長いあいだ魅せられ続けて、一冊に――『風俗絵師・光琳――国宝「松浦屏風」の作者像を探る』を書いて

小田茂一

 制作時期も作者も不詳の六曲一双の作品『松浦屏風(婦女遊楽図屏風)』(国宝。大和文華館蔵)の画面には、遊女や禿など18人が、何人かずつのグループを構成しながら描かれています。筆者はこの『松浦屏風』に半世紀近くにわたって関心をもち続けてきました。『松浦屏風』が展示される季節には、時折、奈良の大和文華館へと足を運びました。そしてこれとあわせて、尾形光琳作品を鑑賞することを通じて、今回の著作の枠組みを形成している仮説の一つずつが時間をかけて積み重なってきたと言えます。一双の屏風に展開されている多様な意匠を、光琳との関連で解き明かせるのではと考察したのが、本書のベースとなる内容です。
『松浦屏風』の遊女たちの面立ちや手指の表情などは、同じ大和文華館所蔵の光琳作品『中村内蔵助像』(1704年)の、内蔵助の顔貌や指先の繊細な表現法に似通った描き方になっているように感じられました。そしてまた、一双の画面に何株ずつかの燕子花が組み合わされ、繰り広げられている光琳作品『燕子花図屏風』(根津美術館蔵)とも、『松浦屏風』は近似的な画面構成であるように見えていました。『燕子花図屏風』に描かれる燕子花の配列パターンは、金箔地に人物群を並置した『松浦屏風』の画面では、華やかな小袖をまとった遊女たちへと姿を変え、画面に強いメリハリをもたらしているように思われます。『松浦屏風』もまた、『燕子花図屏風』と一対になる作品として尾形光琳によって構想され、18世紀初頭前後の元禄期に相次いで描かれたのではないかと推察するに至りました。本書に記したそれぞれの仮説は、何かの拍子にふと感じ取った一つずつのイメージの積み重ねがベースになっています。
 晩年の光琳が画房を兼ねて京の街なかに建造した大きくゆったりとした住まいが、熱海のMOA美術館の敷地内に復元されています。これを見るとき、光琳がひとりの「風俗絵師」として、かなりの成功を収めていたことが感じ取れます。この住居の2階には、広い画室が設えられています。
『松浦屏風』と光琳の連関をたどっていく過程で最もヒントがほしかったのは、作品の制作時期についての絞り込みでした。作品が描かれたのは18世紀初頭前後の元禄期ではないかという推定の根拠は、『松浦屏風』の画面のなかにありました。作者はカルタをめぐって、粋な趣向を凝らしていたのです。本書では、このことが最後に気づいた事柄でした。画面に描かれているカルタは「天正カルタ」ですが、この「天正カルタ」に「三つ巴」マークが追加されることで「うんすんカルタ」へと変遷しました。そして作者は、「うんすんカルタ」に新たに加えられたのと同じ「三つ巴」を、カルタに興じる遊女がまとう打掛図柄に反復文様として描出しているのです。このことは『松浦屏風』の作者が、カルタのこの大きな変化に着目しながら、カルタに興じている人物の衣裳図柄として適用するアイデアを構想したものと推察しました。この事実は、作品が描かれたであろう時期を限定してくれると考えます。
 本書では、カルタをはじめ、江戸時代の「風俗」的事象についての把握が、論を進めるうえでの大きな要素になっています。しかし筆者にとっては、十分な理解を持ち合わせていない分野です。また「風俗」は、いわば生活文化を具現化したものといえ、大衆の営為でもあるがために、各時期のキーとなる情報や記録は、それほど多くは残されていません。しかし、風俗を反映させながら描かれているこの『松浦屏風』を解明していくにあたって、たとえば衣服や髪形の流行とその変遷、遊里の日常のありようなどへの知見は、描かれた時期と作者像をイメージするうえで多いに越したことはないと考えます。このような事情もまた、これまで『松浦屏風』について十分な議論がおこなわれてこなかったことにもつながっていると感じています。
『松浦屏風』の描写内容と光琳芸術とのつながりを積み重ねていく取り組みを続けているあいだに、世のなかのデジタル化は急速な進歩をとげました。一枚の画面に面差しが似た人物が繰り返し登場する『松浦屏風』の「異時同図」としてのありようや、尾形光琳作品との顔貌などの近似性といった事項の検証は、たとえば「顔認識システム」を援用しながら、より精緻にできるかもしれないとも感じています。IT利用による比較方法などについては意識しながらも、今回は触れることがありませんでした。本書での検証内容は、あくまで肉眼での見え方による評価に基づいたものなのですが、デジタル技術を用いた図像解析なども、今後の研究を進めるうえでの課題のひとつかもしれないと考えています。

 

棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある――『犬像をたずね歩く――あんな犬、こんな犬32話』を出版して

青柳健二

「青柳さんには、棚田の写真も犬像の写真も同じようなものなんですかねぇ?」
 ある新聞社から犬像の取材を受けたとき、記者からそう聞かれて、私はハッとしました。
 実は数年前、犬像の写真を撮るようになったとき、私の写真を見てくれていた人からは「犬像?」とけげんな顔をされたのです。それまで撮っていた棚田の風景写真と犬像の写真では、被写体として大きく違っていたからでした。
 ある雑誌に企画を持ち込んだとき、担当者が「犬像」の意味がわからないようだったので、「渋谷駅前にありますよね、忠犬ハチ公の像が。あんな感じの犬の像なんですが、全国にたくさんあるんです」と説明してようやくわかってもらえたのですが、しかし今度は、あからさまに、犬の像なんか写真に撮る価値があるのか?、それのどこがおもしろいんだ?というふうに感じているようでした。なので、企画は当然ながら没でした。
 それまで普通にあったもののなかに新しい価値を見いだすのが写真家の仕事だと思っていますが、その端くれでもある私は、他人にその新しい価値を知ってもらうのは難しいこともわかっています。
 実際、棚田を撮り始めたときも同じだったのです。いまでこそ、棚田という言葉も市民権を得てすぐわかってもらえますが、1995年頃は、棚田なんて10年もすれば全部なくなってしまう過去の遺物くらいに思われていたし、「棚田って何ですか?」と同じように聞き返されていた時代もあったのです。
 でも私のなかでは、棚田にも犬像にも、何か共通するものがあるとうすうすは気がついてはいました。それが言葉にならなかったのですが、他人に指摘されて、その思いは確信に変わりました。
 棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある、ということなのです。棚田の場合、その土地の歴史や地形が、雲形定規のような棚田の形を決めているといってもいいでしょう。犬像も、その土地と切り離せない物語をもっています。犬像が「そこ」にある意味が私には大切なのです。
 私は、その土地がもつ物語を探して歩くのが好きなようです。全国各地に点在する物語を探して、それをまとめるという作業は、棚田も犬像も同じかなと。
 ある犬像は、街のキャラクターになったところもあります。たとえば、静岡県磐田市のしっぺい太郎の物語から、ゆるキャラ・しっぺいが、奈良県王寺町の聖徳太子の愛犬・雪丸の物語からは、ゆるキャラ・雪丸が誕生しています。その土地独特の犬たちが、現代にゆるキャラとしてよみがえっているのです。何もないところから作り出されたフィクションの犬ではありません。もちろん誕生当時はフィクションの犬もあったかもしれませんが、それが何百年もの歳月をかけて、その土地の歴史に組み込まれています。
 だから、どこにあってもいい犬像(土地とのつながりがない犬像)には、あまり興味がわきません。今回の書籍での私なりの「犬像」の定義からは外れるからです。例えば、あの携帯電話会社の白い「お父さん犬」の像ですね。その土地に根差した物語がないからです(そもそも、これはコマーシャルなのですが。もちろん、「お父さん犬」も何百年かたてば歴史になるかもしれませんが)。
 だから犬像は棚田と同じように、町おこしに結び付きます。土地独特の魅力を、棚田や犬像が代表していると言ってもいいかもしれません。実際、「しっぺい」も「雪丸」も、町おこしに一役買っています。
 ところで、人の顔の判別には「平均顔」説というのがあります。例えば、日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判別しているということです。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。
 海外旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は私にもあるので、この説は説得力があります。
 多くの犬像を見て回ることで、その犬像の「平均顔」がわかってきます。そのとき、個々の犬像の全体における位置というのが客観的に見えてきます。今回の著書で、13章のカテゴリーに分けたのも、それが理由です。平均値がわかれば、個々の犬像の意味というか、性格もわかるということなのです。
 読者のみなさんには、本書を持って犬(忠犬・名犬)にゆかりがある場所をたずねる「聖地巡礼」をしてみてはいかが?、と提案します。
 多くを回ることで、先に言ったように、犬像の平均値がわかり、個々の犬像についてもより客観視できるようになるだろうし、こんなにもいろんな意味をもっている犬像があるのか、こんなにもバリエーション豊かな犬像の物語があるのかと、驚くことがたくさんあると思います。そこから、犬と人間の関係、もっと言えば、動物や自然との関係なども見えてくるのではないでしょうか。

 

