タジタタン――あるいは上梓までの日々――『〈サラリーマン〉の文化史―― あるいは「家族」と「安定」の近現代史』を出版して

鈴木貴宇

 ものを書く仕事に就きたいなと憧れた10代のころ、そのイメージは万年筆を手に原稿用紙に向かい、一つの形容詞が思い浮かばずにため息をついて、早朝の森に散歩に出たりするといった、どうも串田孫一的スノビズムに彩られた、おまけに時代がかった「文人」のものだった。もちろん場所は片流れの品のいい屋根の別荘で、そこには無口だがすべてを心得ている年配の家政婦がいて、そっと紅茶を入れてくれる。訳ありの渋い執事でもいいけど、まあとにかく、私は万年筆を握ってさえいればいいのだ。時折はウイットの効いた編集者が、老舗和菓子なんぞを差し入れにきたりする。
 さすがにそりゃないわなと大学院に進学したあたりで気がつくのだが、今度は論文の執筆というのは、きっと知の集積みたいな研究室で、厳しい面持ちで臨むものに違いあるまい、とこれまた勝手にイメージしていた。これも違うわなと現実を知るものの、どこか「単著上梓」ということに関しては、最後のロマンではないけれど、なんとなく「おお! われ成し遂げり!」的な充実感があるんだろうなあと思っていた。メンデルスゾーンの「おお雲雀」が高らかに響いてしまう感じである。

 それも一つには、「あとがき」の為せる業だとおもう。これまで読んできたあまたの本にある「あとがき」は、なんてスタイリッシュなものが多かったことか。著者は必ず「理解ある職場」にいて、さらに「孤独を分かち合う友」もいて、おまけに「そっと励ましてくれる妻ないし夫」もいる(さらに、いつも寄り添ってくれるペットまでいたりする)。そして「セーヌ川のキャッフェで談論風発の日々を思いながら」なんていう締めの言葉で終わったりするのだ。ああ、私もそういうことを書いてみたい!と、三十路に入ったあたりから、悶々と「エセあとがき」を書いたりしていた。
 まあ、それは無理でも、とりあえず落ち着いた状況で行く末越し方を考えながら「あとがき」を書くことができたら、それだけでずいぶんと幸せじゃあないか、といろいろあった不惑以降の私は、ささやかながら「あとがき」を書ける幸せを楽しみにしていたわけである。

 ところが。まず青弓社の校正者は大変に熱心で、改善提案みっちりの初校ゲラが届き、当初はうれしい悲鳴も最後には単なる悲鳴となりながらなんとかゲラを返したら今度は編集部が私の訂正に手間取り(ごめんなさい)、さらにコロナ禍でスケジュールがすべて押せ押せとなって、私の本って本当に出るのかしらと訝しむ時期があったくらいである。
 かと思えば、年度が明けたら今度は猛ダッシュでどっかどかとゲラが投下されてきた。しかも「8月末に刊行するので、いついつまでに再校念校見本印刷」と、怒涛の勢いである。「あ、ということで、「あとがき」は7月7日までにデータで送ってください」との指示が期日3日前、すでに学期末のとんでもなく忙しい時期に入っている。七夕の日が締め切りというのはちょっとステキかしらと思うも、甘かった。通常授業の期間でさらに学期末となると、もはや「ステキ」なものなんてお茶休憩のチョコレートくらいしかないんじゃないかと思うくらい、バタバタである。文学少女のころからあんなに思い入れがあった「あとがき」なのに、ローソンのからあげクンをつまみにノンアルコールビールを片手に書くことになった。

 いま思えば、それしもまだマシだった。いよいよ書影が出て、うわあ、本当に出版してもらえるのか、いやはや、とドキドキする日が続いた8月はじめ、なんだかとにかく部屋が暑い。いやあねえ、緊張してるからほてってるのかしら、意外とウブなところがあるわね私、なんて思っていたら、本当に暑い。熱中症になりそうな気配である。もちろんエアコンはつけている。だけど原稿用紙のマス目が汗でにじむくらい暑い。ふと見れば、エアコンの電源ランプが点滅していて、送風口からは熱風が出ている。
 築10年ちょっとの物件で、決して古いものではないけれど、設備も10年たてば劣化する。さらに最近の暑さだ、フル稼働となったエアコンを責めるのも気の毒である。しかし、さすがに30度を超える日本の夏をエアコンなしで過ごすのは無理だ。おまけに念校も抱えている。しかもこれが起きたのは日曜日、管理会社の代行さんは、「ええ、そら暑いですよなあ、よくわかりますわ、だけどどうしようもないんですよなあ」の繰り返し。
 仕方ない、とりあえずビジネスホテルをとって、修理を待つしかないかと考えた月曜日、勤めを終えて電車に乗っていたらスマホが振動する。見るとなんと警察である。一瞬、再校ゲラが遅れてるから警察から督促がきたのかと焦るが、そんなわけはあるまいと電話に出ると、「あ、えーと、鈴木さんですか? あなたの住んでる建物、火事になってまして」と言うではないか。

はい?

 閑話休題。要は、隣室の壁のなかにあった分電盤がショートして、たまたまリモートワークで家にいた住人は急に部屋に煙が立ち込めるからびっくりして外を見たら燃えていた、ということらしい。消防車が派手に噴水してことなきを得たが、着いてみたら隣室の外壁は無惨に剥がされ、こりゃしばらく住めませんよねは一目瞭然だった。
 エアコンが壊れたおまけに火事に遭いまして、つきましては念校は大学に送ってください、と担当編集者さんに伝えたら「そりゃまあ、タジタタンですなあ」と呆れたのか驚いたのか、そんな言葉で返された。タジタタン? ああ、多事多端か、と脳内変換するも、多事多難ではなく「多端」ときたかと感心する。単に言い間違えかもしれないけれど、「タジタタン」という響きは、どこかスタッカートで、軽やかではないか(そんなことないか)。

 そんなわけで、何事も現実は小説よりも奇なりを地で行くような日々を過ごすうちに、10年かかった拙著『〈サラリーマン〉の文化史』を無事に上梓することができた。「あとがきのあとがき」くらいは、それこそ文人らしいことを書きたかったのだが、どうやらこれが私の身の丈である。最終章に登場してもらった山口瞳にならって、「この人生、大変なんだ」ということで、お読みいただけたらとてもうれしい。

 

過剰に誇張するネットの作用――『女子はなぜネットを介して出会うのか――青年期女子へのインタビュー調査から』を出版して

片山千枝

『女子はなぜネットを介して出会うのか』というタイトルで、今回執筆しました。まずは、このような機会をくださったみなさまに心から感謝したいと思います。今回の執筆前後で、私は以下のようなことを考える機会があったので、コラムに記します。
 それは、ネット上の発信は良くも悪くも、そこで発信されている内容を誇張する効果があるという点です。関連する研究では、炎上に関するものやCMC(Computer-mediated communication)に関するものなどがありますが、後日きちんとレビューしたいと思います。
 具体的には、ネット上の発信をプラスに捉えると、それを発信した相手を過剰に評価する傾向にあるのではないかということです。本書でも言及していますが、特に「Twitter」や「LINE」などネット上のサイト・サービスを介して知り合った相手だと、①視覚的情報が制限されている点や②物理的距離がある点などから、相手を過剰に評価すると考えられます。既存の友人・知人であれば、対面でやりとりする機会もあるため、相手に対する「自分の妄想」や「思い込み」をある程度修正できると思うのですが、ネットを介して知り合った相手は対面で会う機会がほとんどないと予想されるため、相手に対する「自分の妄想」や「思い込み」を修正できない恐れがあります。「こんなすてきなメッセージをくれる人に実際に会ってみたい」「実際に会ったら、画像や動画よりもよりカッコイイ/カワイイかもしれない」と相手に過剰に期待した結果、ネットを介した出会い(ネットを介して知り合った人と実際に会うこと)を実現すると考えらえます。ちなみに、これを本書では「能動的出会い」と定義しています。
 逆に、ネット上の発信をマイナスに捉えると、それを発信した相手を過剰に非難したり、その内容からさらに否定的な想像や思い込みをしたりすることも考えられます。相手のことを肯定的に評価しているときは発信のすべてがよく見えますが、少しでも自分の想像と違ったり、相手が自分の意に反することをしたりすると、相手の発信はもちろん、相手の存在まで否定的に捉えてしまうことにつながるのです。
 ネット上の発信は基本的に文字でのやりとりが中心なので、対面と異なり誤解が生じやすい(メラビアンの法則)というのも、良くも悪くもネット上の発信がそこで発信されている内容を誇張する理由になると思います。また、私自身が実感していることですが、検索機能の充実により、ネット上では似た情報が集まりやすいということも、その理由として挙げられます。たとえば、「ネット恋愛」と検索すれば、ネットを介して知り合い、恋愛・結婚をした体験談やすてきな「ネット恋愛」をするための方法を指南してくれるサイト・サービスがたくさん出てきます。だからこそ、「私もこんな恋愛がしてみたい」と期待と想像が必要以上に膨らみます。一方、「ネット恋愛 詐欺」「ネット恋愛 騙された」と検索すれば、それに関する犯罪実態や事件・ニュースなどが出てきます。それらの情報を見て、過度に不安や恐怖を抱くことも考えられます。良い情報も悪い情報も、ネット上では検索結果を1つクリックすれば、さらにそれに関連するサイト・サービスが際限なく提示されるので、アリの巣地獄ならぬ「検索地獄」から抜け出せなくなり、自分の「想像」や「思い込み」をコントロールできなくなってしまうといえます。その結果、「ネット依存」はもちろん、ネット上の情報量の多さに「ネット疲れ」や「SNS疲れ」に陥る人も少なからずいると思います(ちなみに、私自身も「検索地獄」にはまり、自分自身をコントロールできなくなった一人です)。
 本書では女子のネットを介した出会いに注目し、その実態について執筆しましたが、女子のネットを介した出会いの背景には、ネット利用に伴う様々な社会問題が潜在していると私は考えます(「ネット依存」や「ネット疲れ」など)。本書ではそれらすべてを明らかにすることはできませんでしたが、本書をきっかけにして、それらの社会問題を今後明らかにしていきたいと考えていますし、その手伝いができればと思っています。

 

第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判

[第4章構成]
4-1 資本主義批判の枠組みの組み替え
   ・上部構造への資本の介入
   ・監視資本主義
   ・資本主義と機械
   ・支配的構造の歴史的変容
4-2 予測と制御:意味生成過程
   ・使用価値とパーソナリティ――〈労働力〉再生産過程と意味使用価値
   ・買い手にとっての意味使用価値
   ・パラマーケットの変容
   ・選択の自由と操作的言語
4-3 空間の解体
   ・プライバシーと空間
   ・空間の配置とパラマーケット
   ・資本主義における自己同一性
4-4 非知覚過程
   ・モノの回路とコミュニーションの回路
   ・資本に有機的に組み込まれたパラマーケット
   ・ユーザー追跡技術
   ・監視システムとしてのパラマーケット
   ・ユーザー追跡技術への批判と抵抗
   ・政府による非知覚過程の利用
4-5 コミュニケーション労働と非知覚過程
   ・コミュニケーション労働の実質的包摂へ
   ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
   ・コンピューターと身体性
4-6 フェティシュな人工知能
   ・フィードバックの副作用
   ・恋着と同一化の対象としての人工知能
4-7 官僚制と法の支配の終焉
   ・政治過程にコンピューターが介在するとはどのようなことか
   ・では現行の法の支配のほうがマシなのか
   ・個人の意思と集団の意思
4-8 ナショナリズムの再生産構造
   ・ナショナルアイデンティティ
   ・パラマーケットとナショナリズム

4-1 資本主義批判の枠組みの組み替え

 本稿全体の冒頭で、マルクスの資本主義認識に立ち返りながら、現代資本主義の基本構造を、土台―上部構造の定式に対する資本主義的な応答としての、上部構造の土台化、土台の上部構造化について述べた。つまり、政治権力と資本の意思決定構造が相似形をとるようになる、ということだ。マルクスの資本循環図式を形式的に当てはめて表現すると、以下のようにも言うことができる。権力の生産過程は、統治機構の物質的条件(権力の生産手段)と官僚、議員、裁判官などの人的な資源によって、構造への「従属」という政治的生産物が生産される。これを「国民」やこのカテゴリーから排除された人々が「消費」することを通じて、「従属」が再生産される。
 資本が介入する伝統的な回路は、ケインズ主義の公共投資と土木建設資本の関係のようなインフラ投資の時代から新自由主義の公共サービスを民間資本に開放する時代へと展開してきた。この前提には、公共サービスを生存権の保障のための国家の義務として理解することから、財政負担を伴う「費用」とみなして採算を優先させるような国家の側の義務理解の根本的な転換があり、その結果として、公共サービスが資本に利潤をもたらすことが可能な領域に組み込まれることになった。一般に、この過程は民営化とか小さな政府と解釈されてきたが、私は、逆に、権力の生産過程が資本の生産過程と融合しはじめたのであって、小さな政府ではなく、政府機能が市場経済に有機的に結合しながら、市場そのものが政治化する契機となったとみたほうがいいと考えている。政府は小さくなったのではなく、民主主義的な統制の外部で大きくなったのだ。従来の公共投資では、資本は、政治的生産手段を担うこと(道路や港湾、都市開発など)を通じて政治過程と外的・形式的に接合していたにすぎなかった。いま起きていることは、官僚制など権力の生産過程を担う人的な組織の資本との内的・実質的接合である。伝統的な近代の権力の人的組織が担ってきたのは、意思決定と、その前提にあるコミュニケーションや情報の管理である。さらには、法の「生産」とこれを適用することができる力である。コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的技術となる時代には、デジタル庁のように、この過程がデジタル・トランスフォーメーション(DX)として展開されることになる。

上部構造への資本の介入

 CTCが支配的構造の基軸をなすようになったきっかけは、インターネットの商用利用への開放だった。これが1990年代後半以降一気に加速化し、社会のコミュニーション・インフラとして定着したことによって、民間資本のなかでも、情報通信分野が資本蓄積の基軸産業へとのしあがることになる。郵便や電信電話の民営化をこの文脈のなかで見直すと、単純に公共サービスが開放されて市場経済の論理に支配されたというように解釈することだけでは不十分だとわかる。政府と資本は、CTC分野に投資する民間資本が確実に収益をあげられるような構造を準備すると同時に、これが支配的構造による社会全体への制御を実現するような拡がりが目指された。ここで重要な意味をもつのが、コンピューターによる情報処理の高度化がインターネットのような双方向のネットワークと結び付いて、人々の生活必需品として日常生活空間に組み込まれ、その先に、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)のような、商品の使用価値を媒介しない直接的な人間の意識制御技術が企図されてきたという点だ。政府や資本の権力のトップから個人一人ひとりのプライベートな空間までが、ひとつの通信プロトコルによって接合可能なネットワークのなかに組みこまれた。こうして、双方向のネットワークは、一方で、一般の人々に対して不特定多数への情報発信の力を与えることになると同時に、政府や資本には、これまでは不可能だった個人のプライベートな情報を詳細に、かつリアルタイムに収集することが可能な力を与えることになった。こうして、個人の発信力の高度化と個人データの際限がない収集を通じて、コミュニケーションが社会構造のなかでもつ意味が変容した。これが土台と上部構造の相互浸透過程を生み出す決定的な要因となった。
 道路などの公共事業の民営化と医療や教育など人を対象とするサービスの民営化の間には本質的な違いがある。統治機構の構造を理解する場合、権力が統治の対象とする人間(人口)との関係を考慮する観点からみる必要がある。権力や政治過程にとって、「人間」を「国民」として従属の構造に組み込むことが最大の課題であり目標でもある。この意味で権力は人間を手放すことはできない。逆に、資本にとって人的な条件は、コストであり、機械化によって排除の対象になるか、消費者として商品を買わせるようにコントロールするためのターゲットだ。資本主義を支える構造のなかにありながら、政治過程と経済過程とでは、「人間」への扱いに関する戦略がまったく異なる。いま起きていることは、官僚制であれ、議会であれ、裁判所であれ、これらの権力過程のなかの人的な要素が排除され、意思決定にコンピューターが代替しはじめているということだ。民主主義は人間的条件によって構築されることが大前提になっているから、コンピューター化による人間的条件の排除は民主主義の本質を変質させることになる。他方で、権力の「生産物」である「国民」としての「従属」的な人間は、市場の消費者を制御する技術の応用として、コンピューターによって代替された意思決定を心理的にも受容する。

監視資本主義

 ショシャーナ・ズボフは『監視資本主義』のなかで、こうした構造転換を監視資本主義として概念化した。
「監視資本主義は、人間の経験を行動データに変換するための無料の原料として一方的に要求する。これらのデータの一部は製品やサービスの改善に応用されるが、残りのデータは独自の行動余剰と宣言され、「マシン・インテリジェンス」と呼ばれる高度な製造プロセスに投入され、あなたが今、すぐ、そしてこの後何をするかを予測する予測製品に加工される。最後に、これらの予測製品は、私が行動先物市場と呼ぶ、行動予測のための新しい種類の市場で取引される。多くの企業が私たちの将来の行動に賭けようとしているため、監視資本家たちはこれらの取引から莫大な利益を得ている(注1)」
 無料の原料とは、私たちが無料でGoogleで検索し、Facebookで交流したりするたびに、これらの企業が、このサービスの舞台裏で収集する私たちの行動や私たちが利用しているデバイスが送信するメタデータやフィンガープリントと呼ばれるようなデータなどのことだ。ズボフは、データを「製品やサービスの改善に応用される」部分と、それ以外(以上)の部分に分け、後者を「行動余剰behavioral surplus」と呼ぶ。マルクスの剰余価値を想起させるような考え方だ。この余剰部分こそが監視資本家がデータを取得する動機を構成する部分になる。
 こうしたデータの生産過程では、「私たちの声、性格、感情」が収集されるだけでなく、「最終的に監視資本家は、最も予測性の高い行動データは、収益性のある結果に向けて行動を誘導し、なだめ、調整し、集団を作る」。こうして「自動化された機械のプロセスが人間の行動を知るだけでなく、大規模に人間の行動を形成するようになる」。これをズボフは「知識から権力への方向転換」と呼び、次のように述べている。
「監視資本主義の進化のこの段階では、生産手段はますます複雑で包括的な『行動修正の手段』に従属する。このようにして、監視資本主義は、私が『道具主義instrumentarianism』と呼ぶ新種の権力を生み出す。道具主義の権力は、他人の目的に向かって人間の行動を知り、形成する。軍備や軍隊の代わりに、「スマート」なネットワーク化されたデバイス、モノ、スペースのますますユビキタスなコンピューター・アーキテクチャの自動化された媒体を通して意志を行使する(注2)」
 ズボフが道具主義と呼んだ事態は、すでに紹介したようにホルクハイマーがプラグマティズム批判で用いた概念との共通性が高いように思う。監視資本主義は、英米の支配的な思想でもあるプラグマティズムと行動科学、そして社会を数学的なモデルによって解析可能だとする非弁証法的な方法とデータに基づく実証主義という20世紀のイデオロギーを堆肥にして、そこから成長してきたものだ。この成長の経路が「監視」へと向かった理由は、個人主義と資本主義的な自由の枠組みを前提として、いかにして「個人」を既存の権力構造に従属させるのか、という問題意識に内在するものだ。行動科学は、目的の意味や動機を問わないで、目的に対して最適な手段の選択にだけ関心を寄せる。だから、権力や支配といった人間の自由や平等にとって不可欠な問いは脇に追いやられて、この目的を実現するには人間の行動をどのように予測し制御すべきか、だけが関心の対象になる。ズボフがホルクハイマーと共通する問題意識を抱くに至ったとしても、それは当然の結果だといえるだろう。
 ズボフは、私たちの個人データが無料の資源としてプラットフォーム企業によって採掘され、これをインテリジェンス機械で加工するところに着目している。製品になるのは私たちの行動を予測したり、行動変容を促すことができるような生産物で、こうした商品をほしがる企業に売られることになる。私もズボフ同様、資本主義経済の蓄積様式が監視技術を担う産業によって大きく支配されている状況は社会に対する深刻な破壊だと認識し、ズボフはそれをある種のデータ搾取として捉え、人間の行動予測と行動制御が課題の中心にあるとしている点については問題意識を共有している。他方で、私の関心は、こうした監視資本を支える構造が市場経済によって完結するシステムにはなっておらず、その外部、私がいうパラマーケットを介していて、さらにこれに非知覚過程が構造的に接合することで、私たちの意識と行動そのものへの操作可能性が高度化している点に注目している。この問題は、市場と政府の二分法や、この両者だけを社会制度として議論するだけでは不十分だ、ということを示唆しているものだ。
 無料であるかぎりデータ資源を抽出する過程は、市場経済のメカニズム(価格メカニズム)では把握できない。商品としての財やサービスの取引には価格が設定されなければ市場メカニズムが機能しないからだ。同時に、この予測と制御の商品を購入した資本が、この商品を利用して実行する過程もまた市場経済の外部で、パラマーケットが介在しておこなわれることになる。私の関心は、むしろこのパラマーケットがもたらす効果と、データを人間そのものとみなす資本の人間観に内在する誤認が、誤認とされずに広く受け入れられる理由がどこにあるのか、この誤認を「真実」や「事実」とみなすことが社会の共通理解となることによってもたらされる深刻な人間への影響である。そしてコンピューターが介在するとき、このパラマーケットは非知覚過程を伴って「私」の意識とのフィードバック過程を構造化する。コミュニケーションが人と人の関係から機械に媒介された関係に変化することによって、「私」がコミュニケーションをとる「あなた」のどこまでが人間としての「あなた」なのかが不分明になる。これはモノに対するフェティッシュな感情の問題ではなく、モノと人の中間に新たな「意識」の領域が形成されるという問題である。

資本主義と機械

 人間をデータとみなす過程は、マルクスが機械制大工業のなかで労働者が〈労働力〉として扱われる過程について論じた観点を再度思い出すことが必要になる。第1章で述べたように、マルクスは機械を死んだ労働と呼び、〈労働力〉排除の資本にとっての唯一の武器だと指摘した観点は、現代のコンピューターと人間との関係の基底を構成していることを見落としてはならない点だろう。労働者の疎外と〈労働力〉商品化が機械に接合されるとき、自らもまた機械に適合するように再構成されなければならなくなる。これがテーラーの科学的管理法や反ユダヤ主義者のフォードが構想したことであり、その延長線上に20世紀以降の技術と資本主義の発展軌道が定められた。
 19世紀の産業革命によって本格的に資本の生産過程の中核を占めるようになった機械=固定資本は、当時から労働者の排除、とりわけ熟練労働者の排除と単純労働への置き換えと、〈労働力〉コストの削減と労働者に対する資本の支配となってきた。エンゲルスは『イギリス労働者階級の状態』で機械のこうした問題をいち早く指摘し、マルクスもまた『共産党宣言』で機械による労働者排除を指摘した。他方で、機械がもたらす単純労働化は、熟練労働による労働者階級内部の階層化を打破し、階級としての一体性、つまり階級的な団結の基礎をもたらすともみなしていた。こうしてマルクス=エンゲルスは、ラダイトのような機械排斥運動に対しては、その限界を指摘し、機械を労働者の統制の下に置くこと、つまり資本の機械から労働者の機械への転換を可能だとも考えていた。
 機械制大工業が資本主義における産業技術の中心をなしてきた根源に、労働者による資本に対する不断の抵抗の存在があり、これが資本の生産性を阻害する要因になっていたことをアンドュー・ユアらが指摘していて、こうした指摘を踏まえて、資本の生産性は〈労働力〉の抵抗(政治的な抵抗だけでなく身体的あるいは文化的な抵抗も含む)との弁証法的な相互関係抜きには説明できないことをマルクスは『資本論』で強調した。
〈労働力〉を資本の支配の下に置くことは、資本主義にとって最大の社会統合問題だ。機械とは、一方で、〈労働力〉を機械に置き換えることを通じて、生産過程の全面的な資本による支配という夢を実現するための手段になるものであり、また、他方で、完全な置き換えが不可能であっても、単純労働化し機械のリズムに従属させることを通じた労働者の労働への主体的な裁量の余地を最大限奪うこと、つまり、労働現場での主体性の剥奪を実現する過程でもある。機械化は、この階級構造の資本によるヘゲモニーの物質的基礎をなすものであり、不断の技術革新は、〈労働力〉のコントロールがその重要な動機をなしていた。
 マルクスは、機械の問題を、労働者の部分労働者化と低賃金、あるいは失業と貧困の問題に集約して論じる傾向があるが、同時に、機械化の一連の過程は、労働者の抵抗をそぐための技術でもあるという側面に着目するとき、問題の重要な側面として、資本に対する労働者の意識変容を見落とすわけにはいかない。
 19世紀の機械制大工業は、人間の身体が初めて機械と接合し、機械が人間の身体を不可分一体のものとして――資本の観点からは――コストという貨幣量によって統一的に計量可能なシステムのなかに組み込まれることになった。これは人類史のなかで、人間と自然の関係を大きく変容させるものになった。労働は、もはや自然との物質代謝過程を直接実現する行為ではなくなり、資本=機械によって媒介され、しかも生産過程の一部分を担うだけになり、その労働の具体的有用労働としての側面が、具体的でありながらその意味を経験的にも見いだすことが次第に困難になり、存在それ自体が抽象化されるようになる。具体的な労働がどのように意味づけられようとも、人間の〈労働力〉を機械よりも劣るものとする一般的な価値観が形成され、労働者は繰り返し機械によって駆逐される運命にあるものとみなされてきた。労働者にとって「労働」は賃金=貨幣に換算・媒介されることでだけその存在価値があるとみなされるようになる。だから貨幣によって評価されない行為は、価値をもたない行為――実は資本主義的な意味での価値にすぎないのだが――として否定的にだけ評価されるようになる。他方で、資本にとって労働者とは、資本の機械と接合されたある種の機械であるべきものとみなされることになる。機械は常に労働者の手強い競争相手でありながら、機械化を賛美する文化が労働者の消費生活や教育制度でも支配的になり、労働者自らが機械を資本の手先としてではなく、人類の進歩の成果だと誤認するようになる。こうして、機械の機能そのものには備わっていない文化的な「意味」を人間の側が作り出すようになる。機械はフェティシズムの対象になる(注3)。こうなることで、機械は近代社会の文化的表象となることができた。自動車とテレビが日常生活を支配する最も基幹的な位置を占めることに成功したことによって、20世紀の資本主義の商品フェティシズムは『資本論』の時代とは質的に異なる意味の体系を私生活に持ち込むことに成功する。そして現在では、このフェティシズムの中心を担っているのがスマートフォンに代表されるCTCデバイスだ。

支配的構造の歴史的変容

 20世紀の資本主義では、統治機構のなかに、「国民」と呼ばれる人口が形成され、形式的ではあれ、議会制民主主義の制度を通じて、「国民」は、人口を国家に統合するためのアイデンティティとして必須のカテゴリーになる。その結果として、資本主義の階級構造がもたらす人口内部の階級意識による分断は、「国民」意識との摩擦を内包し、統治機構に直接・間接の影響を及ぼすようになる。
〈労働力〉が生み出す剰余労働によって資本の価値増殖が支えられるとしても、このことが、〈労働力〉商品の担い手としての労働者の総体をいわゆる労働者階級に帰属しうる存在とするものではない。人間のいくつかの重要な属性(たとえば、ジェンダーやエスニシティとしてのアイデンティティや、親族関係のなかでの役割意識、信仰など)を捨象することによって描かれた人間像と現実の人間の多面的な存在との間にはズレがある。しかも、資本は、その組織の巨大化と、生産過程の機械化の繰り返しを通じて、〈労働力〉は物の生産過程だけでなく、マルクスが資本家的な労働と呼び、剰余価値を生まないとみなしたような資本の流通過程での労働の大半を担うようになる。
 階級闘争に対する資本による支配の戦略は、資本の組織内部での戦略と、〈労働力〉再生産過程、つまり消費生活過程での戦略の二正面作戦をとる。資本家が資本の人格的な表現であるように、資本の組織を構成する労働者集団もまた、労働者でありながら資本の人格的表現を分有するように組織が強いることになる。資本主義では、労働者は〈労働力〉商品の人格的表現であるとしても、このことが自動的に労働者意識を形成するわけではない。この点が資本と資本家意識との関係と決定的に異なる。労働者の闘争という観点からみたとき、資本とは異質な、資本と敵対する意識形成は、目的意識的な過程として集団的に、かつ、国境を越えた取り組み――ナショナリズムへの回収を拒否する取り組み――として指向されないかぎり「労働者に祖国はない」といったスローガンは容易には現実のものにはならない。だから、労働者でありながら資本家的な意識をもつことはこの意味では不思議なことではない。しかし、資本主義の階級構造は、他方で、労働者に対して資本の意識とは対立する労働者意識、あるいは階級意識を醸成する根拠をもなしている。いわゆる中産階級やホワイトカラー層は、人格的な存在としては、剰余労働の生産主体(被搾取主体)でありながら、資本家的な意識を内面化することこそが〈労働力〉の使用価値を構成しているという矛盾した存在だとしても、剰余価値を形成する構造としての階級のなかで一定の機能を果たしているという面でいえば、矛盾はない。こうした特異な人格と構造こそが、20世紀の先進国に共通した〈労働力〉になるために、意識の問題は、資本主義にとって中心的な課題をなすことになる。
 こうして、資本にとって〈労働力〉の再生産過程の意味は、19世紀資本主義とは大きく異なるものになる。資本家的意識を内面化した〈労働力〉を世代的にも日常的にも形成するためには、消費生活とその基本的な組織の家族制度の意義が格段に大きくなる。資本が供給する商品は資本家的意識の形成のための不可欠な条件となる。マルスクは商品の価値に着目して使用価値の問題を「商品学」に委ねて詳細には検討しなかった(注4)。また、搾取の問題をもっぱら価値形成に関わる労働の問題として捉えたが、前にも述べたように、搾取とは人間が資本主義のなかで過ごす時間全体を覆うものであり、その意味で身体性の搾取であり、大衆消費社会での生活のなかで消費される商品の使用価値は、その使用価値に込められた象徴的な意味作用を通じて、〈労働力〉の担い手となる労働者の意識を形成し、同時に、家族関係のなかの人々の役割意識を形成することにもなる。
 資本がもっぱら生活手段を物としての商品の供給を通じてコントロールする以外の手段をもたなかったマルクスの生きた時代から、マスメディアや広告を通じて、積極的に〈労働力〉となる人口に対して商品の使用価値の意味、生活様式の意味を構築しようとする時代へと移行する。これが、工業化から脱工業化、あるいはサービス化とか情報化と呼ばれる資本主義に一般的に見いだせる展開の方向である。資本主義経済が、物の領域から非物質的な領域へと展開していくなかで、非物質的な領域が市場化されるようになる。
 非物質的な領域は、物質と無関係に存在するわけではない。ハードなしにソフトウエアやネットワークはありえないという意味でもそうだが、そもそも物が資本主義社会のなかで存在することを私たちが認知できるのは、その物が資本主義のシステムのなかで意味の体系に位置づけられているからだ。この意味の体系を市場は使用価値の体系として構成する。やや機械的な切り分けになるが、商品の使用価値には、その物の本来の有用性と、この有用性によっては説明しえない意味が付随する。「本来」的な有用性とは何なのかは必ずしも明確にすることはできないのだが、有用性によっては説明しえない意味としてここで念頭に置いているのは、物が商品となることによって、商品としてのブランド、広告のキャッチコピーやパッケージのデザインなどの商品化に伴って付加される「意味」などだ。同時に、こうした商品化に伴って付加される「意味」が物の商品開発では主導的な役割を果たし、ここから逆算するように物の「本来」性が追求されるという転倒が生じる。こうして本来性は商品化に従属し、商品化なくしてはその本来性も存在しえないものとなる。
 こうしたモノの直接的な有用性とは無関係な意味が生じるのは、資本主義が使用価値ではなく価値に支配されていて、資本の価値増殖に寄与するように使用価値が操作され、これが広告やパッケージなどを通じて買い手の消費行動を左右するからだ。価値に支配された使用価値が本来の使用価値には付随しない意味を担わされる。これまでも、こうした側面の使用価値を「記号」や「象徴」という概念で把握することで資本主義での消費社会の問題を浮き彫りにし、本来の使用価値の世界への回帰(?)が模索されたりもしてきた。しかし、資本主義的生産様式を前提として供給される商品の意味を剥ぎ取ることで本来の使用価値と呼びうるものが露出するというふうには物は存在していない。どのような社会にあっても、物の有用性としての機能をそれそのものとして体現するような物はひとつもない。人間が言語をもつかぎり、物の有用性それ自体はその物の意味と不可分であり、その意味とされる事柄は、言葉で表されるかぎり、常に有用性を逸脱する要素を含む。つまり非本来的あるいは過剰としての意味が本来的な意味のものであり、そうであるかぎりで、本来と非本来という区別は便宜的なものでしかありえない。とはいえ、市場経済が商品の使用価値として直接扱うことが可能な「意味」と、そうとはいえない「意味」という二つの領域を判別することは、資本主義批判の理論構築にとっては必要な作業である
 この物に付与される意味は資本の生産過程を通じて商品の使用価値として具体化されるのではなく、「意味」は、この生産過程を超えて生成されるものでもある。資本主義が歴史的な「社会」として数世紀にわたってとりあえず延命できたのは、物と意味の構造が人々の生存で一定の意味の体系として〈労働力〉の再生産基盤を構築したからだ。この基盤は、当初は、資本主義に先立つか、あるいはその外部にある人々の日常生活やその伝統を巧みに接合することを通じて形成されてきたが、資本の生活手段供給は、商品の使用価値の集合を通じて、生活全体を商品によってコーディネート可能な空間とされるのにつれて、人々は空間そのものを商品の使用価値とその意味で覆うようになる。料理のレシピのなかで一つひとつの素材の役割や意味が定められるように、生活のなかにある商品一つひとつの意味は、その商品によってだけでなく、その商品がとりむすぶ他の諸商品との関係や人々の相互の人間関係とコミュニケーションのなかで、人々の生活過程のなかで形成される。
 ごく当たり前の日常生活空間は「生活世界の植民地化」(ハーバーマス)だとすれば、私たちはこの植民地のいかなる住民なのだろうか。先住民を追い出して定住しようとする植民者なのか、資源や土地を収奪してプランテーションを建設してもっぱら植民地産品の輸出に関心をもつような帝国主義者としてなのだろうか。あえてこの例え話を続けるとすると、大衆消費社会以降現在まで続く資本による生活世界への浸透は、資本が浸透する以前の生活世界とそこで暮らす人々のライフスタイルと記憶を排除したり統合して巧みに利用する。これは「伝統」と呼ばれて資本の観光資源になったりもする。こうしたなかで、〈労働力〉という資源が資本によって「採掘」されることになる。この一連の過程で、近代に特有のナショナリズムの文化と価値観も形成されることになる。
 生活世界への資本の拡張は、単に拡大再生産を本性とする資本にとって、生活手段生産部門の拡大再生産の帰結として、生活が市場経済に呑み込まれることになった、というストーリーだけでは理解できない。むしろ、〈労働力〉という資源の再生産に必要なプロセスとして捉える必要がある。このときの最大の目標は、〈労働力〉を資本の人格に包摂すること、フロイトによる大衆心理に関する分析での言い回しを借りれば、資本への同一化と恋着の心理を形成するためのプロセスとして、消費生活を組み込むことであり、資本の組織化とは異なる家族制度という親族組織を資本に折り重ねることよって消費市場に供給される商品の使用価値の意味・象徴作用が、家父長制家族を通じて、またこうした家族を再生産しながら〈労働力〉を再生産する重要な役割を担う。ライヒが問題意識の核心にもっていたように、これが、資本による階級意識への対抗戦略である。
 資本循環(注5)を貨幣循環の相でみれば、生活手段としての商品は、〈労働力〉の代価であり賃金によって購入されることによって、資本はその投資を回収し、労働者は必要労働部分を「買い戻す」ことになるだけだ。しかし、こうした貨幣のフローの視野から外れるところで、〈労働力〉の再生産過程が機能しつづける。だからむしろ、資本循環を商品循環の相で捉えることが必要になる。これは資本が商品の供給を繰り返すなかで、〈労働力〉を再生産するうえで不可欠な意味としての商品の再生産を含意する循環だからだ。消費生活の場は、家族関係から様々な公共的な場や人間関係まで多様な内容で構成されるが、これらを資本が供給する商品の空間として再構成することによって、目指されるのは、資本にとって必要とされる〈労働力〉資源の安定的な供給である。ここでいう〈労働力〉は、20世紀前半までは、製造業と農業が〈労働力〉の具体的有用労働の質を規定していた。同時に政治的支配の側からすれば、〈労働力〉となる人口を「国民」として組織することによって、権力の正統性が維持される。これが、民主主義であれ独裁であれ、権力の基盤をなす。こうして国民的〈労働力〉が資本主義の前提をなすことになる。
 20世紀前半までに人間の肉体的な能力を機械体系と接合して制御する技術は、その頂点に達した。究極の制御は、結局のところ全自動無人工場へと向かうことになった。周辺部資本主義は、このなかで別の役割、つまり機械化しえない人間の労働を担うのだが、これは産業革命の機械化と非西欧世界の植民地の構図が現代に至るまで成り立っているということを示してもいる。この意味で、物の生産過程で、人間―機械の基本的な制御の構造で新たな発見はないといっていい。
 20世紀後半以降、先進国の人口は、非物質的生産へとシフトするが、人と人のコミュニケーションの制御が最大の課題になる。ここで、〈労働力〉の使用価値(注6)は、物を対象とした労働から人を対象とした労働への大転換をこうむることになる。販売、教育、企業組織内の合意形成、マスメディアやその周辺に形成される様々な情報産業の類まで、労働は人の意識にはたらきかけて、人の情動を制御することになる。人の意識(心理、感情、ニーズなど)が労働対象になる。こうしてコミュニケーションは労働に組み込まれることになる。

4-2 予測と制御――意味生成過程

使用価値とパーソナリティ――〈労働力〉再生産過程と意味使用価値

 マルクスの商品論では、商品の二要因として、価値と使用価値を指摘し、使用価値を物の有用性を意味するものであり社会的・歴史的な背景があるとはいえ、価値の問題のような資本主義の搾取と関わるやっかいな隠された構造をもつとは考えられていなかった。
 たしかに使用価値は剰余価値を直接形成するわけではないのだが、生活手段として消費過程に入ることによって、〈労働力〉再生産過程に直接影響を及ぼすことになる。生活手段を消費することとは、資本が供給した「モノ」を単に生理的な必要を満たすために使用することを意味するものではない。この消費には文化的な意味があり、また労働者のライフスタイルを規定する条件をなすものだ。どのようなものであれ市場で生活手段を購入せざるをえないということは、資本が供給する商品を私生活のなかに持ち込むことを意味していて、階級闘争の主体にとっては、このことが〈労働力〉の再生産に影響するだけでなく、その意識にも影響するはずであって、この問題は主体の解体をもたらす可能性を秘めていて、決して瑣末な問題ではない。生活手段とは、資本が労働者の生活世界に送り込む敵の手先なのだ。だからこそ、商品の使用価値は物の直接的な有用性(衣服なら外部環境から身体を保護するという機能)に還元することはできない。商品化を前提としたファッションとしての衣服の側面なしには衣服は商品になることはできず、商品としても需要されない。商品の使用価値における直接的な有用性(以下、直接的使用価値と呼ぶ)は、ある種の抽象的な概念化作用でしかなく、実際の商品は直接的使用価値と一体化された様々な意味をまとう。この使用価値の意味を構成する環境は市場経済の貨幣を代価とする所有権の移転の過程だけでは理解できない。広告のように、商品そのものとは別の回路を通じて、一般には対価なしで提供される商品情報と一体となって商品の使用価値の意味が形成される。他方で、市場での商品売買は、この広告に典型的に示さているような商品情報の回路なくしては十分に需要を開拓することができない。価格と使用価値は市場で「情報」として、商品本体とは別の回路を通って流通する。私は、市場経済を補完し、かつ市場経済にとって不可欠な情報の回路をパラマーケットと呼ぶ。
 広告の機能はマスメディアのニュース報道などと本質的に異なる役割を担っている。それは広告に触れた人たちが、その商品に対して購買欲望を発動し、行動に移すように促すことを意図している。つまり、操作的な情報に特化している。ニュース報道に接した人たちが報道内容を様々に解釈し、様々な評価をもつことを発信者側は許容し、報道の内容が画一的な何らかの行動に結び付くことは必ずしも最優先の目的ではない。どのように評価しどのように行動するのかは情報の受け手に委ねられている。しかし、広告はそうではない。考え方や欲望の内容を変えるだけではなく、実際に行動する(当の商品を買う)ことを実現できるかどうかが広告の成否の基準になる。インターネット以前の大衆消費社会の広告は、メディア技術の限界によって、消費者を「大衆」としてしか把握できなかった。やがて情報技術の高度化のなかで1980年代にマーケティング業界などで「分衆」「少衆」などの概念が提案される時代を経て、インターネットの時代になってターゲティング広告が支配的になる。こうした広告技術の発展を規定しているのは、個人としての消費者の購買行動を操作しようとする資本の欲望である。これが土台の上部構造化のなかで政治過程における人口の政治的な操作へと拡張されていくことになる。
 この意味で広告は商品の意味内容を構成するわかりやすい事例だといえる。広告に限らず、商品の使用価値には直接的な使用価値とは区別される意味使用価値が存在する。これは、その商品の意味内容を構成するものであって、その物を物として消費することによって得られる有用性とは「意味」という世界を通じて接点をもつにすぎない。マクドナルドのハンバーガーを食べるということが、モスバーガーのハンバーガーを食べることとはその「意味」が違うということを消費者なら誰でも知っている。この違いは直接的使用価値には還元できない「意味」が買い手の心理に作用する領域に関係している。買い手が何を選択するのかという問題は、市場全体の構造からすると、買い手は圧倒的に多くの商品を選択肢から排除して一つを選ぶわけだから、ほとんどすべての広告は効を奏することなく終わったということになる。そうであっても、まったく広告を打たなかった場合との比較で、広告が有意な効果をもたらしていると判断するから資本は広告に投資する。この優位な効果とは、まさに、その商品が実際に購買されたかどうかとは相対的に切り離されて流通する意味使用価値の効果なのだ。
 他方で、売り手にとっての意味使用価値と買い手のそれとが一致しているかどうかを確認する手だてがないから、ここでの「意味」は二重になる。意味の二重性とその検証不可能性はコミュニケーション一般に共通する基本的な性格である。そもそもパッケージや宣伝文句が、商品の使用価値の意味として売り手が構成しようとしたコンセプトを正確に反映しているかどうかさえ確証することはできない。可能なのは、資本がその組織の意思決定で、商品の使用価値の「意味」をパッケージや商品名や広告のキャッチコピーなどとして具体化する際の組織内合意形成がおおむね成立しているということ、そして、「売れた」ことをもって意味使用価値が買い手によってもまた承認されたと「見なす」ということ、これ以上のものではない、というのが伝統的な大量広告によるパラマーケットが果たしうる機能の限界だった。
 売り手にとっての意味使用価値の生成は、パラマーケットを通じた情報回路によって市場に伝達される様々な非直接的な使用価値、パッケージデザインだったり広告に登場するアイドルのキャラクターだったり、商品のブランド名だったり、いずれにしても、本来の使用価値とされている物の有用性とは概念的にも物理的にも区別されるものであり、買い手の購買欲望に直接作用することを意図して売り手が意識的に商品と一体のものとして生産することになる。この意味使用価値は、物の生産とは異なって資本の流通過程のなかに組み込まれた意味生産過程であり、意味使用価値の観点からすると、資本の流通過程は生産過程そのものである。最終的に買い手が店舗などで商品を購入する際に実際に接触する店員たちとのコミュニケーションもまた意味使用価値に組み込まれる。
 買い手のなかで起きる意味使用価値の生成は、売り手のそれとはまったく異なる。最も純粋なケースとして、これまで消費経験がない商品を購入する場合を考えてみればわかるように、買い手の購買行動を促す欲望には具体的な経験は必ずしも必要とはされない。「もしこの商品を買うとすればどのような生活が実現可能になるだろうか」というイメージや想像の世界が形成されて、この想像の世界のなかの欲望の充足が先取りされることによって、現実の商品への欲望がここに係留される。実際には想像と現実の間を橋渡ししているのは売り手による想像力喚起のための仕掛けであり、これが長年広告やパッケージデザインが果たすべき役割とされてきた(注7)。

買い手にとっての意味使用価値

 買い手にとっての使用価値の「意味」は、どのような作用を果たすものなのか、さらに立ち入ってみてみよう。直接的使用価値が消費者の生理的な身体の維持や保護などの機能を果たすとすると、意味とはいったい何なのだろうか。買い手が買うモノは具体的なブランド名をもつものだが、その具体性を買い手は具体的な意味としてだけ受け取るわけではない。たとえば、マクドナルドのハンバーガーを食べるとき、「おいしい」とか「まずい」といった感想を口にする。ほとんどの日常生活の経験が言語として表現されるときには、暑い、寒い、痒い、痛い、面白い、退屈などなどいずれも、様々なシチュエーションに共通する言葉で表現されることが多い。言語化されるときに、人は同時に、経験を抽象化して一般的な言葉として表現する。「マックのハンバーガーはおいしい」というありきたりの表現であれ、いわゆるテレビのグルメ番組の食レポであれ、言語による表現は意味使用価値の抽象化作用を必ず伴う。味覚のような身体経験は言語に還元できない言語外の残余の部分を含むが、これが言語化されたときには、必ずある種の抽象化作用が生じる。このように考えると、商品をめぐる意味は、買い手のなかで幾重もの重層的な具体と抽象の意味構造のなかで処理されていることがわかる。
 たとえば、7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した、というように、モノの具体的な情報は、時間と空間によって一義的に決定される世界――その可視化された証拠がレシートの情報やキャッシュレス決済のデータになる――のなかに配置されている。しかし私たちは、コンピューターとは違って、この具体的なモノが意味するものを特定するデータを、そのモノの意味それ自体だとみなしているわけではない。データによってこの一義的に決定されたこのモノは、たとえば、次のような会話を成り立たせることになる。
アリス「ハンバーガーを買って食べたよ」
ボブ「どのハンバガー」
アリス「マック」
ボブ「どこで買ったの?」
アリス「竹下通り」
ボブ「いつ食べたの」
アリス「5時ころかな」
ボブ「最近ぼくはハンバーガー食べてないけど、どうだった?」
アリス「まあまあかな」
ボブ「一緒に食事しようと思ったけど、まだおなかすいていないね」
アリス「そうでもないよ…」
 こうしたごく普通にありがちな会話は「7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した」というデータが一括で提供されているわけではない。「ビッグマックセット」は「マクドナルドのハンバーガー」として抽象化され、さらには「ハンバーガー」という一般名詞に置き換えられ、それが食事のカテゴリーのなかに属するものであり、おいしいとか空腹などの感覚表現と結び付けられている。会話が具体的な状況を前提にしながら、実は、きわめて抽象的な概念がその背後で作用している。具体的な意味は抽象的な意味と相互に繋がりながらひとつの意味の場を形成している。このかぎりでは、具体的な意味と抽象的な意味の間には一見するとどちらが規定的なのか判別がつかないようにみえる。しかし、具体的な意味が抽象的な概念との結び付きを一切もちえない場合、食べ物は「食べ物」としては認識できず、食べるという行為にも結び付かない。また、他方で、食べ物が「食べ物」として認識されても、それを食べるという行為と結び付けられない場合もある。その「食べ物」が映画のなかの登場人物の演技であったり、自分が嫌いな食べ物であったりなど、「食べ物」は、その文脈のなかでその意味が変容する。いずれの場合も、抽象的な概念との関係のなかで具体的な意味がその具体性を実現するのだ。具体的なモノが時間と空間によって一義的に規定されるということと、それが意味をもつということとは別のことである。そして具体的なモノの意味は抽象的な概念なしには意味を生成できないし、抽象的な概念もまた、具体的なモノの集合によってその「豊さ」が支えられる。コンピューターはこの具体と抽象の意味の世界を格好の獲物にする。つまりデータセットだ。 しかしデータセット――上述の例でいえばレシートのデータでもいい――から推測しうる消費者の行動はボブとアリスの会話に含意されているニュアンスを再現することは不可能だ。
 ではこの抽象的な意味、「食べ物」「食べる」とか、「服」「着る」などの表現や、「おいしい」とか「寒い」といった感覚や感情を一般的に示すような表現はどこから生まれてくるのだろうか。ハンバーガーもお茶漬けもともに「食べ物」という概念で括るような意味操作を人間は成長の早い時期に獲得する。対人関係に関わる言語も、母や父の固有名詞よりも先に「ママ」「パパ」といった一般的な呼称が先行したりする。友達の親と自分の親が同じ「ママ」「パパ」と呼ばれながら、それが「同じ」意味ではないことを子どもも認識できたりする。このようにしてみると、時間的・空間的に一義的に規定され、他と明確に区別されるようなモノがまとう具体的な意味の方が実は極めて特殊なのではないか、と考えてみる必要がある。言語表現よりもより原初的かもしれない身振りなどは、それが指し示すものを言語と比較して漠然としてしか表しえず、その意味は言語ほど明確ではない印象があるが、実は言語とのこうした比較が正しいのかどうかを疑う必要がある。むしろ漠然とした指し示しによる場合であっても人々が相互に了解可能なコミュニケーションのほうが、言語に還元できないが意味としての機能はそれで十分果たしえているから、それでコミュニケーションとして通用している、ということの意義にもっと注目する必要がある。これはたぶんコンピューターの認識世界にはないことだろう。
 そもそもモノの意味が時間と空間によって一義的に規定されることに執着するのは、近代世界の、とりわけ市場経済が、モノを私的所有の対象とし、商品として供給する構造がもたらした意味生成の特徴である。パンを作るのに必要な小麦粉という商品は、特定の商標名をもって売られる以外には存在しない。つまり、資本主義の市場経済では「小麦粉」それ自体は存在しない。具体的なモノとして存在しているのは何らかの商品名である。この固有名詞としての商品と一般名詞としての「小麦粉」とを売り手も買い手も同一視するが、この同一視は同じことを意味していない。売り手としてのメーカーは、固有名詞を一般名詞に結び付けて、あたかも自社の商品が小麦一般を代表するかのように振る舞おうとする。こうした振る舞いは、言外に、競争相手を意味論上排除することを意図している。他方で、買い手にとっては、必要なのは、小麦の実質的使用価値であり、この実質的使用価値は、買い手が小麦粉を用いて料理する(パンを作るとか天ぷらの衣にするとか)など、そのモノが使用される文脈に依存してその意味が規定される。このような意味の文脈上の規定にとって、商品の商標名が不可欠であるとはかぎらない。小麦粉であれば何でもいい、という場合も珍しくない。買い手にとっての小麦粉一般と商品としての小麦粉との結び付きは、その実質的な使用価値をめぐる意味の文脈から導き出されるものだ(注8)。
 いつどこでどれだけの商品が売れたのかは資本にとっては大きな関心事だ。このことが、モノの具体的な意味を近代市場経済に固有の意味として規定し、これがモノの意味がになう一般的な性質の中心を占めるようになる。その背後にある具体的有用労働に担われた具体的意味は、買い手のなかで、意味の抽象化作用の階段を登って最も抽象的で一般的な意味を担う言語と結び付くことになる。つまり、労働生産物としての小麦粉は、この回路を通じて、買い手にとっての「小麦粉」になる。このように、「小麦粉」は、売り手にとっては、自社のブランドの固有名詞と同義であり、買い手にとっては、その意味の文脈に規定された直接的使用価値なのである。
 資本主義で、商品売買は、市場で商品が買い手に渡され、貨幣を売り手が受け取る時点で完結するという点については、支配的経済学とマルクス経済学の間に基本的な認識の差はない。結果として両者とも、パラマーケットと使用価値の意味をめぐる構造を念頭に置いたとき、市場経済が消費過程そのものであるかのように扱われることになる。
 経済学でいう市場は、空間的に明確な境界をもつ場所を意味していないにもかかわらず、「いちば」と同義とみなされて、日本語でも英語でも空間的な場としての「いちば」と、機能としての商品売買行為としての「市場(しじょう)」の本質的な違いはあまりきちんとは論じられてきていない。パラマーケットは、商品売買そのものと不可分一体ではなく、空間的にも時間的にも売買とは異る構造のなかで機能しながら、同時に市場の取引にとって不可欠な機能を果たすから、この両者の違いは大きい。

パラマーケットの変容

 伝統的なパラマーケットとは、市場の取引に付随して、市場にとって不可欠だがそのサービスを市場原理に即して対価を請求することができない、あるいはそうしないほうが資本にとって効果があるような情報データの流通回路だった(注9)。パラマーケットは商品の意味使用価値の形成を担い、直接的使用価値とともに使用価値そのものを支えるための回路であるという意味で、もっぱら情報データに関わるものといえた。マルクスは商品、貨幣、資本に対して、その所有者を単なる、これら市場の構成要素の人的な担い手にすぎないものとみなした。市場におけるモノの性質は人間に依存するのではなく、むしろ人と人との関係が物と物との関係として構築可能な物象化の世界を資本主義経済社会の基本的な性格とみなした。これが疎外論からの大きな転換とも解釈されたのだが、私は、むしろ、物象化は貫徹されることはできず、常に人間的な条件が残るところに資本主義の限界があることをこれまでも指摘してきた(注10)。労働者にとって労働力とは、労働への意欲の関数であり、労働の潜在的な可能性としてだけ存在するのであって、ここに労働者の抵抗の手掛かりもある。同様に、商品の売買過程が買い手の欲望を必須の条件としなければ成立しないということは、欲望を生成する使用価値の作用を把握できる理論的な枠組みが必要だということを意味している。
 使用価値の意味は、まさにこの点で買い手の欲望をターゲットにして構築されるものだ。大量散布型の広告であれターゲティング広告であれ、最終的な目標は、消費者個々人が「買う」という行動をとるように、消費者の欲望を操作しようとすることであり、この操作が、消費者の主観では「私」の欲望として感じとられるように、消費者の心理に組み込まれることが必要なのだ。パラマーケットは、もっぱらこうした消費者の心理に作用することも目的として生成された使用価値の意味が、商品本体とは別に伝達される回路だった。
 インターネット時代のパラマーケットは、この資本の回路に新たな機能を追加した。それは、意味の生成過程をインタラクティブに組み替え、同時に、これまでは推測の域を出なかった、個々の消費者を識別し、プライベートなデータに直接アクセスすることによって、欲望の操作をフィードバックのシステムになかに組み込もうとする機能である。マスとして没個性的な「大衆」を生み出すと批判された大衆消費社会とは逆に、インターネット時代のパラマーケットでは、人々は固有名詞をもった「個人」として個別化されたうえで、資本の都合に応じて柔軟にカテゴリー分けが可能な対象とされることによって、不確定な「消費」に対する柔軟性がある対応力を獲得するようになる。大衆消費社会の没個性、あるいは匿名性は、資本にとって本意だったわけではなく、情報処理技術の限界から消費者を数量化して「マス」として処理せざるをえなかったことにその原因がある。ここで核心となるのが、プライバシーの解体だ。パラマーケットはプライバシーの領域に風穴を開ける突破口となる。もともと資本の商品は、プライバシー空間を占領し、人々の私生活と日常を資本の物を通じて資本の意思に従属可能な外的環境世界として構築することまでは成功してきたが、コンピュータ・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)に基づく支配的構造では、電力会社のスマートメーターやAIロボットなどIoTを組み込んだ生活手段がリアルタイムでプライベートな空間をモニター可能な装置となることによって、実際に個々の消費者の内面を解析し、行動を操作し、思いどおりにいかなければ何度でもプロファイルを再構築して思いどおりの結果になるように調整を繰り返すことが可能になった。
 パラマーケットは情報・コミュニケーションの回路が市場経済の取引に必要な機能として作用するところで成り立つ。パラマーケットと呼ばれるものが制度的に機能分化して存在するのではなく、コミュニケーションの回路のなかに、その他の様々なものと区別されないようにして入り込む。このことが、市場を介して調達されたモノが買い手の市場的なモノの編成のなかにシームレスに組み込まれて買い手の「生活」意識が構成される。市場で買ったもの、自分が作ったもの、他人からプレゼントされたもの、「私」のモノの来歴は様々だが、これらが渾然一体となって生活の意味空間を構成する。モノの意味は、来歴だけでなく、使用をめぐるモノの相互関係によって様々に変化する物語を構成する。資本にとっての関心は、こうした私生活のなかで自社の商品がどのような意味をもって消費されているのか、この消費を通じて消費者が再び自社の商品を買うという選択をするかどうかにあり、競合他社の商品を消費者が使用している場合は、どのようにしてこの競争相手を消費者の生活の場から排除するか、である。「排除」とは直接的使用価値だけでなく、その意味使用価値との結び付きを切り離し、その意味を希薄化させて否定的な意味へと追い込もうとする。こうした意味作用は、パラマーケットを通じて不断に繰り返される。それは広告によって組織的に展開される場合もあれば、口コミやSNSによる場合もある。モノの意味は直接的使用価値とは違って固定化しているわけではなく、コミュニケーションを通じて繰り返し生成され、さまざまなモノのとの関係づけの組み替えのなかで、その意味も変容する。この意味生成の「場」は市場の外で生じることだが、ここにパラマーケットが組み込まれていることによって、資本の介入が可能になる。20世紀がマスメディアを通じて実現したのは、この市場の外部の生活空間を制御する構造だった。 消費者は、このかぎりでは、商品の選択に関して、何が好きで何が嫌いかといった自己の感情の生成を商品のパッケージや広告といった可視的で知覚可能な情報を含む売り手とのコミュニケーションを通じて形成―再形成する。後述するように、CTCに媒介されたパラマーケットは、この知覚過程を迂回しながら消費者の情動に内発的な選好、内発的な意味生成であるかのような実感を生み出そうとする。
 問題は、生活の場にパラマーケットが組み込まれてモノの意味の生成の主体に資本が主要な機能を果たそうとする、その影響力の広がりである。資本は、市場での消費者の購買行動に影響を与えて自社の商品を買うように仕向けるだけでなく、生活の社会的な機能が〈労働力〉再生産にあることを踏まえてモノの意味を与えることが必要になる。生活を構成するモノの総体によって構成される生活の意味は、ライフスタイルとか生活様式とか、あるいは習慣や文化などと呼ばれるような、社会集団が全体として共有していると観念される共同性でもあり、これが〈労働力〉の担い手の意識の再生産を担う。モノの集合が意味を形成するわけだが、ここでのモノの意味は直接的使用価値や具体的な使用価値が指し示すいまここにある当のモノそのものを特定するような言語ではなく、こうしたモノを包摂する抽象的使用価値の言語である。ブランド名としてのモノではなく「小麦粉」「ハンバーガー」といった一般名詞であったり、「おいしい」「嬉しい」といった他のモノにもあてはまる感情表現であったりするような意味をになう言語の集合である。この集合の要素が相互にい結び付くあり方は、生活それ自身のなかでのモノが果たす機能や、フロイトが指摘したような無意識や「検閲」にも作用する。
 資本主義のなかで個人として構築されるアイデンティティの重要な核として、市場が供給する商品に随伴する抽象的な意味使用価値と具体的な直接的使用価値のある種の弁証法のなかで、資本の戦略としての直接的使用価値が意味使用価値を乗っ取り転倒させて、固有名詞としてのブランドによって一般名詞を代表させるような使用価値の物神性とでもいうべき現象をもたらすことが繰り返し試みられる。このような過程を含む生活の場での意味の集合が資本主義的な個人のアイデンティティが形成される。「私」が何者なのかは、生活を構成する無数の直接的使用価値が具体的・抽象的使用価値として「意味」世界に入り込み、抽象的な言語の意味内容を作り変える。意味するものと意味されるものとの相互関係を構築する社会的なコミュニケーション構造が資本主義では、資本によって編成される市場によって、そしてまた、この市場を通じて供給される〈労働力〉再生産過程での意味の構造によって規定される。言語の意味もその作用も資本主義的なそれとして歴史的に規定される。
 

図1

 
図の説明:消費者は常に、「意味使用価値」を通じてだけ商品の直接的使用価値と関わり、直接的使用価値それ自体に直接関わるのは、購買して実際にその商品を「消費」する時点である。しかし、そうであってもなお、消費の意味は意味使用価値に依存し、消費に伴う快感情もまた意味使用価値なしには決定されない。また、この意味使用価値の生産過程は、マルクスが資本の生産過程として定式化した生産手段と労働力の結合による新たな生産物の生産によっては論じることができないものでもある。意味使用価値としての生産物の生産は、物質的生産過程に還元できない。この問題は、人を対象とする非物質的生産過程にも関連するものとして、現代資本主義の身体性搾取にとって枢要となる。

選択の自由と操作的言語

 消費者は複数の商品からの選択の自由をもち、この自由に対して資本は消費者の行動をコミュニケーションの回路(パラマーケット)を通じて制御しようとする。制御とは消費者の意識に作用して、その行動の変容を促すことだから、資本の言語とは、常に操作的である。広告のような一方的なメッセージはその典型であり、これは、従来のマスメディアであれネット広告であれ、外形的には基本は変わらない。売り手と買い手の間の双方向のコミュニケーションとは対等な立場で、相互が同じ利害にたつコミュニケーションではなく、非対称なコミュニケーションであり、双方の思惑も同じではない。私たちは、買い手であることを市場ではほぼ強いられており、常に操作的なコミュニケーションに晒されていて、こうしたコミュニケーションを当たり前のものと感じている。大衆消費社会のなかで操作的コミュニケーションと広告の押し付けがましさへの問題が意識されるようになってきた。この構造は資本主義的な市場経済に固有のものであり、この固有性がコミュニケーションの性質を規定し、同時にコミュニケーションを通じて形成されるアイデンティティの構造にも影響すると考えていいだろう。
 ここで問題の中心をなすのはコミュニケーションだから、広義の意味での「言語」の機能が重要な役割を担うことになる。言語が他者に対して操作的であるかどうかは、文脈に依存する。たとえば「おなかが空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、この言語が果たすことが期待されている効果がまったく異なる。後者の場合は明らかに操作的な言語であることは広告の文脈から明らかだ。人はこの文脈を理解して操作的な言語表現の意味を組み立てる。この点で言語は、この言語が語られる言語以外の環境全体のなかでしかその意味を確定することができない。もし、そうだとすると、言語の操作性は言語の文法などの構造に依存するとはかぎらないことになる。資本が広告によって欲望を操作するような言語を含む表現を投げかけたときに、受け手の側がこれを、資本の意図に沿って解釈することができなければならない。広告の受け手が商品の固有名についての知識から市場での習慣や仕組みに至るまで、市場経済の言語と文法を知らなければ、操作的な言語はその機能を発揮できない。つまり、制度とそのルールへの理解が前提になる。そのうえで、情報の受け手は、このメッセージという刺激の「意味」を解釈するときに、操作的な言語だということを受け入れ、この刺激に対して情動を発動して購買欲求に繋げるかどうかを判断する。様々な欲望のなかでも「空腹」に焦点があてられ、さらに食べ物や食事といった一般的な使用価値のなかから「ハンバーガー」が選択され、このメッセージのそそのかしに乗るか拒否するかが判断される。市場は一般に消費者の欲望に関わるから、リビードのコントロールと結び付く以上、ここには、「検閲」が関与する。前章の大衆心理のありかたで述べた恋着や同一化が市場経済でも生じるが、市場で生じるこうした大衆心理ではモノへの恋着や同一化を媒介とした自己に回帰する同一化という特殊な構造をとる。ナルシシズムと呼ばれたりもするわけだが、商品を買うことを通じていまだ実現されていないその商品を使用することによって得られるだろう満足をイメージとして先取りする。このイメージはパラマーケットを通じたメッセージと自分自身が有する意味集合から生成される。消費者としての人間の側からすれば、自分の生活を構成している無数のモノは直接的使用価値の単なる集合ではない。これらが相互にどのように意味づけられて繋りをもつものなのかを直観や感性も含めた意識を通じて理解しうるものとして、その存在を認知している。「おいしい食べ物」といった一般化のなかに、マクドナルドのハンバーガーが登録されると、今度は、逆のルートを辿って、この一般化が個別具体性をもつ商品へと向かうようになると、消費者はリピーターになる。
 市場経済のなかで、言語が果たす役割、とりわけ売り手と買い手の間でのコミュニケーションは、人間相互の場合であれ、広告のメッセージによる場合であれ、最大限に操作的な性格をもってメッセージの受け手に作用することを意図したものになる。この言語環境は市場経済に固有のものだ。売り手は、商品を自分の意志だけで買い手に買わせることはできず、買い手は貨幣所有者としてどの商品を購買するのかについての主導権を握っている。言い換えれば、売り手の資本は、資本としての絶大な権力ももちながら、市場のなかでは、一介の消費者の行動を文字どおりの意味で自由にすることさえできない。だからこそ、消費者の行動を自由に制御するための力を、コミュニケーションを通じて発揮しようとする。このときに、資本がなすべきことは、自社の商品の意味使用価値がまとう具体的な意味に買い手を繋ぎとめることだが、繋ぎとめとは、買い手の情動を自社の商品にだけ接合し、他の商品を排除するような選択的な判断と行動を実践させるような方向づけをコミュニケーションのなかで実現することである。時間と空間によって一義的に規定される意味の具体性をまとった商品と貨幣との交換は、実際には、意味の抽象化作用を通じて、この具体的な意味が抽象的な意味のなかに位置付けられることを通じて、評価的な意味、つまり使用の価値性格が形成される。これは、直接的使用価値によっては成し遂げることができない使用価値の別の側面である。意味の抽象化を通じて、消費者はその意味をはじめて、意味という概念に即した内実をもって内面化できる。資本の使用価値をめぐるコミュニケーションがターゲットにするのは、買い手の抽象的意味使用価値の領域なのだ。言い換えれば、この個別具体的な商品をある種の普遍的な意味を担うカテゴリーの一角に押し込めるのである。こうした、たかが資本が金儲けために生み出したにすぎない使用価値が、買い手の生活のなかで、過剰な意味を担うものとなる。
 さらに、具体的な意味が抽象的な意味を乗っ取り、それ自体が抽象的な意味の地位を占めるようになる場合がでてくる。パソコンのプレゼンテーションソフトを「パワポ」(マイクロソフト社の商標名パワーポイントの略称)と呼んだり、オンライン会議を「ZOOM」と呼んだり、コピーを「ゼロックス」と呼ぶなどがそれだ。抽象的な言語の意味作用を言語の具体的な対象を指し示すための機能が代位する。多分市場経済の商品の意味使用価値の究極の目標は、自らの具体的な意味が抽象的一般的な意味の唯一の担い手になることだろう。マルクスが価値形態論で商品相互の交換関係を通じて、一般的等価物(貨幣)が社会的な共同作業として形成されるとした過程と同じ過程が、実は商品の使用価値世界でも繰り返されているのである。
 そしてさらにこの意味使用価値の生成過程は、生活過程そのものに及ぶ。販売の実現は意味使用価値の確定を意味しない。消費過程のなかで意味使用価値はその意味内容を変化させながら消費者に影響を与え続ける。実際の消費を通じて買い手は、購買した商品の意味を経験として実体化する。個別資本にとって、商品の使用価値は、「我が社の商品」としてその意味を構築することになるが、買い手にとっての意味使用価値は、当該商品を個別に取り出して、その意味を「消費」するわけではない。消費の文脈のなかでその商品の意味が様々に変容する。生活手段の集合は、ライフスタイルを構成する。ライフスタイルは生活を支える経済的な裏付けに左右されるだけでなく、価値観も反映する。総体としての生活手段集合のなかで個々の商品の意味使用価値が規定されるという点からすると、意味の二重性は、常に一致することはありえないとみるべきだろう。同時に、この生活手段集合こそが〈労働力〉再生産が担う具体的な〈労働力〉の「質」を規定するものにもなる。〈労働力〉再生産は、単に、労働者の肉体的・生理的な労働能力の維持だけでなく、「働く意味」を形成する重要な要素の一つとなる。言い換えれば、労働者のパーソナリティ形成の一翼を担うことでもある。 資本主義のイデオロギー作用は、こうした商品の意味使用価値が果たす買い手の意識への作用を抜きにしては論じることはできない(注11)。
 市場における操作的な言語は、教会や軍隊のなかでのコミュニケーションが生み出すだろう恋着や同一化と同様、商品の使用価値に対するある種のフェティシズムをもたらすのだが、このフェティシズムは、イデオロギー一般と同じく、単純な外部注入ではなく、モノの意味の文脈化を可能にする買い手としての「私」の(無意識を含む)意識との共同作業になる。
 以上の点を踏まえて、インターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的になる前と後でどのような本質的な違いが生まれているのかをやや図式的になるが整理しておこう。
 前述のように、具体性の世界、つまり人間が実空間のなかで「私」と呼ばれる身体的な実体をもって存在しているかぎり、この意味での私は、その身体性に制約された時間と空間の座標のなかに必ず位置づく。ある瞬間に存在する世界における私の場所は唯一の場所を占めるものとしての「私」である。この「私」は、同時に、実空間のなかでは、単純な同心円状の関係を形成する。最も親密な関係から、最も縁遠い未知の人々との、“関係”と表現していいのかさえ不明な関係までの広がりである。図式的にいえば、家族、友人、地域や学校、職場、そして都市空間で出会う誰かもわからぬ多くの人々がこの同心円のどこかにプロットされる。最も親密な関係が家族だというわけでは必ずしもない。家族との関係が最悪な場合には、物理的な距離の近さが、逆に関係を悪化させることになり、むしろ友人関係のほうがより親密だったりもする。こうしたこと自体が、私の身体性が物理的空間との関係のなかで、位置づいているからこそ生じる問題であり、同時に、家族制度や家族の権力関係に内在する矛盾や軋轢がもたらす問題でもある。こうした場合、「私」は親密な関係の再構築を試みる。既存の同心円に対して、これとは別の同心円の構造を持ち込もうと闘うことになる。いずれの場合も、同心円の構造そのものが揺らぐわけではなく、矛盾を通じて、同心円の再構成が試みられるというにすぎない。
 このような同心円がどのような範疇によって形成されるのかは、社会の歴史的な性格によって規定される。市場経済と国民国家という社会の枠組みをもつ現代資本主義は、この社会に固有の同心円の構造を人々の実空間のなかに形成することになる。そして人々は主として、空間のなかでこの同心円を知覚することができるから、人々は社会の秩序との関わりを意識的に理解する。

