堀口大學が経験した「異国」――『異国情緒としての堀口大學――翻訳と詩歌に現れる異国性の行方』を書いて

大村梓

 子どもの頃から読書が好きだった私にとって、本を出すのはずっと夢でした。周りに出版や創作に関わる仕事をしている友人が多いのもあって、何かを作り出して自分の名前で世に出すのは身近なことでした。そうはいっても自分がその当事者になると、本一冊を出版するのはこんなに大変なのか、と思いました。
 私は主に日本近現代文学、比較文学を専門として大学では講義をおこなっていますが、もともとはどちらかというと外国文学、翻訳文学を好んで読んでいました。母親が読書好きだったこともあって、小さい頃から家には本がたくさんありました。本棚に置いてあった『チボー家の人々』の黄色い表紙をいまだに覚えています。十代の頃に好きだったのはフランスの作家であるジュール・ヴェルヌの作品で、まだ見たことがない世界への憧れを抱いていました。高校は帰国子女や在京外国人の方が多いところを選び、大学院ではオーストラリアに留学し、その後、さまざまな国からやってきた同僚が多くいる職場で勤務したこともあり、異文化を身近に感じて過ごしてきました。おそらくそういった長年の経験から自分のなかで「日本」に対する認識も変わっていったのだと思います。そういったこともあり、翻訳家・詩人・歌人である堀口大學の活動により関心をもつようになりました。インターネットもない時代に海外に在住していた堀口は、どのように異国での生活を受け止めていたのでしょうか。堀口はそんなに詳しく異国での自分の経験について述べる人ではありませんでした。私たち読者は短い随筆、短歌や詩から、堀口が経験した「異国」をうかがい知ることができます。
 私もいまでこそ外国の友人も多く、海外に渡航することも多いので、もうカルチャーショックを感じることはほとんどないのですが、思い返してみれば十代の頃はよくカルチャーショックを感じていたような気がします。比較文学・比較文化の研究をしていることもあって、異文化にふれたときに自分のなかの固定観念や思考の枠みたいなものに気がつく瞬間を、非常に興味深いと感じます。もちろん私たち研究者・教育者はすべてのものに対して公平な態度で接したいと考えています。しかし一方で、自分の考えには固定観念や思い込みがあるのではないか、と常に自分を振り返るように職業上なっているような気がします。そういった自分のなかの固定観念や思考の枠に気がついたときに、まだまだ勉強しないといけないことがある、と研究を続ける理由にもなっています。
 本書で取り扱った翻訳文学という領域は、さまざまな要因が複雑に絡み合ったものです。翻訳は必ず読む誰かを想定しておこなわれます。自分が読むために翻訳する場合でも、誰かのために翻訳するためでも、そこには読む人がいるから翻訳するという目的が存在します。そして翻訳は翻訳に用いられる言語の制約にとらわれています。人によってはその制約をわずらわしいと思うかもしれません。しかし私はその制約がむしろ面白いと思います。そういった制約のなかでどれだけ試行錯誤をこらして、新しい文章を作り上げることができるのか。そういった苦心の跡を、本書では明らかにしたいと思いました。
 また、私たちは必ずしも自分が考える自分ではない姿で他人に受け止められていることも多いです。私はそれが面白いと思うタイプの人間ですが、みなさんはどうでしょうか。特にそれを顕著に感じるのが、日本で日本文学について語っているときの「私」と海外で日本文学について語っているときの「私」は、明らかに求められるものも、認識のされかたも異なるということです。具体的にいえば、日本で日本文学について語るときは外国での日本文学のとらえられ方についてふれながら話すことが多く、海外で日本文学について語るときは現在の日本文学や日本文化のあり方についてふれながら話すことが多いです。そういった求められているものの違いに気を配りながら研究者生活をおこなうことは、私にとっては興味深いことです。堀口も自分の日本文壇での役割と海外での役割の違いについては非常に敏感に感じ取っていたようです。そういった複数の顔をもっている自分、というものをどのように受け止めていたのか、という視点も本書では重要なポイントになってきます。
 本書を読んで、実際に自分も海外に行き、自分の異なる面を発見し見つめ直してみたいと思っていただけたのであれば、きっと本書に書いたことをよく理解していただけたということなのではないかと思います。

 

「紙」出身者がブログで起こした小さな奇跡――『フードライターになろう!』を出版して

浅野陽子

 出版から約1カ月たちました。私の日常に大きな変化はなく、今日もメディアの片隅で食の取材をし、文章を書いています。
 とはいえ、一人の職業ライターから本の「著者」になったことで、出版前には決して味わえなかったミラクルや感動が、少しずつ起こっています。
 たとえば、紀伊國屋書店新宿本店にある、食関係の本や料理書がぎっしり並ぶ専門フロア。フードライターとして駆け出しのころから、何度足を運んだかわかりません。
 その売り場で最も目立つコーナー、「dancyu」「料理王国」各誌の最新号が積み上げられている真ん中に、本書『フードライターになろう!』の山(しかもポップ付き)を見つけたときは、胸に迫るものがありました(青弓社のみなさまをはじめ、最高の表紙イラストを描いてくださった藤本けいこさん、素敵なブックデザインをしてくださった和田悠里さん、本当にありがとうございました。オレンジ主体の表紙は売り場でひときわ輝いていました!)。

 また、本を読んでくれた友人・知人、直接面識のないSNSのフォロワーさんから、
「面白い」「役に立つ」のほか、
「食ジャンルに限らず、取材して書く仕事をする全ライターに必要な情報が詰まっています」
「まさに探していたテーマの本に出合え、予約してから読破するまで楽しめました」
「どのページからも仕事への思いが伝わり、いまの自分自身をも見直す機会になりました」
など、いまのところは大変ポジティブな感想をいただいており、そのたびに自分でも読み返しちゃったりして(笑)、悦に入っています。

 しかし、本を出してわかった最大の発見は「自分が何者であるか」に気づけたことでした。「はあ?フードライターだから『フードライターになろう!』って本の依頼がきたんでしょ」と突っ込まれそうですが……。
 実は、長年この仕事を続けながらも、私は「自分が何の専門家か」がわからず、フワフワしていました。メディアに注目されるフードライターさんは「ラーメン」「カレー」「フレンチ」「肉」「スイーツ」と、それぞれ得意なジャンルをおもちです。