構想20年……――『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』を書いて

古川岳志

 初めての著書『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』が出版され約4カ月がたちました。競輪の歴史を、競輪を取り巻く日本社会の変化と結び付けながら読み解く内容です。同じ公営ギャンブルの競馬と比べて、競輪は文化として語られることがきわめて少なく、本書は関係者以外が書いたものとしては初めての「競輪史」本になりました。そんな珍しさも手伝ってメディアで紹介いただく機会にも恵まれました(「日経新聞」2018年2月22日付夕刊「目利きが選ぶ3冊」、「西日本新聞」2018年3月4日付「書評」、「日刊スポーツ」〔西日本版〕2018年3月28日付「コラム」、「スポーツ報知」web2018年3月28日「スポーツを読む」)。読んでくださった方からは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通して多くの好意的な感想をいただきましたし、ブログでとても丁寧な紹介記事を書いてくださった方もいます。また、自転車競技オリンピック元日本代表の長義和さん(本書第5章に登場します)は、ご自身のブログに長文の感想を書いてくださいました。たいへん興味深い内容です。みなさんにもぜひお読みいただきたいです。
 本書の「あとがき」にも書きましたが、本書の原型は社会学の博士論文です。出版形式としては一般書ですが、学術書としての質も一定程度保ったものにしたいと考えました。とはいえ類書がないため、競輪世界への案内書・概説書としても読まれるだろうことも意識しました。現状では残念ながら競輪はマイナーです。「競輪って何だろう」と本書を手に取った読者に、まずは競輪を知って関心をもってもらわなければ、始まりません。競輪を知らない人にも、わかりやすく、かつ、競輪の魅力も伝わるように書きながら、研究書としてのオリジナルな考察も盛り込む、という、欲張りな目標を掲げて執筆しました。あらためて読み直してみて、また、読者のみなさんの感想を聞いて、ある程度は目標に到達できたのではないかと甘めの自己採点をしていますが、いかがでしょうか。

 私が競輪の研究を始めたのは、大阪大学大学院人間科学研究科の修士課程在学時でした。所属していたのは社会学系のコミュニケーション論(当時の名称)研究室で、最初は井上俊先生が、先生が京都大学に転任されて以降は伊藤公雄先生が指導教官になりました。当時、日本スポーツ社会学会ができたばかりの頃でした。井上先生は初代会長でしたし、伊藤先生も会長をされたことがあります。テーマも未定のまま大学院に進学したのですが、先生方の影響もあってスポーツをテーマにするのも面白そうだなと思うようになりました。そこで注目したのが競輪でした。競輪との出合いについては、本書第1章に詳しく書きましたので読んでいただきたいのですが、別の言い方で付け加えておくと、競輪の境界的な性格に研究テーマとしての面白さを感じたのです。競技内容はスポーツなのに、社会的にスポーツ視されていない、という点。戦後以来、大規模におこなわれてきて日本オリジナルな要素があるユニークな競技なのに、そのわりに人々に認知されていない、という点。スポーツとは何か、スポーツと社会の関係は――そんなことを考えるのに格好の競技だと思いました。何と言っても、競技自体、競輪場という場所自体、とても魅力的なものに自分には見えました。
 1990年代中頃のことです。競輪から生まれた「ケイリン」がオリンピック種目として採用され、メディアで取り上げられる機会が増えた時期でもありました。それもあって、自分の目に競輪が入ってきたのだと思います。競輪の歴史を「スポーツの近代化」の過程と重ね合わせて読み解くという修士論文を書き、「スポーツ社会学研究」にも論文を発表しました。おそらく、競輪を真正面から取り上げた初めての学術論文だったはずです。自分としては、それなりに面白く書けたように思いました。しばらくして「「青弓社ライブラリー」の一冊として出版しませんか」と声がかかりました。この「原稿の余白に」で他のみなさんも書いているように「青弓社ライブラリー」は挑戦的なテーマの社会学本を次々に刊行して注目を集めており、若手研究者にとって願ってもないうれしいお話でした。数年で刊行するという約束で、喜んで引き受けました。

 それから、このたびの刊行にこぎ着けるまで、なんと20年という長い時間がかかってしまったわけです。こう書くと、まるでコツコツと積み上げた地道な研究がようやく実を結んだ、というように聞こえるかもしれませんが、実情はそんな格好のいいものではありませんでした。気楽にOKの返事したものの、いざ、取りかかってみると、まったく先に進めることができなかったのです。それでも何とか書こうとする、すぐに壁にぶつかる、手が止まる、逃避する、自己嫌悪に陥る、何とかしようと再開するも、また同じことを繰り返す、さらに自分が嫌になる、という悪循環に陥りました。最初に指定された締め切りはすぐにやってきましたが、ほぼ白紙でした。その後、締め切りを何度も延長してもらいました。そのたびに、あれこれ理由をつけて謝りのメールを送っていましたが、やがて編集部からの問い合わせに返事もできなくなってしまいました。20年間の大半は「書かなきゃ」と思うだけで、何もできないという状況だったのです。
 本当の「あとがき」にも、また本稿でも「書けなかった言い訳」をあれこれ並べてはいますが、何と言っても、私の努力不足、忍耐力不足、怠惰な生活態度がいちばんの原因です。粘り強く、少しずつでも地道に取り組んでいたら、遅くとも10年前くらいには何とか形にできてはいたでしょう。若い頃にいただいたチャンスをすぐに生かせなかったことは、自分の人生にとって大きなつまずきでした。30代という、どんな職業の人にとっても最も充実しているであろう時期を、逃避的に、しかし内面では原稿が書けなかった挫折感を抱えて悶々と過ごすことになってしまいました。お恥ずかしい話です。そんな日々のことを、本が出版された後に、このように振り返って書けていること自体、なかなか感慨深いものがあります。
 この課題にもう一度向き合おうと思い直したのは、いまから3年くらい前でした。比較的待遇がよかった任期付きの仕事が終わり、非常勤講師で食いつなぐフリーター研究者に戻っていました。年齢的に人生の折り返し点はとうに過ぎ、将来の展望も何もないという状態でした。そんな状況でも、なるようになるさと悲壮感は抱かないようにしてはいましたが、現実的な話として数年後には研究と関係がないアルバイトもしなければ食べられないようになることが見えてきました。現状では、非常勤先の大学図書館を利用できたり、夏休みなどに自由時間がある程度確保できてはいます。いまの環境で無理なら、一生、本なんて書き上げられないだろう。ここは一つ、気合いの入れ時ではないか。競輪のほうでも、ガールズケイリンの復活や日韓戦の誕生など、展望がある書き方ができる状況が生まれていました。それも後押しとなり、もう一度出版に挑戦してみようと決意したのです。

 こちらから不義理をした青弓社との10何年も前の約束が、まだ生きているとはさすがに思いませんでしたが、他社にあたるよりもまず、最初に声をかけてくれた同社に、もう一度お願いするのがスジだろうと考えました。とはいえ、一度失敗している以上、企画書を作り直してもちかけたところで信用度ゼロです。やはりある程度原稿をそろえてから、あらためて相談するしかないだろう。ということで、原稿を先に書き上げることにしました。約1年後、400字詰め原稿用紙換算で700枚分くらいの草稿ができあがりました。細かいことは気にしないようにして、もっている材料を、頭のなかにあるアイデアを、全部吐き出してしまうつもりで書き進めました。それまで全然書けなかったことがまるでウソみたい、とまでは言いませんが、自分としてはかなりスムーズに筆が進み、ちょっと不思議なくらいでした。 
 草稿が完成し、いよいよ青弓社に連絡することになりました。大阪大学で実施していた共同研究プロジェクト(GCOE)で知り合った宗教学研究者の永岡崇さん(『新宗教と総力戦』〔名古屋大学出版会、2015年〕の著者)のアドバイスで、宗教学・民俗学の川村邦光先生に仲介のお願いをすることにしました。私は社会学が専門なので、競輪的にいうと「別ライン」なのですが、先生中心の飲み会によく参加させてもらったり、何かとお世話になっていました。先生は、青弓社でデビューし(『幻視する近代空間』1997年)、その後も多くの編著書を青弓社から出しています。事情をお話すると二つ返事で引き受けてくださり、私が渡した草稿、企画書、経緯説明文に、推薦文を添えて編集部に送ってくださいました。
 青弓社から、すぐに好感触の返信がありました。矢野未知生さんとお会いすることになり、晴れて出版に向けて再び動き出すことになりました。矢野さん曰く、内容は面白いが、いかんせん長すぎる、とのことでしたので、200枚分くらい圧縮することになりました。あらためて、約半年後に締め切りが設定され、書き直しにかかりました。若干の遅れはありましたが、だいたい予定どおり脱稿できました。カットした部分には、坂口安吾事件に関することや、旧女子競輪のより詳しい歴史、田中誠『ギャンブルレーサー』(講談社、1988―2006年)以外の競輪マンガ紹介などを書いていましたが、それらについてはまたの機会にふれたいと思います。
 そんなこんなで、なんとか刊行にまでたどり着きました。人生の重い宿題になってしまっていた仕事を、それなりに満足できる形で片づけることができて、心からホッとしています。一時期は、自分にはもう書けないものだと諦めていたものですから、何となく夢のような気もします。そして、こうして本になったものを手に取って見ていると、何でもっと早く書かなかったのか、もっと早く書けていれば人生違ったかもしれないのに、という後悔の念がやはり湧いてきます。その一方で、自分の能力ではこれくらいかかっても仕方なかったのかもなぁ、と感じたりもしています。

