第22回 アルフレッド・デュボワ(Alfred Dubois、1898-1949、ベルギー)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

イザイとグリュミオーの架け橋

 ウジェーヌ・イザイからアルフレッド・デュボワへ、そしてアルテュール・グリュミオーへと引き継がれたベルギー楽派の伝統。しかしながら、この3人のなかで圧倒的に知名度が低いのはアルフレッド・デュボワだろう。彼の名はマーガレット・キャンベルやヨアヒム・ハトナック、ボリス・シュワルツなど、ヴァイオリニストを網羅した代表的な書籍では扱われておらず、あったとしてもせいぜい「グリュミオーの先生」程度の記述しか見当たらない。比較的新しい『偉大なるヴァイオリニストたち――クライスラーからクレーメルへの系譜』(ジャン=ミシェル・モルク、藤本優子訳、ヤマハミュージックメディア、2012年)では珍しく単独で取り上げられているが、くくりは「番外編――クライスラー以前の巨匠、偉大なる教育者たち」である。
 デュボワは1898年11月17日、ベルギーのモレンベークで生まれた。両親は音楽家ではなく、彼が楽器を始めたきっかけは明らかではない。12歳のとき(1910年)にブリュッセル音楽院に入学し、アレクサンドル・コルネリウスに師事する。コルネリウスはアンリ・ヴュータンのアシスタントを務めていたユベール・レオナールに師事しているので、若きデュボワはヴュータン以来の伝統を叩き込まれたといっていいだろう。1920年にはブリュッセル市からヴュータン賞を贈られている。ソロとして活躍するのと同時に、25年からはベルギー王宮三重奏団を結成、27年にはイザイの後継者としてブリュッセル音楽院の教授に就任する。31年、イザイの葬儀で追悼演奏をおこなう。ベルギーでのデュボワの名声は高まり、38年にはアメリカに演奏旅行に出かけた。第二次世界大戦中、アルティス(Artis)弦楽四重奏団を結成し、弟子のグリュミオーが第2ヴァイオリンを担当する。49年3月24日、ベルギーのイクルで塞栓症のため急死。
 ビダルフのBID80172の解説でタリー・ポッターは「デュボワは1917年以降、定期的にイザイの指導を受けた」と書いているが、2023年に発売されたCD(ミュジーク・アン・ワロニー MEW2204)の解説には、デュボワがイザイから直接指導を受けたという証拠はないと記してある。ただし、彼がイザイが主宰する室内楽の演奏会に出演したこと、ジャック・ティボーの代役としてイザイと一緒にバッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲』を弾いたことがあったこと、若いころにはイザイと交流があったヴァイオリニストたちの指導を受けていたことも書いてある。イザイの後任として教授に就任したり、イザイの葬儀で演奏したりしたという事実なども含めて総合的に判断すると、デュボワがイザイからさまざまな恩恵を受けたことだけは間違いなさそうである。
 デュボワの演奏を紹介するとなると、さしあたりは現役のCDを優先しなければならないだろう。まず、ビダルフのBDF-ED85049-2で、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第6番』(1931年)とヴュータンの『同第5番』(1929年)、伴奏はともにデジレ・デファウ指揮、ブリュッセル王立音楽院管弦楽団である。前者は周知のとおり現在では偽作とされていて、最近の奏者は弾かなくなってしまった。この2曲は独奏が出ずっぱりの作風だが、これを聴くと、たいていの人がグリュミオーの音と似ていると思うだろう。明るく張りがあって、スコンと抜けるような美音は師弟に共通している。特にグリュミオーは弦楽四重奏団でデュボワの音を隣で聴いていたわけだから、師匠デュボワの音を身体全体で受け止めていたはずである。デュボワとグリュミオーとの違いは、デュボワはポルタメントを随所で効果的に使用しているところだろう。
 2曲の協奏曲のあとは、ソナタなどの室内楽作品が収められている。まず、ヘンデルの『ヴァイオリン・ソナタ第6番』。これは1947年の録音で、最晩年のものに属する(ピアノはジェラルド・ムーア)。2曲の協奏曲とはいささか異なり、古典的なスタイルを基本にしているが、随所にふっと香るような甘さをちりばめているところが魅力的である。
 次の4曲はデュボワが頻繁に共演し録音で同行していたピアニストで作曲家のフェルナン・フーエンス(つづりがGoeyensなので、ときどきゴーエンスという表記も見かける)のピアノ伴奏。ピエトロ・ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』、ジャン=マリー・ルクレール(ヘルマン編)の『タンブーラン』、モーツァルト(ヘルマン編)の『メヌエット』、ヴュータンの『ロマンス』(1929年、31年録音)などだが、どれも自在で勢いにあふれた手さばきで、艶やかな美音と粋な表情を聴くことができる。
 最後の2曲は無伴奏で、イザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」』(1947年)とフリッツ・クライスラーの『レチタティーヴォとスケルツォ』(1929年)である。クライスラーも見事だが、圧倒的なのはイザイだ。力強く斬新な響きをくっきりと描くとともに、流麗でしなやかさがあり、歌心にもあふれていて、実に味わいがある演奏である。なお、これは『ソナタ第3番』の世界初録音らしい。
 次のCDは先ほどもふれたミュジーク・アン・ワロニーのMEW2204(2枚組み)。これにはデュボワの詳細な経歴が記されているだけでなく、写真も豊富で、資料としては非常に貴重である。ただ、CDの音質はいささかノイズ・リダクションがきつく、それがちょっと残念だが。
 ディスク1にあるヴュータンの『ヴァイオリン協奏曲第5番』とイザイの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番』はビダルフのBDF-ED85049-2にも含まれていて、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』は後述するビダルフのBID80172にも収録されている。このCDでしか聴けないものの一つはイザイの『子どもの夢』(1929年、ピアノはフーエンス)である。これは美しい演奏だ。この甘く切ない音色は、弟子のグリュミオーを上回っている。
 ディスク2はフーエンスのピアノ伴奏で、フーエンスの『ユモレスク』『ハバネラ』、ジョセフ・ジョンゲンの『セレナータ』、アレックス・ド・タイエの『ユモレスク』、クレティアン・ロジステルの『リゼットに捧ぐセレナード』(1928年、29年、31年)など、ほかのCDではあまり見かけない作品が収録されている。しかしながら、内容は魅惑的なものばかりで、いかにも美音のデュボワが好んだ選曲といえる。また、ナルディーニ(イザイ編)の『アリア』はビダルフのBDF-ED85049-2にも入っている。
 次の2枚は廃盤になっているが、できれば早期に復活してほしい、重要なCDである。最初はビダルフのBID80172で、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』(1936年)、フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』(1931年)、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』(1936年)で、伴奏はデュボワの長年のパートナー(主に1930年代以降)だったマルセル・マースである。
 まずベートーヴェンだが、ライブのような勢いにまずはっとさせられる。基本的には古典の枠組みをきっちり保持したスタイルなのだが、明るくどことなく漂う色香も感じさせる。ピアノのマースも、いかにも闊達だ。
 フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はミュジーク・アン・ワロニー盤にも入っているが、このビダルフ盤のほうがSPの味を伝えていて、聴きやすい。これまたベートーヴェン同様、生き生きとした息吹を存分に感じさせる演奏なのだが、ベートーヴェンではほとんどみられなかった、甘く夢を見るような温かさ、甘さ、しなやかさがあり、忘れがたい。スケール感も十分にあり、起伏や色彩感も見事で、名演の一つだろう。
 ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』も傑作である。小気味よさと切れ味があるばかりでなく、粋で繊細な表情も抜かりなく描き出している。
 最後にはフォーグラー(ゲオルク・フォーグラー〔1749-1814〕のことと思われるが、CDには作曲家の名字のほかは何も明記していない)の『アリア、シャセとメヌエット(Aria, Chasse and Minuetto)』を収録。これもデュボワらしい、とてもきれいな演奏である。
 もう一つはバッハの『ヴァイオリン・ソナタ第4番』『第5番』『第6番』と、『ヴァイオリン・ソナタ第2番』より「アンダンテ・ウン・ポコ」(以上、すべて1933年)(ビダルフ BID80171)を収録しているものである。これらも、実に美しい演奏だ。端正で古典的なたたずまいのなかで気品がある音色で歌い上げ、いかにもヴァイオリンらしい甘さも感じさせ、胸にじんと響き渡る。こんな演奏を聴いていると、最近の古楽器演奏というものがいかに単一的で皮相なものかということを強く感じる。これらもすべてデュボワのよき相棒マースの伴奏だが、このCDにはマースの独奏が2曲、付録的に加えられている。
 いささかマニアックな情報も加えておこう。前出のフランクとドビュッシーそれぞれの『ヴァイオリン・ソナタ』はキャニオン/アルティスコのYD-3006(1977年発売)というLP復刻があった。この2曲の世界初復刻盤だったが、これが、なかなか優れた復刻なのだ。復刻の方法は「アートフォン・トランスクリプション・システム」とうたわれているが、実はどのようなやり方なのかは謎である。このLPの帯には「コルトー/ティボーと並ぶもう一つの決定盤!!」とあるが、これは決して大げさではないと思う。

 

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ニュルンベルクのクリスマス市――『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関紙「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』を出版して

桑原ヒサ子

 冬のドイツ観光といえば、定番は有名なクリスマス市を巡る旅だろう。クリスマス市はドイツ各都市で、旧市街の中央広場を会場にアドヴェント期間、すなわちクリスマスの4週間前から通常クリスマスイブまで開かれる。クリスマスイルミネーションに照らされる市場では、レープクーヘンやシュトレン、シュぺクラティウスといったクリスマス菓子や焼きアーモンド、焼き栗が売られ、カラフルなガラス玉やアドヴェントの星、ラメッタなどのツリー飾り、エルツ山岳地方の木製の煙出し人形のほか、さまざまな雑貨の屋台が200近くも並ぶ。体を温める飲み物といえばグリューヴァインで、これは温めたワインにシナモン、レモンの皮、チョウジ、ウイキョウを混ぜ、甘味を加えたものだ。
 この時期、ドイツ観光局、ドイツ大使館、さまざまな旅行会社はこぞってクリスマス市を紹介し、ドイツへの旅行を提案する。ドイツの3大クリスマス市といえば、世界最大のシュトゥットガルト、世界最古のクリスマス市の一つドレースデン、それに世界で一番有名といわれるニュルンベルクのことで、ニュルンベルクだけでも世界中から200万人から300万人もの観光客を引き付けている。このエッセーでは、ニュルンベルクのクリスマス市に注目してみたい。

