エイズ問題との関わりを通して見えてきた日本と/の「ゲイ」 ――『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』を書いて

新ヶ江章友

 本書を書き上げたあと、様々な不安が心をよぎった。その不安はいまも続いている。調査対象者とのラポール関係を築くのが難しかったと書いたが、あのようなことを書いてもよかったのだろうか。このようなことを考え始めると、本が出版できたことの喜びとともに、憂鬱な気持ちが何度も心を去来していった。
 私は2006年に、「HIV感染不安の身体――日本における「男性同性愛者」の主体化の批判的検討」という論文を筑波大学の紀要に書いた。この内容は大幅に改稿して、本書の第3章として所収している。この論文は筑波大学附属図書館のウェブサイトからダウンロードが可能で誰でも読むことができるが、これ自体が、いわゆるエイズの活動をおこなっている「ゲイ・コミュニティ」のなかで物議を醸してしまったようなのである。この論文は、日本の「ゲイ・コミュニティ」を批判したものとしてゲイ・アクティビストやエイズ・アクティビストたちに受け入れられてしまった。書いた文章が一旦筆者の手を離れると、それを読んでどのように解釈するのかは読者に委ねられる。読者による解釈の意図がどのようなものだったかはまた別の問題として、私の論文が「ゲイ・コミュニティ」に対して何らかの刺激を与えたことで、私は今後「ゲイ・コミュニティ」とどのように関わっていくことができるのかを常に思い悩みながら現在に至っている。
 私が書いた2006年の論文は、読み方によってはたしかに「ゲイ・コミュニティ」批判ととらえられかねない側面もある。しかし私があの論文で述べたかったことは、特定の個人やコミュニティを批判することではなかった。2000年代当時、世界だけではなく日本の「ゲイ」の間で、HIV/AIDSをめぐる公衆衛生施策を通して一体何が起ころうとしていたのかを、その活動に巻き込まれながらも距離をとるという人類学的「反省」の視点から現場を見ることが、そのときとても重要であるように感じたのだ。その現場で一体何が起こっているのか――そのことを言語化し、自分なりに納得したいと思った。その成果が、本書『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』だと言える。
 日本の「ゲイ」とエイズをめぐって、どのような知が形成されていったのか。そのうえで、MSM(Men who have Sex with Men、男性と性行為をする男性)が「ゲイ」という主体としてどのように立ち上がっていくのか。本書では、この点を執拗に追い求めている。
 科学的知識が決して価値中立的で客観的なものではなく、研究者たちが生きる研究室のなかの日常的実践の延長線上で生成されるという、科学人類学におけるいわゆる「実験室研究」の見解は、MSMのHIV/AIDS感染リスク行動の調査研究にもあてはまる。純粋科学としての数学や物理学などの知識生成とは異なり、社会とより密接なつながりをもった疫学の知識生成では、その政治性がより顕在化してくると言えるだろう。厚生労働省の研究費の配分の仕方、アンケートを収集するための「ゲイ・コミュニティ」と研究者との連携のあり方、誰が味方で誰が敵かなど、そのような人間関係(=権力関係)のもとで、客観的だと言われている科学的知識(この場合、疫学的知識)はより政治性を帯びながら生成されてくる。しかし本書で描かれていることは、日本の「ゲイ」とHIV/AIDS研究をめぐる様々な実践のうちの、ほんの氷山の一角を示したにすぎない。その背後には、実はもっと多様な権力をめぐるドラマが隠れているのだ。
 本書の大きなテーマの一つになっているのが、「ゲイ」というアイデンティティと国家との関係である。私たちは国家を、人間の生き方や行動を統治していく一つの暴力機構としてとらえることもできる。その国家との結び付きを強めながらエイズ施策を展開していくという「ゲイ・コミュニティ」の構図そのものが、一体何を意味するのか。1980年代の雑誌「薔薇族」(第二書房)は、HIV/AIDSの流行にともなって日本の「ホモ」たちに批判の目が向かないよう、読者たちにおとなしくしようと呼びかけていた。だが弱者の立場に置かれたマイノリティが国家の政策と連携し始めるとき、そこで一体何が起こるのだろうか。社会学者の森山至貴は『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房)で、「ゲイコミュニティ」についていけなさという重要な問題提起をおこなっている。しかし私にとって、「ゲイ・コミュニティ」は何か不安なものに見えてくる。ここで言う「ゲイ・コミュニティ」とは、東京・新宿二丁目などの繁華街を指しているのではない。私が言いたいのは、同性愛者同士のつながりそのものに不安を感じるのではなく、「ゲイ・コミュニティ」をコミュニティとして語ろうとする人々の語り方そのものに、何か不安なものを感じるのである。
 日本の「ゲイ」のあり方を国家との関係から分析するという試みは、まだ端緒についたばかりだ。海外では同性婚をめぐる法の整備が進んでいるが、日本では今後どうなるのだろうか。本書に示したとおり、1980年代のエイズ問題に対してこの国がどのような反応を示したのかを見ればわかるが、同性婚をめぐる問題に対しても、「対岸の火事」としてすませるわけにはいかない日がくるのではないか。そのとき、生殖医療をめぐって国内でくすぶっている様々な問題が、今度は同性婚と接続されながら議論されることになるのかもしれない。この問題は、文化人類学のなかで長年議論されてきた親族研究に、新たな一ページを刻んでいくことにもなるだろう。研究だけではなく日常生活でも、同性婚は親族や家族の意味そのものを大きく書き換えていく可能性を秘めている。そのとき、この日本という国自体が、そして日本の「ゲイ」自身が、この問題に対してどのような反応を示すのだろうか。日本で同性愛の生の様式が真の意味で試されるのは、おそらくはこれからだろうと私自身は考えている。

