ジャンケレヴィッチファン倍増のために――『哲学教師ジャンケレヴィッチ』を訳して

原 章二

  ジャンケレヴィッチのファンは欧米ばかりか日本にも結構たくさんいる。だからその著作も15冊以上邦訳されている。しかし、この希有な哲学者・音楽家・音楽学者の人となり、その哲学と音楽観の相貌を身近から全体的に語ったもの、特にフランスでジャンケレヴィッチがどのように受け取られていたかをフランス人が語ったもの、しかもできるだけ哲学用語を使わずにその本質を語ったものは、これまで日本語で読むことができなかった。
 その意味で、どうみても不肖の弟子にすぎない私にとって、この翻訳はこの歳になってでもやるしかなかった。考えてみれば、師事というと大げさで、単に修士論文と博士論文を見てもらったうちの一人にすぎないのだが、ともあれその一員となったときの先生の歳に自分が近づいている。往事茫々とはいうが、先生のことは昨日のように、その華やいだ顔、話し方、口調、そのトーンまでいきいきと蘇る。こちらがまだ20代の若造で、なんでも吸収するだけの柔軟性をもっていたから当然だが、それにしても誰にとっても、この本のなかでも語られているように、先生の存在は鮮烈なまでに印象的だ。
 そんなわけで勇んで翻訳にとりかかった。本を手にした方はおわかりだと思うが、3分の1くらいのところまでは文字どおり先生の人となりを語っているので、懐かしく思い出しながら、また私と同世代で同じゼミナールに通っていた著者の文なので訳しやすかった。その余勢をかって、ほぼ半分まではよかった。しかし、そこからが大変だった。理由は私の怠惰もあるとはいえ、もう少しまともな理由もある。
 著者が「はじめに──感謝のしるしとしての不実」で明らかにしているように、ジャンケレヴィッチの著作からの引用と、著者がとった講義のノート・メモ(これがそもそもジャンケレヴィッチの実際に述べたことなのか、先生の話を聞きながら著者が思いついたことなのかがわからない)と、そして著者の地の文とが、入り乱れて区別のしようがないのだ。
  むろん、フランス語の原文では、前二者は引用の体裁をとっていて二重鍵括弧でくくられている(ただし、フランス語の本に通例の校正ミスがよくあって括弧の具合がよくわからないところもある)。それでもフランス語としてはまあ読めるのだが、そのまま日本語に訳すと文章の続き具合がどうもうまくいかない。
 これにはほんとうに難渋し、往生した。結局、予想外の年月がかかってしまった。どのように先の難所をクリアしたかといえば、著者が「はじめに」で述べていることを訳者もある程度おこなったのだ。つまり、訳出の過程で、自分も著者と同じ世代で、しかも同じころ同じ教室で講義を受けていたからには、自分がこの本を書いているつもりになって、そこから勢いをもらったのだ。たぶん、それは間違いではなかっただろうと思っている。ともかく、この本のおかげで先生の存在をふたたび身近に感じ、自分がいかに影響されていたかを思い知った。日本のジャンケレヴィッチのファンが少しでも増えて、若い人々をも巻き込んで、難しそうな硬い言葉をふりまわして観念遊戯に耽って学問しているつもりのお偉方が、おのれのカルタの城の心もとなさに少しは愕然とする契機になってくれればいいと思う。それは日本が変わることでもあるだろう。
 ジャンケレヴィッチが言うとおり、この本のなかでも繰り返されているとおり、「誰々がどう言った。だからどうしたというのだ。人生はそんなことのためにあるのではない」。
  まったくこの〈現代思想〉とやらの周辺をめぐって精妙な思索を展開しているつもりのお歴々の空疎さに対する一服の清涼剤としての役割だけは、この本が果たすことができるだろう。ただし、後半はゆっくり読まないとかなり面倒な記述もある。訳者としてはわかりやすく訳したつもりだが、2、3回読んでわからなかったら気にせずに、そこにジャンケレヴィッチの逆説が隠れているのだろう、著者リュブリナもよく消化せず、訳者もうまく訳せなかったのだろう、くらいに思って先に進み、本を閉じてそれで終わりにせずにジャンケレヴィッチのつぎの本に進んでくれたらありがたい。つぎにどれを読むかは「訳者あとがき」に書いておいた。
  最後になるが、著者の略歴はいろいろ調べてみたが、原書に記載されていることしかわからない。いかにもジャンケレヴィッチの弟子らしい振る舞いだ。そこで訳者も同じように年齢を記さなかった。リュブリナも書いているとおり、歳の上下など関係ない。若くても年寄りくさい連中はたくさんいる。歳をとってもジャンケレヴィッチのように若い人間もたくさんいる。

