奥村敏明『文庫パノラマ館』文庫放浪記

 土曜日になると神保町の雰囲気が変わる。街にはスポーツ用品や楽器を目当てにやって来る若い人がめだつ。古書街にも遠方からの人が多くなって、街は普段着からよそゆきの顔になる。そんな日はこちらもよそゆきの顔をしていつもと違う街へ出かける。
 東急田園都市線の三軒茶屋で地下鉄を降りて、まずカフェ・ド・ミュールクレピに立ち寄る。店の名前は何度聞いても忘れるけれど、ここのマンデリンはうまい。ゆっくりと味わう。なにしろお目当ての古本屋、江口書店は午後3時にならないと開店しない。
 時間があるときは玉川通りを環状八号線へ向かって行くと、少し路地を入った所に錦絵や刷り物で有名な時代や書店がある。また茶沢通りを下北沢方面へ向かうと左側に美術書や詩集で知られた喇嘛舎があるけれど、どちらも文庫本にはあまり縁がなさそうだ。そこで、玉川通りを渋谷に向かって歩く。きれいなお嬢さんたちとすれちがう。やがて昭和女子大学を過ぎて三宿の交差点を渡れば目的の江口書店は近い。
 開店時間にまだ間があれば左に曲がる。角になんとも不思議な雰囲気のビルが建っている。この前を通り過ぎて少し行くと右側に山陽書店がある。ここは案外あなどれない。絶版文庫がかなり充実している。河出市民文庫の『新訳西遊記』の上下巻揃いが600円だ。帯もしっかりしていて編集顧問の名簿がついている。横の棚に版画荘文庫、伊藤永之介『梟』があった。2,500円だ。安いけど天にシケ跡がある。迷って棚に戻しかけたらご主人から声がかかった。「1,000円でどうですか?」。かくして8冊目の版画荘文庫が私の書架に収まった。
 来た道を引き返して、交差点を渡ると目の前が三茶書房である。神保町の支店ということだが、こちらの店のほうが貫禄がある。文学書の初版や原稿などを揃えているが文庫本はしろっぽいものが多い。帝国文庫のバラが500円くらいでかなり置いてあるけれど、これを買ってしまうと重くて重くてほかの本が持てなくなる。
 さて、ようやく江口書店である。開店してまだ30分もたっていないのに店内には数人の客がいる。店の前に平台がある。この上に裸電球でもともっていればまちがいなく昭和30年代にタイムスリップ出来る。滝田ゆうの世界だ。この店は掘り出し物が多いことでよく知られている。御歳80を超えてかくしゃくたるご主人は、ときどきこちらのはらわたにしみ通るような咳をしながらもけっしてタバコを手放さない。そしてなぜか横向きに座っている。絶版文庫が切れ目なく補充されるという棚は右手の突き当たりにある。この棚をよく見ようとかがみ込むとちょうどご主人のお尻をのぞき込むようなかたちになっていささか具合が悪いのだけれど、そんなことは言っていられない。改造文庫の『横瀬夜雨詩集』を見つける。和田久太郎『獄窓から』、小栗孝則訳『シラー詩集』、土岐善麿編著『作者別万葉全集』『作者別万葉以降』など全部まとめて2,000円でゆっくりお釣りが来る。そして平台で拾った70円の東聯文庫と50円の医学選書ははじめてお目にかかる文庫本であった。東聯文庫はまちがいなく文庫本の範囲に入るが、医学選書のほうはいささか迷いが生じた。医学というものと廉価普及を目的とする文庫本とがしっくりこない。
 帰りの電車のなかからさっそく調査が始まる。表紙を眺め、奥付を調べ、序を読み、あとがきに目を通す。既刊近刊目録を見て、収録されている作品をチェックする。巻末の「医学選書刊行に就いて」で発行の経緯と目的を読んだ結果、今回は蒐集の対象から除外することに決めた。べつに理由はない。ただなんとなく「違う」という感じがしただけである。
 気に入った場合は自宅や、勤め先の図書館にあるさまざまな書誌を使って本格的な調査をしてみる。しかし大抵はよくわからない。文庫本そのものから得られるわずかな情報をもとに推測と憶測を重ね合わせて一つの推論を導き出してみる。原情報と齟齬がないか確かめて、これを一応の結論として書きとめておく。
 こうして書きためた原稿が数百枚になって『文庫博覧会』と『文庫パノラマ館』へと結実していった。この間情報科学は確実に進歩して、原稿を書き始めたころには思いもかけなかった数々の新しいメディアが誕生した。とくに書誌は本の形から電子メディアへと大きく変わっていった。現在ではCD-ROMやインターネットによる書誌確認は当たり前のこととなった。こうしたメディアにすべて遅滞なく順応したかと問われると、いささか忸怩たる思いがする。しかし、また、文庫本の書誌は一朝一夕になるものではない。今回の『文庫パノラマ館』でも述べたことであるが、これはまだまだ完成されたものではない。この本をたたき台にして、多くの人たちの力を借りて徐々に完成に近づけていきたいと思っている。

