いまなぜ高所綱渡り師なのか――『高所綱渡り師たち――残酷のユートピアを生きる』を書いたあとで

石井達朗

 現在の舞踊を中心にして、パフォーミングアーツ全般に対するわたしの関心は、もとをたどれば、幼少期に1年に1度、母が連れていってくれたサーカスにある。大きな神社の境内に秋になると市が立ったのだが、それと並行して神社から少し離れた空き地にサーカス団がやってきてテント公演をするのが恒例だった。子どもにとっての娯楽がいまのようになかった時代、秋にやってきて、終わると跡形もなく消えていくサーカスは、異形の人たちがもたらす最高の楽しみだった。テントのなかに一歩足を踏み入れると、馬糞のにおいとサーカス芸人たちのきらびやかなスパンコールが同居している。どこにもない不思議な世界。とくに魅せられたのは曲馬と空中ブランコである。大人になってからは、欧米はもとより中国、韓国、インドなどの町や村でさまざまなサーカスを観てきた。
 綱渡りに引かれるようになったのは、サーカスという集団を離れて、野外の高所でパフォーマンスをおこなう人たちがいるからである。彼ら/彼女らは孤高の存在だ。文字どおりの独立独歩の冒険者たちである。サーカスのように鳴り物入りで綱渡りを盛り上げてくれるわけではない。何よりも高所綱渡り師たちは、サーカスでアクロバットするほかの芸人たちとはどこかちがう。最近のサーカスは、わたしの子どものころとは比較にならないくらいの大きな鉄骨に支えられたテントを使うので、テントのなかではるかてっぺんを見上げるようにして綱渡りを観たという人も少なからずいるはずである。その場合は、落下防止のネットが設置されていたり、綱渡り師とワイヤーを結ぶ「テザー」とか「ハーネス」を装着したりするなどの安全対策をとっている。
 それにしても高所綱渡り師たちとは一体、何者なのか。歴史をみると、一瞬の油断で、あるいは何らかの物理的な条件が不備であったために命を落とした者たちが少なくない。大けががもとで残りの人生を車椅子などで生活した者たちはもっと多いだろう。しかし、彼ら/彼女らは決して向こう見ずの命知らずではない。なぜあえてそれほどの高所に挑戦するのか。
 そんなふうにわたしに迫ってきたのが、フィリップ・プティである。彼の生のパフォーマンスを1度だけ、1980年代末のニューヨークで観たことがある。プティといえば、74年に、110階建て、地上410メートルを超えるニューヨークのワールドトレードセンタービル2棟の屋上に長さ42メートルのワイヤーを設置して、命綱なしに渡ったという歴史的な行為がある。すべて違法であることを承知のうえでおこなった確信犯である。プティの助っ人たちは、徹夜で超高層ビルの屋上をワイヤーでつなぐという大仕事をしたのだ。プティも一睡もせずにこの作業をやったあと、その日の朝、綱渡りを決行した。「勇気」や「挑戦」などという言葉さえ色褪せて聞こえるほど、度を超している。
 歴史をひもとくと、驚くことにフィリップ・プティに勝るとも劣らない高所綱渡り師たちが少なからず存在してきた。これは決して男たちだけではない。女たちもいる。そういう人たちに言葉をとおしてできるだけ肉薄してみたいと思ったのが、本書を書き始めたきっかけである。高所綱渡り師について語る場合、数字が物を言う。いつ、何歳のときに、ロープの高さ、長さ、太さ、バランス棒の長さ、集まった群衆の数は……など。そのほか、ロープの下に設置する安全ネットの有無、ハーネスなどの墜落防止対策をしていたかどうか、天候はどうだったか、ロープの種類は麻か鋼か、など。不幸にも墜落してしまったのなら、その人は亡くなったのか。墜落した理由はどこにあるのか。墜落はしたけれど命拾いしたのなら、その後の人生はどうだったのか。わたしの好奇心がふくらめばふくらむほど、数字による具体的な記述も増えてくる。20世紀前半から19世紀へと時代をさかのぼるほど資料が少なくなったり、資料によって記述が異なっていたりと、困惑させられることもよくあった。
 高所綱渡りをする者たちについて知りたい情報は尽きないが、わたしにとって最大の疑問は、彼ら/彼女らは一瞬にして命を失ったり、残りの人生を障がい者として生きなければならなくなったりするかもしれないのに、なぜ綱を渡るのかということだ。彼らは精神も肉体もわれわれ常人とはちがう何かをもっているのか。それともさしてちがわない人たちなのか。恐怖、不安、躊躇をどんなふうに克服できるのか……など、尽きることがない問いが追い立てるように執筆中のわたしを突き動かした。それらの問いに対する答えはいまだに一筋縄では捉えられない。
 本書を書き終わってひとつ感じていることがある。人という生き物は自分が想像する以上に、途方もない可能性をもっているにちがいないということだ。外に羽ばたこうとウズウズする心身の力を内包している。それが、最近はケータイやパソコンなどのデジタルテクノロジーによって、いつも押し込められているように思えてしかたがない。高所綱渡り師という静かな挑戦者たちが、歴史のなかにいつも存在してきた。そして現在もいることに思いを馳せてみたい。そのことが、いまや当たり前のようにITの森の住人になってしまっている我々に、何か根底からちがう尺度を与えてくれるかもしれないと思うのだ。
 
