに幾重にも絡まり合った時間が同期することなく提示されている、といういままで経験したことがない鑑賞体験に戸惑ってしまったことに起因しているのかもしれない。
 一枚の音楽アルバムを音楽と映像によるインスタレーションとして展示室に展開する手法は、音楽を「設置」するという行為が単に展示室の空間に物理的に作品を配置するだけでなく、展示室に流れる時間も配置していることを浮き彫りにする。展覧会、展示のための音楽のあり方は、コンサートやアルバムとは異なる非同期性を内包する音楽の新しい鑑賞の可能性を開く。一方で、展示室で音楽や映像作品を鑑賞するという行為は、スマホで音楽や動画を視聴するように、好きな順序で、好きなタイミングや場所で鑑賞する行為と異なり、あくまでも展覧会の時空間でしか成立しない作品鑑賞のあり方について改めて問いを投げかける。ここで、時間軸をもつ作品の鑑賞について、さらに考えを深めるためにもう一つパフォーマンスを「展示」した事例を見てみたい。

パフォーマンスを展示する

 2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ(13)で金獅子賞を受賞したリトアニア館の「Sun & Sea(Marine)」は、会期中の週2日だけ終日開催される新しい形の「オペラ・パフォーマンス(14)」だった。ビエンナーレ主会場の一つであるアルセナーレ(旧造船所)から少し離れた一角にある倉庫に、2階に上がる階段と上階部分をぐるりと取り囲むバルコニーが設えられている。2階に上がって薄暗いバルコニーから見下ろすと、1階部分がまるで一枚の巨大な絵画のように見える。そこでは明るく照らし出された人工のビーチが広がり、思い思いにくつろぐ水着姿の人々が目に入る。砂浜の上にタオルを広げて寝転がっている人たち、寝椅子に横たわって本を読む人、犬を連れて散歩をする人、ビーチテニスで遊ぶ子どもたち。そのうち一人の女性が寝転がったまま、おもむろに日焼け止めを手に取って、そのラベルを読み上げながらソプラノで歌い始める。やがて彼女のアリアにビーチにいる人たちが声を合わせて歌いだす。しばらくすると今度は別の男性が日々の仕事で過労ぎみだと歌い、周りがハミングしてハーモニーを奏でる。こうして約20人の歌い手が穏やかにゆっくりとしたリズムで順に歌い始め、それにコーラスが加わっていく。歌詞の一つひとつは、仕事や休暇の話、日焼けやビーチに捨てられたゴミなど、他愛のない個人の日常を取り上げたものから始まる。やがて彼らが抱えている現代生活のさまざまな歪みや不安を描き出し、さらには環境破壊や地球温暖化など、地球が滅びゆく最後の日がささやかな日常から静かに忍び寄っていること、そしてそのことに対して、ビーチに横たわる人々のように緩慢な態度であり続ける私たち自身の姿を示唆していることがわかる。
 パフォーマンスは約1時間でひとめぐりするが、特に終わりと始まりが明確にされているわけではなく、観客は自分の好きなタイミングでその場を後にすることができる。リトアニア館の試みは、上演時間が定められた既存のオペラとは異なる、展覧会の形で見せることを全面的に意識した、生きた絵画を見せるような作品として提示されていた。「設置音楽展」の『async』が、展示と音楽アルバムというそれぞれ異なる鑑賞形態に開かれた多面的な性格(15)を有していたのに対し、リトアニア館の「Sun & Sea」は、定められた時空間を有する展覧会の形でしか成立することができないタイプのパフォーマンス作品だったとも言える。

展示の時空間を主体的に鑑賞する

 これまで見てきたように、展覧会を鑑賞する行為は、展覧会がもつ物理的な空間と時間の両方を一人ひとりが鑑賞する行為であると言える。展示の順番や設えというキュレーターがデザインする展覧会の時空間、見る順番とペースという鑑賞者がデザインする展覧会の時空間、そして作品そのものが作り出す展覧会の時空間が交錯するなか、ストーリーやロジックを道筋の手がかりとしながら、どう歩くかは鑑賞者に開かれ、その主体性に委ねられている。つまり展覧会では、空間的な問題だけでなく、展覧会を体験する時間についても主体的な鑑賞が求められる。
 ただし、作品そのものがもつ時間軸を鑑賞者が経験することが必須のタイプの作品の場合、主体的な鑑賞者を招き入れながらも、作品がもつ時間に鑑賞者はある程度取り込まれ、その現象を包括的に直接肌で感じながら、自らのなかにリアルタイムで流れる時間や自身の過去のさまざまな体験や記憶などと照らし合わせて結び付けながら作品を体感することになる。絵画作品や彫刻作品の場合も、それらを作り出すために作家が費やした時間、さらにはその作家が生きていた/いる時代性などの歴史的時間が織り成されていて、ときにそれは絵筆の跡やのみの跡、あるいは主題とするモチーフなどから感じることもある。しかし、音や映像、パフォーマンスなどを用いた作品は、よりそのものがもつ時間軸が鮮明になり、鑑賞者の鑑賞体験の時間にダイレクトにリアルタイムで作用していく。ただし、コンサートホールや映画館での鑑賞と異なり、展覧会での展示はあくまで「出入り自由」なので、どの程度その作品がもつ時間のなかに自分の時間を重ねていくかは、あくまでも観客の手に委ねられている。
 一方で、時間軸をもつ作品の展示は、そういった作品を制作する作家やそれを展示するキュレーターの側にとっても、順路や時系列に従わない展示のあり方について再考を促す。そこではストーリーの組み立て方も起承転結型ではなく、オープンエンドな作品や展示のロジックも選択肢の一つに加えながら、展示の時空間をデザインしていくことが必要とされるだろう。
 このことは、展覧会という枠組みのなかで、個々の作品が成立するプロセスや、展覧会の時空間や体験をデザインする担い手について、作家、キュレーター、鑑賞者のあり方を改めて私たちに考えさせる。展覧会は、単に作品を「見る」空間を提供するだけではなく、体全体を使って感じ、思考し、作品と接する特定の時間を過ごす場なのだ。また作品は、いったん作家の手元で完成すると、作家の手から離れる。だが作品は、展覧会という時空間のなかにある文脈をもって設置され、鑑賞者が展示室に入ることで、個々の鑑賞者の鑑賞体験となって共有、解釈されていく。
 近年、現代美術の展覧会で映像作品と並んで増加している参加型・体感型の展示や、展覧会の枠組みのなかで実施されるパフォーマンス作品の展示は、作家、キュレーター、鑑賞者といったそれぞれがもつ異なる時空間の交錯の仕方、ならびにグールドが言う「新しい聴き手」としての主体的な鑑賞者のあり方が作品の成立に大きく関わっていることを示唆している。次のギモンでは、こうした作品が作品として展覧会のなかで成立する仕組みについて考えていこう。


