ギモン4:作品って何?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「作品」は誰が作るのか

 これまで美術館をはじめとする、「作品」を展示する環境と、その歴史的な成り立ち、また「作品」が展覧会での展示を通して「作品」として成立するうえでのキュレーターの役割などについて見てきた。これらのギモンでは、アーティストが「作品」を作り、キュレーターがそれを「展示」する、という大前提を基本にしていた。だが、ギモン1で少し触れた1990年代以降に急増した参加型の作品は、作品が成立するうえでアーティスト以外の複数の人が関わることが多く、こうした「大前提」にさまざまな問いを投げかけている。
 ところで、「作品」を複数の人による協働作業で作る、という行為自体は、美術史的に見れば、実は新しいものではない。ヨーロッパでは、特に中世からルネサンス期にかけて工房制度が長きにわたってあり、絵画の制作は、アーティスト個人の表現活動というよりは、工房で分業による集団作業でおこなわれていた。近代以降、師弟関係に基づく工房制度の時代とは、美術作品の制作のあり方も様変わりしたが(1)、現代美術では、単一の作者としてのアーティストという存在にかわって、地域住民や観客が作品の制作に関わることがごく一般的になってきた。例えばギモン1に登場したリクリット・ティラヴァーニャの「無題(デモステーション)」シリーズを思い起こしてみよう。展覧会の会期中、会場に用意された仮設舞台を、地元のバンドや俳優といった人たちが活用していき、そのプログラム自体が、作品の完成に結び付く。ティラヴァーニャは、作品のための設えを用意し、ファシリテーター的にそこでの出来事を見守る。このような展覧会においては、「作品」は誰が作ると言えるだろうか。そしてこうして作られた「作品」は、誰のものと言えるだろうか。またキュレーターは、こうした作品の「展示」に対して、どのような役割を担うのだろうか。
 今回のギモンでは、「作品」とは何かを考えるなかで、特に「作品」の作り手にまつわるギモンに着目し、近年盛んになっている参加型の作品や、アーティスト以外の人々との協働制作の形式をとるような作品を中心に、具体的な事例をいくつか見ながら、参加者・観客側の視点から考えていこう。またそれを受けて、あらためてキュレーターの役割についても考察してみたい。

「参加型」アートとは?

 ここで「参加型」という言葉の、本稿での位置づけを明確にしておきたい。そもそも展覧会は、観客が来て、作品を鑑賞する、という行為のもとに成り立っている。絵画や彫刻作品を観て、それについて観客が何かを感じる、ということも広義の「参加」にはなるかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの感染拡大による美術館休館ですっかりおなじみになった、オンラインでのライブ配信型の作品やVR(仮想現実)で撮影された展覧会を視聴することも「参加」と言えるだろう。逆に作品との直接的な接触などを伴ういわゆるインタラクティブ(相互作用的)な作品を思い浮かべる人もいるかもしれない。ボタンを押したら何かが動作するとか、観客が展示室に入るとセンサーが観客の動きを感知して映像のプロジェクションや音などに反映される、といったタイプの作品だ。極端な話、どの作品も、最終的には鑑賞者がいてはじめて作品が完成する、とも言える。だが、本稿で主に扱う「参加型」の作品は、観客や地域住民などが参加するプロセスそのものが、作品成立に深く関わっている類いのもの、そしてその結果を「展覧会」という枠組みのなかで展示する作品を論じることにしたい。例えば、台湾出身でニューヨーク在住のリー・ミンウェイは、1990年代から作家自身と参加者による直接の対話に基づくプロジェクトや、展覧会場を訪れた人が、リーの設えた環境で、何らかの作業や行為をすることを作品化したプロジェクトを数多く発表している。ニューヨークのロンバード=フレイド・ギャラリーで2000年におこなわれた「プロジェクト・ともに眠る(The Sleeping Project)」では、画廊のなかに作られた隣り合ったベッドをもつ寝室空間で、抽選により招かれたゲストがリーと一夜をともにし、さまざまな出来事を語り合う。ゲストは、普段、自分が眠る際に手元に置いている時計や写真立てなどの私物を持参し、ベッド脇のナイトテーブルに置いて帰る。会場を訪れた人は、ナイトテーブルの上に残されたものを見ながら、そこで交わされた会話などを想像する。この作品は、もともとリーが高校生のときに夜行列車でパリからプラハに向かった際に乗り合わせた年配のポーランド人男性と一晩を過ごした体験から着想を得ている。その人物はホロコーストの生還者で、当時の収容所での様子や体験などをリーに語り終えたあと、眠りについた。だがリーは、話を聞いて、その昔、もしかしたらいま、自分が乗っている列車と同じ線路のうえを走っていた列車に夜通し乗せられて、朝まで生きながらえなかった人もいたかもしれないなどと思いをめぐらせ、眠ることができなかった。この私的で強烈な体験をもとに、何年もたってから、「眠る」ことと、「(誰かと)ともに眠る」ことについて、作品にしようと考えたのがこのプロジェクトだったと彼は語っている(2)。このように自分以外の誰かと行為をともにすることが、リーの作品の根幹をなしている。その行為は、作家と直接協働作業をおこなう場合もあれば、展覧会場で観客の手に委ねられることもある。例えば「プロジェクト・手紙をつづる(The Letter Writing Project)」(1998年)では、会場内に障子の部屋を思わせる、すりガラスと木枠で三方を囲まれた3つのブースが設けられ、観客は、そのブースのなかに入って手紙を書いたり、読んだりすることができる。ブースのなかには机と便箋と封筒が置いてあり、観客は、誰かへの感謝、許し、あるいは謝罪の手紙を書くように促される。手紙を書き終えたら、持ち帰らずにブースの内側の壁に設えられた木枠に手紙を挟んでその場をあとにする。手紙の封はしてもしなくてもいいが、封をしていない手紙はほかの人が自由に読んでいいことになっている。そして封筒の表に送り先の住所が書いてあれば、作家か美術館スタッフがかわりに投函してくれる、というプロジェクトだ。ここでは、手紙を書く、あるいは読むという観客の参加、そしてその行為によってそれぞれが個人のストーリーに思いをめぐらすことが作品の重要な一部になっている。
 リーやティラヴァーニャのような参加型作品は、最終的な発表の場が美術館やギャラリーでの展覧会のことが多いが、こうした地域住民や観客の直接参加などを伴う作品は、1990年代後半から、リレーショナル・アート、コミュニティ・アート、あるいはソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)といった名称で、地方自治体や学校でのアートプロジェクトやワークショップとして美術館やギャラリー以外の場所でも実施される機会も多く見られる。例えばイギリスのアーティストであるジェレミー・デラーは、何らかの共通項をもつ地域住民など特定のコミュニティと協働して作品を制作することで知られている。初期代表作の一つ、『アシッド・ブラス』(1997年)は、街中のブラスバンドと、電子音楽とクラブ・カルチャーに端を発するアシッド・ハウスという一見全く異なる音楽文化の間に奇妙な共通性を見つけたデラーが、イングランド北部の町ストックポートを拠点として活動するブラスバンドにアシッド・ハウスの生演奏を依頼したことから始まったプロジェクトだ(3)。『アシッド・ブラス』は瞬く間に人気を博し、イギリス各地で演奏されたほか、アルバムも発売されて、バンドのレパートリーとしても演奏される長期プロジェクトになった。この作品についてデラーは、自身の制作のターニング・ポイントだったと述べている。「モノ(オブジェ)を作らなくてもいいんだ、と気づいた。こんなふうにイベントをやって、何かを巻き起こして、それを人々と一緒にやって楽しめばいいんだ。乱雑で野放しでオープンエンドなプロジェクトをすることで、伝統的なアーティスト像にこだわらなくてもよくなった。ブラスバンドが僕を解放してくれたんだ(4)」。デラーのプロジェクトは、単なる音楽のコラボレーションの域を超えて、それぞれの背景にある社会史を浮き彫りにし、異なるコミュニティ同士の新しい出会いを生み出すなど、さまざまな広がりを見せるプロジェクトになった。このように参加型作品の多くは、絵画や彫刻などのように物質的な「作品」として残るのではなく、何らかの出来事が起こり、そのプロセスや結果が共有されることそのものが「作品」になることを特徴としている。よって作品の形態も美術館での展示だけではなく、街中などでおこなわれるパフォーマンスやイベント、あるいはコンサートや映画など多岐にわたるケースも多い。だが、こうした作品を実現するにあたっては、展覧会やアートプロジェクトなど、アートの枠組みがその背景にあることがほとんどである。
 デラーは、このような手法を国際展の場でも取り入れている。例えば、ギモン1で少し触れたミュンスター彫刻プロジェクトは、ドイツの中世の面影が色濃く残る街ミュンスターで10年に一度開催される大型の国際展だが、デラーは2007年に参加した際に次回開催の10年後である17年まで続く作品を発表した。デラーは、ドイツで盛んな「クラインガルテン」、あるいはクラインガルテン運動を広めたシュレーバー博士の名にちなんで「シュレーバーガルテン」と呼ばれる市民農園に着目した。そしてミュンスター郊外にある50以上のクラインガルテン協会に、各農園での四季折々の天候や植物の移り変わりの様子、各協会での社会的・政治的な活動などを10年間にわたって日誌に記録してもらうよう依頼した。10年後の17年には、そのうちの一つのクラインガルテン内にある小屋に、各農園の10年にわたる日誌約30冊を自由に閲覧できるスペースを設けた(5)。各日誌にはそれぞれの農園の個性が反映されていて、家族やメンバーで集まってバーベキューやパーティーをしたときの写真や、収穫された野菜の写真、新聞や雑誌の切り抜きなどが思い思いにスクラップされ、子どもたちが描いた絵やメンバーが書いた詩などとともにつづられていった。またミュンスター彫刻プロジェクトに訪れた人も、メッセージやイラストなどを記すことができるように、農園のメンバーが使っていたものと同じ様式の白紙の日誌も用意され、会期中次々と来場者によって書きつづられていった。
 クラインガルテンの活動自体は、デラーの呼びかけとは関係なくドイツで200年以上の長きにわたって市民に親しまれている営みである。そのため、それだけでは「作品」にはならない。だが、アーティストが展覧会という仕組みや仕掛けを使って、普段であれば、関わっている当事者たちも気がつかないような人々の市民農園での活動を、当事者たち、市民農園のことを知らない人々、国内外から集まる展覧会の観客に、目に見える形で提示、共有する場を農園のメンバーたちと10年という長いスパンをかけて作っていくことで、一つの「作品」になった。このように参加型アート作品は、それを通してさまざまな人々が有形無形のつながりをもつことが特徴である。また、参加型作品の大半は、長くても2、3ヶ月程度の会期の展覧会に向けて準備され、そのあとは終了してしまうのだが、『アシッド・ブラス』やクラインガルテンでのデラーの息の長い活動は、展覧会やアート作品の枠組みを横断しながら、それらを超えて、参加者側がその試みに自発的に参加し、ともに作り上げていると言えるだろう。また通常は、展覧会での発表が作品の最終的な完成形だと見なされがちな参加型作品だが、このように長期のプロジェクトでは、どこまで(いつまで)参加すれば、その作品が完成したと言えるのか、どこからどこまでが「作品」なのか、という問いを図らずも投げかけている。

「作品」は誰のものなのか

 さて、ここでいま一度考えたいのは、こうした協働制作などを伴う参加型作品は誰のものなのか、またどこまでが作家の手によるもので、どこからが参加者の手によるものなのか、というギモンである。それを考えるうえで、2000年にロンドン北部の小学校の児童がイギリス人アーティストのトレイシー・エミンと作った作品をめぐるエピソードを1つ紹介したい。この作品は、ロンドン北部と東部にある教会や礼拝堂などの宗教施設でおこなわれた「聖なるところにあるアート(Art in Sacred Spaces)」という著名な現代美術作家12人によるグループ展の一環として展示されたものだった。エミンは、小学校の8歳児12人に「美しいと思うものを教えて」というテーマで、言葉を募るワークショップをおこなった。そして「木」「日の出」「イルカ」「おばあちゃん」などの単語をつづったフェルトの文字が、子どもたちが持ち寄ったカラフルな端切れに子どもたち自身の手によって縫い付けられていった。最終的には、こうして制作したパッチワークでできたキルトを、地元の教会の祭壇に1週間展示した。ここまでは、よくある地元の子どもたちとのワークショップで協働制作された作品の話で、普段は自らのプライベートを暴くようなスキャンダラスな作品で知られるエミンの別の一面を見せるプロジェクトで終わるはずだった。だが、話はこれで終わらなかった。展覧会から約4年たった04年に、この作品をめぐる騒動が起きたのだ。作品を保管していた小学校が、この作品を長期間、安全かつ劣化しない形で保管するための方策として、アクリル製の展示ケースを製作してはどうかと見積もったところ、4,000ポンドかかるとわかった。そのような費用を捻出することが難しいと判断した学校が、苦肉の策として、同作品を競売にかけて、その売り上げ(3万ポンドから3万5,000ポンド相当の見込み)を同校の芸術棟を充実させるために有効活用しようとした。だが、オークションハウスで有名なサザビーズは、この作品をまずはエミン本人が自身の作品だと認めないかぎり、作品の価値は端切れ代程度にしかならない、と学校側に伝えた。これに対してエミンは、もし作品を競売にかけるのであれば、それを自分の作品だと認めることを拒否するばかりか、作品の返還も求めると言い出す騒ぎになった。最終的にはこの騒ぎの顛末は、展示ケースのための費用4,000ポンドをエミンが負担する、ということで決着がついた(6)。作品を実際に00年に制作したときには、エミンがコンセプトを考え、子どもたちとのワークショップにも立ち会い、エミンが参加するグループ展の一環として展示された。だが、このキルト作品が「トレイシー・エミンの作品」として、いざ評価額をつけるとなったとき、それは純粋に作家の作品と言えるのか、それとも協働制作者である子どもたちもまた作家と言えるのか、また作った作品は一体誰のものなのか、という作家と作品の曖昧な関係性を図らずも明るみに出すことになった。一口に「協働制作」と言っても、参加している側の作品への作り手としての意識や作品に対する思い入れ、そして作家自身の参加者や作品に対する考え方は、作家によって一律ではないし、同じ作家による同じ枠組みで実施されたプロジェクトであっても、関わる人々が変われば異なってくるかもしれない。ここで「作品」の作り手についての考察をもう一歩進めていくうえで、エミンのプロジェクトとは全く異なる参加型アートを実践している、藤浩志の「かえっこ/Kaekko」を紹介したい。

システムとしての「作品」

「かえっこ」は、藤浩志が2000年から始めたプロジェクトの総称で、家庭で不要になったおもちゃを交換するという仕組みそのものを作品化した、いわばシステム型の作品である。もともとは1997年頃に藤の家で生じたゴミ出し問題に端を発し、家庭内でゴミを排出せずに、ゴミを再利用して表現行為に転換する「家庭内ゴミゼロエミッション」プロジェクトが「かえっこ」へと繋がった。そこから2000年の福岡アジア美術館での開館1周年イベントの一環として開催されたアーティストフリーマーケットに、藤が自身の子どもたちと出店したことがきっかけになり、その後、子ども向けのワークショップとして国内外の美術館やアートプロジェクトの場で「かえっこバザール」などの名称で盛んに開催されるようになった。そのなかで、交換したおもちゃがかえっこバンクで「カエルポイント」として発行され、その貯まったポイントで気に入ったおもちゃを購入したり、オークションをおこなったりする仕組みが生まれた。また、おもちゃをもってこなくても、スタッフとして「かえっこ」の運営を手伝ったり、ワークショップの活動に参加するとカエルポイントがもらえるなど、おもちゃの交換をめぐってさまざまな活動が誘発される仕組みが整えられていった(7)。のちにこのシステムそのものを「Kaekko」というローマ字で藤は使い分けている。ここで注目したいのは、この「かえっこ/Kaekko」が、瞬く間に美術館やアートプロジェクトでおこなわれるアーティスト藤浩志のワークショップ型プロジェクトから、誰でも開催できるシステム型プロジェクトとして広まり、環境問題に関心があるNPOや子育て支援グループ、街づくりの関係者など、従来のアートに従事する層とは異なる団体などがこぞって開催するようになったことだ。「かえっこ」を開催するにあたっては、藤の妻である藤容子が担当するかえっこ事務局に連絡をすると、開催情報のウェブ掲載などの広報協力を受けることができるほか、カエルポイントを押すためのカエルスタンプやかえっこカードなどの開催に必要なツール、最初のおもちゃの貸し出しなどを受けることができる。だが、ここで「かえっこ」がほかの参加型作品と大きく異なる特徴的な点は、「かえっこ」の開催の規模や目的は、主催者の裁量に任されているということだ。つまり「Kaekko」は、システムとして誰でも使えるようになっていて、そこにはもはやアーティスト藤浩志の名前は登場しない。私も当初は「かえっこ」を藤のワークショップ型プロジェクトとして認識して、実際に美術館やアートプロジェクトの現場で開催された「かえっこ」を見てきたのだが、ある日、ローカルのニュース番組で「かえっこ」が取り上げられていたのを目にして、ちょっとしたショックを受けた。その番組では、とあるNPO団体(子育て支援系だったか、街づくり系だったかは記憶が定かではないが)の女性の主宰者が、「かえっこ」を開催していて、その活動について生き生きとした口調で語っている様子が取材されていた。そこに映る映像は、以前、藤のプロジェクトとして見ていた「かえっこ」そのものだった。おもちゃを交換する仕組みや、カエルポイント、運営をお手伝いする子どもたちなどが、レポーターにより「市民による素敵な取り組み」風に紹介されていた。だが、ニュースレポートはそこで完結し、それがもともとは藤浩志の発案だったことや、アート作品であることなどには全く言及がなく、当時、「え、これって藤さんの作品だよね? 著作権、大丈夫なの?!」とあらぬ心配をしてしまったことを覚えている。藤は「かえっこ」について次のように述べている。「《かえっこ》は最初から「仕組み」の表現作品だと考えていました。使う人がコンセプトやプログラムを決めることでどんどん変わっていくタイプの作品です(8)」。さらに藤は、このシステムとしての「Kaekko」をそこで終わりにせず、それを利用して『Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)』というインスタレーション作品として再び一つの形ある「作品」として引き戻す作業をおこなっている(9)。『Happy Paradies』は、マクドナルドの子ども向けのおもちゃ付きセットで知られる「ハッピーセット」でもらえるおもちゃと、それに類似したおもちゃ約14,000個、おもちゃの一部や破片約250個、おもちゃで作られた『夢の鳥』や『Toys Saurus』などの複数のオブジェからなるインスタレーション作品である。これらの素材になった大量のおもちゃは、全国で開催される「かえっこ」事業の終了後に残ったおもちゃが返却される過程で、次の「かえっこ」へと循環して活用されることがない、いわば「子どもたちでさえ不要と思うおもちゃ」である。それらを色や形、大きさ、キャラクターなどによって数百種類に分類し、インスタレーション作品の素材として用いている(10)。さらにこの作品を展示する際には、「美術大学の学生との関係を尊重し、同じような、あるいは理想的にはもっと若い、まだ感性が柔らかい状態の学生」が、作家の指示どおりではなく、「自らの感性と意志で自由に並べること」を重視している(11)。このように「Kaekko」から派生した『Happy Paradies』もまた、形ある「作品」でありながらも、複数の他者の手による開かれた展示のシステムを提供している作品になっている。エミンの作品で争点になった協働制作による作品の「作家性」は、藤の「Kaekko」や『Happy Paradies』では軽やかに解体されてしまい、物理的なモノではなく、システムそのものに宿る。藤のこのような実践は、小説などの文学作品の作者と読者の関係を想起させる。小説などの作品を書くのは作者だが、その作品をめぐる多様な解釈は、実際に作品を読む読者一人ひとりの手に委ねられていて、作者自身の作品に込めた意図に必ずしも縛られることはない。ここで参加型アートにおける作家についての考えを深めるための手がかりとして、文学作品での作者と読者の関係をめぐる議論を少しのぞいてみよう。

参加型アートの「作者」とは?