「ヒップホップ」を通して見えてくる世界があるはずだ――『ヒップホップ!――黒い断層と21世紀』を書いて

関口義人

 2003年に青弓社から上梓した『バルカン音楽ガイド』から数えてちょうど10冊目となる今回の本は、なんと「ヒップホップ」がテーマだ。自分でも意外と言えば意外だった。何しろバルカン、ブラス、ジプシー、アラブ、ベリーダンスというここまでの流れの先に「ヒップホップ」なのだ。青弓社と出版を合意したものの、昨年(2012年)末までは資料集めや全体の構想の決定だけに相当まごまごし、書き始めたのは年が変わってからだった。私自身長い海外生活の結果、自分の“いわゆる”アイデンティティーが希薄になり続け、どこに立っているのかが見えにくくなった。そんなときに語りかけてきたのが「ラップ」であり、聞こえてきた音楽が「ヒップホップ」だった。この音楽には、アメリカという故郷はあっても、長じた先の環境は世界中のいたるところにあるとしか言いようがないのだ。そこに焦点を絞って書いていこうと決めたものの、そこに行き着くまでの論議が薄っぺらでは説得力がない。そこで結局、ヒップホップ生誕の地であるブロンクスからまずはアメリカを縦横無尽に走り抜け、イギリス、日本を巡って世界の五大陸へと筆を進めることになった。
 私が「ヒップホップ」を愛聴しはじめて15年になる。しかしここで書きたかったのは自分のヒップホップ愛ではない。
 1989年(東欧革命)、2001年(アメリカ同時多発テロ事件)、11年(東日本大震災)と世界(そして日本)が激変し、自分たちが生まれた惑星である地球の様相が一変してしまった現在、世界を見渡す羅針盤としての意図せざる役割がヒップホップには生じた気がする。実は日本のヒップホップは世界的に見ても非常に特殊な内容を表している。それはそのまま日本社会が歩んできた「移民なき国家」の姿であり、それゆえに20年遅れてやってきた階級社会の図でもあるのだ。
 一方で世界は良くも悪くも20世紀の前半に既に階級社会が定着した。そこに生じた労働、経済、言語、社会、宗教、文化などの対立やら闘争なりが“くびき”として市民社会の上に重くのしかかった。世界が東西に分断された1945年以降も、その分岐線が南北に分かたれた80年以降の世界でも、問題の基軸の一つが「移民」だったのだ。そしてこのテーマにもっとも敏感かつ過激に反応したのはどこの国でも10代の若者たちだった。そしてそんな彼らが放ったのが「ラップ」だったのである。社会に放たれた異物としての「移民」にとっては生死をかけた一生に一度の賭けなのだ。言葉も不自由で、社会制度にもなじめない土地で彼らが獲得した、同胞との連帯とそれを支えるコミュニティー、そしてそこで交わされるコミュニケーションとしてのラップとヒップホップの激しいビートは、そのまま彼らの生の叫びであり、取り上げられるテーマは彼らの日々の苦しみなのだ。
 私が本書のタイトルに「断層」の語を選んだのはそういう理由による。それは移民としての身分の問題や、そこで加えられる差別の問題もあるし、ときには移民同士のなかにさえ火種が燻る。ヒップホップ発祥の地アメリカ東部にあっても、この音楽は明らかに移民生活を続けた人々やその子どもの世代に起爆した。それはあくまで「遊び」や「集い」のなかにしか娯楽や楽しみを見いだせなかった彼らの日常のフラストレーションの発散の手法だった。しかしやがてこの文化をになった1980年代のヒップホップ後継者たちが、そこに政治や社会的意見を持ち込んだ。ここにはじめてアメリカのブラックピープルによる言論が立ち上がったのだ。その意味で、これまでにアメリカに響いたブルース、ゴスペル、ソウル、ジャズなどの黒人が中心に発展してきた音楽と“ヒップホップ”は根本的に相違がある、と私は考えたのである。

 8章からなる本書には1,000人にも及ぶ「ステージネーム」の保有者の名前が登場する。ヒップホップに関わるDJやトラックメーカー、ラッパーなどはほとんど自らのサイン代わりにステージネームを採用し、その名前で活動する。そういうこともあって読者、ことにヒップホップになじみがない読み手にとって本書には咀嚼しにくい部分も多々あるだろう。しかし、それこそがこの文化の根幹に関わる要素であるのだから、お許し願うしかない。
 一方で普段からヒップホップをライブや音源で聴いている人々に本書がどう受け取られるかに私は大きな関心をもっている。固有のラッパーやDJについての好き嫌いにはあまり言及せずに、彼らが残してきた作品を中心に周囲の状況などとも絡めて解説を加えた。世界中で響くラップをその国の言語で理解できるリスナーは世界を探してもそう多くはいないだろう。“ことば”の表現であるヒップホップには結果として(言語の)「壁」が立ち塞がる結果になる。しかしそれが世界の現実だし、世界とはそうした場所なのである。移民はまず、その壁と闘いながら新たな土地での生活を築いていかなければならないのだ。世界に断層が存在すること自体は否定してもはじまらない。しかしそれらの対立や軋轢が人々の対話や粘り強い交渉によって、または「ラップ」の応酬によって平和裏に解決されることを心から願って、本書を書き上げた次第である。相当に疲れた。しかし充実した仕事になった。

