序章 資本主義批判のアップデートのために

小倉利丸(富山大学名誉教授。専攻は現代資本主義論)

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

 私たちが生きる社会を、文化や伝統を引き合いに出して肯定的に賛美するような言説は、あたかもいまここにある現実を悠久の人類の歴史と未来永劫続く人類の歩みのなかに位置づけることによって、この現実を暗黙のうちに正当化して肯定しようとする保守的で排他的な願望が必ずといっていいほど含まれている。結果として、いまある現実を肯定して生きる以外の選択肢を模索する努力を最初から断念させる。こうして、いまある現実を与件としたうえで、いま可能な微調整(実現可能な対案)に限定するということこそが分別ある行為だとみなされる。
 とりわけ日本に関していえば、数世代にわたって私たちの記憶には、民衆の力が権力を打ち倒すといった劇的な歴史がなく、もっぱら抗いがたいほどの力をもって支配者たちが連綿としてその力を保持してきた絶望的な風景しか思い起すことができない。たとえあの1960年代にまで遡ったとしても、そう言うしかないように思う。しかし、世界では、多くの革命があり敗北もあるなかで、資本主義近代が誇る自由と民主主義が文字どおり実現された国はどこにもなく、また、革命が期待された帰結をもたらすこともまたまれななかで、民衆がいまだに到来しない世界に自らの夢を託すことを心の底から断念したこともまた一度たりともなかった。日本の資本主義近代という時間の幅は、南北アメリカ大陸の先住民が経験してきた時間の数分の一にしかならない。いまだない社会への夢を断念させようとするいま/ここにある支配者たちの目論見を私たちは忘れていはならないと思う。そして、彼らの目論見が冒頭に掲げたようなありふれた日常感覚のなかにひそかに込められているということ、そのこと自体を本連載では問題にしたい。
 現実的な感覚とか科学的なデータに基づく「事実」を判断基準にすること自体のなかに、私たちの可能性を削ぐある種の抑圧が伏在している。私たちは、彼らがいう「現実的」とか「科学」を受け入れて彼らの土俵の上で物事を論じなければならないのだろうか。むしろ、現実と呼ばれるものは、先験的に与えられた誰にとっても同じ客観的な世界であるかのようにみなされているが、実はあらかじめ押し付けられたものを押し付けられたと実感するのではなく、むしろ自らの自発的な理解であるという転倒した意識によって受け入れさせられているものであるし、データもまた現実そのものではなく、現実を一定の方法に基づて構築されたカテゴリーによってあらかじめ抽象化し、一定の理論的な枠組みを前提にして、それ自体としては整合性がある理論に基づくものであったとしても、データは事実ではないし、現実を説明する「エビデンス」でもない(注1)。データは私自身を「データ化」して、データ化された私が、私そのものに取って代わるデータ・フェティシズムをもたらしている。
 私は、ファイクニュースの肩を持っているわけではない。フェイクニュースもまたもう一つのいかがわしい証拠や「エビデンス」を持ち出して自らを正当化しようとする以上、同じ穴のムジナでしかない。日常生活の実感も、科学的と称するデータとその理解も、それ自体に含まれているいまだ見ぬ世界へと至る道を塞ごうとする罠であることに用心しながら、そこから絶対的に切断された立場をとることが不可能である以上、罠に落ることを覚悟しながら罠から這い上がる格闘を覚悟しなければならない。
「本質」なるものの存在が懐疑的な時代であるにもかかわらず、本質に立ち返って、また、いまある現実を将来でも継続するにちがいない現実にすべきではないという明らかな価値観を伴う観点をとることが、いま/ここにある現実を根底から覆すだけの力になりうる。これは実践的な課題であってテキストの役目を超えるのだが、とりあえずは、この役目のギリギリの境界に立つような試みをしてみたいと思う。
