ギモン1 どこで展示するの?(第1回)

第1回 作品と出逢う場所

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 いま、この連載を読んでくださっているあなたは、「現代美術」や「キュレーター」といったものに少なからず興味をもっている方にちがいない。あるいは、何らかの形で実際に現代美術関連の仕事に携わっている方かもしれない。そんなあなたの記憶のなかで、「現代美術」や「キュレーター」に関心をもつきっかけになるような展覧会や作品に初めて出逢ったのは、どこだっただろうか。
 私の場合は、忘れもしない、1993年秋にロンドンで開催されていた「20世紀のアメリカ美術(1)」展だった。ごった返す主会場のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツより、いくぶん静かな郊外にあるサブ会場のサーチ・ギャラリーの最後のセクションの一角にその作品はあった。
 暗い部屋の奥の壁一面に雪山と思われるモノクロ映像。鮮明ではなく、絶えずゴォーというノイズが入ってうごめいている。手前には小さな乳白色のキューブの部屋。内部は裸電球1つで灯され、粗末な木のテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には金属製の水差しと、水が入ったグラス。そしてその簡素な部屋とはおよそ不釣り合いな小型モニターに映し出されたカラーの山の静止映像。部屋に近づくと、スペイン語と思われる言語で何かをささやき続けている男の声が聞こえる。ふと脇にある説明に目がとまる。「ビル・ヴィオラ」という聞き慣れないアーティストの名前。作品タイトルは「十字架の聖ヨハネの部屋」(1983年)。
「スペインの詩人で神秘家の十字架の聖ヨハネ(1542-91)はカトリック教会の弾圧を受け、1577年に9カ月間幽閉された。独房には窓がなく、背を伸ばして立つこともできなかった。頻繁に拷問を受けながらも、聖ヨハネはのちに代表作となる詩の多くをこの期間に書いている。そこでは愛、恍惚、暗い夜道、市壁や山々を超えた飛翔などが詠われている(2)」
 その説明を読み終わるやいなや、まるで雷にでも打たれたかのようにビリビリとした衝撃が全身に走った。ささやく声は聖ヨハネの詩の朗読であり、小さな部屋は彼の独房、山の映像は彼が詠った世界だったのだとその瞬間すべてが一度につながって、「十字架の聖ヨハネ」という時代や国を超えた一人の人物と、それを作品として表現したアーティストの美しい精神世界が、突如として自分のなかに広がったのだった。当時の私は、現代美術のことなど何ひとつ知らない社会人類学専攻の学生だった。だが、これは尋常な事態ではないと思い、とにかく現代美術に関わっていかなければと半ば勝手な使命感にも似た思いから、将来進むべき道を決めてしまった。もちろん、それからすぐに現代美術に関する職に就けたわけではなかったのだが、このたった一つの作品に出逢ったせいで(おかげで?)、極端な言い方かもしれないが、ある意味、人生が変わってしまった。事実、あれから四半世紀以上たったいまも、こうして現代美術やキュレーターに関する仕事に携わっているのだから。

  *

 と、こんな個人的な昔話にお付き合いいただいたのには、わけがある。それは、これから本連載を通して現代美術やキュレーターをめぐる数々のギモンを考えていくうえで、こうした個々人の私的な実体験や現場での実践などが、それらの問いに対して思考を開くための糸口になることが珍しくないからだ。なかでも特に展覧会での現代美術作品の鑑賞体験は、ときに強烈な原体験になって人々の心を動かす。それは、美術館や展覧会が、きわめてアナログなメディアであることと深い関係があると思われる。
 そこで本連載最初のギモンは、何よりもまず作品を展示する場所、アートと出逢う場所についてあらためて考えてみたい。あなたにとって作品が展示してある場所といえば、まず初めに浮かんでくるのは、やはり展覧会を開催している美術館やギャラリーなどの屋内の展示室だろうか。それとも街中や屋外などで作品展示を展開する芸術祭やビエンナーレ、トリエンナーレと呼ばれる大型の国際展だろうか。あるいは最近は、特に若い世代を中心に映像作品をスマートフォンの動画サイトなどで視聴するケースも多いだろう。そもそも作品を展示する場所は、作品にとってどういった意味をもつのだろうか。美術館の展覧会で作品を展示することは、自宅に好きな絵を飾ったり、いつでも好きなときにスマホで動画を見るのと何が違うのだろうか。今回のギモンの入り口として、ここではまず、古典的とも言える「美術館」の「展覧会」という枠組みのなかで作品に出逢うことに着目し、「美術館」と「展覧会」を一つの装置、あるいはメディアとして捉えて考えてみよう。というのも、作品展示をする場所として王道とも思える「美術館」や「展覧会」のあり方も、実は平坦な道のりではなく、その役割や定義は、時代によって大きく変遷してきたし、いまもなお変化し続けているからである。と同時に、その変遷を経てもなお、「美術館」も「展覧会」も作品と人が出逢うためのメディアとして機能し続けていることについても考えてみたい。

美術館と展覧会の歴史的背景

 それでは美術館・博物館、ならびに展覧会の歴史を簡単におさらいしてみよう。今日おなじみの美術館や博物館といった施設は、現在は日本では社会教育のなかに位置づけられ、そこで展示される作品や資料の数々は、広く公衆が享受することが当たり前になっている。だが、長い美術の歴史のなかで、いまのような形で展示物を誰でも見ることができるようになったのは、比較的最近の話だ。ただし「美術の歴史」といっても、往々にして語られるのは、洞窟壁画に端を発し、古代メソポタミア、エジプト、ローマ、ギリシャ、中世のキリスト教美術、ルネサンスを通って近代へと単線的に発展していく西洋美術史であることは、頭の片隅に入れておく必要がある。西洋中心(より厳密に言えば西欧と米国中心)だった単線的歴史観に基づく美術史(history of art)に異を唱え、アジアやアフリカ、中南米などの複数の美術史(histories of art)がグローバルな文脈で盛んに語られ始めたのは、1990年代になってからである。そのことは現在の現代美術とキュレーションを取り巻く状況を考える際に非常に重要な視点なので、本連載でものちほど追って詳しくふれていきたい。だが、「美術館(博物館)」「展覧会」は、西洋美術史、ならびにそれを支える西洋中心の言説と歴史観のなかから生まれてきたものなので、ここでは便宜上、西洋美術史の流れのなかで、これらの成り立ちの歴史的背景を見ていこう。

美術館というシステム

 はじめに人々が美術と出逢った場所としては、それを「美術」と定義するかどうかは議論の余地が大いにあるものの、西洋美術史的に言えば、スペインのアルタミラやフランスのラスコーで知られる旧石器時代のものとされる洞窟内に描かれた壁画、いわゆる洞窟壁画だろう(3)。それらは鑑賞目的というよりも、呪術的・宗教的な意味合いが強いものだったと考えられている。その後も長きにわたってさまざまな神に捧げられるもの、それらを祀るもの、儀礼や儀式、布教に用いられるものなど、宗教的な目的でさまざまな美術品が作られた。棺に納められる副葬品だったり、神殿を飾る神々の彫像、教会の祭壇画や天井画、色鮮やかなステンドグラスに描かれた『聖書』の物語など、美術は人々を日常生活から別の世界へと誘うような特別な場所で接することができるものだった。あるいは、時の権力者の富や名誉を彩るような宝剣や装身具、さらにルネサンス期になると、パトロンとなる王侯貴族や商人など富裕層のために描かれる肖像画や贅沢な調度品の数々が、彼らの邸宅や宮殿を飾ってきた。
 また15世紀から18世紀の大航海時代には、ヨーロッパの王侯貴族などの間で、アジアやアフリカ、アメリカ大陸、オセアニアなどの「未開の」地から珍しい動植物の標本や剥製、化石や鉱物、部族の仮面や彫像、絵画、陶磁器などを集めた「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー〔Wunderkammer〕、同様のものにイタリアのステュディオーロ〔studiolo〕など)と呼ばれる私的なコレクションが形成されていくことになる。これらの「驚異の部屋」のいくつかが今日の博物館の前身になっていて、例えばイギリスの大英博物館は、医師であり収集家だったハンス・スローン卿のヴンダーカンマーのコレクションがもとになっていることで知られている。またフランスのルーヴル美術館は、もともと宮殿だったが、フランス革命後に王室所有の美術コレクションが国有財産化されて「美術館」として広く一般に公開されるようになった。ルーヴルの例のように、市民革命などを経て、もともとは特権階級の人々しか観覧できなかった美術品の多くが、「博物館」「美術館」という形で現在は誰もが享受できるものになっているケースも多い。