(4)「Ryuichi Sakamoto async 坂本龍一設置音楽展」ワタリウム美術館、2017年4月4日-5月28日
(5)坂本龍一氏メール談。2019年6月2日
(6)「LIFE, LIFE: RYUICHI SAKAMOTO EXHIBITION」piknic(韓国・ソウル)、2018年5月26日-10月14日
(7)以下の映像の描写については、高谷史郎氏によるメールと電話での解説に基づく。2019年6月30日(メール)、8月24日(メール、電話)
(8)グレン・グールド「レコーディングの将来」、ティム・ペイジ編『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』野水瑞穂訳、みすず書房、1990年、162ページ
(9)NHK BSプレミアム『坂本龍一 ライブ・イン・ニューヨーク“アシンク”』(2018年3月11日放送)での坂本のコメント。
(10)ワタリウム美術館「坂本龍一 async 設置音楽展」展覧会概要(http://www.watarium.co.jp/exhibition/1704sakamoto/index.html)[2019年7月27日アクセス]
(11)『async』ライナーノーツ。アンドレイ・タルコフスキー(1932-86)は、ソ連の映画監督。
(12)坂本氏メール談。2019年6月2日
(13)第58回ヴェネチア・ビエンナーレ、2019年5月11日-11月24日。リトアニア館展示は2019年5月11日-10月31日。
(14)リトアニア館チラシ
(15)『async』は、その多面性を象徴するように展示とアルバムのほか、ニューヨークで2日間限定のライヴとして実施され、またそれが映画にもなっている。ライヴ:Ryuichi Sakamoto – async Live at Park Avenue Armory/Artists Studio、2017年4月25日、26日(各回100人限定)高谷史郎と共演。映画:『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async』(原題RYUICHI SAKAMOTO: async AT THE PARK AVENUE ARMORY)、アメリカ・日本、監督:スティーブン・ノムラ・シブル、2017年

 

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ギモン2 展示の順番と見る順番は違うの?(第1回)

第1回 展示を取り巻く「時間」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「ギモン1」では、作品と出逢う場としての美術館や展覧会という枠組みについて、その歴史的な背景も踏まえながら、特にホワイト・キューブという物理的な空間がもたらすコンテクストに着目しながらざっくりと考えてみた。今回の「ギモン2」では、展示を取り巻く「空間」から「時間」の問題へと視点を移して、一本の展覧会が作り出す時間の流れについて考えてみたい。
 さて、展示の「空間」についてはある程度イメージが湧くものの、展示の「時間」と言われると、すぐにはピンとこない方もいるかもしれない。そこで、本題に入る前に、展覧会というシチュエーションでの時間の流れについて少し頭の準備体操をしてみよう。展覧会で個々の作品を鑑賞するために費やす時間や、美術館などの展覧会場での時間の過ごし方は、例えば映画館で映画を一本見たり、コンサートやライブで音楽を聴くときの時間の流れと何が同じで何が違うだろうか。またテレビで録画しておいた番組を見たり、スマートフォンで「YouTube」などにアップされた動画を見たり、ネット配信された音楽を聴く行為と比べるとどうだろうか。何が展覧会特有の時間の流れを形成しているのだろうか。ここでは、まずは展覧会の順路の話を手がかりに展示を取り巻く「時間」にまつわるギモンを解きほぐしていき、その後、映像や音楽、パフォーマンスなど特定の時間軸をもつことを特徴とした作品の鑑賞について具体的な例をいくつか挙げながら見ていきたい。

展覧会場の順路はなぜ必要なのか

 では、まず手始めに展覧会に出かけるときのことを思い起こしてみたい。あなたは、展覧会場に着いたら、普段どのような手順で展覧会を見て回っているだろうか。会場入り口などで入手できる会場マップや作品リスト、あるいはオーディオ・ガイドなどは活用しているだろうか。それとも、そういうものは煩わしいので、何も持たずに自由に見て回る派だろうか。逆にガイドツアーなどに積極的に参加して、解説を聞きながら展示室を回る派だろうか。また展覧会場にいったん足を踏み入れたら、基本的には引き返したり人の流れには逆らわず、とにかく最後まで順に展示を見て進むことのほうが多いだろうか。
 マップやガイドなどを使わず一人で勝手気ままに展覧会を見たとしても、大半の人は特に不便を感じることなく入り口から出口へとたどり着くが、そのことに特に疑問を抱く人はいないだろう。だが、よくよく考えてみると、大抵の展覧会は入り口から左回り、あるいは右回りになるように作品を配置し、展示室から次の展示室へと一筆書きで順にめぐるかのように「設計/デザイン」されていることがわかる。まず入り口から最初の展示室に入る前、あるいは最初の展示室に入ってすぐのところなどに主催者による「ごあいさつ」パネルが大きく掲示され、展覧会の概要や関係者への謝辞などが述べられている。そして多くの場合、展覧会は章立てになっていて、各章のはじめには、その章がどういったものなのかを解説するウォール・テキストと呼ばれる説明書きがパネルやバナーなどで掲示されていて、そのテキストのすぐ隣から最初の作品を見るように自然に促される。場合によっては、このウォール・テキストには番号まで振ってあって、会場マップや作品リストと対応していることも多く、自分がいま、展覧会全体のうち、どの部分を見ているのかが把握できるようになっている。また通常は、部屋のなかの周り方を示したり、一つの部屋から別の部屋に移る際の方向を示すために、要所要所に「順路」と書かれた表示が矢印付きで掲示されていて、観客が迷わず順を追って展示を見ることができるように配慮されている。さらに出口には、「出口」という立て看板などが出ていることも多く、ご丁寧に「再入場できません」と注意書きが添えられていることも少なくない。もちろんそれでも迷ってしまう人には、監視の方々が優しく順路を示してくれる。こうした展覧会場の順路はそもそもなぜ必要なのだろうか。観客が好きな順番で展示を見ると何か不都合が生じるのだろうか。

