人生はアップデート――書くことの原動力――『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』を出版して

石島亜由美

 本書が刊行されてから数週間がたった。印刷に回るギリギリまで校正をして、見れば見るほど修正したい箇所が見つかり、自己嫌悪に陥りながらもなんとか締め切りに間に合うように作業の区切りをつけて原稿を送り出した。そのあとはできるだけ原稿のことは考えないようにして淡々と日常を送ろうとしたが、気持ちを切り替える間もなく、ついさっきまで握り締めていたと思っていた私の原稿は書籍という印刷物になって目の前に現れ、あれよあれよという間に書店に並んでしまった。ネットを検索すれば「Amazon」でも簡単に買えるようになっている。本書の「はじめに」もウェブ上で試し読みができるようになっている。私が書いたものが私のもとを離れて、一冊の本として社会に流通してしまった。不思議な気分である。カバーに印字された「石島亜由美」という著者名を確認して、私は石島亜由美で、これは私の本なのだ、私は本を出版したのだと、いまさら照れくさい気分にもなっている。

 本書のタイトルは『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』である。「妾」と「愛人」という存在を取り上げるのは、やはり勇気がいることだった。妾や愛人と聞けば、「夫の浮気相手」として非倫理的な存在という認識が一般的にあるだろう。そんな女性をフェミニズムが擁護するのかという批判の声が聞こえてきそうだ……。
 本書の議論は、妻の立場に揺さぶりをかけている。一夫一婦の法制度とジェンダー規範が確立した近代以降の日本社会では、妻は正しい存在であり、フェミニズムでもその立場は夫と対等になるために称揚され、妻の役割を肯定的に語ることが長い間の関心事だった。本書では、そうしたフェミニズムの経緯に水を差している。一夫一婦を支柱とした妻の問題を、妾・愛人の議論から照射しているのである。したがって、フェミニズム内部からは、女性間の対立の構造を深めるのではないかという声も聞こえてきそうだ。フェミニズム内外から飛んでくるだろう批判の声を感じ、おびえながら私は原稿を書き上げた。

 そして現在、出版されて数週間のためか、主だった批判の声はまだ私の耳には聞こえてこないが、意外だったことがある。本書の「はじめに」で、私がこのテーマに取り組むことになったきっかけを述べているが、その理由の一つに私の母親との確執があった。私が選択した道を「正しくない」と言って批判したうちの一人は、実は私の母親だったのである。その母親が私の本を読んで、この出版を心から喜んだのだった。「はじめに」に書いたそのことについても自分のことが書かれているとわかったようで、そのうえで「あのとき言い合ってよかったね」と、信じ難いほど前向きな感想が母親の口からもれたのである。
 本書を出版することは事前に母親には伝えていたが、出版は喜んでもらいたくても、本の内容、中身までは知られたくないという気持ちが強かった。せめて書名とカバーだけを眺めて、あとは何も考えないでページをめくらないでほしい。そのまま実家の仏壇の前に置いておいてくれと祈るような気持ちだったが、見事にその期待を裏切り、母親は読んでしまったのだ。読んだら落ち込むだろうと思っていた。複雑な気持ちになって、過去にこじれた関係もそのまま墓場までもっていかれてしまうのではないかという恐れを抱いていたが、杞憂だったとわかった。本書を書く原動力の一つだった母親との確執、私が身体に刻んできた過去のトラウマの一つが、この一言で吹き飛んでしまうような出来事だった。書くことでネガティブな経験は乗り越えられるということを、身をもって実感した出来事だった。

 もう一つ、この出版で私が乗り越えることができたと思うことがある。それは、大学を離れても研究を続ける原動力を失わず、自分が腑に落ちる在野での研究スタイルを見つけられたことである。私は女性学専攻の大学院に入って博士号を取得し、そのまま大学の研究職に就いたが、8年あまりでその道を断念して鍼灸師に転職した。大学を辞めるとき、大学を離れても研究は続けることを自分に課したが、鍼灸師の資格を取るために今度は専門学校に3年通い、国家試験を受験して資格取得後は臨床の現場に出ていく(しかも2つの治療院をかけもちした)という状況下で、二足のわらじを履くというのはそう簡単なことではないと悟った。
 今回の出版に際して、SNSをエゴサーチしていると、私が「鍼灸師」であることに反応しているツイートがあった。人文の世界からすると、鍼灸師で書籍も出版していることが面白い経歴として見られるかもしれないが、治療の世界では中途半端な存在として扱われる。専門学校を卒業して同級生が正社員として就職、あるいは独立・開業して鍼灸師としての腕を磨いていくなかで、私はアルバイト生活を送ってきた。バイトに通うだけで精いっぱいで、周囲が修練に費やしている時間を、私の場合はすべて原稿を書く時間につぎこんだ。同級生とはこの2年、私が執筆にあてた時間の分だけ実力の差が開いてしまったが、とにかく私は自分の意志を貫いた。二足のわらじでもなんとかやっていくことができる。大学を辞めたという過去を乗り越える出来事となった。

 ネガティブな経験は書くことで乗り越えられる。それが本書を出版して、いま、私が感じていることである。最後にもう一つ、いまだから言えることがある。本書を出版した青弓社は筆者が憧れた出版社だった。私は学生のときに青弓社の就職試験を受けていた。本当は青弓社の編集者として仕事をしたかったのだ。しかし、見事にその試験に落ちていたという過去の傷がある。無鉄砲だった当時の自分に恥じ入る気持ちを抱えたまま時は過ぎたが、そのときの記憶は本書の出版によって「苦い思い出」として、人に対して語ってもいい出来事に変化していることに気づく。ネガティブな経験や記憶は完全に消えることはないけれども、新しいチャレンジによって書き換えていくことはできると思う。本書をつくってくれた青弓社のみなさんに感謝して、「おわりに」で書いたことをもう一度ここで言いたい。今日のこの日の気持ちを「20年前の自分に伝えてあげたい」と思う。
 

第12回 ジャニーヌ・アンドラード(Janine Andrade、1918-97、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ブーシュリ門下の逸材
 
 1954年11月、ジャニーヌ・アンドラードはフランス政府派遣文化使節として来日した。もう70年近くも前のことになってしまったいまでは、このときのことが話題になることはめったにない。来日アーティストが本格化するのは57年から翌58年にかけて、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、レニングラード・フィルなど、海外一流のオーケストラが華やかな話題を提供して以来のことだった。ある意味、アンドラードの来日は、あまりにも早すぎたともいえる。
 アンドラードは1918年11月13日、フランスのブザンソンで生まれた。母親はピアニストだったようで、その影響でヴァイオリンを習い始めた。上達は驚異的で、26年には母親の伴奏で公開演奏をおこなっている。その後、パリ音楽院に名教師ジュール・ブーシュリに師事する。門下生にはジネット・ヌヴー、アンリ・テミアンカ、マヌエル・キロガ、イヴリー・ギトリス、ローラ・ボベスコなど、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。31年(1930年説もある)にパリ音楽院を卒業、さらに研鑽を積むためにジャック・ティボーやカール・フレッシュのもとで学んだ。その後、ヨーロッパ各地で公演し、日本を含むアジアや南米などを訪れ、好評を博した。レパートリーは非常に広く、フランスの現代作曲家の作品も積極的に演奏していた。
 アンドラードのレコードが最初に日本で発売されたのは1970年初頭で、テイチクがオーヴァーシーズのレーベルでチャイコフスキーとブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を廉価盤で発売したが、まったく話題になっていない(当時の表記はアンドラーデ)。
 アンドラードの国内盤が事実上最初に認識されたのはCD時代になってからで、2004年12月に日本コロムビアから発売された『アンドラード/ヴァイオリン・リサイタル』(COCQ83872)である。これはスプラフォン原盤によるもので、1965年のステレオ録音と56年、57年のモノラル録音、LP2枚分を含むものだった。
 このCDは目下のところアンドラードの録音のなかでも最も音質がよく、代表盤といっていいだろう。まず、ステレオ録音にはモーツァルトの「ロンド」、グルックの「メロディ」、パガニーニの「ラ・カンパネラ」など、クライスラーの作曲・編曲の小品が11曲。クライスラーの小品集は世の中には多数存在するが、このアンドラードの演奏は、なかでも最も魅惑的な一つである。音色は明るく、やさしくて艶やかであり、愉悦感たっぷりに弾きながらも、とても上品。聴けば、誰もが好きになるヴァイオリンだろう。
 モノラルのほうはカサネア・ドゥ・モンドヴィユ、ヨハン・マテゾン、フランツ・リースなど、あまり知られていない作曲家の名前が連なるが、演奏の魅惑という点では、ステレオ録音を上回っているかもしれない。ことに、リースの「常動曲」のなめらかさ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(旋律はストラヴィンスキーの「プルチネルラ」に転用されている)の美しさは印象的だった。また、パガニーニの「ラ・カンパネラ」はモノラルでも録音されていて、ステレオ版と比較できる。
 音質を重視するのであれば、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第2番』『第6番』(いうまでもなく、現在では偽作とされている)(Berlin Classics 0184122BC)がある。伴奏はクルト・マズア指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で、1966年、67年に収録されている。これは、アンドラードが東ドイツに招かれて演奏したときに収録したもので、解説にはアンドラードがハンス・プフィッツナーの『ヴァイオリン協奏曲』をラジオ放送用に収録したとある。
 マズアの伴奏は、中庸ではあるものの、もうちょっとだけ、しゃきっとしているといいなと思う(協奏曲にもかかわらず、マズアの顔のイラストがデザインされている表紙も無粋)。曲は地味だが、アンドラードのソロは美しい。音質は特に不満のない鮮明なステレオ録音だが、何となく丸みを帯びているような気がするので、おそらくはオリジナルのLP(東ドイツ Eterna 825824)で聴くと、もっといいかもしれない。
 手前味噌になってしまうが、自家製レーベルによるチャイコフスキーとブラームスの『ヴァイオリン協奏曲集』(Grand Slam GS-2082)にも触れておこう(復刻に使用したのは2曲ともLPである)。これはハンス=ユルゲン・ワルター指揮、ハンブルク・プロ・ムジカ交響楽団によるもの。この演奏については、いろいろと不明な点が多い。まず、オーケストラは契約関係によるものだろう、実体は北ドイツ放送交響楽団だという。録音はステレオだが(モノラル盤のLPでも発売されている)、録音データは1950年代ということしか知られておらず、なかには59年と特定しているディスクもあるが、根拠がはっきりしない(この1959年は初発売年の可能性もある)。
 さらに不可解なのは、指揮者はワルターのままであってもオーケストラ名が異なったり、あるいはソリスト、指揮者、オーケストラの全部が偽名・変名で表記されたLPが何種類か発売されていることである。理由はわからない。
 そうした周辺の事情はさておき、演奏はすばらしい。ゆったりと構えて呼吸は深く、実にのびのびと、スケール感豊かに描き上げている。芯は強いけれども、表面は艶やかな音色も一級である。しいて言えば、ブラームスがいっそう見事だ。ブラームスでは同門のヌヴーの評価が高いが、アンドラードのそれはヌヴーに十分匹敵すると思う。
 この2つの協奏曲は、いまとなってはGS-2082の中古を探すよりも、中古LPを探すほうが楽かもしれない。
 なお、最近アンドラードの独奏、ランドルフ・ジョーンズ指揮、ベルリン交響楽団による『チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲』のLP(イタリアJoker SM1025)がある通販サイトで「従来とは別の、演奏会録音」とあったので購入してみた。しかし、中身は上記のワルター指揮のものと全く同一だった。
 そのほかのCDではアンドラード単独のものを紹介しておこう。一つはセザール・フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』、ガブリエル・フォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』、シューベルトの『ソナチネ第3番』(melo Classic MC2013)。これは1958年、60年の放送用録音で、音はモノラル。
 演奏はどれも秀逸で、特にフランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はアンドラードの個性が存分に発揮された名演といえる。音質は良好だが、音量の差が整えられていないのが欠点だ。たとえば、フランクの第4楽章など盛り上がる箇所なのに、音量が小さくなっている。元の録音がこうなっているのかもしれないが、これはマスタリングの際に調整すべきである。
 もう一つはベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』と『第3番』、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第40番K.454』、アルベール・ルーセルの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』(melo Classic MC2021)、1955年、57年、60年、モノラルがある。
 このなかで最も印象的なのはベートーヴェンの『第7番』かもしれない。ハ短調ゆえか、『運命交響曲』のような闘争的な内容として知られているが、アンドラードの演奏は聴き手を包み込むような大らかさが感じられる。また、曲はあまり有名ではないが、アンドラードの艶やかさが強く感じられるのがルーセルの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』ではないかと思う。
 全体の音質は悪くはないが、MC2013と同じようにトラックによって音量差があって、聴いている途中でアンプのボリュームを調整しなければならないのは難儀である。
 以下の協奏曲はほかの演奏と組み合わされたものである。ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』、フランツ・コンヴィチュニー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、1959年のライヴがある(melo Classic MC2038、ジャンヌ・ゴティエとの組み合わせ)。
 音はモノラルだが良好。チャイコフスキーやブラームスの協奏曲と同様、実に立派な演奏である。びくともしない安定感があり、悠々と、朗々と、しなやかに歌いまくっている。これを聴いても、アンドラードがヌヴーやミシェル・オークレールなどと同等な力量をもっていたことは明らかだろう。
 ダヴィッド・オイストラフ、ヘンリク・シェリング、ボベスコ、ドゥニーズ・ソリアーノが組み合わされた2枚組みのなかにはシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(Spectrum CDSMBA057)がある。これはアンドレ・ジラール指揮、フランス国立管弦楽団、1962年の放送用録音で、音はモノラル。
 音質はいいけれど、オーケストラがいささか奥に引っ込んだバランスがちょっと残念だが、ソロはきれいに捉えられている。演奏は非常に濃厚な感じが強い。シベリウスの透き通った叙情とはいささか異なるかもしれないが、エネルギーを絞り出すようにして歌いまくるのは、やはり感動的である。
 なお、このCDには2カ所、指揮者の姓がGiradと表記されているのは、Girardが正しいようだ。
 次はジャン・マルティノン指揮のプロコフィエフの『交響曲第5番』、シャルル・ルノー(チェロ)のシューベルトの『アルペジオーネ・ソナタ』と組み合わされたマックス・ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』がある。伴奏はルイ・フルスティエ指揮、フランス国立管弦楽団で、1970年1月のスタジオ収録で、ステレオ録音である。これは現在知りうるなかでは最も晩年の録音であり、少なくともこの時期までアンドラードは現役だったようだ(1970年代前半に演奏活動から遠ざかり、その後は主に後進の指導をしていたとされる)。
 厳しい目で見れば、1950年代、60年代の演奏と比較すると、いささかぎくしゃくした感じは見受けられる。とはいえ、あからさまに衰えたというほどではない。第1楽章の弾き始めを聴いても、聴き手を吸い寄せるような蠱惑的な音は以前と変わっていない。この録音もオーケストラがやや奥まった感じになっているが、アンドラードのソロはステレオの恩恵もあって、より鮮明に聴き取れるのがありがたい。特に印象的なのは第2楽章。本当に気持ちがこもった、心に染み渡る美しいヴァイオリンである。
 きちんとした形で聴いてみたいのはニルス=エリク・フォーグステッド指揮、フィンランド放送交響楽団とセッション録音したシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(デンマークDecca DLP9001)である。このLP(10インチ)はデンマーク以外の主要国、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどではプレスされなかったため、中古市場でもきわめて入手が難しい。収録は1959年といわれるが、これは正しいかどうかはわからない(モノラルであるのは判明しているが)。粗末なCDRで売っているのは知っているが、そんなものを集めても意味がない。また、イギリスのシベリウス協会がCD化したようだが、これはおそらくCDRではないだろうか。海外ではCDとCDRは同レベルで扱っているが、やはり耐久性の点でも、CDRは信頼性が低い。それに、この協会のCDだってほかの演奏と組み合わされているだろうから、アンドラードのファンには向いていない。
 そのほか、CDRでサン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』なども手に入るようだが、やはりCDRは手に取ったときに、ありがたみが非常に薄く、コレクションとしての価値は低い。
 1953年9月、アンドラードはシェリングとともに師ティボーを見送るために、オルリー空港に向かった。いうまでもなく、ティボーは日本へ向かうはずだった。間もなく、ティボーらが乗った飛行機がアルプス山上に激突したニュースが舞い込む。
 ティボーの突然の死は、アンドラードにとっても衝撃だったはずだ。その師が向かおうとした日本に、翌1954年に訪れた彼女の胸中には、どんな思いがめぐったのだろうか。アンドラードはティボーから、日本や日本の聴衆について、何らかの話を聞いていたのだろうか。あるいは、日本に滞在中に、アンドラードがティボーについて、何か質問されたことがあったのだろうか。
 しかしながら、アンドラードが来日した際、彼女は全くの無名に近かったし、レコードもなかった。そのため、来日時には、インタビューなどの記事は計画されなかったようだ。

 

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生きている人間を推すからこそ“変人”となる勇気を――『宝塚の座付き作家を推す!――スターを支える立役者たち』を出版して

七島周子

「七島さん、郵便がきてるよ」
 2021年の冬、出社すると青弓社からの封書が届いていました。
 私は編集者で出版社勤めをしているとはいっても、美容師や美容業界向けの業界誌を制作する会社。ほかの出版社から封書が届くのは珍しく……、それで違和感があったのかも。隣の席の先輩が教えてくれました。
 それが拙著『宝塚の座付き作家を推す!』が生まれる最初の一歩。この依頼は、当時私があるヘアカタログサイトで連載していた、好きな座付き作家を好き勝手に紹介するコラムを見つけてもらってのことでした。
 この連載自体は、同サイトの編集長からじきじきに依頼を受けた正式な仕事ではあったけれど、媒体はヘアカタログサイトだし、編集長も美容業界誌の編集として新人時代からお世話になっているいわば“兄弟子”のような人だったため、心のどこかで「美容の仕事」と一続きのものと思っていました。小さな自宅の庭で気の置けない家族とつつましく野菜や花を育てているような、そんな感じ。それを「世の中に出荷しませんか」と。これには大変驚き、率直にうれしくワクワクしたのを昨日のことのように覚えています。
 業界は違えど同じ編集者の目線から見ても、私の連載はいわゆる「バズっている」ようなものでもないし、私自身もまったく無名。それを見つけて出版の決裁をするの、同業者として感服です。すごい勇気と決断……! また、書籍執筆が初めてで、どこもかしこも未熟な私の論を「おもしろい」と評価してもらったことは支えになりました。

 青弓社が「おもしろい」と言ってくださるように、私の視点はかなり変わっていると思います。まず、そもそもタカラヅカというスターシステムがウリのコンテンツで作家の話を必死にしているの、はっきり言って“変人”です。
 さらに、彼ら/彼女らの作品を評価する観点もだいぶ変わっています。仮に私と同じように作家に興味をもつ読者だったとしても、きっと共感を集めることはないでしょう。「作家を推す!」と冠していますが、“推しカルチャー”の根本ともいえる「“好き”を共有してつながる」ということは期待できない本です。
 なぜそんな本になったかというと、本書全体で述べたいのが、“推しカルチャー”のなかでの作品受容は「“推し”に対する“好き”がすべて」という風潮が強いことへの疑問だったから。もちろん、推し活そのものは「“好き”がすべて」でいいと思います。ですが、その“推し”が出ている作品、その人が関わり残す仕事に対して「関わっているから尊い」だけでいいのか?、 それって本当にその“推し”は喜ぶの?と常々思っていたのです。

 その疑問の背景にあるのは、まず一つに、その“推し”も生きているからということです。私はタカラヅカに始まり、いろんなものや人を推してきた半生でしたが、いつも「生きている人間を推すってなんて怖いことだろう」と思ってきました。彼らにも人生があるのに。
 タカラヅカ以外の俳優やアイドルのファンなどが特に顕著ですが、たとえば恋愛・結婚や脱退、引退など、本人のライフステージに関わることに対して「こうあるべき」を振りかざすことは普通におこなわれていて、そうやって「正しさ」で導くことが“推し”を応援することだと思われているふしもあります。私は25年間「生きている人間を推す」ことをやってきましたが、あらためて順応したくない価値観です。そして、本当に“推し”の人生を尊重できる応援の仕方を心がけ、模索してきました。
 タカラヅカは音楽学校に始まる「学校システム」から、“推される人たち=生徒”の人生に対してファンが干渉しづらい仕組みができています。そんなタカラヅカだからこそ、単に「贔屓がかっこよければいい」「贔屓や相手役をすてきに(ファンが願うとおりに)見せてくれる作家こそが正義」というだけでなく、もっと多様な作品の楽しみ方を提案できればと思いました。拙著にラインナップした12人の“推し”座付き作家たちの共通点は、作品の出来・不出来やファンを喜ばせることが得意かどうかではなく、生徒たちの役者としての成長やキャリアアップに寄り添うように作品をつくる、まさに「先生」として私が愛せる人たちだということはここに補記しておきます。

 もう一つは、先に述べたようにタカラヅカの作品は生徒と先生の成長と人生観を投影したものですが、それと同じくらい観劇するという行為そのものが、本来は観る人を映す鏡だと思うからです。私が胸を打たれる作品に「生徒たちのよき師」としての座付き作家の姿勢を感じるのは、私自身の宝塚音楽学校受験の経験に基づいていると思います。さらに、いま身を置いている美容業界も師から技術を受け継いでいく教育産業なので、ことさらにその点に思い入れをもつのだとも分析します。だからこそ「変わって」いて、多くに共感されるマジョリティにはなりえません。
 しかし、これは何も私だけの特別な事情ではなく、本来は観客のみなさん一人ひとりにそういった人生の違いがあるはず。仕事も境遇も育ちも何もかも違う人たちが一つの同じ作品を見て、まったく同じ感想で「共感」しあおうとするのって、本当はとても違和感があるな、と。先に述べた「「関わっているから尊い」でいいのか?」というのは、作品の良し悪しをもっと批評すべきということではなく、せっかくなのだからもっと没入しようよ、という提案でもあるんです。まったく違う人生を生きている人たちが一堂に会し、一つの作品を見る。その人生によって、同じ場所で同じ時間に見ても、感じ方がまったく違うかもしれない。それが自由であることが舞台や映画、ライブを鑑賞する醍醐味ではないでしょうか。

