足立 博『まるごとピアノの本』「音が苦」ではなく「音楽」のために

 振り返ってみれば、幼いころピアノに興味をもちはじめてから、半世紀ちかくがたってしまった。当時は、男の子がピアノなんて、という風潮と認識のなかで、もちろん、家にはピアノはなく、私は学校の休み時間に音楽教室にもぐり込んで、先生や生徒の目を盗んでピアノに触れるのが精いっぱいだった。
 そんなわけで、私は親の無理解を長年恨みつづけたものだが、いまから思えば、今日までピアノに関する興味を保ちつづけることができたのは、このいわばハングリー精神が糧となっているという面があるかもしれない。皮肉にも、ピアノ教室にかよっていた妹やいとこたちは、ピアノを習う機会は十分与えられていながら、ピアノの演奏を楽しんでいるという様子はない。そして私も、もしも体育会系(?)のピアノ教師の訓練を受けていたなら、いまごろはかえってピアノ嫌いになっていたかもしれないとの思いもある。
 また、私よりも前の世代には、紙鍵盤で練習を重ねて、プロ並みの技術を身につけた人もいたと聞いているので、本当に才能があれば、環境や周囲の無理解はあまり関係がないということなのかもしれない。
 私自身もこの歳になってようやくピアノの練習をはじめたのだが、少しずつだがレパートリーも増え、趣味として楽しむには十分で、過去の経緯は、もう水に流してもよさそうだ。もっとも、私の繰り返しの練習に耐えかねて不平をもらす、妻や娘の無理解(?)と闘う必要はいまも続いているが。
 というわけで、私が拙著で訴えたかったことの一つは、ピアノの練習はいつでもできるということ、また本当に楽しんで練習してほしいということだ。そして、自分の弾きたい曲をいきなり練習してもいいということもぜひ知ってほしかった。
 ちなみに、私はいま、ベートーベンのソナタの『30番』の「第三楽章」とアンドレ・ギャニオンの『巡り合い』を練習している。音符の音程を一つ一つ指でなぞりながら一音一音弾く姿は、はたから見ればおかしいだろうと思うし、正統派のピアノの教師からは冒涜だと非難されそうだが、何度も同じことを繰り返して、やがて手がそれを覚えるようになると、われながらほれぼれするような(?)曲になっていくのは感動ものである。そして、ウサギとカメの寓話同様、いつかは正規の訓練を受けたものを超えたいとの願いもある。
 私が訴えたかった二つ目の点としては、調律も含めて、ピアノのメンテナンスはアマチュアにも、やってやれないことはないという点だ。アメリカでは、ピアノのメンテナンスが一種のホビーとして認知されているようであるが、日本ではピアノの内部にしろうとが手を出してはいけないという風潮があるように思う。それで、拙著がアマチュアチューナーのブームのきっかけとなるのではないかとの、ひそかな期待もいだいている。
 もっとも、しろうとが壊したピアノの修理のためにプロが奔走する事態も招きかねないが、業界の活性化(?)にも一役買うのではないだろうか。
 いずれにせよ、ユーザー車検のガイドブックが発表されたときは、かなりの物議を醸したことを記憶しているが、少なくとも命にかかわることのないピアノのメンテナンスについては、もっとオープンに考えても責められるべきではないと思う。
 さて、マイナーだが品質の優れたピアノが数多く存在することをぜひ知ってほしいということも、拙著を上梓するきっかけの一つだった。ユーザーあっての物づくりであるので、機械生産のピアノが普及するのはやむをえないことではあるが、楽器としてのピアノの命はけっしてなくしてほしくないとの思いが強い。ピアノ風キーボード(デジタルピアノ)の音色が標準になってしまったら、ピアノの命は終わりだとさえ思う。現に、デジタル風の音色の生ピアノがあるのが怖い。
 もっとも、この原因は結局はユーザーにあるのかもしれない。画一化や平等感を重んじる日本では個性的な楽器は受け入れられないのかもしれない。ウイスキーにしても住宅にしても「本物」が日本に定着することはなかった。もっとも、自動車などは近年はようやく本物になりつつあるので、ピアノについても今後は期待できるかもしれない。
 住宅に関しては、過去、十冊以上の本を上梓して、そのなかでの言いたい放題で、業界にかなりの影響と混乱をおよぼした責任を自覚しているが、ピアノに関しても、いろいろな意味で一石を、いや三石を投じるものになったのではないかと自負している。ともかく、拙著が業界の活性化の一助となり、真に優れたピアノの普及にいささかでも貢献できれば、本懐である。