 文化や伝統のなかで語られる物語の多くが、科学的な理解によって間違いとされたとしても、私たちはこのことに目くじらを立てることはあまりない。とはいえ、近代以降、科学が現実の社会に応用され具体化されることによって、神学や伝説・伝承の類いを押しのけて人々の世界理解の基盤となった。にもかかわらず、日常生活に伴う感覚や実感の非合理性は、いまに至るまで強固に日常生活のなかに定着し、科学的理性をもって仕事をこなす研究者や技術者であってさえ日常の非合理性は肯定されている。神を信仰するとか、人種的な偏見をもつとか、その実体も明らかとはいえない「国家」に忠誠を尽すとか、こうした一連の行為は、人々の科学的認識と矛盾することなく共存し、逆に、こうした非合理な存在を科学が正当化してしまうような作用さえありうる、ということが近代の歴史が歩んできた道だった。いわゆる「偽科学」とかフェイクをめぐるあからさまな虚偽以上に、この非合理性と科学の平和共存の社会意識のほうがずっと厄介な存在だ。近代日本が西洋の近代科学を経済に応用し軍事力を誇示する一方で、非合理としかいいようがない現人神がなぜ一国の統治機構の中心をなすことが可能だったのか。なぜ科学者は現人神の存在証明を科学的に追求しようとしなかったのか。医学生理学は天皇が神なのかどうかを証明するという責任を棚上げし、法学者は、法の形式合理性の枠組みに巧みに現人神を据えることに加担した。こうした世界理解の和解しようがない亀裂を人々が受け入れることができたのは、そもそも人々の日常生活そのものにこうした非合理性と合理性の間に折り合いをつけるある種の生活様式が形成されていたからにほかならない。これは、日本に限らず世界的な現象である。私たちは、世界のどこであれ、合理性と非合理性の間にかなりいいかげんな「折り合い」をつけながら日常生活を送っている。どのように折り合いをつけているのかといったごく私的な態度や判断は、長い間自己の内面か親密な人間関係かのなかにしか表出しなかったが、誰もが不特定多数にメッセージを発信できるコミュニケーション手段が確立して以降(つまり1990年代以降)、この「折り合い」が可視化され、人々がいかにそれぞれ非合理な世界を抱えているのかが露わになったことで、この厄介な世界が共振しはじめ、世界理解の共通の基盤と思われたものが意外に脆弱であることが示された。自由も平等も実は人々の日常経験のなかでは絵に描いた餅以上のものではなく、常に、この理想を獲得するための闘争を強いられてきただけでなく、それ自体が戦争を内包さえしていて、結果として、ナショナリズムや神観念といった非合理な世界に救いを求めるというパラドクスから逃れることもできなくなった。
 言い換えれば、科学的な正しさが私たちの日常生活や行動を変えうるだけの力を持つとは必ずしもいえない、という問題を、科学的合理性を持ち出して簡単に否定できると考えてきた合理主義者たちのアプローチでは問題は解決できず、その「解決」はときには暴力に委ねられるしかなかったということではないだろうか。非合理性が世界観や価値観として影響力をもつとき、それは、暴力を別にすれば、文化的な表象を通じてその正統性を維持してきた。19世紀が機械と合理主義、あるいは理性の時代であったとはいえ、同時に19世紀はロマン主義の時代でもあり、このロマン主義が20世紀になって大衆的な心情を捉えながら、当時の時代状況に即していえば高度なテクノロジー指向の国家でもあったナチズムとファシズムをももたらした。日本の文脈でいえば高度国防国家であり、戦艦大和を賛美するような機械崇拝と現人神や戦争の美学が大衆の心情のなかで棲み分けていた。日本浪漫派であれエルンスト・ユンガーであれダヌンツィオであれ、ロマン主義は理性を破壊(注2)したというよりも理性を飼い馴らしたのだ。他方で、合理主義者たちが主張する「合理性」が資本主義的な合理性にすぎないという批判は主に左翼から提起されてきた長い歴史があるが(注3)、いま私たちが直面しているのは、日常の非合理を政治的な支配のレベルで合理的な法の支配を超越して拡大し、世界観そのものを過去に向かって覆すような状況であり、私たちが闘わなければならないのは、こうした力に対してである。権威あるメディアや知識人が自国のことや自国民の問題を論じる段になると、その言説のなかに意識されないナショナリズム、あるいはレイシズムなきレイシズム(注4)が容易に忍び込む。習俗とみなされる宗教的な信仰を伝統や文化として肯定する日本の風土のなかで暮らす者たちが、アメリカの福音派の非合理を理解しがたい迷妄とみなしながら、天皇や皇室について語る場合は、その存在の「フェイク」を伝統とみなして肯定するのである。こうしたわかりやすい真実と虚偽の御都合主義的な腑分けよりも問題なのは、科学や学問あるいは文化や伝統の正統性によって裏付けを与えられた世界の基盤にある私たちからみれば明らかな虚偽の世界を人々が正しい世界とみなすある種の認識の転倒である。
