放送の自由を守るために――『政治介入されるテレビ――武器としての放送法』を書いて

村上勝彦

「文庫本を読むのにも1週間かかるのに、2日で読んだ。モヤモヤしていたものが消えた」「倫理規定とか義務規定とかというのは、学者の話と思っていたが、放送法の目的から説明があってはじめてその意味がわかった」
 本書を読んでくれた先輩や仲間の感想である。言いたかったことが伝わったと、素直に喜べた。
 実は私は放送局で長年仕事をしていたので放送法はある程度知っているつもりだったが、誤った理解しかしていなかった。放送法は放送局を規律するためにある、と思っていた。というのも、放送法第3条に「番組編集の自由」があるが、そのすぐあとの第4条に「善良な風俗」「事実はまげない」などの番組準則が続いているために、それに反すれば社内で処分を受けるのはもちろんこと、郵政省や総務省から注意されても仕方がないと単純に思っていた。放送は免許事業であるため、放送番組には一定の枠があり、その枠に触れるかどうかを判断する権限を行政はもっていると何の根拠もなく思い込んでいた。あたかも行政が司法判断をする裁判所であるかのように、である。
 しかし、放送法制定時の国会で辻寛一電気通信委員会委員長が述べた、軍や官僚が放送を握って軍事宣伝の道具にした歴史を繰り返さないために放送法を制定する、という委員会報告を読み、はじめてその出発点を知った。これで、視点と理解が百八十度変わった。そして、戦後に新聞紙法や出版法が廃止されたにもかかわらず、なぜ新憲法の下、放送法ができたのかがすんなり理解できた。つまり放送法は、放送が限られた電波を使っていて影響力が大きいために、権力の介入を許さず、それを防ぐために制定されたという、ごく当たり前のことを知ったのである。
 放送局で働く多くの人たちは、「放送の自由を守る」という思いをもっている。私もそうである。しかし「放送の自由」とは何か、何から何をどう守るのかということをしっかり考えることはなかった。ひと言で言えば、自由とは拘束されないことだ。拘束するには権限がいる。しかし放送法は、放送番組に関して拘束する権限を行政に与えていない。放送法は、放送局が自ら枠を決めて自ら律することを求め、その枠の基本を第4条に記しているのだ。そして自律しているかどうかの判断を政府や国家に許していない。その判断は放送局が自律的におこなうものであり、それを評価するのは視聴者である。
 この基本を知らないと、「放送の自由を守る」という言葉は、理論が伴わない単なるスローガンにしかならない。同時に、「自律」がとてつもなく重いものであることも十分には理解できないのである。
 本来ならば放送局で働く人が知っておかなければならない放送法のこの意味を、社内研修などでは残念ながら聞いたことはなかった。そのためか、「公共の電波を使うので規制が必要」といわれると、そうだろうなと思ってしまうのである。私はそうだったし、多くの仲間もそうである。それではいけないと思い、できるだけわかりやすく放送法の意味を伝えられないかとこの本にまとめたつもりだ。
 放送法を知っているつもりだった私があらためて放送法に関心をもったきっかけは、5年ほど前に、先輩の紹介で日本マス・コミュニケーション学会の会員になったことである。年に2回発行されている学会誌に投稿論文の場があり、それに投稿した。学生時代、リポートは書いたことがあるが、論文というものは経験がなく書き方の基本も知らなかった。
 最初の投稿は、番組への行政指導と放送局の自律という大テーマで、査読者もお粗末さにびっくりしたのだろう、参考文献をはじめ論文のイロハを丁寧に教えてもらった。そのおかげで、国会議事録を中心に一から事実を積み上げ、行政が放送法の解釈を変えてきたこともよくわかった。その際最も参考になった1つが『放送法を読みとく』(鈴木秀美/山田健太/砂川浩慶編著、商事法務、2009年)であり、「目からうろこ」だったのは、先に記した放送法制定時の辻寛一委員長の発言だった。今年初めの学会誌にようやく投稿論文が掲載され、自分の放送法の解釈に誤りはないと思い、青弓社の矢野恵二氏や社員のみなさんのお力で本にすることができた。
 現代は、真偽取り交ぜて様々な情報が飛び交い流布され、その一方で官邸を中心とした政府の情報統制が進んでいる。そんな時代だからこそメディアの真価が問われる。特に放送は放送法を理解し理論武装しないと政府にからめ捕られる恐れが強い。

 放送に携わる人たちをはじめ放送に関心がある人たちに、無知だった筆者の悔恨が詰まった本書を手にしていただければ幸いだ。そして、放送法を闘う武器としてともに生かせればと思っている。

 

ギモン1 どこで展示するの?(第2回)

第2回 現代美術と出逢う場所としての美術館――第二次世界大戦以降の展開

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 第1回で美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。ところで「現代美術」あるいは「現代アート」という言葉だが、それに対応する英語である「Contemporary Art」を文字どおり訳せば、正確には「同時代美術」になる。一方で「モダン・アート(Modern Art)」については、英語でも日本語でも時と場合によって「近代美術」と「現代美術」のどちらも意味することがあり、その用法が混在している。そもそも何をもって「近代(モダン)」と定義するかについては、「ポスト・モダン(Post-Modern)」の思想が1970年代末から80年代にかけて広まったことも手伝って、いまだに議論が尽きない。よって近代美術と現代美術の区分についてもさまざまな見方があり、一概には言えないのだが、本稿では便宜上、第二次世界大戦以降の美術を現代美術としながらも、それ以前に制作された美術(近代美術)についても、状況に応じて現代美術の文脈のなかで論じていくことにしたい。
 現代美術と出逢う場所として、最も象徴的な存在が、1929年に開館したニューヨーク近代美術館(通称MoMA〔モマ〕)だろう。アメリカは、西洋美術史的観点から見れば、国としての歴史が浅く、ヨーロッパ諸国に比して当然ながら西洋美術品のコレクションが乏しい状況にあったが、20世紀に入って個人の資産家を中心としたフィランソロピー(篤志家)の精神に基づいた新しい美術館が次々と誕生した(5)。なかでもMoMAは、名称こそ「近代」美術館だったが、アメリカの圧倒的な経済力と文化政治戦略の後押しを受け、近・現代美術、特に同時代のアメリカ美術を牽引していきながら、新しい美術館像を国内外に発信していき、後続する世界各国の近・現代美術館のモデルになった。日本でも1952年に開館した東京国立近代美術館は、MoMAをモデルとして構想されたことで知られている(6)。

ホワイト・キューブの衝撃

 MoMAの果たした役割とその影響は多岐にわたるが、まずはそのなかでもMoMAの代名詞ともなった「ホワイト・キューブ(白い立方体)」と称される独特の展示空間に着目してみよう。ホワイト・キューブとは、その名のとおり、装飾性を廃した白い壁で四方を囲まれた中立的な展示空間である。そこでは、作品と作品の間隔が程よく空けられ、鑑賞者が1つ1つの作品とゆったり向き合える展示が基本とされた。このような展示方法は、それまで主流だったルーヴルのサロンのように、壁に額装された絵が上から下までびっしりと何列にもなって隙間なくかけられるスタイルや、華美な装飾が施され、調度品に囲まれた部屋の壁に絵画を配する展示とは非常に対照的だった。
 サロン式の展示からの脱却については、MoMAのホワイト・キューブの登場以前から、さまざまなアプローチが試みられていた(7)。例えば19世紀半ばには、ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、展示する作品点数を減らして、目線の高さが中心となるように展示されるようになった。またそれによって生じた壁の余白部分にも注目が集まり、当時の科学的な根拠に基づいて、金色の額縁と寒色系の落ち着いた色彩で描かれる絵をよりよく見せるために、既存のグレーがかった緑色の壁を赤く塗り替えた展示室が登場した。また20世紀の初めにはボストン美術館がこれまでの展示方法を見直し、作品を選択して、多くても2段がけまでにして絵画を展示したり、展示にふさわしい壁の色や照明についての検討を重ねた。さらに1930年代にはアメリカだけでなく、ナチス・ドイツ政権下でも美術館の展示室の壁を白くする試みがなされていた。だが、こうした先駆的な試みをはっきりと一つの展示スタイルとして確立し、規範を示したのは、MoMAにほかならなかった。
 初代館長アルフレッド・バーによる1936年の「キュビズムと抽象美術(Cubism and Abstraction Art)」展は、バー自らが作成した有名なダイアグラム(系統図)に集約されているように、19世紀末のセザンヌや新印象主義からピカソらのキュビズムを経由して抽象美術へと帰結していくモダン・アートの系譜を示す歴史的な展覧会だった。400点近い絵画や彫刻、ドローイング、家具などを展示したこの展覧会はMoMAが示す20世紀の美術史観を体現するものであり、その展示方法にもバーの明確な意図が示されていた。壁は白く塗られ、敷物などのないむき出しの木の床やタイルの床の部屋が用意され、照明の装飾は外されてシンプルなものとされ、作品1つ1つをよく鑑賞できるように配置された。この展覧会で確立されたホワイト・キューブにおける展示方法は、1939年に現在の場所に開館したMoMAでも、踏襲されることになった。
 MoMAのホワイト・キューブは、当然ながら人々の鑑賞体験にも大きな変化をもたらした。ホワイト・キューブという装置は、人が作品と出逢うためだけにある特別に設えられた空間であり、そのなかに身を置く鑑賞者は、ただひたすら作品と向き合うしかない。おそらく今日、「美術館」というと多くの人が思い浮かべる、大きな白い空間で、静かに作品と対峙する、というイメージはこのMoMAのホワイト・キューブの展示のイメージだろう。それはホワイト・キューブについて論じたブライアン・オドハティーが指摘しているように、中世の礼拝堂のような厳格なルールにのっとって構成された「下界から閉ざされ、窓は塞がれ、壁が白く塗られ、天井が光源となる」空間である(8)。そこでは「アートは、それ自体の生を得る(9)」。ホワイト・キューブは、作品と人が出逢うための物理的な環境を創出しただけではない。ホワイト・キューブは、日常性から切り離された人工的で、時間の流れも止まったような神聖な雰囲気で満たされた空間のなかで、人々が作品との対話を通して自己の内面を見つめ直し、自分と作品との関係性を厳かに構築していくような精神的な環境をも作り出したのだ。いまでも美術館というと、「静かに鑑賞するように」注意を受けることが多いが、それは、他の人の鑑賞の妨げにならないように、各自が作品とじっくり向き合えるように、という配慮が感じられる。このような鑑賞態度は、典型的なMoMAのホワイト・キューブの遺産と言えるだろう。
 このように美術館という装置は、MoMAのホワイト・キューブの登場により、人々が、個々の作品と静かに対峙する空間へと大きく変貌した。またホワイト・キューブという白い容れ物は、中身の作品が入れ替わることを容易にし、企画展や特別展など、展覧会ごとに内容の異なる展示にも対応しやすい空間を作り出すことに貢献した。さらにはあるホワイト・キューブから別のホワイト・キューブへと展示を移行することも可能にして、ある美術館で仕立てた展覧会を別の美術館へと巡回させることも容易になった。また作家側も、美術館や画廊のホワイト・キューブで展示されることを前提として作品を制作することが格段に増えたと言えるだろう。