 文学作品などの「作者」については、1960年代のフランスで、ロラン・バルトが『作者の死』(1968年)、ミシェル・フーコーが『作者とは何か?』(1969年)と相次いで論考を発表している。なかでもバルトは、「作者の死」という象徴的な言葉で、テキストをめぐる作者と読者の関係について論じていて、その考え方はアートの理論にも大きな影響を与えている。バルトは、「一遍のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュール〔引用注:「書かれた言葉」〕によって構成され(12)」た「引用の織物である(13)」と言う。そしてこの多元的なエクリチュールによって織物のように編まれた作品の「多元性が収斂する場」は、「作者ではなく、読者である」とし、次のように結論づける。「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならないのだ(14)」。つまり、作者が書いた織物のようなものである作品は、作者の手を離れて、読者によって自由に解釈されていくというのだ。それまで作者というのは、作品の意図や解釈を支配する神のような存在と思われていた。だがバルトの「作者の死」は、作者ではなく、作品の受け手である読者がその作品を読む行為によってそれぞれの意味を見いだすと説く。これは、従来の作者と作品の関係性を根本から問い直すような考え方だ。それは、まるで美術作品の唯一の作り手とされてきたアーティストと作品の関係性が、参加型アートの台頭によって揺らぐさまと呼応しているかのようだ。例えば、先に見た藤の「Kaekko」システムは、参加者・鑑賞者によって藤浩志という一人のアーティストの手から離れて、自由に運用され、享受されている。だが、このことは、「Kaekko」というシステム型作品を生み出した藤自身の存在を完全に消し去ってしまうわけではない。
 バルトが言う「作者の死」に対して、フーコーは作者について、実在するものとして異を唱えている。ただし、ある一冊の書物を記した一個人としての作者、という存在としてではなく、作者というものが果たす「機能」に着目し、作家と作品の関係性をさまざまな角度から分析している。例えば、ジークムント・フロイトというのは単に『夢判断』という本の作者であるだけではなく精神分析学の創始者であり、それによって精神分析に関するさまざまなテキスト、概念、仮説などの言説を生み出す機能をもっている(15)、と説く。フーコーは、「機能としての作者」は、「言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的システムと結びつく」と言う。そしてそれは、時代や文明の形態によって「一律に同じ仕方で作用するものではない」と指摘している。さらにフーコーは、こうして生まれた言説は、それを生み出した「ある現実の個人」に帰属させるのではなく、「複数の立場=主体を同時に成立させることができる(17)」と述べている。美術作品に当てはめて考えてみると、バルトやフーコーの「作者」と「作品」をめぐる論考は、参加型アートにおいて、非常に興味深い視点を与えてくれる。作家と鑑賞者が、それぞれ作品の「作り手」と「受け手」としてはっきりと分断されていた従来の作品と異なり、参加型アートの場合、鑑賞者も書き手になり、織物のように作品を作り出していく。ただしそこで作者はバルトが言うような「死」を迎えるのではなく、フーコーが言うように作者も鑑賞者も複数の作り手になり、多元的・主体的に作品を形成していく。それぞれの作家の作品は、もともとは作家の個人的な原体験などから着想を得て、生まれているが(リクリットの祖母の家での料理、リーの夜行列車での体験など)、それが参加者を招くことで、それぞれの参加者個人の体験や経験などと重なり合いながら、「作品」になっていく。そういった意味では、「作品」は作家一人のものではないが、作家自身の存在を否定するものでもないと言えよう。そしてフーコーが言うようにこうして生まれた「作家」や「作品」をめぐる言説は、それを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景になる時代や文化によって、多様な姿を見せている。

参加型アートでのキュレーターの役割

 これまで協働制作を伴う参加型の作品における、作家と参加者・鑑賞者の関係について見てきたが、ここで少し視点を変えて、こうした作品でのキュレーターの役割についても考えてみよう。先に紹介したデラーのような実践は、ソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)という枠組みで論じられることも多い。ソーシャリー・エンゲージド・アートというカタカナの用語は、特に2000年代になって日本でも使われる機会が増えてきた。これらの多くは、美術館のなかではなく地域のコミュニティなどで実践され、ときにその地域が抱える社会的な問題を解決するための手立て、あるいはそうした問題をあぶり出すためのツールとして、アートの手法を使っていることが多い。イギリスの美術史家クレア・ビショップは、こうしたソーシャリー・エンゲージド・アートの実践を著書『人工地獄』で、美術史や美術批評に照らし合わせながら、パフォーマンス、演劇、美術教育なども含めた幅広い参加型の実践を、多数のアーティストや参加者たちへのインタビューなどを交えながら多角的な視点から紹介し、分析を試みた。そこで彼女はキュレーターの役割について、次のような重要な指摘をしている。「各プロジェクトに責任を持ち、ときに――しばしばアーティスト以上に――一部始終に立ち会う唯一の存在となるキュレーターの手に、参加型アートの主な語り手としての権利が委ねられる」。ビショップは、そうした「キュレーターたちの語りにおいて、批評的な客観性が排されていること」に失望し、そのことが彼女の研究の重要なモチベーションになったと述べている。ビショップが言うとおり、プロジェクト全体を把握しているキュレーターや、それについてキュレーターの言葉を頼りに研究・批評する者にとって、特に「プロジェクトの中心要素に人間関係の形成があり、それが特定の主体によるリサーチに否応なく影響を与えてくるような場合」に「かかわりが深まるほど、客観的で居づらくなる(18)」ことは確かだ。こうした状況に対して、ビショップは美術史家としての立場からあくまでも客観的に分析を試みるが、そもそも、参加型プロジェクトで、当事者としてのキュレーターが参加者、アーティストとともに人間関係を形成していくのは、ある意味必然的な結果であり、逆にそうした人間関係が形成されなければ、しばしば長期にわたるプロジェクトを遂行することは不可能になるだろう。そのプロセスのなかで、キュレーターは、そのプロジェクトの推進者、アーティストや参加者の伴走者であることが求められる。同時に、最終的にはその結果を展覧会やアートプロジェクト、あるいはカタログや報告書として外に向けて発信していく役割も担う。そこでビショップが言うような客観性をどこまで担保する必要があるかは、プロジェクトの目的や、対象にする観客によっても異なってくるだろう。ここで最後に参加型アートにおいて、こうした作品は誰のために作るのかについてあらためて考えてみたい。

「作品」は誰のために作るのか

 協働制作を伴う参加型アートで誰がその作品を享受するのか、ということを考えると、一義的には、そのプロジェクトに直接参加したある特定の個人やグループ、コミュニティの人たち、ということになるだろう。だが、それがアートの文脈で語られるとき、作品はその一義的な参加者のためだけのものにとどまらない。作品の展示やパフォーマンスのお披露目、映像上映などで、それらを鑑賞するより多くの人々が、一義的な参加者たちの体験を追体験したり、各々の記憶や体験、人生のストーリーなどと結び付けたり、重ね合わせたりしていく。もちろん、プロジェクトの協働制作を直接担った参加者と、それを展示室などで鑑賞する鑑賞者が全く同じ体験ができるわけではないだろう。それでも、一つの「作品」として展覧会の文脈で発表され、多くの人に共有され、享受されることで、最終的には、広義の「参加型作品」が成立すると言える。また参加型作品の作り手は、作家一人にとどまらず、参加者、鑑賞者も主体的にそのプロセスに関わり、キュレーターも加わって、多元的な織物のような「作品」とそれを取り巻く言説を作り上げていく。

 あらためて、「作品」とは何か、というギモンに立ち返ると、「作品」を成立させる諸条件は、作品を取り巻く環境、歴史的背景、作品制作の方法論など非常にさまざまな要素が絡み合っていることがわかる。参加型の「作品」をめぐって、作品が一人の作家により作り出され、完成し、展示されるもの、という前提から大きくはみ出していくなかで、作家と観客の間にある境界線が曖昧になっていき、アーティストとキュレーターの役割も交錯していく。従来の作品を作る人=作家、見る人=観客、作品を選んでその場を設える人=キュレーターといった構図がより有機的・複合的に絡まっていることを、これまで見てきた事例からも垣間見ることができる。本ギモンの後半では、参加型作品をめぐる作家と観客、キュレーターの関係について少し駆け足で論じたので、消化不良を起こした方もいるかもしれない。それらについては、これから続くギモンでまた別の視点を交えながら、あらためて解きほぐしていきたい。


(1)ただし、こうした工房制度スタイルは、現代美術でいまでも一部健在であり、それについては近い将来、また別の機会に論じてみたい。
(2)“LEE MINGWEI: THE SLEEPING PROJECT, 2000”(https://www.perrotin.com/artists/lee_mingwei/550/the-sleeping-project/48708)。オリジナルの作品では、交わされた会話は録音され、会場で聞くことができたようだが、近年の再制作では、ゲストが持ち込んだオブジェがナイトテーブルに置かれるだけになっている。なお、本稿に登場するリーの作品の日本語タイトルは、すべて森美術館「リー・ミンウェイとその関係」展(2014年)に掲載されているものを採用した。
(3)『アシッド・ブラス』については、BBC2で2012年2月24日に「The Culture Show」で放映された「Acid Brass: Jeremy Deller」に簡潔にまとめられている。“Acid Brass – Jeremy Deller – The Culture Show (24/02/2012),” YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=gBJxMQGYXM4
(4)“Acid Brass, 1997,” Jeremy Deller(https://www.jeremydeller.org/AcidBrass/AcidBrassMusic.php
(5)Skulptur Projekte Münster 2017カタログ、170ページ
(6)この事件については複数のイギリスメディアが報道しているが、本稿は以下のウェブサイトを参照した。“Blanket refusal,” The Guradian, March. 30, 2004(https://www.theguardian.com/artanddesign/2004/mar/30/art.schools),“Emin wants school quilt returned,” BBC News, March. 30, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3584273.stm),“Emin pays to show school’s quilt,” BBC News, April. 6, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3603787.stm
(7)「かえっこ」誕生の詳しい経緯については、「《かえっこ》から《kaekko》までトークバトル」(『「かえっこについてかたる。」――かえっこフォーラム2008記録集』所収、水戸芸術館現代美術センター、2009年)16―29ページを参照のこと。
(8)同書24ページ
(9)『Happy Paradies』についての考察は、同作品を収蔵した金沢21世紀美術館の野中祐美子による以下の論考を参照されたい。野中祐美子「藤浩志《Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)》――拡張する作品概念」、「Я[アール]――金沢21世紀美術館研究紀要」第7号、金沢21世紀美術館、2017年、92―96ページ
(10)同論文92ページ
(11)同論文95ページ
(12)ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年、88ページ
(13)同書85―86ページ
(14)同書88―89ページ
(15)ミシェル・フーコー「作者とは何か?」『作者とは何か?』清水徹/豊崎光一訳(ミシェル・フーコー文学論集1)、哲学書房、1990年、53―55ページ
(16)同書50ページ
(17)同書50ページ
(18)クレア・ビショップ『人工地獄――現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年、20ページ

 

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ギモン3:何を展示するの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 

コロナ禍に寄せて――「ギモン3:何を展示するの?(第2回)」の前に

 いま、コロナ禍のなかで展覧会やキュレーションについて考えることが非常に困難な状況となっている。
 この2カ月あまりの間に新型コロナウイルスの感染拡大により、文字どおり世の中が一変してしまった。ここで今回、これまでの連載の続きを掲載する前に、この場をお借りして、この状況下で展覧会やキュレーションに向き合うことについて、少しふれてみたい。書いたところでいますぐ何かの解決につながるわけではないのだが、とにかく私自身、本連載を続けるうえで、刻一刻と変わるいまの状況を備忘録的に書き留めながら、思考していくという以外にこれから先の原稿を書き進めるすべがない状況に陥っているので、このような脱線をお許し願いたい。またここで書いたことについては、今後も状況に応じてもともとの本連載全体の構成をアップデートしながら、連載後半の内容に反映していきたい。

 2011年の東日本大震災のあとも、しばらくアートについて考えることができない、あるいはすぐにアートを通じて何らかの行動を起こすことが難しいと感じる美術関係者は、私自身も含めて大勢いたと思う。もちろん、さまざまな芸術を通した救援活動やチャリティー、また津波被害にあった作品のレスキュー事業(1)などもおこなわれていたが、それは被災者支援、復興に向けた活動だった。現在進行中の世界的なパンデミックと9年前に東日本で起きた震災と放射能汚染では、単純に比較することはできないが、本連載でも追って危機的な状況に私たちの社会が陥ったあとのアートや展覧会のあり方などについて、考察していきたい。
 今回のコロナ禍について現時点(2020年4月末)で言えることは、1つの地域、あるいは1つの国にとどまらず、まさに地球規模で私たちが生きるということそのもの、また社会生活や経済活動に深刻な影響を及ぼしていて、しかもその「異常事態」が数カ月というごく短いスパンでもはや日常化しつつある、ということである。このような現況において美術の分野に限って簡単にこの2カ月あまりを振り返ってみると、中国を皮切りに韓国、ヨーロッパ、アメリカなど世界各国の美術館が2月から3月にかけて軒並み臨時休館に入り、多くの展覧会やアートフェアなどが中止・延期となった(2)。また私立美術館の多いアメリカでは、MoMAやメトロポリタン美術館をはじめとする名だたる館でスタッフの解雇が始まっている(3)。日本も首都圏など7都市を対象に緊急事態宣言が4月7日に発令される前から、大規模なイベント実施に関して自粛モードに入り、2月末からは美術館や博物館も床面積1,000平方メートル以上の館を中心に臨時休館に入っていたが、発令後には、細々と開けていたギャラリーも休廊を余儀なくされた。そして緊急事態宣言が4月16日に全国に拡大されてからは、実質的に日本国内の展覧会という展覧会が中止や再開見込み不透明なまま延期などに追い込まれている。
 このような状況下でも、なんとか芸術活動を続けようと世界各地でさまざまな試みがなされている。音楽や舞台芸術、パフォーマンスの分野で動画配信、ライブ配信などがおこなわれるのに続き、美術館でも、オンラインで公開するコレクションを充実させたり、展示したものの休館せざるをえなくなった展覧会をウェブサイト上で写真や動画を交えて紹介したり、カタログテキストをウェブサイト上で閲覧できるようにするなど、各館がしのぎを削っている。だが、展覧会というメディアは、本連載の冒頭でも述べたとおり、そもそもが非常にアナログなメディアであり、展覧会に観客が実際にいってなんぼの世界である。したがって、今回のような事態にすぐさま対応しろと言われても、そう簡単にはいかないのも事実だ。また今日の現代美術の展覧会は、国際的な協力のもとに成り立っているものも多く、作品を国内外に輸送することや、展覧会場に国を超えてアーティストやキュレーター、クーリエなどの人が移動することができない現状のなか、作品を展示する、という行為自体が不可能になっている。またアーティストやフリーランスのキュレーターなどについては、予定していた展覧会が中止や延期となり、収入が断たれる人も多い。ドイツ政府は、この事態のなかいち早く「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要な存在(4)」と断言し、フリーランサーや芸術家、個人業者に向けて500億ユーロという大規模な支援を約束した。日本では、ドイツのような国レベルでの動きは鈍いが、地方自治体が独自の支援策を打ち出したり、各芸術団体やアーティスト、民間企業などが、立ち上がって、基金を設立したり、クラウド・ファンディングや、各種の署名活動などが始まっている。
 明日の暮らしをどうするのか、を考えなくてはならない事態のなかで、こうしたいますぐ必要な支援や対応について、それぞれができることを考え、動いていくことは大事だ。だが、同時にポスト・コロナ、ポスト・パンデミックの世界について考え始めることも重要である。感染の収束にはまだ相当の時間がかかりそうだし、この状況によりさまざまな価値観の変容が否が応でも起こっていることは確かである。世界的にこの危機的状況を共有した(大半がまだそのただなかにあるが)あとのポスト・コロナの世界では、私たちの暮らしのあらゆる面で、従来どおりというわけにはいかないことは明らかだろう。それは、人間の文化活動でも当然同じであり、本連載の根本的なテーマである、展覧会やキュレーションとは何か、またどうあるべきか、という問いにもつながっている。

 連載は、ギモン3の第2回を執筆当時(2月中旬)のままの原稿で以下、掲載するが、ギモン4以降はそうしたポスト・コロナ社会で求められる展覧会やキュレーションとは何か、といった問題も考えながら、あらためて執筆していきたい。なお、本連載の書籍化の際には、これまでの執筆分も含めて大幅に見直しが必要となってくる部分も出てくると思われる。というか、見直さざるをえない状況にいると言ったほうが正しい。こんな時期に展覧会やキュレーションのことを論じるのか、と言われるかもしれないが、こんな時期だからこそ、見えてくるものがあると信じて、今後の連載を継続したい。