 マスメディの時代とは違って、SNSのなかに浸透する心情は、個々人の内心の集合的な発露であって、倫理的あるいは理論的な正しさに還元できない人間の欲望を連鎖的に表出する回路がインターネットの時代に開かれた。フェイクやヘイトはネットに原因があるのではなく、むしろ結果にすぎない。人々を表向き「正しい」とみなす学校文化風の秩序に押し込めることによって、社会の矛盾やどうしようもない汚なさを正当化する強い者たちに立ち向かうことで決着をつけるのではなく、むしろ一人ひとりがあたかも社会の支配者であるかのように思い込むことを可能にする仮想の集団性によって、矛盾や汚なさの側に加担しやすい回路が形成されている。だから道徳的倫理的に「言ってはいけない」という歯止めは、確かに「言わない」という歯止めにはなったのだが、これはそもそも多くの人々がこれまで何世代にもわたってひそかに内面化してきた他者に対するネガティブな感情を表出させないというにすぎず、こうした感情それ自体が消え去ったわけではない。マスメディアの時代には、これで社会の正義を維持することができた。しかし、インターネットの時代には、この内面の差別や偏見、あるいは非合理な集団的な価値観が容易に表出しうるようになる。真理が権力を握ったとみなされる時代に、この真理によって支えられていると称する権力は、大衆のなかに、真理とは言い難い神話や憶測、偏見と差別をも植え付けてきた。近代国民国家が「ナショナリズム」なしには成り立たないということは、国家が合理性によって統治の必要かつ十分な条件を備えることは不可能なのだ、ということの証しでもある。だから解決されるべき問題は、もっと大きくやっかいなものだ。つまり、現代の世界が真理とか理論などとして正しいとみなしてきた世界についての説明が、総体としてフェイクの源泉であるのであって、そうだとすれば、そもそもの真理や理論そのものを疑うことなくして、フェイクの問題は解決できない。人間は社会的な存在であり、社会的な意識がその時代の支配的な制度によって深く規定されるとすれば、理性と科学を標榜する時代そのものに内在する非合理性とのひそかな共謀を暴く必要がある。のちに述べるように、この問題は、資本主義における世界の二重性、あるいは、カール・マルクスが土台と上部構造として論じた社会構造への資本主義からの応答に対する私たちの新たな闘争の構築という課題である。こうした社会の現実があらわになったのはインターネットによるコミュニケーションが現代資本主義の支配的な構造となったことによる。私的なコミュニケーションが社会的な事柄として相互に共振しながら社会総体のコミュニケーションの集団性が形成される。このコミュニケーションの基盤が現代資本主義の資本蓄積の基軸をなし、同時に、これが資本主義の統治機構、つまり国家の正統性と不可分な構造が形成された。のちに述べるように、マルクスの土台と上部構造としての資本主義全体の枠組みは、現代資本主義においてはコンピューターテクノロジーを駆使した土台と上部構造の相互浸透と融合へと向いつつある。市場は政治化され、国家はそれ自体が資本のガバナンスを模倣し、結果として民主主義の居場所は次第に縮小され、データ化された私たちには、サファリパークの飼い馴らされた動物の自由だけが残されることになる。最悪の場合は、生存を保障された刑務所の受刑者のような「生存権」だけしか与えられないことになる。

0−1 あえて罠に陥るべきか…

 こうした現状に対して、私たちがとれる対抗策は、納得を得られるように科学的な知の啓蒙の技法に磨きをかけることだろか。しかし、こうした方法ではたして「陽が昇る」という実感を「正しい」実感に修正することができるだろうか。相対性理論に基づく私たちの日常感覚はどのように構成しうるのだろうか。あるいは、私たちもまた、私たちに敵対するフェイクを超えるフェイクを編み出すというフェイク戦争を仕掛けるという手法が、政治的プロパガンダとしては正しいとしても、社会の正義を実現(いったい何が正義なのかという問題も含めて)するという本来あるべき社会変革のための運動の課題からすれば、理念なきプロパガンダはデマゴーギーにすぎないから、当然採るべき道ではない。もちろん、最大の厄介事は、敵——そもそも誰が敵なのかさえ判然としない——は決して彼らの主張をフェイクだとは考えおらず、私たちもまた、自分の主張をフェイクとは考えておらず、いずれもが自分の主張を真実だと信じている、という救いようがない事態にある。