 第二次世界大戦後の復興を経て、再びドイツの家庭はどこも同じようにクリスマスを祝うようになる。その定形は、『ナチス・ドイツのクリスマス』で明らかにしたように、ナチ時代に発行部数第1位だった官製女性雑誌「女性展望」がアドヴェント号とクリスマス号に掲載した記事が作り出したものだった。クリスマスがキリスト生誕の祝祭であるという理解はあるものの、クリスマスのルーツはドイツ固有の民族文化にあるという19世紀以来の「ドイツのクリスマス」という自負心がナチ時代に強化された。ナチ時代に周知された「家族のクリスマス」が戦後に復活したのと同じことが、ニュルンベルクのクリスマス市の復活にもみられるように思う。
 クリスマス市が立つ中央広場には、「美しの泉」(鉄柵の金の輪を握って願い事をするとかなうという言い伝えがある)やゴシック様式の聖母教会が立つ。ニュルンベルクのクリスマス市は「クリストキンドレスマルクト」と呼ばれ、金髪に王冠をかぶり、金色の天使の服を着た(子どもたちにプレゼントを与える)クリストキントに扮した若い女性が、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れて口上を述べる一大イベントで始まる。クリストキント役は市内在住の16歳以上の若い女性から選ばれるが、それは大変な名誉となる。

 この広場の歴史をたどるのもなかなか興味深い。
 ニュルンベルクの町はペグニッツ川の両岸に広がっている。12世紀によそから追放されたユダヤ人がやってきて、川の湿地帯に入植することを許される。14世紀にニュルンベルクの市壁が完成すると、ユダヤ人地区は街の真ん中に位置することになった。当時、ヨーロッパでペストが蔓延してユダヤ人がスケープゴートにされるなかで、皇帝カール4世はユダヤ人迫害を阻めず、1349年にニュルンベルクのユダヤ人地区でも迫害が起こり、560人のユダヤ人が殺害されている。1498年にはユダヤ人はニュルンベルクから放逐され、以後1850年まで家を構えることができなかった。カール4世は空になったユダヤ人地区に聖母教会を建設する許可を出したのである。
 クリスマス市がいつ始まったかは不明で、残存する史料によるとその歴史は17世紀後半までさかのぼれるという。その後、18世紀にはニュルンベルクの職人のほぼ全員、約140人が市で商品を販売する権利を獲得している。しかし、19世紀末になるとクリスマス市はその意味を次第に失い、街の周辺に追いやられた。それが国民社会主義の時代になると、長い伝統があるクリスマス市は、ニュルンベルクに「ドイツ帝国の宝石箱」というイメージを与え、年間祝祭カレンダーに入れるように利用された。1933年12月4日、アードルフ・ヒトラー広場と改名された中央広場で、神々しいほどロマンチックなオープニングの祝祭がおこなわれて、クリスマス市は復活した。市立劇場の若い女優レナーテ・ティムがクリストキントに扮し、2人の天使を伴って聖母教会のバルコニーに現れ、郷土愛あふれる口上を述べると、子どもたちの合唱が続き、教会の鐘の響きで締めくくられた。
 戦時中は空爆が激しくなる1943年以降のクリスマス市の開催は不可能だった。戦後初のクリスマス市は48年だというが、ナチ党と関係が深かったニュルンベルクは連合国の激しい爆撃を受けてがれきの山と化していたから信じがたい話である。いずれにせよ、ニュルンベルクのクリスマス市は戦後早い時期に、ナチスが33年にクリスマス市を復活させたときのオープニングをそのままに再開した。68年まではクリストキントに扮するのは女優だったが、69年から公募制に変更された。アドヴェントの第一日曜日前の金曜日に聖母教会のバルコニーに2人の天使にいざなわれて登場する金髪のクリストキントは、現在のニュルンベルクのクリスマス市の一大イベントになっている。

『ナチス・ドイツのクリスマス――ナチス機関誌「女性展望」にみる祝祭のプロパガンダ』試し読み

 

第21回 フアン・マネン(Joan〈Juan〉 Manen、1883-1971、スペイン)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

