刊行後のよしなしごと――『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』を出版して

永吉雅夫

 この年齢になって、ようやく単著を一冊まとめた。それが本書である。かなりの原稿量になっていることはわかっていたが、500ページを超えるものになろうとは思いもよらなかった。しかし、いわば古参の初陣としては、それぐらいでかえって見苦しくなかったのではないかと、いまは思っている。
 刊行後のよしなしごとのあれこれを記してみよう。
 ちょうど、定年退職を1年前倒しして2020年度末での退職を伝えた時期でもあったのでいい区切りの一冊にはなったが、わたしに退職記念という意識はそもそもない。しかし、知人たちは、なるほど退職するんだと受け止め、そのように言ってくる人もあったので、いやいや、そうではありません、これを最初の一歩としてこれから……と応じると、ニコニコ顔であきれられた。
 あきれるというと、出版した本が『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』であることに多くの知人がオドロイタ、そのことに、かえってわたし自身が驚かされた。なにも、読んで拍案驚奇、一読三嘆というような話ではない。知友諸氏の多くが、わたしを近世の文学・芸能の徒と見なしていたらしく、その男の出版物なら、いまの関心からいけば石川五右衛門か歌舞伎を扱ったものにちがいないと思ったらしい。確かに、大学での担当科目ということで言えば、近世文学関係のシラバスが同僚諸氏の目には触れることが多かったのだ。それが、「戦時昭和」で「芥川賞」だったから、友人が面食らったというのも無理はない面はある。しかし、わたし自身はずっと日本文学近世・近代を守備範囲と決めて、そのように文章も書いてきたつもりだったから、諸氏のそうした反応にこちらが驚かされたのである。主観と客観のズレ、というと大仰にすぎるが、しかし、セルフ・イメージと第三者の眼というものはなかなか一致し難いものかもしれない。
 それとは少しズレるが、まして、ご時世、自己の信念の前では第三者にどう見えるかなど塵、芥、そんなものにこだわるのは信念薄弱か、へたをすると単なる八方美人の風見鶏だと思われかねない。その結果、第三者の眼を仮構して自己を検証するという、オトナなら当然の自己省察までがスキップされてしまい、逆に確固たる自恃が疑われるような事態が出来しているのではないだろうか。
 たとえば、「教養がじゃまをする」という言い回しを聞かなくなって久しい。こういうふうにすれば自分が得をする、有利になるということはわかりきっているのだが、そうであるからこそかえってそのように振る舞うのははばかられる、自分で許せない、そんなとき苦笑交じりに「教養がじゃまをして」とつぶやいて、結局、みずから自分の得や有利を取り逃がしてしまう。現在では絶滅危惧を通り越して絶滅、はっきりと死語になってしまったとみえる。その言い回しには教養の一種の特権化のにおいもあって、現在ではそれはある程度、平準化されたから、という面もあるだろうが、それ以上に、大学の教育課程に占めていた教養部の解体を通じて教養の時代の終わりを促し後押しした結果、加速された現象かもしれない。
 かわりに台頭したのが「効率」だろう。それは「教養がじゃまをして」というような対処を、目的合理性を欠いた行動とみなす立場の展開である。目的が定まれば、精神的・物理的、そして時間的にいかにローコストでそれを実現し、成果を手に入れるか、その最短性こそがなにより優先され、二者択一の選択を繰り返す場に、教養というかたちのその人のいわば人間が投企されることはないのだろう。そう考えなければ、わたしのような昔人間には理解不能な出来事が、わたしの職場から永田町に至る日本だけでなくアメリカをはじめ世界規模で頻発している。「戦時昭和」の人間模様はけっして過去のことではない。
 コロナの時代でなかったなら、友人諸氏はきっとそれぞれに祝杯の誘いをかけてくれたことだろう。いつもなら飲もうと言う人たちも、まあ、高齢者同士だからお互い誘うのがはばかられるのだ。といって、オンライン飲み会のような新様式にはとてもなじめない。東京大空襲のあと、焼け出された永井荷風は、勝山(岡山)に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねる。先輩に対する谷崎夫婦の接遇は、宿や酒食から切符の手配に至るまで実に行き届いているばかりか、許されるかぎりの贅をつくしたものだった。荷風は、なかなかお目にかかれなくなった白米や牛肉そして日本酒に、涙を流さんばかりに「欣喜」する。モノがない時代ゆえの欣喜落涙でもあるが、戦火をくぐり抜けてともにする知己との飲食なればこその感慨も大きかったにちがいない。いまは、幸いモノはある。しかし、人間関係の一次的な直接性がおびやかされている。知己を目の当たりに実感する荷風の欣喜落涙は、現在、我々にどのように可能だろうか。