 でも私は日本国内で食べられるすべての料理、食材、酒が好きで、絞れませんでした。そして、食の取材ならどのジャンルでもそこそこ書けてきました。要は、器用だけれど特徴や個性がない、“何でも屋”フードライターだったのです。
 しかし、出版後、本の現物を見せたり、SNSのアカウントに書影の画像を貼ったりしていたら、「食の文章が得意な人」と認識されるようになりました。
 そこで、「おいしさを伝える書き方」や「食の文章がうまくなる方法」をSNSで短く発信すると、急に「いいね!」が付き始め、フォロワーも増えていったのです。
 そういえば、過去10回出演したテレビ番組で、共演したタレントさんやディレクターさんに「浅野さんの食レポは違う」となぜかほめられてきたことも思い出しました。
 そうか、私はフードライターの原点である「食×文章」そのものを個性にすればいいんだと。
「食とSNS」は親和性があり、「おいしかったー」「この店のこの料理がうまい!」と画像付きで発信する人はたくさんいます。ですが、過去に味の表現や料理人への取材術、原稿の書き方を一人で統括的にまとめた人は、プロのフードライターを含めてたまたまいなかった。ラッキーでした。

 ちなみに、この本は依頼をいただいてから1年間かけて書き上げました。執筆中は、自分にとって身近すぎる、いつもの仕事の話なので自信がもてませんでしたが、最後の校正で自分の書いた全15万字を一気読みしたら、案外面白かった。「20年同じことをやり続けたら、誰のどんな体験も一つの価値になるんだな」とも思いました。
 出版に必要なのは、原稿用紙300枚あまりの文字量を書ききる体力と気力があるか、そしてお金を出してそれを読みたい人がいるか。つまり「市場(マーケット)」があるかです。
 そこに市場があるかは誰にもわかりませんが、まずは発信しないとチャンスは生まれません。本書も私のブログの「フードライターになるには」という記事を青弓社の方が見つけてくださったのがきっかけです。食をテーマに出版したいと考えている方は、とにかく発信することをおすすめします。

 日本では少子高齢化が加速しています。本気で世界を「お客さん」にしないと、日本人の豊かな生活は立ち行かなくなると私は焦っています。日本のアニメや漫画、“Kawaii(カワイイ)”文化は人気ですが、「食」という素晴らしい資産は、世界にいま一つアピールできていません。
 本にも書きましたが、本書をきっかけにプロとして食の発信をする人の輪が広がって、「日本の食と酒を世界一のコンテンツにする」のが私の夢です。
 実はそのための、次の本のネタも考えています。またお目にかかれる日がありますように。

[ブログ]
「フードライター浅野陽子の東京美食手帖」
https://asanoyoko.com/

 

既視感?――『戦時下女学生の軍事教練――女子通信手と「身体の兵士化」』を出版して

佐々木陽子

 いまから80年以上前、太平洋戦争が勃発した日の女学生たちの興奮や熱気が、元女学生の語りから伝わってきた。日米開戦を知ったとき、校庭に集まった生徒も教員も異様な熱気に包まれたとのことだ。なかには、裏付けがない勝利への確信だけではなく、漠とした不安を抱いた者もいただろうが、異様な熱気はこうした不安や混沌とした思いを吹き飛ばすに余りあるものだったようだ。あの異様な興奮を昨日のことのように思い出すと語った人もいた。
 戦争勃発によって平和は簡単に壊すことができても、戦争を終わらせ平和を再生することは難しい。2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻で始まった戦争の泥沼化を見れば一目瞭然だろう。いま、日本では、北朝鮮によるミサイルの連続打ち上げ、中国による台湾への武力侵攻の恐れなどの不安定要素を理由に、日本の「専守防衛」が標語にすぎないことを明かすかのように、防衛費拡大のタガが外される方向へと動きだした。日本は「専守防衛」を掲げ「敵基地攻撃能力はもたない」と言明してきたが、自国を守るために「反撃能力」が必要だと叫び始めた。従来の規模からは考えられない防衛費の拡大を政府は打ち出し、いつの間にか、防衛費拡大の車輪が動きだした。こうした潮流を抑制することがどれほど困難かは想像に難くない。どうしてこうした変化が私たちの日常に忍び込んでくるのだろう。緊迫感漂う東アジア情勢のニュースが流され、「反撃能力」をもたなければ日本は危険にさらされると叫ばれる。私たちの政治への無関心や諦念や絶望、そして想像力の欠如の隙間に、こうした危機意識をもつことこそが現実的であるという言説が入り込んでくる。防衛費拡大の潮流ができてしまえばそれに流されていることにも気づかず、変節を変節と指摘することも困難になる。どこまで防衛費を拡大しても安全・安心が得られないことを、私たちの知性は知っているはずなのに。
 15年戦争では兵役を担う男性兵士だけでなく、本来は労働動員と無関係で学業を本業とするはずの女学生も動員が強制され、彼女らの身体は戦時国家に領有され収奪されていった。自分のものだったはずのこの身体は、いつしか当人のものではなくなっていった。だが、兵役にしても労働動員にしても、国家による国民の身体の「領有だ」「収奪だ」と叫べば「非国民」呼ばわりされる。同調圧力が強まれば、これに真っ向から抗うことは、困難にちがいない。本書では女学生の身体が軍国主義の潮流のなかでどのように変容していったかを追った。「ぜいたくは敵だ」「外地の兵隊を思え」といわれ、我慢競争のような日常へと切り替わっていき、極度な精神主義に塗り固められた教育現場では、日本が勝利することを当然視する空気が充満したという。「戦争なんか早く終わればいい」「一日でも早く家族が戦地から帰ってくればいい」という本音や実感は、いつしか語られなくなる。それどころか、戦死を名誉とみなし、靖国に祀られれば「英霊」「軍神」と称えられたが、「どうしてあれほどまでに多くの生命が軽んじられ犠牲にならねばならなかったのか」という問いは封印された。個性を失った死者は国家の名の下に祭祀対象とされ、個別のはずの死は「英霊」に総括される。本音や実感が禁句になり、「報国」「忠君愛国」という標語が満ちるとき、国家のために死ねる覚悟の国民創出に戦時国家が成功を収めたことを意味するのだろう。
 女学生の身体性が男性的なるもの・兵士的なるものに接近することが歓迎される時代が到来するとは、戦前には思ってもみなかっただろう。だが、戦争が総力戦である以上、女学生をも巻き込んで戦争は遂行された。軍事教練に励む女学生のなかには、体力第一主義の教育を嫌った者もいただろうが、一方で「女ならそんなことはするな」「女ならしとやかでいろ」という抑止的・静止的な身体性が、軍事教練などの実施によって変容していくことに解放感にも似た思いを抱いた女学生もいただろう。女性を排除した組織とされてきた軍隊にも、女性が軍属である通信手として参入し、男性通信手に代替して任務を果たした。過度な精神主義が合理的な思考、科学的知識を凌駕すれば、紋切り型の標語が充満し、実感や本音は葬り去られる。今日の軍拡の動きに照らすと、戦時下女学生の体験は、決して現在の社会と無関係なものとはいえないだろう。