スペインの巨匠ヴァイオリニスト

 フアン・マネンはこれまで複数のヴァイオリニストと組み合わされたLPやCDしか発売されていなかったが、スペインのラ・マ・デ・ギドからマネン単独の2枚組み(LMG2170、2021年?)が発売されていたのには驚いた。早速、取り寄せようと思ったが、ヨーロッパでは中身がCDRである場合が散見される昨今である。しかし、届いたものは、幸いにもプレスされたCDだった。しかも、解説書も非常に充実していて、これまでほとんど知られていなかったマネンの経歴についても、かなり詳しく書かれている。以下に記す略歴は、LMG2170から抜粋したものである。
 バルセロナに生まれたマネンは、父によって育てられたといっても過言ではなかった。優れたアマチュア音楽家だった父は息子に4歳になるまでにソルフェージュとピアノを習わせた。5歳になるとマネンはヴァイオリンをヴィセンテ・ネグレヴェルニス、7歳のときにはクレメンテ・イヴァルグレン(ジャン・デルファン・アラールの弟子。アラールの師はエクトル・ベルリオーズと交遊があったフランソワ・アブネック)に学び、急速に上達する。この間、マネンは学校になじめず、わずか3カ月しか通っていないという。
 1893年、父からバレンシアに連れ出され、初めて公の場で演奏を披露した。そして、マネンが10歳になると、息子を全面的に支援するために、父は仕事を辞める。93年から96年まで父と子はアメリカ・ツアーを敢行、95年1月には初めてカーネギー・ホールで公演をおこなう。94年、ベルギーの巨匠ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイが私的な場で神童マネンの演奏を聴き、「非常に素晴らしいが、誰か手ほどきをする人物が必要」だと父に述べたが、彼は「私の耳が間違いを見つけたら、息子は解決します」と答えたという。また、ジェノヴァでパガニーニの唯一の弟子といわれたカミロ・シヴォリが若きマネンを聴き、「好きなようにやらせなさい。彼は生まれながらにしてヴァイオリニストだから、道筋は自分で発見するでしょう」と言ったという。このころからマネンは他人に頼らずヴァイオリンの腕を磨くとともに、数々の自作曲を書き連ねていった。
 1898年、マネンはベルリンに移住、そこでオットー・ゴールドスミスと出会う。ゴールドスミスはかつてサラサーテの秘書をしていた人物で、マネンは彼からさまざまな知識を得ると同時に、オイゲン・ダルベール、レオポルド・アウアー、アントニン・ドヴォルザークなどの音楽家と接し、のちにマネンの作品を出版するジムロック社のフリッツ・ジムロックとも知己を得た。ベルリン・フィルとも共演し、1900年にケルンでのリヒャルト・シュトラウスのピアノ伴奏によるものなど数々のリサイタルをおこなった。
 1904年11月、マネンはパガニーニの『「神よ王を救いたまえ」による変奏曲』を弾いた。これが大評判になり、ドイツ国内はもとより、広くヨーロッパに認知されて、パガニーニの後継者と見なされるようになる。イエネー・フバイは自作曲をマネンに捧げ、母国スペインのエンリケ・グラナドスやホアキン・ニンはピアニストとしてマネンとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを共演した。バルセロナではパブロ・カザルスのオーケストラに参加し、協奏曲ではブルーノ・ワルター、ヘンリー・ウッド、ウィレム・メンゲルベルク、エルネスト・アンセルメなどの名指揮者たちとプログラムにその名を並べた。
 マネンのレパートリーはパガニーニ、パブロ・サラサーテ、ヘンリク・ヴィエニャフスキ、ラフ、バッジーニ、サン=サーンスらがその中核にあり、モーツァルトやベートーヴェン、セザール・フランク、ブラームスのヴァイオリン・ソナタは一部しか演奏していなかったようだ。また、協奏曲のレパートリーも限定的であり、モーツァルト(『第4番』)、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、サン=サーンス(『第3番』)、マックス・ブルッフ(『第1番』『スコットランド幻想曲』)、ヴィエニャフスキ(『第1番』)、パガニーニ(『第2番』)程度だったという。
 マネン自身はレコード録音は決して好きではなかったようだが、それでもベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブルッフの録音が残っていたのは幸いだった。
 マネン最後の公開演奏は、1958年とのこと。亡くなったのは生地バルセロナ。
 さて、ラ・マ・デ・ギドの2枚組みだが、正規録音はもとより、ドイツやアメリカに保管されていた放送録音までもがすくってある。曲によって若干ノイズ・リダクションがきつすぎると思われるものもあるが、約40年間(1914年から54年)にわたる録音を網羅していて、マネンの実像がくまなく捉えられている点は高く評価されるべきだろう。
 まずはベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』。これは1916年に録音されたもので、最初の完全全曲録音であるイゾルデ・メンゲスよりも先に敢行された準全曲盤だった。ただ、このSPは世界的な珍品として知られている。世界的なコレクターだったクリストファ・野澤から直接耳にした話によると、屈強のコレクターたちであっても番号の欠けなくSPを持っている人はおらず、仮に彼らのコレクションを一カ所に集めたとしても、全部はそろわないということだった。この2枚組みでは第1楽章の最後の部分、マネン自身のカデンツァから、終わりの部分が収められている。自身のカデンツァを弾いているのは、多数の作品を残したマネンならではといえるだろう。なかなか聴き応えがあるカデンツァなので、たまにはほかのヴァイオリニストでも聴いてみたい。カデンツァが終わって、美しくしなやかなソロが少しだけ聴ける。
 このベートーヴェンだが、第2楽章だけがイギリスのパールの『THE RECORDED VIOLIN VOLUME Ⅰ』(BVA1〔3枚組み〕)のディスク2に収録されている(ここでは1922年ごろの録音と記されているが、16年が正しい)。この程度の録音でも、神秘的な雰囲気を漂わせる独特の音色をはっきりと認識できる。一日でも早く、全部のSPをそろえたうえで聴きたいものだ。
 1921年に収録されたメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』の第3楽章は、マネンの個性が明瞭に聴き取れる逸品である。テンポはかなり速いが、その軽やかさ、独特の音程の取り方、そして絶妙なテンポ・ルバートなど、ほかの多くのヴァイオリニストとは全く違う弾き方なのだ。伴奏はジョージ・W・ビング指揮、HMV交響楽団とある。資料をよく調べると、これまたベートーヴェンと同様、ほぼ全曲そろっている録音の第3楽章だけを収録したようだ。さらにベートーヴェンと同じく、SPは世界的な珍品なのだろう。
 もう一つ気になったのは、CDに記された1921年12月20日という録音データである。CDに表示されたSPのマトリクス番号を参照すると、クロウド・G・アーノルドの労作『The Orchestra on Record, 1896-1926』(Greenwood Press)では、このメンデルスゾーンは1916年1月発売とある。これまた有名なカタログで、ジェームズ・クレイトンの『Discopaedia of the Violin』(Records Past Publishing)では「1917年」と記されている。録音データの不一致は、次のマックス・ブルッフにも存在する。
 ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』はベートーヴェンやメンデルスゾーンとは異なり、完全な全曲録音である。データは1921年12月19日、伴奏はメンデルスゾーンと同じくジョージ・W・ビング指揮、HMV交響楽団とある。これまた非常に美しい演奏で、メンデルスゾーン同様にしなやかさと独特な音程の取り方、弾き崩しのうまさ(特に第2楽章後半)に感心させられる。この復刻は、第3楽章で面が切り替わる箇所でダブった音をカットせずにわざわざトラックを分けてある配慮はいいと思うが、第1楽章冒頭のティンパニーの弱音のトレモロを編集ミスで収録し忘れ、いきなり管楽器の旋律から始まっているのはいただけない。ラッパの吹き込みで収録してもノイズに埋もれて聴き取れないから、初めからカットしたのではないかと言っていた人もいたが、それはありえないと思う。
 このブルッフの協奏曲だが、前出のアーノルドのそれと比べると、SP番号、マトリクス、録音データなど、CDの表記と全く一致しない(アーノルドの『The Orchestra on Record, 1896-1926』では伴奏は単に管弦楽伴奏とあり、指揮者名はない)。CD化に際しては、当然だが現物から音を採っていることは間違いない。そうなると、仮に録音データが正しくなくても、少なくともSP番号とマトリクスの表記はCDのほうが正しいと考えるべきだろう。
 放送録音では1937年に収録された3曲が聴き物である。有名曲だから、マネンの個性を多くの人に納得してもらえる内容だ。まず、バッハ(ヴィルヘルミ編)の『G線上のアリア』。これが実に摩訶不思議な演奏である。マネンはSP時代のほかのヴァイオリニスト同様に、ポルタメントを使用しながらも実に自由に弾いているのだが、そのテンポの揺らし方や間の取り方に類例が見いだせないのだ。もちろん、この曲のすべての演奏を聴いたわけではないが、いままで聴いたなかでも最も個性的であることは確かである。 
 モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第40番K.454』から第1楽章が収録されている。テンポの取り方はオーソドックスといえる。しかし、その独特のポルタメントというか、瞬間芸のようにふっと空中に舞うような音のすべらせ方はマネン独特である。全曲ないのが惜しい。
 シューベルトの『アヴェ・マリア』も異色の演奏。テンポは非常に遅い。それだけではなく、途中ではテンポがさらに遅くなり、夢のなかにどんどん溶け込んでいくような気分にさせられる。
 マネンはヴァイオリン用の作品を数多く残したことでも知られるが、この2枚組みにも1930年代、50年代の自作曲が含まれている。曲そのものの豊かな色彩に魅せられるとともに、特に50年代(60歳代後半から70歳ごろ)であっても依然として技巧は確かだったことも確認できる。たまたま気がついたことだが、ラ・マ・デ・ギドに収録されているマネンの自作曲2曲『コンチェルト・ダ・カメラ』と『エチュード作品A8、No.2』(以上、1950年録音)が、クレイトンのカタログでは希少盤として知られるトマス・クリアのLP(TLC-2586/3枚組み)に含まれていると記されているが、実際は前者だけである。
 最晩年の録音は1954年のフランソワ・シューベルトの『蜜蜂』である。もう70歳を超えているときのものだが、実にしっかりとした表現力が感じられ、やはり並の奏者ではない風格がある。
 その他のCDでは、サラサーテと一緒になった英シンポジウムの『The Great Violinists Volume ⅩⅩⅠ』(1328)にマネンが9トラック分入っている。曲目の大半がラ・マ・デ・ギドの2枚組みとダブっているが、そのなかに同じくメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』の第3楽章が収録されている。これはラ・マ・デ・ギドとは別演奏のようだ。しかし、このシンポジウムのCDにはマトリクス番号しか記されておらず、録音データや伴奏者についての情報がなく、不親切。フェルディナント・エロールの歌劇『プレ・オ・クレール』やモーツァルトの歌劇『羊飼いの王様』からのアリアがあり、CDには歌手名がヘドヴィヒ・フランキロ=カウフマンとあるが、伴奏者は明記していない(クレイトンではWeyersberg指揮、ベルリン交響楽団とある)。これはこのCDでしか聴けない貴重なものだが、ここではマネンは伴奏者、準主役といったところだろう。
 同じくラ・マ・デ・ギドから2004年ごろに発売されたエドゥアルト・ドルドラ、フアン・マッシアと一緒になったCD(LMG3061)を持っていたのを、すっかり忘れていた。このなかでフランソワ・シューベルトの『蜜蜂』は2枚組みと同一の演奏である。SP復刻によるマネンの『リート』(おそらく作品A8、No.1、CDには表記なし)、サラサーテの『ホタ・アラゴネーサ』はこのCDでしか聴けないもののようだが、マトリクスの表記はなく、おまけにクレイトンのカタログとは番号が逆になっていて(067921と067922)、どちらが正しいのかがわからない。1954年の録音であるサラサーテ(マネン編)の『セレナータ・アンダルーサ』も、このCDでしか聴けないようだ。
 CDのいちばん最後には、1948年にどこかの音楽祭で収録したマネンのスピーチが入っている。最初にしゃべっている人物が「マエストロ、フアン・マネン」と言っているので、おそらくは2番目にしゃべっているのがマネンだと思われるが、現地語の表記しかないので(解説書にある英文の解説は、短い履歴しかない)、詳しいことはわからない。
 ヨーアヒム・ハルトナックの『二十世紀名のヴァイオリニスト』(松本道介訳、白水社、1971年)にはマネンに関して以下のように記している。「マネンのヴァイオリニストとしての腕は、もっぱら前世紀後半のサロン様式の影響下にある音楽料理にささげられていた。彼の偉大な模範たるサラサーテは、少なくとも部分的には成功さえしていたのだが、マネンは、優雅なサロン風ヴィルトゥオーソに終わってしまった」。マネンのレパートリーや、彼が書き残した作品などを俯瞰すれば、この言葉は全く的を射たものであるだろう。しかしながら、それでもなお、個人的には非常に気になるヴァイオリニストの一人であり、それは今後も変わらない。

 

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第20回 ルネ・シュメー(Renee Chemet、1887または1888-?、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