万国博覧会というフォーマット

 展覧会については、コレクションを公開する形の展覧会は、先にふれた美術館や博物館の前身になるヴンダーカンマーなど、王侯貴族の邸宅などの一室をごく限られた人々を対象に実施していた先例がある。そのほかルーヴル宮でも王立絵画彫刻アカデミーの会員らの作品を「サロン・カレ(方形の間)」という一室で展示する通称「サロン」が革命より少し前の1737年から実施されている。だが、今日のようにより多くの一般の人々に向けてそのときどきの最新の物品や美術工芸品を紹介するようなスタイルの展覧会は、主には産業振興を目的とする博覧会の歴史がもとになっていると言えるだろう。
 市民革命や産業革命を経て、各国の優れた物品などを陳列する国際見本市的な博覧会である万国博覧会(国際博覧会。通称、万博)が19世紀から世界各地で開催されるようになり、今日に至っている。特に万博は、各国の技術や芸術の粋を世界に紹介して国の威信を内外に知らしめる、国威発揚的な性格をもっていた。1851年の第1回にあたるロンドン万国博覧会では、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれる当時類を見なかった鉄骨とガラスという素材を駆使した巨大な建物が建造され、主会場になった。また1900年のパリ万博(第5回)ではエッフェル塔が建てられ、その姿は現在でもパリを象徴する観光名所になっている。日本も第2回のパリ万博(1867年)で江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展するなど早くから参加していて、1873年のウィーン万博からは明治政府が日本として公式参加して日本庭園や神社を造ったほか、浮世絵や工芸品、名古屋城の金のシャチホコなどを展示した。またパリやウィーンでの万博における日本の出展が、いわゆる「ジャポニスム」と呼ばれる日本ブームを巻き起こすなど、こうした万博の開催は、各国の優れた最新の技術や文化を直接肌で感じる機会となった。
 日本国内でも博覧会は明治に入ってから盛んに開催され、内国勧業博覧会が東京(上野)のほか京都や大阪でも開催された。また同じく東京・上野公園で開催された東京府勧業博覧会で建てられた建物が「竹之台陳列館」として美術関係団体に貸し出され、明治から大正期にかけて美術展会場として用いられた。政府主催の美術振興策として組織された文部省美術展覧会(通称、文展。現在の日展の前身)も同館で開催された。このように近代になってから、欧米を中心にいまの博物館、美術館、展覧会の原型ができ、日本も明治政府が近代化を果たすなか、その流れを受けて美術館や展覧会という装置を取り入れてきた。ちなみに「美術」という言葉は江戸時代まで日本語にはなかったが、ウィーン万博の出品分類をきっかけに「美術」という官製訳語が日本で用いられ始めたことは、日本での美術史の形成や言説を考えるうえで非常に興味深い(4)。
 これまで美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。

(第2回に続く)

 


(1)American Art in the 20th Century: Painting and Sculpture, 1913-93, Martin-Gropius-Bau, Berlin, 8 May – 25 July 1993; Royal Academy of Arts, London, 16 Sept. – 12 Dec. 1993.
(2)ヴィオラ自身による作品解説。『「ビル・ヴィオラ はつゆめ」展覧会カタログ』木下哲夫/近藤健一訳、2006年、淡交社、54ページ
(3)2018年2月22日の「Science」誌など最近の研究では、洞窟壁画の起源はこれまで想定されていたよりさらに数万年もさかのぼった約6万5,000年前にホモ・サピエンス(現生人類)ではなく、ネアンデルタール人によって描かれたとされている。
(4)「美術」の初出については諸説あるが、いずれも明治のこの時期に翻案されたものである。明治以降の日本における美術の受容については、北澤憲昭著『眼の神殿「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年〔ブリュッケ、2010年〕)をぜひ一読していただきたい。

 

Copyright Sachiko Namba
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

はじめのギモン 現代美術って何でもあり?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 とある日曜日の昼下がり。お昼ご飯にパスタを食べたあと、中学3年生の息子と珍しく将来、何をやりたいかという話になった。そこでふと息子が「現代アートって簡単だよね」と言って、テーブルの上に出しっ放しにしていたパルメザンチーズの容器をひっくり返した。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」
「ちなみにタイトルは?」
と聞くと、
「逆パルメザンチーズ」
(爆笑)
「え、それってでも、デュシャンじゃん」
と私。
「そーだよ、デュシャンが便器ひっくり返してアートって言うから、何でもアートになったんじゃん。でも、デュシャンがそれもうやっちゃったから、現代アート何やっても、面白くないよね」
「え、あんたデュシャン知ってるの? 学校で習った?」
「いや、俺、観たもん。小学生のとき、美術館で観た」

 はじめに断っておかなければならないが、息子は、親がアート関係の仕事に携わっているために、確かに小さいときから現代美術の展覧会にあちこち連れ回されていたので、本人も知らないうちに、一般的な中学3年生と比べれば、常日頃からアートに接するという、ちょっと(いや、かなり)特殊な環境で育ったかもしれない。それにしても展覧会慣れしていた当時小学3年生だった彼にとっても、便器がうやうやしく展示されていた光景は、よっぽど印象的だったのだろう。いまではすっかり展覧会を観に一緒に出かけることもなくなってしまった、自称「現代美術嫌い」のわが子から、こんなにいとも簡単に粉チーズ容器一つ使って、現代美術の概念と展示について核心を突くような発言が飛び出すとは、正直思ってもみなかった。

  *

 ここで本題に入る前にデュシャンって何?と思った方のために、少し補足を。読者のなかには、マルセル・デュシャンの名前はともかく、この便器の「作品」には、どこかで見覚えがある人も多いだろう。この作品が初めて登場したのは、1917年のニューヨークのこと。出品料を払えば無資格無審査で誰でも出品できる第1回アメリカ独立芸術家協会の展覧会に出品するため、市販の男性用小便器をひっくり返し、「R. MUTT」という作者の名前を示す署名と「1917」という制作年を入れて「Fountain(泉)」というタイトルを付けた「作品」が、出品料を添えて同協会宛てに送られてきた。だが、無資格無審査を謳っている展覧会であったにもかかわらず、この作品は委員の間で議論を巻き起こし、展覧会オープンの1時間前まで話し合いはもつれ込み、会場になったグランド・セントラル・パレスの展示室に置かれることはついぞなかった。この協会の主要メンバーの一人だったデュシャンは、このことをきっかけに同協会を辞任した。後日、この作品は同じくニューヨークにあった「291」という画廊で展示され、同画廊を主宰していて、写真家であったアルフレッド・ スティーグリッツによって撮影された。その写真には「R. Muttによる「泉」」「独立芸術家協会から出品拒否にあった」というキャプション(作品タイトルなどの説明書き)が添えられ、「リチャード・マット事件」と題された匿名の論説とともに雑誌「ザ・ブラインド・マン(The Blind Man)」に掲載され、広く知られることになった。この作品の制作過程や出品に至るまでの経緯をめぐっては諸説あり、デュシャンの手によるものではないとする研究者もいるが、そもそもオリジナルの「泉」を直接目にした人はごくわずかであり、ここでその真偽を検証することは目的ではないので割愛する。もっとも、作品本体は現存せず、現在、世界各地の美術館で見られる「泉」は、50年以降、デュシャン公認で複数個、再制作されたレプリカであるのがこの話をどこまでもややこしくしているのだが、それも含めて非常にデュシャンらしいエピソードである。ちなみに現在は作品保護のために展示ケースに入って展示されているものがほとんどだが、オリジナルは、むき出しのまま展示してあった。
 ともあれ、「便器がアートになる」という「泉」のインパクトは大きく、一般的には「デュシャン=便器の人」のイメージが定着しているが、デュシャンが提示した大いなるギモンのなかで、「泉」はほんの一例にすぎない。デュシャンは、この「泉」の前にも、既製品を用いた作品である「レディ・メイド」のシリーズを発表している。大量生産されている複製可能な日用品を「作品」として提示することで、「美術作品は、作家自身の手によるものであり、唯一無二のオリジナルである」というそれまでの美術の固定概念を根底から覆した。また美術作品といえば美しいもの、視覚的に魅力的なもの、という考え方に対しても、デュシャン自身が、視覚的に無関心と感じる既製品をあえて選択し、それを「アート」と呼んでしまえば、なんでも「アート」になってしまう危険性を指摘することで、新しい思考を創出しようと試みた。これは、美術史のなかではまぎれもなく歴史的な一大事件だった。以来、デュシャンは「現代美術の父」と呼ばれ、いまだに多くの人によって参照され、語られている。

