第1回 PTAとわたし

鈴木洋仁(すずき ひろひと)
(神戸学院大学現代社会学部准教授。専攻は歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』〔青土社〕など)

1 なぜ、PTAなのか

「子どものため」への違和感

 なぜ、自分が楽しい、とか、楽しむため、ではいけないのだろう。おそらくどこのPTAでも言われる「子どものため」への違和感が、この連載のもとにある。
「子どものため」というかけ声に素直に応じられない。建前、隠れ蓑、言い訳にして、何かをごまかしたり、見ないことにしたりしているのではないか。ずっと引っかかっている。この違和感の正体を見つけたい、それが、この連載を始める動機である。
 では、素直になればすむかといえば、そうではないだろう。「子どものため」に違和感がある、と書くこと自体、わたしは後ろめたい。「子どものため」で何が間違っているのか、それ以上に何があるのか。そうも思う。ボランティアで無心に取り組めばいいし、そうする以外になかったのではないか、そうも思う。この違和感は、実は、現時点ではほぼ消えかけているのも確かなのである。
 わたしは、2021年度から22年度、娘が通う小学校のPTA役員を務めた。それは事実であるものの、では、胸を張ってその成果や体験を自慢したり後悔したりできるかと言えば、そうではない。
 PTA=Parent Teacher Associationという組織について偉そうに何かを語れるほど全身全霊を傾けたわけでもないし、逆に、何かを声高に批判したいほどの恨みもない。わたしがもう役員を務めておらず、喉元過ぎれば熱さを忘れているからだし、物言えば唇寒し、のように、何をどう書いたとしても、不利益が生じるのではないかと恐れているからでもある。
 PTAを語ることばは、たとえば、「ダイヤモンド・オンライン」で連載されていた「大塚さん、PTAが嫌すぎるんですが…(1)」のように、問題点の指摘と改善策の提示のセットで示される場合が多い。
 もちろん、上記の連載を担当したライターの大塚玲子をはじめ、PTAの実態を世の中に知らしめることはとても貴重である。幽霊の正体見たり枯れ尾花、のように、必要以上に怖がってしまっているかもしれないし、反対に、「おっかないPTA(2)」もあるのだろう。

PTAからみたいもの

 わたしが体験したPTAがよかったのか悪かったのか、それをここで明らかにしたいわけではないし、後述のように、語る難しさもある。「子どものため」と言っている人たちを批判したいわけでもないし、それが間違っていると言いたいわけでもない。問題は、なぜわたしが「子どものため」に違和感を覚えるのか、であり、あくまでも個人的な感覚を出発点にしたい。何が原因でこの思いに至ったのか。どういった理由があるのか。こうした点を、「わたし」の経験をもとにしながら、属人的な、つまり、わたしだけの要素に帰着させるのではなく、逆に、より社会的に共有できる角度からみていきたい。
「子どものため」に違和感を抱く/抱かない、のラインをどこで引くことができるのか。それは、もちろん個人差や地域差、時代の差があるだろう。人それぞれだし、歌は世に連れ世は歌に連れ、という具合に、時の流れに反映させられるだろう。
 だからこそ、「わたし」やいろいろな人の体験談を通して、少しでも普遍的な見方へと伸ばしたい。普遍的とまで大げさにならなくても、より広くわかちあえる話題としてPTAを考えたい。
 なぜなら、PTAにはまず、日本的な組織の功罪が集約されていると考えるからである。日本人らしさ、日本的なるもの、日本っぽさ、そういったものをまとめて煮詰めた集まりがPTAではないか、と思うからである。
 と書きながら、「功」をどこまで取り上げられるのか心もとない。かといって、「罪」の部分だけをみていても詮ないにちがいない。無理をするつもりも忖度するつもりもない、と書いてみたものの、そう簡単ではないだろう。
 娘がまだ小学校に通っているから、変なことを書いたら不利益があるかもしれない、というだけではない。何をどう書いたとしても、わたしの立場が問われる。「偉そうなことを書いているわりに、あなたは何をしたのか」とか「それはあなたの感想ですよね」と返される。ここにこそ、PTAを扱う意味がある。

PTAを語る/PTAの語り

 日本語圏で学校と関係するかぎり誰もが多かれ少なかれ関わっているゆえに、みんなが何かを言いたい。その半面、実名で顔を出して堂々と意見を言えるかといえば、それほど解放されているわけでもない。
 ここで「日本語圏」とまわりくどく書いたのは、エリアとしての日本に限られないからである。海外の日本人学校、たとえばタイのバンコクの日本人学校のPTA(3)は、日本国内とほとんど変わらない、もしくは、それ以上に大きな組織を擁する。役員だけで41人にのぼるPTAは、国内でもなかなかみられないのではないか。
 重要なのは、バンコクでも巨大なPTAがある、それも日本的なPTAがある、という事実である。場所としての日本にとどまらず、日本人らしさを象徴するような何かがPTAにあるから東南アジアでもみられるのではないか。
 とはいえ、PTAを語るのは難しい。いい思い出があっても、苦い記憶があっても、どちらも簡単ではない。前者なら差し支えなさそうなものの、プライバシーの問題だけではなく、「自慢話」とか「偏見」、「恵まれている」といったやっかみにさらされる。後者では逆に、何を書いても「悪口」「誹謗中傷」ととられかねない。わたしもまた、こうした難しさのなかにいる。
 PTAを語ろうと思うのは、そこで見つけた何かがあるからであり、語りたいものがあるからにほかならない。より正確に言えば、見つけた何かが何なのかを探したいし、語りたいものを見つけたい。
 いまの段階では、まだはっきりとしているわけではない。でも、文字として残しておきたいし、残すことによって、ほかの誰かの話を聞いてみたい。研究対象として割り切れないからこそ、その割り切れなさの正体を見たい。
「子どものため」への違和感が、ここにつながる。

2 わたしにとってのPTA

何をしたのか/していないのか

 このあたりでようやく、わたしが実際に何をして、何を思っているのかを語ろう。
 わたしは、娘の小学校入学と同時にPTAの役員を務めることになった。1年目は会計、2年目は会計監査を担当した。その間、いくつかの出来事があったし、それについての考えもある。
 あのとき、あれをしていたら、これをしなかったら、と後悔ばかりが募る。もっとできたことはたくさんあったはずだし、言わなければよかったことばかりだった。その一つひとつを反省していけば、それなりの分量にはなるし、いくつかの教訓を引き出せるだろう。
 ただ、ここでは、個人情報が云々でも、他の人のプライバシーを守るためでもなく、あるいは先に述べたように語りにくいからでもなく、わたしの体験を具体的に書かないように努めたい。それは、これまで述べてきたように、わたしのPTA体験を美談として語ろうと、苦い思い出として語ろうと、わたし自身をはじめ誰か個人に責任を求めたいわけではないからだ。
 わたしがどこで成功/失敗したのか、という個人的な体験をもとにした、いわば当事者研究のような方向はありえるだろう。オートエスノグラフィーとして、自分を素材に考える道も考えられる。
 たとえば、この連載の次回で触れるPTA体験本、それも男性の著者によるものはときおり出版され、話題になる。昨年も、政治学者の岡田憲治による『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版、2022年)が高い評価を得た。詳細は次回に譲るが、男性によるPTA体験記は、往々にして「びっくりルポ」に傾きがちになる。その理由とわたしの見解は次の回に譲るとして、単発的にPTAの本が出て話題になる、そこに注目したい。

PTAのジェンダー差

 こうした「男性によるPTA論」がしばしば話題になる、それをふまえて、ここでジェンダーについて考えたい。「子どものために」と並んでずっと考えていたのは、ジェンダーについてだからである。
 PTAはほとんど女性によって担われている一方で、会長の多くは男性ではないか。この直感は、データに裏打ちされている。内閣府男女共同参画局が毎年公表している「男女共同参画白書」の下記のデータをみよう。


(出典:内閣府男女共同参画局「令和4年度男女共同参画社会の形成の状況」〔https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r05/zentai/pdf/r05_genjo.pdf〕)

 最新の2023年版では、PTA会長のうち、82.6%が男性である。男性と女性、その2つに当てはまらない性のカテゴリーをめぐってはこの連載でも扱う予定なので、その話題は置こう。
 15年前の2008年時点で10%だったことを思えば、この間に1.7倍に増えた変化をもって男女共同参画が進んだ、と言えなくもない。多いと言われるPTAでも役員の男女比は50%と50%程度だとみられる以上、会長の男性割合は偏っていると言わざるをえない。
 行政評論家の大原みはるが指摘(4)するように、「ヒラの委員などまで含めた「実働レベル」での男女比について、全国的に調査した公式データ」がないと思われること、もとより、「平日昼間に強制参加」という高すぎるハードルがあるPTAがまだまだ大多数ではないのか。
 PTAとジェンダーの関係はこの連載全体を通して考えていきたいし、それによって、いろいろなテーマをみやすくできると考えている。
 もとより、この関係は、岩竹美加子の名著『PTAという国家装置』(青弓社、2017年)を貫く視点だったし、岩竹は、直近のインタビューでも「個人的な意見として、PTAが特にたくさんの母親を苦しめている(5)」と語っている。
 本を1冊費やしても語り尽くせないほど多岐にわたる論点をもっているのが、PTAとジェンダーだと言えるだろう。

