美術批評の魅力から始めて――『メルロ=ポンティの美学――芸術と同時性』

川瀬智之

『メルロ=ポンティの美学』のあとがきにも書きましたが、この本は私の博士論文を基にしたものです。博士論文を書いている間、苦労したことの一つは、もちろんメルロ=ポンティの哲学が難解だということでしたが、もう一つは論文というものをどうやって書いたらいいのかわからないということでした。
 多摩美術大学の学部時代、私が中心的に読んでいたのは、1970年代から90年代にかけての日本の美術批評でした。指導教員の峯村敏明先生や、ゲスト講師として授業を聞いたことがあった松浦寿夫先生が書いた批評に感動し、そこから刺激を受けて、「美術手帖」(美術出版社、1948年―)や「みづゑ」(美術出版社、1946―81年)のバックナンバーを古書店で探して読んでいました。卒業論文ではワシリー・カンディンスキーを扱いましたが、自分では論文というよりも批評を書いているつもりでした。
 学部在籍中には、彫刻家の黒川弘毅先生の、(いま思えばおそらく西洋やイスラムの中世思想を背景にした)授業を聞いて衝撃を受け、哲学にも関心をもちましたが、そのとき読んだものの一つは、書店で偶然見かけた井筒俊彦の『意識と本質――精神的東洋を索めて』(岩波書店、1983年)でした。当時、イマヌエル・カントの『判断力批判』なども読んでいたと思いますが、私のなかにいまも残り続けているのは井筒です。私は、井筒の強烈に神秘主義的な思想はもちろん、その文体にも魅力を感じていたのだと思います。井筒は、もちろん国際的に著名な大学者ですが、いま学術的な論文として受け入れられているものとは違う、パッションに満ちた書き方をする人でした。こういったわけで、当時の私のなかでは、学問的・学術的ということはほとんど意識していませんでした。
 その後、修士論文ではアルベルト・ジャコメッティの彫刻や絵画を扱いましたが、そのとき読んだ文献で論じられていたモーリス・メルロ=ポンティの名前が、美術家の李禹煥の著作にも登場していることに気づき、その思想に興味をもつようになりました。そして、これを研究しようと東京大学の美学芸術学研究室に修士課程から入りました。様々な意味で自由だった多摩美から東大に移って驚いたことの一つは、学術論文という批評よりもはるかに厳密な形式とその作法でした。特に、修士課程から博士課程に入って数年間は、学問というもの、そして要求されるレベルの高さに適応するために苦労しました。指導教員の佐々木健一先生や西村清和先生をはじめとして、東大美学芸術学研究室の先生方は、このような私に懇切丁寧に論文の書き方を指導してくれました。今度の『メルロ=ポンティの美学』はその成果です。「学術的」「アカデミック」になっているかといえば、足りないところは多々あるかもしれませんが、読者のみなさまに確かめてもらえたらと思います。