順路は誰が決めるのか

 展覧会での作品展示の順序や順路、章立ての仕方を決めるのは、基本的にはキュレーターの仕事だ。同じ展示室でも、どのような順路にするかは展覧会ごとに変わる館も多く、入り口から出口までの各展示室の回り方は、右回りになることもあれば、左回りになることもある。また複数階に展示室が分かれる場合は、上の階から順に下りてくるようにすることもあれば、下から順に上の階へと上がっていくようにすることもある。章立ての仕方は、展覧会の性質によってさまざまである。例えば、一人の作家の回顧展であれば、時系列でその作家の初期の作品から晩年までを時代ごとに区切って展示することが多い。あるいは、グループ展の場合などは、何かしらのテーマ性をもたせて、テーマごとに章を設けて、同じテーマに沿った作品をまとめて展示したりする。いずれにせよ、通常は、展覧会を通して何らかのストーリーを語るように構成するのが、展示の鉄則である。また、このストーリーの流れを支えるロジックが順路と密接に関わってくる。実際には、会場の物理的な制約(壁の位置や床の対荷重、天井高、間口のサイズなど)や予算、安全面の規制、あるいはアーティスト自身のこだわりなど、さまざまな要因によって展示できる作品やその順序・順路の設定も左右される。したがってそのロジックが破綻しない程度に各方面と調整していくのがキュレーターの腕の見せどころでもある。展示空間での作品の物理的な配置の仕方や展示方法、展示構成、部屋の仕様、あるいは展示台や展示ケースといった什器の仕様については、前著『現代美術キュレーター・ハンドブック』(青弓社、2015年)に詳しいので、ここでは割愛したい。逆に今回のギモンでは、とかく作品の見え方、見せ方など、空間的・視覚的な構成やその効果に気を捉われがちな美術展のキュレーションで、キュレーターが設計する展示の順路が生み出す時間と作品自体がもつ時間、鑑賞者が展示室内で体験する時間、という3つの時間の関係に焦点を当てて考えてみたい。

開かれた美術館と主体的な鑑賞者の登場

 まるで宇宙船が舞い降りたような円形のガラス張りの白い建物で知られる金沢21世紀美術館は、「開かれた美術館(1)」をコンセプトに2004年にオープンした。妹島和世+西沢立衛/SANAAが設計した同美術館は、金沢市内の中心部に位置し、建物の構造的にも「開かれた」美術館であり、またプログラムなどのソフト面でも教育普及や市民交流を重視した「開かれた」美術館である。ここでは展示の順路について考えていくために、その構造面について少し詳しく見ていこう。美術館の建物は、ガラス張りの開放的な外観に加え、1階部分の出入り口が東西南北の計4カ所にあり、どこからでも自由に出入りできる。さらに特徴的なのが、展示室の配置の仕方である。一般的な美術館では、四角い空間を仕切るように展示室と展示室が壁を隔てて隣り合っている。これに対して金沢21世紀美術館の展示室は、可動壁を設けず、丸い枠組みのなかに大きさやプロポーションが異なる大小14の展示室が集落のように配されていて、独立した展示室の周りには、必ず廊下がある回遊型の構造になっている。各展示室には番号が振られているが、明確な順路は設けられていない。
 開館記念展の「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から(2)」(2004年)では、有料・無料ゾーン両方の館全体にわたって展示がなされ、その回遊性がより一層際立つ展示になっていた。それまで一つの展覧会の展示構成を考えるときに一つのストーリーを作るようにキュレーションしてきたという、同展キュレーターで館の立ち上げに関わった長谷川祐子は、開館記念展では「いくら(キュレーター/美術館側が)ルートを決めても(観客は)自分が好きなところに行ってしまえる」ため、「どんな組み合わせでもエリアごとに成立する(3)」という実験的な展示になったとコメントしている。さらにSANAAの建築のキーワードにもなっている「柔軟性(フレキシビリティ)」を、長谷川は次のように再解釈して語る。「空間と作品との間でぴったりとした対話が成立すれば、一つ一つの作品、それぞれの部屋の強い印象を作ることができる。あとは見る人に自分でルートを作ってもらう。見る人に任せてしまうフレキシビリティなので、任せられる人間も強い認識や選択、自分自身の判断を迫られる。相手に対していろんな潜在能力を要求するフレキシビリティなんです。この美術館は決してオープンで、綺麗で明るいだけでなく、反面アナーキーで、ある意味、人に対して鍛錬を強いる建物だと思います」。開館記念展では、体感型・参加型の作品が数多く展示されたほか、視覚にストレートに訴えかける作品もバランスよく配置され、美術の専門知識がなくとも、素直に楽しめる作品が圧倒的に多い印象だった。美術館の顔とも言えるレアンドロ・エルリッヒの恒久展示作品『スイミング・プール』は、上から覗き込むと、プールの水面の下に立つ人々の姿が見えるという不思議な光景を生み出す。12メートルの天井高がある展示室には、ゲルダ・シュタイナー&ユルグ・レンツリンガーの植物や廃棄物などを用いたインスタレーションが有機的に張り巡らされ、天井から浮遊するように会場を包み込む。脳内の神経ネットワークと生態系の多様性の融合を表現した「脳の森」のなかで、人々はしばし休憩し、散策を楽しむ。あるいはパトリック・トゥットフオコのカラフルな特別仕様の自転車で館内を周遊してみたり、エルネスト・ネトの柔らかなインスタレーションのなかに横たわってゆっくりと身を沈めていくなど、思い思いの時間を過ごす。だが、その一方で、明確な順路がない、ということは、一つひとつの作品の力を借りながら、鑑賞者が自分の身体感覚を使って展示を確認していく作業を強いる展示ともなった。
 開館から15年以上を経た現在の金沢21世紀美術館の企画展示の有料スペースでは普段、企画展とコレクション展、あるいは企画展2本など2つの展覧会が開催されることが多いが、開館記念展同様に、各展覧会の入り口が設置されている以外は、特に矢印付きの順路表示はされず、展示室に番号が振られているだけにとどまっている。今日でも日本の多くの公立館が順路表示を当たり前のように掲示するなかで、来館者に真の意味で「開かれた」美術館であろうとする同館の姿勢は開館以来、崩されておらず、結果として新しい鑑賞のあり方を楽しむ人々の姿が数多く見られる。決められたストーリーを誰かが語ってくれるのを待っているのではなく、鑑賞者自らが自分自身に問いかけながら、その日、そのときでいく通りものストーリーを作っていくような鑑賞の形であり、それは主体的な鑑賞者のあり方を求めているのだ。また、そうした鑑賞者の主体性を自由に促すようなオープンな解釈を許す展示というのは、キュレーター側にとっても相当な鍛錬を強いるものとも言える。キュレーターが用意するストーリーは、一つの解釈を鑑賞者に押し付けるものではなく、鑑賞者に向けて多様な展示の解釈を開くための、ある種の筋道を立てるものにとどめられ、あとは鑑賞者自らにストーリーを作ることが委ねられる。順路を作ること、ストーリーを作ることは、展示を空間的にデザインするだけではなく、時間や体験をデザインすることにつながる。またそれらをデザインする主体は誰なのか、という問題を私たちに突き付ける。ここで今度は、作品そのものがもつ時間、特定の時間軸をもつ作品の展示について考えてみよう。