宮城道雄とも共演したフランスの逸材

 1932年4月7日、フランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと、ピアニストのアンカ・セイドゥロヴァを乗せた浅間丸が横浜港に到着した。シュメーは国内で数々のリサイタルをおこない、日本の箏曲家・作曲家の宮城道雄と共演し、レコード録音までおこなった。そのため、シュメーは日本にとって忘れがたい演奏家の一人である。
 シュメーは1888年、フランスのブローニュ=シュル=セーヌ(現ブローニュ=ビヤンクール)に生まれた。最初は声楽を学び、のちにヴァイオリンに転向、パリ音楽院でアンリ・ベルトリエに学んだ。のちにコロンヌ管弦楽団のソリストになり、ロンドンではヘンリー・ウッドが指揮するプロムナード・コンサートに出演、「ザ・チャーミング・アンド・スタイリッシュ・シュメー」と称される。ベルリンでは アルトゥール・ニキシュ、ウィーンではマーラーに認められ、ウィレム・メンゲルベルクとも共演している。1920年代から30年代がシュメーの全盛期だったようで、その後の活動については全く知られていない。なお、英語の「ウィキペディア」には1887年1月9日に生まれ、1977年1月2日に89歳で亡くなったと記されているが、真偽については不明。
 1930年代までがシュメーの実質的な活動期間だったためか、彼女の録音は基本、小品しか残っていない。しかし、あらためてシュメーの録音をまとめて聴いたのだが、思った以上に底力があるヴァイオリニストだと痛感した。彼女単体のCDがこれまで発売されていないのは(LP復刻も同様だったと思う)、全く不当な扱いといえる。
 以下は主にSPを聴いたもので、過去に何らかの形でCD化されたものはその旨を記してある。聴いたなかで最も古いものはガエターノ・プニャーニ(フリッツ・クライスラー編)の『序奏とアレグロ』(HMV 3-07920、1920年)である。ピアノはマルグリート・デルクール。序奏は間を大きめにとり、リズムはえぐるように力強い。ポルタメントも濃厚。アレグロに入ると、そのスピード感としゃれた崩し方が録音の古さを超えて伝わってくる。この曲の演奏でも、最も個性的な部類だろう。
 同じくラッパ吹き込み(アコースティック)の逸品はエドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』だ。これは第1、2、5楽章だけを片面(裏面は空白)に強引に収録したもので、カットはあるし、ピアノ伴奏ということで状況的には不利だが、演奏内容はかのジャック・ティボーにも匹敵する(HMV 3-07936、3-07937、3-07938、1921年)。最初このSPを入手したとき、てっきり「半端物(全曲そろっていないSP盤はこのように呼ばれる)」かと思っていたら、この3つの楽章しか録音されていないということだった(のちに別の曲と組み合わせて、SP盤2枚4面で再発売されている)。いずれにせよ、この遊び心と変わり身の早さは並みのものではなく、カットなしの全曲があればどんなによかっただろうと思わざるをえない。シュメーはティボーの演奏を聴いて影響を受けたかどうかは全くわからないが、両者を比較するとシュメーのほうがずっと男性的で力強い。なお、この片面盤のSPにはピアニスト名は記されていないが、HMVのカタログにはハロルド・クラクストンとある(再発売盤DB473、474にピアニスト名があるかどうかは未確認)。また、手元にあったプログラム(1932年5月28日、神戸)にもラロの『スペイン交響曲』が挙がっているが、このときは第1、4、5楽章が演奏されていた。
 ここから先は電気録音。サン=サーンスの『序奏とロンド・カプリツィオーソ』(HMV DB887、1925年)もピアノ伴奏(クラクストン)ながら、両面にカッティングされていて、ラロのようなカットだらけのストレスはない。序奏は呼吸が深く、押し込むようなポルタメントがいかにもシュメーらしい。ロンドに入っても軽やかな身の運びと、濃淡を使い分けた甘さが実に見事。このSP盤は未入手で、「フランス・ヴァイオリンの粋を聴く」(CPCD-2006)(「クラシックプレス」第13巻付録、音楽出版社、2002年冬)を聴いた。
 同じくSP盤は聴いたことはないが、『フランスのヴァイオリニスト』(グリーンドア GDCS0027)というオムニバス盤にシュメーが1曲だけ、ヴィエニャフスキの『華麗なるポロネーズ第2番』(1925年。録音年はCDではなくHMVのカタログによる)がある。これまた技巧の確かさと表現の多彩さがいかんなく発揮されていて、逸品だろう。ピアノはクラクストン。
 チャイコフスキーの『夜想曲』、ハイドンの『メヌエット』がおさまったSP(HMV DB910、1925年)もシュメーらしさが十分にうかがえる2曲である。ピアノはハリー・コーフマン。
 フランツ・ドルドラの『スーヴニール』(HMV DA811、1926年)は、シュメーの録音のなかでも屈指の出来栄えではないだろうか。開始早々、振り子のような絶妙なテンポ・ルバートに乗つた甘味音満載の旋律をちょこっと聴いただけで、体がとろけてきそうである。名曲だから録音も非常に多いが、シュメーの演奏は極私的3本指の一つだ。同じSPに含まれるポルディーニ(クライスラー編)の『踊る人形』(同じく1926年)もすばらしい。ピアノはともにデルクール。なお、『スーヴニール』は前述のCPCD-2006にも含まれる。
 メンデルスゾーンの『春の歌』(無言歌より)も、いかにもシュメーらしい傑作である(日本ビクター VE1037、1926年)。この甘く切ない表情は『スーヴニール』と同等といっていい。ファリャの2曲を収めた『ムーア人の衣装』(7つのスペイン民謡)、『ホタ』(HMV DA814、1926年)も聴きもの。ことに前者のむせかえるような情緒は印象的だった。
 エンリコ・トセッリとガブリエル・ピエルネの、それぞれ『セレナード』(日本ビクター VE1302、1927年)を収めたものもよかった。特にトセッリの柔らかく、ささやくような歌は一級品である。
 モーツァルト(クライスラー編)の『ロンド』(日本ビクター VE7253、1929年)も傑出した演奏として記憶されるべきものである。主部は非常に勢いがあってスリリングであり、中間部は一転して上品な甘美さにあふれ、この対比が全く見事。この『ロンド』は『ヴァイオリンの名演奏家達――女性編』(ARC T20P503)で聴くことも可能(ただし、廃盤で入手が難しいかも)。
 ヴィクター・ハーバート(ともにシュメー編)の『揶揄』『スウィート・ハーツ』抜粋(日本ビクター VE1498、1930年)は、曲としてはそれほど有名ではないが、録音がかなり明瞭であり、シュメーの個性が非常によく聴き取れる。『揶揄』はかつてシュメーと来日したセイドゥロヴァの伴奏。『スウィート・ハーツ』はオルガンや鐘が入り、ちょっと面白い響きがする。 
 録音データは判明できなかったが、『懐かしいヴァージニア』(日本ビクター VE1552)も音質がよく、シュメーを楽しむのには好適である。ピアノはセイドゥロヴァ。
 シュメーが宮城道雄と録音した『春の海』(日本ビクター NK3002、1932年、LP復刻、CD復刻多数)は、聴きえたなかでは最も後年の録音ということになる。演奏は、和と洋がまことに美しく調和、融合されていて、シュメーの録音のなかでも独特の魅力をもっている。
 この録音セッションが組まれたのは、おおむね以下のような経緯だった。シュメーが琴に興味があることを知った評論家の須永克己は、このことを宮城道雄に話をし、後日、須永はシュメーを連れて宮城の自宅を訪問した。シュメーは宮城が演奏する琴に非常に感銘を受け、特に『春の海』を気に入り、彼女は宮城にヴァイオリンと琴のための編曲を申し出た。宮城はこれを快諾、楽譜をシュメーに手渡すと、彼女は一晩で編曲版を完成させたという。後日、再度シュメーは宮城宅を訪れ、この編曲を2人で試奏、たった一度でぴたりと合ったという。この『春の海』のシュメー版の初演はシュメーの告別演奏会だった5月31日に日比谷公会堂でおこなわれ、アンコールされたという。
 シュメーと宮城の共演盤は7月に10インチのSPで発売されたが、日本ビクターは値段を安く設定した効果もあって、当時としては破格の1万数千枚売れたという。のちにフランスやイギリスでも発売されたこの演奏だが、不思議なことに収録に関する情報(日付や場所)が全く得られない。唯一判明したのは、3通りのテイクを作って試聴し、そのなかで最も出来がいいとされたものが発売されたということ。複数の資料によると、別テイクが発売されたと記したものもあるが、これについても、よくわからない。私見では、一種類だけが市販されたような気がするが。

 

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本を書くというメディア実践――『ケアする声のメディア――ホスピタルラジオという希望』を出版して

小川明子

 私は小さいころ、父母にお話をしてもらわないと眠れない子どもだった。父が適当に話を終わらせようとすると、首根っこをつかまえて、ちゃんと納得するまでお話をしてもらわないと眠らないやっかいな子どもだった。自分で本が読めるようになると、布団にもぐって寝たふりをしながら、懐中電灯の明かりで、夜遅くまで物語を読んだ。眠くなってきて目を閉じると、襖の向こうから聞こえてくる両親の話し声に安心して、ようやく眠りに落ちる。子どものころの私が欲していたのは、物語だったのか、それとも父母の声だったのか。私の単著1冊目は物語を作って語ることをテーマにした(『デジタル・ストーリーテリング――声なき想いに物語を』リベルタ出版、2016年)。2作目になる今回は「声」がテーマだ。
 こうした子どものころの経験が影響してか、私はラジオが好きだ。中高生のころは深夜ラジオに社会や人生を教えてもらい、いまも朝から晩までラジオを聴いている。正確にはスマートフォン(スマホ)アプリのradikoとかポッドキャスト(Podcast)だけれど、ニュースでさえも声で聴くほうが落ち着く。ラジオや新聞、ネットでニュースを見聞きして大谷翔平が相当有名になってから顔や動きを知ることになって笑われたけれど、新型コロナウイルス感染症拡大のニュースはそれまでさほど怖くなかったのに、テレビで人工呼吸器につながれた若い人の映像を見た途端に怖くなってしまった。映像は良くも悪くも衝撃的だ。
 幸か不幸か、本書はコロナ禍に書くことになった。イギリスでのインタビューも、藤田医科大学での実践もコロナのせいで自由に調査できず、ずいぶん出版が遅れてしまった。しかしだからこそ、この間にあらためてラジオの力が見直されてきた。本書以外にも2023年から24年にかけて、これまでほとんど学術的なテーマとして扱われてこなかったラジオに焦点を当てた書籍が、日本で次々と出版されている。本書のテーマでもあるケアする声のメディア、イギリス発祥のホスピタルラジオにもメディアの注目が集まり、その意義があらためて見直された時期でもあった。
 ホスピタルラジオをめぐる書籍は、私が知るかぎり、イギリスにも見当たらず、ウェブサイトでホスピタルラジオの歴史をつづっていた(数年前に閉鎖されている)Goodwinを探し出してUSBで原稿をもらって教えを請うた。イギリスのホスピタルラジオに実際に行ってみると、ボランティア側がラジオで話したいという欲望も強く、聴いている患者のほうがボランティアをケアしているような側面もあって、本家イギリスでアカデミアの関心が得られなかった理由もおぼろげながら理解できた。
 人文社会系の学問がどんどんエビデンスや客観性を重視する時代になるなかで、学術的に扱うのが難しいテーマをなんとか書籍にして世に出したいと思ったのは、「声」がもつケア的な側面にもっと関心が寄せられてもいいのではないかと強く感じているからだ。社会人としてのスタートを放送局で始めた私は、専門家だけが読む小難しい本としてではなく、関心をもつ誰もが手に取ってもらえるような本にしたかった。そして、青弓社の編集のみなさんは期待以上の本にしてくださった。
 ありがたいことに、本書を取り上げる書評も現れ、NHKのラジオなどでもコメントをする機会を得た。そこからのつながりや動きも生まれ始めている。これまで「メディアを作ってちょっとだけ社会を変える」をモットーに、研究と実践の間を進んできた。単なる学術書として閉じるのではなく、現実をちょっとだけ変えていくような書籍になったら本望だ。本を出す、ということはメディア実践だとあらためて実感した。孤立状態にあって、誰かの温かな声を求めている人、そして声で誰かを励ましたいと思っている方々に届きますように。