(1)文化財レスキューの具体的な事例については、例えば東京文化財研究所の「被災文化財レスキュー事業 実施状況」などを参照のこと(https://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/110627/index.html)。
(2)なお、先に流行して早くから都市封鎖に入った上海の美術館は、3月中旬から再開、北京の美術館も4月下旬から再開している。イタリアの美術館も5月中旬以降、再開の予定となっている。
(3)「MOMA AND NEW MUSEUM AMONG NY INSTITUTIONS CUTTING JOBS TO CURB DEFICITS」「ARTFORUM」2020年4月3日(https://www.artforum.com/news/moma-and-new-museum-among-ny-institutions-cutting-jobs-to-curb-deficits-82681)、「METROPOLITAN MUSEUM OF ART LAYS OFF EIGHTY-ONE EMPLOYEES」「ARTFORUM」2020年4月22日(https://www.artforum.com/news/metropolitan-museum-of-art-lays-off-eighty-one-employees-82782
(4)モーゲンスタン陽子「ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援」「ニューズウィーク日本版」2020年3月30日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92928.php

 

 

第2回 展覧会に出す「作品」を選ぶ行為

 展覧会では、世の中にあまたある「作品」から、ある特定のものを選んで展示する。その特定のものを選ぶ基準を決めて、何をどのように展示するかを決めるのが、キュレーターの仕事とも言える。
 ギモン2の順路の話のところで少し触れたが、キュレーターは、一本の展覧会に通底するストーリー、あるいは展覧会のテーマ、企画のコンセプトを考え、それに基づいてアーティストとその作品を選ぶ。アーティスト自身が企画をする場合はキュレーターを立てないこともあるが、その場合でも、アーティストがキュレーターの役割を兼務することには変わりない。つまり展覧会は、キュレーターによってなんらかの価値基準の下で選択される作品で構成される、極めて恣意的なものである、ということだ。
 旧東ドイツ出身の哲学者・美術批評家であるボリス・グロイスは、著書『アート・パワー』のなかで、キュレーターやアーティストによってもたらされる展覧会の恣意性について次のように述べている。
「アーティストやキュレーターはこれら芸術の対象とされる物すべてを、純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する。このようにしてアーティストやキュレーターは、選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会を得るのである(6)」
 グロイスの指摘は、半分当たっているが、半分は正直、首を傾げたくなる。確かに展覧会で何を展示するかは、キュレーターあるいはアーティストが決めるにせよ、「純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する」ことができるなら、世の中のキュレーターたちはこんなに苦労していないだろう。そんな思いどおりの夢の企画が実現できることは、まずないと言ってもいい。大抵は、予算の問題や物理的な制約、また人的・政治的要因などさまざまな軋轢があるなかで、それでも自分の理想とする展示に向けて、あらゆる創意工夫をして、多くの人の協力を得て、ようやくなんとか納得できる形に落とし込んでいく、というのがキュレーションの現場の実態に近いと思う。
 ただ、グロイスの指摘のうち、ここで注目したいのは、半分当たっているほうの部分の話だ。先に述べたように、キュレーターの仕事の根幹をなす部分は、展覧会のコンセプト作りとそれに基づく作品の選定にある。展覧会は、グロイスが言うとおり、「選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会」にはちがいない。だが、それは単に自分が好きなものを展示して終わり、ではない。展覧会の規模や種類にもよるが、都内の美術館での大型展覧会となると、家が一軒買えるぐらいの予算を扱う。これが公立館の場合なら、その財源は市民や都民の税金ということになる。特に公金を投じるタイプの展覧会の場合、キュレーターがある選択をして展示する以上は、その作品をどのように美術や美術史の文脈に位置づけるのかについて観客に公的に説明する責任が生じる。一つの展覧会を作るときに、あるコンセプトやテーマを設定した場合、それに沿ってさまざまな選択のプロセスが生まれる。ときには、そのプロセスのなかでコンセプトやテーマそのものを軌道修正していくことも少なくない。なぜAという作家ではなくBという作家を選ぶのか、あるいは同じ作家の手によるものでも、なぜCという作品ではなくDという作品を展示するのか、など一つひとつの選択をしながら、その理由を展覧会の形で広く観客に向けて示していくことが必要になる。またなぜその会場で、このタイミングで、そのテーマの展覧会をやるのか、ということも問われるだろう。それでも、この「選択」という展覧会の宿命は、ときにキュレーターにある種の権力を生み出す危険性もはらんでいる。
「作品」は、作家の手で生み出されて、展覧会場に置かれて、観覧されることではじめて「作品」として多くの人が知ることになる。この「作品」を「作品」として位置づけるのがキュレーターだとすると、キュレーターがもつ責任は非常に重大だと言えるだろう。「作品」がなければ展覧会は始まらないが、キュレーターが選ばなければ、「作品」は日の目を見ることはない。ここでキュレーターは、その選定の根拠をしっかり説明する必要がある。ウォールテキストやカタログは単なる飾りや展覧会の付属物ではなく、展示だけでは足りない部分を言葉を使って補足する大切な役割を担っている。特に近年の多様化する現代美術の場合、見ただけではわかりにくく、その背景について説明を要する作品も多い。こうした展覧会に展示された作品を、その展覧会全体の説明や個々の作品に関する説明も含めて鑑賞した観客の反応、さらには美術史家や美術評論家といった人たちがそれらを論じていくことで、あらためてキュレーターのキュレーションや作品の意義や位置づけが問われていくのだ。

現代美術における作家とキュレーターの関係

 現代美術の場合、作家が現役で活躍していることも多いので、展覧会に合わせて新作を作ってもらう、ということもできてしまう。ときには、評価が定まっていない作家の作品を展示することもあり、若手の作家にお願いすることは、最後まで結果が見えないというリスクも大きい。これは近代美術までのキュレーションとの大きな違いである。既存のものを見いだし、ときには全く新しい文脈から光を当てて選ぶという行為までは近代美術までの美術も現代美術も変わりないが、現代美術の場合、それに加えて、新しく作り出すという行為が可能になってくるのだ。そうしたプロセスにおいて、まさに展覧会で「作品」を「作品」として位置づける行為は、ある種作家とキュレーターによる共同作業になっていくとともに、緊張関係を生み出す。
 1990年代に入って、特に現代美術の展覧会でキュレーターの役割が世界各地で急激に台頭してきたなかで、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタといった大型の国際展を華々しく取り仕切るキュレーターは、「スター・キュレーター」ともてはやされた。そのスター・キュレーターに選ばれる作家はスター・アーティストと呼ばれ、国際展の常連組となり、作品が高値で取り引きされ、世界の名だたる美術館で展覧会が開催されていった。そうした国際的な舞台で活躍するにはスター・キュレーターのお眼鏡にかなう必要があり、そうしたキュレーターと「ワイン&ダイン(食事やお酒を一緒に飲んで仲良くする、の意)」するのが作家として成功への近道であるかのように揶揄されることも多かった。その一方で、そうした作家とキュレーターのパワーゲームに異を唱えるように特に2000年代以降、「アーティスト/キュレーター」と呼ばれるキュレーションを自ら積極的におこなうアーティストが登場したり、複数のキュレーターが一つの展覧会を作る共同キュレーションの試みなど、既存の一人のキュレーターがすべてを取り仕切る形とは異なる新しいキュレーションの方法が次々と実践されている。あるいは、従来の美術の展覧会の枠組みではなく、社会的な問題意識から、アーティストなどが自発的にプロジェクトを立ち上げるなど新たな方法論を模索する試みも近年増えている。例えばアーティスト集団のwah document(ワウ・ドキュメント)は、東日本大震災後の東北の被災地に赴き、子どもたちとワークショップを通してお手製の映画館を作った(7)。あるいは、詩人の上田假奈代が主宰するNPO法人のココルームは、日雇い労働者や路上生活者が多く住む大阪のあいりん地区・釜ヶ崎で「釜ヶ崎芸術大学」という名の地元の「おじさん」たちを対象とした狂言、書道、音楽、美術、天文学など幅広いジャンルを扱う市民大学、ワークショップを継続的に実施している(8)。
 こうしたさまざまな新しい試みは、「作品」を「作品」として位置づける行為が、これまでアーティストが「作品」を創り出し、キュレーターがそれを「展示する」という前提に成り立つ行為であったことを浮き彫りにする。と同時に、近年のキュレーションのあり方の見直しや、観客やコミュニティーが作品制作のプロセスに大きく関わるなかで「作品」を創り出し、それを「作品」として位置づける行為の主体者が必ずしもアーティストやキュレーターとはかぎらないという、現代美術ならではの状況が発生している。
 これまで見てきたとおり、展覧会は、確かに作品を「作品」と定義づけ、美術の文脈のなかに位置づける装置であったと言える。だが、その担い手については誰が「作品」を創るのか、という問いも含めて、あらためて考える必要がある。「作品」が「作品」として成立するときについて、本ギモンでは主にキュレーターの立場から考えてきたが、次のギモンでは、視点を変えて、観客とアーティストの立場からもう一度考えてみることにしよう。


(6)ボリス・グロイス「多重的な作者」齋木克裕訳、『アート・パワー』石田圭子/齋木克裕/三本松倫代/角尾宣信訳、現代企画室、2017年、151ページ
(7)詳しくは「wah in 東北 9日間の活動レポート」(「wah document」〔http://wah-document.com/blog/2011/07/wah-in-東北%E3%80%809日間の活動レポート/〕)を参照。
(8)釜ヶ崎芸術大学については下記を参照のこと。「NPO法人こえとことばとこころの部屋cocoroom」(http://cocoroom.org/釜ヶ崎芸術大学・大学院2019/)。なお、釜ヶ崎芸術大学は、2014年の横浜トリエンナーレに作家として参加している。

 

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ギモン3:何を展示するの?(第1回)

第1回 展覧会における「作品」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 これまで「展覧会」という時空間についてさまざまな角度から見てきたが、ここで基本に立ち返って質問を一つ。展覧会では何を展示しているのだろうか。そりゃぁ、「作品」に決まってるでしょ、とおそらく大半の人は躊躇なく答えるにちがいない。そもそも人は「作品」を観に展覧会に行くわけだし、それは映画館に映画を観にいったり、コンサートホールに音楽を聴きにいくのと同じくらい自然なことのように思われる。だが、ゴッホやモネ、ルノアールなど近代美術あたりまで美術館や展覧会で当たり前のように鎮座していた「作品」の「当たり前感」が、現代美術では、デュシャンを機に著しく崩壊あるいは変容しつつあることは、本連載をこれまで読んでくださったみなさんにはもうおわかりいただいていることだろう。展覧会に「作品」を展示するというよりも、ある意味、美術館や展覧会に展示してあるから「作品」が「作品」として成立する、という一種の逆転現象が現代美術の場合、多発している。本連載の冒頭で、「作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る」とさらりと述べた。キュレーターの仕事の要になるのは、展覧会に一体何をどう展示するのか、ということに尽きるだろう。
 今回のギモンでは、作品はどのように「作品」となるのかについて、キュレーターの立場から考えてみよう。具体的には、美術の展覧会で私たちが普段、至極当たり前のように見ている「作品」について、なかでもとりわけ現代美術特有の事情を抱えた「作品」の展示について、主に次の2つのキュレートリアルな視点からあらためて考えてみたい。まず1つ目は、「作品」を「作品」として展覧会のなかで位置づける行為について、そして2つ目は、「作品」を展覧会のために選ぶという行為について考える。どちらも「作品」を展示するにあたってキュレーターが大きく関わる行為であり、それが特に現代美術の場合、近代までの美術の展示では見られなかったようなさまざまなギモンを呈する。さて、何がどう問題なのか、これから一つひとつ具体的に見ていこう。

「作品」が「作品」になるとき

 まずここであらためて私たちが普段、現代美術の展覧会で「作品」を鑑賞するときのことを思い起こしてみよう。近代までに制作された絵画や彫刻などなら一目で「作品」と判別できるのに、現代美術となると、「これが作品?」「え、これも作品?」と途端にわかりにくくなってしまうのはなぜだろうか。言葉は悪いが、正直、一見ゴミみたいなものも「アート」だったりすることも少なくない。展示室内にあればまだしも、屋外のインスタレーションを中心とした展覧会になってくると、一体どこに作品があるんだ、となかなかに紛らわしい事態が発生する場合もある。逆に無造作に道端に積まれたバケツなどの日用品が、その色合いや積まれ具合が絶妙な味を醸し出して「これって現代アートじゃん」と言われそうになることだってあるだろう。さらにモノの展示ならまだしも、ハプニングやイベント、パフォーマンスなど形に残らない作品の展示になってくると、混迷を極める。例えばティノ・セーガルの『This is Propaganda(これはプロパガンダ)』という作品は、展示室に観客が足を踏み入れると、看視員に扮した人がおもむろに「This is Propaganda, you know, you know.(これはプロパガンダ、知ってるでしょ、知ってるでしょ)」と歌う。こうなってくると、もう気づく人は気づくが、それが「作品」なのかどうかよくわからずに通り過ぎてしまう人が続出してもおかしくない。展覧会場で作品を鑑賞するというときに、私たちは一体どこでそれが「作品」だと判別しているのだろうか。
 MoMAが建築やデザイン、映画、写真などを美術館で展示してコレクションにも加えることで、それまでアートと目されなかったものがアートの文脈に位置づけられてきたことは、ギモン1ですでに見てきたとおりだ。このように美術館や展覧会で何かを展示するという行為は、それを「作品」として美術の文脈に位置づける行為になる。現代美術は、領域横断的な性格を近年ますます強めていて、視覚美術にとどまらず、音楽やファッション、建築などの他ジャンルの芸術、あるいは科学や人類学、社会学、工学、医学、福祉などの芸術以外の分野と横断・協働する作品や展覧会が増加の一途をたどっている。これらの試みのなかには、従来の絵画や彫刻といったモノによるアウトプットだけではなく、地域のコミュニティーを巻き込むようなプロジェクト型になっていたり、最終的な形にはこだわらず、そのときどきの行為やプロセスを重視した形がない「作品」もたくさんある。多様化する現代美術で、「作品」や「アート」の概念は常に再定義を迫られる宿命にある。そもそも現代美術自体、何が「作品」なのか、何が「アート」なのかを開拓、挑戦し続けていくことを本分としているようなところもある。良く言えば懐が深いのだが、下手するとなんでもアリになってしまう危険もはらんでいる。そうした状況のなかで、ホワイト・キューブという展示空間や展覧会という枠組みで「作品」を「作品」として位置づけるのが、キュレーターの大事な仕事の一つである。では具体的に、キュレーターはどうやって「作品」を「作品」として位置づけているのだろうか。

逆パルメザンチーズ再考

 ホワイト・キューブの展示空間の場合は、そこに置かれているだけで「作品」と認識されやすい、というのはギモン1でも見てきた。だが、「作品」はただ展示室にポンと置かれているだけで自動的に「作品」と認識されるとはかぎらない。デュシャン の『泉』を思い出してみると、単に男性用小便器を展示室に持ち込んだだけであれば「作品」とはならないし、あんな一大事件にもならなかった。便器が「作品」になったのには、まず「泉」というタイトルをつけて、制作年と作家によるサインを添え、「展覧会」に出品し(実際には出品されなかったわけだが)、展示台にひっくり返して展示をする、という一連のこまやかな展覧会での決まりごとを経て、さらにそれについて美術雑誌で評論を掲載する、というところまでを全部含めて「作品」が「作品」として美術史における歴史的大事件として位置づけられた。
 ホワイト・キューブという環境、あるいは「展覧会」という枠組みそのものは、「作品」を「作品」たらしめる一種の舞台装置である。この舞台装置で「作品」を「作品」として、よりわかりやすくする小道具がいくつかある。ここで本連載の初めに登場した「逆パルメザンチーズ」に再登場してもらい、作品の展示を構成していた小道具とその役割をいま一度整理してみよう。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」

 まず「周り全部白いバック」が舞台となるホワイト・キューブ空間とすると、「白い台」と「ケース」がそれぞれ小道具の筆頭となる展示台と展示ケースになる。平面作品ならば、額も同じ部類の小道具と言える。これらは作品を保護すると同時に、壁や床に作品を展示することを可能にし、展示室内での作品の位置を明確に示してくれる。もっとも現代美術の場合は、額装されていない平面作品も多いし、展示台を使わないで床に直接配置するような立体作品も多い。次に「周りになんか紐みたいなの張って」いるのが「結界」と呼ばれるもので、ワイヤー状のものや金属製のバーなどがある。これも作品を保護したり、逆に作品によって観客がけがをしたり服を汚さないようにするなど観客を保護する役割がある。そしてこれらの小道具のなかでその最たるものが「四角い紙みたいなのに」あれこれ書いてあるキャプションだ。キャプションというのは、通常、白い四角いパネルなどに黒字で印字してあるもので、作家名、作品タイトル、制作年、素材・技法などを明記して作品のそばに掲示されている。ときには簡単な作品解説などのウォールテキストが別途添えられていることもある。屋外の展示の場合でも、立て看板のようになっているものや、長期的な展示の場合は、金属製のプレートなどで作られて台座などにしっかりと設置されているものもある。

キャプションをつける

「キャプション」という用語は知らなくても、ここまでの説明で「あぁ、あれね」と思い当たる人も多いだろう。あんな小さな四角い紙切れみたいなものが、そんな大事な小道具なのかと思う方もいるかもしれない。だが、おそらくいまこの文章をお読みになっているあなたも、作品だけを観て、キャプションにあるタイトルや作家名を確認せずに展示室を後にすることは少ないのではないだろうか。例えばルーヴル美術館で『モナ・リザ』の絵を観て、そこに「モナ・リザ」という作品名と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という作家名を記したキャプションを見て、「あぁ、いま、自分はあの『モナ・リザ』を観ているのだ」と確認する人は案外多いのではないだろうか。あるいは、近年日本でも人気が高まっているフェルメールの展覧会に行くと、そもそも現存する作品が30数点という寡作で知られるフェルメールの作品は、大抵フェルメール以外の画家の作品と一緒に展示されている。そこで人だかりができるのは、やはりフェルメールの作品だ。人々はキャプションをチェックして、似たような作風の同時代の他の画家の作品には目もくれず、「フェルメール」と記されたキャプションを確認して熱心にそのキャプションが示す作品に見入る。作家名をキャプションで認識するという行為、またそれが自分の知っている作家なのかどうかを確認する行為は、現代美術作品の場合でもよく見られる光景だ。いわば、私たちはキャプションとセットで作品を鑑賞している。こうした作家名や作品名など、作品にまつわる情報を一枚のキャプションの形で整えて展示室に作品と一緒に掲示するのは、キュレーターである。このキャプションは、作品を鑑賞するうえで多くの人がその解釈の手がかりにするものであり、作品が作品として展覧会のなかで位置づけられるプロセスを目に見える形で示す。このキャプションのなかに記されている一つひとつの要素をここで見ていきたい。