  *

 さて、そろそろ本題の「逆パルメザンチーズ」に戻ろう。確かに息子が言うことは一理ある。デュシャン以上の歴史的転換を巻き起こすような現代美術の作品は、そうそう出てくるものではない。だが、あれから100年以上たった今日でも、現代美術は絶えるどころか、さまざまな形で発表され、多くの人々の目に届けられ続けている。作家たちは何のために日々、作品を作り、それを発表するのだろうか。ネットに投稿された写真や動画なら瞬時に世界中の人たちに発信し、シェアすることができる世の中で、私たちはなぜいまだに美術館や展覧会などにわざわざ足を運んで、人が作ったものを観にいくのだろうか。
 美術の展覧会を作る仕事に「キュレーター」という仕事がある。美術館では一般的に「学芸員」と呼ばれている仕事だ。作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る。なぜそのような仕事が必要なのだろうか。作家が作った作品をただ展示すればいいのではないのかと思う人もいるだろう。そもそも展覧会とは何だろうか。また作品は美術館の「展示ケース」に入って、白い部屋に飾られて、作家名とタイトルと説明書きが添えられたら、便器でも粉チーズ容器でも本当に「アート」になってしまうのだろうか。そんなのは、単なる言いがかり、詭弁にすぎないのではないだろうか。絵画や彫刻を美術館や展覧会で観て、その「美しさ」に感動を覚えることには納得できても、便器を「アート」として飾るような現代美術の展覧会は、「意味不明」と感じる人も多いだろう。一方で、近年、街中などでも展開する現代美術の「芸術祭」や「トリエンナーレ」という名称で知られる大規模で国際的な展覧会は、どこも大人気だ。こうした現代美術の展覧会を作るキュレーターは、例えばゴッホやモネの展覧会を作るキュレーターと何が違うのだろうか。そもそもキュレーターはなぜ展覧会を作り、それを多くの人が観にいくのだろうか。現代美術の展覧会のことをひとたび考え始めると、さまざまな疑問が湧いてくる。

  *

 これから始める本連載は、現代美術をめぐるさまざまな問いのなかでも、「現代美術のキュレーター」という仕事と「展覧会」という仕組みに着目し、キュレーターが展覧会づくりで抱きがちな、ささやかだが大切な問いの数々を10の「ギモン」として取り上げて、読者のみなさんと一緒に考えていきたい。そして最終的には、本連載を書籍の形にまとめて刊行したいと考えている。
 具体的な構成は次のとおりである。まずは、展覧会における空間・場所・時間軸をめぐる2つの「ギモン」から始めていく。「ギモン1 どこで展示するの?」では、展覧会を開催する場所としておなじみの美術館やギャラリーについて、その歴史的な背景なども見ていきながら、美術館や展覧会という場所にまつわるギモンについてあらためて考える。続く「ギモン2 展示には順番があるの?」では、実際の展示空間での作品の配置や、展示空間で鑑賞者が体験する時間についてのギモンについて具体的な例を見ながら検証していく。次に展示の主役である作品をめぐるギモンとして「ギモン3 何を展示するの?」と「ギモン4 作品って誰が作るの?」という2つの「ギモン」を通して、作品が作品として成立する仕組みなどについて再考する。そして今度は展覧会の観客をめぐるギモンに目を向け、「ギモン5 日本人向けの展示ってあるの?」「ギモン6 赤ちゃん向けの展示ってあるの?」という2つのギモンを中心に、観客の文化・社会的背景と展示の関係について、実例なども踏まえながら見ていく。続いて、現代美術という私たちが生きている現代と同時代に生まれる作品に特有の作品収集にまつわる問いを「ギモン7 どうして美術館は作品を集めるの?」と「ギモン8 何を残すの?」を通して考える。そして最後に、これらのギモンの総括的な問いかけとして「ギモン9 どうして「展覧会」を作るの?」と「ギモン10 キュレーターって何をするの?」の2つを通して現代美術の展覧会とキュレーターについて再び考えてみたい。この最後の2つのギモンについては、連載ではなく、書籍にまとめる際に書き下ろす形で発表したい。また書籍化にあたっては、それまでの連載についても必要に応じて手を加えながら、まとめていきたいと考えている。

  *

 こうした問いに一つずつ向き合うことで、これから展覧会を企画しようとしている初心者から、長年、展覧会に携わっている現役学芸員、キュレーターまで、幅広い層にとって「展覧会」とは何か、キュレーションとは何か、という古くて新しい問いにそれぞれの立場から考えていくための手がかりになってほしい、とひそかに期待している。またキュレーターに限らず、普段、展覧会や美術館に行くことに関心がある多くの方々にも、なぜ「展覧会」に私たちが惹かれてしまうのか、「キュレーター」とは何をする人たちなのか、という根源的な問いについて考えるきっかけになることを祈っている。デュシャンが投げかけた大いなるギモンへの応答になるかどうかは、はなはだ心もとないが、この小さなギモンへの問いかけの積み重ねが、ヴァーチャルなモノづくりが席巻するいまの時代に「展覧会」というアナログなメディアで勝負するキュレーターの大「ギモン」についていま一度考えるための糸口となれば幸いである。

[補足]デュシャンの画像は著作権フリーで下記からダウンロード可能である。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marcel_Duchamp,_1917,_Fountain,_photograph_by_Alfred_Stieglitz.jpg

 

Copyright Sachiko Namba
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第21回 105周年宝塚、激動の上半期

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 真夏並みの暑さとなった2019年5月末、令和と年号が変わって初めての『宝塚イズム39』が完成、そろそろ全国の書店の棚に並ぶころになりました。今回は原稿依頼の締め切りぎりぎりになって星組の紅ゆずる、花組の明日海りおとトップスター2人が次々に退団を発表し、いつも以上にずいぶん慌ただしい編集作業になりました。できあがってきた最新号は、105周年宝塚の華やかな話題のうちにはらむさまざまな問題も提起していて、こちらが思っていた以上に充実した内容で、読みごたえがある一冊になりました。
 巻頭特集は「さよなら紅ゆずる&綺咲愛里」。類いまれな美形コンビとしてファンを魅了してきた星組のトップコンビの退団を前に、私が彼らの宝塚でのこれまでの軌跡をリードで振り返り、現在の宝塚で2人がどんな位置を占めるコンビだったのかなど、彼らの魅力を鶴岡英理子、宮本啓子、永岡俊哉、木谷富士子の4人が分析します。
 2人のサヨナラ公演『GOD OF STARS――食聖』(作・演出:小柳奈穂子)はおろか、プレサヨナラ公演となったドラマシティ公演、楽劇『鎌足――夢のまほろば、大和(やまと)し美(うるわ)し』(作・演出:生田大和)さえまだ始まっていない時期に原稿を依頼したとは思えない論考がそろい、執筆者たちの2人への愛の深さを改めて理解するとともに、サヨナラ公演に臨む彼らへの期待の大きさもうかがい知れます。
 その紅&綺咲のプレサヨナラ公演『鎌足』の開幕直前の4月末に、星組の次期トップスター人事が宝塚歌劇団から発表され、星組の二番手スターで人気、実力とも急成長の礼真琴が順当にトップ就任することになりました。また、相手役が4月29日付で花組から星組に組替えになることが発表されていた舞空瞳であることも同時に発表されました。舞空が動くことで宙組の芹香斗亜が星組に里帰りしてトップになるのではという噂がSNSで流れていたこともあって先手を打ったとも考えられなくもありませんが、思いがけず早いタイミングの次期トップ発表でした。
 大阪の梅田芸術劇場では、メインホールで5月4日に礼主演の全国ツアー公演『アルジェの男』(作:柴田侑宏、演出:大野拓史)が初日、階下のドラマシティでは『鎌足』が一日違いの5日に開幕。ゴールデンウィーク後半の劇場周辺は宝塚ファンで終日ごった返しました。ただ、退団が決まっているトップスターが中劇場、次期トップスターに決まったばかりの二番手スターが大劇場で公演というのが、発表前ならまだしも発表されてからでは、なんとも複雑な感覚にとらわれました。
 トップスターが退団を発表したあとの次期トップスターの発表時期はさまざまで、サヨナラ公演が終わってもなかなか発表されないケースがあったりするなかで、今回は、トップのプレサヨナラ公演前、次期トップに決まった二番手スターが主演する全国ツアー公演前に発表されました。星組生え抜きスターの昇格人事ということもあって、比較的スムーズにバトンタッチができたのではないでしょうか。ただ、場内の熱気はドラマシティよりもメインホールのほうが上回っていました。新しいスターを求める宝塚ファンの正直な思いが如実に表れていて何とも言えない気持ちになりました。常にフレッシュなスターを求め、新旧交代を繰り返してきた宝塚105年の歴史はこういうことだったのかなあと妙に納得できた瞬間でした。
 一方、そんな宝塚のなかで、新旧交代の波にうまく乗れず、ファンに惜しまれて退団していったスターもいます。月組の美弥るりかと星組の七海ひろきです。実力はおろか人気も抜きんでていて、とりわけ美弥はショーでは二番手羽根まで背負い、いつトップになってもおかしくないという位置まできながら、何らかの力とタイミングが合わず、退団という選択をせざるをえなかったスターです。七海もその男役としての美貌と人気は現在の宝塚で一番といわれたほどでした。そしてもう一人、二番手スターの位置まできながら専科入りという選択をした愛月ひかるがいます。ファンはセンターに立つ3人を夢見ながら、その寸前に糸を断たれたのですから、その計り知れない無念さは容易に察しがつきます。この3人の決断がこれからの宝塚にどんな影響をもたらすのか、宝塚全体を覆うもやもやとしたストレスにならなければいいのですが……。
 美弥と七海は、花組の明日海や雪組の望海風斗と同期生。宙組の真風涼帆や月組の珠城りょう、そしていま星組の礼真琴がトップになるなど、宝塚の時計はどんどん進んでいきます。そんななかで美弥と七海が、その歯車からこぼれたとしたらもったいないとしかいいようがありません。あとは愛月の頑張りに期待するしかないのでしょうか。
『宝塚イズム39』ではそんな3人に対する愛ある応援として「美弥・七海・愛月、105周年の決断」という小特集も組みました。水野成美、岩本拓、宮本啓子、永岡俊哉が3人への渾身の思いをぶちまけます。3人のファンの方たちは必読です。
 OGロングインタビューは、昨年末退団、女優として始動したばかりの元月組トップ娘役愛希れいかが、退団後の第一作となった東宝版『エリザベート』への熱い思いを語ってくれました。暮れには『ファントム』のクリスティーヌ役も決まり、ますますの活躍が期待される愛希の宝塚愛に満ちた近況報告をお楽しみください。
 大劇場公演評、新人公演評、私と鶴岡の外箱対談、東西のOG公演評とレギュラー企画もたっぷり。今年初演から45周年を迎え、年初に一大スペシャルイベントが組まれた『ベルサイユのばら45――45年の軌跡、そして未来へ』はOG公演評で詳しくお伝えしています。
 あとは実際に手を取っていただくしかないのですが、決して損はさせない一冊に仕上がっていると思います。そして次回は、記念すべき『40』。人気絶頂のさなか11月24日に退団する花組のトップスター、明日海りおのさよなら大特集号です。明日海の魅力をどんな切り口で探っていくかこれからじっくりと知恵を絞りたいと思います。いまから楽しみにしていてください。
 