 本を書くにあたって、気になっていたことはいろいろありますが、なかでも大きな心理的ストッパーになっていたのは、はたして競輪ファンが納得するようなものが書けるだろうか、という不安でした。競輪は、広い意味でポピュラーカルチャーの一つです。ファンがいます。ファンはもちろん多種多様で、楽しみ方や思い入れも、人それぞれではあるでしょう。ですから、どんなファンにも受け入れられるような書き方など無理に決まっていますが、少なくとも好意的に読んでくれた競輪ファンに、こいつは何もわかっていないな、と思われるような書き方だけはしたくないと思っていました。
 私は、思い入れがあるジャンルに関する本が出るとぜひ読んでみたいなと思う一方で、警戒心のようなものも抱く性分です。「ロクにわかってないやつが、ナニ学だか何だか知らないが、自分の業績にするためのネタ探しにやってきて、ファンなら誰でも知っているようなことを書き並べ、コケオドシの専門用語で分析してみせているだけの本じゃないのか?」――そのような疑念をまずはもってしまうのです。取り立てて関心がない世界についての本なら、へぇ、そうなのね、と素直に読めますが、自分にとって大事なもの、に関しては、どうしてもそうなります。自分には「全然わかってない!」と感じられる記述が、そんなものだと世間に受け入れられ、そんな本の書き手が、その世界を知る代表者のような顔をして語ったりしているのを見るのはたいへん不愉快です。ああ、なんて器の小さな人間なんだろう、とわれながらあきれますが、観察し、分析し、記述するという行為には、書かれる側にとって、少なからず暴力的な側面があるものなのです。
 出版の話をもらったのは、競輪というテーマが珍しいものだったからなのは間違いありません。類書がない以上、一般の方への競輪イメージ形成に、よくも悪くも一定の影響を与えることになるはずです。書くことの暴力性から、完全に逃れることはできません。だとしたら、せめて競輪の魅力について、そして競輪そのものについて、ちゃんとわかったうえで書いている本だな、とファンの多くに感じてもらえるように書きたい、と強く思いました。
 そのうえで、競輪に詳しいファンが読んでも新しい知見が得られるような、自分の好きな文化について違った角度から見る楽しみを与えられるような、そういう本にしなければならない、とも考えました。競輪を知らない一般読者を意識して書いたとしても、実際のところ、最初に手に取ってくれるのは競輪ファンですから。
 このように、いろいろ自分に縛りをかけていました。書きあぐねていた頃の自分には、そんな書き方ができる自信がほとんどありませんでした。若いうちに書くモノなんて未熟なものに決まっているのだから、エイヤッと形にして、批判を受け止める覚悟をもつべきだったな、といまとなっては思います。自分で自分の首をしめて何も書かないより、下手でも何でも書いてみたらいいじゃないか、そのほうがずっとましだよ、と若い頃の自分にアドバイスしてやりたいくらいです。私には、評価にさらされる勇気が不足していました。もっとも、こんなふうな理屈をつけて、手がかかる仕事から逃避する言い訳を探していただけかもしれませんが。

 今回、実際に執筆するにあたって採用した方法・方針は本書の「あとがき」に記述しています。外部からの観察者であり、かつ競輪ファンでもある、という自分自身の視線の偏りを自覚しながら、資料に基づき客観的に競輪と社会の関わりをひもといていくことをめざす、というきわめてオーソドックスなものです。章ごとに、都市文化やスポーツの近代化、ジェンダーやナショナリズムなど、社会学的なテーマ設定をして記述しています。そして、競輪運営団体や選手、スポーツ新聞記者など、利害関係者が書くなら避けて通るかもしれない事象についても、ある程度踏み込んで記述しています。それによって、競輪界の「中の人」からは見えない、競輪の社会性のようなものを浮かび上がらせられるのではないか、と考えてのことです。
 しかし、執筆方針が明確になったのは、書き進んでいくなかでのことでした。「あとがき」は、実際に原稿ができあがった「あと」で書きました。方向性が確定したから書けるようになった、というわけではないのです。では、どうして、以前はまったく書けなかったものが、何とか書けるようになったのか。状況的に追い詰められて、こだわっていられなくなった、とか、いろいろ要因はあるでしょうが、決定的なのは、私が競輪を見始めて20年という時間が経過した、ということだと思います。何とも当たり前の話ですが、20年前より、私は、競輪に詳しくなりました。そして、競輪に対する思いも深まりました。
 最初の締め切りの頃に書き上げていたら、おそらくもっと内容的に薄っぺらいものになっていたと思います。いかにも「研究者が調べて書きました」というような。今回できあがった本も、研究者が調べて書いたものにはちがいないのですが、もう少し地に足がついた感じで書けているように自分では思います。詳しくなった、と言っても、いまでも当然わからないことだらけです。SNSなどを通じて熱心なファンの方々を知るようになると、自分より詳しい人など星の数ほどいるなぁと痛感しています。車券も全然当りませんし(これは別の話ですが……)。それでもしかし、20年たって、自分なりの見方で書いても、ファンの多くの人に納得してもらえるだろう、という、何となくの自信をもてるようになったのです。
 ときどき、無性に競輪場に行きたくなります。楽しいから、面白いからであるのはもちろんですが、競輪場という空間に身を置いていたいという気持ちが、まずあるように思います。競輪場にはいろんな人がいます。自分の力で賞金をもぎ取って生きる選手たちを、自由で飾らないファンたちが取り囲んでいます。競輪場には、どんな人間でも受け入れてくれる寛容さがあり、かつ、お互いの金を取り合う場所らしい、一定の距離感もあります。あくまでも私の場合は、という話ですが、人生があまりうまくいっていないときにこそいきたくなるような場所でもあります。
 私が初めて足を運んだ競輪場は、阪急ブレーブスの本拠地、西宮球場の仮設バンクで開催されていた西宮競輪場でしたが、2002年に廃止されました。同時になくなった甲子園競輪場とともに、私のホームバンクでした。いまではこの世に存在しない、これらの競輪場が懐かしくてたまらなくなることがあります。楽しい思い出がつまった場所、というより、どちらかというと、クサクサした思いを抱いて帰ってくることが多い場所でした。それでも、何とも懐かしいのです。
 競輪は(その他公営ギャンブルとともに)、健全な娯楽ではないかもしれません。それでも、足しげく通っている人には、それぞれの思いがあるはずです。それを踏みにじらないような本を書きたいと思いました。私が、もっと有能な社会学者なら、インタビューやアンケートなど、いろんな手法を使ってそれをあぶり出す、ということができたかもしれませんが、自分には無理でした。そして、あまり積極的になれませんでした。ファンの気持ちを理解したいと思いながら、調査はしたくない、なんて考えていたら、そりゃ書けなくて当然です。しかし、20年という期間、ときに競輪場に足を運び、ファンと同じ空間の空気を吸い、レースを見て、車券を買って損をして、を繰り返していくうちに、自分の感覚で「ファン目線」を描いても、そんなにずれていないだろう、と感じるまでには「調査」が進んだのだと思います。あまり、調査とか、フィールドワークなどという大げさな言葉は使いたくないですが。実際は、車券を買って、レースを見て、遊んでいただけですから(これらの調査はすべて、当然ながら自費でやっています。念のため)。
 最初に西宮競輪場の雑踏に紛れ込んだときの自分は、まわりから見たら「大学で論文を書くためにきた若者」感、丸出しの姿だったでしょう。いまでも、観察してやろうといういやらしい視線を自分がもっていることは否定できないですが、まずまずあの空間になじむようになってきたと思います。つるつるした顔で、きょろきょろまわりを気にしながらレースを見ていた兄ちゃんも、最近では予想紙の小さい文字を読むのにメガネをはずして、遠ざけて見ないとつらいようになりましたし……。競輪ファンの高齢化は進んでいて、競輪場では、自分でもまだまだ若手だったりもするのですが。ともあれ競輪が、私の人生の大きな部分をしめるものになっているのは間違いありません。
 単著「デビュー作」の「あとがきのあとがき」にしては、何ともパッとしない話をしていますが、このような感じで、心を込めて書いた作品です。まだお読みでない方は、ぜひぜひ、ご一読くださいますようお願いいたします。