美術館で展示されるものとは――MoMAの役割を中心に

 これまで見てきたようにMoMAのホワイト・キューブは、人々が作品を鑑賞するための特別な環境を整えて、美術館における作品展示のあり方に対する一つの規範を示した。ここであらためて美術館で展示されるものについて考えるにあたり、先のオドハティーが述べた次の言葉に着目したい。「そのような環境〔ホワイト・キューブの環境の意:引用者注〕では灰皿は聖なるオブジェに、近代美術館に置いてある消防ホースは美学的な謎に見えてしまう(10)」。確かにホワイト・キューブの閉ざされた展示空間は、そこにあるものを何でも作品に変えてしまう魔力をもっている。だが、灰皿でも消防ホースでも、はたまた粉チーズ容器でも、美術館の展示室に置かれたら何でも作品となるほど、事は単純ではない。ましてや、サロン式の展示と違って、ホワイト・キューブの一室に展示できる作品の点数は、極端に絞られた形となったわけだが、その部屋に何をどのように展示するかを決めるキュレーターの役割も飛躍的に重要なものになった。何をもって作品とし、それをどういった文脈の展覧会で美術館に展示するかという点も、MoMAのアプローチは革新的で戦略的であり、特筆に値するものだった。
 MoMAは、大富豪でフィランソロピー活動に熱心だったロックフェラー一族の1人、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー2世の妻であるアビー夫人と、彼女と交流のあった上流階級のリリー・P・ブリス、コーネリアス・J・サリヴァン夫人という3人の女性によって現代美術を展示する施設として創立された美術館である。アビー夫人は1920年前後から現代美術に興味をもち、アメリカ人画家の作品を購入し、コレクションしていくだけにとどまらず、生活に困窮した芸術家たちの生活費や留学資金なども積極的に支援した。初代館長のアルフレッド・バーは、絵画や彫刻だけでなく、建築、デザイン、映画、写真など当時美術館で展示されることがなかったジャンルの作品についても、独立した部署を与えて展覧会を企画する、という画期的な試みを導入した。つまり、MoMAは美術館に展示することで、これまで美術の文脈で扱われることがなかったもの、「作品」とされていなかったものを「作品」として定義づけ、美術史のなかに位置づけていき、次々とその指標を示していく存在だったのである。これについては、また作品の収集にまつわるギモンのところでも、詳しく見ていきたい。
 MoMAのホワイト・キューブ空間における作品展示を考えるうえで、最も象徴的な存在であったのが、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコなど抽象表現主義と呼ばれる作家たちの作品だった。彼らは一辺が3、4メートルもあるような巨大なカンヴァスの画面いっぱいに抽象的な線や色面を描くことで、それまでのヨーロッパにはない新しい表現を生み出していった。彼らの作品は、ホワイト・キューブの白い空間に非常によく映え、ホワイト・キューブで盛んに展示されるようになるにつれ、それに呼応するかのように彼らのカンヴァスもますます巨大化していった。
 抽象表現主義は、もともとは第二次世界大戦の戦火を逃れてヨーロッパからアメリカに移り住んだアーティストたちの影響を受けて、1940年代中盤からニューヨークを中心に始まった芸術運動である。先に挙げたジャクソン・ポロックやマーク・ロスコのほか、ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマンなどがその代表格だが、彼らを一躍スターの座に押し上げたのは、クレメント・グリーンバーグやハロルド・ローゼンバーグといった美術批評家だった。当時のアメリカは、東西冷戦のただなかにあった。ソヴィエト連邦では、抽象絵画に代表されるモダニズムを批判し、社会主義リアリズムを奨励していた。これに対して、新しいアメリカの美術を象徴するような抽象表現主義は、それらのプロパガンダ的な具象絵画や彫刻とは一線を画し、個人の作家の自由な表現を推奨するものとして、対抗するにはうってつけの存在だった。
 アメリカで抽象表現主義がもてはやされた1940年代から50年代にかけてMoMAの理事長(President)を務めたのは、アビー夫人の息子で、のちにニューヨーク州知事、アメリカ合衆国副大統領まで務めたネルソン・ロックフェラーだった。彼は、抽象表現主義の熱心な支援者として知られていた。彼自身のプライベートなコレクションだけでも2,500点以上の抽象表現主義の作品があったが、さらにそれを上回る数千点もの作品がロックフェラー財閥の傘下にあるチェース・マンハッタン銀行の各建物のロビーや壁面を飾った。グリーンバーグらの理論的なサポートでお墨付きを得た抽象表現主義は、バー館長の下で、MoMAでも積極的に収集・展示された。また当時の社会主義勢力に対して情報戦で文化面でもアメリカの優位を示そうとしていたCIAによる強力な後押しもあり、MoMAの抽象表現主義を中心とするコレクションをヨーロッパで巡回展の形で紹介する国際プロブラムが50年代に盛んに実施された。56年までに同プログラムによる34の展覧会が実施され、そのなかには国際展で現在でも権威あるヴェネチア・ビエンナーレへのアメリカ参加も含まれていた(11)。

(第3回に続く)

 

[補足]MoMAの過去の展覧会については、現在すべてアーカイブ化され、オンラインで観ることが可能である。例えば「キュビズムと抽象美術」展については、下記のURLから閲覧できるので、参照されたい。
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2748?locale=ja

 


(5)アメリカのフィランソロピストたちによる美術館の創設については岩渕潤子『大富豪たちの美術館――アメリカ・パトロンからの贈り物』(〔PHP文庫〕、PHP研究所、1995年)に詳しい。また美術館の成り立ちについては同じく岩渕潤子による『美術館の誕生――美は誰のものか』(〔中公新書〕、中央公論新社、1995年)を参考のこと。
(6)戦後から現代に至るまでの日本における学芸員とキュレーターの歩みとその変遷については、拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)を参照されたい。
(7)「How the White Cube Came to Dominate the Art World」(https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-white-cube-dominate-art)
(8)Brian O’Doherty, Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space, 1976, University of California Press, p.15.
(9)Ibid., p.15
(10)Ibid., p.15
(11)Frances Stonor Saunders, ‘Yanqui Doodles’, in The Cultural Cold War: The CIA and the World of Arts and Letters, 1999, The New Press, New York, pp. 252-278.