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

その後のPTA――『PTAという国家装置』を出版して2年

岩竹美加子

『PTAという国家装置』を刊行してから早くも2年たった。
 この間の変化の一つは、2017年に個人情報保護法が改正されて、学校が子どもの名簿をPTAに渡すことが問題とされるようになったことだ。PTAは学校に付随した組織なのではなく、学校からは独立した組織であること、学校の名簿をPTAに渡すのは個人情報保護上、問題があることが知られるようになった。PTAは、加入を希望する保護者の名簿を自分で作ることが求められるようになったのだ。
 二つ目は、PTAが任意加入であることを周知する動きである。これまでは子どもが小学校に入学したら自動的・強制的に加入するものと思われてきたが、実は加入は任意であることを保護者に知らせるようになった。
つまり、この二つの変化には任意加入という関連がある。
 しかし、加入が任意であることを周知することで、「会員がゼロになったらどうするのか」「PTAがなくなったらどうするのか」という恐れが常につきまとう。その結果、「任意であることを通知しても、こうすれば加入率は減らない」というようなノウハウが広く流布されている。
 例えば、 「できる人が、できることを、できるときに」や「やりたい人が、やりたいことを、やりたいときに」というシステムである。従来のように、仕事を休んだり、病気を押したり、幼児や病人の世話を人に頼んだりして、強制的にPTA活動に参加させられるのではなく、自分ができること、やりたいことを選べるシステムだという。これによって、 これまでの強制参加から希望参加制に、あるいはボランティア制、サポーター制に変わるとされる。非加入を避けるための工夫だが、結局「できない」「やりたくない」とは言わせない仕組みでもあるようだ。また、このシステムで「私はしているのに、あなたがしないのはずるい、許せない」という、PTA活動につきまとう感情を変えていけるだろうか。
 そのほかの改革案として、活動を年度始めに一覧にする、通年の活動と1度だけの活動を明確に整理して参加者を募集する、業務をスリム化する、不要な役職を減らす、手紙での連絡ではなくメール配信の導入を考える、個人情報に配慮する、などを挙げるPTAもある。「活動を年度始めに一覧にする」のは、会員自身が、自分たちに必要と考える活動計画を立てるのではなく、すでに決められていて、与えられる活動や行事をこなしていくPTAのあり方を前提にしている。しかし、一覧にすることで「改革」とされるようだ。
「業務をスリム化する」「不要な役職を減らす」は、1970年代頃にも言われていたことで、それがいまだに実施されていないことを示す。「メール配信の導入」と「個人情報に配慮する」のは、現在の社会では当然だろう。PTAは、その「不活性化」や「危機」「停滞」が危ぶまれ、数十年間にわたって「活性化」「改革」「再生」などの言葉で語られてきた組織である。任意加入の通知と個人情報保護という新しい要素は加わったが、現在の動きもそうした流れの継続として見ることができる。
 昨2018年10月、大津市教育委員会は「PTA運営の手引き」を公立学校の校長などに配布した。ほかにも「無理な役員選考をしないよう」「退会者の子どもへの扱いが変わらないよう」注意を促す通達や手引書を学校の管理職に対して発行した教育委員会もあるという。また、加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを複数公表したり、PTAの違法・強制から保護者を守ってくれる教育委員会の「お助け通知」を公開したりしているインターネットのサイトもある。
 教育委員会がPTAの違法・強制から保護者を守ってくれるという考えは、信憑性があるだろうか。教育委員会は、PTAを維持しようとする教育行政の一部である。学校でのいじめ問題では、しばしば証拠隠蔽や改竄を繰り返し、いじめはなかったと公表する。また子どもの虐待問題では、必ずしも適切な判断や行動をしていないことが報道される。そうした組織が、PTA入会の問題で保護者を守ってくれるだろうか。
 現実には、非加入を選んだ保護者に対して、その子どもを登校班に入れない、卒業式に子どもが胸につけるコサージュをあげない、卒業記念品をあげない、などのいやがらせが各地でおこなわれている。私自身、同様の経験がある。PTA入会申し込み用紙には「入会する」と「入会しない」の選択肢があったので「入会しない」に印をつけて提出したところ、子どもをPTAの催しに参加させないという脅しを受けた。加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを作れば、問題が解決するわけではない。
 最大の問題は、PTAがほぼ日本全国の学校にあることだ。保護者が、それぞれの場で自分たちの必要に応じた組織を形成、計画し活動するのではなく、PTAがすでに強固に存在して国家装置として機能し、保護者の動員に使われていることが問題なのだ。
 学校に行くことは「登校」、学校から家に帰ることは「下校」と言われる。学校は上位に、家庭は下位に位置付けられていて、学校と家庭は対等の関係にはない。また、日本の学校は入学式、始業式、終業式、卒業式など、式をことさら好み、卒業式の練習には多くの時間と労力を割く。文部科学省の「小学校学習指導要綱」は、学校行事で「厳粛」な気持ちを味わうことを規定している。また、日本の学校では運動会、謝恩会、最近では二分の一成人式などの行事が重視される。PTAはこうした学校行政の一部に組み込まれていて、それは保護者間の同調圧力を強化する仕組みにもなっている。
 広い意味でPTAのあり方は、最近、問題にされるようになったブラックな校則や部活動、先生の長時間労働などの学校の問題とも関連するものだ。日本の学校には問題が山積しているのだが、PTAが声を上げたり、一歩踏み出したりすることはない。
 日本は教育の公的支出が非常に少なく、 2018年の発表ではOECD加盟国中で最低である。憲法は、義務教育を無償とすると定めているが、PTA会費は学校予算にも回されていて、会費を自動的に引き落とす学校もある、しかし、保護者は学校に対する発言権をもたない。
 こうしたことが成り立って続いているのは、日本の公教育が義務を強調して権利を十分に教えず、近代国家での個人と行政のあるべき関係が知られていないことに一因がある。国民に権利を与えたくない国家と、国家が権利を侵害していることに気づくことができない国民の双方が、PTAを維持している。
 毎年、PTAに関して同じような不満が表明され、同じような「改革」案が出され、同じような議論が繰り返される。それは「仕方ないんだ」「みんな我漫してるんだ」といったあきらめの気分を醸成する効果がある一方、任意加入が周知されたことによって「徐々に空気が変わる」という期待もあるようだ。しかし、それは構造的な問題に切り込むものではない。「空気が変わる」のを待つのではなく、構造を変えていく必要があるだろう。