占いは人間の営みの一つ――『占いにはまる女性と若者』を書いて

板橋作美

 今日の日本に、占いはあふれている。ところが、占いについて、それを真正面から論じたものはないに等しい。それどころか、私が占いについての本を書くと言うと、周囲から、とくに大学のような「知的」な場所では、うさんくさいものを見るような顔をされる。
 私は、昨2012年、小学校高学年から中学校低学年の生徒を対象とした占いについての本を監修したのだが、出版社の編集者から、ちょっとしたことで文部科学省に問い合わせたら、「占いですか?」と学校教育に占いなどありえないという反応だった、という話を聞いた。もちろん、それは当然で、私も学校で占いを教えるべきだなどと思ってはいない。
 ただ、人間というものを考えようとしたら、占いの問題は、避けて通りすぎるわけにはいかない問題の一つではないだろうかということだ。占いは、科学などよりもはるか昔からあり、また科学が発達した今日でもなくなることがない。それほど、占いは人間のあり方と深く結び付いている。
 占いは、人間の営みの一つである。いったい、人間以外の動植物の何が占いなどするだろう。占いは、人間が人間であるゆえん、人間が文化をもち、社会のなかで生きるということそのものに関わっている。
 私は占いの専門家ではない。私は、迷信とか俗信とか言われるもの、具体的には禁忌やまじないや予兆、あるいはキツネ憑きなどの憑きもの信仰に関心をもっている。そして、そういう迷信を人はなぜ信じるのかを考えてきた。占いは、その一部である。
 中村雄二郎は、現代思想・現代哲学の主要ポイントの一つは〈深層的人間〉の発見であり、1960年代初頭に出た3冊、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960年)、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』(1961年)、そしてクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962年)がその問題に初めて光を当てたとしている(『西田幾多郎Ⅱ』〔岩波現代文庫〕、岩波書店、2001年、10-12ページ)。子供、精神病者、未開人らの深層的人間、そして中村がそれに加えた女性は、近代社会の内部と外部であるいは固定化され、あるいは見捨てられてきた。彼らにおいては、生は、意識的・主知的でなく、無意識的・身体的であり、またパトス的・共感的原理に支配されているとされてきた。
 彼らは、その感性的資質のために迷信にとらわれやすい人とされてきた。逆に言えば、迷信とはそういう人に固有な知識あるいは思考とみなされたのである。未開人は迷信に支配され、子供の知識と思考は迷信的であり、女性は迷信に弱いとされる。迷信の一つ、憑霊信仰では、霊的存在に憑依された者は異常な言動を示し、それは医学的には精神を病んだ人、つまり彼らは精神病者とみなされる。
 しかし、本当にそうなのだろうか。深層的人間の知識と思考は、男女の別なく、ごく普通の現代人にも潜んでいるし、われわれの知識と思考のなかには、子供、精神病者、未開人、女性と通底する何かがあると私は考えている。迷信は、一部の人間の特殊な精神に関わるものではなく、すべての人間にとって根源的な何かと結び付いているのではないかと考えるのである。柳田国男も、迷信について、「時あつては我々自身の、胸の中にさへ住んで居る。現に自分なども其一例で、今でも敷居の上に乗らず、便所に入つて唾を吐かず、竈の肩に庖丁を置かず、殊にくさめを二つすると誰かが蔭口をきいてるなどと、考へて見る場合は甚だ多い」(「青年と学問」『定本 柳田國男集』第二十五巻、筑摩書房、1964年、257ページ)と書いている。
 迷信は、特別な思考法とか論理によるものではなく、ごく日常的な思考法や論理に基づいているからこそ、いまでもなくなることがないのだ。占いは、そういう迷信の一つなのである。