(第2回に続く)

 


(1)「開かれた美術館」というコンセプトは、もともとは1970年代にポンピドゥ・センター(パリ)が提唱した美術館像。美術の墓場、アートの愛好家に閉ざされた場になっていた従来の美術館を広く一般の人々に開かれた場にしようとした。2000年代以降、日本の美術館にも大きな影響を与えていて、教育普及プログラムの充実や地域との連携が積極的におこなわれている。金沢21世紀美術館は、その代表例の一つ。
(2)開館記念展「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から」2004年10月9日-05年3月21日
(3)本稿引用の長谷川のコメントは以下すべて、難波祐子「展覧会 ついに開館!! 金沢21世紀美術館――開館記念展「21世紀の出会い――共鳴、ここ・から」(「美術手帖」2004年12月号、美術出版社)、23ページによる。

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第3回)

第3回 美術館の外へ

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

1960年代から70年代の芸術運動

 第2回までで見てきたように、MoMAは当時の時代背景も手伝って、20世紀のアメリカ美術の言説を生成して国内外にそれを発信するうえで中心的な役割を果たした。同時にMoMAのホワイト・キューブは、現代美術作品を展示・鑑賞する1つの規範を確立し、圧倒的な影響力をもって国内外に普及していった。だが、当然ながらこうしたMoMAに象徴されるニューヨークを中心とするアメリカ美術界に対する反動も大きく、1960年代から70年代にかけて、さまざまな芸術運動が巻き起こった。これらの芸術運動は、「美術館」という制度そのものを批判するようなプロジェクト型の作品や、美術館の展示空間を飛び出して屋外で展開される作品など、絵画や彫刻といった従来の展示室でおとなしく鑑賞するタイプの美術作品のイメージを塗り替えるような表現を次々と生み出していった。

インスティチューショナル・クリティークの登場

 1960年代のヴェトナム戦争の時代には、反戦運動や体制批判がアメリカだけではなく、世界各地で展開した。そのような社会背景のなかで、美術の世界でも、権威的な既存の美術館制度や美術界、商業主義や資本主義のシステムにのっとって作品を売買する商業画廊を批判するような表現活動が活発化した。こうした一連の表現活動は「インスティチューショナル・クリティーク(体制批判)」と呼ばれた。例えば、74年にロサンゼルスのクレア・コプリー・ギャラリーで開催されたマイケル・アッシャーの個展では、ギャラリーの展示スペースとオフィススペースを隔てる壁が取り払われ、展示スペースには何も置かないという奇妙な空間が出現した。見えるのは、奥のオフィススペースで働くギャラリストとそこにやってくる顧客だけだが、これは彼らの商取引の様子そのものを見せる「作品」だった。またドイツ出身のハンス・ハーケは、71年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で個展を開催する予定だったが、そのなかで展示を予定していた3つの作品が、美術館側から問題視されることになった。そのうちの1つ、「シャポルスキー・マンハッタン不動産ホールディングス:1971年5月1日時点でのリアル・タイムの社会システム(Shapolsky et al Manhattan Real Estate Holdings, A Real Time Social System as of May 1, 1971)」という作品は、ニューヨークのシャポルスキー不動産の20年にわたるハーレムなどの低所得者層居住地域を含むエリアでの不正な疑いのある不動産取引や物件の情報を142枚の写真と図表などで示したものだった。この作品は「不適切である」と見なされて、ほかの2作品とともに展示を取り下げるよう館長からハーケに要請があった。だがハーケがこれを拒否したため、開催の6週間前に展覧会が中止されることになった。これはグッゲンハイム美術館の理事会メンバーのなかにシャポルスキーと関係の深い人物がいたためと言われているが、詳細は明らかにされることはなかった(12)。ハーケはまた70年にMoMAで開催されたグループ展の「インフォメーション」で、入り口に投票箱を設置し、当時ニューヨーク州知事選挙で再選を目指していたヴェトナム戦争支持派のネルソン・ロックフェラーに州知事選で投票するかどうかを来場者に投票させる作品を展示した。このようにインスティチューショナル・クリティークの作品は、その多くが批判の矛先としている美術館やギャラリーなどの展覧会の現場そのもので実践されていた。それは美術館や展覧会というメディアそのものが、これらの作品の成立には不可欠であること、また美術館や展覧会はそうした批評を実践する場として機能するきわめて優れたメディアであることも図らずも実証することになった。