『高所綱渡り師たち』試し読み
 

男性たちの第一歩のために――『ジェンダーの考え方――権力とポジショナリティから考える入門書』出版に寄せて

池田 緑

 これまでジェンダー論の授業を複数の大学で担当してきて、ずっと感じていたことがありました。ジェンダー論の授業なのですから、ジェンダーについての知識や議論を紹介することはもちろん重要なのですが、それ以上に、ジェンダーに対する視角・態度が重要なのではないか、ということです。せっかくの知識も、頭ではわかっていても、実際に男性の支配と直面したときにうまく対応できない、引け目を感じてしまう、丸め込まれてしまうといったことが起きやすく、それらを克服するためには単なる知識だけでは難しい。ジェンダーに対する態度というか、視点というか、現象学的社会学でよく使われる「自然的態度」をチェックしなおすことが必要なのではないか、と感じてきました。
 これはとくに女子学生においてですが、身近な男性(家族、彼氏、アルバイト先の人など)とジェンダーをめぐって衝突し、マンスプレイニング全開で説教されて言い返せず、悔しい思いをした話をたくさん聞いてきました。そういう彼女たちがジェンダーの授業を受けて知識とロジックを獲得して、「よし、今度は言い返してくる」「今日は負けないぞ」と意気揚々と帰っていくのですが、しばしば「言い返せなかった~」「また言いくるめられた~!」と半べそをかきながら戻ってくることもありました。
 話を聞いてみると、様々なごまかしのロジックや、彼女らが内面化しているジェンダーの、他者に対する葛藤を恐れる部分などを、男性たちは見事に突いてきているのでした。ジェンダーを内面化する過程で、女性たちにはいわば「つけ込まれやすいポイント」とでも表現できる部分が埋め込まれ、男性たちはまさにそこにつけ込んでいたのでした。
 ただし、別の発見もありました。ジェンダー論の授業を担当しはじめたころの話です。彼女たちが身近な男性にジェンダーの授業で学んだ内容を話すと、いちばん多い反応は「どうせ、ヒステリックなおばさんが言ってんだろ」といった、集団間の権力関係を個人の資質に還元して無化しようとする典型的なごまかしの対応でした(本当はもっと聞くに堪えない罵詈雑言が多いのですが、ここではマイルドな表現にしました)。そのときに「いや、若い男の先生だよ」と彼女たちがいうと、男性は黙るというのです(そのころは私も若い教員でしたので)。
「あ、そこは黙るんだ」というのが、発見でした。女性に言われてもごまかせることが男性に言われるとごまかせず、その結果沈黙せざるをえない。男性たちは、女性からのクレイムに対してはあれこれごまかす方法を熟知していても、同じ利害にある男性からの告発やクレイムに対しては脆弱なのです。それを否定する根拠も、ごまかすロジックも、同じ利害を共有しているという関係性(同じポジショナリティ)のために構造的にも準備しにくいからです。
 私が男性による女性に対する支配や権力作用の“手口”を焦点化しようと考えたのも、男性たちがつけ込むポイントを開示することで、女性たちにそのごまかしのポイントを示すこと。それ以上に、男性たちに「もうこの手は使えないよ」と、自らのありようを見つめ直す機会を共有したかったからでした。
 もちろん、そのような試みに対しては批判もありうるでしょう。しかし、女性に対して頻繁に使用している「黙殺」「無視/スルー」は、同じ利害関係にある男性に対しては使いにくくなるでしょう。「黙殺」「無視/スルー」は、非対称的な権力関係では効果を発揮できますが、同じ利害関係にある者同士では効果が十分に期待できないからです。
 必要なのは、男性同士での、自らがおこなってきた権力行使についての情報の共有と議論だと思います。その過程で利益を失いたくない男性たちと、女性たちとの関係性を変えたいと願う男性たちの間で、対立やいさかいも起こるかもしれません。しかしそのような対立やいさかいこそ、男性たちにとって必要なものだと思うのです。
 男同士が、自らの利害を開示しながら争う姿をみせること。これが重要と思います。これまで女性たちは、分断された利害をめぐって争わされてきました(本書の第6章で少し考察しました)。男性たちは、自分たちがその争いの原因を作ったにもかかわらず、女性たちの争いをニヤニヤと眺めていただけでした。分断支配という状態です。今度は、男性たちがそのような姿を女性たちにさらす番だと思うのです。それが、両性が平等で対等な位置づけに立つための一歩になり、男性たちが自らのありようを刷新する出発点になると信じます。
 社会学者ハーバート・ブルーマーは、シンボリック相互作用論を唱えるにあたって、大きな理論から細部や現象を定義的に説明するのではなく、社会や現象を捉える際に大きな方向性を与え、概念から細部や現象の現実の個別性に至るようなものを「感受概念」として論じました。私はジェンダー論(ジェンダー規範やジェンダーそのものではなく)こそ、典型的な感受概念と感じてきました。本書には、そのようなジェンダーをめぐる現実の現象や事例に接近するための、感受概念として作用しうるポイントを、主に権力作用という観点から整理するという目的で書いた面があります。
 ジェンダーにまつわるあれこれについて現実の現象や関係のなかで直面したとき、それをどのように捉えて考えるのか、その大きな方向性や枠組みとして本書のささやかな試みが機能するならば筆者としてはうれしいかぎりです。本書の書名を『ジェンダーの考え方』としたのも、そういった含意があったからでした。

 そのような感想とは別に、本書の執筆・編集過程では貴重な体験がありました。本書は私が書いたものの、同時に青弓社編集部のみなさんとの共作という感想をもっています。編集部から戻ってきたゲラは真っ赤で、本当に細かな言い回しにいたるまで、ジェンダー論の入り口に立った読者にどのようにして届けるかという視点からの提案にあふれていました。指摘を要約すると、論点はシンプルに、学問的な思いなどは初学者に伝わりにくいからバッサリ切れ、言いきるべきところは言いきって議論にメリハリをつけよ、といったものでした。その結果、私がこれまで書いてきたものとは相当異なる文体・表現になりました。文体だけでいえば、まるで別人格です。しかし、あとから読み返すといずれも適切な提案で、別人格を引き出してもらえたなどということは本当に稀有で貴重な体験と思います。
 また本書のサブタイトルには「ポジショナリティ」という言葉が入っていますが、提案された当初はポジショナリティは必ずしも本書全体のサブテーマとまではいえないと思い、入れるのをためらっていました。しかし編集部内はもちろん、営業部の方々も様々な声を集約してくださり、本書の特徴を打ち出すためにぜひ入れてほしいと言われ、そこまでしていただけたのであればと入れることにしました。
 見本を手に取ったときにあらためて読んでみたところ、本書でポジショナリティという用語が登場するのは第5章ですがそれ以後は頻出していて、また第4章までの記述も「ポジショナリティ」という用語こそ使用していないものの、相当にポジショナリティを意識した議論になっていました。サブタイトルに入れるにふさわしい言葉だったと、あらためて思いました。私自身も把握していなかったような本全体の構造を見抜く、プロの慧眼に驚いた経験でした。
 
[青弓社編集部から]
4月27日(日)の14時から、大妻女子大学で本書の書評会を開催します。

評者として、江原由美子さんと木村絵里子さんがコメントくださり、著者の池田緑さんが応答します。

対面とオンライン(アーカイブあり)がありますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。

『ジェンダーの考え方』書評会
4月27日(日) 14:00-16:30
方法:対面とオンライン
場所:大妻女子大学千代田キャンパスのH棟313室(オンラインはZoom)
参加料:880円(税込み)

対面での参加チケット
https://seikyusha.stores.jp/items/67e5fae1006ad14c8a3db9fc

オンラインでの参加チケット
https://seikyusha.stores.jp/items/67e5fc24c6aee7ae031a6f43

 

あるアーティストのファンであり続けること――『ライブミュージックの社会学』出版に寄せて

南田勝也

 私が『ライブミュージックの社会学』を編むことにしたのは、新型コロナウイルス感染症禍のくすぶった日々に考えていたひとつの問いがきっかけである。その問いとは「あるアーティストのファンであり続ける●●●●●ことはどのようにして可能か」というものである。このアジェンダは本書では展開していないので、このコラム欄で私の思念の道筋を記してみたい。
 