 本書を一人でも多くの人に手に取ってもらい、時代に変容が生じ、いつしか潮流ができあがってしまえば、対抗が困難になることなど、現在の日本のありように思いをはせることにもつながればと願ってやまない。

 

『大麻の社会学』その後――本書と批判的犯罪学

山本奈生

 大麻規制の状況は刻々と変わっていくもので、本書を刊行してから、アメリカのバイデン大統領はやはり全米での規制を抜本的に変えようとはしなかったけれど、連邦法で収監されているごく一部の人々には「恩赦」を与えた(しかし、全米で大麻所持によって収監されている州法違反者の大部分はまだ置き去りにされている(注1))。そして、日本では「使用罪」を創設しようと、厚生労働省の規制当局が奔走しつづけているように見える。
 本書を読んでもらった方からは、大きく2つの問題関心に分かれる読後コメントを聞かせてもらい、大変うれしかった。
まず1つ目に「大麻」という書名に関心をもってくれた読者からは、時事報道に関連する話題としてというよりは、もっと身近で切実なコメントが寄せられた。ある人の「実は兄に逮捕経験があるが、しかし自分は兄が悪人だったとは全然思っていないのだ」というコメントや、別のある人の「自分自身の活動と、筆者・山本とのこれまでの交流」という問題関心から本書を手に取ってくれたというコメントがそれで、そうした読者によって、私は本書で記そうとしたすべての狙いを汲み取ってもらったのである(注2)。
 実際のところ、大麻に関する議論はただの文化史や法制史に還元することはまったくできない。逮捕され収監される人々の生について語ることなのだから、実存と不可分のテーマであるはずだと、私は思う。
 そして2つ目に、「社会学」、とくに本書序章で一応記しておいた「批判的犯罪学」という「立て看板」へのコメントをいろいろともらった。批判的犯罪学という名称は、私にとっては例えばカルチュラル・スタディーズがそうであるように、名詞というよりは動詞の意味を多く含み、1つだけに定義することが困難な、「批判的に犯罪概念と向き合う、人々の営み」の総称である。ただ共通しているのは、既存の犯罪概念や刑法制度を抜本的に批判し、そこに含まれる権力性と対峙しようと試みる姿勢ではないだろうか。
 個別分野としてみても、その批判性は論じる人々の視座によって変化し、環境破壊や公害を扱う「緑の犯罪学」であれば、エコロジー論や「住まう人々の生活視点」から、大企業こそが巨大な犯罪行為をしているとして犯罪概念を解体・再構成しようとするし、「受刑者(自身による)犯罪学」であれば、受刑者という当事者の視座から刑務所制度の痛みを告発する姿勢が含まれる(注3)。そして私は「アクティビストでもあり研究者でもある」立場から、「ストリートで生きる人々」の人生を重視して本書を記したつもりである。
 現代日本の「五輪汚職疑惑」や「政界とカルト」問題をみるだけでも、そもそも犯罪とは何か、一体誰の痛みが無視されがちで、誰の「加害」が黙認されがちなのかが、問われなければならないはずだ。そうした「そもそも犯罪とは何か」を批判的に問うてきたのが、「68年の精神」を背景にしながら、1970年以後カルチュラル・スタディーズが勃興していった時代と軌を一にして発展してきた、欧米の「批判的犯罪学」の潮流だった。私はそのムーブメントが成してきたことの一部を拝借したのである。しかし、日本ではカルチュラル・スタディーズが広範に受容されてきたのに対して、どうして「批判的犯罪学」はあまり知られてこなかったのだろうか。
 さてそれで、2022年度の日本犯罪社会学会大会(第49回)では「批判的犯罪学の視角――犯罪社会学と刑事司法制度のあり方を問う」というミニシンポが開催され、「綱領」が発表された(注4)。文章は山口毅が作成し、企画参与者がみんなで意見を出し合った「暫定的な綱領」だが、これがなかなかよくできていて、本書で私が書いた大雑把な概説よりも明快であることを認めたい(しかし、「綱領」については学会発表しなかった私も企画準備会に参加して、少しだけ一緒に考えた部分があるのだから、誰が優れているとか誰の手柄だといったことではなく、言うべきことをみんなで言ったのだと思う)。
 この「綱領」は①刑事司法と主流派犯罪学への批判的視角、②研究者の規範的コミットメントの明示と検討、③個人化の拒絶と社会の変化に対する要請の3点をとして詳細な解説がなされた。そのうちどこかで公刊されることだろう。「綱領」は「社会の問題を看過して個人に問題を押しつける抑圧的な装置のひとつとして刑事司法制度を位置づけ」てから「犯罪学は刑事司法制度を追認して正当化するイデオローグ(注5)」だとストレートに論陣を張って、犯罪学者や法曹関係者が多数くる学会で大いに論争と顰蹙を買った(褒めています。論争と顰蹙を買わない穏健な批判というのは、批判が不足しているのだから)。
 ミニシンポで問われたことの1つは、これまで特に犯罪社会学分野での「社会問題の構築」が含む問題性だった。これは『大麻の社会学』は「社会問題の構築」論ではないのだという、私の関心とも近い論点である(注6)。
 端的に言えば、犯罪と摘発といった人の生死に関わる、そして国家と権力性の重力圏にあらざるをえないテーマを扱う場合、研究者側がただ「こうやって構築されてきたのでした」としてすます姿勢を、私(たち)は首肯しかねるのである。一部の「社会問題の構築」は、常識や先入観を括弧に入れて、観察と記述に専念する。それはそれで、「普通の社会」を相対化している点でみるべき点もあるが、しかし、そこで同時に研究者自身の批判精神までも括弧に入れてしまっている部分があったのなら、それは本末転倒なのではないか。
 私がミニシンポ登壇者の1人、岡村逸郎とそれぞれの自著に関して談話した際、彼と私が言い合っていたのは一冊の本に人生の重みをかけるという営為は、どうしても実存それ自体と不可分だよね、ということだった(注7)。ここでいう実存や人生の重みというのは、何かの苦境や困難の当事者経験だけに限られるわけではないと思う。ある人が日々の人生経験を踏まえて本の山と向き合い、作者との対話を経て権力性への違和感を論理的に確信する瞬間はありえて、そうした批判的思索もまた実存の1つなのである。
 しかし、その確信を世に問う際に自己を安全圏で「私はただ観察しただけなのです」とする振る舞いは、少なくとも実存の悩みを抱く読者に何かを喚起することができるかどうか、私には疑問である。結局のところ、先に紹介した本書への読者からのコメントはどちらも、私にとっては同型の問題を別様の方法で問いかけていたのであり、筆者は今後の原稿執筆に際して、そうした「研究と実存、批判精神」の論点を幾度も思い返すことだろう。