 

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第22回 柴田侑宏さんをしのんで

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 
 105周年を迎えた宝塚歌劇の後半世紀の間、宝塚の作品群に確固とした品格を生み出した最大の功労者、柴田侑宏氏が2019年7月19日、闘病の末亡くなった。87歳だった。7月21日に通夜式、同22日には告別式が西宮市内のエテルノ西宮でしめやかに営まれた。通夜式には、榛名由梨、鈴鹿照、高汐巴、寿ひずる、平みち、杜けあき、湖月わたる、朝海ひかる、蘭寿とむ、龍真咲らOG、松本悠里、轟悠、明日海りお、望海風斗らの現役生、告別式にも紫苑ゆう、黒木瞳、愛華みれ、真琴つばさ、稔幸、大空祐飛ら多くのOGや現役生をはじめ多くの関係者が参列し、故人の冥福を祈りました。
 
 柴田作品を演じていないトップスターはいないといっていいほど宝塚になくてはならない作家・柴田氏の訃報にふれて、『宝塚イズム』では12月発売の次号で柴田氏の追悼を予定していますが、その前に“宝塚の至宝”柴田氏の足跡と思い出を振り返っておきたいと思います。

    *

 柴田氏が宝塚歌劇団に入団したのは1958年(昭和33年)。関西学院大学を卒業、上京して数年後のことだった。歌劇団入団の経緯を、ご本人に取材した話をもとに再現してみよう。お兄さんが日活の映画監督だった松尾昭典氏だったことに影響されて、自身も大学卒業後、東京で脚本家修業をしていたのだが、宝塚歌劇団が募集したテレビドラマの脚本コンクールに応募して入選、面接で宝塚に来たときにそのまま入団が決まり、演出助手として採用されたのだという。それまで宝塚歌劇は一度も観たことがなかったという。26歳のときだった。当時OTV(毎日放送と朝日放送の前身)に宝塚歌劇の番組枠があって、入団早々、そこで民話ドラマシリーズを担当することになり、同期の新人作曲家だった寺田瀧雄氏とともに担当、右も左もわからず、しかも生放送の番組で大変苦労したそうだが、このシリーズは寺田氏とのコンビ誕生のきっかけになったほか、その後の宝塚での脚本執筆に大きな糧になったという。
 柴田氏は1961年暮れに宝塚新芸劇場での花・月組合同公演の3本立ての一本だった民話歌劇『河童とあまっこ』でデビュー。翌年12月の星・雪組合同公演の一本、舞踊劇『狐大名』で大劇場デビューを果たした。若手のころは日本物の作家というイメージが強く、私が最初に柴田氏の作品にふれたのも71年の星組公演『ノバ・ボサ・ノバ』初演と一緒に上演された『いのちある限り』ではなかったかと思う。鳳蘭、安奈淳、大原ますみという星組ゴールデントリオといわれた3人が山本周五郎原作の人情物に挑戦した作品で、鳳の似合わない青天姿で伝説的な舞台だ。
『ノバ・ボサ・ノバ』の強烈な衝撃度に隠れて見過ごされがちだが、『いのちある限り』も故寺田瀧雄氏の名曲がちりばめられたさわやかな感動作だった。その後、同じ鳳蘭ほかの主演でバウホールで一度だけ再演されている。ほぼ同時期の『小さな花がひらいた』(花組、1971年)そして『たけくらべ』(雪組、1973年)と、このころの柴田作品は珠玉のような作品群が並ぶ。
 一期上の演出家・植田紳爾氏(年齢的には一つ下にあたる)が1974年に『ベルサイユのばら』を発表して、社会現象的なヒットを飛ばしたことが柴田氏に大きな刺激を与え、これまで宝塚では扱われなかった古代王朝や幕末を題材にした『あかねさす紫の花』(花組、1976年)や『星影の人』(雪組、1976年)を連続して発表。いずれも高い評価を得て、ポスト『ベルばら』に貢献、宝塚での存在を絶対的なものにした。
 1972年の月組公演『さらばマドレーヌ』から洋物にも積極的に取り組み、74年の星組公演『アルジェの男』に次いで発表した75年の雪組公演『フィレンツェに燃える』で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞、演劇界での名声も確立された。生前、柴田氏から「僕の作品で再演するとしたら君は何を観たい?」と問われて真っ先にこの作品を挙げると、ご本人も「機会があったらやりたい」とおっしゃっていたのだが、なぜか再演されずじまいだったのが悔やまれる。
 柴田氏の作風は、人間ドラマとして緻密に計算され、ストーリーとしての破綻がなく、結末を観客にゆだねて、観終わった後に深い余韻が残るという作品が多いのが特徴。一方、オリジナルでは『バレンシアの熱い花』(月組、1976年)のように、トップスターの個性や組の構成を考慮して、各人各役を当て書きしながらドラマとしても大胆な構成で書き下ろすなど、宝塚歌劇の座付き作者としての職人技には他の追随を許さないものがあった。『バレンシアの熱い花』初演は榛名由梨、順みつき、瀬戸内美八が主演だったが、客席の熱気はいま以上の信じられないパワーがあって圧倒されたことをよく覚えている。
 1985年、月組の剣幸のトップ披露公演『ときめきの花の伝説』はスタンダールの『ヴァニナ・ヴァニニ』の舞台化だったが、このときの舞台稽古で「最近、視野が狭くなって」とおっしゃっていたのをよく覚えている。その後、病気が進行して失明に近い状態になって新作の執筆が困難になってしまわれたのは慙愧に堪えない。それでも、自作の再演時には、必ずそのときのトップスターの個性や組の構成に合わせて役を書き足したり場面を増やしたりといった補筆を欠かさず、稽古場には必ず顔を出し、舞台稽古や初日なども付き添いの方と一緒に必ず客席でごらんになっていた。
 つい最近も稽古場で、出演者が立ち位置を間違えると、すかさず柴田氏の叱咤の声が飛び、演出を担当していた中村一徳氏が「見えないというのは嘘で、実際は見えているのではないかと思った」というほど、稽古場での柴田氏の集中力は研ぎ澄まされていたという。
『アルジェの男』(2011年)が霧矢大夢時代の月組で再演されることが決まったとき、私が講師をしている毎日文化センターの「宝塚歌劇講座」にゲスト講師として『アルジェの男』の創作秘話について話していただいたことがある。詳しい内容は忘れてしまったのだが、女性が演じる男役とかは特に意識することなく、しっかりした内容があってドラマに納得性があれば、品格さえ保てばどんな題材でも宝塚で上演できる、という確固たるポリシーをもっておられたのはよく覚えている。
 柴田氏の作品は宝塚を離れても十分通用するが、宝塚以外の舞台からの誘いには一切応じることはなく、宝塚一筋に邁進してこられた。宝塚を観たことがなかった演劇青年が宝塚のどこにそれだけの魅力を感じ創作活動の源となったのか、そのあたりをきちんと聞いておくべきだったといまになって悔やまれてならない。宝塚らしさとか宝塚の限界という常識を取っ払って次々に新境地を開拓されたのは、宝塚を一度も観たことがなかった演劇青年がある意味宝塚を冷徹な目で見ていたからにほかならないと思います。コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』が『仮面のロマネスク』(雪組、1997年)という見事な宝塚の作品に生まれ変わったのも柴田氏ならではの手腕でしょう。

   *

 そんななかで私がいちばん好きな柴田作品はといわれれば、松あきら、順みつき時代の花組公演『エストレリータ』(1981年)を挙げます。2人がダブルトップといわれていた時代の書き下ろしで、ブラジルのリオデジャネイロを舞台にしたトライアングルラブ。どちらも際立つように書かれたその手腕が見事で、ほとほと感心した覚えがあります。この作品も再演されていません。このことは生前、柴田氏にもお伝えしたことがあって「へーえ」と意外そうな返事をされながらもまんざらでもない表情をされたのが、いまとなっては宝物になってしまいました。合掌。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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ギモン1 どこで展示するの?(第1回)

第1回 作品と出逢う場所

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 いま、この連載を読んでくださっているあなたは、「現代美術」や「キュレーター」といったものに少なからず興味をもっている方にちがいない。あるいは、何らかの形で実際に現代美術関連の仕事に携わっている方かもしれない。そんなあなたの記憶のなかで、「現代美術」や「キュレーター」に関心をもつきっかけになるような展覧会や作品に初めて出逢ったのは、どこだっただろうか。
 私の場合は、忘れもしない、1993年秋にロンドンで開催されていた「20世紀のアメリカ美術(1)」展だった。ごった返す主会場のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツより、いくぶん静かな郊外にあるサブ会場のサーチ・ギャラリーの最後のセクションの一角にその作品はあった。
 暗い部屋の奥の壁一面に雪山と思われるモノクロ映像。鮮明ではなく、絶えずゴォーというノイズが入ってうごめいている。手前には小さな乳白色のキューブの部屋。内部は裸電球1つで灯され、粗末な木のテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には金属製の水差しと、水が入ったグラス。そしてその簡素な部屋とはおよそ不釣り合いな小型モニターに映し出されたカラーの山の静止映像。部屋に近づくと、スペイン語と思われる言語で何かをささやき続けている男の声が聞こえる。ふと脇にある説明に目がとまる。「ビル・ヴィオラ」という聞き慣れないアーティストの名前。作品タイトルは「十字架の聖ヨハネの部屋」(1983年)。
「スペインの詩人で神秘家の十字架の聖ヨハネ(1542-91)はカトリック教会の弾圧を受け、1577年に9カ月間幽閉された。独房には窓がなく、背を伸ばして立つこともできなかった。頻繁に拷問を受けながらも、聖ヨハネはのちに代表作となる詩の多くをこの期間に書いている。そこでは愛、恍惚、暗い夜道、市壁や山々を超えた飛翔などが詠われている(2)」
 その説明を読み終わるやいなや、まるで雷にでも打たれたかのようにビリビリとした衝撃が全身に走った。ささやく声は聖ヨハネの詩の朗読であり、小さな部屋は彼の独房、山の映像は彼が詠った世界だったのだとその瞬間すべてが一度につながって、「十字架の聖ヨハネ」という時代や国を超えた一人の人物と、それを作品として表現したアーティストの美しい精神世界が、突如として自分のなかに広がったのだった。当時の私は、現代美術のことなど何ひとつ知らない社会人類学専攻の学生だった。だが、これは尋常な事態ではないと思い、とにかく現代美術に関わっていかなければと半ば勝手な使命感にも似た思いから、将来進むべき道を決めてしまった。もちろん、それからすぐに現代美術に関する職に就けたわけではなかったのだが、このたった一つの作品に出逢ったせいで(おかげで?)、極端な言い方かもしれないが、ある意味、人生が変わってしまった。事実、あれから四半世紀以上たったいまも、こうして現代美術やキュレーターに関する仕事に携わっているのだから。