 とはいえ、本来その「違い」が怖いから、現代人は「“推し”が好き」ということでつながり安心したいのだということも見当がついているのですが……。それでも、せっかくその“推し”たちが生活のほとんどをなげうってつくっている作品に、こちらも同じくらいの熱量で没入することが彼らに対する敬意であり、何よりの応援ではないでしょうか。
 私が自分の「小さい庭」から大切に育ててきたものをみなさんに出荷してお役に立てることがあるとすれば、共感していただくことではなく……、もっと広く深く自由に作品読解の畑を耕し、心の土壌を肥やすことができる方法の提案。舞台観劇を通してご自身の心をもっと深く知ることができるような、小さな鍬のような存在になれたら幸いです。

 

第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判
第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

[第5章構成]
5-1 国家とパラマーケット
    ・マスメディアの時代と何が違うのか
    ・無意識の再編成としてのデジタル文化空間
    ・資本と国家の共同作業
    ・プラットフォーマーによって助長される敵対要因
    ・[補遺]市場の匿名性を市場が奪う
5-2 コミュニケーション労働と非知覚過程
    ・コミュニケーション労働の形式的包摂から実質的包摂へ
    ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
    ・デバイスとアプリと身体性
    ・自転車に乗るロボット
    ・非知覚の基本的な構造
    ・隠された過程と非知覚過程
5-3 資本と国家による意識の実質的包摂――資本主義のユートピア、私たちのディストピア
    ・さらにその奥にあるフロンティアとしての無意識
    ・非合理性という問いと社会の構造的一貫性

5-1 国家とパラマーケット

マスメディアの時代と何が違うのか
 
 近代社会の自由を一方の理念としながら、コミュニケーションを監視し、ときには言論を弾圧しようとする権力の欲望は、資本主義に一貫している。コンピューターコミュニケーションの時代は、この手法が技術の中核をなし、資本のビジネスチャンスとなり市場として確立することにより、私たちの日常生活やプライバシーあるいは内面へと侵入するようになってきたことによって、その性格に根本的な変化が生じてきた。
 コミュニケーションは、人間の歴史を通じて人間の人間たるゆえんを根源において規定しているものといえ、発話と文字による伝達が、身体の機能から次第に切り離され、技術的な条件によって媒介されるようになるが、近代資本主義あるいは近代国民国家は、印刷や電信などの技術を通じて、それまでには実現しえなかった人間集団の構築システムを可能にした。識字率の高まり、日刊新聞が発行されるようになる19世紀の出版をめぐる環境、つまり出版の自由と検閲の法制度をめぐる闘争状態は、現代のネットの情報発信をめぐる国家と資本と大衆の軋轢と非常によく似ている(注1)。学問研究の自由は幅広く認められるが、庶民の不道徳あるいは反体制的な不真面目な言動と検閲の是非がもっぱら問題になった。当時は検閲官の資質が問題になったとすれば、現代の検閲官ともいえるAIの資質が議論の的になっているというところが違うだけで、大衆の意思を国家の下に束ねようとする意図をもって、意識を操作しようとする本質に変わりはない。19世紀には、人々は匿名で出版せざるをえなかった場合も少なくない。特に女性の言論の自由は大きく制限された。その後20世紀の大衆民主主義とマスメディアの時代になっても、人々の言論表現の自由や集会結社の自由は例外であって、不特定多数とのコミュニケーションの回路を実際に駆使できる人々は、出版、ラジオ、映画、テレビなど、いずれも特権的な少数者が発信力を独占し、圧倒的多数の大衆は情報の一方的な受け手とされ、身近な人間関係のなかで自由な意思表示ができるにすぎなかった。これは、マスメディアが国民国家の統治機構に組み込まれ、個人は不特定多数に対する発信を断念させられたということだけを意味していない。プライバシー空間という奇妙な「自由」な空間が形成されるようになる。空間の私的所有と個人主義が確立するとともに、プライバシー空間は情動の発露が保障され、擬制的な「自由」の空間を象徴するようになる。これは、コミュニケーションでの二重構造を形成することになった。公的な空間では、品性とか道徳とか謙譲とかといった類いのリテラシーが情動の抑圧と制御の構造的なメカニズムをなし、教育とマスメディアがこのようなコミュニケーションの手本となる。公共空間でのコミュニケーションとは、この意味でのマスメディアの表現であり、学校文化のなかで読み書きの礼儀作法であり、国民国家の文化の「品格」であり、不品行な情動の抑圧を構造化する仕組みとなった、といえる。ル・ボンが群集心理として描いた19世紀の不定形な都市のプロレタリア大衆が広場を占拠し、デモ行進し、匿名や偽名で印刷物を配布する行為は、不特定多数に対するコミュニケーションの数少ない回路であり、彼らの言論が支配階級に対する脅威となった(注2)。このような意味で、マスメディアは大衆を国民として組織化するための道具立てとして、20世紀の国民国家の意識構造の枠組みを形成することによって、現実の「群集」を国民として国家に統合する役割を果たすべきものとして位置づくことになる。マスメディアは、人々の情動に形式を与え、祝祭を媒介し、世俗的な宗教性の担い手となった(注3)。
 ポストマスメディアの時代――現代のインターネットを基軸とする時代――に、この仕組み全体が構造転換する。インターネットがもたらした不特定多数との間の双方向コミュニケーションは、マスメディア時代のコミュニケーション構造が長年の試行錯誤のなかで制度化しようと試みてきた情動制御の仕組みを機能不全に陥れた。SNSに典型にあらわれているように、情動は不特定多数に対して開放可能な回路を獲得し、結果として欲動の抑圧にも影響を及ぼすことになった。プライベートな空間のなかに抑え込まれてきた性や暴力あるいはネクロファラスな欲動が、コミュニケーション閘門の調整機能を超えて開かれた回路へと溢れ出すようになり、その結果として伝統的なリテラシーの制約の縛りを無視した情動の振る舞いとしての表現が――公共的な言論空間の側からすれば――突然出現したかのような現象を呈することになった。しかし、実際には、こうした言説がプライベートな空間のなかでは、多かれ少なかれ、事実上放任されてきたことを誰もが知っている。
 前章で述べたように、コミュニケーションの空間の伝統的な分節構造が解体された結果として、プライベートな空間に生息してきた近代社会の差別や偏見の欲望があからさまになった。ヘイトスピーチやいじめからリベンジポルノまで、SNSなどに流出するメッセージはSNSが生み出したものではない。SNSが生み出したのは漏出の回路である。近代資本主義の性秩序(差別と排除の構造)と暴力の制度のなかで密かに、しかし確実に構造的に再生産されながら、プライベートな領域や限られた空間でだけ通用可能だった抑圧されたコミュニケーションが不特定多数の「公共的」な回路に媒介される水路を得たにすぎない。この水路に閘門を設けて、堰き止めることで問題の広がりを抑えることはできても、本質的な解決にはならないことは明らかだ。プライバシーの権利で保護されながら人々が、この資本主義社会がもたらす構造的な差別と偏見を内面化して、内心におぞましい憎悪や嫌悪を醸成しているとき、資本主義の人権や人道の装いをもったもうひとつの仮面をかぶった正義の狼たちは、公共空間に漏出するこれらの感情の主体を隔離し排除しようとする。こうすることで既存の秩序を維持することが可能であり、普遍的な道徳と倫理をこの社会で実現することが可能であるかのように装っているにすぎない。実際に起きていることはもっと深刻だ。非知覚過程がAIなどを介して人々のプライバシーの内面に直接介入し監視可能となるにつれて――AIそれ自体のバイアスという問題があろうとなかろうと――、人々はもはやプライバシーと呼びうる場所の最後の拠りどころでもある自分自身の内面世界それ自体を外界から遮断する一切の手立て失う可能性に直面する。犯罪は、実行行為が問題の焦点にならなくなり、むしろ権力に求められるのは、実行以前に行為の意図や欲望を抱いているかどうかを予測し、行為に至る前に抑制することが可能な力をもつというところに焦点が当てられることになる。権威主義的な国家や独裁国家がやってきた粛清が民主主義を標榜する国家でも、予防を名目として、思想・信条の領域での検閲などが、一見すると民主主義や自由の権利と抵触しない手法で広がりをみせる。あるいは、本連載の課題を超える問題だが、「あなたはレイプ犯やストーカーを未然に排除・隔離することに反対なのか、彼らを野放しにしていいというのか」という問いに的確なオルタナティブを提起できなければ、AIによる行動予測と予防措置という現在のテクノロジーの傾向を押し止める理論的な見通しをたてることはできないだろう(注4)。
 往々にして、SNSの前述のような双方向性に伴うネガティブな現象が、あたかも発信者の主体的な情動の発露に還元されて論じられがちであり、その後に、問題が社会的な広がりをもつにつれて、こうした発信を可能にしているプラットフォーマーのビジネスモデルが槍玉に挙げられるようになる。こうして、法的規制の是非が議論になるわけだが、法規制は必ずといっていいほど、個人の自由をターゲットにして、社会構造に内在する差別や搾取は放置される。しかし、さらに悪いことに、差別や搾取に肯定的な意味付けを与えようとする思想や価値観の再構成を促す傾向が、CTCのプラットフォーマーの資本蓄積構造――いまや経済的土台であるだけでなく社会の上部構造の主要な文を構成している――によって肯定的に受け止められるようになる。こうなることによって、諸個人の情動が社会化する物質的な基礎を獲得することになる。現代のCTCはイデオロギー装置でもあることを忘れてはならない。こうした一連の動きは、コミュニケーションに付随する非知覚過程を通じて、社会構造のより深部にある人々の意識過程を規定する技術的な条件が、より直接的に、人間の意識を包摂することになる。
 しかし、インターネットの時代の双方向性が露出させた情動の回路のなかには、汚水ばかりが流れているわけではない。むしろ逆に、資本主義のコミュニケーション構造がもたらす身体性の搾取に対する政治的な異議申し立てもまた見いだすことができる。あらゆる政治的な意思表示は、実空間でのデモや集会のように、情動の動員なしにはありえないが、こうした行為が意味を獲得するのは精神的革命なしにはありえないことだ。剥奪された意味に対する創造的な行為に内包されている意味には権力への敵意があり、だから支配者の側からの眺めは、こうした政治的な情動もまた制御や抑圧を必要とするものとみなされることになる。
 現代の文化の機能は、欲動の制御であるとしても、それは、従来のような手法ではなく、あたかも人々が情動の解放を実感するかのようにして、その情動に陶酔しながらも欲動の制御を実現するような変化を構造化する途上にある。これはマスメディアの情動制御とリテラシーの流儀の押し付けに対する大衆の即自的な反発と深く関わる。つまり、大衆の反発が具体的に実現可能な条件をコンピューターネットワークが与えようとする試行錯誤の現れなのだ。コンピューターネットワークが資本の論理によって構築されている場合、資本の利潤はデータフロー量の不断の増加に依存する。SNSでの炎上やインフルエンサーと呼ばれるような人々の感情的な発信やフェイクあるいはヘイトといった表現の漏出は、ネットのユーザーたちの合理的な判断や理性ではなく、不合理で感情的な情動を戦略的に刺激することによって、アクセス数を稼ごうとする資本が生み出したものでもある。これはコンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)に固有の性質なのではなく、パラマーケットを介した広告のメカニズム――SNSのビジネスモデル――がもたらした事態であるという意味で、特殊資本主義的な現象だ。コミュニケーション領域が市場化し、多数者のメッセージが量的支配を容易に獲得できる構造は、必然的に、少数者のメッセージに対する多数者のメッセージの過剰な応答を生み出す。インターネット以前には、この量的なメッセージの力はマスメディアが独占し、これを国家が統制することによって、多数者のメッセージをイデオロギー的に調整したが、ポストマスメディア=インターネットの時代には、より直接的に多数者の情動の集団的なメッセージが少数者のそれを圧倒するようになる。もはやマスメディアの媒介は不要となり、個人が、直接社会の土台であり、かつ上部構造でもあるCTCのプラットフォーム上で束ねられ、調整される(注5)。

無意識の再編成としてのデジタル文化空間

 フロイトは文化を人間関係を律する仕組みだとみなし、人間関係が欲動充足に深く影響され、また、ここには、〈労働力〉としてであれ性的な関係であれ、個々の人間も他者からある種の「モノ」として利用される関係が含まれると指摘したうえで、文化に対する潜在的な敵意が内在しているとも指摘した。文化は「個々人に対抗して守られねばならないし、文化の様々な仕組みや制度、命令はこれを課題としている」とフロイトは述べた。文化は、人間の内面にある敵対的なうごめきから社会の秩序を守る使命を帯びるわけだ(注6)。支配的な社会集団によって構築される文化が敵対するのは人間そのものというよりも、人間のなかの欲動に内在するある側面、とりわけ性的な欲動の本質をなす近親相姦や性器性愛や異性愛に還元できない性欲動に向けられる。フロイトはこれを文明(彼は文明と文化を峻別する立場をとらない)の起源にまで遡って、人類史の時代を貫通して見いだすことができるものだとしたが、私はむしろ、家族関係が歴史的社会構成体によってその構成と社会的意義・機能が大きく変化することをふまえると、資本主義に固有の文化による欲動抑圧のメカニズムと特徴があると仮定するべきではないかと考えている。資本主義は、性の構造的な秩序を家族と市場を横断するようにして、世代の再生産と性の快楽という性をめぐる二つの従属変数を独特の方法で配分するきわめて特殊な一夫多妻制をとる(注7)。性をめぐる差別、偏見、禁忌、道徳・倫理は、資本が商品として供給することによって構成される家族生活世界の資本主義的な文化を通じて再生産される。つまり、文化と欲動を構成する諸要因を念頭に置くと、文明という没歴史的な理解によって資本主義に固有の諸要因を無視することはできないということだ。
 文化は、諸個人の内面にある破壊的・反社会的・反文化的な傾向を飼い馴らすこと、諸個人への強制と欲動の断念を基礎として構築されるものだとフロイトは述べるわけだが、フロイトが念頭に置いている「文化」はもっぱらヨーロッパのキリスト教文化であり、抑圧の文化の核心にあるのは宗教である。この意味での文化は、文化一般に共通する本質だとフロイトはみなしたが、多文化社会であってもマイノリティの文化であっても同じように機能するのかどうかは、文化の構造それ自体が多層的でかつ相互に摩擦や対立を含むために、複雑であって、この複雑な文化的な多層構造が個人の情動にも影響する。この影響構造に市場経済と国家に組み込まれたパラマーケットを構成するマスメディアの文化装置があることにフロイトは必ずしも関心を寄せていない。支配的文化とサブカルチャーやカウンターカルチャーのように長らく議論されてきたテーマに対して、文化の抑圧的な性格という視点が有効なものといえるかどうかは、この点にかかっている。若者文化をある種のサブカルチャーとみなすとしても、当該の若者は、この文化を享受しながら「大人」になり支配的文化の担い手になる。都市と地方、あるいは多数者の文化と少数者の文化も、その間には明らかな支配的な文化と従属的であることを余儀なくされる文化が数世代にわたって継続する一方で、同化や順化の力が作用して支配的文化は変容しながらも資本主義の構造そのものが揺らぐことはない。古典的な正統派マルクス主義の社会理論がほとんど関心をもっていないセクシュアリティと家族関係を通じて、パーソナリティ形成に資本主義的家族制度が与える生育過程の影響の持続性を考慮すると、少なくとも、フロイトが指摘する文化の抑圧的性格は、多相的な構造を貫いて、それぞれの歴史的社会構造に固有の特性をもちながら一貫するとみていいだろう。逆に、そうだからこそ、この抑圧に対する抵抗が形成され、この抵抗に対して、支配的な文化がこの抵抗を抑える仕組みをさらに開発するという抑圧と抵抗の弁証法の可能性が見いだせるだろう。
 ここで欲動の断念として語られていることは、他者とのコミュニーションの様々なレベルで、相手との関係性のなかで、様々に抑圧の装置が作動し、様々な断念となって個人の言動を制御する。欲動の断念によって文化の枠組みのなかに整序された情動が構築されるわけだが、この欲動の抑圧が一定程度解除されるのは、意識的な過程では、もっぱらプライベートな関係のなかに限られ、そこでは多かれ少なかれ性的な欲動が最も大きな自由を与えられることになる。性的欲動の抑圧が家族(異性愛に基づく一妻一夫制を公式のイデオロギーとしながらも構造的には一夫多妻制をとり、これが近代の家父長制を支えるわけだが)を社会の制度として、しかも〈労働力〉再生産の中軸に据えられることによって、欲動の断念が人間の生育から資本が供給する商品の消費様式まで、ほぼ人生の全てを覆うことになる。この重層的な欲動の断念の背後に、無意識の作用域がある。
 欲動の抑圧と情動の制御は、諸個人の人間関係――コミュニケーション――を社会的に規定する制度を通じて具体化される。コミュニケーションの回路は、諸個人を制度を通じて相互に結び付けることになるために、コミュニケーションは、人間関係と社会制度の従属変数である。親密でプライベートなコミュニケーション一般があるわけではなく、プライベートな関係が妻と夫、親と子といった親族関係の資本主義的な機能に規定されて形成されることを前提として、相互のコミュニケーションが形成される。資本の組織は、利潤目的という組織動機も含めて、家族の組織とも議会の組織とも違う意思決定のコミュニケーションによって組織されるために、コミュニケーションそのものがこの外的な条件によって規定される。労働者は職場にいる場合と買い物で顧客となるときとでは、異なる情動の制御を受けるわけだが、これは、相手とのコミュニーションを通じて制御されることになる。そして、こうした枠組みがコンピューターコミュニケーションのなかで変容あるいは課題を抱え込むことになる。

