第3回 『プロポーズ大作戦』の人間学

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

 山下智久は〈弱さ〉を演じるのがよく似合う。それも特別なものでなく、誰のなかにもごく当たり前にある弱み。山Pはそんな〈弱い人間〉をテレビドラマ、とりわけラブストーリーのなかで印象深く表現してきた。
 彼が出演したドラマのジャンルはさまざまだが、なかでも前回取り上げた『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』の救命医の藍沢先生や、『インハンド』の微生物学者・紐倉博士、あるいは『アルジャーノンに花束を』の高知能を得る咲人といった「天才」を多く好演してきた。その一方で、普通の「凡」な青年、そこにある小さな苦悩や葛藤を描く作品でも、彼の芝居は光ってきた。その最たるひとつが『プロポーズ大作戦』(フジテレビ系、2007年)だ。
 山P初の月9作品であるこの作品は、ラブストーリーの金字塔として、往年の名作ドラマを振り返るバラエティー番組の特集などで、必ず上位にランクインして評価が高い。山Pのラブストーリーの代表作という印象をもつ人も多いだろう。そんなこの作品の真の魅力は、名作が往々にしてそうであるように、恋(の展開)自体ではなく、そこからみえる「人間」にこそある。
 ――あらすじは、幼なじみの礼(長澤まさみ)に想いを告げられずにきたケンゾーこと岩瀬健(山下智久)が、素直になれなかった過去を悔やみながら彼女の結婚式に出席する。そこに教会に住む妖精(三上博史)が現れ、哀れな彼にスライドショーの写真に写った時間に戻って、過去をやり直すチャンスを与える。そのタイムスリップを繰り返しながら、なんとか礼との運命を変えるべく奮闘する。でも過去に行っても、そう簡単に勇気ある行動がかなうはずもなく、運命も変わらない。そんな主人公が悲嘆に暮れながらも、恋心を抱えて懸命にもがく姿が切ない青春ラブコメだ。

山Pのラブストーリーの鉄板

 山Pのラブストーリー作品を見渡してみると、ひとつの型(方程式)のようなものが存在することがわかる。現実のアイドルとしての山Pは、外見も内面も申し分なく整った「完璧な存在」として人々はイメージする。そのもとで、彼の配役はこんな構図が大半だ。

《現実の山下智久 + ひとつの弱点・欠点 = ドラマのなかの山P》

 たとえば、『ブザービート』のプロバスケット選手の直輝は、肝心の局面で自分の本領を発揮できない。『SUMMER NUDE』の朝日は、3年前にいなくなった元カノをずっと忘れられず前へ進めない。そして『プロポーズ大作戦』のケンゾーも、礼に「好き」を伝えられないまま彼女が別の男性と結ばれる結婚式まで来てしまった。
 外見は抜群のルックスで、性格も明るく謙虚さもある。現実の山Pから抱くイメージも相まって、これらの人物は一見パーフェクトに近くも映る。でも彼らはみな、ある一点の弱さを抱えていて、それがネックになって夢や幸せをつかめずにいる。それは「あとひと踏ん張り」ができない、「もう一歩の勇気」をもてない、そんな人間誰もがもつ〈普遍的な弱さ〉だ。意気地がない、根性がないという言い方もできなくないが、彼らはとことん「不器用」というのが正確だ。どこか完全な印象が漂う人間ほど、抱えた〈小さな弱さ〉はより際立ち、その人物の人間味も深くなる。そうした役回りを与えられたときの山Pの力は、ピカイチなのだ。
 
 ケンゾーは何度過去に戻っても、絶好のタイミングで告白の言葉が出ない、女心がわからず相手をいつも怒らせてしまう、大事な場面で恋より友情を優先してしまう……、とにかく恋に不器用だ。でもそれは、彼が人一倍優しくピュアなため。その人間らしさが憎めない魅力を放つ。だがそう感じられるのは、演じ手が山Pだからというところが大きい。
 ひたすら過去を後悔し、タイムスリップしても「自分は何をしてるんだろう」と煮え切らない言動をとってばかりの自分を嘆く。その心境も表情も、くよくよしてネガティブ極まりない。でもケンゾーからは不思議と、「男のくせに」という気持ちにさせる湿っぽさや軟弱さをあまり感じない。むしろ強く印象に残るのは、どこまでもひたむきで、一途な想いを寄せる。それしかできない〈純な人間〉のイメージだ。もっとこう行動したらいいのに……そういうもどかしさは随所にあるが、彼の後悔や苦悩は「男のもの」ながら、性別を超えた「人間的なもの」としてしっかり際立つ。だからこそ、強い感情移入を誘い、万人の心に響く。
 現在のジェンダー観が恋愛ドラマに反映してくるのはもっと先のことだが、山Pの役作りと演技は、どこか時代を先取りさえするように、人間普遍の「ピュアな心情」を引き出してフォーカスする力に長けていた。