太田省一『社会は笑う――ボケとツッコミの人間関係』テレビっ子は語る

 そもそも文章を書くという行為がそうなのかもしれないが、書いてみてはじめて自分の書きたかったことに気づかされることがある。ましてや一冊の本ほどの分量にもなると、その感はいっそう深い。だから今回書いてみてそうした感覚になったとしても不思議はないのだが、それでもそうした部分とは別に、今回とくに気づかされたこともあった。
 当初青弓社の矢野恵二さんと今回の企画について打ち合わせたときにコンセプトとしてあったのは、現代日本社会にあふれる笑いへの欲望のようなものを社会学的な視座から広く考察するというようなことだったと記憶している。ところが完成したものは、そのコンセプトを踏まえながらも、広くさまざまな事例を取り上げるというよりは、結局テレビの笑いということに相当大きな比重を置いたものになってしまった。当然ながら、笑いのかたちは、それだけではない。テレビの笑いが、いまやそのなかの主流を形づくるものだとしてもである。
 そうなってしまったのには、本書のあとがきでもふれたように、一つには、単純に筆者の個人的な嗜好によるところが大きい。その意味で、笑いを判断するとき、暗黙のうちにテレビ的なものを基準にする習性が身についているだろうし、とりあえず何でも笑えれば楽しいというある意味では困った価値観が染みついているような部分もある。要するに、筆者はいわゆる「テレビっ子」なのである。
 もちろんそうしたテレビっ子としての自己形成には、育ってきた時代背景もあるだろう。きわめて紋切り型な表現で恐縮だが、物心がついた時点ですでにテレビが身近にあったという環境は、大きな影響をおよぼしたにちがいない。テレビ世代以前と以後という区分けの説得力は、メディア史的な検証を待つまでもなく私たちの確たる実感として共有されているのではないか。
 しかし、そうした世代論ですませてしまうことにも抵抗を感じないではない。テレビっ子的あり方は、世代や成育環境といったことを超えて一つのコミュニケーション主体としてもはや無視できない実質を社会的に獲得しているように思われるからだ。そしてそれは、本書の基本前提でもある。
 たとえば、テレビに対してツッコむという行為を考えてみよう。テレビ画面での言動あるいは展開などに対して、「おいおい」とか「そんなわけないだろっ」とか言いながら、ほとんど反射的にツッコんでしまうという経験を、かなり多くの人がもっているのではないだろうか。さらに一人でテレビを観ているときだったりすれば、その頻度も高まるにちがいない(もちろん筆者もご多分にもれない)。
 この行為を一つの「コミュニケーション」として考えてみよう。するとそこには、テレビっ子のコミュニケーション主体としての特性がよくみえてくる。
 言うまでもなくそれは、疑似的なコミュニケーションにすぎない。ただしそれは、疑似だからこそ私たちを誘惑するという側面をもっている。そこには、他者から隔離された場所で物を言いたいという欲求と他者と言葉を交わしたいという欲求とが同居している。言葉を換えていえば、テレビに対するツッコミは、独白であると同時に会話なのである。そこには、テレビを自然に親しい他者とするような奇妙な感覚がみてとれるだろう。だがその両義的なあり方のなかにこそ、テレビっ子のコミュニケーション空間は成立している。
 ただしテレビっ子は、隔離されたところでツッコむ自分に完全に自足しているわけではない。そこには、どこか居心地の悪さがともなっている。そのことは、テレビに対して思わずツッコんでしまった自分に対してこみあげてくるあの気恥ずかしい感覚を思い出してもらえばいいだろう。それは、テレビにツッコむ自分に対してもツッコまずにはいられない自分が常に隣り合っていることのあかしである。そしてその自己反省的な部分もまた、テレビっ子的主体の本質的一面なのである。
 その意味で本書は、テレビっ子であることを自覚した筆者が、テレビっ子的あり方が当たり前のようになっている現在の日本社会を語る試みとして読んでもらえるだろう。そのような一種の自己分析的構図ゆえに、読者は、そこかしこで筆者が対象に寄り添いすぎているところを発見し、苦笑してしまわれるにちがいない。だがそのなかで、テレビっ子としての語りに新しさとおもしろさを少しでも感じとっていただければ、筆者としてそれに優る喜びはない。