3 エスノグラフィーという方法

エスノグラフィーとはいえ……

 この連載の方法について述べよう。
 エスノグラフィーとは、ethno=民族の、graphy=書く、この2つの言葉から成り立っていて、ある民族について何かを書くこと、である。
 たしかにPTAもまた、ある種の民族性、「異文化」だったり、「他者」だったりする性質をもっている(6)。会社や組織からみれば、何かが異なっていたり(「異文化」)、よそよそしかったり(「他者」)している点で、エスノグラフィーの対象として当てはまる。それとともに、完全なる「異文化」でも「他者」でもない。先に書いたように、日本人らしさや日本っぽさを集約した存在とも考えられる。ここまで書いてきたように、奥歯に物が挟まったようにしか語れない隔靴搔痒感を招く、その何かを生み出すものとしてPTAはある。
 PTAをカルトじみた団体だとはとても言えないし、実際にそうではない。おそらく、日本にあるほぼすべての集団がそうであるように、外からみれば、いろいろと「おかしい」ところがある。その「おかしい」ところは、犯罪にあたるわけでもないし、反社会的な行為でもない。PTAの役員を務め始めたときのわたしは、そう思っていたからである。もっと「普通の」組織にすればいいのに、もう少し「楽に」なるように変えたい、そう思っていた。
 この連載では、こうしたわたしの思いや失敗をもとに、いくつかのテーマに即して考えていきたい。この点で、つまり、自分自身や自分自身のなかにある違和感を「異文化」や「他者」として扱って書いていくという点で、ethno=民族の、graphy=書く、ものになればいいともくろんでいる。
 もちろん、わたしだけの話を並べるのではなく、これまでに話を聞かせてくれた人たちの語りや、これまでに公にされていることば(本、雑誌、ネット記事など)ももとに書いていく。

読者のみなさんへのお願い

 もしできるなら、この連載を読んだみなさんからも、ぜひお話をうかがいたい。連絡先は、この文章の末尾にあるわたしのメールアドレスまで直接でもいいし、不安な方は、このウェブサイトを運営している出版社の青弓社宛てにいただければ幸いです。
 わたしは、エスノグラフィーの専門家ではないし、また、PTAの専門家でもない。読者のみなさんと一緒に、PTAについて何かを思ったり、考えたり、発言したりする、そうした素人の立場をもとに、できるだけ多くのテーマを考えたい。
 社会学者であり、なによりもひとりの人間として、プライバシーを暴くことも個人攻撃をすることからも、厳しく身を離さなければならない。
 ブログのような個人発信ではなく、出版社、それも信頼のおける学術出版社が運営しているサイトでの連載だからこそ、個人情報の保護をはじめとしたさまざまな注意は十分すぎるほどに配慮してもらえる。
 おおむね月に1回程度の更新とはいえ、連載形式、それも、そこそこの文字数(6,000文字弱)は初めてなので、予定どおりに進まないこともあるかもしれない。その点も含めて、また、そのときどきの時事的な話題も取り込みながら、PTAを通した日本、特にジェンダーという観点でみた日本社会を、いろいろな角度から考えていきたい。
 その先にみえるものは、PTAなんていらない(不要論)でも、やめてしまえ(廃止論)でもないだろう。かといって、PTAをほめたたえる(礼賛論)わけでも、あきらめる(諦念)でもないにちがいない。
 PTAそのものの是非を、ああでもない、こうでもない、と口角泡を飛ばすというよりも、その組織や、そこでの体験をきっかけに、さまざまなことを論じていきたい。しばし、その道程にお付き合いいただけると幸いです。
 次回は、先に述べたように、政治学者の岡田憲治による『政治学者、PTA会長になる』をもとに、「PTAと男性」をテーマに考えよう。


(1)「大塚さん、PTAが嫌すぎるんですが…」「ダイヤモンド・オンライン」(https://diamond.jp/category/s-pta
(2)「PTAを保護者が恐れる最大の理由、悪名高い「ポイント制」なぜなくならない?」「ダイヤモンド・オンライン」(https://diamond.jp/articles/-/320729)での大塚の表現から。
(3)「バンコク日本人学校PTA」(https://www.tjas.ac.th/bkkpta
(4)大原みはる「PTA参加者の「男女の偏り」を引き起こしている「そもそもの要因」――「平日昼間に強制参加」というハードル」2022年4月7日「現代ビジネス」(https://gendai.media/articles/-/93952
(5)「PTA活動どう違う ジェンダーギャップ指数上位フィンランドと日本」2023年9月5日「朝日新聞デジタル」(https://digital.asahi.com/articles/ASR804R2FR8QUHBI01G.html
(6)藤田結子「エスノグラフィー」、藤田結子/北村文編『現代エスノグラフィー――新しいフィールドワークの理論と実践』(ワードマップ)所収、新曜社、2013年、21ページ

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第16回 キャスリーン・パーロウ(Kathleen Parlow、1890-1963、カナダ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

カナダが生んだ異形のヴァイオリニスト

 2023年になって、イギリス・ビダルフからキャスリーン・パーロウの2枚組みが発売された(85036-2)。ジャケット下にはわざわざレオポルド・アウアーの顔写真入りで「ジ・アウアー・レガシー」と記されているように、従来は「レオポルト・アウアーの優れた弟子の一人」といった程度の扱いしか見ることがなかった。たとえば、ボリス・シュヴァルツの『グレート・マスターズ・オヴ・ザ・ヴァイオリン』(邦訳なし)では、アウアーの弟子の一人としてごく短くパーロウにふれているだけで、ヨーアヒム・ハルトナックの『二十世紀の名ヴァイオリニスト』(松本道介訳、白水社、1971年)やマーガレット・キャンベルの『名ヴァイオリニストたち』(岡部宏之訳〔Music Library〕、東京創元社、1983年)のなかに彼女の名前は見いだせない。パーロウは戦後まで元気に活躍していたが、レコードの世界からは早々に手を引いてしまったせいか、ひどく古い人のような印象を与えている。
 パーロウは1890年9月20日、カナダのカルガリーに生まれた。ヴァイオリンを始めたきっかけや年齢は定かではないが、習得速度はめざましいものがあり、その才能を育むためにパーロウが5歳のとき、一家はサンフランシスコに移住する。6歳のときには最初のリサイタルを開き、ルイ・シュポアの弟子だったヘンリー・ホームズに師事した。その後、パーロウはミッシャ・エルマンの演奏を聴き、アウアーに弟子入りを切望。1906年、ペテルブルク音楽院に最初の外国人として、また最初の女性としてアウアーのもとでエルマンやエフレム・ジンバリストとともに学んだ。アウアーはパーロウを気に入り、「スカートをはいたエルマン」と呼んでいたそうだ。09年にはノルウェーの作曲家ヨハン・ハルヴォルセンがパーロウのためにヴァイオリン協奏曲を書き、活躍の場はヨーロッパやアメリカに及んだ。しかし、20年代後半からソリスト活動を制限するようになり、36年に短期間ニューヨークに住んだあと、41年にはカナダに戻り、トロント大学で後進の指導にあたるとともに、チェロのザラ・ネルソヴァ、ピアニストのアーネスト・マクミランらとカナディアン・ピアノ三重奏団を結成、パーロウ弦楽四重奏団の活動も並行しておこなっていた。63年8月19日、死去。
 ビダルフの2枚組みのメインはHMVとアメリカ・コロンビアの全録音である。すべて小品で1909年から16年の収録、すべてアコースティック(ラッパ吹き込み)録音である。最初はパガニーニの『常動曲(無窮動) 作品11』、これはテンポが速く、あざやかであり、なおかつ何とも言えない香気を振りまきながら一気に進んでいく。あいさつがわりの一発目としては、まことに鮮烈である。2曲目のバッハの『G線上のアリア』(ヴィルヘルミ編)では一転して、ゆったりと、おおらかに歌う。パーロウに協奏曲を献呈したハルヴォルセンの小品が2曲『ヴェスレモイの歌』『ノルウェー舞曲第2番』とあるが、ことに前者はなでるようなポルタメントが効果的に使用され、印象的。ショパンの『夜想曲』は『作品27の2』と『作品9』の2の2曲が収められていて、ともに甘い雰囲気に満ちたものだが、後者はいっそう味が濃い。ベートーヴェンの『メヌエット』はゆっくりと先を急がず、のんびりと、なつかしさいっぱいに弾いている。
 フリッツ・クライスラーの『愛の喜び』は軽やかさと、ささやくような歌い回しが絶妙に対比されている。同じくクライスラーでは『中国の太鼓』もあるが、これも個性的だ。中間部でたっぷりと甘く歌うのは予想どおりだが、速い部分で突然減速するのは異例だろう。また、ヘンリク・ヴィエニャフスキの『庭園の情景』、ピエトロ・マスカーニの『間奏曲(カヴァレリア・ルスティカーナ)』、チャイコフスキーの『メロディ』、ヨハン・スヴェンセンの『ロマンス』などは甘くたっぷりと歌うパーロウのうまさを堪能できる逸品である。
 以上、一部ピアニスト名は判明しているが、大半は不詳のピアノ伴奏と管弦楽伴奏付きである。
 1925年以降の、いわゆる電気録音による正規盤が存在しないパーロウにとって、以下の放送録音は非常に貴重であり、この2枚組みではむしろこちらがメインと言っても過言ではない。まず、メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』、41年の放送録音(ジェフリー・ワディントン指揮、CBC交響楽団)で、全曲を収録している。第2楽章だけの録音(1916年)もこの2枚組みに収録されていて、これもまことに美麗で魅惑的だが、さすがに全曲のほうは聴きごたえがある。
 音質も1941年ながら明瞭であり、なかでも第1楽章が最も個性的だ。最初は楚々と、いかにも物憂げに歌い始めるのだが、急に獲物を狙うような険しい目つきになる。そして、それまでは低空を飛行していた鳥が一気に高いところへ行き、急降下や旋回を繰り返すような自由闊達さを振りまく。この曲で、こんなに大胆に描き分けた演奏は、そう多くはないだろう。第2楽章以降もすばらしいが、第2楽章は前述の16年録音よりもだいぶ甘さが控えめになっている。これはパーロウが意識的に変えたのか、あるいは、室内楽のような合わせ物が多くなった関係でそうなったのか、それは判断がつかない。
 なお、同一の演奏はケンレコード/ウィング WCD59(こちらは1950年頃と表記)からも出ていたが、音質はほぼ同等ながらも、こちらはピッチが高すぎる。
 同じく1941年の放送録音ではグリーグの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』から第1楽章がある。燃え上がるような、非常に闊達な演奏であり、技術的な衰えなどは全く感じない。全曲ではないのが惜しまれる。ピアノはマクミラン。
 残りの2曲はバッハ、1957年の録音で、パーロウが最も高齢でのものになる。最初は『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番』からの第3楽章アンダンテ。これも味わいがある演奏で、全曲はないのかとぼやきたくなる。感動的だったのは『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番』の全曲。これはまず最初の「アルマンド」で心をガシッとつかまれる。テンポはかなり速く、挑み込んでくるような気迫がある。次の「クーラント」以降も非常に力強く、自在で、しなやかさも十分。最後の「シャコンヌ」も表情はきわめて多彩であり、非常にスリリング。技術的にも気力的にも、衰えなどは一切感じない。これは『パルティータ第2番』としても最も注目すべき演奏であり、もしもパーロウによるバッハの『無伴奏』が6曲そろったならば、それはそれで全く独自の地位を確保するにちがいない。ほかにもパーロウの放送録音が残っていたら、ぜひとも聴いてみたい。
 末筆になってしまったが、パーロウは1922年に来日し、ニッポノホンに10インチで14面分の録音をおこなっていることにふれておく。このなかで8曲が前記ウィングのCDに収録されているが(曲の大半はビダルフの2枚組みと同一で、解釈も酷似している)、あまりにも古色蒼然とした音質で、これではかえって誤解を招いてしまう。手元にパーロウのニッポノホン盤SPが1枚あるが、いくらラッパとはいえ、もっとましな音がする。海外で発売されたものはビダルフのような海外レーベルが復刻するだろうが、日本録音はやはり国内で制作されるべきものだろう。適正な音質補正によるパーロウの「コンプリート・ニッポノホン・レコーディングズ」が待たれる。