人間としての告白劇

 最も象徴的なのは、最終回だ。ケンゾーはついぞ果たせなかった告白を、結婚スピーチを通して実現する。その姿は潔く勇敢だ。それは「男をみせた」瞬間にちがいないが、そのクライマックスは「強くたくましい男」になったとか、「男らしい」終着をみせた――そういうラブストーリーが強調しがちな光景とは少々違ったおもむきだ。
 大好きな相手を強引に奪い去るのでもなければ、恋心を隠したまま身を引くのでもない。彼がみせたのは、必死に涙をこらえながら、正直にまっすぐ彼女への想いを伝える。その一点に全身全霊をささげようとする純粋な姿だ(実際、そこではラブストーリーお決まりのキスやハグは一切なく、ひたすら彼の告白だけを徹底して描いたのも特徴的だ)。それは恋とか男女を突き抜け、人間として「大切な人へ大切な想いを伝える」誠実さにあふれ――その重要さを激しく突きつけながら、悔いなく生きようとする健気な身ぶりだった。
 そこで怒濤のように押し寄せる感動、いや感銘は、ケンゾーが「男として」というよりは、ひとりの「人間として」素晴らしかったためだ。だからこそ、彼の言葉ひとつひとつが、また頬を伝う涙が、とびきり尊く美しく映った。
 事実、視聴者が劇中のケンゾーにもっぱら向けたのは、「男らしい」言動や勇気への期待ではなく、純粋な「がんばれ」というエールだった。そして彼がもがき苦しみながら「一歩踏み出す」ためトライを続ける姿が、恋愛ごとを超えて、観る者それぞれの“生き方”へつながり重なる、普遍的なものとして受け止められた。それはケンゾーに「人間」をみていたためにほかならない。

ニュートラルな役作り

 いうまでもなく現実の山下智久は、メンズビジュアルとしてのカッコよさは抜群だ。それはケンゾーにも反映していて、立派な二枚目だ。だがここが重要なのだが、山Pの役作りは、不思議と「男くさく」なりすぎない。これは俳優・山下智久を評価するとき、見逃してはならない特質のひとつだ。
 顔立ちが整ったイケメンながら、同時にずば抜けたキュートさもあわせもつ。その絶妙なブレンドで成り立つ山Pが放つオーラは、屈強でワイルドというのとは違って、どこかマイルドでソフトな質感を強く含んでいる。そんな彼の素材の長所がうまく注がれることで、人間味あふれるケンゾーは生まれ、王道のラブストーリーながら「男の物語」に染まらない「人間劇」が実現した。
 このころの山Pは人気急上昇の最中で、“ザ・アイドル”というイメージが強く、女性からの人気が圧倒的な主軸だった。そんななかで(『野ブタ。をプロデュース』の彰に続くようにして)このニュートラルな役のこなしが、彼のドラマ作品に高い好感度をもたらし、性別を問わず広く受け入れられていくひとつの重要な基点にもなった。

スター性の脱色

 役作りでいうと、キラキラしたスターながら「大衆」感、具体的にいえば「等身大の青年」を醸し出す点でも、この時期(20代)の山Pは秀逸だった。ケンゾーの特長は何といっても、妙に親近感を覚えさせるところにある。それは彼の性格や言動によるだけでなく、たたずまいから感じる部分も大きい。その美貌、つまり美男子という点では世間離れした部分も確かにある。だがそのなかにも、絶妙な素人っぽさを伴う「リアルな若者」感がしっかり立ち上がる。
 物語の外ではアイドルとして輝く山Pだが、ひとたび劇中の人物になると、スターの影や色をナチュラルに中和してみせる。遠く離れた手の届かない人物から、身近に感じられる人間へ。山下智久は「アイドル」を柔軟自在に脱着することができる。そうした点でも、彼の役者力は優秀だ。
 