『ケアする声のメディア――ホスピタルラジオという希望』詳細ページ

 

実存を懸ける――『野球のメディア論――球場の外でつくられるリアリティー』を出版して

根岸貴哉

「実存を懸けてやりなさい」
 これは、敬愛する師、谷川渥先生からいただいた言葉だ。

 2018年7月、猛暑の京都。壇上でぼくは博士論文の構想発表をしていた。このプロセスを通らないと、博論を提出することができない。

 ぼくが所属していた立命館大学の先端総合学術研究科、通称「先端研」の博論提出の要件。それは、前述した構想発表で認められることと、査読論文が3本以上あること、そして、既定の年数以上所属していることである。先端研は一貫制博士課程のため、1年次から入学していれば5年以上、3年次からの編入であれば3年以上、ということになる。
 先端研の人々は、この構想発表をおこなってから数年後に博論を提出している。博士論文とはなんだろう。ある人にとってそれはひとつの象徴的な通過儀礼かもしれないし、もしかしたら「ただの書類」かもしれない。しかしある人にとっては、それはひとつの到達点であり、集大成になりえるものだろう。
 建前をいうなら、そりゃあ「到達点」としてあるべきだ。だから、構想発表をしてから数年という時間をかけて書き上げる。そういうものなのだろう。では、ぼくの博士論文はどうだったのか。その評価は、博論をベースにした単著『野球のメディア論』を読んだ方々におまかせしたいと思う。いや、大幅に加筆・修正をした単著で博論の評価をあおぐ、なんてずるいだろうか。ならばあえて自己評価をしよう。端的にいってしまえば、ぼくの博論は急ごしらえで書いたものだ。なにせ、ぼくは構想発表の3カ月後には博論を提出していたのだから。
 本来なら数年かけて出すものを3カ月で書く。構想発表をしたあとすぐに書き始めていたわけではないから、実際にはもっと短い時間だったと思う。時間が圧縮されていた。もう一度やれ、と言われたら無理だと思う。後日、主査の先生にそんな話をしたら「博士論文なんて人生に一度だけだから」と言われた。そりゃそうだ。

 なんでそんなことになったのか。時を戻して2018年9月。ぼくは指導教員だった吉田寛先生の異動を知る。博論提出の締め切りまではあと1カ月しかない。ぼくからしたら、博論の提出も確かに人生一度だけだが、師事していた教員が突然来年度にはいなくなるなんてこともなかなかない事態である。さらに、 締め切り2、3週間前には、副査を務めていただいた木村覚先生も、来年度はサバティカルで日本にいないと知る。どうやったって、10月の締め切りがラストチャンスである。
 そこからのことは、もうあまり覚えていない。ただ、博論の書き下ろし部分、すなわち単著の序章と第5章、第6章はいずれもこの期間に書いた。形式や前後の章のバランスを整えたのも、もちろんこの期間で、である。 だから大幅な加筆・修正をして単著として出版することができたのは幸甚だった。
 口頭試問、それを受けての修正、そして公聴会やその他の書類処理をして、なんとか3月に修了し、博士号を取得した。その後、数カ月から一年間はずっとぼんやり状態だった。世の中がコロナ渦になっているなか、ぼくもまた燃え尽きて停滞。副査を務めていただいた竹中悠美先生から、先端研の研究指導助手のオファーをいただくまで、ぼんやりと研究を続けながら日々を過ごしていた。

 助手になった2023年、春。経済状況と自身のぼんやり状態がマシになってきて、ようやく出版に向けて準備を進め始める。吉田先生に連絡をして、紹介してもらったのが青弓社だった。出版に向けた打ち合わせの際にリライトのスケジュールを聞かれ、博論のときと同じ感覚で執筆計画を提案すると、「本当に無理をしないでください」と言われた。どうやら、ぼくの執筆スケジュール感覚は麻痺していたらしい。

 博論のリライトを進めていた2023年8月、ある日の夜のこと。目を閉じて、目を開けると、……黒いものが見える。黒カビが浮いた水のなかに、左目だけがあるような感じだ。急いで目を洗いにいくも、取れない。次第に黒カビはどんどん広がっていって、気づけば黒いカーテンの隙間から覗いて見えている程度の視界しかなくなってしまう。
 次の日の朝、急いで眼科に行くと、診断は「左目網膜剥離」。眼底出血がひどいらしく、翌日、大きな病院で診断を受けてください、とのこと。

「終わった」と思った。

 博士論文のタイトルは「野球視覚文化論」である。そう、「視覚文化」である。視覚文化の研究者が視覚を失ったらその資格も失う、なんて冗談でも笑えない。
 博論の副査を務めていただいた竹中先生からは「単著が出たら景色変わる」と言われていたが、まさかこんなかたちで景色が変わってしまうとは。
 次の日、京都府立医科大学付属病院にて、やはり「網膜剥離」と診断され、2日後には手術を受けた。
 まるで『アンダルシアの犬』(監督:ルイズ・ブニュエル、1928年)のようだな、と思いながら手術を受けた(めちゃくちゃ怖かった)。術後はしばらくうつ伏せで過ごさなければならない。ちょうど甲子園で高校野球をやっている時期だった。しかし、見れない。怖くて左目は使えないし、目が疲れてしまうから右目もなるべく使わないようにしていた。それでも結果は気になるし、入院生活でできることも少ないため、野球中継だけはつけていた。
「カッ」という音なのか「カッキーン」という音なのかで、こすったのか芯でとらえたのかがなんとなくわかるようになってきたあたりで、退院を迎えた。それでも、しばらく日常生活は不便なものだった。なんとか見えるようにはなったものの、とにかく左目は何を見てもまぶしく感じてしまう。左目にタオルを巻いて生活する日々だった。
 手術の前後はまったくリライトが進まず、提出が遅れてしまう旨を出版社に伝えた。これはもう間に合わない、だめかもしれない……と思いながらやっと完成した章を送ると、それでも「速いペースで進んでいる」とのこと。麻痺したスケジュール感覚は、まだ戻っていないようだった。それからも、順調なペースでリライトは進んだ。

 時はとんで2024年2月。校正が始まる。いろいろな事情が重なって、本来の校正スケジュールではなかなかありえないタイトなスケジュールとなった。 合間に助手の業務と自身の発表をこなしながら、校正は助手の同僚であった駒澤真由美さん、吉野靫さんの助力もあってなんとかなった。もちろん、編集者の矢野未知生さんや、青弓社の方々にも本当に助けられた。同時にカバーデザインにもちょっとした仕掛けを作ったりした。
 序章のタイトルを求められたのも、この時期だったと思う。大谷翔平選手が全国の小学校にグローブを贈った際の言葉「野球しようぜ」を少し変えて、「野球観ようぜ」とした。本当にギリギリの修正だった。
 博論のときと同じような切迫感、締め切りに間に合わないかもしれないという焦燥感を味わった。校正が終わってからしばらくダウンするだろうなあ、なんて考えていたら新型コロナウイルスに感染した。作業が終わったあとで本当によかったと思う。

 そして2024年3月、出版に至った。その直後、ぼくはまた肝を冷やすことになる。
 読者のなかにはお気づきの方もいるかもしれない。そう、大谷選手の通訳を務めていた、水原一平氏の事件である。いまでこそ、大谷選手は被害者だ、ということになっている。しかし、報道が出た当時は大谷選手も共犯が疑われたり、自身が野球賭博に関与している場合にはメジャーリーグから永久追放も……などと噂されていた。焦る。著作と人格は別物だといっても、まさかこんなことになるとは。いまから出版の差し止めなんてできるはずもない。信じて祈るしかできない。出版の実感が湧く前に、出版されてしまった、と焦ることになるなんて。

 思えば、修士論文に相当する博士予備論文の執筆時には喉を壊して、主治医から「今夜が峠だな」と告げられた。その後も比喩ではなく血反吐を吐きながら死線をくぐり、なんとか書き上げた。博論のときは、主査の異動に伴う圧縮されたスケジュールと締め切り。今回は、網膜剥離による「研究者活動」の死線と、相変わらずタイトになってしまった締め切りを乗り越えた。大きな締め切りのたびに実存を懸けて、そのつど――筋書きのない――ドラマが生まれる。
 タイトルをつけるなら、『デッドライン』。……いやいや、それじゃあ千葉雅也先生の小説じゃないか。あんなにすばらしい小説はぼくには書けない。できることはただ、締め切りと死線を、そのたびに実存を懸けて乗り越えることだけ。そんな成果物をぜひ読んでいただきたい。

『野球のメディア論――球場の外でつくられるリアリティー』詳細ページ

 

第19回 ミゲル(ミケル)・カンデラ (Miguel〔Miquel〕Candela、1914-?、1877-1957?、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