 

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発達障害の子どもはおもしろい!――『がんばりすぎない!発達障害の子ども支援』を出版して

加藤博之

 本書の書名にある「がんばりすぎない!」には、私のいろいろな思いを込めています。出版後、ある人から「「がんばりすぎない!」ではなく、「がんばらない!」のほうがいいのではないか?」と言われました。語呂としてはそっちのほうがすっきりすると思ったのでしょう。しかし、それでは、私の本意を伝えることはできません。すでにがんばっている人たちのことを否定することにもなりかねませんから。
 そうです。発達障害の子どもと関わる親や先生たちはどうしても「がんばって」しまうのです。なぜでしょうか。障害が重い子であれば、かなりの割合でおおらかに接することができるでしょう。しかし、いざ発達障害の子どもを目の前にすると、そうはいかなくなってしまいます。がんばれば周りの子と同じようになるのではないか、という一種の幻想がつきまとってしまうのです。
 しかし、実際にはそうはいきません。一般の子育てで通用する方法がことごとく適用できないのが発達障害の子どもです。そうすると、諦めるかと思いきや、まだ足りないのではないかと思い込み、もっともっとがんばってしまう大人がいます。そこに大きな落とし穴があります。本書でも随所で述べているように、がんばることは逆効果になることが圧倒的に多いのです。そのため、何年もがんばってしまったあとに、やっとそのことに気づくというケースも少なくありません。
 そのような事情から、がんばっている大人に対して、がんばるのは確かに立派なことだけど、あまり「がんばりすぎないで」と言いたいのが、書名決定の由来です。ちょっと肩の力を抜いてリラックスすれば、それだけで子どもとの関係は変わってきます。私の好きな音楽に、大阪のブルース・バンド憂歌団の『リラックス デラックス』というアルバムがありますが、まさに、まずはリラックスしようじゃないかということが言いたいのです。

 出版後、いろいろな人たちからさまざまな感想をいただきました。なかでも、「この本は、発達障害のことを書いているにもかかわらず、一般の子育てにも十分通じるものがある」という内容が多いように思います。私は長年、障害がある子どもたちの臨床や教育、音楽療法に携わってきました。そして、子どもたちとの関わりのなかでつくづく感じることは、「子育ては、障害があろうとなかろうと、みんな同じだ」ということです。
 障害があるとどうしても、何か専門的なことをしなければならないと思われがちです。実際に、幼児期からせっせと訓練のようなものを求めるケースがみられます。それで、本当に子どもたちは幸せなのでしょうか。なぜ、障害があると、ほかの子よりも多くのことを求められるのか。もちろん、子どもへの配慮や対応の仕方を変えることは必要だと思います。しかし、子どもは誰でもまだ子どもなのです。

 もう30年以上前のことですが、私が公立学校の教員時代に大変お世話になった故・宇佐川浩先生(元・淑徳大学教授)から次のようなことを言われました。
「加藤くん、優れた障害児教育(療育)は、とても質が高い一般の教育につながるものだよ」
最近、この言葉の意味をかみしめることが多い気がしています。「そうか。そういうことか」と。きっと、何百人もの障害のある子どもたちが、「子育てとはこういうものなんだよ」と教えてくれているのだと思っています。

 ともあれ、発達障害の子どもは理屈抜きで面白い! 日々一緒に過ごしていて、ワクワクさせられる。「面白い」と感じ、いつもポジティブな見方で接していると、子どもはどんどん勝手に育っていきます。おそらく、一つひとつの行動を「面白い」と思っていればその子のよさが次々に発見でき、それは関わる大人を幸せにしてくれるのだと思います。幸せな大人がしょっちゅう近くにいれば、当然、子どもも幸せになることでしょう。それは、やがて子どもの自信につながり、自己肯定感にもつながっていくはずです。

 本書は、発達障害の子どもたちから学んだいろいろな知見をもとにしています。だから、本音を言えばもっともっとたくさん書きたかったと思っています。実際に、編集者から「多すぎます」と言われ、泣く泣く大幅に削除しました。その原稿は、パソコンのなかに眠っています。そして、日々増えていっています。字数の限りという壁には勝てません。そこだけが少しだけ無念ですが……。こんなに学べて、こんなに得をする職業が、はたしてこの世にあるのか、と日々思っています。

 発達障害がわかれば、どんな子どもにも対応できる。
 発達障害がわからなければ、子どもはよくわからない。
 

第15回 ノーバート・ブレイニン(Norbert Brainin、1923-2005、オーストリア→イギリス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