図2

 これまでたびたび論じてきたマスメディアやパラマーケットは、この実空間の構成のなかで、いわば、この同心円に対して楔を打ち込むようにして入り込むことによって、私の身体性に直接作用しようとしてきた。しかし、同時に私は様々なレベルでのコミュニケーションを通じて、メディアやパラマーケットを流れるコミュニケーションの「意味」の解釈を確立させようとする。メディア研究で論じられてきたように、人々はマスメディアを一方的に信じたり受け入れるわけではなく、親密な関係をもち信頼を寄せる人達の評価に左右されながらメディアの言説を受け入れる。広告のような商品情報は、物理的空間のなかで、実際の生活を通じて経験されるモノとの関係という経験も含めて解釈される。こうしたメディアとパラマーケットの情報は政治や社会などに及ぶが、基本的な解釈と受容の構造は同じだ。この構造は、現在のインターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的な世界では次第に解体されつつある。

4-3 空間の解体

プライバシーと空間 

 プライバシーは空間的な概念として成立した歴史的な経緯はよく知られている(注12)。他人に干渉されずに一人にしておいてもらう権利としてのプライバシーと、土地や建物の私的所有や占有の権利とは不可分の関係にあった。私の「場所」を私的所有や占有の権利がある空間として特定できるルールが確立することが前提であり、余所者の侵入を違法とし、国家権力による介入を例外として認めるための面倒な手続き(裁判所による捜索令状などの発付手続きによってだけ私権を制約できるとするのが近代法の基本原則だろう)も空間=場所への権利と不可分といえた。資本主義的な共有の空間として「公共空間」が論じられる場合も、プライバシー空間と資本や国家の占有空間の間にあるものとして「公共性」「公共圏」と呼ぶとしても、現実の地理的な空間のなかに「公共」と呼びうるものを実体化する存在――公園や路上、公共施設など――が不可欠なものとしてイメージされており、現実の公共的な場所なくして公共の実体もまた維持できないものであることはほぼ確実なことだった(注13)。
 場所を私的に囲い込むことによって排他的に自分だけの空間を確保して他人から覗かれないで一人にしておかれる権利を物理的に確保するという、このプライバシー権を保障する物理的環境は、二つの前提条件によって確保された。ひとつは空間の私的所有の確立である。土地の商品化といってもいい。この排他的な権利は、他者の侵入を違法とする法規範を通じて正当化される。もうひとつの条件は、この排他的な空間の占有や所有を侵害しないでプライバシーで保護されている場所を覗く技術がない、ということだ。後者については、遠距離の内密な通信のような場合に、通信の当事者がプライベートな空間にいたとしても、通信経路はこのプライバシー空間の外部にあり、プライバシー権を空間の所有や占有だけで保護することができないという問題が生じることになる。手紙は配送の途中で盗み見される危険性があったし、19世紀に発明された電信、そして電話もまた、回線が盗聴されるリスクが常にあった。言い換えれば、プライバシー権は、その出発点から決定的な脆弱性をもっていて、それが遠距離のコミュニケーションでは顕著だった。そして、この遠距離通信のリスクはインターネットの時代になっても変わることなく、脆弱なままなのだ。 この脆弱性を回避する唯一の手段はメッセージの暗号化だ。この問題については本連載のあとの章で言及する予定だ。
 空間を時間の関数だとみなすと、電話や電波による通信であれインターネットであれ、人間の身体感覚からするとほぼリアルタイムでのコミュニケーションが遠距離間で可能になることによって、空間の構造は明らかな変容を遂げた。物理的な空間は、この空間を移動するための技術によって大きく変容する。サイバースペースの広がりは、地理的・物理的な空間の属性のように時間によっては定義することができない。サイバースペースの大きさを測るには、移動に要する時間ではなく、ビット(あるいはバイト)で測定されるデータの大きさと、コンピューターのデータ処理能力だったりする。つまり、技術に依存する人工的な場所だが、これをスペースとみなすとき、そこには私たちが知覚する空間との類推がひそかに入り込む。サイバースペースの大きさは、誰にとっても同じではない。実空間のように入れる場所と入れない場所があるだけでなく、通信の回路は実空間の道路以上に、不平等であり選択的でもあるのだが、この人工的な不平等をあたかも「自然」なコミュニケーション環境だとみせかけようとする力がはたらく。人と人との直接のコミュニケーションが「自然」な関係に属していることが通信でのコミュニケーションの自然感覚を支え、直筆の手紙がメールやSNSのメッセージになっても、このコミュニケーションの自然感覚は維持される。機械によって擬似的に形成されたコミュニケーションが「場所」=スペースとして意識されることによって、これが視覚的に構成されると、コンピューターがディスプレー上に描き出す空間が本物の空間を凌駕して知覚に作用するようになる。仮想の空間はCTCの特徴ではない。人類の歴史を通じて、人間は、視覚によっては把握できない「空間」を脳の作用として自律的に生み出してきた。発話は単なる音声記号ではなく知覚作用をもつし、小説を読むことや、特徴的な匂いは視覚に作用するし、絵画は視覚に還元できない想像効果をもつ。
 実際の地理的空間上での行動をプロットすると、地図上の自宅、通勤経路、ショッピングエリア、職場、公共空間としての路上や公園など、場所ごとの色分けができる。それぞれの色に応じて私はその空間のなかで私の役割衣装を着替える。この構図は、私という人格を構成する重要な前提条件をなしており、一般に私という人格がただひとつの人格であるかのようにみなされがちだが、実際には私は複数の人格がひとつのものとして統合された存在でしかなく、しかもこの統合は理路整然とした繋がりによって一体となっているというよりも、生理的な身体に無理やりに繋ぎとめられているかのように、不安定で相互に摩擦や不具合をはらみながらなんとかひとつの存在として「私」が維持されているにすぎない。たぶん、私でさえ、この私の多面的なありかたを合理的に首尾一貫したものとして説明することは不可能だろう。
 

図3

 図3では伝統的な資本主義の典型的な空間構成のカテゴリーを円で示し、市場化の度合いを縦軸に、政府による干渉や介入の度合いを横軸に置いた。この図は、社会を構成する個人の立場に立ってプロットしたものだ。この場合、家族の空間のような親密な空間は、市場の外部にあり、同時に政府による直接の介入の外部にもあるので原点に最も近いところに配置される。これは、DVの場合を念頭に置くとわかるように、家父長制というこの図では明示的に示すことができていない条件に最も大きく影響されるだろう。路上や公園は利用の対価の支払いはなく、政府による規制も相対的に小さい。他方で、監獄は、市場原理がはたらきにくい一方で、ほぼ24時間看守によって監視される。赤い斜線が右上に移動するように描いているのは、時間の経過のなかで、市場化と政府による規制が拡大することを示している。こうした全体としての枠組に規定されながらそれぞれの場所ごとにそのルールを定めることが可能だ。縦軸の商品化の軸に沿ってみた場合、空間は商品化され私的所有に従属するから、空間の所有者の裁量が大きくなる。民間企業の職場は、この意味で資本の裁量が最大化する空間であり、逆に監獄は公権力の裁量が最大化する。いずれも、人々の個人としてのプライバシーも自由もわずかしか認められない空間になる。ショッピングモールや交通機関は、たとえそれらが民間あるいは公的機関の管理下にあるとしても場所における個人の自由あるいはプライバシーの権利は職場や監獄ほど小くはないといえる。
 監視をめぐる二つの権力、資本と国家――支配的構造――に対して諸個人が相対的に自由を確保するということは、この便宜的な図でいえば、原点に近ければ近いほど、この二つの条件だけに関していえば、自由度が高い空間になる。個人の自由は同時に個人がプライバシーを優先順位として高い位置に置くのか、それともプライバシー以外の権利を優先させるのかという選択の自由度が高いことを意味している。この図では、原点に近いところに、親密な人々によるか、あるいはまったく一人でいることが可能な空間を配置してある。こうした空間は支配的構造の直接支配を相対的に逃れている空間であればいいので、いわゆる家族のような制度を与件とする必要はない。 しかし先に触れたように、この図に家父長制の条件を加味した場合、まったく違う様相を示すだろう。プライバシーで保護され資本からも政府からも「自由」であるかのようにみられる家族や親密な空間でも暴力が存在し、これがプライバシーによって外部からの干渉が困難になる。
 斜め右上向きの矢印のように、空間の再開発が進展するにつれて全体が次第に原点から遠ざかる傾向をもつ。空間が支配的構造に管理されるとともに、原点に近い位置にあった親密な空間もまた右斜め方向へと移動する。図3を簡略化すると図4と図5のようになる。

図4
図5

 データがデジタル化されてビッグデータとしてコンピューターのアルゴリズムによって、その都度必要に応じて必要なデータの組み合わせが抽出されて使用されるようになると、監視を地理的な空間に沿って構造化することは意味がなくなる。図3で描いたようなカテゴリーごとの円を描くことは意味をなさなくなる(図4・5参照)。こうしてコンピューターの世界は、データの束としてすべての存在をネットワーク上にあるサーバーに溜め込むか、リアルタイムで生成されて短時間で消滅するような揮発性の高いデータとしてネットワーク上を移動しているといった類いのものを通じて、「サイバースペース」とみなされるような世界が描かれている。ハードディスクなどの記憶媒体のメモリ領域は「場所」といえば「場所」だが、こうした「場所」が実空間の「場所」に対応しているわけでは決してない。しかし、やっかいなのは、実際には物理的な場所も時間の流れも存在しないサイバースペースがコミュニケーションに介入することによって、実空間は歪みをもたらされることになる。私たちは、一方でSNSやウェブの情報に影響されながら実空間についてのイメージをそのつど作り替えながら実空間を移動したりする。空間の景観も実際の生身の人間関係もこうしたサイバスペース経由の情報によって影響を被るにもかかわらず、私たちは実空間の歪みを知覚できずに、素朴にこの「実空間」を疑わないまま受け入れてしまう。

図6

 それでは、こうした構造変化は監視社会との関係でどのような新たな問題を引き起すことになるのだろうか。第一に、監視の目的に沿って監視すべきターゲットを抽出し、ターゲットを再度ビッグデータをもとにして精査し、この段階で必要であれば実空間における監視のための手段が動員される、という実空間との相互作用のなかで監視社会が構成される。そもそも「サイバー」とか「リアル」といった二分法は現在の支配的構造における監視システムを説明するには適さない。CTCに基づく監視は、最終的には現実世界にいる私たちをターゲットにし、私たちのアナログの身体を標的にする。たとえば、アメリカ軍がドローンによってイラクにいる敵を攻撃する場合、現場のターゲットを現場でアメリカ軍兵士が実際に目視で確認するわけではない。データセットから一定のアルゴリズムによって抽出されたターゲットと実空間が交差するのは、ドローンを操縦する兵士がドローンのカメラを通じて目視する地上の映像だけだ。このときターゲットにされた人たちにできる回避策はほとんど存在しない。第二に、このプロセスの大半が(攻撃する側にあっても)知覚の外で起きる、ということだ。同じことは、スマートシティなどのような地理的空間をIoTと5Gネットワークなどによって網羅的に包囲する場合も基本は同じだ。コミュニティの主体であるはずの住民たちのコミュニケーションのなかに、人間の知覚では捉えられない別のコミュニケーションがまとわりつくようになる。こうした空間では民主主義的な議論が次第にその実態を奪われるようになる。住民の知覚しえない構造のなかで、討議の主体になりえないコンピューターがコミュニティの最適な「環境」を決定するからだ。
 こうしたデータによる網羅的な監視を前提としたターゲットの洗い出しが、これまで監視社会のわかりやすい事例とされた都市に配置された膨大な監視カメラのモニンタリングルームでの監視と異なるのは、不審なターゲットをモニタリングルームの監視員が発見したり、あるいは警報装置の作動で把握して、ターゲットを追いかける、というアナログではなく、あるカテゴリーで分類されたデータセットに該当するあらゆる人々を抽出して、そこから、ターゲットを予測するという方法をとっている点にある。まず最初に、監視カメラに怪しい人物が映し出されたことを監視員が発見したり、何か事件が置きたことで警察官が現場の物証を把握することで事件が構成されるということではなく、出来事に先立って、前科、住所、国籍、性別、職業、GPSやSNSなどのデータを組み合わせることによって、不審人物を人工的に構成して該当する者を監視する、という方法になる。この方法は、刑事司法の分野でいえば、令状主義の原則となる場所と被疑者を特定しての公権力の行使(家宅捜索などの強制捜査)が形骸化することを意味している。事実アメリカでは、こうしたデータによる網羅的な監視のための公権力の行使が先行する事例が発生している(注14)。
 ネットのコミュニケーションでは、実空間の同心円的な親密さのスケールが機能しない。だから、プライバシー空間のように、私の制御能力は限定的にしか機能しない。いわゆるプライバシー情報は「私」の管理下にはない。それは、私に帰属する空間が、実空間としては存在せず、仮想的にしか存在せず(多くの場合、私の能力や権限を超える)技術によってしか保護できないからだ。たとえば、SNSの「お友達」「フォロー」などの仕組みは、まったく未知の人たちと既知の親しい人たちの心理的距離をあいまいにする。サイト検索によってアクセス先を探す行為は、自分が住んでいる町の商店街を歩いたり、新聞や雑誌の情報から必要なモノを見つける行為と違って、キーワードを意識的に選択するという主体的な行為では、その結果として表示されるモノの位置や売り手と私との間の物理的な関係の構造が崩れる。ネットの大半の行動はパラマーケットを通じた行動になるが、そのほとんどをプラットホーム企業と呼ばれるGAFAなどが私たちから隠された仕組みを使って、私たちのデータを収集し解析することによって、これらを広告主や捜査機関などプラットーム企業のデータを利用しようとする者たちのニーズに応じてパッケージ化し、私たちの言動が監視や制御の対象にされる。私たちも小規模なビジネスを展開しようとすれば、こうしたビッグデータのお世話にならざるをえないだろうし、政治家たちも選挙に勝つためには、プライバシーの権利などおかまいなしにビッグデータにすがるようになる。
 しかも、ネットでの行動はビッグデータとして蓄積され、ターゲティング広告などによって、再帰的に「私」へとその情報が再構成されて返され、私の意識や行動に影響を与える。このフィードバックでは、「私」はデータ化され、このデータ化を元に、パラマーケットを介することによってコミュニケーションは、実空間の距離とは無関係な心理的な距離として私の内面で再現される。この一連の、どちらかといえば双方向を通じた「私」に対するパラマーケト経由の資本による制御のシステムが社会のコミュニケーション・システムの支配的な構造となりつつある。統治の伝統的な枠組のなかに「領土」があり、また人々の権利と権力の力が及ぶ範囲をめぐる権利と権力の関係の力学もまた「空間」によって表現されることが、経験的にも妥当な時代があった。しかしいまはそうではないのだ。

図7

 こうしたコミュニケーション構造を前提にしたとき、法的権利が及ばない領域が新たに形成される。法の限界は、権利を行使するためには、権利としての自覚をもつことが必要だという点にある。言い換えれば、権利侵害が自覚されない領域で進行していたとしても、そのことが発見されなければ、権利は侵害され続けるだけだ。プライバシーの権利も同様であり、だからこそ、プライバシーを意図的に侵害することを企図する者たちは、巧妙に侵害行為を隠蔽しながら遂行する。空間によって境界を区切ることができず、時間が防御の手段にもならないサイバースペースでは、プライバシーが実際にどのように侵害されているのかを知覚化することが困難なために、正確にプライバシーの「領域」が意識されることもまた困難になる。サイバースペースは、リアルタイムで通信をおこなうだけでなく、膨大な履歴や記録を蓄積することが可能でもある。可能性と現実性は別のことだが、この可能性を支配的構造は彼らにとっての利益に基づいて現実のものにする。こうして、私たちのコントロールの手を離れたサイバースペースは、従来であればプライバシーの権利として私たち自身が自らの力で保護することが可能だった事柄を私たちの意識が及ばない方法によって私たちのプライバシーを蓄積する場所として利用されている。
 サイバースペースのなかでは、時間はタイムスタンプとして、逐一記録可能であり、また消去も可能であり、さらには、特定の人にしかアクセスできないか理解できないような方法(暗号化)でデータを保持することも可能である。こうしたデータは、実空間を流れる時間のように一方向ではなく、タイムスタンプは押されていても、その並び順は、一義的ではない。ネットで検索してソートする場合の並び替えのように、古い順、新しい順、カテゴリー順などなどプログラムに応じて表示を変更できる。
 こうしたソートによる時間の柔軟な組み替えは、アナログのデータに対しても可能だが、その場合には膨大なカードを作成して、それを、組み替えるための面倒な作業が必要になる。検索エンジンを用いて膨大なデータのなかからキーワードによって抽出されたものを読む行為を通じて、時間は変容する。この変容は自律しているのではなく、実空間にいるわたしと接続することではじめて「意味」を生成することになる。だが、問題の核心は、こうして形成された「意味」は、誰が生み出したものなのかというところにある。人間が作成した分類カードとは違い、ここには分類の技法をめぐるブラックボックスが存在する。つまり一定の方法でコンピューター・アルゴリズムを介して収集されたデータセットや、このデータセットを処理するアルゴリズムに「意味」が依存するということだ。そしてこの「意味」によって私の理解、あるいは世界についての「意味」そのものが変容してしまう。私の思考や判断は、誰か他の人間とのコミュニケーションによって生成されたのだといえるのだろうか。先に「おなかが空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、この言語が果たすことが期待されている効果がまったく異なると書いた。しかし、会話の相手がAIのロボットだったとすると、どうだろうか。この場合、私は操作的な言語の罠を自覚的に認識できなくなる可能性が高くなる。つまり、AIロボットを人間とみなして会話することに躊躇しなくなる。情けないことに、こうした人たちが社会の大半を占めるようになるのは間近だろう。
 こうしてコンピューターの世界は、データの束としてすべての存在をネットワーク上にあるサーバーに溜め込むか、リアルタイムで生成されて短時間で消滅するような揮発性の高いデータとしてネットワーク上を移動しているといった類いのものを通じて、「サイバースペース」とみなされるような世界が描かれているのであって、スペースが実際に存在するわけではない。ハードディスクなどの記憶媒体のメモリ領域を「場所」といえば「場所」だが、こうした「場所」が実空間の「場所」に対応しているわけでは決してない。しかし、やっかいなのは、実際には物理的な場所も時間の流れも存在しないサイバースペースが介入しているにもかかわらず、私たちは実空間の歪みを知覚できずに、素朴にこの「実空間」もどきを疑わないまま受け入れてしまう。

空間の配置とパラマーケット

 資本主義に限らず、社会の支配が究極で実現しなければならないのは、社会の既存の秩序を前提として、その構成員の言動を制御することだ。この目的はたぶん、どのような社会にも共通する目的である。社会が歴史的に異なる構成をもつのは、この目的を実現するために社会がとりうる選択肢が一つではないということの現れだが、近代社会としての資本主義は、この目的を市場経済と国民国家というマクロな制度と、家族制度というミクロな制度によって構成しようとしてきた。これが人類史でベストな解決法でもなければ、これで人類の歴史の終着点に辿りついたわけでもない。家族、市民社会、国家というヘーゲルの見立てとこれを批判的に継承したマルクスの枠組みを私はその限りで受け継いではいるが、その意味内容は同じではない。とくに、本書の観点との関連でいえば、こうした制度が空間的なカテゴリー――小は自分のプライベートな場所から大は国境で区切られた「領土」まで――でもあることに注目したい。ここに個人の自由と平等といった理念を実現するためには、空間的な前提が必要だということが含意されている。近代の都市が市場経済と結合して形成されてきた自由や、民主主義を成り立たせる空間へのアクセスの平等(都市への権利)は、空間概念の重要性を示している。
 空間の配置は、いわゆるサイバースペースの形成によって、完全に別物になった。通信は、「交通Verker、traffic」概念に含まれうるとしても、空間との関係でいうと、電気通信が支配的になって以降、空間の特性としての時間の条件が「リアルタイム」を基準に据えて、そこからの遅れが「遅延」とみなされるように、時間に規定されない空間が理想のモデルとなるという奇妙な空間がサイバースペースの特徴となった(注15)。同時に、テレワークやオンライン授業のように、プライベートな空間が職場や学校のような自分に空間の管理権のない場所にリアルタイムに繋がるということは、プライベートな空間が職場や学校の管理空間に空間の隔たりを超えて統合され、その結果として、プライバシーの権利そのものが成立しにくくなる。従来のプライバシーの権利を保障していた空間的な距離と、それに伴う時間という壁が解体した。
 パラマーケットは商品売買そのものではないにもかかわらず、商品売買と有機的に結合して資本の生産過程と不可分一体化して、資本が明示的に構築する商品の意味の流通回路として、商品の意味使用価値を担う。コンピューター・コミュニケーションもまた市場の商品売買過程と不可分かつ不可欠でありながら、むしろ機械相互のコミュニケーションによって形成されるデータの集合からなる非知覚過程を構成する。パラマーケットと非知覚過程、そしてこれらを通じて再帰的にかつ常に消費過程そのものに密着しながら消費の意味を変容させようとして資本の監視下に置き続けられる商品の意味使用価値が消費者の生活そのものと区別をつけることが難しいものとなる。こうした生活世界の資本による実質的な包摂の構造が組み上がり、人間の意識を取り囲む内堀が埋められることになる。プライバシーの空間的防御はもはや意味をなさない。
 市場で商品が消費者とアクセスするとき、使用価値の意味構造は、直接的使用価値と意味使用価値、そして非知覚過程の機械的なフィードバックから構成される。だからといって、使用価値の意味構造は、社会構造のなかに局所的に存在して実証可能だというわけではない。使用価値は、非知覚過程を含めて全体として機能するからだ。広告などの市場のコミュニケーションは、それなしにでも商品の直接的使用価値の「モノ」それ自体は成り立つが、コンピューター・プログラムが商品の直接的使用価値の一部を構成するようになった商品(消費者向けでいえば、パソコン、スマートフォンなどからAIロボットやスマートメータなどのIoTやオンライン機能をもつゲーム機など)は、プログラムや通信機能なしには機能しない。しかし、このプログラムや通信機能そのものは、広告イメージによって消費者の欲望を喚起することはあっても、そのどこまでが直接的使用価値を正確に反映しているのかはもはや明確ではない。たとえばスマートフォンのGPS機能は、いまいる場所を知りたいときに教えてくれる機能としてユーザーのニーズに対応する機能かもしれないが、この位置データがGoogleのビッグデータの一部となってAIによる解析の資源となることは、消費者のニーズと対応しないだろう。ズボフが「剰余」として指摘したような性格がついてまわることになる。GPSはスマホの使用者の意図(消費者としての自覚的な消費行動)とは相対的に無関係に機能することができる。あるいは、OSを提供する企業(マイクロソフトやアップルなど)は、OSのセキュリティ・アップデートなどの自動更新を実施することができるように、ユーザーのデバイスにアクセス可能な仕組みをもっている。これは購入した自動車の車検の仕組みと似ているが、決定的な違いは、車検が市場でのサービスとして商品化されているのに対して、ソフトウェアのアップデートは通常支払いは発生せず、市場の外部で機能する、つまり、直感的には「タダ」でおこなわれているようにみなされるということだ。コンピューターを内蔵したデバイスの場合、消費者が何を「消費」しているのかが直感的に把握できない膨大な領域が存在している。そして、消費者の立場で判断する場合と、何らかの方法で製品の行動を追跡したりする機能を組み込んだりする商品のメーカーの立場で判断する場合とでは、「消費」の意味はまったく異なる。消費過程は、資本から独立した広い意味でのプライベートな行為ではもはやなく、むしろ資本による生産過程の延長になっている。消費過程とは〈労働力〉の再生産過程のことだから、資本はようやく〈労働力〉再生産過程を包摂するための技術的な道筋をつけはじめたともいえる。この点で、コンピューター・コミュニケーションが生活過程で関与する主体が資本なのか、政府なのか、それとも私たちなのかで、生活過程そのものに本質的な違いが生まれる。この場合でも、消費者/ユーザーが自らの行動を総体として知覚―意識の層で把握できない非知覚過程のなかで意味の構築がおこなわれる。貨幣が介在しない領域が非知覚過程とパラマーケットを介して支配的構造に私たちの私生活を直接・間接に組み込むことになるが、しかし、他方で、私たちはある種の主体として、この生活過程が支配構造との間に構築してきた回路を遮断してオルタナティブな回路を構築することは、マスメディアによる大量散布に時代に比べると、その可能性はむしろ拡がっており、いくつもの選択肢が可能な段階にある。

資本主義における自己同一性

 たとえば、携帯の交通系アプリで自動改札を通過するとき、私が改札を通過できるのは、私の生身の存在ではなく携帯のアプリと改札のマシンとの間のデータ通信によって支払いの確認をとるからだが、このデータのやりとりには、私にとってはプライバシーに属するかもしれないクレジットカードの支払いや金融機関との取り引きや、あるいは交通機関の利用履歴なども含まれる。これらは、実空間でいえば、かつてはバラバラのプライベートな場所に個人情報として保管されていたものなのだが、これらが束になって公共空間のなかに差し挟まれることになる。しかし、こうした事態が引き起こす空間の歪みを私は知覚できない。
 あるいは、たとえば、職場に出勤した労働者は、自宅にいる自分とは別のアイデンティティで仕事をする。このことが端的に示されるのが、「私」がどのように呼ばれているのかとか、社員証や名札、あるいは工場や店舗などで着用する制服などだ。こうした一連のアイテムが私が何者であるかを知覚的に構成している。「同じ」私が自宅やプライべートな場所でくつろぐとき、私服に着替え、私についての呼称も親しみを込めたものになる。そして、通勤の途中や買い物での私はこのいずれとも違い、ほとんどのすれ違う人々は私の名前も住所や職場のことも知らない「他人」として、ほんのわずかの時間を共有するだけだ。私が、労働組合の集会に参加したり、デモに参加するといった活動をするときには、たぶん周囲にいる多くの人たちは私について、名前とかこれまでの活動ぶりとかを知っているかもしれない。ここでは「私」は単なる労働者ではなく、闘う労働者としてのアイデンティティをもって人々との関係を構築している。こうした空間的な切り分けが「私」というアイデンティティの重層的で複数の存在を支えていた。しかし、ここに、顔認識機能を備えた監視カメラが設置され、データベースを照合するような事態になると、空間による切り分けは意味をなさなくなる。つまり、空間は「私」を防御するシールド――これは私が知覚可能だからこそシールドとしての機能を果たすことができる――の役割を果たせなくなる。この複数のアイデンティティを串刺しするようにデータの新たな流れが構築されると、この流れを誰が何の目的で利用するのかよって、「私」の社会的存在そのものが変化する。にもかかわらず、多くの場合、私は、この空間の歪みがもたらす「私」の変化を知覚できず、相変らず、私は空間によって私のアイデンティティの複数性を使い分けることが可能だと感じてしまう。
 私がこの不安定な自己同一性の弁証法的な不統一の統一として存在するという問題は、資本の観点からみたときには別の光景が広がる。資本にとって、私は〈労働力〉というコストであり雇用契約の契約相手である。その限りでの私が資本にとっての私のすべてである。だからこそ逆に資本にとっての余計な要素こそ、私にとっては重要な武器になる。同様に、国家にとっての私は、国民としての私か、あるいは、外国籍であれば、国民としての権利や資格から排除された私である。誰もが、そのいずれかとして、私なるものを構築する。国家にとっては、この意味での「私」とは、権力の正統性を維持するために制御すべき対象である。こうした目的に、コンピューターの技術は、市場であれ統治機構であれ、領域を選ばずに共通の土台を提供する。経済だけでなく政治や文化といった領域まで横断して共通の技術が用いられるような事態は、人類史上なかったことだ。
 自分が自分である、という自己認識は多かれ少なかれ誰もがもっているハズのものだが、実感として、また直感的に私が認識する「私」という存在が、何なのかということになると、容易には説明しがたい。このことは、「私」を根拠づける確たるものの確証を私ではない第三者による確認、認証、承認などといったものによって「客観化」しようとする動機を生み出す。このこと自体は、たぶん人間が社会的な存在としての自己を一つの統一的な社会的役割に収斂させることができない複雑な社会を構成するにつれて生じてきたことだという面でいえば、いわゆる文明などと呼ばれるような巨大な社会組織の登場にまで遡れるものかもしれない。他方でアルカイックな社会では、多くの場合、人々の自己同一性は、年齢、性別に伴う役割の変化と親族構造のなかの位置によって、ほぼ固定されるように見える。このことは、アルカイックな社会が単純で理解しやすいという意味とはまったく別のことであって、文明の眼差しからすると、そのように単純にしか見えないとして軽視するのは、文明を鼻にかける進歩主義者の自己満足にすぎないのであって、実際には彼らの世界観や経験は非常に複雑だ。とはいえ重要なことは文明という没歴史的な概念に、この自己同一性の脆弱性を還元するのではなく、歴史的な構造のなかで、その特殊な自己同一性の脆弱なあり方を位置づけて、その矛盾と問題とともに、それぞれの歴史的社会に固有の矛盾の一時的な解決の方法とその限界を見定めることが必要だ。
 資本主義における自己同一性の脆弱さは、人々の生存のシステムそのものが複数の断層に沿って分断されながら、この分断を日常的に抱え込みながら日々を生きざるをえないというシステムの限界に伴って生じている。朝起きた私、通勤する私、会社で仕事する私、ショッピングする私、アクティビストとして活動する私、友人と酒を呑む私、こうした私の様々な局面を「私」という抽象的な存在がひとつのものとして統合しているわけだが、この「私」の抽象性という本質はほとんど自覚されることはなく、むしろ「私」はこの私に固有の風貌に端的に表現されているように具体的な存在だとみなされている。抽象的であること、具体的であること、そして社会のなかで様々な役割を交互に、あるいは重複して演じることとの間の構造と関係は、資本主義社会の構造そのものによってあらかじめ規定されている。そしてこの既定性が、私というパーソナリティの形成に関わることになる。
 抽象的な私は、本源的な私ではなく、社会システムが抽象に基づく複数の私のあり方を統一するための「方法」であって、抽象的な私の存在そのものが近代という社会の構築物である。個別具体的で時間と空間に限定された私を超える抽象的な私に対応する私の条件をなすものも構築される。こうした複数の個別的な私を繋ぐ私として、あるときは民族的な同一性が、またあるときは国民的な同一性が、そしてまたあるときは階級的な同一性やジェンダーの同一性が主張され、これらが同一性のメタレベルでのヘゲモニー構造を形成する。この領域そのものが政治的な闘争の枠組みをなしている。この生ぐさい領域を哲学は抽象的な人間を対象に、また古代ギリシャの哲学などを参照することを通じて脱臭してしまう。マルクスが終生闘ったのは、こうした哲学の機能を反動的で資本主義の支配的秩序に加担するものだと批判して、現実世界の変革を主張した。具体性はカール・コルシュが主張したように、それ自体が弁証法的でありかつ哲学に敵対する哲学だった。
 言うまでもなく、データ化された私は「私」そのものではない。このデータ化された私の外部に、私という主体を構成する核となる部分が存在する。この核は、決してデータ化されることはないが、しかしデータ化された私の部分を介してパラマーケットと相互の関係をとることを通じて、核そのものの変容ももたらされる。この変容は、人間に固有のフェテシズムと密接な関係をとる。パラマーケットが出来の悪いAIや機械学習などの仕組みによってますます影響を受けるだけでなく、このAIにフェティイシュな同調行動をとることによって、「私」にとって最も親密な位置を占めることになったパラマーケットの、とりわけSNSなどでのコミュニケーションを通じて構成される「世界」を「世界」そのものとして感じるようになる。そして、データ化された「私」を、私が、それこそが私そのものだと認知してしまう。こうして「私」はデータ化された私を予測して私を作り替えようともがくようになる。いかなるメカニズムを内包しているのかは謎のままだとしてもデータセットが私になるという転倒が生じることになる。
 データ化された私が私の自己同一性を規定し、私を乗っ取るのであれば、伝統的な監視社会が描くような画一的な人間モデルが支配的になり、私は限りなく社会の倫理規範を内面化した存在へと向かってもよさそうなものだ。しかし、ある面では、逆のようにみえる現象が起きる。
 人間の世界理解は、知識人や思想家たちのそれを別にすれば、多くの場合、先に述べたように、実世界で「私」を中心に同心円的に描くことができる人間関係と空間との関わりを通じて、形成される比較的単純な仕組みを基礎にしてきた。この仕組みが、コンピューターネットワーク上のSNSなどにとってかわられたときに、人々が心理的に経験することが可能な「世界」もまた、明らかな変容を遂げることになる。フェイクニュースや「ポストトゥルース」と呼ばれるような世界がSNSによって突然登場したわけではない。これまで、マスメディアや公的な教育、科学的に世界認識の背後に、むしろ親密な空間のなかで密かに流通していた世界理解の不合理な側面や荒唐無稽な理解が、もはや幾重にも重ねられた実空間のコミュニケーションのレイヤーに妨げられることなく、一挙にサイバースペースに拡散しうる構造が登場したにすぎない。もはや、お行儀がいいよそ行きの言説で自分の内面にある偏見やおぞましい欲望をごく親しい人たちにだけ吐露する必要はなく、誰とはわからないが、「お友達」になった人たちと共有することができるようになったというだけだ。
 問題は、近代の規範ともいえる人権や平等の理念が脆弱なまま放置され、なぜ親密な空間のなかで不合理で偏見に満ちた感情や暴力が横溢してしまったのか、である。こうした感情の根強さは、それが人間の本性に根差しているからではなく、それが近代の支配的構造の本性に内在する非合理性に根差しているからだというのが私の主張したいことになる。
 資本主義は、合理主義と非合理主義を一つのシステムを支える両面としてもつ(注16)。計算合理性や道具的理性など、資本による機械化からコンピューター科学までが一貫して、その基盤に据えてきた世界は、それ自体としてはその目的を内在的に創出することはできない。言い換えれば、資本には社会を形成する理念が内在していない。あるのは、最大限利潤を追求する商品経済的富の世界だけだ。この世界では、人間は〈労働力〉として常に機械に代替される潜在的排除の対象でしかない。これでは社会を統治する政治を実現できない。近代の理念を自由と平等という価値に基づくものだと仮定しよう。この二つの価値は、市場経済における競争をめぐる自由と平等という限られた条件のなかで資本が受け入れるにすぎないものであって、労働者の自由や、労働者が資本家とともに企業組織のなかで平等の権利を保持すべきだといった考え方はもたない。なぜなら〈労働力〉は商品だからだ。
 他方で、資本主義の世界観は、こうした市場の合理主義の世界からは導出できない。そもそも市場は共同体の外部にあって、共同体と共同体の「あいだ」に形成されるものであって、共同体をそれ自身として組織化することはできない。だから国家が必要になるわけだが、では国家の理念はといえば、それが自由と平等を徹底させた存在であったためしはない。なぜならば、国家は権力の制度でありイデオロギーだからだ。権力であることと、自由と平等の存在とは共存できないからだ。もちろん哲学者の頭のなかには、いくらでもその理念を体現する国家の観念は形成可能だが、現実の世界では、これは可能ではない。むしろ国家は本質的にイデオロギー的な存在であり、また、イデオロギーはその本質で非合理であることによって、科学や法の世界に収斂することのできないところにその意義がある。言い換えれば、科学も法も、その合理性をそれ自体によって成り立たせるものではなく、この合理性に社会にとっての意味づけを与えうるのは、社会の正統性の言説、つまり広義の意味でのイデオロギーである。イデオロギーでは、権力者が自由と平等の体現者を演じることに何の不都合もない。他方で、イデオロギーなき科学や法もまた存在しない。なぜならば、資本主義のなかで暮らす私たちが「商品」や「貨幣」のフェティシズムに気づくことは実は決して容易ではないし、日常生活でフェティシズムを受け入れることなしには生活そのものが成り立たない。このフェティシズムを前提にして、道具主義的な科学的合理性に基づいて商品開発がなされ、工場が稼動する。こうして、フェティシズムそのものが、資本主義の意味の世界を、あるいはまたイデオロギーを構成すること通じて、商品の生産過程を支え、消費生活を支え、労働者は「国民」としての文化的一体性を内面化し、資本の利潤と国家の正統性を支えるというある種の転倒に根拠を与えることになる。

4-4 非知覚過程

モノの回路とコミュニーションの回路

 資本による人間に対する予測や制御は、機械化の時代から一貫して資本が追求してきた人間を支配するための人間理解の基本にあったものだ。この点は19世紀であれ21世紀であれ変わらない。しかし、コンピューターによる予測―制御の高度化は、この目的を、支配的構造による一方通行の過程ではなく、その結果がフィードバックされ、調整され、より確度が高い予測と制御の実現へと向かうように国民〈労働力〉の行動の直接制御を実現する方向で技術のイノベーションを促しているのだが、この過程では二つのことが起きている。ひとつは、資本が予測―制御の対象としている人間についての「意味」の生成である。「意味」はあらかじめ固定された与件として生成されるのではなく、そのときどきの目的に沿ってそのつど生成される。同時に、日常的に追加されるデータによって「意味」生成の前提となるデータベースが更新され、人々の行動の結果もまたフィードバックされる。しかし、他方で、こうした柔軟性がある予測と制御――資本主義的レジリエンス――を通じて国民的〈労働力〉を再生産するという構造そのものは、近代という歴史的な時代を一貫する。人間の社会的な存在としての「意味」もまた資本にとっての意味であり国家にとっての意味をまとうものとしての人間がその存在理由の核心を構成することになる。膨大なデータベースを前提にして構築されるプロファイリングは、テンポラリーに目的に応じて人間を動機づけ行動に駆りたて、自分がとる行動についての意味づけを(曲りなりにも)自己確認しようと努め、こうして行為の意味があたかも自分の内面から生成したかのように感じられるようになる。
 意味生成の過程を個人に即してみた場合、最初から支配的構造の意味を内面化した存在として個人が生成されるわけではない。意味は重層的かつ相互に干渉し矛盾しあう幾重にも折り重なったものとしてあり、これが次第に支配的構造の意味へと収斂しながらこれに抵触する様々な意味を抑圧し、ときには無意識へと追放する。この過程は弁証法的な意味構造であって、これが人間の行為や思考、感情、意識下あるいは無意識に内在する矛盾した理解の同時協働的作用をもたらすのであって、こうした過程を通じて行為や発話として表出する振る舞いは、行動科学が想定しコンピューターが予測―制御することを通じて実現したとみなす人間の振る舞いとは、結果が同じであっても、そのメカニズムはまったく異なるものだ。
 資本を中心に構成される意味の世界はパラマーケットを通じたコミュニケーションの複雑で混沌とした領域に依存するが、同時に、人々の私生活を資本の商品によって埋め尽すことによって、商品の使用価値の意味作用もまた人々の世界観や行動を左右するために、予測―制御の過程は複合的になる。商品の直接的使用価値、つまりモノそれ自体が否応なしに人間との関係のなかで、人間の側にもたらす意味と、パラマーケットを通じて人間が重層的なコミュニケーションを通じて構築する意味、この二つの意味が交差する座標軸が、とりあえず支配的構造が人間との接点を通じて主導権をとって生成する意味の場になる。CTC分野の資本は、データを大量に抽出して、さまざまなニーズに応じるプロファイリングを可能にするが、他方で、こうしたデータをもとに組み立てられた「私」に還元できない文字どおりの意味での私が、こうしたデータの抽出に対してどのように向き合う(対峙する)か、という別の問題が生じるのも、この交点でである。かつてマルクスは剰余労働を資本が搾取することによって引き起こされる問題、とりわけ労働者階級の貧困の問題を、抽象的人間労働と商品経済的な価値という量の問題に焦点を当てて資本主義批判として組み立てた。この批判は間違いではないが、限界があった。その限界が使用価値論の分析の不十分さにあった。資本主義的な商品の使用価値が素朴で単純な時代でしかなかった19世紀には、複雑で高度に発達した現代の使用価値の世界を予想することは不可能だったから、マルクスのこの限界を補う使命は私たちがなすべき課題である。市場で売買される直接的使用価値と、パラマーケットが生成する矛盾に満ちた錯綜し混沌としたコミュニケーションの場を通じて生成される意味の重層的なレイヤーによって形成される意味使用価値は、いずれにせよ、これらを受け止める主体である私たち一人ひとりのなかに生成される。これが、資本による具体的有用労働の意味の剥奪と再構築という問題であり、労働とされる人間の行為の総体――必要労働であれ剰余労働であれ――がもたらす労働する身体それ自体がもたらす抑圧という問題、つまり身体性搾取という問題だ。

資本に有機的に組み込まれたパラマーケット

 データの抽出と、これを商品として収益を挙げる過程は、意味と労働とコンピューターという三つが関わる領域になる。ここで意味の生成は、コンピューターが介在することによって非知覚的な過程になる。これが目的意識的な行為とみなされてきた人間のコミュニケーションを本質的に転換するひとつの要件となる。
 たとえばショッピングサイトにアクセスして衣料品ショッピングサイトでシャツを買う場合を例にとってみよう。実空間での買い物の場合、店員にサイズや自分の好みを伝えて、似合いそうな服があるかどうか相談する。店員は要望を聞きながら、何着か推薦してくれる。そのなかに気に入ったものがあれば買うし、そうでなければ、あれこれ質問しながら、品定めをするか、他の店に移動するだろう。この一連のコミュニケーションとほぼ同じことをネットショッピングでも実現することは可能だ。メールやチャットで質問するとか、サイトの検索で気に入りそうな商品を絞り込むことができる。体験的には非常に似たものになるが、全体を制御している仕組みはまったく異なる。 とりわけ、サイトの背後で作動している仕組みの不透明性は実空間でのショッピングにはない特徴的な領域になる。私のパソコンのブラウザがショッピングサイトとの間でおこなう機械相互のデータのやりとりの大半は私の実感にはとらえられない。コンピューターが相互にコミュニケーションを確立しショッピングの間中この接続を維持し続け、つねに接続している「私」が「私」であることを確認する一連のプロセスは、実空間で店員が私と面と向かって「私」を確認する方法とは根本的に異なる。ネットでの買い物の最中にショッピングサイトが送信する「クッキー」の存在を実感することはできないが、これなしには、私との接続は維持されない。買い物は現金では不可能だから、売買の成立は、同時に私の個人データの提供を不可避とし、ここには、ショップと私だけではなく、クレジットカード会社、銀行、信用機関などが関与する。買い物の過程でサイト側が提案する様々な商品は、私の購買履歴やサードパーティが提供する私についてのデータが利用された高度に個別化されたターゲティング広告であるかもしれない。この仕組みの大半が私から隠されたブラックボックスである(注17)。
 コンピューター・テクノロジーが支配的な現代では、パラマーケットの主要な回路がコンピューター・コミュニケーション・ネットワークとして構成されるようになっている。これが従来の実空間のパラマーケットとどのような点で本質的に異なり、それが資本に有機的に組み込まれた過程になるのだろうか。このことを知るためには、そもそものコンピューター・ネットワークの基本的な仕組みを理解しておく必要がある(注18)。
 先に、ネットショッピングと実空間で店舗で買い物をする場合を比較したことからもわかるように、焦点となる論点は、売り手による買い手についての把握が質的に異なる点だ。言い換えれば、伝統的な市場経済が匿名性の高い貨幣を媒介として売買を成り立たせるために、売り手にとって買い手は基本的には匿名の存在であり、購買に至る経緯もその後の消費過程も売り手にとってはブラックボックスにならざるをえない、という市場経済の性質に関わる問題だと言ってもいい。
 買い手が何らかの方法でショッピングサイトを探しあてて、買い物行動をとるところから話を始めよう。たとえば、仮に、ショッピングサイトのURLを https://www.nandemodepart.com と仮定しよう。このサイトにアクセスできたかどうかは、自分のパソコンの画面に当該サイトのページが表示されたかどうかで直感的に判断することになる。コンピューターは、この時点で、いくつかの舞台裏の作業をこなす。つまり、
・自分のコンピューター:nandemodepart.comに対して接続のリクエストを送信する、
・相手のコンピューター:接続のリクエストを受け取り、許可する場合は、必要なデータを送信する。必要なデータとは、ページを構成している画像やテキスト、レイアウトなど私が画面で見る内容のデータ一式である。
・自分のコンピューター:相手のデータを受け取り、これを指示どおりにディスプレイに表示させる。実空間であれば、私が店に入店した状態に該当する。
 実空間では、入店した私は買い物を始め、目当ての商品を見つけてレジに持参して支払いをして、店を出る。ネットでは、私が操作するコンピューターが私の分身となって、相手のサイトにアクセスし、希望の商品を探して、支払いを処理することになる。最後に店を出ることで、店との通信が切断されたと私は実感するが、コンピューターにはその後も継続して店との関係を維持する仕組みが組み込まれているかもしれない。
 この一連の行動は、nandemodepart.com側からは同一の人物による行動であると確認できなければならない。アクセスから切断までの一連の流れを「セッション」と呼ぶ。店側はこのセッションを管理することで、アクセスしてくるユーザーを把握することになる。たとえば、NTTコミュニケーションズのIT用語の解説では次のように説明されている。
「セッション管理は、Webサーバー上でサービスを提供するといった際に、アクセスしているユーザーの識別や処理の状態を管理するために必要になります。セッションを管理する方法はいくつかありますが、たとえばセッションを識別するためのID(セッションID)を生成し、その内容をCookieに保存します。このセッションIDにユーザー情報や処理状況を紐付けておき、通信時にCookieに保存したセッションIDを読み取ることで、その通信がどのユーザーからのもので、どういった処理状態にあるのかを把握することが可能になります(注19)」
 ネットショッピングでは、「私」とショップの間のコミュニケーションは実際には、私のコンピューターとショップのやりとりで成立する。ネットでの店員とのチャットやメールでの問い合わせも同様だ(実際には人間の店員ではなくAIが対応しているケースが増えている)。この過程を私が自分のコンピューターを操作して制御する。しかし制御とは、コンピューターのディスプレイに表示されている画像やリンクをクリックしたり、文字をキーボードから入力するというレベルで自覚されているにすぎず、その背後でコンピューターがどのようなデータの処理をしているのかは、コンピューターの技術者でなければ、知覚できない。
 実際にこのコンピューター・コミュニーションが成り立つためには、相互のコンピューターが間違いなく接続を一定期間継続し、商品を品定めしている「私」、チャットで質問している「私」、買い物籠に商品を入れる行為をした「私」、支払いをする「私」などがいずれも同一の人物(実際には同一のコンピューター)であることが確認されるように通信が維持される必要がある。これが上で引用した「セッション管理」だが、これはある種のつきまといを伴う。このつきまといなしに買い物をして決済を済ますことは不可能だ。ネットショッピングでは、こうした私の行動を確認しながら買い物の利便性を確保するために、セキュアな通信を確保したうえで、クッキーと呼ばれるコンピューターが相互に接続され続けていることなどを確認できる小さなプログラムが用いられてきた。クッキーだけでなく、私のコンピューターの様々なデータ(たとえば、OSの種類、使用しているブラウザ、言語、ディスプレイの解像度、IPアドレス、ハードウェアのMACアドレスなどなど、これらをフィンガープリントという)も相手に把握される。こうしたデータのやりとりがなければネットにおける「私」のコミュニケーションも成立しないから、このコンピューターの機械的なコミュニケーションも私のコミュニケーションの必須の一部をなす。この械的な必要としておこなわれる通信は知覚できない。つまり、私にとっては意識されないが通信=コミュニケーションにとっては必須の部分を構成する。もちろん、ウェブの開発者、ある程度ネットのセキュリティや仕組みに精通していたり、関心をもったりする人たち、あるいはネットショッピングでビジネスを展開する企業(決して少なくないが、人口の多数ではない)にとっては、これらは顧客を知るうえで必要なデータの一部をなすから、無関心ではないし、その知識に応じて、こうした機械的な通信も知覚可能な過程として制御の道具となる(注20)。しかし、圧倒的に多くの人たちにとっては非知覚的な過程であり、さらに、この過程を透明性のある過程にしようとする傾向そのものが、現在のコンピューター・コミュニーションの支配的な技術にはみられない。つまり、自分のコミュニケーションなのだが、実空間で買い物をする場合のように、とくに努力する必要なく、そのコミュニケーションの構造を直感的に理解できるようには作られていない。
 買い手にとっては理解しがたいこの非知覚的な過程でおこなわれるコミュニケーションが、データの抽出と行動の制御の回路として利用される。非知覚過程では、店の商品のどれにマウスを重ねたり、クリックしたのか、どのページを訪問したのかといった逐一の行動が記録できる。さらに、後述するように、店を離れて別の店に行ったとしてもクッキーが私の挙動を追跡している可能性――サードパーティクッキーと呼ばれている(後述)――があり、こうして蓄積されたデータから私の好みなどをプロファイルして、私の行動に影響を及ぼすことを意図した広告が私に送られ、私の行動変容へと繋るという一連の過程が構築可能だ(注21)。つまり、コミュニーションが人の行動や考え方に影響を与えるという場合、コンピューター・コミュニーションはこれを非知覚過程を通じて実現しうる可能性をもっている、ということでもある。さらに、もし私が広告に何の関心も示さなかったとしたら、このこと自体もまたひとつの「データ」として次にはより的確に私の行動を変えさせるような広告を送り込むための反面教師として利用されることになる。そのためには、無関心な私が何に関心をもっているのかを把握しなければならない。ストーカーが、自分に無関心な相手が何に関心をもち、どうすれば自分のほうに関心を向けてくれるかを考えながら、24時間相手を監視しつづけ、ときには監禁さえしてしまう心理と、ターゲティング広告やトラッカーと呼ばれる非知覚過程で資本がおこなう動機との間には本質的な差はない。ストーカーは資本の欲望の現れであり、資本主義の産物である。
 非知覚コミュニーションは、それ自体が商品化されているわけではない。またビッグデータとして長期にわたって蓄積されるともかぎらない。きわめて揮発性が高いデータである場合もある。こうしたデータが長期に蓄積されるデータと組み合わされてリアルタイムに私の挙動に対して反応するようなコミュニケーションが機械的に構築される。この過程は、同時に「私」というターゲットが何者なのかが形成される過程でもあるが、次第にコンピューターがこの判断過程で主導的な位置を占めるようになり、人間の判断の関与の余地が狭くなりつつある。つまり、機械によるデータ処理が支配的になることによって、データ処理の生産性が、人間のデータ処理能力の限界によって制約されることがなくなり、その結果としてビッグデータとして収集されるデータがより有効に活用可能になっている。これがAIが実現してきたことでもある。これは、パラマーケットが主に担ってきた「意味」の領域が機械化されるということでもある。
 この機械化がもたらしたのが、非知覚的な回路という新しいパラマーケットの構造である。広告産業などが密かに消費者に知られないように画像を細工するサブリミナル広告のような一方通行で、なおかつあまりアテにならない(フロイトの無意識の理論のプラグマティックな転用)仕組みとはまったく違い(注22)、確実に、コンピューターのプログラムによって生データを収集することに始まるフィードバック機構である。 間違った前提や理論を用いてもフィードバックは成り立つ。人の情動についての間違った判断が医学などの権威によって「正しい」ものという社会的評価を獲得する可能性がある。裁判における鑑定や求職活動などでの性格判断などに応用されると深刻な問題を引き起すことは間違いない。
 だから、コミュニーションの主体である人間が実感できる知覚領域だけを切り取って「コミュニーション」として論じたり分析することは、コンピューター・コミュニケーションの領域では、間違いとは言わないまでも不十分だ。また、フロイトの無意識のように人間の側にある非知覚過程の問題ではなく、外部のコミュニケーション環境の基盤に非知覚過程が組み込まれているという問題である。この外部の非知覚過程は、当然のこととして私たちの知覚による制御を迂回する。こうした仕組みのなかで形成される偏見や差別は、従来とは異なる性格をもつことは間違いない。私という存在が社会関係のなかで構築されるとする場合、この社会関係と私との関係意識の構築のなかにコンピューターによるコミュニケーションが介在することによって、従来の「私」の再定義は必須となる。機械が担う非知覚コミュニケーションを通じて、私たちの行動が「データ」として蓄積される領域を明確に組み込みながら、「私」の理論構築が必要になる。

ユーザー追跡技術

 ウェブにアクセスしてくる者をサイトが追跡してその挙動を逐一把握する仕組みとしてクッキーが利用されるようになって久しいが、クッキーの利用に代表されるユーザー追跡技術の歴史的な経緯をみると、資本主義市場経済における資本の側がいかに消費者の行動と心理の把握に執着してきたのかを理解することができる。
 インターネットの技術的な仕様に関する基本文書(RFC)に、第三者主体(third-party )クッキーについて次のような記述がある。
「UA[ユーザーエージェント、本章の文脈ではショッピングサイトにアクセスする消費者] は、 HTML 文書を具現化する際に、他のサーバ(広告ネットワークなど)からのリソースを要請することが多い。 これらの第三者主体サーバは、利用者がサーバを直に訪問したことが一度もなくても、利用者の追跡にクッキーを利用できる。 例えば、利用者が第三者主体が供する内容を包含しているサイトを訪問した後、同じ第三者主体が供する内容を包含している別サイトを訪問した場合、その第三者主体は、2つのサイト間で利用者を追跡できる(注23)」
 このなかで「利用者がサーバを直に訪問したことが一度もなくても、利用者の追跡にクッキーを利用できる」とある箇所に注目しよう。ウェブにアクセスした者に対してクッキーは、アクセス先ではない別のアクセス先と利用者を関係づけることが可能だということだ。本来であれば、AとBの二つの店を訪問する客がいるとして、実空間ではAとBの店からみたとき、自分の店に来た客がBも訪問したかどうかを知るためには、客を尾行するなど厄介なことをあえてやらなければならない。しかしネット上では「サードパーティクッキー」がこの役割を果たしてくれる。このサードパーティクッキーは、単一の買い物だけでなく、利用者が複数のサイトの訪問を把握することができるために、消費者行動を網羅的に把握する手段になりうる。
 そもそもクッキーと呼ばれる小さなプログラムは、ウェブにアクセスするユーザとのセッションを維持して効果的なコミュニケーションを維持するための手法として、ウェブの技術が普及する初期(1990年代後半)に導入された。これをユーザーの挙動を把握するための手段に転用しようという発想は、資本が消費者の行動を知りたいという欲求なしには生まれないし、こうしたニーズが背景にあってクッキーの技術が当初の目的から逸脱して発展してきた。クッキーの技術はさほど高度なものではなく、ウェブサイトの開発者であればその実装に必要な技術の基本は理解できるし、ウェブ技術の入門書にも言及されているが、そうであっても、ネットの利用者の圧倒的多数はこの技術がもたらしてきたプライバシー上のリスクについて認識の共有はできているとは言い難い。とはいえ最近になって、プライバシーへの関心が高まり、クッキーを規制するルールの導入が進みはじめた。また、ウェブブラウザのプライバシー設定を見直したり、よりプライバシーの配慮したブラウザに切り替える動きがやっとでてきた(注24)。
 パラマーケットの観点からみたとき、クッキーは現代のコンピューター・コミュニケーション産業が支配的になり上部構造が土台化した時代の特徴を端的に示している。クッキーは商取引それ自体とは関係しないバックグラウンドで機能する。消費者はこのプログラムを知覚できないからほとんど意識することはない。売り手は、クッキーのプログラムの技術そのものを知る必要はないが、その明らかな効果を容易に可視化してくれるGoogle広告(注25)など様々なサービスを利用することによって、ターゲットとなる消費者を把握できる。とくにサードパーティクッキーは、消費者の行動を追跡して、自社の広告を消費者に対して的確に発信するいわゆるターゲティング広告にとって必要な技術になる。
 広告産業全体のなかでは、従来型の広告から離れて、ネットにおけるターゲティング広告やリターゲティング広告など、いわゆるユーザー・トラッキング技術を用いた広告への移行が顕著になっている。かつてのマスメディアを介した大量散布型の画一的な広告が衰退しつつあり、消費者一人ひとりの行動を把握して最適化した形での広告を打つことが当たり前になりつつある。しかも、この場合、ネット広告が注目するのは、ネットショッピングで商品を実際に購入した人たちだけではなく、アクセスしたが何も買わない人たちを追跡して買わせることにある。実空間でいえばウインドーショッピングをしている人たちを尾行して、その行動から何に興味をもっているのかなどを推測して、巧みに商品を買わせるといったことを、ネットでは、クッキーや本人認証などの仕組みと機械学習あるいは深層学習などと呼ばれる機械アルゴリズムを組み合わせることで年々より簡単に実現できるようになってきた。FacebookやGoogleはこうしたトラキングやターゲティング広告を組織的に展開して莫大な利益をあげてきた。
 商品市場でモノを購入するという取引行為そのものをめぐる現在の状況は、この購買行動を前後して生じるパラマーケットにおけるデータ流通が劇的に変化しているということだ、この変化はビッグデータの形成によって量的な増大を背景に、人々の行動の予測と行動変容に必要なアプローチの組み合わせを通じて、市場の実際の売買行動に影響を与えることがシステムとしての目的であり、それ自体が産業のビジネスチャンスになっている。つまり、ビジネスがターゲットにしているのは人々の市場における欲望の制御であり、欲望を操作可能な対象とみなすことが可能なようになっている、ということでもある(注26)。たとえば、Googleの「データセグメント(リマーケティングと呼ばれていたもの)」の機能について、次のような説明がなされている。
「収集したデータを利用して、過去にモバイルやパソコンでお客様のブランドやサービスと接点をもったユーザーに繰り返しアプローチします。このセグメントに該当するユーザーが Google やパートナーのサイトを閲覧しているときに、広告が表示されます(注27)」
 上のターゲットにされているのは「過去にモバイルやパソコンでお客様のブランドやサービスと接点をもったユーザー」である。いったんショップを離れた場合でも、追跡が可能であることを「売り」にしている。サイトを訪問したユーザーの98パーセントは何も買わないといわれており、こうした客を再度呼び戻すためにリターゲティング広告が用いられるわけだが、従来型の広告の10倍の効果があるともいわれている(注28)。
 パラマーケットは、実際の市場での取引を規定するだけでなく、買い手の心理過程に介入して行動変容を促す技術が組み込まれたシステムになることによって、市場そのものを逆に規定するものになっている。社会構造における位置付けが逆転しつつあるのだ。
 コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)によって構成されたパラマーケットは市場で行動する人々の動静を把握するある種の感覚器官のような働きをしている。しかし、AIやビッグデータを駆使した解析と、これに必要なデータ収集の機構はまだ出発したばかりであり、成熟した状態にあるとはいえない。しかし、確実にいえることは、技術開発を動機づけているのは消費者(ユーザー)の行動予測と行動制御、つまり資本にとって最適な消費者としての行動をとるように促す能力の獲得にあることは間違いない。この意味で、技術は資本の利害に沿って発展しており、人々がこうした技術を受容し内面化し、さらには技術のフェティシズムによって人間と機械との関係そのものを組み替えるような世界観が共有されるようになることによって、パラマーケットは資本と人々の私的な内面を直接繋ぐ役割を担うようにもなる。こうして、プライバシーとして観念されてきた近代社会の私的空間における自由は資本に包摂されることになる。こうした構造は総資本の利害を反映するものであり、実際の消費者の行動と資本の関係は、市場の競争を背景として、予測と行動制御に複数のベクトルが作用し、複雑な競争関係を前提とした消費者行動の予測と制御の技術がますます高度化するきっかけを作ることにもなる。
 個人を識別可能な仕組みはクッキーだけではない。いわゆるフィンガープリントと呼ばれるデバイスやブラウザの付随する固有の識別子も有力な個人を追跡可能なものだ。パラマーケットを流れる情報の流れは、こうした様々なユーザー追跡技術を組み込み、コンピューター・ネットワークではコンピュータが双方向の通信(コミュニケーション)をとりながら、しかも、消費者の知覚に即していえば、データの大半がほとんど実感を伴わない意識外の回路を通っている。伝統的なメディアでは視聴者から資本へのデータの回路はほとんどない。これに対して、現代のパラマーケットは積極的に消費者のデータを取得することによって追跡するように作動する。消費者はある種の情報データの資源になっており、この資源を徹底して採掘するためのユーザー追跡技術がパラマーケットの支配的な技術になっている。

監視システムとしてのパラマーケット

 クッキーはもはやトラッキング技術として古くさいものになりつつあるが、クッキーをめぐる技術の応用の歴史は、支配的構造が技術をどのような方向に転用するのかを知るうえで教訓に満ちている。資本主義における技術は、消費者に利便性や快楽を与える一方で、市場経済の匿名性を剥ぎ取り、個々の資本にとっては断片的なデータでしかない消費者の人物像を「全体」として再構築しうる方向へと開発を進めてきた。資本主義の市場経済を背景とした技術は確実に、その匿名性に基づく自由(市場経済的な自由であって、自由そのものではない)を奪う方向をとってきた。
 市場での商品売買そのものは、貨幣を対価とする取引だが、貨幣を支払う消費者にとって、広告もパッケージも自分が需要する商品の直接的な使用価値ではない。しかし、他方で、消費者にとっての意味使用価値は、確実に広告やパッケージなどに影響されるが、だからといってより多くの広告を受け取った消費者が、広告の量に応じて支払いを増やすということにはならない。この意味で商品をめぐる情報は、市場経済と連動しながら市場の価格メカニズムと接合しながらもその外部で機能するパラマーケットを構成することになる。
 クッキーのようなユーザー追跡技術はパラマーケットの機能を本質的に転換させた。ユーザー追跡技術は、消費者を「大衆」としてではなく、「個」として相互に区別して把握可能なものにした。消費者の自覚を伴わない領域でおこなわれる消費者行動の追跡は、パラマーケットに、不可知の空間を組み込むことを可能にした。売り手は商品を売るだけではなく、追跡することが可能になったのだ。

ユーザー追跡技術への批判と抵抗

 ネットを中心としたマーティングが本質的に有している人間を個別に識別して、個別に管理・制御しようという支配的構造がもたらす技術がクッキーに体現されてきたのであって、クッキーが規制されることで問題が解決するわけではなく、個人を追跡・識別しようという支配的構造に内包されている権力の欲望の存在そのものが問題の根源にある。人間の行動を解析して提供する独自の市場が「アナリティクス市場」として論じられるようになり、地理空間、業種など様々なカテゴリーによる行動分析それ自体が利益を生むようになっている。Googleアナリティクス(注29)などのサイト分析ツールを使っていないショッピングサイトを探すほうが難しいくらいかもしれない。
 クッキーは、資本主義における技術開発の「進歩」やイノベーションがいかに資本の利害を体現したものであるかを象徴しているが、同時に、そこには一定の抵抗や抗議などの運動との力関係も存在してきた。サードパーティクッキーの問題を中心に、クッキーの目にあまる個人データ収集への批判が高まるなかで、人々からデータを収集してプロファイルする技術を支えてきた背景にあるイデオロギーそのものが反省されてきた(注30)。しかし技術の方向が根本的に転換するという方向をとっているわけではない。むしろ批判をかわしながら個人をターゲットとしたプロファイリングはより巧妙になりながら、プライバシーの閾値をめぐる闘争が展開されてきた。19世紀が労働日をめぐる闘争として、過剰な労働の搾取がもたらす心身への破壊を抑制するための社会的な歯止めが自覚化される一方で、相対的剰余価値の生産を促したように、20世紀から21世紀にかけた現代資本主義では、個人データをめぐる闘争は、過剰なデータ収集とプロファイリングがもたらす心身への破壊を抑制しながらも、より非侵襲的な技術の高度化を促してきた(注31)。しかも、土台と上部構造が融合している現状にあっては、民間資本の個人情報収集に規制をかける法制度があっても政府が収集する個人情報が民間と連携する構造がますます強固になっているために、支配的構造が全体として把握可能な個人情報そのものが個人の権利を優先させる有効な制度を構築する方向に向かっているとはとうていいえない。

政府による非知覚過程の利用

 同様の非知覚過程は、市場以外にも広範に見いだせる。たとえば、COVID-19(新型コロナウイルス)感染者接触アプリなどにも非知覚過程が付随する。こうしたアプリを用いて利用者が実感できるコミュニーションと、彼らにとっては非知覚領域で機械のプログラムが処理するデータの間には差がある。COVID-19の流行初期から位置情報追跡アプリ、隔離強制スパイウエア、免疫パスポートなど様々な試みが各国政府や企業によって画策されてきた。感染者との接触の有無を判定するアプリは、政府が直接管理する中央集権型もあれば、Bluetoothを使い極力データの集権化をもたらさないように工夫されたものまで様々だ。たとえば、GoogleとAppleが連合を組んで開発したGoogle Apple Exposure Notice(GAEN)は、一時的でランダムな識別子(Rolling proximity identifiers、RPID)と呼ばれるランダムな識別番号をユーザーの携帯電話保存するが、ユーザーが陽性と判定されると、一般にアクセス可能なデータベースに識別子をアップロードされる仕組みになっている(注32)。しかしこうしたプログラムは非知覚過程でそのほとんどが機能するので、ユーザーは常に追跡されているとは自覚しない。GAENは、トラッキング情報を常時保健当局などに送信するわけではなく、「陽性」あるいは「濃厚接触」という条件になったときに、データベースと連携される。この過程は実際にはかなり複雑だ。たとえば、電子フロンティア財団のサイトには非専門家向けの解説で、次のように述べている。
「Apple社とGoogle社の提案のように、診断キーの公開データベースとユーザーのデバイスのRPIDを照合する近接追跡システムでは、感染者の連絡先が、遭遇した人の中でどの人が感染しているかを把握する可能性があります。例えば、友人と連絡を取っていて、その友人が感染したと報告してきた場合、自分の端末の連絡先ログを使って、その友人が病気であることを知ることができます。極端に言えば、悪質な業者がRPIDを一斉に収集し、顔認証などの技術を使ってIDと結び付け、誰が感染しているかをデータベース化することも可能です。EUのPEPP-PTやフランス・ドイツのROBERTのように、中央のサーバーで照合を行うことで、この種の攻撃を防ぐ、あるいは少なくとも困難にすることを目的とした提案もありますが、これはプライバシーに対するより深刻なリスクをもたらします(注33)」
 RPIDの背後で機能しているメカニズムはブラックボックスのまま、友人が感染したという通知だけが、人間に理解されるメッセージで通知される。他方で、「悪質な業者がRPIDを一斉に収集し、顔認証などの技術を使ってIDと結び付け、誰が感染しているかをデータベース化することも可能」という記述は、RPIDがなぜ第三者によってアクセス可能なのか、これらと顔認証とIDを結び付けて目的外のデータベースが構築可能だというあたりの記述は、技術的な知識がなければ、理解しえない領域の話になる。こうしたデータベースに誰がどのような動機で関心をもつのかを考えたとき、公権力は政治目的で、資本は営利目的で、こうした技術を公衆衛生を隠れ蓑に、官民共同で転用することが可能だ。すべての人たちがこのプロセス全体とリスクを理解することができるとすれば、そもそもGAENのような仕組みは誰も望まないだろう。繰り返すが、この一連の過程はデータ流通の過程でもあるが、ここでデータの受け渡しに関与する者たち、たとえば接触アプリをインストールした人々は、非知覚過程での送信データに対して対価を支払われるような市場の取引をおこなっているわけではなく、その先にある目的外使用を目論む者たちもまた、最終生産物が商品として販売される前のデータ収集や加工の過程でデータのやりとりが商品化されるとは限らない。とりわけ政府は資本とは異なる動機をもってデータを転用しようとするだろう。
 この感染接触アプリの発想は、私たち一人ひとりの動静を把握できる何らかのデバイスを装着させてデータを収集し、このデータに基づいて、必要なときに必要な措置をとることができるように、私たちを常時追跡する、という資本主義の支配的構造の特性に由来する。こうした発想は公衆衛生や感染症に限定された考え方ではなく、かなり汎用性がある発想だという点に注目する必要がある。つまり、個別の課題に個別に対応するために具体化されているようにみえる技術の背後には、権力のより一般的な動機が隠れている。
 こうしたケースは他にも様々ある。技術の仕様は異なるが、ほぼ同じ動機――ターゲットを常時追跡して動静を把握しようとすること――をもって開発されてきたもののうち、イスラエルの軍事技術企業のNSOグループのスパイウェア「Pegasus」は、iPhoneをハッキングしてスパイするもので、様々な政府に売り込んでいたシステムだが、政治家や反体制派を追跡するより巧妙なシステムだった(注34)。また、APPLEがiPhoneに子どもの性的虐待動画の把握のために組み込もうとした仕組み(注35)や、Youtube、マイクロソフトなどが連合を組んでネットのテロ対策(注36)のために採用している技術の基本的なコンセプトは、土台と上部構造の融合の典型例であり、公衆衛生の分野での人の行動や接触の把握のそれと変わらない。だから技術の転用がきわめて容易なのだ。
 実際、この追跡とデータ収集を私たちの日常生活で用いる情報通信デバイスに組み込むという発想は、特に対テロ戦争のなかで利用されてきた古い技術でもある。いわゆるスパイウエアと呼ばれて各国の諜報機関などが治安対策や軍事目的で利用してきたものも、その基本的な発想は同じだ。古典的な手法はマルウエアを何らかの方法でターゲットとなる人物のデバイスに組み込み、このデバイスを通じて行動や通信をリアルタイムで把握するというものだ。これは、アラブの春の弾圧で実際に中東諸国で広範囲に利用された。いわゆるエシュロンに代表されるような冷戦期の通信監視(注37)と決定的に異るのは、こうした監視技術と私たちの接点が私たちの日常生活に欠かせないデバイスを利用して、移動をも捕捉し、かつ、プライベートな空間か公共空間であるかにかかわらず機能するということだ。人間が尾行する時代から、本連載で取り上げたように、ナチスがパンチカード方式の計算機で「最終解決」を実践するときに権力者が抱いた動機はいまに至るまで、個人の動静を把握しようとする権力の欲望には一貫したものがあり、これは、ファシズムや独裁国家であれ、民主主義国家であれ、いずれにも共通した権力の基本的な性格である(注38)。インターネットが社会インフラとなって以降も、技術の開発傾向はかつてと変わることなく一貫し、コンピューターの情報処理能力と資本の投資機会の二つの条件もまたこうした権力動機を背景に展開し、私たちの動静をより詳細に把握する方向をとってきた。これがすでに10年を優に超えており、この方向は資本主義の政治的・経済的な構造に組み込まれてしまったとみるべきだろう。
 第1章で述べたように、パラマーケットの有機的構成の高度化とでもいうべき事態が、上部構造と土台の融合をもたらしたのだが、これは、土台と上部構造のやっかいな齟齬や摩擦を回避する資本主義的な弁証法的な歴史の展開を示している。文化が産業化され、コミュニケーションが商業メディアによって担われ、文化やコミュニケーションが資本の支配的蓄積様式となる。こうした資本主義の歴史的な発達は、マルクスによる資本主義批判をかわすだけでなく、反資本主義運動への応答でもあった。
 この新たな構造は、生産にコミュニケーション領域が統合され、結果として、コミュニケーションによって構成される政治過程が資本主義的な生産過程と有機的に接合され、経済と政治というカテゴリーそのものをもはや成り立たないものにした。同時に、コミュニケーションに含まれるプライベートな領域にネットワークデバイスが容赦なく入り込むことによって、プライバシーを支えてきた物質的な障壁がきわめて脆弱になった。公共空間と私的な空間という概念的な区別の妥当性が揺らぎ、結果としてプライバシーの権利を支えてきた現実世界の実体そのものがネットワーク・コミュニーションを通じて揺らいでいる。また、法を理解できないコンピューターが、意思決定に不可欠なデータとその解析に無視できない役割を担うことによって、法の支配もまた揺らいでいる。この技術の特性を警察や軍隊が法による規制をかいくぐるための手段として利用する傾向にある。サイバー犯罪の取り締まりを口実に、実際には反政府運動の活動家を「テロリズム」などとみなして弾圧するケースが各国で頻繁に起きている(注39)。その結果として、民主主義や統治機構そのものが行使する物理的な権力が、人々にとって正統性あるものとみなされる根拠もまた希薄化し、合理的な判断よりも、ブラックボックスに入っている理解を超える仕組みを通じて出される「解答」を超越的に正しいものとする直感的で感性的な判断の影響力が強くなってきた。一方に計算=道具的な合理性の世界があるとすると、同時に、非合理で説明を超越した世界がパラレルワールドとして私たちの日常を二重に支配するようになっている。