(1)「バイデン米大統領、「大麻の単純所持」に恩赦 連邦法で有罪の6500人が対象」「BBC NEWS JAPAN」2022年10月7日付(https://www.bbc.com/japanese/63167891)
(2)筆者の旧友の白坂和彦による紹介文。「あさやけ」(https://cbdjapan.com/archives/6949)
(3) 分野各論の概説として、平井秀幸「犯罪学における未完のプロジェクト──批判的犯罪学」(岡邊健編『犯罪・非行の社会学――常識をとらえなおす視座 補訂版』〔有斐閣ブックス〕所収、有斐閣、2020年)、また山本奈生「書評 『批判的犯罪学ハンドブック 第2版』」(「佛大社会学」第46号、佛教大学社会学研究会、2022年)がある。
(4) 2022年度日本犯罪社会学会大会テーマセッションB「批判的犯罪学の視角――犯罪社会学と刑事司法制度のあり方を問う」
(5) 山口毅「批判的犯罪学とは何か――綱領作成の試み」2022年、注(4)のセッションから。
(6) この点について、学会誌での本書書評と筆者リプライにも記述がある。山口毅「書評 山本奈生 著『大麻の社会学』」「犯罪社会学研究」第47号、2022年
(7) 岡村逸郎『犯罪被害者支援の歴史社会学――被害定義の管轄権をめぐる法学者と精神科医の対立と連携』明石書店、2021年。同書の「2022年日本犯罪社会学会奨励賞受賞スピーチ」にも実存への言及がある(同学会ニューズレターに掲載予定)。

 

タジタタン――あるいは上梓までの日々――『〈サラリーマン〉の文化史―― あるいは「家族」と「安定」の近現代史』を出版して

鈴木貴宇

 ものを書く仕事に就きたいなと憧れた10代のころ、そのイメージは万年筆を手に原稿用紙に向かい、一つの形容詞が思い浮かばずにため息をついて、早朝の森に散歩に出たりするといった、どうも串田孫一的スノビズムに彩られた、おまけに時代がかった「文人」のものだった。もちろん場所は片流れの品のいい屋根の別荘で、そこには無口だがすべてを心得ている年配の家政婦がいて、そっと紅茶を入れてくれる。訳ありの渋い執事でもいいけど、まあとにかく、私は万年筆を握ってさえいればいいのだ。時折はウイットの効いた編集者が、老舗和菓子なんぞを差し入れにきたりする。
 さすがにそりゃないわなと大学院に進学したあたりで気がつくのだが、今度は論文の執筆というのは、きっと知の集積みたいな研究室で、厳しい面持ちで臨むものに違いあるまい、とこれまた勝手にイメージしていた。これも違うわなと現実を知るものの、どこか「単著上梓」ということに関しては、最後のロマンではないけれど、なんとなく「おお! われ成し遂げり!」的な充実感があるんだろうなあと思っていた。メンデルスゾーンの「おお雲雀」が高らかに響いてしまう感じである。

 それも一つには、「あとがき」の為せる業だとおもう。これまで読んできたあまたの本にある「あとがき」は、なんてスタイリッシュなものが多かったことか。著者は必ず「理解ある職場」にいて、さらに「孤独を分かち合う友」もいて、おまけに「そっと励ましてくれる妻ないし夫」もいる(さらに、いつも寄り添ってくれるペットまでいたりする)。そして「セーヌ川のキャッフェで談論風発の日々を思いながら」なんていう締めの言葉で終わったりするのだ。ああ、私もそういうことを書いてみたい!と、三十路に入ったあたりから、悶々と「エセあとがき」を書いたりしていた。
 まあ、それは無理でも、とりあえず落ち着いた状況で行く末越し方を考えながら「あとがき」を書くことができたら、それだけでずいぶんと幸せじゃあないか、といろいろあった不惑以降の私は、ささやかながら「あとがき」を書ける幸せを楽しみにしていたわけである。

 ところが。まず青弓社の校正者は大変に熱心で、改善提案みっちりの初校ゲラが届き、当初はうれしい悲鳴も最後には単なる悲鳴となりながらなんとかゲラを返したら今度は編集部が私の訂正に手間取り(ごめんなさい)、さらにコロナ禍でスケジュールがすべて押せ押せとなって、私の本って本当に出るのかしらと訝しむ時期があったくらいである。
 かと思えば、年度が明けたら今度は猛ダッシュでどっかどかとゲラが投下されてきた。しかも「8月末に刊行するので、いついつまでに再校念校見本印刷」と、怒涛の勢いである。「あ、ということで、「あとがき」は7月7日までにデータで送ってください」との指示が期日3日前、すでに学期末のとんでもなく忙しい時期に入っている。七夕の日が締め切りというのはちょっとステキかしらと思うも、甘かった。通常授業の期間でさらに学期末となると、もはや「ステキ」なものなんてお茶休憩のチョコレートくらいしかないんじゃないかと思うくらい、バタバタである。文学少女のころからあんなに思い入れがあった「あとがき」なのに、ローソンのからあげクンをつまみにノンアルコールビールを片手に書くことになった。