美術館の外への志向

 また同じく1960年代から70年代にかけては、反戦運動のなか、大資本に支えられた商業主義的な美術館やギャラリーに抗して、科学への不信や自然回帰への思想が高まり、「ランド・アート(Land Art)」や「アースワーク(Earthworks)」と呼ばれる、美術館のホワイト・キューブ空間ではなく、屋外の大自然など、ある特定の場所でだけ成立するような「サイト・スペシフィック(Site-Specific)」な作品の制作が、アメリカやイギリスを中心に多くの作家によって実践された。アメリカでは、マイケル・ハイザーがネバダ州にある峡谷の断崖の岩石丘をブルドーザーで掘削して長さ457メートル(1,500フィート)、幅39.1メートル(30フィート)、深さ15.2メートル(50フィート)の巨大な溝を出現させた「ダブル・ネガティブ(Double Negative)」(1969年)を作ったり、ウォルター・デ・マリアがニューメキシコ州の雷多発地帯の平原に400本の避雷針となるステンレス鋼製のポールを立てて、稲妻が落ちる現象そのものを作品化した「ライトニング・フィールド(Lightning Field)」(1977年)を発表した。またロバート・スミッソンは、ユタ州のグレートソルト湖という塩湖に石と土で長さ457メートル(1,500フィート)、幅4.57メートル(15フィート)の渦巻き状の堤を築く「スパイラル・ジェッティ(Spiral Jetty)」(1970年)を制作した。イギリスでは、リチャード・ロングが野山を歩いて、歩行を重ねることで草原に痕となった1本の線を写真に収めたり、その場にある石を集めて円形に配置するなど、歩行の痕跡を作品として発表した。同じくイギリスのハミッシュ・フルトンは、人里離れた山中などを歩き、その過程を詩のようなテキストと写真で記録し表現するなど、歩行という行為そのものを作品化した。
 このように従来の美術館での展示に抵抗する形をとった作品は、ホワイト・キューブを前提として制作される絵画や彫刻とは異なる多様な形態をとるものが大半を占めることになった。あらかじめ完成した作品をもってきて展示するのではなく、その場で制作して「設置(=インストール)」し、展示後は解体する「インスタレーション」と呼ばれるスタイルの作品や、アイデアやコンセプトを重視してテキストによる指示(インストラクション)など非物質的な表現を展開した「コンセプチュアル・アート」、一過性の出来事を作品とするハプニング、イベント、パフォーマンスなど形が残らない作品、あるいは音楽や舞台など異ジャンルと交錯するような作品など新しい表現が台頭した。また1970年代には、美術館や商業画廊に対して、「オルタナティヴ・スペース(alternative space)」と呼ばれるスペースが次々と誕生し、これらの実験的な新しい表現を積極的に紹介した。
 さらにヴェネチア・ビエンナーレなどと並んで国際展の代表格の1つである、77年に始まったドイツのミュンスター彫刻プロジェクトでは、単なる野外彫刻展の域にとどまらないユニークな取り組みをおこなっている。同プロジェクトは、屋外や街中に彫刻作品などを配置するのだが、展覧会が始まる数年前から参加作家がミュンスターにきて、歴史的な背景などを綿密にリサーチし、地元の人々と関わり合いながら、その場にふさわしいサイト・スペシフィックな作品を制作・発表することを特徴としている。通常の国際展は、ビエンナーレ、トリエンナーレ(それぞれ2年に1度、3年に1度の意味)という名が示すとおり、数年に1度開催されるものが大半だが、ミュンスターでは10年に1度という気が長いスパンで実施され、多くの作品が初回開催からミュンスターの街にそのまま残されたり、発展的に継続されたりしている。
 このような美術の動向に対して、美術館やギャラリー側もすぐに呼応し、1度は美術館の外へ出たインスタレーション作品やパフォーマンス作品、あるいはランドアートやアースワークといった作品でさえ、美術館やギャラリーの展覧会に取り込まれていくこととなった。例えばスイス人キュレーターのハラルド・ゼーマンによる1969年にスイス・ベルンの美術館で開催された「態度が形になるとき(When Attitudes Become Form)」展は、コンセプチュアル・アートやインスタレーションの作品を美術館内外のスペースで紹介した伝説的な展覧会になった。マイケル・ハイザーは、建物解体用の鉄球をクレーンで吊ってスイングさせて美術館前の舗道を破壊し、リチャード・セラは、熱して溶かした鉛を展示室の床に撒き散らした。ダニエル・ビュラン(ビュレンヌ)は、彼のトレードマークの白とピンクの縦縞のポスターを無許可で街中に貼りまくって逮捕された。この型破りな展覧会では、美術館は実験室と化し、おおよそ考えうる「美術館での展覧会」の常識を根本から覆した。

1980年代の絵画ブームの再熱

 1980年代に入ると、70年代に盛んだった禁欲的で難解なコンセプチュアル・アートやミニマル・アートなどへの反動から、情動的・具象的な表現を主とする絵画であるニュー・ペインティング、新表現主義といった名称で呼ばれるアートがドイツ、イタリア、アメリカなど世界各地で同時多発的に出現した。アメリカのジャン=ミシェル・バスキアは、ストリートのグラフィティのようなタッチで、人物などをカンヴァスに描き、人気を博した。またドイツのアンゼルム・キーファーは、ナチス・ドイツの負の歴史や『旧約聖書』などに登場する神話や伝説などから着想を得た歴史的・神話的主題を巨大な画面に油彩のほか鉛、砂、藁などの素材を重ねて描いた。これらの新表現主義の絵画は、国際的な美術市場を活性化するとともにホワイト・キューブでの展示の主役へ絵画が返り咲くことになった。