アマデウス弦楽四重奏団の顔として活躍

 ノーバート・ブレイニンの名前に反応できなくても、アマデウス弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者と言えば、たいていの人はすぐにわかるだろう。アマデウス弦楽四重奏団は何度か来日している(初来日は1958年)が、ブレイニンがソリストとしての来日はなかったように思う(ただし、音楽祭とか、マスタークラスの講師として招かれた例があったかもしれないが)。
 ブレイニンは1923年、オーストリア・ウィーンに生まれた。若き日の履歴は知られていなかったが、アマデウス弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ジークムント・ニッセルの妻ミュリエル・ニッセルが著した“Married to the Amadeus: Life with a String Quartet”(Giles De LA Mare Pub Ltd.)のなかにいくつか情報が記されていた。それによると、7歳のときにヴァイオリンを始め、ほぼ同時に父が他界。最初の先生はいとこのマックスという人物で、彼は子どもにヴァイオリンを教えながら、ナイト・クラブでヴァイオリンを弾いていたという。ウィーン音楽院でウィーン・フィルのコンサートマスター、リカルド・オドノポゾフに師事し、ヴァイオリンのほかピアノ(ブレイニン本人は、へたくそだったと言っている)、対位法を学び、ローザ・ホホマン=ローゼンフェルトからは室内楽、ウィーン風のスタイルなどの手ほどきを受けた。
 1938年、イギリス・ロンドンに移住する直前に母も他界。ロンドンではカール・フレッシュ、続いてマックス・ロスタルに師事している。46年、ギルドホール音楽院主催のコンクールでカール・フレッシュ賞を獲得、翌47年、ブレイニン弦楽四重奏団を結成する。48年1月、名称をアマデウス弦楽四重奏団と改めて再出発、87年にヴィオラのピーター・シドロフが他界して解散するまで不動のメンバーで活躍した。60年、大英帝国勲章を授けられる。
 ブレイニンが初めてピーター・シドロフに会ったとき、シドロフもヴァイオリニストだった。両者の間でどのようなやりとりが交わされたのかは不明だが、シドロフは弦楽四重奏団を始めるにあたり、自身がヴィオラに転向した。かくして、弦楽四重奏団の性格を決定づける最も重要な役割である第1ヴァイオリンは、ブレイニンに託されたのである。ブレイニンはウィーン風の柔らかい音色と力強いダイナミズムをもっていて、非常に表情豊かだ。弦楽四重奏団とソリストを兼ねたヴァイオリニストというと、アドルフ・ブッシュや巌本真理を思い出すが、この2人に比べると、ブレイニンのソロ活動はずっと割合が低かったようだ。
 ブレイニンがソロ奏者として録音したものはさほど多くはないが、昔から知られているものとしては、盟友シドロフと共演したモーツァルトの『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364』があり、彼らはこの曲を以下のように3回録音している。ハリー・ブレック指揮、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ(HMV、1953年)、デイヴィッド・ジンマン指揮、オランダ室内管弦楽団(EMI、1967年?)、アレキサンダー・ギブソン指揮、イギリス室内管弦楽団(シャンドス、1983年)。このうち手元にあるのが1回目(テスタメント SBT1157)と3回目(シャンドス CHAN6506)のCDである。2つの録音には約30年の隔たりがあるものの、明るくよく歌うという点では全く同じと言っていいだろう。全体的に1953年録音のほうが全体的にややテンポが速く、両ソリストの音もいっそう若々しいが、83年録音はステレオ(デジタル)ゆえに、一般的にはこちらのほうが好まれそうだ。
 ブレイニン単独のもので、最もまとまっているのはベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(プライザー PR90703、3枚組み)だろう。これは1989年から90年にかけ、ドイツ・フランクフルトでセッション録音されたものである。この録音はすでに弦楽四重奏団の活動を終えたころのものなので、シドロフがもう少し生きていたら、もしかしたら実現しなかったのかもしれない。
 ブレイニンの音は柔らかく人懐っこい音色は変わらないものの、音の粒立ちが若干甘くなったり、あるいは美感を損ねてでも激しい感情の高ぶりを見せたりしている。従って、きちっとこぎれいに整えられた演奏を好む人には、いささか抵抗があるかもしれない。だが、このこぼれ落ちてくるような豊かな情感は、そうした細かなキズを忘れさせてくれると思う。
『第1番』から『第3番』のような初期の作品は、いかにも若々しく瑞々しく歌われるが、それぞれの緩徐楽章がことさら味わい深いのが印象的だった。これは、全10曲すべてに共通するといえる。約40年にわたり、弦楽四重奏のアンサンブルで培った経験がにじみ出ているのだろう。『「運命」交響曲』にもたとえられる『第7番』、対照的に穏やかな『第10番』など、それぞれの曲の性格を巧く弾き分けているが、極端に走らぬように配慮されているのも感じられる。
 ブレイニンの個性が最も発揮されているのは『ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」』と『同第9番「クロイツェル」』だろう。前者の第1楽章は、通常はさらりと流れるように弾くのとは正反対に、場面によってはかなりメリハリを付けている。第2楽章は晩秋のような風景で、これまた独特である。第4楽章では歌い方は多少ぎこちないけれども、暖かい音色が日差しのように飛び込んでくる。
 後者はすべての演奏のなかでも、最も特色があるだろう。第1楽章は最初の重音の弾き方からして実に独特で、主部が非常に遅い。口が悪い人は、速いテンポで弾けないからだろうなんて言いそうだ。しかし、テンポを伸縮させ、さまざまな表情を作るブレイニンのやり方には、この遅さは必然なのである。第2楽章は開始部分が、これまた非常にテンポが遅い。しかし、続く各変奏は決して先を急がず、それぞれの性格を慈しむように描き分けられている。以上の2つの楽章に比べると第3楽章は平均的な解釈に近いが、それでもこの気迫に満ちた表現はいかにもブレイニンらしい。
 言うのが遅くなってしまったが、ギュンター・ルートヴィヒなるピアニスト、これがなかなかすばらしい。ブレイニンの音楽にぴたりと同期しているだけではなく、タッチも明確、音もきれいである。音質も非常に良好。
 モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの作品を収めた2枚組みLP(BBC Records & Tapes REF313)も紹介しておこう。これらは放送用に収録されたもののようで、1964年から67年にスタジオで録られたものだが、音声がモノラルなのがちょっと惜しい。
 きっと多くの人が聴きたがるのは2枚目、名花リリー・クラウスと共演したものではあるまいか。曲目はモーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第32番K.376』、シューベルトの『ソナチネ第3番』、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第8番』である。モーツァルトはクラウスの小粋なピアノに乗って、ブレイニンものびのび歌っている。シューベルトはピンと張った清新な表情が心地いいが、モノラルのせいか、いささか地味に響くのが残念(蛇足ながら、モノラルのLPなので、モノラル用のカートリッジで聴くことを推奨したい)。
 ベートーヴェンはジャケットとレーベル面には2つの楽章しか収録されていないと表記されているが、実際に聴いてみると、ちゃんと全曲入っている。演奏は全集に入っているものと比べ、いっそうテンポが速く、若々しい。
 1枚目はラマー・クラウソンがピアノ伴奏を受け持ったもので、すべてモーツァルト。『ヴァイオリン・ソナタ第28番K.304』、『同第33番K.377』、『同第42番K.526』の3曲。クラウソンだって腕達者であり、特にクラウスと見劣りがするわけではない。どれもブレイニンの音色が生きたいい演奏だが、色々なワザや工夫が多々ある『第33番』が最も聴き物だと思った。
 この原稿書くにあたり、もうひとつの重要な録音であるブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ全集ほか』(Ducale CDL015、2枚組み)が、どうしても手に入らなかったことが悔やまれた。あちこち、さんざん探し回ったが、とうとう出てこなかった。

 

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第14回 ユーディス・シャピロ (Eudice Shapiro、1914-2007、アメリカ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

多方面で活躍したアメリカの逸材

 最近、活動を再開した復刻盤専門レーベルのビダルフだが、そのなかで琴線にふれたのがユーディス・シャピロのCD(85025-2)だった。このCDに収録されたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』が強烈だったので、この人に関して、全く突然に調べたくなったのである。
 シャピロはニューヨーク州バッファローの生まれ。幼いころから才能を発揮し、12歳でバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団と共演。イーストマン音楽学校で学んだあと、フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、エフレム・ジンバリストのクラスに入る(シャピロは女性で唯一加入が許された)。一時期ニューヨークに滞在したあと、ロサンゼルスに移住、ハリウッドでの仕事を始める。ハリウッド・スタジオのオーケストラで初めて女性のコンサートマスターに抜擢され、のちにパラマウント・オーケストラのコンサートマスターも務める。RCAビクター交響楽団ではヤッシャ・ハイフェッツのセッション録音の際にコンサーマスターも務めたが、ナット・キング・コール、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルドら、ポピュラー音楽の大御所のバンドでも活躍した。
 アーロン・コープランドや ルー・ハリソン、ダリウス・ミヨーなどの現代作品を積極的に演奏し、イーゴリ・ストラヴィンスキーともたびたび仕事をしていた。さらに、彼女の夫でチェリストのヴィクター・ゴットリーブとともに1943年に結成したアメリカン・アート四重奏団の第1ヴァイオリン奏者としての任務も、シャピロにとっては非常に重要だった(1963年、ゴットリーブの他界とともに活動は停止してしまう)。
 以上のように、シャピロはソロ、室内楽、映画音楽、ポップスと多方面で活躍していたが、その活動は単に幅広いものではなく、常に一流の音楽家たちとのふれあいだった。
 冒頭でふれたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』は1944年8月のライヴ(フランク・ブラック指揮、NBC交響楽団)であり、復刻の素材はアメリカ軍の慰問用レコードである。音は多少古めかしいが、ソロは鮮明に入っている。シャピロのヴァイオリンはヴィブラートが大きく、そして速い。実に伸びがある力強い音であり、ほのかな甘さもある。第1楽章、ぐいぐいと突き進むような覇気があふれる運びであり、とても濃い音楽だ。第2楽章も、広々とした空間に響き渡るような太くたくましい音色で、朗々と歌い尽くしている。最近は古楽器派の薄味演奏ばかり聴かされていたので、耳にはとてもいい栄養になった。第3楽章も、生き生きとした跳躍ぶりがいかにも楽しげだが、ふとテンポをゆるめ、ひと呼吸置く巧さにも感心した(同様の手法は第1楽章にもある)。
 解説によると、現在確認されているシャピロ唯一の協奏曲録音だという。こんなにすばらしいモーツァルトを聴いてしまうと、ほかの曲はどこかにないのか、とぼやきたくなる。
 協奏曲の次に収録されているのはアメリカン・アート四重奏団による小品が7曲。まず、最初のメンデルスゾーンの『スケルツォ』、この勢いと音の粒立ちのよさにはちょっと驚かされる。続くチャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲より)』やフーゴー・ヴォルフの『イタリア風セレナード』なども、シャピロの個性的な音が発揮されていて、ほかの演奏とはひと味もふた味も違っている。弦楽四重奏は4人の奏者の音色が平均化されているのが近代の主流だが、このシャピロのように、第1ヴァイオリンに個性的な奏者がいたほうが面白いと思う。以上の7曲は1953年の録音。
 最後の2曲はヴィクター・ヤング。ポール・ウェストンとそのオーケストラの伴奏によるムード音楽。1958年の録音で、これだけステレオだが、ムード音楽特有のエコーがかかった音である。したがって、シャピロの音は風呂場のなかで響いているような感じだが、彼女のうまさは十分に伝わってくる。
 同じくビダルフからは2枚組み(85026-2)もほどなく発売された。1枚目にはブラームスの『3つのソナタ(第1番―第3番)』とエルネスト・ブロッホの『バール・シェム組曲』(ピアノはラルフ・バーコヴィツ。1957年録音)を収録。ブラームスはともに力強くしなやかな演奏だが、なかでも最も成功しているのは『ヴァイオリン・ソナタ第3番』だろう。より自由な息吹が感じられる。ブロッホも、シャピロの個性がよく出ている。 
 2枚目にはベーラ・バルトークの『狂詩曲第2番』と『ルーマニア民俗舞曲集』、ミヨーの『ブラジルの郷愁』、モーリス・ラヴェルの『カディッシュ』(ピアニスト、録音データは1枚目と同じ)が入っているが、このなかでバルトークの『狂詩曲第2番』での切れ味と、ミヨーの表現の多彩さは特に聴きものだと思った。
 ストラヴィンスキーの『デュオ・コンチェルタンテ』『ディヴェルティメント(「妖精の口づけ」より)』は1962年のステレオ録音(ピアノはブルック・スミス)。ステレオの恩恵もあって、シャピロのよりいっそう透明な音色が楽しめるが、演奏自体はその昔に比べると落ち着きが感じられる。演奏、音質ともに『ディヴェルティメント』が傑出している。
 最後の2曲はムード音楽(ステレオ、1958年録音)で、フリッツ・クライスラーの『わが瞳に輝ける星』、ハインツ・プロヴォストの『間奏曲』(ともにポール・ウェストン編)、伴奏はポール・ウェストンとそのオーケストラ。全体的な音質や演奏内容は1枚ものの2曲よりも優れていて、この方面でもシャピロは一流だったことが聴き取れるだろう。
 以上、2点(CD3枚分)は協奏曲を除いて、すべて市販盤LPからの復刻である。LP特有のノイズはうまく処理されているが、なかにはちょっと音を削りすぎかと感じる曲もある。ただ、全体的には大きな違和感はなく、シャピロがどんなヴァイオリニストだったかを知るためには十分な内容だろう。
 なお、同じくビダルフからはアメリカン・アート四重奏団によるハイドンの『弦楽四重奏曲「ひばり」』、ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第10番「ハープ」』、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲』(ベニー・グッドマンのクラリネット)を収録したCD(BIDD85011)が発売されていることを付記しておく。