 

「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンをめぐって――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を出版して

桑原ヒサ子

 10月1日掲載の「原稿の余白に」ではナチス機関誌「女性展望」の全号を入手するまでの顛末を記したが、今回はナチ時代の女性の髪形について書きたい。
『ナチス機関誌「女性展望」を読む』のカバーには長い三つ編みを頭部に巻いた若い女性の絵を掲載している。全国女性指導者のゲルトルート・ショルツ=クリンクも同じヘアスタイルであることから、あの髪形には何かナチ的決まりごとがあるのではないか。もしそうであれば不可解なことがある、と知人から質問があった。「キリストの幕屋」という宗教団体に所属する女性たちが同じ髪形をしている、というのである。その団体はキリスト教団体であるものの、ユダヤ教を基軸にしているそうで、反ユダヤ主義を掲げたナチスと同じヘアスタイルをするのはおかしいのではないかとのことだった。
 この疑問に私は答えることはできない。しかし、あの髪形はナチスが考案したわけでも、ナチスの専売特許でもないから、ナチズムとは関係なくあの伝統的な髪形にこだわることは大いにありうる。

 髪形としての三つ編みの歴史はきわめて古く、古代エジプトの絵画や古代ギリシャの彫像にもお下げ髪は見られる。ルネサンス期の複雑な編み方を駆使したヘアスタイルを別にすれば、中世以降、お下げ髪であれ、三つ編みを頭部に巻くスタイルであれ、三つ編みは身分の高い女性の髪形というよりも、農村女性や下働きの女性、結婚前の若い女性の髪形だった。
 労働や家事をする際に長い髪を束ねたり結い上げたりすることは、動きやすさや安全性、衛生面でも理にかなっていただろう。そのうえ、三つ編みには装飾性もあった。少女たちがお下げ髪をする一方で、腰まで髪が伸びると、ようやく三つ編みを頭部に巻けるようになる。後者のヘアスタイルをドイツ語では「三つ編みの冠」(両耳脇から2本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)あるいは「農民の王冠」(1本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)と呼んだ。

 ナチ時代には、「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンがあった。この表現では、一定のヘアスタイルの推奨というより、政治的な主張が髪形の違いに象徴的に込められている。「三つ編み」という表現には、長い髪という伝統的女性像と、ナチズムが重要視した農業を女性性として捉える意味合いが合体されている。しかし、ショルツ=クリンクとお下げ髪の少女のわずかな数の写真を除けば、三つ編みが見られるのは民族衣装をまとった農村女性を描く絵画がほとんどである。絵画はアーリア人的な金髪の三つ編みに碧眼のイデオロギーを真面目に描いたが、本書に掲載した写真に写る中産階級の女性たちのヘアスタイルには「三つ編みの冠」も「農民の王冠」も全く見られない。「三つ編み」という言葉には「時代遅れ」の意味もあった。若いナチ女性たちは、時代遅れの三つ編みではなく、流行の髪形、すなわちウエーブがかかったショートヘアを好んだのである。ウエーブをつける電気器具やエッセンスなど多種多様な宣伝広告が「女性展望」には載っている。どんなにナチ指導部がイデオロギーの発信をしても、流行を求める女心には届かず、「ユダヤ人的」ヘアスタイルのほうが好まれたのだった。ショルツ=クリンクは、全国女性指導者という立場から手本を示すために「三つ編みの冠を被った」のだろう。
「ショートヘアはユダヤ人的」という表現も、ドイツ革命によって誕生したヴァイマル共和国を批判する道具でしかない。社会主義者にユダヤ人が多かったことに加えて、ヴァイマル政府の政治家にもユダヤ系ドイツ人がいたし、男女同権を謳ったヴァイマル憲法もユダヤ系の憲法学者によって起草された。そうした女性解放の空気のなかで、ショートヘアにミニスカートの「新しい女性」が登場した。もちろん、ショートヘアの「新しい女性」がみなユダヤ人だったわけではなかった。しかし、それは問題ではなく、ショートヘアはユダヤ的ヴァイマル共和国、ヴァイマル憲法を表象していたのである。