 男くささの抑制、そして輝きの脱色。こうした持ち前の「オーラのコントロール力」に長けているのが、山下智久の凄みだ。そしてそれが、この作品で肝となる〈弱さ〉の説得力――つまり強靭な男でもなければ、ひどく現実離れした王子でもない、限りなく「大衆的な青年」に近い人間だからこそもちうる〈弱さ〉を、手応えあるかたちで表現するのに貢献してうまい。ケンゾーのピュアな心も、その好感度の高さも、そのために視聴者が経験する没入度の質と度合いの深さも、山Pの身体を通してこそ可能になった成果というべきだ。
「男」になりすぎず、キラキラ感を主張しすぎず、普通の人間っぽさをじんわり醸し出す。それを役作りで巧みにやってのけ、多くの人に響く「大衆性」を作品とキャラに持ち込む山P。そこには、俳優として天性のものがある。

「弱い人間」を見つめ、描き切ったエンディング

 物語ラストでケンゾーがたどり着いたのは、弱い自分をさらけだし、弱い人間なりの精いっぱいを体当たりでぶつけることだった。弱くても現実へ懸命に立ち向かおうと必死にもがいて告白した。そのスピーチのあと、教会でひとりむせび泣く姿も含めて、彼に突出していたのは、一歩踏み出せた強さというよりも、その勇姿に「弱い部分」を隠さず、「弱さ」があふれていたところ。そこに(魅)力があった。
 ――その一端としてぜひ注目してほしいのは(これは筆者が山Pのラジオ番組『山下智久 Cross Space』〔TOKYO FM系〕に出演したときに話した大学での考察のひとつだが)、スピーチのときの手だ。「好きでした」と告げるとき、ケンゾーの両手はポケットにキザな感じでかかっている。第1話の最初のスピーチのときはないが、スピーチをやり直して告白する最終回では、手が印象的に映る。そこには、彼が懸命に「弱さ」と闘って“強がる”ことで、ようやく果たす告白の状況がよく現れている。彼は弱さを克服してその場に毅然と立っているのではなく、最後まで「弱い人間」だった。その象徴ともいえる手は、台本に基づく意図的なものでなく、無意識に演じたと山Pは語った。それはケンゾーの弱さ、もっといえば人間の弱さというものを深く理解してこそ可能な、心が通った繊細で卓抜した演技だ。
 最終的に作品が届けるのは、普段強くある人間がのぞかせる弱さではない。もともと弱い人間が全力で強くあろうとして、それでも、そのために、どうしようもなくこぼれてしまう弱さ。それを露呈する姿、最後の最後まで「弱さ」を生きる光景が、どこかに必ず同じ弱さを抱えて生きるぼくらの胸を、必然的に激しく揺さぶった。
「強くなった人間」ではなく、とことんまで「弱い人間」を演じて、役者・山下智久は見事だった。

〈弱さ〉を生きるアイドル

 こうした人間的な弱さ、不器用さにふれるとき、演じ手本人である山下智久のあるエピソードを想起せずにはいられない。それはソロになって初のライブツアー『エロP』(2012年)での「山下智久へ」と名づけられた自分への手紙だ。スクリーンに映る手書き文字を朗読するかたちで披露された内容は、前年のNEWS脱退にふれた熱いメッセージだった。そこで山Pは、3年以上迷い続けてソロの道を歩むという答えを出すまでの葛藤を、ファンへの想いとともに赤裸々に語った。

お前がもっと6人をまとめる力があれば、みんなを引っぱる力があれば、ファンをもっと喜ばすことも出来たし、お前がNEWSを脱退するということにならなかったかもしれない。(略)お前が器用だったら●●●●●●一人の仕事もできたし、こんな気持ちにならずにすんだはずだ。(略)普通の人が出来ることでも、お前は出来なかった。グループと個人の仕事をバランスよくすることができなかった。

 グループを離れるという苦渋の選択をしてよかったと言ってもらえるためにも、がんばらないといけない。そのために「口べたで不器用●●●なお前が一言だけ、言うんだ」と締めくくって、マイクスピーチへ続く。そして「これからもどうぞ応援よろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げた。
 ファンにまっすぐ向き合って自分の言葉で説明するその実直な姿は、鳥肌が立つほどに素晴らしい。それは、たとえファンでなくても、彼の経歴を十分知らなくても、胸に迫る。
 なぜなら、傍点をつけたように、ここでの山Pは惜しみもなく自分自身の「不器用」さ、つまり完璧では決してない「弱い人間」をさらけだして語っているからだ。プロのアイドルとしてファンに向けた責任感によるものとはいえ、簡単には語りにくい脱退について、ここまで身を張って想いを伝えるのは相当に勇気がいる。そしてこの手紙は、己の力不足はもとより、グループを辞めたことでいろいろ感じた人々に「謝りたかったけれど言う場もなく、時が過ぎ」ていった、さまざまな後悔に押されたものでもあった。それに一区切りをつけ、後ろを振り返らず、どんなに困難でもひとり前へ進んでいく。一度しかない人生に、悔いを残さないように。その姿勢と想いには、どこかケンゾーと重なるものがあった。
 もちろんこれは作品とは直接関係しない。だが、不器用で弱い、そのことに誰より自覚的で、だからこそもちうるかぎりの力とやり方でもって、それを露呈してでも素直な想いを自分の言葉で届けたい。そんな人間味あふれる生き方を実践する山Pであればこそ、『プロポーズ大作戦』とケンゾーの役も成立したように思えてならない。