4-5 コミュニケーション労働と非知覚過程

コミュニケーション労働の実質的包摂へ

 これまで人間の行動を消費者の観点から述べてきたが、以下では、労働者の観点、とりわけコミュニケーション労働に焦点を当てて述べておきたい。
 前章で述べたように、19世紀の機械制大工業が労働者の労働を単純化し機械に従属する位置に置くことによって、熟練を解体し、不特定多数の単純〈労働力〉への置き換えを可能にした。こうして、資本が労働現場の支配権を実質的に確立することになった。労働行為をめぐる意思決定が労働者から奪われ、意思決定から疎外されることによって、労働の意味の剥奪と資本による再構築が物質的労働の現場のあたりまえの環境になり、次第に、この単純〈労働力〉そのものが機械へと置き換わり、労働者そのものが駆逐されるようになる。
 肉体労働の機械への置き換えは、〈労働力〉の人口構成を物質的労働から非物質的労働へと移動させ、やがて20世紀後半になると、コミュニケーションそれ自体が労働として再構成されるようになる。資本の下で労働が果たす役割は、労働対象にはたらきかけて、資本の計画に沿って加工する対象操作的な性格をもつ。労働者は資本の意図を「理解」して、資本の一部として労働対象としての人間をコミュニケーションを通じて制御する。会話は、コミュニケーションの相互性を装いながら、実際には、非対称的な基盤の上にたっている。サービス産業の労働者が消費者との間で交すコミュニーションの前提にある基盤は、一方が資本循環の一環に組み込まれた生産過程であるのに対して、消費者の前提にある基盤は資本に外的に接合された消費過程(〈労働力〉再生産過程)であるという違いは無視できず、コミュニケーションが相互性の外観を鵜呑みにすることはできない。
 その後、資本主義の歴史は、コンピューターの介在によって、コミュニケーションそのものの制御の主導権を労働者から機械へと移行させるようになる。こうしたコミュニケーション労働の意思決定過程の主導権の移行は、具体的には、意思決定や判断の根拠をコンピューターが処理するデータやデータに基づく予測アルゴリズムを「信じる」ということを意味した。ここでは経験や主観とコンピューターのアルゴリズムの間で主導権争いが起きるが、これは労働者と資本のどちらがコミュニケーションの意思決定で主導権を握るか、という問題でもある。
 資本主義のコミュニケーションで支配的な位置を占める操作的なディスクールをそのままに、これまでは、労働者が資本家意識を内面化させられたりしながら、その「手先」を演じさせられて、相手(顧客、同僚、部下など)の意識にはたらきかけ、その行動や情動に意図したとおりの影響を与えようとするコミュニケーションが、コンピューターにとってかわられることによって、相手はより一層行動選択を拘束(その自覚のあるなしにかかわらず)されるようになる。人間はコンピューターを介在させたコミュニケーションの補助作業になる。オンラインショッピングの売買の大半がコンピューターと顧客の間のコミュニケーションだとすると、このコミュニケーションでは解決しえないクレームなどの問い合わせがサポートデスクの担当者の労働になる。それもまた、AIによって定型的な質問、問い合わせが処理されるようになり、よっぽどのことがないかぎり顧客は人の声を聞くことが難しくなり、直接会ってクレームや相談をすることなどはほぼありえない世界になっている。行政も同様であり、役所に出向いて権利行使することは容易ではない。こうした事態が、コロナ・パンデミックを契機に一気に普及したが、これはコロナに原因があるのではなく、それ以前からの傾向が加速化されたにすぎない。コールセンターであれ行政の窓口であれ、通話は録音され、メールもまたそのヘッダも含めて記録される。住所や電話番号を入力しなければ問い合わせフォーム自体がエラーになる。匿名の選択の余地などはほぼないといっていい。
 あるいは、たとえば、学校現場にデジタル教材が導入され、生徒の成績がコンピューターによって解析されるようになると、教師の労働は、こうしたコンピューターの判断に依存するようになる。生徒の学習を教師が主体的に担うのではなく、次第に、コンピューターが主体となり教師はこれを補助する位置をとるようになる。ここでは生徒の個人データを教師が手作業で処理できる量を圧倒的に凌駕する膨大なデータを駆使して、生徒のプロファイルを実施するシステムが介入することになる。生徒の学習能力が、生身の人間の教員による教育と比べて向上するかどうかがここでは問題の核心をなすのではない。核心となる問題は、こうした過程のなかで生徒たちがコンピューターのアルゴリズムに即して自らの学習能力を最適化するように行動しようと努力するようになり、同様に教師もまたコンピューターの判断を基準とした教育を受け入れるようになり、結果としてコンピューターのフェティシズムが成立する。ダマシオの言い回しを借りれば、情動から切り離された「理性」もどきの機械が「理性」の手本になり、こうしてデカルトが正しいということになるような世界が生まれる(注40)。学校の権威は、教師の人格からAIへと移行し、コンピューターによって媒介されたシステムのフェティシズムが再構成される。たぶん現在はこの過渡期にある。こうしたコンピューターフェティシズムの否定が旧来の学校教育への回帰の主張によってなされるのであれば、国民国家と資本の構造のなかで制度化された「教育」それ自体からの人間の解放という課題を果たすことにはならない。学校というフェティズム、その背後にある支配的構造のフェティズムからの解放、言い換えれば、意味の剥奪と支配構造による意味の世界からの解放は、復古主義的な回帰によっては果たせない。
 こうしてコミュニケーションが労働に組み込まれるとして、それでは資本や国家のコミュニケーション労働の回路のもう一方の側、顧客や学校の子どもたちのコミュニケーションもまた労働なのだろうか。
 コミュニケーション労働は、賃労働と家事労働同様、賃金を支払われる領域と支払われない領域にまたがっている。店舗で働く労働者が顧客と接するとき、顧客は単なる労働対象なのではない。顧客と店員との間のコミュニケーションを通じて商品の意味使用価値が形成され、この意味は顧客が認識する商品の意味として顧客に意識される。商品の意味使用価値は直接的使用価値のように資本が一方的に形成できるものではなく、店員と顧客との間のコミュニケーションという共同作業の結果である。この意味で、顧客のコミュニケーションは資本が供給する商品の生産過程に――意味使用価値の生産――無償で関与することになる(注41)。顧客、つまり消費者は、コミュニケーションを通じて、資本とともにモノの使用価値の意味の生産に関与させられつづけるということでもある。消費者が〈労働力〉再生産過程にあっては労働者(シャドーワカー)(注42)でもあるという従来の構造にコミュニケーション労働が関与することによって、消費=〈労働力〉再生産への資本の関与が質的に転換することになる。商品の意味使用価値は、消費行為そのものの遂行の現場で繰り返し生成されることになる。コミュニケーションの労働化は、〈労働力〉再生産過程を資本に繋ぎ留められた人間の行為、つまり労働過程として直接関与できる仕組みだとみる必要がある。そして、この商品売買過程にとってパラマーケットを介した情報が商品の意味使用価値を形成することと上述した店員と顧客のコミュニケーションは相互補完的な関係をもつことになり、ここに非知覚過程がコンピューター・コミュニーションによってフィードバック機能をもちながら関与することになる。

コミュニケーション労働とデータ化する「私」

 コンピューターが介在するコミュニケーションでは、この相互性の基盤にコンピューターが相互に通信する過程が人間の知覚の範囲外で新たに形成される。この非知覚過程は、コミュニケーションの不可欠な一部をなすにもかかわらず、当事者がそのすべてを正確に把握して自覚的に制御することはほとんどできない。しかし、コンピューターのコミュニーションは、ターゲット(消費者、労働者、子どもたちなど)をトラッキングしたり、他のデータベースを参照して、本人を認証してカテゴリーに分類して選別するなどといった作業が資本や政府の側ではおこなわれる。同じことがターゲットにされる側ではおこないえないという非対称性がもたらす一方的なデータの収集(データの搾取)を通じて、ターゲットの非合理性的側面を含むパーソナリティの支配構造による一方的なプロファイリングがおこなわれる。
 言い換えれば、純粋に技術的な観点からすれば、私たち一人ひとりが、資本や政府をトラッキングして彼らをプロファイルすることを可能にする技術は存在可能なのだが、これを駆使することが不可能なようにコミュニケーション・インフラが設計されるか、あるいはこうした逆方向のトラッキングは犯罪化され、支配構造の側が一方的に私たちのデータを収集することが宿命であるかのように制度化されているのだ。この非対称的なコミュニケーション過程は、とくに非知覚過程が構造化されることによって物質化される。こうした傾向を最も端的に示しているのが人工知能(AI)が関わる領域になる。
 人工知能が技術開発の中心的な課題になっている現代資本主義は、人間の力学的な制御という近代社会の本質の究極の形態だろう。人間は機械ではないが、機械は人間によってある種のフェティシズムの対象となる。フェティシズムの一般的な性格には対象となるモノに対して自我そのものが同一化しようとするところがあり、まさに、人工知能はこの意味で、人間の脳の機械への同化現象をもたらしているわけだが、こうした傾向は、脳科学がコンピューターに媚を売るような学問の構成をとることによって、脳の「情報処理」がコンピューターの情報処理と本質的に異なるところがないだけでなく、脳は出来が悪いコンピューターにまで格下げされかねない議論が登場し、これが「世論」を誘導するようになっている。
 これまでにも指摘してきたように、こうした傾向をもたらした背景にあるのは、社会の支配構造が、マルクスの有力な資本主義批判と、その現実的な力としての階級闘争に対して、人間を社会の主体の地位から引きずり下ろし、〈労働力〉として労働市場に投入される「資源」とみなすことによって資本主義経済を防衛しようとする20世紀の戦略が限界にきたことを意味している。これでは人間を総体として資本の価値増殖に組み込むことはできない。なぜなら人間はそもそも資本ではないからであり、人間の総体を資本は必要とはせず、〈労働力〉としてだけ必要とするからだ。これに対して、コミュニケーションの労働化は、資本が発見した新たな人間の特性を〈労働力〉として価値増殖に媒介するものだ。これは資本主義にとっての最後のフロンティアだ。既に述べたように、コミュニケーションの労働化の前提にあった思想は、行動主義であり、道具的合理主義の伝統であり、この文脈の延長線上にコンピューターによって解析可能なデータ化された人間の断片の膨大な集積としてのビッグデータと機械学習やAIのテクノロジーがあるわけだが、この技術の流れの精緻化が、結果として構築する「人間」(データ化された「私」などと呼ばれるわけだが)は、文字どおりの意味での人間としての地位を次第に確立するようになっている。この過程で、AIは「私」を理解しえるかどうかといった問題が論争化する、しかし、問題の核心は、機械の側にあるのではなく、人間の側が機械によるデータ化された「私」を真実の「私」として受け入れるかどうかというところにある。大方の人々は、データ処理された「私」を真の「私」として受け入れることにさほどの抵抗感をもっていない。目の前の私をさしおいて「本人確認書類」(運転免許証、保険証、最近はマイナンバーカードとか)が「私」の座を奪う事態は日常のなかにしっかり根を下ろしている。人々は「私」がデータに還元されることを奇妙な事態とは感じていない。 むしろデータによってお墨付きを与えられることを期待さえしている。
 しかし、この「私」をさしおいて主人公の位置を占めるデータに還元された「私」に対して、支配者たちの側が懐疑的になっている。データ化された「私」に基づく制御が思うようにうまくいかないからだ。それは本当の「おまえ」なのか? この懐疑がもたらしたのは、データ化されない「わたし」のなかにいくばくかのバグがあるという転倒した認識だ。他方で、詐欺師たちもまた巧妙にデータ化された「私」を偽装することによってある種の利益を得ようとする。資本家たちは〈労働力〉を買い叩けるように、データ化された「私」をジェンダーや人種などのファクターに偏見を織り混ぜたアルゴリズムによって、経済的搾取の特権を維持しようとする。資本の戦略は人間の最もやっかいな心理、「不安」を武器にする。まず「私」を認証してくれる何者かをもたない「私」を不安にさせる。この不安につけこんで「あなたの指紋さえあればあなたであることが証明できますよ」という生体認証の誘惑の罠を仕掛けたり、「国があなたにかわってあなたであることを証明しますよ。そのためにはマイナンバーカードを取得してください」といった誘惑だ。「私」が何者なのかを認証しなければならないような事情は、大抵の場合、作為的に資本や国家の都合で作り出された必要でしかない場合が大半だ。
 もうひとつの事態は、人間の側が機械による「私」を真実の「私」として受け入れるかどうかという問題と表裏一体をなす事態で、人間の側が機械をもはや機械ではなく、ある種の人間とみなすという問題だ。コンピューターに「人工知能」という名称を付与するときにすでに予定されているのは、この「知能」が限りなく人間の知能に近付くことであり、そうであれば、「人工知能」をある種の人間と同類の「知能」とみなしてさしつかえないだろうという類推が流布することになる。汎用的なAIが構想された時代は、まさに人間並の「知能」の可能性が追求されたが、現代ではむしろ介護ロボットからメタバースまで、特定の用途に特化する形で部分的に人間(あるいはそれ以上)を演じるこようになっている。部分的に人間のある部分を演じることによって人間になりかわるのはフェティシズムの特徴だが、これは、人間の認識(心理というべきか)が機械を部分的に人間とみなすフェティシズムであって、技術至上主義が率先して社会の共同意識として形成しようとしている側面だ。人間もコンピューターもどちらも、計算させれば同じ答えを出す。コンピューターと脳とは、一方はデジタルであり他方はアナログだというその本質的な仕組みの差異を論じることそのものを却下してしまう。
 コンピューターが介在するコミュニケーションの場合、人工的に構築されたコンピューター相互の通信の領域があり、その多くが私とあなたの意識やコミュニケーションで意図されているメッセージとは相対的に異なる領域にあり、しかも、この通信の領域なしには私とあなたのコミュニケーションそれ自体が成立しない。この非知覚的な構造は膨大な広がりをもっており、誰もその全体を把握することはできない。この非知覚過程のなかで、私とあなたが誠実に自分の感情や理解に沿った会話をおこなうとしても、この世界は私とあなた二人だけでできているわけではなく、私が語る話題の多くは、ネットの他の情報を介して得た知識だったりする。あなたにしても同じだ。何度も述べているように、ターゲティング広告から巧妙なAIによる入れ知恵まで、私の知識そのものがそもそも非知覚過程からの影響を免れていない。そして私とあなたの会話がSNSのチャットであったりしたとき、この会話そのものがビッグデータの一部に追加されて、私が何者なのかを判断する材料の一部をなすことになる。さらに悪い冗談かもしれないが、いま対話している「あなた」が人間なのかどうか私には確認の方法がないかもしれないが、Googleのような企業にはそれが可能かもしれない(注43)。
 こうして、私が何者であるのかが他者を媒介として(他者とは、自己のなかの他者と、文字どおりの意味での他者とがあるから、そもそも複数だが)、私と呼ばれる自己の同一性が構築されるという場合、ここに、コンピューターを介したコミュニケーションが介在することによって、この自己の同一性それ自体が本質的な変更を被ることになる。人間は社会的な動物だから、私というパーソナリティが社会を構成する他者との関係のなかで構築されるというだけでなく、私は、コンピューターを介してAIが構築する私をも私のパーソナリティの一部に意識されない形で受け入れ、その結果、私がこれに反応して引き起す言動が再帰的にデータ化されてデータとしての私の一部を構成しながら、他の人間の私についての理解に影響することになる。だから、データ化された私と、そうではない私を明確に区別することはできないのだ。私が認識し感じるあなたについての私の受け止めの何らかの部分は、データ化されたあなたを含んでいるのだが、それがどのような部分なのかを正確に言い当てることは不可能だ。
 非知覚過程は、人と人のコミュニケーションが、たとえ遠距離であっても、コミュニケーションの内容に影響を与え、しかもフィードバックによって再帰的その影響が自分にもはねかえるだけでなく、直接のコミュニケーションの相手を超えて、双方がとりむすぶコミュニケーション関係全体からの間接的な影響がコミュニケーションの意味内容それ自体に干渉する。こうした従来にはなかったコミュニケーションの構造が生み出された結果、言語活動は人間に固有であることに変りはないのだが、この言語活動や象徴的な行為を支える人間の他者と自己についての理解を生み出す意味の集合にコンピューターのアルゴリズムが目的意識的に関与することになる。重要なことは、当事者である人間たちは、このコンピューターを介して実行される言語活動への干渉に必ずしも自覚的ではないが、他方で、コンピューターのアルゴリズムを組み込む側――支配構造がその主な主体となる――は、目的意識的に関与しているという点にある。
 このような非知覚過程が目指そうとしているのは、人間の情動をコミュニケーションを通じて、とりわけ意味の世界を通じて、操作可能なものへと転換しようとすることにある。ここには、機械が人間を排除して置き換わるという機械化が引き起す問題とは異なって、人間は排除されるのではなく、機械とは異なるそのアナログな脳の言語活動の前提となる意味の世界に機械が介入することを通じて、機械による人間の支配、マルクスの言い回しを借りれば、死んだ労働による生きた労働の支配、あるいは人間労働の実質的包摂がコミュニケーション労働の世界を舞台に展開されはじめているということだ。

コンピューターと身体性

 会社で働くときとオフでくつろぐとき、人は服装から話し方までを変える。なぜ変える必要があるのだろうか。会社が「自由」であることを演出するために、あえてラフな服装を推奨する場合がある。しかし実際には労使関係に縛られた不自由な関係が偽装されるだけなのだが。そしてCOVID-19パンデミックのなかで、テレワークで自宅のパソコンの前でオンライン会議に臨むとき、プライベートな場所がオフィスになり、スーツに身を包まざるをえなくなる。職場のドレスコードがプライベートな場所を侵食し、コミュニケーションの流儀も変わる。これをプライバシーの侵害だと理解する人はあまりいないが、バウマンのいう監視社会の液状化とはこういうところに露出する(注44)。
 こうした知覚可能な領域に加えて非知覚過程の作用がコンピューター・コミュニケーションでは顕著になる。パソコンのような仕事の道具を多くの人たちは私生活でも使い続ける。私たちのプライベートな生活はすでに市場を媒介にしてモノの意味作用の集合によって構成されているが、これにコミュニケーションの道具が加わるわけだが、その機能の多くが非知覚過程を通じてインタラクティブに私たちの情動を捉える。私たちの意識を構成していることがらのなかには私が抑圧して無意識に押し込めた「何か」が作用するかもしれないし、私たちが「判断」と呼ばれる過程を通じて、抑圧を制御することは知られていたが、私が操作するコンピューターを介して可視的なデータとしてディスプレイに表示される内容が私を密かにプロファイルしたりつきまとって取得したデータに基づいて私の言動を意図的に操作しようという底意をもっているなとどいうことは、これまでにはなかったコミュニケーション構造だ。私たちが外部環境との間で開かれた関係をとることを通じて私の身体性が構築されるという意味で、身体性は社会的・歴史的に規定されたものとして「意味」を与えられるわけだが、私と外部とのインタラクティブなコミュニケーションでありながら、人工的な機構として機械化されて私の意識にはのぼることがないが、私とのコミュニケーションは確実に実行されており、このコミュニケーションの影響から私は逃れることができない。インタラクティブであること、ある種のでっちあげではない実際の私の動静を何らかの手法でデータ化して「客観性」を装った証拠を伴なってフィードバックのメカニズムが介入していること、こうして私たちは否応なくこのプロセスの共犯者に仕立てあげられている。
 誰もが少なからずもっているフェティシズムが、コミュニケーションを制御するコンピューターが作り出す「世界」に対して形成されることは、それがコミュニケーションを構成する他者を巻き込んで自己のパーソナリティに影響を及ぼす場合であっても、それを、コンピューターによって外部から与えられた意識されない刺激による非本来的なパーソナリティなのだ、などということはどのようにして説明することが可能だろうか。むしろパーソナリティそれ自体が関係の産物であることを踏まえれば、この関係が出生から大人になるまでの生育期に周囲の親密な人間関係によって影響されるように、あるいは、マスメディアの大衆文化によって影響されるように、私を取り巻く様々なモノによって影響されるように、スマホや家庭内のIoTやAIロボットによって影響されるとしても不思議なことはひとつもない。スマホそれ自体であれ、SNSの「お友達」であれ、ゲームのキャラクターであれ、実在か非実在かを問わず、対象に対するある種の恋着は、双方向性の精度が高度化すればするほど、これがある種の転移の対象となり、フェティシズムが強固な基盤をもつようになるだろう。こうした過程が社会的な規模で、多くの人々のパーソナリティの基盤を形成するようになると、ますますこのフェティシズムへのとらわれからの解放は難しくなる。コンピューター・コミュニケーションの双方向性は、多くのSF小説が予感しているように、より一層深く人間のパーソナリティに影響を与えるだろう。
 デバイスは私の身体の延長として、プライベートな場所を共有するモノでもある。かつてのデスクトップパソコンよりもラップトップの方が可搬性が大きいために、身体との結合は強固だが、スマホはこの傾向をさらに推し進めた。この身体との一体性は、アップルウォッチやFacebookのスマートグラスのようなウエアラブルデバイスやメタバースのように、ビッグデータによって構築されたバーチャルな私の「分身」としてのアバターが構築されるといった方向へと技術開発が一挙に進んでいる。そして、こうした傾向の究極の姿が脳とコンピューターを直接接続する脳・コンピューター・インターフェース(BCI)関連のデバイスということになるだろう。この方向に内在されているのは、デバイスが私たちのプライベートな場所(その究極の場所が脳そのものだ)に組み込まれ、24時間密着することを通じて私たちの言動を細部にわたってデータとして取得することによって、「私」とは何者なのか、その特異性をプロファイルしながら行動や意識そのものを制御しようという思惑が資本や国家にはある。この過程は、表層にある私とデバイスを媒介したコミュニケーションの可視的なレイヤの下に、非意識的な過程があり、ここでは技術のレイヤとして、私が自覚しない私に関する膨大なデータが動員される。消費者としての私、有権者や「国民」としての私を制御したいという欲望をもつのは、私ではなく、やつらだという自明のことが見落とされがちになる。しかしこの彼らの戦略の未来は所期の目的を達成できないだろうと思う。
 このように私たちのプライベートな空間に入り込む当の装置は、私たち人間のアナログで矛盾に満ちた判断の流儀とはまったく異なる意思決定の方法を持ち込む。このシステムのアルゴリズムは、目標設定の前提をなす動機の是非については判断停止し、マニ教的な二分法を通じて実行されながら、システムは自壊することなく自己再生産すべきものとして維持される。私たちは、このシステムを操作する主体であるのではなく、このシステムが操作する対象でしかないが、同時に、ある種の共犯者に仕立て上げられもする。これは、私が無媒介に私に対してよそよそしい存在になるというふうにしか実感できないという意味で、疎外の究極の姿だろう。支配構造は、このような非知覚過程に統合された私がパーソナリティとして破綻せずこれに適応するという最悪のシナリオを希求する以外に自らの延命の道がないところまで追い詰められている。
 フィードバックを「内臓化」させたプログラムは、制度の支配者たちが本能的に欲望する不死であり永遠の権力生命の実現をシミュレートしているのかもしれない。支配的イデオロギーの永遠への願望には必ずといっていいほどフィードバックすべきいま現在に直接連なる「過去」や「神話」「伝統」――その多くが偽造されたものにすぎないのだが――への回帰が伏在している。支配者たちが権力の正統性の口実に伝統を持ち出すとき、彼らが権力の私物化を企図しはじめたことの兆候だ。コンピューター・プログラムのアルゴリスムの窮屈な世界と、伝統や神話への回帰による再生を通じた自己維持のカタルシスをある種の超越――この場合は、コンピューター・技術によってグローバル化した「近代の超克」――への唯一の道だとみなす伝統主義との間には、共通した世界感覚と、問題解決の振る舞いがある。最先端を標榜する技術を携えた芸術が同時に「伝統」をも携えて自らの正統性を誇示するありようは、国策としてのメガイベントに回収されたクリエーターたちの無意識のナショナリズムが繰り出す過剰な技術至上主義芸術に端的に示されている(注45)。個人としての人間も社会も、外部に開かれた開放系としてしか成り立たないし、そこには、固有の始まりと終わりがあり、人間にとっての時間=歴史は、均質で無限に続く時間を前提としてはいないにもかかわらず、この歴史的な宿命を彼らは受け入れたがらないのだ。
 このような奇妙に見える事態がありながら、実際に社会の権力として歴史的な一時代を画すことがんぜ可能だったのだろうか。合理主義の政治的な形態としての法による統治が人々の生活の隅々にまで波及するようになるにつれて、人間が本質的に有している非合理的な側面をもてあますようになったからだろうか。私たちは、合理的な判断によって言動を制御するコンピューターのような意思決定に支配されているわけではない。プライバシー空間を解体・侵食して繁殖するSNSの言説空間は、非合理性を公共における言説のあり方とすることによって、事実上の言説のヘゲモニーを握りつつある。これは、まだこれから起きるであろう出来事の序盤戦にしかすぎないように思う。
 GAFAのようなプラットフォーム企業は、伝統的なマスメディアのリテラシーのプロフェッショナリズムによって排除されてきた大衆の死の欲動や破壊衝動に新たなビジネスチャンスを見いだし、大衆の欲望の直接的な表出を可能にする舞台を設定することによって、言説空間市場を拡張しようとしてきた。この意味でいえば、巨大な多国籍企業が大衆のプライベートなコミュニケーションを市場化する争奪戦のなかでプライバシーが解体しつつあるということができる。ヘイトスピーチや偏見は、プライベートな言説の内部で密かに温存されてきた支配構造のイデオロギーを大衆が、新たなコンミュニケーションのプラットフォームを通じて漏出させたものであって、資本や国家に倫理や責任を期待することはおかど違いだ。
 AIの是非論争が活発だった1980年代に、反AIの急先鋒の一人、哲学者のヒューバート・ドレイフェスは人間とAIとの本質的な違いとして、日常的な経験のなかで柔軟な判断や行動の術を直感的に体得する点を強調した。たとえば、自転車の乗り方を習得するという場合、これを口で説明して理解しても、乗れるようになるわけではない。ドレイフェスは次のように言う。
「自分が自転車に乗れるからといって、その経験から具体的な法則を引き出して、他人に乗り方を教えることができるだろうか。転ぶ時にも角を曲がる時にも自転車は傾くが、ここまでなら大丈夫という微妙な感覚を言葉で説明できるだろうか?」「答えは「ノー」だ。自分が自転車に乗れるのは、時には痛い目にあいながら練習を積んで、「コツ」を身につけたからである。学んだことを言葉でいい表わせないという事実は、何を意味するのか。それは、データと法則をいくら集めても「コツ」は身につかないということである(注46)」
 しかし、残念ながら、二足歩行ロボットは自転車に乗ることができるようになってしまった(注47)。ロボットが人間の「コツ」を習得したわけではない。ロボットに自転車を操縦させる方法は、「コツ」に頼り、練習を積むという人間がやってきた方法以外のいくつもの方法のなかで機械に可能な方法を選択したからだ。機械(自転車)を機械(ロボット)によって制御するには人間とは別の機械工学的な方法をとればいいだけのことだ。鳥のように空を飛べなくとも、別の方法で飛ぶことが可能なように。ドレイフェスが勘違いしたのは、自転車に乗ることが可能なロボットの制御という課題を、人間の「コツ」なしに自転車には乗れないにちがいないと思い込み、自転車を制御するという課題を「コツ」の話にずらしてしまったところにある。データと法則を集めてやるべきことは「コツ」を身につけることではなく、自転車を操作可能な力学的なプロセスを設計することだ。
 さて、問題の重大なところは、ドレイフェスの勘違いが、ロボットが自転車に乗れるようになるという現実に直面すると、別の勘違いを生み出す。それはロボットが人間と同じような「コツ」を習得して自転車に乗ることができるようになった、という勘違いだ。この勘違いは、自転車に乗れるようになる方法は「コツ」以外にないという思い込みを前提にして、ロボットも「コツ」を体得したかのように錯覚してしまうところにある。この錯覚が錯覚として自覚されないとき、人間はロボットにある種の人間的な性格を読み込んでしまうことになる。つまりフェティシズムである。人間もロボットも同じ結果を達成したことから、結果を導いたプロセスを人間の思考や行動がとるであろう機械の力学的なメカニズムには還元できない人間に固有と信じられているプロセスになぞらえる間違いをおかすことになる。もちろんドレイフェスはこのプロセスの違いを重視しているのだが、言葉にできない曖昧さや合理的判断に還元できない柔軟さに基づく行為の帰結に対して、AIの研究者たちは、コンピューターのアルゴリズムによって同じ結果を導くことができるような迂回路の研究を重ねてることで、この難問を解決してきた。自転車に乗れるか乗れないか、とかチェスでどちらが勝利するかとかは、結果の是非が明確な例だが、私たちがAIに判断を委ねて何事かを決定するという場面は、是非の判断そのものが不分明な場合がますます増えており、そのときに、AIに対してある種の感情移入ができるかどうかが、AIの決定を受け入れるかどうかの重要な要素のひとつになる。ネットショッピングで、あの商品を買うかこの商品を買うか迷っているときに、アレクサのようなAIロボットに相談して、買う商品を決めるという行動をとったとき、このAIのアルゴリズムが私の購買行動に影響を与えたといえる。こうした場合、この決定は私の決定ではあるが、純粋に私の決定とはいいがたく、その一部がAIによって左右されるわけだが、伝統的な広告で自分のお気に入りのアイドルに引かれてつい商品を買ってしまうという行動と共通するところがあるが、他方でAIとの間にはコミュニケーションが介在しているという点が決定的に異なる。AIと私の間のコミュニケーションが私の情動に影響し、私の一部になる。これはフェティシズム一般の特徴がAIにも妥当するというだけなのだが、AIはそれ自体が巧妙に人間を演じるネットワークに繋がったインタラクテイブな存在だという大きな(深刻な)違いがある。

4-6 フェティシュな人工知能

フィードバックの副作用

 人工知能をめぐる長い論争は、主に、コンピューターが人間の「脳」に代位しうるものかどうかをめぐる議論だったといっていい。アラン・チューリングの有名な論文「計算機械と知能」は「機械は考えることができるか」という問いから出発している。人間のように考える可能性を機械に委ねることがまったく不可能ではないという見通しがあるからこそこうした問いが立てられる。人間と機械=コンピューターによる情報処理の関係が、一方に人間が存在し、他方に機械あるいはプログラムが存在するという明確な外的対立の構図のなかで議論が展開されていた時代は、過去のものとなった。
 よくひきあいに出されてきたチェス競技における人間とコンピューターの対局を例にとって、考えるコンピューターが論じられてきた。コンピューターは確かにチェスという特定の競技に関してなら、人間を上回る能力をもつことがある。このことをもってコンピューターが人間と互角の「脳」をもつようになるのではないかというようなことはたぶん、誰も予想していない。人間の特定の能力だけをとりだして機械とその能力を比較するというのであれば、現代のデジタルコンピューターでなくても、多くの機械は既に人間の能力を超えている。スピードでは自動車が優り、空中を飛ぶことでは飛行機が圧倒的に優れており、建設用重機は人間の筋力をはるかに上回る能力をもっている。電卓や計算尺は大多数の人々の暗算の能力を凌駕する。だからといって、電卓は人間の脳の一部だとかとみなすことはない。
 機械がフィードバックの機構を備えて、人間とインタラクティブに対応できることが、たぶん、機械が人間の「脳」に近い存在だとみなされるひとつの条件になっている。このインタラクティブな関係、つまり、コミュニケーションを通じて、人間が世界に対して理解を構築する過程は、心理学的な過程であり、理論的あるいは理性的な過程に還元することはできず、経験や情動も動員される過程である。

恋着と同一化の対象としての人工知能

 こうしたコミュニケーション環境のなかで、人工知能が果たす役割は、かつての実験段階から実用化の段階に入ることによって、より具体的になってきている。人工知能の是非をめぐる論争については別に述べるが、これまでもっぱら議論されてきた人工知能問題は、機械に人間の意識や感情を理解できるのか、あるいは機械が感情をもつことはありえるのかといった観点に立つものだった。私は人工知能の普及のなかで起きている問題は、このような問題と立て方ではなく、人間は人工知能をどこまで人間とみなすようになってきたのか、というところにあると考えている。
 私たちは、AIが機械であるにもかかわらず、あたかも人間になぞらえることが不可能ではないような性格をもつものへと変貌する過渡期を経験している。いま起きているのは、機械が人間の「脳」を代位するようになる進化の過程を歩んでいるだけではなく、むしろ人間のほうが機械に歩み寄り、機械を人間のようにみなすことを積極的に肯定するようになってきた、ということだ。その結果として、機械がますます人間に近づいてきたようにみなされるが、そうではなく、人間が機械の「考え方」に近づいてきたといったほうがいいのだ。人間は機械のように考えることが求められており、機械のように考えるということは、意味を了解することなく、記号の配列から一定の結論を導くか、あらかじめ与えられた結論を不動の与件として、この結論を実現するための最適な手段をとること、つまり、結論や目的の「意味」が限りなく稀薄化され、この「意味」を問うという人間的な思考を喪失するようになってきたということでもある。19世紀以来、人間は機械に忖度し、機械を人間の理想型にさえ押し上げ、それが現代では「脳」をめぐる機械=コンピューターへと展開してきた。AIは人間になる必要はまったくない。歴史の教訓からすれば、人間のほうがAIに同調することのほうがよっぽど簡単なことだ。このコンピューター・フェティシズムこそ私たちが最も警戒しなければならない事態だが、商品、貨幣のフェティシズムにとらわれた経験からすると、社会の総体を覆うフェテイシズムから逃れる術は容易なことではない。機械なき時代の人間への回帰は、そのひとつの選択肢だろうが、それだけが選択肢なのではない。
 ダナ・ハラウェイがいう「サイボーグの神話(注48)」は、ある時期まで女性が機械と融合しながらも機械を制御可能ななかに封じ込めることによって、男性至上主義ポリティクスを覆えせる可能性がみえていた時代の問題提起だった。ハラウェイは、20世紀後半の機械は自然と人工、心と体の従来の境界を曖昧にし「自然とみなされている存在(略)の確実性が、掘り崩されている」とし、この曖昧ななかで「サイボーグが何者になるのかという問い」がラデイカルなものになると指摘した。
「アジアでチップを製造したり、サンタ・リタ刑務所でスパイラル・ダンシング(1980年代はじめに、アメリカ・カリフォルニア州のアラメダ刑務所で、看守と反核デモの参加者が連携して行ったスピリチュアルかつ政治的な実践)を踊っている不自然きわまりないサイボーグの女性たちこそが、構築された存在としての一体性/団結によって、有効な抵抗戦略を導き出す存在なのかもしれない(注49)」
 微小で遍在し「不可視」でもあり、ある種の「エーテル」ともいえる属性を備えたサイボーグは遍在性と不可視性を備えることによって、機械をめぐる経験が根底から覆され、しかも「小型化が権力に関わる」がゆえに、サイボーグには対抗権力の潜勢力があるともみなすことができた。このある種の神話的な問題提起は、残念ながら、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)の非知覚過程が支配的構造によって構築され、この不可視の構造が家父長制的に編成された消費過程にある人々の意識と意味を制御するようになることによって、AIとの関係のなかで同一化と恋着が既存のジェンダー秩序を再生産し、開発過程そのものの深刻なジェンダー差別の構造のなかで、多くの再定義が必要になってしまった。ハラウェイの神話の復活のためには、なによりもまず非知覚過程を支配的構造から切り離すことが必須の前提条件になる。そのうえで、神話の再構築がはじめて可能性を帯びるのだろう。
 機械であれ自然であれ、「モノ」を人間はものそれ自体としては理解しない。理解には必ずモノの意味、つまりモノの言語化を介することが必要だ。ここにフェティシズムが関与することになる。いま私たちが注目すべきなのは、人工知能のフェティシズムである。人工知能を搭載したロボットやコンピュータープログラムが、あたかも人間に類するものであるかのように人々がみなし、さらに、人工知能による判断を間違いのない正しい判断の基準に据えるようになることである。
 たとえば、テレビ番組でAIを用いたカラオケバトルのような番組では、歌い手の評価をAIがおこなう。AIの評価は絶対だから、出場者たちはAIに評価されるように自分の歌い方を調整する。歌の情感の込め方などの感情面までAIが判定する。この番組ではAIが神であり、AIに疑念を挟むことは許されない。この番組を観ている視聴者もまたこのAIフェティシズムの世界にとらわれることになり、歌の巧拙を自分の感性で判断することを断念してAIに委ね、AIの判定と自分の判定に食い違いがあれば、自分の判断力に何か間違いがあるかのような錯覚に陥いる。AIによる歌の評価システムはカラオケで一般的に普及しているから、この番組が採用している評価システムは番組固有のことではなく、音楽文化のなかに一定程度定着しているものでもある。
 介護や福祉の現場でもコミュニケーションロボットと呼ばれるカテゴリーの製品に注目が集まってきている。
「一人暮らしで寂しい、アレルギーでペットが飼えない……。そんなときは、コミュニケーションロボットが癒やしの存在になるかもしれません。コミュニケーションロボットは、言葉や動きを通じて人間とコミュニケーションをとることを目的とした製品です(注50)」
 アニマルセラピーの代用として動物を模したロボットなども製品化されている。機械の音声認識が進化したことによって、ますます人間がロボットを人間であるかのように擬人化することに違和感をもたなくなってきた。家庭用のスマートスピーカーは呼びかけるだけで命令内容を判別して必要な操作をおこなうために、人間であるかのようにみなす感情が人間の側に生み出されている。
 いま起きていることは人間がロボットを積極的に人間であるかのように扱うという現象は、人間にとってはなじみ深い理解のあり方であり、これは個人の特異な嗜好ではなく社会的な現象だ。人々の社会的な共同作業としてAIフェティシズムが生成される。フェティシズムとしてのAIは、その機能の人間との類縁性とか精密性といった技術的な人間との近しさはさほど問題にならない。外観も人間と誤認されるような形状である必要もない。むしろ人間の側がAIロボットに同一化するか恋着するような心理の形成があればいいのだ。この過程は、集団心理における個人の自我の変容過程がAIをめぐって形成されるということを意味しているのだが、フェティシズムそのものが人間の情動や対象理解にとって珍しくない現象だということを踏まえると、AIフェティシズムは、AIだけのことではなく、社会の様々な局面に見いだせるフェティシュな現象のひとつとしてAIフェティシズムを位置づける必要がある。
 私たちのコミュニケーション相手には様々な人たちがいる。赤ん坊ともコミュニケーションするし、言葉が通じない外国の人ともコミュニケーションする。ペットとも話す(意思疎通できたつもりになれる)し、ときには育てている花や野菜とも話す。クルマ好きは自分の車に話かけたりもする。しかも、理路整然と文法どおりには話さないのが普通だ。このなかで、私たちは対話の相手が私の話を理解できているかどうか、また、私が相手の話を理解できているかどうかについて、繰り返し判断しながら相互の理解を確認しようとする。相手が私を理解できているかどうかを最終的に確認する方法は実はなく、まったく理解できない外国語の話者に対してあたかもわかったかのような態度をとってしまうように、コミュニケーションが成立していなくても、外形的には成立しているように振る舞うこともできるし、そうであっても、結果として私が望む目的が達成できてしまう場合もある。
 先にも言及したAI開発草創期に書かれたヒューバート・L・ドレイファスの『コンピューターには何ができないか(注51)』でのAI批判は、この曖昧でいいかげんなコミュニケーションがAI開発を利する結果になっている点には言及せず、また、人間の側がAIに擦り寄り、AIフェティシズムをコミュニケーション環境に織り込むようになることを想定できていない。これは言語に律儀な哲学が陥りやすい罠でもある。ドレイファスは一般的な人工知能の開発の無理を指摘して人間のコミュニケーションや理解を支えている背景にある複雑な文化的な文脈や感情全体をコンピューターが「理解」しうる余地のないことを繰り返し指摘した。しかし、私たちは、文化的な背景も文脈もほとんど共有できていない相手とも、適当に会話することが可能であり、相手が自分の背景や文化を知らないのであればそれなりの対応ができる。相手が機械であってもこうした様々な文脈のレベルに私が合わせることでコミュニケーションの場を構築することが可能だということをドレイファスは軽視したと思う。私たちは哲学者の思惑どおりには話さないし、生きてもいない。
 他方で、アラン・チューリングは「計算機械と知能(注52)」で、テレパシー現象などにも関心を寄せながら、機械が考えるという課題のさしあたりの出発点として、人間の子どもの心を模倣することを提案している。彼には子どもは白紙のノートのようなものだという通俗的な子どもの心についての理解しかない。 科学者が自らの専門外の領域を参照しなければならない場合、通俗的な常識をうのみにするという欠点がここには如実にあらわれている。
 こうした草創期の議論は、その後のAI開発のなかでその多くはもはや考古学としての意味しかもたなくなってしまったが、他方で、一貫して学者たちが軽視しているようにみえるのが、CTCが資本や政府が開発する技術であるという問題の背景に何があるのかというAI技術の開発と普及をめぐる支配的構造への批判的な捉え返しだ。

4-7 官僚制と法の支配の終焉

政治過程にコンピューターが介在するとはどのようなことか

 国家がもっぱら行使できて資本には行使できない「力」がある。それがこれまで法と呼ばれてきたものだ。法は奇妙な存在で、文字として書かれた一連のテキストを人間が行動の規範として理解し、あるいは実践する。テキストと行為が権力の枠組みを規定する。従来、資本がこの法を自らの自由にするためにとってきた戦略は政治的権力の担い手を資本家階級の利害代表となる政治家や官僚として組織することだった。現代の資本は、法ではなく自らが直接コントロール下に置くことができる技術によって、統治機構の行動を監視し制御する直接的な力をもてるようになってきた。ここでいう技術は、古典的な機械の技術ではなく、人間―機械の有機的なメカニズムをコンピュータープログラムで制御するようなメタ機械あるいはメタ技術である。
 官僚制は、法による統治機構の統制のための人的組織である。人間に理解できる言語で記述された法というルールブックを共通の参照枠とすることによって、統治の正統性を検証するプロセスが担保されてきた。このような組織が必要だった理由は、国家の人口管理に必要な情報処理が紙とペンによって人間の事務処理能力に依存していたからだ。法を制定する議会は、主権者の代表によって構成されることによって、法が民主主義に基づく正統な規範であるという形式を満たし、この法を理解できる執行者たち、つまり、内閣もまた直接間接に選挙で選出された者たちによって構成される。法の実体は、書かれた条文にあるのではなく、こうした法の制定から執行に至るすべての過程を担う集団が法を解釈し、実施に移すことで現実の世界を構成することになる、この一連の解釈と執行による出来事それ自体である。この過程は日常的に繰り返し様々なレベルで検証される。法は条文そのものとして実在することはありえず、常に解釈されたものとしてしか実在しないし、また、常に、社会を構成する様々な事象との関係のなかでしか、その意味をもたない。主権者としての私たちは、法の条文を現実の世界と対照しながら、現実の世界が法の規範を逸脱していないかどうかを判断しようとする過程を通じて、実際の法が効果をもっているかどうかを判断しているということを忘れてはならない。これは日々様々な状況のなかで、繰り返しおこなわれている日常的な判断だが、その判断の妥当性は、警察の裁量によって歪められ、裁判所によって正統性を与えられるのであり、私たちには解釈することはできてもその「正しさ」を通用させる力はない。こうした背景をもちながら、条文をめぐるレトリックが実体としての経済と政治に、あるいは日常生活の直接的使用価値に対する意味の生成に影響する。
 この一連の過程にコンピューターによる「解釈」「理解」が介入している場合、いわゆる法の支配が成り立つとすれば、コンピューターが人間と同様に法を理解できるという前提をたてる必要がある。コンピューターの法理解とは、そのプログラムが人間と同様の法「理解」を実装できるかどうかにかかっている。従来の人間だけが関与する意思決定の過程では、言語の問題を別にすれば、官僚であれ裁判官であれ議員であれ、彼らの意思決定過程は、ある意味で「私の意思決定」についての理解を参照しながら理解可能なものだが、コンピューターについては、出来事の処理過程はブラックボックスである。コンピューターの意思決定過程がブラックボックスであることによって引き起こされる混乱は、金融市場では何度も経験ずみであり、伝統的な金融の専門家よりも物理学者に注目が集まり、金融工学のような分野がもてはやされた。同じ現象は生物学でも起きてきた。現実の生き物そのものを相手にするのではなく、情報化された遺伝子が研究対象になり、生物学は情報科学の下位部門であるかのような様相を呈してしまった。コンピューター・サイエンスが市場とアカデミズムのパラダイムを揺るがしてきた状況と、私たちの統治機構とは無縁の話だと高を括ってきた伝統的な政治家たちや官僚が、ようやくその効用とリスクに気づきはじめ、知識が権力の源泉でもあることを熟知している彼らは、彼らがもっている既存の権力によってコンピューターによるデータ処理、つまり機械化された知識を権力科学の基盤に据えることで延命を図ろうとするようになった。これには資本主義内部の構造転換がもたらす摩擦を避けられず、現象的には「危機」の様相をみせるが、これが制度内危機に終わるのか、それとも制度それ自体の、つまり資本主義そのものの危機になるかどうかは、このコンピューターというテクノロジーをもたらしてきた歴史的な経緯それ自体を反資本主義の運動と思想がどのように評価するのかにかかっている。
 このように考えたとき、統治機構の情報処理とコミュニケーションにコンピューターに基づく意思決定が関与することによって、事態は本質的に変化する。コンピューターはある意味で、統治の執行機械となるが、その動作を制御するのは法ではなくコンピュータープログラムであり、さらに言えば、もはや法の支配に服するかわりにプログラムを自らの権力にとって都合がいいように構築することが可能になった執行権力が突出した権力を握ることになる。法にかえてコンピュータープログラムが妥当性判断を担うことになるという問題は、プログラマーの問題ではなく、プログラマーにある意図に沿ってコンピューターを作動させるプログラムを組むことを指示する権力構造の問題になる。
 適法にしか作動しないようにコンピュータープログラムを構築することは容易ではない(注53)。そもそも適法の概念そのものが政治的だからだ。憲法9条で戦争放棄が定められているから、武器を政府が購入できないようにプログラムを組むことができるだろうか。そもそも「戦争」「武力」などの概念をコンピューターのプログラムとして実行可能なように定義しなければならず、この定義そのものが政治的な論争の的である以上、定義は政治的な恣意性を免れない。こうなると、「コンピューターのプログラムが敵基地攻撃用ミサイルの購入をブロックしなかったので、適法な財政支出である」といった言い訳がまかり通るだけだろう。
 膨大なデータを処理するには、AIなどの仕組みを活用する以外にない。1日に収集されるデータはその日に処理されなければ積み残しが翌日に繰り延べされ、これが積み重なれば、結果として膨大なデータを効率的に処理できないままに放置することになる。現段階でいえばAIや深層学習などの仕組みはかなり信頼性に欠けるが、近い将来、誤認識は格段に減るだろう。それは、機械が賢くなったからだとばかりはいえない。むしろ人間の思考が機械に適応した結果、つまり人間が共犯関係を担うからでもあるだろう。このことを肯定的に受け入れるとすると、ますます膨大なデータを機械の処理に委ねるというデータ処理の拡大再生産をもたらす。これが資本の価値増殖と連動すれば、ここに資本の投資機会が生まれることになる。そして、政府はこの処理の結果を政策に取り入れることになる。 だからこそ、共犯にならないための自覚的なコミュニケーションの戦略が、現代の反資本主義運動にとっては必須の課題になる(最終章でこの問題を取り上げる)。
 立法府が審議過程で政府が用いるプログラムが法と整合するのかどうかを検証するという手続きはとられていない。こうした手続きをとることは不可能ではない。国会議員がプログラムのソースコードを読み、その実行行為が適法であるかどうかを判断し、必要があれば、より適切なプログラムを提案するといったことをすればいい。プログラムが法の支配のもとで書かれるというのはこういうことを意味しているはずだ。こうしたことを議会に義務づけることはできないだろう。ここに、議会=立法府の決定的な限界が露呈している。さらに、実際にプログラムを実装してみてわかる不具合がありうる。他のプログラムと組み合わると想定外の問題を起すかもしれない。あるいは、OSの更新によって想定どおりには作動しなくなることもありうる……。したがって恒常的に第三者による監査が欠かせない。要するに、立法府は、プログラム開発の組織になり、日常的にバグを修正するための協議をおこなえなければならない。しかし議員たちがソースコードと格闘することはもちろん非現実的だ。こうしたことが非現実的であるなら、結果としてプログラムを効果的に適法なものとしてチェックする機関が存在できないということを意味している。機械が下した決定の妥当性をうのみにするしかないことになる。こうしたプロセスが取り返しがつかない悲劇を生んでいることは、繰り返される無人爆撃機の誤爆をみればよくわかる。同じことは、警察が保有する顔認証データベースのように先進国の日常的なレベルに浸透している人権侵害にも見いだせる。これは、民主主義にとって深刻な問題だが、もっと深刻なのは、これが深刻な問題だという認識が共有されていないことだ。既存の権力者はコンピューターを自らの知の権力装置として駆使し、その中身をブラックボックスにしておく一方で、人々はコンピューターを擬似的な神のようにみなすフェティシズムにとりつかれてしまい、ブラックボックスの実体を曝露することを諦め、その結果を無条件に受け入れてしまっている。この現代の卓踊術によって、権力を握った者たちがプログラムを法による支配の外側で利用することが可能になっているのだ。
 たぶん、CTCによる支配的構造によって、法の機能は実質的な権力の抑制や権力行使の正統性を支えるものから、よりイデオロギー的な効果を意図したものへと形骸化するだろう。この形骸化は民主主義の形骸化を招く。私たちに残されている選択肢はいくつかあるが、私は、CTCを支配的構造から明確に切り離し、非知覚過程の可視化によって既存の権力の緩やかな衰退を導くことに期待している。

では、現行の法の支配のほうがマシなのか?

 上で述べた問題は、従来は法が果たしてきた役割が副次的地位に格下げされるという問題だ。法に基づく行政機関へのチェックのを嫌う官僚や政権を担う政治家たちがとる対抗手段は例外なく、「秘密」主義による隠蔽だが、統治機構の実態を巧妙に隠蔽する手法にコンピューターが介在する意思決定のブラックボックスが新たに加わると、法の支配の建前に抵触しないような抜け道としての技術が前面に登場する。
 こうして官僚制や政治家による統制をコンピューターの情報処理が補完するかのようにして、実態としてはコンピューターによるデータ処理によって政策の意思決定が支配されるような逆転現象が起きる。そして、このデータ処理とコンピューターネットワークインフラがICT産業によって担われることによって、従来官僚制がその権力の源泉としてきた情報の独占と制御の力を次第に失うことになる。しかし、他方で、民間IT産業は政府を最大の顧客とし、国家財政による投資なしには存続できないことにもなり、この点では、むしろ政府が民間資本の最大の顧客になることによって、資本に対して優位に立つ。こうして民間資本と政府が技術と資金を相互に依存させながら、さらに民主主義的な人事とはまったく相いれない手法で人的交流が実施されることによって、構造的な一体性を獲得するようになってきた。かつて、アメリカで典型的に発展してきた軍事産業と政府の癒着の構造が、人々の日常生活とコミュニケーションの領域全体を覆うものとして、どこの国でも形成されるようになってきた。こうした構造を可能にしたのが、市場の外部にありながらコミュニケーションの回路として形成されてきたパラマーケットの存在だ。
 政治的な権力が、その正統性を表明でき、同時に、社会の構成員がこの正統性を妥当なものとして承認する相互確認の手立てが近代国民国家では膨大な人口を基盤にして実現されなければならない。国家規模の合意形成が選挙、投票、マスメディアを通じた情報散布、有権者相互の「表現の自由」の権利保障といった一連の制度の枠組を前提にしており、この制度が可能としている範囲のなかで「合意」とみなされる事態が生成される。このシステムは、近代的個人主義の理念を背景にして、個人としての思想信条や表現の自由を保障するとはいうものの、インターネット以前には実際には、個人が自らの思想信条を誰に対しても表明する回路そのものが存在しなかった。理念は擬似的にだけ実現されているかの外面的な体裁をとってきただけであって、個人の自由な表現は基本的に身近な人間関係のなかに限定されていた。この意味で、近代資本主義の統治機構が自由と平等を理念として民主主義的な意思決定によって権力としての正統性が支えられているというのは明らかな欺瞞である。しかし、自由でも平等でもないコミュニケーションを自由であり平等であると思い込ませてきた支配者たちの数世代にわたるレトリックは今では通用しない。

個人の意思と集団の意思

 近代国家が代議制による統治機構を確立することと、億単位の人口を「国民」意識によって束ねて法規範の正統性を「主権者」に納得させるためのメカニズムの開発は、表裏一体の関係にある。印刷技術から電波も利用した大量の情報散布技術への「発展」が、同時に、国民統合のために必須の社会基盤形成でもあることの歴史的意義は大きい。このようなシステムは、人々の合意形成をある一つの文書への同意という形式をとって確認する以外にないシステムでもある。その典型が成文法になる。法として制定された文書は、憲法であれ下位の法律であれ、単数形でしか成立しえない。日本に複数の憲法が並立するなどということはそもそも想定しえないだけでなく、「日本」という国家それ自体が複数存在することもまた想像しがたいことだ。こうして唯一の準拠枠としての「法」と、この法を前提とした執行組織としての官僚制が国家権力の物質的な基礎をなしてきた。
 この唯一性は、一人ひとりの実際の法に対する評価や理解のあり方からすれば、ありえようのない無理なことでもある。たとえば、署名運動とか宣言や声明を集団の意思として表明するという古くからある方法は、諸個人が個人として不特定多数に対して意思表示する力をもちえていなかった時代のなごりである。ここに明らかな同調のメカニズムがあるわけだが、その同調の正当性を支えているものが何なのかによって、声明なり署名のイデオロギー的な価値判断が分れることになる。いずれにせよ、これまでの慣習では、概略賛同できれば署名したり声明文に賛同の意思を表明したりするわけだが、わたしの意思がこのことによってすべて署名用紙や声明文に書かれている内容に取って代わられるわけではないことは誰でも知っている。私が本当に主張したいこと、意思表示したいことは、わたしの言葉で表明する以外にない。このことを、インターネットやコンピューターコミュニケーションが存在しない時代に実現することはきわめて困難だった。私の意思と集団の意思の間にあるこの避けがたい齟齬を、これまでの意思決定のシステムでは私の意思を抑制して全体の意思を優先させることによって「解決」してきた。ここで全体の意思と呼ばれているものは、集団のなかの指導的な位置にある少数の者たちが代表できるものでしかない。そして、この集団のなかの指導者たちは、相互に顔を合わせて合意形成をとることができる規模の人数に絞られてきた。議会であれ内閣であれ裁判所であれ、社会の権力を握る人々の集団の規模はひとつの会議場に収まる規模になるのが普通だ。億単位の人口を有する「国民」という集団も、最終的には、相互に顔を会わせることが可能な規模の人間集団にその意思決定を委ねるために、人々が個人として抱いている固有の「意思」の固有性は削がれるとしても、人々の固有の意思が全体に意思に置き換わることが人々の意識のなかに生じるのではなく、人々は全体の意思と自分の意思のずれのなかで、自己の意思の正しさを主張して全体の意思に抗うこともありうる。いやむしろ一般に、そうした抵抗が様々に存在する動的な過程を通じて一時的に全体の意思を体現する法や制度が具体化されるにすぎないというべきだろう。この不安定だが決して根底から全体の意思の構造そのものが崩れることがないダイナミックな過程それ自体を制御する力こそが権力そのものだといってもいい。
 こうして意思表明の自由は、メディアを支配できるごく少数の権力者だけに許された特権だった。この特権を、民主制は特定の個人から「主権者」集団へと移しながら膨大な人口を束ねることを可能にする合意形成の枠組みとして議会制と官僚制の精緻な情報統制技術によって実現してきた。そしてこれまでは、この意思決定とその正統性の確認はもっぱら人間と人間が相互にコミュニケーションをおこなうことを通じて実現されてきた。コンピューター・コミュニケーションの環境、とりわけインターネットはこの前提を根底から覆した。個人が不特定多数に対してみずからの意思を表明する回路が実現したために、集団的な意思の統一的で一体化された外観が次第に崩れ、集団のなかの諸個人の固有性があらわになってきた。権力者と無名の一個人が同じSNSやブログの情報発信プラットフォームで競いあうような事態はこれまではありえなかったことだ。私たちは、こうした事態を前提として新たな統治の構造の可能性を、しかも私たちにとっては好ましいとは言い難い傾向をここに見いだす必要がある。
 上部構造と土台の融合が究極で目指しているのは、資本が政治的権力の担い手になることなのだろうか。その可能性はおおいにありうるし、すでにSFの定番ともいえるダークな未来社会の権力が得体の知れない巨大企業だったりするが、たぶん、資本とか国家といった従来の概念では説明がつかない経済構造と権力構造が融合したよりやっかいな構造の創出へと向かう可能性がある。「融合」と述べたが、正確には、ひとつの構造に収斂するのではなく、複数の構造が相互に分散しながら全体としての経済的・政治的な支配を形成するリゾーム型支配あるいは分散型集権制をとるようになるかもしれない。

4-8 ナショナリズムの再生産構造

ナショナルアイデンティティ

 近代資本主義の政治権力は、相互に見知らぬ人々を一つの「国民」として束ねることが可能であるという前提にたって成り立っている。この「国民」としての観念は、人々が市場で生活手段を購入して「生活」を維持する一連の過程のなかで必然的に形成されるわけではない。俗な言い方をすれば、経済的土台によって形成されるわけではない、ということだし、マルクスもそのようには言っていない。
 わたしが何者なのかについての自己認識のなかで、そのものの消費を通じて自己を社会のなかのどのような存在として再生産するのかという問題は、きわめて抽象的な自己意識の形成を伴う場合がめずらしくない。市場を通じて供給され商品は、そのモノを買い手のわたしが使用することを通じて消費し、その結果が何をもたらすのかを少なくともわたしは理解している。このことが自覚されるからこそ商品の使用価値に対して対価としての貨幣を提供するという交換の意思が生まれる。自分が買うモノの効果や帰結を何らかの形で意識できないようなモノに対して貨幣を手放すことはない。市場では、使用価値を貨幣という抽象的な量によってその価値を評価するが、市場の外部の消費過程ではモノの直接的使用価値は抽象的使用価値と結び付いて、個別具体的な私生活に社会集団と共通した生活様式理解を生み出す。「私の生活」は「私たちの生活」に、「私たちの生活」は地域、所得、エスニックグループ、学歴など様々なファクターの組み合わせのなかである種の社会的共通観念として「生活」を誰もが描くことになる。この意味での「生活」を構成する個々の要因の多くが市場由来であるとしても、これらが集合として描く「生活」の観念像は市場だけで形成されるものではない。
 ナショナルなアイデンティティは、諸々のアイデンティティの上に立つ特権的なアイデンティティとして、唯一のアイデンティティであることをもくろむ。これは、市場経済では貨幣に体現されてきたものだ。
 資本主義的自由は市場の自由を中心に構築されてきた。貨幣は身分に依存しない「金」という物質の価値を根拠に一般的等価性という社会の共同意識を構築することで成り立った。つまり、金の直接的使用価値とは関わりなく、その意味使用価値に一般的等価性を付与するものだ。市場経済の自由が関わるのはこの意味使用価値としての一般的等価性を「金」という実物で保障することによって、その所有者が何者なのかに関わることなく、貨幣性が担保できる仕組みになっているからだ。
 歴史的にみれば、市場経済が貨幣=金から銀行券を貨幣とみなすようになったのは、貨幣のフェティシズムの基本的な性格が、物本来の性格に対する社会的な意味付与、つまり、社会を構成する人々が共通して「貨幣」だと認識するあるモノの直接的使用価値ではなく、意味使用価値に一般的等価性を付与するというところにある。不兌紙幣は金の裏付けがなく国家による信用だけで支えられているように、貨幣のフェティシズムは発券銀行の信用から国家の信用(正確には国家の後ろ盾をもつ中央銀行)へと変化することができるのも、市場経済の必須の条件でもある貨幣の一般的等価性という抽象的な性格を、社会の構成員の「共同作業」によってあるモノの意味として付与することが可能なフェティシズムが機能するからだ。この点で、貨幣は、階級社会を構成する資本家も労働者もともに共同作業者として利害を共有することによってこの一般的等価性を支える。市場がナショナリズムと不可分な構造がここにはっきりと露出する。中央銀行が発行する銀行券が「貨幣」とみなされるということは、貨幣のフェティシズムが国家のフェティシズムに依存するということを意味しているからだ。この段階で、貨幣は世界性を喪失し、私たちもまた、円とかドルといった「国民通貨」を用いることを強いられる結果として、匿名の世界性も一部を失うことになる。本連載ではこれ以上立ち入らないが、仮想通貨は、この国家のフェティシズムではなくネットワークの暗号技術に依拠するというこれまでにないフェティシズムの新たな選択肢を生み出したという意味でいうと、資本主義がナショナルなアイデンティティへと収斂するように意味世界を構築してきたこれまでの歴史に質的な転換をもたらす可能性がある重要な「発見」である(注54)。
 市場は商品に着目すると、選択の自由に着目して、資本主義の「自由」を論じがちだが、貨幣に着目すると、選択の自由のないフェティシズムとナショナリズムが見出せるのだが、貨幣にナショナリズムという政治のイデオロギー作用を読むことができる経済学はほとんどみあたらない。
 貨幣に端的に示されているように、資本主義が自由や多様性を理念とするとしながら、実際には「国家」という枠組みに人々を押し込めるときには、選択の余地のない唯一性を人々の意識のなかに形成しようとする。人々の側も「国民」としての意識の唯一性を肯定する感情が形成される。移民や難民あるいはいわゆる多重国籍者たちは、この支配的なナショナルなアイデンティティの構造のなかで疎外されることになる。こうした意識はどのようにして形成されるのか。この意識の形成にとって、日常を支配する膨大な富の集積としての商品世界が果たす役割があるのだが、この役割を市場の側からではなく、パラマーケットを通じたコミュニケーションの側から、人々の意識が後天的に形成され再生産されるメカニズムとしてみる必要がある。
 ナショナルなアイデンティティは、生得的なものでもなければ、様々なアイデンティティのなかから意識的に選択することによって獲得されるものでもない。生得的という意味からすれば、ナショナルなアイデンティティは私の本質ではない。しかし、商品のように、外部から私の生活に入り込み、私の意思で選び取るようにして私の一部を形成するわけでもない。たとえば「日本人」という観念が商品の直接的使用価値となるような商品は存在しない。しかし、商品が意味使用価値に日本人という観念を組み込むことは珍しくない。オリンピックのような国際的なスポーツ試合のスポンサーになる企業が「日本人」意識を利用・喚起することによって、「日本人」に好意的に受け入れられるようなイメージを形成することを商品の売り上げや企業のステータスに繋げようとする。たとえその商品が外国由来の商品であってもだ。コカコーラが東京オリンピックのスポンサーとなってそのイメージを売り込むときに、コカコーラはアメリカのナショナリズムと結び付きながらも、「日本人」のオリンピック・ナショナリズムに訴えかけながら商品のイメージを形成する。コカコーラが日本で「日本人」という観念を抽象的な意味使用価値を具体的な意味使用価値に媒介することを通じて具体的な使用価値体としての飲料品を売るのだ。こうした戦略に莫大な資金を投じる理由は、ナショナリズムの情動が商品市場で無視できない効果を発揮するからだ。市場は唯一のナショナルなアイデンティティを形成することはできないが、唯一のナショナルなアイデンティティと自社の商品が意味連関として結び付くことによって、直接的使用価値に普遍性を付与しようとする。このときに「普遍性」としてのナショナリズムという擬制は、その唯一性を、選択の自由を前提としながらも、唯一だたひとつ選択する価値のある商品としてのイメージを消費者に訴えるうえで不可欠な役割を果たす。
 この意味で、市場経済は、社会の経済的土台でありながら、その構造的な展開=発展にとってナショナリズムの情動が果たす役割は重要である。ナショナルなアイデンティティは同時に、たとえ外国資本によって独占されていようとも、市場経済に国民経済という体裁を与え、欧米先進国由来の商品やライフスタイルに囲まれながらも、人々の意識をナショナルなところに繋ぎ留めることができるのは、こうした商品がナショナルな意識を商品の唯一性の証しとして利用しようとするからだ。この意味で、市場経済はいわゆる「国民国家」がもたらすナショナルアイデンティティを必要とするともいえる。このことが市場経済の側で端的に現象するのが、先にも述べたように、貨幣であり中央銀行券である。貨幣が商品の使用価値に対して交換価値、つまり量的抽象を体現するものとみなされてきたが、この量的抽象性は徹底されておらず、「国民経済」という貨幣流通圏という国家の政治的権力の空間に規定されたものであって、そのかぎりで、貨幣は抽象的意味としての国家観念を市場で体現する唯一の存在となる。貨幣は、この意味で市場を国家に繋ぎ留める役割を担う。この繋ぎ留めをナショナリズムの情動といったイデオロギーの濃厚な要素との関わりでどのように理解すべきかという点については、かなり多くの論ずべきことが残されているが、政治的権力が市場の経済的権力と接するところに貨幣が位置するという意味で、貨幣は純粋に市場経済に還元できない要素をもっていることだけは指摘しておきたい。

パラマーケットとナショナリズム

 ナショナルな意識は、後天的に集団的に形成されるが、家族や教育制度、地域社会や職場の人間集団から文化まで、その意識形成に関わる制度的要因をリストアップすることは可能だとしても、それがどのようにナショナルなアイデンティティの形成あるいは、アイデンテイティの構造といったほうがいいようなものを社会支配の必須条件として生み出すのかをみるとき、これら諸制度を共通に支えてナショナリズムに収斂するような意識を形成するある共通の構造がなければならない。この構造を担うのが実はパラマーケットだ。
 パラマーケットは、市場に接するが市場の商品‐貨幣の取引そのものの外部にあるコミュニケーションの領域だ。ここで市場の情報と非市場情報が交錯する。家族や政府の情報も市場の情報も、商品化されない文化的な契機もこのパラマーケットを通じて市場との回路を保ち、商品の社会的な意味作用あるいは抽象的な意味もこのパラマーケットによって形成される。従来のマスメディアの時代には、このパラマーケットを支配する構造としてマスメディアを指摘することができたが、インターネットをはじめとするコンピューターコミュニケーションの時代には、むしろパラマーケットの構造は肥大化しながら人々の私生活からさらに心理的な内面を外部に表出させる回路をもつようになる。
 パラマーケットにおけるメッセージの流通のなかで、商品の直接的使用価値には属さないようなナショナルな意味付けがなされることは珍しくない。資本にとって、自社の商品がナショナルな意味を担うことは、自社の商品が一国における普遍的な価値を担うかのような幻想を人々に与えることでもある。
 これを可能にするうえでマスメディアが果たした役割は無視できない。また、議会制民主主義の選挙制度もまた、大衆が統治機構の意思決定に参加するという幻想を構成するうえで必須の仕組みにもなった。いずれの場合であれ、人々が集団として政治的な統治権力を承認することなしには権力の正統性を支えることもできない。支配する者とされる者の非対称な関係ではなく、支配される者が常に支配する者の座に座ることが可能であり、この入れ替えが構造としての権力そのものの価値でもあるという民主主義を成り立たせるためには、社会の圧倒的多数が「主権者」としての観念を形成できなければならない。同時に、主権者が「国家」の観念の下に、他でもないこの国家の成員であることを受け入れることができなければならない。人々がどの国家に帰属するかを選択することは、理屈のうえでは可能だが、現実には、生まれた場所や、両親が帰属する国家に、否応なく帰属させられ、そこでの「国民」とされる。この選択の余地のほとんどない状態は、移民や難民のように、この選択を意識的に放棄するか、意識的に別の国家への帰属を求める人々を、国民国家の制度の周縁に追いやることになる。
 商品の意味使用価値は直接的使用価値によって実体が担保され、さらに価格(貨幣)によって、その価値の承認が客観的に確認できるが、ナショナルなアイデンティティや権力との関係は、こうした客観的な確認のメカニズムがない。常に政治的な意思表示は、政治的な是非の表明になり、それ自体が権力の正統性を揺るがす可能性を秘めることになる。市場経済では、ある商品を買わないという選択をしたとしても、そのことが当該資本にとっては死活だとしても構造が揺らぐわけではない。ここが決定的な違いになる。マックのハンバガーのかわりにモスバーガーを選択するように気軽には政権の移譲は起きないのだ。
 同じ場所と時間のなかで同一の人間集団が複数の統治権力を併存させることは近代のシステムでは想定されていない。つまり、権力はヒエラルキーが明確でなければならず、頂点に立つ具体的な権力機構や組織あるいは個人に人々が、抽象的で普遍的な概念をまとっている「国家」にまつわる「意味」を見いだすことが必要になる。具体的な人やモノは抽象的な意味の体現者であることによって、この具体的なものが普遍的な「意味」をまとうという一般的な理解の枠組みがここでも作用する。具体的な対象に抽象的で普遍的な意味を読み取るという解釈作業は、それ自体が社会的な共同事業となる。