 現在、あるアーティストのファンであり続けることは、どんな条件で担保されているだろうか。もちろん往年のミュージシャンや解散バンドのファンの場合は「心のなかのナンバーワン」を永続的に定めているだろうが、そういうことではなく、活動の存続がそのまま経済基盤になっている現在進行形のアーティストとそのファンの関係についてだ。
 元来それは文化産業が守ってきた。音楽関連会社のマネジャーやエージェントが、世間知らずで気まぐれなアーティストに代わって、ファンの前に姿を現すスケジュールを組んできたのである。そのなかでもっとも重要な活動は新作のリリースであり、シングル盤なら数カ月に1枚、アルバム盤なら年に1枚のペースが大方にとっての標準になっていた。
 ディスクを発表すれば、音楽批評家によって新譜評が書かれ、音楽誌にインタビューが掲載されて露出の機会が増える。まず何よりも、心待ちにしていたファンがプレゼントを渡されたときのように喜ぶ。いそいそと街のレコード店に出かけてディスクを手に取り、帰りの電車で開封の儀を済ませ、帰宅するとうやうやしく再生する。その音源をリピート再生しながら次のアルバムが出る日を楽しみに待つ。つまり、ずっとファンでいてくれる。
 もうひとつはツアーだ。アーティストはいまも昔も巡業を好む。ギター1本で移動できるシンガーは旅の歌をレパートリーにもっているものだし、ライトバンに機材を詰め込む小所帯のバンドは深夜高速を利用して全国を回る。アリーナクラスのアーティストになるとそうはいかないが、近年ではライブ使用可能なハコモノが各地に設置されているので、当該地域のファンの欲求はそこで充足される。重要なことは継続性であり、とくに地方在住者にとっては数年に一度でも自分の住む地域に来てくれれば揺るぎない信頼につながる。
 ツアーのチケットがなかなかとれない人気者の場合は、ライブ参加のためにファンクラブの入会を半ば義務づけているパターンもある。これは批判の対象になりうるが実のところうまい仕組みであり、今回は抽選に外れても会員であるかぎり次のチャレンジは約束されているので、ファンがファンであり続けることに持続的に貢献する。
 また、そうしたクローズドなつながりとは反対のオープンな仕組みも進展していて、それがフェスである。現代的なフェスが誕生してから四半世紀、多様な出演者が彩る開放的な雰囲気が受け入れられ、全国各地で四季を通じて開催されている。ツアーの行程にフェス出演を組み込むアーティストは多くいる。ファンにとってはフェスのチケット代は割高だが入手は容易で、単独公演ならチケット争奪戦になるライブアクトを見る好機になっている。
 
 しかしこのようなルーティーンに基づく活動は、現在では崩壊寸前の状況にある。
 インターネット、とりわけサブスクリプションの登場は、シングル盤やアルバム盤のフィジカルな単位を無意味化させた。それどころか、それが新曲なのか過去曲なのかという時間の概念さえ曖昧にさせている。そもそも新人は別にしてベテランになるとアルバムは数年ごとのペースになりがちだし、シングル盤は出したとしても「一斉に店頭に並ぶ」販売スタイルが失われた結果、話題として盛り上げにくいものになっている。そして新人たちはフィジカルでの販売を放棄し、配信オンリーで独自のプロモーションを展開している。
 そこで頼りになるのはチャートのはずだが、多様に存在するポータルサイトの集計はまちまちで、著名なアーティストでもリリースに気づかれないままランク外へと埋もれていく。かつてなら誌面だけでなく広告面でも援護射撃していた音楽雑誌は、長引く出版不況によって全盛期の力を期待できない。音盤の発売スケジュールに寄り添って「ファンであり続ける」ことは確実に難しくなっている。
 となると、ライブが唯一的に残された紐帯になる。ライブでのアーティストは、新曲を演奏しようがしまいが、現在進行形の姿でファンの前に現れてくれる。ツアーのたびに新しいデザインのグッズも用意されて、記憶と記録の双方に痕跡を残してくれる。非線形的なインターネットの時空間に漂う楽曲群の不確かさとは対照的に、はっきりと線形的で確実な「ともに年月を重ねていく」感覚を与えてくれるのだ。これが2019年までは順調に推移していたアーティストとファンの関係式だった。
 しかしその幸福な関係式は、2020年2月以降のコロナ禍によって断絶の時を迎える。
 
 コロナ禍は生活のさまざまな場面にストレスをもたらしたが、私がもっともめいったのは、大学教員という職業柄もあるだろう、身体的・精神的に本来もっとも活発な若い世代が身動きできずに日々落ち込んでいく姿を目の当たりにしたことだった。
 あるゼミ生は、好きなバンドのライブ映像を見る気が起きないと語った。映像を見るとその空間に自分がいないことを自覚してしまう。ライブキッズだった彼女にはそれがつらすぎるのだ。また、あるゼミOGは、10枚以上の「使われることはなかった」チケットの写真を「Instagram」に投稿した。彼女はチケットを「この子達」と表現し、理不尽な現実に悲しみを覚えながらも、ファンであり続けるため踏ん張っていることをメッセージした。さらに、あるゼミOBは、学生時代からバンドを続けていて、2020年は大型イベントに誘われることが決まり、飛躍の年になるはずだった。しかしそのイベント自体が中止になった。
 コロナ禍がライブ市場にもたらした損失は、経済的なものにとどまらず、アーティストとファンの心理的な関係に及んでいた。当たり前に訪れるだろうと思っていた明日はぷつりと途絶え、次はどんな音を聴かせてくれるのだろうという高揚感は失われ、継続こそがバンドの命綱なのにそのモチベーションさえ奪われてしまった。
 私は、彼や彼女の顔を思い浮かべながら、コロナ禍が明ければライブミュージックに関する書籍を出版すると決めた。音楽研究として歴史性と現場性を存分に描ける執筆者に集ってもらい、学術書としてはイレギュラーなほどに写真をふんだんに用いたのは、ライブの魅力を人々に伝えて裾野を広げるためだ。
 幸いなことに、ゼミOBのバンドは、コロナ禍を乗り越えてライブ巧者の異名をとるほどに成長し、都内の中規模ライブハウスをソールドアウトにするレベルに達している。人間が出せる最高スピードの時速36kmで突っ走る彼らには追い付けないかもしれないが、私は彼らに倣い、ライブ研究の論文発表というツアーを継続していきたいと考えている。
 