 いま思えば、それしもまだマシだった。いよいよ書影が出て、うわあ、本当に出版してもらえるのか、いやはや、とドキドキする日が続いた8月はじめ、なんだかとにかく部屋が暑い。いやあねえ、緊張してるからほてってるのかしら、意外とウブなところがあるわね私、なんて思っていたら、本当に暑い。熱中症になりそうな気配である。もちろんエアコンはつけている。だけど原稿用紙のマス目が汗でにじむくらい暑い。ふと見れば、エアコンの電源ランプが点滅していて、送風口からは熱風が出ている。
 築10年ちょっとの物件で、決して古いものではないけれど、設備も10年たてば劣化する。さらに最近の暑さだ、フル稼働となったエアコンを責めるのも気の毒である。しかし、さすがに30度を超える日本の夏をエアコンなしで過ごすのは無理だ。おまけに念校も抱えている。しかもこれが起きたのは日曜日、管理会社の代行さんは、「ええ、そら暑いですよなあ、よくわかりますわ、だけどどうしようもないんですよなあ」の繰り返し。
 仕方ない、とりあえずビジネスホテルをとって、修理を待つしかないかと考えた月曜日、勤めを終えて電車に乗っていたらスマホが振動する。見るとなんと警察である。一瞬、再校ゲラが遅れてるから警察から督促がきたのかと焦るが、そんなわけはあるまいと電話に出ると、「あ、えーと、鈴木さんですか? あなたの住んでる建物、火事になってまして」と言うではないか。

はい?

 閑話休題。要は、隣室の壁のなかにあった分電盤がショートして、たまたまリモートワークで家にいた住人は急に部屋に煙が立ち込めるからびっくりして外を見たら燃えていた、ということらしい。消防車が派手に噴水してことなきを得たが、着いてみたら隣室の外壁は無惨に剥がされ、こりゃしばらく住めませんよねは一目瞭然だった。
 エアコンが壊れたおまけに火事に遭いまして、つきましては念校は大学に送ってください、と担当編集者さんに伝えたら「そりゃまあ、タジタタンですなあ」と呆れたのか驚いたのか、そんな言葉で返された。タジタタン? ああ、多事多端か、と脳内変換するも、多事多難ではなく「多端」ときたかと感心する。単に言い間違えかもしれないけれど、「タジタタン」という響きは、どこかスタッカートで、軽やかではないか(そんなことないか)。

 そんなわけで、何事も現実は小説よりも奇なりを地で行くような日々を過ごすうちに、10年かかった拙著『〈サラリーマン〉の文化史』を無事に上梓することができた。「あとがきのあとがき」くらいは、それこそ文人らしいことを書きたかったのだが、どうやらこれが私の身の丈である。最終章に登場してもらった山口瞳にならって、「この人生、大変なんだ」ということで、お読みいただけたらとてもうれしい。

 

過剰に誇張するネットの作用――『女子はなぜネットを介して出会うのか――青年期女子へのインタビュー調査から』を出版して

片山千枝

『女子はなぜネットを介して出会うのか』というタイトルで、今回執筆しました。まずは、このような機会をくださったみなさまに心から感謝したいと思います。今回の執筆前後で、私は以下のようなことを考える機会があったので、コラムに記します。
 それは、ネット上の発信は良くも悪くも、そこで発信されている内容を誇張する効果があるという点です。関連する研究では、炎上に関するものやCMC(Computer-mediated communication)に関するものなどがありますが、後日きちんとレビューしたいと思います。
 具体的には、ネット上の発信をプラスに捉えると、それを発信した相手を過剰に評価する傾向にあるのではないかということです。本書でも言及していますが、特に「Twitter」や「LINE」などネット上のサイト・サービスを介して知り合った相手だと、①視覚的情報が制限されている点や②物理的距離がある点などから、相手を過剰に評価すると考えられます。既存の友人・知人であれば、対面でやりとりする機会もあるため、相手に対する「自分の妄想」や「思い込み」をある程度修正できると思うのですが、ネットを介して知り合った相手は対面で会う機会がほとんどないと予想されるため、相手に対する「自分の妄想」や「思い込み」を修正できない恐れがあります。「こんなすてきなメッセージをくれる人に実際に会ってみたい」「実際に会ったら、画像や動画よりもよりカッコイイ/カワイイかもしれない」と相手に過剰に期待した結果、ネットを介した出会い(ネットを介して知り合った人と実際に会うこと)を実現すると考えらえます。ちなみに、これを本書では「能動的出会い」と定義しています。
 逆に、ネット上の発信をマイナスに捉えると、それを発信した相手を過剰に非難したり、その内容からさらに否定的な想像や思い込みをしたりすることも考えられます。相手のことを肯定的に評価しているときは発信のすべてがよく見えますが、少しでも自分の想像と違ったり、相手が自分の意に反することをしたりすると、相手の発信はもちろん、相手の存在まで否定的に捉えてしまうことにつながるのです。
 ネット上の発信は基本的に文字でのやりとりが中心なので、対面と異なり誤解が生じやすい(メラビアンの法則)というのも、良くも悪くもネット上の発信がそこで発信されている内容を誇張する理由になると思います。また、私自身が実感していることですが、検索機能の充実により、ネット上では似た情報が集まりやすいということも、その理由として挙げられます。たとえば、「ネット恋愛」と検索すれば、ネットを介して知り合い、恋愛・結婚をした体験談やすてきな「ネット恋愛」をするための方法を指南してくれるサイト・サービスがたくさん出てきます。だからこそ、「私もこんな恋愛がしてみたい」と期待と想像が必要以上に膨らみます。一方、「ネット恋愛 詐欺」「ネット恋愛 騙された」と検索すれば、それに関する犯罪実態や事件・ニュースなどが出てきます。それらの情報を見て、過度に不安や恐怖を抱くことも考えられます。良い情報も悪い情報も、ネット上では検索結果を1つクリックすれば、さらにそれに関連するサイト・サービスが際限なく提示されるので、アリの巣地獄ならぬ「検索地獄」から抜け出せなくなり、自分の「想像」や「思い込み」をコントロールできなくなってしまうといえます。その結果、「ネット依存」はもちろん、ネット上の情報量の多さに「ネット疲れ」や「SNS疲れ」に陥る人も少なからずいると思います(ちなみに、私自身も「検索地獄」にはまり、自分自身をコントロールできなくなった一人です)。
 本書では女子のネットを介した出会いに注目し、その実態について執筆しましたが、女子のネットを介した出会いの背景には、ネット利用に伴う様々な社会問題が潜在していると私は考えます(「ネット依存」や「ネット疲れ」など)。本書ではそれらすべてを明らかにすることはできませんでしたが、本書をきっかけにして、それらの社会問題を今後明らかにしていきたいと考えていますし、その手伝いができればと思っています。

 