(1)Shoshana Zubof, The Age of Surveillance Capitalism, Princeton University Press, p.8 訳文は筆者による。訳書は下記。ショシャーナ・ズボフ『監視資本主義』、野中香方子訳、東洋経済新報社。
(2)Zubof, ibid.
(3)人間は、モノを自己と同類の人間になぞらえる特異な対象理解を構築する能力をもっている。モノにそれ固有の客観的な機能や性格とは関わりがないある種の性格を読み込むことによって、そのモノに特異な意味づけを与えることができる。マルクスは金が貨幣の機能を担う市場経済の仕組みについて、金という物質のどこにも貨幣の本質をなす一般的等価物という性格は見いだせないこと、この性格は市場経済によって、社会の構成員のある種の「共同作業」によって付与される社会的な性格なのだが、このようには理解されず、あたかも金そのものに、一般的等価性が内在しているかのような錯覚を人々が抱くという転倒した現象が生じることを指摘した。これを物神崇拝、フェティシズムと呼んだ。
(4)「いろいろな商品のいろうろな使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する」『資本論』第一巻第一章。全集版、47ページ
(5)資本循環は『資本論』第二巻第一編で論じられている。
(6)ここでいう〈労働力〉の使用価値は、マルクスの定義とは異なる。マルクスは価値形成性をその使用価値としたが、ここでは商品の使用価値を形成する能力を〈労働力〉の使用価値として定義する。この定義は宇野弘蔵の定義を踏まえている。
(7)ここで論じたことは国家の「意味」生成にもあてはまる。国家の統治機構の直接的な意味は、法治国家であれば、憲法を頂点とした法によって規定されるが、国家の実際の行為は、法の条文に還元できないイデオロギー効果を伴う。政府の行為の妥当性を私たちは法律の条文を参照しながら評価しようとする。しかし、こうした評価方法の決定的な限界は、法という書かれたテキストによって現実の政府の執行権力を抑制するには、私たちの側もまた、現実的な力をもたねばならず、このことは書かれたテキストの力を超えることでもある、という点だ。この問題は、政府がCTCを駆使することによって、ますます鮮明になってきた。法はプログラムという現実にCTCを実行しうるテキストによって、事実上その効力が削がれてきており、法の支配は終焉を迎えつつあるように思う。
(8)ブランド商品をほしがる感情は、この意味の世界が転倒した典型例だ。直接的使用価値を意味使用価値が飲み込んでしまう。エルメスとかグッチが直接的使用価値であって、物それ自体の有用性は名目的なものになる。これが資本主義的商品が望む理想形なのだが、これは交換価値(価値)の世界だけを眺めていても見いだせない。
(9)市場経済の取引を支えながら、商品の価格への組み込みが明確でもなければ比例的でもない場合は多くみられる。公共空間や道路、港湾などはそれに見合う対価なしに利用できるし、公教育使医療福祉などのサービスもなどほとんどの公共サービスは、市場経済と不可分一体でありながら、市場の価格メカニズムに完全には組み込まれない。この意味ではパラマーケットと共通する。
(10)小倉利丸『搾取される身体性』青弓社、参照
(11)資本主義を批判する多くの活動家たちの活動を支える物質的な条件を資本の供給する商品に依存せざるをえないというパラドクスはきわめて深刻な問題だ。なぜならば、ライフスタイルにおける支配的なそれとの差異化そのものが運動の重要なイデオロギー効果をもたらすからだ。CTCに関連する分野でいえば、オープンソースのプログラムを選択する余地があるにもかかわらず、プロプライエタリなソフトウェアを無自覚に選択してしまうような活動家の行動は、彼らが影響力をもつ多くの人たちに深刻な誤解を与えかねない。たとえば、文書をワードで作成する、プレゼンテーションをパワーポイントでおこなう、会議をZOOMで実施する、検索をGoogleでする、共同作業をGoogle ドキュメントでおこなう、といったコミュニケーションの支配的なライフスタイルを活動家が自覚的に拒否して代替的でよりオープンな選択肢を意識的に用いるかどうかが、文化における彼らと私たちの間の境界設定を構築することになる。上記の例示に関していえば、これらをすべてオープンソースのソフトウェアに代替することは容易にできる。オープンソースそのものが左翼の道具だというわけではないし、政府機関、極右やファシストも使っているが、資本が営利目的で提供しているサービスを拒否して新たなCTCの構成を反資本主義として構想できるかどうかということ自体がひとつの闘争の領域をなしているという認識そのものがいま求められている。
(12)学説では、ウォーレン&ブランダイスの論文ではじめてプライバシーの権利を一人にしておいてもらう権利として提起したとされている。Warren and Brandeis “The Right to Privacy”,Harvard Law Review.Vol. IV, December 15, 1890, No. 5 https://h2o.law.harvard.edu/text_blocks/5660
(13)これはインターネットなどのサイバー空間とは実体的に異なるものだ。サイバー空間における所有と公共の関係はかなり複雑になるからだ。ネット上で不特定多数がアクセスできる「空間」は、実際にはプラットフォーム企業が所有するサーバー上のデータであり、そもそもアクセスが可能なのは企業側のサーバーの設定が不特定多数にアクセス権限を与えているからであって、アクセスする私たちが権利として公共空間にアクセスできる技術的な条件を有しているわけではない。しかもアクセスする上で必須の回線そのものもまた、アクセスプロバイダーのサービスに依存することになる。
(14)たとえば、次のような令状請求がアメリカでは問題になっている。「ジオフェンス令状geofence warrants」ジオフェンス[地図上でエリアを限定する仮想的な壁]で囲まれた地域にあるすべてのデバイスの開示を求める令状。「キーワード令状」特定のキーワード、フレーズ、または住所を検索したすべてのユーザーを特定するデータの開示を求める令状。「Re: 「ジオフェンス」と「キーワードワラント」の透明性向上の必要性。」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/geofence-letter/
(15)サイバースペースの時間の概念は、私たちの日常的な身体感覚でいえば、誤差の範囲とみなしていいような「秒」単位以下の時間を中心にしている。通信におけるデータの伝送単位bpsは、1秒間に1ビットの伝送を1bpsとする単位で、伝送の速さの単位とはいえない。伝送の速さはlatencyつまり「待ち時間」と呼ばれ、日本語では「遅延」とも言うように、たとえ数秒であっても伝送に時間がかかること自体が「待たされる」「遅い」という認識になる。伝送の速さは、伝送の遅さという認識で数値化される。英語ではコンピューターで時間を扱うときの最小単位ミリ秒は1秒の1,000分の一。遅延は、回線やサーバーの処理能力などに依存するが、それだけでなく、政府が望まないサイトへのアクセスを妨害するときにも人為的に遅延を発生させたりする政治的な技術に関連することがある。この問題は、インターネットの中立性問題としてコミュニーションの平等を議論するときに無視できない重要な問題である。サイバースペースの時間はそれ自体がコミュニケーションのガバナンスに関わる場合がある。
(16)たとえば、ファシムズは、この合理性と非合理性の二面性を、非合理性を前面に押し出して、イデオロギーによって合理性の世界を制御しようとするところにその大きな特徴があるといえる。それが、民族という観念によって主導されることもあれば、宗教によって主導されることもあれば、国家の観念によって主導されることもあり、その現象形態は多岐にわたりながら、本質的には非合理性が支配のヘゲモニーをとる体制だ。この非合理は、マスメディアによるプロパガンダや上からの大衆動員の組織化を通じて、非合理な「世界」観を物質化する。物質化とは、20世紀の前半であれば、植民地支配や民族浄化として統治機構のなかで具体化されることになる。総じて、軍事組織は、機械とロマン主義の弁証法的統一の産物であるところに端的に示されているように、不条理な「死」の組織化には合理主義はそぐわない。
(17)フランク・パスケール『ブラックボックス化する社会 金融と情報を支配する隠されたアルゴリズム』田畑暁生訳、青土社、参照。
(18)インターネットを念頭に置いた場合、コニュニケーションの技術的な仕組みは、電子メールとウェブでは被知覚過程の仕組みに違いがある。以下では主に、ウェブに関して論じている。
(19)https://www.ntt.com/bizon/glossary/j-s/session.html
(20)ブラウザの「開発者モード」とか「開発者ツール」でこうしたデータの一部を把握することが可能だ。
(21)ベネット・サイファーズ/ジェニー・ゲブハート『マジックミラーの裏側で――企業監視テクノロジーの詳細』電子フロンティア財団、JCA-NET訳。file:///home/toshi/Downloads/eff_report_201912_print.pdf参照。
(22)ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』植島啓司訳、集英社文庫、参照。現在では、ニューロマーケティングにとってかっわったといっていいかもしれない。脳科学のなかの脳画像によって人間の感情を読み取れるとする疑問の余地のある考え方をさらにビジネス向けに誇張するコンサルタント会社も存在する。サリー・サテル/スコット・O・リリエンフェルド『その〈脳科学〉にご用心』柴田裕之訳、紀伊国屋書店、参照。
(23)https://triple-underscore.github.io/http-cookie-ja.html 英語原文 https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6265
(24)Googleは、無料で検索など様々なサービスを提供し、こうしたサービスの利用者のデータを広告主に売るネットの広告資本であり、利用者の動向を把握することは必須だ。これに対して、利用者の個人データを収集しない検索サービス、ブラウザなどに切り替えるネットユーザが増えている。検索ではDuckDuckGoなど。ブラウザではGoogle Chromeのかわりに、Firefox、Brave、Vivaldiなどを利用する。
(25)https://ads.google.com/
(26)What Is Fingerprinting? https://ssd.eff.org/en/module/what-fingerprinting ; Retargeting Statistics https://99firms.com/blog/retargeting-statistics/ ; Facebookのカスタムオーディエンスとは?効果や設定方法について解説 https://video-b.com/blog/facebook/facebook-custom-audience/ ; (Google)リマーケティングについて https://support.google.com/google-ads/answer/2453998?hl=ja
(27)https://support.google.com/google-ads/answer/2453998 オーディエンスターゲティングも参照のこと。 https://support.google.com/google-ads/answer/2497941
(28)前掲、Retargeting Statistics参照。
(29)https://marketingplatform.google.com/intl/ja/about/analytics/
(30)GDPR(欧州一般データ保護規則)はターゲティング広告やクッキーへの規制を強化している。また日本の個人情報保護法も個人に関連する情報の第三者への提供制限を定めている。こうした規制に対して企業側は法制度の枠内でどのようにして効果的なプロファイリングをおこなえるかという新たな技術開発に取り組むようになっている。企業向けに各国の法制度への対応をサポートするコンサルタント企業も多くある。たとえば、IIJのBizRis https://portal.bizrisk.iij.jp など。
(31)クッキーへの批判については、以下を参照。前掲『マジックミラーの裏側で:企業監視テクノロジーの詳細』「クッキーの起源」cookie-privacy.weebly.com、https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/history-of-cookies/、「クッキーとは何か」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/technical-details/、「(EFF)オンライントラッキング会社があなたのオンライン行動のほとんどを知る方法(そして、ソーシャルネットワークが彼らを助けるためにしていること」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/online-trackers-and-social-networks_jp/
(32)日本の接触確認アプリ、COCOA もこの仕組みを基本としている。
(33)Apple and Google’s COVID-19 Exposure Notification API: Questions and Answers, https://www.eff.org/deeplinks/2020/04/apple-and-googles-covid-19-exposure-notification-api-questions-and-answers
(34)Bill Marczak, Ali Abdulemam1, Noura Al-Jizawi, Siena Anstis, Kristin Berdan, John Scott-Railton, and Ron Deibert、”From Pearl to Pegasus Bahraini Government Hacks Activists with NSO Group Zero-Click iPhone Exploits”、 https://citizenlab.ca/2021/08/bahrain-hacks-activists-with-nso-group-zero-click-iphone-exploits/ 日本語訳「パールからペガサスへバーレーン政府、NSOグループのZero-Click iPhone Exploitsで活動家をハッキング」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/bahrain-hacks-activists-with-nso-group-zero-click-iphone-exploits/ NSOグループについては下記を参照。https://forbiddenstories.org/case/the-pegasus-project/
(35)(CDT)何が間違っているのか?エンド・ツー・エンドの暗号化を廃止しようとするAppleの誤った計画」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/eff_covid-19_and_surveillance_tech_jp/
(36)マイクロソフトをはじめとするテック業界のリーダーたちが、マルチステークホルダー・ソリューションに向けて、国際的な政府連合と手を組む」https://blogs.microsoft.com/on-the-issues/2019/09/23/microsoft-other-tech-industry-leaders-team-up-with-an-international-coalition-of-governments-for-a-multi-stakeholder-solution/ 日本語訳は https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/microsoft-other-tech-industry-leaders-team-up-with-an-international-coalition-of-governments-for-a-multi-stakeholder-solution_jp/?seq_no=6
(37)小倉利丸編『エシュロン――暴かれた全世界盗聴網 欧州議会最終報告書の深層』七つ森書館、2002年、参照。
(38)BBC, “Weapons of Mass Surveillance” https://www.bbc.com/news/av/world-middle-east-40531967
(39)UN Human Rights Council Forty-first session 24 June–12 July 2019, Rights to freedom of peaceful assembly and of association Report of the Special Rapporteur on the rights to freedom of peaceful assembly and of association https://documents-dds-ny.un.org/doc/UNDOC/GEN/G19/141/02/PDF/G1914102.pdf?OpenElement参照。
(40)アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』田中三彦訳、ちくま学芸文庫、参照。
(41)マルクスが論じた資本の流通過程は、もっぱら生産物の直接的使用価値に即した概念であって、コミュニケーションが労働化し、意味使用価値が商品の使用価値の不可欠な要素になるにつれて、流通過程は生産過程の延長となり、その労働もまた生産的労働となる。
(42)I・イリイチ『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』玉野井芳郎ほか訳、岩波現代文庫、参照。
(43)人間かどうかを確認する方法にreCapchaがあり、サイトにアクセスするときに表示された文字を入力させたり、画像から質問に該当する写真を選ばせたりする手法はよく知られている。しかし、Botの普及もありGoogleはさらに上をいくreCapchaを開発している。「reCAPTCHA v3 の紹介: bot の活動を阻止する新しい方法法」
https://developers.google.com/search/blog/2018/10/introducing-recaptcha-v3-new-way-to
(44)ジグムント・バウマンほか『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について――リキッド・サーベイランスをめぐる7章』伊藤茂訳、青土社、参照。
(45)たぶん、万国博覧会のようなメガイベントや国別のパビリオンに固執するベネチアトリエンナーレのような芸術のなかに端的に見ることができるだろう。
(46)ヒューバート・ドレイフェス『純粋人工知能批判』椋田直子訳、アスキー、39ページ
(47)たとえば、右の動画を参照。https://tube.connect.cafe/watch?v=j6bNVqe_1xY
(48)ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』高橋さきの訳、青土社、2000年、参照。
(49)ハラウェイ「サイボーグ宣言」、同書295ページ
(50)「コミュニケーションロボット」おすすめ3選 ロボットと過ごす新たな生活【2020年最新版】 https://www.itmedia.co.jp/fav/articles/2009/29/news092.html
(51)『コンピューターには何ができないか』黒崎政男/村若修訳、産業図書、参照
(52)『人工知能』開一夫、中島秀之監修、岩波書店、所収
(53)具体的に、どのようにうまくいかないかを補足する。たとえば、Facebookが導入している違反コンテンツ処理システムは多くも問題を抱えている。「Facebookが20億人のWhatsAppユーザーのプライバシー保護をどのように弱体化させているか」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/how-facebook-undermines-privacy-protections-for-its-2-billion-whatsapp-users/
(54)クレジットカードでも貨幣同様の一般的等価性に近い機能があるが、根本的に異なるのは、その意味使用価値=一般的等価性を担保しているのが、私の個人情報(私の銀行口座の預金残高、この口座が私の口座であることを証明する認証の仕組み)だという点である。仮想通貨(政府は「暗号資産」と呼び、その貨幣性を払拭しようと懸命だが、私は仮想通貨と呼ぶ)は、ブロックチェーンの仕組みを利用してサイバースペースの取引に再度匿名性を導入しようとする試みだ。匿名は市場の活動も巻き込んで市場のポリティクスの中心課題になっている。

 

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第40回 宝塚的『HiGH&LOW』と上演の意味

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 新型コロナウイルス第7波のあおりで、宝塚大劇場の月組公演『グレート・ギャツビー』(脚本・演出:小池修一郎)が公演のほぼ4分の3が休演、東京宝塚劇場の花組公演『巡礼の年――リスト・フェレンツ、魂の彷徨』(作・演出:生田大和)もほぼ全公演が休演という形になってしまいました。社会全体はウィズコロナが定着し、徐々に元の生活に戻りつつありますが、収束したとはとても言いがたく、まだまだ油断できない状況です。
 そんななかでも宝塚歌劇は攻めの姿勢を崩さず、LDH JAPANと提携、近未来の荒廃した街を舞台に男たちの抗争を描いたバトルアクションシリーズ『HiGH&LOW』を、真風涼帆を中心とした宙組によって上演、「THE PREQUEL(前日譚)」(脚本・演出:野口幸作)として8月27日、宝塚大劇場で初日の幕を開けました。
 男たちがただただけんかを繰り返すだけのアクションシリーズが品格を重んじる宝塚歌劇の舞台に合うのか、これをどう宝塚的に落とし込むのか、今年でいちばん興味津々の舞台でしたが、けんかを歌とダンスに変えてテンポよく展開、知られざるコブラの純愛ストーリーを絡ませて、男役のかっこよさを際立たせ、野口演出の巧みさで、宝塚的『HiGH&LOW』の世界を現出させました。
 原作は、2015年に日本テレビ系の連続ドラマとして初放送されるや人気沸騰、20年までにシリーズ5作が放送され、16年からは映画シリーズも公開。音楽、コミック、ゲーム、SNS、テーマパークなどあらゆるメディアを巻き込んだ人気シリーズになっていますが、男たちがただただけんかを繰り返すだけのストーリーはドラマというよりゲーム感覚で到底大人の鑑賞には適さず、従来の宝塚の観客層の嗜好ともかけ離れていて、企画が発表された段階ではいったいどうするのだろうというのが正直な感想でした。
 宝塚版は、『HiGH&LOW』の数ある作品群にある謎の空白に着目し、その前日譚(THE PREQUEL)を新たに構想。抗争に明け暮れる男たちの影に咲いた純愛をテーマにもってくるという裏技を駆使、宝塚的『HiGH&LOW』に落とし込みました。
 ストーリーはざっとこんな感じです。近未来のとある大都会。かつてこの一帯を支配していたムゲンという伝説のチームが、ある事件をきっかけに突如解散。無数のチームが群雄割拠していた数カ月後、ROCKY(芹香斗亜)率いる「White Rascals」が開いた仮面舞踏会で「山王連合会」のリーダー、コブラ(真風)は幼なじみのカナ(潤花)と再会。久々の再会に胸をときめかせたコブラでしたが、カナには誰にも言えない秘密があり……。真風コブラを中心とする「山王連合会」、芹香扮するROCKY率いる「White Rascals」、桜木みなと扮するスモーキー率いる「RUDE BOYS」、鷹翔千空扮する村山良樹率いる「鬼邪(おや)高校」、そして瑠風輝扮する日向紀久率いる「達磨一家」に対して、それらを一気にぶっ潰そうとリン(留依蒔世)を頭とする苦邪組(クジャク)が暗躍、5つのチームVS苦邪組という対決の構図。「SWORD」結成前夜、守るべき女性、守るべき街との間で葛藤する男たちの物語です。
 宙組の男役が5つのチームに分かれてかっこよく登場するプロローグは、チームごとに大きな拍手が湧き、なんだか昭和の宝塚大劇場にいるような錯覚に陥ったほど。芹香チームが白づくめでかっこいいことこのうえなく、ほかのチームの衣装が薄汚く見えたのが難点ですが、それぞれ個性的な役割を担い、チームごとにスピンオフで新たなストーリーが作れそうな勢い。
 ノーブルな雰囲気が似合う真風ですが、ヤクザっぽい乱暴なセリフも堂に入り、けんか集団のリーダー、コブラにふさわしい貫禄。一方、幼なじみのカナに振り回される純情ぶりもほほえましく、コブラの知られざる一面を巧みに表現していました。ヒロインの潤も秘密を抱えながらも天真爛漫な明るさを最後まで押し通したカナをキュートに好演して魅力的。男役中心の殺伐とした舞台の清涼剤的役割を果たし、ハイローファンの男性客に人気の火が付きそうです。
 ROCKYの芹香は金髪、サングラス、純白のタキシード。これで目立たないわけはなく、真風コブラと男同士の友情でタッグを組む場面などまさに男役の美学のお手本そのもの。スモーキーの桜木も歌の表現力は5つのチームのなかでもピカ一、こういうところで実力を発揮できるのがさすがでした。
 とはいえ原作を巧みに宝塚的世界に落とし込んではいるものの宝塚としては異色の舞台には違いなく、5つのチームが掲げる崇高なテーマもなんだかこじつけのようで現実感がなく、崩れた男役の魅力だけが際立った感じの舞台。観ている間だけはそれなりに楽しめてもあとに何も残らないといった性質の舞台で、これは現在のどのエンターテインメントにも通じる浅さなのかとも思った次第。
 何が起こるかわからない現代、こんな刹那的な楽しみばかりがこれからも増えていくのでしょうか。ちょっと怖い気もします。宝塚歌劇は今後もさまざまな意欲的な新作が用意されていて、来年3月にはなんとイアン・フレミング原作、「007」シリーズの第1作『カジノ・ロワイヤル』の上演が発表されました。泣く子も黙る?殺しの番号007で知られるジェームズ・ボンドに真風涼帆が挑戦するのだそうです。初代ボンド役のショーン・コネリーから60年ですから、スパイものとしてももうクラシックではありますが、ひと昔前なら考えられなかった題材ではあります。コブラからジェームズ・ボンド、何も考えないこの振り幅の広さこそが宝塚なのかもしれません。宝塚こそ恐るべしかも。
 そんな宝塚ですが『宝塚イズム46』(2023年1月刊行予定)の準備がそろそろ始まります。宝塚でこんなものが見たい、そんな特集を組むのも面白いかもしれません。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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豊かな傍流への願いを込めて――『まるごとマンドリンの本』を出版して

吉田剛士

 初めての自著となる『まるごとマンドリンの本』の執筆にあたっては、自分がこれまで積み上げてきた経験と知識を再確認しながら、一つのまとまった形にしてマンドリン演奏のための総合指南書として広く活用してもらえるものを作り上げるよう努めました。また、マンドリンについて知りたい人が必要十分な知識を多面的に得られるよう配慮もしました。
 刊行後、ある親しい知り合いから「これでもういつでも安心して死ねますね」と言われましたが、確かにそういう側面はあります。マンドリンを演奏する人に伝えたいことは本書に一通りすべて書いたので、マンドリン弾きとしての私の遺言書といっても過言ではありません。
 ただ、300ページ足らずの本にすべてを書き記すことはもちろん不可能であり、むしろ何を削るかを選択する作業でもありました(とはいえ、それ以上長い本になると読むのが大変になるので、このボリュームは妥当だと思っています)。
 とくに歴史については、なんら目新しいことを記述していないと不満を感じる人もいるかもしれませんが、むしろここまでばっさりと簡略化したことを評価してほしいと思っています。その筋の研究家やマニアの知識は膨大なので私の知識などその足元にも及びませんが、それでも相当な部分を切り捨て、ざっくりとした概要を抽出したので、枝葉末節に惑わされることなく鳥瞰図を得やすいのではないかと思います。
 ところで、本書に所収したかったのですが権利上の問題で掲載できなかった図版が2つあります。1つはパブロ・ピカソが「20世紀最後の巨匠」と称した画家バルテュスの遺作『マンドリンを持つ少女』です。これはマンドリンを持ってベッドに横たわる少女が描かれたものです。バルテュスの遺作にして「未完成」だったということで、マンドリンが「未完成」な楽器であるという本書の論旨を象徴すべく配置したいと考えたのです。
 もう1つはマンドリン詩人(あるいは大空詩人)として知られる永井叔の写真です。インターネット上で見つけた1940年9月11日「星を見る会」の写真で、子どもが天体望遠鏡を覗き込み、その横で天文民俗学者の野尻抱影がアンタレスを指差し、その傍らにマンドリンを抱える永井叔がたたずんでいるというものです。とてもいい写真であることと、何か「マンドリンの未来を見据え、それに向かっていく」ようなイメージがよかったのですが、こちらも権利関係の確認が取れず断念しました。
 バルテュスも永井叔も私が個人的に好きなのですが、冷静に考えれば、もともとそれらの写真は本書のコンテンツとして本筋というわけではなく、まして必須とは言えませんでしたし、実際、ある方から「それは本流ではありませんね」と言われました。それは必ずしも否定的な指摘ではなかったのですが、確かにその通りだと納得した部分もあり、それらの掲載をあまり深追いせず断念したという経緯があります。
 その「本流」という言葉の意味するところは、マンドリン300年の歴史のなかで中心的な役割を果たしてきた人物や事物、つまり例えばヴィナッチアやカラーチェのような人物と彼らの楽器や作品、あるいは日本のマンドリン文化の中核を担ってきた流れ、つまり武井守成や中野二郎といった人たちが登場する世界の流れということだと思われます。
 確かにそれらがマンドリンの歴史の本流であることに私も異論はまったくありません。しかし、あえて言うならば、それは古典や合奏を中心としたマンドリンの1つのジャンルにおける流れにすぎないとも言えます。「本流」という言葉は、それ以外のジャンルや変わった活動を自分たちに関係ないものとして切り捨ててしまう排他的なニュアンスを帯びる危険をはらんでいます。
 大きな力があれば本流のなかで大成し、その流れをさらに太く大きく育て上げることができるのかもしれませんが、新しい流れ、画期的な流れというものはむしろ傍流から、あるいは本流と傍流の境目から生じるのではないかと私は思っています。また、豊かな傍流があってこそ本流が輝かしいものになるということもあります。本書は、そのような考え方のもと、本流を中心に据えながらも、それだけでなく様々な傍流が豊かに育っていくことへの願いを込めて書かれています。同様に、意識の有無にかかわらず、結果的に本流以外の活動に目を向けてこなかった人が興味の範囲を広げる1つのきっかけになることも願っています。

 以下、余談です。
 本書のなかでも簡単にふれましたが、今年で没後80年になる詩人の萩原朔太郎はマンドリンに傾倒していました。それは決して本流の出来事とはいえませんが、ひとつのアクセントとして日本のマンドリン史に輝かしい彩りを与えてくれています。そのような意味で、朔太郎が作曲したマンドリン曲「機織る乙女」も実に面白い存在ですが、実際に聴いたことがある人はどのくらいいるでしょうか。実は私も演奏しており、最近レコーディングもしたのですが、この曲をめぐっては様々な解釈があり、いくつかのエピソードがあります。そのあたりもぜひみなさまにお伝えしたいところですが、それはいずれまた別の機会にいたしましょう。
 まずは『まるごとマンドリンの本』をご高覧いただければ幸いに存じます。

 

第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着

[第3章構成]
3-1 コンピューターと無意識の位置
   ・行動主義の陥穽
   ・コンピューターの人間行動理解
   ・集団認識
3-2 集団心理
   ・「集団心理学と自我分析」
   ・同一化と恋着
   ・教会と軍隊
   ・支配的構造と集団心理
3-3 集団心理と無意識――監視社会の基層へ
   ・「集合的無意識」
   ・ネクロフィリアとしての資本主義
   ・ライヒのマルクス主義とフロイト主義の結合
3-4 資本主義的非合理性
   ・近代における非合理性の位置
   ・資本の無意識の欲動
   ・プライバシーと家父長制―集団心理を支えるもの
   ・コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションと集合意識形成

3-1 コンピューターと無意識の位置

行動主義の陥穽

 現代のコンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)に基く監視社会化を支えている考え方は、監視対象としての人間の外形的な行動や言語化された意識を分析し、将来の行動を予測することができるという仮定に基づいている。この仮定によって、支配的構造が意図するように人間の行動を制御することが期待されている。遺伝子科学の進展のなかで、クレペリン流の人間の性格を生得的な遺伝要因によって判断する傾向に再び注目が集まったりもしている。こうした作業で収集されるビッグデータが膨大に積み上げられ、より精緻になればなるほど人間の言動の原因や将来の行動を予測できるということになるとすると、人間の生物学的な性質を理由に、自由あるいは自由意志という概念そのものに疑問が投げかけられ、結果として自由を否定して社会の支配がもたらす人々への抑圧に科学を加担させる方向へと向かう可能性がある。
 行動主義やプラグマティズムは、制御の技術を正当化する思想として現在の支配的な人間観を構成している。こうした思想は経営実務や経済学のような分野で実践的な人間行動の制御テクニックとして普及してきた(注1)。品質管理のために開発されたPDCAサイクル(plan-do-check-act cycle)が資本内部での労働者の行動制御技術として利用される場合に最も典型的に現われるのだが、当初の目標を達成する上で最適の行動を組織化するために、人間個々人の内的な動機や意識に拘泥せず、人的資源をいかにして動員するかという点に大きな関心が寄せられた。こうした技法はいまでは政府にも採用されるようになってきた(注2)。
 本章では、こうした考え方がとりこぼした人間のもうひとつの要素、行動を支える非合理性に関わる心的な構造をとりあげることになる。非合理性の広大な領域がコンピューターに代表される現代の情報処理に基づく監視社会のイデオロギーと相反するとはいえない、という点を、フロイトに遡って検討することになる。CTCが支配的な時代の極右ポピュリズム現象をみれば容易にわかるように、権威主義やファシズムの現代的な傾向は、コンピューター科学やコミュニケーションツールを駆使する一方で、非合理な世界をも包含しうる構造のなかで起きている。フェイクニュースやQアノンの陰謀論が新奇な現象として注目されているが、虚偽や流言蜚語の言説拡散は、古くからある問題であって、新しいものではない。国策プロパガンダによる虚偽の流布、権力による流言蜚語はむしろ権力の歴史のどこをみてもありふれた出来事でしかない。陰謀論については、20世紀でいえばシオンの議定書のような有名な事例がすぐに思い浮かぶ。また、ナチスが論じられるときに、そのオカルト的な世界観が、アカデミズムからサブカルチャーまで、現代に至るまで興味を引いている。イタリアのファシズムの系譜のなかでも、その最右翼にあり、ムッソリーニをローマカトリックと妥協した日和見として糾弾したユリウス・エヴォラの思想は現代の極右思想の一角を占めている。戦前日本で、その近代国家と近代工業技術の合理性が「現人神」と共存して憲法と統治イデオロギーの中枢に据えられた事例も、フェイクと陰謀それ自体が近代国家の歴史的本質をなしていることを端的に示した例だといえる。新しい事態は、こうした旧来からある出来事が、個人による情報発信やコミュニケーション環境を介して社会全体を覆うような構造が登場したところにある。メディアの構造が変容し、個人の世界観が拡散力を増したことによって、西欧近代が公的な世界から締め出しながらも、個人の内面にしっかりと生息しつづけてきた欲望の露出回路が社会のインフラとなったという点が、これまでにない事態なのだ。

コンピューターの人間行動理解

 コンピューターが前提とする人間の行動は、とても単純なものだ。それは、外形的に把握可能な現象(態度、振る舞い、表情、言葉などに始まり諸々のセンサーや脳画像に至るまで)を、その限りで詳細に解析し、ここから人間の行動をカテゴリー化し、将来を予測し、行動変容のために必要な対策をとる、ということであり、コンピューターの情報処理能力が高度化すればするほど、この外部に表出した言動の解析が精緻化され、カテゴリーも細分化され、ここから人々の意識や感情が演繹される。かつては、抽象的な量として一括りにする以外に把握のしようがなかった集団の心理も、より小さな集団やさらには個人にまで分解されて、その特性を解析することが技術的に可能なところにまでコンピューターの処理能力が発達してきた。その結果として、人々は確実に、相互に識別可能な「個人」として扱うことができるようになった。生体情報を含めて、膨大な個人データの集積を前提として、そのつど必要に応じて、個人はテンポラリーに構築される存在になっている。コンピューターによるデータ処理の側からデータの集合としての個人を眺めたとき、もはや個人には、主体としての一貫性もアイデンティティと呼べるような統合された一体性もその根拠を失ってしまったかにみえる。もしそうであるなら、それでもなお、資本主義社会が延命しつづけている現在、この現代の資本の人格的表現とはいったい何なのだろうか。情報資本の人格的表現としての「資本家」というアイデンティティはどのような矛盾を抱えるというのか。反対に、この資本に抵抗する者たちはどうなのか。データ集合としての個人と、路上でデモをしたり、抵抗の意思表示を繰り返す人々とを繋いでいるのは、警察の監視カメラのネットワークと、その先に接続されている膨大な顔認識/認証データベースだとしても、だからといって、路上の民衆がデータの集積に還元できるとでもいうのだろうか。権力者たちはそうすることで弾圧の力を発揮するが、こうした権力に対抗して私たちは何をなすべきなのか。この新しい支配的構造の秩序を支えるデータの集積に基づく支配の弱点と矛盾はどこになるのか。彼らは私たちの何に焦点を絞って攻撃を仕掛けようとしているのか。

集団認識

 社会理論は、長らく匿名で均質な大衆なる社会集団を実体化して論じてきた。しかし、この匿名の大衆なる存在は、集団としての社会現象を分析しようとしたときに、こうした集団について、諸個人一人一人を識別して解析できるような技術がないばあい、匿名の個性のない人口の集合として具体的な人々の行動を観察する以外になかったという技術的な限界に起因するものと理解すべきだろう。ところが、そうとは理解せずに、それこそが集団の本質、あるいは実体だとされてきた(注3)。ここには、集団とみなされる人々への偏見や異なる価値観への拒否の感情が観察者のなかにもあるということが、ときには見落とされてもきた。このことは、本章で後にみるように、集団心理を扱ったル・ボン、フロイト、ユングらに、その立場は違っても共通している。他方で、集団を通じた社会変革を目指す社会主義運動の場合であっても、階級の概念に還元される集団を構成する一人一人の個人への関心は重視されなかった。意識の問題は階級意識として集約され、結果として、個人はその人格や存在をまるごと階級に帰属するものとして扱われる階級還元主義をもたらし、家族関係やジェンダーやエスニシティといった個人を構成する様々な要因が軽視されることになった。階級は従来のように属人概念としてではなく、構造として理解すべきことを明確にすることが必要なのだ。こうした理論の限界が人々の社会意識や社会認識として正当化されることを通じて、人々の意識もまた「大衆」といった観念を実体化して受け止めるようになる。階級意識や国民意識、民族意識あるいはジェンダー意識などもまた、同様に人口統計や量化された集団への理解のなかで、主に支配的イデオロギーによって肯定的にも否定的にも実体化される。
 しかし、こうした外部に現れない人間の内面の意識の領域に無意識が「発見」され、20世紀の社会理論は避けて通れない重要な課題を抱えこむことになる(注4)。個人の心的装置における無意識の存在は、さらに、集団としての人間の心理との関わりにおいても問われることになる。
 無意識はフロイトによって人間の心理における不可欠な領域として精神分析の主要な対象とされ、学説としての地位を確立した(注5)。 無意識の発見は、マルクスの剰余価値の発見とともに、実証主義を斥けながらも形而上学や哲学としてではなく、あくまで、人間や社会を批判的に分析する理論として、その本質を論じる方法を提起した。フロイトもマルクスも、その方法の核心において、人間であれ社会であれ、これらを構成する諸要因が形式論理的首尾一貫性をもつものではなく、相互に矛盾と対立を孕んだ存在であり、なおかつ、その基本的な性質そのものが当の主体の自己理解を超えたところで、成り立つために、経験や計測可能な数値データに還元できない構造をもっているということを重視した。社会や人間の理論は、この矛盾の理論的な記述になる(注6)。しかし両者の決定的な違いもあり、主な対象が家族と個人なのか、労働者と資本家なのかという違いの他に、とくに歴史認識に顕著に両者の違いが顕著にあらわれる。
 ウィルヘルム・ライヒがSex-Polで精力的にマルクス主義に関与した時代からドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』を書いた時代、つまり、大戦間期からケインズ主義終焉の時代までは、階級闘争を背景にしながらも大衆意識に消費生活(家族)が抑圧の重要な装置として機能していることが露わになった時代という意味では共通している。コミュニケーションの環境が資本の主要な投資領域となり、データが商品化するような大きな資本蓄積の構造転換はまだ到来していなかった。コンピューターが人工知能としての役割を担う時代になって近代の二分法に基づく現状維持の弁証法の世界――ヘーゲルの家族と市民社会の世界――そのものが内破しはじめた。プライバシーの権利を物理的に保護する制度が、支配的構造によって解体され監視社会の物質的土台がプライバシーの領域に形成され、「家族」も「市民社会」も、コミュニケーション・テクノロジーの浸透を通じて、もはやその本来の機能を大幅に逸脱しはじめ、結果として「個人」の概念それ自体が変容しはじめる。上述したデータの集積としての個人の誕生である。近代の世界理解そのものを支えてきた物質的土台がここでもまた上部構造を侵食しはじめているのだが、それは、物質的な私生活を介してではなく、コミュニケーションの回路を資本が押さえることを通じて、しかも双方向のコミュニケーション環境の占領を通じて、ということになる。データ化された個人には、もはやプライバシーは存在しない。隠されたデータは希少性をまとい市場で売買されるインセンティブを高めるために、次々に市場の餌食になる。こうした事態のなかで、唯一残された領域がある。それが無意識だ。しかし、この無意識には厄介な歴史がまとわりついてもいる。
 無意識の領域を含む人間の感情や意識が反資本主義の闘争課題とみなされることはほとんどなかった。たぶん、マルクス主義やコミュニズムへの回路を自覚してこの無意識が運動として問題化されたのは、ライヒのSex-polの運動がほぼ唯一だったのではないか。1929年にライヒがウィーンで設立した性的アドバイスと性的調査のための社会主義協会(Sex-pol)は貧困地区に6つのクリニックを開設している。その後、ライヒはドイツ共産党に入党して性改革運動にとりくみ、一時は4万人のメンバーを抱える組織にまで成長した(注7)。 ライヒは党内から繰り返し批判され離党し、運動は頓挫する。そして精神分析そのものは、スタリーン主義が支配的になるにつれて、主流の社会主義運動のなかで評価されなくなる。フランクフルト学派やサルトルらが精神分析への関心をもち、またフロムやラカン(この二人は真逆だが)の存在が西欧左翼の知識人や運動のなかにフロイトの記憶を維持する役割をになった。同時に、Sex-pol時代のライヒの活動は日本でも1960年代から70年代に翻訳され、雑誌「情況」が特集を組むといった時代があったが(注8)、こうした、無意識を含む情動の革命という課題は、その運動論組織論の構築という課題とともにいまに至るまで手つかずのままに放置されてきた。ライヒ自身がコミュニズムを放棄したこともその原因だが、それだけではないだろう。マルクーゼもまたある意味ではセクシュアリティとフロイトの理論の熱心な支持者だったし、現代でいえば、ガタリもしかり、ラカン派の左翼もしかり。しかし、一部の例外(注9)を別にして、こうした知的なサークルは、活動家たちの「趣味」にはなっても、運動にはならなかった。遠因はスターリニズムと近代ブルジョワ社会の科学主義への不徹底な批判しかもちえなかった主流のマルクス主義にある。一方で資本主義は、コミュニケーションを労働に組み込み、人間が労働対象とされるなかで、無意識への包囲網が構築されるようになり、ますます人々の情動が市場と国家によって包摂可能な事態へと追い込まれるようになってしまった。
 しかし、高度にコンピューター化された社会であっても、コンピューター制御の及ばない人間の無意識の作用が、CTCの思惑を挫折させるに違いないと私は考えるが、こうした考え方はもはや時代遅れとみなされることによって――マルスク主義同様に――黙殺されようとしているようにも思う。無意識はコンピューターによって適切に扱うことができない厄介な領域だ。支配的構造は、無意識という領域を科学や学問の世界から放逐して人間をコンピューターが解析可能な情報データへと還元し、コンピューターが人工的な「知能」として人間の「知能」に代替可能な存在へとのしあがることを可能にしようとしている(注10)。
 19世紀の機械は、マルクスの表現を借りれば人間の肉体労働が対象化された「死んだ労働」だったが、21世紀のコンピューターという機械は人間の精神労働を対象化したものとして、「死んだ労働」の新たな領域を生み出した。19世紀の労働者は死んだ機械に縛られることになったとはいえ、資本の機械体系の外部に自らの拠点を築いた。資本主義は機械によって労働者を文字どおりの意味で淘汰し絶滅させることができたわけではなかった。21世紀になって、精神労働がAIに置き換えられるという場合も同様であって、いかなる意味においても労働者を絶滅させることはできない。機械によって〈労働力〉を排除すると同時に、人口の規模と失業率と賃金水準といった量的指標とともに、人口の統治に必要な社会領域を市場として開拓することによって、この排除された〈労働力〉と量的に見合う新たな労働市場を形成せざるをえない。資本が肉体労働と精神労働の双方を機械に置き換えたとしても、その結果として人間社会が総体として機械に置き換えられるわけではなく、私たちは働かされて存在しつづけ、絶滅危惧種になることさえできない。肉体労働に代替する機械が映画や小説で擬人化して描かれたように、AIの擬人化も時代の流れのなかで当然のようにして進展してきた。そして、自動車にその典型を見出せるのだが、機械へのフェティッシュな欲望がAIにも成り立つことによって、情動の世界があたかも機械によって支配されうるかのように感じられる時代にさしかかっている。すでに私たちはAIフェティシズムの先駆として鉄腕アトムから『スターウォーズ』のR2-D2を人間並に遇してきた。そして現在、AIロボットは現実のなかにあって、介護ロボットのように、人間の感情を引き寄せうるものとして機能することが期待されるようになっている。フロイトが言う意味での「まやかし」「錯覚」の共通理解は、世俗化された近代にあっては、資本や国家が、そしてこれらを表象する機械やシンボルが、フェティズムの対象になったわけだが、本章が課題にする無意識の課題とは、この「まやかし」「錯覚」の問題であり、非合理的な事柄が合理的理性によっては駆逐しえないできた問題に取り組む場合の、コミュニケーションが労働となり商品となる時代にあって、その「外部世界」への出口を模索するための契機にまつわる議論である(注11)。 このまやかしはコンピューターやデジタルがもたらすまやかしではなく、アナログの世界においても発揮されてきたフェティシズムがデジタルの世界にも当然のこととして波及したというだけのことだ。ただし、デジタルの世界のフェティシズムは、後述するように、もっぱら人間の「脳」に関わる領域であることによって、フェティシズムはモノに寄生するのではなくより直接的に人間の精神世界に寄生するようになったために、意識に対する資本主義の支配がより直接的になりつつあるとみなければならない。繰り返すが、こうした資本主義的な意識支配は間違った前提にたったものであり、人間に固有の無意識を支配することはできないが、他方で、科学的な間違いは支配的構造を揺るがすことにはならないのであって、まやかし、誤認、誤解、不/非合理という批判は有効ではない。支配的構造の存立は科学的な正しさや間違いとは次元を異にする。
 こうして、一方に高度に合理的で数学的な世界によって解析された人間や社会についての認識があるなかで、ここから逸脱する不/非合理な領域が必然的にひとつの形をとってあらわれる。合理性と不/非合理性の相互補完的な構造が社会全体を構成するというありかたは、近代に一貫しており、これを、「科学」や「学問」、とりわけ人間の制御に寄与しようとする学問は、まず初めに人々を集団として扱い、人口として分類・分析すると同時に、人口を「国民」「民族」あるいは「階級」といったカテゴリーによって差別化しながら、この集団に固有の存在理由となる物語を構築してきた。CTC監視社会は、伝統的な人間類型を継承したうえで、この枠組を集団から個人へと解析の精度を高度化させながら、個別具体的な個人を識別し、彼らを集団として再定義するという方向をとるようになる。「国民」とか「民族」といった概念を継承していても、かつての概念とは異なって、個人を媒介するものとしてこれらの概念が再構成されるのがCTC監視社会の特徴だ。非合理性は、個人と集団の間で新たな機能を発揮するようになる。コンピューター化が果たしえない人間の非合理な欲動を、この時代から逸脱しないような新たな神話へと再編成するための堡塁となって高度な合理性の世界を覆う鎧のような役割を担うようになる。

3-2 集団心理

「集団心理学と自我分析」

 資本における集団の問題を、人間集団そのものを対象に論じたフロイトの「集団心理学と自我分析」(1921年)を手掛かりにしてみたい。
 フロイトの「集団心理学と自我分析」は、その問題意識の多くをル・ボンの『群集心理』から示唆を受け、これへの応答といった趣で議論を展開している。フロイトは、心理学による個人としての人間の素質、欲動、動機、意図、行為、そしてこれらと身近な人びととの関係が解明された場合であっても「もう理解できたと思ったはずの個人が、特定の条件の下では、その人から予想されるのとはまるで違った風に感じ、考え、行為するという驚くべき事実を、心理学は説明せねばならない」とし、人間が集団のなかで獲得する特性としての「心理的な集団」に着目する。そして「個々人の心の生活にそれほどにも決定的に影響を及ぼす能力を、集団は何によって獲得するのか。そして、集団が個々人に強いてくる心の変化は、どの点に存するものなのか(注12)」と自問する。この自問は、フロイトの精神分析の基本的なパラダイムと本質的に抵触する可能性を秘めた問いでもあるが、いまはこの点には深入りできない(注13)。このように、集団のなかには、個人を対象とした心理学では想定しがたい個人の心理作用が存在するというフロイトの指摘は、私たちの日常体験のなかでも見いだせる。とくに、私からみて、いわば他者の集団であり、価値観や文化を共有しているとはみえない人々の集団に対して、私たちは予想外の言動を目撃するかのような感覚をもつことがある。逆に、私もその一員をなしている集団になると、フロイトが上で述べているような予想しえない言動をそのなかに見いだすことは稀であり、むしろ集団の行動と私の心理との間には一貫した連続性があるように感じられる。たぶんこの感覚は、集団を論じる場合に非常に重要なものであり、この主観的な情動には多かれ少なかれある種の偏見が忍び込んでいる。しかし同時に、この心理的な遠近感には集団相互が抱いている世界観の相違がその背景にあるともいえる。いずれにしても、既存の支配者にとっては、こうした諸々の集団を束ねることを可能にするメタレベルでの集団心理の構築なしには統治の安定性は維持できないし、逆に、反体制運動が大衆的な基盤を持つことができるとすれば、支配的な世界観からは理解しえないが様々な大衆の間で共通して理解を獲得することが可能な世界観の構築が不可欠になる。多くの人々は、このような錯綜し、輻輳した対立する集団の網の目のなかでしか自己のアイデンティティを形成することはできない。 しかも、問題は、こうした集団の結束を可能にしているものが、理性的な判断に基づくとは限らず、むしろ様々な感情によって左右される、という点にある。
 フロイトが議論の叩き台にしたル・ボンは、近代社会がもたらした「群集」現象として労働運動や社会主義運動を念頭に置く。彼が「群集の勢力が生まれたのは、まず、人心に徐々に植えつけられていたある思想が普及したため」だと指摘していることからも明らかだが、次のように具体的に群集行動の内容に言及する。
「群集は、どんな権力もその前では屈服するような企業組合を起こし、また労働紹介所をはじめた。この労働紹介所は、経済法則を無視して、労働と賃金との条件をとかく支配しがちである」 「〔群集の要求は〕現在の社会を徹底的に破壊して、文明の黎明依頼のあらゆる人間集団の常態であった、あの原始共産主義へこの社会を引きもどそうとする。労働時間の制限、鉱山、鉄道、工場および土地の没収、生産物の均等な配分、民衆階級のために上層階級を除去すること、等々。これらが、その要求である(注14)」
 ここで「労働紹介所」と呼ばれているのはフェルナン・ペルーチエらが組織していた労働取引所連盟の活動を指すのだろう(注15)。少なくともル・ボンに『群集心理』を書かせた前提となる群集の集団は、文字どおりのいかなる制御も効かない一過性の暴徒だとはとうてい言いがたいにもかかわらず、ル・ボンを含めて支配階級からは、統制のきかない集団としてしか理解しえなかった。第1章で指摘したように、ここには支配的な階級の世界観からは理解しえない資本主義的支配秩序への抵抗運動によって構築されるパラレルワールドがあり、ル・ボンらの関心はこれを再度資本の世界に引き戻すことにある。
 ル・ボンは、たった1世紀前には民衆階級は何らの政治的な力ももちえていなかったにもかかわらず、現在では「近代の最高主権者である新たな勢力」にまで成長し、「支配階級に次第に変りつつある」こと、そしてこの「群集」の登場が「西欧文明の最終段階を画し、新社会の出現に先立つあの雑然とした混乱期への復帰」だとみなし、これは社会の道義力の喪失であり、また「野蛮人ともいうべき狂暴で無意識的な」群集による社会の瓦解を招くものだとて慨嘆する。

「群集が支配するときには、必ず混乱の相を呈する。およそ文明というもののうちには、確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度な教養などが含まれている。これらは、自身の野蛮状態のあままに放任されている群集には、全く及びもつかない条件である(注16)」

 こうした群集の近代西欧文明への拒否の心理の根源にあるのが、現代人にまで遺伝的に受け継がれてきた「種族の精神を構成する無意識的要素」であって、ここに集団としての個人の類似性をもたらす遺伝的な根拠があるともいう。つまり個人の性格の一般的な性質は「群集」のなかで次のようになるという。

「〔個人の性格は〕無意識に支配されるものであり、かつ一種族に属する常人の大部分が、ほとんど同程度に所有するものであるが、これこそが、まさしく群集に共通に存在する性質なのである。集団的精神のなかに入りこめば、人々の知能、従って彼等の個性は消えうせる。異質なものが同質的なもののなかに埋没してしまう。そして、無意識的性質が支配的になるのである(注17)」

 労働運動や社会主義運動は、こうして高度な知的な能力を発揮するどころがむしろ「野蛮人」並みの「本能のままに任せる」運動だとしか理解されていない。
 ル・ボンとは対照的にフロイトは、個人が集団に同調する心的メカニズムを個人の心理に即して論じることから始める。個人心理学や、親密な人間関係だけを念頭に置いて分析された人間の心理が、「特定の条件の下」、つまり心理的な集団のなかでは当てはまらないという問題に関するフロイトのアプローチの方法は、個人の心理と集団心理のある種の弁証法なのだが、正確には、個人とその周辺にあって誕生から成人になるまでの生育期にあって最も大きな影響を与える親、とりわけ父親との関係を含む私的な人間関係と、大きな社会集団との関係である。ここでフロイトが持ち出すのが「同一化」と「恋着」だ(注18)。
 同一化も恋着もこの家族関係を前提として形成される。同一化と恋着の議論では、集団のなかで個人の固有性が大幅に奪われる事態があることを認めながらも、そうであっても個人の固有性としての心的なメカニズムの働きが作用しつづけることを主張しようとしている。心理的集団は常に、個人を心理的に動員しようと試みるのだが、こうした集団の側の個人に対する心理的な力の存在そのものが、個人の側には集団心理に還元できない固有性が消え去ることなく存在しつづけていることを示している。

同一化と恋着

 フロイトによれば、同一化とは「他の人格への感情的拘束の最も初期の発現」であり、父親を自分の理想として一体化しようとする、あるいは父になりかわりたいという欲望を抱く心理状態をいう。この欲望は母親への性的な対象備給としてあらわれるから、これがエディプスコンプレクスを生むことになる。
「母親を得ようにも父親が邪魔していることに気づく。父親との同一化はいまや敵対的な色調を帯び始め、母親に対する関係においても父親に取って代わりたいという欲望と一つになる。要するに、同一化は始めから両価的[アンビバレンツ]なのであって、情愛の表現に変わりうると同様、除去への欲望にも変わりうる(注19)」
 同一化は「模範」となる他者の自我に自らを似せることで自らの自我を形成しようとする。この同一化の契機となるのは、男の子の母への性欲動である。この性欲動は、自分が父となることによってしか満たせないから、父になりかわろうとすることで同一化が生じる。しかし父になりかわることは不可能であり、挫折とともに母への性欲動の無意識への抑圧のなかで人格形成がおこなわれる。女の子は逆に、母への同一化と父への性欲動の挫折、無意識への欲動の抑圧となる。同一化とは、自分の自我が同一化の対象となる人物の性質を帯びること、あるいは、同一化は自我のなかに対象を取り込むことによって自我の変容をもたらすことだが、この同一化のきっかけは、性欲動を必須の条件とするわけではない。「対象を自我のなかに取り込む」ことによって何らかの欲動が充足できるのであれば、同一化が生じる。この同一化をもたらす心的機制は、対象や欲動の内容が変化しても、そのメカニズムは成人になっても維持される。また、同一化の対象は、実在の人間である必要もない。架空の存在や人間以外の何ものかであってもよい。たとえば、神、民族、国家といった観念への同一化が可能であるということだ。それが自分の欲動の充足をもたらすとみなされる限り同一化の過程が生み出される。(注20)
 集団のなかの個人は、この同一化を通じて、自我のなかに、集団を構成する他者を取り込むことを通じて、私は集団のなかの他者に拘束される。他者の自我もまた私を取り込むことによって拘束される。この関係が二者間だけではなく多数者の間で生じることを通じて、集団への個人の拘束が生じ、同一化の過程を通じて異なるはずの人格の同一性が現象する。個人の自我が集団のなかに溶解し、あたかも喪失したかのようにみなされる状況が生み出されることになる。これは法や制度が個人を縛るような形式的な集団への強制力ではなく、むしろ個人を集団に帰属させるより内面的な機制だといえる。
 このとき、三者以上の諸個人相互の同一化をもたらす情動の共通性はどのようにして生み出されるのだろうか。つまり、集団の誰もが自らの自我に取り込もうとする共通した他者の存在が必要になる。「この共通点は指導者に拘束されることの内に存在するものだ、と推測することができる」とフロイトは指摘する。まったく平等な諸個人が相互に同一化の過程を通じて他者の自我を取り込むという場合、AがBの自我を取り込み、BがCの自我を取り込み、という自我の取り込みの連鎖だけでは、集団が共通した自我を形成することはできない。このジレンマを解決するには、多くの人たちがその自我を取り込もうとする共通した誰か、あるいはその誰かが体現している何らかの理念の存在が必要になる。このような誰かは、集団の指導者となる人物・理念ではあるが、後述するように、この人物・理念がどのようにして形成されるのかをフロイトは理論的に論じることには失敗している(注21)。さらに言えば、フロイトの議論には、集団の指導者となるべき存在とその理念に関する民主主義的な合意形成の議論も存在しない。このことがフロイトの理論の限界だと指摘することもできるが、むしろ私は、集団心理に関する民主主義の限界に自覚的でなかった民主主義の政治運動にこそ、その限界があると考えたい。
 容易に想像できるように、この一人の指導者の自我あるいはこの自我を介する理念に収斂するまでの過程こそが集団にとって不安定な内的な競争や闘争の過程になる。複数の指導者・理念相互の主導権争いは、フロイトの観点からすれば、自我の取り込みをめぐる闘争ということになる。この過程は、組織内の闘争が、合理的あるいは理論的な闘争の体裁をとって展開しているとしても、その背後にはむしろ欲動の充足に関わる同一化の過程が存在することを示唆している。集団心理をめぐる最もやっかいな問題は、こうした指導者が形成される過程に、一方で、理性的・理論的な主張が、他方で、リビードが関与する情動に基づくある種の好き嫌いの感情が渾然一体となって表出するという点であり、このことにとりわけ民主主義を擁護する政治運動が無自覚なままだったために、理性の限界を自覚できず、ファシズムの情動・情念の政治を凌駕することができなかった。ある意味でフロイトはこうした問題の存在を示唆したのだ。
 さて、一旦この指導者が確定することになると「集団化した個人の相互の拘束は、重要な情動的共通点に基づくそのような同一化を本性とする。そしてこの共通点は指導者に拘束されることの内に存在するものだ、と推測することができる」 ということになる。
 これは心理学でいう「感情移入」であり「他の人格の中に自我にとってよそよそしい部分を理解する上で最も重要な出来事なのである(注22)」。フロイトは、自我がこの同一化によって、他者の自我に乗っ取られるメカニズムのなかに「自我理想」の役割をみる。心的装置には自我から派生していわゆる快欲動を実現しようとする自我と対峙する自我に批判的な「自己観察、道徳的良心、夢の検閲、そして抑圧に際しての主要な影響をその機能(注23)」とする自我理想が自我を裏切る。自我理想は、集団あるいはその指導者への同一化を、それこそが「自我」の理想だと唆す。自我理想が理性的な判断を麻痺させ、自我の土台をなす無意識の抑圧と抵抗を自我理想は解除し、対象への同一化こそが快欲動最大化の実現であるように心的メカニズムを調整することによって同一化が促されるともいえる。集団的な心理の構造では、奇妙なことに、無意識と自我理想が結託して自我を集団的な情動へと誘導するのだと私は考えている。こうした集団心理の機制があるとした場合、本稿の問題意識との関連では、この自我理想と監視社会(監視の集団心理)との関係が重要な論点になる。監視を外部、他者からの眼差しだけではなく、他者と同一化しながら自我理想によって内面からの監視の心的な構成が形成される。監視は抑圧だが、この抑圧は積極的に肯定されるような抑圧であり、これに自我理想が加担する。監視社会批判の観点で手薄なのは、この自我理想に拠点を置く内面からの監視の問題だ。 言い換えれば、誰もが多かれ少なかれ持っているマゾヒズムを監視社会は巧妙に味方につけているといってもいい。
 集団心理を検討する際にフロイトが注目するもうひとつの心的な情動が恋着だ。この恋着は同一化とは逆方向で自我に作用する。つまり、自我の犠牲である。恋着は対象に呪縛される状態、あるいは「恋の奴隷状態」であり、かつ性的充足が得られない状態が持続するときに典型的にみられるという。愛の対象への過大評価が生じ対象に対する理性的な評価や判断が後退し、理想化される。
 一般に、子ども期の両親に対する性的欲動とその目標制止の状態は、無意識のなかに保存されて維持される。思春期になるとこの欲動は親ではない他者へと向けられる。ここで制止されない欲動と制止される欲動の双方が「共働」し、欲動制止のなかで恋着が生じるが、これが対象に対する錯覚や理想化をもたらす。
「自我はどんどん無欲になり、謙虚になり、他方、対象はどんどん偉大に、価値あるものになる。最後には、対象は自我の自己愛をすっかり獲得するに至り、そこから、自我が自己を犠牲にすることが自然な帰結となってしまうほどだ。対象が、言うなれば自我を食い尽くしてしまったのだ。へりくだり、ナルシシムズの制限、自己毀損といった特徴が、恋着にあってはいずれの場合も顔を出す(注24)」
 日常生活のなかで恋愛感情がもたらす恋着によって、自己犠牲的に対象に奉仕するような振る舞いがみられることはよく知られているし、多かれ少かれ誰もが経験したことでもあるだろう。恋着の心的メカニズムが集団心理にも作用する場合、権威主義を支える心的メカニズムとなる。理想化された対象の価値は、実際のそれ以上に増殖する。対象は現実を超越するわけだが、対象は、ある種の現実の対象には還元しえないような観念をまとうようになり、こうした超越的な観念の体現者が現実に眼の前にいる対象だという転倒した情動にとらわれる。キリストへの愛、軍隊における自己犠牲的な国家への愛、つまり愛国心は、現実の教会や国家・政府の具体的なありようを基礎にしているのではなく、現実を超越した観念が現実にとってかわることによって生み出される。ここには、恋着に伴う制止され逸らされた性欲動の作用があるのだが、これが性欲動の制止=抑圧の帰結だということは自覚されない。情動のレベルでいえば、神への信仰も国家への忠誠も、対象への愛も自我の「献身」だ。いずれの場合も対象は理想化され、自我は対象に対して自立した「力」を発揮するこができない。

「自我が対象に「献身」するようになると、抽象的な理念への昇華された献身とさえもはや区別不可能になり、同時に、自我理想に割り当てられた諸機能は全面的にその無力さをさらけ出す」「対象がなすこと、求めることはすべて正しく、非の打ちどころのないものになる。対象に都合好く起こることには、良心は全く提供されなくなる」「対象が、自我理想の代わりに置かれたのだ(注25)」

 監視社会のなかの集団心理が恋着に基づく行動をとるとき、自らが恋着する対象に対して危害を加えたりすると思われるものへの過剰な監視が正当化される。監視カメラの蔓延を許容する人々の心理は、集団心理のなかの恋着に基づく過剰な防御の典型だろう。すべて正しく、非の打ちどころのない私たちの社会に対して、逸脱した行動をとるであろう者を許容できない心理は、「私は決して間違ったことはしないし、隠し事もないから監視カメラがあっても気にならない」といった心理を生み、同時にこの心理は、この「正しい」社会のルールに違反する者の存在を理解しえず、ただ排除すること以外の手段を見いだせない人々を生み出してしまう。
 フロイトは、同一化と恋着が集団心理に果たす役割がどのようなものなのか、特にその相互関係について論じているわけではない。しかし、前述したように、この二つは一つの過程として、結果として集団心理を構成することになるのは明らかだろう。
 集団形成の端緒は、親密な関係にはない人々が、同一化の過程に入るなかで、多くの人々が共通して同一化しようとする人物の登場によって集団への第一歩が始まる。他方で、人間は、出生してから自立するまでの間に、家族と呼ばれる親密な人間集団のなかで育つ。家族の形態は多様とはいえ、資本主義に固有の家族の機能と性格があり、そのなかで原初的な性格構造が形成される。フロイトが同一化と恋着を論じる前提になっているのは、こうした人間の家族関係がもたらす自我の形成なのだが、他方で、人がこうした与件としての集団ではなく、ある集団を選んで参加するとか、自ら集団を形成しようとする場合こそが、集団心理を形成する重要な場面となる。
 いわゆる「群集」の問題は、家族とは異なって、まだ輪郭もはっきりしない集団以前の人間の集合が次第に、「集団」と呼びうる性格を形成する過程の問題でもある。この過程を通じて、多くの人々が同一化の対象とする人物が、恋着の対象となることによって、集団の指導者として確立される。この一連の過程で、指導者となる人物の「権威」を支えるのは、彼/彼女の個人的なパーソナリティとともに抽象的な理念や思想あるいはこれらを体現する表象群である。たぶんこの構造は民主主義にも独裁制にも共通する集団を構成する集団心理の基盤をなすという意味で、民主主義のアキレス腱になりかねない。統治機構一般に共通する権威の存在は、人々が心理的な自由を獲得するうえで、言い換えれば、抑圧的な社会が形成する超自我によって自我の検閲がおこなわれ、無意識に抑圧された性欲動が道徳や倫理として「私」の言動を縛る一連のメカニズムを視野に入れない政治と社会の変革は、結果として制度を変えても権威主義を支える心理を変えることには繋がらない、ということである。先にも述べたように、フロイトは集団心理を論じるときに、集団の意思決定の民主主義のありかたには全く関心を寄せていない。しかも前提となる家族関係の構造のなかで、父の子どもへの性的欲動といったエディプスの逆三角形とでもいうべき関係が排除されているために、権威と支配の問題に内在する暴力の質もまた見逃された。これは、フロイトの欠点というよりも、民主主義が集団に果たす役割の限界――近代社会は、民主主義と家父長制の共存を前提としているというある種の欺瞞――として理解すべきことだと思う。同一化と恋着を民主主義はどのように「解決」できるのか、言い換えれば、理性的な討議を通じた合理的な集団的意思決定という民主主義の建前と集団心理における同一化と恋着がもたらす集団へのアイデンティティ形成とでは、そもそもの成り立ちが本質的に異なるのだ。この問題を自覚せず、未解決なまま放置するかぎり、民主主義は権威主義とほとんど同義だとみなしていい(注26)。
 心的装置がとる人間集団との関係のなかで生じる自我、無意識、自我理想の関係は、それ自体が相互に整合的なメカニズムをとっていない。同一化と恋着では、「私」という主体は、対象との関係のなかで、対象を自我に取り込むのか、自我が食いつくされるかという、自我に対して正反対の影響を与えるのだが、この二つは全く別々の現象ではなく、同じ集団のなかで同時に起きることでもある。集団のなかの「私」にとって、指導者は成就できない愛の対象であり、集団となる仲間との間には仲間意識や同胞愛などと呼ばれる同一化が起る。この二つの心理は相互に軋みながら私の心的装置のなかで共存することになる。自我は、取り入れと放棄という相反する情動のなかに置かれることになる。こうした情動の構造が集団内部の力学を生み出す。
 フロイトにはもうひとつ重要なル・ボンの議論との決定的な違いがある。「集団心理と自我分析」における主な例示にフロイトは、軍隊と教会といった制度化され長期にわたってその存続が安定して維持されている集団を取り上げている点だ(注27)。とりわけ宗教は、フロイトにとって、解決されなければならない重大な「まやかし」「錯覚」だった。フロイトと精神分析をとりまく当時の時代状況を考えたとき、彼の問題意識の背景には、第一次世界大戦の惨劇があり、また、精神分析の優れた後継者と目されていたユングによる宗教への肯定的な関心に対するフロイトによる厳しい拒絶があり、これらが軍隊と教会という例示へと結び付いたのではないか。

教会と軍隊

 フロイトが特に注目して論じている教会も軍隊もともに「高度に組織化され持続的で人為的な集団」であって、自然発生的に生まれる「群集」ではない。高度に組織化された近代社会でその正当性を誰もが承認している組織をフロイトは「まやかし(錯覚)がまかり通っている」典型例として挙げている点は注目すべきだろう。
 まやかしとは、集団の構成員を等しく愛する指導者という錯覚のことだ。集団の存続はすべてがこの錯覚にかかっている。フロイトは、この錯覚を手放してしまえば、教会も軍隊もたちまち崩壊してしまうという。
 フロイトはこの錯覚の謎を解く鍵が催眠術にあると考えた。被験者は自らの意識への統制を失って催眠術師の制御に服するという関係の延長線上に、集団への一体性が生まれるプロセスを見出せるというのだ。
「催眠術師は催眠に導入するために、しばしば眠るようにという指示を与えるが、そうすることで彼は両親になり代わっている」とフェレンツィの指摘を肯定したうえで、「催眠において眠るようにという指示が意味するのは、一切の関心を世界から逸らしなさい、そして催眠術師の人格に集中しないさいという要請以外の何ものでもない」とし、このことを催眠術をかけられる側=主体もまた理解しており、こうして催眠術師に自らの自我を預けることを、自我理想もまた承認し、主体は催眠術師の暗示に支配されることを主体的に選択する。問題は、フロイトが被験者の心に生じる変化を次のように解釈している点にある。

「こうして催眠術師は、その処置を通して、主体が原始から相続してきた遺伝的資質の一部を主体のもとに呼び戻す。その資質は、両親に対しても現われていたもので、父親に対する関係の内で個人的再生を経験していた。すなわち、父親はきわめて協力で危険な人物として表象され、この人物に対しては人は受動的・マゾヒズム的な態度をとることしかできず、この人物に触れると人はその意志を失わずにはすまなくなり、この人物と二人きりになり「さしで向かい合う」ことは、容易ならざる冒険であるように思われたのである。原始群族に属する個人が原父に対してとっていた関係を思い描くとすれば、例えばそのようにするしかあるまい(注28)」

 進化論や遺伝学がまだ草創期ともいえる時代であったことを差し引くとしても、父とのマゾヒスティックな関係が原始群族の時代の「原父」なる存在を現代にまでひきずってきた結果だということにフロイトはかなりの確信を抱いた。しかし根拠が示されているわけではない。この「集団心理学と自我分析」のなかの集団と原始群族の節でもその冒頭でもダーウィンを引き合いに出しながら「人間社会の原型は一人の強力な雄のほしいままな支配を受けた群族だった(注29)」という。

「この群族の運命が、人間の遺伝的継承の歴史の中に破壊し去ることの不可能な痕跡を残してきたこと、特に、トーテミズムが宗教と倫理、社会の構成化の端緒を含んでおり、その発展は、首領の暴力的殺害と、家父長的群族の兄弟的共同体への転換に関連するものだったこと(注30)」