『ライブミュージックの社会学』試し読み
 

妻にこそ読んでほしいのだが――『世界文学全集万華鏡――文庫で読めない世界の名作』を書き終えて

近藤健児

 私が購入する大量の本やCDの洪水に迷惑しているせいか、妻は私が書く本については、だいたいいつも冷淡に受け止めている。「そんな本、誰が買ってくれるの?」「また本を出してくれるなんて、青弓社ってほんとに奇特な出版社だね」と何度言われたかわからない。本当は身近な人にこそ励ましてもらいたいし、とにかくまず妻に読んでもらいたいものなのだが、ページさえ開こうとしないのである。今回も『世界文学全集万華鏡』を手に取ると、「ジョージ・エリオットの「ロモラ」しか読んだことがない。知らない本だらけだわ」と一刀両断されてしまった。
 世界文学全集の定番の作家といえば、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、スタンダール、ロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アーネスト・ヘミングウェイなどがすぐさま思い出されるだろう。これらの作家のものは文庫でも刊行されていて、代表作を中心にほぼ安定的に供給されている。原則的には古書か図書館に頼ることになる、往年の世界文学全集を探してわざわざ読む必要はない。もちろんあえて文庫ではなく世界文学全集の一巻で読む理由もある。より読みやすい訳者のものを選ぶことは大切だし、写真が多用された詳しい解説が魅力的な場合が多いからだ。ただ本書では、せっかく世界文学全集の一巻に所収され昭和の時代に世に出た作品でありながら、文庫化されなかったことも手伝って、研究者や熱心な読書家以外からは忘れられつつあるものに、再度光をあてようと選書した。その結果ほとんどの作品が文庫化されたこれら大物作家の本を加えることはしなかったのである。
 そうしたわけで、A級の大作家が入っていない目次になったが、一方では複数の作品を選書している作家もいる。ヘンリー・ジェイムズはただ一人、「アメリカ人」「ボストンの人々」「カサマシマ公爵夫人」の3作を選んだ。いずれも落とすことができない秀作と思うからである。2作を選んだのは、ジョージ・エリオット(「フロス河の水車場」「ロモラ」)、ジョゼフ・コンラッド(「ノストローモ」「勝利」)、トーマス・マン(「大公殿下」「選ばれた人」)、オノレ・ド・バルザック(「あら皮」「幻滅」)、エミール・ゾラ(「クロードの告白」「生きるよろこび」)の5人である。これらの人たちも先に挙げた作家に劣らぬA級作家であることは疑いない。どういうわけか文庫に恵まれないエリオットを除けば、代表作・主要作の多くが文庫で読める。だがこれらの作家はおおむね相当に多作なので、文庫ではほぼすべての作品をカバーするまでには至っていないだけである。先に世界文学全集の一巻として世に出て、そこで一定数の読者を獲得してしまったので、加えて文庫化するほどの需要が期待できなかったのも、ちょっと地味な作品が文庫化されない原因かもしれない。
 というわけでいまに至るまで、バルザック「あら皮」の文庫本は存在しないのだが、世界文学全集はたとえ必要な端本だけを買い求めたとしても置き場に困るし、不ぞろいは見栄えがいいとはいえない。だから文庫があるならそのかたちで手元に置きたいのが人情である。本文中にも書いたが、クラウドファンディングでバルザックの文庫未刊の小説を出すなんて話をもちかけられたら、日ごろからそんな空想をしている私なんかはうっかり騙されて、10万円をレターパックで送ってしまいそうなのである。そんなことになったら、ますます妻に(以下自粛)。

 
『世界文学全集万華鏡――文庫で読めない世界の名作』試し読み
 

『図書館を学問する』本はどれくらいの図書館に所蔵されているのか?――『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』を出版して

佐藤 翔

『図書館を学問する』などという書名の本であるからには、きっと日本中の図書館が購入し、所蔵(図書館が受け入れ、利用可能な状態にすること)してくれるにちがいないと期待するのは、著者として自然なことでしょう。本書中でも頻繁に引用する『日本の図書館 統計と名簿』(日本図書館協会)という資料の2023年版(執筆時点での最新版)によれば、2023年時点で、1,359以上の市区町村に図書館があり、1自治体に複数の図書館があることもあるため、市区町村立図書館の総数は3,246館にものぼります。そのほかに47都道府県すべてに都道府県立図書館があります。また、約800の大学、約300の短期大学にも図書館があり、こちらも1大学が複数の図書館をもっていることもあるため、その総数は1,800館以上。加えて全国1万8,000校以上の小学校、約9,900校の中学校、約4,800校の高等学校にも、法律上すべて学校図書館が置かれているはずです。そのほかに国立図書館や専門図書館など、世に「図書館」とされる存在はあまたあります。さすがに学校図書館が本書を買ってくれるかはわかりませんが(中学生・高校生ならぜひ読んでほしいところです。図書館学を志す人口を増やすためにも!)、市区町村立などの公立図書館や、大学の図書館ならば、きっとその多くが買ってくれるにちがいない。分館まで含めてすべてに置かれるのは無理でも、各自治体・大学で1冊ずつ買ってもらうだけで3,000冊くらいにはなるはずで、「まいったなあ、これはきっとすぐに増刷がかかることになるぞ」などと、出版前にはもくろんでいました。いわゆる捕らぬ狸の皮算用というやつです。
 その後、出版から約1カ月が過ぎましたが、いまのところは増刷のお声はいただいていないようです(1月23日の執筆時点。ところが、おかげさまで2月6日に2刷ができました!)。「おかしいな、いまごろすべての図書館が買っているはずでは?」と疑問を抱き、本書の趣旨にものっとって、さっそく各図書館の所蔵状況を調べよう……と思ったのですが、実はこれが意外に難しい。大学図書館については簡単で、全国ほとんどの大学図書館の所蔵資料をまとめて検索できる「CiNii Books」というサービスが存在します(いずれ論文や研究データなどを探せる「CiNii Research」という仕組みに完全統合される予定)。そこで所蔵を調べてみると……2025年1月23日時点の所蔵図書館は10館。10館!? 何かの間違いではないでしょうか。筆者の所属の同志社大学にも入っていないし、図書館情報学研究の拠点である筑波大学とか慶應義塾大学、愛知淑徳大学とか九州大学とかにもないではないですか。え、実はみんな僕のこと、嫌いだった……? ただ、たまたま現地にうかがって、蔵をこの目で確認した大学図書館なども、「CiNii Books」上ではまだ所蔵していないことになっているので、データの反映が遅れていたり、購入・準備に時間がかかったりしている大学もあるのかもしれません。そうであってほしい。
 公立図書館のほうはどうかというと、大学図書館に比べると所蔵を調べるのが容易ではありません。「CiNii Books」のような、多くの図書館の所蔵状況をまとめた蔵書目録「総合目録」が、公立図書館の場合には存在しないからです(一部の図書館だけ入っているものはありますが)。大学図書館の場合は、自分の図書館でもっていない雑誌に掲載された論文のコピーを依頼するとか、もっていない本をほかから取り寄せたいという要望が頻繁に発生することもあって、総合目録が発展してきた歴史があるのですが、公立図書館の場合は地域のネットワーク内で完結したり、国立国会図書館を頼ることが多いこともあって、全国的な総合目録が発展してきませんでした。そのためこういうときは不便だったのですが、2010年に「カーリル」という、全国の図書館がオンラインで公開している検索システムを横断的に検索して、所蔵状況をまとめて閲覧できるサービスを株式会社カーリルが運用開始し、全国の所蔵状況を調べることができるようになりました。ただ、総合目録がデータ自体、統合して作られているのに対し、横断検索はつど、各図書館の検索システムに問い合わせをかける負担が発生することもあってか、カーリルでは全国をまとめて探すことはできず、都道府県ごとのブロックでしか所蔵を調べることができません。したがって、仕方がないので47都道府県分、自分の本があるか検索してみました。エゴサーチここにきわまれり。
 カーリル検索の結果、1,359自治体、3,246館の市区町村立図書館中、本書を所蔵していたのは220自治体、252館でした。自治体単位での所蔵率は16.2%、図書館単位では7.8%。思ったほどには伸びていないかあ……もうちょっと所蔵しているものかと思ったのですが。ちなみにカーリルでは各図書館での貸出状況もわかるのですが、本書の貸出率は56.0%でした。新刊書のわりには低いともみるか、ノンフィクションのわりには高いとみるか。著者本人としては後者の立場をとりたいです、けっこう借りられているようだしぜひ所蔵しましょう!>図書館関係者各位。
 もっとも、出版から1カ月を待って調査してみましたが、おそらく買うつもりがないから所蔵していないのではなく、単にまだ納品あるいは準備ができていないだけ、という図書館もありそうだと思っています。そうでないと、都道府県別にみたときの京都府の所蔵率が低すぎます。21市町村中、2自治体しか買ってくれていない。なんなら日頃、図書館司書課程の教員としていろいろとお世話になっている、具体的には毎年ご挨拶にいっている図書館とか、研修事業を担当したことがある図書館とか、審議会委員をやったことがある図書館とかで、買ってくれているのが1館しかない。さすがにそこまで嫌われているということはないだろうと思うので……思いたいので、おそらくこれは新刊が図書館で提供されるスピードに、図書館によって差があるのではないか、という仮説が成り立ちます。発注から納品・受け入れ手続きにかかる時間に差があるのではないかとか。それを検証しようと思うと、例えば同じ時期に出た別の本の場合はどうなんだろうとか、もう所蔵している図書館/いま所蔵がない図書館で何か差があるのだろうかとか、もし検索システムで本の受け入れ日がとってこれるなら、個別の図書館の検索システムを使って受け入れ日のデータを取得してみて、館によって刊行→受け入れまでに系統的な(たまたまじゃなく、毎回発生する)差があるのかを調べる、なんてことが考えられます。
 そんな感じで、発端はごく素朴な疑問(自分の本って図書館にどれくらい所蔵されているのか)であっても、実際に調べて傾向をみているうちに様々な仮説が浮かび、それをまじめに検証していくと、いつの間にか図書館に関する研究・学問になっていくわけです。この場合は刊行から所蔵・提供までにかかるスピード(期間)とそれを左右する要因という、図書館サービスの品質に関するトピックになってきました(品質といっても、早ければ早いほどいいわけではなく、提供に期間がかかるところは慎重に選んでいるという結論になることも大いに考えられます)。似たようなことを様々なトピックについておこなっているのが本書『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』でして、本稿を読んで興味をもった方は、ぜひご一読いただければ幸いです。
 もちろんこんな書名の本ですから、図書館で借りてもらうのもいいのではないでしょうか。お近くの図書館に所蔵があるかどうかも、カーリルで簡単に調べられますよ!
 