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 長くなりましたが、あと2点だけ書きます。1つは、本書の「あとがき」には書けなかった選手のみなさんへの感謝です。特に、元選手の後閑信一さんには、お礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。直接取材させてもらったわけではありません。ですが、後閑さんが吉岡稔真さんとの対談(電投会員向け広報誌「Winning Run」2015年12月号)で語られた言葉によって、本書のサブタイトルにした「働く者のスポーツ」というテーマは、より明確になったと感じています。「競輪選手は肉体労働者だ、職人だ、そう思って頑張ってきた」。後閑さんは対談でこう語っていました。ファンのみなさんは、後閑選手らしい言葉だなと受け止めたと思います。私もそうでした。そして、この言葉によって、本書は完成させられるなと感じました。
「働く者のスポーツ」は、競輪創設者の倉茂貞助が、競輪の実現に向けて動いていたときに作った文書内の文言です。そんな競輪誕生に関わるキーワードが、70年の時を超え、現代のトップ選手の言葉とリンクして見えてきました。もともと「プロスポーツとしての競輪」については考えていたのですが、「働く者」「肉体労働」という言葉を使うほうが、よりリアルに「社会のなかの競輪」を捉えられると思いました。「選手には肉体労働の側面がある」と、私のような観察者が他人事として書くのと、選手本人が自分の信念を表す言葉として言うのとでは、重みがまったく違います。お礼を言われてもご本人は困ると思いますが、後閑さん、本当にありがとうございました。
 ファンのみなさんはご存じのとおり、後閑さんがトップクラスの実力を保持したまま現役引退を宣言したのは、2017年の年末でした。本書の原稿完成の後でしたので、校正のときに慌てて「元選手」に修正しました。一部、「後閑選手」という記述が残っているのは、その名残です。ちなみに、後閑さんは1970年生まれで、私と同い年です。自分が原稿を書けずに緩い生活を送っている間にも、厳しいトレーニングを続けトップクラスを維持してこられたのだと思うと、頭が下がります。競輪選手には長く活躍する選手も多く、20年前、私が競輪を見始めた頃に走っていた選手で、いまでも現役の方もかなりいます。なかには、後閑選手のようにずっとS級を維持してきたという方も。
 劇作家の寺山修司は、競馬に関するエッセーで、ファンが馬券を買うのは自分自身を買うことだと表現していました。若い頃から努力して先頭を突っ走ってきた人は先行馬に、大器晩成を期する人は追い込み馬に自分の願いを込めるのだ、というように。競輪の車券購入にも同じような側面はあるでしょう。ただ、馬と違い相手は生身の人間です。競輪選手たちからは、競走馬よりはもっと生々しいメッセージが送られてきているように思います。「こっちは、自分の生き方を、さらして見せているけど、そっちはどうなんだ?」。選手は、客のヤジに言葉で反応することは禁じられていますから、あくまでも無言のメッセージです。同世代の選手がバンクで戦う姿を見て「自分はいったい何をやっているんだろう」と情けない気持ちになったことが、私には何度もありました。そして、ベタな表現で恥ずかしいですが、自分もがんばろう、という気持ちになったことも。
 後閑さんとは面識はありませんが、直接、話を聞かせてもらった選手もいます。ただ本書の「あとがき」の謝辞では、選手の個人名をあげるのを控えました。もしかしたら、ご迷惑をおかけするかもと心配したからです。
 私としては、誠意を込めて、競輪を応援する気持ちをベースに本書を書きました。微力ながら、競輪の認知度を高めることに貢献したいとも願っています(実際に、競輪を知らなかったという読者から、競輪に関心をもつようになったという感想もいただいています)。ですが、本書の記述内容は、運営組織が広報したい競輪像からは若干はずれたものになってはいます。それでなくては社会学者の私が書く意味がありませんから、それは当然だと思いますが、そのため、関係者からするとちょっとさわりにくい本なのかもしれないな、とも感じています。多くの方が仕事として関わる世界ですから、受け取り方は立場によってさまざまなのは当然です。
 一ファンとしての私は、JKAを代表とする運営組織の現状や広報戦術について、いろいろ思うところがあります。こうしたら、ああしたら、と、「twitter」などで「文句」を言うこともあります。しかし、本書は、そのような短期的な問題意識からではなく、もっと広い視点に立って書いたものです。競輪PRにとって一見否定的に映る事例についても、競輪という文化を読み解くために必要だと判断したことしか扱っていません。ジャーナリズム的な視点からは読者を引き付ける要素になりそうなことであっても、本書の目的とは関係ないと判断しふれていない事象も多くあります。読んでいただいた人には蛇足だと思われますが、念のためその点を明確にしておきたいと思います。
 本書の「あとがき」に書いたように、本書はファンの視点、観客席側から得られる情報だけで構成しています。次の本を出すチャンスがあれば、選手の視点にもっと踏み込んで書いてみたいと思います。バンクのなかからはどんな景色が見えるのか。教えてやってもいいという選手(現役、OB含め)がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただければうれしいです。くしくも、今年は競輪誕生70周年にあたります。結果的に、アニバーサリーイヤーでの刊行となりました。未来に向けて、競輪の歴史を振り返る機会として、本書は『競輪70年史』が出るまでのつなぎの役割くらいは果たせるのではないかと考えています。関係者のみさんからの感想やご批判も、ぜひお聞かせいただきたいと願っています(編集部をとおしてでも構いませんし、「facebook」には本名で登録していますのでそちらでも大丈夫です。お気軽にご意見をお寄せください)。
 
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 最後に、刊行後に気づいた点、ちょっとした後悔について書いておきます。これから本を出される方の参考までに。
 20年前、最初に出版のお誘いを受けたのは、社会学選書シリーズ「青弓社ライブラリー」の企画だったのは既述のとおりです。このたび、再挑戦となった折にも、「青弓社ライブラリー」として出すかどうかという選択がありました。「青弓社ライブラリー」に入れるには、分量的にもっと削る必要があるとのことでした。カバーデザインも含め、通常単行本形式のほうが自由度が高く、広い読者に届くかもしれない、ということでこのスタイルを選びました。本の完成度を高める意味では正しい選択でした。ただ、読者層は、「青弓社ライブラリー」の一冊だったほうが広がったかもしれないなとも感じています。
 本が出てすぐ、大阪梅田の紀伊國屋書店に足を運びました。いつも立ち寄る社会学関係棚には1冊もなく、あったのは「趣味/実用書」コーナーの「ギャンブル」棚の片隅でした。「競輪」と書いた仕切り板に挟まれていた数冊の予想ハウツー本の間に、ひっそりと(これは主観ですが)置かれていました。『競輪文化』が競輪の棚にあるのは、至極当然なのですが、正直ガッカリしました。これでは、競輪を知らない人に、偶然手に取ってもらう可能性はゼロに近いなと思ったからです。趣味を深めるという意味では「役に立つ」本だと自負していますが、一般的な意味での実用書ではありませんし。
 ネット書店とは違う、リアル本屋さんのメディアとしての魅力は、何げなく立ち読みに来たようなお客さんと、未知の本とをつなげる点にあると思います。「青弓社ライブラリー」で出していたら、社会学の棚にも置かれたでしょう。青弓社から同時期に出た、笹生心太さんの『ボウリングの社会学』や、話題作になっている倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー』の近くに置いてもらえていたら、どこかで意外な出合いがあったかもしれません。20年前に話をいただいたときの書名案は『競輪の社会学』でした。何となく、競輪ファンに誤解を与えるんじゃないかという懸念もあって(うまく理由が説明できないのですが)、今回は社会学を書名に入れない方向でいこう、と考えていました。不要なこだわりだったような気もします。内容に照らして、現在のタイトルと副題は、適切なものですし、シンプルでわかりやすくなったと思っていますが、書名に「社会学」が一言入っていれば、そちらにも置かれただろうことを考えると、ちょっともったいない選択だったかもしれません。まぁ、「小手先」の話ではありますが。
 本書は、社会学、スポーツとしての自転車(「乗る自転車」ブームで紀伊國屋書店にもかなりの点数の本が並んでいました)、ノンフィクション、戦後史、サブカルチャー、などの棚と親和性の高い内容だと思います。もし、書店関係者でごらんになっている方がいらっしゃいましたら、いまからでも、ご一考くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 
 大学院時代の指導教官の伊藤公雄先生は、本を出すなら10年は読めるものを書くべきだ、と言っておられました。ちなみに、伊藤先生のデビュー作も青弓社でした(『光の帝国/迷宮の革命』1993年)。本書をそこまで長生きさせられる自信はありませんが、東京オリンピックに向けて競輪、自転車、スポーツ界でいろいろ動きがありますし、スポーツをめぐる社会問題が話題になることも続いています。また、カジノをめぐっていろんな議論もなされていますので、まだしばらくは、本書で考察したことの社会的な需要はあると思います。
 さらなる出合いを期待して、長い「言い訳」を終わります。

 

博士論文を出版する――『ボウリングの社会学――〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』を書いて

笹生心太

 本書は、自身の博士論文の内容を大幅に加筆・修正したものである。その内容は、本書の第2章、第3章に相当し、1960年代半ばから70年代初頭のボウリングブームを主題としている。
 博士論文を提出したのが2015年3月末のことで、本書の出版が17年12月末のことである。この2年9カ月の間に何があったのかについて、少し話をしたい。本書の「舞台裏」として楽しんでいただくほか、一般書(ないし平易な学術書)の出版を考えておられる若い研究者の方々の参考になれば幸いである。

 2015年7月、博士論文が電子公開された。電子公開とは、博士論文の全文を、PDFでインターネット上に公開するというものである(例えば私の博士論文は、一橋大学機関リポジトリ:https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/27388 で全文を読むことができる)。そして電子公開の直後、大変光栄なことに、ある出版社から、ほぼそのまま学術書として出版するという話をいただいた。
 この提案についてどうすべきか考えている際、たまたまたどり着いたのが、青弓社の編集者である矢野未知生さんが「版元ドットコム」という本の情報サイトに書いていた「博士論文を本にする」という文章だった。興味深かったのは、博士論文の電子公開が進むこれからの時代に「博士論文を本にする」ことの意味やあり方についてだった。矢野さんの結論としては、「学術的議論は電子公開、その要旨をわかりやすく一般に公開する機会として商業出版」として使い分けるべきだとしている。
 この話は非常に参考になった。私自身のことを思い起こしても、大学生時代に「青弓社ライブラリー」シリーズにふれた経験は人生に大きな影響を与えていた。周知のように、このシリーズは「まだ誰も論じていない、面白くて社会的な意義があるテーマ」をコンセプトにしている。吉見俊哉ほかの『運動会と日本近代』や坂上康博『にっぽん野球の系譜学』、野村一夫ほかの『健康ブームを読み解く』など、「ありそうでなかった」テーマについて平易に論じられていて、大学生の私は知的好奇心をくすぐられ、研究の世界に憧れを抱くようになった。
 こうした経緯から、自身の博士論文も、やはり若い人たちの知的好奇心を喚起するような書籍にしたいという思いが強まり、青弓社に企画を持ち込んだ。これが2016年3月のことで、博士論文提出から丸1年後だった。そして打ち合わせ後、「青弓社ライブラリー」シリーズからの刊行を目指すことが決まった。

 だが、50年以上前のボウリングブームの時期だけを取り扱っていても、商業ベースに乗せるのは難しいようだった。そこで、追加で資料を集め、調査をし、ブーム以降のボウリングの動向を書籍に盛り込むことになった。それが、最終的には本書の第4章、第5章になる。
 ここで苦労したのは、資料収集や調査それ自体ではなく、得られた成果をどうまとめるかということだった。ボウリングブーム期を〈スポーツ〉と〈レジャー〉という視角から分析した以上、それ以降の時期も同様の視点で分析しなければ話が分裂してしまう。しかも、初学者にも興味をもってもらうような見方でなければならない。この点については、四六時中、まさに寝ている間にも悩まされた。
 2016年5月ごろ、突然頭のなかに閃光が走った。その際に思い付いたのが、本書の趣旨である「流行期にはボウリング業界全体が〈スポーツ〉と〈レジャー〉を柔軟に使い分けていたが、流行期以降はボウリング場単位で、〈スポーツ〉のボウリング場と〈レジャー〉のボウリング場に分化していった」というストーリーだった。
 正直、確固とした実証的裏付けがあったわけではなかったが、矢野さんも前述の文章で、博士論文を一般書にするならば、「「研究者に対する防御」より「積極的な意見表明」をする」べきだと書いていて、この言葉も大きな後押しとなった。