近藤健児『絶版文庫三重奏』絶版文庫演奏会への招待状

 お互いに面識はないものの、絶版文庫の汲めども尽きない魅力にとりつかれた点で意気投合した三人が、インターネットの掲示板上で情報交換をするうちに、この本の企画は誕生した。
 田村道美は、名著名作の紹介に関しては、比較文学的観点から興味深いと思われる作品を中心に取り上げた。また書誌的観点からは、「レクラムかカッセルか」で、明治期に刊行された袖珍名著文庫や袖珍文庫がドイツのレクラム文庫ではなく、イギリスの文庫本「カッセルズ・ナショナル・ライブラリー」を範として発刊されたことを明らかにした。また、「文庫本の奥付に見る終戦前後」では、1940年(昭和15年)から50年のあいだに刊行された文庫本の奥付の表記が目まぐるしく変化したという、これまであまり注目されなかった事実を当時の出版・社会状況と関連づけながら、文庫本の奥付がいかに雄弁な時代の証人たりうるかを示した。
 中島泉は三年ほど前からホームページを開設し、明治・大正期に刊行された文庫、とくに少年少女向けに刊行された文庫本の蒐集家としてつとに有名である。また、今年2000年の5月14日から6月18日まで、岐阜県博物館マイミュージアムギャラリーで「文庫の世界――文庫で見る日本の近現代史」と題する展示会を開催し、これまで蒐集してきた貴重な文庫本の一部を一般に公開した。本書においても、それらの貴重かつユニークな文庫本の紹介が中心となっている。なお、一銭文庫・探偵文庫などは、明治・大正期の文庫本蒐集の第一人者鈴木徳三氏の「日本における文庫本の歴史(一)-(四)」(『日本古書通信』696-699号、所収)のなかでも取り上げられていない珍しいものである。
 近藤健児は先に青弓社から刊行した『絶版文庫交響楽』で紹介できなかった、あるいは刊行後に入手できた幻の名著名作を中心に紹介することになった。グリゴローヴィッチ『不幸なアントン』(世界文庫)、『チャペク童話集 河童の會議』(冨山房百科文庫)、ギャンチヨン『娼婦マヤ』(河出文庫特装版)、フランク『後尾車にて・路上』(世界名作文庫)、ドルジュレス『木の十字架』(新潮文庫戦前版)、ブルトンヌ『性に目ざめる頃』(三笠文庫)、謝冰心『お冬さん』(市民文庫)など、いずれも絶版文庫蒐集家垂涎の的と言っていい作品ばかりである。
 本書のタイトルを『絶版文庫三重奏』としたのは、専門が異なり(中島は解析的整数論、田村は英文学・比較文学、近藤は国際経済学)、文庫の蒐集分野も異なる三人が、それぞれの持ち味を発揮しながら協力し合い、これまでになかったような「絶版文庫へのオマージュ」一曲を奏でたいとの思いからである。
 文庫は、かなりの部数出回った普及版の本である。いくら古くて珍しいものでも、天下に一つか二つしかないというものではない。本書を読んで「こんな本も出ていたのか」と発見があれば、また探す楽しみも増えるだろう。本書にも専門店やインターネット検索のガイドを載せたが、あらゆる手を尽くして、何年もかけてようやく手に入れた本を読む、そんなときこそがしみじみ湧き上がる喜びを感じる至福のひとときであり、読者は四人目の演奏者となり、三重奏は四重奏になる。
 この本はそんな演奏会の入場券なのである。さあ、ご一緒に!