『図書館を学問する――なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』試し読み
 

ニュルンベルクのクリスマス市――『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関紙「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』を出版して

桑原ヒサ子

 冬のドイツ観光といえば、定番は有名なクリスマス市を巡る旅だろう。クリスマス市はドイツ各都市で、旧市街の中央広場を会場にアドヴェント期間、すなわちクリスマスの4週間前から通常クリスマスイブまで開かれる。クリスマスイルミネーションに照らされる市場では、レープクーヘンやシュトレン、シュぺクラティウスといったクリスマス菓子や焼きアーモンド、焼き栗が売られ、カラフルなガラス玉やアドヴェントの星、ラメッタなどのツリー飾り、エルツ山岳地方の木製の煙出し人形のほか、さまざまな雑貨の屋台が200近くも並ぶ。体を温める飲み物といえばグリューヴァインで、これは温めたワインにシナモン、レモンの皮、チョウジ、ウイキョウを混ぜ、甘味を加えたものだ。
 この時期、ドイツ観光局、ドイツ大使館、さまざまな旅行会社はこぞってクリスマス市を紹介し、ドイツへの旅行を提案する。ドイツの3大クリスマス市といえば、世界最大のシュトゥットガルト、世界最古のクリスマス市の一つドレースデン、それに世界で一番有名といわれるニュルンベルクのことで、ニュルンベルクだけでも世界中から200万人から300万人もの観光客を引き付けている。このエッセーでは、ニュルンベルクのクリスマス市に注目してみたい。

 第二次世界大戦後の復興を経て、再びドイツの家庭はどこも同じようにクリスマスを祝うようになる。その定形は、『ナチス・ドイツのクリスマス』で明らかにしたように、ナチ時代に発行部数第1位だった官製女性雑誌「女性展望」がアドヴェント号とクリスマス号に掲載した記事が作り出したものだった。クリスマスがキリスト生誕の祝祭であるという理解はあるものの、クリスマスのルーツはドイツ固有の民族文化にあるという19世紀以来の「ドイツのクリスマス」という自負心がナチ時代に強化された。ナチ時代に周知された「家族のクリスマス」が戦後に復活したのと同じことが、ニュルンベルクのクリスマス市の復活にもみられるように思う。
 クリスマス市が立つ中央広場には、「美しの泉」(鉄柵の金の輪を握って願い事をするとかなうという言い伝えがある)やゴシック様式の聖母教会が立つ。ニュルンベルクのクリスマス市は「クリストキンドレスマルクト」と呼ばれ、金髪に王冠をかぶり、金色の天使の服を着た(子どもたちにプレゼントを与える)クリストキントに扮した若い女性が、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れて口上を述べる一大イベントで始まる。クリストキント役は市内在住の16歳以上の若い女性から選ばれるが、それは大変な名誉となる。

 この広場の歴史をたどるのもなかなか興味深い。
 ニュルンベルクの町はペグニッツ川の両岸に広がっている。12世紀によそから追放されたユダヤ人がやってきて、川の湿地帯に入植することを許される。14世紀にニュルンベルクの市壁が完成すると、ユダヤ人地区は街の真ん中に位置することになった。当時、ヨーロッパでペストが蔓延してユダヤ人がスケープゴートにされるなかで、皇帝カール4世はユダヤ人迫害を阻めず、1349年にニュルンベルクのユダヤ人地区でも迫害が起こり、560人のユダヤ人が殺害されている。1498年にはユダヤ人はニュルンベルクから放逐され、以後1850年まで家を構えることができなかった。カール4世は空になったユダヤ人地区に聖母教会を建設する許可を出したのである。
 クリスマス市がいつ始まったかは不明で、残存する史料によるとその歴史は17世紀後半までさかのぼれるという。その後、18世紀にはニュルンベルクの職人のほぼ全員、約140人が市で商品を販売する権利を獲得している。しかし、19世紀末になるとクリスマス市はその意味を次第に失い、街の周辺に追いやられた。それが国民社会主義の時代になると、長い伝統があるクリスマス市は、ニュルンベルクに「ドイツ帝国の宝石箱」というイメージを与え、年間祝祭カレンダーに入れるように利用された。1933年12月4日、アードルフ・ヒトラー広場と改名された中央広場で、神々しいほどロマンチックなオープニングの祝祭がおこなわれて、クリスマス市は復活した。市立劇場の若い女優レナーテ・ティムがクリストキントに扮し、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れ、郷土愛あふれる口上を述べると、子どもたちの合唱が続き、教会の鐘の響きで締めくくられた。
 戦時中は空爆が激しくなる1943年以降のクリスマス市の開催は不可能だった。戦後初のクリスマス市は48年だというが、ナチ党と関係が深かったニュルンベルクは連合国の激しい爆撃を受けてがれきの山と化していたから信じがたい話である。いずれにせよ、ニュルンベルクのクリスマス市は戦後早い時期に、ナチスが33年にクリスマス市を復活させたときのオープニングをそのままに再開した。68年まではクリストキントに扮するのは女優だったが、69年から公募制に変更された。アドヴェントの第一日曜日前の金曜日に聖母教会のバルコニーに2人の天使にいざなわれて登場する金髪のクリストキントは、現在のニュルンベルクのクリスマス市の一大イベントになっている。

