どうしよう、どうしよう……のフェミニズム――『分断されないフェミニズム――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』を出版して

荒木菜穂

 青弓社をはじめさまざまな方々にお世話になりながら、書いている間、刊行されてから、私の頭のなかではいつも、いろんな「どうしよう」が渦巻いていました。思っていることを書きなぐるのではなく、どう伝えていけばいいのか、どう整理すればいいのか、そもそも本ってどうやって書くんだっけ、ちゃんと読んでもらえるだろうか、言葉足らずで伝わらなかったら、いや、伝えたいこと自体がフェミの人に受け入れられなかったらどうしよう……など。そういった「どうしよう」は、社会に文章を出す立場として、自分のなかで解決すべきなのはたしかです。
 しかしながら、それとともに、フェミニズムをテーマにする以上、落としどころがない「どうしよう」もあって、そういったグルグルとした揺れ動きはおそらく本書にも多く示されていると思います。
 まず、フェミニズムという名の下に書くということに、いろんな「どうしよう」がありました。本書は、フェミニズムの活動をしてきた方々にも、フェミニズムとあまり接点はないけれどジェンダーに関係しそうな日常のモヤモヤが気になる方々にも読んでほしいという思いがあったのですが、後者の場合、書名にある「フェミニズム」という言葉だけで抵抗感をもつ人もいるかもという不安がありました。例えば、いちおうフェミニズムの活動に(緩やかにではあるけれど)ずっと関わってきた私でも、本書を書いたことによって、親族やフェミ的なつながり以外の方々に「フェミ」バレするのが少し不安なところもあります。
 また、フェミニズムの名の下にさまざまな議論が巻き起こっていることも常に意識のなかにありました。さまざまな立場、それぞれの正義があるのだろうけれど、底知れぬ溝がそこにはあるように感じられることもあるし、ときとしてフェミニズムと真逆の方向に展開することもあったりする。そんな悩ましさとともに、もしかして『分断されないフェミニズム』って書名としてこの本、そんな状況をなんとかできる特効薬のようにみえてしまわないか、どうしよう!……という思いも湧いてきました。
 さらには今回、過去や現在の草の根フェミニズムについて、主に書き残されたものを中心に、そこで営まれてきたことの意義について、私自身の経験や肌感覚からリスペクトをもってつづったつもりではいますが、やはりどの立場から過去をとらえるかによって、それぞれの方が違った思いをもつこともあるかなという懸念もありました。
 とりわけ、この「どうしよう」には、今後の関係性のなかでぶちあたることが多くなると思っています。フェミニズムの活動はこんなもんじゃなかった、私の経験したことはもっとえげつなかった、そこにシスターフッドなんてキレイゴトはなかった、などのお叱りを受けることも多々あると思います。それらは、大いに心して受け止め、反省したいと思っています。しかし、おこがましくもあえて希望をもつなら、そこから本書が、あのころのフェミニズムには、いまのフェミニズムだって、こんな、あんなやりとりがあった、立場や主張が異なる者同士なんとか関係しようとする営みがそこにあった、と、さまざまな方々が思いをめぐらせ、語り合えるきっかけのひとつになればいいな、という思いもあります。
 ちなみに本書のサブタイトルは「ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる」。フェミニズムの特効薬どころか、ここには一気に緩さが出ていていいな、と思っています。立場や考えが違っても、どうにかやってこられた「ほうの」フェミニズム、そこからの気づきや学びを残し、模索しながらもなにかしらの提案ができたらという。複数性やその調整、妥協、発想の転換、自身の問い直しなど、フェミニズム的活動のなかで示された揺れ動きやあいまいさをコンセプトに据えたのは、そこに政治があるから!という崇高な目的というよりは、私自身が、先ほどのような「どうしよう」のカタマリ、不安定な存在であることも大きいと思います。そんな緩やかでささやかな本書ですが、どうぞ手に取っていただけると幸いです。すでに関心をもった方は本当にありがとうございます。
 
 最後に、カバーイラストの希望をお伝えしたら、こんなかわいいカバーを作っていただきました。イラストレーターやデザイナーほかのみなさま、あらためてありがとうございました。

『分断されない女たち――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』詳細ページ

 