プライバシーをひけらかす人びと――『ポスト・プライバシー』を書いて

阪本俊生

  最近、プライバシーをひけらかす人の話をよく耳にする。集会所の片隅で若いカップルが仲良くしている。彼らは他人がいてもまったく平気といった感じである。電車や教室で鏡を見ながらの化粧直しは言うに及ばず、インターネットで「プライバシー」などと検索してみると、自室の生中継に出くわしたりもする。たくさん人がいる路上で、携帯電話で別れ話をしている女性は歩きながら泣きじゃくっている。感情にまかせて大声でしゃべっているので聞きたくなくとも聞こえてしまう。
  この前、「ミクシィ」なるものを知りたくて、ある学生に頼んで入会させてもらった。するとすぐに何人もの知らない方々から「マイミク」のお誘いが。もちろん各自それぞれの判断で情報に制限をかけているし、情報が本当なのかも定かでないが、それでもプライバシー情報のオンパレード。
  試しに学生のところを訪問すると、何だかとても接近した感じ。親近感がわくというよりはむしろ、いきなり部屋に上がり込んでいったような、大げさな言い方をすれば見てはならないものを見ている感覚に襲われて、はたして入会してよかったのだろうかと悩む私は、おそらく古いタイプの近代人なのだろう。もちろん彼らはプライバシーをひけらかしているわけではないが、それでもこんな世界があったのか、と改めて考えさせられた。
  プライバシーは変容しつつある。これについて明らかにしたいという思いから、この本を書きだしたのは10年前だった。そのときからプライバシーを取り巻く環境は大きく変化した。当時はインターネットも携帯電話もいまほどは浸透していなかったし、9・11のテロも起こっておらず、情報セキュリティへの関心もいまほど高くはなかった。ただその一方で、すでに監視カメラは増え始めていて、住民基本台帳ネットワークシステムをもたらした改正住民基本台帳法が国会で成立するなど、今日の情報化への方向に着々と進んでいた。
  プライバシーの変容の基本的方向性は、このときすでに定まっていたと思う。私のなかにあるのは、一言で表せば、環境経済学などが取り上げるエコツーリズムがいうところの「ゲーム牧場」のイメージである。これはアフリカなどでライオンやキリンなどの野生動物を野放しにして保護や管理をおこないながら生態系の維持にも役立てるというものだ。要するに野放しにしつつ、監視し、管理する。同じことが情報管理社会にもいえるとすれば、いわば「人間のゲーム牧場化」が進んでいるということになるだろう。
  これは東浩紀がいう環境管理型の社会に近いし、デイヴィッド・ライアンやジョージ・リッツァーも似たようなイメージをもっているといえるだろう。私自身もこれらに賛同する。しかし、私がこの本で書こうとしたのはこのことではない。
  この本は、実は、プライバシーの本でもなければ、監視社会論の本でもない。もちろんプライバシーをめぐって書いてはいる。しかしこの本のテーマは、個人と社会のかかわり方とその背景にある社会システムの変化だ。プライバシーを一つの社会意識としてとらえ、その変化を見ていくことから、私たちの社会的自己やアイデンティティの生まれ方について考え、さらにそれを変化させている社会システムの歴史的な変化をとらえようとしている。こう言うと引いてしまう人もいるかもしれないが、プライバシーを深く理解するうえで必要な視点の一つだと思っている。
  もちろんプライバシー意識は今日でも見られる。でもそのあり方は、以前と同じようでいて、微妙に変わってきているのではないだろうか。近代の主体の終わりとよくいわれたりするが、これは実際にどのようなかたちで起こっているのか。このような事態を示唆するような、実際の社会現象は見られないのだろうか。プライバシーへの着目はこうした取り組みの一環である。
  プライバシーの変化が、私たちのアイデンティティのあり方に変化をもたらしてきているとして、それは私たちをどのように変えつつあるのか。その結果、私たちはどうなっていくのか。これらについても、プライバシーの変化の考察はヒントを与えてくれるような気がする。
  プライバシー意識は近代に生まれた。そして今日、それは情報化のなかで、まさに問題の渦中にある。自動車の発明と普及が都市構造や生活スタイルを激変させたように、情報技術の発達と普及も私たちの生き方や存在のあり方を大きく変えつつあるだろう。しかもこちらは私たちのより身近なところ、すなわち身体や内面、親密性といったところに直接働きかけているように思える。
  すでにふれたように、この本はプライバシーについて書いたのではない。情報化がもたらすアイデンティティ形成の文化的・社会的様式の変化を、プライバシー意識の変容を通じて明らかにしようとしている。だから情報化に対する抵抗の戦略について語ろうとはしない。もしこのような抵抗との関連を問われたら、その抵抗が何のためであり、また何への抵抗であるのかについて、立ち止まって考えようというのがこの本である。