資本と国家の共同作業

 パラマーケットは、マスメディアの時代と比べて、国家の統治機構と有機的な結び付きをより一層強くもつようにもなる。これは、資本が国家の統治機構を支えるコミュニケーションの社会基盤を担うようになったこと――土台と上部構造の融合――と無関係ではない。そして、また、資本が開発してきた行動予測と行動制御の技術を国家もまた「国民」の心理的な動員と治安管理などに用いるようになる。本連載ですでに述べたように、近代国家が国勢調査などの統計データを収集しようとしてきた歴史的な背景には、国民管理のためのデータ管理への志向があった。人口を固有名詞をもった具体的な個人の集合として扱えるだけのデータ処理能力がなかったから抽象的な「量」として処理する以外になかった。しかしコンピューターテクノロジーはデータ処理の飛躍的な高度化を実現し、具体的な固有名をもつ一人ひとりをターゲットにすることを可能にした。個人が抽象的な数値になることや、固有名を奪われて番号で呼ばれるといった事態に伴う直感的な嫌悪や違和感を基盤とした異議申し立ては通用しなくなる。同時にこのデータ処理の高度化は、資本と国家がデータを相互運用できるまでに発展してきた。こうして、日常生活の行動をデータとして把握して、「解釈」し、これを前提にしたコミュニケーションが、人と人、人と機械との間に構築される。この過程で、私たちの情動に対するコンピューターによる解析が中心的な課題となる。AIや機械学習などが目指すのは、こうした過程を通じた私たちの世界についての見方と感じ方を制御し、私たちの行動を彼らが予測する範囲内に収めることを通じて、既存の制度を維持することであり、結果として、彼らは私たちに幸福や満足を与え、不安や恐怖に対して私たちが自前で立ち向かう力を削ぎ、大きな権力への依存を希求する感情を喚起しようとする。しかし、実際に起きているのは、むしろ人間の側がAIに同一化することを通じて、ある種の幸福感情を獲得しようとする主体的な動きだ。
 具体的な事例でこの問題を考えてみよう。テロ対策に関するグローバル・インターネット・フォーラムGlobal Internet Forum to Counter Terrorism(GIFCT)という国際的な政府間組織がある。この組織は外務省の説明では「インターネット上のテロリズムや暴力的過激主義の拡散を共同で防止する目的で設立されたIT企業によるフォーラム。2017年に、Facebook、Microsoft、Twitter、YouTube(Google)の4社で立ち上げ。共有ハッシュデータベース作成・運用の効率化、テロ関連情報検知技術に関するベストプラクティスの共有等、テロリストによるサイバー空間の悪用への対応を議論。中小事業者への技術支援も実施している(注8)」とされている。GIFCTは創設メンバーに加えて、現在ではAmazon、tumblr、wordpress.com、Instagram、WhatsAppなど17社が加盟している。テロ対策という国家安全保障分野に、民間企業で消費者に対してグローバルにサービスを提供している企業が共同で取り組むという体制そのものが、これまでにみられない特徴だ。しかもこの取り組みの中心にあるのが「共有ハッシュデータベース作成・運用」である。ハッシュとは、もとのデータから一定の計算手順で生成された数十バイト程度の短い固有の値のことを指す。データの同一性を確認するときに、元データが大きくてもハッシュであれば簡単に判断が下せるために、データの照合などで用いられる。GIFCTは、各社が保有しているデータのなかでテロリストが発信した疑いがある動画などのデータを各社で共有し、同じデータがほかのサイトにアップされていないかどうかなどを判断することが容易になるとされている。その結果をもとにして、これら大手のICTは、コンテンツの削除、捜査機関への通報などを実施する。従来、コンテンツの検閲や削除などの行為は、言論表現の自由に関わるとされ、日本の場合であれば、刑法の猥褻罪のように、法的に明確な違法性があるものについての法的規制があるが、現在では民間企業が独自の判断で公権力にかわって表現内容を監視し検閲する力を発揮できるようになっている。こうした民間の検閲は憲法の検閲禁止条項の適用外だ。
 GIFCTのハッシュデータベースがテロリズムの分野で信頼性のあるデータベースであるかというとそうとは言えない。なぜなら、そもそもテロリムの定義が国際的にも合意できていないから、各社がテロリズム関連のコンテンツだとしてデータベースに上げたものの客観性を保証するものは何もない。欧米の価値観を前提としたテロリズムの判断は、イスラーム原理主義組織に対してはキリスト教原理主義よりも不寛容であることは推測できる。GIFCTは、加盟している企業が米国企業に極端に偏っている。グローバルに非西欧諸国の企業も参加させるべきかどうかでは合意がとれていないようだ。なぜなら、たとえば中国やインドなどのIT大国の企業が参加したときに、これらの国の利害によってGIFCTの方針が影響されることへの懸念があるからだろう。国連の機関との連携はあっても、国連にこうした機能を移管させることについてもたぶん否定的だろう。つまり、グローバルな多国籍企業は、普遍的な価値としての西欧の人権を共有するという建前を掲げることによって、本社があるアメリカの権力的な後ろ盾を利用することが、現状ではそのビジネスモデルに最も適している考えているからだろう。この意味で欧米諸国の文化ヘゲモニー装置の一部を構成するものになっている。
 こうした取り組みは、いくつもあり(注9)、民間が国家安全保障に関与する枠組みは、これまでもよく報じられてきた民間軍事請け負い会社といったリアルワールドでの軍事企業やいわゆる軍事テクノロジーに特化した企業から、一般的なプラットーム企業と呼ばれる巨大企業が、政府や国際機関と連携して治安対策の前提となるコンテンツの監視と検閲を担うようになっていて、資本蓄積の構造的な性格の一部をなすようになってきた。
 もっと卑近な日本での例を挙げれば、政府のギガスクール構想で導入される児童・生徒のデジタル環境の場合、この環境を準備するのはGoogleやMicrosoftなどの大手ICT企業であり、これらがさらに連携しているアプリ開発企業とともにユーザーになる子どもたちの行動を監視する教育システムを構築する。教科書会社が教材を作成することと本質的に異なるのは、こうしたCTCは共時的・経時的にユーザーのデータを蓄積して履歴として学校や政府が利用しうる環境を伴っている点だ。伝統的な教科書会社は教科書を供給しても、日々の学習行動を逐一把握することはできなかったが、いまではそれが可能になる。そして教師は、こうしたツールがどのようなプログラムによって作動してるのかを理解することは現実問題としてほぼ不可能であり、プログラムを独自に検証したり改変することもできず、このツールの評価を「信じる」以外になくなる。こうして教師はツールに従属することになる。これは典型的な法規制を迂回して資本が公権力と実質的に同等の監視や検閲の力をもつようになったことを端的に示す具体的な事例である。こうした教育現場の状況が子どもや親に受容されるのは、子どもも親も教師も、日常生活のなかで、CTCに基づくライフスタイルを肯定的に受け入れているからだ。とりわけ、この受容が、技術的な仕組みへの理解なしに「信じる」ことに基づいていて、近代の人間関係が公的場面で人々の言動を規制してきた合理的な判断や理解そのものが作動する余地が狭められ、これにかわって、人ではなくシステムを「信じる」ことへの依存が人々の行動の規範になりはじめている。こうした事例は、様々な不合理な判断や評価の蔓延をもたらし、人々の行動の規範が好き嫌いといった感情によって容易に左右される――ヘイトスピーチのように――といった事態が至るところに見いだせるようになってきた。
 テロ対策と学校でのデジタル環境を例として示したが、これがいったいどのような意味で私たちの世界についての見方と感じ方を制御し、私たちの行動を予測するメカニズムになるのか。このことを私たちは実感することはきわめて困難だ。CIFCTによるデータ解析やCTC資本による調整過程がなかった場合に、私たちがどのようなコミュニケーション環境に置かれるのかを具体的に実証することはできない。私がテロリズムの疑いをもたれて監視されていても、そのことを知ることはできないだろう。ただし、私のデータはテロリズムのカテゴリーを通じて「調整」され制御される。これが私のブログが検索エンジンにヒットする確率に影響しているとしても、そのことを実証することはたぶんできない。他方で、ギガスクールで集積される成績や行動履歴が長期にわたって解析される過程は、学校の教育制度の枠組みに還元されるという意味でいえば、わかりやすいように見える。しかし、教師も子どもたちも、誰も、自分たちのコミュニケーションの関係を規定するデータがどのように処理され、なぜそのようなデータとして集約されることになったのか、というアルゴリズムの実体を知ることはほぼ不可能だ。CTCが介在しない場合、教師と子どもや親のコミュニケーションに介在していたのは当事者が書いた書類だった。これがコンピューターやタブレットの画面に代わると、当事者の間には、紙に書かれたものがディスプレイに表示されたものや、そのプリントアウトされたものに代わるだけで本質に変わりはない、と誤認する。AIの関与は、これまで以上に客観的で正確な教育データであるにちがいないという根拠を説明しえない「信仰」が支配することになる。
 確実に言えることは、私が世界について、あるいはあなたについてどのような感情や理解を抱くのかは、私が取り結ぶコミュニケーションの経時的な蓄積――経験――に大きく依存する。この経験が、私の知覚を通じて世界との関係によって構築されていて、たとえそれが無意識の領域にあって私に自覚的に認識しえないとしても、私の知覚を介さない経験はありえない。しかし、この知覚過程にメタレベルで規定するCTCが私と他者――人間あるいはコンピューターのディスプレイ――を知覚しえない過程を通じて、インタラクティブに介在するというようなことは、これまでにはありえなかったコミュニケーションの過程だ。このことは最近急速な普及をみせはじめたChatGPTをめぐる動向をみてもよくわかる。ChatGPTは非知覚過程をインタラクティブなコミュニケーションに組み込んだものであり、人間に固有のフェテイシズムを巧みに利用した仕組みだ。ゲームの仮想空間ではなく現実の空間のなかで、私たちは人なのかAIなのかの判別がつかないコミュニケーションを通じて、いまここで交された会話が再帰的に処理されて次の会話の方向を規定する。民主主義の基本となる議論は一見すると成り立つようにみえるが、AIには対象への認識や意識と呼びうるものがあると私が信じるかぎりでそうであるにすぎない。人類の歴史のなかで、貨幣のフェティシズムに囚われて久しいことを想起すれば、ChatGPTのようなAIフェティシズムによる現代の卓踊術をあなどってはならないだろう。
 こうした過程では、私たちの自由がどれだけ奪われても、それを自覚することがないだけでなく、たとえ自覚したとしても、奪われた自由よりもいま現在の境遇に幸福や自由を主観的に感じる感性が形成されるとすれば、私たちが将来の社会をいまここにある社会とは根本的に異なる社会として構想する想像力も奪われることになるし、不幸や不安を感じるとすれば、それは「私」にその責任が帰せられるべき出来事としてしか感じられなくなる。想像力は常に現実的なもの、いまある権力と構造を与件とした狭い範囲のなかで実現すべきことだという主張は、保守的な人々だけでなく、体制に批判的な運動や人々の考え方の主流をなすことになる。想像力とは意味の世界であり、意味の剥奪と付与という一連の過程を形成するが、ここに巧妙な非知覚過程が伏在して私の将来の動静を予測し制御する過程があたかも自然過程であるかのようにして組み込まれ、こうなることによって、想像力もまた私たちから奪われるとともに、現状維持を正当化するような想像力が付与されかねないことになる。とりわけコミュニケーションが資本によって支配された労働ともなれば、このことはなお一層顕著になる(注10)。

プラットフォーマーによって助長される敵対要因

 いわゆるプラットフォーマーなどともよばれる民間の大手ネット企業は、政府が保有していない膨大なコンテンツの流通を支え、同時にコンテンツを保有したりデータベース化することによって世界理解に影響を与えるほど膨大な意味を生成する。そして、こうした意味の生成に自身の収益を最大化する構造があるために、ユーザーが増え、コンテンツの投稿が増えれば増えるほど、資本の基盤も拡大することになる。こうしたコンテンツのなかに、憎悪や流言蜚語に関わるものが含まれる場合があっても、それらをどのように規制するのかは、技術の制約と利潤率最大化の資本の運動法則と国益に基づく国民国家の立法との間の弁証法に規定されることになる。これは資本が供給する商品一般に共通する性質であり、たとえば健康に有害な食品添加物がなぜ市場に供給される商品に広範囲にみられ自家製の食品には見いだされないのかを考えれば、その理由は利潤原理に対する法の限界にあることは容易に理解できるだろう。資本がコミュニケーションサービスの提供をする場合であっても同じことがいえる。ヘイトスピーチやフェイクニュースの制御は利潤の従属変数でしかない。コミュニケーションの権利が基本的人権としての言論表現の自由や思想・信条の自由にとって不可欠だという理由で資本がこの分野に投資しているわけではなく、資本にとって利潤が見込めるから投資するのであり、利潤率最大化がヘイトを助長することがあってもおかしくはなく、資本に人権を期待したとしても、そこには資本の論理という厳然とした限界がある。
 先にも少し言及したが、ヘイトスピーチやフェイクニュースに無視できない数のフォロアーが生み出されるのも、Facebookの内部文書(注11)が明らかにしたように、SNS資本がユーザーを獲得するために駆使するアルゴリズムが利潤を最大化するように設計される結果であり、憎悪やフェイクのメッセージの助長に資本の加担があり、これが人々の心理に影響を与える。政治権力にとっては、こうした敵対するコンテンツを制御することが権力の維持に寄与すると判断した場合であっても――権力や支配的イデオロギーがヘイトの背景にあることを忘れてはならない――、資本の協力は欠かせない。資本にとってこうしたコンテンツが資本の収益に寄与しないのであれば、あるいは、資本が普遍的な価値を尊重することをアピールすることがビジネス上有利であると判断されれば、その限りで、コンテンツの制御に加担することになる。しかもコンテンツ規制は、普遍的な人権概念によっては規定されず、各国の法制度や政府の政策によって規定されるのが一般的だ。また、こうした資本と政治の思惑に対してプライバシーや市民的自由を主張する人々、ターゲットとされた集団の影響力、逆に極右の政治力などのベクトルにも左右されるから、政治的権力と経済的権力が多国籍の構造のなかで錯綜する複雑なゲームによってプラットフォームの監視・検閲の具体的な実行が決定されることになる。
 同様に、政治的権力にとってもコミュニケーションは、人権として尊重すべき領域として最大限の保障を与える義務があるという立場は、「建前」あるいは形式的な理念であって、政治権力は自らの権力利益の最大化するようにコミュニケーション環境を制御しようとする。つまり支配の拡大再生産を自己目的とする権力は、自らを支持する大衆の自由な政治活動こそが自由であり、この自由を阻害する行動は自由への敵対や阻害要因だとみなして「自由の敵」などとして抑圧する。この意味での自由が最大化されることによって自らの権力基盤の拡大に寄与することが可能になるかぎりで「自由」を尊重しようとする。これを抽象的一般的な言い回しによって――憲法の文言などを利用しながら――あたかも普遍的な権利としての自由の擁護者であるかのように印象づけようとするのが、いわゆる自由と民主主義を標榜する国がとるイデオロギー戦略だ。資本にとっても政治権力にとっても、コミュニケーションの自由の権利は、それ自体が自己目的となるような組織動機をもっていない。資本にとっても政治にとっても私たちの自由は、彼らの組織目的・動機ではないからだ。このことが資本主義での自由の限界であり、私たちが構想する自由の条件を資本主義が満たすことができない理由でもある。
 こうして、パラマーケットもまた政治的なコミュニケーションの回路としての機能をもちはじめるとともに、統治機構の意思決定にとっても不可欠な回路へと変容しはじめている。これは、政府の統治機構が、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)による情報基盤に支えられるようになり、この基盤の構築を民間資本が担うようになることによって、近代国家の官僚制による情報統制の最も根底にあるデータの管理、処理、解析の多くの部分が官僚制から民間資本へと移行しはじめていることにみられる。しかし、そうであっても、現在は、法執行権力や法制定権力まで民間に完全には移行しておらず、また、民間にとって、こうした統治機構との有機的な結合は、資本の最終目標でもある利潤最大化の原理との折り合いという問題を残すままになっている。権力にとっての統治能力の最大化、無限の権力志向があり、資本の無限の価値増殖欲望が、この権力の欲望と整合的に機能するとはかぎらないからだ。

[補遺]市場の匿名性を市場が奪う

 資本主義的自由は市場の自由を中心に構築されてきた。私たちが「自由」を実感するとき、その根底にあるのは市場が与えた自由である場合がほとんどだ。ここに自由をめぐる将来社会の構築をめぐる難問――市場経済による価値の支配を廃棄しながら、市場経済が切り開いた「自由」に基づく権利に内包される歪みを排して再構築する可能性を探るという難問――がある。貨幣は身分に依存しない「金」という物質の価値を根拠に一般的等価性という社会の共同意識を構築することで歴史的に成り立ってきたものだった。つまり、金の直接的使用価値とは関わりなく、一般的等価性という意味使用価値を付与することで貨幣となった。市場経済の自由が関わるのは、この意味使用価値としての一般的等価性を「金」という実物で保障することによって、その所有者が何者であるのかに関わることなく、その者に代えてその物の貨幣性によって売買が担保できる仕組みになっている点にある。マルクスはこれ人と人の関係が物と物との関係になるとみなしたが、この物象化という代償によって匿名性を獲得するというトレードオフがここにはある。クレジットカードでも貨幣同様の一般的等価性に近い機能があるが、根本的に異なるのは、その意味使用価値=一般的等価性には私の個人情報(私の銀行口座の預金残高、この口座が私の口座であることを証明する認証仕組み)も不可分一体のものとして組み込まれている点だ。仮想通貨(政府は「暗号資産」と呼び、その貨幣性を払拭しようと懸命だが、私は仮想通貨と呼ぶ)は、ブロックチェーンの仕組みを利用してサイバースペースの取引に再度匿名性を導入しようとする試みだ。匿名は市場の活動も巻き込んで市場のポリティクスの中心課題になっている。
 歴史的にみれば、市場経済での社会の共通意識として銀行券に貨幣性を付与するようになったのは、貨幣のフェティシズムの基本的な性格が、物本来の性格に対する社会的な意味付与、つまり、社会を構成する人々が共通して「貨幣」であると認識する――そのモノの直接的使用価値ではなく――意味使用価値に一般的等価性を付与するというところにその原因がある。フェティシズムは物それ自体が物に付与された意味の体系との関係を通じて、意味に物それ自体が支配されるような社会と物の関係に基づく。不兌紙幣は金の裏付けがなく国家による信用だけで支えられるのもこの構造があるからだ。つまり、発券銀行の信用から国家の信用(正確には国家の後ろ盾をもつ中央銀行)へと変化することができるのも、市場経済の必須の条件でもある貨幣の一般的等価性という抽象的な性格を、社会の構成員の「共同作業」によって、あるモノの意味として付与することが可能だからだ。フェティシズムは物と意味の関係性の特殊社会的な反映なのである。
 貨幣は、階級社会を構成する資本家も労働者もともに共同作業者として利害を共有することによってこの一般的等価性を支える。これは、一見すると市場経済の非イデオロギー的な機能のようにみえる。しかしそうではない。市場がナショナリズムと不可分な構造がここにはっきりと露出しているにもかかわらず、そのように自覚することがきわめて困難なものが貨幣的なるものには内在している。中央銀行が発行する銀行券が「貨幣」とみなされるということは、階級を超越し、様々なアイデンティティ(ジェンダーやエスニシティなど)をも超越しながらも、ナショナルなアイデンィティだけは手離されることがない。つまり、貨幣のフェティシズムが国家のフェティシズムに依存するということを意味している。この段階で、貨幣は世界性を喪失し、私たちもまた、労働者であれ資本家であれ、男性であれ女性であれ、どのエスニックグループに属していようと、円とかドルといった「国民通貨」を用いることを強いられる。結果として、私たちは、金に体現されていた匿名の世界性も一部を失うことになる。本連載ではこれ以上立ち入れないが、仮想通貨は、この国家のフェティシズムではなくネットワークの暗号技術に依拠するというこれまでにないフェティシズムの新たな選択肢を生み出したという意味でいうと、資本主義がナショナルなアイデンティティへと収斂するように意味世界を構築してきた歴史に質的な転換をもたらす可能性がある重要な問題であると同時に、この傾向は、一般的等価性が国家に依存することなく市場それ自体に純粋に依存してなしうるものとして、資本主義的アナキズムを含意しているのか、それとも資本主義を超越する何かであるかどうかは未知数だ。暗号通貨の世界にはそれなりのアクター相互の力学があり、まだそのテクノロジーのイデオロギー的な傾向そのものが争点の渦中にあることも踏まえれば、暗号通貨もまた国家管理に包摂されて、かつての銀行券の二の舞になる可能性が高い。
 広義の意味での貨幣によって形成された近代的な市場の匿名性は、資本の流通過程の不確定性というコスト(流通費用)をもたらすことになる。独占がその解決策の選択肢の一つであるが、そうであっても買い手を特定して購買欲動を制御することまでは立ち入ることができない。非知覚過程は、買い手の欲動を個別に把握し、フィードバックを通じて、その制御を再帰的に調整し、匿名性が剥ぎ取られることになる。

5-2 コミュニケーション労働と非知覚過程

コミュニケーション労働の形式的包摂から実質的包摂へ

 前にも述べたように、19世紀の機械制大工業が労働者の労働を単純化し機械に従属する位置に置くことによって、熟練を解体し、不特定多数の単純〈労働力〉への置き換え可能にし、資本が労働現場の支配権を実質的に確立することになった。労働行為をめぐる意思決定が労働者から奪われ、意思決定から疎外されることによって、労働の意味の剥奪と資本による再構築が物質的労働の現場の当たり前の環境になり、次第にこの単純〈労働力〉そのものが機械へと置き換わり、労働者そのものが駆逐されるようになる。
 肉体労働の機械への置き換えは、〈労働力〉の人口構成を物質的労働から非物質的労働へと移動させ、やがて20世紀後半になると、コミュニケーションそれ自体が労働として再構成されるようになる。労働が果たす役割は、労働対象にはたらきかけて、資本の計画に沿って加工する対象操作的な性格をもつ。労働者は資本の意図を「理解」して、資本の一部として労働対象としての人間をコミュニケーションを通じて制御する。会話は、コミュニケーションの相互性を装いながら、実際には、非対称的な基盤の上にたっている。サービス産業の労働者が消費者との間で交わすコミュニーションの前提にある基盤は、一方が資本循環の一環に組み込まれた生産過程であるのに対して、消費者の前提にある基盤は資本に外的に接合された消費過程(〈労働力〉再生産過程)である。コミュニケーションがまとう相互性の外観からはこの構造的な違いは見いだせず、あたかも対等であるかのようにみなされる。
 コンピューターによるコミュニケーション領域への介在が支配的になる20世紀の末になると、コミュニケーションそのものの制御の主導権が労働者から機械へと移行するようになる。こうした事態は、具体的には、コンピューターが処理するデータやデータに基づく予測アルゴリズムを意思決定や判断の根拠として「信じる」ということを意味した。ここでは経験や主観とコンピューターのアルゴリズムの間で主導権争いが起きるが、これは労働者と資本のどちらがコミュニケーションの意思決定で主導権を握るか、という問題でもある。
 資本主義のコミュニケーションで支配的な位置を占める操作的なディスクールをそのままに、これまでは、労働者が資本家意識を内面化させられたりしながら、その「手先」を演じさせられて、相手(顧客、同僚、部下など)の意識にはたらきかけ、その行動や情動に意図したとおりの影響を与えようとするコミュニケーションが、コンピューターに取って代わられることによって、相手はより一層行動選択を拘束(その自覚のあるなしにかかわらず)されるようになる。人間はコンピューターを介在させたコミュニケーションの補助作業者になる。オンラインショッピングの売買の大半がコンピューターと顧客の間のコミュニケーションだが、このコミュニケーションでは解決しえないクレームなどの問い合わせがサポートデスクの担当者(人間)の労働になる。それもまた、ChatGPTなどを導入してAIによって定型的な質問、問い合わせが処理されるようになり、よっぽどのことがないかぎり顧客は人の声を聞くことが難しくなり、直接会ってクレームや相談をすることなどはほぼありえない世界になるつつある。行政も同様であり、役所に出向いて権利行使することは容易ではない。こうした事態が、コロナ・パンデミックを契機に一気に普及したが、これはコロナに原因があるのではなく、それ以前からの傾向が加速化されたにすぎない。コールセンターであれ行政の窓口であれ、通話は録音され、メールもまたそのヘッダも含めて記録される。住所や電話番号を入力しなければ問い合わせフォーム自体がエラーになる。匿名の選択の余地などはほぼないといっていい。
 あるいは、たとえば、学校現場にデジタル教材が導入され、生徒の成績がコンピューターによって解析されるようになると、教師の労働は、こうしたコンピューターの判断に依存するようになる。生徒の学習を教師が主体的に担うのではなく、次第に、コンピューターが主体となり教師はこれを補助する位置をとるようになる。ここでは生徒の個人データを教師が手作業で処理できる量を圧倒的に凌駕する膨大なデータを駆使して、生徒のプロファイルを実施するシステムが介入することになる。生身の人間の教員による教育と比べて、コンピューターのプログラムの方が生徒の学習能力を向上させるかどうかがここでは問題の核心をなすのではない。核心となる問題は、こうした過程のなかで生徒や教師たちがコンピューターのアルゴリズムに自らの学習/教育能力を最適化するように行動しようと努力するようになり、結果としてコンピューターのフェティシズムが成立してしまう点にある。ダマシオの言い回しを借りれば、情動から切り離された「理性」もどきの機械が「理性」の手本になり、こうしてデカルトが正しいということになるような世界が生まれる(注12)。学校の権威は、教師の人格からAIへと移行し、コンピューターによって媒介されたシステムのフェティシズムが再構成される。たぶん現在はこの過渡期にある。こうしたコンピューターフェティシズムの否定が旧来の学校教育への回帰の主張によってなされるのであれば、国民国家と資本の構造のなかで制度化された「教育」それ自体からの人間の解放という課題を果たすことにはならない。学校というフェティズム、その背後にある国家と資本のフェティズムからの解放、言い換えれば、意味の剥奪と資本と国家による意味の世界からの解放は、復古主義的な回帰によっては果たせないし、果たそうとするのは右翼のノスタルジーにしかならない。
 こうしてコミュニケーションが労働に組み込まれるとして、それでは資本や国家のコミュニケーション労働の回路のもう一方の側、顧客や学校の子どもたちのコミュニケーションは労働なのだろうか。
 コミュニケーション労働は、賃労働や家事労働同様、賃金を支払われる領域と支払われない領域に分けてみておく必要がある。店舗で働く労働者が顧客と接するとき、顧客は単なる労働対象なのではない。顧客と店員との間のコミュニケーションを通じて商品の意味使用価値が形成され、この意味は顧客が認識する商品の意味として顧客に意識される。商品の意味使用価値は直接的使用価値のように資本が一方的に形成できるものではなく、店員と顧客との間のコミュニケーションという共同作業の結果である。この意味で、顧客のコミュニケーションは資本が供給する商品の生産過程に――意味使用価値の生産――タダで関与することになる(注13)。顧客、つまり消費者が資本とともに使用価値生産に関与させられるという事態は、消費者が〈労働力〉再生産過程にある労働者でもあるということを念頭に置くとすると、資本が〈労働力〉再生産過程そのものを資本に繋ぎ止められた人間の行為、つまり労働過程として直接関与できる仕組みでもあるとみる必要がある。そして、商品売買過程にとって、パラマーケットを介した情報による商品の意味使用価値形成と前述した店員と顧客のコミュニケーションは相互補完的な関係をもつことになる。