 

第20回 紅ゆずる、明日海りおの退団に思う

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 宙組の朝夏まなとの退団以来約1年半の間、トップスターの退団がなく比較的平穏だった宝塚歌劇ですが、105周年というアニバーサリーイヤーにもかかわらず、2月に星組の紅ゆずる、3月に花組の明日海りおが連続して退団を発表するという異例の激震が訪れました。
 いずれも宝塚大劇場での公演が終わった翌日すぐの発表でした。2人ともトップ在位期間からいって早期の退団発表は予想されていたものの、まさか続けざまとは思わず、『宝塚イズム』編集者としてもかなりびっくりさせられました。
 紅は、昨年秋の台湾公演を盛況裏に終え、『ANOTHER WORLD』や『霧深きエルベのほとり』など作品にも恵まれていつ退団しても悔いはないという状態でしたので、退団自体はある程度想定内でした。しかし、7月公演での退団の場合、グッズの準備期間などを考えると本来なら発表の時期が『霧深きエルベのほとり』開演前というのがセオリーでしたので、公演後すぐの発表は想定外でした。
 一方、明日海は、先に相手役の仙名彩世が退団を発表、初夏の横浜アリーナでの公演からは新しい相手役の華優希とのコンビが発表され、大劇場公演1作だけで退団というのは推測しがたいものでした。ただ、退団公演となる『A Fairy Tale――青い薔薇の精』(作・演出:植田景子)発表の際、新コンビの大劇場お披露目公演という文言がなかったことが、いまとなっては退団のヒントだったのでしょう。
 トップスターの退団人事は大体1年前には決まっていて、トップシークレットとして歌劇団内部で厳重に管理されます。紅と明日海の退団ももちろんそうで、昨日今日に決まったことではありません。明日海は昨年、舞浜アンフィシアターでコンサートをおこないましたが、実はそのときはまだ発表されておらず、すでに今年6月の横浜アリーナのコンサートも決まっていました。明日海の退団を前提にしたはなむけのコンサートというビッグイベントとして着々と用意されていたのです。ただ、明日海を中心とする花組は、宝塚5組のなかでも一番人気で、作品に関係なく宝塚大劇場を全期間完売できるパワーがあります。そんな金の卵を歌劇団としても簡単に手放したくはないはずで、アリーナコンサートは歌劇団が明日海を慰留するために企画した最大のイベントだったことは想像にかたくありません。
 退団会見でも話していたとおり、明日海自身も昨年1月の『ポーの一族』で退団を意識し歌劇団に伝えてきましたが、慰留されていまに至ったということではないでしょうか。それだけに退団公演までの時間の余裕があり、仙名を先に見送るという彼女ならではの心遣いも可能になったのかもしれません。こう考えてくると、明日海の退団が先に決まっていて、あとから紅の退団が決まったことが浮かび上がってきます。紅は会見で「トップ就任5作で退団を決めていた」と話しましたが、それはあとからのつじつま合わせとも考えられ、案外、これが連続退団の真相かもしれません。
 紅は2002年初舞台。身長があって際立った容姿の持ち主でしたが、同期生のなかでもビリに近い劣等生。一方、明日海は03年初舞台。文化祭のときから抜群の容姿でしたが、男役として決して恵まれた身長があるとは思えませんでした。2人とも、それぞれのハンディを跳ね返して見事トップに上り詰めました。その共通点はやはり2人の「宝塚愛」の強さでしょうか。退団会見では2人とも、仲間との別れや退団することの寂しさで涙を見せたのが印象的でした。
 明日海は「退団後何をしたいか」と問われて「職探し」といって笑わせました。「車の免許をとりたい」とも。音楽学校入学後、初舞台から現在まで抜擢の連続で、稽古と舞台に明け暮れ、自分の時間が全くなかったことがこの言葉でうかがい知れます。3番手、2番手時代には役替わり公演が連続、これまでのトップスターたちと比べても2倍以上の濃い宝塚生活だったのではないでしょうか。
 2人の退団公演は紅が上海、マカオ、シンガポール、ドバイをまたにかけて活躍するシェフに扮するアジアンテイストの『GOD OF STARS――食聖』(作・演出:小柳奈穂子)とレビュー、明日海が19世紀後半のイギリスを舞台に、妖精界の掟に背いた青い薔薇の精の苦悩に挑戦する『A Fairy Tale』とレビューの二本立て。いずれも、それぞれを知りつくした女性作家の作品で、最後を飾るにふさわしい作品になることが期待できそうです。

 さて『宝塚イズム』は、現在6月1日刊行予定の『39』の原稿を募っているところです。『39』では、明日海より先に退団する星組の紅ゆずると同時退団する綺咲愛里のサヨナラ特集を中心に、月組の美弥るりか、星組の七海ひろきといった89期生の退団を惜しむ声も特集に織り込んで、105周年前半の宝塚の現状を多角的にレポート、評論します。旬のスターが登場するOGロングインタビューにもご期待ください。
 紅のあとに退団する花組・明日海りおのサヨナラ特集は、東京宝塚劇場の千秋楽が11月24日ということもあって、千秋楽の興奮もさめやらない12月1日刊行予定の『40』で大々的に取り組むべくいまから準備を進めてまいります。『宝塚イズム』40号の記念号でもあり、おおいに期待していただきたいと思います。
 105周年が始まったばかりというのに、新たな世代交代に大きく動き始めた宝塚。ウォッチャーとしては慌ただしい一年になりそうですが、これまでどおりぶれることなくきっちりとした視点で見守っていきたいと思っています。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

オカルト番組って……なくならないんじゃないの?――『オカルト番組はなぜ消えたのか――超能力からスピリチュアルまでのメディア分析』を書いて

高橋直子

「えっ、消えたの?……なくならないんじゃないの?」
 本書の刊行直前(2019年1月26日)のこと、見本のカバーを見つめたまま、T先生はそうおっしゃった。私は答えに窮した。現状でオカルト番組がまったく放送されていないわけではないし、本書はオカルト番組が消えると予想するが、消えるかどうかを問題としているわけでもない。どこからどう答えたらいいものか、尊敬する先生を前に逡巡してしまった。回答できずにいる私に、先生は「まぁ、読めということですね」とおっしゃった。恐縮至極。
 その家路、執筆時に考えたあれこれが思い浮かんでグルグル回り、ふと、フリードリヒ・エンゲルスのことを思い出した。教科書にカール・マルクスとセットで名前が出てくる、あのエンゲルスである。1870年代、交戦国同士がともに戦場で最新式の銃を使用したことに驚いた彼は、兵器がここまで進歩したからには、もうこれ以上は兵器改良の余地はないと考えた。隣国が軍備に力を入れれば、それと同等の軍備をもたなければならないという状況では、軍事費が増大して遠からず国家財政はもちこたえられなくなる、と予想したのである。この予想が無残に裏切られたことはいうまでもない。たしかに軍備競争は国家の出費を増大させたが、財政破綻を引き起こしはしなかった。反対に、戦争準備行動は、数々の工場を稼働させることで、ある種の経済問題を解決するのに役立ちさえした。工業の進歩の結果、戦闘の諸条件や技術は新たな次元へと突入していったのである。
「消えたの?」という問いかけは、「現状、消えてないよね?」という単なる疑問なのではなく、オカルト番組が消えるという予想は無残に裏切られるのではないか、という反論である場合が多いのではないかと思う。いまは下火といっても、また新たなスターが出現すればブームが起こるのだろうという見方は、馴染み深いものである。また、BS、CSとチャンネルが増えたことは、オカルト番組の出口が増えるということでもある。
 私がエンゲルスのことを思ったのは、この頃、ロジェ・カイヨワの『戦争論』(原題はBELLONE ou la pente de la guerre〔「ベローナ、戦争への傾斜」〕。ベローナは古代ローマの戦争の女神)を読んでいたから。カイヨワは戦争を礼賛する言論によって、戦争が人びとの心をいかに引き付けるかを考察して、「戦争と祭りはともに社会の痙攣である」と論じた。痙攣は、意志も反省も到達できない内臓の深みで起こる。戦争も祭りも、知性では理解することも制御することもできない、社会(集団)の根底にある恐ろしい力の沸騰・噴出のようなものである、というカイヨワのひそみにならえば、オカルトもまた社会の痙攣に連なる現象である。
 2019年1月29日、『オカルト番組はなぜ消えたのか』刊行。この書名の本が書店に並ぶことは、10年前ではありえなかったのではないか――いま、「なぜ消えたのか」と問うことが了解される(との前提で出版される)ということは、本書の内容にかかわらず、ある意味をもつものだと思う。
 デジタルメディアの長足の進歩の結果、オカルトがエンターテインメント化される諸条件や演出は新たな次元へと突入していくことだろう。そうであればこそ、いま、その歴史の一端を振り返る意味があると思う。
 本書は、かつてどのようにしてオカルト番組が成立し、オカルト番組を介したコミュニケーションがどのように変化してきたか、その経緯と現状を分析している。本書の分析が、新たな次元へ備える一助となるならば、たとえオカルト番組が消えなかったとしても、著者としてはこのうえなく幸せである。