ヴァイオリン美の化身

 拙著『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、2008年、絶版)をしたためるためにサン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』の世界初録音を調べていたとき、ミゲル・カンデラの独奏、フィリップ・ゴーベール指揮、パリ音楽院管弦楽団のSP盤に出合った。自分が手に入れたのは日本コロムビア盤(J-7739/42)だったが、盤質もよくて非常に聴きやすく、それ以上にカンデラの絶妙なソロにたちまち魅了されてしまった。ほどなく、これは1928年(1929年説もある)録音と判明したが、これをなんとか形にしたいと思い立ち、季刊「クラシックプレス」(第13巻、音楽出版社、2002年冬)の付録CD(CPCD-2006)として、自分の手で初めて復刻した。
 とにかく、ヴァイオリンはいうならば、甘く弾いてナンボの楽器である。それを、とてもうまく表現したのがカンデラの独奏である。言い換えれば、どう弾けば聴衆がうっとりしてくれるか、そのツボを知り尽くしているような感じだ。ポルタメントの使い方も、あまたの奏者のなかで最もなめらかで堂に入っていると思う。
 ところで、このカンデラは一般的には1914年、パリ生まれとなっている。弦楽器の世界的な権威であるタリー・ポッターもイギリスPearlから発売された『THE RECORDED VIOLIN VOLUMEⅡ』(BVAⅡ)の解説書で「1914年生まれで、サン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』を録音した」としている。没年はインターネット上に2000年と記したものを見たことがあるが、これが正しいかどうかはわからない。
 しかし、現在では閉鎖されてしまったパリ音楽院のウェブサイトに、「ヴァンサン・ミシェル(ミゲル)・カンデラ、1877年パリ生まれ、1957年没。1907年、パリ音楽院管弦楽団に加入、1937年に引退。数種の録音で独奏を務めた」と記してあったのを見たことがある。つまり、同姓の親子ヴァイオリニストが存在したようなのだ。実際、後述するMelo ClassicのCDの解説には、息子の最初のヴァイオリンの先生は父だと記してある(カンデラのSPのレーベル面には名前のミゲルMiguel、そしてスペイン風のミケルMiquelの2つが混在しているが、理由は不明である)。
 もしも1914年生まれの息子が上記のサン=サーンスを録音したとなると、13歳から15歳のときということになる。神童に協奏曲の全曲録音を、しかもそれまでに誰一人として収録していない作品を託すということは、絶対にありえないとはいえない。だが、この手練れのような熟した大人の雰囲気がたっぷりの独奏を聴いていると、1877年生まれの父の壮年期(50歳前後)の記録としたほうがぴたりとくるような気がする。それに、今回あらためて聴き直して感じたのは、右手の運弓の加減によってわずかに音が薄くなったり、切れが鈍かったりする箇所が散見されたことも、父の演奏ではないかという思いにつながる。若い奏者だったならば、音の粒立ちはもっと明瞭なはずである。
 ただ、別の疑問も浮かび上がる。カンデラのもう一つの大物録音にはグラズノフの『ヴァイオリン協奏曲』(フランス・コロンビア LFX645/7)、ロジェ・デゾルミーエール指揮、ピエルネ管弦楽団が存在する(この音源はインターネット上にはあがっているようだが、この種のものは信用していない)。これは1943年録音とされるので、そうなると37年に引退したという記述とかみ合わなくなる。むろん、引退は公的な場での活動であり、ヴァイオリンを弾くことはやめていなかったとも推測できなくはないが。
 残念なことに、過去にCD化されたカンデラの録音は非常に少ない。先ほど触れたPearlのCDにジュゼッペ・タルティーニの『グラーヴェ』(1937年録音、ピアニスト不詳)が含まれている。これも非常に美しいが、サン=サーンスでのソロに比べると、若干個性が薄い。
 放送録音ではパガニーニの「「こんなに胸さわぎが」による序奏と変奏曲」(『タンクレディ』より)(Melo Classic MC2016、1955年、モノラル、ピアノはシモーヌ・グア)がある。これは現在知られているなかではカンデラの最も後年の録音にあたる。これも透き通った美音が印象的な演奏だが(音質も良好)、タルティーニ同様、それほど濃厚な演奏とはいえない。
 カンデラの小品のSPは、手元に2枚ある。ともに10インチで、マスカーニの「シシリエン」と「間奏曲」(『カヴァレリア・ルスティカーナ』より)(フランス・サラベール 325)と、イサーク・アルベニス(クライスラー編)の『タンゴ』、ショパン(クライスラー編)の『マズルカ 作品67』(フランス・コロンビア LF32、ピアノはともにモーリス・フォーレ)である。
 マスカーニの2曲は聴いた感じではアコースティック(ラッパ吹き込み)録音のようだが、サン=サーンス同様、甘さをこれでもかとまき散らした演奏である。音はさほどよくないが、カンデラの強烈な個性ははっきりと聴き取れる。
 アルベニスとショパンは電気録音で、音質は格段に明瞭になっている。おそらくは1920年代の後半の録音だろう。2曲ともに2分弱の短い演奏だが、その魅惑は時間以上に充実した喜びを感じさせてくれる。
 なお、サン=サーンスとLF32のSP番にはミケルMiquelと表示してあるが、サラベールのSPでは姓のカンデラだけが表記されていた。
 今回は手に入れにくい音源を中心に原稿を進めてしまい、申し訳ない気持ちもある。しかし、サン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』を聴き直していて、この録音が少年のものとはどうしても思えないのである。こんなことはまずありえないとは思うが、カンデラと表示された録音のなかで、ひょっとしたら父と息子の演奏が混在しているのではないかとさえ感じる。
 古い録音をたどっていく場合、フランス関連のものは糸口がつかみにくい。したがって、これを書くことによって情報が少しでも拡散し、何らかの新情報が明らかにされることへの期待もある。

 

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第18回 ジャンヌ・ゴーティエ (Jeanne Gautier、1898-1974、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