 

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ここが第二のスタートライン――『音楽ライターになろう!』を出版して

妹尾みえ

「FMで『音楽ライターになろう!』が紹介されていたよ」と知人が教えてくれた。兵庫県西宮市のコミュニティFM・さくらFMの番組「cafe@さくら通り」(6月8日放送)の「本棚に音楽を」というコーナーで、木曜パーソナリティーを務める安來茉美さんが取り上げてくださったのだ。
 こんな本が出ましたよというインフォメーションだけかと思ったら、1時間近くたっぷりの紹介でびっくり。本のなかで取り上げたスティーヴィー・ワンダー、ベティ・ラヴェット、ルイ・アームストロングらの曲も流れた。音楽を聴きながらだと、原稿をつづったときの想いが立体的に浮かび上がってきて、自分の文章なのに胸が熱くなった。そうなのだ、原稿はいつも聞こえる音楽と一緒。こうして耳を刺激する文章をつづるのが音楽ライターの役目なのだ。どんなにそれらしくても文章のなかに閉じ込めてはいけない。

『音楽ライターになろう!』を書いてみて予想外だったのは、現役ライターからの反響だった。なり方も仕事のやり方も誰も教えてくれなかったから読みたいという人もいたし、原稿料だけでは食べていけない!とハッキリ書いてほしいという人もいた。
 そしてみなさん、ライター業だけでなく、音楽を取り巻く状況に何かしらの葛藤を抱いて仕事をしている。
「ライターを育てる気がない音楽業界に嫌気が差す」と業界の知り合いにこぼした知人は、ChatGPTを引き合いに出して「いまみたいな音楽ライターは必要なくなるんじゃないか」と言われたそうだ。
 AIも使いようによってはよき相棒になるようだが、私自身は「聴き、評価し、自分の言葉で表現する」音楽ライターの仕事がAIが取って代わられるとは思わない。こうしてみると音楽ライターって、いろんな意味でフィジカルと連動した仕事なのかもしれない。
 そんな話題も含め、音楽業界の未来や、後輩に手渡したいことについて、もっと話したり発信したりほうがいいのだろう。これから音楽ライターになりたいという人が夢をもてるような話もしてみたい。

 などとエラソーなことを書いているが、今回の執筆では編集のみなさんにかなりご迷惑をおかけした。表現の甘さも痛感し、潮時という言葉も頭をよぎった。
 それにググればマニアックな情報でも収集できるいま、これからの音楽ライターは生半可な知識では勝負できないだろう。「ライターと読者の知識の差がなくなっている」という厳しい意見も耳にする。
 その分、これからはいままで以上に、書き手が何を聴いて、何を感じて、何を己の言葉で語るのかが重要になると思う。例えば、現場に足を運んで伝える、自分の視点でガイドブックを編む、専門誌ではないメディアで音楽を紹介する――私にしかできないこともあるんじゃないか?
 愚痴っている場合じゃない。もうひと踏ん張りしてみよう。私にとって、この本は音楽ライターとしての第二のスタートラインになりそうだ。
 

第13回 シュテフィ・ゲイエル(Stefi Geyer、1888-1956、ハンガリー→スイス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『クラシックの深淵』〔青弓社〕など多数)