これは「仮説」にすぎない。近代社会が個人の人格の自立性を際だたせる社会であったとしても、この近代的な個人が集団のなかで、その人格を消失させ「思考や感情が同じ方向を向きがちになること」、情動性と無意識の心の動きが優勢となって理性的な抑制が効かなくなる傾向は、近代的個人のなかにその根拠は求められないとフロイトは考えたにちがいない。ここからフロイトは一挙に「どれをとっても、他ならぬ原始群族についつい帰したくなるようま原始的な心の活動への退行という状態に相応するもの(注31)」と理解した。しかし、私はこのフロイトの仮説には与しない。理性的な抑制が十分に機能しないのは、資本にそもそも理性が備わっておらず、その人格的表現としての資本家もまた理性によって自我を統御するような存在ではないという、資本主義に固有の性格構造に由来すると考えるからだ。のちに述べるように、これは家族関係で、とりわけフロイトがエディプスコンプレクスと命名した性欲動の制止に伴う現象であると私は考えている。
 近代にあっても、集団化した人間は、原始群族のなかに見いだされるような情動が支配的になるというのフロイトの推論は、人間が完全な個人の集合体として存在することはできず、何らかの集団を形成するかぎり、「原始群族が存続しているのを、われわれは認める」「集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない(注32)」というように、集団と個人の関係を前提にしている。
 ただし、フロイトは個人心理が原始群族には存在しないのではなく、集団心理と同等に古くから存在する心的なありようであって、この個人と集団という二つの心理が最初から人間のなかには存在するという。つまり、「集団の中の個人の心理と、父親、首領、指導者の心理」である。ここでの「個人」――主に男性が念頭に置かれている――には、父親に体現される個人と、父親に従属する個人という少なくとも二種類の個人の存在がなければならない。父親としての個人は、自由であり、自我はリビード的に拘束されず、「彼は自分以外の誰も愛していなかった」のであり愛するとしても「彼の欲求に役立つ限りでしかなかった」といった存在だという。ニーチェになぞらえて、こうした父親は「超人」だともいう。主人として、ナルシス的であり、自信に満ち、自立的でもある。これがフロイトがいう「原父」である。同時に集団の諸個人は「指導者によって等しく愛されている、というまやかしを必要としている(注33)」という。
 一方に他者を愛さない指導者=「父」がおり、他方に「父」によって「公平に愛されている」と錯覚する集団の構成員がいる。「まやかし」という概念は、フロイトの集団心理と個人心理の構造の核心をなしている。フロイトは、錯覚とも呼ばれるこの社会の支配的な人間関係を構造化する心的なメカニズムのなかから原父の「神格化」が生み出されるという。集団のなかの一個人でしかなかった父の息子(いちばん下の息子)が父の継承者になるために、集団心理を個人心理に変換する何らかのメカニズムが必要であり、これを可能にする唯一のプロセスが以下のようなものだという。

「原父は、息子たちが直接の性的追求を充足するのを妨げていた。彼は息子たちに禁欲を強要し、その結果、制止された性的目標の追求から生じうる感情の拘束を、彼らと自分との間に、そして彼ら同士の間に強要した。原父は息子たちを、言うなれば集団心理へと強要したのだ。彼の性的嫉妬心と非寛容が、最終的には集団心理の原因になった(注34)」

 では、こうした原始群族の人間関係と近代社会のなかの集団とはどのような関係があるのか。教会と軍隊の例で、次のように言う。

「軍隊や教会の例では(略)指導者はすべての個人を等しく公平に愛しているというまやかしがその工夫だった。しかしこれは、原始群族の置かれた状況を理想主義的に改作したもの以外の何ものでもない(注35)」

 この原始群族と現代を繋ぐ「まやかし」を説明するために、氏族制度とトーテム信仰に言及し、家族の自然な集団形成の強さは父親の等しい愛という必須の前提を必要とするという。では、フロイトが催眠術で指摘した自我の放棄とこの原始群族にまでさかのぼる心的な構造とはどのように関わるのか。ここでフロイトは催眠に付随する「何か直接的に不気味なものという性格」の想起を読者に促し、これこそが「何か古くて馴染みのもの指し示して」おり、この不気味なものが催眠術師の「秘密の力」ともいうべきものであって、「原始人たちがタブーの源泉とみなした力と同じもの」「王や首領たちから発し、彼らに近づくことを危険なことにする力(マナ)(注36)」と同類のものだと指摘する。首領の眼差しを危険なものとして忌避することのなかに神の眼差しが、首領へと転移される表れであるとみなす。
 この集団における原父に起源をもつまやかしとしての平等は教会では次のように現れる。

「個々人に向けられる要求はすべて、キリストのこの愛から導き出される。一定の民主的な特徴が教会を貫いているのであって、それはまさに、キリストの前では皆が平等であり、皆が彼の愛の等分の分け前に与っているからである」キリスト教の教区が家族的なものとなり、信者相互が兄弟姉妹とされる。「それぞれの個人がキリストに拘束されていることが、彼ら相互の拘束の原因でもある(注37)」

 神の前での平等は、日本であれば天皇の赤子としての臣民相互の平等であった。ワーグナーもまた封建制を否定しながらも君主制を肯定する際に持ち出す理屈が君主の下での臣民の平等だった(注38)。教会に言えることは軍隊の「リビード構造」にもいえる。異なっているのは、位階構造をもっており、隊長を父とし、部下を子とする関係が重層的に繰り返される点であり、一方が欺瞞とはいえ隣人愛を説くのに対して、他方が、殺人を肯定しうるほどに強固な同一化と恋着を再生産しうるある種の破壊や死の欲動に直接支配されている点だ。

支配的構造と集団心理

 一般に集団形成を論じる場合には、集団の理念や思想を構成員を拘束する重要な要因とみなすが、フロイトは、軍隊の場合であっても祖国や国の名誉などの理念は「存続にとって不可欠というわけではない(注39)」とし、リビードを重視する(注40)。この指摘は重要な観点であり、集団に帰属する個人ひとりひとりの心理に即したとき、教会であれ軍隊であれ「一方で指導者(キリスト、隊長)に、他方で集団内の他の個人たちにリビード的に拘束されているという点を心にとどめておこう(注41)」と指摘しているように、個人がストレートに神や国家への愛に拘束されているということではなく、むしろ組織内部の人間関係への拘束が決定的要因となり、そのうえで神や国家への恋着が可能になる。
 ただし、この個人の人間関係の核をなす構造を重視することは、組織が総体として表象する理念やイデオロギーを軽視していいということではない。たとえば、個人の主観のなかでは「自分はファシストではない」と思う者が組織の過半数を占め、ファシズム思想を確信犯として抱いている者が少数であるような組織が、それを理由にファシストの組織ではない、というふうには即断できない、ということだ。少数の思想が組織全体を体現することはむしろ一般的にみられることだ。組織の過半数が非ファシスト意識だったとしても組織がファシズムを体現していることを容認してるのは、組織への同一化が人間関係に拘束されてよいという大衆心理の構造のなかで、実は、ファシズムが全体のイデオロギーとしてのヘゲモニーを握ることになる。
 先に述べたように、この集団心理を資本主義におけるそれとして検討するのであれば、教会と軍隊という例示は重要だが、同時に、あるいはそれ以上に重要なのは、資本の組織、つまり労働組織における集団心理をこの同一化と恋着によってどのように説明することができるか、そしてまた、近代国家の構成員=国民としての集団性をどのように説明することが可能なのか、という問題は私たちに残されることになる。同時に、親密な集団としての家族についても、現代の家族関係における同一化と恋着が資本主義的な家父長制をどのように再生産するのかという観点もまた、残された課題になる。近代組織が、その合理主義の側面で諸個人を組織に拘束するときの基礎をなすのは法と契約である。しかし、フロイトが集団の心理的側面で重視した同一化も恋着も契約に還元することはできない。組織や集団と個人の関係について社会科学がもっぱら契約を重視したことを踏まえれば、同一化と恋着、一言でいえば「愛」の側面が極端に軽視され、結果として、愛国心や郷土愛といったファシズムを支えた情動を捉えそこなった欠点を補ううえで重要な観点なのだが、形式合理性としての法と契約との関係もまた問われれるべき課題として残された。とりわけファシズムとこれにつらなる集団心理は法と契約を超越する「愛」の優位を――その裏面としての敵への憎悪を――特徴としていることを想起する必要がある。
 軍隊と宗教は現代でも世界の暴力と不寛容を構造化する要素であり、しかもこれらは、いずれも、個人主義と人権、世俗的近代の統治という構造のなかで、これらの理念を裏切る側面と、逆にこれらを補完する側面を同時に示しながら、むしろその存在理由をより強固に固めつつある。集団的な殺人行為の正当性を軍隊はどのようにして維持できるのか。科学的世界観や合理的な価値判断と超越的で非合理を肯定する宗教的な世界観とがなぜ、どのようにして人々の心理に無視できない作用をもたらしているのか。こうした問いが、現在でも十分意味をもっていると私は考えるが、この問いを、さらに、本書の主題でもあるコンピューター化された監視社会の時代で支配的な人間のデジタルデータ化とその商品化の世界のなかに置きなおして再考する必要がある。
 集団を構成する諸個人が相互に一体感を覚え、指導者や指導理念に共感する構造は、現代のSNSやネットを介したコミュニケーション環境の場合であっても、同一化と恋着の機能の重要性は変わっていないと思う。つまり、集団が掲げる方針や目標などが情動のレベルで人々を繋ぎとめる要因を人々の合理的な判断に還元できないということでもある。現代の集団心理は、SNSのような情報通信ネットワークの影響力が大きくなっていることを前提にしたとき、同一化と恋着の心的メカニズムを形成する過程は、マスメディアを背景として人と人が直に顔を合わせることを通じて形成されるそれとは本質的に違うものをもっているとも思う。その違いは、個人の双方向コミュニケーション能力の獲得にある。インターネットが個人の情報発信力を飛躍的に強化し、商業メディアや政府の発信力と遜色がない水準を獲得したことによって、同一化と恋着が形成されるプロセスが根本的に変化し、これまで親密な人間関係のなかでしか実現しえなかったような類いの同一化と恋着が、グローバルに(ただし言語の壁にははばまれるが)実現可能になった。
 プライバシーの権利が保護されるための物質的な基盤として、一人になれる部屋や敷地など、他者による介入を排除できる空間的な条件が必要になる。通信は、この空間的なバリアを突破する技術でもあった。電話はその典型であり、だから電話の盗聴は、プライバシーの権利問題を論じるうえで重要な争点でもあった。もうひとつのプライバシーの空間的なバリアを突破する技術が電波によるメディア、ラジオやテレビだったが、これらは不特定多数のプライベートな空間に一方通行で介入するメディアだ。このことが、電話とは異なって、大衆消費社会の広告宣伝におけるマスメディアに固有の心理効果をもたらすものとして注目された。つまり、プライベートな空間にいる「私」が武装解除した状態にある情動に直接介入しうるメディアとして重宝がられた。プライベートな空間は個人の心的装置の超自我による検閲を弛緩させて快原則を最大化させる効果があり、ここにマスメディアが介入することによって、人々の情動に作用しようとしたともいえる。これは、同一化と恋着を効果的に生み出す装置にもなった。前述したように、同一化や恋着の過程で複数の人々が誰の自我を取り込み、誰に自我の放棄を委ねるのかという一般的な集団心理形成過程を大幅にに効率化した。
 インターネットによる不特定多数が双方向のコミュニケーションを実現できる技術は逆に、同一化と恋着が収斂する過程をより複雑にした。市場が貨幣を媒介にして商品の売買を効率化するときに、人々の欲望が貨幣という共通した価値物に収斂することが必要であったように、集団の凝集力と安定の獲得もまた、情動と理念における「一般的等価物」を求めようとする傾向をもつ。民主主義はそのための有力な意思決定プロセスだが、双方向で不特定多数がネットワークするSNSのようなメディアを通じて、これを実現するという場合、参加者がプライバシー空間のなかで超自我の検閲が緩む状態でオープンなコミュニケーション環境に参加することによって引き起こされる情動の発現は、資本主義の支配的なイデオロギーに内在する偏見や差別の感情をそのまま表出させる回路にもなる。大手マスメディアによる放送・出版コードのように、レイシズムなどの差別を公的な表現空間のなかで制度的なフィルタリングがかけられて抑制される従来のメカニズムは、個人の無意識へと抑圧された差別の情動まで消し去るような効果をもつことはできなかった。無意識へと抑圧された情動がプライベートな空間のなかで緩んだ超自我の検閲をすりぬけて表出し、一次的にはプライベートな空間のなかで発現し、これにネット上の人々が同一化と恋着を繰り返すことによって、これまでにはみられなかったようなネットによる集団心理の回路が形成されるようになった。
 無意識のなかで保持されつづける差別や偏見、あるいは他者への憎悪といった感情は、フロイトやユングらによれば、その根源を探れば太古の原始群族にまで遡ることができるある種の遺伝的な根拠をもつものとされかねない。こうなれば、差別や憎悪はむしろ「自然」な人間の感情として肯定されることになるだろう。ここに、集団としての「民族」や、ジェンダーなどのカテゴリーの網が被されることによって、民族やジェンダーが実体化されることにもなる。こうなった場合、問題となる制度や法を改廃しただけでは人々の集団心理の問題は解決せずに、無意識に潜在してしまう。マスメディアの時代には、こうして潜在化した情動が不特定多数へと漏出する回路が不在だったが、インターネットがこの回路を開いた。
 同時に、問題は、フロイトが例示した軍隊と宗教に即していえば、これらの「まやかし」の組織を解体するためには、集団心理を構成することになる同一化、恋着、そして群族への回帰をどのように処理すべきか、ということになる。私は、フロイトが論じたこれら集団心理をもたらす諸要因についての議論に社会と歴史認識が欠落していることが決定的な限界をもたらしており、ここにマルクスの資本主義の歴史認識が不可欠になると考えている。
 一般に、制度としての集団を廃棄するようには集団に対する情動を廃棄することはできない。無意識のなかに膨大な源泉をもちながら人間が生み出し、記憶し、知識や経験として蓄積され、諸個人の情動の一部を構成する集団を、自らの意思で廃棄するのか、あるいは外的な要因で廃棄された結果を受動的に受け入れるのかでも事柄は異る。少なくとも、暴力や神的な超越性を否定する大衆運動が本来であれば正面から問うべき情動に埋め込まれた記憶を、集団の廃棄のなかで文字どおりの意味で過去のものとして始末をつけることは、形式的な制度の廃棄で片づくわけではない。物を捨てるように、無意識にも根を張る記憶や知識を捨てることはできない。
 他方で、あらゆる軍隊、あるいは集団による武力の行使が悪であるということもできない。フロムが主張しているように破壊欲動には防衛的な欲動に基づくものがあり、あらゆる合理的な理解を超越するところに成り立つ情動をまやかしや錯覚だとみなすこともできないのだ(注42)。抑圧された者たちが、非対称の支配者による暴力に晒されているときに、集団的な抵抗の暴力を行使することは、ある意味では全く正しい(注43)。「ある意味」という留保が重要なのだが、暴力と超越的な事柄の廃棄という課題の難しさがここにあり、同時にこの難しさが言い訳となって、支配者によってその暴力や神信仰が正当化されることが繰り返されてもいるし、抵抗の暴力への寛容がポスト革命の社会の統治に深刻な後遺症を残す結果を何度も経験している。人類社会の未来を構想する力のなかには、合理的な判断がややもすると陥りがちなのが現状への妥協と現状の改良で満足すべきだという誘惑である。こうした誘惑を断ち、不可能にみえる理想や希望を行動の駆動力にすることのなかに、いまだない社会の可能性を想像する力を私たちはもつことができなければならない。同時に、集団心理を検討することのなかには、私たちが将来社会で希望の創造となりうるように集団性を構想するという場合にも同じように、制度的な集団の枠組や意思決定の手続きが集団の性格のすべてを決定するわけではなく、集団に参加する一人ひとりの個人が、個人としての固有性を最大限発揮するための必要不可欠な制度としての集団とはどうあるべきか、という課題を検討するうえでも、集団心理の問題は極めて重要になる。この場合、同一化と恋着を生み出す心的メカニズムの形成に家族が深く関わっているとするならば、同一化と恋着が支配的なイデオロギーの体現者としての組織やその指導者あるいはそれらが担う理念や思想に拘束されずに、別の道をとること、あるいはこうした既存の集団の「まやかし」からみずからの自我を解放するための戦略は、制度をめぐる闘争だけでは十分とはいえないことは明らかだろう。
 集団的な拘束から個人が解放されるとき、パニックや個人の不安をもたらす場合がある。「彼にとって危険を低く抑えていた情動的拘束が働かなくなってしま(注44)」うことがあり、「パニック的不安は集団のリビード的構造が緩んでしまったことを前提とし、その弛緩にもっともなやり方で反応(注45)」するとき、そこには、新たな予期せぬ「集団」の形成がみられるかもしれない。こうした集団が、果たして解放の集団的な萌芽となるのかどうかは、同一化と恋着を生み出す性格構造を再生産する家族関係が維持されていれば、私たちが期待するような方向へと集団が創造されることはまずない、といっていいだろう。とすれば、自然発生的な解体によるパニックを招来させずに、目的意識的に集団の解体を追求することが可能でなければならない。しかし、フロイトのように、集団とその指導者の存在を太古の原父の遺伝的な継承とみなしてしまうと、宿命論になってしまい、私たちに残された自由の可能性はきわめて狭いものになる。

3-3 集団心理と無意識――監視社会の基層へ

「集合的無意識」

 フロイトは、集団心理のなかの非合理性を太古から継承されたある種の宿命とみなす一方で、一貫して宗教の意義をはっきりと否定し、将来の人類が理性によってこの非合理性を抑え込むことができるようになることに期待を寄せた(注46)。
 これに対して、C.G.ユングは、人間の集合的無意識と宗教的な信仰を肯定した。ユングは性欲動と宗教への態度でフロイトと決定的に対立する。この対立もあってユングが反ユダヤ主義者でありナチスの同伴者であったかどうかが繰り返し議論になってきた。私は、彼のドイツ民族や宗教あるいはオカルトを肯定する態度のなかに、ナチズムを支える大衆的な心情とでもいうべき感情と共通するものがあり、おおかたのユンギアンとは逆に、反ユダヤ主義とナチズムへのシンパシーを抱いていたと判断する(注47)。
 フロイトが集団心理の情動と心的メカイニズムのなかに見いだした「原父」や原始群族、そしてトーテミズムの心理から宗教の「まやかし」を導こうとしたのに対して、ユングは、心的メカニズムを二分し、個人心理のなかには個人的に獲得されたわけではないが無意識を構成する部分があるとし、これを集合的無意識と呼んだ。この集合的無意識は「一度も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している(注48)」。個人の無意識がコンプレクスから成るとすれば、集合的無意識は「元型」から構成されているという。

「個人的な性質をもった意識的な「こころ」の部分(これに個人的無意識を付随物として付け加えたとしても)だけをわれわれは経験可能な「こころ」の部分であると信じているが、しかしそれとは別にこころ」には第二のシステムがあって、これは集合的普遍的で非個人的な性質をもっており、すべての個人においても同一である(注49)」

 この「元型」から構成される集合的無意識は、ヒトという生物学的な種が共通してもつ意識ではなく、民族や性による区別が持ち込まれる。ユングは「ヴォータン」と題されたエッセーのなかで「ドイツ的元型」に言及している。このエッセイの冒頭付近で、ドイツの若者たちのワンダーフォーゲル運動のなかに、ゲルマン神話の荒ぶる神ヴォータンの復活の予兆を見、それがのちにヒトラーを熱狂的に支持する大衆の心理へと成長したと指摘している。これは人々の無意識のなかにあったものが意識化された結果だという。ヒトラーとナチズムの登場を「ヴォータンほど、因果仮説としてうまく当てはまる神はいない」のであって経済的、政治的、心理学的に合理的な説明以上に「ナチズムというものをうまく説明している」ともいう(注50)。 そしてヒトラーが神格化されないとしても、ヴォータンという神が存在することを指摘し、ヴォータンをはじめとするゲルマン神話の神々は「疑いもなく心のうちなる激しい力の人格化」であり、しかもこの心の力は無意識に属するために、それが心の内側から生起したものだとは意識されない。「ヴォータンこそドイツの魂の基本的特性であり、非合理的な心の「要素」である(注51)」とし、「ゲルマン気質の根本的所与であり、とりわけドイツ国民の根底をなす特性の真正無雑の表現であり、優るもののない人格化」だとして、ヴォータンを元型だという(注52)。元型とは「あたかも水の枯れた川底のようなもので、どれほど長い年月を経ても、時至れば水はおのずから戻ってきて奔流をなす」ものであって、国家が水路を厳格に管理できる運河だとすると、民族の生命なす元型は人工的に管理することができない「原野の河」のようなものだともいう。国家や国際組織など、あるいは人間の支配を受けることなく、なおかつ人間を支配するもの、「人間という存在をはるかに凌駕する者」、これを「民族の生」だとして、この民族の生は「制御も受けず、導かれることもなく、ただもう無意識にボタ山をころげ落ちる岩塊に似て、よほどの障害でもない限り止まることを知らない(注53)」という。

「〔ヴォータンは〕自律的な心的要因として集団全体に効果を及ぼし、それによっておのれ独自の性情をあざやかに浮び上がらせる。ヴォータンは独自の生物学的原理に従っていて、個々の人間存在とは別物である。個々の人間は折にふれ、この無意識的制約の影響力に抵抗もならず縛られるばかりなのだ。(注54)」

 しかもユングは、「無意識の衝動的情緒面と、直観的霊感的な面とを併せ体現している」ヴォータンは、「一方で狂暴な怒りの神であり、他方ではルーン文字、神秘的前兆の解読者、運命の告知者である(注55)」とも指摘する。

「個人とはちがって群集は、いったん動き出せば人間の統制は及ばない。そしてそのとき元型が働きはじめる。それは個人にあっても、既知のカテゴリーでは片づけられない状況に出会ったときには生ずることなのだ。しかしこの動き出した群集に対して、いわゆる指導者[フューラー](総統)がどんなことをするかは、われわれは、わが国の南でも北でも、これ以上は望めないほどはっきりと見ることができる(注56)」

 私は、ユングの元型がナチスにとって利用可能な理論的枠組みをもっていると思う。ドイツがナチズムの到来を必然的にもたらす民族的に遺伝的な要因をもっていたということをユングが示唆したことは、彼がナチズムに批判的であったとしても、その批判は、ヴォータンを否定することにまでは至っておらず、ただヴォータンが呼び覚まされたことに問題を見いだしているにすぎない。この覚醒は、宗教を廃棄する社会主義運動やマルクス主義がもたらした社会的な危機あるいは民族的危機に対する無意識の抵抗の帰結であるとユングはみなしていたようにも思う。ナチズムを避けられない元型の帰結とすることによって、ナチズムの犯罪をある意味では免罪したともいえる。少なくともは近代法ではヴォータンなる神話の主体を戦争犯罪の主犯として裁くことなどできはしない。逆に、個人にとっては遺伝によって定められた不可抗力であるとなれば、戦争犯罪への免罪の理由さえ構成してしまう。ユングの議論の枠組みでは、ナチズムへの抵抗の可能性を民族としてのドイツ人のなかに見いだすことはできないことにもなる。また、この元型を廃棄することは考えられてもいない。宿命を生き、ヴォータンを蘇えらせるような出来事もまた、人間や集団の意思を超えた出来事とみなされているように思う。
 ナチズムだけでなくファシズム全般にみられる思想や世界観に共通する特徴は、剽窃や転用を通じて、自らの権力の再生産に寄与するようなイデオロギー装置のための原料とする態度だ。こうなるのは、彼らにとって最大の主題が、権力を支えるような大衆的な情動の統合にあり、この目的を達成することが可能なものであれば、あらゆる思想や理論を動員しようとする無節操さにある。

ネクロフィリアとしての資本主義

 ユング同様、フロイトの精神分析から出発したフロムが集団心理に対してとった態度はユングとはかなり対極的だ。フロムは、ライヒが史的唯物論とフロイトの精神分析を総合しようとする試みを高く評価していた。1930年代のフロムもまたほぼライヒ同様、ナチズムへと引き寄せられる大衆意識の謎を解く鍵をフロイトの精神分析に求め、フロイトが中産階級のブルジョワ的な個人主義という限界をもっていたところを、マルクスの資本主義批判によって克服しうるとみていた。

「今日まで、社会問題に対し精神分析を応用しようと試みたおびただしい研究は、分析的社会心理学に寄せられた要請に、ほとんどこたえていない。これらの研究の失敗は、家族の機能を評価することからはじまっている。彼らは、個人が社会的存在としてのみ理解され得ることを十分明瞭に認識していた。彼らはまた、本能の発達に決定的影響を与えるのは、子どもといろいろな家族のメンバーとの関係であることも理解していた。しかし彼らは家族自体の心理的、社会的構造や、その特有の教育目標あるいは情緒的態度が、これを包む総体としての社会的構造、そして(さらに限定されて)階級構造の産物であるという事実は、ほとんど完全に見落していた。いいかえると、家族はその成立基盤である社会および階級の心理的代替物であるという事実を見落としていたのである(注57)」

 こうしてフロムは精神分析の個人心理学を社会関係のなかで再定義する必要性を主張した。家族関係は、それ自身が社会構造の、つまり資本主義の産物であることを理解することなく、個人に対して家族関係が与える重大な心的な影響を正しく理解することはできないと考えた。

「社会心理学の扱う現象は社会―経済的状況に対して、本能の働きが能動的もしくは受動的に適応するプロセスとして理解されねばならないこと。ある程度基本的には、本能の働きそれ自体は生物学的な所与であるが、しかしそれは高度の可塑性をもつこと。これを変容する要因をもとめていくと、結局それは経済条件に帰着すること。家族は経済状況が個人心理を形づくるような影響を及ぼす際の媒体になること。社会心理学の課題は、社会的に意味があって共有される心的態度やイデオロギー――そしてとくにその無意識の底辺――を、経済条件がリビドー的衝動に対し加える影響の問題として説明することである(注58)」

 フロムは『破壊』の第12章「悪性の破壊」のなかでネクロフィリアと技術崇拝との関連に言及している。フロムの技術論はルイス・マンフォードの影響が大きいが、マンフォードが古代エジプトの巨大機械の最終的産物はミイラとなった死体の住む巨大な墓であり、ここに「<文明的>残虐行為の原型(注59)」があるという指摘に示唆されながら、現代の産業社会における機械の破壊性、と力を中心とする〈巨大機械〉について次のように述べている。

「人びと、自然、そして生きている構造を焦点とした関心を窒息させ、それとともに機械的で生命のない人工物にますます引きつけられることである。…妻よりも自分の自動車に対してよりやさしく、より大きな監視を持つ男たちがいる…車に愛称を付けてやる。彼らは車を観察し、ごくささいな機能障害の徴候をも気にする。たしかに車は性の対象ではない――しかしそれは愛の対象である(注60)」

 写真を撮ることは観る行為をカメラに代替させることであり、レコードで音楽を聴くことも機械への置き換えであるといった指摘は決して珍しいものではない。むしろフロムの指摘で興味深いのは「この種の行動が、生命への関心や、人間が与えられている豊かな機能を発揮することの代用となった時には、それはネクロフィラスな性質を帯びるのである」と指摘したところにある。「人工物への関心が生きているものへの関心に取って代わり、技術的な問題を杓子定規で生気のないやり方で扱う人びと」が存在することに問題があり、事実「私たちの時代が非常に多くの例を提供している技術と破壊性との融合の、より直接的な証拠」としてイタリア未来派、ファシストのマリネッティ「未来派宣言」を引用している(注61)。
 フロムは、ネクロフィリアの本質的な要素は、ファシズムを支えたイタリアの未来派宣言にあるように、「スピードと機械の崇拝、襲撃の手段としての詩、戦争の賛美、文化の破壊、女性への憎しみ、生きている力としての機関車や飛行機」であり、「革命的精神の華麗な宣言と、技術の崇拝と、破壊の目的のこの混合こそ、まさにナチズムを特徴づけるものである(注62)」と指摘した。
 技術と破壊性の融合の典型は、「大量殺戮のための飛行機の使用」である。空軍のパイロットたちは「殺すことに関心は持たず、敵をほとんど意識していなかった。彼らの関心は、細心に組み立てられた計画によって定められた方針に沿い、彼らの複雑な機械を正しく扱うことにあった(注63)」。彼らの行為が殺戮になることは観念的にしかわからず感性では捉えることはできなかった。だから罪の意識も希薄になる。こうしてフロムは、「現代の空襲による破壊が従う原理は、現代の技術的生産のそれであって、そこでは労働者も技術者も、彼らの仕事が生み出す製品から完全に疎外されて」おり、労働者たちは「それが有益な製品なのか有害な製品なのかを自問してはならない――それは、経営者が決めるべき問題なのである。しかしながら経営者に関するかぎり、〈有益な〉とはただ〈有利だ〉の意味」である(注64)。際限がない破壊と、無感動破壊が技術化され、自分がしていることへの感情的認識が排除されると「破壊性には際限がなくなる」。さらにフロムは「〈電子技術〉社会の精神をネクロフィラスと判断することには、根拠があるのだろうか(注65)」と将来に向けた示唆的な問いかけをしている。1970年代はじめの著作としては、非常に早い時期にコンピューターとネクロフィリアの関係に気づいていた。現代であれば、コンピューターとポストヒューマンとでも言い換えられるかもしれない主題だろう。そして、フロムにしては極めて珍しくネクロフィリアについて、フロイトの肛門愛やサデイズムの議論を参照している。
 ネクロフィリアは、サディズムでもなければ死の欲動でもない。サディストは他者に対する支配の欲望であって、他者への破壊と自己へのナルシシムズ的な(その意味では自己の死の欲動とは正反対の欲動なのだが)、「すべての生きているものを死んだ物質に変貌させること」「すべてのもの、すべての人間、しばしば自分自身をも破壊することを望む。彼らの的は生命そのものである(注66)」。資本主義におけるネクロフィリアはフロイトが指摘した口唇、肛門、性器といった性格分類のいずれにも該当せず「市場的性格」という新たな性格類型を用いる必要があるとした。市場的性格は、すべてのものが商品に変貌し、交換によって利益を上げることを前提にする。「すべてのものは商品に変貌する―物だけでなく、人間自身、彼の肉体的エネルギー、技能、知識、意見、感情、そしてほほえみまでも(注67)」ということだ。こうした市場経済の物象化的性格や感情労働の議論を超えて、彼はここにネクロフィリアを見いだしたのだ。死の欲動が生の欲動へと転化し、マルクスの言い回しをかりれば、死んだ労働になることを欲望する生きた労働、機械を偏愛し機械になれない自分に絶望して機械と同一化し機械に恋着するような自我の形成である。同一化と恋着が人間としての他者や、この他者を介した理念や観念(宗教の教義や不合理な陰謀論を信じること)へと収斂するのではなく、文字どおりの「物」的なものに同一化、恋着する。「電子技術社会」を代表する当時の議論でもあるサイバネティクスについてフロムは次のように指摘した。

「サイバネティック的人間はあまりにも疎外されているため、自分の肉体を成功するための手段としてのみ体験する。彼の肉体は若々しく健康に見えなければならないのであって、それはパーソナリティ市場における非常に貴重な資産として、ナルシシズム的に体験されるのである(注68)」

 サイバネティックス的人間は感情ではなく頭脳によって方向づけられる。こうした傾向は、「事務員、セールスマン、技術者、医者、経営者、そしてときに、多くの知識人や芸術家たち―実際、都市に住むほとんどの人びと」にまでみられ、「頭脳的=知的アプローチは、感情的反応の欠如と共存」する一方で感情は野生のまま「破壊する情熱となって現われ、また性やスピードや騒音に対する興奮となって現われる(注69)」。そしてフロムは次のように書いている。

「ある特別な種類のナルシシズムで、その対象は彼自身―彼の肉体と技術―である。要するに成功の手段としての彼自身である。唯知的な人間は彼が造った機械の一部になり切っているので、彼の機械もまた、彼自身そうであるように、彼のナルシシズムの対象となる。実際この両者の間には、一種の共棲的関係が存在する。すなわち「一顧の個体が他の個体と(あるいは自己の外部のいかなる他の力とでも)結合した結果、それぞれが自己の全体性を失い、互いに依存し合うようになる。象徴的には、人間の母は自然ではなく機械である(注70)」

 人間がもつ感性的な側面が剥ぎ取られて、物化され、性愛も技術に還元され、愛の機械となる。生きている喜びも娯楽産業が提供する商品に依存する。

「世界は生命のない人工物の総和となる。合成食品から合成器官に至るまで、人間は全面的に、彼が支配すると同時に支配される全体的な機械の一部となる。彼は計画も、人生の目的も持たず、ただ技術の論理の決定によって彼がなさなければならないことをなすだけである。彼は彼の技術的精神の最大の達成の一つとして、ロボットを造ることを熱望している(注71)」

 こうしてフロムはネクロフィリアの性格が核武装、核戦争への傾向に見いだせるだけでなく 「全面的に技術化された生命なき世界は、死と腐敗の世界の別な形にすぎない」と結論する。ほとんどの人が自覚化しえていないこの事態は、フロイトがいう意味での抑圧の結果であって、それがしばしば「死と腐敗に魅せられる気持ち」として表出する。
 フロムは、「機械的――生命のない――肛門愛的」という図式で上記のような傾向を論じるのだが、現代社会の圧倒的多数がフロムがいうような機械に支配された世界を肯定し、機械化=近代化=進歩の幻想にとらわれているとすると、これを肛門愛的とみなすことは妥当ではないと思う。フロイトであれフロムであれ多くの精神分析家は、肛門愛と口唇愛を性器愛と比べて精神的な疾患の原因として指摘する傾向があるが、性器愛こそがむしろ、近代的人間の異常性の根源にあるとみなければ支配的な社会制度それ自体がネクロフィラスな状況に支配されていることの説明がつかない。つまり、正常な性欲動の抑圧のコンプレクス(その典型がエディプスコンプレクスだがコンプレクスはこれに限らない)の過程を経て抑圧と抵抗によってこの機械化の世界が強いるネクロフィラスな欲望による秩序に自らの身体を同一化・恋着し、そのことによってこそ性器愛を基礎として人口の再生産、つまり世代を超えてこのネクロフィラスな秩序を再生産する仕組みを構築しているのではないか。ネクロフィラスは死体となるべき生きた人間を必要とするという逆説を含む残酷な社会である。それこそがこれまでの資本主義を形成してきたのだ。
 ネクロフィラスな秩序こそがバイオフィラスな秩序を規定するということは、マルクスの言い回しでいえば、死んだ労働による生きた労働の支配であり、この支配が労働者の意識をも包み込み、この関係を介して、人間は〈労働力〉となり、この〈労働力〉が商品として物化へと引き寄せられながらも、完全には物化することはできないなかで、資本は〈労働力〉を物とみなすネクロフィラスな欲望によってのみリビードの備給を発動でき、この資本に同一化・恋着するように促すのが、労働者の日常生活をとりまく市場が供給する商品の象徴的な意味作用なのだ。しかし、資本のネクロフィリアは、法人格におけるそれであるという意味で、ミクロの集団心理の構造をもち、市場経済全体のメカニズムは市場経済のマクロな集団心理の構造をもつことになる。のちにみるようにネクロフィリアを皮肉にも生政治と呼びうるような事態がおとずれつつある。フロイトが死の欲動と呼び、戦争の欲望を否定しえないものとみなさざるをえなかった事態が、この残酷さを維持したまま生の欲動を支える可能性に資本が注目しはじめている。

ライヒのマルクス主義とフロイト主義の結合

 フロイトが無意識を「発見」したことによって、存在と意識の全体構造が再構築されなければならなくなる。ファシズムの時代に、この問題に最も真正面から取り組んだのがウィルヘルム・ライヒだった。精神分析の専門家として性格構造分析の重要な業績をあげながら、マルクス主義の方法をフロイトの心理学と統合するなかで、ファシズム批判を展開し、階級意識をめぐる特異な観点を提起した。ライヒは、マルクスがいう人間の存在とは、労働や生産関係だけでなく、人間としての存在総体を含むものであって、そのなかには必然的に人間の性格形成にとって不可欠な幼児期の家族関係も含まれるとみなした。労働者階級に属する者たちは、一方で、マルクスが主要な分析の舞台とした労働者として資本―賃労働関係という階級関係によって規定される意識の部分と、他方で、家族関係に規定される性格形成に基づく意識の部分があり、この二つの意識のずれを抱える存在が労働者個々人の社会的存在としてのありかただとみた。家族関係を媒介にしながら、階級意識に還元できない、伝統や民族的な意識などが形成される。そして、またここにフロイトが強調する性的な欲動によって規定され無意識のなかに抑圧されながら意識に作用する両価的な構造も存在することになる。ライヒは次のように言う。

「現実にそくして云うなら、平均的労働者は、二者択一で割り切れるほど革命的でも保守的でもないという事実を発見できたであろう。むしろかれ労働者は、一つの葛藤状態にある、というべきであろう。なぜならば、一方においてかれの心理構造は、かれのおかれている社会的立場から派生し、それゆえにかれを革命的にする。しかし他方、かれのおかれている権威主義的な社会環境から、かれを保守的にもするからである。こうしてかれの革命的傾向と保守的傾向は、たがいにせめぎあって葛藤状態を形成する。この葛藤状態を理解し、反動的な要素と革命的な要素が、労働者にどんな具体的形式で働いているかを発見するのが、決定的な重要性をもつ。同じことが、もちろん中産階級の成員にもあてはまる(略)。社会―経済理論がどうしても理解できないのは、中産階級の成員がすでに窮乏化の過程をたどっているのに、なぜ革新を怖れ極端な反動に走るのかという事実である。かれもまた、反逆の感情と反動のイデオロギーの相克に悩んでいるのである(注72)」

 労働者は革命的か反動的かという二者択一では割り切れないからこそ、ライヒは、労働者階級を保守的にする権威主義的な社会環境を取り払うことこそが、革命的な条件の形成にとって必須の課題だとみた。労働者階級が抱え込んだ葛藤は、個人的な問題ではなく、「あらゆる社会秩序も秩序の必要とする構造を秩序の成員がつくりだす」のであって、社会の成員でもある労働者がこの秩序にとって必要な構造を作るという関係なくして戦争など可能になるはずがない、とライヒは言う。経済構造と大衆の心理構造の関係は、支配的イデオロギーを論じるだけでは不十分であり、経済構造上の諸矛盾が大衆の心理構造に及ぶメカニズムを論じる必要があるとみたのだ。「可能なかぎり社会の諸条件と性格構造が形成される関係、わけても直接的な社会―経済的説明では不可能な思想、つまり非合理的な思想の把握が先決である(注73)」。ナチズムで、なぜ神秘主義が科学的な社会理論に勝つことになったのかは、こうした視点に立たなければ理解できない。
 ライヒは、この現実に対して主流のマルクス主義が労働者階級の葛藤を軽視し、経済決定論に傾いていることを強く批判した。労働者をこの葛藤から救い出して階級意識に基づく集団として組織化するには、葛藤を生み出す一方の要因、「権威主義的な社会環境」との闘いが不可欠になる。この側面の分析を担うことができるのが階級的な精神分析の役割だと考えた。
 ライヒが主張している観点は、階級という観点を別にすれば、フロイトが「大衆心理」で論じた自我と集団との間の葛藤の枠組みと一面では相通じる。フロイトが集団心理を探るなかで原始群族の心理へと回帰したのに対して、ライヒは、その根源を資本主義内部にあって大衆の性格構造の再生産を担う家族の機能に求めた。私はこの点でライヒの観点を支持する。資本主義的家族関係のなかで形成される性格構造が集団への同一化や恋着の前提にある。とすれば、権威主義的な環境、つまり資本主義的な家族制度から権威主義的な集団への同一化が容易に生まれることが想定できる。
 ライヒは資本主義における家族の位置を次のように述べる。

「家父長制社会における経済状況と性・エネルギー経済状況が、相互に絡み会っている社会制度を研究しなければならない。この制度の研究を抜きにして、性・エネルギー経済や家父長制イデオロギーの把握は不可能である。いかなる時代の民衆の性格構造―たとえば国民性や社会階層といったような―の研究も、社会―経済と性・エネルギー構造の組み合わせが、社会の構造的再生産と等しく、人生の最初の四、五年の内に、権威主義的な家族において発生するという事実を示している。教会だけがこの機能をのちのちまで持続する。こうして権威主義国家は、権威主義家族内に巨大な利益を育てる。つまり家族とは、国家の構造とイデオロギーの原因なのである(注74)」

 ライヒは家族関係に内在する対立を「国家権威の執行機関である両親」とこれに反抗する若者という構図で描いてもいる(注75)。ライヒは、ナチスの青年組織のような反動的な集団へと組織されるのか、あるいはスポーツなどの非政治的なレジャーへと情動が組織化されるのか、それともプロレタリアの解放運動に組織されるのか、つまり若者の自我が同一化と恋着によって方向づけられるとしても、その方向は相互に対立する集団の間の選択として現れるとみている。既存の権威に対する若者の反抗が、客観的な階級によって一義的には決まらず、労働階級の若者だから左翼の運動の担い手へと向かうばずだという仮定を置くことができるほど単純な構造にはない。若たちが求める理想は「自分自身の生活を把握し、この生活を自分自身の意志にしたがって形成すること」であり、こうした理想を目的意識的に追求しうる運動の構築が必要になる。指導者への無条件の服従や国益のために命を捧げるといったことを拒否すること、つまり支配的な組織や指導者への同一化と恋着からの解放を目指す運動だ。これは、集団心理の核心をなすこれらの条件から一旦リビードを引き上げ、自我を客観的な階級構造に沿って再建することであり、そのためには支配的なイデオロギーやまやかしの神話によって自らの内面に形成された超自我、つまり、オイディプス・コンプレクスによって生育期に親との関係を通じて内面に組み込まれて権力の手先となった性道徳の規範をなす自我の一部と闘わなければならない。「社会革命を発展させことができるのは、青年男女の諸必要と諸矛盾だけからである。これらの必要と矛盾の中心に位置しているのは、青年男女の性生活という巨大な問題である(注76)」。こうしてライヒはSex-Polの運動を立ち上げた。
 資本主義が、市場を支配する資本と近代国民国家による統治機構という二つの構造を通じて制度としての再生産を維持しようとするとき、人間それ自体の再生産の基本を資本も国家も直接みずからの組織では担うことはできないという限界を抱え込むことになる。ライヒの前述のような観点、そしてまたフロイトが指摘する個人の性格形成に与える幼児期の性的リビードの構造形成にとって重要な時期を家族に委ねざるをえず、また資本にとっても国家にとっても直接の制御が及ばない場所として抱え込まなければならない。家族関係の場所そのものが資本主義の制度的な限界をなしリスクでもあるからこそ、家父長制によるエディプスコンプレクスを通じた性道徳規範の形成は、権威への従属の性格構造を形成するうえで不可欠の条件をなす(注77)。
 家族が資本主義が家父長制的で権威主義的なものとして制度化されるという場合も、人間の性格構造の形成に対しては制度を通じた形式的な包摂しかなしえなかった。(注78)親に権威主義的な性格形成のための子どもの躾を委ねる以外になかった。これを学校教育が側面から補完し、年齢が上がるにつれて子どもの社会性の醸成のなかで権威主義的な性格を与える外形的な力を行使できるにすぎないともいえた。特に、学校教育は子どもの性的な欲動のありかたを直接制御するためのノウハウをもっていない。いわゆる禁欲的な教育を間接的にほどこすのが精いっぱいということになる。純潔教育はその典型だが、性的欲動はこうした抑圧を容易に回避して学校文化や学校の秩序から逸脱するサブカルチャーのなかで性的な関係の現実を子どもたちは習得する。子どもたちもまた権威主義的で家父長制的な性の秩序を模倣することになる。こうした模倣が可能になるのは、そもそもが、学齢期以前に家族が子どもに対してもつ親と子の関係のなかの性的抑圧の構造によるリビードの配置、あるいは超自我の分化の芽生えである。ライヒは次のように述べている。

「児童における自然な性欲、ことに性器性欲の抑圧は、権威主義的意味で、児童に、不安、内気、従順、権威についての恐怖、「よしとされる行為」、「適応の仕方」を教える。このような抑圧が、権威に反抗しようとする力を麻痺させるのは、いかなる反抗も、権威の挑戦に不安をもたらさずにいないからである。抑圧は、児童における性的好奇心や性的施行の制止により、思考や批判能力の一般的制止を招来する。要するに性的抑圧の目標は、権威主義的秩序の維持にあり、あらゆる貧困と退化の源泉であるにもかかわらず、抑圧に甘んずる人間をつくることにある。まず児童は、権威主義的な国家構造の縮図である家族に適応しなければならない。このことがのちに、普遍的な権威主義的支配体制にかれを隷属させる原因となる。権威主義的な支配構造の形成は、性的な欲求実現の禁止と性的不安で固定される場合に可能となる(注79)」

 ドゥルーズ=ガタリはライヒについて「欲望と社会野との関係という問題を最初に提起したひと」であり、また「唯物論的精神医学の真の創立者」として高く評価する一方で「欲望的生産の概念を十分に形成していなかったので、経済的下部構造そのものの中に欲望が介入すること、また社会的生産の中に欲動が介入することを規定するまでには至らなかった(注80)」と指摘している。ドゥルーズ=ガタリはライヒの問題意識を継承した稀有な立場をとったことは強調しておかなければならない。ライヒが欲望的生産に内在する資本主義批判を展開できなかったのは、マルクスが資本主義批判を商品の使用価値批判として、〈労働力〉再生産過程に踏み込んで展開するところまで至らなかったことに、その理論的淵源がある。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、この欠落を埋めるべくして書かれたものだという点を抜きにして彼らの資本主義批判を論じることはできないだろう。他方で、私は、再度マルクスの商品論における使用価値を再構成するところに立ち戻ってライヒの問題提起をCTCによる支配的構造に繋げたいと考えてきた。ドゥルーズ=ガタリや精神分析、精神医学が資本主義に果たしてきた役割についてはいずれ論じるべきときがくるだろうが、いまは最低限、このことだけを指摘しておきたい。

3-4 資本主義的非合理性

近代における非合理性の位置

 近代合理主義の支配と表裏一体をなして19世紀は近代ロマン主義をも成熟させる時代だった。これは近代合理主義の必然的な陰の同伴者であり、合理主義が取りこぼす人間の情動を捉える役割を果たした。工場の機械による秩序と都市の路上のあたかも「祝祭」であるかのような雑踏を「文化」が制御する。資本主義の歴史は、上部構造領域を土台を担う資本が侵食して土台化する過程であり、文化はもはや上部構造ではなく、文化産業の形成によって土台化する。この延長線上に、情報産業が形成され、これらが現代の資本蓄積の中枢を占めるようになった。この過程は、資本が上部構造領域へと拡張したともいえるから、土台の上部構造化でもあり、以下で述べるように、土台と上部構造の二階建ての構造が相互に融合するようになる、ということだ。この融合の構造は、政府の統治機構へのCTC資本の関与と生活過程への意味使用価値を介した関与という二つの経路をとって進展してきた。
 資本主義最大の問題は、資本の基本的な行動原理である速度と正確性とは本質的に抵触する「人的資源」を憎悪と敵意を隠しながらいかにして籠絡するか、にあった。機械化による〈労働力〉排除はその直接的な表現であり、「消費」過程を資本が供給する商品の使用価値によって編成することによって、生活様式を資本の価値観の枠に抑え込むこと、つまり欲望の形とその充足を資本の循環に組み込む方向で社会の「発展」や「進歩」が企図されてきた。
 しかし同時に、機械と接合する〈労働力〉として資本によってあたかも物であるかのように再構成・処理される人間類型からはみ出す部分に、マルクス主義者や社会主義者が階級意識の可能性が生み出したとすれば、ファシズムや右翼は伝統や太古への回帰を可能にするようなロマン主義の余地を見出そうとした、といえる。その時代に支配的な人格を構成するのは、マルクスが資本主義批判の方法として資本家を資本の人格的表現として扱ったように、支配的な階級を構成する人間集団に基づく集合的な人格である。しかし、マルクスは、資本という人格的な条件を欠いた価値増殖体に基づいていかなる「人格」が構築されるのか、という問題をさして重視しなかった。〈労働力〉商品の担い手としての労働者についても、その人格を人格そのものとしては扱っていない。少なくとも、『資本論』の執筆段階ではそういっていいだろう。
 いつの時代にも共通していることだが、その時代の支配的な意識は、人口の少数者でしかない支配層の集団的な意識によって規定される。また、そうであっても、この支配者の意識に対する抵抗の意識もまた形成されるから、こうした社会内部の複数の相対立する意識の存在をめぐる問題は説明を要する。資本主義の場合、人口の多数が〈労働力〉となるにもかかわらず、少数にすぎないブルジョワジーが身体性の主導権を握り、資本の人格的な表現を代表し、これを労働者階級にも浸透させて、社会総体の意識に定位する。時代の支配的な人間のありかたを情動領域も含めて、社会の規範・典型をなすものとして教化・訓育する制度が構築されることによって、この情動は制度的に、支配者たちに有利に再生産される。資本が供給する商品の使用価値から構成される日常生活の生活様式と、生産過程で資本の指揮監督のもとに従属する〈労働力〉が、労働者の意識を規定し、学校と家族は、こうした制度の中核をなす。しかし、19世紀にあっては、労働者の情動世界、つまり日常生活は、物としての商品の使用価値を通じて間接的に資本の世界に形式的に包摂されるにすぎなかった。労働者が見る世界の風景を、その内面に立ち入って制御する技術は存在しなかった。統治機構からも資本の管理からも相対的に自立した擬似的な「外部」からの眺めとして、資本家が眺める世界とは別の世界が見えていた可能性が大きく、この意味で資本は生活世界総体を包摂することはできなかった。民衆の抵抗は、支配的構造からは容易に理解しえない「世界」をある種の心象風景として共有できるかどうかにかかっている。抵抗の力は、このパラレルワールドから制度の間隙や亀裂を通じて表出する。支配的構造は、このパラレルワールドに楔を打ち込み、世界観の「標準化」を図り、民衆固有の世界を駆逐しようと繰り返し試みる。この過程が歴史的に繰り返され、少数の支配者の意識をあたかも社会の多数者の意識であるかのように束ねて維持するメカニズムが次第に支配の構造に組み込まれるようになる。20世紀の大衆民主主義が労働者階級を統治機構に参画させながらも資本主義の体制を維持しえたのは、数的には圧倒的に多数であるはずの労働者・民衆の意識を資本の世界意識に統合することを可能にする諸前提の成立が必要であって、これが19世紀末から20世紀初頭の資本主義が抱えた問題でもあった。 この構図のなかで資本は、不合理な人間的な側面を資本の秩序に回収するために、伝統主義を味方につけて、これをナショナリズムの支えとしつつ階級意識やジェンダー、エスニシティをめぐる社会的平等への攻撃拠点に据えた。この構造は、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションCTCの時代になって、コンピューターの合理主義を補完する形で、ある種のシリコンバレー・イデオロギーを構成することにもなった。
 20世紀前半の二つの世界戦争とロシア革命から「社会主義」の成立は――「社会主義」そのものの権威主義化、あるいは国家資本主義への退行という問題も含めて――近代合理主義と啓蒙主義の限界と破綻の現れだった。そうであっても資本主義が延命しえたのは合理性に収まりきらない残余としての、あるいは過剰としての人間を支配的構造のなかで制御するメカニズムを獲得してきたからだ。こうして合理主義と啓蒙主義を補完する思想や理論が20世紀の特徴をなすことになる。フロイトが臨床の現場で対応したのはまさにこの問題だった。アダム・スミスが、経済学という学問も存在しなかった時代に、資本主義経済を解明する基本的な枠組みを提起したのとほぼ同じ役割をフロイトは、人間心理の領域でなしとげた。スミスの後にマルクスが登場することによってスミスのパラダイムは止揚されるのだが、フロイトと精神分析の不幸は、こうした意味での止揚を実現することを可能にするような理論をいまだ見いだせていない、というところにある(注81)。しかし、そうであってもフロイトに戻って意識(無意識)の問題を考えておくことは必要な作業だ。この領域こそが支配的構造によって、事実上囲い込みの主要な標的になっていると同時に、行動主義からコンピューターサイエンスの方法では、この目的は達成できないことも間違いないのだから(注82)。
 資本主義における支配的な人格の合理性から逸脱する残余部分は、削除したり切り捨てることができない人間の本質的な部分である。だから資本の人格的な表現のなかにある合理性と非合理性の必然的な矛盾を内包したブルジョワ的な人間は、資本の時代に固有の人格的な矛盾を表出させることになる。これは階級間矛盾というよりも支配階級内矛盾として表出する。フロイトの精神分析は、このような矛盾が問題化した19世紀末以降の人間の心的次元での問題、主に彼の場合には様々な神経症を通じていわゆる正常とみなされている人々の心にも共通した特徴を見いだした。こうしてフロイトは、資本の人格的表現としての人間の心理とはどのようなものなのか、ブルジョワ社会の支配的な人格の再生産と、これを社会の秩序と調整するための心の科学としての側面を解明することになった。のちにみるように、フロイトの限界は、資本主義という歴史的社会のなかで形成される個人の生育を支える家族関係を、資本主義的な家父長制の帰結として理解することができなかった点だ。当時の人類学の業績に依拠したことにその限界があるとはいえ、人類社会に普遍的なものとしての家父長制を与件とする過ちを犯し、同時に、一貫した歴史認識を踏まえることも斥けた(注83)。
 第2章でとりあげた行動主義やプラグマティズムは、CTCを背景として現代の支配的なイデオロギーになっている。人間の行動を操作することへの過剰な関心は、もはや肉体的な人間の行動への関心から心的な情動が人間の言動(言葉と行動)に及ぼす影響へと関心が移動したなかで、イデオロギーはテクノロジーとより有機的に連携しながら、行動制御のメカニズムを構成するようになった。
 無意識を視野に入れたとき、機械化によって意識的な行為の制御が可能になったとしても、それは人間の行動に対する外形的制御にすぎない。資本にとっても国家にとっても人間集団を自らの支配下に置き、これを〈労働力〉として、かつまた国民として構成する場合であっても、「無意識」はこうした試みから確実に漏れる領域になる。支配的経済学が剰余価値や資本の搾取の存在を理解しえない結果として搾取をめぐる問題を、別の「理論」によって代替する以外の解決策を見いだせていないように、無意識という問題もまた、代替的な理論で対処する以外にない領域になる。
 しかし、資本の搾取理論を否定した支配的経済学が資本主義の矛盾を解決できないままでいるように、無意識の存在を無視するか否定し、意識と行為の連関のなかだけで人間を制御の対象として理解しようとする試みが、人間と社会をめぐる理論の主導権を握っている。予測の科学を道具として権力の正統性を大衆に受け入れさせようとする道具的合理主義は、その期待される結果を獲得するために、宗教やこれに類する非合理的な超越者(国家であれ資本であれ、あるいは独裁者であれ王室であれ)を必要としてきた、というのがこれまでの歴史が教えてくれた事実だろう。AIに代表されるコンピューター技術による監視社会が「解決」すべき課題は、このような意味での人間の非合理性をいかにしてアルゴリズムを介してシステムに実質的に包摂しうるかをめぐって展開されてきたということは、当然の歴史的帰結だともいえる。監視社会の争点の核心に無意識の問題があることを、彼らは経験的に理解しはじめている。しかし、彼らには、この課題を解決するための有効なテクノロジーが存在しない。なぜなら、無意識を排除した意識の科学としての心理学と行動科学によって情報科学の基盤を構築してしまったからだ。時計を1世紀巻き戻して、再度フロイトの助けを乞うことはもはやできない(注84)。
 同様の失敗は、20世紀の社会主義でもみられる。マルクス主義にとって、無意識の問題は、階級闘争と無意識の問題、あるいはプロレタリアートの無意識の問題として、資本とは別の次元で格闘を余儀なくされてきた重要な主題だ。しかし、この主題は、スターリン主義のもとでは1930年代には早々と放棄される。他方で西欧マルクス主義、とりわけフランクフルト学派やエルンスト・ブロッホ、あるいはフェリックス・ガタリのような異例の左翼がこの主題に挑戦することになる。たぶん、こうした見取り図は新しいものではないだろう。すでに述べたように、私はこれに、最も果敢にファシズムと対決しながら敗北の途を歩んだウィルヘルム・ライヒの亡霊を呼び覚ましたいと思っている。ライヒを介することによって、家父長制資本主義への批判の一つの可能性が見いだせると思うからだ。そして他方で、もうひとり、たぶんラディカルな左翼にとっては評判が悪いエーリッヒ・フロムにも既に着目してきた。とりわけフロムがフロイトの死の欲動をさらに一歩進めてネクロフィラスな資本主義的人間をバイオフィラスな人間と対置させて「悪性の攻撃」心理のなかで着目したことをマルクスの「死んだ労働」とフェティシズム論を踏まえながら、死体としての機械=資本の位相をコンピューターの再定義に取り入れたいと思う。マルクーゼはたぶんこの座標軸のどこかに位置付けることが可能だし、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で繰り返しライヒに言及しており、学説の系譜学としてフォローすることも可能だが、これは本稿の課題を超える。

資本の無意識の欲動

 資本とは価値増殖を自己目的とした運動体だ。資本にとっての欲望は無限に増殖を繰り返す市場経済的な価値への欲望であり、その現象形態が貨幣で示される量化された富だ。貨幣は、市場に供給されているあらゆる商品に対して一般的等価物として交換の主導権を独占する。貨幣の唯一の限界はその量的限界だから、無限の価値増殖は、この量的限界を無限に突破しようとする果てしない運動であり、理論上、この欲望に上限は存在しない。通俗的に経済の「成長」と呼ばれている事柄が意味するのは、このことでしかない。資本の生産過程、つまり市場に供給される商品の使用価値は、その交換価値のフローに沿って構成される。商品の使用価値は、資本にとっては「他人のための使用価値」、つまり買い手にとっての使用価値であり自らにとっては価値の担い手にすぎない。ところが、市場のやっかいなところは、資本の生産物は商品として市場に供給されるために、買い手=貨幣所有者による購買の意思決定に従属しなければならず、買い手の意思は売り手(資本)にとっては自由にならない。たとえば、賃金を得た労働者が、この貨幣をもって市場に登場したときに、彼は貨幣というオールマイティの札によって売買ゲームのイニシアチブをとる。資本がこの過程を自らの支配下に置くためには、買い手の欲望を支配し、競争相手の他の資本を排除することが必要になる。後者は「独占」として市場の構造に組み込まれ、前者は消費者心理の調査と広告の技法によって大衆心理の操作技術の開発を促した。この過程は、資本の価値増殖欲望によって常に促される。貨幣に収斂される無限の欲望は、欲動の特殊資本主義的な現象形態であり、フロイトはこれを性的欲動の転移の体現とみなした。
 資本の人格的表現としての資本家の場合、本来であれば無意識のなかに抑圧されているはずの欲動が超自我の検閲を受けることなく自我を支配する。資本家の超自我とは、性の欲動を価値増殖欲望として全面的に肯定することにある。つまり超自我は無意識と共謀して自我を資本の価値増殖欲望に同調するように調整する。同時に、この価値増殖欲望を満たすための「生産過程」と市場による社会の解体と統合は、飽くなき破壊の過程としてあらわれる。工業化以降の経済における「生産」とは、不可逆的な自然の破壊による人間社会の維持であり、この側面からみると、ドスタール=マリスが指摘するように死の欲動の体現といえる(注85)。資本のリビードは欲望全体が貨幣的欲望へ、つまり資本の収益や利潤として、社会全体としてみるときには、景気の上昇や好況への肯定的な評価として現象するなかで資本は自らの生の欲動を〈労働力〉を死に追いやろうとする欲動によってのみ実現される。これは、サディズムというよりもむしろ死の欲動の特殊な発現形態、ネクロフィリアの欲動である。労働者の労働とは、この資本の死の欲動と同一化し恋着するように促される。これが資本という組織における集団心理の基本となる。資本主義における労働者は「破壊」の担い手になるのだが、これが創造的な行為として真逆の意味を与えられる。
 資本の価値増殖構造のなかに組み込まれた資本の人格的表現としての資本家にとって、無意識に抑圧されるのは、価値増殖を阻害するような欲動のうごめきだということになる。この抑圧対象となる最大のものが、〈労働力〉の人間的側面への配慮である。労働者は価値増殖体にとっては費用にすぎず、資本の効率性と制御可能性に服すべき存在でしかない。マルクスは、資本によって市場で買い入れられた生産手段を死んだ労働と呼び、資本は生産過程で、死んだ労働としての生産手段を介して生きた労働を支配し、その労働のなかから剰余価値を抽出するのだと指摘した。つまり、資本にとって「生きた労働」は必須の条件だが、資本の無意識の欲動は、この「生きた労働」を生産過程で生産手段と結合して、生産物に対象化された労働として固化し、死んだ労働へと転化させる。商品に対象化された労働は死んだ労働である。この剰余価値の抽出を可能にするには、生きた労働を一旦商品に対象化して死んだ労働として扱い、これを市場で貨幣に転化させることが必要になる。資本家は、死んだ労働による生きた労働への支配や、生きた労働を死んだ労働へと転化する過程としての生産過程に内在する人間に対する資本の否定的な情動を抑圧するだけでなく、これを「創造」的な過程として再定義する。
 労働者が資本ととりむすぶ関係は、労働市場で〈労働力〉の売買としてあらわれるわけだが、これをマルクスは、人と人との関係が商品と商品の関係としてあらわれると述べ、人間は商品、貨幣、資本の人格的表現となると指摘したように、物象化の構造が資本のメカニズムを支配する。死んだ労働による生きた労働の支配は、これにとどまらない。生活手段として販売された商品に対象化された労働もまた、家事労働という生きた労働を支配するだけでなく、この生活手段の消費過程は〈労働力〉再生産過程として、人間の生存を規定する。人は、商品の使用価値の「有用性」としての側面を生活過程に取り込むが、これは単なる生理学的な生存の維持を意味しない。あらゆる生活手段の消費の細部に至るまで、消費過程の人間関係と消費の意味の生成が、つまり、人間の意識の再生産に深く関与する。
 私たちは、私生活であれ労働の現場であれ、そこでの知覚作用の全てを、あたかもビデオカメラが録画する映像のように、どのピクセルも平等な権利をもって記憶しているわけではない。少なくとも記憶に直接表れない膨大な知覚が存在する。労働市場を通じて人間が〈労働力〉となる背景には、市場によっては制御しえていない過程があり、これが労働者の意識形成に影響しこの影響が労働過程に持ち込まれ、資本の指揮監督の影響する。
 労働者が〈労働力〉商品の人格的担い手として形成する意識は、資本家のそれとは対照的だ。資本は労働者の快原則を抑圧し、資本によって規定された現実原則を生きるように強いることになるが、その中核をなすのが労働倫理だ。快原則は消費過程のなかで、上限が定められた貨幣の制約のなかに抑圧される。快楽と禁欲は資本の〈労働力〉支配の従属変数になるから、資本主義は禁欲の道徳と消費の快楽による「豊かな生活」の謳歌との両面をいくばくかずつもちながら、心理的なバランスをとるように強いる。しかし、重要なことは労働者の側に形成されるこれらの情動は、資本の人間嫌い、あるいは機械に対するフェティシュな情動によって規定されているということだ。機械へのフェティスズムをさらに規定しているのは、相対的剰余価値の生産だから、究極においては、資本の価値増殖欲望が全てを支配することになる。資本自らの生の欲動が労働者と自然への死の欲動、つまり破壊欲動として現れる。資本主義に固有なのは、資本の組織で、資本家と労働者の集団の間に形成される同一化と恋着が、資本に対しては快原則の貨幣的なリビードの備給として形成される点にある。そして死の欲動が常にこの一連の過程の隠された資本のモチーフとして底流をなす。

プライバシーと家父長制――集団心理を支えるもの

 前述したプロセスはあまりにも資本の生産過程にとらわれすぎた説明になっているかもしれない。労働者は、資本の生産過程と私生活を日々往還しながら生きる。つまり、〈労働力〉の消費と再生産は一人の人間を〈労働力〉として宿命化する必須のプロセスであり、一体のものだ。だから〈労働力〉の再生産過程――その中核を担うのが家父長制的家族である――についてもみておかなければならない。
 家族はプライバシー領域の中核をなす制度とみなされている。資本主義の支配的構造では個人のプライバシーよりも家族を優先し、男性にその権力を事実上委ねる家父長制プライバシーが事実上のデファクトスタンダードとなってきた。プライバシーが資本と国家からの自由の空間であるというのは、もっぱら男性にだけ当てはまるにすぎないものだった。そして、同時に、このプライバシー空間は、人間の生育の過程で家父長制的な性道徳を内面化させるための場所として、権威主義的パーソナリティ形成を担うことになる。
 性的な欲望とその発現のありかたは、近代社会の個人の権利とされてきたプライバシーの権利が実際には家父長制家族のプライバシーでしかないという特徴と密接に関わる。自分の内面にある欲望が社会の道徳とどのように関わるのかを、子どもの時代に親などから学ぶ。フロイトの理論を前提にすれば、口唇、肛門、性器性欲の多型性が性器性欲へと収斂するように促されること、親との間に形成される近親相姦の欲望が抑圧されて思春期に他者への欲望へと向かうこと、これらは、社会が要求する性道徳の基本的な枠組みに沿って後天的に子ども時代に学習することを通じて超自我として内面化される。しかし、同時に、この性道徳規範から逸脱した欲望は抑圧されるとはいえ消滅することはなく、ことあるごとに超自我の検閲をすりぬけて意識化される。フロイトはこのすりぬけを、夢や言い間違い、冗談や洒落の類いまで、様々な状況のなかにも見いだせるとしたわけだが、同時に、人々にとって重要なことは、この内面に抱えた道徳規範からの逸脱を解放する空間としてのひとりだけの場所、誰からも干渉されない場所が必要だということだ。そうであっても、とくに子どもや若者にとって、家族の空間が文字どおりの意味での監視の目にさらされない自由な空間であるわけではない。家族関係を通じて、子どもたちが生育の過程で学ぶのは、同一化と恋着の情動をどのように発動するか、誰に同一化し、誰に恋着し、自我を誰から引き受け、誰に対してなら自我を放棄してもいいのか、こういった一連の心的装置の作動のありかたを身に付けることになる。
 フロイトの議論を踏まえれば、性的欲望の身体的心理的な多型性と向き合い、そのあからさまで「不道徳」な欲望を肯定することが可能な場所こそがプライバシーが保護すべき場所の核心にあるものであり、これを男性がおおむね独占してきた。ライヒが性的抑圧が権威主義秩序の維持にあることを指摘した場合、性的抑圧のメカニズムは彼が考えていたよりも巧妙だったのだ。プライバシーの空間という性的抑圧の調整構造を通じて、不安、内気、従順、権威への恐怖、よしとされる行為や適応の仕方の学習が、文字どおりの抑圧として感じられない構造をつくることにもなる。ある状況のなかでは、特定の人々には許される「不道徳」があり、これが実は権威主義や道徳を強化する。
 しかし、家族だけがこうしたプライバシーの空間でありかつ権威主義的な心理の再生産の場であるわけではない。フロイトが「文化」の文脈で論じた事柄の多くが多かれ少なかれ、こうした性的欲動と社会の道徳規範との摩擦のなかにある。
 たとえば、ヒトラーが傾倒したワーグナーのなかには典型的な性規範からの逸脱への加担がある。『ニーベルングの指環』の登場人物たちは、近親相姦や不貞ともいえる関係をとりむすぶ。つまり近代社会の契約や規範よりも「愛」を上位に置くような現実原則敗北の美学が描かれる。この登場人物の振る舞いをポルノ映画に仕立てるとかなりハードな「変態家族」の物語になること請け合いだが、むしろ、ワーグナーは左翼の知識人(現代でいえばバディウやジジェクか)を含めて、その物語が聴衆に踏ませる踏み絵、近親相姦の愛(ジークムントとジークリンデの双子の兄妹、彼らの間にジークフリートが生まれる)をとるか、それとも法の掟をとるか、という二者択一を前にして、ほとんど例外なく近親相姦の愛をとるのだ(注86)。
『指環』は法・契約を超越する存在にあからさまに加担する物語だ。これが許容されるのは神話であってリアルな現代の物語ではないからなのだが、ワーグナーが19世紀の作家でありながら、ゲルマンの神話に題材を求めたその動機は、彼が生きた時代のなかにこそその答えがあるはずだということが忘れられがちになる。聴衆による作品への同一化あるいは恋着がもたらす効果がこれだ。劇場という空間やそこで展開される物語がもたらす集団心理の効果は、規範からの逸脱の物語を神話として表現することによって、この逸脱が時代を超越する人間の欲望のありかたをあたかも表現しているかのようにみなされ、そこに法や契約を超越する普遍的な運命が存在するような錯覚を集団的に形成する。これは伝統を背景として成り立つ文化に共通する集団心理形成の特徴でもある。エディプスコンプレクスもそうだが、資本主義の下での家父長制の性規範が人々の無意識へと抑圧した欲動が文化的な虚構の世界で欲動の向かう対象をずらすようにして無意識からの召喚を促すことで支配的な文化が権威主義と共謀する。
 私にとって興味深いのは、日常生活の現実の場面であれば決して許されないであろう規律違反が美しい愛の物語として賞賛されるという現実と虚構の間にある矛盾を、鑑賞者のほとんど誰もが気にもしていないか、あるいは芸術の美学によって一時的に規範を逸脱する快楽に浸ることを誰もが暗黙のうちに肯定していることだ。しかも、近親相姦の肯定という一見すると深刻な事柄を肯定的に受容させるところに物語の力がある。物語は、資本主義的家父長制の性規範からの逸脱を真に受けることなくやりすごすしながら、支配的な性規範の逸脱を現実の事柄としては否定するという二重基準を通じた欲動の弁証法になっている。虚構の世界への同一化と恋着がたくみに無意識の欲動の快原則を飼い馴らす一連の過程になり、現実の性規範との対立が文化の枠組みのなかで止揚される。文化的な虚構におけるその逸脱が現実の家父長制家族の規範と表面的な対立と矛盾をみせながらも実際には、この規範からの逸脱が虚構のなかで昇華されるように仕組まれている。観客たちは、現実の社会におけるタブーの規範を実際に破ることはないばかりか、社会の規範を守るべき立場の者たちもまた率先してこの近親相姦の愛の物語に陶酔する。劇場という公共空間のなかにあっても、聴衆は自らの性の規範を逸脱する快楽と愛の世界を堪能できるのは、そこには心理的なプライバシーの空間を構築できるような人格の構造があるからだ。
 ここには、イデロギーの違いがもたらす集団心理とは異なる別の集団心理が作用している。ワーグナー主義者がヒットラー主義者であるという等式は成り立たず、むしろ多くのワーグナー主義者たちは、ヒトラーがワーグナーに傾倒したことからいかにしてワーグナーを救い出すことができるか、という立場に立つことが少くない。ワーグナーの反ユダヤ主義がその楽劇や著作から明らかだったとしても、感性が理性的な判断に容易には従おうとはしない。同一化と恋着は重層的な構造をもって、人間関係、集団相互の関係のなかで、理性的な判断を凌駕して作用することが決して少くない。だからこそ、権力は、この情動を組織し動員することによって、批判的な理論の攻撃を無化して、非合理な行為を正当化しようとする。権力に抗う側もまた、この同じ誘惑のなかで権力のこの非合理と同じ手法で集団心理を構築しようとする罠に陥るとき、革命は悲劇となる。ライヒが直面したのはこの問題だった。
 同一化と恋着と集団心理の問題の核心が家族制度と不可分であるところから生まれるこうした問題が、プライバシーとその権利をめぐる問題と密接に関わることはこれまで議論されてはこなかった。無意識のなかに抑圧された欲動がプライベートな場所で解除されるのは、睡眠中の夢にその一端が表出しているように、物理的な空間が重要であるだけでなく、たとえ近代の個人生活のなかで普及してきたプライバシー空間が存在しない長い人類の歴史のなかにあっても、人々は、他者によっては覗くことができない私的な場所を心的なメカニズムのなかに確保することによって、超自我や現実原則の抑圧を調整してきたのではないか。近代社会は、さらに、私的な空間(これは土地の私的所有制度、つまり土地の商品化なしには成立しない)が確保されることによって、性をめぐる欲動が発動される構造が、現実原則と快原則の二重構造の矛盾を制度化するように、心的装置と客観的な制度の両方が構築されてきた。プライバシーの権利として主張されてきたことのなかには、性的欲動を構成する具体的な人間関係の日常的な振る舞いが、直接支配的構造の監視の外部にありながら、しかし、家父長制を通じた大人たちによる監視――特殊資本主義的な近親相姦の抑圧と、これに伴う特殊歴史的な無意識の形成――にさらされる構造が構築されたのである。ここでいう「監視」は刑務所のようなものではない。文字どおりの内面の欲動として外部に直接露出することがない欲望から家族内部のプライバシー空間のなかで発現される欲望まで、社会の道徳的法的な規範からの逸脱が制度的に可能でありながらそれが社会全体の規範構造を侵犯しないような歯止め、つまり、個人の内面に抑圧しながらもひそかに発現可能な環境と個人の限られた閉鎖的な空間において他者の干渉が排除された環境がプライバシーの権利の前提をなす。
 この「プライバシー」の主観的・客観的な環境は、20世紀以降、コミュニケーション・テクノロジー(電話からインターネットへ)と精神分析や精神医学を通じて、徐々に脆弱になってきた。私的な言動が外部へと漏出する回路が形成されるにつれて私的な言動や内面の欲動がそのままメッセージとして外部に漏出する可能性が高まり、社会規範や道徳、法と抵触するようになる。この漏出の回路は、コンピューター・コミュニケーションによって形成される非知覚過程によるデータ化されたプライバシーをめぐるフィードバックを通じて「私」の意識の社会との自己調整的な組み替えを含む。プライバシー領域で例外的に開放されていた欲動――その多くは直接・間接に性的な規範を逸脱することによってこそ発動される欲動――もまた漏出することになる。一方に、ある種のワーグナー効果とでもいえるような、情動による社会的な契約や理念からの超越現象が様々な形で表出する。いわゆるSNSにおけるヘイトスピーチや誹謗、フェイクニュースなどがあり、他方に、権力自らが法の支配を逸脱しうる力を行使できるところにこそ権力の権力たる正統性があるのだというカール・シュミットが指摘したような集団的な心理の権力的表現が存在し、この両者がともに資本主義社会を構成する集団としての人間をめぐる本質的な矛盾の二つの現れを構成している。監視社会の問題は、個人であれ集団であれ、無意識をめぐるポリティクス、権力作用がテクノロジーや資本蓄積様式を通じて社会を構成する人々を支配的社会に同一化と恋着によって包摂する問題なのだ。死やネクロファラスな欲望や不道徳とされる性的な欲望が個人の内面に封印しさえすれば資本主義の人権や自由の建前が維持できるといった二重基準を、コンピューター・テクノロジーが破壊してしまった。プライバシーの権利によって監視社会を批判する観点には限界があることはこれまでも指摘されてきたが(注87)、プライバシーのシールドを剥ぎ取られた資本主義的人間の内面にうずまく差別、偏見、憎悪やあるべきではないとされる性的な欲望やフェティシズムを、では、どうすべきなのか。資本主義はその答えをもつことができないのは当然としても、反資本主義からコミュニズムを展望しようという私たちはもまた、まだその答えを出しあぐねているようにみえる。私たちもまた、言葉にしないという道徳律を教育することがせいぜいであり、法による処罰が次の手段となるといった程度のことしかできないように感じている。しかし、権力者たちは、この近代のプライバシーの権利に保護されてきた家父長制家族が生み出してきた悪魔を飼い馴らすことを具体的に考えはじめているように思う。たとえば、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)のような技術への関心が急速に高まっていることにこのことが表われている。人間の心理の内面への直接の物理的介入である。私はこうした手法は失敗するだろうと思っているが、むしろ脳科学をコンピューター・サイエンスとして再構築したがっている政府や軍や研究者たちは、この方向をとることによって一気に監視テクノロジーの限界領域をほぼ無限大にまで拡張できると信じているように思う。

コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションと集合意識形成

 さらに、ここで本論の課題との関連で述べておかなければならないのは、コンピューターを介在させたコミュニケーション(CTC)が支配的な現代にあって、フロイトの集団心理の議論をどのように理解すべきか、というもうひとつの課題である。同一化や恋着は、「私」と人間集団との間のコミュニケーションを通じて形成される。想定されている人間関係は、「私」対集団の間のあくまでも「人間」相互の関係である。この関係のなかに、同一化や恋着の感情が形成される場合に、メディアのプロパガンダが少なからぬ影響を与えることはありうるから、何らかのメディアが介在することはフロイトの時代であれば当然想定されていただろう。しかし、メディアの受け手である「私」がどのようにメディアを受容し、どのような感情を持つに至ったのかを直接知ることはできない。メディアは一方通行でしかないが、人間とのコミュニケーションは双方向的であり、この過程を通じて私の相手に対する認識や印象は修正されながら関係が調整される。会話であればリアルタイムで、手紙であれば時間的な遅延を伴う。学校や職場の管理者と管理される者の間の上下関係は対等な双方向性ではないが、支配‐被支配を含む双方向コミュニケーションを通じて調整される。この意味で人間の相互コミュニケーションはフィードバックを含む。
 CTCは、人間相互のフィードバックとはそのメカニズムを全く異にするが、マスメディアの時代にはなしえなかったフィードバックを折り込むことが可能になった。コンピューター・コミュニケーションでは、相手は、「私」を追跡し、「私」に関するビッグデータも参照しながら「私」をプロファイルし「私」の情動を制御しようとし、これがうまくいかないと判断されれば、制御方法を微調整しながら「私」につきまとうことができる。しかし、こうしたコンピューター・コミュニケーションが及ぼす私の情動に対する影響を「私」はコンピューターによる機械的な作用として自覚するのではなく、対象に対する「私」の純粋かつ率直な印象に基づくものだと直感する。他方で「私」に生起した同一性や恋着は、機械的に操作されフォードバックを通じて制御される隠されたコミュニケーションによって操作可能なものになりうるか、あるいはそうなる方向で技術開発が展開されるようになってきている。人間相互のコミュニケーションに、当事者が知覚しえないコンピューター・コミュニケーションの回路が付随し、これが再帰的に情動の制御を担う。私はこれを非知覚過程と呼ぶ。この非知覚過程を支えているコンピューター・コミュニケーションのネットワーク構造はグローバルで複雑なものであり、私たちが自らの意識や感情あるいは他者との相互コミュニケーションに人為的なメカニズムがこれほどの規模で関与するようなことは人類史のなかで初めての出来事だ。この問題についてはあとの章でより立ち入って検討する。
 集合意識はSNSが形成する諸個人が各自それぞれに形成する人間関係の集合の総和として星雲状に展開され、あたかも中心が不在であるかの印象を与える。そうであっても、多くのフォロワーをもつインフルエンサーたちとそうでない者たち、トピックによる偏り、人種差別的なメッージをめぐる明らかな賛否をめぐるAIによるマッピングが政治的な傾向(リベラルか保守かといった伝統的な分類であっても)と相関する傾向があったりもする。コミュニケーションの前提となる情報発信の手段がほぼ対等である場合であっても、こうした発信の影響力の差は、コンテンツに対する評価の差を表しているとしても、ここには、人々の意識的な評価に加えて、非知覚過程のコンピューター・アルゴリズムによって操作された要素が加味されている。最もわかりやすい例は、トランプ政権を支えた右翼の諸勢力によるCTCの戦略的な活用だろう。トランプに対して有権者たちが抱いた恋着と同一化のあからさまな心情吐露は、ネットならではのことであるというよりも、ネット以前からみられたショービニズムと私的な情動が、ネットという不特定多数と繋がるメディアを得ることによって公然化したものとみるべきだが、こうした集団が構成される背後には、ケンブリッジ・アナリティカがフェイスブックの膨大なデータを解析し、保守的な浮動票にターゲットを絞った選挙メッセージを集中的に発信するというこれまでになかった世論操作技術の結果が含まれている。(注88)つまり、SNSの時代にはそれなりの恋着と同一化の心理を生み出してもいるが、これが純粋に意識されたコミュニケーション過程に基づくとはいえない、ということだ。フロイトが軍隊と教会を例としたことは、国家と宗教への個人の心理的な関わりの問題として理解することができたわけだが、SNSの時代の集団心理は、AIや機械学習などによって構築された非知覚過程を抜きには説明できない。そうであっても、人々は、様々な情報やコミュニケーションを通じて、最終的には「自分の」意志で行動を選択したという実感につなぎとめられるところは変わることはない。同時にコンピューター・テクノロジーが支配的な時代を主導したアメリカのシリコンバレーの企業群には、カリフォルニア・イデオロギーと呼ばれる独特な価値観もまた蔓延した。(注89)いわゆるテック産業のプログラマーや技術職の労働者は、労働者ではなくクリエターなどと呼ばれ、階級意識を押さえ込むような価値観が支配的になる。このイデオロギーに抗してテック産業の労働者たちの運動が、非正規のマージナルな職種(つまり、清掃や食堂などハイテク産業の周辺で不可欠な労働を担っていた移民や女性の労働者たち)から広がりはじめる。数万人規模でGoogleで働く労働者が労働運動の伝統ともいえる職場放棄を敢行するまでになる。シリコンバレーの階級闘争の存在を視野に入れるとき、ケンブリッジアナリティカとFacebookやGoogleが加担してトランプと共謀した非意識過程の問題は、支配的構造をめぐる闘争でもあり、階級闘争の新たな地平を形成することにも繋るということを押さえておく必要がある。
 資本主義的な意味生成の過程は、非知覚過程が構造化されるにつれて、これまで形式的にしか包摂しえなかった個人の言語や象徴に収斂する表現行為にインタラクティブに介入できる道筋を見いだしはじめた。従来のメディアではなしえなかった消費者の能動的な行動、消費者とのインタラクティブな関係、たとえば、寝室やトイレに持ち込まれるスマホやIoT機器によるデータ収集機能は資本主義的な非知覚過程が私たちの身体と接する「端末」になることで可能になるのだが、日常的な行動のリアルタイムによる追跡と解析を通じて、生活世界総体の包摂が可能になってきた端的な表れともいえる。
 この観点からすると、商品の意味使用価値もまた変容することになる。たとえば、掃除ロボット・ルンバであれば、清掃の自動化が直接的使用価値であり意味使用価値もその周辺に形成される。電力会社のスマートメーターももはや電力消費量を測定することが主要な役割とはいえない機能を搭載している。新型コロナウイルス感染症で急速に普及した店舗などの体温センサーには、顔認識機能が搭載されていることも珍しくない。利用者は体温を測定するつもりでも、実は顔生体データまで取得されてしまう。こうした例は他にも随所に見いだすことができる。パソコンやスマホからクラウドと連携する家庭内のAI機器、GoogleアシスタントやAmazonのAlexa、AppleのSiriなどに至るまで、これらの機能は、商品売買を通じた所有権の移転の古典的なモデルはあてはまらない。AIが搭載される結果として、購入して「自分の所有」になったはずの商品が、実は売り手によって買い手の動静を把握するための端末として機能しつづけることが当たり前になってきた。
 消費者に半ば意識されながら完全には理解しえないかもしれない機能がこうして付随するのが非知覚過程が資本や国家によって構造化された現実的なあり方だ。こうして、直接的使用価値や意味使用価値には属さないデータがメーカーのクラウドに送信されて蓄積され、必要に応じて他のデータベースと照合されながら利用されたり、他のメーカーとデータ共有されたりする。消費者の利便性に関わる部分は意味使用価値を形成するが、そうではない部分は積極的には宣伝されずに隠される。「個人情報の取扱」といった文書のなかで言及されることがあったとしてもほとんどの消費者は気づかないかその内容を理解できないままスルーしてしまう。こうして、商品の使用価値は、プライベート空間での消費者の動静そのものを推測するための端末としての機能を担うための表向きの役割を担い、売り手の本当の狙いは、非知覚過程に密かに潜り込むことによって、寝室やトイレを覗くことを介して私たちの意識の内面を探ることにある。構造化された非知覚過程はプライバシーの権利を回避する巧妙な手口だ。
 そしてもうひとつ、私たちのコミュニケーション相手もまた、容易にプライベートな空間に入り込めるようになった。SNSでしか会話したことがなく、会ったことがない誰かと寝室で「会話」することが違和感なく受け入れられることによって、プライベートな会話の場所と不特定多数がアクセス可能な場所での会話の区別が実感として把握しづらくなる
 プライベートな空間では、抑圧された性的欲動が一定程度解放されうるが、プライベートな空間が成り立たない環境であるにもかかわらず、主観的にはプライベートな空間にいるかのように実感される場合、人はこの性的欲動を抑圧する検閲を解除してしまうともいえる。こうした事態が、人間関係にネガティブな影響をもたらすことは容易に推測できる。非知覚過程は、この混乱を把握しデータとして収集しながら、制御の方法を模索する過程になる。いま、ネットで起きている多くのコミュニケーション上の軋轢や炎上は、資本主義が制度として作り出しながらそれを抑圧すべきとした個人の欲動が、抑圧から解除される回路を得た結果ともいえる。
 こうして、私生活に持ち込まれる市場で購入した商品は、プライバシー空間に入り込み、プライバシーで保護されている場所で、人々は自ら能動的にプライバシーの権利を一時棚上げにして不特定多数とのコミュニケーション空間に参入し、資本は、スマホからIOT端末までを駆使してプライベートな場所にいる人々の動静を把握して膨大なデータを蓄積することになる。こうしてプライバシーは空間による保護を失うことになる。そして集団心理は、非知覚過程を通じたフィードバックを通じて消費生活のなかでリアルタイムに繰り返し生成されるモノの意味を通じて制御され調整されるようになる。同一化と恋着は個人と集団の人間関係ではなく、データ化された個人がAIによって制御された仮想的な集団との間で繰り返されるコミュニケーションを通じて形成される(注90)。この過程で、無意識のなかに抑圧されていた資本主義の支配的構造に内在する偏見や差別をはらむネクロフィラスなリビードが検閲をすりぬけてネットワークに放出される。これは支配的構造に内在する二つの矛盾する傾向、普遍的な人権を偽装した価値と身体性の搾取を維持する欲望との間で繰り広げられる支配の弁証法の現象であって、支配的構造を与件とする人権による差別と偏見の押さえ込みは一次的な効果しか生まない。


(1)サリー・サテル、スコット・O・リリエンフェルド、『その<脳科学>にご用心』、柴田裕之訳、紀伊国屋書店、とくに第二章参照。
(2)「地方公共団体におけるPDCAサイクルの質の向上に資する政策(行政)評価参考事例集」富士通総研 https://www.soumu.go.jp/main_content/000536798.pdf
(3)インタビューによって集団のなかの個人の意識や心理を調査する手法はあり、本書の関心との関係でいえば、アドルノらが行なった権威主義的パーソナリティの調査『権威主義的パーソナリティ』(田中義久他訳、青木書店)や、エーロッヒ・フロムの『ワイマールからヒトラーへ 第二次大戦前のドイツの労働者とホワイトカラー』(佐野哲郎、佐野五郎訳 紀伊国屋書店)
(4)コンピューターに無意識は存在するのか、あるいは、コンピューターは人間の無意識を「理解」できるのか、あるいは、コンピューターが解析できない心はそもそも存在しないのではないか…などなど。たぶん、人間が人間として解放された未来の社会を目指そうとするときに、その最後の根拠地となりうる場所があるとすれば、それは無意識と呼ばれてきた場かもしれない。未だコンピューター科学によって囲い込むための方法を見出すことができていないフロンティアでもある。しかし、これまでこの無意識の領野は、合理主義的近代の裏面をなして、近代の正統性を支配者の歴史観に基づいて過去へと繋ぎとめるために利用されてきた非合理性の拠点でもあった。私たちの課題は、まず無意識の領域をファシストや極右から奪回するとともに、これを資本主義的なコンピューター科学による囲い込みから防衛することにある。
(5)無意識をめぐる学説については、アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』、木村敏他訳、弘文堂、参照。
(6)無意識の存在は解剖学的に脳のある組織が担うといったかたちで立証されてはいない。フロイトの局所論や心的な場所の理論は、理論的に構築されたものであって、解剖学的な身体との対応を実証することはできない。これは実証主義からすると、検証不可能な仮説ということになる。フロイトの無意識の重要性は、この検証不可能であることが虚偽や単なる観念論ではなく、科学的な構築物であることを主張した点にある。
(7)Bertell Ollman ‘Introduction’, in Wilhelm Reich, Sex-Pol Essays, 1929-1934. Verso, p. xiii.
(8)『情況』増刊号、W・ライヒ特集 《性の抑圧と革命の論理》、1971。
(9)私が念頭に置いているのは、たとえば、マリー・ランガーらのラテンアメリカの精神分析運動である。Marie Langer, From Vienna to Managua, Journey of a Psychoanalyst, Free Association Books, 1989参照。
(10)しかし、人間がコンピューターによる分析が可能だと誤解することは十分にありうることで、この方が問題としては深刻だ。
(11)誤解なきように、補足するが、「まやかし」や「錯覚」を批判する私が一切の虚偽意識から自由になっているという高みからの批判をしようというわけではなない。「まやかし」「錯覚」への批判が別の「まやかし」「錯覚」をもたらすことはいくらでもある。あるいは人間が言語によって文化的な文脈を理解する枠組を持たざるをえないということのなかに、錯覚をめぐる歴史的に重層的な構造があり、ここから逃れる術を見出すこと自体が、人類前史からの出口を見出すことにも繋るといえるかもしれない。
(12)フロイト「集団心理学と自我分析」『フロイト全集』17巻、岩波書店、132ページ
(13)フロイトの文化等についての著作ではなく、本来の精神分析に関する見解においては、個人の前提をなす集団は、もっぱら家族関係であり、これを越えるものではない。本文で引用した「特定の条件の下では、その人から予想されるのとはまるで違った風に感じ、考え、行為するという驚くべき事実」というフロイトの驚きは、家族関係と個人の枠組によって予想されうる個人の情動や行動を越えた何かがあり、これが個人に影響しているとみているだけでなく、これが晦明されるべき重要な課題だと感じていたことを意味している。
(14)ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』、桜井成夫訳、講談社学術文庫、16ページ
(15)労働取引所連盟については、ジラール/ペルーティエ『ゼネストとは何か?』(1895年) 猿虎日記 http://sarutora.hatenablog.com/entry/20100312/p1 参照。
(16)ル・ボン、前掲書、32ページ
(17)ル・ボン、前掲書、32ページ
(18)フロイトはこうした問題意識を彼がなぜ重視して課題にしようとしたのかをこの論文では明確には述べてはいない。かつて『トーテムとタブー』を書いたときに念頭に置いていのがヴントの『民族心理学』であり、この「集団心理と自我分析」ではル・ボンの『群集心理』であるように、当時注目されていた集団性をめぐる課題についての影響力のある学説への強い関心が背景にあったといえる。
(19)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、174ページ
(20)この集団の構成員が一致して同一化する対象の存在を彼は、人類の過去へと回帰してアルカイックな世界における創造者としての「原父」にその起源を求めようとする。
(21) 付言すれば、このよく知られた枠組では、父、母の子どもへの性的欲望や男性の女性への暴力という問題が意図的に回避されている。子どもへの性的な支配の問題は、アンナ・Oへの分析の試みなど、初期のフロイトでは自覚されていた可能性がある。ジュディス・L・ハーマン、『心的外傷と回復』、中井久夫訳、みすず書房参照。
(22)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、177ページ
(23)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、179ページ
(24)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、184ページ
(25)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、184ページ
(26)エルネスト・ラクラウはポピュリズム分析の出発点にフロイトのこの論文を置いており、組織の指導者形成の論理のなかに、集団構成員に共通する特徴を特に際だた仕方で提示する者が指導者となるとすれば、こうした指導者は専制的でナルシス的とはいえず、また、構成員がこの指導者を承認する関係には、指導者の説明責任が含まれ、ここには、グラムシのヘゲモニー論に通じる、ある種の「民主的な指導力」の可能性があるとみている(『ポピュリズムの理性』、山本圭訳、明石書店、p.90)。ラクラウはフロイトの発生論的な方法も否定するが、むしろ個人のアイデンティティや文化の枠組みを集団との関係で分析するときには発生論的な観点と、これに伴う性的欲動の機制の問題は必須の観点だと思う。この点で、ライヒやドゥルーズ=ガタリの観点を私は支持したい。
(27)ル・ボンは逆に、いわゆる群集心理や暴動などと言われるような一時的に形成される集団を対象にしている。
(28)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、202ページ
(29)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、195ページ
(30)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、195ページ
(31)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、196ページ
(32)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、196ページ
(33)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、198ページ
(34)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、198ページ
(35)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、199ページ
(36)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、200ページ
(37)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、160-1ページ
(38)リヒャルト・ワーグナー『芸術と革命』、岩波文庫参照。
(39)フロイト、前掲「集団心理学と自我分析」、161ページ
(40)フロイトは、プロイセンの軍国主義は、このリビード構造を軽視したために敗北を喫したとも示唆する。戦争神経症の原因が上官による心ない仕打ちを受けたことが原因であるということもその証左だという。
(41)フロイト、前掲「集団心理学と自我分析」、162ページ
(42)エーリッヒ・フロム『破壊』(合本)、作田啓一、佐野哲郎訳、紀伊国屋書店、参照。
(43)正しさと、暴力を手段として選択するかどうかとは別の問題である。権力は力学的な構造をもっているわけではないから、理不尽な暴力に対してとりうる唯一の選択が暴力だということにはならない。権力が政治過程であることの意味がここにある。
(44)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、163-4ページ
(45)フロイト、「集団心理学と自我分析」、前掲書、164ページ
(46)「宗教は、個々それぞれに、われこそが真理の所有者なりと争いあっていますが、私たちから言わせますと、宗教のもつ真理内容など、もとよりまともに扱うだけの価値はありません。宗教とは、私たちが生物学的ならびに心理学的な必然性に従って自らの内に育てあげてきた欲望の世界をもとに、私たちの住まっている感覚世界を制覇しようとするひとつの試みなのです。しかし、宗教にはこれをなし遂げる力はありません。宗教の教義には、それが生まれた時代の刻印、人類の無知な子供時代の刻印がこびりついております。宗教のもたらす慰めは、なんら信頼に値するものではありません。(略)宗教は倫理的要求にアクセントを置こうとしておりますが、倫理的要求というものには、むしろ宗教以外からの根拠づけが必要です。と申しますのも、倫理的要求は人間社会になくてはならないものでして、その要求の元首を宗教的敬虔というものに任せきるのは危険だからです。宗教を人類の発展過程のなかに組み入れて考えれば分りますように、宗教は永続的な不動の罪などではなくて、文化的人間なら誰しも幼年期から成熟してゆく途上で通り抜けなければならない神経症に匹敵する一過性のものにすぎないのです」「宗教的世界観にたいする科学的精神の闘争は完了しておりません。闘いは現在なお私たちの眼の前で進行中です」フロイト『続・精神分析入門』、220-222ページ
(47)ユングをナチスの同伴者として指摘している小俣和一郎『精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー』、講談社現代新書、参照。Andrew Samuels,Jung And Antisemitism,https://sas-space.sas.ac.uk/4412/1/Jung_And_Antisemitism_by_Andrew_Samuels___Institute_of_Historical_Research.pdf も参照。
(48)C.G.ユング『元型論』林道義訳、紀伊国屋書店、11ページ
(49)C.G.ユング、前掲書、11ページ
(50)C.G.ユング 『現在と未来』所収、1936年、26ページ
(51)ユング、前掲書、28ページ
(52)ヒトラーのなかにヴォータン的なものを見出すとしても、それがユングの元型の証になるわけではない。ヒトラーのヴォータンは多分に、ワーグナーから継承したものとみるべきだろう。
(53)ユング、前掲書、34-35ページ
(54)ユング、前掲書、31ページ
(55)ユング、前掲書、33ページ
(56)ユング、前掲書、35ページ
(57)ユング、前掲書、35ページ
(58)フロム、前掲書、191〜192ページ
(59)フロム、前掲『破壊』、550ページ
(60)フロム、前掲書、550ページ
(61)フロム、前掲書、553ページ
(62)フロム、前掲書、556ページ
(63)フロム、前掲書、556ページ
(64)フロム、前掲書、557ページ
(65)フロム、前掲書、559-560ページ
(66)フロム、前掲書、561ページ
(67)フロム、前掲書、562ページ
(68)フロム、前掲書、562ページ
(69)フロム、前掲書、566ページ
(70)フロム、前掲書、567ページ
(71)フロム、前掲書、563ページ
(72)ウィルヘルム・ライヒ『ファシズムと大衆心理』、平田武靖訳、上巻、せりか書房、59ページ
(73)ライヒ、前掲書、61ページ
(74)ライヒ、前掲書、68ページ
(75)ウィルヘルム・ライヒ『階級意識とは何か』、久野収訳、三一新書、44ページ
(76)ライヒ、前掲書51ページ
(77)ただし、権威に従属する性格は性道徳の形成と密接に関わるが、だからといってエディプスコンプレクスを必須の条件とするというわけではない。規範と禁忌は、それぞれの社会に受容されている自由、平等、権利に関する理念がどのように実体化されているのかとの相関関係のなかで、虚構としての文化や民族の伝統なども動員されながら、結果として既存の権威を支える枠組のなかに収まるように設計される。エディプスコンプレクスはいくつかある選択肢のうちの一つにすぎない。
(78)資本主義家族に関する私の考え方はややユニークであるが、ここでは立ち入らない。詳しくは以下を参照のこと。小倉「一夫多妻制としての資本主義家族とラカンの『家族コンプレックス』」「売買春と資本主義的一夫多妻制」「性の商品化」いずれも『絶望のユートピア』桂書房所収。
(79)ライヒ、前掲『階級意識とは何か』、69ページ
(80)ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』、宇野邦一訳、河出文庫、上巻、p.227-8。また同書、下巻、第四章第三節「精神分析と資本主義」も参照。
(81)このように断言することには若干の躊躇がある。後述するように、ライヒはフロイトの精神分析理論を社会主義革命へと媒介しようとした。全く異る文脈だが、マルクーゼも、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』などで目指していたのもフロイトの理論を資本主義批判へと接合するための重要な挑戦だった。マルスクには、スミスだけでなく、通俗的な教科書風の言い回しをすれば、ドイツ観念論、とりわけヘーゲルが、そしてフランスの初期社会主義思想が、マルクス主義の源泉として、つまり総体としての資本主義批判の源泉として必要だったように、まだ幾つもの源泉になりうる可能性のある何ものかが私たちには足りないのだと思う。
(82)マルクスの本源的蓄積の議論を想起する必要がある。資本主義初期の基軸産業であった羊毛工業の原料の調達のために、数世紀にわたる農業の構造変動が引き起こされ、工業原料のための羊毛生産への転換と、これに伴う農業人口のプロレタリア化が生じた。この時代に必要だった〈労働力〉は、主として工場における肉体労働だった。資本が供給する商品を生産するための人的資源がどのような性質をもつものなのかは、資本が生産する商品が何なのかによって変化する。現代の資本主義の場合、人間のデータを「原料」として「採掘」し、これを加工して商品にする。買い手は、商品を売り込みたい生活手段を生産する資本の場合もあれば、選挙運動で有権者の投票行動を操作したいと考えている政治家かもしれない。これまで資本にとっては市場価値を見出せなかった断片的な個人データの欠片が価値化されることになる。こうなることによって、データ領域が市場に統合されることになる。その時代の支配的な資本蓄積様式が必要とされる資源の採掘=搾取の領域を規定することになる。知識、情報、データといった領域が、人間の情動を含む心理的な領域にまで拡張されるところに現代の資本主義の資本蓄積様式に固有の特徴がある。
(83)フロイトはマルクスの歴史認識には「あやしげなヘーゲル哲学の澱が沈殿している」とし、階級闘争史観を否定して歴史とは「いくつもの人間群族のあいだで有史以来戦われてきた闘争にあると見なすのが、習い性になっております。社会的な力の差は、もともとは種族的ないし人種的な差異に由来するものだ、というのが私の昔からの考えです」『続・精神分析入門』、フロイト全集21巻、岩波書店、234ページ
(84)コンピューター・テクノロジーを駆使したニューロサイエンスやブレイン・コンピューター・インターフェース技術(BCI)は、商用利用が拡大されれば、今後急速に発展するだろう。しかしこれらの技術では無意識を把握することは不可能だ。たとえ、言語化されたとしても、カウンセリングの過程で語られた事柄を「分析」することもできない。なぜなら、機械もまたエディプスコンプレクスを経験し、性的な多型性から性器性欲へと収斂する個人史を経験としてもつことがなければ「分析」はできない。資本家が資本家のままで労働者とともに資本と闘うことができないように、機械は機械のままで無意識を抱くことはできない。
(85)G・ドスタール、B.マリス『資本主義と死の欲動』、斎藤日出治訳、藤原書店参照。
(86)掟破りはこでだけでなはない。神ヴォータンは妻がありながら、知恵の神エルダ(エルダもまた夫がいる)などの女神たち、人間の女性などとも関係をもつ。ワーグナーが題材としたゲルマン神話が形成されたのは10世紀前後といわれているが、ほぼ同じ頃日本では『源氏物語』が書かれる。この物語もまた、光源氏が自らの義母、つまり皇后でもある藤壺と関係し子どもまでもうけるという天皇家をめぐる近親相姦が重要なモチーフになっている。 あるいは、マルセル・プルーストが『失なわれた時をもとめて』のひとつのモチーフとした同性愛が、19世紀末から20世紀の貴族やブルジョアの間で、情報の秘匿と共有の鍵となるプライバシーとしてどのように構成されていたのかをみてみる上で参考になる。フェリックス・ガタリ『機械状無意識 スキゾ分析』、高岡幸一訳、法政大学出版局も参照。
(87)デヴィト・ライアンは、監視問題の重要な犠牲者はプライバシーではなさそうだとして、次のように述べている。「プライバシーの問題も無視すべきではありませんが、監視は公平や公正、市民の自由、人権の問題とも結びついています。その理由は、(中略)今日の監視が主に行なっているものが社会的振り分け(social sorting)だからです」(ジグムント・バウマン、デイヴィド・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』伊藤茂訳、青土社、27ページ)
(88) クリストファー・ワイリー『マインドハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』、牧野洋訳、新潮社、ブリタニー・カイザー『告発、フェイスブックを揺がした巨大スキャンダル』、染田屋茂他訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、参照。
(89) the Tech Workers Coalition、”The California Ideology”https://sites.google.com/view/tech-workers-coalition/topics/the-californian-ideology
(90)AIは「人工知能」と訳されるから、本来であればintelligenceあるいは「知能」が、コンピュータ科学や脳神経科学などの分野でどのように定義されているのかを検討しなければならない。しかし専門家の間でも定義は定まっておらず総務省『情報通信白書』(2016年)では、12の定義を列挙している。本書では、人間の知能の一部を代替することを目的として開発されたコンピュータ・プログラムといった漠然とした意味あいで用いている。本書の問題意識は、AIが部分的な代替でしかないにもかかわらず、むしろ人間がAIに人間性を見てしまうというフェティシズムにある。

 

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第39回 『宝塚イズム45』同期特集とポスト上田久美子への期待

薮下哲司(映画・演劇評論家)

『宝塚イズム45――特集 柚香・月城・彩風・礼・真風、同期の固い絆』が完成、順次、全国大型書店の店頭に並びます。今号は宝塚歌劇ならではの“同期生の絆”にテーマを絞り、同期生同士のオフでの結束や舞台で繰り広げる独特の呼吸が生み出す親密さについて、橘涼香さんのタカラジェンヌOGへのアンケートも含めて論じていきます。学校組織の宝塚歌劇だからこそ生まれたテーマではないでしょうか。
 宝塚歌劇はご存じのとおり、宝塚音楽学校に入学後、2年間の研修期間を修了した者だけが入団できる劇団です。宙組が誕生した1998年以降、50人が入学したこともありましたが現在は40人が通例で、たいてい1人か2人が健康上の理由などによって途中でリタイア、ここ数年、2年後の入団時は38、9人といった感じで推移しています。ちなみに今年の初舞台生108期生は38人でした。
 毎年、全国から1,000人近い応募があり、倍率20倍以上の難関ですので、入学したからには卒業までは初志貫徹してほしいとは思うのですが、そのあたりは部外者にはうかがい知れないことがあるようです。音楽学校のカリキュラムを見ると、歌唱(ポピュラー、クラシック)、日舞、ダンス、演劇など実技演習が1週間ぎっしり詰まっていてさすが舞台人育成のための学校の名に恥じません。表現することを学ぶという意味ではこれほど贅沢な学校はなく、舞台人としての基礎を学ぶには申し分のない学校です。
 音楽学校は、中学卒業から高校卒業まで受験できるので、同期生といっても年齢は中卒で15歳、高卒で18歳ですから、年の離れた姉妹くらいの差があり、技量もまちまちなので授業はA、Bの2班に分けておこなわれることが多いようです。
 舞台人としての迅速な判断を養うため、上下関係にことのほか厳しく、学校内での礼儀作法もうるさかったのですが、近年、社会全体のハラスメント抑止の風潮によって、音楽学校の教育方針も以前とはずいぶん変わってきたようです。音楽学校名物だった予科生(1年生)による早朝の校内清掃も3年前から廃止されたと聞いています。
 とはいえ青春真っ只中、2年間の寮生活で培った競争心と友情は生涯続き、同期生から生まれたスターは同期の誇りになって、同期全員のシンボルのような存在になります。特集ではそんな同期愛について、さまざまな論考が集まりました。読んでいると期によって微妙に特徴が異なるのもわかります。これも宝塚歌劇ならではの楽しみ方でしょう。みなさんもぜひ好きな期を見つけて同期生同士の活躍ぶりを楽しんでみてはいかがでしょうか。
『宝塚イズム45』ではほかにもさまざまな特集記事を組んでいますが、6月13日、すべての原稿の締め切り後、雪組の娘役トップスター朝月希和の退団が発表されました。今号では残念ながらこれにはふれることができませんでした。退団公演の『蒼穹の昴』は12月25日が東京公演千秋楽ですから、彼女のこれまでの功績については次号で取り上げたいと思います。朝月は、花組⇒雪組⇒花組⇒雪組と何度も組替えを経験して娘役トップに上り詰めた苦労人。芝居心がある娘役でしたが歌のうまさも格別でした。トップとしての在任期間は比較的短い印象ですが彩風咲奈とのコンビはお互いが信頼しあっている様子がよく伝わって、安定感がありました。退団までまだ2公演残されていますので、しっかりと目に焼き付けておきたいと思います。
 一方、3月末で退団が明らかになった演出家・上田久美子の退団後の初仕事となったスペクタクルリーディング『バイオーム』が6月8日から12日まで東京建物 Brillia HALLで上演されました。上田が書き下ろした脚本を一色隆司が演出。中村勘九郎、麻実れい、花總まり、成河、古川雄大らの実力派俳優による朗読劇で、出演者は植物と人間の2役。植物の目から見た人間社会の理不尽さが面白おかしく描かれた異色の舞台でした。宝塚歌劇での新作を期待していた者にとっては複雑な心境ですが、今後の作家としての上田の再出発を祝福したいと思います。初日の客席は、宝塚ファンというより上田久美子ファンで埋まっていた印象。宝塚はつくづく惜しい人材を手放したといまさらながら悔やまれます。
『宝塚イズム45』はそんなポスト上田久美子の登場を期待して、有望な若手作家たちにもスポットを当てました。『元禄バロックロック』(花組、2021―22年)の谷貴矢をはじめ“宝塚ヌーヴェル・ヴァーグ”と呼ばれる若手作家たちが、100年の伝統を守りながら新たな世界をどう作り上げていくか、今後の宝塚歌劇の担い手になるであろう、デビュー後間もない若手作家陣にエールを送ります。
 ゴールデンウィーク前後に東西で休演が相次ぎ、コロナ禍はまだまだ油断大敵ですが、宝塚歌劇は2024年の『ベルばら』50周年、2025年の大阪・関西万博と大きな節目に向かって邁進していくパワフルさを失っていません。『宝塚イズム』も『46』に向けて準備を整えているところです。ますますのご支援とともにご期待ください。

 

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第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱

[第2章構成]
2-1 デホマク
  ビッグデータ前史
  IBMと網羅的監視
   ・『IBMとホロコースト』の波紋
   ・IBMのグローバルな展開と日本、アジア
   ・IBMとアメリカ軍
   ・日系アメリカ人の強制収容
   ・『IBMとホロコースト』へのIBMの反論
   ・ホレリス・マシーン開発の背景
  制御の構成――社会有機体の細胞としての人間=データ
   ・ホレリスと機械――〈労働力〉の構造
   ・国家による生産過程
   ・革命と抵抗の意味
   ・人口の管理
  法を超越する権力
2-2 行動主義と監視社会のイデオロギー
  意識の否定――J・B・ワトソン
  支配的な価値観を与件とした学問の科学性
  道具的理性――資本主義的理論と実践の統一
  行為と動機――行動主義と刑罰

2-1 デホマク

ビッグデータ前史

「医師は人体を診察し、(略)すべての器官が体全体の利益となるように働いているかどうかを判断します」「われわれ(デホマク)は医師によく似ています。ドイツの体を一つの細胞ごとに解剖するのです。われわれはすべての個人の特徴を(略)小さなカードに記録します。これらは生命を持たないただのカードなどではなく、後になって、1時間に2万5,000枚の割合で特定の特徴に選別されるときに、生きた力となるのです。これらの特徴は人間の体の組織のように分類され、われわれの図表作成機の助けを借りて判定されるのです(注1)」
 これは、1933年頃にアメリカIBMのヨーロッパの子会社ドイッチェ・ホレリス・マシーネン・ゲゼルシャフト(略称デホマク)の創業者ヴィッリー・ハイディンガーがナチス政権時代にナチ党幹部を前におこなった演説の一節である(注2)。この演説でハイディンガーは、ドイツという国家を人間の人体に、人間一人一人をその細胞にみたて、この細胞としての人間の「特徴」を、デホマクは一片のカードに記録できると豪語した。そしてこの膨大な情報を必要に応じて検索したり選別することが技術的に可能な機械(図表作成機=タビュレーティングマシン)がある、とも述べている。実際にここで語ったことが文字どおり実現するまでに10年の歳月が必要だったとしても、こうした技術へのニーズの可能性を、事務機器メーカーが宣伝したこと自体がきわめて重要なことなのだ。
 ハイディンガーの演説以降、IBMは着実にナチス政権の下でビジネスを拡大させていく。そして、IBMが提供する機器がホロコーストを背後で支える情報処理システムの一部となり、ナチス支配下でもIBMは着実に収益を上げる(注3)。このデホマクは、ドイツをはじめ欧州でホレリス・マシンと呼ばれるパンチカード式のデータ処理機械を独占的に販売していた。デホマクにホレリス・マシンを供給していたのが、親会社、アメリカのインターナショナル・ビジネス・マシーンズ、IBMである。パンチカード式の電動の統計データ処理装置は、1880年代にハーマン・ホレリスが開発したためにこの名前がついてる。パンチカードによって情報を制御する仕組みは、もともとは19世紀初めにフランスの発明家ジョセフ・マリー・ジャカールが織機用に、パンチカードでパターンを織る仕組みを発明して、これが自動織機に採用された時代にまで遡る。このパンチカードの仕組みを統計データの処理に応用することを思いついたのが、1880年のアメリカ国勢調査の際に国勢調査局の統計係で働いていたホレリスだ。ホレリスの作表機は1890年のアメリカ国勢調査に利用され、注目されるようになった。ホレリス・マシンは1911年以降、IBMが販売するようになる。ビッグデータはおろか現代の電子計算機=コンピューターも存在しなかった100年以上も昔から、大規模なデータ処理へのニーズは政府にも民間企業にも存在し、だからこそ、このニーズを満たす機械が開発されていた。このコンピューター以前の時代が内包していたビッグデータへの欲望は現代のそれと本質において違いはない。

IBMと網羅的監視

・『IBMとホロコースト』の波紋
 冒頭の引用は、エドウィン・ブラック『IBMとホロコースト』からの再引用なのだが、同書はタイトルからもわかるように、アメリカの企業のIBMがいかにホロコーストに加担していたのかを詳細に調査した最初の本として2001年の出版当時大きな反響を呼んだ。この本でIBMの戦争犯罪に大きな注目が集まった。ドイツ国内と占領地域からユダヤ人を選別して移送、収容、強制労働あるいは「最終解決」と呼ばれるガス室での大量殺戮まで、その一貫したホロコースト・システムは高度なロジスティクスなしには成り立たなかっただろうことは容易に想像できる。ユダヤ人を選別し、集団的に集めて列車に乗せ、収容所まで移送する。収容所では、人員の数を把握し、寝食の最低限の供給や強制労働の配置など複雑なロジスティクスが必要になる。デホマクのホレリス・マシンがこのロジスティクスの要になる人口データの解析や収容所の管理に用いられたという場合、注目すべきなのは、ナチスの強制収容所の設置よりもずっと前に、ユダヤ人、ロマあるいは反体制的な人々、精神障害者などを人口のなかから識別できるシステムが既に存在していた、ということである。人口統計や治安管理から医療制度に至るまで、人々を選別するための統計処理の制度があり、こうした統計の処理が機械化されたのであって、機械化技術が先行していたわけではない。そして機械化によるデータ処理の効率性が向上するにつれて、「人口」の分類はより詳細になり、用途に応じて臨機応変に対応可能な様々なカテゴリーに人口が分解され、このカテゴリー項目もまた効率性に比例して多様化する。社会の「細胞」としての個々の人間は、もはや抽象的な「一人」の人間ではなく、分割可能な複数の個人の集合となる。
 このような個人の扱いが最も残酷な姿をとって実践されたのがナチスの強制収容所だった。このホレリスの機械は、用途によって仕様が異なり、専門的な技術者を必要とし、パンチカードそのものもIBMが独占しした(注4)。ブラックによると、ナチの強制収容所にはほとんどすべて「ホレリス部」があり、用紙の書式、パンチカード、統計機の三部分から成るホレリス・システムは、状況に応じて収容所ごとに異なっていたこと、また、「IBMの機械や継続的な保守点検ービス、パンチカードの供給がなければ、ヒトラーの収容所はあれだけの数をこなすことなど決してできなかったであろう(注5)」と指摘している。
 収容所には、事務処理用のコードが割り振られ、たとえば、アウシュビツは001、ダッハウは003のように3桁で表示される。そして、収容者については、個人別のカードが作成される。ブラックは1943年8月のポーランド出身のユダヤ人収容者のケースを次のように紹介している。400人ほどの集団として収容所に到着した後の様子だ。
「まず彼が労働に耐えられるかどうかを医師が簡単に検査した。彼の身体情報が『収容者内病院索引』の医療記録に書きとめられた。次に詳細な個人情報を記録して囚人登録が完了した。その後、政治部の索引と氏名を照合して特別に残酷な処遇をするべきかどうかがチェックされ、最後に労働配置室の索引にホレリス方式で登録され、特徴的な5桁のホレリス番号、44673が与えられた。この5桁の番号はこのポーランド人商人が一つの仕事から次の仕事へと割り振られるのについて回り、ホレリス・システムが彼の労働配置状況を追跡し、D局第二課に保管されている中央収容者ファイルに報告することになる。オラーエンブルクのSS経済管理本部のD局第二課が全収容所の強制労働の配置を管理していた(注6)」
 強制収容所は単なる大量殺戮のための施設だっただけではなく強制労働の施設でもあり、ホレリスはこうした労働の配置を管理するために活用された。このホレリス番号はのちに、身体に入れ墨として彫られることになる(注7)。そしてまた、ブラックはアウシュビッツのホレリス・システムについて次のようにも述べている。
「アウシュビッツでは、まだ生存している労働者、死亡者、移送者など囚人の情報すべてが収容所のホレリス・システムに絶え間なく打ち込まれた。各地の収容所のホレリス部は毎日の集計を、SS経済管理本部やベルリンにあるその他のオフィスに打電した。絶えず変動し続ける全収容所の人口に全体を監視する、唯一の追跡方法がホレリスであった(注8)」
 このホレリスが管理する番号によって収容者が把握され、これが各収容所の枠を超えてベルリンとオラーエンブルグにある中央ホレリス・データバンクで管理された。この情報はアメリカ本社にも送られていた。まさに番号制度が囚人の集中管理に用いられたわけだ。そして収容所に移送されるユダヤ人を選別する人種統計もまたホレリスのパンチカード・プログラムによって可能になったのだ。

・IBMのグローバルな展開と日本、アジア
 IBMのホレリス・システムはデータ処理の汎用機であり、世界中で販売された。アジアでも販売されており、日本では1923年、日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)がIBMの前身のCTR社からホレリスマシーンを購入したのが最初だとされている(注9)。その後、パンチカード式のデータ処理機器の開発が日本国内でも進められるようになり、国勢調査など国の統計処理にも用いられるようになる。こうした民間資本によるデータ処理の効率性と正確性をめぐる競争のなかで、機械の性能が向上すればそれだけより多くのデータが収集可能になり、より複雑な統計処理を実現することが政府にとっても可能になる。国家の統治の前提となる「事実」の把握と人口に対するコントロールにとって、詳細な人口データが不可欠な条件だという理解もまた一般化してくる。こうして、権力は、法制度と、これを執行する官僚制度だけでなく、人口をコントロールすることを可能にした情報処理技術によってもまたその実質的な支配の力を確保することになる。
 IBMのグローバル展開は1930年代以降急速に進む。ペルー、イタリア、フィリピンなどがその早い時期の進出先になる。ドイツと上海への進出は1933年になる。日本は遅れて37年に子会社ワトソン・ビジネス・マシン・カンパニーが設立される。またIBMは、ナチスが占領することになる東欧諸国ユーゴ、チェコ、ポーランドなどにも進出する。1930年から39年末までの間に、北米に32、ヨーロッパに22、中南米に8、中東・アフリカに5、アジアに5つの子会社を設立している(注10)。IBMの子会デホマクは1945年までにドイツ国内に約300の顧客、2,000台のホレリス型マシンをリースし、従業員は約1万人(約8,000人がベルリン)という大企業になっていた(注11)。IBMの子会社デホマクはナチスの政策に妥協してユダヤ人の従業員を解雇したり、ナチスの政策を受け入れることで企業としての存続の道を選択した。デホマクのCEOはナチ党員でもあるハイディンガーであり、彼とアメリカ親会社トップのワトソンとの不仲はよく知られ、このことが親会社のナチスへの加担の罪を軽減するかのように述べられる場合があるが、私はむしろ、冷徹なビジネス戦略を貫くワトソンは親ナチスのハイディンガーの存在をビジネスにとって有利と判断していたと思う。逆に熱烈なナチ支持者のハイディンガーだったからこそ強制収容所のロジスティクスに深く関与できたし、たぶん積極的に関与しようともしただろう。ナチスのユダヤ人たちに対するホロコースト政策をアメリカのIBM本社が文字どおり知らなかったということのほうが不自然だと思う。この規模の資本が敵国ドイツでも生き延びることができていたことにはそれなりの権力との妥協あるいは癒着があったとみるべきだろう。
 1942年以降、アメリカ企業の枢軸国における経済活動が厳しく制限されるようになった後も、アメリカ企業の資産保護を名目に経済活動は続けられた。日米開戦時、すでに日本にもIBMの代理店があった。ブラックは「敵国領土にある子会社から真珠湾攻撃以後も受け取り続けた、四半期ごとの財務報告書と詳細な月次報告書は、最新の事業展開と競争相手の推移に関する情報を伝えていた(注12)」と書いている。

・IBMとアメリカ軍
 他方で、アメリカ軍もまたホレリス・マシーンを活用していた。アメリカ軍にはIBMの機器を専門に扱う機械記録部隊(Machine Records Units MRU)が設置され、IBMの協力のもとパンチカードの操作に熟達した兵士を育成した。IBM出身の兵士たちは「IBM兵士」と呼ばれて結束も固く、軍の情報収集で特別な任務を担ったとされ、IBM自身もアメリカ軍の戦争プロジェクトとして独自のロジスティクス部門を設立した(注13)。また戦場にも機械記録部隊が同伴していた。爆撃の結果、死傷者、捕虜、避難民、物資などを網羅的に記録する任務にあたったという。
「IBMの機械は戦争を行うためだけに使われたのではなかった。人を追跡するのにも使われたのである。ホレリスを使って徴兵用の何百万人分ものデータが組織化された。枢軸国の捕虜や作戦中行方不明となった連合国軍兵士の名簿はIBMのシステムで作られた。上はジョージ・S・パットン将軍から下は名もない二等兵まで、どんな軍人でも、世界中どこにいてもホレリスに質問を打ち込めば所在がつきとめられた」
「アメリカでIBMの機械が、人を追跡するににこのような並外れた能力を発揮できた重な理由は、こうした機械が1940年の国勢調査で広く使われたことであった。詳細で個人的な質問が多数あった」
 そして、原爆の開発でもIBMの計算機が利用された。1945年5月、原爆を開発していたロスアラモスでは必要な計算作業に遅れがでていた。原爆を完成させるための温度―圧力方程式を解く作業にIBMの計算機が導入される(注14)。
 イギリスでも、ホレリス・マシーンは軍で用いられていた。ブレッチリーパークのGCCS(Government Code and Cypher School)では、ホレリスの機器が一時期駆使されていた(注15)。ここでは、ドイツの暗号エニグマの解読で有名になったアラン・チューリングが暗号解読の仕事に携わっていた場所として、暗号の歴史に残る有名な場所だ(注16)。

・日系アメリカ人の強制収容
 国勢調査などの人口統計を駆使した網羅的な監視技術が真珠湾後の日本人の強制収容所への隔離にも利用された。ブラックは次のように述べている。
「〔真珠湾攻撃から〕24時間以内に、『アメリカ合衆国の日本人人口、その居住地域と財産』という、日系アメリカ人に関する最初の報告書を発表した。次の日には『アメリカ合衆国諸都市における出生地・市民権別日本人人口』を発表した。12月10日には、第三の報告書『太平洋沿岸諸州における性別・出生地・市民権別・郡別の日本人人口』を発表した。国勢調査局はIBMの技術を応用し、1940年の国勢調査に対する回答に基づいて、日系アメリカ人の祖先の人種を追跡したのである(注17)」
 ホレリス・マシンなどパンチカード方式によるデータ処理の機械化は19世紀末には国勢調査に導入されていたから、1940年の国勢調査で人種別国籍別などによる振り分け作業は十分可能だった。こうした国勢調査などの人口統計を前提にして、真珠湾攻撃直後から日系アメリカ人の強制収容が開始される。およそ12万人の日系アメリカ人を収容する施設が建設されるまで、仮の収容所(AC)が建設される。ネルソン=フライシュマンによると、収容所の労務管理と会計について分析した論文のなかで、ACにおいて収容者は家族識別番号を付与され、各家族のメンバー、個人の所有物、医療行為、商品やサービスの取引を識別するためのIDタグを身につけることを求められた。食事、シャワー、トイレ、洗濯施設はすべて共用であり、「個性は日常的に損なわれた」。
 ネルソン=フライシュマンはホレリスのパンチカードに言及し、このカードには年齢、性別、学歴、職業、家族構成、病歴、犯罪歴、「再定住センター」(強制収容所をこのように呼んだ)の所在地、日本での滞在年数や教育内容など日本との関係も記載されていたと指摘している。さらに、収容者の訪問者のリストや背景情報など広範な情報も集められ、アメリカに忠誠を誓う者と拒否する者、日本に帰国させる者、要警戒人物などの振り分けもおこなわれた。こうした作業で「パンチカードのプロジェクトは非常に大掛かりで即効性があったため、WRAはその機能をIBMに外注した」(注18)という。

・『IBMとホロコースト』へのIBMの反論
 ブラックの『IBMとホロコースト』は、あらためて資本と戦争犯罪をめぐる問題に焦点をあてることになり、訴訟(注19)も起こされる一方で、IBMはこの本に対するコメントを公表し、これまで知られてきた事実以上のものはないこと、また、アメリカ本社はホロコーストの事実を知っていたという証拠はなく、戦時中の文書類は廃棄されていると居直った(注20)。他方で、ホロコースト博物館は、ブラックが主張する収容所管理へのホレリス・マシンの全面的な導入という主張を受け入れていない。博物館側の主張は、ユダヤ人の移送と組織的な殺害を支えたロジスティクスのなかでパンチカードのような機械化が果たした役割は部分的であり、多くが手作業による処理に委ねられていたこと、機械化が進んだとしてもそれは連合軍がノルマンディに上陸した戦争末期に限られるとしている(注21)。最近出版された“IBM The Rise and Fall and Reinvention of a Global Icon”でも、著者のジェームズ・W・コルタダはホレリス・マシンの採用は限定的だったという立場だ。さらにコルタダは、IBMのドイツ法人にはナチスへの加担の責任がないとはいえず、またアメリカIBMの創業者ワトソンにも一定程度道義的な責任はあるかもしれないとしながらも、企業が経営を継続していくうえでやむをえない選択という側面もあったことに理解を示す立場をとっている(注22)。コルタダの主張は、現地法人にすべての責任を負わせることでIBMの創業者であり、ある意味で、現代であればマイクロソフトのビル・ゲイツ、Facebookのザッカーバーグにも匹敵する国際的に成功した20世紀のアメリカの経営者ワトソンを免罪しようとするやや客観性に欠けた判断が先行しているようにも思う。
 ブラックの本の内容が正しいとすれば、IBMの欧州子会社がやっていたことは、強制収容所とユダヤ人虐殺関連のデータ処理にとどまらず、ドイツ軍やドイツが占領していたフランスなど他の地域も含めて、総体として軍のロジスティクスを支える事業で収益をあげていたことになる。アンソニー・J・セボックは、対IBM訴訟がもっぱら企業の人権侵害、あるいは人道の罪に焦点をあてていることに対して、それにとどまらずむしろアメリカへの反逆罪にさえ該当するのではないかと述べているのだが、日本企業の戦争責任問題が決着していないのと同様、アメリカ多国籍企業の戦争責任問題も未解決のままなのだ(注23)。
 実は私たちが見落としてはならないのは、ブラックの主張が行き過ぎであって実際にはホロコーストへの加担は部分的なものだという企業寄りの主張をとることが、網羅的監視の技術を軽視する態度に基づくという点に気づかなければならないということだ。最も重要なことは、その技術が現実のものとして実現しえたかどうかではなく、網羅的な監視の技術への明らかな意図や欲望が存在したということのほうである。この欲望を実際に達成しうるだけの技術開発や現実のロジスティクスに組み込むことができなかったことをもってその意図そのものが免罪されるわけではないし、こうした欲望の意味が軽くなるわけでもない。むしろ、実現しえなかった欲望は戦後から現代へのコンピューター・テクノロジーの「進歩」のなかに確実に継承されてきたとみるべきだろう。また、ブラックの主張が正しかったとすれば、今世紀に入るまでIBMの戦争への加担が見過ごされてきたことによって、IBMが体現した網羅的監視と大量殺戮の技術としてのコンピューターという技術開発の側面が戦後も長い間検証されずに継承されてきたということを含意している。こうした欲望は、核テクノロジーからミクロな戦争兵器としてのドローンやサイバー戦争におけるインフラ攻撃まで、形を変えながらもその目的、つまり、権力の政治的価値と資本の経済的価値の不断の増殖という目的のための手段としての役割は、相変わらず不変のまま継承されてきたということを見落としてはならない。

・ホレリス・マシーン開発の背景
 監視社会問題は、コンピューター・テクノロジーが可能にした大量監視の問題として私たちの目の前にそびえたつとしても、コンピューター以前の時代にすでに大量監視テクノロジーへの強烈な欲望があったことは間違いないということをふまえるならば、監視社会を資本主義の歴史的展開のなかに位置づけることは必須の課題となる。しかも、この監視欲望は、ナチスドイツのようなナチズム/ファシズム体制に固有だったのではなく、アメリカでも同様に発現していた。しかも全く同じ技術の基盤だったことにも注目しておく必要がある。制度・権力に対する敵対集団とみなされた人々を選別して監視し、あるいは隔離・収容するために必要な技術への欲望は、その後の技術開発において、コンピューターをこうした目的に利用しようとする普遍性をもった方向づけにつながった。
 日系アメリカ人が突然、アメリカにとって監視対象となったときに、この対象を即座に把握できたのも、そもそもの国勢調査に人種などについての詳細な項目が記載されていたこととともに、必要に応じた効率的な情報処理を可能にするテクノロジーが開発されていたからだ。当時の国勢調査では、調査データに住所の居住者の名前が記されていたから国勢調査から個人を特定することは不可能ではなかった。日本人10人を1つの点(ドット)で表示する人口密度地図が作られた。この手法はオランダでも強制収容所への移送計画で使われていた。ドイツでも同様にユダヤ人を統計上識別できるような制度があらかじめ存在したことが、IBMのデータ処理技術を利用する前提条件だった。ブラックの本ではIBMのナチスへの協力についての真偽に注目が集まりがちだが、私は、機械化の技術が導入されようとされまいと、カテゴリーとしての人種や自国民と外国人の識別によって人口をカテゴリー化しようとする権力の強い意志が19世紀の近代国家形成とともに強化されてきたことのほうが問題の本質としては重要なことだと考えている。
 第二次世界大戦中のIBMの行動は、現代の多国籍企業の行動を理解するうえでも多くの示唆を与えている。国家間の対立・摩擦と資本の投資行動とは一致しないということだ。資本は、利潤最大化を目的として手段を選択するのであり、道義や正義あるいは人道などという観点は、この最終目標の実現のためのレトリックとして利用することが利益に繋がれば利用するというにすぎないものだ。多国籍企業にとっての行動選択の最適解に人権とか人道は優先項目としては存在しない。アメリカの企業だからアメリカの国益に従属した行動をとるとはかぎらない。国益に沿う行動をとりながら、「敵国」でのビジネスをも同時に展開可能な戦略をとる。このような行動パターンは、現代の巨大IT企業にも確実に受け継がれている。それは、市場経済での資本の行動原理が常に最大限利潤の追求という非常にシンプルな基準に従うという性質が資本主義に本質的なものであるからだ。では資本主義における国益はないがしろにされるのかといえばそうではない。国家は政治的権力の最大化を資本の経済活動との相互依存のなかで達成しようとする。政治的権力にとって法的強制力はその重要かつ唯一に近い武器になるが、資本との利害のなかでこの強制力の構造が形成される点を軽視することはできない。
 効率的に目的を達成するうえでの最適な技術の開発あるいは選択においては、技術は目的に従属する。目的を設定するのは権力であり、いかなる理由で権力の目的が設定されたのかという問題は、技術の問題ではない。この意味での目的は、合理性とか理性の領域の問題ではなく、権力の最大化にあるが、最大化とは量的な概念ではなくむしろ政治的権力に収斂する力の概念であり、この力とは、権力がその支配下に置く人間集団―近代であれば「国民」に収斂する集団性―が権力に対して向ける同一性や恋着のような欲動の集団的なエネルギー、リビードの力に由来する。この意味で、技術が指向する目的を規定する文脈は、社会を構成する人々の複数の文化的な価値を背景としながらも、資本と国家の二重権力からなる支配的構造に依存する。

制御の構成――社会有機体の細胞としての人間=データ

・ホレリスと機械――〈労働力〉の構造
 アメリカやドイツに限らず、権力には、一方に排除・収容あるいは「絶滅」、他方に保護、同化、寛容、という両面がある。この権力の意志が要請する目的を実現するうえでの最適な技術が資本主義における効率性と予測可能性(結果の確定性)によって規定されるとき、数値化と分類による制御のための機械の開発とその実現をもたらすことになる。ホロコーストに用いられる技術と同化(規律と訓練)の技術は同じ技術なのだ。
 19世紀末のIBMに代表される事務の機械化は、明確なベクトルをもって展開されることになる。国勢調査に代表される大規模な人口センサスの情報処理は、ホロコーストと同化の技術的な基礎という傾向を端的に示した。国家規模で、しかも、資本の技術によって可能になった国家の技術という構図がはっきりとした姿をとった。
 ホレリス・マシンを開発したハーマン・ホレリスは、イギリス王立統計学会で、1880年の国勢調査まで、人口のうち独身、既婚、未亡人の割合やアメリカ生まれの白人、外国人の白人、有色人種に分類するのが精いっぱいでしかもデータ処理に長年月を必要としていることなどを批判し、これに対して1890年の国勢調査ではホレリス・マシンを用いることによって、より詳細な人口の分類とクロス集計をより短い時間で処理できることになったと発表した。たとえば、地域別、年齢階層別の性別の分布、婚姻の有無、両親がアメリカ生まれなのか、外国人なのか、白人なのか有色人種なのかだけでなく、有色人種についても「黒人、ムラ-ト、クァドゥルーン、オクトルーン(注24)、中国人、日本人、インド人の区別」が可能であり、さらに英語を理解できるかどうかの識字についての状況も区別可能だとした(注25)。
 ホレリスがパンチカード式の統計処理の自動化機械を開発しようとした経緯は、こうした動機を支えるだけの社会的なニーズがあったからだ。国勢調査による人口統計の網羅的な把握の限界は、その処理をすべて人間の手作業に依存しなければならないというところにあった。他方で、国勢調査の目的は単純に人口を数えるというだけではなく、人口の属性を可能な限り詳細に把握することが統治機構にとって重要な関心になりつつあったということを示している。性別や年齢、そしてなによりも人種の人口構成への強い関心は、世代の再生産を家族に委ねる一方で、国家の人口についてのある種のモデルを構築したいという権力の意志の反映でもある。とりわけアメリカでは、大量の移民が流入する時代背景のなかで、外国人であるかどうか、白人であるかどうかという関心は政治的な権利の境界が、国籍と人種によって「国民」のカテゴリーの輪郭を形成することを意味しており、以前から存在したあいまいな「人種」をめぐるカテゴリーが実際に人口統計として分類可能な技術的な条件が与えられることによって、客観性の外観と実体を獲得することになる。この傾向は、19世紀後半以降、ダーウィンやチェーザレ・ロンブローゾのような生物学に基づく人間の研究が社会的な人間類型を基礎づける科学の展開と結びつくことによって、ミシェル・フーコーが「生=政治」と呼ぶ生物学的身体性への支配のテクノロジーが発達することになる。こうした環境が、技術を開発する技術者集団(テクノクラートとのちには呼ばれることになるだろう)の人種的な偏見を正当化し、技術者たちは、人口の人種分類や正常と異常などのカテゴリーを生物学的に特定しうる以上、人間を遺伝や生物学的な特異性に還元して、これを権力の支配に有用な人口のコントロールの参照枠としうるような技術的な適用を試みた。この意味で、白人支配層とその同伴者たちの偏見が技術によってあたかも科学的であるかの装いをとってカテゴリーとして固定化され、構造的な差別を正当化する機能を果たすことになったともいえる。
 この時期に産業界を席巻した科学的管理法(注26)は、労働過程の主導権を資本が握る手法として、作業手順を細分化し、各作業に要する標準的な時間を定め、道具なども標準化して労働者の裁量を可能な限り奪った。労働の細分化に用いられたのが、映画の手法だった。フィルムに収められた人の動きの分析を通じて最適な作業手順を資本が把握して指揮・監督する体系的な技術を通じて、労働者の主体性を最小化する手段となった。労働を細分化する発想と人口を細分化する発想は、いずれも対象を最小単位に細分化することを通じて、対象を効率的に把握し、コントロールすることを可能な対象へと変容させようとする点では、共通する意図をもつものだといえた。細分化された動作であれカテゴリーであれ、これらは標準化のための単位ともなるものだ。いったん標準化されると、作業の標準的なありかた、つまり理想的な作業モデルに身体の動作を適応させる力が生まれる。カテゴリーとして細分化された人種であれ家族であれ、標準化のなかで画一的なモデルが形成され、このモデルに基づいて現実の人間に対する政治的な権力の力が作用するようになる。経済的であれ政治的であれ、それが権力としての力として具体的な諸個人に向けられるためには、その力が向かう対象が明確なカテゴリーとして類別されている必要がある。こうした力とその対象の関係は、それまでは、人と人の関係のなかで、とりわけ法と規範意識がその役割を担っていたが、これに加えて生物学的な人の行為や属性を細分化する科学的な知見や技術によって力の作用点を特定する新たな統治の方法が、法をも凌駕するほどの影響を次第に強められるようになる。20世紀は、この技術と法を相補的に用いる経済的政治的な権力の新たな構成が二度の世界戦争と冷戦、そして対テロ戦争という永続的な戦争状態のなかで発達してきた時代だと総括することもできるだろう。
 ここで再度、〈労働力〉と機械をめぐる資本主義の歴史的な展開の意味を整理しておこう。
 前章で、機械が〈労働力〉としての資本主義的な身体の構成に与えた影響が、工業化から情報化へと展開するなかで、どのような変質と矛盾を抱えることになってきたのかを概観してきた。力学的な世界観を背景にして、これが社会の技術として産業に応用されるような方向をとった資本主義の発展経路には、それなりの資本主義的な合理性があった。つまり、価値増殖体としての資本が最適な投資――利潤の循環を実現するとすれば、時間の効率性(スピードアップ)と結果の予測可能性(不確実性によるコストの最小化)を目指すことになり、人間の〈労働力〉に全面的に依存するよりは、設計図どおりに作動し、改良によって限りなく速度を早めることのできる機械を好む性向がある。とりわけ〈労働力〉は商品化されたとしても、その買い手である資本にとって完全に自由に使用できるわけではない。労働者は〈労働力〉を売る以外に生存の選択肢がない状況に置かれることで「働く」ことを強いられるわけだが、だからといって労働の意味を内面化できるとはかぎらない。ここに労働者の「抵抗」が生み出される社会的な原因があるわけだが、この「抵抗」は、政治的集団的な抵抗だけではなく、労働者たちが伝統的に維持してきた生活様式そのものが資本のリズムに抵触したからでもある。機械化は、マルクスが指摘していたように、大量の〈労働力〉を商品として調達するシステムが直面した労働者による抵抗であり、この抵抗に対する解決の手段が機械化だった。
 19世紀的な機械は、労働者の労働を単純労働化し、次にはこの単純労働を機械に置き換えることによって労働者そのものを排除した。労働者を機械の補助的な位置に置き、いわゆる死んだ労働(機械)による生きた労働(生身の労働者)への支配を通じて、労働者の動作を制御し、生産過程の結果の確定性(予測可能性)を獲得することにあった。20世紀のコンピューターは、生産過程の自動化という側面からすれば、この19世紀の資本主義の基本的な労働者=人間観に基づき、これを高度化したシステムといえる。
 工業化=機械化という社会現象としても見えやすい事態は、それ自身が原因ではない。機械の発明や技術革新が資本主義の発展を促したわけではない。むしろ機械化をもたらす社会的な駆動力は、労働者に対する資本の制御力を確立することなしには最大限利潤を実現できないという階級構造に内在する摩擦と抵抗にあった。フーコーは、監視社会のモデルとしてベンサムのパノプティコンを引き合いに出しながら工場、学校、精神病院、刑務所といった組織に注目したが、工場は学校などの組織と決定的に異なるところがひとつあることにフーコーはあまり注目していない。たしかに学校などは、工場の〈労働力〉が必要とする規律(定時に出社し、労働の休憩を明確に区別し、指示された作業を効率的にこなす能力を発揮するなど)の習得が目指される。しかし、工場を経営する資本にとって〈労働力〉はコストであり、可能であれば機械への置き換えによって排除されるべきものとして扱われており、この点で、資本の対象として労働者への動機は、国家による人口管理とは決定的な違いをなしている。学校、精神病院、刑務所はいずれも、人間そのものを究極的には機械に置き換えて排除することを目的にしているのではなく、収容されている人間を、支配的構造の規範に沿って再構築するか、それが不可能であれば隔離することを目指している。資本の場合、人間の組織編成は、将来的には機械への置き換えを可能にするような見通しのなかで組み立てられる。作業手順が細分化され単純化されるのは、労働者の労力の軽減ではなく機械化への潜在的可能性の意志を背後に秘めた機械への置き換えの予兆である。
 しかし、こうした手法が資本における〈労働力〉制御すべてに適用できるわけではない。とくに、資本の規模が拡大し、管理部門が労働者によって担われるようになり、さらに、商業や金融などの組織では物質的生産を担う工場モデルを適用できない〈労働力〉の組織化を必要とした。いわゆる事務労働、ホワイトカラーの〈労働力〉の組織化である。他方で、近代国家の統治機構の巨大化が法に基づく行政組織を官僚制として整備する方向をとる。
 機械化が生産過程から事務・管理部門へ、そしてさらに国家の行政組織に導入されるとともに、機械化は、思考=意思決定の確定性のための機械となってきた。現代のコンピューターは思考=意思決定そのものを自律的に担う方向へと進み、人間に残された最後の領域とみなされている感情に関わる心的な機能そのものの機械化を関心の射程に入れている。歴史的な傾向をみると、人間の総体としての行動と思考の機械への移転がみられ、またターゲットが工場労働者から、労働者一般へ(とりわけホワイトカラーとサービス労働者へ)、そして、労働者としての人間という限定された属性が取り払われて、多様な属性を担う人間そのものを総体としてターゲットにしようとする方向で監視の技術が「進化」してきた。
 こうした傾向は、資本主義が制度として抱えてきた構造的な矛盾に対する権力の対応のある種の弁証法の過程である。19世紀のイギリスは膨大な都市無産者層という歴史上初めての事態と、フランス革命以降の近代社会の新たな民衆の権利概念を背景に、諸々の社会主義が登場し、資本主義の構造的矛盾は、主に階級闘争として露出してきた。第1章で述べたように労働価値説をめぐるイデオロギー闘争と機械化の導入は、資本に進歩と繁栄の主役の座を与え、機械化を社会の進歩という意味づけを与えることによって、資本主義の正統性を確保しようとするころを通じて、階級闘争の主体となる〈労働力〉を支配的構造から排除するか周辺化しようとする歴史だった。