水野雅士『シャーロック・ホームズの時間旅行』ドイルはパンのみにて生くるにあらず

 この本は、シャーロック・ホームズ物語をまだ読んだことがないか、あるいは子どものころ読んだことはあるがその後はひもといたことがないという方々を対象に、シャーロック・ホームズの世界のおもしろさと奥の深さを少しでも感じ取ってほしいという思いから書いたものである。
 作者のコナン・ドイルはみずからの本領は歴史小説にありと考えていたが、皮肉なことに生活のために書きはじめたシャーロック・ホームズ物語の成功によって作家としての地位が固まり、シャーロック・ホームズの創造者として名を残すことになった。いったいなぜこのようにドイル本人にとって不本意なことになってしまったのだろう。
 いろいろな見方はできるだろうが、一つには、ドイルが自分の本命と思って取り組んだ歴史小説には力が入りすぎたのではないだろうか。一篇の歴史小説を書くについても時代考証や関連資料の読破など、ドイルの事前準備は徹底したものだったらしい。その結果、作品は正確かつ精緻ではあっても、息の抜けない重苦しいものになってしまったのではないだろうか。
 それにひきかえシャーロック・ホームズ物語のほうは、ドイルがパンを得るための副業として書いたものであるから、自分の力量を世間に問おうなどと肩ひじを張る必要もなく、ただひたすら売れること、読者に受けることを考えて自由に書いた。しかし作家としてのプライドと技能まで捨てたわけではないから、そこにはストーリー・テラーとしてのドイルの天分が存分に発揮され、続々と傑作が生まれたのだろう。
 気楽に書いたのはいいが、困ったことに、このシャーロック・ホームズ物語はあちこちにつじつまの合わないところがある。それらの矛盾点がいまもなおシャーロッキアンのあいだで議論の種になっており、ああでもないこうでもないとシャーロッキアンを悩ませ、かつ楽しませている。ドイルは『花婿失跡事件』のなかでホームズに「リアリズムの効果を出すためには、ある程度の取捨選択が必要なんだ」といわせているが、壮大かつ精緻に組み立てられたドイルの歴史小説よりは、シャーロック・ホームズ物語のほうが、少々つじつまは合っていなくても、人生の真実をいきいきと捉えているのかもしれない。
 副業で書いたとはいいながら、博覧強記といわれたドイルの歴史、古典、『聖書』などに関する蘊蓄は物語の随所にきらめいている。彼のディレッタントぶりは主人公のホームズそのままである。その知的好奇心の広さには目を見張るものがあり、本書の第1部「シャーロッキアンの気ままな世界史漫歩」で取り上げたテーマにしても、ホームズ物語に出てくる歴史上の人物・事物のほんの一部にすぎない。たとえば歴史上の人物で、第1部のテーマとして取り上げたのは31人だが、ホームズ物語に登場または関係する歴史上の人物は全部で220人を下らない。
 いまや世の中は情報の洪水である。書物以外にも各種のメディアに取り囲まれており、とりつくシマが何かないと、情報の波にのまれてしまいそうな感じさえするが、シャーロック・ホームズ物語が世界を眺めるための一つの視点を与えてくれることは確かである。比較の基準になる物語の背景が19世紀末というのがまたいい。百年という単位の物差しで現在を眺めるということは、よきにつけあしきにつけ、現状の問題点と今後あるべき姿が、ホームズの虫眼鏡で見るように、かなりはっきりと見えてくる。
 ところで、シャーロッキアンの楽しみ方のなかに「ザ・ゲーム」という因果なお遊びがある。彼らが「聖典」と呼んでいる60篇からなるホームズ物語は、ドイルが40年間にわたって書きつづけてきたものだから、ドイルも人間である以上、なかには記憶違いや勘違い、あるいは誤植など印刷上のミスもないとはいえない。いや必ずあるはずである。にもかかわらず「ザ・ゲーム」のルールというのは、ホームズやワトソンなど登場人物をすべて実在の人物と信じて疑わないこと、物語相互間あるいは物語の記述と歴史的事実とのあいだに一見矛盾するようなところがあっても「聖典に誤謬なし」を原則とすること、そしてそこには何らかの合理的な理由があるはずと考え、これを追究することである。本書の第2部「シャーロック・ホームズのタイムマシン」はその矛盾追究の一例である。ご一読賜れば幸いである。(了)

