「ぜいたくな 哀しさ」のこと――『滝田ゆう奇譚』を書いて

深谷 考

  いつも、長篇を何年もかかってようやく書き上げたあとで、書くべきだったのに書ききれなかった事柄が、二つ三つにとどまらないくらい、ある。校正の段階で何度も直してみようとも考えるのだが、いったん書いてしまった文章の勢いや流れを変えることは大変むずかしい。
 『滝田ゆう奇譚』でも、幼少年時代の意味を考えるところで、吉原幸子の「幼年連祷 三」所収「1 喪失ではなく」の詩を引用して、「幼年」の「時代」の意味について、もっと踏み込んで書くべきだった――の悔いが残った。

  大きくなって
  小さかったことのいみを知ったとき
  わたしは〝えうねん〟を
  ふたたび もった
  こんどこそ ほんたうに
  はじめて もった

  誰でも いちど 小さいのだった
  わたしも いちど 小さいのだった
  電車の窓から きょろきょろ見たのだ
  けしきは 新しかったのだ いちど

  それがどんなに まばゆいことだったか
  大きくなったからこそ わたしにわかる

  だいじがることさへ 要らなかった
  子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
  そのなかにゐて 知らなかった 
  雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
  いちどのかなしさを
  いま こんなにも だいじにおもふとき
  わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる

  もういちど 電車の窓わくにしがみついて
  青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
  わたしは ほんたうの
  少しかなしい 子供になれた――
                (『吉原幸子詩集』思潮社)

  はじめの一節は、滝田ゆうの『寺島町奇譚』のためにあるような詩句ではないか。拙著のエピグラフとして巻頭にかかげてもよかった。滝田ゆうにとっては、『寺島町奇譚』を描く営為を通して、いうなれば〝本当の喪失〟を獲得したのである。そしてそれこそが「ぜいたくな 哀しみ」と呼ばれるべきものだった。それを見出すのに、長い歳月を必要としたのだ、と思う。
  滝田ゆうが、幼少年期の魂をずっと持続していたからこそ、またそれを〈ふにゃふにゃ〉〈トロトロ〉の、アンチ・ヒーローのキヨシ像として造形しえたからこそ、「ぜいたくな 哀しさ」が、漫画絵を通して見えてくるのである。
  戦時中、敗戦間際の時代であるにもかかわらず、滝田ゆうにとっては、あの寺島町(玉の井を含む)での幼少年時代は、遊びに現をぬかした〝黄金時代〟以外の何物でもなかったのである。
  滝田ゆうが、いつまでも〝少年大人〟の風貌をたたえていたのも、そこに〝魂の根っこ〟があったからに違いない。

  「ぜいたくな 哀しさ」
  「いちどのかなしさを
   いま こんなにも だいじにおもふとき
   わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる」
  ここには、なんだか滝田ゆうと同じような魂をもった者同士の共感現象のようなものを感じずにはおれない。
  吉原幸子が、滝田ゆうと同じ一九三二年(昭和七年)東京生まれでもあるからだろうか?