『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関誌「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』試し読み

 

本を書くというメディア実践――『ケアする声のメディア――ホスピタルラジオという希望』を出版して

小川明子

 私は小さいころ、父母にお話をしてもらわないと眠れない子どもだった。父が適当に話を終わらせようとすると、首根っこをつかまえて、ちゃんと納得するまでお話をしてもらわないと眠らないやっかいな子どもだった。自分で本が読めるようになると、布団にもぐって寝たふりをしながら、懐中電灯の明かりで、夜遅くまで物語を読んだ。眠くなってきて目を閉じると、襖の向こうから聞こえてくる両親の話し声に安心して、ようやく眠りに落ちる。子どものころの私が欲していたのは、物語だったのか、それとも父母の声だったのか。私の単著1冊目は物語を作って語ることをテーマにした(『デジタル・ストーリーテリング――声なき想いに物語を』リベルタ出版、2016年)。2作目になる今回は「声」がテーマだ。
 こうした子どものころの経験が影響してか、私はラジオが好きだ。中高生のころは深夜ラジオに社会や人生を教えてもらい、いまも朝から晩までラジオを聴いている。正確にはスマートフォン(スマホ)アプリのradikoとかポッドキャスト(Podcast)だけれど、ニュースでさえも声で聴くほうが落ち着く。ラジオや新聞、ネットでニュースを見聞きして大谷翔平が相当有名になってから顔や動きを知ることになって笑われたけれど、新型コロナウイルス感染症拡大のニュースはそれまでさほど怖くなかったのに、テレビで人工呼吸器につながれた若い人の映像を見た途端に怖くなってしまった。映像は良くも悪くも衝撃的だ。
 幸か不幸か、本書はコロナ禍に書くことになった。イギリスでのインタビューも、藤田医科大学での実践もコロナのせいで自由に調査できず、ずいぶん出版が遅れてしまった。しかしだからこそ、この間にあらためてラジオの力が見直されてきた。本書以外にも2023年から24年にかけて、これまでほとんど学術的なテーマとして扱われてこなかったラジオに焦点を当てた書籍が、日本で次々と出版されている。本書のテーマでもあるケアする声のメディア、イギリス発祥のホスピタルラジオにもメディアの注目が集まり、その意義があらためて見直された時期でもあった。
 ホスピタルラジオをめぐる書籍は、私が知るかぎり、イギリスにも見当たらず、ウェブサイトでホスピタルラジオの歴史をつづっていた(数年前に閉鎖されている)Goodwinを探し出してUSBで原稿をもらって教えを請うた。イギリスのホスピタルラジオに実際に行ってみると、ボランティア側がラジオで話したいという欲望も強く、聴いている患者のほうがボランティアをケアしているような側面もあって、本家イギリスでアカデミアの関心が得られなかった理由もおぼろげながら理解できた。
 人文社会系の学問がどんどんエビデンスや客観性を重視する時代になるなかで、学術的に扱うのが難しいテーマをなんとか書籍にして世に出したいと思ったのは、「声」がもつケア的な側面にもっと関心が寄せられてもいいのではないかと強く感じているからだ。社会人としてのスタートを放送局で始めた私は、専門家だけが読む小難しい本としてではなく、関心をもつ誰もが手に取ってもらえるような本にしたかった。そして、青弓社の編集のみなさんは期待以上の本にしてくださった。
 ありがたいことに、本書を取り上げる書評も現れ、NHKのラジオなどでもコメントをする機会を得た。そこからのつながりや動きも生まれ始めている。これまで「メディアを作ってちょっとだけ社会を変える」をモットーに、研究と実践の間を進んできた。単なる学術書として閉じるのではなく、現実をちょっとだけ変えていくような書籍になったら本望だ。本を出す、ということはメディア実践だとあらためて実感した。孤立状態にあって、誰かの温かな声を求めている人、そして声で誰かを励ましたいと思っている方々に届きますように。

『ケアする声のメディア――ホスピタルラジオという希望』詳細ページ

 

実存を懸ける――『野球のメディア論――球場の外でつくられるリアリティー』を出版して

根岸貴哉

「実存を懸けてやりなさい」
 これは、敬愛する師、谷川渥先生からいただいた言葉だ。

 2018年7月、猛暑の京都。壇上でぼくは博士論文の構想発表をしていた。このプロセスを通らないと、博論を提出することができない。

 ぼくが所属していた立命館大学の先端総合学術研究科、通称「先端研」の博論提出の要件。それは、前述した構想発表で認められることと、査読論文が3本以上あること、そして、既定の年数以上所属していることである。先端研は一貫制博士課程のため、1年次から入学していれば5年以上、3年次からの編入であれば3年以上、ということになる。
 先端研の人々は、この構想発表をおこなってから数年後に博論を提出している。博士論文とはなんだろう。ある人にとってそれはひとつの象徴的な通過儀礼かもしれないし、もしかしたら「ただの書類」かもしれない。しかしある人にとっては、それはひとつの到達点であり、集大成になりえるものだろう。
 建前をいうなら、そりゃあ「到達点」としてあるべきだ。だから、構想発表をしてから数年という時間をかけて書き上げる。そういうものなのだろう。では、ぼくの博士論文はどうだったのか。その評価は、博論をベースにした単著『野球のメディア論』を読んだ方々におまかせしたいと思う。いや、大幅に加筆・修正をした単著で博論の評価をあおぐ、なんてずるいだろうか。ならばあえて自己評価をしよう。端的にいってしまえば、ぼくの博論は急ごしらえで書いたものだ。なにせ、ぼくは構想発表の3カ月後には博論を提出していたのだから。
 本来なら数年かけて出すものを3カ月で書く。構想発表をしたあとすぐに書き始めていたわけではないから、実際にはもっと短い時間だったと思う。時間が圧縮されていた。もう一度やれ、と言われたら無理だと思う。後日、主査の先生にそんな話をしたら「博士論文なんて人生に一度だけだから」と言われた。そりゃそうだ。