1990年代の参加型作品への注目

 さらに1990年代に入ると、空間全体を作り込むような体感型のインスタレーションや、観客が参加することで作品が成立するような参加型の展示が美術館でも盛んに取り上げられるようになった。こうした動きは、美術館だけでなく、ビエンナーレやトリエンナーレなどの国際展や芸術祭でも同様の傾向が高まった。こうして美術館や展覧会は、静かに作品と対峙する場所にとどまらず、作品を体感したり、作品に関わり合ったりするような場所としても機能し始めた。
 リクリット・ティラヴァーニャは、1990年代の初頭にニューヨークの画廊で「パッタイ」というタイ風焼きそばを作ってその場にきたゲストに振る舞い、展覧会の会期中には、食べたあとの様子もそのまま展示するという作品を発表した。ブエノスアイレス生まれのタイ人で外交官を父にもつティラヴァーニャは、幼い頃から移動の多い生活を送ってきた。たまにタイに帰って祖母の家に集まった親戚や友人に振る舞われるタイ料理と、料理を囲みながらそこで交わされた会話や出会いを作品化したのが「パッタイ」だった。また「無題(デモ・ステーション)」と題されたシリーズでは、美術館や国際展の会場内に仮設の舞台が設置され、展覧会の会期中その舞台で、バンドの演奏や演劇など、地元の人たちが企画するプログラムが展開する活動そのものを作品として発表した。
 ティラヴァーニャのように絵や彫刻のようなモノとしての作品ではなく、人と人が交わるコミュニケーションを生み出す場や、人との関係性・社会性そのものをアート作品として発表するアーティストたちが1990年代の初頭から相次いで登場した。これをフランス人キュレーター、美術批評家のニコラ・ブリオーが98年に『関係性の美学(Esthétique relationnelle/Relational Aesthetics)』という本にまとめて発表し、「リレーショナル・アート」として注目を集めた。
 人との関係性や社会性について考えたアートは、1960年代、70年代のアーティストもすでに実践していて、そのこと自体はいまに始まったことではない。例えば70年代にゴードン・マッタ=クラークは、ニュージャージー州にあった一軒家をチェーンソーで真っ二つに切断した「スプリッティング(Splitting)」を作品として発表したり、ニューヨークのソーホー地区で「フード(Food)」という営利を目的としないアーティストがシェフを交替で務めるレストランを運営し、そこでのさまざまな人たちの繰り広げる交流そのものを表現活動とした。ただし、これらの実践の背景にあったのは、当時の資本主義や美術館といったシステムへの批評であり、政治色が強いものだった。これに対して、90年代以降のリレーショナル・アートの作家たちは、あくまでも自分の私的な体験や個人的な動機などから、人と人のつながる場としての美術を探求しようとしていたところに大きな違いが見える。こうした傾向は、60年代や70年代のインスティチューショナル・クリティーク的な実践が抗ってきた「体制」や「国家」、あるいは「資本主義」といった当時の確固たるシステムが、90年代以降、時代の変化とともに軒並みその権力を失い、美術館や展覧会自体の役割や立ち位置も大きく変わっていることとも深く関わっていると思われる。こうした90年代以降の現代美術作品の発表の場は、かつての批評の対象とされた美術館や画廊、あるいはヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展といった「展覧会」の枠組みが主流であり、美術館でもこうした実践を受け入れるべく、街中や地域コミュニティーと美術館をつなぐようなプロジェクト型の展覧会を展開するなど、新しい試みを柔軟に次々と実施している。

メディアとしての展覧会、美術館

 これまで見てきたとおり、美術館、あるいは展覧会は、近代化の過程で現在の原型となる形が生まれ、さらにMoMAのホワイト・キューブの登場によって、美術館の展覧会という枠組みのなかで作品と鑑賞者が出逢う環境が確立されていった。興味深いのは、こうしたホワイト・キューブに反旗を翻し、多様化していった現代美術作品も、美術館や展覧会の文脈に結局は取り込まれ、新しい美術の歴史を生み出し続けていることである。これは、常にいまあるものに対しての反動や批評から新しい美術を生み出そうと二項対立的に「発展」してきた西洋美術史の性格に寄るところも大きいのではないかと思われる。一方でMoMAのホワイト・キューブは、現在でも健在であり、現代美術界を牽引する存在の1つであることに変わりはない。つまり、美術館だろうが屋外での芸術祭や国際展だろうが、こうした「展覧会」というメディアは、ある意味、ホワイト・キューブのように外界から遮断された、作品と出逢うための異次元空間を生み出す装置としていまも変わらず機能しているのだ。そしてこれらの出逢いを言説化し、美術の文脈に位置づけるメディアとして、展覧会は、そのときどきの時代背景や美術理論を巧みに反映し、ときには自己批評もいとわず、変化し続けている生きたメディアと言えるだろう。これから続くギモンでは、これまで少々駆け足で見てきた「展覧会」というメディアと、それを作り出すキュレーターについて、 もう少し時間をかけて、それらを構成する要素1つ1つをより深く具体的に掘り下げて見ていくことにしたい。

 


(12)詳細はバルセロナ現代美術館(MACBA)の収蔵作品解説を参照のこと(https://www.macba.cat/en/shapolsky-et-al-manhattan-real-estate-holdings-a-real-time-social-system-as-of-may-1-1971-3102)。

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第2回)