裁判記録の入手だけでも難関が多い ――『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』を書いて

杉田 聡

 最高裁判決を吟味する作業は大変でした。論理の組み立て以前に、必要な文書類がなかなか手に入らなかったからです。最高裁の判決文自体は、ひとまず最高裁のウェブサイトで比較的容易に見ることができます。
 しかし最高裁判決には、地裁・高裁での判決日・判決番号などが一切書かれていません。それぞれに電話を入れましたが、どの判決かは確認できないと言われて途方に暮れました。最低でも判決番号か被告の名前がわからないとだめなようなのです。もちろん被告の名前はわかりません。判決番号もわかりません。しかし、判決日がわかれば事件はある程度は絞られます。
 でも、判決日をどう確認すればいいのか? 事件は千葉市で起きたことがわかりましたので、「千葉日報」その他の地方紙に出向いて縮刷版をめくる必要があると判断しました。ある地方紙に許可をとりましたが、はたして判決が本当に報道されているどうか。それは全く確証がありません。
 それでやむなく再度地裁と高裁に電話を入れ、何とか手がかりがないかと問い合わせました。でも、何も手がかりはありませんでした。再び途方に暮れましたが、ほかに手がないため、試しに最高裁に電話を入れてみました。ところが、予想に反して担当者が親切な人で、「じゃあちょっと調べてみる」と言ってくれ、ほどなく地裁第一審・高裁控訴審の判決日・判決番号がわかりました。
 しかし、問題はこれでは終わりませんでした。問い合わせたのが、最高裁判決が出てからあまり間がない時期だったので、関連書類一式は第一審を担当した地検(千葉地検)に戻されるとわかったものの、戻るまでに実はかなりの時間がかかるというのです。
 それで待つこと4カ月。やっと書類が戻されて許可が下り、2011年12月下旬に千葉地検に出向いて、第一審・控訴審それぞれの判決文を閲覧しました。一般に判決文は閲覧できません(「判例時報」などにも両判決はいまだに記載されていません)。でも私は研究者であり目的は研究ですから、許可される可能性は大きいのです。ただし、私は法律学が専門ではありません。所属は畜産学部であり専門は哲学です。でも性犯罪は私の研究テーマの一つでこれまで何冊かの関連本を書いているという説明をすると、幸い問題なく閲覧の許可が出ました。
 そして千葉地検で判決文を閲覧した日は、当の事件が起きた月と日でした。というより、その日に合わせて千葉地検に出向いたのです。というのは、現場を見ておく必要がどうしてもあったからです。特に、現場は「有数の繁華街」なのに女性が逃げられなかったことは不自然だと判決は決め付け、それをもって女性の供述に信用がおけないと判断したからです。本当はどの程度の繁華街なのかを見る必要がありました。
実際は、事件現場はほとんど人けがない場所だったことは、本文に記しました。裁判官はもちろん弁護側も、その事実を確認していません。もちろん、人けが多いかどうかは直接には問題に関係しませんが(人けが多くても女性が逃げられるとはかぎりません)、少なくとも最高裁判決がこれを問題にした以上、それが事実かどうかの確認はどうしても必要でした。そして事件が起きたのは午後7時すぎでしたが、師走のこの時期は現場付近はかなりの暗がりでした。しかし最高裁判決では、近くにホテルがあったから明るかったはずだと決め付けています。そうした事実が単なる憶測でしかないこともわかりました。
ただし、気象庁の気象記録を見ますと、事件が起きた2006年の12月27日と11年の同日とでは、気温差が小さくないことがわかりました。つまり、私が現場に行った日はたまたま寒かったために人けが少なかった可能性があります。そのために、別の気候がよい時期の同じ時間帯に再度確認する必要があると思い、以下に述べるように、12年の7月24日に再度千葉地検に行った際、同じ場所、同じ時間帯に、現場での人通りを確認しました。このときすでに日は陰り、気温は26、7度程度でした。でも両日ともに、人けにほとんど違いはありませんでした。ただし、5年間で周辺環境が変わった可能性はないとは言えません。この点は、すぐそばに立つ交番で複数の警察官に確認しましたが、基本的に変わっていないこともわかりました。
 第一審・控訴審判決文は無事に入手しましたが、次の問題が起きました。判決文を見ただけでは、事件の細部はやはりわからないのです。コラム執筆の弁護士(養父氏)に相談して、どの調書類を見る必要があるかを指示してもらい、次の機会には、可能な限り多くを閲覧する必要があると判断しました。
 でも、ここで問題が起きました。調書類を含めて当該事件に関わる書類一式が、研究のために他の裁判所あるいは検察庁に貸し出されてしまい、なかなかそれが千葉地検に戻らなかったのです。かなりの時間待ちましたが、それを閲覧できたのは、判決文を閲覧し終えてから7カ月(最高裁判決が出てから1年)もたっていました。それでようやく7月下旬に再度千葉地検に赴き、1泊して2日間、細かな調書類をかなり読みました。そして同時に、上記のように現場に再度行き、人通りがどのくらいなのかを確認しました。また女性が働いていた場所と被害現場までの距離、その現場の様子などを確認しました(弁護側は、女性が職場を出てから被害にあうまでの時間が合わない、だから女性の供述は嘘だ、という控訴趣意書を出していましたので、職場から現場までの距離などを確認する必要がありました。また被害のさなかに警備員が2人を見ていますが、そこがどの程度に事実を認知できる明るさだったかも、確認する必要がありました)。
 こんな苦労がありました。私は北海道帯広に住んでいるので、帯広→東京→千葉と移動し、書類を入手するだけで往復を含め最低でも2、3日を要します。謄写(コピー)費用を含めて経費もばかになりません。大変な苦労をしましたが、現状の改革にいくらかでも資するところがあるなら、苦労も十分に報われます。