 なんでそんなことになったのか。時を戻して2018年9月。ぼくは指導教員だった吉田寛先生の異動を知る。博論提出の締め切りまではあと1カ月しかない。ぼくからしたら、博論の提出も確かに人生一度だけだが、師事していた教員が突然来年度にはいなくなるなんてこともなかなかない事態である。さらに、 締め切り2、3週間前には、副査を務めていただいた木村覚先生も、来年度はサバティカルで日本にいないと知る。どうやったって、10月の締め切りがラストチャンスである。
 そこからのことは、もうあまり覚えていない。ただ、博論の書き下ろし部分、すなわち単著の序章と第5章、第6章はいずれもこの期間に書いた。形式や前後の章のバランスを整えたのも、もちろんこの期間で、である。 だから大幅な加筆・修正をして単著として出版することができたのは幸甚だった。
 口頭試問、それを受けての修正、そして公聴会やその他の書類処理をして、なんとか3月に修了し、博士号を取得した。その後、数カ月から一年間はずっとぼんやり状態だった。世の中がコロナ渦になっているなか、ぼくもまた燃え尽きて停滞。副査を務めていただいた竹中悠美先生から、先端研の研究指導助手のオファーをいただくまで、ぼんやりと研究を続けながら日々を過ごしていた。

 助手になった2023年、春。経済状況と自身のぼんやり状態がマシになってきて、ようやく出版に向けて準備を進め始める。吉田先生に連絡をして、紹介してもらったのが青弓社だった。出版に向けた打ち合わせの際にリライトのスケジュールを聞かれ、博論のときと同じ感覚で執筆計画を提案すると、「本当に無理をしないでください」と言われた。どうやら、ぼくの執筆スケジュール感覚は麻痺していたらしい。

 博論のリライトを進めていた2023年8月、ある日の夜のこと。目を閉じて、目を開けると、……黒いものが見える。黒カビが浮いた水のなかに、左目だけがあるような感じだ。急いで目を洗いにいくも、取れない。次第に黒カビはどんどん広がっていって、気づけば黒いカーテンの隙間から覗いて見えている程度の視界しかなくなってしまう。
 次の日の朝、急いで眼科に行くと、診断は「左目網膜剥離」。眼底出血がひどいらしく、翌日、大きな病院で診断を受けてください、とのこと。

「終わった」と思った。

 博士論文のタイトルは「野球視覚文化論」である。そう、「視覚文化」である。視覚文化の研究者が視覚を失ったらその資格も失う、なんて冗談でも笑えない。
 博論の副査を務めていただいた竹中先生からは「単著が出たら景色変わる」と言われていたが、まさかこんなかたちで景色が変わってしまうとは。
 次の日、京都府立医科大学付属病院にて、やはり「網膜剥離」と診断され、2日後には手術を受けた。
 まるで『アンダルシアの犬』(監督:ルイズ・ブニュエル、1928年)のようだな、と思いながら手術を受けた(めちゃくちゃ怖かった)。術後はしばらくうつ伏せで過ごさなければならない。ちょうど甲子園で高校野球をやっている時期だった。しかし、見れない。怖くて左目は使えないし、目が疲れてしまうから右目もなるべく使わないようにしていた。それでも結果は気になるし、入院生活でできることも少ないため、野球中継だけはつけていた。
「カッ」という音なのか「カッキーン」という音なのかで、こすったのか芯でとらえたのかがなんとなくわかるようになってきたあたりで、退院を迎えた。それでも、しばらく日常生活は不便なものだった。なんとか見えるようにはなったものの、とにかく左目は何を見てもまぶしく感じてしまう。左目にタオルを巻いて生活する日々だった。
 手術の前後はまったくリライトが進まず、提出が遅れてしまう旨を出版社に伝えた。これはもう間に合わない、だめかもしれない……と思いながらやっと完成した章を送ると、それでも「速いペースで進んでいる」とのこと。麻痺したスケジュール感覚は、まだ戻っていないようだった。それからも、順調なペースでリライトは進んだ。

 時はとんで2024年2月。校正が始まる。いろいろな事情が重なって、本来の校正スケジュールではなかなかありえないタイトなスケジュールとなった。 合間に助手の業務と自身の発表をこなしながら、校正は助手の同僚であった駒澤真由美さん、吉野靫さんの助力もあってなんとかなった。もちろん、編集者の矢野未知生さんや、青弓社の方々にも本当に助けられた。同時にカバーデザインにもちょっとした仕掛けを作ったりした。
 序章のタイトルを求められたのも、この時期だったと思う。大谷翔平選手が全国の小学校にグローブを贈った際の言葉「野球しようぜ」を少し変えて、「野球観ようぜ」とした。本当にギリギリの修正だった。
 博論のときと同じような切迫感、締め切りに間に合わないかもしれないという焦燥感を味わった。校正が終わってからしばらくダウンするだろうなあ、なんて考えていたら新型コロナウイルスに感染した。作業が終わったあとで本当によかったと思う。

 そして2024年3月、出版に至った。その直後、ぼくはまた肝を冷やすことになる。
 読者のなかにはお気づきの方もいるかもしれない。そう、大谷選手の通訳を務めていた、水原一平氏の事件である。いまでこそ、大谷選手は被害者だ、ということになっている。しかし、報道が出た当時は大谷選手も共犯が疑われたり、自身が野球賭博に関与している場合にはメジャーリーグから永久追放も……などと噂されていた。焦る。著作と人格は別物だといっても、まさかこんなことになるとは。いまから出版の差し止めなんてできるはずもない。信じて祈るしかできない。出版の実感が湧く前に、出版されてしまった、と焦ることになるなんて。

 思えば、修士論文に相当する博士予備論文の執筆時には喉を壊して、主治医から「今夜が峠だな」と告げられた。その後も比喩ではなく血反吐を吐きながら死線をくぐり、なんとか書き上げた。博論のときは、主査の異動に伴う圧縮されたスケジュールと締め切り。今回は、網膜剥離による「研究者活動」の死線と、相変わらずタイトになってしまった締め切りを乗り越えた。大きな締め切りのたびに実存を懸けて、そのつど――筋書きのない――ドラマが生まれる。
 タイトルをつけるなら、『デッドライン』。……いやいや、それじゃあ千葉雅也先生の小説じゃないか。あんなにすばらしい小説はぼくには書けない。できることはただ、締め切りと死線を、そのたびに実存を懸けて乗り越えることだけ。そんな成果物をぜひ読んでいただきたい。

『野球のメディア論――球場の外でつくられるリアリティー』詳細ページ

 

どうしよう、どうしよう……のフェミニズム――『分断されないフェミニズム――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』を出版して