  *

 と、こんな個人的な昔話にお付き合いいただいたのには、わけがある。それは、これから本連載を通して現代美術やキュレーターをめぐる数々のギモンを考えていくうえで、こうした個々人の私的な実体験や現場での実践などが、それらの問いに対して思考を開くための糸口になることが珍しくないからだ。なかでも特に展覧会での現代美術作品の鑑賞体験は、ときに強烈な原体験になって人々の心を動かす。それは、美術館や展覧会が、きわめてアナログなメディアであることと深い関係があると思われる。
 そこで本連載最初のギモンは、何よりもまず作品を展示する場所、アートと出逢う場所についてあらためて考えてみたい。あなたにとって作品が展示してある場所といえば、まず初めに浮かんでくるのは、やはり展覧会を開催している美術館やギャラリーなどの屋内の展示室だろうか。それとも街中や屋外などで作品展示を展開する芸術祭やビエンナーレ、トリエンナーレと呼ばれる大型の国際展だろうか。あるいは最近は、特に若い世代を中心に映像作品をスマートフォンの動画サイトなどで視聴するケースも多いだろう。そもそも作品を展示する場所は、作品にとってどういった意味をもつのだろうか。美術館の展覧会で作品を展示することは、自宅に好きな絵を飾ったり、いつでも好きなときにスマホで動画を見るのと何が違うのだろうか。今回のギモンの入り口として、ここではまず、古典的とも言える「美術館」の「展覧会」という枠組みのなかで作品に出逢うことに着目し、「美術館」と「展覧会」を一つの装置、あるいはメディアとして捉えて考えてみよう。というのも、作品展示をする場所として王道とも思える「美術館」や「展覧会」のあり方も、実は平坦な道のりではなく、その役割や定義は、時代によって大きく変遷してきたし、いまもなお変化し続けているからである。と同時に、その変遷を経てもなお、「美術館」も「展覧会」も作品と人が出逢うためのメディアとして機能し続けていることについても考えてみたい。

美術館と展覧会の歴史的背景

 それでは美術館・博物館、ならびに展覧会の歴史を簡単におさらいしてみよう。今日おなじみの美術館や博物館といった施設は、現在は日本では社会教育のなかに位置づけられ、そこで展示される作品や資料の数々は、広く公衆が享受することが当たり前になっている。だが、長い美術の歴史のなかで、いまのような形で展示物を誰でも見ることができるようになったのは、比較的最近の話だ。ただし「美術の歴史」といっても、往々にして語られるのは、洞窟壁画に端を発し、古代メソポタミア、エジプト、ローマ、ギリシャ、中世のキリスト教美術、ルネサンスを通って近代へと単線的に発展していく西洋美術史であることは、頭の片隅に入れておく必要がある。西洋中心(より厳密に言えば西欧と米国中心)だった単線的歴史観に基づく美術史(history of art)に異を唱え、アジアやアフリカ、中南米などの複数の美術史(histories of art)がグローバルな文脈で盛んに語られ始めたのは、1990年代になってからである。そのことは現在の現代美術とキュレーションを取り巻く状況を考える際に非常に重要な視点なので、本連載でものちほど追って詳しくふれていきたい。だが、「美術館(博物館)」「展覧会」は、西洋美術史、ならびにそれを支える西洋中心の言説と歴史観のなかから生まれてきたものなので、ここでは便宜上、西洋美術史の流れのなかで、これらの成り立ちの歴史的背景を見ていこう。

美術館というシステム

 はじめに人々が美術と出逢った場所としては、それを「美術」と定義するかどうかは議論の余地が大いにあるものの、西洋美術史的に言えば、スペインのアルタミラやフランスのラスコーで知られる旧石器時代のものとされる洞窟内に描かれた壁画、いわゆる洞窟壁画だろう(3)。それらは鑑賞目的というよりも、呪術的・宗教的な意味合いが強いものだったと考えられている。その後も長きにわたってさまざまな神に捧げられるもの、それらを祀るもの、儀礼や儀式、布教に用いられるものなど、宗教的な目的でさまざまな美術品が作られた。棺に納められる副葬品だったり、神殿を飾る神々の彫像、教会の祭壇画や天井画、色鮮やかなステンドグラスに描かれた『聖書』の物語など、美術は人々を日常生活から別の世界へと誘うような特別な場所で接することができるものだった。あるいは、時の権力者の富や名誉を彩るような宝剣や装身具、さらにルネサンス期になると、パトロンとなる王侯貴族や商人など富裕層のために描かれる肖像画や贅沢な調度品の数々が、彼らの邸宅や宮殿を飾ってきた。
 また15世紀から18世紀の大航海時代には、ヨーロッパの王侯貴族などの間で、アジアやアフリカ、アメリカ大陸、オセアニアなどの「未開の」地から珍しい動植物の標本や剥製、化石や鉱物、部族の仮面や彫像、絵画、陶磁器などを集めた「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー〔Wunderkammer〕、同様のものにイタリアのステュディオーロ〔studiolo〕など)と呼ばれる私的なコレクションが形成されていくことになる。これらの「驚異の部屋」のいくつかが今日の博物館の前身になっていて、例えばイギリスの大英博物館は、医師であり収集家だったハンス・スローン卿のヴンダーカンマーのコレクションがもとになっていることで知られている。またフランスのルーヴル美術館は、もともと宮殿だったが、フランス革命後に王室所有の美術コレクションが国有財産化されて「美術館」として広く一般に公開されるようになった。ルーヴルの例のように、市民革命などを経て、もともとは特権階級の人々しか観覧できなかった美術品の多くが、「博物館」「美術館」という形で現在は誰もが享受できるものになっているケースも多い。

万国博覧会というフォーマット

 展覧会については、コレクションを公開する形の展覧会は、先にふれた美術館や博物館の前身になるヴンダーカンマーなど、王侯貴族の邸宅などの一室をごく限られた人々を対象に実施していた先例がある。そのほかルーヴル宮でも王立絵画彫刻アカデミーの会員らの作品を「サロン・カレ(方形の間)」という一室で展示する通称「サロン」が革命より少し前の1737年から実施されている。だが、今日のようにより多くの一般の人々に向けてそのときどきの最新の物品や美術工芸品を紹介するようなスタイルの展覧会は、主には産業振興を目的とする博覧会の歴史がもとになっていると言えるだろう。
 市民革命や産業革命を経て、各国の優れた物品などを陳列する国際見本市的な博覧会である万国博覧会(国際博覧会。通称、万博)が19世紀から世界各地で開催されるようになり、今日に至っている。特に万博は、各国の技術や芸術の粋を世界に紹介して国の威信を内外に知らしめる、国威発揚的な性格をもっていた。1851年の第1回にあたるロンドン万国博覧会では、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれる当時類を見なかった鉄骨とガラスという素材を駆使した巨大な建物が建造され、主会場になった。また1900年のパリ万博(第5回)ではエッフェル塔が建てられ、その姿は現在でもパリを象徴する観光名所になっている。日本も第2回のパリ万博(1867年)で江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展するなど早くから参加していて、1873年のウィーン万博からは明治政府が日本として公式参加して日本庭園や神社を造ったほか、浮世絵や工芸品、名古屋城の金のシャチホコなどを展示した。またパリやウィーンでの万博における日本の出展が、いわゆる「ジャポニスム」と呼ばれる日本ブームを巻き起こすなど、こうした万博の開催は、各国の優れた最新の技術や文化を直接肌で感じる機会となった。
 日本国内でも博覧会は明治に入ってから盛んに開催され、内国勧業博覧会が東京(上野)のほか京都や大阪でも開催された。また同じく東京・上野公園で開催された東京府勧業博覧会で建てられた建物が「竹之台陳列館」として美術関係団体に貸し出され、明治から大正期にかけて美術展会場として用いられた。政府主催の美術振興策として組織された文部省美術展覧会(通称、文展。現在の日展の前身)も同館で開催された。このように近代になってから、欧米を中心にいまの博物館、美術館、展覧会の原型ができ、日本も明治政府が近代化を果たすなか、その流れを受けて美術館や展覧会という装置を取り入れてきた。ちなみに「美術」という言葉は江戸時代まで日本語にはなかったが、ウィーン万博の出品分類をきっかけに「美術」という官製訳語が日本で用いられ始めたことは、日本での美術史の形成や言説を考えるうえで非常に興味深い(4)。
 これまで美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。

(第2回に続く)

 


(1)American Art in the 20th Century: Painting and Sculpture, 1913-93, Martin-Gropius-Bau, Berlin, 8 May – 25 July 1993; Royal Academy of Arts, London, 16 Sept. – 12 Dec. 1993.
(2)ヴィオラ自身による作品解説。『「ビル・ヴィオラ はつゆめ」展覧会カタログ』木下哲夫/近藤健一訳、2006年、淡交社、54ページ
(3)2018年2月22日の「Science」誌など最近の研究では、洞窟壁画の起源はこれまで想定されていたよりさらに数万年もさかのぼった約6万5,000年前にホモ・サピエンス(現生人類)ではなく、ネアンデルタール人によって描かれたとされている。
(4)「美術」の初出については諸説あるが、いずれも明治のこの時期に翻案されたものである。明治以降の日本における美術の受容については、北澤憲昭著『眼の神殿「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年〔ブリュッケ、2010年〕)をぜひ一読していただきたい。