知る人ぞ知る、フランスの表現巧者

 パリ音楽院でジュール・ブーシュリのもとで学んだヴァイオリニストにはジネット・ヌヴー(1919年生まれ)、ミシェル・オークレール(1924年生まれ)、ジャニーヌ・アンドラード(1918年生まれ)、ローラ・ボベスコ(1921年生まれ)、アンリ・テミアンカ(1906年生まれ)、ドゥヴィ・エルリ(1928年生まれ)などがいるが、その門下生のなかで最も先輩格だったのがジャンヌ・ゴーティエである。このなかでは今日、ヌヴーが特に神格化されているが、ゴーティエはそのヌヴーにも劣らない底力があるヴァイオリニストだったように思う。
 ゴーティエは1898年9月18日、パリ近郊のアニエールに生まれる。4歳でヴァイオリンを始め、7歳のときから正式にレッスンを受ける。パリ音楽院でブーシュリのクラスに入り、1914年に一等賞を得た。翌年からソリストの活動を開始し、各地を訪問。39年にオーストラリアを訪れ、大戦中はメルボルンに住む。45年、フランスに帰国、52年(1950年説もある)からは、ピアニストのジュヌヴィエーヴ・ジョワ、チェリストのアンドレ・レヴィらと「トリオ・デ・フランス」を結成した。並行してリヨン音楽院で後進の指導にもあたる。63年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られる。74年1月6日、ヌイイ・シュル・セーヌで死去。以上がおおまかな経歴だが、人間性についての話は、残念ながらわかっていない。
 ゴーティエの正規録音はSP時代の器楽、室内楽の分野に限られていて、LPに復刻されたものも、ほとんどなかったように思う。したがって、私自身もゴーティエを意識しはじめたのは比較的最近のことである。
 ゴーティエ単体で正規録音をまとめたCDはグリーンドア音楽出版から発売されたGDCS-0026が唯一である。これにはおもにフランス・オデオンで発売されたものを中心に復刻したものだ(特に明記していないもの以外は、ピアニストは不詳)。CDはまず、作曲家ホアキン・ニン自身のピアノ伴奏によるニン(パウル・コハンスキ編)の『20のスペイン民謡集』から4曲で始まる。ゴーティエの音色はいかにもしゃれていて、明るくしなやか。これら4曲に全くふさわしい弾き方である。次は名曲、ジュール・マスネの『タイスの瞑想曲』。テンポは素っ気ないほどに速いが、上品な甘さと横揺れの巧さが光る。フリッツ・クライスラーの『中国の太鼓』はおそらく最もテンポが速い部類に属するだろう。その果敢な勢いは胸をすくようだが、中間部の歌い方が、これまた実に堂に入っている。ガブリエル・フォーレの『子守歌』、決してべたべたしないのだが、その柔らかさとほのかな甘さは最上質だろう。フランソワ・シューベルト(シュベール)の『蜜蜂』は、その滑らかさが絶品。ヴァイオリニストの音色を決めるのは右手といわれているが、その技巧の確かさがここにも現れている。クライスラーの『愛の悲しみ』も歌い方が実に独特で、やるせなさをしっかりと表現していると思う。そのほか、イェネー・フバイの『そよ風』、ドビュッシーの『レントよりおそく』なども粋な雰囲気にあふれた演奏だが、ジョージ・ガーシュウィン(サミュエル・ドゥシュキン編)の『短い話』のユニークな表情も忘れがたい(以上の小品は1927、28年の録音)。
 いちばん最後にはイヴォンヌ・ルフェビュールがピアノ伴奏を務めたモーリス・ラヴェルの『ヴァイオリン・ソナタ』(1950年録音)が収められている。この曲はゴーティエにぴったりの曲といえるが、なかでも第2楽章「ブルース」は強烈だ。背筋がぞくぞくするような、粘り気たっぷりの妖艶さであり、ゴーティエの真骨頂かもしれない。
 なお、グリーンドアのCDの解説書には、このラヴェルは音質を考慮し、Le Chant du Monde のLP(LDY8115)復刻ではなく、あえて同レーベルのSP(5056-7)を使用したとある。インターネット上では、これらのSPとLPは別音源とする記述もあるが、おそらくその可能性はないと判断している。
 また、ゴーティエにはチェリストのレヴィと演奏したラヴェルの『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』(Le Chant du Monde LDZ-M8145)もある。これはたしか、まだ復刻盤はなかったように思う。LPを聴いてみたいとも思うが、現在の中古市場では30万円前後の値段がついていて、手を出せない。
 2024年になって、ゴーティエの本丸ともいうべき録音が発売された。それはメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』(Spectrum CDSMBA-149、ピエール=ミシェル・ル・コント指揮、リリック放送管弦楽団、1958年)の放送録音である(音声はモノラル)。響きは乾いていて、オーケストラはかなり荒っぽいが(ソロとずれる箇所が散見される)、ゴーティエのソロはきれいに捉えられている。演奏は、これまで聴いたことがない傾向のもので、それがいちばんうれしい。第1楽章、テンポはかなり速く、いかにも挑戦的という感じだ。しかし、随所でささっと甘い音色をまき散らすのが、いかにもゴーティエである。第2主題はいくらかテンポをゆるめ、期待どおりの優美さを演出する。跳ね上がるようなリズムも素晴らしいが、第1楽章の最後はものすごいスピードで突進し、伴奏が全くついていけていない。第2楽章も、きりりと引き締まったスタイルと、キラリと輝くような甘さがうまくバランスされている。第3楽章の最初のアンダンテは、先行する楽章でほてった体を冷ますかのように、ゆったり、しっとりと甘く歌う。しかし、アレグロに入ると第1楽章同様に一気にエンジンがかかり、最高の切れ味を発揮しながら突き進んでいくが、その合間にこぼれ落ちるような魅惑をしっかりと描いている。この見事な対比は、やはり尋常ではない。ゴーティエの写真はそれほど多くは残されていないが、それらを見ると、彼女はどうやら男装の麗人のような感じがする。そのせいかどうかはわからないが、このあふれんばかりのエネルギーは男性アスリートの力強い演技をほうふつとさせる。
 同じCDの次の3曲はユゲット・ドレフュスのチェンバロの伴奏によるクライスラーの『パヴァーヌ』『プニャーニのスタイルによる前奏曲とアレグロ』、トマソ・アントニオ・ヴィターリの『シャコンヌ』(1956年録音、モノラル)。楽器がマイクに近いせいか、非常に気迫にあふれた印象を与える。グリーンドアのCDにも同じ『プニャーニ』の別演奏が含まれるが、こちらはきわめて熾烈な演奏で、その集中力と気迫はヌヴー顔負けだろう。
 最後にはジョワ、アンドレ・レヴィとのフランツ・シューベルトの『ピアノ三重奏曲第2番』(第1楽章・第2楽章だけ、1960年録音、モノラル)が収録されている(リハーサルの音源?)。このSpectrum盤の難点は出力レベルがそろえられていないこと。つまり、最初の『ヴァイオリン協奏曲』に出力を適正にすると、次のチェンバロとの3曲は異様に音が大きく、さらに次の三重奏曲は非常に音が小さくなり、そのたびにアンプのボリュームを調整しなければならない。
 現在、ゴーティエの協奏曲録音で唯一ステレオで聴けるのが、ベートーヴェンの『ヴァイオリン、チェロとピアノのための三重協奏曲』(Spectrum CDSMBA021、2枚組み、シャルル・ブリュック指揮、フランス国立放送管弦楽団、1960年ライヴ)である。この作品は3つの独奏楽器が三人四脚みたいに音楽が進行するので、個人プレーを堪能するという点ではいささか物足りなさはあるが、演奏全体は非常にうららかで新鮮である。この曲の名演の一つに数えていい。
 ゴーティエの音色をもっと楽しみたい人には、同じくステレオ録音であるラヴェルの『ピアノ三重奏曲』(Spectrum CDSMBA-013、2枚組み、ピアノはジョワ、チェロはレヴィ、1965年録音)がおすすめである。ここでは、小品やメンデルスゾーンの協奏曲で聴けるゴーティエの妙技が聴き取れる。
 そのほか、協奏曲の分野に属するものとしてはバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』(ハンス・ロスバウト指揮、南西ドイツ放送交響楽団、1951年録音、モノラル)、アメデ=エルネスト・ショーソンの『詩曲』(ハンス・ロスバウト指揮、フランクフルト帝国管弦楽団、1937年録音、モノラル。以上、Melo Classic MC 2038)、ラヴェルの『ツィガーヌ』(Melo Classic MC 2016、ハンス・ロスバウト指揮、フランクフルト帝国管弦楽団、1937年録音、モノラル)もある。音質はどれも悪くはなく、ゴーティエのソロもきちっと捉えられているが、ほかの多くの演奏と比較すると、彼女らしさがいまひとつ希薄なのが残念だ。強いていえば、バッハの第2楽章が秀逸か。
 いまとなっては入手は難しいかもしれないが、季刊「クラシックプレス」(第13巻、音楽出版社、2002年冬)の付録CD(CPCD-2006)にゴーティエが2曲、ドヴォルザークの『ユモレスク』とニンの『スペインの歌』(これは、グリーンドアのCDにも含まれる。1927、28年録音、モノラル)が収録されている。ドヴォルザークはわずか2分弱の演奏だが、ゴーティエの魅惑がしっかりと刻まれていて、貴重である。
 手元にあるSPではピエトロ・マスカーニの『間奏曲』(歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』より)と、ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフの『インドの歌』(フランスOdeon 166.018、1927年録音、モノラル、ピアニスト不詳)がある。2曲ともドヴォルザーク同様、いかにもゴーティエらしい逸品であり、遠からず復刻盤がほしい。
 モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第23番』『第21番』『第26番』(Spectrum CDSMBA 009、2枚組み)にもふれておこう。これらは1953年、56年録音(モノラル)で、なかでは『第26番』にいちばんゴーティエらしさが出ていて、聴いておいて損はないと思う。ただ、このCDは楽章間、曲間が極端に短いのが難で、しかもCDの表示があいまいでこの3曲のピアニスト(ラザール・レヴィ、レリア・グッソー)と録音日の識別ができにくい。

 

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第17回 巖本真理 (Mari Iwamoto、1926-79、日本)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