ひとは政治をどのように見ているか――マーレー・エーデルマン『政治スペクタクルの構築』を訳して

法貴良一

 マーレー・エーデルマンは人々の政治に対する意味づけを研究の焦点とする数少ない政治学者のひとりである。本書によれば、政治における指導者や敵、問題は「即自的に」指導者や敵、問題であるわけではなく、政治のアクターやマス・メディア、一般の人々がそのように把握することによって、指導者や敵、問題になるという。こうした視座から、エーデルマンはニュースがスペクタクルを提供すること、ニュースが指導者や敵、政治問題からなるスペクタクルを構築するように人々に促すこと(人々は単なるスペクタクルの受け手ではなく、自分でもスペクタクルを構築する)、それは政治に対する意味づけであり、意味づけはなんらかのストーリーのかたちをとることを説明する。こうした分析枠組は政治学においてはきわめて異例のものだが、われわれが政治を理解したり、政治に関わる際に生じている事態に照らせば、きわめて正当な設定だと私は考えている。この小文ではそのことを簡単に説明してみたい。
 ふつうのひとの政治の捉え方は、多くの社会科学者が目指すような「価値中立的」な事実関係の把握やその合理的な説明とは異なる(ただし、社会についての学問は社会に還流するから、社会科学者の捉え方が援用されることもある)。人々にとって政治は感情移入と道徳的判断の対象である。たとえば社会保障縮小政策は、ある人々にとってはみじめな老後をもたらす悪政として、義憤の的となる。だが、別の人々にとってはそれは政府依存からの脱却であり、自助精神の回復をもたらす善政として歓迎すべきものとなる。また、貿易や領土をめぐる他国との紛争は、理不尽な相手国による国家の尊厳の毀損であり、自国政府の軟弱政策の破綻を意味するものとなるかもしれないし、自国政府の無神経な対外政策の当然の帰結と捉えられるかもしれない。むろん、いずれの例にせよ、別の捉え方がされる可能性がある。だが、ここで押さえておくべきはそうした捉え方の中身ではなく、人々が政治的なできごとについてなんらかの感情的かつ道徳的な観点から意味づけをおこなっていることである。そして、意味は文脈のなかであらわれるものだから、決して完成することのない物語であるにせよ、政治的なできごとは物語の一場面として捉えられていると言ってよい。
 人々が政治に意味づけをおこない物語を読みとっていることは政治のアクターも承知している。だから、政治家や官僚、マス・メディアは政治活動や政策をドラマ仕立てで提供しようとする。この政策を採用することでこれこれの成果が達成されるはずであると語ること、ある事態がどのような歴史的経過で発生したか説明すること、いずれも一つの物語の提供である。政治のアクターがどのような行動方針を推進し、どのような社会を実現しようとするにせよ、それを説得力あるストーリーに仕立てなければ多くの人々の支持や忠誠を得ることはできない。こうして、政治は、できごとや政策、アクターについてのさまざまな意味づけが競合し、さまざまな物語が錯綜するアリーナとなる。
 エーデルマンのような例外はあるものの、不思議なことに、政治学は一般の人々やアクターが政治をどのような観点から捉え、そこにどのような意味を読みとり、どのような物語を仕立て上げるかという問題にほとんど関心を寄せてこなかった。政治学における政治は権力や利益をめぐる闘争であり、イデオロギーをめぐる対立であり、制度や政策の創出や改変をめぐる選択である。それを「客観的に」局外者の視点から、言い換えれば神の視点から検討する。もとより、人々の感情や道徳的スタンスがつねに無視されるというわけではない。そうした「非合理的要素」は、政治の世界を合理的な枠組で理解するために、世論調査のデータのように研究者の必要に即したかたちで処理される。こうして、設定される政治の世界はすべて研究者のコントロール下に置かれる。それは政治の当事者たちが築いている世界ではない。
 私はたいていの政治学が設定する政治の世界に違和感を禁じえなかった。一般の人々にせよアクターにせよ、彼らの政治の捉え方が彼らの政治的選択や政治行動を規定する最大の要因のはずである。それを見ずして、いくら概念を精緻化し、複雑な分析枠組をつくり上げたところで、現実の政治を説明できるわけがない。そうした違和感を抱えたまま、政治学主流と同じ方向を目指すことはとてもできそうもない。私は政治学に向いていないのではないか。そんな思いを払拭できずにいるところに出会ったのがエーデルマンであった。最近では政治学の書物は敬遠される傾向にあるようだが、もしその原因が政治学主流の設定する政治の世界に対する違和感だとしたら、ぜひエーデルマンを読んでいただきたい。ものごとを意味づけ物語を紡ぐ存在としての人間を理論にとり込もうと努力したのがエーデルマンである。

さまざまなオペラに出合うために――『オペラ鑑賞講座 超入門』を書いて

神木勇介

 オペラを楽しむためのちょっとした「コツ」をご存じですか? オペラに興味をもった人がはじめの一歩を踏み出すとき、その案内役となるように、本書『オペラ鑑賞講座 超入門』ではその「コツ」を書きました。

 オペラに興味をもつ……このことだけでも、一般的に考えれば珍しいことではないかと思います。オペラはクラシック音楽の一つのジャンルであるわけですが、交響曲やピアノ曲に比べて、親しみにくいものかもしれません。一見すると、時代錯誤の舞台衣装を身にまとった体格のいい男女が、オーバーな演技をしながら大声を発している──現実離れしているこの世界に、即座に拒否反応を示す人もいるのではないでしょうか。

 でも、例えば「自分の好きな作曲家がオペラも書いている」「好きなメロディーがオペラからの抜粋だった」「豪華なオペラハウスの写真を見た」など理由はどうであれ、まずは興味をもつところまできたとしましょう。そこからオペラの世界をのぞいてみるわけですが、これが少々やっかいかもしれません。オペラにはいろいろな種類があって、たまたま出合ったオペラが自分の好みに合っているとはかぎらないからです。

 実は私もそうでした。音楽大学を目指して声楽のレッスンを受けていた私は、その先に「オペラ」があることを見据えていましたが、まったく知識がなかったため、とりあえず何でもいいからオペラを聴いてみることにしました。何も考えずに、ある有名なオペラ作品を鑑賞したのです。でも、まったく楽しめませんでした。当時の自分には合わなかったのですね。演奏時間は長いし、どこが聴きどころかもわからない。これは私とは異質の世界なんだと勝手に自分に言い聞かせて、それ以降は歌曲や声楽曲に関心が集中しました。

 それでも結局、私はオペラが好きになりました。なぜなら、その後さまざまな機会で、オペラの「多面的」な魅力にふれることができたからです。ヴェルディのオペラ・アリアを歌ったときは、シンプルな音楽なのにこんなに劇的な表現が可能なのかと驚きました。もちろんプッチーニのオペラで、主役のソプラノとテノールが歌うアリアにも感動しました。モーツァルトのオペラには親しみやすい重唱が多くあり、仲間とアンサンブルを楽しみました。初めて接したワーグナーのオペラは、パトリス・シェロー演出の『ニーベルングの指環』でしたが、とにかく長かったという感想をもったものの、「演出」に興味をもちました。リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスのオペラの多彩な音楽表現に気がつくと、オーケストラの演奏を楽しめるようになりました。

 同じオペラでも、作曲された時代や場所によってまったく別物のように印象が異なります。また、オペラは、「声」「歌」「音楽」「演出」などのさまざまな観点から楽しむことができます。こうしたもろもろのことを知ったうえでオペラを鑑賞していけば、必ずや自分に合ったオペラが見つかるはずです。