豊かな傍流への願いを込めて――『まるごとマンドリンの本』を出版して

吉田剛士

 初めての自著となる『まるごとマンドリンの本』の執筆にあたっては、自分がこれまで積み上げてきた経験と知識を再確認しながら、一つのまとまった形にしてマンドリン演奏のための総合指南書として広く活用してもらえるものを作り上げるよう努めました。また、マンドリンについて知りたい人が必要十分な知識を多面的に得られるよう配慮もしました。
 刊行後、ある親しい知り合いから「これでもういつでも安心して死ねますね」と言われましたが、確かにそういう側面はあります。マンドリンを演奏する人に伝えたいことは本書に一通りすべて書いたので、マンドリン弾きとしての私の遺言書といっても過言ではありません。
 ただ、300ページ足らずの本にすべてを書き記すことはもちろん不可能であり、むしろ何を削るかを選択する作業でもありました(とはいえ、それ以上長い本になると読むのが大変になるので、このボリュームは妥当だと思っています)。
 とくに歴史については、なんら目新しいことを記述していないと不満を感じる人もいるかもしれませんが、むしろここまでばっさりと簡略化したことを評価してほしいと思っています。その筋の研究家やマニアの知識は膨大なので私の知識などその足元にも及びませんが、それでも相当な部分を切り捨て、ざっくりとした概要を抽出したので、枝葉末節に惑わされることなく鳥瞰図を得やすいのではないかと思います。
 ところで、本書に所収したかったのですが権利上の問題で掲載できなかった図版が2つあります。1つはパブロ・ピカソが「20世紀最後の巨匠」と称した画家バルテュスの遺作『マンドリンを持つ少女』です。これはマンドリンを持ってベッドに横たわる少女が描かれたものです。バルテュスの遺作にして「未完成」だったということで、マンドリンが「未完成」な楽器であるという本書の論旨を象徴すべく配置したいと考えたのです。
 もう1つはマンドリン詩人(あるいは大空詩人)として知られる永井叔の写真です。インターネット上で見つけた1940年9月11日「星を見る会」の写真で、子どもが天体望遠鏡を覗き込み、その横で天文民俗学者の野尻抱影がアンタレスを指差し、その傍らにマンドリンを抱える永井叔がたたずんでいるというものです。とてもいい写真であることと、何か「マンドリンの未来を見据え、それに向かっていく」ようなイメージがよかったのですが、こちらも権利関係の確認が取れず断念しました。
 バルテュスも永井叔も私が個人的に好きなのですが、冷静に考えれば、もともとそれらの写真は本書のコンテンツとして本筋というわけではなく、まして必須とは言えませんでしたし、実際、ある方から「それは本流ではありませんね」と言われました。それは必ずしも否定的な指摘ではなかったのですが、確かにその通りだと納得した部分もあり、それらの掲載をあまり深追いせず断念したという経緯があります。
 その「本流」という言葉の意味するところは、マンドリン300年の歴史のなかで中心的な役割を果たしてきた人物や事物、つまり例えばヴィナッチアやカラーチェのような人物と彼らの楽器や作品、あるいは日本のマンドリン文化の中核を担ってきた流れ、つまり武井守成や中野二郎といった人たちが登場する世界の流れということだと思われます。
 確かにそれらがマンドリンの歴史の本流であることに私も異論はまったくありません。しかし、あえて言うならば、それは古典や合奏を中心としたマンドリンの1つのジャンルにおける流れにすぎないとも言えます。「本流」という言葉は、それ以外のジャンルや変わった活動を自分たちに関係ないものとして切り捨ててしまう排他的なニュアンスを帯びる危険をはらんでいます。
 大きな力があれば本流のなかで大成し、その流れをさらに太く大きく育て上げることができるのかもしれませんが、新しい流れ、画期的な流れというものはむしろ傍流から、あるいは本流と傍流の境目から生じるのではないかと私は思っています。また、豊かな傍流があってこそ本流が輝かしいものになるということもあります。本書は、そのような考え方のもと、本流を中心に据えながらも、それだけでなく様々な傍流が豊かに育っていくことへの願いを込めて書かれています。同様に、意識の有無にかかわらず、結果的に本流以外の活動に目を向けてこなかった人が興味の範囲を広げる1つのきっかけになることも願っています。

 以下、余談です。
 本書のなかでも簡単にふれましたが、今年で没後80年になる詩人の萩原朔太郎はマンドリンに傾倒していました。それは決して本流の出来事とはいえませんが、ひとつのアクセントとして日本のマンドリン史に輝かしい彩りを与えてくれています。そのような意味で、朔太郎が作曲したマンドリン曲「機織る乙女」も実に面白い存在ですが、実際に聴いたことがある人はどのくらいいるでしょうか。実は私も演奏しており、最近レコーディングもしたのですが、この曲をめぐっては様々な解釈があり、いくつかのエピソードがあります。そのあたりもぜひみなさまにお伝えしたいところですが、それはいずれまた別の機会にいたしましょう。
 まずは『まるごとマンドリンの本』をご高覧いただければ幸いに存じます。

 