キャプションを構成する要素

 まずは作家名だが、通常は、作家名に加えて出身地や活動拠点、並びに生没年を添えることも多い。この情報だけで、その作家を知っているかどうか、ということだけでなく、その作品はどういった場所で活動した(あるいは活動している)作家の手によるものなのかがわかる。また制作年を見ながら、その作家が何歳ぐらいのときに作られたものなのか、どういった時代背景の際に作られたものなのか、といったことが明らかになる。
 そしてキャプションに記載された情報のなかでも、その作品を解釈するうえで最大の手がかりになるのが作品タイトルだ。作品タイトルをつける行為自体は作家によるものだが、キャプションにそれが示されることで、観客は目の前の作品とキャプションを見比べながら、それが何を表そうとしているのかをあれこれ想像することができる。作品の実物を先に見て、次にキャプションのタイトルを見てから、再びその作品の内容について考える人も多いだろう。

作品タイトルいろいろ

 作品とタイトルの関係については、古典的な例としては、ベルギーのシュルレアリスト画家、ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』(1928―29年)を思い起こす人もいるだろう。喫煙具のパイプの絵の下に「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプではない)」とフランス語の文章が添えてある一枚の油彩画である。絵柄としては「パイプ」だが、「イメージの裏切り」というタイトルが示すとおり、それはパイプではなく、一枚の絵にすぎない。マグリットのこの作品については、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが著書『これはパイプではない』(1973年)で言葉と物の関係について主題的に論じているので、ここでは割愛したい。だが、作品の主題を読み解くうえで、言葉と物の関係は切っても切れないこと、また作品タイトルは実に多くのことを示唆することが、マグリットのこの一枚の絵からも想像できるだろう。
 現代美術作家たちも、作品に実にさまざまなタイトルをつけている。例えば、1970年に大阪万国博覧会のペプシ館を水を使った人工の霧で覆った『霧の彫刻』で有名な中谷芙二子は、これまで手がけた霧の作品タイトルに必ず「国際地点番号」と呼ばれる5桁のアラビア数字を付している。これは、世界各国にある観測所に一つずつ割り当てられた番号で、各地点で観測された気象情報は、この番号とともに各国気象機関の世界的なネットワークで共有される。例えば、インド洋に浮かぶ大小1, 200ものサンゴ礁の島々からなるモルディブ共和国の首都マレの国際地点番号は43555である。同地の国立美術館に隣接する緑豊かな公園に出現した作品は、『霧の彫刻#43555「モルディブの雲樹」』と命名された。霧は、風や人の流れ、温湿度、光などによってその表情を刻々と変化させる。筆者が2012年にモルディブで企画した展覧会では、中谷は現地の気象台を訪れ、年間を通したマレの温湿度、風向や風速などの精密なデータを調べた。そして年間平均気温が30度前後という気象条件で、霧を見ることがないモルディブで人工の霧を出現させた(1)。あるいは、08年の横浜トリエンナーレの際に横浜市内にある有名な日本庭園である三渓園で発表された作品は、その外苑のいちばん奥にある人工の滝がある場所に設置され、『「雨月物語―懸崖の滝」 Fogfalls #47670』と題された。自然の物語を語る風の化身として、変幻自在に舞う霧を「雨月物語」になぞらえ、最後に横浜の国際地点番号が付されている(2)。中谷の霧は、芸術であると同時に科学的な眼差しに貫かれていて、それはそのタイトルにも色濃く反映されている。
 一方で1950年代半ばから70年代初頭にかけて関西を中心に活動した前衛美術グループ、具体美術家協会(通称「具体」)の作家たちの作品タイトルには、「無題」や「作品」などほぼタイトルらしいタイトルがつけられていないケースが多い。これは文学的な題名を嫌ったリーダーである吉原治良の意向によるものということだが(3)、具体のメンバーたちの作品タイトルは、押し並べて「作品」「無題」といったものが多い。例えば、具体の主要メンバーの一人、田中敦子は、エナメル塗料でカラフルな円と曲線で構成された絵画を数多く制作したが、そのほとんどが「無題」か「作品」だけ、あるいは「作品 66-SA」「WORK 1964」など、「作品」や「WORK(英語で「作品」、の意)」という言葉の後に制作年を表す数字やアルファベットを付しただけのタイトルにとどまっている。その昔、田中敦子の個展(4)の展覧会カタログの編集のお手伝いをしたことがあったが、とにかく作品を同定するのが大変で、作品画像とサイズ、制作年を必死に照らし合わせる羽目になった。キャプションも「作品」というタイトルと制作年だけ、素材もほぼ同じであるため、間違わないようにつける必要があるが、キャプションがついたところで、観客にとっては、「無題」や「作品」のほかは制作年が異なるぐらいなので、ただひたすらに目の前の絵画に向き合うしかない。既成の絵画や彫刻の概念を解体しようとした具体の意図に鑑みれば、作品につきもののキャプションにタイトルを付さず、ただそこに表現された作品をなんの先入観も与えずに観客に提示するというのは、誠に理にかなってはいるものの、私たちがいかに普段、タイトルを手がかりに作品を鑑賞しているかをあらためて認識させられる。
 このようにタイトルがつけられていないキャプションというのは、鑑賞者にとってはなかなか手強い相手だが、これとは真逆で、岡崎乾二郎は、一編の詩のように長いタイトルをつけることで知られる。岡崎の絵画作品のなかに、2枚1組になっているアクリル絵の具で描いた抽象画のシリーズがあるが、同じ大きさのカンヴァスの左と右でそれぞれタイトルがついている。例えばセゾン現代美術館所蔵の2001年に制作された作品は、左が「平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける」、右が「それを辿れば間違いなく家に戻れる一つしかない煉瓦敷きの道をゆっくり歩いていれば、どっと笑いがとまらない。やがて死ぬ景色は見えず蝉の声。陽の光をさんさん受けた気楽な世界のただ中で影に包まれ、爪先だって歩いている。自分が茄子であるのか南瓜であるのか分らなくてもよい。一生のうちに一回きっと蝶は飛んでくる(5)」という具合である。描かれた絵画自体は、色とりどりの絵具をコテのような形状のペインティングナイフで画面にのせて押し広げたり、絵具の盛り上がりをナイフで丁寧に造形したりした痕跡がわかるようなリズミカルな画面となっている。左と右とで見比べると、同じようなパターンが色の組み合わせや大きさなどを変えたりしながら、左右の同じ位置や、異なる位置にそれぞれ配された画面構成となっている。タイトルのほうは、左と右の文字数は合わせてあるが、それぞれの文章は関連があるようで、ないようで、一つの物語と、もう一つ別のありえたかもしれない物語のように左右のタイトルの関係性について考えさせられる。二枚一組の絵と、左右で対になっているタイトルの文章を鑑賞者は見比べながら、しばし反芻する。岡崎の絵とタイトルは、このように同じような重きを持って鑑賞され、キャプションと言えど、それは単なるタイトルを示す小道具の域を超え、もはや作品の一部となっている。
 と、少々脱線したが、作品タイトルにかける(あるいはあえてそれを意識させないようにする)作家たちのこだわりは、それだけタイトルが作品で非常に重要な役割をもっていることを端的に示している。もっとも、現代美術の場合、展覧会に向けて新作を発表する作家も多く、オープンギリギリまでタイトルが決まらなくて、キュレーターは冷や冷やさせられることもしょっちゅうだ。また作家のほうも、やっと決まったタイトルを時間がたつと忘れてしまったり、あとから変更してしまうことも少なくない。と、なんとも悩ましいものではあるが、作品にとってタイトルは不可欠な存在であり、そんなタイトルも、キャプションがなければ、観客はその作品がどういうタイトルなのか、誰による作品なのか、皆目見当がつかない。つまり、展示室で、ただ作品が置かれるのではなく、キャプションにそのタイトルと作家名が示されることで、「作品」が「作品」として位置づけられることは間違いないだろう。狭い会場であれば、ときに壁にはキャプションをつけずに、会場マップを別途用意してそこにタイトルがまとめて付されていることも珍しくない。ただいずれにせよ、私たちは、普段、タイトルや作家名を見ることなく作品のみを見る、ということはしない。
 ちなみに先に紹介したセーガルの場合は、実は、展示室内にキャプションをつけること自体を許さない。さらに作品を写真や動画で記録することもご法度であることで知られている。これは、キャプションを軽視しているのではなく、展覧会や美術館という枠組みのなかで「作品」を展示する際にいかにキャプションというものが作品を作品らしく見せているか、また、そうした枠組みのなかで作品を展示するという行為そのものに対する痛烈なインスティチューショナル・クリティークとなっている。

 さて、ここまでは「展覧会に一体何をどう展示するのか」ということについて、キャプションなどに象徴される作品展示にまつわる物理的な設えを中心として見てきた。だが、「作品」を「作品」として位置づけるうえでさらに大切なキュレーターの仕事がある。それは、その「作品」を美術の文脈のなかに位置づける、という論理的な設えだ。逆パルメザンチーズのエピソードで言えば、最後の部分、「「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明」を書く、という部分である。つまり、作品に関するテキストを書く、作品について論じるということである。テキストというとカタログを思い浮かべる人もいると思うが、カタログそのものについては、また追ってのちほど少し考える機会をもちたい。ここでは展覧会のためにある作品を選んで、それについて説明する、テキストを書くということについて次回考えてみよう。


(1)難波祐子「呼吸する環礁(アトール)――連なりの美学」、国際交流基金『呼吸する環礁(アトール)――モルディブ 日本現代美術展』所収、国際交流基金、2012年、59ページ
(2)『横浜トリエンナーレ2008カタログ――time crevasse』横浜トリエンナーレ組織委員会、2008年、197ページ
(3)加藤瑞穂氏へのメールによるインタビュー、2019年11月6日
(4)「田中敦子――アート・オブ・コネクティング」(2011―12年)、アイコンギャラリー(イギリス)、カステジョン現代美術センター(スペイン)、東京都現代美術館を巡回。
(5)岡崎の作品画像とタイトルは以下の記事を参照のこと。影山幸一「デジタルアーカイブを開始した美術家「岡崎乾二郎」」「artscape」(http://www.dnp.co.jp/artscape/artreport/it/k_0602.html

 

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ギモン2:展示の順番と見る順番は違うの?(第2回)

第2回 時間軸がある作品の展示

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 近年、現代美術の展覧会で、映像作品が占める割合が著しく増えている。これは映像を撮影するための機材や編集するためのコンピューターのソフトウエアなどの開発が1990年代以降、飛躍的に発展し、廉価でコンパクトで性能がいいものが急速に大量に出回るようになったことが大きい。展示の方法も、シンプルに壁にプロジェクターで投影したり、モニターで見せるほか、コンピューターのプログラムを介して複数の映像を同期させたり、空間全体を作り込むようなインスタレーションの形で見せるものも多い。このほか、音を使ったサウンド・インスタレーションやパフォーマンス、また光や音、映像、インスタレーションなどを総合的に組み合わせてコンピューターでプログラミングし、演劇のように見せるメディアアートなど、特定の時間軸をもつ作品の展示が、旧来の劇場やコンサートホール、映画館といったスペースだけでなく、美術の展覧会の枠組みのなかにも入り込んで盛んにおこなわれている。こうした時間軸をもつ作品が展覧会で展示されているとき、あなたは普段どのように鑑賞しているだろうか。先に考察した順路については、キュレーターの設定した順路に沿って見たり、逆に自分の好きな順路とペースで見ることが可能である。だが映像作品やパフォーマンス作品のなかには、起承転結がはっきりしていたり、始めから終わりまでの流れと長さが決まっているものも多く、そうなると途端に自分の見るペースが乱される。美術館で展示される映像作品の大半は、数分程度と短めに編集されていることが多いものの、上映時間のスタートが決まっているもの、あるいは長篇の映像の場合だと、どうしても作品の途中で展示をのぞくことになってしまう。展覧会の規模にもよるが、通常は、美術館で一本の展覧会を鑑賞する場合、1時間、あるいは長くてもせいぜい2時間程度で見終わることが一般的である。だが、近年の映像作品の増加によって、すべての映像作品を始めから終わりまできちんと見ようとすると、4時間近くかかってしまう展覧会も少なくない。こうなってくると、よっぽど覚悟を決めてかからないと、全部を消化するのは不可能になってしまう。その場合、何らかの取捨選択をしながら一本の展覧会を見ることになるが、その際にあなたにとっては何が決め手になるだろうか。

音楽を「設置」する展覧会

 ここで2017年の春にワタリウム美術館(東京)で開催された「Ryuichi Sakamoto async 坂本龍一設置音楽展(4)」(以下、「設置音楽展」と略記)を具体例として少し丁寧に見ていきながら、キュレーターがデザインする時間、作品がもつ時間、ならびに鑑賞者の体験する時間の関係について考えてみよう。「設置音楽展」は、17年にリリースされた坂本龍一のアルバム『async』を「立体的に聴かせる(5)」ことを意図した展覧会だった。展示は3フロアに分かれていて、2階からスタートして3階、4階と上がっていき、最後に地下1階のショップでアナログ盤の同アルバムなどを視聴できるような構成になっていた。
 2階の入ってすぐの部屋には、展示ケースのなかに坂本がアルバムを制作する際に着想のもとになった書籍や写真、メモ、譜面などが導入的に展示され、奥に進むと『async』の楽曲が5.1chの高性能スピーカー6台で流れる部屋へと続き、そこで四方から音に囲まれる。壁には、縦型に配置された8台のフラットなモニターに高谷史郎による映像がリアルタイムで生成される。3階にはアルバムの制作のために坂本が過ごしたニューヨークのスタジオとその周辺などを撮影した映像と音風景を、24台の iPhone と iPad でスケッチのように見せるニューヨーク在住のアーティスト・ユニット Zakkubalan によるインスタレーション、4階にはタイ人アーティスト・映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンが同アルバムから着想を得て制作した映像作品が展示された。

「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.

 このように「設置音楽展」は、3フロアを通して、坂本とさまざまなアーティストとのコラボレーションによって『async』という一枚のアルバムがもつ世界観を多角的に展示する展覧会だった。だが、私はこの展覧会をかなりの時間をかけて見終わった後、なんとも言えない違和感を覚えて会場を後にした。その違和感について、展覧会が終わった後も事あるごとに何が原因なのかを考えることが多かった。その後、2018年の秋にソウルで坂本のデビューから現在までの40年にわたるさまざまな活動を音楽、映像、インスタレーションなどを通して振り返るような個展(6)を見る機会があった。同展では、映画音楽に始まり、1980年代のナムジュン・パイクとの実験的なビデオ作品や長年活動をともにしているミュージシャンのアルヴァ・ノトとのライブ映像、高谷史郎とのインスタレーション作品のほか、「設置音楽展」とはまた少し異なる形で『async』に関する展示もあるなど、盛りだくさんな内容だった。そこで3時間近くを過ごしたあげく、閉館時間になってしまいあえなく会場を出たが、久々に「時間」を忘れて一つの展覧会を堪能するという体験をした。そしてこの展覧会では「時間」が幾重にもなって大切な要素になっていると実感した。同時に改めて「設置音楽展」のことを思い出し、そこで覚えた違和感の背後に展示を取り巻く「時間」の問題が潜んでいるのではないか、とようやく思い当たった。特に「設置音楽展」のなかでも2階の展示は、アルバムの音楽を立体的に展示する、という同展覧会の中核をなす展示であるとともに、最も違和感を覚えた展示でもあった。どうやらこの展示に向き合うことが、特定の時間軸をもつ作品とその鑑賞体験の関係について、いくつか思考するためのヒントを与えてくれそうだ。そこでここでは、「設置音楽展」のなかでも、この2階のインスタレーションについてもう少し掘り下げながら読み解いていき、展示を取り巻く「時間」の問題を改めて考えてみたい。
 通常の映像インスタレーションやサウンド・インスタレーションでは、「出入り自由」であることが多く、「設置音楽展」でも3階と4階の展示については、各展示室を観客が比較的自由に自分のペースで見て回る姿がよく見られた。だが、2階のインスタレーションについては、整った音環境のなかで「一枚のアルバムを聴く」という行為が組み込まれていたがために、そこにいた観客のほとんどは、一度展示室に足を踏み入れると、退出することなく、かなり長い時間、音楽そのものを聴きながら高谷の映像を見ていた。高谷の映像は、坂本のニューヨークのスタジオにあるピアノや書籍、譜面、マレット(打楽器用の枹/バチ)、指揮棒、裏庭の植木鉢などさまざまな事物を撮影したものをベースに構成されている。モニターに映し出される映像は、右側あるいは左側のモニターから一定方向に徐々に時間差で変化していき、8台で一つの風景を作り出す(7)。無数の細い横線からなる画面は、左側からあるいは右側からゆっくりとスキャンするように1ピクセルずつ実写した動画へと変換されていく。動画は徐々に隣のモニターへとスライドしていくように流れ、動画の部分が終わると、その端から1ピクセルずつ順に画面上に固定されていき、静止画となる。こうして線の映像は動画へ、動画は静止画へと変換され、一つのイメージが織物を織るように生成されていく。8面の静止画のイメージができあがると今度は逆に、静止画のイメージが1ピクセルずつ引き伸ばされて、時間の経過とともにその痕跡が無数の横線になって堆積していく。こうして8面のイメージは徐々に分解され、最後には幾重にも積み重なった横線が再びすべての画面を覆う。そしてまたこれらの線が少しずつ変換され、新しいイメージが立ち現れていく。高谷の映像は、アルバムの音と同期しているわけではないが、刻一刻と表情を変え、アルバムの音が作り出す時間軸に並行して、潮の満ち干のように展示室に流れるもう一つの時間軸を視覚的に鑑賞者に強く印象づける。

「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.
「設置音楽展」(2017年)会場風景
Photo by Ryuichi Maruo
2017 commmons/Avex Eentertainment Inc.