 

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はじめのギモン 現代美術って何でもあり?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 とある日曜日の昼下がり。お昼ご飯にパスタを食べたあと、中学3年生の息子と珍しく将来、何をやりたいかという話になった。そこでふと息子が「現代アートって簡単だよね」と言って、テーブルの上に出しっ放しにしていたパルメザンチーズの容器をひっくり返した。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」
「ちなみにタイトルは?」
と聞くと、
「逆パルメザンチーズ」
(爆笑)
「え、それってでも、デュシャンじゃん」
と私。
「そーだよ、デュシャンが便器ひっくり返してアートって言うから、何でもアートになったんじゃん。でも、デュシャンがそれもうやっちゃったから、現代アート何やっても、面白くないよね」
「え、あんたデュシャン知ってるの? 学校で習った?」
「いや、俺、観たもん。小学生のとき、美術館で観た」

 はじめに断っておかなければならないが、息子は、親がアート関係の仕事に携わっているために、確かに小さいときから現代美術の展覧会にあちこち連れ回されていたので、本人も知らないうちに、一般的な中学3年生と比べれば、常日頃からアートに接するという、ちょっと(いや、かなり)特殊な環境で育ったかもしれない。それにしても展覧会慣れしていた当時小学3年生だった彼にとっても、便器がうやうやしく展示されていた光景は、よっぽど印象的だったのだろう。いまではすっかり展覧会を観に一緒に出かけることもなくなってしまった、自称「現代美術嫌い」のわが子から、こんなにいとも簡単に粉チーズ容器一つ使って、現代美術の概念と展示について核心を突くような発言が飛び出すとは、正直思ってもみなかった。

  *

 ここで本題に入る前にデュシャンって何?と思った方のために、少し補足を。読者のなかには、マルセル・デュシャンの名前はともかく、この便器の「作品」には、どこかで見覚えがある人も多いだろう。この作品が初めて登場したのは、1917年のニューヨークのこと。出品料を払えば無資格無審査で誰でも出品できる第1回アメリカ独立芸術家協会の展覧会に出品するため、市販の男性用小便器をひっくり返し、「R. MUTT」という作者の名前を示す署名と「1917」という制作年を入れて「Fountain(泉)」というタイトルを付けた「作品」が、出品料を添えて同協会宛てに送られてきた。だが、無資格無審査を謳っている展覧会であったにもかかわらず、この作品は委員の間で議論を巻き起こし、展覧会オープンの1時間前まで話し合いはもつれ込み、会場になったグランド・セントラル・パレスの展示室に置かれることはついぞなかった。この協会の主要メンバーの一人だったデュシャンは、このことをきっかけに同協会を辞任した。後日、この作品は同じくニューヨークにあった「291」という画廊で展示され、同画廊を主宰していて、写真家であったアルフレッド・ スティーグリッツによって撮影された。その写真には「R. Muttによる「泉」」「独立芸術家協会から出品拒否にあった」というキャプション(作品タイトルなどの説明書き)が添えられ、「リチャード・マット事件」と題された匿名の論説とともに雑誌「ザ・ブラインド・マン(The Blind Man)」に掲載され、広く知られることになった。この作品の制作過程や出品に至るまでの経緯をめぐっては諸説あり、デュシャンの手によるものではないとする研究者もいるが、そもそもオリジナルの「泉」を直接目にした人はごくわずかであり、ここでその真偽を検証することは目的ではないので割愛する。もっとも、作品本体は現存せず、現在、世界各地の美術館で見られる「泉」は、50年以降、デュシャン公認で複数個、再制作されたレプリカであるのがこの話をどこまでもややこしくしているのだが、それも含めて非常にデュシャンらしいエピソードである。ちなみに現在は作品保護のために展示ケースに入って展示されているものがほとんどだが、オリジナルは、むき出しのまま展示してあった。
 ともあれ、「便器がアートになる」という「泉」のインパクトは大きく、一般的には「デュシャン=便器の人」のイメージが定着しているが、デュシャンが提示した大いなるギモンのなかで、「泉」はほんの一例にすぎない。デュシャンは、この「泉」の前にも、既製品を用いた作品である「レディ・メイド」のシリーズを発表している。大量生産されている複製可能な日用品を「作品」として提示することで、「美術作品は、作家自身の手によるものであり、唯一無二のオリジナルである」というそれまでの美術の固定概念を根底から覆した。また美術作品といえば美しいもの、視覚的に魅力的なもの、という考え方に対しても、デュシャン自身が、視覚的に無関心と感じる既製品をあえて選択し、それを「アート」と呼んでしまえば、なんでも「アート」になってしまう危険性を指摘することで、新しい思考を創出しようと試みた。これは、美術史のなかではまぎれもなく歴史的な一大事件だった。以来、デュシャンは「現代美術の父」と呼ばれ、いまだに多くの人によって参照され、語られている。

  *

 さて、そろそろ本題の「逆パルメザンチーズ」に戻ろう。確かに息子が言うことは一理ある。デュシャン以上の歴史的転換を巻き起こすような現代美術の作品は、そうそう出てくるものではない。だが、あれから100年以上たった今日でも、現代美術は絶えるどころか、さまざまな形で発表され、多くの人々の目に届けられ続けている。作家たちは何のために日々、作品を作り、それを発表するのだろうか。ネットに投稿された写真や動画なら瞬時に世界中の人たちに発信し、シェアすることができる世の中で、私たちはなぜいまだに美術館や展覧会などにわざわざ足を運んで、人が作ったものを観にいくのだろうか。
 美術の展覧会を作る仕事に「キュレーター」という仕事がある。美術館では一般的に「学芸員」と呼ばれている仕事だ。作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る。なぜそのような仕事が必要なのだろうか。作家が作った作品をただ展示すればいいのではないのかと思う人もいるだろう。そもそも展覧会とは何だろうか。また作品は美術館の「展示ケース」に入って、白い部屋に飾られて、作家名とタイトルと説明書きが添えられたら、便器でも粉チーズ容器でも本当に「アート」になってしまうのだろうか。そんなのは、単なる言いがかり、詭弁にすぎないのではないだろうか。絵画や彫刻を美術館や展覧会で観て、その「美しさ」に感動を覚えることには納得できても、便器を「アート」として飾るような現代美術の展覧会は、「意味不明」と感じる人も多いだろう。一方で、近年、街中などでも展開する現代美術の「芸術祭」や「トリエンナーレ」という名称で知られる大規模で国際的な展覧会は、どこも大人気だ。こうした現代美術の展覧会を作るキュレーターは、例えばゴッホやモネの展覧会を作るキュレーターと何が違うのだろうか。そもそもキュレーターはなぜ展覧会を作り、それを多くの人が観にいくのだろうか。現代美術の展覧会のことをひとたび考え始めると、さまざまな疑問が湧いてくる。

  *

 これから始める本連載は、現代美術をめぐるさまざまな問いのなかでも、「現代美術のキュレーター」という仕事と「展覧会」という仕組みに着目し、キュレーターが展覧会づくりで抱きがちな、ささやかだが大切な問いの数々を10の「ギモン」として取り上げて、読者のみなさんと一緒に考えていきたい。そして最終的には、本連載を書籍の形にまとめて刊行したいと考えている。
 具体的な構成は次のとおりである。まずは、展覧会における空間・場所・時間軸をめぐる2つの「ギモン」から始めていく。「ギモン1 どこで展示するの?」では、展覧会を開催する場所としておなじみの美術館やギャラリーについて、その歴史的な背景なども見ていきながら、美術館や展覧会という場所にまつわるギモンについてあらためて考える。続く「ギモン2 展示には順番があるの?」では、実際の展示空間での作品の配置や、展示空間で鑑賞者が体験する時間についてのギモンについて具体的な例を見ながら検証していく。次に展示の主役である作品をめぐるギモンとして「ギモン3 何を展示するの?」と「ギモン4 作品って誰が作るの?」という2つの「ギモン」を通して、作品が作品として成立する仕組みなどについて再考する。そして今度は展覧会の観客をめぐるギモンに目を向け、「ギモン5 日本人向けの展示ってあるの?」「ギモン6 赤ちゃん向けの展示ってあるの?」という2つのギモンを中心に、観客の文化・社会的背景と展示の関係について、実例なども踏まえながら見ていく。続いて、現代美術という私たちが生きている現代と同時代に生まれる作品に特有の作品収集にまつわる問いを「ギモン7 どうして美術館は作品を集めるの?」と「ギモン8 何を残すの?」を通して考える。そして最後に、これらのギモンの総括的な問いかけとして「ギモン9 どうして「展覧会」を作るの?」と「ギモン10 キュレーターって何をするの?」の2つを通して現代美術の展覧会とキュレーターについて再び考えてみたい。この最後の2つのギモンについては、連載ではなく、書籍にまとめる際に書き下ろす形で発表したい。また書籍化にあたっては、それまでの連載についても必要に応じて手を加えながら、まとめていきたいと考えている。