 このようにして、本書のおおまかなストーリーは固まった。このストーリーをベースにして企画書を作成し直し、青弓社から正式にGOサインが出たのが2016年9月だった。企画書の持ち込みから約半年である。
 そして、こうしたストーリーをより臨場感があるものにするために、ボウリング場の現場に向かった。これまで資料と格闘していた私にとって、現場の葛藤や舞台裏を知る作業は非常に面白く刺激的だった。なお、その成果は本書第5章に反映されている(個人的には、読者にはこの第5章から読んでいただきたいと思っている)。
 こうして、2017年3月にはほぼすべての調査が終了した。そこからはひたすらに書き、読み、直す、を繰り返していった。また、研究者仲間に草稿を読んでもらいアドバイスを受けた。こうして、第1稿を提出したのが、17年8月のことだった。それから校正作業を経て、17年12月に無事に出版できた。

 以上の2年9カ月は、本当にあっという間だった。その間、つらいと感じた瞬間はただの一度もなかった。それはやはり、孤独に打ち込んできた自分の研究成果が日の目を見るという大きな喜びがゴールにあったからだと思う。妻に「この研究に何の意味があるのか」「結論は何なのか」などと問い詰められながらここまできたが、ようやく一言言い返すことができそうである。

「原稿の余白に」の余白に、もう少しだけ付け加えたい。すでに述べたように、私は「青弓社ライブラリー」シリーズが好きで、特にあのシンプルなカバーに憧れていた。そのため、本書の刊行が決まった際には、「やはりボウリングのピンをイメージして、白地に赤線のカバーになるのだろうな……」などと妄想していたので、まったく異なるカバーイメージ案が出てきた際は驚いた。積年の憧憬にも似た思いが叶えられることはなかったが、それにも劣らぬ、いや、それをもしのぐ素晴らしいカバーで装ってあり、大変感謝している。
 また、写真の選択が素晴らしい。カバー画像をごらんになればわかるように、ボールがヘッドピン(先頭のピン)の位置からややずれている。ボウリングでは、ヘッドピンにまっすぐボールが当たってもストライクは出ない。斜めからえぐるように当たることで、ピンがよく飛び散るのだ。
 本書も、この写真のように、ボウリングという誰でも知っている題材について斜めから切り込むことで、大きな反響が生まれてほしい。そして何より、ボウリングのように長く、いろいろな人々に愛されるような本であってほしいと思っている。

 

ソーシャルメディア時代の「模型」と「本」(「世界」あるいは「人」の媒介性)――『模型のメディア論――時空間を媒介する「モノ」』を書いて

松井広志

 安直な「時代診断」にくみするのは慎重でなければならないが、やはり現代ほど人々の「つながり」が重視される時代はないだろう。こうした傾向は、勤務校で日常的に大学生と接していると顕著であり、まさに「友だち地獄」(土井隆義)的なコミュニケーションの時代だなと思う。また、そうしたつながり自体をビジネスとして活用するインフルエンサー・マーケティングも盛んで、なるほど、単にSNSが普及しているというだけでなく、上記のような意味で現代は「ソーシャル(=人々のつながり)メディアの時代」かもしれない。
 そうしたなか、本書のテーマである「模型」は、一見レトロな対象に映るかもしれない。たしかに、戦前期からメディア考古学的に記述した(特に戦時下の重要性も強調した)本書の「第1部 歴史」については、そうしたイメージは的外れではない。ただ私は、本書を単なる「懐古趣味」の本にしたくないと考えていた。「第2部 現在」「第3部 理論」という他の部も含ませた構成や、特に「理論」の「「モノ」のメディア論」の章ではそのことを理論研究という(ある意味では難解な)かたちで書いたが、ここではエッセーという機会を借りて、別の方向から述べておきたい。
 そもそもメディアについての学術的な捉え方としては、(「こちら側」の主体をとりあえず「人」に限定するとしても)「人と人をつなぐ」場合と「人と世界をつなぐ」場合と、2つのパターンがある。「つながり」を求める時代とは、ある意味では、前者の「人と人をつなぐ」パターンのメディアが中心となった社会だろう。逆に言うと、現代社会では、後者の「世界とつながる」ような体験をもたらすメディアがマイナーになりつつあるのかもしれない。
 私はいまのところ「模型」や「ゲーム」といったメディアとそれをめぐる文化を主たる研究対象にしているが、これらに着目する理由のひとつは、「人と世界をつなぐ」ほうの媒介性を強くもっているからだ。
 もちろんこれらに「人と人をつながる」媒介性、例えばコミュニティーをつくる機能がないわけではない。例えば、ゲームの場合、「マルチプレイ」と呼ばれる多人数によるプレイとそれに伴うコミュニケーションが、魅力の片面を占める。
 しかし、もう片面では「シングルプレイ」の領域も大きい。ロールプレイングゲームやアドベンチャーゲームが形成する虚構世界(イェスパー・ユール)に一人で(ときに寝食を忘れて)没頭するのは、広く見られる振る舞いだ。私はこうしたシングルプレイの体験を、けっしてネガティブに捉えたくはない。それは、「人と人」のつながりを絶対視するメディア観では低い価値しか与えられないかもしれないが、「人と世界」をつなぐという視点から見たとき、メディアの、文化の、そして人間社会の、何か重要な部分領域を示しているように思えるからだ。そうした「別の時空間とつながる」メディア経験こそが、(やや強く言うならば)人間らしさのひとつなのではないだろうか。
 上記の視点に立ったとき、これまで(アカデミックな領域の)研究がほとんどなかった(少なくとも、それを主たるテーマにした単著レベルの研究書は存在していなかった)模型が、とたんにメディア研究の重要な対象として立ち現れてくるのである。
 模型は(もちろん他人と一緒につくる場合もあるが)基本的には「孤独」な作業で、一人で組み立てはじめて、独力で完成される場合が多い。こうした模型は「人と人」をつなぐメディアとしてはマイナーである。しかし、だからこそ逆に、ときに自己の内面と対話しながら「いま・ここ」とは異なる「時空間」を想像し、目の前にある具体的な「モノ」を創造していく模型が、「人と(異なる)世界をつなぐ」性質を帯びる。これこそ、私が模型をテーマとした理由だったのだ。
 *
 続いて後半では、本書の内容から少し離れて、本書自体を「メディア」と捉えた所感を述べておきたい。
 前述したようなメディアの2つの捉え方は、もちろん「本」というメディアでも成り立つ。私は(ここまで読んでいただいた方ならおわかりのとおり)どちらかというと「世界」とつながるほうの媒介性を魅力と感じ、数多くの本を読んできた(これは文学作品でも学術研究書でも同じだ)。
 ただ、本書の出版の後は、図らずも(オーソドックスな)「人と人をつなぐ」ほうの媒介性の大事さを再認識する出来事がいくつもあった。端的には、出版というメディアがつなぐ、こちらが想定していない(あるいは想定を上回る)読み手の応答である。
 まず、驚いたのが、松岡正剛さんによる書評サイト「千夜千冊」で取り上げられたことである(http://1000ya.isis.ne.jp/1648.html)。ここで、編集工学者である松岡さんによって、玩具文化史や大衆文化論ではない「模型の思想」の本と紹介されたことはたいへん光栄だった。さらに、近年のモノ理論(Thing Theory)やオブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)と呼応する「もの思想」に連なるとの位置づけは、本書の理論的含意を適切に把握してくださっていて、ありがたかった。そこに松岡さんの持ち味である該博的な知識に裏打ちされた具体的な模型体験・模型史の記述が加わり、第一級の書評となっている。まだの方はぜひご一読いただきたい。
 また、「超音速備忘録」(http://wivern.exblog.jp/27063703/)や「徒然日記2~モデラーの戯言」(http://maidomailbox.seesaa.net/article/452814745.html)など、模型製作者(愛好者)のブログでのいくつかのレビューがある。そもそも私は本書を典型的な学術書のフォーマットで書いていて、専門であるメディア論や社会学には限らないとしても、ある程度人文学・社会科学の背景知識が必要な内容になっている。もちろん、さまざまな人々に広く読まれたいという思いも強かったので、記述のしかたは可能なかぎり平易になるよう心がけてはいた。しかし構成・文体などは学術的な専門書であるため、その意味では決して読みやすい本ではないように思う。それにもかかわらず、熱心な模型製作者(モデラー)によるブログで本書が書評されており、しかもそれぞれの視点からしっかり読み解いてくださっている。実作者(それも熱心な方々)にも届いたのは(幼少期から現在まで模型製作をおこなってきたひとりとして)本当にうれしかった。
 さらに、異分野の専門家からのリアクションがあった。例えば、建築設計事務所オンデザインが運営する、新感覚オウンドメディア『BEYOND ARCHITECTURE』(http://beyondarchitecture.jp/magazine/)から本書を読んだという連絡があり、オンデザインの代表である建築家・西田司さんと「模型と人とメディア」というテーマで対談することになった。同事務所は建築模型をとても細かく作ることで知られていて、昨2016年から「模型づくりランチ」という一般向けのワークショップまでスタートさせている。その背景には、建築模型が「施主と建築家を結ぶメディア」だという考えがあると聞いた。西田さんとの対談は、『BEYOND ARCHITECTURE』の「ケンチクウンチク」というコーナーに、11月末くらいから公開されるとのことだ。
 これらはすべて、筆者が属しているメディア論や社会学といった学術的コミュニティーの外からの応答である。ソーシャルメディアによる即時的で断片的な情報(接収)がメジャーになる時代にあって、スローペースではありながらも、さまざまな「人と人」を確実につないでいくのが出版物なのだなと、その重要性を改めて強く実感した。さらにこれは、もうひとつ別の媒介性である「世界をつなぐ」という観点から見ると、ある知的世界(メディア論・社会学)と他の知的世界(編集工学、模型製作、建築の世界)が『模型のメディア論』を介してつながったと、(少しおおげさには)記述できるかもしれない。
 *
 最後に、本書の読書会がいくつか計画されているので、告知させていただきたい。現時点(2017年11月1日)のところ、東京と名古屋の2カ所が決定している。希望される方はどなたでもご参加いただけるので、松井までご連絡ください(hirodongmel@gmail.com)。それぞれの幹事につなぎます。
・2017年12月17日(日)14:00-17:30、東京大学・本郷キャンパス
 (主催・モノ-メディア研究会、幹事・近藤和都さん、評者・谷島貫太さん、永田大輔さん)
・2018年1月27日(土)、愛知淑徳大学・星ヶ丘キャンパス
(幹事・宮田雅子さん、評者・伊藤昌亮さん、村田麻里子さん)
 他に、関西(大阪市立大学)でも2018年春までに計画されているので、決まり次第、筆者の「ツイッター」(https://twitter.com/himalayan16)などで告知します。