 展示室内に「設置」された「音楽」を体感するという行為は、最初から最後までの時間を演者側がコントロールし、大勢の人が一斉に鑑賞するライブや映画、舞台とは何が異なるのだろうか。ここで、通常の音楽アルバムを聴く行為と、展示空間でインスタレーションという形で『async』というアルバムを鑑賞する行為について比較しながら少し考えてみよう。

音楽アルバムを聴くという行為

 レコードの登場は音楽の鑑賞体験に大きな革命を起こしたが、1970年代に普及したカセットテープはさらなる変化をもたらした。カセットテープは、ラジオやレコードの音楽を聴き手が自ら編集・録音することを可能にした。さらにコンパクトなカセットテープは、カーオーディオにも組み込みやすく、車で移動しながら自分の好みの音楽を聴くことを可能にした。またカセットテープのポータブルな再生機として開発された79年のソニーのウォークマンの登場は、音楽を文字どおり持ち歩くことを可能にした。現在では録音される媒体は、レコードやカセットテープからCDへと変わり、さらにネットから配信されたり、ダウンロードした音楽を iPhone などのスマホで聴くことが一般的になっている。
 カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドは、1966年に発表した「レコーディングの将来」という評論で、録音音楽による演奏音楽家の役割の変化、編集技術者や作曲者、聴き手への影響などについて鋭く洞察している。なかでも、従来の「受動的な分析者」ではない編集意識をもった新しい聴き手の可能性を次のように予見している。「かれは協力者であり、将来といわず現在すでにかれの趣味、嗜好、傾向は、かれが注意を寄せる音楽経験の周辺部分を変えている。音楽芸術の未来は、かれのさらなる参加を期待している(8)」
 通常、一枚のアルバムを聴くという行為は、音楽ホールなどである特定の日時に生演奏を聴く行為と異なり、すでに録音された音楽を再生して聴く。したがってアルバムそのものは、作り手によってその一枚にバランスよく収まるように編まれているものの、その聴き方は、グールドが予見したとおり、聴き手の自由にかなり任されている。自分の好きなようにスキップさせたり順序を入れ替えたり、途中で止めたり、同じ曲を繰り返し聴くことも可能である。またアルバムを聴くシチュエーションも、スマホで通勤・通学時に聴いたり、自室で何か作業をしながら流したり、車を運転しながら聴いたり、と自分の好きなところ、好きなときに好きなペースで聴くことができる。そういった意味では、「演奏会」や「展覧会」という時空間でしか成立しない作品鑑賞のあり方と比べて、比較的自由な鑑賞を可能にする。
 もともと『async』のアルバムは、一般的なコンサートやライブなどステージ上で再現するのが難しいタイプの楽曲で構成されていて、録音されたアルバムの形で鑑賞することを前提として坂本が作り込んだものだ。そういう意味では、このアルバムは本来、アルバムとして通常の音楽アルバムと同様に鑑賞することが期待されている。だが同時に、このアルバムについて坂本は、次のような重要な発言をしている。それは、このアルバムをもともと「音を空間に配置するつもりで作った(9)」ということである。つまり、このアルバムは、アルバムという形を取りながらも、展示を前提とした音楽として考えられていたのだ。そして「設置音楽展」は、そのアルバムを「良質な環境で音楽に向き合ってもらえたら(10)」という坂本自身の思いからスタートし、自らが展示ディレクションを手がけた展覧会だった。

展示室に設置されたアルバムを鑑賞する行為

「async」というのは、そもそも「同期しない」「非同期」という意味である。これは普段、演奏や鑑賞において同期を前提としている音楽というメディアの本質を根本から問い直すような試みである。収録している楽曲も、いわゆるメロディーを追って聴くような楽曲だけでなく、坂本自身がさまざまな音を収集し、それらを配置・編集した楽曲で構成されている。林のなかを枯れ葉や小枝を踏みながら歩く足音、三味線の擦れる音、6月の裏庭の雨音、ピアノの弦をはじいたりこすったりする音など、それぞれの音が固有のテンポをもちながら、複層的な時間が流れる音楽となって「架空のタルコフスキー映画のサウンドトラック(11)」というコンセプトのもと、一枚のアルバムに編まれている。
 実際に展示室で流す際には、市販されている『async』のアルバムよりも少し長めに編集した音源が展覧会のために用意された。具体的には、収録曲のうちの一つをオリジナルの5分9秒の長さから6分5秒とわずかながら長めに編集し、また通常のアルバムには収録されていない曲をボーナストラックとして一曲加えて構成した。これは、「出入り自由」なインスタレーションの形で聴かせる展示を意識しながらも、アルバムを立体的に鑑賞させるという目的に軸が置かれていたため、「アルバムからあまり大きく離れないように少し長くする(12)」ことを基本とした結果であるという。最終的な全体の長さについては、坂本自身が現場で聴き比べながら判断して決めた。高谷の映像は、物語性を排除し、坂本の音とあえて同期しないことで、その世界観と展示空間で流れる時間を可視化する『async』のアルバムと不可分なインスタレーションになっていた。
 結果的に、この展示は、一見「出入り自由」な映像インスタレーションの体裁を取りながらも、実際には、ライブを鑑賞するように作品の時間軸に沿ってじっとその場で鑑賞する観客を多く生み出すことになった。これは、この展示が、一般的なアルバムの観賞よりもライブ体験に近いことを物語っている。同時にステージ上で再現することが難しい音楽アルバムを個人による鑑賞やライブ会場での鑑賞とは異なる手法で「立体的に聴かせる」には、展示室でのインスタレーション/設置の形が最良の手段だったと言えるだろう。そういった意味では、同展は、通常の一枚のアルバムを聴くという行為と、映像インスタレーションを鑑賞する行為、さらにはライブ鑑賞をする行為のちょうど中間に位置するような展示であり、一つのライブ・パフォーマンス的なインスタレーション作品として提示されていた。言い換えれば、今回の「設置音楽展」の2階のインスタレーションは、単なる音楽アルバムの鑑賞ではなく、「async」というアルバムタイトルが象徴するように、多様な時間の層が交錯する鑑賞のあり方の可能性を開く先駆的・過渡的な試みだったと言える。私が初めにこの展示に対して抱いた違和感は、一つの展覧会のなかに幾重にも絡まり合った時間が同期することなく提示されている、といういままで経験したことがない鑑賞体験に戸惑ってしまったことに起因しているのかもしれない。
 一枚の音楽アルバムを音楽と映像によるインスタレーションとして展示室に展開する手法は、音楽を「設置」するという行為が単に展示室の空間に物理的に作品を配置するだけでなく、展示室に流れる時間も配置していることを浮き彫りにする。展覧会、展示のための音楽のあり方は、コンサートやアルバムとは異なる非同期性を内包する音楽の新しい鑑賞の可能性を開く。一方で、展示室で音楽や映像作品を鑑賞するという行為は、スマホで音楽や動画を視聴するように、好きな順序で、好きなタイミングや場所で鑑賞する行為と異なり、あくまでも展覧会の時空間でしか成立しない作品鑑賞のあり方について改めて問いを投げかける。ここで、時間軸をもつ作品の鑑賞について、さらに考えを深めるためにもう一つパフォーマンスを「展示」した事例を見てみたい。

パフォーマンスを展示する

 2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ(13)で金獅子賞を受賞したリトアニア館の「Sun & Sea(Marine)」は、会期中の週2日だけ終日開催される新しい形の「オペラ・パフォーマンス(14)」だった。ビエンナーレ主会場の一つであるアルセナーレ(旧造船所)から少し離れた一角にある倉庫に、2階に上がる階段と上階部分をぐるりと取り囲むバルコニーが設えられている。2階に上がって薄暗いバルコニーから見下ろすと、1階部分がまるで一枚の巨大な絵画のように見える。そこでは明るく照らし出された人工のビーチが広がり、思い思いにくつろぐ水着姿の人々が目に入る。砂浜の上にタオルを広げて寝転がっている人たち、寝椅子に横たわって本を読む人、犬を連れて散歩をする人、ビーチテニスで遊ぶ子どもたち。そのうち一人の女性が寝転がったまま、おもむろに日焼け止めを手に取って、そのラベルを読み上げながらソプラノで歌い始める。やがて彼女のアリアにビーチにいる人たちが声を合わせて歌いだす。しばらくすると今度は別の男性が日々の仕事で過労ぎみだと歌い、周りがハミングしてハーモニーを奏でる。こうして約20人の歌い手が穏やかにゆっくりとしたリズムで順に歌い始め、それにコーラスが加わっていく。歌詞の一つひとつは、仕事や休暇の話、日焼けやビーチに捨てられたゴミなど、他愛のない個人の日常を取り上げたものから始まる。やがて彼らが抱えている現代生活のさまざまな歪みや不安を描き出し、さらには環境破壊や地球温暖化など、地球が滅びゆく最後の日がささやかな日常から静かに忍び寄っていること、そしてそのことに対して、ビーチに横たわる人々のように緩慢な態度であり続ける私たち自身の姿を示唆していることがわかる。
 パフォーマンスは約1時間でひとめぐりするが、特に終わりと始まりが明確にされているわけではなく、観客は自分の好きなタイミングでその場を後にすることができる。リトアニア館の試みは、上演時間が定められた既存のオペラとは異なる、展覧会の形で見せることを全面的に意識した、生きた絵画を見せるような作品として提示されていた。「設置音楽展」の『async』が、展示と音楽アルバムというそれぞれ異なる鑑賞形態に開かれた多面的な性格(15)を有していたのに対し、リトアニア館の「Sun & Sea」は、定められた時空間を有する展覧会の形でしか成立することができないタイプのパフォーマンス作品だったとも言える。

展示の時空間を主体的に鑑賞する

 これまで見てきたように、展覧会を鑑賞する行為は、展覧会がもつ物理的な空間と時間の両方を一人ひとりが鑑賞する行為であると言える。展示の順番や設えというキュレーターがデザインする展覧会の時空間、見る順番とペースという鑑賞者がデザインする展覧会の時空間、そして作品そのものが作り出す展覧会の時空間が交錯するなか、ストーリーやロジックを道筋の手がかりとしながら、どう歩くかは鑑賞者に開かれ、その主体性に委ねられている。つまり展覧会では、空間的な問題だけでなく、展覧会を体験する時間についても主体的な鑑賞が求められる。
 ただし、作品そのものがもつ時間軸を鑑賞者が経験することが必須のタイプの作品の場合、主体的な鑑賞者を招き入れながらも、作品がもつ時間に鑑賞者はある程度取り込まれ、その現象を包括的に直接肌で感じながら、自らのなかにリアルタイムで流れる時間や自身の過去のさまざまな体験や記憶などと照らし合わせて結び付けながら作品を体感することになる。絵画作品や彫刻作品の場合も、それらを作り出すために作家が費やした時間、さらにはその作家が生きていた/いる時代性などの歴史的時間が織り成されていて、ときにそれは絵筆の跡やのみの跡、あるいは主題とするモチーフなどから感じることもある。しかし、音や映像、パフォーマンスなどを用いた作品は、よりそのものがもつ時間軸が鮮明になり、鑑賞者の鑑賞体験の時間にダイレクトにリアルタイムで作用していく。ただし、コンサートホールや映画館での鑑賞と異なり、展覧会での展示はあくまで「出入り自由」なので、どの程度その作品がもつ時間のなかに自分の時間を重ねていくかは、あくまでも観客の手に委ねられている。
 一方で、時間軸をもつ作品の展示は、そういった作品を制作する作家やそれを展示するキュレーターの側にとっても、順路や時系列に従わない展示のあり方について再考を促す。そこではストーリーの組み立て方も起承転結型ではなく、オープンエンドな作品や展示のロジックも選択肢の一つに加えながら、展示の時空間をデザインしていくことが必要とされるだろう。
 このことは、展覧会という枠組みのなかで、個々の作品が成立するプロセスや、展覧会の時空間や体験をデザインする担い手について、作家、キュレーター、鑑賞者のあり方を改めて私たちに考えさせる。展覧会は、単に作品を「見る」空間を提供するだけではなく、体全体を使って感じ、思考し、作品と接する特定の時間を過ごす場なのだ。また作品は、いったん作家の手元で完成すると、作家の手から離れる。だが作品は、展覧会という時空間のなかにある文脈をもって設置され、鑑賞者が展示室に入ることで、個々の鑑賞者の鑑賞体験となって共有、解釈されていく。
 近年、現代美術の展覧会で映像作品と並んで増加している参加型・体感型の展示や、展覧会の枠組みのなかで実施されるパフォーマンス作品の展示は、作家、キュレーター、鑑賞者といったそれぞれがもつ異なる時空間の交錯の仕方、ならびにグールドが言う「新しい聴き手」としての主体的な鑑賞者のあり方が作品の成立に大きく関わっていることを示唆している。次のギモンでは、こうした作品が作品として展覧会のなかで成立する仕組みについて考えていこう。


(4)「Ryuichi Sakamoto async 坂本龍一設置音楽展」ワタリウム美術館、2017年4月4日-5月28日
(5)坂本龍一氏メール談。2019年6月2日
(6)「LIFE, LIFE: RYUICHI SAKAMOTO EXHIBITION」piknic(韓国・ソウル)、2018年5月26日-10月14日
(7)以下の映像の描写については、高谷史郎氏によるメールと電話での解説に基づく。2019年6月30日(メール)、8月24日(メール、電話)
(8)グレン・グールド「レコーディングの将来」、ティム・ペイジ編『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』野水瑞穂訳、みすず書房、1990年、162ページ
(9)NHK BSプレミアム『坂本龍一 ライブ・イン・ニューヨーク“アシンク”』(2018年3月11日放送)での坂本のコメント。
(10)ワタリウム美術館「坂本龍一 async 設置音楽展」展覧会概要(http://www.watarium.co.jp/exhibition/1704sakamoto/index.html)[2019年7月27日アクセス]
(11)『async』ライナーノーツ。アンドレイ・タルコフスキー(1932-86)は、ソ連の映画監督。
(12)坂本氏メール談。2019年6月2日
(13)第58回ヴェネチア・ビエンナーレ、2019年5月11日-11月24日。リトアニア館展示は2019年5月11日-10月31日。
(14)リトアニア館チラシ
(15)『async』は、その多面性を象徴するように展示とアルバムのほか、ニューヨークで2日間限定のライヴとして実施され、またそれが映画にもなっている。ライヴ:Ryuichi Sakamoto – async Live at Park Avenue Armory/Artists Studio、2017年4月25日、26日(各回100人限定)高谷史郎と共演。映画:『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async』(原題RYUICHI SAKAMOTO: async AT THE PARK AVENUE ARMORY)、アメリカ・日本、監督:スティーブン・ノムラ・シブル、2017年

 

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ギモン2 展示の順番と見る順番は違うの?(第1回)

第1回 展示を取り巻く「時間」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「ギモン1」では、作品と出逢う場としての美術館や展覧会という枠組みについて、その歴史的な背景も踏まえながら、特にホワイト・キューブという物理的な空間がもたらすコンテクストに着目しながらざっくりと考えてみた。今回の「ギモン2」では、展示を取り巻く「空間」から「時間」の問題へと視点を移して、一本の展覧会が作り出す時間の流れについて考えてみたい。
 さて、展示の「空間」についてはある程度イメージが湧くものの、展示の「時間」と言われると、すぐにはピンとこない方もいるかもしれない。そこで、本題に入る前に、展覧会というシチュエーションでの時間の流れについて少し頭の準備体操をしてみよう。展覧会で個々の作品を鑑賞するために費やす時間や、美術館などの展覧会場での時間の過ごし方は、例えば映画館で映画を一本見たり、コンサートやライブで音楽を聴くときの時間の流れと何が同じで何が違うだろうか。またテレビで録画しておいた番組を見たり、スマートフォンで「YouTube」などにアップされた動画を見たり、ネット配信された音楽を聴く行為と比べるとどうだろうか。何が展覧会特有の時間の流れを形成しているのだろうか。ここでは、まずは展覧会の順路の話を手がかりに展示を取り巻く「時間」にまつわるギモンを解きほぐしていき、その後、映像や音楽、パフォーマンスなど特定の時間軸をもつことを特徴とした作品の鑑賞について具体的な例をいくつか挙げながら見ていきたい。

展覧会場の順路はなぜ必要なのか

 では、まず手始めに展覧会に出かけるときのことを思い起こしてみたい。あなたは、展覧会場に着いたら、普段どのような手順で展覧会を見て回っているだろうか。会場入り口などで入手できる会場マップや作品リスト、あるいはオーディオ・ガイドなどは活用しているだろうか。それとも、そういうものは煩わしいので、何も持たずに自由に見て回る派だろうか。逆にガイドツアーなどに積極的に参加して、解説を聞きながら展示室を回る派だろうか。また展覧会場にいったん足を踏み入れたら、基本的には引き返したり人の流れには逆らわず、とにかく最後まで順に展示を見て進むことのほうが多いだろうか。
 マップやガイドなどを使わず一人で勝手気ままに展覧会を見たとしても、大半の人は特に不便を感じることなく入り口から出口へとたどり着くが、そのことに特に疑問を抱く人はいないだろう。だが、よくよく考えてみると、大抵の展覧会は入り口から左回り、あるいは右回りになるように作品を配置し、展示室から次の展示室へと一筆書きで順にめぐるかのように「設計/デザイン」されていることがわかる。まず入り口から最初の展示室に入る前、あるいは最初の展示室に入ってすぐのところなどに主催者による「ごあいさつ」パネルが大きく掲示され、展覧会の概要や関係者への謝辞などが述べられている。そして多くの場合、展覧会は章立てになっていて、各章のはじめには、その章がどういったものなのかを解説するウォール・テキストと呼ばれる説明書きがパネルやバナーなどで掲示されていて、そのテキストのすぐ隣から最初の作品を見るように自然に促される。場合によっては、このウォール・テキストには番号まで振ってあって、会場マップや作品リストと対応していることも多く、自分がいま、展覧会全体のうち、どの部分を見ているのかが把握できるようになっている。また通常は、部屋のなかの周り方を示したり、一つの部屋から別の部屋に移る際の方向を示すために、要所要所に「順路」と書かれた表示が矢印付きで掲示されていて、観客が迷わず順を追って展示を見ることができるように配慮されている。さらに出口には、「出口」という立て看板などが出ていることも多く、ご丁寧に「再入場できません」と注意書きが添えられていることも少なくない。もちろんそれでも迷ってしまう人には、監視の方々が優しく順路を示してくれる。こうした展覧会場の順路はそもそもなぜ必要なのだろうか。観客が好きな順番で展示を見ると何か不都合が生じるのだろうか。

順路は誰が決めるのか

 展覧会での作品展示の順序や順路、章立ての仕方を決めるのは、基本的にはキュレーターの仕事だ。同じ展示室でも、どのような順路にするかは展覧会ごとに変わる館も多く、入り口から出口までの各展示室の回り方は、右回りになることもあれば、左回りになることもある。また複数階に展示室が分かれる場合は、上の階から順に下りてくるようにすることもあれば、下から順に上の階へと上がっていくようにすることもある。章立ての仕方は、展覧会の性質によってさまざまである。例えば、一人の作家の回顧展であれば、時系列でその作家の初期の作品から晩年までを時代ごとに区切って展示することが多い。あるいは、グループ展の場合などは、何かしらのテーマ性をもたせて、テーマごとに章を設けて、同じテーマに沿った作品をまとめて展示したりする。いずれにせよ、通常は、展覧会を通して何らかのストーリーを語るように構成するのが、展示の鉄則である。また、このストーリーの流れを支えるロジックが順路と密接に関わってくる。実際には、会場の物理的な制約(壁の位置や床の対荷重、天井高、間口のサイズなど)や予算、安全面の規制、あるいはアーティスト自身のこだわりなど、さまざまな要因によって展示できる作品やその順序・順路の設定も左右される。したがってそのロジックが破綻しない程度に各方面と調整していくのがキュレーターの腕の見せどころでもある。展示空間での作品の物理的な配置の仕方や展示方法、展示構成、部屋の仕様、あるいは展示台や展示ケースといった什器の仕様については、前著『現代美術キュレーター・ハンドブック』(青弓社、2015年)に詳しいので、ここでは割愛したい。逆に今回のギモンでは、とかく作品の見え方、見せ方など、空間的・視覚的な構成やその効果に気を捉われがちな美術展のキュレーションで、キュレーターが設計する展示の順路が生み出す時間と作品自体がもつ時間、鑑賞者が展示室内で体験する時間、という3つの時間の関係に焦点を当てて考えてみたい。