荒木菜穂

 青弓社をはじめさまざまな方々にお世話になりながら、書いている間、刊行されてから、私の頭のなかではいつも、いろんな「どうしよう」が渦巻いていました。思っていることを書きなぐるのではなく、どう伝えていけばいいのか、どう整理すればいいのか、そもそも本ってどうやって書くんだっけ、ちゃんと読んでもらえるだろうか、言葉足らずで伝わらなかったら、いや、伝えたいこと自体がフェミの人に受け入れられなかったらどうしよう……など。そういった「どうしよう」は、社会に文章を出す立場として、自分のなかで解決すべきなのはたしかです。
 しかしながら、それとともに、フェミニズムをテーマにする以上、落としどころがない「どうしよう」もあって、そういったグルグルとした揺れ動きはおそらく本書にも多く示されていると思います。
 まず、フェミニズムという名の下に書くということに、いろんな「どうしよう」がありました。本書は、フェミニズムの活動をしてきた方々にも、フェミニズムとあまり接点はないけれどジェンダーに関係しそうな日常のモヤモヤが気になる方々にも読んでほしいという思いがあったのですが、後者の場合、書名にある「フェミニズム」という言葉だけで抵抗感をもつ人もいるかもという不安がありました。例えば、いちおうフェミニズムの活動に(緩やかにではあるけれど)ずっと関わってきた私でも、本書を書いたことによって、親族やフェミ的なつながり以外の方々に「フェミ」バレするのが少し不安なところもあります。
 また、フェミニズムの名の下にさまざまな議論が巻き起こっていることも常に意識のなかにありました。さまざまな立場、それぞれの正義があるのだろうけれど、底知れぬ溝がそこにはあるように感じられることもあるし、ときとしてフェミニズムと真逆の方向に展開することもあったりする。そんな悩ましさとともに、もしかして『分断されないフェミニズム』って書名としてこの本、そんな状況をなんとかできる特効薬のようにみえてしまわないか、どうしよう!……という思いも湧いてきました。
 さらには今回、過去や現在の草の根フェミニズムについて、主に書き残されたものを中心に、そこで営まれてきたことの意義について、私自身の経験や肌感覚からリスペクトをもってつづったつもりではいますが、やはりどの立場から過去をとらえるかによって、それぞれの方が違った思いをもつこともあるかなという懸念もありました。
 とりわけ、この「どうしよう」には、今後の関係性のなかでぶちあたることが多くなると思っています。フェミニズムの活動はこんなもんじゃなかった、私の経験したことはもっとえげつなかった、そこにシスターフッドなんてキレイゴトはなかった、などのお叱りを受けることも多々あると思います。それらは、大いに心して受け止め、反省したいと思っています。しかし、おこがましくもあえて希望をもつなら、そこから本書が、あのころのフェミニズムには、いまのフェミニズムだって、こんな、あんなやりとりがあった、立場や主張が異なる者同士なんとか関係しようとする営みがそこにあった、と、さまざまな方々が思いをめぐらせ、語り合えるきっかけのひとつになればいいな、という思いもあります。
 ちなみに本書のサブタイトルは「ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる」。フェミニズムの特効薬どころか、ここには一気に緩さが出ていていいな、と思っています。立場や考えが違っても、どうにかやってこられた「ほうの」フェミニズム、そこからの気づきや学びを残し、模索しながらもなにかしらの提案ができたらという。複数性やその調整、妥協、発想の転換、自身の問い直しなど、フェミニズム的活動のなかで示された揺れ動きやあいまいさをコンセプトに据えたのは、そこに政治があるから!という崇高な目的というよりは、私自身が、先ほどのような「どうしよう」のカタマリ、不安定な存在であることも大きいと思います。そんな緩やかでささやかな本書ですが、どうぞ手に取っていただけると幸いです。すでに関心をもった方は本当にありがとうございます。
 
 最後に、カバーイラストの希望をお伝えしたら、こんなかわいいカバーを作っていただきました。イラストレーターやデザイナーほかのみなさま、あらためてありがとうございました。

『分断されない女たち――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』詳細ページ

 

「女子鉄道員」を深掘りして――『女子鉄道員と日本近代』を出版して

若林 宣

 私が「女子鉄道員」という言葉を最初に知ったのはいつごろだったか、記憶に間違いがなければ小学校高学年から中学生のころ、ということは1970年代の終わりから80年代初めにかけてだったように思います。たしか図書館から借りてきた、日本の歴史あるいは鉄道を扱った一般向けの本に書かれていたもので、そこでは「女子鉄道員」の存在は、太平洋戦争中にみられた戦時下特有の現象として扱われていたのでした。
 それ以来関心を持ち続けてきて……と書いたら、実はウソになります。そのとき少年鉄道ファンだった自分の主たる関心の対象は機関車や電車であって、そこで働く人々に目を向けるようになるのはもう少しあとのこと。そして「女子鉄道員」が気になり始めたのは、日々利用する鉄道の現場に女性の姿が見られるようになってからのことだったと思います。それはおそらく、今世紀に入ってからのことでしょう。というのも、女性労働者を深夜業に従事させることを規制してきた労働基準法が改正・施行されたのが1999年4月のこと。それ以降、駅係員や、また車掌や運転士として列車に乗務する女性の姿が各地で見られるようになりました。
 そのころのことをいまになって思い返してみると、不思議な気がします。たとえば女性の車掌や運転士の登場を報じるマスコミの視線には、珍しいものを前にしたときのような好奇な目もあったように思います。考えてみればそれはおかしな話で、そこで働いている人が女性だからどうだというのでしょうか。またそのことは、翻ってみれば、それまで女性が鉄道からどれだけ疎外されてきたかを示していたようにも思われます。
 などと書いてみましたが、しかし当時の私はそこまで言語化できていたわけではなく、何か違うなあと感じていた程度にすぎませんでした。ただ、そこからゆっくりと意識するようになったのは間違いありません。
 とはいっても、「女子鉄道員」についてすぐさま深く調べ始めたわけではないのでした。それでも、折にふれて社史をいくつか読むくらいのことはしたのですが、それらも至って記述が少なく、バスや東京市電を除けば戦時下にみられた事象という扱いがせいぜいで、「やはり戦争がもたらした特異な例にすぎなかったのかなあ」と思ったりもしました。
 しかし、突破口というのはあるものです。
「女子鉄道員」とは別のテーマで調べものをしていたとき、あることに気がつきました。各地で出版された女性史の本には、地方紙を参考にした記述があったり、また実際に働いていた人による証言が載っていたりします。そしてそこからは、少なからぬ女性が鉄道で働いていた様子も浮かび上がってくるのでした。そのことに気づいたときには、「なぜ最初からこっちを見なかったのか」と後悔しきり。女性の地域での生活や労働の歴史を明らかにしようとする活動への目配りが足りなかったのは、私がシス男性であるがゆえでしょうか。そのあたりは、もっと反省すべきかもしれません。
 その後は、鉄道書だけに頼ることはやめにして、女性史にあたって地域史にも目を向けて、そして日本各地で発行された新聞をチェックすべくマイクロフィルムをからから回すという作業を続けました。なお新聞は、現在ではコンピューターで検索できるデータベースもありますが、それは全国紙に限られますし、自分が思いついた限りのキーワード検索では取りこぼすおそれもあります。そして何より地方紙をこそ見たかったのです。
 成果のほどについては本書を読んでいただければと思いますが、その存在が何も戦時下に限られていたわけではないという事実について、あらためて確かめることができたのでした。そして同時に、「女子鉄道員」が当時どのように書かれ、あるいはどのような目をもって見られていたのかについてもうかがい知ることができたように思います。「女子鉄道員」は、これまで男性中心の社会から見たいようにしか見られてこなかった存在だったといまは考えています。また、かつての姿がよく知られていなかったとすれば、それは忘れられていたというよりも、社会が正面から向き合おうとしてこなかったと言ったほうが適切なのではないでしょうか。
 国立国会図書館の新聞資料室で一人静かにマイクロフィルムを回す作業は、いろいろな気づきを得られる楽しいひとときでもありました。そしていま、ひとまずこのテーマで一冊を出せたことに、ほっとしています。