 

一生の趣味として楽しもう!――『まるごとアコギの本』を書いて

山田篤志

 本書は、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」(http://ac-guitar.com)にこれまで書いた原稿に加筆してまとめたものです。私にとって書籍の執筆は初めての経験で、右も左もわからない状態で書き始めました。実際のところは既存のサイトをもとに執筆したので、一から企画や構成を考える必要もなく、素人の私でも執筆はそれなりに進み、楽しい作業になりました……と思っていたのですが、それは私だけだったようなのです。

 7月31日に本書が発売されて、すぐにお盆がきました。毎年、お盆には実家に帰省するのが恒例となっていて、今年も妻と2人で戻りました。私の両親も本書のことを気にかけてくれていたようで、当然のように話題になりました。
父:「執筆は大変だったろうね?」
私:「まぁ、そうでもないよ。既存のサイトをまとめ直しただけだからね」
鬼の形相の妻:「そんなことないでしょ。だって、用事を頼んでも執筆中だからって全部断ってきたじゃない。理由を全部締め切りのせいにして、あたかも売れっ子作家になったかのような言い草だったでしょ!!(怒)」
鬼の形相の母:「(私に向かって)そりゃー、アンタが悪いわ!」
私:「えっ、出版おめでとう…じゃなくて!? 俺が悪いの!?」
 まぁ、こんなものです。いまから考えると妻には迷惑をかけていたかもしれませんね。青弓社にも……。この場を借りてお礼を申し上げます。

 さて、本書では「アコギは趣味として楽しいよ、一生の趣味になるよ」ということをわかりやすく解説したかったのですが、本当に読者に伝わっているかどうかが気になるところです。実際には、発売から2カ月がたった現在、「ツイッター」や「アマゾン」のレビューなどで少しずつ反響があり、まあまあ伝わっているなという感じで、ホッとしています。
「基本部分から歴史やコード理論など非常に勉強になりました」
「アコギに興味を持たせる、さらにはアマチュア演奏家として弦楽器に興味を持たせてくれる本としては非常に秀逸」
「リズムを意識したり、耳コピにチャンレジ、さらにはオリジナルの作曲まで視野を広げることが可能になる本だと思う」
 こういうご好評をいただくことは書き手冥利に尽きます。本当にありがとうございます。

 本書の「あとがき」でも書いたように、アコギを趣味としたとき、その可能性は2つあると思っています。
 1つ目は人生を豊かにするということ。豊かな人生といっても人それぞれで、私が押し付けるようなものでないことは十分に承知していますが、趣味を持つと人生が豊かになるといいます。まったくそのとおりだと思います。
 趣味の定義も難しいのですが、私は「自分が没頭できるもの」と考えています。人に認められなくても、お金にならなくてもいい、忙しいときでも時間を作ってまでもやりたい、たとえ上達しなくてもそれをやっていると楽しい、仲間が増えて一緒に盛り上がりたい……そういったものが趣味なのでしょう。
 例えば私の場合、友人の誕生日会で「「ハッピーバースデートゥーユー」を弾いて!」と言われればすぐに、子どもに「「アンパンマンのマーチ」を弾いて!」と言われればその場で、弾いてあげたいのです。うまく弾けなくてもいいのです。その場が盛り上がって、みんながハッピーな気持ちになることが大事だと思っています。
 また、過去に私のサイトを見た人から、こんなメールをいただきました。
「このサイトを見て基本の大切さを切に感じました。C→F→Cのチェンジが2週間でなんとか弾けるようになり、はずみがつきました。これからも貴サイトでレッスンを続けていきます。病院でボランティアをしているので、早く上達して、入院している方を少しでも元気づけられたらと思っています」
 うれしかったですね。とても穏やかな気持ちになりました。

 2つ目は自分の演奏をインターネットで世界中に配信できること。自分の演奏を録音したり動画に撮ったりして発表することも簡単にできます。そのあたりのコツも本書に書きました。もちろん私もSNSを使って楽しんでいます。会ったこともない外国の人と、翻訳ソフトと闘いながらメールでやりとりしています。趣味をきっかけに世界中の人とつながることは本当にすばらしいことです。

 アコギは奥が深いのでプロレベルまで極めようとすれば難しいのですが、趣味での演奏なら弾けるようになるまで時間はそれほどかかりません。このような可能性があるので、「音楽が好き、カラオケが好き」という方はぜひ本書を読んで、アコギを趣味としていただきたいのです。
 さらに、本書で書けなかったことも含め、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」で少しずつですが更新しています。興味がある方は、ぜひのぞいてみてください。
 みなさんのアコギライフがすばらしいものになるよう切に願っています。

 

ロンドンでは本書を片手に巡り歩いてほしい――『ブリティッシュロック巡礼』を書いて

加藤雅之

「いま思えば、行っておけばよかった」――年を経るにつれて、こんな後悔が増えてくるのは自然の成り行きだろう。
 学生時代に熱心に聴いたブリティッシュロックを本場で体験しようと思ったのは、ロンドンに転居してから3年がたち、娘の学校への送り迎えから解放されてからだ。ロンドンに住んでいるのだからいつでも伝説のロッカーたちのコンサートへ行けるだろう、そんな甘い考えを捨てることになったきっかけは、ファンだったクリームのベーシスト、ジャック・ブルースの死(2014年10月25日)だった。
 調べてみると、ジャックはさまざまなフォーマットで6回は来日している。仕事で忙しかったり、ジャズやクラッシック、はたまたイタリアポップスなどロック以外の音楽に関心が移っていたり、と理由はいろいろある。ただ、改めて思い知ったのは、演奏する側にも聴く側にも、時間は迫っているということだ。それから、「冥途の土産ツアー」と勝手に銘打って、すでに70歳前後になっているロック黄金期のアーティストのコンサートに通い詰めることにした。
 これと並行して、いわゆるロック聖地巡りも始めたのだが、ここでも時の流れの残酷さを感じることになる。忘れ去られて正確な所在地が不明だったり、再開発で取り壊されたり。はたまた富裕層向け分譲地にあるジョン・レノンやリンゴ・スターの旧宅はセキュリティー強化で近寄ることさえ不可能になっていた。
 そこで、もしロックファンがロンドンへ行ったり住んだりする機会があれば最後のチャンスを逃さないでほしい、そんな思いに駆られて執筆したのが本書である。
 コンサート通いや家探しを続けるなかで、いろいろわかってきたことも多い。
 音楽的に言えば、世界的に成功したビートルズのようなバンドでもイギリスでは流行歌の一種ととらえられ、その時代の刻印が強く押されていること。言い換えれば、それ以降の世代以外からは古い音楽とみなされて、敬遠されてしまう。日本やアメリカでのように世代を超えてビートルズが聴かれるということはなく、さらに言えば、現在ではロックそのものが時代がかった音楽とみなされている印象を受けた。
 また、アメリカで成功してイギリスに戻ってこない人間に対する冷たさにも驚いた。アメリカに移住してしまったジョン・レノンやスティングに対する扱いは、日本ではちょっと想像できないだろう。ロックだけではない。イギリスが生んだ偉大な映画監督、チャールズ・チャップリンやアルフレッド・ヒッチコックについても、二人が生まれ育ったロンドンには記念館など存在しない。ハリウッドで成功したのが気に入らないのだと思われる。
 そして、イギリス人は英語を母語とする白人であっても、その人間がイギリス人か否か、を日本人が想像する以上に気にする。日本にも通じる島国根性とでも言うのだろうか。
 コンサートに行って衝撃を受けたのは、その飲酒文化。まあ、飲むこと飲むこと。ストイックな音楽性をもつキング・クリムゾンのような例外を除き、ほとんどのロックコンサートは酒が飲めるところで音楽もやっているぐらいに考えたほうがいい。演奏中も周りの観客がビールを買いに行ったり、トイレに行ったりと、ちっとも落ち着かないことも多かった。だが、それが本場、イギリスでのロックの聴き方なのだ。
 ロックの聖地巡りでは、外部の人間がめったに足を踏み入れない郊外の田舎町なども訪れた。そこでしばしば感じたのは、ロンドンの街中ではなかなか味わえない「よそ者」に対する疑わしげな視線だ。帰国直後の2016年6月の国民投票でイギリスは欧州連合(EU)脱退を決めてしまったが、排他的な民族主義の一端を垣間見た気がした。
 執筆のためいろいろ調べているうちに初めて知ったエピソードも多い。そのなかで特に面白いと思ったのは日本との関係だ。黄金期のブリティッシュロックに直接関わった日本人としては、いずれも末期のフリーとフェイセズに参加した山内テツ(b)が有名だが、カーブド・エアのカービー・グレゴリー(g)をたどっていくと加藤ヒロシ(g)という名前に行き当たった。カービーが巻き込まれた偽フリードウッド・マック事件に関連するストレッチというバンドに一時加入していたからだ。この加藤さん、リンド&リンダーズという関西のグループ・サウンズのメンバーで、元キング・クリムゾンのゴードン・ハスケル(b,vo)とジョー(JOE)というバンドも組んでいる。そこで、プロレスラー藤波辰巳のテーマ曲「ドラゴン・スープレックス」を発表したり、山口百恵のロンドン録音のアルバム『GOLDEN FLIGHT』でプロデュース・演奏したりと、なかなかの活躍ぶりなのだ。
 また、加藤さんは元Tレックスのスティーブ・ティックとも一時活動したが、同時期にティックとセッションしていたのが高橋英介(b,g)という人で、グループ・サウンズのZOO NEE VOOの出身。奥深い世界である。
 こういった本書に盛り込めなかったエピソードや写真を、書名と同じ「ブリティッシュロック巡礼」のブログhttps://ameblo.jp/noelredding/で順次公開しているので、興味がある方はぜひのぞいてみてほしい。