 オペラについて「声」「歌」「音楽」「演出」などのあらゆる側面を順序立てて知ることができるように、本書『オペラ鑑賞講座 超入門』では全体を12の講座に分け、オペラとは何かというところから名作オペラの楽しみ方まで、できるだけ丁寧に解説しました。本書を読めば、オペラを楽しむための「コツ」をつかむことができるのではないかと思います。

互いの理解が「いい音」を生む――『まるごとヴァイオリンの本』を書いて

石田朋也

 一般的なヴァイオリンのイメージはどうも高貴なものらしい。「白亜の大邸宅に響く音色」「深窓の令嬢が弾く楽器」のイメージがあるようだ。現実に、そのイメージを体現する形として絢爛豪華な音楽ホールが建設されるし、美人ヴァイオリニストが次々とデビューして使い捨てられていく。

 ところが、その高貴なイメージに似つかわしくない音色でのヴァイオリンの音は相当に聴き苦しいもの。漫画などでひどいヴァイオリンの音と揶揄されることがあるが、これは作品中での誇張ではなく多くの人にとって現実のこと。ピアノやギターならリズムが合っていれば音色のコントロールが乏しくともまずまず聴けるものだが、ヴァイオリンの場合は適切に楽器を響かせる音で弾かなければ、文字どおり聴くに堪えない「貧弱な音」が出る。

 生涯学習が唱えられて久しい。「大人の○○教室」は多く開講されているし、ヴァイオリンも大人を対象にした教室が増えている。わたし自身も大人向けのヴァイオリン教室を運営していて、この原稿を書いている前日もヴァイオリンのレッスンを9時間おこなった。子どものころに習っていたが大人になって再開することにした人、大人になってからヴァイオリンを手にするようになった人など、それぞれに事情と思いがありヴァイオリンを習っているのだと思う。

 大人になってもやりたいこと、欲しいものというのは、子どものころに憧れたこと、欲しいと思ったものが多いと思う。子どものときにかなわなかった夢を子育てや仕事から解放され、やっと実現できたという思いが大人にはあるのだろう。始めた年齢が高いほどその思いは厚く積もっていると想像する。その思いの深さを教室の運営側が理解し大切にしなければならないはずだが、現実には冷淡に扱われていることも多いようだ。

 一方、しばしばヴァイオリンを習う生徒側が先生を軽く見ていることがある。インターネットの掲示板やブログには、先生を評価する段階ではない生徒が簡単に先生の指導方針を評価してしまっていることがある。教室の先生がこれまでどれだけ苦労を重ねてきたか、また生徒に対してどれだけ期待をもって指導をおこなっているか、その思いを生徒側が理解し尊重する必要があると感じる。

 この連載を読む人の大半は、ヴァイオリンを弾いたことがないと思う。世間でのイメージと異なり、演奏者にとってヴァイオリンはとてもサディスト的な楽器といえる。演奏者にこれでもかと精神面、肉体面、金銭面に苦痛を与えるし、ヴァイオリン教育も音楽教育のなかで最も厳しいもののひとつだと思う。優雅に弾くヴァイオリニストのイメージとは裏腹に、ヴァイオリニストやヴァイオリンの先生は過去にいくつものの体の傷と心の傷を負って、そして大きな出費を強いられてきたことが多いはずだ。

 特に大人に対する教育では、先生は生徒を、生徒は先生を理解する必要があるだろう。相互理解の必要性はヴァイオリン教育に限ったことではない。小学校などでの学級崩壊も、先生と保護者を含めた生徒側との相互理解の不足に一因があると思うし、また、医者と患者、社長と社員なども同様の問題を抱えていると感じる。そして、互いを十分に理解し合っているときに、「いい音」が生まれるのだと思う。

 ヴァイオリンの場合には、先生と生徒の関係だけでなく、演奏者と楽器との関係もある。これも演奏者と楽器が互いを理解できたときに「いい音」が出るものだ。すなわち、演奏者がヴァイオリンに「いい音を出せ!」強要してもヴァイオリンは反発するだけで「いい音」は出ない。演奏者側がヴァイオリン側の声を聞くという視点があるとヴァイオリンから「いい音」を引き出すことができる。

 相手を理解しようと視点を少しばかり変えれば、ヴァイオリンはサディストからいい友だちになる。この視点のシフトが本書で示せていればと願っている。直接的にはヴァイオリンをいい音で奏でることができるために、最終的にはヴァイオリンを友だちにするためにごらんいただく本になっていれば幸いである。

バカバカしいからこそ――『妖怪手品の時代』を書いて

横山泰子

 子ども時代の一時期、手品を練習しては家族に見せていた。父はあまり家にいなかったので、母に見せ祖父に見せ祖母に見せ妹に見せ……と一通り披露したが、同じ芸をやっていると仕掛けがわかってしまうので何度もできないのがつらいところであった。
 そんなとき、祖母の弟(Oのおじさんとしておこう)が飲みにきた。彼は本当にお酒が好きなようで、酔っぱらってくると他人の家でも靴下を脱いでくつろいでいた。その日の私はいつものように「こんにちは」を言いにいったが、普段と違うのは手にトランプを持っていたことだった。同居人には披露ずみのトランプ手品を、お客さんに見てもらいたかったのだ。
私「こんにちは」
おじさん「ああ、こんにちは。かわいいねえ」
私「トランプ手品をやってもいいですか?」
おじさん「手品か、いいよ」
 といった会話が交わされたかと思う。私はトランプを出してよく切って、
「こちらに見えないようにして、一枚好きなカードを選んでください」
とカードを抜いてもらった。それをおじさんだけが見て、カードの山のなかに戻してもらった。さらにトランプを切った後、私はこれぞという一枚を選び出し、
「おじさんの選んだのはこれでしょう?」
と得意げに見せた。ところが、なんと彼は
「あれえ、これだったかなあ?」
と言うのだ。絶対に自信はあったので私は動揺し、もう一度やってもらった。しかし、何度やっても彼は、
「あれえ、これだったかなあ?」
と言う。どうやら、おじさんは酔っぱらっていてカードの絵や数を忘れてしまうのだった。
 このとき私は「酔っぱらいには細かい手品は不向きである」という教訓を得た。そして、子どもの移り気さゆえに手品に対する興味を失い、この日の教訓も忘れてしまった。
 