許 光俊『オペラ大爆発!』クラシック音楽批評とは消費者運動である

 誰だってあるとき、「どうして私は勉強しなければならないのだろう?」「なぜ私はこの世にいるのだろう?」「自分は何なのだろう?」などという問いに、前触れもなく直撃されたことがあるはず。
 あまりにも根源的なそんな問いに、もちろん絶対確実な答えが存在するはずがない。人は自分なりにさまざまな答えを出したり、あるいは問いを忘れたりすることで、生きていく。答えが見つからなかったり、問いを忘れられない人間は、頭がおかしくなったり、自殺したり、哲学者になったりする。
 青弓社から発売されている私の音楽の本は、みな「クラシック音楽とは何なのだろう? オペラとは何なのだろう?」という根本的な問いから生まれた。この「何なのだろう?」という疑問が「オペラは1600年ごろイタリアで…」なんていう答えを期待していないのは、むろんのことだ。
 べつに、そんな問いをみずからに向けてみる必要なんて、さらさらない。ただ音楽やオペラを楽しんでみたいだけなら。実際、世界中の多くの人は、こんな問いに悩んだりはしていない。
 だが、幸か不幸か、私は音楽をたんに楽しむことができない。音楽の底によどんだ不気味な力が、私の感覚や頭をじくじくと刺激する。私はノー天気に音楽を聴いてヘラヘラしていられない性分なのだ。
 あるとき私は、ひじょうに切実に「クラシック音楽とは、オペラとは何なのか」を知りたいと思った。それまでずっとクラシック音楽やオペラを聴いてきて、そんな問いが頭に浮かんだことがなかったのに。この問いに遭遇してみると、これこそは「誰それの演奏がすばらしい」だの「この曲はこういう状況で作曲された」だの「今度何々というフェスティヴァルが始まる」なんていう些末な情報よりも、はるかに大切なことに思えた。
 残念ながら、こうした問いに一生懸命答えようとする本はほとんど見つからなかった。見つかっても、その内容に私は納得できなかった。そういうわけで、私は、いま試行錯誤しているのである。といっても、この試行錯誤は、けっして百パーセントしんどい仕事ではない。その途中に楽しい発見もあれば、人間との出会いもある。そういうわけで、私は大まじめに、しかし楽しく、本を作っているのである。
 私が「クラシック音楽とは何なのか」という問いを抱えてしまった理由のひとつは、私が必ずしも高確率でコンサートやCDに満足できなかったことだ。「どうして、みんなはこんな演奏で喜んでいるのだろう?」「評論家は本当はわかっていないのでは?」という疑いが強くなった。そうして、私自身が評論なんぞも書く身になってみると、クラシック音楽業界というのは、とてつもなくレベルの低い世界なのだということがわかった。
 録音技師は、作品のことをよく知らないし、コンサートにろくに行かない。評論家は、来日公演の限られた演奏だけで演奏家の評価をしている。雑誌は、メーカーやマネージメント会社と共犯関係にあって、都合のいい記事ばかり載せている。みんな、なあなあで仕事している。本当にあきれ果ててしまうようなひどさだ。要するに、誰も聴き手のことなど考えていないのだ。お金を払ってくれる聴衆がいなければ、クラシック音楽もオペラも存続できないはずなのに。
 この現代社会のなかで、さまざまな隠蔽や嘘はあるにしても、商品は批評の対象となる運命にある。なかには、一部の自動車評論家だとか、雑誌だとか、相当厳しく商品を評価している人たちもいる。なのに、商品としてのクラシック音楽やオペラを正直に評価しようとする人はごく限られる。そういう点では、私がやっていることは、一種の消費者運動なのである。たぶん、メーカーの人などは私のことをよく思っていないだろうが、人からお金を取る以上、否定的な評価を受ける可能性があるのは当たり前のことだ。それがイヤなら、すべてタダにしてごらんなさい。演奏家も何も、みんなボランティアになりなさい。いいや、それ以上に、人を納得させるだけの音楽を提供してみなさい。
 イヤなことに、すべてが、ただおのれが存続するためにだけ働いているように見える。けれども、すべては存続しなければならないのか? そんなことはない。クラシック音楽やオペラというジャンルそのものでさえ、無理に生かす必要はない。そう考えたとき、逆に、音楽の貴重さ、ありがたさがいっそう輝くのである。(了)