バルトークに愛されたヴァイオリニスト

 シュテフィ・ゲイエルは戦前・戦後を通じて活躍したヴァイオリニストのなかでも屈指の実力を備えていたが、今日ではヴァイオリン関係の文献でさえも彼女の名前は見つけにくい。多くの人がゲイエルの名前に遭遇するのは、おそらくバルトークの『ヴァイオリン協奏曲第1番』の曲目解説だろう。『ヴァイオリン協奏曲』はバルトークがゲイエルのために書き上げたものの、ゲイエル、バルトークがともに他界してから公開されたことは周知の通りである。
 インターネット上にはゲイエルに関する様々な情報があるが、相変わらず根拠を示していない、思い込みのようなものが多いので、ここではイギリス・パールのCD“THE RECORDED VIOLIN VOLUMEⅡ”(BVAⅡ、3枚組み)に所収されている、タリー・ポッターの記述を引用しておく。
 ゲイエルは1888年6月23日、ハンガリーのブダペストに生まれる。名教師フバイに師事し、ヨーロッパ、アメリカで活躍し始める。1908年、師フバイの50歳の誕生日を祝い、フバイが書いた『ヴァイオリン協奏曲第4番』を演奏した。11年から19年までオーストリア・ウィーンに滞在、その後スイス・チューリヒに移住し、作曲家のワルター・シュルテス(下記のピアノ伴奏者と同一人物?)と結婚、スイス国籍を取得する。23年から53年までチューリヒ音楽院で後進の指導にあたり、パウル・ザッハーが主宰するチューリヒ・コレギウム・ムジクムにも加入、並行して弦楽四重奏の活動もおこなう。50年、フランス・プラードのカザルス音楽祭ではバッハの『ヴァイオリン・ソナタ』をクララ・ハスキルと共演している。56年12月11日、チューリヒで死去。
 バルトークが1907年から翌年にかけて最初の『ヴァイオリン協奏曲』を書いていたとき、バルトークがゲイエルに好意をもっていたことは明らかだったようだ。でも、なぜ、ゲイエルはこの協奏曲を弾かなかったのか? 単純に、ゲイエルは曲に対して完全に共感できなかったためと考えられる。また一方では、バルトークとの関係が密になるのを避けたいがために、ゲイエルはこの協奏曲を無視したのだと指摘する声もある。ただ、真相は不明だ。
 バルトークはその昔、ダラニ家の次女でありヴァイオリニストのアディラ・ファチリ(ファキーリ)に強い愛情をもっていた。実際、バルトークはアディラと一緒に演奏するために、ヴァイオリンとピアノのための小品を書いている。それでも、バルトークとアディラの関係は深まらなかった。すると、バルトークの関心は三女のヴァイオリニスト、イェリ・ダラニに移っていく。イェリはバルトークを優れた作曲家でありピアニストとして認識はしていたものの、バルトークにユーモアのセンスが欠けていたのがお気に召さなかったようだ。このように、バルトークは結局、3人の女性ヴァイオリニストにフラれたともいえる。
 話が横道にそれてしまった。SPにいくつかゲイエルの録音が残っているのは知っていたが、ゲイエル単独のCDは出ていないと思い込んでいた。ところが、つい最近、オークションでゲイエルのCDを見つけ、送料込み約1万円で落札した。これはフランスの復刻レーベル、ダンテのLYSシリーズ(LYS398)のものだった。このシリーズは発売点数は多かったものの、内容は玉石混交。しかし、“玉”のほうには唯一の復刻とされるものも多く含まれており、ここにゲイエルがあったのは驚きだった(ヴァイオリン関係に詳しい知人も、このゲイエル盤を知らなかった)。
 ゲイエルのCDは全7曲、すべてSP復刻である。最初はスイスの作曲家、オトマール・シェックの『ヴァイオリン協奏曲「幻想曲風」』(1912年、初演の詳細は不明)である。この協奏曲はバルトーク同様、ゲイエルに対するシェックの恋愛感情からの産物といわれる。これは1947年にフォルクマール・アンドレーエ指揮、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団によって録音されているが、確かこの曲の世界初録音のはずである。音の古めかしさは多少感じさせるものの、甘く、叙情的な情感を実に見事に弾ききっているゲイエルのソロはすばらしい。バルトークとは違い、ゲイエルもこの曲に強く共感しているのも聴き取れる。CDもさほど出ていないし、演奏会でもほとんど取り上げられないが、この演奏を聴けば、多くの人がこの協奏曲を好きになるだろう。
 次はモーツァルトの『アダージョ』、パウル・ザッハー指揮、チューリヒ・コレギウム・ムジクムの伴奏(録音:1938年)。ゲイエルは非常にゆったりと、一つひとつを味わい、慈しみながら弾いている。柔らかくはあるが、とても透き通ったきれいな音だ。
 モーツァルトと同じ指揮者、オーケストラの伴奏で、ハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(録音:1947年)がある。シェックの『ヴァイオリン協奏曲』では、かなりしなやかに、蠱惑的に弾いているゲイエルだが、ここでは古典的なたたずまいに徹していて、明るく冴え渡った音で弾いている。伴奏も、カチッとまとまっている。
 バッハには『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番』より「ルール」(録音:1930年)がある。これはハイドン同様に透き通った、いくらか硬質な音色ではあるが、品格とほのかな甘さが漂う逸品である。ゲイエルのバッハがこの曲しか残されていないのは、残念としか言いようがない。
 ゴルトマルクの『エアー』(録音:1927年、CDにはピアニストの表記なし。別資料ではW.シュルテス)はバッハよりもさらに甘く、柔らかい雰囲気が強い。あまり有名な曲ではないが、ゲイエルの個性がはっきりと打ち出されている。
 ドヴォルザーク(クライスラー編)の『スラヴ舞曲作品72-2』(録音:1927年、ピアノ:W.シュルテス)は、先ほどふれたパールのCDにも入っている。ややゆっくりめに弾き、テンポをゆらゆらと揺らしながら歌っている。このあたりが、いかにも古いヴァイオリニストである。
 最後はクライスラーの『美しきロスマリン』(録音:1930年、SP盤ではピアニスト不詳だが、このCDではW.シュルテスと表記)。この曲もテンポは気持ち遅め。普通は柔らかめに始まるのだが、ゲイエルはその逆。けれど、右に左にテンポは揺れ、少し強めのポルタメントも使用される。このように弾くヴァイオリニストは、最近ではまずいないだろう。
 以上、ゲイエルの主要な曲が収録されている単独のCDとして非常に貴重だが、ブックレットのSP番号、マトリクス番号の表記のデタラメさには驚き入ってしまった。
 手元にあるSPで、ダンテのCDには含まれていない曲が2つある。1つはマルティーニ(クライスラー編)の『アンダンティーノ』(英コロンビア LZ1/録音:1930年、ピアニスト不詳)。これはゴルトマルクと同様、柔らかく甘い雰囲気に満ちた美演奏である。もう1つはベートーヴェンの『ロマンス第1番』(英コロンビア LZX2/録音:1930年、ピアニスト不詳)。これまたゆったりと歌っており、ほどよいテンポ・ルバートと、ごく控えめなポルタメントを使用し、非常にうま味のある演奏を展開している。これだけを聴いても、ゲイエルの豊かな音楽性がしっかりと感じられる。なお、ゲイエルは『ロマンス第2番』は録音していない。
 ゲイエルの未発表録音があるとすると、スイスの放送局なのだろうか? メジャーな協奏曲を期待したいけれど、有名なソナタでもいいから、ぜひ聴いてみたい。

 

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人生はアップデート――書くことの原動力――『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』を出版して

石島亜由美

 本書が刊行されてから数週間がたった。印刷に回るギリギリまで校正をして、見れば見るほど修正したい箇所が見つかり、自己嫌悪に陥りながらもなんとか締め切りに間に合うように作業の区切りをつけて原稿を送り出した。そのあとはできるだけ原稿のことは考えないようにして淡々と日常を送ろうとしたが、気持ちを切り替える間もなく、ついさっきまで握り締めていたと思っていた私の原稿は書籍という印刷物になって目の前に現れ、あれよあれよという間に書店に並んでしまった。ネットを検索すれば「Amazon」でも簡単に買えるようになっている。本書の「はじめに」もウェブ上で試し読みができるようになっている。私が書いたものが私のもとを離れて、一冊の本として社会に流通してしまった。不思議な気分である。カバーに印字された「石島亜由美」という著者名を確認して、私は石島亜由美で、これは私の本なのだ、私は本を出版したのだと、いまさら照れくさい気分にもなっている。

 本書のタイトルは『妾と愛人のフェミニズム――近・現代の一夫一婦の裏面史』である。「妾」と「愛人」という存在を取り上げるのは、やはり勇気がいることだった。妾や愛人と聞けば、「夫の浮気相手」として非倫理的な存在という認識が一般的にあるだろう。そんな女性をフェミニズムが擁護するのかという批判の声が聞こえてきそうだ……。
 本書の議論は、妻の立場に揺さぶりをかけている。一夫一婦の法制度とジェンダー規範が確立した近代以降の日本社会では、妻は正しい存在であり、フェミニズムでもその立場は夫と対等になるために称揚され、妻の役割を肯定的に語ることが長い間の関心事だった。本書では、そうしたフェミニズムの経緯に水を差している。一夫一婦を支柱とした妻の問題を、妾・愛人の議論から照射しているのである。したがって、フェミニズム内部からは、女性間の対立の構造を深めるのではないかという声も聞こえてきそうだ。フェミニズム内外から飛んでくるだろう批判の声を感じ、おびえながら私は原稿を書き上げた。

 そして現在、出版されて数週間のためか、主だった批判の声はまだ私の耳には聞こえてこないが、意外だったことがある。本書の「はじめに」で、私がこのテーマに取り組むことになったきっかけを述べているが、その理由の一つに私の母親との確執があった。私が選択した道を「正しくない」と言って批判したうちの一人は、実は私の母親だったのである。その母親が私の本を読んで、この出版を心から喜んだのだった。「はじめに」に書いたそのことについても自分のことが書かれているとわかったようで、そのうえで「あのとき言い合ってよかったね」と、信じ難いほど前向きな感想が母親の口からもれたのである。
 本書を出版することは事前に母親には伝えていたが、出版は喜んでもらいたくても、本の内容、中身までは知られたくないという気持ちが強かった。せめて書名とカバーだけを眺めて、あとは何も考えないでページをめくらないでほしい。そのまま実家の仏壇の前に置いておいてくれと祈るような気持ちだったが、見事にその期待を裏切り、母親は読んでしまったのだ。読んだら落ち込むだろうと思っていた。複雑な気持ちになって、過去にこじれた関係もそのまま墓場までもっていかれてしまうのではないかという恐れを抱いていたが、杞憂だったとわかった。本書を書く原動力の一つだった母親との確執、私が身体に刻んできた過去のトラウマの一つが、この一言で吹き飛んでしまうような出来事だった。書くことでネガティブな経験は乗り越えられるということを、身をもって実感した出来事だった。

 もう一つ、この出版で私が乗り越えることができたと思うことがある。それは、大学を離れても研究を続ける原動力を失わず、自分が腑に落ちる在野での研究スタイルを見つけられたことである。私は女性学専攻の大学院に入って博士号を取得し、そのまま大学の研究職に就いたが、8年あまりでその道を断念して鍼灸師に転職した。大学を辞めるとき、大学を離れても研究は続けることを自分に課したが、鍼灸師の資格を取るために今度は専門学校に3年通い、国家試験を受験して資格取得後は臨床の現場に出ていく(しかも2つの治療院をかけもちした)という状況下で、二足のわらじを履くというのはそう簡単なことではないと悟った。
 今回の出版に際して、SNSをエゴサーチしていると、私が「鍼灸師」であることに反応しているツイートがあった。人文の世界からすると、鍼灸師で書籍も出版していることが面白い経歴として見られるかもしれないが、治療の世界では中途半端な存在として扱われる。専門学校を卒業して同級生が正社員として就職、あるいは独立・開業して鍼灸師としての腕を磨いていくなかで、私はアルバイト生活を送ってきた。バイトに通うだけで精いっぱいで、周囲が修練に費やしている時間を、私の場合はすべて原稿を書く時間につぎこんだ。同級生とはこの2年、私が執筆にあてた時間の分だけ実力の差が開いてしまったが、とにかく私は自分の意志を貫いた。二足のわらじでもなんとかやっていくことができる。大学を辞めたという過去を乗り越える出来事となった。