大切なバイブルとして……

 ぼくだけではないだろうが、『プロポーズ大作戦』は一定の間隔で無性に観たくなる作品のひとつだ。そのたびごとに、若い山Pが届ける「弱い人間」の姿に、人間が生きていくために大切なさまざまな学びや気づきを新鮮なかたちで得る。それはまるで人生のバイブルのようだ。そして、この作品はラブストーリーという以上に、立派で上質なヒューマンドラマであって、何よりその点で優れているのだと毎回強く思う。ケンゾーに、それを演じる山下智久に、ぼくらは〈人間〉を学ぶ。
 そんな大切な場=時間として『プロポーズ大作戦』は生き続けている。
 
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第2回 『コード・ブルー』という軌跡=奇跡

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

エッセンス引き立つ「大人の役者」へ

 山下智久の代表作といえば、誰もがテレビドラマ『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』(フジテレビ系)をまず思い浮かべるだろう。放送のスタートは2008年。その後スペシャルドラマを挟んで、10年には2ndシーズン、17年には3rdシーズンと続篇が放送されて、集大成である翌年の劇場版は、その年の邦画No.1を記録し、実写邦画の歴代興行収入5位にいまも君臨している。足かけ10年にも及ぶ大ヒットシリーズ。その軌跡は、まさに作品(と彼が演じた藍沢耕作)が大衆に愛された証しであり、平成という時代に記憶されるひとつの社会現象だったといって過言ではない。
 実際、しばしばいわれるように放送当初まだ配備も含めて一般的ではなかったドクターヘリが作品とともに普及していき、人々の認知度向上にも作品は貢献した。視聴をきっかけに、救急医療を志して第一線で活躍している人もいる。社会に与えたそんな影響のかたわら、この作品と役どころが、山P自身へもたらしたものも小さくなかった。
 それまでも山下智久は、数々のドラマ作品にコンスタントに出演して、人気を積み重ねていた。主だった作品を挙げるだけでも『池袋ウエストゲートパーク』に始まり、『ランチの女王』『Stand Up!!』『ドラゴン桜』『野ブタ。をプロデュース』『クロサギ』、そして前年(2007年)に反響を呼んだ月9『プロポーズ大作戦』と、ドラマ面での活躍は目覚ましく、視聴者からの人気やニーズも着実に高まっていた。一方で役者歴の面でいうと、ひとつの転換点に差しかかってもいた。
 というのも『コード・ブルー』放送時の山Pは、23歳(4年半かけて大学を卒業する年)。ちょうど「青年」から「大人の男」へ。役者として次のステージに入りかけていた時期。それまで演じてきた人物の多くは、元気や活力に満ちていて、ときにチャラさも含む、フレッシュないまどきの若者や現代っ子という印象が強かった。それとは打って変わって『コード・ブルー』の藍沢先生は、若いけれど落ち着きがある。また明るく活発というのとは違って、無愛想なまでに感情を表に出さず、常にクールでドライ。どちらかといえば「陽」よりは「陰」、「動」よりは「静」。そうした要素を強くまとった、従来とはひと味違う人物像。それがぴたりとハマった。彼が元来持ち合わせている特性――山下智久という人間の根幹にあるエッセンスと見事にマッチしたのだ。そして名演技が生まれた。
 たとえばこのころ、NEWSのメンバーとして出演したテレビ番組を思い出してみると、デビュー時に比べるとやや淡泊で大人しい、そんな印象を感じる部分も増しつつあった。でも決して無愛想とか内気というわけではなく、自分からあえて主張する感じはやや弱いが、しっかり己(の世界観)をもっている。歳を重ねて徐々ににじみ出るそんな「静かに光る個性」に惹かれた人も多いはずだ。見た目のイメージだけではわからない、それだけでは十分につかみきれない本性。静穏で控えめだが、秘めた想いはチャレンジ精神にあふれて情熱的。男ぶりある外貌ながら、繊細でピュアなハートをもつ。そうした山P特有の〈立体的で彫りのある存在〉のかたち――それがのちの30代前後にかけてさまざまな役や表現の幅を広げ、現在へ至る飛躍の支柱になっていくのだが――、そんな彼のなかに宿って眠っている魅力を、役のうえで、そして演技として全面に引き出して輝かせてみせたのが『コード・ブルー』、そして藍沢耕作だった。