・国家による生産過程
 もちろんこうした資本と国家――支配的構造――の展開が、現実の資本主義の構造的矛盾そのものの解決を導いたわけではない。むしろ、様々な支配的構造が抱えている問題が、階級闘争の戦場を中心に構築されてきた資本主義批判と擁護という枠組みの外側に漏出する形で徐々に表面化することになる。資本主義は、階級構造の矛盾を抱えながら、その制度内への抑え込みと摩擦の調整のノウハウを蓄積するなかで、階級的な矛盾に対する資本主義の調整機能もまた洗練されるようになる。その核心をなしたのが、資本主義的な生産過程の構造のなかに、資本が担う生産過程に加えて、国家が担う生産過程が形成される。19世紀に起きた工業における労働過程における機械化と労働者の労働の細分化では、こうした資本の生産過程のなかの労働対象と労働生産物は文字どおりの原料と物としての生産物だった。ところが20世紀では、労働対象は物から人へと拡大していく。人が労働対象となることが当たり前の時代が20世紀資本主義のひとつの特徴となる。人を労働対象とする過程は、当初、商業やサービス産業のように、買い手としての人間の意識にはたらきかけて新たな欲望を形成して消費行動を制御しようとする過程として現れるわけだが、国家にとっては、人口という対象に対して、これを政策の遂行によって新たな人口として再構築する過程として国家の統治機構のなかに組み込まれるようになる。人口をカテゴリーに沿って識別し、国家の政策目標にあわせて集団としての人の行動を制御するような技術を通じて、人に対する操作的な力を行使する。教育や医療は、この意味での人間の再構築のための制度となる。普通選挙制度を通じて、議会制度を媒介とした階級的な利害の調整もまた、この観点からみた場合、有権者という「労働対象」に対して、投票行動を制御することを通じて、主権者としての意識を国民と呼ばれる人口を形成する生産過程の一環をなすものだ。物から人へと、操作対象=労働対象が拡張され、労働者の労働もまた、その対象が人であることによって、再帰的に自己を含む人口の再構築に結果するような回路に組み込まれるようになる。ファシズムとニューディールはこの見取り図に基づく二つのバージョンだった。いずれのバージョンも、物だけでなく、人間もまた物と同様に操作可能な対象として処理するにはどのような技術が必要なのかという点に強い関心をもつような社会を形成することになった。

・革命と抵抗の意味
 さて、19世紀の資本主義の矛盾、あるいは階級闘争の主要な舞台が、当時の最先端をいく機械制大工業の労働現場、あるいはまた、機械化と工業化に直接影響される周辺の産業にあったとすれば、このことが逆に構造的矛盾の表出のひとつの限界をなしてもいたといえる。その限界とは、機械化によって工場の秩序に労働者の行為を抑え込むことができたとしても、可能なことは行為の機械への従属にすぎず、労働者の24時間を資本の支配に服させるような制度はなく、労働者の意識そのものを資本主義の支配的なイデオロギーへと転換するための技術は工場の機械には備わってはいない、という限界だ。この限界が20世紀の資本主義的な矛盾をめぐる新たな亀裂を表面化させることになる。階級構造の矛盾は「解決」されたのではなく、暫定的に制度内に封じ込められたにすぎず、常にこの封じ込めの危機という問題が存在した。
 他方で、資本主義の権力は、その支配のターゲットを狭義の労働者あるいは労働現場における対立から総体としての人口を根こそぎ支配的構造の意識に還元しうるような制御へとシフトさせてきた。こうした転換を促した最大の出来事は、第一次世界大戦だったのではないだろうか。階級闘争は、戦争とナショナリズムによって分断され、大衆としての労働者は、国境を超えた階級の連帯と「国民」へと収斂する人口との間を揺れ動くことになる。20世紀の最初の四半世紀は、資本主義にとっては、この矛盾の封じ込めをめぐる試行錯誤の時代でもあり、ロシア革命からドイツやイタリアへと革命の波及をみることにもなった。政治的権力は、国勢調査のような人口を網羅的に把握し分類して監視する技術を獲得しつつあるなかで、労働者の闘争はこれに対抗できる人口戦略を確立することができなかった。

・人口の管理
 労働現場での行為の機械による制御に続いて支配的構造が取り組んだのが、総体としての労働者の言動への監視と、意識そのものの制御という問題だった。つまり、階級意識を無化し、国民意識と資本の意識への同化を可能にするような制度の構築である。資本主義は理念として個人的自由を掲げるが、この意味合いは、18、19世紀の封建制との対抗のなかで主張された個人主義と自由が、市場経済にとって必要な前提であるかぎりで保証されたにすぎず、資本主義は本質的には機械との親和性が優位にたつ人間嫌いの体制である。20世紀になると、社会主義、共産主義あるいは諸々の左翼の主張との対抗という文脈のなかで、市場経済と議会制民主主義が普遍的な意味での自由の唯一の実現形態であるというイデオロギーによってそれ以外の自由の可能性が抑圧されるようになる。同時に、社会の正統性を根拠づけるために過去の歴史的な記憶を(不都合な事実を隠蔽しながら)神話として再構成して、現在の統治の永遠性を根拠づけようとするわけだが、資本主義ではこれが機械と伝統のキマイラの様相を呈するようになる。
 監視社会への関心は、ジョージ・オーウェルの『1984』にみられるように20世紀初頭から一貫した権力の欲望である。監視を合理的な社会の制御として労働者による労働者に対する自発的自律的なプロセスと定義するなら、それは社会主義の計画理念にも組み込みうるものともいえた。「計画」の問題は、マルクスが『資本論』第2巻の再生産表式で論じ、のちにローザ・ルクセンブルクが『資本蓄積論』でアップデートした資本主義の競争や政治的な支配の経験や実感のレイヤーを背後で規定する構造を意識的に抽出することによって、市場経済の「無政府性」や私的所有と生産の社会的性格の矛盾を止揚しうる観点を提示するのだが、そして、そのかぎりでは、ある種の妥当性を一面では有しているのだが、これがコンピューターによる高度な情報処理と結び付く可能性もありうることが期待されて、投入産出分析からサイバネティクスに至る様々な「社会主義的」な試みをもたらす。しかし、いま私たちが注目しなければならないのは、こうした計画的な理性によっては把握しえない人間の側面である。情動とか感情といった概念に還元することもできないものであって、ある意味では合理的な判断や言動をも含みながら、ここに留まりえない領域としての人間の側面である。この側面こそが、20世紀から21世紀にかけて資本主義が主に関心をもって注目し、制御と統制の対象にしようとしてきたものであり、「社会主義」が軽視してきた側面だ。
 こうして合理性と非合理性を不可分一体のものとする人間を総体として制御し統制するためのテクノロジーをめぐる問題が、20世紀資本主義のひとつの焦点となる。この問題は、ジークムント・フロイトの無意識に始まる意識と行動の非合理な側面から文化の領域へと展開する側面、ドイツ、イタリアそして日本のファシズムに特徴的な高度な工業国家を目指すこと(日本の場合であれば高度国防国家と称されたが)と、太古へと回帰するロマン主義的な伝統との奇妙であるが、しかし、現実に実在した構造を支えた社会意識の問題の両面から論じる必要がある。20世紀初頭は、この意味で、文字どおりの意味における意識とイデオロギーを発見したことによって、人間の制御という主題がより複雑性を帯び、困難を呈した。この困難に対して、俗流マルクス主義(そしてスターリン主義)は、ありとあらゆる非物質的な意識をめぐる創造/想像力に固有の世界を観念論として排し、結果として、社会主義の墓穴を掘ることになり、現実を超越するあらゆる試みが、資本主義を前提とする美学の文脈に回収されてしまう。これが20世紀の文化を構成することになる。
 支配的構造の関心の軸は、19世紀から20世紀初頭のバベジ、ユアやテイラー、あるいはヘンリー・フォードが構想した〈労働力〉制御の技術から、拡張しつづけることになる。政治の領域でいえば大衆民主主義を前提とした集団の意識制御の問題であり、経済の領域でいえば「豊かな社会」の消費生活の問題であり、文化の領域でいえば、あらゆるリアリズムに還元できない領域を美学のカテゴリーによって覆い尽くすという問題であり、これらを通じて、資本主義が未来を先取りし、未だ実現しえていない世界を唯一占有することが可能なシステムが資本主義なのだと宣言することによって、コミュニズム――実は擬制のコミュニズムでしかないものなのだが――を凌駕しようとした時代でもある。これが21世紀の資本主義の前提をなす特徴であり、対テロ戦争を通じて21世紀に受け継がれることになる。

法を超越する権力

 ミシェル・フーコーは『性の歴史』第1巻のなかで、近代権力の再定義を論じているが、そのなかで、「人口」を生物学的な人間への制御の技術に着目して論じた。18世紀の権力技術にとって、政治的・経済的な問題として「人口」が捉えられる。ここでいう人口とは「富としての人口」「労働力あるいは労働能力としての人口」であり、トマス・マルサスが提起したような人口増大と富の増加の均衡問題に政府が着目するようになる。政府が管理すべきなのは「人口」としての住民であり、「出生率、罹病率、寿命、妊娠率、健康状態、病気の頻度、食事や住居の形」といった固有の特殊な現象と、固有の変数をもつ人口である。フーコーは「これらの変数は、生に固有の運動と制度に特有の作用との交叉点に位置する」とし、「人口をめぐる経済的・政治的問題の核心に、性があ」るとして、権力が「出生率や結婚年齢を、正当なあるいは不倫に基づく出生を、性的交渉の早熟さや頻度、それを多産にしたり不毛にしたりするやりかた、独身生活や禁忌の作用、避妊法の影響(注27)」といった問題を分析対象にしなければならないことに気づいたという。
 他方でフーコーは、通説とは逆に、19世紀以降の統治形態を法治国家、あるいは法の支配を原則とする国家ではなく、むしろマルクスが見ていたように、「現実の権力は法律的権利の規則には縛られないということ」「法律的権力の体制そのものが、暴力を行使し、それをある人々に有利なように組み込み、一般的な法という外見の下に支配の不均衡と不正義とを機能させる一つのやりかたにすぎないことを示した(注28)」のだが、とはいえこの批判もまた法の支配という規範のなかでなされてきたにすぎない、と述べた。そしてこの法律的権利に縛られない権力メカニズムは次第に、法的な表象に還元しえない様相を呈するようになる。こうした意味での権力とは「人間の生命を、人間を生きた身体として引き受けてきた」ようなものであり、この新しい仕組みでは「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制、つまり国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」であって、「全く異質なもの」である。「我々はすでに数世紀以来、法律的なものが権力をコード化できなくなり、また表象の体系となることもいよいよ少なくなるような型の社会に突入している(注29)」とした。生身の身体を引き受ける権力にとって、必要になるのは、こうした身体を制御できる技術、標準化、統制であって、これらはいずれも公式の国家の枠組みだけでは実現できない異質な権力なのだという。こうして法規範によって権力に一定の枠をはめる(コード化する)こともできなくなり、また法が権力のありかたを明示的に示すことができる力を表現することもできなくなった。
「権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である(注30)」
 フーコーの上記ような主張は、監視社会批判では定番のようにして引用される箇所かもしれない。もともと権力は自ら法の規範によって縛られることを積極的に受け入れるようなものではない。法が国家の権力を一定の枠内に抑え込むための規範としてある場合、前提になっているのは、権力は法を逸脱し、法を超越しようとする本性をもっている、ということだ。だからこそ法による抑え込みが必要になる。しかし、現実に起きていることは、こうした法の縛りをすり抜ける手法を権力が見いだしている、ということだ。国家権力に該当するような大きな権力をフーコーは否定しているのではなく、大きな権力が人口の詳細なカテゴリーを把握して支配しうる統計処理の技術を獲得したことによって、より親密な諸個人の身体性の領域に浸透するきっかけをつかんだということを指摘したのだと私は解釈している。法の限界は、人口に対する規範、コントロールにおける技術の優位性によって明らかになる。法は張り子の虎にすぎないのだが、民衆に対してはあたかも法に権力を抑制できる万能の力があるかのように思わせることによって、権力の行使の核心にあたる構造が巧妙に隠蔽される。民衆の運動が立法化と議会制民主主義に焦点を合わせることによって、権力の核心への攻撃を逸らされる。この隠蔽に加担するのが、法律学や政治学といった学問が掲げる国家と法の理念に基づく理論である。現実の資本主義権力は、それがいかに腐敗し暴力的であり法を逸脱していようとも、法の支配のもとで理想的に機能しうるような本質をもっているはずだ、という空想を科学的に粉飾するために、こうした学問を信じる民衆に不可能な幻想を与える役割を担うことになる。マルクスは、権力には現実の権力以外の理想的な権力がどこかに存在するなどということは論じてはおらず、だからこそ現実の権力を倒すことだけが、抑圧からの解放の唯一の道だとしたのだが、学問や科学はこのような実践的な選択肢を無化し、かつて宗教と形而上学が果たした観照的な態度を資本主義のなかで引き受けることになるのである。
 フーコーはこうした議論を通じて権力の再定義を試みるが、優生学や生理学から精神医学にいたる身体をめぐる知の秩序の再構築を性を中心において論じた。フーコーの観点は監視社会批判にとって重要なのだが、人口に対する権力の法ならぬ技術と性をめぐる秩序に対するコントロールに不可欠な親密な人間関係に対する権力による直接的な包摂、言い換えれば性的な身体に対する権力による実質的な包摂を可能にする技術について、フーコーは必ずしも十分な議論を展開していない。フーコーの観点を別の言葉で言い換えるとすると、権力はいかにしてプライバシーの権利という法の表象の背後でコントロールの力を獲得したのか、である。フロイトのように人間の身体性を性的な欲望の多型的な構成として描く。性器に収斂する異性間の性的な欲望はその単なるひとつにすぎず、誰であれこのような性的欲望には還元できない部分をむしろ多様な形で抱えている。これを、資本主義の性の秩序に成形する世代的あるいは制度的な枠組みの中核をになう家族関係のなかの性的な関係であれ、その外にある性的な関係であれ、この関係を直接コントロールする技術を権力が持ちえるようになったのはつい最近になってからだ。プライバシーは法的に保護されているという以前に、そもそも権力は(ここでいっているのは大きな権力、国家の権力や資本の権力のことだが)性的関係を直接コントロールするメカニズムを開発できていなかった。法による規範化は外形的であり、道徳や倫理もまた、それが人々に内面化されてひとつのコードとして行動に結果するかどうかは、実は曖昧なままだ。つまり、人がいつ誰とどのようなセックスをしたのか、あるいは人がいつどのような性的な空想に導かれてマスターベーションをしたのか、といったことをほぼ知りうる技術は存在しなかった。だから、このようなプライベートな行為をめぐる間接的なコントロールの技術に多くの関心が寄せられた。プライバシーの権利は、法によって保護されたとしても、その実態は法そのものというよりも物理的な環境(空間)への法の保護による。しかし、その実態は、私有財産制度による私的空間への排他的権利をもっぱら男性が獲得する家父長制の正当化だった。現代の監視社会は、このプライバシーの空間を解体し、支配的構造に組み込む技術的な条件を通じて展開されることになる。

2-2 行動主義と監視社会のイデオロギー

 統計データとして数量化された人口を基にした人口への制御の技術は、人間をデータ化可能な存在として把握することを意味するだけでなく、こうして把握された人間こそが人間の本質部分であるという確信が共有されることによって、制御の正当性もまた担保されることになる。しかし哲学であれ宗教であれ、外形的に観察可能な人間の背後に、何か隠された人間の本質のようなものが存在するといった考え方が人間観を支配してきたとすると、こうした考え方を保持するかぎりで、観察可能でデータ化され数値化された人間をいくら詳細なカテゴリーの網の目で捉えたとしても、人間をその本質において理解することには到達しないことになる。
 ホレリス・マシンのような大量の人口データを解析することを通じて人間を把握して、制御するという方法が、人間を理解するうえでの思想的・理論的な妥当性をもつものだというお墨付きを与えたのが、プラグマティズムや行動主義の心理学といった人間観だったといっていいだろう。データによっては証明しえない現象や行動の背後にあるなにものかの存在を否定する思想は、政治と経済の実務の世界を支えただけでなく、自然科学者たちの人間観にも影響を与えた。こうした人間観なくして、コンピューターを大砲の弾道計算や物理的な自然現象の解析だけでなく人間そのものの分析に適用しようとする動機は社会的な合意を得られなかったにちがいない。

意識の否定――J・B・ワトソン

 人間とはどのような存在なのかという問いが生物学的な人間に還元できない理由は、意識や心理といった概念で論じられてきた人間の非生物学的な側面にある。この意識と呼ばれる領域は、上述したようにデータ化の対象にすることがきわめて困難な領域でもある。しかし、この意識を対象として科学的な理解によってその謎を解き明かそうとする学問が19世紀から20世紀にかけて急速に発展してくる。これが心理学や精神医学といった分野であり、さらに精神分析がこれに加わる。他方で、こうした傾向と真っ向から対立する考え方もまた登場する。それが行動主義と呼ばれる心理学の考え方だ。行動主義は、人間をデータとして処理することによって人間の本質を理解可能だとする学問的妥当性のお墨付きを与えた。アラン・チューリングが数学の世界で構想したことがのちにコンピューターとして具体化したように、行動主義の構想もまたコンピューターの開発によって具体化された。言い換えれば、行動主義は、監視社会を正当化する人間解析に理論的かつイデオロギー的な根拠を与えた。以下では、行動主義の創始者とも目されるJ・B・ワトソンの『行動主義の心理学』を取り上げてCTCのイデオロギーともいえる側面を考えてみたい。
 行動主義は、この語に体現されているように、人間の心理とは人間の行動を意味するものであって、「意識というものは、明確な概念でもない」「意識というものがある、という信仰は、迷信と魔術のあの大昔に生まれたものだ(注31)」と主張する。
 ワトソンが率直に「行動主義者は、物理学者が自然現象を支配し、操作するように、人間の行動を支配したい。人間の活動を予言し、支配することは、行動主義心理学の仕事である(注32)」と述べているように、行動主義の目標は人間の行動を支配して将来の行動を予測可能なものとすることにある。人間の行動を支配したり予測できるということは、人間の行動が本能のようにあらかじめ生得的に獲得された条件によって縛られることはなく、他者によって操作可能だということを意味するから、本能という概念も否定する。本能と呼ばれてきたものは、実は訓練の結果であり学習行動として理解できるとする。また「われわれは、能力、才能、気質、体質、性格の遺伝のようなものはない(注33)」とする。
 同様にワトソンは、「記憶」という概念も用いない。以前出合った状態に再度出合ったときに同様の反応を示したりする行動は、記憶によるのではなく、学習と習慣形成に基づくとする。幼児期がこの習慣形成の時期ということになる。つまり、パブロフの条件反射の考え方に通底するが、人間は、行動を改善するように促す刺激を受けることによって、行動の改善を学習する。しかし、この刺激に慣れると学習効果が薄れる。この効果低減をどのように克服して改善を継続させるのかはビジネスでも「重要な問題の一つ」と指摘する。そして行動の「意味」を求めること自体も否定する。なぜならば「意味という言葉は、哲学と内観心理学から借りられた歴史的な言葉である。それには科学的な含蓄がない」からであり、したがって「行動主義者の前提は、意味についての命題を含んでいない(注34)」のであり、また意味という概念を必要としないという。私は、資本主義における意味の剥奪こそが身体性の搾取に核心にあるとみなすのだが、ワトソンは逆に、そもそも意味それ自体を認めないことによって、この意味の剥奪を正当化したともいえる。
「われわれが、あらゆる形の個体の行動の発生を理解し、その機構の多様性を知り、この機構の一つをよび起す種々の状況を整理したり、操作できるとき、われわれはもはや意味のようなことを必要としない。意味というのは、個体が今何を行っているのか、を教える一つの方法にすぎない(注35)」
「われわれ」が対象となる「個体」を操作できればいいのであって、意味は不要だというのは、対象とされる個人に対して行為の意味づけによって行為を促す動機づけを与えるという方法をとらない、ということである。つまり、人間が行為の意味を自ら理解し、納得することを通じて行為を実現するという道筋をとらず、いかなる動機や意味づけを個人が抱いてもよく、結果として、その行為を通じて「われわれ」が計画した目的が達成されればいいのであって、こうした意味での目的を達成できるような合理的な道筋を立てることが科学の任務だというわけである。「われわれ」とはもちろん、われわれのことではなく、資本や国家といった「彼ら」であり、常に目的は、彼らが私たちに与えるものとしてしか想定されない。
 意味と行為のこの分離は、私が第1章で述べたように、資本主義における身体性の搾取からみたとき、意味の剥奪を正当化する「科学」としての役割を果たすことになる。つまり、意味を、人間の行為にとって不可欠な条件から排除することによって、人間の行為は、その人間に対して支配的な力を行使しうる者が操作するものとなることが最も最適な人間のありかただということになる。ただし、ワトソンは意味の真空状態を肯定したのではなく、意味を与件とした。その与件とは、資本主義の支配的なイデオロギーや倫理を定数として変化や変更可能なものとはせず、それ自体を習慣の体系に組み込んだものだ。そのうえで行動主義が関わる個人の行動を操作しようというわけだ。
 行為の意味を与件とすることはできないし、間違ってもいる。行為の意味をめぐる社会意識の対立――資本のための勤労倫理か労働者の権利を獲得するための階級意識か――の現実をふまえれば意味は与件にはなりえない。
 ワトソンは人間を「組み立てられた有機的な機械」とみなして、次のような観点から人間を操作可能な存在として考察する。
「一個人のパーソナリティ――彼が何の役に立つか、立たないか、また何が彼の役に立たないか――を研究するさいには、われわれは、彼が日常の複雑な活動をしているとき、彼を観察しなけでばならない。この瞬間や、あの瞬間ではなく、毎週毎週、毎年毎年、努力しているときも、誘惑されているときも、金持ちなときも、貧乏なときも、観察しなければならない。いいかえると、一個人のパーソナリティ、すなわち「正札」をつけるためには、店に招き入れ、できるかぎりの検査をしなければならない。そうすると、ついにわれわれは、彼はどういう種類の人間か――どういう種類の有機的な機械か――がわかるようになる(注36)」
 こうして「どういう人間機械が役に立つのかを述べ、その未来の能力について、社会が知りたいときはいつでも、役に立つ予言をすることが、行動主義者の科学的な仕事の一つである(注37)」というわけだ。では具体的にどのようにして人間機械を操作可能で将来に向けて学習効果をもたらすように解析しようとするのだろうか。彼は、個人の行動を生まれてから24歳まで詳細に観察してデータ化でき「あなたがすることができるあらゆることに対する習慣曲線」がプロットされているとする。図1にあるように人間の誕生から5歳までの生育過程を、生理的な身体のはたらきから喜怒哀楽の感情表現に至るまで多様な「活動の系統」を詳細にプロットできるという仮説をたてる。さらにこの仮説を成人年齢まで延長したものが図2になる。

図1
図2

 個人のパーソナリティを構成する様々な「体系」がここでは例示されている。たとえば、靴職人として仕事をしている24歳の若者の場合であれば、靴作りの習慣の体系、宗教的な習慣の体系、愛国的な習慣の体系、結婚生活の習慣の体系などなどである。「この図の中心的な考え方は、パーソナリティは優勢な習慣の体系からできているということである」とし、例示はそのごく限られたものだけを示しているにすぎず実際には何千という習慣の体系があるという。
「あなたはすでに、夫婦の習慣の体系、両親の体系、大勢のまえでしゃべる体系、深淵な思想家の思想の体系、恐れの体系、愛の体系、怒りの体系のような、たくさんの体系にている。これらのすべてはもちろん広い一般的な分類だが、非常にたくさんの小さい体系に分解されるはずである。しかしこのような分類でさえ、われわれが示そうとしている事実についての概念をあなたに与えるのに役立つだろう(注38)」
 つまりパーソナリティと呼ばれているものは実際には「われわれの習慣の体系の最終産物にすぎない」と定義する。パーソナリティを構成する数千の体系は相互に対等な関係にあるのではなく、これらのなかで「優勢な体系」としてワトソンが指摘するものが手を使う分野(肉体労働の分野)、咽頭の分野(言語の分野)、内蔵の分野(情動的な分野)だという。そして「これらの優勢な体系は、明白であり、見ることが用意である。そしてそれは、われわれが個人のパーソナリティについてすみやかに判断を下すとき、その拠りどころとして役に立つ。そしてわれわれは、これらわずかの優勢な体系をもとにて、パーソナリィを分類する(注39)」と述べている。
 ワトソンは、パーソナリティを可視的で客観的に観察できるものとし、しかも多くの「習慣の体系」の総和だとみなした。このようにパーソナリティを理解することを通じて、人間の行動を支配し、将来の行動を予測可能なものとして操作しうるとする考え方を根拠づけようとした(注40)。

支配的な価値観を与件とした学問の科学性

 ワトソンの行動主義の前提にあるのは、欧米の民主主義社会であって、独裁的な社会は想定されていない。しかし、彼が生きた時代は、実際には人種差別主義が公然と存在する時代のことであり、ジェンダーの価値観も家父長制的な旧態依然の時代である。このことが端的に示されているのが、彼の労働観だ。ワトソンは、労働者の労働意欲を刺激するために、賃金の増額や利潤の還元、責任ある地位につけるなどステータスによる刺激といった様々な手法があることを指摘する一方で、こうした刺激は慣れによって、その改善効果は低減するとも指摘している。その理由として、人間の怠惰と労働に対する誤った理解があるからだという。
「個人は最低の経済状態にせよ、集団のなかでどうにか暮していくことができると、改善をやめてしまうのが、人間の欠点であるように思われる。人間は怠け者だし、労働したい人は少ない。また現代の風潮は、すべて働くことに反対している。最小の労働と最大のだらしなさが、たいていの工場の現在の秩序である。労働者――支配人にしろ、職長にしろ、筋肉労働者にしろ――は、つぎの言葉で、このことを理屈づける。『おれは、自分のために働いているのではないので。なぜおれは、協同作業に身を粉にして働いて、だれか他の奴に自分の利潤のすべてをくれてやらなければならないんだ』。この人は、作業能力の改善、および作業習慣を発揮さす全身の機構は、自分自身のものだ、ということを見落としている。それらは、個人の所有物で、だれか他の人と共有しているものではない。青年時代に早く作業習慣を身につけること、他人よりも長い時間働くこと、他人よりも一生けんめい練習すること、こういうことは、今のところ、各界での成功者や転載をおそらくいちばん合理的に説明してくれるだろう(注41)」
 ワトソンは、こうした労働者に対する理解を前提にすることはあっても、このこと自体を相対化しようとはしない。本能や遺伝といった生得的な性質を否定するにもかかわらず、「人間は怠け者だし、労働したい人は少ない」とあたかも人間が生来怠惰であるかのように述べている。興味深いのは、「現代の風潮は、すべて働くことに反対している」と書いている点だ。これは労働者のストライキなど資本に抵抗する労働運動が念頭にあっての言い回しだろうと推測する。「おれは、自分のために働いているのではない」という労働者の実感に言及していることからも明らかだと思う。実は、この観点は、ワトソンの行動主義の方法の矛盾と限界を示している。ワトソンのパーソナリティの枠組みは、客観的な社会環境が構築する数千に及ぶ「習慣の体系」から成り立っている。この「習慣の体系」こそが彼にとっての与件であって変更しえないものという前提にたっている。もし労働への否定的な態度が社会で支配的な場合、この労働への否定的な態度が「習慣の体系」を構成することになる。ワトソンの理論的な枠組みでいえば、労働を積極的に肯定するワトソンのパーソナリティを、労働を否定するような「習慣の体系」へと適応させるべきだろうが、むしろ逆に労働に関する「習慣の体系」を否定しようとする。もし、「習慣の体系」を否定するとすれば、どのように否定することが可能なのだろうか。ワトソンの行動主義にはこうした問題への対応の方法がない。というのも、そもそも行動主義の前提にある「習慣の体系」は、実験室に設置された人工的な環境をモデルにしていて、これは与件であって固定された条件であり、もっぱら変容の対象は人間(あるいは実験室であれば動物)なのだ。このことを社会にあてはめると、所与の社会環境は変えることのできなものだとみなされ、人間の行動をこの所与の社会に適合させるための最適な方法を探るのが行動主義だということになる。人間の行動の変化が社会を変化させるとしても、この人間と社会の関係の枠組みでは、既存のそれとの衝突のなかから、人間が意識的に社会の既存の習慣や価値観に挑戦して新たな「習慣の体系」を生み出すというダイナミックな社会変化をそもそも許容できないのだ。
 現実の労働者の世界では資本が支配する労働過程への否定的な態度が支配的だったとしても、支配的構造の労働倫理のイデオロギーこそが習慣の体系であるかのようにみなされて、この支配的なイデオロギーに適合した行動変容を教育や習慣づけを通じて確立するための理論的な裏付けに行動主義が利用されることになる。ワトソンの行動主義が「習慣の体系」というもっともらしい行動規範をもちだしながら、そこにはこの学問の主体となる研究者や、この学問を政策や経営に応用しようとする者たちの価値観への客観的な批判的視点が完全に欠落することになる。
 行動主義は、アメリカで、つまり、世界戦争の勝者として、支配者を支えた科学や思想が内包する問題が討議に付されるよりも、むしろこの勝者の世界で支配的な地位を占めた理論であることをもって、その学問的な意義についても当然のように主役の座をあてがわれた。ワトソンは、当然のようにしてパーソナリティの習慣の体系のなかに宗教的な習慣や愛国主義などを含めているが、実はパーソナリティの習慣の体系として諸個人が受容すべきこうした価値観そのものを与件とする考え方と、この与件としての習慣を教育によって諸個人に訓練をほどこすことによって行動を制御できるという考え方が肯定的に受け入れられたのは、ワトソンの行動主義が、20世紀のはじめから現代に至るまで、その支配的な価値観が根底から疑問に付される機会をもたなかったアメリカだったからかもしれない。戦前のドイツであれば、ワトソンの行動主義はナチズムに同調するパーソナリティの形成に寄与する心理学とみなされたかもしれない。ドイツは個人を集団に同調させるメカニズムを行動主義とは別の方法で開発したし、実は日本もそうである。ドイツや日本あるいは西欧諸国の集団への個人の動員の方法がアメリカと決定的に異なるのは、ナショナリズムの根源に、ある種の歴史的な近代以前との精神的連続性(神話)を定位させうる社会と国家の歴史的な経緯があったからかもしれない。アメリカは、移民による侵略に基づく国家として国家の起源を数千年遡ってその正統性を根拠づける物語を欠くことから、むしろ集団への統合の技術はきわめて人工的で操作可能な人間の機械的な側面に依存することが必要だったのかもしれない。こうした特異性がアメリカを中心として築かれてきた20世紀の操作主義的な思想に基づく技術の極端な発達を促したともいえる。
 行動主義は、外部から制御したり操作することが不可能な人間の側面を捨象して、目的を達成することを可能にする行為の機械的な再現の特化することによって、人間を操作可能な対象にできるとみなすもので、科学的管理法や人口管理のための人間のデータ化といった先行する実務的な経験の延長線にあるものといえる。その後スキナーによってより洗練された「科学」の装いを獲得するが、彼らの理論的な枠組は、実験によって検証可能な枠組から理論の枠組を逆算するようなところがあり、もし現代のような深層学習やAIによる擬似的な「心」の再現を可能にするような実験環境があったとすれば、その枠組も大きく変ったかもしれない。

道具的理性――資本主義的理論と実践の統一

 プラグマティズムもまた19世紀末に登場した行動(ギリシャ語のプラグマ)に着目したチャールズ・パースの哲学を淵源とし、ウィリアム・ジェームズによって発展させられたアメリカ資本主義を支える思想となり、行動主義と近縁性をもつ。ジェームズはパースを紹介しながら「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である(注42)」とした。行為によって実証しえない思想には意味がない、あるいは思想は行為を生み出すうえで有用な役割を果たしえるものとなったかどうかだけが思想の意義だという。
『プラグマティズム』(1907年)のなかで、ウィリアム・ジェームズはプラグマティズムが伝統的な哲学とどのような点で決定的に異なる思想なのかを、パースを紹介するかたちで、次のように端的に指摘している。
「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である。(略)或る対象に関するわれわれの思想を完全に明晰ならしめるためには、その対象がおよそどれくらいの実際的な結果をもたらすか(略)いかなる反動をわれわれは覚悟しなければならぬか、ということをよく考えてみさえすればよい(注43)」
 つまり、実証可能な現実の裏付けをもたない抽象的な言語の概念や原理を否定する。絶対者や根源の存在も否定する。だから、「事実、行動および力に向かう」もののみだけを前提にする。真理についてもデューイとシラーを引きながら、哲学や学問が主題にしてきた物事の根源や本質あるいは真理といったことには関心を寄せないか、あるいは、最適な行為を実現するための手段となりうるような観念を真理と呼ぶ。
「プラグマティズムが真理の公算を定める唯一の根拠は、われわれを導く上に最もよく働くもの、生活のどの部分にも一番よく適合して、経験の諸要求をどれ一つ残さずにその全体と結びくものということである(注44)」
 したがって、目的が与えられること自体、あるいは目的意識をもつこと自体が何に由来するのかについては、ある種の形而上学的な事柄であってもよく、神への信仰のように、その実在が疑わしいものであっても、それが現実に力をもつものであれば、そこに真理の作用をみようとする。他方でジェームズは神を否定する無神論者の生き方が実感としては理解できない。彼にとって神は経験しうるものであるのに対して、実感しえず言葉でしかないものは無意味だと否定する。彼が自分の存在を意味あるものにするには、この世界に経験しうるものとして創出すればいいことになる(注45)。世界を操作可能なものとして、自らの意志の下に従属させうるような力をもつことが、まさに、真理の体現者になる。強固な操作的な世界観が有神論と結び付き、世界を変えうる力への強固な信念を築いているように思う。これは、私のいう意味の剥奪を、支配者の側から眺めた意味の世界だといってもいい。世界を変えることを哲学の主題に据えたマルクスと対極の立場から世界を変えるための主導権を握ることを企図する思想がプラグマティズムにはあり、これがコンピューターを社会制御の手段として支配的な技術へと発展させるうえで重要な社会的背景をなしたとみることができるだろう。
 行動主義もプラグマティズムも、思想あるいは理論の有効性は、設定された目的に対して最適な手段を提示できるような現実的な効果によって評価される。これはある種の理論と実践の弁証法的統一の見本だろう。もともと弁証法には既存の秩序を維持しながら、その内部に必然的に生じる矛盾と対立という秩序を揺がす諸要因を秩序の内部で調整して抑え込むために必要な思想的な技法という側面がある。
 理論と実践の資本主義的統一の可能性を主張した行動主義やプラグマティズムと違って、マルクスの唯物論は、思想や理論を目的実現の手段とみなすのでもなければ、意識や普遍的な真理の役割を否定することもない。そしてなによりも理論が抽象的な論理構造をもつことの意義を否定しない。だから、資本主義批判の方法は、人々の意識や常識、あるいは習慣からなる経験的で具体的な出来事の集合でもなければ、実証主義のように事実やデータとされる事柄の集合から論じることもできないのであって、歴史性をもつ構造としての理論的抽象性をともなって論じることは避けられない。マルクスが対象とした資本の価値増殖をめぐる一連の概念、価値の概念をはじめとして、価値の実体としての抽象的人間労働や剰余価値といった概念は、いわゆる経験によっても統計などのデータによる実証によっても証明可能なものではない。しかし、神や形而上学的ななにものか、あるいは超越的な普遍的ななにものかなのではなく、現実の社会の具体的な事実からの理論的な抽象に基づいて導かれた資本主義の構造認識の所産である。この意味で、きわめて特異な唯物論なのだ。
「フォイエンルバッハにかんするテーゼ」のなかのマルスクの言葉として最も有名なもののひとつが11番目のテーゼ、「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」だろう。この言葉の含意は観照的な哲学への批判であると同時に、実践の意義も否定していまある世界を変ええないものとして前提にするような態度を否定し、世界を変えうる行為としての人間の実践に明確に焦点を定めていることだ。だから、行為主体としての人間を客体としてだけ捉えるような唯物論を否定し、「感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえ」ること、こうした人間の活動こそが、「対象的活動」、つまり世界を対象として世界のありかたにはたらきかけて、世界を変える活動であるという側面を重視して、従来の(フォイエルバッハがその代表とみなされたわけだが)唯物論を批判した。
 そしてもうひとつ重要な観点は、社会のなかの個人を孤立した個としてではなく「現実性においてはそれは社会的諸関係の総体」であり、その本質は「類としてのみ、内なる、無言の、多数個人を自然的に結び合わせている普遍性としてのみとらえられる(注46)」(第6テーゼ)とみる点だ。個人の人間性(あるいは行動主義でいうパーソナリティとあえて読み替えてもいいかもしれない)は、社会的諸関係の総体でありながら、この社会的諸関係に対して諸個人は、能動的な行為主体としてはたらきかけることによって、もの関係の総体を変革する潜勢力の担い手ともなる。このような担い手であることを通じて、諸個人は、単なる「個」ではなく、類的な本質の担い手として普遍性と不可分な存在にもなる。マルクスがフォイエルバッハを念頭に置いて述べたときの問題意識は宗教的な人間観への批判であり、人間の本質を現実の世界を変革することに関わらないところで構築された観念の世界に求める考え方が、結果として既存の世界を正当化し延命させることに加担していることを批判した。かつて宗教が占めた位置を資本や国家が占めるようになったことを念頭に置けば、マルクスの批判はそのままプラグマティズムや行動主義にもあてはまる。宗教的な感情のかわりに支配的構造の心情(利潤と貨幣物神と愛国心)を人間性に解消するような立場である。人間であることとは支配的構造の価値を肯定することであり、この前提を承認したうえで成り立つパーソナリティと習慣が唯一肯定される現実をなすということである。
 マックス・ホルクハイマーは、そのほとんどをプラグマティズム批判に捧げた『理性の腐食』のなかで、行為は、それが健康、休息、労働に寄与しうるような場合にだけ「合理的」とみなされるような行為の道具化を招く「形式的理性」を徹底して批判した。こうした合理性が、かつては客観的理性、権威主義的宗教、形而上学に担われていたとすると、近代産業社会では「無名の経済的装置の物象化機構によって引き継がれた」のであり「生産的労働であれば尊敬されるべきであるということ」「実際、それが人生を送る唯一の認められた在り方」であって「結果として収入をもたらすものであれば、どんな職業も、どんな目的の追求も生産的と呼ばれるのである(注47)」と指摘した。こうした行為の道具化は、これと対応して思考や意識そのものの放棄をもたらすことになる。『啓蒙の弁証法』のなかで「思考が数学、機械、組織といった物象化した形をとって思考を忘れる人間に復讐をとげる」として次のように述べている。
「この思考を放棄することによって、啓蒙は自己自身の実現を断念してしまった。啓蒙はすべての個別的なものを自己の制御下に起くことによって、事物に対する支配として逆に人間の存在にはねかえってくる自由を、概念的には捉えがたい全体に手に譲りわたしてしまった。社会は人の意識を喪失させることによって思考の硬化をもたらす(注48)」
 問題はこうして意識をめぐって、どのように闘争の陣形を構築しうるか、というマルクスがフォイエルバッハに関するテーゼで提起した問題がやはりここでも提起されるのである。真の革命的実践の成否は、このような意識喪失に逆らう理論の不屈さにかかっている(注49)」
 プラグマティズムや行動主義が意識の問題を無視するという方法を通じて、支配的な意識とそれへの同調を当然の与件とし、このような支配的な意識からの逸脱を機械的に矯正して調整、制御する技術に合理性や真理をあてがい、社会的な矛盾――当時の文脈でいえば労働者による組織的抵抗――を、支配的な秩序を維持するという目的を実現するための手段を通じて、制度内「解決」を正当化した。しかし、そうだとしても意識の問題は解決されたわけではなく、ただ棚上げされたにすぎない。この棚上げが、ホルクハイマーやテオドール・アドルノが危惧したように、文字どおり物象化された資本主義の大衆文化のなかに溶解してそれ自身の抵抗の根拠を獲得できなければ、大衆消費社会もまたファシズムと同じ帰結を招くことになるかもしれない。現実の歴史は、アドルノやホルクハイマーが危惧したような悲観論を半ば実現しながら、彼らが予想しなかった別の矛盾や問題を資本主義の内部から生み出すことになるが、これはのちに論じることにしよう。
 こうして、ホレリス・マシンが体現した人間の意識や思考といった雲をつかむような側面を無視して数値化やデータ化が可能な「人間」を通じて制御の力を大量の人口に対して行使しようとする権力の技術と、この技術を正当化する思想としてのプラグマティズムや行動主義が、やはりその内に包摂しえなかった意識の問題が残ることになる。この残された問題こそが20世紀資本主義がその支配の戦略の中心に据えた問題でもあった。

行為と動機――行動主義と刑罰

 監視社会批判では、国家権力による監視が何を目指すものなのかをどのように論じるのかによって、いくつかの異なる考え方が生まれる。フーコーの『監獄の誕生』の議論以降、監視とはオーウェルの『1984』のようなイメージよりも、むしろ教育や規律訓練を通じた自発的な同調行動の形成を促すメカニズムに注目が集まってきた。このことを具体的な刑罰の問題として考えるとき、刑罰が応報刑なのか教育刑なのか、という論争とも関わることになる。ワトソンの議論には犯罪者に対する行動心理学のアプローチが含まれている。ここでは、ワトソンの議論を日本の刑法学が戦前から議論してきた客観主義と主観主義の対立を絡めてみておきたい。
 ワトソンの行動主義は、人間を環境のなかで学習させて変えることが可能であるとみなし、本能や遺伝による変えることができない要因を否定する。ワトソンによれば、意識も記憶もその存在を証明することができないものだという。この徹底した操作主義は、監視社会のイデオロギーとしてはうってつけだが、全く評価の余地がない議論かというと実はそうともいえない。とくにワトソンが人間が犯す犯罪に関して述べている主張には、検討すべき論点がある。
 ワトソンは、その論理的な帰結として、ロンブローゾのような犯罪学者が主張するような犯罪者の性格を遺伝的な体質に還元する考え方を受け入れない。「情動とよばれている複雑な反応型が遺伝だという証拠がないことを知らなければならない(注50)」と述べ、情動は遺伝ではなく、習慣の型であって後天的に作られるものだと主張した。したがって、犯罪に対する刑罰についても、犯罪者への報復あるいは苦痛を与えることを目的とする懲罰ではなく、更生の手段とみなすべきだという立場をとる。つまり、習慣のパターンを変えることによって、いかなる犯罪者であっても更生させることが可能だと考えたのだ。犯罪を犯すような「社会的に訓練されていない人」について次のように言う。
「訓練所に入れられるべきだ。さらにまた、この期間中は、彼らは、集団の他の成員に危害を加えることのできない場所におかれるべきだ。このような教育や訓練は、10年から15年、あるいはそれ以上かかるかもしれない。彼が再び社会に入るのに適した訓練を身につけることができないなら、彼は常に再訓練をうけるべきだし、逃亡できない大きな工業施設や農業施設で、毎日パンを手に入れられるようにされるべきだ。どんな人間も――罪人も、そうでない人――も、空気、太陽、食物、運動、あるいは快適な生活状態に必要な他の生理学的因子をとりあげられてはならない。他方、一日12時間熱心に仕事をすることは、どんな人にも有害ではないだろう。こうして追加訓練のために隔離された人は、行動主義者の手もとにおかれなければならないのは、もちろんである(注51)」
 こうして彼は、警察制度は残されるべきとする一方、「訓練施設」の充実によって「刑法を完全になくしてしまう」こと、「刑事弁護士、法律の(刑事上の)判例、犯罪人を裁く法廷をなくしてしまう」ことが可能だと言う。「私は逸脱者を取り扱う現在の報復説、あるいは刑罰説(宗教的な一理論)が、条件情動反応を作ったり、こわしたりすることについて、われわれが知っている事実に立脚した科学的な一理論にとって代わるなどとは考えていない(注52)」と結論づけた。
 ワトソンのこうした考え方は、そもそも犯罪行為をその行動が社会の法から逸脱しているかどうかだけで判断し、その動機を問題にするのではなく「社会的に訓練されていない人」として問題にする。一般に犯罪行為に対して、その動機が問われがちだ。こうなると、犯罪に対する処罰は、その動機を含めて処罰することになる。動機を処罰対象にするということは、行動に至らない場合であっても、動機があるだけでも犯罪とみなされかねない側面をもつ。つまり行動以前の内心への権力の介入を認めてしまう余地を残すことになる。ワトソンはこうした考え方をとらなかった。
 犯罪を処罰するとはどのようなことなのか、行為を処罰することなのか、それともその動機も含めて処罰の対象とすべきなのか、という問題は刑法では重大な争点になる。事実日本の場合でも戦前から客観主義と主観主義(注53)、あるいは旧派と新派の対立として争点になってきた論点と重なるところが多くみられるが、ワトソンのように刑法の廃棄を主張する論者は私の知る限り登場したことはない。ただし、日本の主観主義刑法の立場は、動機へのはたらきかけこそが刑罰の主要な目的であって、刑罰に教育的な意義を見いだそうとする立場であり、逆にワトソンに近い客観主義刑法の立場は、応報刑の立場をとりがちであり教育刑の効果を疑問視することにもなっている。日本の戦前の客観主義刑法の立場をとった者たちは、瀧川幸辰のように、犯罪をめぐる客観的な社会情勢に関心をもった。瀧川は次のように書いている。
「刑法の社会的防衛任務は、ここでは崩壊過程に踏み込んだ資本主義社会を、大波のように押し寄せて来る大衆運動から、防衛することでなければならない。防衛の相手は従前の窃盗、強盗、等々の非組織的犯人ではなく、鋼鉄の組織をもつ無産大衆である(注54)」
 客観主義刑法がその客観性の基礎に、階級社会論と階級闘争の現実を承認したうえで、こうした資本主義の客観的な矛盾に対して刑法が日本の権力体制を防衛する任務を担うとした。瀧川の議論には情緒的な日本の国体への心情的同調の感情は希薄であっても、国家の体制を防衛することの意義を論じる立場をとることができることを示している。ここにある種の学問の客観性の限界があったといえる。とはいえ瀧川は戦時期も国家主義とは一線を画したともされており、この点が他の客観主義刑法学者との違いともいえると評価されている。他方で主観主義の立場をとる刑法学者は、戦時期に国家主義を体現する立場を明確にした。日本法理と呼ばれる独特の国家主義刑法が主張されることにもなる。客観主義刑法学者は、その応報刑を肯定することから、国家主義を肯定し、他方で主観主義は教育刑の肯定にみられるように思想転向を肯定することから、国家主義へと傾く。
 ワトソンの行動主義は、個人の意識や価値観といった内面を不問に付すか、これを外形的な行動や観察可能な現象に還元して、人間を「機械」にたとえたように、外部から操作可能な主体とみなすことを通じて、内面の問題に踏み込むことなく、人間を操作可能な対象へと改造する道を見いだそうとした。規範や法から逸脱する人間に対して、応報刑が苦痛を与えることを目的とすることにワトソンは意義を見いださなかったとはいえ、教育によって慣習的な行動を社会の規範に従わせることが可能だとするワトソンの発想はパブロフの犬の実験のように、教育と訓練によって行動を制御しようとするその意図には、応報刑に劣らない力の行使が教育の名のもとに正当化される要素を内在させていた。戦前の日本の刑法における刑罰と規律・訓練との関係は、結果として行動主義の方法ときわめて類縁性が近い発想をもっていたともいえる。行為の意図よりも行為そのものの違法性を問う客観主義刑法の観点と教育による更生の可能性を刑罰の意義とする主観主義刑法の観点は行動主義と重なり合うが、客観主義刑法の刑罰を応報刑とする立場や主観主義刑法の犯罪を動機や意図と関わらせようとする観点は行動主義とは対立する。だが、このねじれは現象面でのことであって、実際にはそうではない。
 日本の刑法思想は、人間の心理や意識を問題にできる枠組みをもっていない。戦前刑法を取り巻く国家状況、とりわけ治安維持法以降の国家主義とファナティックな愛国主義の時代が戦後の民主主義的な価値観からみると特異な時代として現代とは異質な時代とみなされるために、当時の時代に同調する主観主義刑法の異質性が目立ってしまう。とくに思想犯に関しては、そもそもその意図や意識、動機が処罰の重要な要素であり、だからこそ思想信条を抑圧するものと理解され、教育刑とは転向を促すことによって、支配的な秩序への同調行動を形成することの異常性に注目が集まりやすい。現代の価値観からすると肯定しがたいイデオロギーに犯罪者を教育によって変えることは、思想教育、思想的な更生措置として、刑罰としての教育の異常さが理解されやすい半面、現代社会のなかで、その社会の支配的なイデオロギーが肯定的に受容されている場合、こうした社会の価値観に刑罰としての教育によって犯罪者を再教育することは、社会復帰による更生の好ましいありかただとみなされがちだ。しかし、どちらの場合であれ、支配的な価値観に基づく社会行動から逸脱した者を既存の秩序のなかに抑え込むことでは変わるところがない。動機ではなく行為の結果が法を逸脱しているというところに着目して刑罰を与える場合、それが応報刑にような苦痛を与える場合であれ、教育刑のような人間の適応能力を利用する場合であれ、結果として現象する刑罰は当事者に対する権力による力の行使であり、その行使が当事者に肉体的な苦痛を介して行動の変容を強いるのか、それとも精神的な苦痛を介してそうするのか、あるいはその両方の調合の具合なのかという違いにすぎないともいえる。
 ワトソンは、精神病に対しても異論を唱えた。精神病は、そもそも「精神」を前提したものだとして批判して、パーソナリティの病、行動の病、行動障害だとみなし、遺伝や体質といった要素を否定する。しかし、刑法の否定の主張とともに、1960年代に登場する反精神医学や監獄廃止の議論とはある意味で関心のありかたが全く異なる。再学習、再教育を重視するある種の集団的な再教育キャンプのような洗脳を肯定しかねない危うい考え方がひそんでいる。ワトソンは次のように言う。
「パーソナリティを徹底的に変える唯一の方法は、新しい習慣が形成されねばならないように環境を変えて、その人を作り直すことである。習慣が完全に変えられば変えられるほど、パーソナリティは変化する」「将来われわれは、パーソナリティを変える上に役立つ病院をもつだろう。というのは、花の形を変えることができるほどらくらくと、われわれはパーソナリティを変えることができるからである(注55)」
 パーソナリティを変えることができないとみなされた人間はどうなるのだろうか。また、どのように変えることが正しい措置だとされるのだろうか。ワトソンのこの確信は、逸脱した人間の存在を認めないことにはならないか。逆に、こうしたパーソナリティを変えたり環境を変える側の動機や意図を一切問わないような主張は、結果として権力者の動機や意図を不問に付すことになる。コンピューター監視社会が目指そうとしているパーソナリティと社会との理想的な関係モデルはこのワトソンの再教育プログラムだといっても過言ではないだろう。新たな習慣の形成を人工知能の現代であれば、それが人間ではなく、機械によって実現されうるものとして、事実上社会が受け入れている。あるいは、再教育を効率的に実施するために、徹底した環境の変化を実現する技術として、人間の知覚を回避して直接脳神経に作用するような教育方法がとられることがあってもいいのではないかという発想に帰着しつつあるように思う。人間の行為と目的の意味は、こうした発想のなかで、文字どおり、主体から剥奪されることになる。


(1)エドウィン・ブラック『IBMとホロコースト』宇京頼三訳、柏書房、2001年、63ページ
(2) Denkschrift zur Einweihung der neuen Arbeitsstätte der Deutschen Hollerith Maschinen Gesellschaft m.b.H. in Berlin-Lichterfelde, January 8, 1934, pp. 39–40, USHMM Library.ブラック前掲書による。
(3)前掲ブラックによれば、アメリカとの開戦以降、デホマクは表向きアメリカ本社とは切り離され、アメリカへの送金も停止された。
(4)ホレリス・マシーンの開発者、ホレリスはもともとIBMの技術者だったわけではない。紆余曲折を経てIBMにこのマシンの販売を委ねた経緯はブラック前掲書を参照。
(5)ブラック前掲書379ページ。一般的なパンチカードシステムは、カード穿孔機、カード分類機、カード照合機などの機械から構成されていた。カード穿孔機(punch)とは、タイプライターの印字部を穿孔機構にしたものである。単に穿孔するだけのものとカードに印字ができるものがある。1枚のカード穿孔途中でエラーがあると、そのカードを廃棄して打ち直す必要がある。カード分類機(sorter)とは、カードの特定カラムを指定して、その穿孔位置によりそれぞれのホッパーに分類する機械である。これを何回もおこなうことにより複数のカラムにわたるソートができる。カード照合機(collator)とは、ソートされているかどうかを確認する機能やある条件に合致するカードだけを取り出す機能をもつものである。ソートされている2組のカード群を一つにまとめるマージ機能をもつものもある。作表機(tubulator)会計機 ソートしたカード群を読み込んで、「金額=数量×単価」程度の簡単な計算をして、小計・中計・大計を計算して作表する。これらの処理内容は配線によるプログラムで指示される。合計穿孔機(summary punch)処理が複雑な場合は、最初の処理で集計結果をカードに穿孔して出力し、それを入力として編集処理をおこなうこともある、その穿孔をおこなうものを合計穿孔機という。(パンチカードシステムの歴史 http://www.kogures.com/hitoshi/history/punch-card/index.html)
(6)ブラック前掲書380ページ
(7)ヘザー・モリス『アウシュヴィッツのタトゥー係』金原瑞人/笹山裕子訳、双葉社、2019年、参照
(8)ブラック前掲書381ページ
(9)1925年、日本に初めてIBMのホレリス式統計機械を設置(日本陶器) https://www.ibm.com/ibm/jp/ja/history.html
(10) James W. Cortada, The Rise and Fall and Reinvention of a Global Icon, The MIT Press, 2019, p.128
(11) Cortada前掲書153ページ。ちなみに、第二次世界大戦中、IBMは驚異的な収益をあげる。1939年から45年までにIBMの総収入は3倍に膨れ上がった。従業員数は2倍になり、事務機械産業最大の企業になる。トーマス・G・ベルデン/メルバ・R・ベルデン『アメリカ経営者の巨像――IBM創立者ワトソンの伝記』荒川孝訳、ぺりかん社、1966年、224ページ参照
(12)ブラック前掲書367ページ
(13)Peter E. Greulich、The Story of Machine Records Units (MRUs) https://mbiconcepts.com/the-story-of-world-war-ii-and-machine-records-units-mrus.html
(14)Columbia University Computing History; A Chronology of Computing at Columbia University http://www.columbia.edu/cu/computinghistory/#sources
(15)Little, S.E. and Grieco, M.S.(2003). From Bletchley Park to the NSA: scientific management and “surveillance society” in the Cold War and beyond. In: Critical Management Studies 3 Conference, Stream 9: Cold War and Management, 7-9 Jul 2003, Lancaster University, UK.
(16)Ibid.
(17)ブラック前掲書375ページ
(18)Thomas N. Tyson and Richard K. Fleischman, “Accounting for Interned Japanese-American Civilians during World War II: Creating Incentives and Establishing Controls for Captive Workers” https://www.accountingin.com/accounting-historians-journal/volume-33-number-1/accounting-for-interned-japanese-american-civilians-during-world-war-ii-creating-incentives-and-establishing-controls-for-captive-workers/
(19)訴訟については、 Barnaby J. Feder,”Lawsuit Says I.B.M. Aided The Nazis In Technologyl,” New York Times, Feb. 11, 2001 https://www.nytimes.com/2001/02/11/world/lawsuit-says-ibm-aided-the-nazis-in-technology.html?mcubz=0
(20)”IBM Statement on Nazi-era Book and Lawsuit,” https://www-03.ibm.com/press/us/en/pressrelease/1388.wss;
(21)United States Holocaust Memorial Museum, “LOCATING THE VICTIMS” https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/article/locating-the-victims
(22)JAMES W. CORTADA, IBM: The Rise and Fall and Reinvention of a Global Icon, lMIT Press, 2019、参照。とくに第五章参照。
(23) ANTHONY J. SEBOK, “IBM AND THE HOLOCAUST: The Book, The Suit, And Where We Go From Here,” https://supreme.findlaw.com/legal-commentary/ibm-and-the-holocaust.html
(24)クァドゥルーンは4分の1が黒人、オクトルーンは8分の1が黒人を指す。差別的な意味合いをもつ言葉。
(25)Herman Hollerith, “The Electrical Tabulating Machine,” Journal of the Royal Statistical Society, Vol.57, No.4 (Dec., 1894)
(26)F・W・テーラー『科学的管理法』上野陽一訳・編、産業能率短期大学出版部、1976年、小倉利丸『支配の「経済学」』れんが書房新社、1985年、参照。
(27)ミシェル・フーコー『性の歴史』第1巻、渡辺守章訳、新潮社、1986年、35ページ
(28)フーコー前掲書115ページ
(29)フーコー前掲書116ページ
(30)フーコー前掲書119-120ページ
(31)J・B・ワトソン『行動主義の心理学』安田一郎訳、河出書房、1968年、15ページ。なお、早い時期のワトソンやスキナーなどの行動主義批判としては、アーサー・ケストラー『機械のなかの幽霊』、日高敏隆、長野敬訳、ぺりかん社、ノーム・チョムスキー「言語行動」、『言語 フンボルト/チョムスキー/レネバーグ』、岩波書店、所収、参照。なお、本章ではスキナーやパース、デューイといった行動主義、プラグマティズムの重要な論者にはほとんど言及していないが、コンピューター科学を支えるイデオロギーの問題を網羅的に論じることは別途課題としなければならないと考えている。
(32)ワトソン前掲書28ページ
(33)ワトソン前掲書118ページ
(34)ワトソン前掲書306-307ページ
(35)ワトソン前掲書308ページ
(36)ワトソン前掲書232-233ページ
(37)ワトソン前掲書233ページ
(38)ワトソン前掲書336ページ
(39)ワトソン前掲書338ページ
(40)行動主義をワトソンで代表させる方法には異論があるかもしれない。特に本書のように「意識」に重要な位置を与えようとする場合、同じ行動主義であってもG・H・ミードのような観点を取り上げるほうが好ましくはないだろうか。たぶん、現代のAIからニューロテクノロジーの時代であれば、自我と社会心理(ここにAIなどのコンピューターテクノロジーが含まれる)は重要な課題だが、ここに至るまでの道程のなかで、コンピューターが苦手としてきた「「意識」を排除して、もっぱら人間を操作可能な対象とみなすことで成り立ってきたのがコンピューターが主導的な役割を果たす資本主義社会である。この意味で、ワトソンの行動主義には無視しえない意義がある。
(41)ワトソン前掲書261ページ
(42)ウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』桝田啓三郎訳(岩波文庫)、岩波書店、1957年、52ページ
(43)ジェームズ前掲書53ページ
(44)ジェームズ前掲書88ページ
(45)ジェームズ「哲学的概念と実際的効果」、チャールズ・サンダース・パース/ウィリアム・ジェイムズ/ジョン・デューイ『プラグマティズム古典集成――パース、ジェイムズ、デューイ』所収、植木豊編・訳、作品社、2014年、参照
(46)『マルクス・エンゲルス全集』第3巻、大月書店、1963年、593ページ
(47)マックス・ホルクハイマー『理性の腐蝕』山口祐弘訳、せりか書房、1987年、51ページ
(48)アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法――哲学的断想』徳永恂訳(岩波文庫)、岩波書店、2007年、86-87ページ
(49)アドルノ/ホルクハイマー前掲書87ページ
(50)ワトソン前掲書202ページ
(51)ワトソン前掲書230ページ
(52)ワトソン前掲書230-231ページ
(53)中山研一の説明によれば、以下のとおり。客観主義とは犯罪を「外部的な行為とその結果を重視するという考え方」で「この思想的な基礎は、犯罪を人間の外部的な行為による侵害結果の惹起として客観的かつ事実的にとらえることによって、意思や移送の処罰を拒否し(行為原理)、処罰範囲を客観的に限界づけようとする」(『口述刑法総論』成文堂、2007年、21ページ)。主観主義とは「行為者の犯罪的は性格を重視」し「行為者の主観的な意思や性格が客観的な犯罪行為およびその結果を『徴表する』ものとしてとらえる」(同書23ページ)。中山研一『刑法の基本思想』(成文堂、2003年)も参照。
(54)瀧川幸辰『刑法読本』改訂版、大畑書店、1933年、15-6ページ。引用箇所はほとんど伏せ字であるため中山前掲『刑法の基本思想』から原文を再引用した。
(55)ワトソン前掲書370ページ

 

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失われた偽作・疑作を求めて――『クラシック偽作・疑作大全』を出版して

近藤健児

 妻は私と違って収集癖はないが、もう10年以上前に勤務医の仕事をいったん辞めたときに、当時熱中していた塩野七生の『ローマ人の物語』(全15巻、新潮社)に触発されて、退職金を原資にローマ時代のコインを買い集めだしたことがあった。メイン・ターゲットはデナリウスと呼ばれる直径1.5センチほどの銀貨で、同じ皇帝のものでも裏面のバージョンは多種多様でなかなかに集めがいがある。eBayに出品している海外の業者から購入するのだが、本物かどうかはなんともわからない。だが、もし真贋鑑定に出すとなるとコインの価格以上の費用がかかってしまう。それがどうにも気になったのか、原資が尽きたのか、ある程度集めたところで収集をやめてしまったようだ。
 絵画や骨董の世界では、ニセモノは一般に贋作と呼ばれる。これは欺く目的で悪意のもとに作られたもので、例えば同時代の絵にレンブラントのサインを加えたり、新しい陶器をわざと古めかしく汚したりしたものだ。真作と思って大枚はたいて購入したものが贋作と鑑定されることはしばしばあるが、これは当事者にとってはおおごとだ。そうとは知らずに美術館が自館の目玉として展示していたものが贋作ないし贋作が疑われる事態となると、展示をやめて倉庫に引っ込めざるをえないことになる。来館客数に響く大変な損失だ。なおかつ始末が悪いことに、いったんは贋作と判定された作品が、のちに真作とされる逆転事例もないわけではないから、恨めしい絵を邪険に捨てるわけにもいかないのだ。
 ところでクラシック音楽作品の場合にも、本書で取り上げたシューベルトの『交響曲ホ長調』(1825年)のように、悪意ある贋作もないわけではない。しかし偽作や真偽不詳の疑作の多くは、著作権の概念などなかった18世紀に、売らんがために有名作曲家の名前を勝手に楽譜に付けて売ったことから生じたもので、当時それなりの実力があった作曲家が真面目に書いたものだ。曲そのものの中身は聴くに値するものが少なくない。例えば、ハイドン作とされていた『おもちゃの交響曲』も、モーツァルト作とされていた『子守歌』も、いずれも他人による作曲と判明しているが、曲自体は名品であるにもかかわらず、偽作とわかったために演奏・録音される機会が少なくなってしまっている。ハイドンの弦楽四重奏曲集Op.3は、名曲「セレナーデ」を含んでいるにもかかわらず、偽作とわかると全集ボックス(エオリアン四重奏団盤)ではわざわざその曲を外して販売されるようになる始末だ。
 ちょっと待ってほしい。倉庫行きになった美術作品を本物とじっくり見比べる機会があってもよくはないか。それと同じように、真作でないとわかった音楽作品も、長らく有名作曲家のものと信じられてきたゆえんはどこにあるのか、自分の耳で確かめてみたいものではないだろうか。偽作や疑作となると、大作曲家の全作品事典や熱心な愛好家のウェブサイトに断片的な記載があるだけで、基礎的情報さえかなり苦労しないと集まらない。肝心の録音さえも、かつて真作と信じられていた時代に出ていた古い音源が相当探してやっと見つかるほどに限られているのが実情だ。それでもモーツァルトの交響曲やヴァイオリン・ソナタなどで、偽作ということで欠番扱いになっている前々から気になっていた曲に出合えたときの喜びは大きく、曲の出来栄え以上に満足感を味わった。そのほか全部が全部名曲だなどと言うつもりはまったくないが、真作と同じように愛聴すべき佳作も本書の執筆を通してたくさん見つけられた。
 転売するわけでもないので、真作でも偽作でも疑作でも、自分でいいと思ったものを楽しむだけだ。だから、妻のローマ・コインだってたとえ真贋不明のグレーゾーンのものでも、楽しみを与えてくれればすてきな宝物である。音楽も同じだ。本書を通して、私と同じように自分だけの名曲に出合える人が増えたらいいなと願っている。

 

第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

1-1 機械と〈労働力〉――合理性の限界

機械が支配した時代

 ポスト冷戦以降、資本主義を人類史のなかで肯定的に把握する理解が、ある種の常識として通用するようになった。そのきっかけをつくったのがフランシス・フクヤマの『歴史の終わり――歴史の「終点」に立つ最後の人間』(三笠書房、1992年)に代表される社会主義・共産主義の終焉を論じた議論である。リベラルな民主主義を歴史上完璧な統治機構として評価したのだ。そのフクヤマが2018年のインタビューで、マルクスが資本主義における過剰生産の危機と貧困の拡大を指摘した点を捉えて、「カール・マルクスが言っていたことが 事実になりつつある(注1)」とマルクスの議論をあたかも肯定するかのような発言をしている。同時に、中国を「国家資本主義」とみなして、中国モデルか西欧モデルか、という資本主義の制度内の危機への最適な適応をめぐる争いにむしろ将来の選択肢があるとも語り、リベラルな民主主義の危機を指摘した。マルクスを引きながら、結局のところは、将来社会のありかたについては、資本主義を前提としたリベラルな民主主義に収斂するとはかぎらず、資本主義と非リベラリズムあるいは近年の流行語でもある権威主義的な資本主義が歴史のゴールを飾るという別の選択肢もありうるということを暗に示唆したともいえる。
 以下で述べるように、資本主義は自由と民主主義のシステムとしては矛盾と限界を抱えている。資本主義の制度的な矛盾を資本主義内部で解決しようとする試行錯誤としての20世紀資本主義の歴史は、そのイデオロギーの側面からみたとき、ファシズムもまた矛盾の制度内止揚(そもそもこれが弁証法の本来の機能だが)として社会主義を資本主義的に再定義して包含しようとする現象だったことを想起する必要がある。もちろん中国が社会主義だと言いたいのではなく、20世紀のファシズムと社会主義の実験が失敗に終わったことをもって、リベラルな資本主義の勝利とみなす認識や、社会主義を20世紀に社会主義を標榜した諸国に還元して理解しようとする考え方に疑問があるのだ。こうした考え方は、制度や社会に対する理論的な枠組みをもつことなく、現実の世界を構成する国家や宗教の権力が、みずからの統治の技法の一部に用いる言語の象徴的な使用を「正しい」概念用語として前提してしまいかねない。ファシズムは、イギリスのケインズ主義、アメリカのニューデールと表裏一体をなすものであり対立するものではないし、社会主義革命を企図しながらもそれがファシズムに転態した歴史の教訓を汲むとすれば、資本主義や20世紀の社会主義もファシズムもいかなる意味でも私たちの未来の選択肢にはなりえない。同時に、コンピューター・コミュニケーション/テクノロジー(CTC)が支配的な位置を占めることによって資本主義の構造は、その深部で転換を経験しつつあり、マルクスの資本主義批判の妥当性を検証する場合も、この転換を念頭に置く必要がある。
 本章では、本連載の主題であるコンピューターが支配的なテクノロジーとなった時代の資本主義批判を見据えながら、その前提となる機械が支配した時代の資本主義を主に論じることになる。カール・マルクスが『資本論』で論じた一連の資本主義における矛盾に対し、資本主義はいかなる対抗を制度的に展開してきたのかを確認する。主題になるのは、機械と〈労働力〉(注2)と化した人間をめぐる管理、指揮、命令、制御、監視といった一連の問題をめぐって、マルクスが提起した土台=上部構造の資本主義の構造に関わることになる。
 労働市場を通じて〈労働力〉が売買されるということを私たちは、会社に雇われて働くことであり、労働が契約によってルール化されて、このルールを遵守することが労資双方の当然の前提だと思い込まされている。もちろん労働者は雇用主が狡猾にルールをかいくぐって酷使しようとしたり賃金をピンハネすることを警戒するし、雇用主もまた、労働者が従順に働くとは信じておらず、常時仕事ぶりを監視しないではいられないという不信感を抱くこともまれではない。一般商品の売買が前払いであるのに対して〈労働力〉だけは後払いだというところに、労資の力関係の不均衡と資本の不信感が端的に示されている。
 とはいえ、契約は双方にとって満足できなくてもほぼ有効な範囲には収まる程度の効果はもつ。だから、雇用契約とか就業規則の明文化は、労働者の権利を守るうえでも大切だとされている。しかし歴史を遡ると、こうした近代的な〈労働力〉売買の契約関係が定着するのには長い時間がかかっており、現代の世界全体の人口を視野に入れたとき、むしろ近代的な雇用契約の教科書的なモデルが実際に実現している場合のほうが少ないかもしれない。労働問題が国際的な人道・人権団体にとっての主要な課題でありつづけており、資本主義は建前ほど契約の平等と自由を重んじるような体制をおのずと実現できるようなシステムであるわけではない。
 したがって、工業化=機械化として出発した資本主義的な「経済発展」の経路をいま一度〈労働力〉の観点から再構成しておく必要がある。機械化、工業化が始まった当時、労働者の日常がいかに機械のリズムに反し、したがって資本家たちを苛立たせていたか。そして、機械の導入とは、この労働者の日常的なリズムの解体と服従の過程でもあったということを再度みておきたい。