開かれた美術館と主体的な鑑賞者の登場

 まるで宇宙船が舞い降りたような円形のガラス張りの白い建物で知られる金沢21世紀美術館は、「開かれた美術館(1)」をコンセプトに2004年にオープンした。妹島和世+西沢立衛/SANAAが設計した同美術館は、金沢市内の中心部に位置し、建物の構造的にも「開かれた」美術館であり、またプログラムなどのソフト面でも教育普及や市民交流を重視した「開かれた」美術館である。ここでは展示の順路について考えていくために、その構造面について少し詳しく見ていこう。美術館の建物は、ガラス張りの開放的な外観に加え、1階部分の出入り口が東西南北の計4カ所にあり、どこからでも自由に出入りできる。さらに特徴的なのが、展示室の配置の仕方である。一般的な美術館では、四角い空間を仕切るように展示室と展示室が壁を隔てて隣り合っている。これに対して金沢21世紀美術館の展示室は、可動壁を設けず、丸い枠組みのなかに大きさやプロポーションが異なる大小14の展示室が集落のように配されていて、独立した展示室の周りには、必ず廊下がある回遊型の構造になっている。各展示室には番号が振られているが、明確な順路は設けられていない。
 開館記念展の「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から(2)」(2004年)では、有料・無料ゾーン両方の館全体にわたって展示がなされ、その回遊性がより一層際立つ展示になっていた。それまで一つの展覧会の展示構成を考えるときに一つのストーリーを作るようにキュレーションしてきたという、同展キュレーターで館の立ち上げに関わった長谷川祐子は、開館記念展では「いくら(キュレーター/美術館側が)ルートを決めても(観客は)自分が好きなところに行ってしまえる」ため、「どんな組み合わせでもエリアごとに成立する(3)」という実験的な展示になったとコメントしている。さらにSANAAの建築のキーワードにもなっている「柔軟性(フレキシビリティ)」を、長谷川は次のように再解釈して語る。「空間と作品との間でぴったりとした対話が成立すれば、一つ一つの作品、それぞれの部屋の強い印象を作ることができる。あとは見る人に自分でルートを作ってもらう。見る人に任せてしまうフレキシビリティなので、任せられる人間も強い認識や選択、自分自身の判断を迫られる。相手に対していろんな潜在能力を要求するフレキシビリティなんです。この美術館は決してオープンで、綺麗で明るいだけでなく、反面アナーキーで、ある意味、人に対して鍛錬を強いる建物だと思います」。開館記念展では、体感型・参加型の作品が数多く展示されたほか、視覚にストレートに訴えかける作品もバランスよく配置され、美術の専門知識がなくとも、素直に楽しめる作品が圧倒的に多い印象だった。美術館の顔とも言えるレアンドロ・エルリッヒの恒久展示作品『スイミング・プール』は、上から覗き込むと、プールの水面の下に立つ人々の姿が見えるという不思議な光景を生み出す。12メートルの天井高がある展示室には、ゲルダ・シュタイナー&ユルグ・レンツリンガーの植物や廃棄物などを用いたインスタレーションが有機的に張り巡らされ、天井から浮遊するように会場を包み込む。脳内の神経ネットワークと生態系の多様性の融合を表現した「脳の森」のなかで、人々はしばし休憩し、散策を楽しむ。あるいはパトリック・トゥットフオコのカラフルな特別仕様の自転車で館内を周遊してみたり、エルネスト・ネトの柔らかなインスタレーションのなかに横たわってゆっくりと身を沈めていくなど、思い思いの時間を過ごす。だが、その一方で、明確な順路がない、ということは、一つひとつの作品の力を借りながら、鑑賞者が自分の身体感覚を使って展示を確認していく作業を強いる展示ともなった。
 開館から15年以上を経た現在の金沢21世紀美術館の企画展示の有料スペースでは普段、企画展とコレクション展、あるいは企画展2本など2つの展覧会が開催されることが多いが、開館記念展同様に、各展覧会の入り口が設置されている以外は、特に矢印付きの順路表示はされず、展示室に番号が振られているだけにとどまっている。今日でも日本の多くの公立館が順路表示を当たり前のように掲示するなかで、来館者に真の意味で「開かれた」美術館であろうとする同館の姿勢は開館以来、崩されておらず、結果として新しい鑑賞のあり方を楽しむ人々の姿が数多く見られる。決められたストーリーを誰かが語ってくれるのを待っているのではなく、鑑賞者自らが自分自身に問いかけながら、その日、そのときでいく通りものストーリーを作っていくような鑑賞の形であり、それは主体的な鑑賞者のあり方を求めているのだ。また、そうした鑑賞者の主体性を自由に促すようなオープンな解釈を許す展示というのは、キュレーター側にとっても相当な鍛錬を強いるものとも言える。キュレーターが用意するストーリーは、一つの解釈を鑑賞者に押し付けるものではなく、鑑賞者に向けて多様な展示の解釈を開くための、ある種の筋道を立てるものにとどめられ、あとは鑑賞者自らにストーリーを作ることが委ねられる。順路を作ること、ストーリーを作ることは、展示を空間的にデザインするだけではなく、時間や体験をデザインすることにつながる。またそれらをデザインする主体は誰なのか、という問題を私たちに突き付ける。ここで今度は、作品そのものがもつ時間、特定の時間軸をもつ作品の展示について考えてみよう。

(第2回に続く)

 


(1)「開かれた美術館」というコンセプトは、もともとは1970年代にポンピドゥ・センター(パリ)が提唱した美術館像。美術の墓場、アートの愛好家に閉ざされた場になっていた従来の美術館を広く一般の人々に開かれた場にしようとした。2000年代以降、日本の美術館にも大きな影響を与えていて、教育普及プログラムの充実や地域との連携が積極的におこなわれている。金沢21世紀美術館は、その代表例の一つ。
(2)開館記念展「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から」2004年10月9日-05年3月21日
(3)本稿引用の長谷川のコメントは以下すべて、難波祐子「展覧会 ついに開館!! 金沢21世紀美術館――開館記念展「21世紀の出会い――共鳴、ここ・から」(「美術手帖」2004年12月号、美術出版社)、23ページによる。

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第3回)

第3回 美術館の外へ

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

1960年代から70年代の芸術運動

 第2回までで見てきたように、MoMAは当時の時代背景も手伝って、20世紀のアメリカ美術の言説を生成して国内外にそれを発信するうえで中心的な役割を果たした。同時にMoMAのホワイト・キューブは、現代美術作品を展示・鑑賞する1つの規範を確立し、圧倒的な影響力をもって国内外に普及していった。だが、当然ながらこうしたMoMAに象徴されるニューヨークを中心とするアメリカ美術界に対する反動も大きく、1960年代から70年代にかけて、さまざまな芸術運動が巻き起こった。これらの芸術運動は、「美術館」という制度そのものを批判するようなプロジェクト型の作品や、美術館の展示空間を飛び出して屋外で展開される作品など、絵画や彫刻といった従来の展示室でおとなしく鑑賞するタイプの美術作品のイメージを塗り替えるような表現を次々と生み出していった。

インスティチューショナル・クリティークの登場

 1960年代のヴェトナム戦争の時代には、反戦運動や体制批判がアメリカだけではなく、世界各地で展開した。そのような社会背景のなかで、美術の世界でも、権威的な既存の美術館制度や美術界、商業主義や資本主義のシステムにのっとって作品を売買する商業画廊を批判するような表現活動が活発化した。こうした一連の表現活動は「インスティチューショナル・クリティーク(体制批判)」と呼ばれた。例えば、74年にロサンゼルスのクレア・コプリー・ギャラリーで開催されたマイケル・アッシャーの個展では、ギャラリーの展示スペースとオフィススペースを隔てる壁が取り払われ、展示スペースには何も置かないという奇妙な空間が出現した。見えるのは、奥のオフィススペースで働くギャラリストとそこにやってくる顧客だけだが、これは彼らの商取引の様子そのものを見せる「作品」だった。またドイツ出身のハンス・ハーケは、71年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で個展を開催する予定だったが、そのなかで展示を予定していた3つの作品が、美術館側から問題視されることになった。そのうちの1つ、「シャポルスキー・マンハッタン不動産ホールディングス:1971年5月1日時点でのリアル・タイムの社会システム(Shapolsky et al Manhattan Real Estate Holdings, A Real Time Social System as of May 1, 1971)」という作品は、ニューヨークのシャポルスキー不動産の20年にわたるハーレムなどの低所得者層居住地域を含むエリアでの不正な疑いのある不動産取引や物件の情報を142枚の写真と図表などで示したものだった。この作品は「不適切である」と見なされて、ほかの2作品とともに展示を取り下げるよう館長からハーケに要請があった。だがハーケがこれを拒否したため、開催の6週間前に展覧会が中止されることになった。これはグッゲンハイム美術館の理事会メンバーのなかにシャポルスキーと関係の深い人物がいたためと言われているが、詳細は明らかにされることはなかった(12)。ハーケはまた70年にMoMAで開催されたグループ展の「インフォメーション」で、入り口に投票箱を設置し、当時ニューヨーク州知事選挙で再選を目指していたヴェトナム戦争支持派のネルソン・ロックフェラーに州知事選で投票するかどうかを来場者に投票させる作品を展示した。このようにインスティチューショナル・クリティークの作品は、その多くが批判の矛先としている美術館やギャラリーなどの展覧会の現場そのもので実践されていた。それは美術館や展覧会というメディアそのものが、これらの作品の成立には不可欠であること、また美術館や展覧会はそうした批評を実践する場として機能するきわめて優れたメディアであることも図らずも実証することになった。

美術館の外への志向

 また同じく1960年代から70年代にかけては、反戦運動のなか、大資本に支えられた商業主義的な美術館やギャラリーに抗して、科学への不信や自然回帰への思想が高まり、「ランド・アート(Land Art)」や「アースワーク(Earthworks)」と呼ばれる、美術館のホワイト・キューブ空間ではなく、屋外の大自然など、ある特定の場所でだけ成立するような「サイト・スペシフィック(Site-Specific)」な作品の制作が、アメリカやイギリスを中心に多くの作家によって実践された。アメリカでは、マイケル・ハイザーがネバダ州にある峡谷の断崖の岩石丘をブルドーザーで掘削して長さ457メートル(1,500フィート)、幅39.1メートル(30フィート)、深さ15.2メートル(50フィート)の巨大な溝を出現させた「ダブル・ネガティブ(Double Negative)」(1969年)を作ったり、ウォルター・デ・マリアがニューメキシコ州の雷多発地帯の平原に400本の避雷針となるステンレス鋼製のポールを立てて、稲妻が落ちる現象そのものを作品化した「ライトニング・フィールド(Lightning Field)」(1977年)を発表した。またロバート・スミッソンは、ユタ州のグレートソルト湖という塩湖に石と土で長さ457メートル(1,500フィート)、幅4.57メートル(15フィート)の渦巻き状の堤を築く「スパイラル・ジェッティ(Spiral Jetty)」(1970年)を制作した。イギリスでは、リチャード・ロングが野山を歩いて、歩行を重ねることで草原に痕となった1本の線を写真に収めたり、その場にある石を集めて円形に配置するなど、歩行の痕跡を作品として発表した。同じくイギリスのハミッシュ・フルトンは、人里離れた山中などを歩き、その過程を詩のようなテキストと写真で記録し表現するなど、歩行という行為そのものを作品化した。
 このように従来の美術館での展示に抵抗する形をとった作品は、ホワイト・キューブを前提として制作される絵画や彫刻とは異なる多様な形態をとるものが大半を占めることになった。あらかじめ完成した作品をもってきて展示するのではなく、その場で制作して「設置(=インストール)」し、展示後は解体する「インスタレーション」と呼ばれるスタイルの作品や、アイデアやコンセプトを重視してテキストによる指示(インストラクション)など非物質的な表現を展開した「コンセプチュアル・アート」、一過性の出来事を作品とするハプニング、イベント、パフォーマンスなど形が残らない作品、あるいは音楽や舞台など異ジャンルと交錯するような作品など新しい表現が台頭した。また1970年代には、美術館や商業画廊に対して、「オルタナティヴ・スペース(alternative space)」と呼ばれるスペースが次々と誕生し、これらの実験的な新しい表現を積極的に紹介した。
 さらにヴェネチア・ビエンナーレなどと並んで国際展の代表格の1つである、77年に始まったドイツのミュンスター彫刻プロジェクトでは、単なる野外彫刻展の域にとどまらないユニークな取り組みをおこなっている。同プロジェクトは、屋外や街中に彫刻作品などを配置するのだが、展覧会が始まる数年前から参加作家がミュンスターにきて、歴史的な背景などを綿密にリサーチし、地元の人々と関わり合いながら、その場にふさわしいサイト・スペシフィックな作品を制作・発表することを特徴としている。通常の国際展は、ビエンナーレ、トリエンナーレ(それぞれ2年に1度、3年に1度の意味)という名が示すとおり、数年に1度開催されるものが大半だが、ミュンスターでは10年に1度という気が長いスパンで実施され、多くの作品が初回開催からミュンスターの街にそのまま残されたり、発展的に継続されたりしている。
 このような美術の動向に対して、美術館やギャラリー側もすぐに呼応し、1度は美術館の外へ出たインスタレーション作品やパフォーマンス作品、あるいはランドアートやアースワークといった作品でさえ、美術館やギャラリーの展覧会に取り込まれていくこととなった。例えばスイス人キュレーターのハラルド・ゼーマンによる1969年にスイス・ベルンの美術館で開催された「態度が形になるとき(When Attitudes Become Form)」展は、コンセプチュアル・アートやインスタレーションの作品を美術館内外のスペースで紹介した伝説的な展覧会になった。マイケル・ハイザーは、建物解体用の鉄球をクレーンで吊ってスイングさせて美術館前の舗道を破壊し、リチャード・セラは、熱して溶かした鉛を展示室の床に撒き散らした。ダニエル・ビュラン(ビュレンヌ)は、彼のトレードマークの白とピンクの縦縞のポスターを無許可で街中に貼りまくって逮捕された。この型破りな展覧会では、美術館は実験室と化し、おおよそ考えうる「美術館での展覧会」の常識を根本から覆した。

1980年代の絵画ブームの再熱

 1980年代に入ると、70年代に盛んだった禁欲的で難解なコンセプチュアル・アートやミニマル・アートなどへの反動から、情動的・具象的な表現を主とする絵画であるニュー・ペインティング、新表現主義といった名称で呼ばれるアートがドイツ、イタリア、アメリカなど世界各地で同時多発的に出現した。アメリカのジャン=ミシェル・バスキアは、ストリートのグラフィティのようなタッチで、人物などをカンヴァスに描き、人気を博した。またドイツのアンゼルム・キーファーは、ナチス・ドイツの負の歴史や『旧約聖書』などに登場する神話や伝説などから着想を得た歴史的・神話的主題を巨大な画面に油彩のほか鉛、砂、藁などの素材を重ねて描いた。これらの新表現主義の絵画は、国際的な美術市場を活性化するとともにホワイト・キューブでの展示の主役へ絵画が返り咲くことになった。

1990年代の参加型作品への注目

 さらに1990年代に入ると、空間全体を作り込むような体感型のインスタレーションや、観客が参加することで作品が成立するような参加型の展示が美術館でも盛んに取り上げられるようになった。こうした動きは、美術館だけでなく、ビエンナーレやトリエンナーレなどの国際展や芸術祭でも同様の傾向が高まった。こうして美術館や展覧会は、静かに作品と対峙する場所にとどまらず、作品を体感したり、作品に関わり合ったりするような場所としても機能し始めた。
 リクリット・ティラヴァーニャは、1990年代の初頭にニューヨークの画廊で「パッタイ」というタイ風焼きそばを作ってその場にきたゲストに振る舞い、展覧会の会期中には、食べたあとの様子もそのまま展示するという作品を発表した。ブエノスアイレス生まれのタイ人で外交官を父にもつティラヴァーニャは、幼い頃から移動の多い生活を送ってきた。たまにタイに帰って祖母の家に集まった親戚や友人に振る舞われるタイ料理と、料理を囲みながらそこで交わされた会話や出会いを作品化したのが「パッタイ」だった。また「無題(デモ・ステーション)」と題されたシリーズでは、美術館や国際展の会場内に仮設の舞台が設置され、展覧会の会期中その舞台で、バンドの演奏や演劇など、地元の人たちが企画するプログラムが展開する活動そのものを作品として発表した。
 ティラヴァーニャのように絵や彫刻のようなモノとしての作品ではなく、人と人が交わるコミュニケーションを生み出す場や、人との関係性・社会性そのものをアート作品として発表するアーティストたちが1990年代の初頭から相次いで登場した。これをフランス人キュレーター、美術批評家のニコラ・ブリオーが98年に『関係性の美学(Esthétique relationnelle/Relational Aesthetics)』という本にまとめて発表し、「リレーショナル・アート」として注目を集めた。
 人との関係性や社会性について考えたアートは、1960年代、70年代のアーティストもすでに実践していて、そのこと自体はいまに始まったことではない。例えば70年代にゴードン・マッタ=クラークは、ニュージャージー州にあった一軒家をチェーンソーで真っ二つに切断した「スプリッティング(Splitting)」を作品として発表したり、ニューヨークのソーホー地区で「フード(Food)」という営利を目的としないアーティストがシェフを交替で務めるレストランを運営し、そこでのさまざまな人たちの繰り広げる交流そのものを表現活動とした。ただし、これらの実践の背景にあったのは、当時の資本主義や美術館といったシステムへの批評であり、政治色が強いものだった。これに対して、90年代以降のリレーショナル・アートの作家たちは、あくまでも自分の私的な体験や個人的な動機などから、人と人のつながる場としての美術を探求しようとしていたところに大きな違いが見える。こうした傾向は、60年代や70年代のインスティチューショナル・クリティーク的な実践が抗ってきた「体制」や「国家」、あるいは「資本主義」といった当時の確固たるシステムが、90年代以降、時代の変化とともに軒並みその権力を失い、美術館や展覧会自体の役割や立ち位置も大きく変わっていることとも深く関わっていると思われる。こうした90年代以降の現代美術作品の発表の場は、かつての批評の対象とされた美術館や画廊、あるいはヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展といった「展覧会」の枠組みが主流であり、美術館でもこうした実践を受け入れるべく、街中や地域コミュニティーと美術館をつなぐようなプロジェクト型の展覧会を展開するなど、新しい試みを柔軟に次々と実施している。

