浅見克彦『愛する人を所有するということ』所有の罪を背負った愛

 愛を論じた書物はごまんとあるのに、さらにその数を増やしてしまった。「もううんざりだ」という声が聞こえてきそうだ。でも、著者が言うのもなんだけれど、この書き物にはそれなりに独自性があると思う。
 この書き物は、性愛を思想の観点から論じたものだ。にもかかわらず、いまどきの若者にうけている小説、ポップスなども、たんなる味つけとしてではなく、問題そのものを照らし出す素材として、真剣に扱っている。それは、いま、このときに愛と格闘している「普通」の人々の、ありふれた感覚によりそって考えたかったからである。思想書としては異例のスタイルと素材を採用して、それなりに冒険している点を、まず見てほしい。
 もちろん、いちばん目を向けてほしいのは、所有を焦点として愛を問う、その内容だ。愛する人を所有しようとする意識とふるまいは、これまでも問題とされてこなかったわけではない。しかし、一貫して所有を焦点としつつ、愛が所有を抱えこむわけを論じようとした書物はあっただろうか。この努力を通じて、愛にともなう所有の意識とふるまいの背景に、自我の問題があることを明らかにした点、これがこの書き物の核心だと言っていい。愛による撹乱と「狂気」にのみこまれまいとして、自分の理性的なまとまりをささえ、維持しようとする自我。読者は、一度は経験したことはあるだろう、あの愛のサヴァイヴァルを思い起こすはずである。
 所有的な愛の背景に自我の問題があるという話は、たとえ納得できるものだったとしても、けっこう重い。その重さと、愛に走る者のテンションは、どうもそりがあわない。このズレを、できるかぎり感じさせないものを作りたい、それが今回の書き物の課題でもあった。結果は、まだまだかもしれない。でも、ところどころすっとばせば、寝っころがってでも読めるものになっているのではないかと、自分なりには思う。
 とはいえ、愛は所有の罪をひきずっている、というのがこの書き物の主旨である。この「問題」を考えたところでは、おのずと文章は重くならざるをえなかった。どう言い換えても、そこには一つの倫理問題がある。誰にとっても性愛がとるに足りない事柄ではなく、生きていくうえでかなり大切なことである以上、そこでのお互いの関わりに罪が潜んでいて、居心地の悪い「問題」があるのだとすれば、人はお互いの関わり方をまじめに考え直さねばならないだろう。こうしたトーンが、重く気乗りのしないものだというのなら、私は甘んじてその批評を受け入れよう。その重苦しさは、私とあなた、彼と彼女が逃れることのできない、愛の現実からくるのだから。しかし、愛に重苦しい罪を見いだし、その美しく清らかなイメージを壊すことは、読む者を愛への不信と諦めに走らせるものだ、という非難に対しては、それは違うと声を大にして言いたい。
 それは、この書き物の望むところではない。だからこそ、愛への不信と怯えにとらわれたいまどきの若者たちのありようを問い、「どこか違う」という思いを表わさずにはいられなかった。他者との交わりを遮断する「シングル・セル」同士の愛を冒頭で描き、愛へのあきらめと怯えに苦悩するAYUの叫びで締めくくるという構成は、愛をめぐるいまどきの若者の意識と態度を、「問題」として強く意識していることの表われである。もちろん、ことは愛の「説教」でかたづくようなものではない。性愛が所有という罪と汚れを背負い、あるいは醜い衝突と離反を抱えこむものである以上、そこから身をひき、氷の殻に閉じこもろうとするふるまいは、理由のある避けがたいものなのだ。だが、そうだとしても、愛から身をそらすことに解決を見いだすわけにはいかないと思う。私も、あなたも、そして彼/彼女も、他者と強く深く結びつこうとする心の奥底の傾きを、その根から抜き去ることはできないのだから。
 そうだからこそ、自分がおかさざるをえない所有の罪を直視し、その背後にある自我の求めの危うさを知ることが、求められるのだと思う。そして、この自分についての自覚をつき抜けることによって、その先にまつであろう確かな愛にたどりつくこと、それがこの書き物の課題であり願いなのだ。重苦しい愛の罪と汚れのトンネルを抜け出す道筋を、この書き物は示せただろうか。せめて、その暗闇を歩む読者の足元を照らすものになっていてほしい。心からそう願っている。