道具、機械、歴史認識

 産業革命を通じて、イギリスを中心に、熟練の解体と機械への置き換えが19世紀に急速に進展し、労働の様相が一変する。社会の人口の多くが農業などの伝統的な産業から引き離されて都市の工場〈労働力〉へと短期間に転換できるのは、熟練労働の習得に必要な長年月の訓練が不要になり、短期で習得できる労働が支配的になってきたからだ。同時に、単純労働が支配的な労働市場は「流動化」しはじめ、資本は市場の需給動向に合せて必要な〈労働力〉を排除したり入れ替えたり、追加で調達するなど、あたかも〈労働力〉が「モノ」ででもあるかのように自由にその数量を調整可能な存在になる。これは周辺部資本主義における奴隷制の展開と表裏一体をなす資本主義に固有の「人間観」、つまり労働機械としての人間の一側面をなす。労働者は単純労働であればあるほど、取り替え可能な使い捨ての〈労働力〉としてのリスクに直面する。労働者は生存を維持するための雇用の維持を、かつての熟練労働者のように、容易に取り替えがきかない熟練技能を交渉の武器にして資本に譲歩を迫ることができなくなる。熟練労働者が主体となった労働運動から単純労働者による労働運動への転換は、重要な質的切断を伴う。
 マルクスは『資本論』第一巻「機械と大工業」でかなりのページを割いて機械が資本主義に果たす役割を論じている(注3)。工業化=機械化に対するマルクスの評価はややトリッキーだ。ラダイトのような機械化への拒否を批判しながら、機械化がもつ二面性の間で、難問に強引な決着をつけようとしているところがある。
 マルクスは、マニュファクチャから機械制大工業への展開のなかで、機械が膨大な数の熟練労働者の排除と単純労働化による低賃金化をまねくことを指摘する。資本主義的な労働市場に投げ込まれた無産労働者にとって、失業は貧困そのものだが、同時に雇用されたとしても長時間の劣悪な労働と最低限の生活をかろうじて維持できる賃金しか保障されない人生にしか帰結しない。だから、とくに蒸気織機の利用に対して機械の大量破壊運動が起きるが、マルクスは、これが「シドマスなどの反ジャコバン政府に最も反動的な強圧手段をとる口実を与えた」とその副作用の大きさをむしろ指摘して、「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験とが必要だったのである(注4)」と述べている。労働者が壊すべき対象は、機械ではなく資本(家)であるというマルクスの指摘は正しいが、そこから彼は、機械を資本主義的に利用することが労働者の搾取と貧困を生み出しているのであって、機械そのものの生産手段としての機能を擁護することになる。こうして、この単純労働化がもたらした労働の流動性、かつての職人のように一生一つの仕事に縛られることなく、様々な産業分野を行き来できる労働者の新しいありかたから、資本主義では実現しえない生産の社会化、つまり労働者が生産への主導権を取り戻すなかで、機械に体現される生産力を労働者の労働能力の全面的な開花として可能にするという楽観的な見通しを示唆する。この楽観論が、のちの正統派マルクス主義に継承され、資本主義が開発した技術の社会主義での横滑り的な適用を正当化する理屈として俗流化されて、20世紀の社会主義を標榜する体制が墓穴を掘ることになる。資本主義が開発した技術には、設計思想=資本のイデオロギーの物質的な体現、現代の言い回しでいえばイデオロギー・バイ・デザインという側面があり、機械とその社会的利用を区別することはできないと私は思う。この間違いにマルクスが陥ったのは、後述するように、商品論における使用価値批判の観点の希薄さが深く関連している。つまり、使用価値――生活手段であれ生産手段であれ――は、同時にイデオロギーの担い手でもあるという点への関心の欠如だ。工場の機械に関していえば、労働者を統制・制御しようとする意図がなければ、機械化は資本には受け入れられなかっただろう。
 他方で、マルクスは機械制大工業に先だつマニュファクチュアに関して、非常に示唆的なことを指摘している。マニュファクチュアで個々の労働者は全体の一部をなす部分労働者として適材適所で機械を操作する仕事をこなす。
「彼は、この作業ではより多くの力を、別の作業ではより多くの熟練を、また第三の作業ではより多くの精神的注意力、等々を発揮しなければならないが、これらの属性は同じ個人が同じ程度にそなえているものではない。いろいろな作業が分離され、独立化され、分立化されてからは、労働者たちは彼らの比較的すぐれた属性にしたがって区分され、分類され、編成される。彼らの生来の特殊性が基礎となってその上に分業が接木されるとすれば、ひとたび導入されたマニュファクチュアは、生来ただ一面的な特殊機能にしか役だたないような労働力を発達させる。今では全体労働者がすべての生産的属性を同じ程度の巧妙さでそなえており、それらを同時に最も経済的に支出することになる(注5)」
 ここで「全体労働者」と呼んでいるのは、文字どおりの意味での労働者ではなく、分業によって様々な作業工程を担う労働者組織が機械とともに構成する全体のことである。この全体に対して、実際の労働者は「部分労働者」として全体の秩序に従属する。「部分労働者の一面性が、そしてその不完全性さえもが、全体労働者の手足としては彼の完全性になる」わけだが、この全体労働者が資本の組織そのものということになる。この全体労働者と部分労働者の構造は、事務・サービス労働が機械化される過程を理解するうえで重要な観点でもある。
 機械化が進んでいない時代の事務労働組織は、官僚制に典型的なように、人間の作業を法や規則によって規制し、労働者の能力を個人の適性によってある特定の作業に特化し、それらを相互に繋ぐことで組織全体=全体労働者としての機能を発揮させる。個々の労働者は全体に対する部分として器官化される。書類作成の過程にタイプライターが導入されると、この作業が単純労働化されて、書類のコンテンツ作成から切り離されて純粋な文字入力作業になり、熟練の解体へと向かう。文字を書く作業がこうして、直接的な文章作成に必要な知的な作業と、この作業の結果を印字して書類にするというアウトプットに切り分けられ、後者が機械化されるにつれて労働者は意味を剥奪された「タイピスト」という労働に特化される。ここで構築される書類の「意味」は資本によって制御される。労働者は資本の論理に沿って意味を文字として対象化する。ここでは、彼/彼女にとって意味がある労働とはならない。
 のちの議論を先取りしていえば、CTCが支配的な時代の独自の機械=コンピューターは、多数の部分労働者を結合した全体労働者の位置を占める。労働過程の錯綜した作業工程に必要な様々な作業、たとえば、熟練、大量のルーチン作業、高速のデータ処理、高度な解析作業などがそれぞれに特化したアプリケーションに振り向けられ、労働者は、彼/彼女のスキルに応じてコンピューター・プログラムによる処理を補助できるように労働組織が区分、分類、編成される。システムエンジニア、プログラマといった技術職からデータ入力やモニターの監視などの比較的単純な作業、処理されたデータに基づくコンピューターによる意思決定に対して人間の組織として最終的な確認をおこなうことなど、労働者は個別化されながらコンピューターのシステムに沿って組織全体に、つまり資本に結合される。労働者は、コンピューター・システムという「全体労働者」の機能=器官に転化することによって組織の規則性が維持される。古典的な工業化では、肉体的な行為を徐々に機械に譲るなかで、労働者は、機械の補助労働へと周辺化される一方で、機械が果たすことができない判断や思考に直接間接関わる部分を担うようにもなる。事務やサービス労働もまた、そのなかから計算機によって処理可能な労働を切り離して機械に委ねるようになる。20世紀の事務・サービス労働で起きてきた機械化の過程は、製造業がマニュファクチュアで機械が徐々に導入されるなかで起きてきた労働者の排除と機械による置き換えの過程と、その資本の意図と構造に即せば、ほぼ相似形である。ただし、今度は、人間の精神的・心理的な側面に機械が深く関与するようになったという意味で、人間にとってはより侵襲的な過程になっている。そして、この精神的・心理的な過程がコミュニケーション過程でもあることから、この問題は、狭義の資本の生産過程や流通過程を超えて〈労働力〉再生産過程、つまり私生活領域に接合されることになる。
 機械への批判を、ラダイトのような機械の拒否でもなく、またその社会的利用形態だけを資本主義のそれから切り離しさえすれば無毒化できるわけでもないとすれば、どうすべきなのか。資本主義的な技術開発から質的に切断されたテクノロジーをどのようにすれば獲得できるのか、という方向で問題を立て直す必要がある。こうした意味でのテクノロジーにおけるオルタナティブが真剣に議論されるようになるのは、核技術や公害、環境破壊が深刻になる一方で、マスメディアが人々の心の支配に深刻な影響を及ぼすようになってきたことへの批判が自覚的に提起される20世紀半ばを待たなければならない。またコンピューターの大衆化が到来した20世紀末に、ふたたびラダイトの影がコンピューターに向けられたこともまた忘れてはならない(注6)。

資本の秘技

 資本の投資動機が最大限利潤の追求であることをふまえれば、資本主義における機械は、「労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきもの」、つまり「剰余価値を生産するための手段」であるという基本線は、現在に至るまで一貫している。しかし、機械の普及についての資本の大衆向けの正当化の主張は、人類の普遍的な進歩の体現としての機械とその発明が結果として、資本に利潤というご褒美を与えるのだという神話を構築することによって、資本の存在理由を文明の進歩の証しとして正当化しようとするものだ。こうした主張が万国博覧会のようなメガイベントを通じて人々のなかに資本主義の「未来世界」を印象づけることになる(注7)。機械を人類の歴史的な社会の存在様式から切り離して普遍化あるいは進歩の宿命とみなす考え方とマルクスの理解との間には、資本主義をその唯一の実現可能な制度とするか否かという点を除けば、共通した認識に立っているところがある。自然科学の応用としての技術の体系が資本主義と共通のものに基づくオルタナティブな社会なるものがありうるとして、それがはたして労働者の労働を解放された人間の行為の地位に据えるようになりうるのか、私はこの点についてはきわめて懐疑的だ。したがって、こうした抽象的・自然科学的唯物論に対して、私は、機械を明確にその設計思想も含めて歴史的な過程の産物であり、資本主義という固有の社会がもたらした特殊歴史的な技術の具体的なありかたであって、未来社会にまでその遺産を継承すべきかどうかはあらためて検証すべき課題だという点をはっきりさせる必要があると思う。
 機械が人類史のなかで長い歴史をもつ「道具」とどのように本質的に異なる意義をもつのかという問題は、機械が登場した資本主義という時代の特異性と、この時代に機械が人間労働の客観的な環境として資本によって導入されることによって生じた労働者の「労働」そのものの変容の問題でもある。機械の導入のなかでの労働の変容を通じて、一方で資本にとっては有機的構成の高度化を通じた相対的剰余価値の生産という特異な資本主義的な経済成長を実現する。労働そのものの大きな変容は、全体的労働者から部分的労働者へ、労働者のコミュニティのなかで「秘技」として伝承されてきた熟練が機械に翻訳可能な知識として資本が収奪するという事態を招く。『資本論』には次のような記述がある。
「ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな特殊な職業がmysteries(myste’res[秘技])と呼ばれて、その秘密の世界には、経験的職業的に精通したものでなければはいれなかったということである。人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしたヴェールは、大工業によって引き裂かれた(注8)」
 では、大工業はどのようにしてこのヴェールをひきちぎったのだろうか。マルクスはこの秘技が近代工業化のなかで、機械化によって自然科学による意識的で計画的なもとのになったことを評価する。
「大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行われるという少数の大きな基本的な運動形態を発見した(略)近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである(注9)」
 秘技としてしか伝承されなかった社会的な生産に不可欠な技術が科学的な知見によって、また機械を発明することになる過程を通じて、秘技から解放され不断の発達あるいは進歩を可能にしたとみる。「自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された」というときの「意識的」の主体は、資本主義では、先の述べたように「全体労働者」としての資本によって、資本の利潤追求というその特性によって、意識的・計画的・体系的に応用される。同時に、複雑な生産的行動が基本的な運動形態に還元可能だという場合もまた、それは資本にとっての「基本的な運動形態」認識だという制約がある。
 秘技の問題は、単なる労働の熟練技能の問題なのではなく、労働者が労働の現場を自らの意思で支配することを可能にする固有の労働のリズムの問題でもあり、同時に、雇用契約が労働とその報酬(賃金)をリンクさせることによって、より勤勉に資本家に対して従順に働くことでより高い報酬が得られるという近代的な労働のエートスの罠が有効性を必ずしももたなかった長い資本主義初期の時代の労働者の生活世界のありかたとも密接に関わっている。E.P.トムスンが述べているように(注10)、この機械化以前からラダイトの頃の機械化初期に至る時代のなかで、労働者たちにとっては、賃金のための勤勉な労働よりも、昨日と同じ今日の生活が確保できればよく、余計に働くよりは酒を呑むことを選び、また、工場に出稼ぎにきていた労働者達は収穫期になれば工場の労働を放棄して収穫の作業のために帰省してしまう。どのようにどれだけ働くかは自分たちの生活のリズムのなかで自分たちが決めることであって、資本家が口出しすべきことではなかった。こうした労働現場の自立性が労働の秘技として伝承されてきた実際の内容ではないか、とも思う(注11)。
 ここで問題になるのが、技術と資本の本源的蓄積過程との関連である。本源的蓄積とは資本主義にとって必須の前提条件となる〈労働力〉と土地の商品化を可能にする社会変容過程を意味し、歴史的にはイギリスの囲い込み運動がその典型とみなされるが、この過程は現在に至るまで繰り返し引き起されている恒常的な現象でもある。商品化される〈労働力〉をめぐる問題は、工業化のなかで、もっぱら自らの〈労働力〉を商品として売る以外に生存の手段をもたない無産者の社会的大量の出現によって、労働市場が形成され、資本はこの〈労働力〉を調達することによって生産過程を編成する、という一連の過程が生み出されることになる。ここで、この過程を理論的に論じる場合に念頭に置かれてきたのは、労働者の日常生活とその文化を捨象して工場の肉体労働の担い手としての単純労働者の存在だった。労働者が単純労働者として登場する回路は、そもそも熟練をもたない労働者たち(そのなかには、「秘技」から排除されていた農村から流入した労働者や子ども、女性が含まれた)と、機械化によって衰退した熟練労働者の単純労働者化がある。上の引用でマルクスが言及しているのは後者との関連である。労働者が「秘技」としての技能を奪われる過程は、マルクスが指摘するような自然科学の機械への応用といった過程をとったとみるとしても、社会の生産関係のなかでみれば、熟練の技能を資本は自然科学による応用が可能な「知識」に変換すると同時に、この知識を資本の所有として独占しようとする過程、つまり、労働者の部分労働者化、資本の「全体労働者」化でもあり、実際には容易な過程ではない。むしろこの容易ならざる過程の結果として、手に負えない労働者の頑固な生活様式に対抗する有効な手段として、繰り返し新たな機械が発明され導入された。この経緯は、マルクスもアンドリュー・ユアの『マニュファクチュアの哲学』(全集版『資本論』の翻訳では『工場の哲学』と訳されている)やチャールズ・バベジを参照しながら論じていた。そして、近代化によって「秘技」から解放された技術は、資本による機械化のなかで、今度は特許という近代的「秘技」によって資本によって労働者から隠され、生産の社会的性格が私的所有によって制約される典型的な資本の利潤構造のなかに取り込まれることになる。
 ところで、機械のリズムによって伝統的な労働者の生活様式を解体できたのかというとそうでもない。ユアは機械化に果たしたアークライトの業績を賞賛しながらも、「システムが完璧に組織され、また労働が極度に軽減されている現在でさえ、農村出身であれ職人出身であれ、思春期を過ぎた年齢の人びとを役に立つ工場労働者に変えることは、じつのところ、ほとんど不可能である」と述べている。つまり、労働者の日常生活が資本主義的な規則に従属するようになった経緯を機械による労働の規則的な行為への転換という方法で実現するにはあきらかな限界があったのだ。単純労働者は容易に取り替えがきくから、解雇が容易であることは事実としても、逆に単純労働者もまた、熟練工の秘技による排除を回避して資本を渡り歩き、よりよい条件(賃金ではなく自由なリズムでの生活)が可能な職場を探し歩くことも可能にした。ユアは機械だけでなく、また力による抑圧だけでもなく、「道徳律」の重要性を強調する。
「どの工場所有者にとっても、比類ない関心事は、機械装置の場合と同じくらい強固な原理にもとづいて道徳装置を編成することにある。そうしなければ工場所有者は、すぐれた生産物に欠かせない、確かな手の動きや、注意深いまなざしや、素早い協力などを支配できないのだから(注12)」
 この道徳律を労働者階級のなかに浸透させるうえで重要な役割を果たしたのが、ジョン・ウェスレーが創設したキリスト教のメソジストだった。メソジストが労働者階級に大きな影響をもった点にE.P.トムスンは着目した。トムスンは労働規律としてのメソジスムの効用は明確であって「多くの労働者がこの心理的な搾取に屈服した(注13)」と述べ、その経緯を子細に論じてもいる。メソジストの教義そのものはきわめて厳格であって、子どものしつけはいまでいえば虐待とみなされてもおかしくないほどの厳格さを要求していて、19世紀末の研究者でさえメソジストの道徳律を「恐しい宗教的テロリズムの体制(注14)」と述べているほどだ。しかし、むしろこの教義が実際のコミュニティのなかでは様々に変形されたり緩められたりしながらも、新興の教会が、閉塞した労働者の精神的な拠りどころになる経緯は、現代のドナルド・トランプ政権下での福音派やイスラム国など、多様な形で存在する宗教的な意識と共通するところが多い。機械と道徳が一体となった「装置」として人口を制御するシステムが求められていたという点は、労働者の階級意識と階級闘争、あるいは労働をめぐる道徳律と拒否をめぐる反資本主義運動内部に現在に至るまで持ち越されてきた課題を、19世紀の機械の時代にも見いだせるということでもあり、機械と道徳の問題がいかに資本主義の本質と密接に関わる課題であるのかを示してもいる。だから、本連載の関心はコンピューターという機械が要求する道徳装置の編成という課題を通じて、創造的なラダイトの可能性をどこに見いだせるのか、ということにもなるだろう。
 民衆が近代資本主義のなかで労働者として再定義されるなかで、機械と市場の合理主義によって、その意識が一方的に規定されるというよりも、この経済的土台が要請する意識を道徳律によって補完する場合に、ある種の宗教的な信仰に依存しながら、近代社会における封建制や前近代社会とは異なるコミュニティの人格依存的な紐帯の再構築がなされることになる。この過程で、労働者の労働に関わる知識は宙吊りにされて資本の側に囲い込まれることになる。この知識の資本による占有が、資本主義における私的所有がもたらしたあまり注目されてこなかった側面だが、それが情報資本主義からコンピューターによる資本主義のなかで中心的な役割を担うようになる。

1-2 身体性の搾取をめぐるコンテクスト

知識・技術・身体性の搾取

 労働者の知識、あるいはより一般的にいって民衆の知識が近代資本主義では資本の「知識」として囲い込まれて私有化されるという問題は、身体の〈労働力〉化にともなう重要な局面だ。労働者は肉体労働を資本の機械に従属させられるだけでなく、労働=生産過程に必要な知識を細分化され、意味を剥奪されて資本に独占され、その知識の共有を阻まれる。
 資本の生産=流通の全過程を、生産手段と〈労働力〉の結合による生産物の生産と、この生産物の流通と市場での貨幣への転化という観点から、資本と労働者の間で知識の流れがどのように構成されているのかをみると、労働者は一貫してその知識を機械と資本家による監督のなかで抑制されるか、資本家が与える知識の流れに自らの意識を同期させることを強いられていることがわかる。この過程は、一般に生産手段の私的所有に伴う特許や知的財産権としての側面と、同様の効果を労働者の側に及ぼす特殊資本主義的な知識の占有過程でもある。一方が機械をめぐる技術に関わる私的所有であるとすると、もう一方は〈労働力〉商品化によって労働者が引き渡すことになるのは、彼の知的能力の資本による抑圧や囲い込み、つまり道徳律の貫徹の過程、トムスンがいう「心理的搾取」だった。これはいずれも、本来は労働者に帰属すべきものが資本家の技術あるいは知識として現象するものだともいえるが、むしろ、機械の設計思想と資本による労働組織に知的所有と心理的搾取を組み込むこと、つまり、exploitation by designが内在していることを見逃すわけにはいかない。こうした技術は、生産過程に関わるものだけでなく、資本の流通過程に関わる技術や会計、労務管理、商品の販売といった一連の技術として、市場と資本の組織に固有のものとして、資本主義的な意識の形成を伴う特殊歴史的な発展を遂げる。この一連の過程を私は意味の剥奪と呼んできた。剥奪された意味の空白を埋める代替的な意味が、19世紀であればメソジストに象徴的に現れた宗教的な信条だったように、何らかの意味によって埋め合わされる必要がある。この支配的な埋め合わせと階級意識、反資本主義の意識との対抗関係こそが、イデオロギーの領域での重要な闘争課題になる。したがって、心理的搾取をレトリックとみなすべきではなく、こうした搾取は剰余労働の搾取とともに資本主義における搾取の重要な側面であって、この意味での搾取からの解放もまた、コミュニズムの重要な主題となるべきものだ。
 この知識の私的所有、あるいは心理的搾取は、資本の直接的な支配の領域を超えて人々の日常生活領域にも深い影響を及ぼすようになる。消費生活の水準が「向上」すればするほどその傾向が顕著になる。20世紀の資本主義は、文化産業あるいはメディア産業の成長に伴う知の商品化、あるいはコミュニケーションの市場経済への統合によってこの生活世界への浸透が進展する時代となる。大衆文化としての映画、ラジオ、テレビといったメディアのコンテンツが知的財産として資本の所有に帰してきたという20世紀の歴史があったからこそ、コンピューター化の歴史とプロプライエタリなソフトウエアによる不透明でブラックボックス化するコミュニケーション制御技術の生活過程への浸透が可能になった。歴史的にみれば重商主義のイギリスが最初に導入したといわれる技術をめぐる特許制度、1624年の専売条例にまで遡ることができる知の商品化過程と〈労働力〉の意識を一定の道徳律によって制御するために宗教的な信条を動員する非合理な世界が、21世紀のコンピューター化による資本主義へと継承される、とみることができるだろう。ここには、合理主義と非合理主義の資本主義的な不器用な「統一」の試行錯誤をめぐる歴史がある。かつて機械が労働者の日常生活のリズムをも制御することができず、結局は道徳律を宗教的な非合理に委ねざるをえなかったように、コンピューターのコードやプログラムもまたそれ自身の内在的な合理性によっては人間の非合理な行為を制御することはできず、やはり宗教的な非合理に委ねざるをえない事態が顕著にみえる(注15)。
 私が関心をもつのは、労働の主体である労働者としての役割を担う人間の生存様式そのもの変容とは、資本による形式的包摂の段階から、単純労働化、知識の資本による囲い込みを経て、資本による実質的包摂へと変容させる一連の過程がもたらす全体的な心身変容である、という点だ。剰余労働に限定されることなく労働の総体が「搾取」される過程へと巻き込まれていくことを見逃してはならないと思う。マルクスが明らかにした経済的搾取が搾取の全体なのではなく、同時に、社会を統治する力を奪い(政治的搾取)、人間の自己理解を書き換え、存在の意味を剥奪することが搾取の全体を構成する。近代資本主義が人間を人間として扱いえないことを私は身体性の搾取と呼んだが(注16)、この搾取過程は、いわゆる経済的貧困の問題に限定されないのであって、意味の剥奪と資本による意味の再構築を伴う総体としての人間そのものの資本主義的な再構成である。これがコンピューター化によるデータ化する人間の前提になるとともに、コンピューター化による資本主義的な人間の進化の意味することにもなる。だから、剰余価値の搾取からの解放は、解放の戦略の必要条件であっても十分条件ではない。人間が「労働者」となることによって再構成される人間の意味が、膨大なデータに基づく可変的な客体として処理される現代の「私」は、搾取の実態を経験的な実感として捉えることができたと主観的に感じられたとしても、その実感を超えたところで、実感されない広大な領域に拡がる「私」の意味が搾取に晒されていて、これを取り戻す闘いは、社会的平等に基づく自由の領域の創造においてのみ可能なのであって、現代に固有の資本主義的生産様式とイデオロギーの構成の全く新しい地平での闘争の配置を必要とするだろう。
 19世紀から20世紀にかけて、資本と支配者たちは、プロレタリアートに社会変革の主体の位置を与えないような主体の変容をもたらす生産様式と生活様式の再構築を目指してきた。資本が導入するテクノロジーもまた、この視点を通じて評価されることが必要になるのは現代でも変らない。

経済的価値をめぐる資本主義のパラレルワールド

 19世紀の機械制大工業への転換の時代を目撃したマルクスによる資本主義批判の理論的パラダイムの根本にある労働価値説は、労働を社会的富の根拠とし、資本の利潤の源泉を労働者の労働に見いだし、社会の豊かさは資本が生み出すのではなく労働者が生み出すものだから、資本が存在しなくても社会は存続可能であると指摘することによって、資本主義の歴史的な限界を理論的に明確化し、19世紀の労働運動の正当性を根拠づける重要な役割を担った。『資本論』の刊行当時から現代に至るまで、彼の理論の核心にある労働価値説については厳しい拒絶にあってきた。マルクスの経済学が学問の世界で主流の位置を占めたことはない。労働が価値の源泉であるというマルスクの主張が必然的に導き出す資本家への道徳的な批判が、理論的な問題以上に支配階級の感情的な拒否を生み出したとE.J.ボブズボームは指摘している。この意味で、労働価値説は、理論的な批判に加えてイデオロギー的な「批判の砲火」を浴びることになる(注17)。
 20世紀初頭にかけて、資本主義は、マルクスの資本主義批判と労働運動、社会主義、コミュニズム、アナキズムの運動に直面して次のステップへと展開していく。一つには、資本主義の正当性、とりわけ資本が社会の豊かさを担う主体であり、市場経済がその不可欠な機構であることを証明しようとする一連の資本主義擁護の学説が登場する。いわゆる限界革命とよばれる経済学説の台頭である。労働価値説を否定し、労働者の労働と社会の富を結び付ける一切の論理を否定する理論体系が構築される。これが、のちにケインズ理論と呼ばれる考え方とあいまって、現在の主流の経済学を構成することになる。社会を数理的なモデルによって分析可能であるとみなし、マルクスが採用した弁証法的な論理構成をとらない。同時に、マルクスが実証主義を退けて、経験的な事実によっては論証しえない資本主義の搾取の構造を論じたのに対して、統計データを「事実」とみなしてデータを解析することによって、経済システムの動向を把握し、これを理論にフィードバックさせる方法が科学的な方法とみなされることになる。こうした支配的経済学がとる方法と理論の前提に置かれる資本主義は、コンピューター・テクノロジーが支配的な社会にあって、コンピューターのプログラムが前提する理論的な方法と共通する。つまり、経験や実感からは把握しえない社会の歴史的な構造を理解する方法をもたず、弁証法のような矛盾する要素をともにかかえこむことができず、与件とされたシステムは、与件そのものの否定という究極の否定としての結論をあらかじめ排除し、どのような結論も既存のシステムを維持することが前提される。
 19世紀が肉体的な熟練を単純化して資本の下への労働者の従属を可能にする基盤が形成されたとすると、20世紀は、この過程がいわゆる「精神労働」の世界で繰り返される時代だったとみることができる。「精神労働」の展開は二つの局面をもっていた。
 一つは、単純労働化した工場労働者をめぐる問題である。労働行為は、工場での物質的生産に関わる肉体労働だが、どのような肉体労働であれ、人間の労働であるかぎり「頭=脳」の問題を抜きにすることはできない。労働者が資本の管理・支配を受け入れるかどうかは、労働者の意思に関わる。前述したように、トムスンが論じた道徳律の形成にメソジストが果たしたような役割の構造から、資本はより積極的に、自らの資本の運動過程に意識を制御する仕組みを組み込むようになる。意思の問題を労働の単純化と機械への従属という客観的な環境を通じて強制する手法に加えて、労働者の意識そのものを資本に従属する意識へと変えるための技法の開発が20世紀資本主義が取り組んだ最大の課題だった。というのも、アントニオ・グラムシが述べていたように(注18)、労働者の労働が単純化したとしても、労働者の頭もまた単純化するわけではなく、単調な繰り返しの労働をこなしながら労働者たちは、頭を使って資本の支配への抵抗のための作戦を練ることが可能であり、労働者の意識を資本が直接支配することは容易なことではなったからだ。そして、マルクスもまた労働時間の短縮をめぐる闘争で、資本が長時間労働を追求するのは、単に、絶対的剰余価値の生産を求めようとする意図だけではなく、労働者に自由な時間を与えることのリスクを自覚していたからであり、逆に労働運動にとっては「労働時間の短縮は、精神的教養にあてるべきより多くの時間を労働者階級にあたえるためにも、絶対に必要」であり「彼らの究極の解放を達成するための第一歩(注19)」だと主張していた。その後の資本主義の展開をみればわかるように、労働時間の短縮によって生じる自由時間を資本は娯楽の時間として資本の消費過程に包摂した。非労働時間をめぐるこの階級闘争は同時にイデオロギーの再生産をめぐる闘争であり、意味をめぐる争奪でもあるのだが、労働運動がもっぱら労働時間の短縮を労働過程の過酷な労働の問題として理解してしまったために、自由時間と私生活を資本の支配下にみすみす譲り渡すことになった。20世紀の資本主義では、産業心理学が発達し、フォードは移民労働者の日常生活をアメリカ型のライフスタイルや英語教育などによって生活をまるごと資本主義の価値観によって包摂しようとした(注20)。こうした流れが、その後、大衆消費社会や「豊かな社会」としての資本主義モデルとイデオロギーの形成へと繋っていく。この問題は階級意識の解体とともに、20世紀には当たり前になる普通選挙権によって労働者もまた有権者としての政治的な権利を獲得したことに伴う国民国家への意識的な統合、すなわちナショナリズムの浸透を伴うために、労働者の国際主義もまた解体し、これが20世紀型の社会主義を標榜する権威主義国家の誕生を支えてしまう。
 21世紀の機械の問題は、この20世紀の資本による意識生産が限界を迎えるとともに、再び、現代のメソジスト的な様相の登場とともに新たな機能をまとうことになる。コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的な社会は、コンピューターをモノの生産から人々の意識の生産へ、意識の生産から感情の生産へと展開していく流れのなかの最後の段階、つまり感情を含む人間の「脳」の活動を代替しようとする一方で、コンピューターは、19世紀の機械制大工業のなかで機械が工場労働者の肉体労働を支配したように、人々の日常生活の言動を支配するための装置になるような方向をもって開発が重ねられてきた。その現在の帰結が人工知能の産業への応用から日常生活への応用へという広がりということになる。こうなると、技術をめぐる問題領域は、一方で機械をめぐる問題でありながら、他方で、コンピューターが関与するほとんどあらゆる産業分野を横断する構造転換(いわゆるデジタル・トランスフォーメーション)にとどまらず、コンピューターが媒介する人間のコミュニーション領域をも包含するようになる。CTCは、人間のコミュニケーションと融合する局面、つまり機械による(象徴的)言語や表現の領域と人間のそれとの関わりといった切り口を介して、人間の文化的な営為を巻き込み、経済的土台は上部構造と不可分一体のものになる技術的な前提を獲得することになる。人間の言語行為が、人間とは全く異なるプロセスによるAIの言語と競合し、あるいはコミュニケーションすることによって、それ自体が新たなコミュニケーションと言語環境を構成するという、これまでにはない世界が、資本主義の基本的な構造を前提として形成されつつある。これは技術決定論を意味しているのではなく、技術の展開ベクトルは、人間の言動を予測と操作を通じてコントロールしようとする資本主義社会が抱いている支配欲望の実現に一歩近づくことを意味している。資本主義にとっての最後のフロンティアが、人間の言動の未来領域を資本の領域のなかに確実に囲い込み、予測可能で操作可能な存在へと変えることによって切り開かれる領域だ。この課題の実現のために、資本主義はCTCに賭けた、といってもいい。

非合理性と近代の科学技術

 20世紀半ばに、ルイス・マンフォードは次のように述べている。
「人間の単なる動物状態からの離脱に伴なう不幸は多かったが、その報酬は大きかった。人間が幻想や計画、欲望や意匠、抽象や観念を日常経験の平凡なことと混合させる傾向は、今も見られるように、限りない創造力の重要な源であった。非合理と超合理を分ける明確な線はない。そして、この対立した能力を扱うことは、つねに人間の主な問題であった。技術と科学にたいする今日の解釈が皮相的であることの理由の一つは、人間文化のこの面が、人間存在の他の部分ばかりでなく超越的な願望と悪魔的な強制をも受け入れやすいこと―そして、今日ほどそれらを受け入れやすく、害を受けやすいことがなかったこと―が見落されていることである(注21)」
 支配者が人々の言動の将来を把握し支配したいと考えることは、いまに始まったことではない。支配者が予言や占いを好むように、彼らは未来永劫の支配者としての安泰をなによりも願望する。人類史あるいは文明史のなかで、近代も含めて、この領域の大半を占め、最も大きな影響力を発揮してきたのは宗教だった。近代は宗教を二番手に退かせ、科学がこれにとってかわるが、宗教的非合理は、科学には不可能な人々の心理と意識に対して深い情動を、しかも非合理性を前提としたそれを刻み込むことができるために、相変わらず維持されるか、文化のなかに伝統などとして姿を変えて人々の非合理な日常意識を支えることによって権力の正統性を支えつづけている(注22)。このことは前述した19世紀のメソジストの事例でも言及したとおりだ。
 実はコンピューターが日常のコミュニケーションの生活必需品になりながらも、大衆の日常生活行動――不/非合理で非科学的な振る舞いも少くない――は本質的な影響を受けないままだ。ほとんどの人々はコンピューターがどのようなメカニズムで作動しているのかを知らされないし、コンピューターを動かしているプログラムも理解すべき知識だとはみなされないどころか、むしろこの「秘技」から遠ざけようとさえされてきた。コミュニケーションを成り立たせている技術がどのような仕組みなのかわからないまま、企業や政府の宣伝を鵜呑みにしてコンピューターを受け入れてきた。もし人々が、合理的で科学的な精神をもち、コミュニケーションに関する人間の権利や基本的人権の憲法の理念を日常生活で具体的に実現することに関心があるとすれば、コンピューターのような複雑で理解することが困難なものは容易には受け入れられないはずだ。他方で、コンピューターの開発者やプログラマーは合理的な世界にどっぷり浸っているわけではなく、偏見や差別、あるいはカルト的な世界観を同時に抱いている場合があっても不思議ではない。この意味でコンピューターは、実は近代世界における人々の不/非合理な日常生活や情動、言動の世界と表裏一体であって、この矛盾した構造を超越したり解決する技術ではない。この問題は、21世紀のフェイクニュースやヘイトスピーチのような不合理な表現行為を考えるうえで重要なことなのだ。
 そもそも近代社会の支配的なシステムをなす「資本主義」とは、マルクスの議論を念頭に置いていえば、資本の経済支配と国家による統治権力の独占という二つの下位権力からなる歴史的な社会だ、ということになる。資本と呼ばれる経済組織(注23)が、社会を構成する人口の必要とするモノを供給し、同時に統治機構=国家のとって必要な財政的な裏付けを創出する。資本による市場経済が社会の経済を支配するようになり、人々の生存の基盤を根底から転換させた。とりわけ〈労働力〉と土地が市場で売買される商品になることによって、国家権力の基盤となる領土と人口が市場に接合されることになる。これが資本主義を歴史的にそれ以前の社会から区別する根拠をなすことになる。この意味で、国家もまた近代に固有の統治機構なのであって、文明と呼ばれる古代社会以降の様々な社会の統治機構との共通性は、近代国家がその正統性を確立するために持ち出してきたイデオロギー的な歴史のナラティブのなかで人工的に構築されたものだ。
 コンピューターによって接合された社会関係に規定された人間関係を生み出す直接的な歴史的前提が機械制大工業だったとすれば、そしてこの両者に共通する社会統治のシステムが市場と国家であるとすれば、この全体を規定している構造がどのようなものであるのかに関心を寄せることは、近代と呼ばれている社会のいまだそのなかから脱することもできず、またその次を見通すこともできていない現在、重要な意味あるアプローチだと思う。というのも、資本主義が歴史的社会として一貫性をもっているとすれば、この一貫性が工業化の社会にも、脱工業化=情報化=コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的となった社会にあっても共通した構造が見いだせなければならないからであり、さらには、20世紀の諸々のファシズムにも、いわゆる社会主義と呼ばれた体制と資本主義の体制の間にも、これらとは異なる価値観をもつと主張するいわゆる「西欧民主主義」も、見かけ上の対立はあるにしても、その背後にある共通した何かが「近代」という時間と空間の限定を定義することができるものになっていなければならないだろう。 私は、これを身体性の搾取である、と考えたいのだ。
〈労働力〉としての人間の誕生は、マルクスが本源的蓄積と呼んだ数世代にわたる身体性の再構築過程の結果であり、この過程は現在に至るまで継続している。人間が機械を操作する過程が資本の生産過程に組み込まれることをマルクスは死んだ労働による生きた労働の支配と呼んだが、この機械化を資本が好んだ理由は主に二つある。一つは、時間の効率性である。資本の回転速度が利潤率に影響することから、資本はスピードアップに異状に執着し、機械化を好んだ。機械によって速度を資本がコントロールできるようになり、人間動作の速度の限界は資本にとっての決定的な限界とはならなくなった。もう一つは、結果の確定性だ。設計図どおりに作動する機械が産出する結果をあらかじめ予測することは可能であって、これもまた予測が不確定な人間の労働(明日もまた今日と同じように働かせることができるかどうかは不確定だ)の不確定性を排除して機械を好むことになる。機械に具体化されたテクノロジーの基本的な開発の方向性は、この二つの要因、速度と予測によって規定されてきた。特に予測=計画という側面は、20世紀の「社会主義」も注目した。計画経済がマルスクのコミュニズムのイデオロギーを右翼的に転用したこのイデオロギーは、市場の不確実性を超克する可能性を秘めているものとある時期まで期待されていた。資本がその組織内部での計画性(予測可能性)を高進させながらも、市場そのものを計画的に調整しつつなおかつ「市場の自由」と両立させる方法は、資本による独占というナショナルな経済の一部でだけ実現可能な方法がせいぜいだったのに対して、「社会主義」は、ナショナルな経済全体を国家の計画経済として調整することを法的にも政治的にも正当化しうる枠組みをもつことで優位にあるとみなさた時代があった。
 他方で、「社会主義」の主流もまた合理性の勝利の社会的な体現、あるいは合理性を経済の物質的な基礎において実現することこそが人類の進歩の証しだと誤解した「進歩主義者」という側面では資本主義と進歩の観念を共有してしまった。これが、グローバルな標準としてのテクノロジーをもたらし、その結果として、私たちは文字どおりの意味でのオルタナティブを奪われた。マーガレット・サッチャーが言った意味でのオルタナティブの不可能は新自由主義の専売特許なのではなく、おしなべて、現にある社会システムの淵源をなす20世紀の支配的なイデオロギーのいずれでも体現されていたものだ。私たちが挑戦しなければならないのは、こうしたイデオロギーの殻を破ることにある。
 歴史が弁証法的な展開を遂げる典型的な例が、機械化として始まった資本主義をめぐる20世紀の歴史のなかに見いだすことができる。机上の空論でしかなかった国家経済計画の「社会主義」モデルを実現可能と過信した20世紀の国家社会主義(ナチズムのことではなく、20世紀に存在した社会主義を標榜する国民国家群のことだが)に対して、資本主義は、市場の無政府性というやっかいな問題をかかえ込んできた。資本にとって予測の不確実性は、資本の価値増殖の深刻な制約条件をなしている。競争による将来の不確実性は資本蓄積の足を常にひっぱる。だから競争によって優位に立ち、競争相手の資本を淘汰して独占を指向するわけだ。しかし、これだけで不確実性の問題は終わりではない。
 市場経済は、ほかの経済システム(カール・ポラニーの分類を借りれば、互酬と再分配ということになるが(注24))と決定的に異なるのは、モノの受け手(買い手)にモノの移動の決定権がある、という点だ。しかも、この決定権が、理念的なモデルでいえば、「個人」に帰属する。つまり、貨幣所有者でもある買い手が自分の欲望(ニーズ)に忠実に、欲しいモノを市場で購入する。買うかどうかの決定権は貨幣所有者が独占する。この買い手と売り手の非対称性は、売り手もまた、販売が実現して取得した貨幣を持って市場で買い手になるときには、貨幣所有者としての売買契約の独占的な決定権を握ることで相殺される。

1-3 融合する土台と上部構造――支配的構造の転換

構造的矛盾の資本主義的止揚

 マルクスが資本主義に対する批判的分析の方法として、法的諸関係や国家緒形態、さらには人間精神は「物質的な諸生活関係」に根ざしており、その解明は経済学の領域にあるとしたうえで、これを定式化した端的な文言を『資本論』の『経済学批判』の序言で書いた。これが土台と上部構造という社会全体の見取り図を描いたものとして解釈され、マルクス主義の社会観、あるいは唯物史観(史的唯物論)の定式と呼ばれて資本主義批判の基本的な視点として、俗流化されたり教条的な解釈がまかりとおってきたり、グラムシからルイ・アルチュセールまで資本主義批判の議論にとって欠かせない入り口になってきた。以下、私の議論は、これまでのマルクス主義の掟からするとやや異例の論点を提起することになるかもしれない。結論から述べてしまうと、ポスト・マルクスの時代――マルクス死後の時代のことで、マルクス主義の終焉を意味しているわけではない――の資本主義は、土台―上部構造という定式によるマルクス主義による資本主義批判への対抗の時代だとみることができる。資本が、上部構造の土台化、つまり法やイデオロギーなど統治機構を資本の価値増殖過程に組み込むこと、こうして経済的土台それ自体が上部構造の機能を担うという土台の上部構造化をもたらし、今度は、政治的な統治権力の不可欠な一部をなすようになった資本が、市場の構造に政治的な機能を組み込むことになる。国家の経済学ともいえる財政学は長い学問的伝統があるが、いま必要なのは、ほとんど未開拓な市場の政治学である。20世紀以降の資本主義は、この土台と上部構造を徐々に融合させることによって、マルクス主義の唯物史観に対抗してきた。これがポスト・マルクス、つまり20世紀資本主義における統治の弁証法過程だった。この歴史的経緯をふまえて、この資本主義の対応を脱線させることが左翼に課せられた課題なのであって、そうだとすれば、マルクスの定式に対する大胆なバージョンアップが必要だ、というのが私の主張だ。このなかで重要なことは、コミュニケーションの労働化と資本による包摂に始まり、文化やイデオロギーの領域が資本の投資対象となって市場に包摂され、イデオロギーそれ自体が資本の価値増殖の直接的な領域へと再編されてきたこの1世紀に及ぶ過程をふまえることだ。そして、この構図の上に、産業分野を横断し、市場と国家を横断する収斂技術としてのコンピュータ・テクノロジーを位置づけながら、その限界と矛盾を見いだすことだ。資本が唯物史観の定式を出し抜こうとして展開してきた資本主義延命の戦略は、商品の使用価値が生活過程で果たしたイデオロギー作用を徹底して活用することによって、〈労働力〉の意識領域を資本が占領する方向をとった。資本の本源的蓄積が、地理的な空間の私的所有に始まり、次第に公共空間の市場化(いわゆる規制緩和と民営化)を進めた20世紀資本主義のもう一つのフロンティアが日常生活意識という心理的な空間の囲い込みだった。そして、現在、この上部構造に残された最後の領域ともいえる法と政治による統治の領域と日常生活空間とを資本はコンピューター・テクノロジーのコードによって加重決定できるところにまで到達していると私は考えている。
 そもそものマルクスの『経済学批判』の唯物史観の定式と呼ばれている文章に立ち返ってみよう。定式とは以下の箇所だ。
「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる(注25)」
 資本主義は、このマルクスの指摘に対して、土台それ自身が上部構造を担い、また上部構造が土台となることで、そもそもの「矛盾」を解除する方向をとることで、資本主義的な発展の桎梏と社会革命を回避しようとした。これが20世紀から現在に至る資本主義による反革命の戦略だった。
 ここで私が注目したいのは、マルクスがなぜもっばら物質的生活に着目したのか、このことをどのように理解すべきなのか、である。物質的生活の生産様式こそが当時でいえば資本主義的生産様式の中核をなしており、市場経済もまたもっぱら物の生産の連鎖からなるものだった。植民地での工業原料の生産や必ずしも資本家的とは言い難い家族制生産様式(注26)を含む農業などを周辺に配置しながら、物の生産が主に社会の人口の大半の生活過程への資本の介入の回路だった。この物の商品としての回路を産業資本や商業資本が支配することを通じてしか、人口の〈労働力〉としての再生産過程に介入する術はなかったともいえる。
 存在が意識を規定するというマルクスの定式は、存在がますます直接的に意識そのものの生産過程となり、物質的な束縛から解き放たれて非物質的な存在へと拡張されることによって、資本主義的な完全性を実現しようとする過程へ向かう歴史的な傾向をふまえて再定義される必要がある。唯物論の立場は「物質」主義とは関係ないことをマルクスははっきりと自覚していた。
「生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。物質的生産の部面の外から一例をあげることが許されるならば、学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。生産的労働者の概念は(略)労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである(注27)」
 資本が支配する生産領域が資本主義的な支配の中核をなすということ、19世紀の資本主義は、この狭い土台を通じて上部構造を、一方で労働者の生活過程を、他方で国家の統治機構を基礎づけるという限界があった。だから資本が労働者の生活に影響を及ぼす回路もまた「物質的」な生活手段に限定されざるをえなかったということでもある。マルクスによる生産における物質性の強調は、資本主義が工業化、機械化として発展してきた19世紀資本主義の特徴をふまえて資本主義への批判の核心を資本によって担われる物質性の領域に絞ったのだ。
 上の引用にあるマルスクの「教育工場」への言及は、当時であれば、ある種のたとえ話の域を出ないとしか理解されなかったかもしれないが、むしろこの「教育工場」こそが現代の資本主義の剰余価値生産の主要な現場になっている。こうして、資本の価値増殖が「物質的生産の部面の外」へとその支配地を広げてきたわけだが、マルクス以後の俗流マルクス主義が物質的生産にこだわる狭い労働者主義の罠にはまっているなかで、非物質労働領域に〈労働力〉を動員して剰余価値を生産してきた歴史的経緯を重視しなければならない。ただし、マルクスの上記の文章のなかで、生産的労働者を「労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す」ものと限定している箇所は、さらに踏み込んで、生産的労働者の領域、つまり剰余価値を形成する労働の領域には、直接的増殖手段のほかに――この「直接的」という概念を借りれば――「間接的増殖手段」が存在するのだ、ということをも視野に入れておく必要がある。間接的増殖の最も重要な領域が、生活過程のなかに組み込まれた労働、つまり家事労働領域である。資本との直接的雇用関係の外にあって、なおかつ賃金労働者の〈労働力〉の支出を可能にする〈労働力〉再生産過程を支える役割を担う家事労働もまた、価値増殖の担い手であるという観点をも視野に入れておく必要がある。この領域は、労働者の日常生活の価値観のなかに家父長制を組み込むうえで不可欠であって、この家族と人間関係は、のちに権威主義的なパーソナリティの形成をめぐる主要な戦場となる。そうだとすれば、私たちがマルクスの土台=上部構造論を現代資本主義の文脈のなかで評価する場合、中心に据えるべき観点は、その物質性ではなく、資本が生活手段として供給する商品の意識に対する意味形成作用――剥奪された意味の空白を埋める意味――であり、この作用を可能にする狭義の意味での資本の生産関係に還元できない歴史的な意識の再生産構造である。19世紀の限られた工業化の世界に生きたマルクスにとって、資本が供給する商品が非物質的な属性をもつものであるということを念頭の置くことは容易なことではなかったはずだ。それは、20世紀半ば以降になってやっと資本が包摂するようになった領域だからだ。そうだからこそ、この資本主義の展開に含意されている反マルクスの具体化を見逃すことができない。
 さて、非物質的労働の生産的労働としての組み込みのもう一つの重要な領域がある。それが、いわゆる「資本家的労働」としてマルクスが剰余価値を生まないとした資本の流通過程の労働(流通費用(注28)に関わる領域や商業資本のもとでの労働など)だ。
 20世紀の資本主義は、肉体労働を機械を通じて資本の実質的包摂として資本に服従させる一連のメカニズムを前提として、精神労働の実質的包摂が主題になった時代だといえる。これは、資本の規模の拡大に伴って、資本家的労働としてマルクスが分類した管理や資本の流通過程における労働(販売労働がその典型だろう)を労働者に分担させることが必要になった。資本家的労働はマルクスの分類では不生産的労働として剰余価値を生まないとされた。これは資本家本人が「労働」を担う場合を想定しての判断だが、こうした資本家的な活動が労働者に担われることによって、剰余労働がこの領域で新たに形成されることになる、という観点まではマルクスの時代には想定しがたかった。資本が担う「活動」は、モノの社会的な分配であり、生産ではないとみなされたわけだが、社会の維持には、社会の構成員が必要とするモノの適正な分配が不可欠であり、同時に生産と流通を通じた分業関係は、モノの生産と流通だけでなく、これを担う人間相互の関係に必然的に伴うコミュニケーション行為の存在があり、こうしたコミュニケーションもまた様々な労働者によって担われるようになることによって、コミュニエーション領域もまた生産的労働となり、剰余価値を形成するような構造変容を遂げる。必要労働は、労働者が賃金を介して購入する生活手段の価値を意味している。資本家的労働が労働者に担われることによって生産的労働へと転換し、剰余労働を生み出す労働になる。
 身体性の搾取の観点からすると、こうした量的な価値の側面とは別に、労働者が資本家的な意識を「装う」か「内面化」することを強いられる多くの労働が流通過程の労働を構成している、という問題がある。対面での人と人の関係のなかで構築されるサービス労働の多くが営業労働のように、資本の意図を代理して人に意識にはたらきかける労働だ。労働者でありながら資本家の役割を担えるのは、そこに行為の意味に特異な入れ替えが起きるからだ。労働者は階級としての存在に基づく意識ではなく、資本の有機的な機械という存在に基づく意識によって自らの意識を組み替えることになる。階級を資本に代替するこの意識の構造を媒介するのが「国民」意識になる。階級が国民として資本をも包含した意識集合のなかに組み込まれ、そしてそこから資本の意識へと切り替えられていく。〈労働力〉は国民的〈労働力〉として構築されることによって、資本の意識を装うことが可能になる。
 人間の意思(あるいは意志)の問題は、集合的には社会的諸意識形態として現れ、これが階級意識となる場合もあれば、ナショナリズムや宗教的な信仰として表出したり、これらが輻輳し複合したり摩擦を引き起こすこともあるわけだが、どのような「意思」を諸個人が抱こうとも、資本主義の一定の生産諸関係のなかに組み込まれる。人間の意識はその社会的存在によって規定されるために、人間の「意思」の多様性は、社会的存在という枠を超えることはできない。
 資本にとって、労働者としての諸個人は〈労働力〉の単なる担い手であることを期待するが、実際にはそうはいかない。人間は労働者や、ましてや〈労働力〉に還元できる存在ではないからだ。先にユアを引用した際にも述べたように、〈労働力〉それ自体は、資本主義的な生産諸関係のなかに組み込まれた社会諸関係の客体の一部をなすが、労働者あるいはその役割を担う人間は、自らの意思によって文字どおりの意味でも契約上であっても資本にとっては物のようには自由にしえない対象であって、資本はこうした労働者への戦略的な対処の必要を自覚せざるをえない(注29)。
 資本家的労働にかぎらず、人間のどのような行為を労働とみなして、生産的労働へと組み込み、剰余労働をそこから抽出するのかという問題は、あらかじめ決められているわけではない。むしろ市場経済と資本の投資行動のなかで、この生産的労働と剰余労働の形成の範囲が伸縮性をもって対応することになる。たとえば、家事労働は家族内にあって資本の間接的な支配しか受けていない段階では、その利潤への接合は、直接的な市場経済の計算構造のなかで剰余労働の利潤への転化の論理では説明できないが、家事労働領域が市場経済に組み込まれて資本によって供給される商品として登場するとき、直接的な剰余価値形成の構造の内部に組み込まれることになる。国家の官僚組織が住民管理のデータ処理を資本に外注するとき、住民管理の労働は直接的な剰余価値形成の労働に転化する。身体性の搾取は、この搾取の量的な側面を超えて意味の資本主義的な組み替えをおこなう。つまり、人間を〈労働力〉に繋ぎ止め、自由や平等の意味を資本主義のそれに置き換えることを通じて、資本主義からの解放という動機づけそのものを無化しようとする。この過程は、労働だけでなく、労働者が消費する商品の使用価値の意味―イデオロギー・バイ・デザイン―を通じて日常生活のなかで再生産される。こうして問題の観点は、資本によって市場化された領域によって供給される商品が社会的・政治的・精神的過程一般を制約するということそのものということになる。
 資本家にとってマルクスの定式ほど恐しく不安に駆られる規定はないだろう。資本は〈労働力〉を必須とする以上、労働者がその意識をその存在によって規定されざるをえないのであれば、資本家の立場を労働者が内面化する、つまり資本主義的な意識をもつことによって労働者でありながらその存在の本質=搾取される身体性としての生を資本家的に肯定するなどということはありえようがない、ということになるからだ。以降、資本の労働者に対する戦略(注30)は、資本家的な意識が労働者の存在を規定するという逆立ちした関係の構築へと向かう。つまり、マルクス以降の資本主義は、労働者性を基盤とする資本主義批判への応答として階級意識を回避する社会意識の意図的な形成を市場経済のなかにも統治機構のなかにも、そしてイデオロギーのありかたにも組み込むことになる。この資本による挑戦は不可能への挑戦でしかなく、解くことができない難問によってもたらされる矛盾と摩擦が資本主義の常態となる。この矛盾と摩擦が組織的な闘争になる場合もあれば、いわゆる社会的逸脱や社会病理とみなされる場合もあれば、私的な悲劇として片付けられてしまう場合もある。心理的な空間や生活空間を資本が支配する社会にあってはいかなる私的な事柄も社会的な矛盾の表出として解釈されなければならないが、逆に、様々な矛盾や病理を「個人」に還元したうえで解決の政策を構築することによって、国家と資本を免責するような「科学的」なパラダイムが支配的になる。そして、20世紀の歴史を通じて、資本主義が出したマルクスへの、あるいは階級闘争と階級意識を介した「社会革命」を阻止する戦略が、そもそものこの解決不能な矛盾を、土台の上部構造化、上部構造の土台化を通じて構造内部の矛盾を止揚するという方向だった。

資本主義の支配的構造

 経済構造=土台の上に法律的政治的上部構造が立ち、これに一定の社会的諸意識形態が対応する、というマルクスの枠組みに対して、ポスト・マルクスの時代に資本主義は、法・政治と意識諸形態を経済構造に組み込むことによって、土台=上部構造という構造の接合構造から両者を分かち難い一体のものとすることによって、土台と上部構造相互の摩擦を解消する方向へと展開していった。これを実現したのは、資本蓄積の主軸がCTC関連産業へとシフトし、統治機構の情報インフラを資本によって開発されたCTCが担うと同時に、民間部門が政府によっては把握しえない膨大な人口の個人データを収集し、独自に解析できる能力を獲得したことによる。こうして資本は、価値増殖の本性を維持しながら社会的・政治的および精神的生活過程全般を市場に統合する力を獲得した。他方で、政治的な権力は、政治的価値、つまり権力の不断の拡張=増殖を私的な領域や公共領域へ、そして市場へと拡張を図ろうとする。伝統的な手法は政治権力が独占する法の制定権力と徴税権力を用いて、行為者の行動を規制する方法になる。この法と税を入り口として市場と生活世界を政治権力に接合できるのは、人間が法の言語を理解し、対価なしに所得の一部を支払い手段(注31)として政府に対して貨幣を拠出することをよしとする心理がときには内面化されるからだが、そのためには言語の能力とともに社会規範や国家観念の資本主義的な正統性を教育を通じて訓育することが不可欠の条件になる。しかし統治機構には、こうした伝統的な官僚とは異なる新たな役割を担うテクノクラート集団が次第に台頭する。政治権力の側からすると、市場と人口を政治的権力の領域に統合すること、つまり、市場の政治化と家族への国家の介入こそが権力にとっての究極の目標となり、この目標の具体的な実現をCTCが可能にした。こうして、土台は上部構造を呑み込もうとし、上部構造もまた土台を呑み込もうとする。この資本主義的な市場経済の政治化と政治過程と生活過程の市場化という二重の展開は、マルクスが指摘した生産力と生産諸関係との矛盾の資本主義的な止揚という不可能な夢を追うことでもある。こうした傾向はCTCによって突然可能になったわけではない。むしろ20世紀の長い歴史的な背景なしには実現できないものともいえる。その最初の実験が、日本やドイツなども含むプロトタイプのファシズムとニューディールと一国社会主義であり、とりわけ、戦争による社会の総体的な統制の技術と、これを支えるテクノクラートの形成という前史があった。
 資本の拡張領域、上部構造の土台化は、民主主義そのものに深刻な影響をもたらす。従来の上部構造は、政治的権力の自己増殖装置でもあり、社会を構成する人々を権力に接合させるための構造であり、市場と資本の外部にあるものとされた。近代国家が民主主義の政体をとる場合、いわゆる「国民」というカテゴリーに組み込まれた諸個人は、歴史的には財産や性別、人種など様々な社会的属性によって制限されながらも、「主権者」として、法の下で平等な政治的な権利主体となりうるものだという共通理解が共有されてきた。他方で、資本の統治に関する意思決定主体のありかたはこれとは全く異なり、利害関係者に平等な意思決定への参加の権利は認められない強固なヒエラルキーが当然とされている。資本が法・政治過程を包摂し、政治的権力が資本をその一部として組み込むということは、従来の政治過程の民主主義が狭められ、政治的意思決定が資本のブラックボックスに移される危険性をはらむことになる。この一連の過程の物質的基礎をなすのがCTCである。
 新自由主義において顕著な傾向を示す公共サービスの市場への開放は、単なる統治機構の解体・縮小なのではなく、資本の側から眺めれば、資本が統治機構の一翼を政治的権力とともに担うようになることを意味し、その分、民主主義的な統治は後退する。そもそも国家や公権力の公共サービスへの民衆の側の依存という事態は、民衆の相互扶助の解体、つまり、プロレタリアートの自律した世界(注32)の解体を意味していた。そしていま起きつつある事態は、統治機構に僅かに残された民主主義的な権利領域が解体され、統治機構の重要なプロセスが資本の私的な領域に移されているということだ。他方で、ケインズ主義による「大きな政府」が開拓したのは、福祉や社会保障といった分野を民衆の生活世界から奪い、国家がこれに代位する過程――この過程は同時に、階級闘争に内在する支配的構造から自律する傾向を破壊する過程でもあった――であり、戦争に伴う総動員体制を可能にした。この点ではファシズムも「自由主義」陣営も変わるところはない。資本にも国家にも直接帰属することのなかった民衆の自律的な空間は、資本あるいは国家のいずれかの制度へと囲い込まれることになる。ケインズ主義と(新)自由主義はこの意味で、資本主義的な支配の不可分な二つの側面を示すものだ。19世紀までの資本主義では、支配的構造から相対的に自律した領域として民衆のコミュニケーションや文化といった領域が存在したが、20世紀以降、一方で公教育によって、他方で大衆文化の商品化によって、そして、情報通信や交通は政府の財政と民間資本が相互に協調しながら、社会インフラとして構築されることによって、この領域がイデオロギー装置化すると同時に資本の投資の主要な領域ともなることによって、古典的な市場とパラマーケット(広告のように市場に不可欠だが商品化されない情報の流通)の構造が総体として、ナショナルな性格をもつようになる。資本主義は、経済学の教科書にあるような無国籍な市場ではなく、ナショナルな市場でありナショナルなパラマーケットであり、ナショナルな〈労働力〉であり、ナショナルな使用価値の意味体系を再生産する構造を高度化させる。インターネットが市場に開放されて大衆的なコニュニケーションのツールとなることで支配的な(イデオロギー)装置となる直前の時代、つまり、世界を席巻した1980年代の新自由主義も、こうした文脈のなかで理解する必要がある。
 インターネット以降を念頭に置くとすると、その草創期、とくに民間への開放直後に短期間だが、インターネットが国境を越えるネットワークであるというその技術的な基盤から、国家の統治から自由になりうる可能性に期待する声があったし、私も期待した一人だ(注33)。この期待はいまでもその可能性を残しているが、かなり大きく後退してきた。ただし、強調しておきたいが、後退したとしても、各国の政府も企業も完全にインターネットのコミュニケーションを自らの支配下に置くことはできていない。それは技術の問題ではなく、人間のコミュニケーションだからであり、コミュニケーションの自由を維持することが死活問題となる領域が存在するからだ。つまり、様々な傾向をもつ政治的な異議申し立てや抵抗が――このなかには私にとっては全く同意することができない極右やいわゆる宗教原理主義者たちによるものも含まれる――存在するからだ。だから暗号や、これと密接に関わる仮想通貨、捜査機関が侮蔑的に「闇サイト」と呼ぶ匿名性の空間が存在し、さらに私たちはアナログの権利を手放してはいないし(注34)、ウイルス作成罪があるとはいえ、かなりのところまでプログラムを書く自由を維持している。これらは、支配的構造に完全には包摂されていない空間である。
 この連載の後半では、ここで述べたインターネットの時代を対象にして議論をするが、その前に、本章で述べたやや抽象的な議論を、具体的な事例を通じて考えるてみるのが次章以降のテーマになる。コンピューター以前の時代の人間をデータ化し監視・管理する技術を通じて、大量監視の問題は近代資本主義が本性としてもっている人間観に根差しており、監視社会なき資本主義というリベラリズムの夢は現実にはなりえないことを論じる。


(1)“Francis Fukuyama interview:’Socialism ought to come back’”(https://www.newstatesman.com/culture/observations/2018/10/francis-fukuyama-interview-socialism-ought-come-back)
(2)マルクスは労働と労働力を概念的に明確に区別して把握することによって、剰余労働の存在を明かにすることに成功した。 本連載で〈労働力〉とカッコに括って表記する場合がある。これは、人間の労働能力そのものが可変であり、労働者による労働する意思に依存することを明示するための表現だ。労働者がどれだけの能力を発揮しようとするのかという問題は、労使関係のなかで重要な意味をもつ。たとえば、労働する能力を有しながら労働力の発揮をあえて抑制したり停止する(ストライキ)ことは労働者の重要な主体的な側面である。〈労働力〉は変数としての労働力の表現である。したがって、〈労働力〉とは、可能態としての人間の労働能力を指し、これが市場で売買されることになる。〈労働力〉は、伝統的な労働市場では、求人票に記載されているような内容によって固定化される。現実態としての労働能力を市場で売買可能な「枠組み」として提示しうる形式とすることで市場の契約に適応させることになる。コンピューターが支配的な技術になる時代では、資本が労働者の能力を判定するためのデータセットとしてより高度化されることになる。
(3)マルクスの機械についての基本的な考え方については、1868年7月28日に総評議会会議での発言が端的でわかりやすい。「資本家による機械の使用の結果についてのマルクスの演説の記録」、全集第16巻。
(4)『資本論』第1巻、全集23a、560ページ。
(5)注(3)参照
(6) Chris Carlsson, “Processed World: A Political History,” 2019, https://notesfrombelow.org/article/processed-world. Bryan Appleyard,”The New Luddites: Why Former Digital Prophets Are Turning Against Tech”
(7)「この博覧会は、現代大工業が、いたるところで集中された力をもって、民族的境界をとりのぞき、生産や社会関係やそれぞれの民族の性格における地方的特殊性をますます消し去っていることの適切な証明である。博覧会は、現代のブルジョア的関係がすでにすべての方面から掘りくずされているまさにその時にあたって、現代工業の生産力の送料を小さな空間に圧縮して観覧に供することによって、同時に、この土台からゆらいでいる状態のただなかで新社会の建設のためにつくりだされた材料、また日ごとにつくりだされつつある材料を展示するのである」。マルクス゠エンゲルス「論評」、『全集』第7巻。441ページ。「資本家階級は、人類社会がかつてもった富のなかで最も巨大な富のただなかにありながら貧困の運命をになわされている労働者の製作品を、凝視し嘆賞するために、富者と権勢者を万国博覧会に招待している。労働の解放と、賃金制度の廃止と、性別、国籍にかかわりなくだれしもが、共同労働によってつくりだされた富を享有する権利をもつ社会の樹立につとめているわれわれ社会主義者―そのわれわれが、7月14日、パリにおいて会合しようと約束するのは、この労働者となのである」。1889年、パリ万博開催にぶつけて国際社会主義労働者大会がパリで開催された際のエンゲルスによる「招集の知らせ」、『全集』第21巻、555ページ。
(8)『資本論』第1巻a、633ページ
(9)『資本論』第1巻a、633-634ページ
(10)「小農や、まだ囲い込まれていない村落の農業労働者、また都市部の職人や徒弟でさえ、労働の報酬を貨幣収入だけで計算していたのではない。彼らは、毎週毎週規律に従って働くという考え方に反抗したのである」。E.P.トムスン『イングランド労働者階級の形成』市橋秀夫/芳賀健一訳、青弓社、425ページ
(11)本連載では取り上げる余裕がないが、戦前から戦後にかけて、日本には固有の技術論論争の歴史があり、現代のコンピューター・テクノロジーが支配的になった時代からかつての技術論論争を総括することは重要な課題だ。
(12)トムスン、前掲書、430ページから再引用。
(13)トムスン、前掲書、446ページ
(14)トムスン、前掲書、445ページ
(15)こうした技術に関わる知識はそれ自体は物質的な存在ではないが、明らかに経済的土台の一部をなす。この知識自体の背景をなすのは単なる自然科学だけではなく、自然科学を支えた世界観にまで視野を広げなければ近代科学の技術との接点も明らかにならないだろう。この意味で、ルイス・マンフォードが文化や技術の象徴的な側面への着目をマルクスの技術論と和解させる観点が必要になるかもしれない。ルイス・マンフォード『機械の神話』樋口清訳、河出書房新社、参照。
(16)小倉利丸『搾取される身体性』青弓社、参照。
(17)「おそらく、批判の砲火が、これらのもの[労働価値説、利潤と利子の理論]に集中されたのは、『労働は、あらゆる価値の源泉である』という語句にふくまれている道徳的非難が、資本主義の衰退と崩壊との予言以上に、資本主義の確固とした信奉者に影響をあたえた」。E.J.ホブズボーム『イギリス労働史研究』鈴木幹久/永井義雄訳、ミネルヴァ書房、219ページ
(18)「肉体労働だけが完全に機械化されるのである。(略)自由で何物にも邪魔されない頭脳は別の仕事のために残されるのである」「アメリカの企業家たちは新しい産業方式に固有のこの弁証法を極めてよく理解した。(略)労働者は考えるだけでなく、作業から直接の満足を得ておらず調教されたゴリラに変えられようとしているのを理解しているという事実から、ほとんど順応主義でない思考の流れに向かう可能性がある。企業家たちの中にこのような懸念が存在していることは、フォードの諸著作やフィリップの著述から引き出すことができる一連のの予防策や『教育的』イニシアチブ全体から明らかである」。アントニオ・グラムシ『ノート22、アメリカニズムとフォーディズム』東京グラムシ会『獄中ノート』研究会訳、いりす、89ページ
(19)マルクス「労働時間の短縮についてのマルクスの演説の記録」、全集16巻、553ページ
(20)小倉利丸『支配の「経済学」』れんが書房新社、参照
(21)ルイス・マンフォード『機械の神話』樋口清訳、河出書房新社、55ページ
(22)だから、「暦」はいまだに宗教暦に依存しており、日常用語には多くの非合理な言い回しが残り、人々は事実よりも「信じうること」を受け入れる。
(23)資本は日常語では投資のための資金などを指すが、マルクスは「自己増殖する価値の運動体」と定義している。この定義からすると、資本とは資金、〈労働力〉、様々な設備、労働者と経営者からなる人間集団組織などが利潤を目的として一体となって「運動」する組織体そのものということになる。
(24)カール・ポラニー『大転換』野口建彦/栖原学訳、東洋経済新報社、参照
(25)マルクス『経済学批判』、全集第13巻、6ページ
(26)C.メイヤスー『家族制共同体の理論 経済人類学の課題』川田順造/原口武彦訳、筑摩書房、参照
(27)マルクス『資本論』第1巻、全集23b、660ページ
(28)マルクス『資本論』第2巻第6章、参照
(29)人間の意思や意識を制御するという資本の願望が20世紀資本主義の主要な課題をなしてきた。これを国家の側から捉えたとき、そこにナショナリズムの問題が表出する。しかし、こうした意識を監視のテクノロジーによって直接捉えるまでには長い時間がかかった。監視技術は工場では機械体系による労働の組織化によって実現することができたが、国家という枠組みのなかでは、産業組織に該当するような機械体系は存在しない。これに代わるものが、次章の課題になるが、人口を管理するために導入された様々な統計と技術による「全体機械」である。現代のCTCはナショナリズムという意識形態を再生産する経済的土台が上部構造として機能するという方向をとることによって、「階級」意識を解体する資本主義の反マルクス戦略でもある。
(30)本来なら資本と国家の労働者に対する戦略とすべきか、あるいは資本と国家の人口に対する戦略としてより一般的に論じなければならない問題だが、定式をふまえた議論としてあえて「資本」に絞った。また、こうした限定や一般化は、ジェンダーやエスニシティといった無視することそれ自体が理論の死活に関わる観点をも無視した議論になっている。ジェンダーとエスニシティを明確に論点の中核に据えた理論構築がなされるとすると、私が本連載で論じたことの大半は、そのままでは通用しなくなる。しかし、いまの私の能力ではこのような再構成を全面的に試みることができない。
(31)支払手段とは、富の一方的な移転としての貨幣の使用を指す。商品の購入のための貨幣の支出は「購買手段」であり、日常用語ではほぼ同義で用いられるが、マルクスの定義に従って、ここでは区別している。
(32)この世界は、実体として、地理的空間的のどこかに実在するものである必要は必ずしもないが、その可能性を示唆するような現実の運動の存在は重要である。20世紀の初頭まで、つまり、ファシズム、スターリン主義、ケインズ主義が登場することによって、こうした空間は先進国では国家の「福祉・社会保障」によって解体される。その後の長い歴史を省略してインターネット以後に限るとすると、サパティスタや都市部に点在する住宅占拠の空間(ハキム・ベイがいうT.A.Z)など、私たちが想像力を刺激される運動は多くある。
(33)「サイバースペース独立宣言」1996年。日本語訳( http://www.asyura2.com/2003/dispute6/msg/284.html)
(34)宮崎俊郎「デジタル監視法は超監視社会を招来する! アナログ選択権の行使を!」(https://www.jca.apc.org/shiminren/?p=152)

 

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