  *

 こうした問いに一つずつ向き合うことで、これから展覧会を企画しようとしている初心者から、長年、展覧会に携わっている現役学芸員、キュレーターまで、幅広い層にとって「展覧会」とは何か、キュレーションとは何か、という古くて新しい問いにそれぞれの立場から考えていくための手がかりになってほしい、とひそかに期待している。またキュレーターに限らず、普段、展覧会や美術館に行くことに関心がある多くの方々にも、なぜ「展覧会」に私たちが惹かれてしまうのか、「キュレーター」とは何をする人たちなのか、という根源的な問いについて考えるきっかけになることを祈っている。デュシャンが投げかけた大いなるギモンへの応答になるかどうかは、はなはだ心もとないが、この小さなギモンへの問いかけの積み重ねが、ヴァーチャルなモノづくりが席巻するいまの時代に「展覧会」というアナログなメディアで勝負するキュレーターの大「ギモン」についていま一度考えるための糸口となれば幸いである。

[補足]デュシャンの画像は著作権フリーで下記からダウンロード可能である。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marcel_Duchamp,_1917,_Fountain,_photograph_by_Alfred_Stieglitz.jpg

 

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第21回 105周年宝塚、激動の上半期

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 真夏並みの暑さとなった2019年5月末、令和と年号が変わって初めての『宝塚イズム39』が完成、そろそろ全国の書店の棚に並ぶころになりました。今回は原稿依頼の締め切りぎりぎりになって星組の紅ゆずる、花組の明日海りおとトップスター2人が次々に退団を発表し、いつも以上にずいぶん慌ただしい編集作業になりました。できあがってきた最新号は、105周年宝塚の華やかな話題のうちにはらむさまざまな問題も提起していて、こちらが思っていた以上に充実した内容で、読みごたえがある一冊になりました。
 巻頭特集は「さよなら紅ゆずる&綺咲愛里」。類いまれな美形コンビとしてファンを魅了してきた星組のトップコンビの退団を前に、私が彼らの宝塚でのこれまでの軌跡をリードで振り返り、現在の宝塚で2人がどんな位置を占めるコンビだったのかなど、彼らの魅力を鶴岡英理子、宮本啓子、永岡俊哉、木谷富士子の4人が分析します。
 2人のサヨナラ公演『GOD OF STARS――食聖』(作・演出:小柳奈穂子)はおろか、プレサヨナラ公演となったドラマシティ公演、楽劇『鎌足――夢のまほろば、大和(やまと)し美(うるわ)し』(作・演出:生田大和)さえまだ始まっていない時期に原稿を依頼したとは思えない論考がそろい、執筆者たちの2人への愛の深さを改めて理解するとともに、サヨナラ公演に臨む彼らへの期待の大きさもうかがい知れます。
 その紅&綺咲のプレサヨナラ公演『鎌足』の開幕直前の4月末に、星組の次期トップスター人事が宝塚歌劇団から発表され、星組の二番手スターで人気、実力とも急成長の礼真琴が順当にトップ就任することになりました。また、相手役が4月29日付で花組から星組に組替えになることが発表されていた舞空瞳であることも同時に発表されました。舞空が動くことで宙組の芹香斗亜が星組に里帰りしてトップになるのではという噂がSNSで流れていたこともあって先手を打ったとも考えられなくもありませんが、思いがけず早いタイミングの次期トップ発表でした。
 大阪の梅田芸術劇場では、メインホールで5月4日に礼主演の全国ツアー公演『アルジェの男』(作:柴田侑宏、演出:大野拓史)が初日、階下のドラマシティでは『鎌足』が一日違いの5日に開幕。ゴールデンウィーク後半の劇場周辺は宝塚ファンで終日ごった返しました。ただ、退団が決まっているトップスターが中劇場、次期トップスターに決まったばかりの二番手スターが大劇場で公演というのが、発表前ならまだしも発表されてからでは、なんとも複雑な感覚にとらわれました。
 トップスターが退団を発表したあとの次期トップスターの発表時期はさまざまで、サヨナラ公演が終わってもなかなか発表されないケースがあったりするなかで、今回は、トップのプレサヨナラ公演前、次期トップに決まった二番手スターが主演する全国ツアー公演前に発表されました。星組生え抜きスターの昇格人事ということもあって、比較的スムーズにバトンタッチができたのではないでしょうか。ただ、場内の熱気はドラマシティよりもメインホールのほうが上回っていました。新しいスターを求める宝塚ファンの正直な思いが如実に表れていて何とも言えない気持ちになりました。常にフレッシュなスターを求め、新旧交代を繰り返してきた宝塚105年の歴史はこういうことだったのかなあと妙に納得できた瞬間でした。
 一方、そんな宝塚のなかで、新旧交代の波にうまく乗れず、ファンに惜しまれて退団していったスターもいます。月組の美弥るりかと星組の七海ひろきです。実力はおろか人気も抜きんでていて、とりわけ美弥はショーでは二番手羽根まで背負い、いつトップになってもおかしくないという位置まできながら、何らかの力とタイミングが合わず、退団という選択をせざるをえなかったスターです。七海もその男役としての美貌と人気は現在の宝塚で一番といわれたほどでした。そしてもう一人、二番手スターの位置まできながら専科入りという選択をした愛月ひかるがいます。ファンはセンターに立つ3人を夢見ながら、その寸前に糸を断たれたのですから、その計り知れない無念さは容易に察しがつきます。この3人の決断がこれからの宝塚にどんな影響をもたらすのか、宝塚全体を覆うもやもやとしたストレスにならなければいいのですが……。
 美弥と七海は、花組の明日海や雪組の望海風斗と同期生。宙組の真風涼帆や月組の珠城りょう、そしていま星組の礼真琴がトップになるなど、宝塚の時計はどんどん進んでいきます。そんななかで美弥と七海が、その歯車からこぼれたとしたらもったいないとしかいいようがありません。あとは愛月の頑張りに期待するしかないのでしょうか。
『宝塚イズム39』ではそんな3人に対する愛ある応援として「美弥・七海・愛月、105周年の決断」という小特集も組みました。水野成美、岩本拓、宮本啓子、永岡俊哉が3人への渾身の思いをぶちまけます。3人のファンの方たちは必読です。
 OGロングインタビューは、昨年末退団、女優として始動したばかりの元月組トップ娘役愛希れいかが、退団後の第一作となった東宝版『エリザベート』への熱い思いを語ってくれました。暮れには『ファントム』のクリスティーヌ役も決まり、ますますの活躍が期待される愛希の宝塚愛に満ちた近況報告をお楽しみください。
 大劇場公演評、新人公演評、私と鶴岡の外箱対談、東西のOG公演評とレギュラー企画もたっぷり。今年初演から45周年を迎え、年初に一大スペシャルイベントが組まれた『ベルサイユのばら45――45年の軌跡、そして未来へ』はOG公演評で詳しくお伝えしています。
 あとは実際に手を取っていただくしかないのですが、決して損はさせない一冊に仕上がっていると思います。そして次回は、記念すべき『40』。人気絶頂のさなか11月24日に退団する花組のトップスター、明日海りおのさよなら大特集号です。明日海の魅力をどんな切り口で探っていくかこれからじっくりと知恵を絞りたいと思います。いまから楽しみにしていてください。
 

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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その後のPTA――『PTAという国家装置』を出版して2年