 ネガティブな経験は書くことで乗り越えられる。それが本書を出版して、いま、私が感じていることである。最後にもう一つ、いまだから言えることがある。本書を出版した青弓社は筆者が憧れた出版社だった。私は学生のときに青弓社の就職試験を受けていた。本当は青弓社の編集者として仕事をしたかったのだ。しかし、見事にその試験に落ちていたという過去の傷がある。無鉄砲だった当時の自分に恥じ入る気持ちを抱えたまま時は過ぎたが、そのときの記憶は本書の出版によって「苦い思い出」として、人に対して語ってもいい出来事に変化していることに気づく。ネガティブな経験や記憶は完全に消えることはないけれども、新しいチャレンジによって書き換えていくことはできると思う。本書をつくってくれた青弓社のみなさんに感謝して、「おわりに」で書いたことをもう一度ここで言いたい。今日のこの日の気持ちを「20年前の自分に伝えてあげたい」と思う。
 

第12回 ジャニーヌ・アンドラード(Janine Andrade、1918-97、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ブーシュリ門下の逸材
 
 1954年11月、ジャニーヌ・アンドラードはフランス政府派遣文化使節として来日した。もう70年近くも前のことになってしまったいまでは、このときのことが話題になることはめったにない。来日アーティストが本格化するのは57年から翌58年にかけて、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、レニングラード・フィルなど、海外一流のオーケストラが華やかな話題を提供して以来のことだった。ある意味、アンドラードの来日は、あまりにも早すぎたともいえる。
 アンドラードは1918年11月13日、フランスのブザンソンで生まれた。母親はピアニストだったようで、その影響でヴァイオリンを習い始めた。上達は驚異的で、26年には母親の伴奏で公開演奏をおこなっている。その後、パリ音楽院に名教師ジュール・ブーシュリに師事する。門下生にはジネット・ヌヴー、アンリ・テミアンカ、マヌエル・キロガ、イヴリー・ギトリス、ローラ・ボベスコなど、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。31年(1930年説もある)にパリ音楽院を卒業、さらに研鑽を積むためにジャック・ティボーやカール・フレッシュのもとで学んだ。その後、ヨーロッパ各地で公演し、日本を含むアジアや南米などを訪れ、好評を博した。レパートリーは非常に広く、フランスの現代作曲家の作品も積極的に演奏していた。
 アンドラードのレコードが最初に日本で発売されたのは1970年初頭で、テイチクがオーヴァーシーズのレーベルでチャイコフスキーとブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を廉価盤で発売したが、まったく話題になっていない(当時の表記はアンドラーデ)。
 アンドラードの国内盤が事実上最初に認識されたのはCD時代になってからで、2004年12月に日本コロムビアから発売された『アンドラード/ヴァイオリン・リサイタル』(COCQ83872)である。これはスプラフォン原盤によるもので、1965年のステレオ録音と56年、57年のモノラル録音、LP2枚分を含むものだった。
 このCDは目下のところアンドラードの録音のなかでも最も音質がよく、代表盤といっていいだろう。まず、ステレオ録音にはモーツァルトの「ロンド」、グルックの「メロディ」、パガニーニの「ラ・カンパネラ」など、クライスラーの作曲・編曲の小品が11曲。クライスラーの小品集は世の中には多数存在するが、このアンドラードの演奏は、なかでも最も魅惑的な一つである。音色は明るく、やさしくて艶やかであり、愉悦感たっぷりに弾きながらも、とても上品。聴けば、誰もが好きになるヴァイオリンだろう。
 モノラルのほうはカサネア・ドゥ・モンドヴィユ、ヨハン・マテゾン、フランツ・リースなど、あまり知られていない作曲家の名前が連なるが、演奏の魅惑という点では、ステレオ録音を上回っているかもしれない。ことに、リースの「常動曲」のなめらかさ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(旋律はストラヴィンスキーの「プルチネルラ」に転用されている)の美しさは印象的だった。また、パガニーニの「ラ・カンパネラ」はモノラルでも録音されていて、ステレオ版と比較できる。
 音質を重視するのであれば、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第2番』『第6番』(いうまでもなく、現在では偽作とされている)(Berlin Classics 0184122BC)がある。伴奏はクルト・マズア指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で、1966年、67年に収録されている。これは、アンドラードが東ドイツに招かれて演奏したときに収録したもので、解説にはアンドラードがハンス・プフィッツナーの『ヴァイオリン協奏曲』をラジオ放送用に収録したとある。
 マズアの伴奏は、中庸ではあるものの、もうちょっとだけ、しゃきっとしているといいなと思う(協奏曲にもかかわらず、マズアの顔のイラストがデザインされている表紙も無粋)。曲は地味だが、アンドラードのソロは美しい。音質は特に不満のない鮮明なステレオ録音だが、何となく丸みを帯びているような気がするので、おそらくはオリジナルのLP(東ドイツ Eterna 825824)で聴くと、もっといいかもしれない。
 手前味噌になってしまうが、自家製レーベルによるチャイコフスキーとブラームスの『ヴァイオリン協奏曲集』(Grand Slam GS-2082)にも触れておこう(復刻に使用したのは2曲ともLPである)。これはハンス=ユルゲン・ワルター指揮、ハンブルク・プロ・ムジカ交響楽団によるもの。この演奏については、いろいろと不明な点が多い。まず、オーケストラは契約関係によるものだろう、実体は北ドイツ放送交響楽団だという。録音はステレオだが(モノラル盤のLPでも発売されている)、録音データは1950年代ということしか知られておらず、なかには59年と特定しているディスクもあるが、根拠がはっきりしない(この1959年は初発売年の可能性もある)。
 さらに不可解なのは、指揮者はワルターのままであってもオーケストラ名が異なったり、あるいはソリスト、指揮者、オーケストラの全部が偽名・変名で表記されたLPが何種類か発売されていることである。理由はわからない。
 そうした周辺の事情はさておき、演奏はすばらしい。ゆったりと構えて呼吸は深く、実にのびのびと、スケール感豊かに描き上げている。芯は強いけれども、表面は艶やかな音色も一級である。しいて言えば、ブラームスがいっそう見事だ。ブラームスでは同門のヌヴーの評価が高いが、アンドラードのそれはヌヴーに十分匹敵すると思う。
 この2つの協奏曲は、いまとなってはGS-2082の中古を探すよりも、中古LPを探すほうが楽かもしれない。
 なお、最近アンドラードの独奏、ランドルフ・ジョーンズ指揮、ベルリン交響楽団による『チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲』のLP(イタリアJoker SM1025)がある通販サイトで「従来とは別の、演奏会録音」とあったので購入してみた。しかし、中身は上記のワルター指揮のものと全く同一だった。
 そのほかのCDではアンドラード単独のものを紹介しておこう。一つはセザール・フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』、ガブリエル・フォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』、シューベルトの『ソナチネ第3番』(melo Classic MC2013)。これは1958年、60年の放送用録音で、音はモノラル。
 演奏はどれも秀逸で、特にフランクの『ヴァイオリン・ソナタ』はアンドラードの個性が存分に発揮された名演といえる。音質は良好だが、音量の差が整えられていないのが欠点だ。たとえば、フランクの第4楽章など盛り上がる箇所なのに、音量が小さくなっている。元の録音がこうなっているのかもしれないが、これはマスタリングの際に調整すべきである。
 もう一つはベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第7番』と『第3番』、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ第40番K.454』、アルベール・ルーセルの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』(melo Classic MC2021)、1955年、57年、60年、モノラルがある。
 このなかで最も印象的なのはベートーヴェンの『第7番』かもしれない。ハ短調ゆえか、『運命交響曲』のような闘争的な内容として知られているが、アンドラードの演奏は聴き手を包み込むような大らかさが感じられる。また、曲はあまり有名ではないが、アンドラードの艶やかさが強く感じられるのがルーセルの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』ではないかと思う。
 全体の音質は悪くはないが、MC2013と同じようにトラックによって音量差があって、聴いている途中でアンプのボリュームを調整しなければならないのは難儀である。
 以下の協奏曲はほかの演奏と組み合わされたものである。ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』、フランツ・コンヴィチュニー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、1959年のライヴがある(melo Classic MC2038、ジャンヌ・ゴティエとの組み合わせ)。
 音はモノラルだが良好。チャイコフスキーやブラームスの協奏曲と同様、実に立派な演奏である。びくともしない安定感があり、悠々と、朗々と、しなやかに歌いまくっている。これを聴いても、アンドラードがヌヴーやミシェル・オークレールなどと同等な力量をもっていたことは明らかだろう。
 ダヴィッド・オイストラフ、ヘンリク・シェリング、ボベスコ、ドゥニーズ・ソリアーノが組み合わされた2枚組みのなかにはシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(Spectrum CDSMBA057)がある。これはアンドレ・ジラール指揮、フランス国立管弦楽団、1962年の放送用録音で、音はモノラル。
 音質はいいけれど、オーケストラがいささか奥に引っ込んだバランスがちょっと残念だが、ソロはきれいに捉えられている。演奏は非常に濃厚な感じが強い。シベリウスの透き通った叙情とはいささか異なるかもしれないが、エネルギーを絞り出すようにして歌いまくるのは、やはり感動的である。
 なお、このCDには2カ所、指揮者の姓がGiradと表記されているのは、Girardが正しいようだ。
 次はジャン・マルティノン指揮のプロコフィエフの『交響曲第5番』、シャルル・ルノー(チェロ)のシューベルトの『アルペジオーネ・ソナタ』と組み合わされたマックス・ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』がある。伴奏はルイ・フルスティエ指揮、フランス国立管弦楽団で、1970年1月のスタジオ収録で、ステレオ録音である。これは現在知りうるなかでは最も晩年の録音であり、少なくともこの時期までアンドラードは現役だったようだ(1970年代前半に演奏活動から遠ざかり、その後は主に後進の指導をしていたとされる)。
 厳しい目で見れば、1950年代、60年代の演奏と比較すると、いささかぎくしゃくした感じは見受けられる。とはいえ、あからさまに衰えたというほどではない。第1楽章の弾き始めを聴いても、聴き手を吸い寄せるような蠱惑的な音は以前と変わっていない。この録音もオーケストラがやや奥まった感じになっているが、アンドラードのソロはステレオの恩恵もあって、より鮮明に聴き取れるのがありがたい。特に印象的なのは第2楽章。本当に気持ちがこもった、心に染み渡る美しいヴァイオリンである。
 きちんとした形で聴いてみたいのはニルス=エリク・フォーグステッド指揮、フィンランド放送交響楽団とセッション録音したシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』(デンマークDecca DLP9001)である。このLP(10インチ)はデンマーク以外の主要国、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどではプレスされなかったため、中古市場でもきわめて入手が難しい。収録は1959年といわれるが、これは正しいかどうかはわからない(モノラルであるのは判明しているが)。粗末なCDRで売っているのは知っているが、そんなものを集めても意味がない。また、イギリスのシベリウス協会がCD化したようだが、これはおそらくCDRではないだろうか。海外ではCDとCDRは同レベルで扱っているが、やはり耐久性の点でも、CDRは信頼性が低い。それに、この協会のCDだってほかの演奏と組み合わされているだろうから、アンドラードのファンには向いていない。
 そのほか、CDRでサン=サーンスの『ヴァイオリン協奏曲第3番』なども手に入るようだが、やはりCDRは手に取ったときに、ありがたみが非常に薄く、コレクションとしての価値は低い。
 1953年9月、アンドラードはシェリングとともに師ティボーを見送るために、オルリー空港に向かった。いうまでもなく、ティボーは日本へ向かうはずだった。間もなく、ティボーらが乗った飛行機がアルプス山上に激突したニュースが舞い込む。
 ティボーの突然の死は、アンドラードにとっても衝撃だったはずだ。その師が向かおうとした日本に、翌1954年に訪れた彼女の胸中には、どんな思いがめぐったのだろうか。アンドラードはティボーから、日本や日本の聴衆について、何らかの話を聞いていたのだろうか。あるいは、日本に滞在中に、アンドラードがティボーについて、何か質問されたことがあったのだろうか。
 しかしながら、アンドラードが来日した際、彼女は全くの無名に近かったし、レコードもなかった。そのため、来日時には、インタビューなどの記事は計画されなかったようだ。