コミュニケーション労働とデータ化する「私」

 コンピューターが介在するコミュニケーションでは、この相互性の基盤にあるコンピューターによる通信が新たに形成されるが、このコンピューター相互の通信の大半はコンピューを操作する一般のユーザーに自覚されることがないプロセスになる。この非知覚過程は、コミュニケーションの不可欠な一部をなすにもかかわらず、当事者がそのすべてを正確に把握して自覚的に制御することはほとんどありえない。しかし、コンピューターのコミュニーションは、ターゲット(消費者、労働者、子どもたちなど)をトラッキングしたり、ほかのデータベースを参照して、本人を認証してカテゴリーに分類して選別したり、個人データの収集に利用するなどといった作業が資本の側ではおこなわれる。ターゲットにされる消費者や労働者、あるいは一般の住民の側では同じことはおこないえないという非対称性がある。この一方的なデータの収集(データの搾取)を通じて、ターゲットの非合理的側面を含むパーソナリティについて、資本と国家による一方的なプロファイリングがおこなわれる。
 言い換えれば、純粋に技術的な観点からすれば、私たち一人ひとりが、資本や政府をトラッキングして彼らをプロファイルすることを可能にする技術は存在するのだが、これを駆使することが不可能なようにコミュニケーション・インフラが設計されているか、あるいはこうした逆方向のトラッキングは犯罪化され、資本と国家の側が一方的に私たちの知ることができない方法でデータを収集することは合法化され、あるいは、収集を搾取とも不当な人権侵害とも感じない感性によって、自らの奴隷状態が自覚されないままになる。この非対称的なコミュニケーション過程は、とくに非知覚過程が構造化されることによって物質化される。こうした傾向を最も端的に示しているのが人工知能(AI)への期待かもしれない。
 人工知能が技術開発の中心的な課題になっている現代資本主義は、人間の力学的な制御という近代社会の本質の究極の形態のように見える。人間は機械ではないが、機械は人間によってある種のフェティシズムの対象になっている。フェティシズムの一般的な性格には対象となるモノに対して自我そのものが同一化しようとするところがあり、まさに、人工知能はこの意味で、人間の脳の機械への同化現象をもたらしているわけだが、こうした傾向は、脳科学がコンピューターに媚を売るような概念構成によって、脳の「情報処理」がコンピューターの情報処理と本質的に異なるところがないだけでなく、脳は出来の悪いコンピューターにまで格下げされかねない議論が登場し、これが「世論」を誘導する。
 これまでにも指摘してきたように、こうした傾向をもたらした背景にあるのは、社会の支配構造が、人間を社会の主体の地位から引きずりおろし、〈労働力〉として労働市場に投入される「資源」とみなすことによって資本主義経済を防衛しようとする20世紀の戦略が限界にきたことを意味している。しかし、これでは人間を総体として資本の価値増殖に組み込むことはできない。なぜなら人間はそもそも資本ではないからであり、資本が必要としているのは、人間の総体ではなく、〈労働力〉としての側面だけだからだ。これに対して、コミュニケーションの労働化は、資本が発見した新たな人間の特性を〈労働力〉として価値増殖に媒介するものだ。これがもしかしたら資本主義にとっての最後のフロンティアかもしれない。既に述べたように、コミュニケーションの労働化の前提にあった思想は、行動主義であり、道具的合理主義の伝統であり、この文脈の延長線上にコンピューターによって解析可能なデータ化された人間の断片の膨大な集積としてのビッグデータと機械学習やAIのテクノロジーがあるわけだが、この技術の流れの精緻化がその結果として構築する「人間」(データ化された「私」などと呼ばれるわけだが)は、文字どおりの意味での人間としての地位を次第に確立するようになっている。この過程で、AIは「私」を理解しえるかどうかといった問題が論争化する。しかし、問題の核心は、機械の側にあるのではなく、人間の側が、機械によるデータ化された「私」を真実の「私」として受け入れるかどうか、というところにある。大方の人々は、データ処理された「私」を真の「私」として受け入れることにさほどの抵抗感をもっていない。目の前の私をさしおいて「本人確認書類」(運転免許証、保険証、最近はマイナンバーカードとか)が「私」の座を奪ったり、医師が患者を見るよりもずっと長い時間検査データに注目したり、教師が生徒よりも試験の数値化されたデータにより大きな関心をもつなどという事態は日常のなかにしっかり根を下している。人々は「私」がデータに還元されることを奇妙な事態とは感じていない。
 しかし、この生身の「私」をさしおいて主人公の位置を占めるデータに還元された「私」に対して、実は支配者たちの側が懐疑的になっている。データ化された「私」に基づく制御が思うようにうまくいかないからだ。それは本当の「おまえ」なのか? この懐疑は、データ化された「私」とこのデータから逸脱する「私」の関係を、後者が前者のデータ化された「私」にとってのバグであるかのような転倒した認識をもたらす。他方で、詐欺師たちもまた巧妙にデータ化された「私」を偽装することによってある種の利益を得ようとする。資本家たちは〈労働力〉を買いたたけるように、データ化された「私」をジェンダーや人種などのファクターに偏見を織り交ぜたアルゴリズムによって選別し、経済的搾取の特権を維持しようとする。資本の戦略は人間の最もやっかいな心理、「不安」を武器にする。まず「私」を認証してくれるモノをもたない「私」を不安にさせる。この不安につけこんで「あなたの指紋さえあればあなたであることが証明できますよ」という生体認証の誘惑や「国があなたが何者かを証明しますよ」というマイナンバー制度の罠を仕掛ける。
 もう一つの事態は、人間の側が機械による「私」を真実の「私」として受け入れるかどうかという問題と表裏一体をなす事態だ。人間の側が機械をもはや機械ではなく、ある種の人間とみなすという問題だ。コンピューターに「人工知能」という名称を付与するときにすでに予定されているのは、この「知能」が限りなく人間の知能に近付くことであり、そうであれば、「人工知能」をある種の人間と同類の「知能」とみなしてさしつかえないだろうという類推が流布することになる。汎用的なAIが構想された時代は、まさに人間並みの「知能」の可能性が追求されたが、現代ではむしろ介護ロボットからメタバースまで、特定の用途に特化するようにして部分的に人間(あるいはそれ以上)を演じるこようになっている。部分的に人間のある部分を演じることによって人間になりかわるのはフェティシズムの特徴だが、これは、人間の認識(心理というべきか)が機械を部分的に人間とみなすフェティシズムであって、技術至上主義が率先して社会の共同意識として形成しようとしている側面だ。人間もコンピューターもどちらも、計算させれば同じ答えを出す。一方はデジタルであり他方はアナログだというその本質的な仕組みの差異を論じることそのものを却下してしまう。
 コンピューターが介在するコミュニケーションの場合、人工的に構築されたコンピューター相互の通信の領域があり、その多くが私とあなたの意識やコミュニケーションで意図されているメッセージとは相対的に異なる領域にあり、しかも、この通信の領域なしには私とあなたのコミュニケーションそれ自体が成立しない。この非知覚的な構造は膨大な広がりをもっており、誰もその全体を把握することはできない。この非知覚過程のなかで、私とあなたが誠実に自分の感情や理解に沿った会話をするとしても、この世界は私とあなた二人だけでできているわけではなく、私が語る話題の多くは、ネットのほかの情報を介して得た知識だったりする。あなたにしても同じだ。何度も述べているように、ターゲティング広告から巧妙なAIによる入れ知恵まで、私の知識そのものがそもそも非知覚過程からの影響を免れていない。そして私とあなたの会話がSNSのチャットだったりしたとき、この会話そのものがビッグデータの一部に追加されて、私が何者であるのかを判断する材料の一部をなすことになる。
 こうして、私が何者であるのかが他者を媒介として(他者とは、自己のなかの他者と、文字どおりの意味での他者とがあるから、そもそも複数だが)、私と呼ばれる自己の同一性が構築されるという場合、ここに、「他者」としてのコンピューターを介したコミュニケーションが介在することによって、この自己の同一性それ自体が本質的な変更を被ることになる。人間は社会的な動物だから、私というパーソナリティが社会を構成する他者との関係のなかで構築されるというだけでなく、私は、コンピューターを介してAIが構築する私をも私のパーソナリティの一部に意識されない形で受け入れ、その結果私がこれに反応して引き起こす言動が再帰的にデータ化されてデータとしての私の一部を構成しながら、ほかの人間の私についての理解に影響することになる。だから、データ化された私と、そうではない私を明確に区別することはできない。私が認識し感じるあなたについての私の受け止めの何らかの部分は、データ化されたあなたを含んでいるのだが、それがどのような部分なのかを正確に言い当てることは不可能だ。
 非知覚過程は、人と人のコミュニケーションが、たとえ遠距離であっても、コミュニケーションの内容に影響を与え、しかもフィードバックによって再帰的にその影響が自分にもはねかえるだけでなく、直接のコミュニケーションの相手を超えて、双方がとりむすぶコミュニケーション関係全体からの間接的な影響がコミュニケーションの意味内容それ自体に干渉する。こうした従来にはなかったコミュニケーションの構造が生み出された結果、言語活動は人間に固有であることにかわりはないのだが、この言語活動や象徴的な行為を支える他者と自己についての理解を生み出す意味の集合にコンピューターのアルゴリズムが目的意識的に関与することになる。重要なことは、当事者である人間たちは、このコンピューターを介して実行される言語活動への干渉に必ずしも自覚的ではないが、コンピューターのアルゴリズムを組み込む側――資本と国家がその主な主体となる――は、目的意識的にこの過程に関与しているという点にある。
 このような非知覚過程が目指そうとしているのは、人間の情動をコミュニケーションを通じて、とりわけ意味の世界を通じて、操作可能なものへと転換しようとすることにある。ここには、機械が人間を排除して置き換わるという機械化が引き起す問題とは異なって、人間は排除されるのではなく、機械とは最も異なるそのアナログな脳の言語活動の前提となる意味の世界に機械が介入することを通じて、機械による人間の支配、マルクスの言い回しを借りれば、死んだ労働による生きた労働の支配、あるいは人間労働の実質的包摂がコミュニケーション労働の世界を舞台に展開されはじめている、ということである。

デバイスとアプリと身体性

 会社で働くときとオフでくつろぐとき、人は服装から話し方までを変える。なぜ変える必要があるのだろうか。会社が「自由」であることを演出するために、あえてラフな服装を推奨する場合がある。しかし実際には、労使関係に縛られた不自由な関係が偽装されるだけなのだが。そしてコロナ・パンデミックのなかで、テレワークで自宅のパソコンの前でオンライン会議に臨むとき、プライベートな場所がオフィスになり、スーツに身を包まざるをえなくなる。職場のドレスコードがプライベートな場所を侵食し、コミュニケーションの流儀も変わる。これをプライバシーの侵害だと理解する人はあまりいないが、バウマンがいう監視社会の液状化とはこういうところに露出する。
 こうした可視的で意識可能な領域に加えて非知覚過程の作用がコンピューターコミュニケーションでは顕著になる。多くの人たちは、仕事で「ワード」「エクセル」を使い「パワポ」でプレゼンテーションするが、これらはいずれもマイクロソフト社の商標であって特定の商品名が一般名詞になった最近の典型例だ(一昔前なら、ゼロックスやホッチキスがそうだった)。この仕事の道具を、パソコンを私用に変えても多くの人たちは私生活でも使い続ける。私たちのプライベートな生活はすでに市場を媒介にしてモノの意味作用の集合によって構成されているが、これにコミュニケーションの道具が加わるわけだが、その機能の多くが非知覚過程を通じてインタラクティブに私たちの情動を捉える。私たちの意識を構成しているなかには私が抑圧して無意識に押し込めた「何か」が作用するかもしれないし、「判断」と呼ばれる過程を通じて私たちが抑圧を制御することは知られていたが、私が操作するコンピューターを介して可視的なデータとしてディスプレイに表示される内容が私を密かにプロファイルしたり、つきまとって取得したデータに基づいて私の言動を意図的に操作しようという底意をもっているなとどいうことは、これまでにはなかったコミュニケーション構造だ。こうした非知覚過程が成功しているかどうかは問題ではない。失敗しているとしても、「敵」は失敗に学んでより成功率が高い非知覚過程の再構築を試みるだけであって、私たちが操作対象であることに変わりがない。私たちが外部環境との間で開かれた関係をとることを通じて私の身体性が構築されるという意味で、身体性は社会的・歴史的に規定されたものとして「意味」を与えられるわけだが、私と外部とのインタラクティブなコミュニケーションでありながら、人工的な機構として機械化されて私の意識には上ることがないが、私とのコミュニケーションは確実に実行されていて、このコミュニケーションの影響を私が逃れることはできない。これは、大衆広告時代のあやしげなサブリミナル効果のデジタル版なのだろうか。マイクロターゲティングを売り込もうとするプラットフォーマーの宣伝文句にはそうしたいかがわしさがあるが、インタラクティブであること、ある種のでっちあげではない実際の私の動静を何らかの手法でデータ化して「客観性」を装った証拠とともにフィードバックのメカニズムが作用すること、これらがいかがわしさを数段レベルアップさせている。
 コミュニケーションを制御する機械は、単純な計算機械を超えて、ターゲティング広告のように、人々の選択に個別に影響を与えるようになっている。コンピューターに媒介されたコミュニケーションも、それ以前からある生活を構成している様々な「モノ」同様、人間のパーソナリティに影響を与える。誰もが少なからずもっているフェティシズムが、コミュニケーションを制御するコンピューターが作り出す「世界」に対して形成されることは、それがコミュニケーションを構成する他者を巻き込んで自己のパーソナリティに影響を及ぼす場合であっても、それを、コンピューターによって外部から与えられた意識されない刺激による非本来的なパーソナリティなのだ、などということはどのようにして説明することが可能だろうか。むしろパーソナリティそれ自体が関係の産物であることを踏まえれば、この関係が出生から大人になるまでの生育期に周囲の親密な人間関係によって影響されるように、あるいは、マスメディアの大衆文化によって影響されるように、私を取り巻く様々なモノによって影響されるように、スマホや家庭内のIoTやAIロボットによって影響されるとしても不思議なことはひとつもない。スマホそれ自体であれ、SNSの「お友達」であれ、ゲームのキャラクターであれ、実在か非実在かを問わず、対象に対するある種の恋着は、双方向性の精度が高度化すればするほど、これがある種の転移の対象となり、フェティシズムが強固な基盤をもつようになるだろう。それだけでなく、こうした過程が社会的な規模で、多くの人々のパーソナリティの基盤を形成するようになると、ますますこのフェティシズムへの囚われからの解放は難しくなる。コンピューターコミュニケーションの双方向性は、多くのSF小説が予感しているように、より一層深く人間のパーソナリティに影響を与えるだろう。
 デバイスは私の身体の延長として、プライベートな場所を共有するモノでもある。かつてのデスクトップパソコンよりもラップトップのほうが可搬性が大きいために、身体との結合は強固だが、スマホはこの傾向をさらに推し進めていることは明らかであり、この身体との一体性を希求する人間の労働特性を資本は見逃さず、アップルウォッチやFacebookのスマートグラスのようなウエアラブルデバイスへと「進化」することになる。この方向に内在しているのは、デバイスが私たちのプライベートな場所に同伴し、24時間密着することを通じて私たちの言動を細部にわたってデータとして取得することによって、「私」とは何者なのか、その特異性をプロファイルしようという資本の思惑である。様々なビッグデータが連動することによって、私の知人・友人がもっている私に関するデータとか金融機関、医療機関、ショッピングサイト、行政などのデータとも照合されることによって、構築される「私」が、私に取って代わることになる。そしてこうした傾向の延長線上にFacebookが開発しているメタバースのように、ビッグデータによって構築されたバーチャルな私の「分身」としてのアバターが構築されている。私の複数性によって、たったひとつの「私」という自我の拘束から解放されたかのような擬似的な環境を資本が先取りして構築することによって、文字どおりの私の解放の回路が資本に横取りされる。この過程は、表層にある私とデバイスを媒介したコミュニケーションの可視的なレイヤの下に、非知覚的な過程が技術のレイヤとして私が自覚しない私に関する膨大なデータを動員する。しかし、こうした傾向は、文字が喚起し自己創造される麻薬的な想像力にはとうて及ばないということに気づいている人は少ない。
 このように私たちのプライベートな空間に入り込む当の装置は、私たち人間のアナログで矛盾に満ちた判断の流儀とは全く異なる意思決定の方法を持ち込む。このシステムのアルゴリズムは、目標設定の前提をなす動機の是非については判断停止し、目標達成の手順の選択をAND/ORあるいはYES/NO(t/nil)というある種のマニ教的な二分法を通じて遂行しながら、システムは自壊することなく自己再生産すべきものとして維持される。私たちは、このシステムを操作する主体であるのではなく、このシステムが操作する対象でしかない。フィードバックを「内臓」化させたプログラムは、制度の支配者たちが本能的に欲望する不死であり永遠の権力生命の実現をシミュレートしているのかもしれない。支配的イデオロギーの永遠への願望には必ずといっていいほどフィードバックすべきいま現在に直接連なる「過去」への回帰が伏在している。支配者たちが権力の正統性の口実に伝統を持ち出すとき、彼らが権力の私物化を企図しはじめたことの兆候だ。コンピュータープログラムのアルゴリスムの窮屈な世界と、伝統や神話への回帰による再生を通じた自己維持のカタルシスをある種の超越――この場合は、コンピューター技術による「グローバル化した近代の超克」――への唯一の道であるとみなす伝統主義との間には、共通した世界感覚と、問題解決の振る舞いがある。最先端を標榜する技術を携えた芸術が同時に「伝統」をも携えて自らの正統性を誇示するありさまは、国策としてのメガイベントに回収されたクリエーターたちの無意識のナショナリズムが繰り出す過剰な技術至上主義芸術に端的に示されている(注14)。個人としての人間も社会も、外部に開かれた開放系としてしか成り立たないし、そこには、固有の始まりと終わりがあり、人間にとっての時間=歴史は、均質で無限に続く時間を前提としてはいないにもかかわらず、この歴史的な宿命を彼らは受け入れたがらないのだ。
 なぜこのような奇妙に見える事態が、実際に社会の権力として歴史的な一時代を画すことが可能だったのだろうか。合理主義の政治的な形態としての法による統治が人々の生活の隅々にまで波及するようになるにつれて、人間が本質的に有している非合理的な側面をもてあますようになったからだろうか。私たちは、合理的な判断によって言動を制御するコンピューターのような意思決定に支配されているわけではない。にもかかわらず、プライバシー空間を解体・侵食して繁殖するSNSの言説空間は、非合理性を公共における言説のあり方として事実上の言説のヘゲモニーを握りつつある。これはGAFAのようなプラットフォーム企業の思惑に還元することができない事態だ。むしろ伝統的なマスメディアのリテラシーのプロフェッショナリズムによって排除されてきた大衆のネクロフィリアや破壊衝動に新たなビジネスチャンスを見いだし、大衆の欲望の直接的な表出を可能にする舞台を設定することによって、言説空間市場を拡張しようとするものであって、この意味でいえば、巨大な多国籍企業が大衆のプライベートなコミュニケーションを市場化しようとして繰り広げている争奪戦なのだが、かつての帝国主義的な市場争奪とは異なって、資本それ自体が社会構造の上部構造をなし、逆に国家もまた経済的土台を権力装置に組み込んでいて、イデオロギー過程はもはや純粋な上部構造とはいえず、むしろ経済的土台そのものをなす。ヘイトスピーチや偏見は資本と国家のイデオロギーの表出なのであって、資本や国家に倫理や責任を期待することはお門違いだ。マスメディアの前で沈黙させられ、彼らに「世論」の代弁を許すことと、SNSを通じてマスメディアが容認しない主観的・感情的な表現を拡散することと、伝統的なマスメディアやプラットフォーム企業が自由と道徳家の仮面を被ること、この相互に矛盾し対立する過程を通じて、私たちは、データ化されて意味を搾取され、結果として自らのパーソナリティに介入する機械が私の不可欠な一部としてあたかも超自我であるかのように振る舞うときに、私の無意識が時限爆弾のように私の情動を刺激する。これが、現代の支配の弁証法である。