 

日本食は伝統? じゃなくて伝説のお料理でした――『刺し身とジンギスカン――捏造と熱望の日本食』を出版して

魚柄仁之助

 和食って、そんなにエライんですかぁ? 世界文化遺産に選ばれたとか言って喜んでる人もいるようですが、和食がすでに滅び去ったものだから「遺産」なんですよね? 伝統の和食とかいわれてますが、引き継がれていてこそ「伝統」なんであって、遺産と化した和食なら、伝統じゃなくって「伝説のお料理」じゃないんですかぁ?
 あたしの実家は1918年(大正7年)創業の日本料理店でした。あたしが生まれた56年ごろは創業者の祖父と二代目の親父が店を切り盛りしていて、同年輩の同業者(日本料理屋、寿司屋など)のオヤジたちもよく出入りしていましたから、それら料理人たちの話を聞きながら育ちました。明治生まれ・大正生まれのオヤジたちの料理話といえば、「和食、エライ!」一色と言ってもいいくらい、和食自己愛に満ちたものでした。
「洋食や中華は素材の鮮度が悪いから香辛料を使ったり油で揚げたりするが、和食は鮮度も食材の質も世界一だから、余計な味付けも加工もしないのだ」という信念をもち、神代の昔からの伝統食がどれほど優れているのか、を自慢していたのです。
 そのような明治・大正料理人たちの「和食、エライ!」とは裏腹に当時の日本人は洋食とか中華料理を喜んで食べてるし、学校給食は米ではなくパン食でした。寿司屋のオヤジだって鮪のかわりにハムを鮓種にして握っていたじゃないかッ。その寿司を和食と呼んでもいいのかっ!てなことをオヤジたちに言ってみたら、「屁理屈こねるんじゃねーやッ」と怒られたものです。

 そこで、三代目を継がずに食の鑑識を始めました。

 神代の昔、とまでは言わんが、日本の近代化が進んだ明治以降、その伝統的で優れた和食はどのように引き継がれてきたのだろうか、いや、引き継がれずに洋食化していったんだろうか、和食そのものが変化したんだろうか。そもそも和食の定義ってナニ?
 このような疑問を解き明かそうと、明治から大正・昭和の料理本や雑誌を古本市で買いあさり、そこに紹介されている料理の分類と分析、そして試作と検証を始めたのでした。1970年代から古本屋で昭和の婦人雑誌付録の料理本などを買い続けた結果、雑誌付録の料理本だけで約200冊、和食・洋食・支那料理(当時は中華料理をこう呼んでいたんです)の単行本まで含めると優に1,000冊以上が手元に集まりました。そのほかに家庭料理ページがある婦人雑誌(「主婦之友」「婦人之友」「婦人倶楽部」など)、科学的に食料を取り上げていた科学雑誌や農業雑誌などが数千冊。これらから食に関するページをPDFにして分析の資料にしてきました。
 こうして食の鑑識を進めてきましたら、現在食べてる日本食というものの進化の過程と事実がわかってきした。すると、これまでいわれてきた和食の伝説などがウソっぽい、根拠がないものだと思うようになったのです。食のうんちくのほとんどが「また聞きか受け売り」でしかなかったんです。
 例えば――。
・刺し身とか寿司だって、昭和の初期にはすでに洋食や中華の要素を積極的に受け入れて進化してきたことがわかりましたし、今日ではごく当たり前の「刺し身には醤油」という構図が刺身の食べ方の一つにすぎなかったこともはっきりとしました。
・「鯨肉食は日本の伝統的な食文化」というのも、料理法を調べてみると1935年以前の鯨肉食にしか当てはまらないこともはっきりしました。
・また、日本のウスターソースとイギリスのウスターソースはその製法も異なるし使い方がまあ~ったく違うので、「ソースが洋食で、醤油が和食」とは言えないってことも明白になりました。
・中国生まれの水餃子を敗戦で引き揚げてきた日本人が焼き餃子にした……のではない証拠イラストが戦前の料理本にはたくさんありました。
・昔懐かしいおふくろの味=肉じゃがという構図は1970年代にマスコミが作り出したもので、そもそも「肉じゃが」という料理名のレシピが料理本に載るようになったのは70年代のことでした。
・マヨラーという言葉が生まれたのは30年くらい前ですが、そのマヨネーズだって日本では独特の進化を遂げていました。卵不使用のマヨネーズとか油不使用マヨネーズなどの時代もあったのでJAS規格で厳しい基準が設けられたのですが、いまになって、アレルギー対策、ダイエット対策でそのようなニセマヨネーズが求められるようになったというのも皮肉なもんだ……というようなこともわかったんですね。
・土用の丑の日には鰻の蒲焼きを――と思い込んでいたけど、日本人が日常的によく食べてた蒲焼きは「イワシ、サツマイモ、レンコン」なんぞが多かったというのが現実でした。

 魚肉ソーセージを使った料理レシピを集めてみるとその陰には原水爆実験との関連が見えてくるし、焼きそばのレシピを並べてみると戦後のアメリカ産小麦粉輸入と縁日のテキヤ稼業と即席めんとの関連が見えてくる。

 このように料理別の項目を立てて書き始めたらとんでもない分量になってしまい、途中段階の原稿を見た青弓社から「分けましょ。一冊になんて無理無理!」と言われましたの。
 そこで第1弾は和食の王道でもある「刺し身」と得体の知れない郷土食?である「ジンギスカン」、そして知る人ぞ知る謎の中華風アメリカ料理「チャプスイ」の3つに絞ることになりました。
 これに続きまして近代日本食に影響を与えた調味料「ウスターソース、マヨネーズ、カレー」を中心にした第2弾、そして第3弾としては餃子と肉じゃがの真実に迫ります。
 いま、麺棒で餃子の皮を延ばして、その厚さ、コシの強さなどを検証しているところです。
「皮、延ばしても、締め切り、延ばすなッ」を肝に銘じて……。

 