第2回 現代美術と出逢う場所としての美術館――第二次世界大戦以降の展開

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 第1回で美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。ところで「現代美術」あるいは「現代アート」という言葉だが、それに対応する英語である「Contemporary Art」を文字どおり訳せば、正確には「同時代美術」になる。一方で「モダン・アート(Modern Art)」については、英語でも日本語でも時と場合によって「近代美術」と「現代美術」のどちらも意味することがあり、その用法が混在している。そもそも何をもって「近代(モダン)」と定義するかについては、「ポスト・モダン(Post-Modern)」の思想が1970年代末から80年代にかけて広まったことも手伝って、いまだに議論が尽きない。よって近代美術と現代美術の区分についてもさまざまな見方があり、一概には言えないのだが、本稿では便宜上、第二次世界大戦以降の美術を現代美術としながらも、それ以前に制作された美術(近代美術)についても、状況に応じて現代美術の文脈のなかで論じていくことにしたい。
 現代美術と出逢う場所として、最も象徴的な存在が、1929年に開館したニューヨーク近代美術館(通称MoMA〔モマ〕)だろう。アメリカは、西洋美術史的観点から見れば、国としての歴史が浅く、ヨーロッパ諸国に比して当然ながら西洋美術品のコレクションが乏しい状況にあったが、20世紀に入って個人の資産家を中心としたフィランソロピー(篤志家)の精神に基づいた新しい美術館が次々と誕生した(5)。なかでもMoMAは、名称こそ「近代」美術館だったが、アメリカの圧倒的な経済力と文化政治戦略の後押しを受け、近・現代美術、特に同時代のアメリカ美術を牽引していきながら、新しい美術館像を国内外に発信していき、後続する世界各国の近・現代美術館のモデルになった。日本でも1952年に開館した東京国立近代美術館は、MoMAをモデルとして構想されたことで知られている(6)。

ホワイト・キューブの衝撃

 MoMAの果たした役割とその影響は多岐にわたるが、まずはそのなかでもMoMAの代名詞ともなった「ホワイト・キューブ(白い立方体)」と称される独特の展示空間に着目してみよう。ホワイト・キューブとは、その名のとおり、装飾性を廃した白い壁で四方を囲まれた中立的な展示空間である。そこでは、作品と作品の間隔が程よく空けられ、鑑賞者が1つ1つの作品とゆったり向き合える展示が基本とされた。このような展示方法は、それまで主流だったルーヴルのサロンのように、壁に額装された絵が上から下までびっしりと何列にもなって隙間なくかけられるスタイルや、華美な装飾が施され、調度品に囲まれた部屋の壁に絵画を配する展示とは非常に対照的だった。
 サロン式の展示からの脱却については、MoMAのホワイト・キューブの登場以前から、さまざまなアプローチが試みられていた(7)。例えば19世紀半ばには、ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、展示する作品点数を減らして、目線の高さが中心となるように展示されるようになった。またそれによって生じた壁の余白部分にも注目が集まり、当時の科学的な根拠に基づいて、金色の額縁と寒色系の落ち着いた色彩で描かれる絵をよりよく見せるために、既存のグレーがかった緑色の壁を赤く塗り替えた展示室が登場した。また20世紀の初めにはボストン美術館がこれまでの展示方法を見直し、作品を選択して、多くても2段がけまでにして絵画を展示したり、展示にふさわしい壁の色や照明についての検討を重ねた。さらに1930年代にはアメリカだけでなく、ナチス・ドイツ政権下でも美術館の展示室の壁を白くする試みがなされていた。だが、こうした先駆的な試みをはっきりと一つの展示スタイルとして確立し、規範を示したのは、MoMAにほかならなかった。
 初代館長アルフレッド・バーによる1936年の「キュビズムと抽象美術(Cubism and Abstraction Art)」展は、バー自らが作成した有名なダイアグラム(系統図)に集約されているように、19世紀末のセザンヌや新印象主義からピカソらのキュビズムを経由して抽象美術へと帰結していくモダン・アートの系譜を示す歴史的な展覧会だった。400点近い絵画や彫刻、ドローイング、家具などを展示したこの展覧会はMoMAが示す20世紀の美術史観を体現するものであり、その展示方法にもバーの明確な意図が示されていた。壁は白く塗られ、敷物などのないむき出しの木の床やタイルの床の部屋が用意され、照明の装飾は外されてシンプルなものとされ、作品1つ1つをよく鑑賞できるように配置された。この展覧会で確立されたホワイト・キューブにおける展示方法は、1939年に現在の場所に開館したMoMAでも、踏襲されることになった。
 MoMAのホワイト・キューブは、当然ながら人々の鑑賞体験にも大きな変化をもたらした。ホワイト・キューブという装置は、人が作品と出逢うためだけにある特別に設えられた空間であり、そのなかに身を置く鑑賞者は、ただひたすら作品と向き合うしかない。おそらく今日、「美術館」というと多くの人が思い浮かべる、大きな白い空間で、静かに作品と対峙する、というイメージはこのMoMAのホワイト・キューブの展示のイメージだろう。それはホワイト・キューブについて論じたブライアン・オドハティーが指摘しているように、中世の礼拝堂のような厳格なルールにのっとって構成された「下界から閉ざされ、窓は塞がれ、壁が白く塗られ、天井が光源となる」空間である(8)。そこでは「アートは、それ自体の生を得る(9)」。ホワイト・キューブは、作品と人が出逢うための物理的な環境を創出しただけではない。ホワイト・キューブは、日常性から切り離された人工的で、時間の流れも止まったような神聖な雰囲気で満たされた空間のなかで、人々が作品との対話を通して自己の内面を見つめ直し、自分と作品との関係性を厳かに構築していくような精神的な環境をも作り出したのだ。いまでも美術館というと、「静かに鑑賞するように」注意を受けることが多いが、それは、他の人の鑑賞の妨げにならないように、各自が作品とじっくり向き合えるように、という配慮が感じられる。このような鑑賞態度は、典型的なMoMAのホワイト・キューブの遺産と言えるだろう。
 このように美術館という装置は、MoMAのホワイト・キューブの登場により、人々が、個々の作品と静かに対峙する空間へと大きく変貌した。またホワイト・キューブという白い容れ物は、中身の作品が入れ替わることを容易にし、企画展や特別展など、展覧会ごとに内容の異なる展示にも対応しやすい空間を作り出すことに貢献した。さらにはあるホワイト・キューブから別のホワイト・キューブへと展示を移行することも可能にして、ある美術館で仕立てた展覧会を別の美術館へと巡回させることも容易になった。また作家側も、美術館や画廊のホワイト・キューブで展示されることを前提として作品を制作することが格段に増えたと言えるだろう。