役者人生を開いた代表作

 10年の月日をかけて進む物語は、シーズンを追って、主人公と仲間たちの成長のドラマを形作っていくが、それは生身の山下智久自身が「大人の役者」へ移り変わる重要な過渡期と重なってもいた点を見逃してはいけない。(もちろん前後の他作品の役割もあるものの)この時期の彼が役者として一歩大きく展開=熟成していく、その大事な舞台と推進力になったのは『コード・ブルー』だった。劇中の人物が、ただ歳を重ねて頼もしくなっていくのが刺激的だっただけではない。(主人公だから当然のこととはいえ)どのキャストにもまして、作品を通じ、劇中人物と一緒に、現実の山下智久もたくましく変貌していく。彼がもつ本質的な魅力が発見され、演技もますます深まっていく。
 そのダイナミックでスリリングな一面、すなわち役者人生の劇的なターニングに立ち会うことが、ストーリーのもっと底で劇(ドラマ)を深くして、観る側をワクワクさせて楽しませていた感も大きい。
 後年になって山下智久は、この作品当時「芸能界引退も考えた」と回顧している。学業と仕事の両立、さらにはグループと単身での役者活動のバランス。理由はさまざまあっただろうが、実際の理由はここでは重要ではない。現在(とそれまでの活躍ぶりを知るいま)から振り返るとき、『コード・ブルー』が彼の役者生命の節目に位置していたこと。誤解を恐れずにいえば、この作品があることで彼は前に進めた。役者の歩みを止めなかった。その決定的な出来事こそが重要であって、それは実に運命的で奇跡のように感じずにはいられない。
 代表作というのは、単にひとりの俳優の最も有名で優れた作品ではない。その役者の特色・個性がよく表れた作品、つまりその人自身ともいえるような一作を指してこそのもの。その意味で、自身のもちうる「山Pらしさ(個人の実存に深く関わる本質)」と深く結び付き、彼の本領を開花=深化させたこの作品こそ、代表作といわなければならない。とりわけ、1stシーズン(2008年)から2ndシーズン(2010年)にかけての藍沢=山Pの成長ぶり――彼のオーラとたたずまいは物語の設定以上の飛躍ぶりで、その端正さ、頼もしさ、自立した安定感……、たった1年半の短いスパン(時間)ながら「成長して大人になったなぁ」という感触を強く与えた。それは文字どおり、山下智久の新たなステップと幕開けを体現する証しだった。

〈寡黙〉の表現力

 そんな『コード・ブルー』の核をなして、山Pの芝居力が最もよく発揮されていたのが、ほかでもなく〈寡黙の表現〉だ。何といっても藍沢先生の魅力は、自分の気持ちをあまり語らない、その沈着として物静かなたたずまい。そんな彼が下す現場での判断や決断は、ときに非情で冷酷にも映る。世間話や無駄口を叩くなどのカジュアルなコミュニケーションを積極的にとらないため、メンバー間の協調性に欠ける面もなくはない。でも本当は、人一倍「人情」に厚くて「温かい心」にあふれて優しい。そうしたギャップ、そこから染み出す「人間味」が、観る者の心をグッと惹き付けてはなさない。こう書くと簡単そうだが、山Pのその演じ方――〈寡黙〉の作り方は見事なまでに徹底していて、繊細だった。それをあらためて強く評価しておきたい。
 口数が少ない人物像はともすると、陰を含んでミステリアスにも映りかねない。でも藍沢先生には、そうしたマイナスな意味の「わからなさ」がない。何を考えているかつかめずに物語が邪魔されることもない。それは場面ごと、ショットの瞬間瞬間に、彼の「心」がメリハリをもってありありと伝わってくるためだ。でも藍沢の表情は、普段も緊急時もさして大きく変わらない。むしろ冷静な処置のため、いつにもまして顔つきは険しさを漂わせて動じない。命令や叫ぶときなどの例外を除けば、せりふ回しや声色にも目立った変化もあまりなかったりする。
 つまり彼の心情(変化)は「言葉」だけでなく、顔を中心にした「身体」からもうかがい知れない。にもかかわらず、「胸の内」が確かに感じ取れる。矛盾した奇妙な言い方だが、実際そうなのだ。そして、これこそが藍沢という人物の深みであり、演じ手の山Pの凄みにほかならない。
 それを支える肝になっているのが〈細部の演技〉。ストーリーを追っているだけでは気づかないほど、ごく微細な動きが要所にある。目や口元のわずかな力み具合、頬や喉などの顔周りの筋肉の変化、皺の作り、眼光の強弱、語気のハリ……。それが意図された芝居によるものか無意識なのか、もはやわからないレベル。その域へ達するほど、山Pは身ぶりに頼ることが許されない役柄のなかでも、刹那にある「心」を丹念にハートで演じようとしている。わかりやすく変化しない表情のなかにも、心の機微を見事なまでに写し取った。目にしてはいるが、見えてはいない。そんな難易度が高い「心の演技」を彼は実現した。その表現力と役者魂は並大抵のものではない。