自転車に乗るロボット

 AIの是非論争が活発だった1980年代に、反AIの急先鋒の一人、哲学者のヒューバート・ドレイフェスは人間とAIとの本質的な違いとして、日常的な経験のなかで柔軟な判断や行動の術を直感的に体得する点を強調した。たとえば、自転車の乗り方を習得するという場合、これを口で説明して理解しても、乗れるようになるわけではない。ドレイフェスは次のように言う。
「自分が自転車に乗れるからといって、その経験から具体的な法則を引き出して、他人に乗り方を教えることができるだろうか。転ぶ時にも角を曲がる時にも自転車は傾くが、ここまでなら大丈夫という微妙な感覚を言葉で説明できるだろうか?」「答えは「ノー」だ。自分が自転車に乗れるのは、時には痛い目にあいながら練習を積んで、「コツ」を身につけたからである。学んだことを言葉でいい表わせないという事実は、何を意味するのか。それは、データと法則をいくら集めても「コツ」は身につかないということである(注15)」
 しかし、残念ながら、二足歩行ロボットは自転車に乗ることができるようになってしまった(注16)。ロボットが人間の「コツ」を習得したわけではない。ロボットに自転車を操縦させる方法は、「コツ」に頼り、練習を積むという人間がやってきた方法以外のいくつもの方法がある。機械(自転車)を機械(ロボット)によって制御するには人間とは別の機械工学的な方法をとればいいだけのことだ。ドレイフェスが勘違いしたのは、自転車に乗ることが可能なロボットの制御という課題を、人間の「コツ」なしに自転車には乗れないに違いないと思い込み、自転車を制御するという課題を「コツ」の話にずらしてしまったところにある。データと法則を集めてやるべきことは「コツ」を身につけることではなく、自転車を操作可能な力学的なプロセスを設計することだ。
 さて、問題の重大なところは、ドレイフェスの勘違いが、ロボットが自転車に乗れるようになるという現実に直面すると、別の勘違いを生み出す。それはロボットが人間と同じような「コツ」を習得して自転車に乗ることができるようになった、という勘違いだ。この勘違いは、自転車に乗れるようになる方法は「コツ」以外にないという思い込みを前提にして、ロボットも「コツ」を体得したかのように錯覚してしまうところにある。この錯覚が錯覚として自覚されないとき、人間はロボットにある種の人間的な性格を読み込んでしまうことになる。つまりフェティシズムである。人間もロボットも同じ結果を達成したことから、結果を導いたプロセスを人間の思考や行動がとるであろう機械の力学的なメカニズムには還元できない人間に固有と信じられているプロセスになぞらえる間違いをおかすことになる。もちろんドレイフェスはこのプロセスの違いを重視しているのだが、言葉にできない曖昧さや合理的判断に還元できない柔軟さに基づく行為の帰結に対して、AIの研究者たちは、コンピューターのアルゴリズムによって同じ結果を導くことができるような迂回路の研究を重ねてることで、この難問を解決してきた。自転車は乗れるか乗れないかの二者択一であり、チェスもどちらが勝利するかの二者択一であり、結果の是非が明確な例だが、私たちがAIに判断を委ねて何事かを決定するという場面は、是非の判断そのものが不分明な場合がますます増えており、そのときに、AIに対してある種の感情移入ができるかどうかが、AIの決定を受け入れるかどうかの重要な要素のひとつになる。ネットショッピングで、あの商品を買うかこの商品を買うか迷っているときに、ちょっとしたターゲティング広告に刺激されて、商品を買うという行動をとったとき、このターゲティング広告のアルゴリズムがどのようなものかで、私の購買行動に影響を与えたかもしれない。こうした場合、この決定は私の決定ではあるが、純粋に私の決定とはいいがたく、その一部がAIによって左右されている。私の情動が、アイドルのポスターや、ネットの動画によって刺激されたり、ペットとして一緒に生活している動物をあたかも人間であるかのように遇することができることからも明らかなように、AIと私の間のコミュニケーションが私の情動に影響し、私の一部になる。これはフェティシズム一般の特徴がAIにも妥当するというだけなのだが、ChatGPTのAIのように、それ自体が巧妙に人間を演じるネットワークに繋がったインタラクテイブな存在だという大きな(深刻な)違いがある。

非知覚の基本的な構造

 これまでに述べてきた非知覚はフロイトの系譜をひく無意識の概念とは明確に区別すべきもので、コンピューターが介在するコミュニケーションのなかのアルゴリズムやプログラムのように、人間がコミュニケーションをとる場合に相手との関係のなかで意識することがない過程を指す。ロジャー・ペンローズはいわゆる「強いAI」に対する批判のなかで、これを「無意識」と呼んでいる。私はペンローズのAI批判には強い共感をもつが、「脳の無意識の活動はアルゴリズム的過程に従って遂行される(注17)」という主張は支持しない。彼は、人間の判断形成そのものをコンピューターのプログラムに移し替えることはできないと考えているが、同時に、この意識過程の背後にあるのはある種の物理過程とみなすことによって、アルゴリズムが成立する余地があるとみている。しかし、フロイトがいう無意識は、このどちらにも属さない。そもそも人間の脳はデジタルではない。問題は、私たちさえその片鱗を夢の現象などでしか見いだせない世界や、フェティシズムや意味の剥奪を「生きる」ことができるような自己意識には還元することができない判断の背後にある非物理的過程なのである。ペンローズがいう無意識を私はむしろ非知覚と呼び、これを人間の脳の機能ではなく、コンピューターによって生成される人工的なコミュニケーションのインフラとして考えたいのだ。
 私たちのコンピューターコミュニケーションには、いくつかのバリエーションがある。

・コンピューターデバイスを所持していなくても、一方的に、動静を把握される場合。たとえば、顔認識機能を搭載した監視カメラがネットワークされデータベースと接続している場合。私はコンピューターを用いたコミュニケーションの主体ではないが、監視カメラの設置者からすれば、これもまた環境化された私とのコミュニケーションである。

・意図的にコンピューター端末を用いてコミュニケーションしていなくても、端末がコンピューターによるデータ処理過程に組み込まれる場合。たとえば、スマートフォンの電源を入れている場合、GPSをONにしている場合、COVID-19の接触者アプリをインストールしている場合、スマートメータなどIoT機器を利用している場合、パソコンのOSが自動でアップデートをおこなう場合。そして最近はほとんどすべてのテレビ。

・意図的にコンピューター端末を操作している場合で、コミュニケーションの相手が人間ではない場合。たとえば、ウェブにアクセスしてショッピングしたり情報収集する場合、サポートデスクのコンピューターとのチャット。

・意図的にコンピューター端末を操作している場合で、コミュニケーションの相手が「結果」として人間である場合。たとえばメールでの通信、SNSなどの場合だが、実際には、本当の人間なのか、コンピューターによる自動応答なのか、ボットなのかの区別がつかない場合がある。

・リアルタイムで直接人間とコミュニケーションする場合。たとえば、オンライン会議やオンライン学習の場合など。

 これらのバリエーションには共通した要素が2つある。1つは、「私」という主体の存在と、私が意識しているかどうかは別にして、これらのコミュニケーションからコンピューターという条件を排除することがきわめて困難だ、ということだ。そうであるがゆえに、いわゆるオンラインの仕組みには、私たちの動静をデータとして把握する隠された過程が必ず付随することになる。オンライン学習の場合、端末を操作する子どもたちと、これを監視する教師のほかに、オンライン学習の仕組みを提供する企業が学習支援などの名目でデータを収集しAIによる解析などを提供する。オンライン会議も、エンド・ツー・エンドの暗号化が利用できなければ、このサービスを提供する企業のサーバーで会議情報を取得することができる。メールサーバーの管理者はメタデータだけでなく、メールの本文も読むことができる。ウェブにアクセスしたときにクッキーによって自分の行動が追跡されることがあるし、Googleの地図機能を使えばGPSのデータがGoogleのサーバーに溜め込まれる。
 これらの仕組みは、いずれの場合も単に私たちの動静を把握するだけでなく、直接・間接に行動変容が意図されていて、巧妙なフィードバックの機能が組み込まれている。そしてこの機能に私たち自身が、気づかないだけでなく意図せずに積極的に加担しさえする。検索サイトにキーワードを入力して検索結果を表示させるとき、表示の並び順が検索サイトのビジネスモデルによって操作されていることなど気づかない。たとえば漠然と私が買いたいと思っていた靴に対して、検索結果に表示された靴を見て私の気持ちが引かれることがある。紙のカタログを見て気持ちが変わることと同じような結果にみえるが、ネットの検索は、私の行動を把握して表示を変えることができる。紙のカタログの場合は、カタログのメッセージを受け取った私という主体の内部で、私との閉じられたコミュニケーションが展開されるが、ネットでは、このコミュニケーションの一部が外部化され、私は、私の意識にはのぼることのないコンピューターのアルゴリズムが生み出したコミュニケーションの結果を自然な結果と感じて受け取ることになる。人間がコミュニケーションのインタラクティブな過程をもっぱら人間関係として構築してきたのに対して、コンピューターコミュニケーションがこの関係に介入して「他者」を僭称する。このコミュニケーションに人間の言語活動だけでなく、コンピューターのアルゴリズムやプログラムが関与しているにもかかわらず、私たちはこれを「人間の」言語活動の結果であるかのように理解(誤解)してしまう。コンピューターには言語活動はなく、従って意識もないし無意識もないわけだが、私たち人間の側が、これをある種の意識過程とみなして取り込んでしまうために、コンピューターは「他-者」になってしまう。逆にコンピューターの側からは、私たちはデータ化されるかぎりで言語活動そのものであり、それだけのものであり、それこそがコンピューターにとっての私たちの「意識」それ自体である。こうして、私の知りえない私についての膨大なデータに基づいてコンピューターによって構築された私の意識を私が私の意識として受け取ることによって、私の意識に組み込まれる。コンピューターのフェティシズムが私の自我に取り込まれる。これが資本主義的な生産様式による機械に支配された近代が生み出した「個人」という観念の完成形態なのかもしれない。コンピューターフェティシズムは人間についての間違った理解に基づいたものだ。しかし、残念ながら理論的な間違いによって社会システムは自壊しない。存在するはずがない神を実在のものとみなす統治機構は人類史のなかで珍しくない。天動説の間違いで社会が解体したこともない。地動説の間違いも同様だ。私からすれば、支配的経済学を前提として市場における行動が構成されていること自体が間違いだが、そうであっても市場は機能する。人間は科学的な「正しさ」に還元できないのだ。社会を構成する力は、間違いを正しいこととして真理とみなす説得力を獲得することによって維持される。
 ネットの双方向の世界は、同時に、この双方向コミュニケーションを前提とした権力の側のコミュニケーション制御のバリアの再構築をもたらし、双方向の外観の下に隠されたデータの流通をみると明らかなように、私たちのデータが資本や政府によって一方的に取得される構造になっていて、双方向ではない。彼らは多くのトラッキングの手段をもっているが、私たちは、資本や政府をトラッキングする手段をもっていない。つまり私たちは相変わらずコミュニケーションを制御する主導権を奪われたままだということである。ただしマスメディアの時代のような技法で私たちを情報の受動的な受け手の地位に押し込めることができなくなったために、彼らは、人間相互のコミュニケーションの双方向性にもかかわらず、私たちへの制御の力を維持する新たな回路を構築した。これが非知覚過程だ。
 非知覚は、主体である「私」に属するのではなく、コミュニケーションの構造が生み出すもので私の外部にあってコミュニケーションに不可欠な過程だ。人々から隠されていたり、知りえない過程がコミュニケーションに付随するようなことは、コンピューターコミュニケーション以前から様々な形で存在はしていた。文字を読むことができる人が一部の特権階級に限られているような時代には、文書が構成するコミュニケーションの世界は、庶民にとっては隠された過程であるにもかかわらず、その影響を受けざるをえないものだった。文字による知識の流通は、ときには意図的に知識伝達を制御するために、不特定多数から隠されたり、理解に必要な言語能力を意図的に奪うことによって、隠された過程が構築された。理解不可能な領域が隠されるなかで、こうした領域そのものの存在を人々が日常生活で必要なものとはみなさなくなる。電信や電話のメカニズムをほとんどの利用者は知りえないままであり、この通信技術の領域は隠された過程を形成していた。コミュニケーションが確立しているとしても、当事者の意図しない仕組みが組み込まれることはありうる。盗聴はその典型的な例になる。

隠された過程と非知覚過程

 こうした隠された過程、あるいは不可視の過程と、私がここでいう非知覚過程の決定的な違いは、コンピューターコミュニケーションが関与するその仕方にある。私と他者の間のコミュニケーションを媒介するコンピューターは、同時に、メタデータやクッキー、さらには膨大なビッグデータに基づいて私の情動や世界についての理解を制御しようとする。ここで、私のコンピューターとネットワークで接続されたコンピューターが相互にデータのやりとりをしながら私の意識に作用する全体の構造=非知覚過程が形成される。現代のコミュニケーションのなかでコンピューターコミュニケーションが占める割合は無視できない規模になっている(注18)。私のなかで形成される「意識」の何割かは、コンピューターが生み出しながらも他者の言動と融合して他者そのものの言動とみなされて受け取られる。たとえば、私が自分の仕事について「うまくいかなかったな」と反省しているときに、友人が「いや、いい仕事したよね」と評価してくれるとき、私はこの言葉に影響されて自分の仕事を「もしかしたらあれでよかったのかもしれない」と満足するように心変わりするといった場合の友人の評価が、友人自身のものなのか友人のコンピューターがデータに基づいて下した評価の結果なのかは、私にはわからない。こうした会話で得た自分の満足と他者の満足の間のちょっとした、しかしもしかすると根本的な違いこそが「他者性」そのものの意味づけだといえるのかもしれないのだが(注19)、その他者による私の評価がコンピューターのAIアルゴリズムがはじき出した評価に影響されているかもしれない、というややこしい事態を、私は純粋な私と人間としての友人の相互関係に還元することはできない。
 あるいは次のようなシチュエーションで考えてみよう。友人に「この近くでおいしいラーメン屋ないかなあ」と話したときに、友人が「それならGoogleで検索してみよう。○○がおいしいらしいよ」と答える会話にも非知覚過程が関与している。友人がGoogleで検索したとすると、Googleは検索行動を把握して、Googleのビジネスにとって最適な広告を表示する。Googleのアルゴリズムが非知覚過程でおこなうコンピューター相互のコミュニケーションが、最終的に人間が理解可能なものとしてディスプレイに表示されることで、友人や私の意識に作用することになる。ここでは資本としての利潤最大化を企図したGoogleの恣意的な操作が介在するが、多くの場合、これを恣意的な操作ではなく、検索は百科事典で調べものをするように客観的な配列の表示であると誤認され、「私」とネットのコミュニケーションの自然で客観的な帰結だと感じてしまう。この一連の検索行動などのやりとりをChatGPTはコミュニケーションとして組み立てることによってより人間相互のやりとりに近づけた。これは、コンピューターが、プログラム言語ではなくて自然言語を用いることによって自然なコミュニケーションを偽装することによって、「私」の選択が「私」の自発的な意思によるものであると誤認させる仕掛けにもなる。こうすることによって、コンピューターは選択の正統性を担保しようとする。あなたの選択はあなたの自由意思の結果であり、ここには誰かの恣意的な意図は介在していない、という体裁だ。AIが自然言語を偽装する技術を習得すればするほど、こうした誤認は広がるだろう。そして、AIが新聞記事を書くまでになっている現在、非知覚過程がより洗練されたプロパガンダの回路となって私たちの偏見や差別や憎悪を私たちの自然な感情であるかのようにして発現させることになりうる(注20)。
 コンピューターのアルゴリズムが私や友人の意識に不断のフィードバックを伴いながら作用するとき、もはや自己と他者の「満足」をめぐる関係は、それだけで完結せず、その背後にある種の「中間者」が介在してコミュニケーションを歪めるように作用する(注21)。私や友人が感じる満足は、コンピューターコミュニケーションによる非知覚過程が介在してコミュニケーションを歪めた結果かもしれないのだ。友人の言動から受け取ったメッセージにはデータ化された私についてのプロファイリングが影響している可能性がある。しかし、私はそうは考えずに、まごうことなき友人のメッセージとして受け取る。他者と私の関係のどこまでが純粋な人間相互の関係であり、どこまでが人間と機械の関係であり、さらには機械と機械の関係が生み出した結果なのかはもはや不分明になる。明らかなことは、非知覚過程に介入してある種の「中間者」になれる者は限られていて、私も友人も「中間者」にはなれない。非知覚過程は資本と国家が形成してきた双方向のコミュニケーションを、非対称的に制御する構造化された過程である。学校の教師や職場の上司が下す評価にはこうしたAIが介在した評価の要素が混在することは稀ではない(注22)。
 こうした非知覚過程は、完全に秘匿された過程ではなく、意識化される可能性は常にあり、Googleを広告媒体として使うビジネスサイドにとっては非知覚過程ではなく、むしろ意識的に追求すべき過程になる(注23)。非知覚過程はこの意味で非対称であるが、常に資本あるいは国家の側は目的意識的に対象を制御するための手段としてこの非知覚過程を利用する。この非知覚過程は、Googleのような資本が情報コミュニケーション資本として、それ自体がフェティズムの対象になることによって、たとえ消費者がこの非知覚過程を意識化させたとしても、そのことを非知覚過程が実現した自然な自分の自由意思による選択という錯覚をそのまま受け入れることになる。資本のフェティズムという問題は、貨幣に還元するよりもむしろ資本が提供する商品の使用価値や、サービスにこそ当てはまるものだ。

5-3 資本と国家による意識の実質的包摂――資本主義のユートピア、私たちのディストピア

さらにその奥にあるフロンティアとしての無意識

 資本と国家による人々の意識と行動の制御の手段は、時代によって異なるが、目的は支配の再生産にあり、資本にとっては安定的な蓄積を可能にする労使関係と市場の需要動向のより精緻な予測と消費者欲望の制御にあり、国家にとっては統治の正統性を支える「国民」意識の再生産である。人々の心をどのようなものとして認識するのかによって、この制御の戦略は大きく変化する。現代の制御の戦略は、コンピューターが解析可能なものとしての心に解決策の決定打を見いだそうとしている。
 非知覚過程が人間の意識と密接に絡み合い、しかもこの非知覚過程はコンピューターによるデータ処理のフィードバックメカニズムによって目的意識的に人間の意識それ自体、あるいは心理そのものをターゲットにして作用することを目的に開発されている。私たちの意識や心理の自覚可能な領域を基礎にした人間関係が社会関係の基礎をなすという暗黙の社会認識理解はもはや成り立たない。関係としての社会が人々の意識や認識を超える社会構造をもつことと、いま私が非知覚過程として論じていることとは同じではない。問題は「人間」と「機械」を明確に区別する境界そのものが曖昧になることだが、この曖昧さは、ドゥルーズ=ガタリが言うような意味での「機械」(欲望機械)とも異なる。一定の目的をもって機械的に処理可能なデータがコミュニケーションの内部に組み込まれることによって、この全体の構造のなかに私たちが身体性そのものとして統合され、人々の情動に影響を与えるということだ。だから問題は、この身体性の統合からどのようにして私たちが自らの身体性を剥し、私たちの無意識の領域をどのようにして防衛するか、である。あるいは社会的な集合としての私たちが、様々な集団を通じて形成する集合的な意識がこうした非知覚過程から受ける影響をいかにして回避できるか、という問題でもある。私たちにとって機械に対して有利な条件は、データ処理の前提となるコンピューター科学の人間観のなかには「無意識」などという概念は存在しないために、この概念は逆に私たちが反撃するための根拠地にもなりうるということだ。労働と価値の関係を排除してマルクスの剰余労働=価値論を否定した支配的経済学と同様に、ここに資本主義批判の理論的真空地帯が生み出されたということだ。この点で、意味の剥奪と再付与の関係がもたらす身体性の搾取にとって、無意識は意識過程が非知覚過程を通じた制御の支配下に置かれかねないなかで、この非知覚過程に対するある種のジャミング効果をもたらす可能性をもっている。無意識の領域は、解放と抑圧の弁証法そのものの領域でもあるが、同時に、道具的合理主義とは真逆な構造的歴史的に構築された「私」のコミュニケーションに内在するデータ化しえない残余あるいは過剰としてのコミュニーションであり、意味の剥奪を免れる可能性がある領域であり、同時に、現実の世界が私たちに強いる法を超越する道徳と倫理の規範に対する抵抗の潜勢力の源泉でもある。フロイトが自我と無意識の弁証法として、内面の闘争として論じた問題は、同時に、家族と性にまつわる資本の抑圧を甘受するようにプログラムされた生育システムという一次的な社会関係抜きには成り立ちえない問題でもある。ライヒやアドルノは、ここに権威主義的なパーソナリティの根源をみようとした。
 しかし、このことは「私」ひとりの実践によっては不可能であって、ある種の集合的な挑戦が必要になる。このとき、非知覚過程が、おしなべて誰にとっても「非知覚」として作用するわけではなく、重複するレイヤーのなかで、人々がコミュニケーションに関与するあり方によって、非知覚過程は異なる。一般のネットユーザーよりもサーバーの管理者やセキュリティの専門家の方が認識可能なコミュニケーションのレイヤーは多くなるだろう。しかし、そうした専門家は、そうではない一般の人々ほどにこの資本主義社会の非知覚過程がパラマーケットと協働して引き起こす身体性の搾取の実感を生きているわけではない。むしろ非知覚過程を意識的に操作できることがある種の特権と意識されることによって、彼らは、支配的なシステムの側に加担させられるだろう。他方で、プログラミングの生産過程が社会的分業を構成するような現代では、技術をブラックボックスにしたまま他社にAPIとして提供するような関係が当たり前になることによって、実際に非知覚過程を構成するCTCの全体は誰にも理解できないものになる。彼らがどのようにして自らの身体性の搾取に気づき、そこからの解放の必要に気づくかどうかは、むしろ非専門家の社会への異議申し立ての運動が彼らと出会うことで果たされるだろう。非知覚過程は、個人や組織――たとえ国家であっても――が総体としてこの過程を制御することはできない。そうするにはあまりにも複雑で巨大であり、また、国境を超えたテクノロジーの網の目に依存しているからだ。