持って生まれた音色をもった巫女

 日本の楽壇で、最初に天才として認められたヴァイオリニストは諏訪根自子(1920-2012)である。そこから、やや時間が経過したころに注目を集めたのが巖本真理だった。諏訪と巖本の最も大きな違いは、前者はソロ活動だけをおこなっていたが、後者は活動の大半を弦楽四重奏に費やしていたことである。実際、残っている録音のほとんどは巖本真理弦楽四重奏団のものであり、巖本がソロを受け持ったものはごく一部に限られている。巖本は1970年の「FM fan」(第11号、共同通信社)のインタビュー「室内楽にすべてを傾注」のなかで、基本的にはソロ活動をやらないと公言していたように、ある時期以降は室内楽が自分の使命と考えていたようである。しかしながら、量的には少ないソロの録音であるのだが、そこから聴き取れる妙音はただならぬ妖気を放っていて、今日でも非常に根強い人気がある。
 巖本真理は1926年1月19日、東京の巣鴨でアメリカ人の母、日本人の父との間に生まれた。最初の名前はメリー・エステル。6歳のときに小野アンナ(諏訪根自子も同門)に学び、38年、12歳のときに第6回日本音楽コンクールで第1位を獲得。翌39年11月、レオ・シロタのピアノ伴奏で最初のリサイタルを開催した。42年、カタカナ追放によって、名前を真理と改める。44年、井口基成、斎藤秀雄とピアノ三重奏を始め、以後、室内楽への活動が増える。50年6月、アメリカに渡り、ニューヨークのタウンホールでリサイタルを開き、約1年後に帰国。この間、ジュリアード音楽院でルイス・パーシンガー、ジョルジュ・エネスコに師事。66年、初めて「巖本真理弦楽四重奏団」を名乗り、以後、日本を代表する四重奏団としてその名を広めた。77年、乳がんの手術を受ける。一時的には回復するも、その後転移が認められ、79年5月11日、53歳で他界。
 巖本の才能は、ある意味、特殊な環境で育まれたといってもいい。小学校時代、彼女は病弱であり、医者は学業とヴァイオリンの両立は難しいとさえ言った。それに加え、巖本は「あいのこ」(ミックスルーツの人は当時、こう呼ばれていた)とはやしたてられ、ときには身の危険を感じるほどいじめられたという。学業よりもヴァイオリンを優先し、いじめから逃れるためにも学校をやめることが許された。しかし、父から与えられた条件は「1日6時間の練習」である。父は真理の監視を女中に言いつけ、帰宅するたびに娘がその日のノルマを達成したかどうかを確かめた。そのころ、真理は小説を読むのに夢中になっていた。さすがに6時間も練習すると、本を読む時間が取りづらかったので、彼女はある方法を考え出した。それは、練習する曲を暗記してしまい、それを弾きながら本のページをめくって小説を読破したのである。つまり、ずっとヴァイオリンの音が出ていれば、女中にもばれなくてすんだのである。この方法によって、暗譜をする能力が鍛えられたとされる。
 巖本真理の録音はソロ、弦楽四重奏団を問わず、ときどきカタログに浮上してはいつの間にか消えるということが繰り返されていた。現在でも現役盤は非常に少ない。
 巖本の、最もまとまったソロ演奏集は『巖本真理 ヴァイオリン小品集』(山野楽器 YMCD-1083)だろう。1曲を除いては1960年の録音で、モノラルながら音質は非常にいい(ピアノは坪田昭三)。ディスクはシャルル・グノーの『アヴェ・マリア』で始まるが、非常に訴求力が強い、熱い血潮を感じさせる音色に、たちどころに心を奪われる。シューベルトの『子守歌』も、これほど内容の詰まった演奏も珍しい。フランツ・リストの『愛の夢』は全19曲のなかで、巖本らしさがしっかりと刻印されたもののひとつである。これほど物悲しく憂いを帯びた音がほかにあるだろうか。マヌエル・ポンセの『小さな星』(エストレリータという表記も多い)も傑作だ。歌い方が実に多彩であり、この曲の最も優れた演奏のひとつである。
 ステレオ録音(1960年録音)で巖本のソロを聴きたい人には、『巖本真理の芸術』(キングレコード KICC788/9)のなかに、付録的に数曲収録されている。ここにはチャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ』、フランティシェク・ドルドラの『思い出』などがあり、さすがにモノラル録音よりも音がふくよかで透明感が強い(余談だが、この2枚組みの帯に記された巖本の履歴には、渡米年や享年などの間違いが多い)。
 ほかにCD化されたなかで重要なものは、ギヨーム・ルクーの『ヴァイオリン・ソナタ』(ロームミュージックファンデーション RMFSP-J006/011)がある。これは1949年ごろに録音されたもので、日本コロムビアのSP(G33/6)から復刻されたものだ(ピアノは野辺地勝久)。この日本コロムビア盤に限らず、ビクター、ポリドールなどの巖本のSP録音は戦中・戦後の物資難の時代におこなわれていたため、盤質が非常に悪いものしか残っていないのが残念だ。このルクーも雑音が多くてちょっと聴きづらいが、演奏は絶品である。第1楽章の冒頭を聴いただけでも、巖本がほかの奏者とは全く違った、非常に個性的な弾き方をしているのがはっきりとわかる。第2楽章も雑音成分が多いのがうらめしいが、巖本の繊細さは伝わってくる。第3楽章も、誠に雄々しく、感動的だ。また、野辺地のピアノ伴奏が、巖本の意図をすごく理解したように弾いているのにも注目したい。これは、セットに入っていて見つけにくいので、単独で聴けるディスクがほしい。
 最近、巖本の協奏曲録音が発掘された。ひとつは、バッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲』(キングインターナショナル KKC2516)。これは先輩の諏訪根自子が第1ヴァイオリンを担当、第2ヴァイオリンを巖本が弾くという、夢の共演である(伴奏は斎藤秀雄指揮、桐朋学園オーケストラ、1957年4月収録)。これはしかし、猛烈に音が悪い。2人の個性を聴き取ることはできないわけではないが、鑑賞用というよりは、記録用だろう。
 もうひとつはハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(キングインターナショナル KKC2519)。これは山田一雄指揮、オーケストラは短命に終わったNFC交響楽団(在京団体の首席クラスが選抜されたもの)、1961年にニッポン放送で放送されたもので、モノラルながら音質は鮮明である。曲の性格からか、巖本としては正攻法に弾いた感じだが、第2楽章は特に感動的だ。この、胸にじーんとくる音は、彼女ならではである。
 以上の協奏曲録音は諏訪根自子、山田一雄がそれぞれ主役ディスクなので、うっかりすると見過ごしてしまう。
 以下は現時点で聴くことができたSP盤である。先ほどもふれたように、どのSP盤も状態が悪いが、そのなかでも最も聴きごたえがあるのがチャイコフスキーの『カンツォネッタ』(日本コロムビア B161)だ。伴奏は金子登指揮、コロムビア・シンフォニック・オーケストラで、珍しく黛敏郎の編曲。いずれにせよ、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』の第2楽章がほとんど全部入っているので、貴重だ。演奏は素晴らしい。歌心にあふれ、艶やかで熟した音色は、たまらない。これを聴くと、短縮版でもいいから第1、3楽章も聴きたかったと思う。
 ベートーヴェンの『ロマンス第2番』(日本ビクター VH4092、1944年発売)もチャイコフスキーと並ぶ傑作だろう。伴奏は斎藤秀雄指揮、東京交響楽団だが、巖本の独特の節回しや、聴き手の心をぐっと引き寄せるような強さがひしひしと感じられる。なお、これはロームミュージックファンデーションから発売されたCD『日本の洋楽1923~1944』(RMFSP-J001/005)のDisc4に収録されている。
『ロマンス第2番』と同じころに発売された『ロマンス第1番』(日本ビクター VH4091、伴奏者同じ)も聴くことができた。『第2番』ほどの味の濃さはないものの、やはりこの独特の音色は聴きものだ。
 SPの小品ではバッハの『ガヴォット』、アルマス・ヤルネフェルトの『子守歌』(日本コロムビア B306、ピアノは鷲見五郎、1953年7月新譜)、イサーク・アルベニスの『タンゴ』、チャイコフスキーの『カンツォネッタ』(日本コロムビア 100651、ピアノは谷康子)を聴くことができた。これらはピアノ伴奏のせいか、盤質の悪さが上記のオーケストラ録音よりも目立たず、巖本のソロがより明瞭に感じられる。どれも、彼女ならではの美演奏が堪能できる。なお、アルベニスが入ったSPのレーベル面には「巖本メリー・エステル」と表記されているので、1941年以前の収録だろう。
 なお、以下は「グッディーズ」(https://goodies.yu-yake.com/)からCDRで市販されているので、参考までにふれておく(これらのCDRには再生できない場合もあると記されていて、実際、まれではあるが、再生できないこともあると聞いている)。バッハ『シャコンヌ(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より)』(78CDR-3200)、ルクーの『ヴァイオリン・ソナタ』(78CDR-3486)、バッハ『G線上のアリア』(33CDR-3469)、『アヴェ・マリア』(33CDR-3470)、ベートーヴェンの『ロマンス』(33CDR-3479)、以上である。
 このなかでは、現時点でほかでは聴くことが困難なバッハの『シャコンヌ』とステレオで収録されたベートーヴェンの『ロマンス第1番』『第2番』(33CDR-3479、上田仁指揮、東京交響楽団、1960年ごろ)が貴重かもしれない。33CDR-3469と3470の大半は、最初にふれた山野楽器のCDと重複している。
 未聴のSPで最も気になっているのは、ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』より第1楽章(日本ビクター J54491)である。これはピアノ伴奏(安倍和子)だが、第6回日本音楽コンクール優勝記念であり、1939年に発売されたものだった。
 巖本真理の動画は「YouTube」でも見ることができるが、映画『乙女の祈り』(佐分利信監督、松竹、1959年)のなかには、かなり長く巖本がヴァイオリンを弾いている姿が見られる。

 

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どうしよう、どうしよう……のフェミニズム――『分断されないフェミニズム――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』を出版して

荒木菜穂

 青弓社をはじめさまざまな方々にお世話になりながら、書いている間、刊行されてから、私の頭のなかではいつも、いろんな「どうしよう」が渦巻いていました。思っていることを書きなぐるのではなく、どう伝えていけばいいのか、どう整理すればいいのか、そもそも本ってどうやって書くんだっけ、ちゃんと読んでもらえるだろうか、言葉足らずで伝わらなかったら、いや、伝えたいこと自体がフェミの人に受け入れられなかったらどうしよう……など。そういった「どうしよう」は、社会に文章を出す立場として、自分のなかで解決すべきなのはたしかです。
 しかしながら、それとともに、フェミニズムをテーマにする以上、落としどころがない「どうしよう」もあって、そういったグルグルとした揺れ動きはおそらく本書にも多く示されていると思います。
 まず、フェミニズムという名の下に書くということに、いろんな「どうしよう」がありました。本書は、フェミニズムの活動をしてきた方々にも、フェミニズムとあまり接点はないけれどジェンダーに関係しそうな日常のモヤモヤが気になる方々にも読んでほしいという思いがあったのですが、後者の場合、書名にある「フェミニズム」という言葉だけで抵抗感をもつ人もいるかもという不安がありました。例えば、いちおうフェミニズムの活動に(緩やかにではあるけれど)ずっと関わってきた私でも、本書を書いたことによって、親族やフェミ的なつながり以外の方々に「フェミ」バレするのが少し不安なところもあります。
 また、フェミニズムの名の下にさまざまな議論が巻き起こっていることも常に意識のなかにありました。さまざまな立場、それぞれの正義があるのだろうけれど、底知れぬ溝がそこにはあるように感じられることもあるし、ときとしてフェミニズムと真逆の方向に展開することもあったりする。そんな悩ましさとともに、もしかして『分断されないフェミニズム』って書名としてこの本、そんな状況をなんとかできる特効薬のようにみえてしまわないか、どうしよう!……という思いも湧いてきました。
 さらには今回、過去や現在の草の根フェミニズムについて、主に書き残されたものを中心に、そこで営まれてきたことの意義について、私自身の経験や肌感覚からリスペクトをもってつづったつもりではいますが、やはりどの立場から過去をとらえるかによって、それぞれの方が違った思いをもつこともあるかなという懸念もありました。
 とりわけ、この「どうしよう」には、今後の関係性のなかでぶちあたることが多くなると思っています。フェミニズムの活動はこんなもんじゃなかった、私の経験したことはもっとえげつなかった、そこにシスターフッドなんてキレイゴトはなかった、などのお叱りを受けることも多々あると思います。それらは、大いに心して受け止め、反省したいと思っています。しかし、おこがましくもあえて希望をもつなら、そこから本書が、あのころのフェミニズムには、いまのフェミニズムだって、こんな、あんなやりとりがあった、立場や主張が異なる者同士なんとか関係しようとする営みがそこにあった、と、さまざまな方々が思いをめぐらせ、語り合えるきっかけのひとつになればいいな、という思いもあります。
 ちなみに本書のサブタイトルは「ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる」。フェミニズムの特効薬どころか、ここには一気に緩さが出ていていいな、と思っています。立場や考えが違っても、どうにかやってこられた「ほうの」フェミニズム、そこからの気づきや学びを残し、模索しながらもなにかしらの提案ができたらという。複数性やその調整、妥協、発想の転換、自身の問い直しなど、フェミニズム的活動のなかで示された揺れ動きやあいまいさをコンセプトに据えたのは、そこに政治があるから!という崇高な目的というよりは、私自身が、先ほどのような「どうしよう」のカタマリ、不安定な存在であることも大きいと思います。そんな緩やかでささやかな本書ですが、どうぞ手に取っていただけると幸いです。すでに関心をもった方は本当にありがとうございます。
 
 最後に、カバーイラストの希望をお伝えしたら、こんなかわいいカバーを作っていただきました。イラストレーターやデザイナーほかのみなさま、あらためてありがとうございました。

『分断されない女たち――ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる』詳細ページ