 

オペレッタの楽しみを伝えたくて――『オペレッタの幕開け――オッフェンバックと日本近代』を書いて

森 佳子

「あとがき」にも書いたように、本書は、2014年に出版した私の前著『オッフェンバックと大衆芸術――パリジャンが愛した夢幻オペレッタ』(早稲田大学出版部。博士論文をもとに書いたもの)の「続篇」である。着想から2冊の本の完成までにかなりの年数がかかってしまったが、17年になってやっと出版することができた。
 最初にテーマの着想を得たきっかけは、次のようなものである。オペレッタの創始者ジャック・オッフェンバックの名は日本でも有名で、最高傑作の一つ『地獄のオルフェウス』に挿入される「フレンチ・カンカン」の音楽だけを知っている人も多い。若い世代でさえ、この曲を「運動会の音楽」として認識している。私にはその点が気になった。明治時代から主にドイツのクラシック音楽の影響下にあった日本で、なぜあの曲が昔から知られているのか、不思議だったのだ。
 それに加えて、オッフェンバック作品のすばらしい上演に巡り合ったことが、このたびの執筆に大きな影響を与えている。まずは15年以上さかのぼるが、パリのオペラ・バスチーユで『ホフマン物語』を初めて観て、大きな憧れを抱いたことがその始まりだった。印象的で洗練されたメロディー、時空を行き来し、夢と現実の境が見えない物語構成の面白さ、人形や悪魔あるいは音楽の女神ミューズなどの魅力的な登場人物たち……あの「フレンチ・カンカン」と同じ作曲家の作品とは信じられず、これをテーマに何か書いてみたいと思った。
 そして2007年になって、パリのオペラ・コミック座でオッフェンバックのオペレッタ『ラ・ペリコール』を観て、大きな衝撃を受けたことがあった。本書でも触れた、ジェローム・サヴァリによる「ミュージカル風」演出の上演である。サヴァリはジャズをかなり勉強した人らしいが、このときに使っていた音楽には大変驚かされた。オッフェンバックのオリジナル音楽に、ジャズやロックが交ざったようなアレンジを加えていたと記憶しているが、物語の舞台がペルーということもあってうまくマッチしていた(サヴァリ自身によれば、同時代の南アメリカの独裁政治を舞台で表現したという)。しかもそのうえ、オッフェンバックに扮装した「謎の人物」(小さな丸メガネに薄い頭髪、黒っぽい毛皮付きガウンといった格好)がたびたび舞台上に現れ、観客の笑いをとっていたのが印象的だった。ちなみに本書でも触れたが、彼自身に扮した人物を舞台に出すのは、20世紀初頭によくおこなわれた演出方法である。もっとも、こうした「翻案」上演は、オーソドックスなものを好む人には評価されないかもしれないが、当時の私にとっては新鮮な驚きだった。
 このようなかつての様々な体験のなかで、オッフェンバック作品が秘めている多彩な上演の可能性を見いだしたことが、博士論文と2冊の本の執筆に向かう出発点になっている。しかし博士論文では、オペレッタのように娯楽性が強いジャンルが受け入れられるかどうかわからず、困難な道になるだろうと予想した。だが、幸運なことにそれはうまくいき、学術書と一般書の両方を書き上げるにいたったのだ。
 博士論文と前著の執筆に際しては、オッフェンバックが晩年に影響を受けた「夢幻劇」の調査にかなり時間を費やしたが、後続の本書でもそうした地道なアプローチの姿勢は崩していない。例えば第3章「オッフェンバックとは何者か」では、オッフェンバックがテーマになったムーラン・ルージュのレビューに関して、パンフレットなどの一次資料を読み込んだうえで書いている(フランス国立図書館はまとまった数のパンフレットを所蔵していて、これらが役に立った)。また第6章「日本人とオッフェンバックの出合い」と第7章「花開く日本のオペレッタ」の日本のオペラやオペレッタ上演に関する項目でも、できるかぎり当時の雑誌などにあたったり、オペラ団体からパンフレットを取り寄せたりして、様々な資料に基づいてまとめている。ただし「浅草オペラ」に関しては、知られざる資料がまだまだ眠っていると思われ、十分な情報が得られたとは言いがたい。私にとってはそれが心残りだが、これらが世に出てくることを切に願っている。
 さらに今回の執筆では、次のような点でも苦労した。まず論文から一般書に書き換える際には、かなり工夫しなければならない。例えば、学術の世界で説明が不要のことでも、一般書の場合はそれが必要になる。なおかつ、丁寧で簡潔な表現でなければならない。同時に、単なる「オッフェンバックの伝記」にとどまらない、多くの読者が興味を持てるような構成にしたい。ある意味では、前著を一歩でも乗り越えたいという気持ちもあり、正直言って完成するまでの道のりは平坦ではなかったと思う。
 おそらく、いわゆる「研究書」と呼ばれる本のなかには、専門家だけでなく一般の読者や大学生にも面白いと思えるテーマがたくさんあるだろう。しかも書き方や構成の工夫次第で、それらはもっと興味深く、読みやすいものになると思う。今回はその点で、青弓社にずいぶんサポートしてもらった。私にとってはこれが貴重な第一歩である。

 

「ホームルーム」後の講師室にて――『アイドル論の教科書』を書いて

塚田修一

 本書では「ホームルーム」で講義を終えたので、ここでは、さしずめ「ホームルーム」後の講師室で、本書にまつわるこぼれ話を、というような雰囲気で書いてみたい。

 実は、本書の著者2人がそろって格闘していたものが2つある。
 まずは「経年変化」である。周知のように、アイドル文化は変化が早い。盛り込んだ最新のネタも、すぐに古くなってしまうのである。アイドル文化界隈の情報を定期的に仕入れながらの、記述のアップデート作業が私たちに付きまとった。
 もう一つが「距離感」だ。よく言われることだが、アイドルファンは、物理的にも、心理的にも、どこかでアイドルとの「距離感」を楽しんでいる。アイドル(文化)を論じる際にも「距離感」、つまり、どのようなスタンスで記述するかに頭を悩ませた。
 高踏的な論じ方は「鼻につく」(「学術論文」としてならば、それでいいのかもしれないが)。オタク的な知識や偏愛の披露では、「ツマラナイ」。さらに、教科書(参考書)というコンセプト上、読者が真似できない「名人芸」になってしまうのも避けなければならない。――アイドル文化を論じる、最適な「距離感」を模索して、私たちはあれこれ悩んだ。
 ぶっちゃけてしまえば、私たちはこれらを解決できたわけではない(いまだに格闘中である)。
 だが、暫定的な解決策として、本書では、「読者に積極的に委ねる」という形にしたつもりである。つまり、読者によって考えられ、埋められる「余白」とした、ということだ。――これが本書の重要な仕掛けである。
「経年変化」については、読者が各々アップデートして、「応用篇」をつむいでいってもらえるようにした。また「距離感」についてもやはり、読者によって書かれるべき「応用篇」を設定することで、読者の思考の参入を呼び込むかたちにして、「鼻につく」「ツマラナイ」「名人芸」――これらは要するに、読者が参入できないことに起因するものだ――をなんとか回避したつもりである。
 これを「読者に丸投げしている」とは捉えないでほしい。
 先述の暫定的解決策は、著者2人の、「余白」の必要性への敏感さから講じられたものだからだ。
 例えば、私たちは大学や予備校での講義の際にしばしば、ある問題の思考方法から正解までをすべて説明してしまうのではなく(その場合、実は教育的効果は低いはずだ)、思考方法を示したうえで、「あとは自分で考えてみなさい」と指導するときがある。私たちは、「すべてを説明すること」が、必ずしも最善手でないことを体得的に理解している。そして、生徒や学生にわざと考えさせる、あるいは判断を委ねることの「効用」を知っているのである。
 このようにして本書は、読者の手によって「余白」が埋められること、つまり読者によって「応用篇」が書かれることを想定した、少々奇妙なスタイルの「学術書」になっている。

 そういえば、先日、知り合いの研究者からこんな連絡をもらった。指導しているゼミの女子学生が、本書を発売日に購入し、「国語」講を参照しながら、「女性が女性アイドルを応援すること」をテーマに、「握手会におけるコミュニケーション」の会話分析をおこなっているという。さっそく、本書の「応用篇」が試みられているのだ。――これほどうれしい知らせはない。

 さて、2016年最大のアイドル関連ニュース(男女を問わず)といえば、SMAPの「解散」――「卒業」ではなく――だろう。私たちもやはり気になっている。
「解散」の時間モデルはどうなっているのだろうか。一応、「卒業」と同様の、〈線分〉の時間の〈終わり〉ということになるのだろうか。だが、それは「卒業」のように美化されたものでも、予期(期待)されたものでもないし、そもそもジャニーズのアイドルに「卒業」制度は存在しない。
 また、SMAPファンはどうなるのだろう? ファンたちは、キャンディーズ「微笑みがえし」のキャンペーンを彷彿とさせるような運動(「世界に一つだけの花」の購買運動など)をおこなっているが、「解散」を翻意させるまでには至らなさそうである。では、ファンたちはうまく「あがる」または「おりる」ことができるのだろうか――。そんなことをあれこれ考えているところである。

 

代理出産、特別養子縁組、里親、児童養護施設をつなげる視点――『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』を書いて

土屋 敦/松木洋人

「ふつう」の親子? 「ふつう」の子育て?