しかし、さらに厄介なことは、こうした厄介事があたかもSNSのような新しい双方向不特定多数を対象にしたほぼ誰でもが発信できるメディアのせいで蔓延したという批判に典型的に示されている誤解だ。多くの良識あるリベラルや既存のメディアを死守したいとつい考えてしまう一昔前の「マスメディア」は、フェイクを阻止する方法として、SNSの発信を検閲すべきだとかアカウントを停止すべきだとかというが、こうした口封じは口しか封じておらず、頭はそのままで、また、キーボードを叩く手の自由も奪えていない。マスメディアが情報発信を独占してきたこの1世紀の間、圧倒的多数の大衆は、口封じ同然の状況のなかで一方的に情報を受け取る側にいることを強いられてきた。この20世紀のマスメディア時代を通じて形成されてきた諸個人のパーソナリティは、内心の声として、レイシズムやセクシズムなど諸々の差別の感情を発酵——腐敗というべきか——させてきた。きわめて私的な会話のなかで繰り返し語られてきたにちがいない差別的嘲笑的な人間観や荒唐無稽な世界観は、その根源にあるのは支配的な社会そのものが構造的に有している差別や偏見、排外主義の個人の意識への反映なのだが、制度の側は、憲法や国連の高邁な人権条項などを口実に、システムに偏見や差別は組み込まれていないとして自らの構造的な問題を不問に付し、個人の言論だけを法の権力を動員して扼殺する手法を繰り返してきた。SNSという手段を与えられたことによって不特定多数への呟きとして噴出する偏見、差別、憎悪の言説は、この資本主義社会そのものの本質的な矛盾の表出であるという視点をこの社会を支持する人々が自ら認めることを期待することはできない。私たちの究極の課題は、そもそものフェイクやヘイトという言論そのものが無意味であるだけでなく、念頭に置かれることも、無意識のなかに抑圧されて延命することもない、そうした言説の存在そのものが不在であるような社会をめざすということだ(注5)。
 こうした呟きの言説の質を長年培ってきたのは、実はマスメディアであったり言論を支配できる教育現場や、権威主義的な政治家たちの言説、そしてこれらを身近で増幅する信頼を寄せる友人や近隣の人々、家族などが繰り返すわけだが、親密になればなるほど、そのコミュニケーションは政治的正しさのメッキが剥がれた歯に衣を着せぬ率直な嫌悪や排除の感情が共有されるという一連のコミュニケーションの構造だったとは言えないだろうか。人間は社会的な存在であり社会的なコミュニケーションのなかでパーソナリティを形成し社会や人間への価値観を形成する。人々は、メディアや教師の政治的に正しいように見える言説が言外に語っている侮蔑や差別のメッセージを的確に受け取っているのではないだろうか。
 太陽は昇るわけではないが、この実感には抗いがたいところがあり、これは、真実ではないことを事実として肯定することがどうして可能なのかということでもあるが、こうした問題が私たちの社会のなかには無数に存在しており、それが些細な日常の事柄であるだけでなく、それが政治的な権力を支える権威の正統性や資本の行動を左右するような大きな問題にもなる。そのわかりやすい事象がナショナリズムや宗教的な信仰だろうが、わかりにくいが社会にとって重要な事象が、本連載の守備範囲に関する限りでいえば、市場経済の構造をめぐる「科学的」な理論の擬制である。市場経済のフェティシズムと呼んでもいいような擬制だがそれ自体の内的な論理は一貫している、というやっかいな存在である。経済政策の策定者から金融市場の売買に関与するコンピューターのプログラムまで、私からすれば——そしてたぶん、非主流の経済学者たちやマルクス経済学者たちにとっても——支配的学説が現実の世界に及ぼす力の問題がある。市場は多くの人たちが見ているようなものではないのだが、そのことをやはり実感することが難しい。
 さて、冒頭に掲げた例え話にはまだ「嘘」がある。時間の流れが太古の昔から変わらない、というふうには社会のなかの時間は流れない。社会は物理的な時間ではなく「暦」として時間を刻み、歴史を(主として)支配者の物語として記録する。残念なことに、「暦」には、重さや長さのような中立的な尺度がない。2021年は西暦であり、キリスト暦というれっきとしたキリスト教の背景をもった時間の尺度である。イスラム暦があり、日本には悪名高い元号がある。どの暦を用いてもとても客観的で中立な歴史の時間を表示することはできない。「暦」に関しては、いかなる科学主義の合理主義者であっても、時間の尺度を自分勝手に決めてもそれをほかの人々と共有する合意を形成できなければ社会的な意味を獲得できない。