 新著『妖怪手品の時代』では、江戸時代に素人(しろうと)が宴会で楽しんでいた手品について取り上げた。当時はアマチュア向けの手品の解説本が作られていて、現代人にはなかなか考えつかないようなさまざまな芸が紹介されている。人がお化けに扮する方法などが記されていて、「ちょっとふざけすぎではないか」と思うようなくだらない仕掛けもある。調査を始めたころはあまりのバカバカしさにあきれていたが、突然Oのおじさんのことを思い出した。
 酔っぱらいには細かい手品は不向きなのだった。宴席でお互いに隠し芸を見せ合うようなときには、演技をする本人も酔っぱらっているかもしれない。演じる側・見る側の双方にとって、本格的な奇術よりも笑いをとる芸の方がふさわしいのではないか。江戸時代の奇想天外な手品は、そのバカバカしさゆえに酒宴を盛り上げるのではないか。
 そんなことを考えながら原稿を書いた。当時の手品がどんなに奇抜かは、ぜひ本書を手に取ってごらんいただきたい。

テキヤの生き方――『テキヤ稼業のフォークロア』を書いて

厚 香苗

 できあがったばかりの本書を調査協力者に手渡すために、私は2012年2月24日、東京・墨田区東向島の地蔵坂を訪ねた。最寄りの曳舟駅の改札を出ると、完成を5日後に控えたスカイツリーがすぐ近くにあって、すでに航空障害灯が点滅していた。その白いLEDの光を見て、30年ほど前、曳舟駅前の大きな工場の屋根に群生していたタンポポの黄色い点々を思い出した。まず地蔵坂通り商店会会長の西村寅治さんを訪ねた。西村さんをはじめ、かつてお世話になった方々は変わりなく過ごしていて安堵した。しかし地蔵坂のほうはというと縁日なのに人がまばらで活気がない。
 露店は3店舗しか出ていなかった。冬とはいえ少なすぎる。そのうちの1店舗では顔見知りの「テキヤさん」がたこ焼きを売っていた。私のフィールドワークにつきあってくれたのは東京会(仮名)のテキヤがほとんどだった。その方は東京会のテキヤではないけれども、彼が所属するテキヤ集団も東京会と同様に、おそらく近世以前から続く古い集団だ。あいさつをするとうれしいことに私を覚えていてくれた。東京会の方々から教えてもらったことをまとめたと伝えて本書を1冊手渡すと、「字が細かくてダメだ」とすぐに返された。読んではもらえなかったが、とりあえず地蔵坂で商いをする現役のテキヤに本を見てもらえたのでよかった。ではたこ焼きを買って帰ろう、そう思って私はたこ焼きの値段を尋ねた。すると彼は「いいよ」と言う。代金はいらないから、ひとつ持っていけということだ。いまは「新法」でテキヤが困っているから本を出してもらうと助かる、と感謝されたのである。この「新法」とは、2011年10月に施行された東京都の暴力団排除条例のことだろう。
 地蔵坂に行った翌日、かつて地蔵坂の縁日のセワニンを務めていたが、すでにテキヤを引退しているS夫妻の千葉県にある自宅を訪ねた。8年ほど前に目印として教えられた県道沿いの看板はすでになく、さんざん道に迷った末に見覚えがある一軒家にたどり着いた。インターホンを押すと妻であるネエサンが出て、夫のSさんも在宅していた。2人とも久しぶりの再会を喜んでくれて、勧められるままに家に上がり込んで本書を差し上げた。そしてコーヒーをいただきながら思い出話に花を咲かせた。
 Sさんは、かつて自分が所属していた東京会の近況を少し知っていた。最年長者だった大正生まれのオヤブンは数年前に亡くなり、その下の世代のオヤブンも何人かはテキヤを引退、別のテキヤ集団に「養子にいった」若いオヤブンもいるとのことだった。話の内容から、テキヤ社会の擬制的親族関係が現在でも崩れていないことがうかがえる。また本書で紹介した神農像は、Sさんがテキヤを引退するときに東京会の現役のテキヤに譲ったという。神農信仰も続いているようだ。
 江戸=東京は人口が多く、年中行事や祝祭空間も豊富なので、ほぼ常店といっていいような安定した露店商いがおこなわれてきた。それをテキヤたちも自覚している。だから学術的な関心からテキヤの「伝統」を考察する本を出しても、イタリアのカモッラを題材としたノンフィクション・ノベル『死都ゴモラ』を出版したことで、警察の保護下にあるというロベルト・サヴィアーノのようにはなりえない――そんな確信のような思いが下町育ちの私にはあった。本人たちが「テキヤは3割ヤクザだ」と言うのだから、まったく何も心配していなかったといえば嘘になるが、フィールドワークというものは対象によらず、やってみなければわからないものだ。本書の出版からもう1カ月以上がたった。関係者に本を配り歩いて、喜ばれたり、呆れられたりしたが、身の危険は感じていない。「3割ヤクザ」だから「新法」に影響されたりするものの、やはりテキヤは第一に祝祭空間を彩る昔ながらの商人なのだろう。
 西村さんに「Sさんの家を訪ねるつもりです」と言うと、「もしSさんに会えたら遊びに来るように伝えて」と頼まれた。Sさんにそれを伝えると「そうね。そのうち行ってみるか」と笑顔で答えた。しかし祝祭空間とは縁が薄い静かな郊外で暮らし、日帰りバスツアーに参加して神社仏閣めぐりを楽しむこともあるという、そろそろ古稀を迎える老夫婦が、引退したテキヤとして地蔵坂に出かけることはおそらくないだろう。西村さんもそれを承知しているような気がする。私も自宅の住所と電話番号をS夫妻に知らせてきたけれども、連絡はないだろうと思っている。