 血縁でつながっている実の親と子どもとの関係。これが多くの人がイメージする「ふつう」の親子関係だろう。同様に、我々が「子育て」という言葉を使うとき、それはたいてい実の親が実の子どもを育てる営みのことを意味している。
 しかし、この「ふつう」の親子関係とは異なる関係のもとで、子どもが生まれたり育てられたりする場合がある。たとえば、近年、子どもがいる男女が結婚することで形成されるステップファミリーへの注目が高まっている。ステップファミリーでは、夫と前の妻との間に生まれた子どもは、血のつながりがない「新しいお母さん」と生活をともにして、さまざまなケアを受けることになる。

「ハイブリッドな親子」と血縁・家族へのこだわり

 本書の書名になっている「ハイブリッドな親子」という概念は、ステップファミリーのように、子どもの生育に生みの親以外の大人が関与するさまざまな状況に光を当てるために我々が新たに考案した言葉である。「ハイブリッドな親子」にも多様なかたちがあるだろう。例えば、代理出産における「産む親」と「遺伝的親」の分離をめぐる問題、養親と養子の関係、里親と里子の関係や、児童養護施設で実親と切り離されながら養育される子どものケアなども含まれるだろう。
「ハイブリッドな親子」は、一方では血縁にとらわれていない点がポジティブに捉えられることもある。子どもの親にとって大事なのは子どもへの愛情であり配慮だと考えるならば、血縁がもつ意味は二次的なものになるだろう。たとえば、養親子関係のもとで育てられた子どもが、実際に自分を育ててくれた親こそが「ほんとうのお母さん、お父さん」であって、顔も覚えていない生みの親のことは「親でもなんでもない」と考えるというような場合である。
 他方で、本書も含めて、これまでさまざまな研究が示してきたのは、「ハイブリッドな親子」関係を生きる人々が、血縁へのこだわりと向き合いながら生きているということである。さきほどのステップファミリーの例でいうならば、「新しいお母さん」は、子どもが実の母親と会っていることに複雑な感情を抱いているかもしれないし、子どもも「新しいお母さん」のそんな気持ちに気づいて、実の母親と会っていることを隠そうとするかもしれない。また、養親子関係のもとで育てられた子どもも、自分を育ててくれた養親への感謝の念は大きく、自分はこのお父さんとお母さんの子どもだという思いは強くても、それと同時に、心のどこかで実の親への思いをぬぐい去ることができないような場合もあるだろう。
 このような人々の血縁へのこだわりは、血縁でつながった実の親と子どもの関係、そのような関係のもとでなされる子育てが「ふつう」であり、そうでない関係や子育てと比べて、なにか特別な価値をもつものとする規範に由来している。
 本書では、家族社会学の視座から人々の血縁へのこだわりや実の親と子どもの関係を価値づけている規範を解きほぐす作業に力を注いだ。その結果明らかになるのは、このこだわりや規範の強固さであるかもしれない。しかし、社会学的な分析は血縁へのこだわりを社会的プロセスのなかに置くことで相対化する作業でもある。本書は、子どもが実の親だけではなく、多様な大人との養育関係のなかで「ふつう」に育まれる社会をイメージして、その輪郭を浮き彫りにすることを心がけた。現代の日本社会では、家族に子育ての責任が過度に集中することの問題が指摘され、「育児の社会化」の必要性が主張されているが、本書が示そうとしている新たな社会のイメージは、「育児の社会化」を構想するうえでも新たな視点を提供してくれるはずだ。

■代理出産■
 現代社会のテクノロジーの発展にともない、「ハイブリッドな親子」の血縁・家族へのこだわりが最も顕著に表出しているのが、代理出産や第三者の配偶子(精子・卵子)を用いた体外授精の場だろう。代理出産は、自らの卵子を用いて自分で妊娠出産をおこなえない女性が、第三者の女性に妊娠出産腹を委託する行為をさし、「遺伝的親」と「産む親」の分離がおこなわれる。また、カップルのいずれかの不妊が著しい場合、第三者の精子や卵子を借りて出産がおこなわれる場合もある。
 日本国内で代理出産は2008年4月に日本学術会議から出された提言によって原則禁止されていて、この問題に関する法はいまだに整備されていない。他方で、アメリカで代理出産をし、出生児の戸籍上の扱いをめぐって03年に訴訟を起こした向井亜紀・高田延彦夫妻の事例は有名だが、日本人による代理出産自体は、アメリカへの渡航はもちろん、インドやベトナム、タイなどのアジア諸国で生殖ツーリズムとして展開されている。
 また、精子提供や卵子提供による非配偶者間人工授精(AID)、特に精子提供は1949年に慶應義塾大学病院で開始され、これまでに約1万5,000人あまりの子どもが精子提供で生まれている。他方で卵子提供は、日本国内では原則禁止されているものの、アメリカやインド、タイやベトナムなど、海外で提供を受けることが頻繁におこなわれている。
 本書では、こうした代理出産や卵子提供などの生殖ツーリズムの拠点になっているタイやベトナムなどの経験者に取材して、提供者になっている女性たちの身体観や血縁・家族へのこだわりを浮かび上がらせた。そこから見えてくるのは、出産や生殖をめぐる文化的規範のあり方であり、彼女たちが身体感覚の位相で抱く、出産に対する意味づけの差異である。

■特別養子縁組■
「ハイブリッドな親子」と聞いて最も多くの方が思い浮かべるのが、養子縁組の親子関係かもしれない。そこでは、「遺伝的親」と「育ての親」の分離がある。本書では、養子縁組のなかでも特別養子縁組制度の立法化過程を取り上げた。
 普通養子縁組制度では、養子になった子どもは戸籍上、実親と養親の2組の親をもつことになる。だが、特別養子縁組制度は戸籍上、養親の子どもになり実親との関係がなくなる。特別養子縁組制度が誕生したのは1987年のことだ。長い養子縁組の歴史を振り返れば、近年になって誕生した新たな制度だといえるだろう。
 血縁関係に基づく親子観は、「ごく自然で自明のもの」として想起されやすい。他方で、特別養子縁組制度の立法過程をさかのぼるなかで見えてくるのは、「ごく自然で自明のもの」として意識されがちな親子観が、過去のある時点で偶然生じたものであったり、政治的な交渉のなかで恣意的に選択されたものであったりする、親子観をめぐる血縁のポリティクスとも言うべき事態である。本書で意識的に心がけたのは、「血縁」という一見強固に見える親子観を換骨奪胎しながら、そこで議論される政治的な交渉の背景をつぶさに浮かび上がらせることである。

■里親■
「ハイブリッドな親子」のなかでは、里親制度の親子のあり方もまた大きな主題である。養子制度が戸籍の変更を伴う親子関係構築の場であるのに対し、里親制度は児童福祉法に位置づけられた制度であり、虐待を受けた子どもなど、実親のもとでは養育が困難な子どもを第三者が一時的に養育する社会的養護の一つであるところに特徴がある。
 この社会的養護の実践の場で、乳児院や児童養護施設などの施設養護が望ましいのか、それとも里親委託のほうが望ましいのかという論争は長年にわたり繰り広げられてきた。だが、特に2000年以降の潮流は圧倒的に後者の里親委託への支持に傾斜している。本書で取り組んだのは、この潮流のなかで「里親」の位置づけはどう変化したのかを明らかにすることである。
 里親制度は児童福祉法に基づく福祉制度である。そのため、この制度は、「親」であること、「家族」であることを社会がどう評価・実践するのか、という問題と向き合いながら作り上げられてきた。里親制度で近年生じてる事態は、血縁・家族へのこだわりの今後を読み解いていく際、大きな試金石になるだろう。

■児童養護施設■
 里親制度などの「家庭的養護」と対比して語られるのが、乳児院や児童養護施設などでの子どもの養育であり、それは「施設養護」と呼ばれる。「施設養護」は里親制度と並んで日本の社会的養護を担ってきた代表的な場だが、近年、要保護児童の養育に占める「施設養護」割合の高さが大きな問題になっている。国連子どもの権利条約(1989年)では、実親家庭での生活が困難な子どもに家庭的な場での養育を保障することが盛り込まれ、日本の施設養護の多さに3度の国連勧告がなされてきた。
 子どもの「施設養護」は、家庭的な養護からは最も隔てられた場所でなされる育児である。そうした場所での育児規範は、「ふつうの家族」における育児規範とどのような交錯関係のなかで形成されてきたのだろうか。本書で試みたのは、「施設養護」における育児規範の歴史的な変容を跡付ける作業であり、1960年代から70年代に大きな画期があったことを明らかにしている。

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「ハイブリッドな親子」における血縁・家族へのこだわりを解きほぐしていく最大の意味は、ある種の息苦しさも含む「家族」から少し距離を置いて現在の親子関係を検証していく視座を確保することであり、血縁や実親子へのこだわりを一度カッコにくくり、多様な親子関係に目を向けていくことを世に喚起することにある。まずは多様な「現実」と向き合い、理解するということ――それが、個々人がもつ「こだわり」を解きほぐすことにつながる第一歩だと、そう信じている。