52年間ファンとして追いかけてきた記念品――『沢田研二大研究』を書いて

國府田公子

 2018年に、偶然のきっかけで私のことを「読売新聞」夕刊に5日間にわたって連載してもらいました。それが引き金になって「本を出版しないか?」という話が届きましたが、最初は頑なに辞退していました。売れないと思ったからです。しかし、重ねて説得されて、売れるかどうか半信半疑ながら出版を引き受けました。
 とりあえず、手元にあるファンクラブの会報をワープロで入力してプリントすることからぼちぼちと始めました。というのも、何十年も前の会報は手書きをコピーしたものだったのです。
 7月からジュリーのツアーが始まったので、原稿まとめと並行しながら、私が運営しているウェブサイト「Julie’s World」も更新していました。
 そんなとき、あのコンサートのドタキャン騒動が起こりました。ジュリーから理由を聞くまでもなく致し方ないと思っていたのに、マスコミは大騒ぎ。その会場にいた私は「さもありなん」と思ってすぐに帰宅しました。思わぬところでジュリーが取り上げられて、そのことにびっくりしていると、フジテレビの『バイキング』の担当者から「話を聞きたい」という依頼がきました。「私の気持ちを素直に話せばいい」と思って引き受けました。ウェブサイト「Julie’s World」を開設・運営するにあたって、匿名とかハンドルネームでは情報発信者としての責任がもてないと思って最初から実名・公子で通していたので、名前や顔を出すことに抵抗はありませんでした。
 ところが、私が取材を受ける直前にジュリーが記者会見を開きました。こんなことはこれまでになかったし、普段のジュリーの姿を見ることができて、ファンはとてもうれしく思いました。もちろん、キャンセルすることはいいことではありませんが、諸般の事情によってはありうるだろうと思っています。ジュリーの考えとドタキャンの理由がわかったので「私が出る幕はないな」と思ったのですが、取材は予定どおりにおこなわれて放送されました。テレビの影響力は強いもので反響は大きく、コンサート会場でたくさんの方から声をかけられるようになりました。
 そのほか、TBSの『あさチャン!』や『サンデージャポン』からも依頼をもらいましたが、実現しませんでした。騒動の次のコンサートでジュリーがドタキャンの事情を説明したのでファンとしてはこの問題は解決ずみだと思っていたのに、騒動はなかなか収まりませんでした。
 そして、今度は「週刊朝日」(朝日新聞出版)の編集者(ジュリーのファンです)から「これまでの報道を快く思っていないので、いま一度、ジュリーを記事にしたい」と取材依頼が届いたので、引き受けました。記事になると、次には「週刊文春」(文藝春秋)からも「話を聞きたい」と。ただこちらは、「あなたの趣旨に反する記事になるから掲載しないことにした」と事前に連絡がありました。
 そんな展開を迎えるなか、年末に原稿をまとめて青弓社に届けました。
 できあがった本書のカバーには大きな文字が輝いていました。うれしいような、気恥ずかしいような、複雑な気持ちでながめました。
 ジュリーの武道館での3間のコンサートも無事に終わって、代替えの大宮ソニックシティのコンサート前日の2月6日に、TBS『ビビット』から再度、密着取材の依頼がありました。これも引き受けて、コンサートが終わったあとには自宅でグッズなども撮影しました。インタビュアーが本にも注目してくれたためか、8日の放送では本が何度も大写しになっていました。
 反響はこれでは終わりません。出版して放送もされて少し落ち着いて銀座をブラブラしているときに、今度は街頭インタビューにつかまりました。「いま、何をしてますか?」などに答えていたら、突然、「平成最大のニュースは?」と聞かれたので、とっさに「本を出版したこと」と返事したら取材者の目がキラリと光りました。詳しく教えてほしいと言うので、顛末を話しました。4月後半に放送予定のNHK-BSの番組ですが、どんなふうな内容になるのかもわかりませんし、もしかしたらボツになるかもしれません。
 また、「週刊文春」では本書を紹介してもらいました。「誰かのファンで居続けることは、こんなにも尊い」と書いてもらい、うれしく読みました。
 こうした思いがけない展開に、私は「いったい、何がどうなっているの?」と少々戸惑っています。ジュリーのドタキャン騒動がなければテレビに出たり週刊誌に載ったりすることもなかっただろうと思います。
 ファンを52年やってきて、ウェブサイトの運営も20年過ぎ、毎月書いていた会報「LIBERY」は500号を超えたちょうどそのときの出版の依頼だったので、「いい記念になる」と思って出版した『沢田研二大研究』。ですが、私はカリスマファンだとかファンの代表だとは全然思っていません。ただの一ファンです。

 さて、これから、何が起こるのでしょうか。5月9日から始まる「沢田研二LIVE2019 『SHOUT!』」に期待しながら過ごしています。

  

第19回 2018年を振り返り、19年を展望する

薮下哲司(映画・演劇評論家)

『宝塚イズム38』(12月1日発売)は2018年の宝塚を振り返るという意味合いも込めて「5組の診断」を特集に組みましたが、トップスターのサヨナラ特集とは違って、現在の宝塚全体を俯瞰することができて、なかなか充実した内容になったと自負しています。書店での反応も、個別のファンだけでなく宝塚を応援するファン全般に受け入れてもらうことができているようで、われわれ編著者が予想していた以上に好評だそうです。トップスターの退団発表がなく、ギリギリまで特集を決めかねていただけに、思いがけないうれしさとともに、読者のみなさまのニーズが何なのか、編集をするうえでの新たな課題を突き付けられた思いもしています。いずれにしても、楽しんでいただいていればこのうえない喜びです。
 宝塚歌劇は2019年に105周年を迎えます。つい先日100周年だと思っていたのですが、時がたつのは早いものです。100周年でマスコミがこぞって取り上げたおかげもあって、以来、好調な観客動員が続いています。それは、足が遠のいていたオールドファンや初めての若いファンがそのときに観劇して、宝塚歌劇の魅力を再認識し、リピーターになったからにほかなりません。ちょうどそんなときに上演された『ルパン三世――王妃の首飾りを追え!』 (雪組、2015年)や『るろうに剣心』(雪組、2016年)などの作品が、宝塚を見る彼らの目を変えたのではないでしょうか。「宝塚って意外と面白いやん」、それが現在の隆盛につながっているのだと思います。スタッフの企画力とそれに応えた出演者、演出力の成果だと思います。
 2018年の宝塚歌劇は、そんなファンを十分に満足させた充実した一年でした。少女マンガのカルト的名作を初めて舞台化した花組公演『ポーの一族』、人気ミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞』(月組)、そして『ファントム』(雪組)の再演が宝塚大劇場、東京宝塚劇場ともに連日満員の人気を呼びました。ほかにも台湾で上演した星組公演『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』のような人形アニメを舞台化するという新しいジャンルの作品にも果敢に挑戦、新作の合間にヒット作をバランスよく配置したバラエティーに富んだ陣容で話題を呼び、作品のレベルも比較的高い水準をキープできたのが何よりでした。宝塚大劇場では台風で二度休演するという不測の事態もありましたが、珍しくトップスターの退団がなかったのも安定感につながっています。
 そんななかで年末にディズニーリゾートにある舞浜のアンフィシアターで初めておこなわれたコンサート『Delight Holiday』(花組)が、これからの宝塚歌劇の一つのあり方を示していてなかなか興味深い公演でした。花組のトップスター、明日海りおを中心とした18人の選抜メンバーによる公演でしたが、本拠地では見られない男性客の姿が目立ち、普通のコンサートと同じようにペンライトを持ってタカラジェンヌを応援する姿が新鮮でした。場所柄、ディズニーランドのショーを見る感覚だったのかも。コンサートといえば最近では星組トップ時代の柚希礼音がおこなった日本武道館での大掛かりな公演がありましたが、そのときよりずいぶんとリラックスした感覚でした。
 内容も平成最後の年にちなんだ30年間のヒット・メドレーやディズニー・メドレーなど、いつものレビューとは一味違った選曲。トップ娘役の仙名彩世が歌った安室奈美恵の「Hero」は聴きものでした。
 宝塚歌劇にとって男性客の開拓は長年の懸案だったのですが、全国の映画館でのライブビューイングが拡充されて、宝塚歌劇が気軽に楽しめるようになったことも一因かもしれません。ライブビューイングはこれまで東京宝塚劇場での千秋楽公演に限られていましたが、2018年からは宝塚大劇場の千秋楽をはじめ、中日劇場、博多座、赤坂アクトシアター、さらに宝塚バウホール公演までおこわれるようになっています。これに加えて、放送開始とともにNHK-8Kでのライブ放映も始まりました。充実したコンテンツを生かして、今度はさらなる男性ファンの獲得へ――宝塚歌劇の攻勢は来年も続きそうです。
 来年の宝塚は宝塚大劇場が星組公演『霧深きエルベのほとり』、東京宝塚劇場は雪組公演『ファントム』からスタートします。元日、2日のそれぞれの初日には各組トップスターが勢ぞろいして口上をおこない、105年目の開幕をことほぎます。『霧深きエルベのほとり』は菊田一夫作で、1963年に初演された伝説的舞台の再演。20世紀初頭のハンブルクを舞台に、船乗りと深窓の令嬢の身分違いの恋を描き、当時のトップスター、内重のぼるの当たり役になった作品で、その後2度、再演されています。昭和の香りがする宝塚のクラシックといえば、大体の雰囲気はわかっていただけるでしょう。それを実力派の若手作家である上田久美子が現代の女性の視点でどんな形でよみがえらせるのか、興味は尽きません。
 前半のラインアップはその後、明日海りお率いる花組の一本立て大作『CASANOVA』、珠城りょうが宮本武蔵に扮する月組公演『夢現無双――吉川英治原作「宮本武蔵」より』、真風涼帆が星組時代に新人公演で主演した作品に挑戦する宙組公演『オーシャンズ11』、望海風斗が悲劇の新選組隊員に扮する雪組公演『壬生義士伝』と続きます。話題性があるオリジナルにヒット作の再演という安定路線はそのまま継承しながら、105年を乗り越えようという狙いです。後半もさらに話題作が続きます。
『宝塚イズム39』は6月1日発売です。105周年前半の成果の検証と後半への展望が、次号の大きなテーマになるでしょう。トップスターの変動もそろそろありそうな予感もしながら、4月には話題の新人の初舞台も控えていて、105周年の宝塚歌劇はマスコミを巻き込んでまたまた大きな旋風を巻き起こしそうです。宝塚ウオッチャーとしての『宝塚イズム』執筆メンバーも東奔西走、多忙な年になりそうですが、編著者としてはそのあたりの話題性に流されず、しっかりと宝塚のいまを見守っていきます。ご期待ください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第10回 ヴィリー・ブルメスター(Willy Burmester、1869-1933、ドイツ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