〈音楽する〉ことの原点へ ――『同人音楽とその周辺――新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念』を書いて

井手口彰典

 音楽漬けの学生時代、部活のオーケストラだけでは飽き足らず、夜な夜なDTMで楽曲を自作しては酒のツマミにと学友らに聴かせて悦に入っていた。刺激にもオリジナリティーにも欠ける当時のサウンドを聴き返せば、思わず赤面して逃げ出したくもなる。だがいまや30も半ばのオッサンとなった旧友らに「いや~あれは若書きの習作だったから」などと軽口を叩きながらも、音楽の流れを自ら組み立て、それを誰かに聴いてもらうという「あの」プロセスが、たとえようもなく楽しいものだったことを私は確かに記憶している。
 そんな形容しがたい楽しさに突き動かされつつ、誰に望まれるわけでもない曲を戯れに書きつづっていたある日、中学時代の悪友との再会があった。下宿で酒を酌み交わしながら、私はいつものように自作曲を披露してみせた。一通り聴き終えた後で奴が発した言葉の具体的な文言こそ忘れてしまったが、そのインパクトだけは強く印象に残っている。つまり、「これ即売会で売ってみないか?」。
 あくまで20世紀末の一般的な大学生と比べての話だが、当時から私は、いわゆるオタク系文化にずいぶん馴染んでおり、したがってコミケット(コミックマーケット)や同人文化についても「知識として」ある程度まで知っていた。ただ、そこに実際に参加したことはそれまで一度もなかったし、参加するという可能性を検討したこともなかった。そんな私を、悪友は「とりあえず」とコミケットにいざなったのだ。その際に受けた衝撃を、どう表現すればいいだろう。まだ社会にオタク的なものが今日ほど氾濫しておらず、インターネットも常時接続化されていないナローバンドが主流の時代、初めて東京ビッグサイトに足を踏み入れた私の頭のなかは、「ナンナンダ、コレハ」と完全にフリーズした。
 数日後になんとか冷静さを取り戻したとき、私の脳裏には二つの思いが並立していた。第一に、悪友の甘言に乗って表現者(本書の用語を使えば「サークル参加者」)として作品を発表してみるのは相当に面白いのではないか、という予感。そして第二に、ひょっとすると自分が目にしたこの文化は、そのうち取り組まなければならない修士論文にとって恰好のネタになるのではないか、という打算。かくして私は、同人音楽の世界へと足を踏み入れることになる。
 以来、趣味なのか研究なのか自分でもよくわからないまま、十数年にわたって同人音楽との関係を続けてきた。そうした緩やかで輪郭のぼやけた営みの集大成として、本書がある。いま改めて考えてみれば、それは非常に幸福なことだ。一般的に語られる「学者は自分の好きなことを研究できる」というイメージが必ずしも妥当でないことは、たとえばさまざまな社会問題(DVにせよアルコール依存にせよ)の専門家が決して当の問題を「好き」なわけではないことを考えればすぐに理解できるだろう。しかし幸いにも私は、純粋に自分の興味・関心に沿って考え抜いた結果を、こうして書籍の形で世に問うことができている。人生のめぐりあわせに感謝しなければなるまい(ただし悪友本人にそんなことを言うのは癪なので黙っておくが)。
 とはいえもちろん、自分の好きな対象を研究するというプロセスは、ただ楽しいというばかりではない。そこには慣れ親しんだ領域だからこそ生じるさまざまな問題もある。たとえば我々は、身近なものをほかよりも贔屓目で見てしまいがちだ。あるいはよく知っている文化であるがゆえに、それを(エラそうにも)研究する自分と、勝手に研究「されてしまう」人々との意識のズレをつい忘れてしまいそうになる。自分では「身内を訪ねている」ようなつもりが、当事者には「他人が家に土足で上がり込んできた」と受け止められてしまう可能性は決して低くない。そんな過ちを犯していないだろうか、という省察は、本書を執筆し推敲するなかで繰り返し自問してきた事柄だ。
 ただ、先に述べたようないくつかの危険性を十分に自覚しながらも、しかし同人音楽について何かを語ることは、やはり私にとって非常に魅力的な、心躍る作業だった。同人音楽とはおそらく、〈音楽する〉という意志の、現代における最も純粋な発露のひとつだ。優れているとか劣っているとかではなく、ただ楽しいから、やる。そのようにして生み出されてきた諸々のサウンドに耳を傾けながら、私はかつて自分自身が味わっていた同様の楽しさを追体験しているのかもしれない。
 実はこのエッセイを執筆している現在、拙著の書店への配本はまだ完了していない。一般の読者諸氏から、あるいは同人音楽コミュニティーから、いったいどのような反応をいただくことができるのか。戦々恐々としつつ、しかし「やれるだけのことはやった」と半ば開き直りつつ、座してその結果を待つことにしたい。