失われた偽作・疑作を求めて――『クラシック偽作・疑作大全』を出版して

近藤健児

 妻は私と違って収集癖はないが、もう10年以上前に勤務医の仕事をいったん辞めたときに、当時熱中していた塩野七生の『ローマ人の物語』(全15巻、新潮社)に触発されて、退職金を原資にローマ時代のコインを買い集めだしたことがあった。メイン・ターゲットはデナリウスと呼ばれる直径1.5センチほどの銀貨で、同じ皇帝のものでも裏面のバージョンは多種多様でなかなかに集めがいがある。eBayに出品している海外の業者から購入するのだが、本物かどうかはなんともわからない。だが、もし真贋鑑定に出すとなるとコインの価格以上の費用がかかってしまう。それがどうにも気になったのか、原資が尽きたのか、ある程度集めたところで収集をやめてしまったようだ。
 絵画や骨董の世界では、ニセモノは一般に贋作と呼ばれる。これは欺く目的で悪意のもとに作られたもので、例えば同時代の絵にレンブラントのサインを加えたり、新しい陶器をわざと古めかしく汚したりしたものだ。真作と思って大枚はたいて購入したものが贋作と鑑定されることはしばしばあるが、これは当事者にとってはおおごとだ。そうとは知らずに美術館が自館の目玉として展示していたものが贋作ないし贋作が疑われる事態となると、展示をやめて倉庫に引っ込めざるをえないことになる。来館客数に響く大変な損失だ。なおかつ始末が悪いことに、いったんは贋作と判定された作品が、のちに真作とされる逆転事例もないわけではないから、恨めしい絵を邪険に捨てるわけにもいかないのだ。
 ところでクラシック音楽作品の場合にも、本書で取り上げたシューベルトの『交響曲ホ長調』(1825年)のように、悪意ある贋作もないわけではない。しかし偽作や真偽不詳の疑作の多くは、著作権の概念などなかった18世紀に、売らんがために有名作曲家の名前を勝手に楽譜に付けて売ったことから生じたもので、当時それなりの実力があった作曲家が真面目に書いたものだ。曲そのものの中身は聴くに値するものが少なくない。例えば、ハイドン作とされていた『おもちゃの交響曲』も、モーツァルト作とされていた『子守歌』も、いずれも他人による作曲と判明しているが、曲自体は名品であるにもかかわらず、偽作とわかったために演奏・録音される機会が少なくなってしまっている。ハイドンの弦楽四重奏曲集Op.3は、名曲「セレナーデ」を含んでいるにもかかわらず、偽作とわかると全集ボックス(エオリアン四重奏団盤)ではわざわざその曲を外して販売されるようになる始末だ。
 ちょっと待ってほしい。倉庫行きになった美術作品を本物とじっくり見比べる機会があってもよくはないか。それと同じように、真作でないとわかった音楽作品も、長らく有名作曲家のものと信じられてきたゆえんはどこにあるのか、自分の耳で確かめてみたいものではないだろうか。偽作や疑作となると、大作曲家の全作品事典や熱心な愛好家のウェブサイトに断片的な記載があるだけで、基礎的情報さえかなり苦労しないと集まらない。肝心の録音さえも、かつて真作と信じられていた時代に出ていた古い音源が相当探してやっと見つかるほどに限られているのが実情だ。それでもモーツァルトの交響曲やヴァイオリン・ソナタなどで、偽作ということで欠番扱いになっている前々から気になっていた曲に出合えたときの喜びは大きく、曲の出来栄え以上に満足感を味わった。そのほか全部が全部名曲だなどと言うつもりはまったくないが、真作と同じように愛聴すべき佳作も本書の執筆を通してたくさん見つけられた。
 転売するわけでもないので、真作でも偽作でも疑作でも、自分でいいと思ったものを楽しむだけだ。だから、妻のローマ・コインだってたとえ真贋不明のグレーゾーンのものでも、楽しみを与えてくれればすてきな宝物である。音楽も同じだ。本書を通して、私と同じように自分だけの名曲に出合える人が増えたらいいなと願っている。

 

手を取り合って観光業界の底上げを――『旅行ライターになろう!』を出版して

野添ちかこ

 ゴールデンウィークのとある昼下がり、『旅行ライターになろう!』を読んだ人から、「素敵な本を世に出してくださってありがとうございます」と「Twitter」でコメントをもらった。
 差出人はすでに書くことを生業にしている旅行ライターさん。拙著のなかでインタビューした人の書評をきっかけにこの本を読んだのだという。
「え? そんなうれしいことを言ってもらえるんだ?」
 想定外のメッセージに驚いたが、同時に旅行ライターについて書かれた本は近頃ほとんど出版されておらず、フリーの旅行ライターは、みな手探りで仕事をしているのだと気づいた。同業者の仕事を垣間見ることはほぼないに等しい。

 実は、私の旅行ライターとしての日々も、常に悩みのなかにあった。
「この仕事は、本当に世の中に必要とされているのだろうか」
「私が書かなくても、自分の代わりはごまんといるんじゃないか」
 署名記事を書かせてもらえるようになったいまも、そんな不安と隣り合わせにある。我ながらマイナス思考も甚だしいが、“隣の芝生は青い”のだ。
 本来、自分の醜態や弱い部分は隠すべきものなのだが、一冊の本を執筆するとなると、隠そうと思っても負の感情が行間からにじみ出てくる。執筆中はハゲるんじゃないかと思った。

 内田康夫さんのサスペンス小説「浅見光彦シリーズ」の主人公である「旅と歴史」のルポライター・浅見光彦のような仕事を旅行ライターだと思っている人もいるかもしれないが、あれはあくまでもドラマのなかの設定。あんなふうに事件に首を突っ込む暇は、普通はない。
 ウェブトラベルライターが書く仕事論はウェブ上に散見されるが、紙媒体を中心に仕事をしてきた旅行ライターは仕事の実態についてわざわざ記事にはしない。だから隣の人のリアルな仕事事情を誰も知らない。みんな、本音の部分を知りたかったのだ。そういう意味では、まだ格好つけてオブラートに包みすぎているかもしれない。

 この本の執筆依頼をいただいたのは、コロナ禍で「観光業界はこれからどうなっちゃうんだろう」という不安の真っ只中だった。それ以前から顕在化していたウェブの発展による情報の無料化のあおりを受けて、旅行ライターを取り巻く仕事の状況はずいぶん変容していた。書籍執筆も遅々として進まなかったが、私にとっては自分自身の仕事を振り返るいい機会になった。

 本書の執筆にあたって困ったのは、読者が若い人なのか、あるいはリタイア後の人なのか、本業なのか、副業なのか、あるいは自己表現の場がほしいのかで、伝えるべき内容がずいぶんと違ってくるということだ。
 通常の仕事で取材にいったときには、相手が発する言葉のなかから、ピカッと光る言葉を拾い集め、言葉を紡ぎ直して原稿に仕立てるのだが、本書に関しては、ターゲットの違いによる書き分けが難しく、考えれば考えるほどにズブズブと思考の沼へはまっていった。
 職業本だから、「情報を網羅しなければいけない」というジレンマもあった。が、すべての媒体に精通している旅行ライターなぞ、おそらく存在しない。ならば、むしろ業界紙記者時代も含めれば、私は詳しいほうではないか。そう割り切って、自分の経験を中心に書くことに決めた。私の経験で足りない部分は、旅行ライターとして活躍するタイプが異なる3人の方の体験談を加えることで補強した。
 本書は、旅行ライターを目指す人に向けて書いたが、すでに仕事をしている人が観光業界の現状を概観するのにも役に立つのではないかと思う。私の周りに「旅行ライターになろう」と考える人は皆無のはずなのに、「買うよ」「おもしろそう」「読みたい」という反響もいただいた。
 人間は「人の間」と書く。人の間に入ってはじめて人間たりうる。人と関わり、支えられ、人のおかげを感じることで喜びも出てくるのだとあらためて感じた。フリーランスの仕事は孤独を感じる瞬間が多いのだが、人に助けられて、16年もの間、仕事をしてこられた。