メディアとしての展覧会、美術館

 これまで見てきたとおり、美術館、あるいは展覧会は、近代化の過程で現在の原型となる形が生まれ、さらにMoMAのホワイト・キューブの登場によって、美術館の展覧会という枠組みのなかで作品と鑑賞者が出逢う環境が確立されていった。興味深いのは、こうしたホワイト・キューブに反旗を翻し、多様化していった現代美術作品も、美術館や展覧会の文脈に結局は取り込まれ、新しい美術の歴史を生み出し続けていることである。これは、常にいまあるものに対しての反動や批評から新しい美術を生み出そうと二項対立的に「発展」してきた西洋美術史の性格に寄るところも大きいのではないかと思われる。一方でMoMAのホワイト・キューブは、現在でも健在であり、現代美術界を牽引する存在の1つであることに変わりはない。つまり、美術館だろうが屋外での芸術祭や国際展だろうが、こうした「展覧会」というメディアは、ある意味、ホワイト・キューブのように外界から遮断された、作品と出逢うための異次元空間を生み出す装置としていまも変わらず機能しているのだ。そしてこれらの出逢いを言説化し、美術の文脈に位置づけるメディアとして、展覧会は、そのときどきの時代背景や美術理論を巧みに反映し、ときには自己批評もいとわず、変化し続けている生きたメディアと言えるだろう。これから続くギモンでは、これまで少々駆け足で見てきた「展覧会」というメディアと、それを作り出すキュレーターについて、 もう少し時間をかけて、それらを構成する要素1つ1つをより深く具体的に掘り下げて見ていくことにしたい。

 


(12)詳細はバルセロナ現代美術館(MACBA)の収蔵作品解説を参照のこと(https://www.macba.cat/en/shapolsky-et-al-manhattan-real-estate-holdings-a-real-time-social-system-as-of-may-1-1971-3102)。

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第2回)

第2回 現代美術と出逢う場所としての美術館――第二次世界大戦以降の展開

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 第1回で美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。ところで「現代美術」あるいは「現代アート」という言葉だが、それに対応する英語である「Contemporary Art」を文字どおり訳せば、正確には「同時代美術」になる。一方で「モダン・アート(Modern Art)」については、英語でも日本語でも時と場合によって「近代美術」と「現代美術」のどちらも意味することがあり、その用法が混在している。そもそも何をもって「近代(モダン)」と定義するかについては、「ポスト・モダン(Post-Modern)」の思想が1970年代末から80年代にかけて広まったことも手伝って、いまだに議論が尽きない。よって近代美術と現代美術の区分についてもさまざまな見方があり、一概には言えないのだが、本稿では便宜上、第二次世界大戦以降の美術を現代美術としながらも、それ以前に制作された美術(近代美術)についても、状況に応じて現代美術の文脈のなかで論じていくことにしたい。
 現代美術と出逢う場所として、最も象徴的な存在が、1929年に開館したニューヨーク近代美術館(通称MoMA〔モマ〕)だろう。アメリカは、西洋美術史的観点から見れば、国としての歴史が浅く、ヨーロッパ諸国に比して当然ながら西洋美術品のコレクションが乏しい状況にあったが、20世紀に入って個人の資産家を中心としたフィランソロピー(篤志家)の精神に基づいた新しい美術館が次々と誕生した(5)。なかでもMoMAは、名称こそ「近代」美術館だったが、アメリカの圧倒的な経済力と文化政治戦略の後押しを受け、近・現代美術、特に同時代のアメリカ美術を牽引していきながら、新しい美術館像を国内外に発信していき、後続する世界各国の近・現代美術館のモデルになった。日本でも1952年に開館した東京国立近代美術館は、MoMAをモデルとして構想されたことで知られている(6)。

ホワイト・キューブの衝撃

 MoMAの果たした役割とその影響は多岐にわたるが、まずはそのなかでもMoMAの代名詞ともなった「ホワイト・キューブ(白い立方体)」と称される独特の展示空間に着目してみよう。ホワイト・キューブとは、その名のとおり、装飾性を廃した白い壁で四方を囲まれた中立的な展示空間である。そこでは、作品と作品の間隔が程よく空けられ、鑑賞者が1つ1つの作品とゆったり向き合える展示が基本とされた。このような展示方法は、それまで主流だったルーヴルのサロンのように、壁に額装された絵が上から下までびっしりと何列にもなって隙間なくかけられるスタイルや、華美な装飾が施され、調度品に囲まれた部屋の壁に絵画を配する展示とは非常に対照的だった。
 サロン式の展示からの脱却については、MoMAのホワイト・キューブの登場以前から、さまざまなアプローチが試みられていた(7)。例えば19世紀半ばには、ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、展示する作品点数を減らして、目線の高さが中心となるように展示されるようになった。またそれによって生じた壁の余白部分にも注目が集まり、当時の科学的な根拠に基づいて、金色の額縁と寒色系の落ち着いた色彩で描かれる絵をよりよく見せるために、既存のグレーがかった緑色の壁を赤く塗り替えた展示室が登場した。また20世紀の初めにはボストン美術館がこれまでの展示方法を見直し、作品を選択して、多くても2段がけまでにして絵画を展示したり、展示にふさわしい壁の色や照明についての検討を重ねた。さらに1930年代にはアメリカだけでなく、ナチス・ドイツ政権下でも美術館の展示室の壁を白くする試みがなされていた。だが、こうした先駆的な試みをはっきりと一つの展示スタイルとして確立し、規範を示したのは、MoMAにほかならなかった。
 初代館長アルフレッド・バーによる1936年の「キュビズムと抽象美術(Cubism and Abstraction Art)」展は、バー自らが作成した有名なダイアグラム(系統図)に集約されているように、19世紀末のセザンヌや新印象主義からピカソらのキュビズムを経由して抽象美術へと帰結していくモダン・アートの系譜を示す歴史的な展覧会だった。400点近い絵画や彫刻、ドローイング、家具などを展示したこの展覧会はMoMAが示す20世紀の美術史観を体現するものであり、その展示方法にもバーの明確な意図が示されていた。壁は白く塗られ、敷物などのないむき出しの木の床やタイルの床の部屋が用意され、照明の装飾は外されてシンプルなものとされ、作品1つ1つをよく鑑賞できるように配置された。この展覧会で確立されたホワイト・キューブにおける展示方法は、1939年に現在の場所に開館したMoMAでも、踏襲されることになった。
 MoMAのホワイト・キューブは、当然ながら人々の鑑賞体験にも大きな変化をもたらした。ホワイト・キューブという装置は、人が作品と出逢うためだけにある特別に設えられた空間であり、そのなかに身を置く鑑賞者は、ただひたすら作品と向き合うしかない。おそらく今日、「美術館」というと多くの人が思い浮かべる、大きな白い空間で、静かに作品と対峙する、というイメージはこのMoMAのホワイト・キューブの展示のイメージだろう。それはホワイト・キューブについて論じたブライアン・オドハティーが指摘しているように、中世の礼拝堂のような厳格なルールにのっとって構成された「下界から閉ざされ、窓は塞がれ、壁が白く塗られ、天井が光源となる」空間である(8)。そこでは「アートは、それ自体の生を得る(9)」。ホワイト・キューブは、作品と人が出逢うための物理的な環境を創出しただけではない。ホワイト・キューブは、日常性から切り離された人工的で、時間の流れも止まったような神聖な雰囲気で満たされた空間のなかで、人々が作品との対話を通して自己の内面を見つめ直し、自分と作品との関係性を厳かに構築していくような精神的な環境をも作り出したのだ。いまでも美術館というと、「静かに鑑賞するように」注意を受けることが多いが、それは、他の人の鑑賞の妨げにならないように、各自が作品とじっくり向き合えるように、という配慮が感じられる。このような鑑賞態度は、典型的なMoMAのホワイト・キューブの遺産と言えるだろう。
 このように美術館という装置は、MoMAのホワイト・キューブの登場により、人々が、個々の作品と静かに対峙する空間へと大きく変貌した。またホワイト・キューブという白い容れ物は、中身の作品が入れ替わることを容易にし、企画展や特別展など、展覧会ごとに内容の異なる展示にも対応しやすい空間を作り出すことに貢献した。さらにはあるホワイト・キューブから別のホワイト・キューブへと展示を移行することも可能にして、ある美術館で仕立てた展覧会を別の美術館へと巡回させることも容易になった。また作家側も、美術館や画廊のホワイト・キューブで展示されることを前提として作品を制作することが格段に増えたと言えるだろう。

美術館で展示されるものとは――MoMAの役割を中心に

 これまで見てきたようにMoMAのホワイト・キューブは、人々が作品を鑑賞するための特別な環境を整えて、美術館における作品展示のあり方に対する一つの規範を示した。ここであらためて美術館で展示されるものについて考えるにあたり、先のオドハティーが述べた次の言葉に着目したい。「そのような環境〔ホワイト・キューブの環境の意:引用者注〕では灰皿は聖なるオブジェに、近代美術館に置いてある消防ホースは美学的な謎に見えてしまう(10)」。確かにホワイト・キューブの閉ざされた展示空間は、そこにあるものを何でも作品に変えてしまう魔力をもっている。だが、灰皿でも消防ホースでも、はたまた粉チーズ容器でも、美術館の展示室に置かれたら何でも作品となるほど、事は単純ではない。ましてや、サロン式の展示と違って、ホワイト・キューブの一室に展示できる作品の点数は、極端に絞られた形となったわけだが、その部屋に何をどのように展示するかを決めるキュレーターの役割も飛躍的に重要なものになった。何をもって作品とし、それをどういった文脈の展覧会で美術館に展示するかという点も、MoMAのアプローチは革新的で戦略的であり、特筆に値するものだった。
 MoMAは、大富豪でフィランソロピー活動に熱心だったロックフェラー一族の1人、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー2世の妻であるアビー夫人と、彼女と交流のあった上流階級のリリー・P・ブリス、コーネリアス・J・サリヴァン夫人という3人の女性によって現代美術を展示する施設として創立された美術館である。アビー夫人は1920年前後から現代美術に興味をもち、アメリカ人画家の作品を購入し、コレクションしていくだけにとどまらず、生活に困窮した芸術家たちの生活費や留学資金なども積極的に支援した。初代館長のアルフレッド・バーは、絵画や彫刻だけでなく、建築、デザイン、映画、写真など当時美術館で展示されることがなかったジャンルの作品についても、独立した部署を与えて展覧会を企画する、という画期的な試みを導入した。つまり、MoMAは美術館に展示することで、これまで美術の文脈で扱われることがなかったもの、「作品」とされていなかったものを「作品」として定義づけ、美術史のなかに位置づけていき、次々とその指標を示していく存在だったのである。これについては、また作品の収集にまつわるギモンのところでも、詳しく見ていきたい。
 MoMAのホワイト・キューブ空間における作品展示を考えるうえで、最も象徴的な存在であったのが、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコなど抽象表現主義と呼ばれる作家たちの作品だった。彼らは一辺が3、4メートルもあるような巨大なカンヴァスの画面いっぱいに抽象的な線や色面を描くことで、それまでのヨーロッパにはない新しい表現を生み出していった。彼らの作品は、ホワイト・キューブの白い空間に非常によく映え、ホワイト・キューブで盛んに展示されるようになるにつれ、それに呼応するかのように彼らのカンヴァスもますます巨大化していった。
 抽象表現主義は、もともとは第二次世界大戦の戦火を逃れてヨーロッパからアメリカに移り住んだアーティストたちの影響を受けて、1940年代中盤からニューヨークを中心に始まった芸術運動である。先に挙げたジャクソン・ポロックやマーク・ロスコのほか、ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマンなどがその代表格だが、彼らを一躍スターの座に押し上げたのは、クレメント・グリーンバーグやハロルド・ローゼンバーグといった美術批評家だった。当時のアメリカは、東西冷戦のただなかにあった。ソヴィエト連邦では、抽象絵画に代表されるモダニズムを批判し、社会主義リアリズムを奨励していた。これに対して、新しいアメリカの美術を象徴するような抽象表現主義は、それらのプロパガンダ的な具象絵画や彫刻とは一線を画し、個人の作家の自由な表現を推奨するものとして、対抗するにはうってつけの存在だった。
 アメリカで抽象表現主義がもてはやされた1940年代から50年代にかけてMoMAの理事長(President)を務めたのは、アビー夫人の息子で、のちにニューヨーク州知事、アメリカ合衆国副大統領まで務めたネルソン・ロックフェラーだった。彼は、抽象表現主義の熱心な支援者として知られていた。彼自身のプライベートなコレクションだけでも2,500点以上の抽象表現主義の作品があったが、さらにそれを上回る数千点もの作品がロックフェラー財閥の傘下にあるチェース・マンハッタン銀行の各建物のロビーや壁面を飾った。グリーンバーグらの理論的なサポートでお墨付きを得た抽象表現主義は、バー館長の下で、MoMAでも積極的に収集・展示された。また当時の社会主義勢力に対して情報戦で文化面でもアメリカの優位を示そうとしていたCIAによる強力な後押しもあり、MoMAの抽象表現主義を中心とするコレクションをヨーロッパで巡回展の形で紹介する国際プロブラムが50年代に盛んに実施された。56年までに同プログラムによる34の展覧会が実施され、そのなかには国際展で現在でも権威あるヴェネチア・ビエンナーレへのアメリカ参加も含まれていた(11)。

(第3回に続く)

 

[補足]MoMAの過去の展覧会については、現在すべてアーカイブ化され、オンラインで観ることが可能である。例えば「キュビズムと抽象美術」展については、下記のURLから閲覧できるので、参照されたい。
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2748?locale=ja

 


(5)アメリカのフィランソロピストたちによる美術館の創設については岩渕潤子『大富豪たちの美術館――アメリカ・パトロンからの贈り物』(〔PHP文庫〕、PHP研究所、1995年)に詳しい。また美術館の成り立ちについては同じく岩渕潤子による『美術館の誕生――美は誰のものか』(〔中公新書〕、中央公論新社、1995年)を参考のこと。
(6)戦後から現代に至るまでの日本における学芸員とキュレーターの歩みとその変遷については、拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)を参照されたい。
(7)「How the White Cube Came to Dominate the Art World」(https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-white-cube-dominate-art)
(8)Brian O’Doherty, Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space, 1976, University of California Press, p.15.
(9)Ibid., p.15
(10)Ibid., p.15
(11)Frances Stonor Saunders, ‘Yanqui Doodles’, in The Cultural Cold War: The CIA and the World of Arts and Letters, 1999, The New Press, New York, pp. 252-278.

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第1回)

第1回 作品と出逢う場所

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 いま、この連載を読んでくださっているあなたは、「現代美術」や「キュレーター」といったものに少なからず興味をもっている方にちがいない。あるいは、何らかの形で実際に現代美術関連の仕事に携わっている方かもしれない。そんなあなたの記憶のなかで、「現代美術」や「キュレーター」に関心をもつきっかけになるような展覧会や作品に初めて出逢ったのは、どこだっただろうか。
 私の場合は、忘れもしない、1993年秋にロンドンで開催されていた「20世紀のアメリカ美術(1)」展だった。ごった返す主会場のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツより、いくぶん静かな郊外にあるサブ会場のサーチ・ギャラリーの最後のセクションの一角にその作品はあった。
 暗い部屋の奥の壁一面に雪山と思われるモノクロ映像。鮮明ではなく、絶えずゴォーというノイズが入ってうごめいている。手前には小さな乳白色のキューブの部屋。内部は裸電球1つで灯され、粗末な木のテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には金属製の水差しと、水が入ったグラス。そしてその簡素な部屋とはおよそ不釣り合いな小型モニターに映し出されたカラーの山の静止映像。部屋に近づくと、スペイン語と思われる言語で何かをささやき続けている男の声が聞こえる。ふと脇にある説明に目がとまる。「ビル・ヴィオラ」という聞き慣れないアーティストの名前。作品タイトルは「十字架の聖ヨハネの部屋」(1983年)。
「スペインの詩人で神秘家の十字架の聖ヨハネ(1542-91)はカトリック教会の弾圧を受け、1577年に9カ月間幽閉された。独房には窓がなく、背を伸ばして立つこともできなかった。頻繁に拷問を受けながらも、聖ヨハネはのちに代表作となる詩の多くをこの期間に書いている。そこでは愛、恍惚、暗い夜道、市壁や山々を超えた飛翔などが詠われている(2)」
 その説明を読み終わるやいなや、まるで雷にでも打たれたかのようにビリビリとした衝撃が全身に走った。ささやく声は聖ヨハネの詩の朗読であり、小さな部屋は彼の独房、山の映像は彼が詠った世界だったのだとその瞬間すべてが一度につながって、「十字架の聖ヨハネ」という時代や国を超えた一人の人物と、それを作品として表現したアーティストの美しい精神世界が、突如として自分のなかに広がったのだった。当時の私は、現代美術のことなど何ひとつ知らない社会人類学専攻の学生だった。だが、これは尋常な事態ではないと思い、とにかく現代美術に関わっていかなければと半ば勝手な使命感にも似た思いから、将来進むべき道を決めてしまった。もちろん、それからすぐに現代美術に関する職に就けたわけではなかったのだが、このたった一つの作品に出逢ったせいで(おかげで?)、極端な言い方かもしれないが、ある意味、人生が変わってしまった。事実、あれから四半世紀以上たったいまも、こうして現代美術やキュレーターに関する仕事に携わっているのだから。