非合理性という問いと社会の構造的一貫性

 資本主義が機械・計算合理性を基軸に社会を設計せざるをえないという限界は、資本主義の本質に関わる性質であって、この問題を資本主義内部で解決することはできない。常に資本主義は、人間の非合理性(あるいはときには自然の非合理性)を合理的=科学的な理解を通じて制御可能な対象へと転態させて制度の維持を図ってきた。
 コンピューターによるデータ処理が計算合理性に支えられているという問題は、ここで処理されるデータそのものが科学的知見とされる手法を用いて、憶測、偏見、差別などを問題視することなくプロファイリングに組み込むことによって、「彼ら」が個人のアイデンティティを再定義するという問題に結び付いている。しかし、非知覚過程の構造を規定するアルゴリズムやプログラムに組み込まれたこうした資本主義的な偏向に対して、問題を自覚することができる技術者たちは、資本の組織内部で抵抗の潜勢力をもつ主体となる。これは技術決定論よりも技術者の非技術的な問題意識、つまり、表現の自由やプライバシーの権利、差別主義の拒否、利潤を人権よりも優先させる資本の論理への拒否といった権利意識がその引き金になるものでもある。こうした領域は人間であれば社会認識全体に組み込まれて、世界観の一部をなすが、コンピューターには人権意識は存在しないから、アルゴリズムやプログラムに意識的に組み込むことを人間が指示してやらなければならない。資本は技術者の労働を細分化したりAPIを導入するなど、アルゴリズムやプログラミング労働をより一層自動化しようとする。いわゆる内部告発者として登場する多くの技術者たちに対して、資本の要求を内面化して仕事をこなす技術者たちが圧倒的に多いからこそ、資本主義的な偏りが支配的になる。
 問題の核心は、非合理的なものの計算合理性による再構成を通じて制御可能なものにしようとする権力技術が、資本主義の構造的再生産という枠組みのなかで実現されてきたということ、そしてこのなかに搾取という主題の転換もはらまれている、ということだ。伝統的なマルクス主義理論の搾取理論は、搾取の全体理論から部分理論へと位置づけなおさなければならない。これは、マルクスの限界という問題ではなく、マルクスによる搾取の暴露と労働者の組織化による抵抗が、資本による生産性の向上=機械化を促し、工業化による搾取に加えて、ポスト工業化の搾取のフロンティアとしてのコミュニケーション領域が20世紀後半以降次第に射程に入るようになったことによって、搾取の問題が、使用価値を巻き込む生活世界、つまり〈労働力〉再生産と家族制度を含む意味の再構築、言い換えれば身体性の搾取という領域を生み出したのだ。その結果として、搾取という事態そのものの全体像を描き直すことが必要になってきた、ということでもある。搾取は剰余価値と価値の量的な問題から使用価値の消費を通じたコミュニケーション〈労働力〉の再生産の質的な問題へと拡張されてきたのである。
 私たちは、様々な分断と敵対的な亀裂のなかで資本と国家によって再定義された「人間」として生きる以外の選択肢を奪われてきた。この定義は、言語のカテゴリーとして一次的には与えられるが、現実の世界では、私たちの身体性そのものを通じて日常的な行為のなかに、資本にとっての人間=〈労働力〉と国家にとっての人間=国民との組み合わせとして体現される。だから、私は、資本主義で人々が〈労働力〉になるという場合も、国民的〈労働力〉になるのだ――だからこの周辺に移民の〈労働力〉が差別的に配置される――、ということを強調してきた。私たちが何から解放されるべきなのかといえば、それはこのナショナルな〈労働力〉として再構成されている身体性を、資本と国家によって与えられたカテゴリーの檻から解放することにある。行為の意味の剥奪と資本と国家による行為の意味付与という関係のなかで、私たちは、マルクスの剰余価値(市場経済的な搾取)の問題だけでなく、マルクスの概念を用いれば、必要労働そのものの「必要性」の欺瞞の主体として資本に加担させられている私たちの行為それ自体からの解放をも視野に入れなければならない。必要労働と剰余労働の概念上の区別が資本の価値増殖の根拠を与える重要な観点だが、同時に、具体的有用労働を通じて形成される商品の使用価値が、その消費過程を通じて人々の世界観や価値観を再生産するという使用価値のイデオロギー効果を視野に入れる必要がある。そして、これは、価値が時間の概念であるという側面から語るとすれば、私たちの生きる時間の総体を、その意味で解放することが含意されることになる。


(1)「出版は、諸個人が彼らの精神的存在を伝達するためのもっとも普遍的な方法である」、カール・マルクス「第六回ライン州議会の議事(第一論文)」全集第一巻、83ページ。また「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」も参照。
(2)19世紀のイギリスでは、出版物の著者が匿名や偽名であることは珍しくなかった。大谷卓史「匿名文学と匿名言論」情報管理 55(8),603-605,doi: 10.1241/johokanri.55.603(http://dx.doi.org/10.1241/johokanri.55.603)
(3)ジョージ・F・モッセ『大衆の国民化』(佐藤卓己、佐藤八寿子訳、ちくま学芸文庫)は、マスメディアへの言及はないが、感情の組織化にとってシンボル政治が果たした役割を分析した研究として重要である。
(4)欧米では人種差別的な捜査機関や裁判の経験からの警察廃止運動の議論が参考になる。最近の議論としては以下を参照。Mariame Kaba, Andrea Ritchie, No More Police : A Case for Abolition, The New Press.
(5)この合理性の残余をどのようにして政治過程に組み込むかという問題に対するひとつの実践的な解答が、広義の意味でのファシズムであり、高度に合理的で科学的な構成と非合理的な神話的な構成がある種の弁証法構造として資本と国家を支えた。この意味で、戦後日本の憲法がその冒頭に統治の非合理性の典型ともいえる象徴天皇制の規定を残したのは、戦後日本が一貫して道具的合理主義を徹底することができずに、非合理性を正当化する余地を支配の一角に与えたといえるから、このこと自体がファシズムとしての資格を十分にもつものだと言うことさえできるかもしれない。
(6)フロイト『ある錯覚の未来』、全集20巻、4ページ。
(7)小倉利丸「売買春と資本主義的一夫多妻制」、『絶望のユートピア』、桂書房、所収
(8)https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/is_sc/page25_001966.html
(9)たとえば、国連テロ対策事務局(UNCTED)の支援で2017年に設置されたTech Against Terrorism https://www.techagainstterrorism.org/project-background/
(10)意味の剥奪という概念は、誤解を招きやすいので付言する。資本主義では人間の行為の意味が資本と国家によって剥奪され、この剥奪によって生じる空白を資本主義的な意味が埋める。ここに商品の意味使用価値が果たす役割がある。しかし、私は剥奪される前に何か行為の原意味とでもいうべきものが存在するとは考えていない。人間は資本主義社会のなかで生まれ、この社会が制度化した人間関係を通じて意味を習得する。この点でいえばあらかじめ剥奪された意味しか存在しないともいえる。来たるべき社会のなかでこの剥奪された意味を創造的に回復する以外にない。原意味のようなものが存在するという場合、これが剥奪ではなく抑圧であると考えることもできるかもしれない。この意味はどこに抑圧されるのだろうか。もしこの抑圧が無意識へと抑圧されると仮定すると、この抑圧からの解放とは単に原意味の回復ということにしかならない。無意識をこのようなものとみなすことは、結果として、現にある資本主義に対する根底的な否定への回路を認めないことになる。意味は奪われるのであり、これを奪い返すのではなく、そんなものは彼らくくれてやり、私たちは一から意味を創造する道を選択すべきだろう。
(11)the facebook files, Wall Street Journal, https://www.wsj.com/articles/the-facebook-files-11631713039
(12)アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』田中三彦訳、ちくま学芸文庫、参照
(13)マルクスが論じた資本の流通過程は、もっぱら生産物の直接的使用価値に即した概念であって、コミュニケーションが労働化し、意味使用価値が商品の使用価値の不可欠な要素になるにつれて、流通過程は生産過程の延長となり、その労働もまた生産的労働となる。
(14)たぶん、万国博覧会のようなメガイベントや国別のパビリオンに固執するベネチアトリエンナーレのような芸術のなかに端的にみることができるだろう。
(15)ヒューバート・ドレイフェス『純粋人工知能批判』、p.39
(16)たとえば、右の動画を参照。https://tube.connect.cafe/watch?v=j6bNVqe_1xY
(17)『皇帝の新しい心――コンピュータ・心・物理法則』林一訳、みすず書房、461ページ
(18)2015年の情報通信白書(第1部第2節)では、身近な友人や知人とのコミュニケーションに占める電子メールやメッセージングアプリ等のICTサービスが約3割を占めるようになっている。https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc122330.html。インターネットの利用動向については総務省の通信利用動向調査に各種のデータがある。https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/statistics05a.html
(19)ジャック・ラカン『自我』(下)XIX「大文字の他者の導入」の例示を念頭に置いている。言い換えれば、コンピューターが介在するコミュニケーションは、ラカンの図式には収まらない問題を引き起すということだ。ラカンのサイバネティクスの議論は非知覚過程を見逃している。
(20)2017年、「ワシントンポスト」やAP通信がAIによる記事作成をおこなっていると報じられた。「AIが新聞記事を書いてみた 執筆1秒、でも設定は人間」「西日本新聞」https://www.nishinippon.co.jp/item/o/304013/。APが導入したのはAutomated InsightsのWordsmithだ。このシステムは日本ではデリバリーコンサルティングが代理店となっている。
(21)ここでいう「中間者」とは、暗号理論でいう「中間者攻撃」にヒントを得た概念である。哲学でいわれる「中間者」とは関係がない。
(22)キャシー・オニール『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』久保尚子訳、インターシフト、参照
(23)「Google広告でビジネスを拡大しましょう」 https://ads.google.com/intl/ja_jp/home/

 

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堀口大學が経験した「異国」――『異国情緒としての堀口大學――翻訳と詩歌に現れる異国性の行方』を書いて

大村梓

 子どもの頃から読書が好きだった私にとって、本を出すのはずっと夢でした。周りに出版や創作に関わる仕事をしている友人が多いのもあって、何かを作り出して自分の名前で世に出すのは身近なことでした。そうはいっても自分がその当事者になると、本一冊を出版するのはこんなに大変なのか、と思いました。
 私は主に日本近現代文学、比較文学を専門として大学では講義をおこなっていますが、もともとはどちらかというと外国文学、翻訳文学を好んで読んでいました。母親が読書好きだったこともあって、小さい頃から家には本がたくさんありました。本棚に置いてあった『チボー家の人々』の黄色い表紙をいまだに覚えています。十代の頃に好きだったのはフランスの作家であるジュール・ヴェルヌの作品で、まだ見たことがない世界への憧れを抱いていました。高校は帰国子女や在京外国人の方が多いところを選び、大学院ではオーストラリアに留学し、その後、さまざまな国からやってきた同僚が多くいる職場で勤務したこともあり、異文化を身近に感じて過ごしてきました。おそらくそういった長年の経験から自分のなかで「日本」に対する認識も変わっていったのだと思います。そういったこともあり、翻訳家・詩人・歌人である堀口大學の活動により関心をもつようになりました。インターネットもない時代に海外に在住していた堀口は、どのように異国での生活を受け止めていたのでしょうか。堀口はそんなに詳しく異国での自分の経験について述べる人ではありませんでした。私たち読者は短い随筆、短歌や詩から、堀口が経験した「異国」をうかがい知ることができます。
 私もいまでこそ外国の友人も多く、海外に渡航することも多いので、もうカルチャーショックを感じることはほとんどないのですが、思い返してみれば十代の頃はよくカルチャーショックを感じていたような気がします。比較文学・比較文化の研究をしていることもあって、異文化にふれたときに自分のなかの固定観念や思考の枠みたいなものに気がつく瞬間を、非常に興味深いと感じます。もちろん私たち研究者・教育者はすべてのものに対して公平な態度で接したいと考えています。しかし一方で、自分の考えには固定観念や思い込みがあるのではないか、と常に自分を振り返るように職業上なっているような気がします。そういった自分のなかの固定観念や思考の枠に気がついたときに、まだまだ勉強しないといけないことがある、と研究を続ける理由にもなっています。
 本書で取り扱った翻訳文学という領域は、さまざまな要因が複雑に絡み合ったものです。翻訳は必ず読む誰かを想定しておこなわれます。自分が読むために翻訳する場合でも、誰かのために翻訳するためでも、そこには読む人がいるから翻訳するという目的が存在します。そして翻訳は翻訳に用いられる言語の制約にとらわれています。人によってはその制約をわずらわしいと思うかもしれません。しかし私はその制約がむしろ面白いと思います。そういった制約のなかでどれだけ試行錯誤をこらして、新しい文章を作り上げることができるのか。そういった苦心の跡を、本書では明らかにしたいと思いました。
 また、私たちは必ずしも自分が考える自分ではない姿で他人に受け止められていることも多いです。私はそれが面白いと思うタイプの人間ですが、みなさんはどうでしょうか。特にそれを顕著に感じるのが、日本で日本文学について語っているときの「私」と海外で日本文学について語っているときの「私」は、明らかに求められるものも、認識のされかたも異なるということです。具体的にいえば、日本で日本文学について語るときは外国での日本文学のとらえられ方についてふれながら話すことが多く、海外で日本文学について語るときは現在の日本文学や日本文化のあり方についてふれながら話すことが多いです。そういった求められているものの違いに気を配りながら研究者生活をおこなうことは、私にとっては興味深いことです。堀口も自分の日本文壇での役割と海外での役割の違いについては非常に敏感に感じ取っていたようです。そういった複数の顔をもっている自分、というものをどのように受け止めていたのか、という視点も本書では重要なポイントになってきます。
 本書を読んで、実際に自分も海外に行き、自分の異なる面を発見し見つめ直してみたいと思っていただけたのであれば、きっと本書に書いたことをよく理解していただけたということなのではないかと思います。

 

第41回 『宝塚イズム46』宙組トップコンビに贈る特集と「すみれコード」

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 宝塚愛にあふれる『宝塚イズム46』(薮下哲司/橘涼香編著)が発売されました。今号は2023年6月に退団する宙組トップコンビの真風涼帆、潤花にスポットを当てて特集を組んでいます。真風は06年初舞台の92期生。今年で在団18年目、トップ就任5年を超え男役として円熟期を迎えたスターです。20年からのコロナ禍で公演スケジュールが大幅にずれこんだ影響で、在任期間が延びた間にすっかり貫禄もつき、いまや宝塚を代表するトップ・オブ・トップスとしての存在感も漂わせてきました。
『宝塚イズム46』ではそんな真風のデビュー当時から星組の新人時代、宙組での二番手時代から宙組トップの現在までの魅力の変遷を様々な角度からフォーカス。加えて相手役の潤花との奇跡の巡り合いによるコンビの相性論までもれなく網羅しています。
 真風は、入団当初から、スラリとした長身と当時人気だった雪組のトップスター水夏希に似たすっきりとした容姿で一躍注目を浴び、星組に編入されてすぐ新人公演の主演に起用されるなど、正統派貴公子タイプの男役として早くから劇団の期待を一身に担い、その後も順当に推移して宙組のトップスターに就任しました。いかにも宝塚の男役らしいスターなのですが、トップになってからの作品群に真風ならではのこれといった代表作がなく残念に思っていた矢先、サヨナラ公演の演目がイアン・フレミング原作による007シリーズ第1作『カジノ・ロワイヤル』(脚本・演出:小池修一郎)の舞台化に決まり、真風がどんなイギリス諜報員ジェームズ・ボンドに変身してくれるのか期待に胸が弾みます。
 そんな真風に新年早々とんだ逆風が吹き荒れました。昨年2022年の暮れ、ポスト小池修一郎の一番手的存在だった若手演出家・原田諒氏に、宝塚歌劇団から阪急電鉄への突然の異動辞令が出たことがきっかけで、某週刊誌がその理由を原田氏のパワハラが原因だったと報道し、結果的に原田氏が退職、決まっていた外部の仕事からも名前が消えるという騒ぎに発展しました。劇団はその事実を調査しながら内部で処理したのが裏目に出てしまいました。同週刊誌はその第2弾として1月に入って真風の娘役に対するいじめ疑惑を報道、ファンの間でまたまた大きな波紋を呼んだのです。
 記事は1月10日、真風が東京国際フォーラムホールCでリサイタル『MAKAZE IZM』(構成・演出:石田昌也)の初日を開けたばかりのタイミングで掲載されたことから、記事が出た翌日に真風が舞台上からファンに向けて「お騒がせしてすみません」と謝罪する異例の事態となりました。笑顔で記事の内容を否定、その誠実な対応ぶりに真風への同情が集まり、逆に好感度がアップ、いつにない劇団の対応の素早さに驚かされましたが、逆風を見事にかわしたのは喝采ものでした。
 宝塚は創設以来「清く正しく美しく」をモットーに、観客にひとときの間、美しい夢を提供することを第一に、内部をベールで覆い「すみれコード」といわれる自己規制でマイナスイメージになるものから守ってきました。ただ、コンプライアンスが重要視される昨今、これが内側から崩れてきていることが、先の2件で明らかになってきました。イメージを守ることの大事さはよくわかるものの、宝塚ももう少し開かれた感覚で物事を推し進める時代にきているのではないか、今回の事件の教訓としてそんなことを思った次第。このままではまた同じことが繰り返されるのではないかと杞憂するのです。
 さて『宝塚イズム46』ですが、真風×潤のサヨナラ特集のほか、2022年12月末で退団した元雪組の娘役トップ朝月希和への惜別と彼女を受け継いで2月の御園座公演からトップ娘役に就任する夢白あやへの期待も小特集でつづり、加えて各組の公演評、新人公演評、OG公演評なども充実。OGインタビューは元月組トップスター霧矢大夢と元雪組娘役トップ咲妃みゆという珍しい組み合わせによる対談形式のインタビューです。イギリス・ロイヤルシアターの日本初演ミュージカル『マチルダ』にかける2人の意気込みが、タカラジェンヌ同士の楽しい語らいのなかで浮かび上がります。ぜひご一読ください。

 

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「紙」出身者がブログで起こした小さな奇跡――『フードライターになろう!』を出版して

浅野陽子

 出版から約1カ月たちました。私の日常に大きな変化はなく、今日もメディアの片隅で食の取材をし、文章を書いています。
 とはいえ、一人の職業ライターから本の「著者」になったことで、出版前には決して味わえなかったミラクルや感動が、少しずつ起こっています。
 たとえば、紀伊國屋書店新宿本店にある、食関係の本や料理書がぎっしり並ぶ専門フロア。フードライターとして駆け出しのころから、何度足を運んだかわかりません。
 その売り場で最も目立つコーナー、「dancyu」「料理王国」各誌の最新号が積み上げられている真ん中に、本書『フードライターになろう!』の山(しかもポップ付き)を見つけたときは、胸に迫るものがありました(青弓社のみなさまをはじめ、最高の表紙イラストを描いてくださった藤本けいこさん、素敵なブックデザインをしてくださった和田悠里さん、本当にありがとうございました。オレンジ主体の表紙は売り場でひときわ輝いていました!)。

 また、本を読んでくれた友人・知人、直接面識のないSNSのフォロワーさんから、
「面白い」「役に立つ」のほか、
「食ジャンルに限らず、取材して書く仕事をする全ライターに必要な情報が詰まっています」
「まさに探していたテーマの本に出合え、予約してから読破するまで楽しめました」
「どのページからも仕事への思いが伝わり、いまの自分自身をも見直す機会になりました」
など、いまのところは大変ポジティブな感想をいただいており、そのたびに自分でも読み返しちゃったりして(笑)、悦に入っています。

 しかし、本を出してわかった最大の発見は「自分が何者であるか」に気づけたことでした。「はあ?フードライターだから『フードライターになろう!』って本の依頼がきたんでしょ」と突っ込まれそうですが……。
 実は、長年この仕事を続けながらも、私は「自分が何の専門家か」がわからず、フワフワしていました。メディアに注目されるフードライターさんは「ラーメン」「カレー」「フレンチ」「肉」「スイーツ」と、それぞれ得意なジャンルをおもちです。