人間的な「感情」を表す凄み

 しかもそこでのポイントは、微小な演技から染み出る感情に、とてつもない「厚み」と「深み」が感じられることだ。ストーリー展開から、藍沢が何を悩んでいるのか、その課題や問題のありかは知ることができる。だが多くの場合、その心情自体はというと、喜怒哀楽のこれといって取り出せる単純なかたちをしていない。救命処置のとっさの判断と指示、患者との対話や酷な宣告、同僚に向けるさり気ない意識やまなざし。どの場合でも、厳粛さをベースにしながら、そこに痛みや悲哀、ときには落胆や絶望、そして慈悲・祈りといったあらゆる〈想い〉が入り交じった重層的な心の内を覗かせる。その感情のありようが、実に生々しくリアルなのだ。――現実のぼくらがそうであるように、人間の感情や心理というのは渦を巻いて混濁したものだ。
 この作品は、スカッとする救助救命に終着しないことがひとつの特色。患者を救えた/救えなかったにかかわらず、緊迫した危機や目を背けたくなる悲運、その逆のつかの間の安堵や安心。そのどれにも、じわっとくる言い知れぬ感銘があって、決して「助かってよかった」だけではない独特な余韻をそっと伴う。それは物語の中心にある藍沢の心が、いつも安易に割り切られることなく、さまざまな想いをない交ぜにして、自己のなかでグッと抱える。苦悩や葛藤はもちろん、うれしさや喜びでも、安易に感情の出口を探さず、解決や妥協をせず、とことんまで自己のなかで突き詰めるように大切に抱え対峙する。その「感じ方」が深遠で、ときに重たく、また実直。それが藍沢という人物の真骨頂といえる。
 そしてそれは、作られた「フィクションの(なかの)心」ではなく、そこに確かに「現実の人間の心」がある、もっといえば、藍沢耕作という人間が生きている。そうした圧倒的な手応えを与える。医師という職業も救急という場所も、一般の人々には現実離れしたもの。でも藍沢耕作が遠いかりそめの存在などではなく、強力な親近感でもってそこにいる。だからこそ、特別な感銘や共感も生まれる。そんな「人間を感じさせる」、もっといえば「人間をつくる」力の点でも、山Pの演技は桁違いに秀逸だったのだ。
 テレビドラマや映画の続篇が始まると、主人公の誰々が帰ってきたとよく言うが、『コード・ブルー』が新シーズンを迎えるたびに経験する感覚は、どの作品よりも強烈な実感に満ちている。それは山Pの演技のもと、まるで現実世界のどこかに藍沢耕作が存在していると感じるためにほかならず、だからこそ「藍沢にまた会いたい」という視聴者の想いもまた熱狂的なものになった。物語がただ面白いからという理由だけでなく、10年という長い時をまたぐ作品のシリーズ化の持続には、山Pの芝居力の貢献もきわめて大きかった。
 演者と役。それらが違うものだとよくよく知りながら、どこかで山下智久も、藍沢耕作もともに存在しているような確かな錯覚、いや実感。そのなかで『コード・ブルー』は永遠にぼくら視聴者(大衆)と一緒に時を刻んで、不朽の名作であり続けることだろう。
 