  *

 と、こんな個人的な昔話にお付き合いいただいたのには、わけがある。それは、これから本連載を通して現代美術やキュレーターをめぐる数々のギモンを考えていくうえで、こうした個々人の私的な実体験や現場での実践などが、それらの問いに対して思考を開くための糸口になることが珍しくないからだ。なかでも特に展覧会での現代美術作品の鑑賞体験は、ときに強烈な原体験になって人々の心を動かす。それは、美術館や展覧会が、きわめてアナログなメディアであることと深い関係があると思われる。
 そこで本連載最初のギモンは、何よりもまず作品を展示する場所、アートと出逢う場所についてあらためて考えてみたい。あなたにとって作品が展示してある場所といえば、まず初めに浮かんでくるのは、やはり展覧会を開催している美術館やギャラリーなどの屋内の展示室だろうか。それとも街中や屋外などで作品展示を展開する芸術祭やビエンナーレ、トリエンナーレと呼ばれる大型の国際展だろうか。あるいは最近は、特に若い世代を中心に映像作品をスマートフォンの動画サイトなどで視聴するケースも多いだろう。そもそも作品を展示する場所は、作品にとってどういった意味をもつのだろうか。美術館の展覧会で作品を展示することは、自宅に好きな絵を飾ったり、いつでも好きなときにスマホで動画を見るのと何が違うのだろうか。今回のギモンの入り口として、ここではまず、古典的とも言える「美術館」の「展覧会」という枠組みのなかで作品に出逢うことに着目し、「美術館」と「展覧会」を一つの装置、あるいはメディアとして捉えて考えてみよう。というのも、作品展示をする場所として王道とも思える「美術館」や「展覧会」のあり方も、実は平坦な道のりではなく、その役割や定義は、時代によって大きく変遷してきたし、いまもなお変化し続けているからである。と同時に、その変遷を経てもなお、「美術館」も「展覧会」も作品と人が出逢うためのメディアとして機能し続けていることについても考えてみたい。

美術館と展覧会の歴史的背景

 それでは美術館・博物館、ならびに展覧会の歴史を簡単におさらいしてみよう。今日おなじみの美術館や博物館といった施設は、現在は日本では社会教育のなかに位置づけられ、そこで展示される作品や資料の数々は、広く公衆が享受することが当たり前になっている。だが、長い美術の歴史のなかで、いまのような形で展示物を誰でも見ることができるようになったのは、比較的最近の話だ。ただし「美術の歴史」といっても、往々にして語られるのは、洞窟壁画に端を発し、古代メソポタミア、エジプト、ローマ、ギリシャ、中世のキリスト教美術、ルネサンスを通って近代へと単線的に発展していく西洋美術史であることは、頭の片隅に入れておく必要がある。西洋中心(より厳密に言えば西欧と米国中心)だった単線的歴史観に基づく美術史(history of art)に異を唱え、アジアやアフリカ、中南米などの複数の美術史(histories of art)がグローバルな文脈で盛んに語られ始めたのは、1990年代になってからである。そのことは現在の現代美術とキュレーションを取り巻く状況を考える際に非常に重要な視点なので、本連載でものちほど追って詳しくふれていきたい。だが、「美術館(博物館)」「展覧会」は、西洋美術史、ならびにそれを支える西洋中心の言説と歴史観のなかから生まれてきたものなので、ここでは便宜上、西洋美術史の流れのなかで、これらの成り立ちの歴史的背景を見ていこう。

美術館というシステム

 はじめに人々が美術と出逢った場所としては、それを「美術」と定義するかどうかは議論の余地が大いにあるものの、西洋美術史的に言えば、スペインのアルタミラやフランスのラスコーで知られる旧石器時代のものとされる洞窟内に描かれた壁画、いわゆる洞窟壁画だろう(3)。それらは鑑賞目的というよりも、呪術的・宗教的な意味合いが強いものだったと考えられている。その後も長きにわたってさまざまな神に捧げられるもの、それらを祀るもの、儀礼や儀式、布教に用いられるものなど、宗教的な目的でさまざまな美術品が作られた。棺に納められる副葬品だったり、神殿を飾る神々の彫像、教会の祭壇画や天井画、色鮮やかなステンドグラスに描かれた『聖書』の物語など、美術は人々を日常生活から別の世界へと誘うような特別な場所で接することができるものだった。あるいは、時の権力者の富や名誉を彩るような宝剣や装身具、さらにルネサンス期になると、パトロンとなる王侯貴族や商人など富裕層のために描かれる肖像画や贅沢な調度品の数々が、彼らの邸宅や宮殿を飾ってきた。
 また15世紀から18世紀の大航海時代には、ヨーロッパの王侯貴族などの間で、アジアやアフリカ、アメリカ大陸、オセアニアなどの「未開の」地から珍しい動植物の標本や剥製、化石や鉱物、部族の仮面や彫像、絵画、陶磁器などを集めた「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー〔Wunderkammer〕、同様のものにイタリアのステュディオーロ〔studiolo〕など)と呼ばれる私的なコレクションが形成されていくことになる。これらの「驚異の部屋」のいくつかが今日の博物館の前身になっていて、例えばイギリスの大英博物館は、医師であり収集家だったハンス・スローン卿のヴンダーカンマーのコレクションがもとになっていることで知られている。またフランスのルーヴル美術館は、もともと宮殿だったが、フランス革命後に王室所有の美術コレクションが国有財産化されて「美術館」として広く一般に公開されるようになった。ルーヴルの例のように、市民革命などを経て、もともとは特権階級の人々しか観覧できなかった美術品の多くが、「博物館」「美術館」という形で現在は誰もが享受できるものになっているケースも多い。

万国博覧会というフォーマット

 展覧会については、コレクションを公開する形の展覧会は、先にふれた美術館や博物館の前身になるヴンダーカンマーなど、王侯貴族の邸宅などの一室をごく限られた人々を対象に実施していた先例がある。そのほかルーヴル宮でも王立絵画彫刻アカデミーの会員らの作品を「サロン・カレ(方形の間)」という一室で展示する通称「サロン」が革命より少し前の1737年から実施されている。だが、今日のようにより多くの一般の人々に向けてそのときどきの最新の物品や美術工芸品を紹介するようなスタイルの展覧会は、主には産業振興を目的とする博覧会の歴史がもとになっていると言えるだろう。
 市民革命や産業革命を経て、各国の優れた物品などを陳列する国際見本市的な博覧会である万国博覧会(国際博覧会。通称、万博)が19世紀から世界各地で開催されるようになり、今日に至っている。特に万博は、各国の技術や芸術の粋を世界に紹介して国の威信を内外に知らしめる、国威発揚的な性格をもっていた。1851年の第1回にあたるロンドン万国博覧会では、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれる当時類を見なかった鉄骨とガラスという素材を駆使した巨大な建物が建造され、主会場になった。また1900年のパリ万博(第5回)ではエッフェル塔が建てられ、その姿は現在でもパリを象徴する観光名所になっている。日本も第2回のパリ万博(1867年)で江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展するなど早くから参加していて、1873年のウィーン万博からは明治政府が日本として公式参加して日本庭園や神社を造ったほか、浮世絵や工芸品、名古屋城の金のシャチホコなどを展示した。またパリやウィーンでの万博における日本の出展が、いわゆる「ジャポニスム」と呼ばれる日本ブームを巻き起こすなど、こうした万博の開催は、各国の優れた最新の技術や文化を直接肌で感じる機会となった。
 日本国内でも博覧会は明治に入ってから盛んに開催され、内国勧業博覧会が東京(上野)のほか京都や大阪でも開催された。また同じく東京・上野公園で開催された東京府勧業博覧会で建てられた建物が「竹之台陳列館」として美術関係団体に貸し出され、明治から大正期にかけて美術展会場として用いられた。政府主催の美術振興策として組織された文部省美術展覧会(通称、文展。現在の日展の前身)も同館で開催された。このように近代になってから、欧米を中心にいまの博物館、美術館、展覧会の原型ができ、日本も明治政府が近代化を果たすなか、その流れを受けて美術館や展覧会という装置を取り入れてきた。ちなみに「美術」という言葉は江戸時代まで日本語にはなかったが、ウィーン万博の出品分類をきっかけに「美術」という官製訳語が日本で用いられ始めたことは、日本での美術史の形成や言説を考えるうえで非常に興味深い(4)。
 これまで美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。

(第2回に続く)

 


(1)American Art in the 20th Century: Painting and Sculpture, 1913-93, Martin-Gropius-Bau, Berlin, 8 May – 25 July 1993; Royal Academy of Arts, London, 16 Sept. – 12 Dec. 1993.
(2)ヴィオラ自身による作品解説。『「ビル・ヴィオラ はつゆめ」展覧会カタログ』木下哲夫/近藤健一訳、2006年、淡交社、54ページ
(3)2018年2月22日の「Science」誌など最近の研究では、洞窟壁画の起源はこれまで想定されていたよりさらに数万年もさかのぼった約6万5,000年前にホモ・サピエンス(現生人類)ではなく、ネアンデルタール人によって描かれたとされている。
(4)「美術」の初出については諸説あるが、いずれも明治のこの時期に翻案されたものである。明治以降の日本における美術の受容については、北澤憲昭著『眼の神殿「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年〔ブリュッケ、2010年〕)をぜひ一読していただきたい。

 

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はじめのギモン 現代美術って何でもあり?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 とある日曜日の昼下がり。お昼ご飯にパスタを食べたあと、中学3年生の息子と珍しく将来、何をやりたいかという話になった。そこでふと息子が「現代アートって簡単だよね」と言って、テーブルの上に出しっ放しにしていたパルメザンチーズの容器をひっくり返した。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」
「ちなみにタイトルは?」
と聞くと、
「逆パルメザンチーズ」
(爆笑)
「え、それってでも、デュシャンじゃん」
と私。
「そーだよ、デュシャンが便器ひっくり返してアートって言うから、何でもアートになったんじゃん。でも、デュシャンがそれもうやっちゃったから、現代アート何やっても、面白くないよね」
「え、あんたデュシャン知ってるの? 学校で習った?」
「いや、俺、観たもん。小学生のとき、美術館で観た」

 はじめに断っておかなければならないが、息子は、親がアート関係の仕事に携わっているために、確かに小さいときから現代美術の展覧会にあちこち連れ回されていたので、本人も知らないうちに、一般的な中学3年生と比べれば、常日頃からアートに接するという、ちょっと(いや、かなり)特殊な環境で育ったかもしれない。それにしても展覧会慣れしていた当時小学3年生だった彼にとっても、便器がうやうやしく展示されていた光景は、よっぽど印象的だったのだろう。いまではすっかり展覧会を観に一緒に出かけることもなくなってしまった、自称「現代美術嫌い」のわが子から、こんなにいとも簡単に粉チーズ容器一つ使って、現代美術の概念と展示について核心を突くような発言が飛び出すとは、正直思ってもみなかった。

  *

 ここで本題に入る前にデュシャンって何?と思った方のために、少し補足を。読者のなかには、マルセル・デュシャンの名前はともかく、この便器の「作品」には、どこかで見覚えがある人も多いだろう。この作品が初めて登場したのは、1917年のニューヨークのこと。出品料を払えば無資格無審査で誰でも出品できる第1回アメリカ独立芸術家協会の展覧会に出品するため、市販の男性用小便器をひっくり返し、「R. MUTT」という作者の名前を示す署名と「1917」という制作年を入れて「Fountain(泉)」というタイトルを付けた「作品」が、出品料を添えて同協会宛てに送られてきた。だが、無資格無審査を謳っている展覧会であったにもかかわらず、この作品は委員の間で議論を巻き起こし、展覧会オープンの1時間前まで話し合いはもつれ込み、会場になったグランド・セントラル・パレスの展示室に置かれることはついぞなかった。この協会の主要メンバーの一人だったデュシャンは、このことをきっかけに同協会を辞任した。後日、この作品は同じくニューヨークにあった「291」という画廊で展示され、同画廊を主宰していて、写真家であったアルフレッド・ スティーグリッツによって撮影された。その写真には「R. Muttによる「泉」」「独立芸術家協会から出品拒否にあった」というキャプション(作品タイトルなどの説明書き)が添えられ、「リチャード・マット事件」と題された匿名の論説とともに雑誌「ザ・ブラインド・マン(The Blind Man)」に掲載され、広く知られることになった。この作品の制作過程や出品に至るまでの経緯をめぐっては諸説あり、デュシャンの手によるものではないとする研究者もいるが、そもそもオリジナルの「泉」を直接目にした人はごくわずかであり、ここでその真偽を検証することは目的ではないので割愛する。もっとも、作品本体は現存せず、現在、世界各地の美術館で見られる「泉」は、50年以降、デュシャン公認で複数個、再制作されたレプリカであるのがこの話をどこまでもややこしくしているのだが、それも含めて非常にデュシャンらしいエピソードである。ちなみに現在は作品保護のために展示ケースに入って展示されているものがほとんどだが、オリジナルは、むき出しのまま展示してあった。
 ともあれ、「便器がアートになる」という「泉」のインパクトは大きく、一般的には「デュシャン=便器の人」のイメージが定着しているが、デュシャンが提示した大いなるギモンのなかで、「泉」はほんの一例にすぎない。デュシャンは、この「泉」の前にも、既製品を用いた作品である「レディ・メイド」のシリーズを発表している。大量生産されている複製可能な日用品を「作品」として提示することで、「美術作品は、作家自身の手によるものであり、唯一無二のオリジナルである」というそれまでの美術の固定概念を根底から覆した。また美術作品といえば美しいもの、視覚的に魅力的なもの、という考え方に対しても、デュシャン自身が、視覚的に無関心と感じる既製品をあえて選択し、それを「アート」と呼んでしまえば、なんでも「アート」になってしまう危険性を指摘することで、新しい思考を創出しようと試みた。これは、美術史のなかではまぎれもなく歴史的な一大事件だった。以来、デュシャンは「現代美術の父」と呼ばれ、いまだに多くの人によって参照され、語られている。

  *

 さて、そろそろ本題の「逆パルメザンチーズ」に戻ろう。確かに息子が言うことは一理ある。デュシャン以上の歴史的転換を巻き起こすような現代美術の作品は、そうそう出てくるものではない。だが、あれから100年以上たった今日でも、現代美術は絶えるどころか、さまざまな形で発表され、多くの人々の目に届けられ続けている。作家たちは何のために日々、作品を作り、それを発表するのだろうか。ネットに投稿された写真や動画なら瞬時に世界中の人たちに発信し、シェアすることができる世の中で、私たちはなぜいまだに美術館や展覧会などにわざわざ足を運んで、人が作ったものを観にいくのだろうか。
 美術の展覧会を作る仕事に「キュレーター」という仕事がある。美術館では一般的に「学芸員」と呼ばれている仕事だ。作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る。なぜそのような仕事が必要なのだろうか。作家が作った作品をただ展示すればいいのではないのかと思う人もいるだろう。そもそも展覧会とは何だろうか。また作品は美術館の「展示ケース」に入って、白い部屋に飾られて、作家名とタイトルと説明書きが添えられたら、便器でも粉チーズ容器でも本当に「アート」になってしまうのだろうか。そんなのは、単なる言いがかり、詭弁にすぎないのではないだろうか。絵画や彫刻を美術館や展覧会で観て、その「美しさ」に感動を覚えることには納得できても、便器を「アート」として飾るような現代美術の展覧会は、「意味不明」と感じる人も多いだろう。一方で、近年、街中などでも展開する現代美術の「芸術祭」や「トリエンナーレ」という名称で知られる大規模で国際的な展覧会は、どこも大人気だ。こうした現代美術の展覧会を作るキュレーターは、例えばゴッホやモネの展覧会を作るキュレーターと何が違うのだろうか。そもそもキュレーターはなぜ展覧会を作り、それを多くの人が観にいくのだろうか。現代美術の展覧会のことをひとたび考え始めると、さまざまな疑問が湧いてくる。

  *

 これから始める本連載は、現代美術をめぐるさまざまな問いのなかでも、「現代美術のキュレーター」という仕事と「展覧会」という仕組みに着目し、キュレーターが展覧会づくりで抱きがちな、ささやかだが大切な問いの数々を10の「ギモン」として取り上げて、読者のみなさんと一緒に考えていきたい。そして最終的には、本連載を書籍の形にまとめて刊行したいと考えている。
 具体的な構成は次のとおりである。まずは、展覧会における空間・場所・時間軸をめぐる2つの「ギモン」から始めていく。「ギモン1 どこで展示するの?」では、展覧会を開催する場所としておなじみの美術館やギャラリーについて、その歴史的な背景なども見ていきながら、美術館や展覧会という場所にまつわるギモンについてあらためて考える。続く「ギモン2 展示には順番があるの?」では、実際の展示空間での作品の配置や、展示空間で鑑賞者が体験する時間についてのギモンについて具体的な例を見ながら検証していく。次に展示の主役である作品をめぐるギモンとして「ギモン3 何を展示するの?」と「ギモン4 作品って誰が作るの?」という2つの「ギモン」を通して、作品が作品として成立する仕組みなどについて再考する。そして今度は展覧会の観客をめぐるギモンに目を向け、「ギモン5 日本人向けの展示ってあるの?」「ギモン6 赤ちゃん向けの展示ってあるの?」という2つのギモンを中心に、観客の文化・社会的背景と展示の関係について、実例なども踏まえながら見ていく。続いて、現代美術という私たちが生きている現代と同時代に生まれる作品に特有の作品収集にまつわる問いを「ギモン7 どうして美術館は作品を集めるの?」と「ギモン8 何を残すの?」を通して考える。そして最後に、これらのギモンの総括的な問いかけとして「ギモン9 どうして「展覧会」を作るの?」と「ギモン10 キュレーターって何をするの?」の2つを通して現代美術の展覧会とキュレーターについて再び考えてみたい。この最後の2つのギモンについては、連載ではなく、書籍にまとめる際に書き下ろす形で発表したい。また書籍化にあたっては、それまでの連載についても必要に応じて手を加えながら、まとめていきたいと考えている。

  *

 こうした問いに一つずつ向き合うことで、これから展覧会を企画しようとしている初心者から、長年、展覧会に携わっている現役学芸員、キュレーターまで、幅広い層にとって「展覧会」とは何か、キュレーションとは何か、という古くて新しい問いにそれぞれの立場から考えていくための手がかりになってほしい、とひそかに期待している。またキュレーターに限らず、普段、展覧会や美術館に行くことに関心がある多くの方々にも、なぜ「展覧会」に私たちが惹かれてしまうのか、「キュレーター」とは何をする人たちなのか、という根源的な問いについて考えるきっかけになることを祈っている。デュシャンが投げかけた大いなるギモンへの応答になるかどうかは、はなはだ心もとないが、この小さなギモンへの問いかけの積み重ねが、ヴァーチャルなモノづくりが席巻するいまの時代に「展覧会」というアナログなメディアで勝負するキュレーターの大「ギモン」についていま一度考えるための糸口となれば幸いである。

[補足]デュシャンの画像は著作権フリーで下記からダウンロード可能である。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marcel_Duchamp,_1917,_Fountain,_photograph_by_Alfred_Stieglitz.jpg

 

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