美術館で展示されるものとは――MoMAの役割を中心に

 これまで見てきたようにMoMAのホワイト・キューブは、人々が作品を鑑賞するための特別な環境を整えて、美術館における作品展示のあり方に対する一つの規範を示した。ここであらためて美術館で展示されるものについて考えるにあたり、先のオドハティーが述べた次の言葉に着目したい。「そのような環境〔ホワイト・キューブの環境の意:引用者注〕では灰皿は聖なるオブジェに、近代美術館に置いてある消防ホースは美学的な謎に見えてしまう(10)」。確かにホワイト・キューブの閉ざされた展示空間は、そこにあるものを何でも作品に変えてしまう魔力をもっている。だが、灰皿でも消防ホースでも、はたまた粉チーズ容器でも、美術館の展示室に置かれたら何でも作品となるほど、事は単純ではない。ましてや、サロン式の展示と違って、ホワイト・キューブの一室に展示できる作品の点数は、極端に絞られた形となったわけだが、その部屋に何をどのように展示するかを決めるキュレーターの役割も飛躍的に重要なものになった。何をもって作品とし、それをどういった文脈の展覧会で美術館に展示するかという点も、MoMAのアプローチは革新的で戦略的であり、特筆に値するものだった。
 MoMAは、大富豪でフィランソロピー活動に熱心だったロックフェラー一族の1人、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー2世の妻であるアビー夫人と、彼女と交流のあった上流階級のリリー・P・ブリス、コーネリアス・J・サリヴァン夫人という3人の女性によって現代美術を展示する施設として創立された美術館である。アビー夫人は1920年前後から現代美術に興味をもち、アメリカ人画家の作品を購入し、コレクションしていくだけにとどまらず、生活に困窮した芸術家たちの生活費や留学資金なども積極的に支援した。初代館長のアルフレッド・バーは、絵画や彫刻だけでなく、建築、デザイン、映画、写真など当時美術館で展示されることがなかったジャンルの作品についても、独立した部署を与えて展覧会を企画する、という画期的な試みを導入した。つまり、MoMAは美術館に展示することで、これまで美術の文脈で扱われることがなかったもの、「作品」とされていなかったものを「作品」として定義づけ、美術史のなかに位置づけていき、次々とその指標を示していく存在だったのである。これについては、また作品の収集にまつわるギモンのところでも、詳しく見ていきたい。
 MoMAのホワイト・キューブ空間における作品展示を考えるうえで、最も象徴的な存在であったのが、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコなど抽象表現主義と呼ばれる作家たちの作品だった。彼らは一辺が3、4メートルもあるような巨大なカンヴァスの画面いっぱいに抽象的な線や色面を描くことで、それまでのヨーロッパにはない新しい表現を生み出していった。彼らの作品は、ホワイト・キューブの白い空間に非常によく映え、ホワイト・キューブで盛んに展示されるようになるにつれ、それに呼応するかのように彼らのカンヴァスもますます巨大化していった。
 抽象表現主義は、もともとは第二次世界大戦の戦火を逃れてヨーロッパからアメリカに移り住んだアーティストたちの影響を受けて、1940年代中盤からニューヨークを中心に始まった芸術運動である。先に挙げたジャクソン・ポロックやマーク・ロスコのほか、ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマンなどがその代表格だが、彼らを一躍スターの座に押し上げたのは、クレメント・グリーンバーグやハロルド・ローゼンバーグといった美術批評家だった。当時のアメリカは、東西冷戦のただなかにあった。ソヴィエト連邦では、抽象絵画に代表されるモダニズムを批判し、社会主義リアリズムを奨励していた。これに対して、新しいアメリカの美術を象徴するような抽象表現主義は、それらのプロパガンダ的な具象絵画や彫刻とは一線を画し、個人の作家の自由な表現を推奨するものとして、対抗するにはうってつけの存在だった。
 アメリカで抽象表現主義がもてはやされた1940年代から50年代にかけてMoMAの理事長(President)を務めたのは、アビー夫人の息子で、のちにニューヨーク州知事、アメリカ合衆国副大統領まで務めたネルソン・ロックフェラーだった。彼は、抽象表現主義の熱心な支援者として知られていた。彼自身のプライベートなコレクションだけでも2,500点以上の抽象表現主義の作品があったが、さらにそれを上回る数千点もの作品がロックフェラー財閥の傘下にあるチェース・マンハッタン銀行の各建物のロビーや壁面を飾った。グリーンバーグらの理論的なサポートでお墨付きを得た抽象表現主義は、バー館長の下で、MoMAでも積極的に収集・展示された。また当時の社会主義勢力に対して情報戦で文化面でもアメリカの優位を示そうとしていたCIAによる強力な後押しもあり、MoMAの抽象表現主義を中心とするコレクションをヨーロッパで巡回展の形で紹介する国際プロブラムが50年代に盛んに実施された。56年までに同プログラムによる34の展覧会が実施され、そのなかには国際展で現在でも権威あるヴェネチア・ビエンナーレへのアメリカ参加も含まれていた(11)。

(第3回に続く)

 

[補足]MoMAの過去の展覧会については、現在すべてアーカイブ化され、オンラインで観ることが可能である。例えば「キュビズムと抽象美術」展については、下記のURLから閲覧できるので、参照されたい。
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2748?locale=ja

 


(5)アメリカのフィランソロピストたちによる美術館の創設については岩渕潤子『大富豪たちの美術館――アメリカ・パトロンからの贈り物』(〔PHP文庫〕、PHP研究所、1995年)に詳しい。また美術館の成り立ちについては同じく岩渕潤子による『美術館の誕生――美は誰のものか』(〔中公新書〕、中央公論新社、1995年)を参考のこと。
(6)戦後から現代に至るまでの日本における学芸員とキュレーターの歩みとその変遷については、拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)を参照されたい。
(7)「How the White Cube Came to Dominate the Art World」(https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-white-cube-dominate-art)
(8)Brian O’Doherty, Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space, 1976, University of California Press, p.15.
(9)Ibid., p.15
(10)Ibid., p.15
(11)Frances Stonor Saunders, ‘Yanqui Doodles’, in The Cultural Cold War: The CIA and the World of Arts and Letters, 1999, The New Press, New York, pp. 252-278.

 

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