 書き終えたあとで、取材すればよかったと思ったこともある。
 まず、仕事に生かせそうな資格について。それから、近年の旅行本のベスト・ヒット。さらには、旅行本はどのくらい売れればベストセラーといえるのか……など。いずれ、機会があればまとめてみたい。

 最後に、本書がこれから旅行ライターになる人、すでに旅行ライターとして活動している人の助けとなり、観光業界の底上げにつながることを願ってやまない。私は今年50歳になる。これからの人生はみんなと手を取り合って発展していくことができれば嬉しい。

野添ちかこ公式ウェブサイト「ゼロたび」
https://zero-tabi.com

 

船旅文化を築いた名もなき人々――『船旅の文化誌』を出版して

富田昭次

 本書で書き残したことがある。『愚か者の船』について、『絶望の航海』と『さすらいの航海』について、日本人によるユダヤ人救出について、そして阿波丸沈没の謎について。
 過酷な話ばかりである。だから、本書では取り上げにくかった。しかし、避けて通れないと思い直し、これを機会に少しだけ触れてみたい。
 アメリカ生まれのキャサリン・A・ポーターは1931年、メキシコからドイツへ航海の旅に出た。その船旅で、彼女は見聞きしたことをノートに書き留めた。それが『愚か者の船』(注1)というベストセラー小説に昇華し、同名で映画化もされた。「高級なドラマもあれば、低級な茶番もあり」(訳者の「あとがき」)という物語である。同書にこんな場面がある。教会の備品を販売するユダヤ人が「ユダヤ人の娘を侮辱することは、ユダヤ人全部を侮辱することですぞ」と言うと、多くのドイツ人乗客の一人が怒声を上げるのだ、「その汚らわしい口を閉じろ」と。ユダヤ人排斥思想の醜さについて描いていた。
 実話の『絶望の航海――ナチ・ドイツを逃れて』(注2)と、それを映画化した『さすらいの航海』(注3)もユダヤ人が主題だ。1939年、ナチス・ドイツは亡命希望者のユダヤ人937人をセントルイス号に乗せてキューバに向かわせる。「ナチが一番関心を持ったのは、船とその乗客がドイツを出発したあとで、これをどのように利用するかであった」(同書)
 キューバは、ナチスの策略もあってセントルイス号を受け入れることはなかった。ナチスから逃れる手立てはもうないのだろうか……。映画を見た同書の翻訳者・木下秀夫は「救いのない残酷物語」と題した一文を「キネマ旬報」に寄稿している(注4)。
「映画を見たときも、何回かハンカチを取りださなければならなかった」「船員と乗客の美しい娘が心中するが、あれは原著にはなかった。しかし一番感激的な場面の一つであった」
 第2次世界大戦下のユダヤ人救出に関して、日本人は杉原千畝の名を第一に挙げるだろうが、いつだったか、筆者はJTBの店舗でふと手に取った小冊子(注5)で、一つの秘話を知った。以下は、その小冊子に掲載してあったジャパン・ツーリスト・ビューロー(当時)の職員・大迫辰雄の詳細な手記(注6)によるものである。
 当時、日本はドイツと同盟の関係にあったが、同ビューローは人道的見地から、日本経由でアメリカに逃れる彼らを無事に送り届けようと尽力した。輸送するばかりか、アメリカ・ユダヤ人協会から送られてきた金銭を、本人確認をおこないながら手渡す業務も担った。
 その任務のなかで、まだ入社2年目だった大迫は、1940年(昭和15年)から翌年にかけて支給された船員服に身を包み、ウラジオストクから敦賀までユダヤ人を古びた天草丸で送り届けたのである。
 大迫は荒れる日本海を二十数回往復した。最初の往路で早速ひどい船酔いに苦しめられたが、復路では三等船室で雑魚寝する400人ほどのユダヤ人の世話に追われ、船酔いする暇もないほどだった。大きく揺れたときは沈没するのではないかと恐れたものの、航海を繰り返すうちに、案外沈まないものだと安心するようになり、また船酔いすることもなくなったという。
 過酷な事例をもう一つ挙げなくてはならない。
 ある古書市で、筆者は偶然見かけた有馬頼義の『生存者の沈黙』(注7)に手を伸ばした。『四万人の目撃者』などの推理小説で有馬の名が記憶に残っていたからだ。だが、これは単なる推理小説ではなかった。1945年(昭和20年)春に起きた阿波丸沈没の謎に迫った小説だった。
 太平洋戦争末期、阿波丸は連合国側から安全を保障されて航海を続けていたところ、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。ただ1人の生存者を残して、2,000人を超える乗客が命を失った。赤十字の物資を輸送する任務を負っていた阿波丸がなぜ攻撃を受けたのか、その謎が残った。のちに、阿波丸には金銀財宝や戦時禁制品が積まれていたという噂が立った。乗客数が正確に把握されていなかったという謎も浮上した。
 有馬は15年もの長い歳月をかけてこの作品を書き上げた。その理由は、それらの謎に対する好奇心ばかりではなかったという。仲が良かった従兄の外交官が阿波丸の乗客の一人だったのだ。「あとがき」でこう書いている。「一小説家に過ぎない僕が知ることは、ずい分困難であった。しかし僕は、執念深く調査を続けた」
 暗く、つらい話はこれでやめよう。本来、船はロマンチックな乗り物である。読者のみなさんには、かつての人々が船旅で豊かな文化を築いてきたことを本書で知っていただけたらと願っている。


(1)キャサリン・A・ポーター『愚か者の船』小林田鶴子訳、あぽろん社、1991年
(2)ゴードン・トマス&マクス・モーガン‐ウィッツ『絶望の航海――ナチ・ドイツを逃れて』木下秀夫訳、早川書房、1975年
(3)『さすらいの航海』スチュアート・ローゼンバーグ監督、1976年
(4)木下秀夫「救いのない残酷物語」「キネマ旬報」1977年9月15日号、キネマ旬報社
(5)『“命のビザ”を繋いだもうひとつの物語』JTB(発行年不明)
(6)大迫辰雄「ユダヤ人海上輸送の回想録」(1995年1月25日記)、同冊子
(7)有馬頼義『生存者の沈黙』文藝春秋、1966年