 

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生きている人間を推すからこそ“変人”となる勇気を――『宝塚の座付き作家を推す!――スターを支える立役者たち』を出版して

七島周子

「七島さん、郵便がきてるよ」
 2021年の冬、出社すると青弓社からの封書が届いていました。
 私は編集者で出版社勤めをしているとはいっても、美容師や美容業界向けの業界誌を制作する会社。ほかの出版社から封書が届くのは珍しく……、それで違和感があったのかも。隣の席の先輩が教えてくれました。
 それが拙著『宝塚の座付き作家を推す!』が生まれる最初の一歩。この依頼は、当時私があるヘアカタログサイトで連載していた、好きな座付き作家を好き勝手に紹介するコラムを見つけてもらってのことでした。
 この連載自体は、同サイトの編集長からじきじきに依頼を受けた正式な仕事ではあったけれど、媒体はヘアカタログサイトだし、編集長も美容業界誌の編集として新人時代からお世話になっているいわば“兄弟子”のような人だったため、心のどこかで「美容の仕事」と一続きのものと思っていました。小さな自宅の庭で気の置けない家族とつつましく野菜や花を育てているような、そんな感じ。それを「世の中に出荷しませんか」と。これには大変驚き、率直にうれしくワクワクしたのを昨日のことのように覚えています。
 業界は違えど同じ編集者の目線から見ても、私の連載はいわゆる「バズっている」ようなものでもないし、私自身もまったく無名。それを見つけて出版の決裁をするの、同業者として感服です。すごい勇気と決断……! また、書籍執筆が初めてで、どこもかしこも未熟な私の論を「おもしろい」と評価してもらったことは支えになりました。

 青弓社が「おもしろい」と言ってくださるように、私の視点はかなり変わっていると思います。まず、そもそもタカラヅカというスターシステムがウリのコンテンツで作家の話を必死にしているの、はっきり言って“変人”です。
 さらに、彼ら/彼女らの作品を評価する観点もだいぶ変わっています。仮に私と同じように作家に興味をもつ読者だったとしても、きっと共感を集めることはないでしょう。「作家を推す!」と冠していますが、“推しカルチャー”の根本ともいえる「“好き”を共有してつながる」ということは期待できない本です。
 なぜそんな本になったかというと、本書全体で述べたいのが、“推しカルチャー”のなかでの作品受容は「“推し”に対する“好き”がすべて」という風潮が強いことへの疑問だったから。もちろん、推し活そのものは「“好き”がすべて」でいいと思います。ですが、その“推し”が出ている作品、その人が関わり残す仕事に対して「関わっているから尊い」だけでいいのか?、 それって本当にその“推し”は喜ぶの?と常々思っていたのです。

 その疑問の背景にあるのは、まず一つに、その“推し”も生きているからということです。私はタカラヅカに始まり、いろんなものや人を推してきた半生でしたが、いつも「生きている人間を推すってなんて怖いことだろう」と思ってきました。彼らにも人生があるのに。
 タカラヅカ以外の俳優やアイドルのファンなどが特に顕著ですが、たとえば恋愛・結婚や脱退、引退など、本人のライフステージに関わることに対して「こうあるべき」を振りかざすことは普通におこなわれていて、そうやって「正しさ」で導くことが“推し”を応援することだと思われているふしもあります。私は25年間「生きている人間を推す」ことをやってきましたが、あらためて順応したくない価値観です。そして、本当に“推し”の人生を尊重できる応援の仕方を心がけ、模索してきました。
 タカラヅカは音楽学校に始まる「学校システム」から、“推される人たち=生徒”の人生に対してファンが干渉しづらい仕組みができています。そんなタカラヅカだからこそ、単に「贔屓がかっこよければいい」「贔屓や相手役をすてきに(ファンが願うとおりに)見せてくれる作家こそが正義」というだけでなく、もっと多様な作品の楽しみ方を提案できればと思いました。拙著にラインナップした12人の“推し”座付き作家たちの共通点は、作品の出来・不出来やファンを喜ばせることが得意かどうかではなく、生徒たちの役者としての成長やキャリアアップに寄り添うように作品をつくる、まさに「先生」として私が愛せる人たちだということはここに補記しておきます。

 もう一つは、先に述べたようにタカラヅカの作品は生徒と先生の成長と人生観を投影したものですが、それと同じくらい観劇するという行為そのものが、本来は観る人を映す鏡だと思うからです。私が胸を打たれる作品に「生徒たちのよき師」としての座付き作家の姿勢を感じるのは、私自身の宝塚音楽学校受験の経験に基づいていると思います。さらに、いま身を置いている美容業界も師から技術を受け継いでいく教育産業なので、ことさらにその点に思い入れをもつのだとも分析します。だからこそ「変わって」いて、多くに共感されるマジョリティにはなりえません。
 しかし、これは何も私だけの特別な事情ではなく、本来は観客のみなさん一人ひとりにそういった人生の違いがあるはず。仕事も境遇も育ちも何もかも違う人たちが一つの同じ作品を見て、まったく同じ感想で「共感」しあおうとするのって、本当はとても違和感があるな、と。先に述べた「「関わっているから尊い」でいいのか?」というのは、作品の良し悪しをもっと批評すべきということではなく、せっかくなのだからもっと没入しようよ、という提案でもあるんです。まったく違う人生を生きている人たちが一堂に会し、一つの作品を見る。その人生によって、同じ場所で同じ時間に見ても、感じ方がまったく違うかもしれない。それが自由であることが舞台や映画、ライブを鑑賞する醍醐味ではないでしょうか。

 とはいえ、本来その「違い」が怖いから、現代人は「“推し”が好き」ということでつながり安心したいのだということも見当がついているのですが……。それでも、せっかくその“推し”たちが生活のほとんどをなげうってつくっている作品に、こちらも同じくらいの熱量で没入することが彼らに対する敬意であり、何よりの応援ではないでしょうか。
 私が自分の「小さい庭」から大切に育ててきたものをみなさんに出荷してお役に立てることがあるとすれば、共感していただくことではなく……、もっと広く深く自由に作品読解の畑を耕し、心の土壌を肥やすことができる方法の提案。舞台観劇を通してご自身の心をもっと深く知ることができるような、小さな鍬のような存在になれたら幸いです。