 連載初回にも少しふれたが、ぼくは5年前に病気をした。不自由はいまも続く。そこに追い打ちをかけるように別の病も重なり、先がみえない治療や経過観察で通院も増えた。そして何かの運命のように、母の手術もつい先日あった。そんななかで(ときに病院の待合室の片隅で)、医療を扱う同作を原稿のために見直すのは怖くもあった。どうしても患者目線に傾いて、目を背けたくなる。そんな瞬間や場面もなくはなかった。でも想像した不安など気にならないほど、のめり込んで再鑑賞できた。
 それは、そのつどの治療やそれに伴う判断をめぐる苦悩に焦点を当てるのではなく、それよりもっとずっと先にある「命」を前にして、決して解決や答えなどない途方もない苦悩を抱えるということ。その苦痛のなかでも表情ひとつ変えず、その宿命をひとりグッと内に抱えて凝視しながら、それでも前進しようとする藍沢先生の静かで強くひたむきな姿があったからだ。そんな到底まねできない生き方をする藍沢という人間に、何度も作品を見返していたあのころよりも、より強い尊敬と感謝がいま胸にひたひたと満ちてくる。山下智久らしさあふれる、彼の役者としての新たな扉を開けたこの作品は、時間がどんなに経ってもやはり観る人間に響く。
 