パガニーニの再来と謳われた逸材

 未曾有の大災害である関東大震災が起こった1923年(大正12年)の4月、世界漫遊の途次、ドイツのヴァイオリニスト、ヴィリー・ブルメスターがピアニストのヴィリー・バルダスを伴って日本の土を踏んだ。彼らは約4カ月間日本に滞在し、東京、大阪、京都、神戸、広島などを訪れている。ほぼ同時期にはフリッツ・クライスラーも来日していた。この2人のヴァイオリニストは5月頃、大震災の前触れといわれる地震に遭遇したが(関東大震災が起こったとき、すでに2人は日本を去っていた)、ともに人生初の地震体験だったという。リサイタルは、クライスラーのほうは大入り満員だったが、ブルメスターのそれは空席が目立った。クライスラーのレコードはビクターに多くあったが、これらは当時日本では非常に有名だった。一方、ブルメスターのレコードはほとんど流通しておらず、それでチケットの売り上げに差がついたらしい。かくしてブルメスターは「今度日本に来るときには、ビクター・レコードに録音してからにしよう」とつぶやいたらしいが、2度目の来日は、ついに果たされることはなかった。
 ブルメスターは1869年、ドイツのハンブルクに生まれた。父の手ほどきでヴァイオリンを始め、7歳のときに公の場で演奏して注目を集める。81年、巨匠ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに認められ、12歳のときにベルリン高等音楽院に入学。しかし、その3年後(4年後とする説もある)、ヨアヒムは「ヴァイオリン以外の科目は全くだめ」として、ブルメスターを破門したとされる。87年、チャイコフスキーがハンブルクを訪れた際、ブルメスターがチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を弾くと、チャイコフスキー自身から絶賛された。この成功がきっかけで、ブルメスターは88年と92年にロシアに招かれている。ハンス・フォン・ビューローとも交遊関係をもち、ヘルシンキ・フィルハーモニーのコンサートマスター(1892-94年)も務めた。94年11月、ベルリンでデビューし、注目を集める。ちなみに、当時のベルリンではヨアヒムやパブロ・デ・サラサーテ、レオポルト・アウアーなど、伝説のヴァイオリニストたちがしのぎを削っていた。1923年に日本を訪れてはいるものの、それ以降の活動状況についてはほとんど何も知られていない。33年、故郷ハンブルクで死去。
 ブルメスターは来日した際、“パガニーニの再来”と宣伝されていた。実際、ブルメスターは節目でパガニーニを演奏していたようだが、幸か不幸か、パガニーニの録音は残っていない。後年、ブルメスターはパガニーニ弾きのイメージを変えようとしたが、うまくいかなかったとされる。また、特にベルリンではヨアヒムを意識し、ドイツ物はなるべく避けていたともいわれる。晩年は病気説もあるが、いずれにせよ、最後の10年間はそれほど活発に活動していなかったようだ。
 2018年12月、東京・神田神保町のレコード社・富士レコード社が創業88年を記念して、CD『ヴィリー・ブルメスター全録音集』(F78-2)を発売した。ブルメスターの全録音とはいえ、曲数は13、SP盤14面分である。内容は以下のとおり。

バッハ「アリア」、同「ガヴォット」、ラモー「ガヴォット」、デュセク「メヌエット」、ヘンデル「アリオーソ」、同「メヌエット」、同「サラバンド」、シンディング「アンダンテ・レリジオーソ」(以上、1909年9月27日、ベルリン、グラモフォン)

フンメル「ワルツ」、ブルメスター「ロココ」(以上、1923年、日本、ニットーレコード)

ラモー「ガヴォット」、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲ホ短調より第2楽章」(以上、1932年1月、デンマーク、エディソン・ベル)

 わずかこれだけの枚数なのに、過去に全録音を収録した復刻盤が存在しなかったのには理由がある。それは、特に日本録音とデンマーク録音が中古市場では極めて稀少であること。数が少ないということは、すなわち値が張るということ。日本録音は一時50万円ともいわれたが、デンマーク録音もそれと似たり寄ったりであるらしい。そんなわけなので、全点持っているコレクターは世界的に見てもごく少数であるため、上記の復刻CDも複数のコレクターがSP盤を持ち寄って完成したという。
 ブルメスターの音はピンと張っていて、透明感がある。しかも、音色は高貴な香りを漂わせ、上質な甘さもある。パガニーニ弾きといわれただけあって、切れ味はあのブロニスラフ・フーベルマンを思わせるし、ゲオルク・クーレンカンプのような男の哀愁みたいなものも感じさせる。唯一、ラモーの「ガヴォット」は新旧で聴き比べられるが、全体の解釈の基本は全く変わっていない。両方とも、とても魅惑的な演奏である。デンマーク録音は亡くなる前年の電気録音であり、これがブルメスターの実際の音に最も近いと思われるのだが、一方では1909年の録音にこれだけの情報量があるのかと、改めて驚いた。
 ところで、ブルメスターは来日の際、当時大阪に本社があったニットーレコード(日東蓄音器)に2曲、録音している。わずか2曲ではあるが、『ロココ』は唯一の自作自演として貴重である。来日アーティストの日本録音としては、テノールのアドルフォ・サルコリがヴェルディの歌劇『リゴレット』からの「女心の歌」を1912年に収録した例があるが(ロームミュージックファンデーションの『SP名盤復刻選集Ⅰ』に収録)、器楽奏者としてはこのブルメスターが最初ではないだろうか。当時はもちろん、マイクによる収録ではなくラッパ吹き込み(アコースティック録音)である。
 実は、私はブルメスターの全録音集のCD解説を依頼されたのだが、その際、インターネット上に流布している録音データの根拠を探し求めたのである。つまり、収録は4月とか、場所は大阪であるとか書かれているが、知る範囲では明確な根拠を示したものはひとつもない。
 当時の録音データがある可能性が最も高いと思われたのは、かつてニットーレコードが発売していた月刊誌「ニットータイムス」だった。調べた結果、この雑誌を最も多く所蔵していたのは大阪の国立文楽劇場の図書閲覧室と、京都市立芸術大学の日本伝統音楽研究センターだった。しかし双方が歯抜けだったため、私は2日かけて2カ所を訪ねたのである。
 その結果、録音データは一切見つからなかったが、以下の2点だけは確認できた。
①ブルメスターのレコードは1923年の「10月売り出し」である。
②予定では数曲以上録音するはずだったが、録音技師の不手際で、2曲しか商品化できなかった。
 ①「ニットータイムス」1923年10月号には「10月売り出し」の広告もあるが、同じ号にはブルメスターのレコードを買って感激した読者の投稿があるので、SP盤は8月末か9月の初め頃には店頭に出ていたと推測される。
 ②「ニットータイムス」1927年5月号の「吹込のEpisode」という記事のなかで、何度やってもうまくいかず、会社は莫大な吹き込み料金をフイにしたと記されている。
 録音場所は、可能性としては大阪本社の吹き込み所(録音スタジオ)が最も高いだろう。録音後、ただちに敷地内の工場でプレスできたからである。しかし、当時の「ニットータイムス」を見ると、東京にも吹き込み所はあったし(九段下にあったが、2012年にビルが解体された)、さらに意外なことには、ニットーレコードはあちこちに臨時吹き込み所を設置して録音していたのである。当時、きちんと調整されたピアノがあちこちにあるとも思えないので、ブルメスターの録音だって彼らが滞在していたホテルだったかもしれないし、どこかの練習室のような場所だったことも考えられる。
 大物アーティストの来日録音はしばしば雑誌の記事になっていたので、ブルメスターの録音についても、同様の記事が見つかれば解決できたかもしれない。ということで、インターネット上に記されているブルメスターの録音データは、1923年以外、全く信用がないものだと念を押しておきたい。なお、ブルメスターは『芸術家生活50年』という自伝(ドイツ語、英訳もあるらしい)を著していて、そのなかには日本滞在の章があるのだが、残念ながら日本録音についての記述は全くない。
 余話。自伝によると、ブルメスターは日本滞在後、クライスラーと同じ船に乗ってアメリカに渡ったという。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。