岩竹美加子

『PTAという国家装置』を刊行してから早くも2年たった。
 この間の変化の一つは、2017年に個人情報保護法が改正されて、学校が子どもの名簿をPTAに渡すことが問題とされるようになったことだ。PTAは学校に付随した組織なのではなく、学校からは独立した組織であること、学校の名簿をPTAに渡すのは個人情報保護上、問題があることが知られるようになった。PTAは、加入を希望する保護者の名簿を自分で作ることが求められるようになったのだ。
 二つ目は、PTAが任意加入であることを周知する動きである。これまでは子どもが小学校に入学したら自動的・強制的に加入するものと思われてきたが、実は加入は任意であることを保護者に知らせるようになった。
つまり、この二つの変化には任意加入という関連がある。
 しかし、加入が任意であることを周知することで、「会員がゼロになったらどうするのか」「PTAがなくなったらどうするのか」という恐れが常につきまとう。その結果、「任意であることを通知しても、こうすれば加入率は減らない」というようなノウハウが広く流布されている。
 例えば、 「できる人が、できることを、できるときに」や「やりたい人が、やりたいことを、やりたいときに」というシステムである。従来のように、仕事を休んだり、病気を押したり、幼児や病人の世話を人に頼んだりして、強制的にPTA活動に参加させられるのではなく、自分ができること、やりたいことを選べるシステムだという。これによって、 これまでの強制参加から希望参加制に、あるいはボランティア制、サポーター制に変わるとされる。非加入を避けるための工夫だが、結局「できない」「やりたくない」とは言わせない仕組みでもあるようだ。また、このシステムで「私はしているのに、あなたがしないのはずるい、許せない」という、PTA活動につきまとう感情を変えていけるだろうか。
 そのほかの改革案として、活動を年度始めに一覧にする、通年の活動と1度だけの活動を明確に整理して参加者を募集する、業務をスリム化する、不要な役職を減らす、手紙での連絡ではなくメール配信の導入を考える、個人情報に配慮する、などを挙げるPTAもある。「活動を年度始めに一覧にする」のは、会員自身が、自分たちに必要と考える活動計画を立てるのではなく、すでに決められていて、与えられる活動や行事をこなしていくPTAのあり方を前提にしている。しかし、一覧にすることで「改革」とされるようだ。
「業務をスリム化する」「不要な役職を減らす」は、1970年代頃にも言われていたことで、それがいまだに実施されていないことを示す。「メール配信の導入」と「個人情報に配慮する」のは、現在の社会では当然だろう。PTAは、その「不活性化」や「危機」「停滞」が危ぶまれ、数十年間にわたって「活性化」「改革」「再生」などの言葉で語られてきた組織である。任意加入の通知と個人情報保護という新しい要素は加わったが、現在の動きもそうした流れの継続として見ることができる。
 昨2018年10月、大津市教育委員会は「PTA運営の手引き」を公立学校の校長などに配布した。ほかにも「無理な役員選考をしないよう」「退会者の子どもへの扱いが変わらないよう」注意を促す通達や手引書を学校の管理職に対して発行した教育委員会もあるという。また、加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを複数公表したり、PTAの違法・強制から保護者を守ってくれる教育委員会の「お助け通知」を公開したりしているインターネットのサイトもある。
 教育委員会がPTAの違法・強制から保護者を守ってくれるという考えは、信憑性があるだろうか。教育委員会は、PTAを維持しようとする教育行政の一部である。学校でのいじめ問題では、しばしば証拠隠蔽や改竄を繰り返し、いじめはなかったと公表する。また子どもの虐待問題では、必ずしも適切な判断や行動をしていないことが報道される。そうした組織が、PTA入会の問題で保護者を守ってくれるだろうか。
 現実には、非加入を選んだ保護者に対して、その子どもを登校班に入れない、卒業式に子どもが胸につけるコサージュをあげない、卒業記念品をあげない、などのいやがらせが各地でおこなわれている。私自身、同様の経験がある。PTA入会申し込み用紙には「入会する」と「入会しない」の選択肢があったので「入会しない」に印をつけて提出したところ、子どもをPTAの催しに参加させないという脅しを受けた。加入しないという選択肢も含めたPTA入会書のモデルを作れば、問題が解決するわけではない。
 最大の問題は、PTAがほぼ日本全国の学校にあることだ。保護者が、それぞれの場で自分たちの必要に応じた組織を形成、計画し活動するのではなく、PTAがすでに強固に存在して国家装置として機能し、保護者の動員に使われていることが問題なのだ。
 学校に行くことは「登校」、学校から家に帰ることは「下校」と言われる。学校は上位に、家庭は下位に位置付けられていて、学校と家庭は対等の関係にはない。また、日本の学校は入学式、始業式、終業式、卒業式など、式をことさら好み、卒業式の練習には多くの時間と労力を割く。文部科学省の「小学校学習指導要綱」は、学校行事で「厳粛」な気持ちを味わうことを規定している。また、日本の学校では運動会、謝恩会、最近では二分の一成人式などの行事が重視される。PTAはこうした学校行政の一部に組み込まれていて、それは保護者間の同調圧力を強化する仕組みにもなっている。
 広い意味でPTAのあり方は、最近、問題にされるようになったブラックな校則や部活動、先生の長時間労働などの学校の問題とも関連するものだ。日本の学校には問題が山積しているのだが、PTAが声を上げたり、一歩踏み出したりすることはない。
 日本は教育の公的支出が非常に少なく、 2018年の発表ではOECD加盟国中で最低である。憲法は、義務教育を無償とすると定めているが、PTA会費は学校予算にも回されていて、会費を自動的に引き落とす学校もある、しかし、保護者は学校に対する発言権をもたない。
 こうしたことが成り立って続いているのは、日本の公教育が義務を強調して権利を十分に教えず、近代国家での個人と行政のあるべき関係が知られていないことに一因がある。国民に権利を与えたくない国家と、国家が権利を侵害していることに気づくことができない国民の双方が、PTAを維持している。
 毎年、PTAに関して同じような不満が表明され、同じような「改革」案が出され、同じような議論が繰り返される。それは「仕方ないんだ」「みんな我漫してるんだ」といったあきらめの気分を醸成する効果がある一方、任意加入が周知されたことによって「徐々に空気が変わる」という期待もあるようだ。しかし、それは構造的な問題に切り込むものではない。「空気が変わる」のを待つのではなく、構造を変えていく必要があるだろう。

 

第20回 紅ゆずる、明日海りおの退団に思う

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 宙組の朝夏まなとの退団以来約1年半の間、トップスターの退団がなく比較的平穏だった宝塚歌劇ですが、105周年というアニバーサリーイヤーにもかかわらず、2月に星組の紅ゆずる、3月に花組の明日海りおが連続して退団を発表するという異例の激震が訪れました。
 いずれも宝塚大劇場での公演が終わった翌日すぐの発表でした。2人ともトップ在位期間からいって早期の退団発表は予想されていたものの、まさか続けざまとは思わず、『宝塚イズム』編集者としてもかなりびっくりさせられました。
 紅は、昨年秋の台湾公演を盛況裏に終え、『ANOTHER WORLD』や『霧深きエルベのほとり』など作品にも恵まれていつ退団しても悔いはないという状態でしたので、退団自体はある程度想定内でした。しかし、7月公演での退団の場合、グッズの準備期間などを考えると本来なら発表の時期が『霧深きエルベのほとり』開演前というのがセオリーでしたので、公演後すぐの発表は想定外でした。
 一方、明日海は、先に相手役の仙名彩世が退団を発表、初夏の横浜アリーナでの公演からは新しい相手役の華優希とのコンビが発表され、大劇場公演1作だけで退団というのは推測しがたいものでした。ただ、退団公演となる『A Fairy Tale――青い薔薇の精』(作・演出:植田景子)発表の際、新コンビの大劇場お披露目公演という文言がなかったことが、いまとなっては退団のヒントだったのでしょう。
 トップスターの退団人事は大体1年前には決まっていて、トップシークレットとして歌劇団内部で厳重に管理されます。紅と明日海の退団ももちろんそうで、昨日今日に決まったことではありません。明日海は昨年、舞浜アンフィシアターでコンサートをおこないましたが、実はそのときはまだ発表されておらず、すでに今年6月の横浜アリーナのコンサートも決まっていました。明日海の退団を前提にしたはなむけのコンサートというビッグイベントとして着々と用意されていたのです。ただ、明日海を中心とする花組は、宝塚5組のなかでも一番人気で、作品に関係なく宝塚大劇場を全期間完売できるパワーがあります。そんな金の卵を歌劇団としても簡単に手放したくはないはずで、アリーナコンサートは歌劇団が明日海を慰留するために企画した最大のイベントだったことは想像にかたくありません。
 退団会見でも話していたとおり、明日海自身も昨年1月の『ポーの一族』で退団を意識し歌劇団に伝えてきましたが、慰留されていまに至ったということではないでしょうか。それだけに退団公演までの時間の余裕があり、仙名を先に見送るという彼女ならではの心遣いも可能になったのかもしれません。こう考えてくると、明日海の退団が先に決まっていて、あとから紅の退団が決まったことが浮かび上がってきます。紅は会見で「トップ就任5作で退団を決めていた」と話しましたが、それはあとからのつじつま合わせとも考えられ、案外、これが連続退団の真相かもしれません。
 紅は2002年初舞台。身長があって際立った容姿の持ち主でしたが、同期生のなかでもビリに近い劣等生。一方、明日海は03年初舞台。文化祭のときから抜群の容姿でしたが、男役として決して恵まれた身長があるとは思えませんでした。2人とも、それぞれのハンディを跳ね返して見事トップに上り詰めました。その共通点はやはり2人の「宝塚愛」の強さでしょうか。退団会見では2人とも、仲間との別れや退団することの寂しさで涙を見せたのが印象的でした。
 明日海は「退団後何をしたいか」と問われて「職探し」といって笑わせました。「車の免許をとりたい」とも。音楽学校入学後、初舞台から現在まで抜擢の連続で、稽古と舞台に明け暮れ、自分の時間が全くなかったことがこの言葉でうかがい知れます。3番手、2番手時代には役替わり公演が連続、これまでのトップスターたちと比べても2倍以上の濃い宝塚生活だったのではないでしょうか。
 2人の退団公演は紅が上海、マカオ、シンガポール、ドバイをまたにかけて活躍するシェフに扮するアジアンテイストの『GOD OF STARS――食聖』(作・演出:小柳奈穂子)とレビュー、明日海が19世紀後半のイギリスを舞台に、妖精界の掟に背いた青い薔薇の精の苦悩に挑戦する『A Fairy Tale』とレビューの二本立て。いずれも、それぞれを知りつくした女性作家の作品で、最後を飾るにふさわしい作品になることが期待できそうです。

 さて『宝塚イズム』は、現在6月1日刊行予定の『39』の原稿を募っているところです。『39』では、明日海より先に退団する星組の紅ゆずると同時退団する綺咲愛里のサヨナラ特集を中心に、月組の美弥るりか、星組の七海ひろきといった89期生の退団を惜しむ声も特集に織り込んで、105周年前半の宝塚の現状を多角的にレポート、評論します。旬のスターが登場するOGロングインタビューにもご期待ください。
 紅のあとに退団する花組・明日海りおのサヨナラ特集は、東京宝塚劇場の千秋楽が11月24日ということもあって、千秋楽の興奮もさめやらない12月1日刊行予定の『40』で大々的に取り組むべくいまから準備を進めてまいります。『宝塚イズム』40号の記念号でもあり、おおいに期待していただきたいと思います。
 105周年が始まったばかりというのに、新たな世代交代に大きく動き始めた宝塚。ウォッチャーとしては慌ただしい一年になりそうですが、これまでどおりぶれることなくきっちりとした視点で見守っていきたいと思っています。

 

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オカルト番組って……なくならないんじゃないの?――『オカルト番組はなぜ消えたのか――超能力からスピリチュアルまでのメディア分析』を書いて