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第1回 山下智久論へ

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

 山下智久が、ただ好きというのではない。山Pは重要である。カルチャーシーンにとって、さらには時代や社会にとって、そうした側面ももちろんある。でもいちばんは、現代といういまを生きる人間――ぼくら大衆が必要とする価値観や感性に鋭くふれ、その重要性に気づかせ、また届けてくれる存在として、彼は代えがたい役割を果たしている。その意味で大切なのだ。それは「アイドル」というくくりを踏み出て、ひとりの「アーティスト」の力というべきだ。
 彼のそんな重大さに気づくきっかけになったのは、2013年の『SUMMER NUDE』(フジテレビ系)だが、もっと以前からぼくは山Pの作品に支えられてきた。いま手元にレンタル落ちのDVDセットがある。店頭にあった外装ケースそのままで、かなりの使用感で古びたものだ。文学研究を志し大学院へ進学してしばらくして、研究も思うように進まず迷子になり、小説も論文も読むのが怖くなっていた時期。とりつかれたように、山Pのドラマを繰り返し観ていた。自分では気づかなかったが、その熱は相当だったようで、当時利用していたレンタルショップが閉店するとき「これはあなたにあげますよ」と『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』(フジテレビ系)のセットをもらった。邦画のなかでも人気作で回転率がよかったが、借りた回数が歴代で最も多かったのがぼくだったそうで、こりもせず毎週のように借りる姿が印象的だったと言われた。最後に「山P好きなんですね。医療関係の仕事ですか?」と聞かれ、照れながら否定したのを覚えている。DVDを抱えながらの帰り道、この作品が、この山下智久という存在が、店長の言った「好き」というより、「大事」なんだ。そう自分自身に確認したのが昨日のようだ。思えば、当時のぼくにとって、それは唯一の文学の代わり、いや文学そのものだった。それがいいすぎなら、作品と役者に「文学的な何か」を強く感じて吸い寄せられていた。その想いは、それから数年して本格的に山Pを追いかけるようになって、いっそう強固になる。
 山下智久というアーティストとその軌跡は、文学書に負けず劣らず「人間」存在というものに肉薄し、「人間とは何か」について考えさせてくれる。勇気や活力を分けてくれる。そうしたアイドル的な体験、アイドルへ向ける憧れや推し(好き)などではなく、もっと「人生そのもの=人間が生きる」ということに密接に関わる一大事。そして「言葉」をめぐる大切な事象。少なくともぼくにはそう感じられた。だからライフワークのように、この十数年、作品やイベントごとにSNSでコツコツと拙い考察を発信しつづけてきた。そして本業の文学的な仕事のかたわらで、ある程度すべきことをなし終えたら、いつか体系だった論考をまとめたいと願ってきた。だが恥ずかしいことに、数年前患った病もあって、(力を入れているドラマ論を除くと)存分な成果は出せないまま歩みも停滞ぎみになった。そんななか、山Pがポリシーにするフレーズ「人生は一度しかない」が頭をよぎった。
 山Pは、今年(2025年)の4月でちょうど40歳の節目を迎える。活動的にも独立して、グローバルな挑戦と国内での活躍。それぞれがいっそう充実し、またひとつピーク(中継点)にきているようにみえる。それを目前にしてぼくのほうは、いわゆるアカデミックらしい学問では納得いく実績を十分挙げられていないが、それが整う「いつか」を待っていては遅い気もしてきた。そして、曲がりなりにも文学・文化を研究し(それも作家の年譜・年表作り、つまり人生を調べて記述する「書誌」という、人間の人生や活動に近い仕事を多くやる機会もあり)、書くことを専業にしてきたぼくなりに、言葉で、それも長い文章で語れることもあるかもしれない。そう少し思いだしていた。そんなタイミングで、かつて文学の仕事を共にし、山P論をまとめたい想いを早くから受け取ってもいた編集者が声をかけてくれた。正直不安もたくさんあるが、山Pが身をもって実践するように、未来を信じて挑戦するのも、きっと悪くない。その想いで、勇気を出して筆をとることにした。
 大学の講義で、いつも言ってきた。ぼくが「山下智久論」を書くのは最後の仕事だと。実際どうなるかはわからないが、(そうは思えないかもしれないが)これでも出世や別の仕事をときに一部捨ててでも、少なからず身を切って考察してきた。そんなこれまでの蓄積を基礎に、それを発展させながら、さらに生きる時間をかけて、渾身の愛情をこめて、ぼくなりの視点や切り口、言葉を大切に、「たったひとつの、ぼくだけの山下智久論」を始めてみようと思う。
 いまでは誰もが知る、名実ともにスターになった山P。その活動のひとつひとつは、ヒットや成功、反響や名声という形で(そのたびごと、その瞬間に)評価されている。しかし、もっとその表現(力)という観点に目を向けて、それがいかに、どのように「人間の普遍」にふれて重要か。それゆえ大衆の心を捉えてきたか。またどんな形でカルチャーシーンを席巻してきたか。それを主軸に、自分自身が背伸びしたり偽ったりすることなく、あらためて“自分の言葉”で語りたい。惜しまず、語り尽くしたい。SNSで個人の意見や感想、ときに専門家より鋭い批評コメントも可視化され、広く共有される現代。たくさんあふれる山Pのファンたち(通称:sweetie)の言葉は、何より貴重だ。その内容はもちろん、そこにある愛情もできるかぎり尊重したい。そのうえでもなお、山下智久はまとまった言葉で、もっと語られなければならないと思う。その「長いつけたし」をする。そんな想いで「山Pを語る場」に、ぼくも本腰を入れて参加してみる。彼には不思議な力があって、気づくといつの間にか、人々の心に自然とスッと染み入って、いまという時代に当たり前のように、欠かせない形で存在している。いつでも人気や反響は圧倒的だが、それとは裏腹にそうした独特な感覚――山P特有の存在感の前で、ぼくらは妙な「納得」をしている感がある。でも実際、彼の何がどう凄いかを言語化しようとすると決して簡単ではない。その意味でも、ボリュームある言葉で丁寧に語り、確かめることは意義深いと強く思う。
 論を始める前に、読者になってくれるみなさんにひとつお願いがある。あえてぼくは今回、ネット上の連載を選んだ。それにはいろいろな理由や考えがあるが、ひとつは上から一方的にわかったように語る、そういう偉そうで傲慢な仕事にしたくはないことがある。紙でも反応や意見はネットに出てくる。でもより積極的に、山下智久を愛する人たち、そこまでいかないが彼の作品を楽しんでいる人々と一緒にこの論を進めていきたい。すでに見取り図はあるが、扱うトピックも(ときにそのボリュームも)要望の声で柔軟に変わってもいい。きれいごとに聞こえるかもしれないが、ぼくの論でありながら「みんなで作り届ける」ことができたら素敵だし、それこそ「Instagram」というネットの場も重要な活動拠点にしている山下智久を、いま追うのにふさわしいスタイルだと思うのだ。だからぜひ、ぼくの「X」でも編集部宛てでも感想を送ってほしい。それと対話もしながら、たぐいまれな表現者たる山下智久について、たぐいまれな新しい批評が展開できたらと願う。
 取り上げる毎回の作品や題材は、あえて評伝のように時系列順にはしないことにした。彼のさまざまな側面、その多彩な魅力に、全方向の視点から柔軟に光を当てながら、パズルを完成させていくように、その全体像と歴史をダイナミックに記述することも意識したいからだ。そして、連載という形式がもつ面白みも最大限に生かしたいこともある。次回は何について書くのだろうという読者の期待(次は何を書こうという書き手の思案)は、山Pの言葉を借りるなら「希望しかない未来」であってほしい。どんな状況でも、常に前を向き楽しむことを大切にするのが山下智久。そんな生きざまの彼を対象にするからこそ生まれうる〈語る=読む〉特別なワクワク感も、ぜひ作っていきたい。
 
筆者X:https://x.com/prince9093
 
[青弓社編集部から]
次回(第2回)は4月21日に掲載予定です。また、第3回以降は毎月20日ごろに掲載する予定です。ご期待ください。
 
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