「女子鉄道員」を深掘りして――『女子鉄道員と日本近代』を出版して

若林 宣

 私が「女子鉄道員」という言葉を最初に知ったのはいつごろだったか、記憶に間違いがなければ小学校高学年から中学生のころ、ということは1970年代の終わりから80年代初めにかけてだったように思います。たしか図書館から借りてきた、日本の歴史あるいは鉄道を扱った一般向けの本に書かれていたもので、そこでは「女子鉄道員」の存在は、太平洋戦争中にみられた戦時下特有の現象として扱われていたのでした。
 それ以来関心を持ち続けてきて……と書いたら、実はウソになります。そのとき少年鉄道ファンだった自分の主たる関心の対象は機関車や電車であって、そこで働く人々に目を向けるようになるのはもう少しあとのこと。そして「女子鉄道員」が気になり始めたのは、日々利用する鉄道の現場に女性の姿が見られるようになってからのことだったと思います。それはおそらく、今世紀に入ってからのことでしょう。というのも、女性労働者を深夜業に従事させることを規制してきた労働基準法が改正・施行されたのが1999年4月のこと。それ以降、駅係員や、また車掌や運転士として列車に乗務する女性の姿が各地で見られるようになりました。
 そのころのことをいまになって思い返してみると、不思議な気がします。たとえば女性の車掌や運転士の登場を報じるマスコミの視線には、珍しいものを前にしたときのような好奇な目もあったように思います。考えてみればそれはおかしな話で、そこで働いている人が女性だからどうだというのでしょうか。またそのことは、翻ってみれば、それまで女性が鉄道からどれだけ疎外されてきたかを示していたようにも思われます。
 などと書いてみましたが、しかし当時の私はそこまで言語化できていたわけではなく、何か違うなあと感じていた程度にすぎませんでした。ただ、そこからゆっくりと意識するようになったのは間違いありません。
 とはいっても、「女子鉄道員」についてすぐさま深く調べ始めたわけではないのでした。それでも、折にふれて社史をいくつか読むくらいのことはしたのですが、それらも至って記述が少なく、バスや東京市電を除けば戦時下にみられた事象という扱いがせいぜいで、「やはり戦争がもたらした特異な例にすぎなかったのかなあ」と思ったりもしました。
 しかし、突破口というのはあるものです。
「女子鉄道員」とは別のテーマで調べものをしていたとき、あることに気がつきました。各地で出版された女性史の本には、地方紙を参考にした記述があったり、また実際に働いていた人による証言が載っていたりします。そしてそこからは、少なからぬ女性が鉄道で働いていた様子も浮かび上がってくるのでした。そのことに気づいたときには、「なぜ最初からこっちを見なかったのか」と後悔しきり。女性の地域での生活や労働の歴史を明らかにしようとする活動への目配りが足りなかったのは、私がシス男性であるがゆえでしょうか。そのあたりは、もっと反省すべきかもしれません。
 その後は、鉄道書だけに頼ることはやめにして、女性史にあたって地域史にも目を向けて、そして日本各地で発行された新聞をチェックすべくマイクロフィルムをからから回すという作業を続けました。なお新聞は、現在ではコンピューターで検索できるデータベースもありますが、それは全国紙に限られますし、自分が思いついた限りのキーワード検索では取りこぼすおそれもあります。そして何より地方紙をこそ見たかったのです。
 成果のほどについては本書を読んでいただければと思いますが、その存在が何も戦時下に限られていたわけではないという事実について、あらためて確かめることができたのでした。そして同時に、「女子鉄道員」が当時どのように書かれ、あるいはどのような目をもって見られていたのかについてもうかがい知ることができたように思います。「女子鉄道員」は、これまで男性中心の社会から見たいようにしか見られてこなかった存在だったといまは考えています。また、かつての姿がよく知られていなかったとすれば、それは忘れられていたというよりも、社会が正面から向き合おうとしてこなかったと言ったほうが適切なのではないでしょうか。
 国立国会図書館の新聞資料室で一人静かにマイクロフィルムを回す作業は、いろいろな気づきを得られる楽しいひとときでもありました。そしていま、ひとまずこのテーマで一冊を出せたことに、ほっとしています。