 でも私は日本国内で食べられるすべての料理、食材、酒が好きで、絞れませんでした。そして、食の取材ならどのジャンルでもそこそこ書けてきました。要は、器用だけれど特徴や個性がない、“何でも屋”フードライターだったのです。
 しかし、出版後、本の現物を見せたり、SNSのアカウントに書影の画像を貼ったりしていたら、「食の文章が得意な人」と認識されるようになりました。
 そこで、「おいしさを伝える書き方」や「食の文章がうまくなる方法」をSNSで短く発信すると、急に「いいね!」が付き始め、フォロワーも増えていったのです。
 そういえば、過去10回出演したテレビ番組で、共演したタレントさんやディレクターさんに「浅野さんの食レポは違う」となぜかほめられてきたことも思い出しました。
 そうか、私はフードライターの原点である「食×文章」そのものを個性にすればいいんだと。
「食とSNS」は親和性があり、「おいしかったー」「この店のこの料理がうまい!」と画像付きで発信する人はたくさんいます。ですが、過去に味の表現や料理人への取材術、原稿の書き方を一人で統括的にまとめた人は、プロのフードライターを含めてたまたまいなかった。ラッキーでした。

 ちなみに、この本は依頼をいただいてから1年間かけて書き上げました。執筆中は、自分にとって身近すぎる、いつもの仕事の話なので自信がもてませんでしたが、最後の校正で自分の書いた全15万字を一気読みしたら、案外面白かった。「20年同じことをやり続けたら、誰のどんな体験も一つの価値になるんだな」とも思いました。
 出版に必要なのは、原稿用紙300枚あまりの文字量を書ききる体力と気力があるか、そしてお金を出してそれを読みたい人がいるか。つまり「市場(マーケット)」があるかです。
 そこに市場があるかは誰にもわかりませんが、まずは発信しないとチャンスは生まれません。本書も私のブログの「フードライターになるには」という記事を青弓社の方が見つけてくださったのがきっかけです。食をテーマに出版したいと考えている方は、とにかく発信することをおすすめします。

 日本では少子高齢化が加速しています。本気で世界を「お客さん」にしないと、日本人の豊かな生活は立ち行かなくなると私は焦っています。日本のアニメや漫画、“Kawaii(カワイイ)”文化は人気ですが、「食」という素晴らしい資産は、世界にいま一つアピールできていません。
 本にも書きましたが、本書をきっかけにプロとして食の発信をする人の輪が広がって、「日本の食と酒を世界一のコンテンツにする」のが私の夢です。
 実はそのための、次の本のネタも考えています。またお目にかかれる日がありますように。

[ブログ]
「フードライター浅野陽子の東京美食手帖」
https://asanoyoko.com/

 

既視感?――『戦時下女学生の軍事教練――女子通信手と「身体の兵士化」』を出版して

佐々木陽子

 いまから80年以上前、太平洋戦争が勃発した日の女学生たちの興奮や熱気が、元女学生の語りから伝わってきた。日米開戦を知ったとき、校庭に集まった生徒も教員も異様な熱気に包まれたとのことだ。なかには、裏付けがない勝利への確信だけではなく、漠とした不安を抱いた者もいただろうが、異様な熱気はこうした不安や混沌とした思いを吹き飛ばすに余りあるものだったようだ。あの異様な興奮を昨日のことのように思い出すと語った人もいた。
 戦争勃発によって平和は簡単に壊すことができても、戦争を終わらせ平和を再生することは難しい。2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻で始まった戦争の泥沼化を見れば一目瞭然だろう。いま、日本では、北朝鮮によるミサイルの連続打ち上げ、中国による台湾への武力侵攻の恐れなどの不安定要素を理由に、日本の「専守防衛」が標語にすぎないことを明かすかのように、防衛費拡大のタガが外される方向へと動きだした。日本は「専守防衛」を掲げ「敵基地攻撃能力はもたない」と言明してきたが、自国を守るために「反撃能力」が必要だと叫び始めた。従来の規模からは考えられない防衛費の拡大を政府は打ち出し、いつの間にか、防衛費拡大の車輪が動きだした。こうした潮流を抑制することがどれほど困難かは想像に難くない。どうしてこうした変化が私たちの日常に忍び込んでくるのだろう。緊迫感漂う東アジア情勢のニュースが流され、「反撃能力」をもたなければ日本は危険にさらされると叫ばれる。私たちの政治への無関心や諦念や絶望、そして想像力の欠如の隙間に、こうした危機意識をもつことこそが現実的であるという言説が入り込んでくる。防衛費拡大の潮流ができてしまえばそれに流されていることにも気づかず、変節を変節と指摘することも困難になる。どこまで防衛費を拡大しても安全・安心が得られないことを、私たちの知性は知っているはずなのに。
 15年戦争では兵役を担う男性兵士だけでなく、本来は労働動員と無関係で学業を本業とするはずの女学生も動員が強制され、彼女らの身体は戦時国家に領有され収奪されていった。自分のものだったはずのこの身体は、いつしか当人のものではなくなっていった。だが、兵役にしても労働動員にしても、国家による国民の身体の「領有だ」「収奪だ」と叫べば「非国民」呼ばわりされる。同調圧力が強まれば、これに真っ向から抗うことは、困難にちがいない。本書では女学生の身体が軍国主義の潮流のなかでどのように変容していったかを追った。「ぜいたくは敵だ」「外地の兵隊を思え」といわれ、我慢競争のような日常へと切り替わっていき、極度な精神主義に塗り固められた教育現場では、日本が勝利することを当然視する空気が充満したという。「戦争なんか早く終わればいい」「一日でも早く家族が戦地から帰ってくればいい」という本音や実感は、いつしか語られなくなる。それどころか、戦死を名誉とみなし、靖国に祀られれば「英霊」「軍神」と称えられたが、「どうしてあれほどまでに多くの生命が軽んじられ犠牲にならねばならなかったのか」という問いは封印された。個性を失った死者は国家の名の下に祭祀対象とされ、個別のはずの死は「英霊」に総括される。本音や実感が禁句になり、「報国」「忠君愛国」という標語が満ちるとき、国家のために死ねる覚悟の国民創出に戦時国家が成功を収めたことを意味するのだろう。
 女学生の身体性が男性的なるもの・兵士的なるものに接近することが歓迎される時代が到来するとは、戦前には思ってもみなかっただろう。だが、戦争が総力戦である以上、女学生をも巻き込んで戦争は遂行された。軍事教練に励む女学生のなかには、体力第一主義の教育を嫌った者もいただろうが、一方で「女ならそんなことはするな」「女ならしとやかでいろ」という抑止的・静止的な身体性が、軍事教練などの実施によって変容していくことに解放感にも似た思いを抱いた女学生もいただろう。女性を排除した組織とされてきた軍隊にも、女性が軍属である通信手として参入し、男性通信手に代替して任務を果たした。過度な精神主義が合理的な思考、科学的知識を凌駕すれば、紋切り型の標語が充満し、実感や本音は葬り去られる。今日の軍拡の動きに照らすと、戦時下女学生の体験は、決して現在の社会と無関係なものとはいえないだろう。

 本書を一人でも多くの人に手に取ってもらい、時代に変容が生じ、いつしか潮流ができあがってしまえば、対抗が困難になることなど、現在の日本のありように思いをはせることにもつながればと願ってやまない。

 

『大麻の社会学』その後――本書と批判的犯罪学

山本奈生

 大麻規制の状況は刻々と変わっていくもので、本書を刊行してから、アメリカのバイデン大統領はやはり全米での規制を抜本的に変えようとはしなかったけれど、連邦法で収監されているごく一部の人々には「恩赦」を与えた(しかし、全米で大麻所持によって収監されている州法違反者の大部分はまだ置き去りにされている(注1))。そして、日本では「使用罪」を創設しようと、厚生労働省の規制当局が奔走しつづけているように見える。
 本書を読んでもらった方からは、大きく2つの問題関心に分かれる読後コメントを聞かせてもらい、大変うれしかった。
まず1つ目に「大麻」という書名に関心をもってくれた読者からは、時事報道に関連する話題としてというよりは、もっと身近で切実なコメントが寄せられた。ある人の「実は兄に逮捕経験があるが、しかし自分は兄が悪人だったとは全然思っていないのだ」というコメントや、別のある人の「自分自身の活動と、筆者・山本とのこれまでの交流」という問題関心から本書を手に取ってくれたというコメントがそれで、そうした読者によって、私は本書で記そうとしたすべての狙いを汲み取ってもらったのである(注2)。
 実際のところ、大麻に関する議論はただの文化史や法制史に還元することはまったくできない。逮捕され収監される人々の生について語ることなのだから、実存と不可分のテーマであるはずだと、私は思う。
 そして2つ目に、「社会学」、とくに本書序章で一応記しておいた「批判的犯罪学」という「立て看板」へのコメントをいろいろともらった。批判的犯罪学という名称は、私にとっては例えばカルチュラル・スタディーズがそうであるように、名詞というよりは動詞の意味を多く含み、1つだけに定義することが困難な、「批判的に犯罪概念と向き合う、人々の営み」の総称である。ただ共通しているのは、既存の犯罪概念や刑法制度を抜本的に批判し、そこに含まれる権力性と対峙しようと試みる姿勢ではないだろうか。
 個別分野としてみても、その批判性は論じる人々の視座によって変化し、環境破壊や公害を扱う「緑の犯罪学」であれば、エコロジー論や「住まう人々の生活視点」から、大企業こそが巨大な犯罪行為をしているとして犯罪概念を解体・再構成しようとするし、「受刑者(自身による)犯罪学」であれば、受刑者という当事者の視座から刑務所制度の痛みを告発する姿勢が含まれる(注3)。そして私は「アクティビストでもあり研究者でもある」立場から、「ストリートで生きる人々」の人生を重視して本書を記したつもりである。
 現代日本の「五輪汚職疑惑」や「政界とカルト」問題をみるだけでも、そもそも犯罪とは何か、一体誰の痛みが無視されがちで、誰の「加害」が黙認されがちなのかが、問われなければならないはずだ。そうした「そもそも犯罪とは何か」を批判的に問うてきたのが、「68年の精神」を背景にしながら、1970年以後カルチュラル・スタディーズが勃興していった時代と軌を一にして発展してきた、欧米の「批判的犯罪学」の潮流だった。私はそのムーブメントが成してきたことの一部を拝借したのである。しかし、日本ではカルチュラル・スタディーズが広範に受容されてきたのに対して、どうして「批判的犯罪学」はあまり知られてこなかったのだろうか。
 さてそれで、2022年度の日本犯罪社会学会大会(第49回)では「批判的犯罪学の視角――犯罪社会学と刑事司法制度のあり方を問う」というミニシンポが開催され、「綱領」が発表された(注4)。文章は山口毅が作成し、企画参与者がみんなで意見を出し合った「暫定的な綱領」だが、これがなかなかよくできていて、本書で私が書いた大雑把な概説よりも明快であることを認めたい(しかし、「綱領」については学会発表しなかった私も企画準備会に参加して、少しだけ一緒に考えた部分があるのだから、誰が優れているとか誰の手柄だといったことではなく、言うべきことをみんなで言ったのだと思う)。
 この「綱領」は①刑事司法と主流派犯罪学への批判的視角、②研究者の規範的コミットメントの明示と検討、③個人化の拒絶と社会の変化に対する要請の3点をとして詳細な解説がなされた。そのうちどこかで公刊されることだろう。「綱領」は「社会の問題を看過して個人に問題を押しつける抑圧的な装置のひとつとして刑事司法制度を位置づけ」てから「犯罪学は刑事司法制度を追認して正当化するイデオローグ(注5)」だとストレートに論陣を張って、犯罪学者や法曹関係者が多数くる学会で大いに論争と顰蹙を買った(褒めています。論争と顰蹙を買わない穏健な批判というのは、批判が不足しているのだから)。
 ミニシンポで問われたことの1つは、これまで特に犯罪社会学分野での「社会問題の構築」が含む問題性だった。これは『大麻の社会学』は「社会問題の構築」論ではないのだという、私の関心とも近い論点である(注6)。
 端的に言えば、犯罪と摘発といった人の生死に関わる、そして国家と権力性の重力圏にあらざるをえないテーマを扱う場合、研究者側がただ「こうやって構築されてきたのでした」としてすます姿勢を、私(たち)は首肯しかねるのである。一部の「社会問題の構築」は、常識や先入観を括弧に入れて、観察と記述に専念する。それはそれで、「普通の社会」を相対化している点でみるべき点もあるが、しかし、そこで同時に研究者自身の批判精神までも括弧に入れてしまっている部分があったのなら、それは本末転倒なのではないか。
 私がミニシンポ登壇者の1人、岡村逸郎とそれぞれの自著に関して談話した際、彼と私が言い合っていたのは一冊の本に人生の重みをかけるという営為は、どうしても実存それ自体と不可分だよね、ということだった(注7)。ここでいう実存や人生の重みというのは、何かの苦境や困難の当事者経験だけに限られるわけではないと思う。ある人が日々の人生経験を踏まえて本の山と向き合い、作者との対話を経て権力性への違和感を論理的に確信する瞬間はありえて、そうした批判的思索もまた実存の1つなのである。
 しかし、その確信を世に問う際に自己を安全圏で「私はただ観察しただけなのです」とする振る舞いは、少なくとも実存の悩みを抱く読者に何かを喚起することができるかどうか、私には疑問である。結局のところ、先に紹介した本書への読者からのコメントはどちらも、私にとっては同型の問題を別様の方法で問いかけていたのであり、筆者は今後の原稿執筆に際して、そうした「研究と実存、批判精神」の論点を幾度も思い返すことだろう。


(1)「バイデン米大統領、「大麻の単純所持」に恩赦 連邦法で有罪の6500人が対象」「BBC NEWS JAPAN」2022年10月7日付(https://www.bbc.com/japanese/63167891)
(2)筆者の旧友の白坂和彦による紹介文。「あさやけ」(https://cbdjapan.com/archives/6949)
(3) 分野各論の概説として、平井秀幸「犯罪学における未完のプロジェクト──批判的犯罪学」(岡邊健編『犯罪・非行の社会学――常識をとらえなおす視座 補訂版』〔有斐閣ブックス〕所収、有斐閣、2020年)、また山本奈生「書評 『批判的犯罪学ハンドブック 第2版』」(「佛大社会学」第46号、佛教大学社会学研究会、2022年)がある。
(4) 2022年度日本犯罪社会学会大会テーマセッションB「批判的犯罪学の視角――犯罪社会学と刑事司法制度のあり方を問う」
(5) 山口毅「批判的犯罪学とは何か――綱領作成の試み」2022年、注(4)のセッションから。
(6) この点について、学会誌での本書書評と筆者リプライにも記述がある。山口毅「書評 山本奈生 著『大麻の社会学』」「犯罪社会学研究」第47号、2022年
(7) 岡村逸郎『犯罪被害者支援の歴史社会学――被害定義の管轄権をめぐる法学者と精神科医の対立と連携』明石書店、2021年。同書の「2022年日本犯罪社会学会奨励賞受賞スピーチ」にも実存への言及がある(同学会ニューズレターに掲載予定)。

 

ギモン8:何を残すの?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。弘前れんが倉庫美術館アジャンクト・キュレーター。東京藝術大学キュレーション教育研究センター特任准教授。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

作品のオリジナルを保存・展示するとは?

 前回のギモン7では、主に作品のコレクションを擁する美術館について、その目的や特徴などをいくつかの事例を踏まえながら見てきた。作品の展示がなければ、展覧会活動や美術館活動は成り立たないことも、これまでのギモンで見てきたとおりだ。今回のギモンでは、ギモン7の最後に少し触れた、形が残らない作品、残りにくい作品の保存と展示について、もう少しさまざまな視点から考えてみたい。
 そもそも、美術館でコレクションされる作品は、絵画であれ彫刻であれ、良好な保管環境を用意しながら、定期的に点検し、何か不具合があれば、修復などの処置をおこなうのが定石だ。美術館にある作品は、「できるかぎりオリジナルの状態で残すもの」というのが大前提にある。そうすることで、一度展示した作品も、再度展示したり、調査研究のために活用されたり、別の美術館などの展覧会のために貸し出せるようになる。
 ここで作品展示と保存のあり方について考えるうえで、札幌芸術の森野外美術館の常設作品の一つである、砂澤ビッキの『四つの風』(1986年)を紹介したい。砂澤は北海道出身の戦後日本の彫刻界を代表する作家の一人であり、自然と交感しながら木と向き合い、ダイナミックな木彫作品を数多く制作したことで知られている。『四つの風』は、屋外にそびえ立つ高さ5.4メートルの巨大な四本の柱状の木彫で構成されているが、1986年に設置されてから、長い年月をかけて一本ずつ倒壊していき、三本がこれまで倒れて、2022年現在は最後の一本を残すだけになっている。だが、これは美術館がメンテナンスを怠っていたからではなく、作家本人の遺志に沿って、あえて手を加えることなく経年による変化も含めてそのままの形で残しているものである。砂澤は、『四つの風』について次のように述べている。
「生きているものが衰退し、崩壊してゆくのは至極自然である。それをさらに再構成してゆく。自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿(のみ)を加えてゆくはずである(1)」。このように砂澤にとっては、「風雪という名の鑿」によって生じる現象も含めてすべてが作品を形成する要素であり、美術館としては作家本人が考える「オリジナル」に忠実に沿って作品を保存・展示していることになる。実際、『四つの風』は、キツツキが巣を作り、キノコが生え、倒れた柱の周りには若い木が生い茂って常に新しい風景を生み出している。『四つの風』の事例は、美術作品にとって、何がオリジナルなのか、またどのように残していくことが作家の意図に沿っているのか、ということを考えさせる。

砂澤ビッキ《四つの風》(1986年)、アカエゾマツ
札幌芸術の森野外美術館
(2022年7月撮影)
photo: 吉崎元章

メディアアート作品のオリジナルとは?

 近年増加傾向にある映像作品やメディアアート作品などは、機材や記録媒体などの変化が目まぐるしく、オリジナルの形で残すことが難しくなっていて、多くの議論がなされている(2)。具体的に言えば、8ミリや16ミリフィルムの作品は、フィルムが製造中止になっていたり、映写機自体が希少である。ブラウン管テレビを使う作品も、テレビやそのパーツの確保のために美術館関係者や作家自身が奔走するという話もよく耳にする。映像ならば、フィルム作品をDVDなどデジタルデータに変換すればいい、と思われるかもしれないが、イギリス人アーティストのタシタ・ディーンのように、フィルムを切り貼りしながらつなぎ合わせることで作品を制作して、映写機自体もインスタレーションの一部として見せる場合などもあり、ことはそう単純ではない。さらに言えば、デジタルデータであっても、マスターデータをハードディスクに保存する場合、ハードディスク自体の耐用年数も使用頻度にもよるが、約5年と言われていて、永遠ではない。またコンピューターでプログラミングされたデータを使って展示する作品の場合、使用するコンピューターのOSがアップデートされると、プログラムを書き換える必要が生じてくる。
 韓国出身のビデオ・アーティストであるナム・ジュン・パイクの場合は、ブラウン管テレビの特徴を利用した作品や、数十台、数百台ものテレビを彫刻的に積み上げて構成する作品などで知られているが、ブラウン管テレビが生産中止になり、世界中の美術館関係者の頭を悩ませている。例えば、『マグネットTV』(1965年)は、ブラウン管テレビの上に強力な磁石を置くことで、磁力でモニタの映像がゆがんで映し出され、観客が磁石を動かすとそれに合わせて映像も変化するという作品だ。テレビが映し出す情報(映像)を観客がコントロールすることで、人々が普段、知らず知らずのうちにテレビから発せられる情報によって支配されている社会の構図が、逆説的に浮かび上がる。このブラウン管モニタのかわりに例えば液晶ディスプレイを用いても、同じ効果を物理的に再現することはできない。また仮に磁力によって変化する映像をコンピューターでプログラミングして擬似的に再現してみせたとしても、それは作家の意図に沿うことにはならないだろう。
 パイク作品のなかでも最大規模である、韓国の国立現代美術館所蔵の『The More, The Better』(1988年)は、1003台のテレビをバベルの塔のように積み上げた高さ18.5メートルの巨大な作品だが、モニタの交換など補修を繰り返したのち、2018年に火災発生の恐れがあるなど安全上の問題から作動を停止した。同作品は、1988年のソウルオリンピックに合わせて制作され、発表時には衛星生中継で世界各国の放送局を結んで映像を映し出した。次々と映し出されるその圧倒的な映像が、インターネット社会の到来を予感させる、情報化時代を象徴するパイクの代表作だ(3)。この作品については、その保存・修復方法が早くから議論されていた(4)が、その後国内外の専門家が調査と協議を重ねて、なるべく原型をとどめる形になるように努める、という方向性で2019年から三年がかりで修復され、22年に6カ月間の試運転を経て、公開されることになった(5)。修復では、交換できるパーツは中古品を購入して交換され、一部、タワー上部のモニタについては、液晶ディスプレイが用いられた(6)。
 オランダでメディアアートのアーカイブについて研究・実践してきたガビー・ヴェイヤースは、メディアアートの保存・修復に関する倫理と実践についてまとめた論考のなかで、いくつか重要な指摘をしている(7)。ヴェイヤースが述べているように、メディアアート作品も、ほかの美術作品と同様にそれが本質的には唯一無二のオリジナルであることには変わりないが、ビデオ作品をはじめとするメディアアートの場合、その多くがデータをコピーすることが可能であり、また再生機も作家による改変を加えた例外的なものを除き、量産されたものが多いので、物質的に「唯一無二のオリジナル」という考え方が当てはまりにくい。さらに、日進月歩のテクノロジーを用いるメディアアート作品は、そのテクノロジーの特性ゆえに絵画や彫刻などと比べると短命に終わってしまうという脆弱性をはらんでいる。メディアアート作品の保存・修復については、1990年代の終わり頃から盛んに議論されていて、基本的には「なんとしてでもオリジナルの技術を追求する」派と、「改造・アップデートした技術を用いる」派の2つのアプローチに大別されている。ヴェイヤースは、その双方のアプローチはどちらも有効であるとしながら、適切なアプローチは、その両極の間にあるのではないかと述べている。そしてメディアアート作品においても、ほかの美術作品の保存・修復の場合と同様に、「物理的、美学的、歴史的」な観点から、いかに作家の意図を汲みつつ、作品のオリジナルの形を尊重していくかという倫理上の問題を考えていくかが火急の重要な課題であると、具体的な事例を交えて論じている。ここでは個々の事例は紹介しないが、簡単にまとめると、次のような視点が求められると言える。
 現存する作品を成立させる機材や記録媒体などが使えなくなった場合、既存の作品データを別の媒体にコピーするだけでいいのか、それとも再生機を含めた作品の見た目や、その機材を使用すること自体が作品が成立するうえで重要なのか、そうでないのか。代替機器や手段を使えば、再生方法は異なっても、見た目だけはそのままにすればいいのか、あるいは見た目は遜色なくとも、そうした代替手段による展示は作品の意味を変えてしまうので一切不可として、作品の寿命とするのか。もしくは作品のコンセプトはそのままで全く新しく別の形で作品を作り直すのか、など。ここで先のパイクの『The More, The Better』についてあらためて考えてみると、ここでのブラウン管モニタの使われ方は、『マグネットTV』とは少し異なり、その彫刻的な外観や、パイクがこの作品を発表していた1980年代の時代精神や社会的文脈などを伝えることがその大きな役割となる。よってブラウン管テレビは、作品のコンセプト的にも美的にも重要な意味をもっていて、できるかぎり維持していくことが望ましいと言える。一方で、その時代時代の最先端のテクノロジーに関心を抱いて作品に積極的に取り入れていたパイクの作品制作のあり方に鑑みると、もしパイクが存命であれば、迷わず新たなテクノロジーを導入するであろうことを、パイクを知る技術者や美術批評家が口をそろえて証言している(8)。だが、液晶ディスプレイは、ブラウン管モニタよりもフラットな画面で形状が異なり、ブラウン管モニタほど画面が明るくないので、すべてを液晶ディスプレイにしてしまうと、作品の生き生きとした見え方が変わってきてしまう。よって『The More, The Better』の修復に液晶ディスプレイを最低限の数で一部用いる、という解決策は、まさにこうした作品の背後にある作家の意図や美的・技術的な観点などの倫理をキュレーターやコンサバター(保存修復家)たちが総合的に吟味した結果であると言えるだろう。このように作品をその作品として成立させるために必要な条件については、できるかぎり作家本人や作家の制作に関わる関係者と事前によく相談し、どのように再現展示するかなどについても、記録をとっておくことが必要になる。こうした展示や保存に関する作家との確認プロセスの重要性は、近年、増加しているパフォーマンス作品の収集と展示でも同じことが当てはまる。