「農村のヴィーナス」1939年
ヨーゼフ・ゲッベルスが1万5,000マルクで購入した。

 本書のカバーに掲載した三つ編みの女性の絵のタイトルは「赤い首飾り」である。画家はゼップ・ヒルツで、ナチ時代に農村画家として一世を風靡した。たびたびミュンヘンの「ドイツ芸術の家」における大ドイツ美術展で作品が展示され、1939年の「農村のヴィーナス」(図参照)で農村画家として不動の地位を築いた。ヒルツはヒトラーのお気に入りの画家のひとりで、総統はヒルツの作品をいくつも購入し、画家に土地を与えて、ベルクホーフの別荘を設計したアロイス・デガーノにヒルツのアトリエを建てさせている。さらにヒルツを「天分豊かな人々のリスト」に加え、召集を免除した。42年に「ドイツ芸術の家」に展示された「赤い首飾り」もヒトラーが5,000マルク(当時の高校教員の年収はおよそ4,000マルクだった)で購入した作品だった。「赤い首飾り」は現在、ベルリンのドイツ歴史博物館に所蔵されている。

 

泰斗がいう「根源」を見極めようとした――『苦学と立身と図書館――パブリック・ライブラリーと近代日本』を出版して

伊東達也

「図書館を受験勉強のためにのみ利用した青年が、将来図書館の真の利用者になるというような甘い夢におぼれてはならない。(略)この学生問題の発生の根は深いところにある。それを図書館だけで解決することも、また逆にこれに触れないで通ることもできない。積極的に地域の課題として問題提起をし、学校その他の機関とも交流しながら実情に応じて具体的に問題を解決する方向を打ちだしたい」(日本図書館協会『中小都市における公共図書館の運営』日本図書館協会、1963年、128―129ページ)

「ここで席貸しについて注意しなければならない。図書館は資料を提供するところであって、座席と机だけを提供するところではない。いいかえれば席貸しは図書館の機能ではない。(略)図書館は学生生徒を含めたすべての住民に資料提供というサービスをすべきである。学生に限らず誰に対しても、席貸しは図書館サービスとは言えない。もちろん席だけを求めてくる市民をしめだすことはできない。しかし、これによって図書館が繁昌しているような錯覚にとらわれないよう、また図書館サービスが圧迫されることのないようにしなければならない」(日本図書館協会『市民の図書館』日本図書館協会、1970年、15ページ)

 先日、本書に目をとめてくれた大先輩から、「前川さんが生きていたら、この本をみて何と言っただろうね」という言葉をもらった。
 今年2020年4月、惜しくも亡くなった図書館界の偉大なリーダー前川恒雄。日本の公共図書館に革命を起こした報告書『中小都市における公共図書館の運営』(通称『中小レポート』)の作成に深く関わり、「市民が自由に本を借りて読めることが民主社会の基本で、それを支えるのが図書館」という信念を貫いて、「何でも、いつでも、どこでも、誰でも」と、貸し出しによる住民への資料提供を第一とする図書館サービスの模範を示し続けた伝説のライブラリアンである。

「私が日野市立図書館を移動図書館一台だけでスタートさせた最大の理由は、閲覧室(つまり勉強部屋)のない図書館を作りたいということだった。(略)本当の図書館を日本で初めて作るには、まず図書館の意味を分ってもらわなければならず、そのためには図書館の最も根本の部分だけをとりだして、市民の前でやってみせなければ、どうにもならなかったのである。(略)場所を貸すところから本を貸すところに変わったとき、図書館は市民のものになった」(前川恒雄『われらの図書館』筑摩書房、1987年、15―17ページ)

 いまから25年前、開館したばかりの小図書館の司書だった私は、公共図書館づくりのバイブルだった『市民の図書館』の前川の教えに従って、読書席を占領している受験生一人ひとりを説得し、広報誌で市民と論争して、とにかく勉強しにくる学生を図書館から追い出そうと必死になっていた。『中小レポート』には、「この学生問題の発生の根は深いところにある」とある。ならばその「根源」を見極めてやろうと、その頃ふと思い立ったのが本書のもとになった研究の発端である。
 前川先生なら、何とおっしゃっただろうか。