高橋直子

「えっ、消えたの?……なくならないんじゃないの?」
 本書の刊行直前(2019年1月26日)のこと、見本のカバーを見つめたまま、T先生はそうおっしゃった。私は答えに窮した。現状でオカルト番組がまったく放送されていないわけではないし、本書はオカルト番組が消えると予想するが、消えるかどうかを問題としているわけでもない。どこからどう答えたらいいものか、尊敬する先生を前に逡巡してしまった。回答できずにいる私に、先生は「まぁ、読めということですね」とおっしゃった。恐縮至極。
 その家路、執筆時に考えたあれこれが思い浮かんでグルグル回り、ふと、フリードリヒ・エンゲルスのことを思い出した。教科書にカール・マルクスとセットで名前が出てくる、あのエンゲルスである。1870年代、交戦国同士がともに戦場で最新式の銃を使用したことに驚いた彼は、兵器がここまで進歩したからには、もうこれ以上は兵器改良の余地はないと考えた。隣国が軍備に力を入れれば、それと同等の軍備をもたなければならないという状況では、軍事費が増大して遠からず国家財政はもちこたえられなくなる、と予想したのである。この予想が無残に裏切られたことはいうまでもない。たしかに軍備競争は国家の出費を増大させたが、財政破綻を引き起こしはしなかった。反対に、戦争準備行動は、数々の工場を稼働させることで、ある種の経済問題を解決するのに役立ちさえした。工業の進歩の結果、戦闘の諸条件や技術は新たな次元へと突入していったのである。
「消えたの?」という問いかけは、「現状、消えてないよね?」という単なる疑問なのではなく、オカルト番組が消えるという予想は無残に裏切られるのではないか、という反論である場合が多いのではないかと思う。いまは下火といっても、また新たなスターが出現すればブームが起こるのだろうという見方は、馴染み深いものである。また、BS、CSとチャンネルが増えたことは、オカルト番組の出口が増えるということでもある。
 私がエンゲルスのことを思ったのは、この頃、ロジェ・カイヨワの『戦争論』(原題はBELLONE ou la pente de la guerre〔「ベローナ、戦争への傾斜」〕。ベローナは古代ローマの戦争の女神)を読んでいたから。カイヨワは戦争を礼賛する言論によって、戦争が人びとの心をいかに引き付けるかを考察して、「戦争と祭りはともに社会の痙攣である」と論じた。痙攣は、意志も反省も到達できない内臓の深みで起こる。戦争も祭りも、知性では理解することも制御することもできない、社会(集団)の根底にある恐ろしい力の沸騰・噴出のようなものである、というカイヨワのひそみにならえば、オカルトもまた社会の痙攣に連なる現象である。
 2019年1月29日、『オカルト番組はなぜ消えたのか』刊行。この書名の本が書店に並ぶことは、10年前ではありえなかったのではないか――いま、「なぜ消えたのか」と問うことが了解される(との前提で出版される)ということは、本書の内容にかかわらず、ある意味をもつものだと思う。
 デジタルメディアの長足の進歩の結果、オカルトがエンターテインメント化される諸条件や演出は新たな次元へと突入していくことだろう。そうであればこそ、いま、その歴史の一端を振り返る意味があると思う。
 本書は、かつてどのようにしてオカルト番組が成立し、オカルト番組を介したコミュニケーションがどのように変化してきたか、その経緯と現状を分析している。本書の分析が、新たな次元へ備える一助となるならば、たとえオカルト番組が消えなかったとしても、著者としてはこのうえなく幸せである。

 

日本食は伝統? じゃなくて伝説のお料理でした――『刺し身とジンギスカン――捏造と熱望の日本食』を出版して

魚柄仁之助

 和食って、そんなにエライんですかぁ? 世界文化遺産に選ばれたとか言って喜んでる人もいるようですが、和食がすでに滅び去ったものだから「遺産」なんですよね? 伝統の和食とかいわれてますが、引き継がれていてこそ「伝統」なんであって、遺産と化した和食なら、伝統じゃなくって「伝説のお料理」じゃないんですかぁ?
 あたしの実家は1918年(大正7年)創業の日本料理店でした。あたしが生まれた56年ごろは創業者の祖父と二代目の親父が店を切り盛りしていて、同年輩の同業者(日本料理屋、寿司屋など)のオヤジたちもよく出入りしていましたから、それら料理人たちの話を聞きながら育ちました。明治生まれ・大正生まれのオヤジたちの料理話といえば、「和食、エライ!」一色と言ってもいいくらい、和食自己愛に満ちたものでした。
「洋食や中華は素材の鮮度が悪いから香辛料を使ったり油で揚げたりするが、和食は鮮度も食材の質も世界一だから、余計な味付けも加工もしないのだ」という信念をもち、神代の昔からの伝統食がどれほど優れているのか、を自慢していたのです。
 そのような明治・大正料理人たちの「和食、エライ!」とは裏腹に当時の日本人は洋食とか中華料理を喜んで食べてるし、学校給食は米ではなくパン食でした。寿司屋のオヤジだって鮪のかわりにハムを鮓種にして握っていたじゃないかッ。その寿司を和食と呼んでもいいのかっ!てなことをオヤジたちに言ってみたら、「屁理屈こねるんじゃねーやッ」と怒られたものです。

 そこで、三代目を継がずに食の鑑識を始めました。

 神代の昔、とまでは言わんが、日本の近代化が進んだ明治以降、その伝統的で優れた和食はどのように引き継がれてきたのだろうか、いや、引き継がれずに洋食化していったんだろうか、和食そのものが変化したんだろうか。そもそも和食の定義ってナニ?
 このような疑問を解き明かそうと、明治から大正・昭和の料理本や雑誌を古本市で買いあさり、そこに紹介されている料理の分類と分析、そして試作と検証を始めたのでした。1970年代から古本屋で昭和の婦人雑誌付録の料理本などを買い続けた結果、雑誌付録の料理本だけで約200冊、和食・洋食・支那料理(当時は中華料理をこう呼んでいたんです)の単行本まで含めると優に1,000冊以上が手元に集まりました。そのほかに家庭料理ページがある婦人雑誌(「主婦之友」「婦人之友」「婦人倶楽部」など)、科学的に食料を取り上げていた科学雑誌や農業雑誌などが数千冊。これらから食に関するページをPDFにして分析の資料にしてきました。
 こうして食の鑑識を進めてきましたら、現在食べてる日本食というものの進化の過程と事実がわかってきした。すると、これまでいわれてきた和食の伝説などがウソっぽい、根拠がないものだと思うようになったのです。食のうんちくのほとんどが「また聞きか受け売り」でしかなかったんです。
 例えば――。
・刺し身とか寿司だって、昭和の初期にはすでに洋食や中華の要素を積極的に受け入れて進化してきたことがわかりましたし、今日ではごく当たり前の「刺し身には醤油」という構図が刺身の食べ方の一つにすぎなかったこともはっきりとしました。
・「鯨肉食は日本の伝統的な食文化」というのも、料理法を調べてみると1935年以前の鯨肉食にしか当てはまらないこともはっきりしました。
・また、日本のウスターソースとイギリスのウスターソースはその製法も異なるし使い方がまあ~ったく違うので、「ソースが洋食で、醤油が和食」とは言えないってことも明白になりました。
・中国生まれの水餃子を敗戦で引き揚げてきた日本人が焼き餃子にした……のではない証拠イラストが戦前の料理本にはたくさんありました。
・昔懐かしいおふくろの味=肉じゃがという構図は1970年代にマスコミが作り出したもので、そもそも「肉じゃが」という料理名のレシピが料理本に載るようになったのは70年代のことでした。
・マヨラーという言葉が生まれたのは30年くらい前ですが、そのマヨネーズだって日本では独特の進化を遂げていました。卵不使用のマヨネーズとか油不使用マヨネーズなどの時代もあったのでJAS規格で厳しい基準が設けられたのですが、いまになって、アレルギー対策、ダイエット対策でそのようなニセマヨネーズが求められるようになったというのも皮肉なもんだ……というようなこともわかったんですね。
・土用の丑の日には鰻の蒲焼きを――と思い込んでいたけど、日本人が日常的によく食べてた蒲焼きは「イワシ、サツマイモ、レンコン」なんぞが多かったというのが現実でした。

 魚肉ソーセージを使った料理レシピを集めてみるとその陰には原水爆実験との関連が見えてくるし、焼きそばのレシピを並べてみると戦後のアメリカ産小麦粉輸入と縁日のテキヤ稼業と即席めんとの関連が見えてくる。

 このように料理別の項目を立てて書き始めたらとんでもない分量になってしまい、途中段階の原稿を見た青弓社から「分けましょ。一冊になんて無理無理!」と言われましたの。
 そこで第1弾は和食の王道でもある「刺し身」と得体の知れない郷土食?である「ジンギスカン」、そして知る人ぞ知る謎の中華風アメリカ料理「チャプスイ」の3つに絞ることになりました。
 これに続きまして近代日本食に影響を与えた調味料「ウスターソース、マヨネーズ、カレー」を中心にした第2弾、そして第3弾としては餃子と肉じゃがの真実に迫ります。
 いま、麺棒で餃子の皮を延ばして、その厚さ、コシの強さなどを検証しているところです。
「皮、延ばしても、締め切り、延ばすなッ」を肝に銘じて……。