パフォーマンス作品の収集と展示

 ギモン1では、1960年代から70年代にかけて、従来のホワイト・キューブの美術館の外に飛び出した作品についていくつか見てきた。これらは、もともと美術館での展示を想定していない作品であり、その多くは、当時、「モノとして市場で取引される作品」という商業主義的な考え方そのものに反旗を翻すものでもあった。なかでも、形に残らないイベントやハプニング、パフォーマンスなどの作品については、長年、美術館で収蔵する際には、それらを記録した写真や映像、チラシや案内状などを対象とするか、コンセプチュアル・アート作品のように指示書が残されるだけで、パフォーマンスそのものを収蔵する、ということはなかった。だが、近年、ギモン2で紹介した2019年のヴェネチア・ビエンナーレ、リトアニア館の『Sun & Sea(Marine)』のように、パフォーマンスを展覧会の枠組みのなかで展示する試みも増えていて、パフォーマンスが美術館のコレクションに加わる、といったケースも00年代から見られるようになった。
 これには、テートで長年保存・修復を担当してきたピップ・ローレンソンが指摘するように、1960年代や70年代に作家自身が演者・実行者であることが大半だったパフォーマンス作品が、90年代頃から他者によって演じられるスタイルになったものが増加し、パフォーマンス作品のあり方が変容していることが、大きな一因になっていると言えるだろう(9)。従来のように作家自身が演者であり、そのことが作品の成立にとって不可欠であるパフォーマンス作品であれば、その作家が不在の場合、あるいは亡くなった場合は、オリジナル作品は再現不可能となるが、作家以外の演者による作品であれば、作家が課する条件を満たせば、再現することができる。そして、それはほかの絵画や彫刻作品のように収集や貸し出しまでも可能にするのである。
 大阪の国立国際美術館は、日本国内ではいち早くパフォーマンス作品の収蔵や展示を積極的に取り入れている。同館が2016年度に最初に収蔵したパフォーマンス作品は、プエルトリコを拠点として活動している二人組の作家アローラ&カルサディーラの『Lifespan』(2014年)であった(10)。これは、展示室の天井から吊り下げられた小さな石をめぐって、三人のボーカリストが口笛と息で交信をする約15分間のパフォーマンス作品であり、展覧会の会期中は毎日実施される。三人のボーカリストは、この石を取り囲むように立ち、石に向かって交互に、あるいは同時に息を吹きかけたり、口笛を鳴らしたりする。また三人は、しばしその場に立ち止まったり、ゆっくりと石の周りを回ったりしてそれぞれの立ち位置を変えていく。その光景は「ときに激しく、ときに緩やかに変化しつつ、言葉が誕生する前のコミュニケーションの有様を想像させる(11)」。この作品でモノとして物理的に収蔵されているのは、石(40億年以上前の冥王代の石)とスコア(五線譜と言葉のインストラクションからなる楽譜)である。作品の展示にあたっては、スコアの作曲家であるデイヴィッド・ラングによる指導が必要とされていて、18年の開館40周年記念展である「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」で展示するにあたって、国立国際美術館でも実際にラングをアメリカから招聘し、パフォーマーたちがトレーニングを受けた。また美術館が作品を購入した際にギャラリーと交わした契約書にも、展示や運営に関する事項が多数盛り込まれていた。これに加えて、収蔵後に美術館側が作家にインタビューして聞き取った展示に関する細かな諸条件(パフォーマーの男女比、服装、展示室のしつらえ、照明など)も大変重要な参考資料になっている。スコアに表現されていない事柄が多いため、リハーサルや運営の記録や、展示条件を記した資料類は、館内に大切にストックされている。こうした資料は、次回、同作品を展示する際のさまざまな判断材料になる。またもし同作品を再展示する際には、18年の展示に協力してくれた主に関西圏在住のパフォーマーに再び協力依頼をすることになると想定される。このようにパフォーマンス作品の収集と保存、展示では、メディアアート作品の場合と同様にどう作家側と丁寧に対話を積み重ねて作家の意向を確認し、作品を成立させるための条件を共有し、展示に関する細やかな環境を記録しておくかがカギとなってくる(12)。
 一方でギモン3で紹介したティノ・セーガルは、作家以外の演者・実行者によって成立するパフォーマンス作品を多数発表している(13)が、セーガルの場合、写真や映像などの記録を一切残さないことを展示や収集でも徹底していて、アローラ&カルサディーラのようにはいかない。セーガルの『これはプロパガンダ』(2002年)は、2006年にテート・ブリテンで開催されたテート・トライアニュアルで展示され、テートの収蔵作品となり話題になった。しかしこの作品の収集や展示にあたっては、ほかのセーガルの作品と同様に、映像などで記録しておくことはできない。またスコアや指示書も存在しない。購入にあたっては、契約書も書面ではなく、口承で交わされる(14)。セーガルはもともと経済学とダンスを学んだ作家であり、彼の作品は、モノとしての作品のあり方を否定する彼の経済的批評の実践になっている。そのため『これはプロパガンダ』に関しても、ある踊りを知っているダンサーがそれを別のダンサーに踊ることで伝授するように、「身体から身体への伝達」になるようデザインされた作品になっている(15)。この作品の展示や収集にあたっては、作家や作家のスタジオからスタッフが派遣され、オーディションで選ばれたパフォーマー(16)と美術館のキュレーター、コンサバターなどに直接、身ぶりや歌が伝承されていく。セーガルの作品は、一見、収蔵には不向きと思われるかもしれないが、既存の形ある美術作品を扱う仕組みを作家が意図的に巧みに利用していて、展示や収蔵が可能となっている。例えば『これはプロパガンダ』は、展示の際には、会期中は展示室で最低1カ月間展示することが課されている。またエディションを切ったり、アーティスト・プルーフ(AP)もあり、版画や映像作品のように売買したり、貸し出したりすることができる。ちなみにエディションやAPとは、版画や写真、映像作品のように複製可能な作品を取り扱うときに作家やギャラリーが複製する点数を決めて、作品の価値・販売価格をコントロールする仕組みである。例えば、版画の場合、100枚限定で刷って、それ以上は刷らないと決めて、通し番号を1/100、2/100……のように振っていく。この100がエディション数となる。ある美術館はエディション15/100を収蔵し、個人コレクターはエディション23/100をもっている、というふうな具合である。その際に試し刷りなどで作家の手元にある数点をAPと呼び、通常は作家の手元に残して販売の対象にはならない。セーガルの作品に話を戻すと、『これはプロパガンダ』については、あるエディションがテートのコレクションになっていて、APが別の展覧会に貸し出されている。とはいえ、版画や写真、映像作品と異なり、こうした記録をとることができない、美術館内外の人々の記憶に頼る作品を美術館でコレクションとして長期的に保存・維持していくには、ローレンソンが指摘するように、作品成立に関わる美術館内外の人とのネットワークを保てるように、定期的に再現展示をしたり、貸し出しをおこなったり、美術館で検証する機会を設けたりすることなどが不可欠になってくるだろう。そのために適切なメンテナンスのサイクルは作品ごとに異なり、細やかな対応が求められていくことになる(17)。

変化していく作品

 先に見たパイクなどのメディアアート作品では、何をもってその作品の「オリジナル」とするか、ということが作品の保存と展示では問われると述べてきた。ここで、本ギモンのまとめに入る前に、最初に紹介した砂澤ビッキの『四つの風』のように変化していくことを前提にしている作品の事例として、もう一つ、タレック・アトゥイの『The Reverse Collection』(2016年)を紹介したい。
 アトゥイは、レバノン出身でフランス在住のアーティストで、音を使ったインスタレーションやパフォーマンス、さまざまな協働作業を伴うプロジェクトなど、ユニークな活動を展開している。彼の長期にわたるプロジェクトの一つである『The Reverse Collection』の収集・展示のあり方は、作品が成立してきた経緯とともに、一風変わったものになっている。この作品は、まず2014年にアトゥイが実験音楽のミュージシャンたちをベルリンのダーレム地区にある民族学博物館に招き、そこに収蔵されている素性や演奏方法が定かではない民族楽器を即興で演奏してもらったことから始まる。アトゥイはこのときの楽器ごとの演奏を録音した素材をもとに、これらの楽器のためのスコアを書き、そのスコアは同年のベルリン・ビエンナーレで演奏された。そして今度は、このときの演奏を録音した音源をもとに、視覚的な情報を排除し、音だけを手がかりとして、この音を奏でることができる楽器を複数の現代楽器制作者たちに作ってもらうよう依頼した。結果的には8つのオリジナル弦、管、打楽器が作られ、14年11月にメキシコ・シティの展覧会で展示され、これらの楽器を使って演奏もされた。そして16年には、新たに中国とフランスで作った楽器二つを加えて、先の8つの楽器とともにテート・モダンで展示され、これらを使って定期的に展示室で演奏された。アトゥイはこれをさらに録音して、一時間のマルチチャンネルのサウンド作品を作り、それもテート・モダンでの展示に加えられた。こうして、『The Reverse Collection』は、音を手がかりに楽器を作る、という楽器制作のプロセスをタイトルのとおり「Reverse(逆行)」させる作品となり、テートのコレクションになった。だが、この作品の再展示にあたっては、その複雑な成立過程のように、幾通りもの可能性があるという点で、ほかの作品とは一線を画している(18)。
 まず、『The Reverse Collection』は、2016年のテート・モダンでの展示のようにインスタレーション作品として、アトゥイのサウンド作品と一緒に展示することができるが、このとき展示する楽器は全部でもいいし、一つだけでもかまわない。また新しい演奏者や作曲家を招いてパフォーマンス作品として発表することもできる。そして万一楽器の一つが壊れてしまった場合は、音だけを手がかりに新しい楽器を作ることも理論上可能である。実際、『The Reverse Collection』は、テート・モダンの展示のあとも、世界各地の別の展覧会などで、新しいリサーチに基づいて別の楽器制作者が作った楽器を加えたり、アトゥイの別のプロジェクトと組み合わせて発表されるなどして次々と形を変えて展示・演奏されている。このように最終的な形態が定まらず、オープン・エンドな作品の保存と展示では、キュレーターもコンサバターも、常に新たに生まれ変わる可能性がある作品の成立に立ち会うことになり、臨機応変な対応が求められる。

変化していくキュレーター、コンサバター、美術館

 これまで見てきたとおり、メディアアート作品やパフォーマンス作品など、長期にわたって形が残りにくい作品の展示と保存では、いずれも何が作品の成立にとって本質的な条件なのかについて、作家との話し合いを重ね、きちんと記録しておくことが不可欠であるとわかるだろう。物故作家の作品の場合は、そのプロセスはより困難になるが、作家を知る関係者や遺族などへの聞き取り調査や、それまでの展示の記録などを丁寧に掘り起こすことで、可能になるケースもある。例えばアメリカ人アーティストで2016年に亡くなったトニー・コンラッドの『Ten Years Alive on the Infinite Plain』(1972年)については、作家の死後にテートに収蔵されたが、スコアは残されていない作品であり、テートが関係者への聞き取りや資料のリサーチ、再現ワークショップなど非常に根気強いプロセスを経て、コレクションを可能にした(19)。
 メディアアート作品の場合、機材などの生産終了に備えて、スペアの部品や機器のストックなど物理的な面での備えが重要だが、同時にこうした機材を扱える技術者など人的資源の確保も課題になっている。美術館内に専門の技術スタッフが常駐している館の数は世界的に見ても限りがあり、展示や保存に際しては、外部の専門家に協力を依頼することが多い。またパフォーマンス作品の場合も、ティノ・セーガルやトニー・コンラッドの例のように作品の記憶を美術館内外のできるだけ多くの人と共有し、定期的に検証・アップデートしていくことが求められる。このようにメディアアート作品やパフォーマンス作品の展示と保存については、必要な機材などの確保、技術者や外部協力者の確保と人的ネットワークの構築、作品の再現展示を検証するための場所の確保やコストなどさまざまな課題が山積していて、一つの美術機関の予算とネットワークだけでは難しいことは明らかだろう。この分野で先駆的な試みにいくつも取り組んできたテートも、研究費や助成金などの外部資金を複数の機関とときには国を超えて共同して確保し、協力しながらリサーチや検証を進めている。日本でもメディアアートに関しては、メディア芸術アーカイブ推進支援事業(20)として、文化庁が支援をおこなっているが、単体のプロジェクトに対する支援となっていて、美術館内外を横断するようなネットワークの構築には至っていない。パフォーマンスを含めたタイムベースト・メディアの保存と展示に関する美術館内外を結ぶ包括的で国際的なネットワークの構築は、今後ますます求められていくことだろう。
 展覧会は、一過性の作品を展示するだけではなく、こうした形に残りにくい作品や、再現展示が難しい作品を検証し、後世に伝えていくという重要な役割もある。そうした作品の展示を実現すべく、キュレーターやコンサバターは日々、試行錯誤している。作品のあり方が変化するにつれて、作品の展示や保存を取り巻く環境もアップデートされていく。それを支えるコンサバターもキュレーターも、そして美術館もまた、当然ながらそのあり方を変えていくことが必要だろう。

 さて、本連載ではこれまでさまざまな角度からキュレーターをめぐるギモンの数々を取り上げてきた。ここでウェブでの連載は一区切りとし、残り二つのギモン9「どうして「展覧会」を作るの?」とギモン10「キュレーターって何をするの?」については、書き下ろしで書籍にまとめ、これまでのギモンを総括しながら、あらためて考えていきたい。


(1)札幌市企画、札幌芸術の森編『札幌芸術の森野外美術館図録』札幌芸術の森、1986年、86ページ
(2)メディアアート作品を中心にしたタイムベースト・メディアの修復・保存については、京都市立大学が中心になってまとめた「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復・保存ガイド」(https://www.kcua.ac.jp/arc/time-based-media/)を参照されたい。また海外では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)とサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)、テートの三館によって2004年に立ち上がったMatters in Media Art(メディアアートの諸問題)が、メディアアートの保存・修復と展示について、有益なオンラインのガイドを公開している。「Guidelines for the care of media artworks」(http://mattersinmediaart.org
(3)Nam June Paik, “Wrap around the World,” Media Art Net(http://www.medienkunstnetz.de/works/wrap-around-the-world/images/8/
(4)2012年11月23日には「How to Conserve The More, the Better」という国際シンポジウムが韓国国立現代美術館で開催されていて、そこですでにブラウン管モニタを液晶ディスプレイで代替する修復方法も提案されている。平諭一郎「《The More, the Better》は「なにか」の乗り物である」、『ナムジュン・パイク《The More, the Better》に関するノート』所収、東京藝術大学、2015年
(5)韓国国立現代美術館「Ending Test Operation of Paik Nam June’s ‘The More The Better’」、2022年7月8日(https://www.mmca.go.kr/eng/pr/newsDetail.do?bdCId=202207080008320
(6)「ナムジュン・パイク作品 モニター修理し原形保存へ=韓国美術館」「KONEST」COPYRIGHTⓒ YONHAP NEWS、2019年9月11日15時19分(https://www.konest.com/contents/news_detail.html?id=40599)、Park Yuna, “Paik Nam-june’s ‘The More, The Better’ operates for six-month test run,” The Korea Herald, January 24, 2022, 08:48(http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20220123000112
(7)以下の考察は、次の論考を参照した。Gaby Wijers, “Ethics and practices of media art conservation, a work-in-progress (version0.5),” August, 2010(https://www.scart.be/?q=en/content/ethics-and-practices-media-art-conservation-work-progress-version05
(8)前掲「《The More, the Better》は「なにか」の乗り物である」、YOON SO-YEON, “‘The More, The Better’ has a monitor problem: The screens on Nam June Paik’s biggest work are staying retro,” Korea JoongAng Daily, September 16, 2019(https://koreajoongangdaily.joins.com/2019/09/16/movies/The-More-The-Better-has-a-monitor-problem-The-screens-on-Nam-June-Paiks-biggest-work-are-staying-retro/3067963.html
(9)Pip Laurenson and Vivian van Saaze, “Collecting Performance-Based Art: New Challenges and Shifting Perspectives,” in Outi Remes, Laura MacCulloch and Marika Leino eds., Performativity in the Gallery: Staging Interactive Encounters, Peter Lang, 2014, p. 33
(10)アローラ&カルサディーラ作品については、植松由佳「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」(橋本梓/植松由佳/林寿美編『トラベラー まだ見ぬ地を踏むために』展覧会カタログ所収、2018年、国立国際美術館)13―14ページ、林寿美「アローラ&カルサディーラ」(同書所収)112ページ、ならびに同館主任研究員の橋本梓氏へのメールインタビュー(2022年7月19日)に基づく。
(11)同書112ページ
(12)パフォーマンス作品の収集について考慮すべき手順や項目については、下記のテートによるリストが有益である。“The Live List: What to Consider When Collecting Live Works, Collecting the Performative,” TATE(https://www.tate.org.uk/about-us/projects/collecting-performative/live-list-what-consider-when-collecting-live-works
(13)ただし、ローレンソンによれば、セーガル自身は自分の作品を「パフォーマンス」と呼ばれることに関しては否定的で、「生きた彫刻(living sculptures)」「構成された状況・経験(constructed situations/experiences)」と呼んでいる。Laurenson and Saaze, op. cit., p. 35.
(14)Louisa Buck, “Without a trace: Interview with Tino Sehgal,” The Art Newspaper, March 1, 2006(https://www.theartnewspaper.com/2006/03/01/without-a-trace-interview-with-tino-sehgal
(15)ピップ・ローレンソン氏へのメールインタビュー、2022年8月16日
(16)セーガル本人は「パフォーマー」と呼ばず、「解釈者/翻訳者(interpreter)」と呼んでいる。同インタビュー
(17)Laurenson and Saaze, op. cit., pp. 36-37.
(18)タレック・アトゥイ作品については、下記を参照。Tarek Atoui, Tarek Atoui: The Reverse Sessions/The Reverse Collection, Mousse Publishing, 2017, p. 1, 19. 再展示に関する詳細については、ピップ・ローレンソン氏の下記シンポジウムでの発表とメールインタビューに基づく。国際交流基金・水戸芸術館共同企画特別国際シンポジウム「プレイ⇔リプレイ――「時間」を展示する」水戸芸術館ACM劇場、2018年11月3日(https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2018/09-01.html
(19)トニー・コンラッドについては下記のテートのウェブサイトを参照。“Reshaping the Collectible: When Artworks Live in the Museum,” TATE(https://www.tate.org.uk/research/reshaping-the-collectible), “Conserving Tony Conrad,” TATE(https://www.tate.org.uk/art/artists/tony-conrad-25422/conserving-tony-conrad
(20)なお、文化庁のメディア芸術アーカイブ推進支援事業については、次の文化庁の「メディア芸術の振興」のサイトを参照されたい。文化庁「メディア芸術の振興」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/media_art/

 

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