0−2 連載の構成

 こうした例え話を通じて本連載の課題を示すとすれば、以下のようになる。
 私たちは、決して完璧な合理主義者として日常生活を過ごすことは不可能だが、同時にまた、完璧に非合理にもなりきれないということ。理論的に合理的な推論によって構築される理論の体系は、同時に非合理な世界と共存できることは人類の歴史を振り返れば自明といってもいい。自然哲学が自然科学の知見からみて明らかに間違った前提にたっていても、そのことをもって自然哲学の意義が全て否定されるわけではない。問題は、科学的・合理的ではない、そうはなりえない人間の社会的な生活存在を前提にして、社会が人々に対して振る舞う抑圧と闘うための基礎をどのようにすれば築くことが可能なのか、という問題である。この問題は、合理主義と非(不)合理主義との相克としてとらえたり、感情の哲学・思想、バールーフ・スピノザ、フリードリヒ・ニーチェからアンリ・ベルクソンやアルトゥル・ショーペンハウエルといった思想家の系列をイマヌエル・カント、G・W・ヘーゲルからさらにはマルクスといった唯物論へと至る系譜と対置させるというよりも、こうした思想の世界(マルクスを哲学に還元すること自体が間違っているが)に向かうのではなく、現実の社会へと目を向けることで、社会を変革するための手掛かりを、合理主義的な資本主義批判でもなく、かといって非合理を梃子として情念の革命を構想するのでもない、ねじれた世界へと出立できるような準備をすることを考えたい。
 とりわけこうした議論が重要なのは、現代の資本主義が逢着している事態が、まさに合理主義の徹底的な追求のなかで人間を再定義する方向で資本主義の延命を図る方向がかなりはっりしてきているからだ。つまり、コンピューターが支配的な技術になり、ほぼ社会の全ての領域で、私的な領域であれ公的・国家的な領域であるかを問わずに、コンピューターによって処理されたデータとしての私が、新たな私の自己同一性形成にとっての不可欠な要件をなすようになってきたために、資本主義はますます人間の合理的とはいえない振る舞いをいかにしてデータ化してコンピューターのアルゴリズムの世界に翻訳しうるかというところに追い込まれてしまっている、という問題である(注6)。
 なぜコンピューターテクノロジーが「発達」することになったのか、その動因とともに、その発展の方向性、とりわけデータ処理の高速化(ビッグデータ)、ネットワーク化、予測と予防(AI)としてあわられている状況を、経済の相からみれば資本主義的な生産—消費様式の構造的な再編の問題であり、政治の相でみれば資本主義的な権力様式の構造的な再編の問題であり、軍事の相でいえば武力攻撃と軍の配置における地政学の根本的な転換(サイバー戦争におけるスペース)の問題であり、イデオロギーの相でいえば文化様式の構造的な再編の問題である。これらが、いずれもコンピューターテクノロジーと不可分一体のものであるということがもっている広がりはほぼ私たちが住む世界全体を覆うだけの広がりとなっている。最もミクロな領域でいえば、遺伝子や生物学上の諸現象が情報として捉えられ、工学との境界があいまいになっていること、マクロでいえば、気候変動のような地球規模の自然の変化を把握すための方法もまた情報としての自然の把握を介してのことになっており、情報科学抜きには成り立たなくなっている。そして人間自身もまた、アナログとしての生身の人間もまたデジタルの膨大なデータの束として、そのつどの必要に応じて必要な組み合わせが抽出、解析され、そのつど「私」と呼ばれる存在の実体が一時的に再構成される。「私」を取り巻く空間もまた、地理的な空間がもっている絶対的な実在性に対して、地図が現実の空間をその目的に応じて抽象化するように——自然の地形、行政区画、車の運転に必要な道路情報、グルメ地図など——空間は必要に応じて必要な情報の組み合わせによって提示される可変的な情報の束であり、しかも、地理的空間の制約を超えて、カテゴリーで空間を再構成することも当たり前にできてしまう。
 これは一見すると技術革新であり進歩であり、人工的な知能による新たな支配の可能性をいま/ここにある支配者たちに夢想させることになっているが、しかし、むしろ政治が合理的な側面と非合理で予測困難な行動の側面の弁証法として構築されているという、その支配の軌道から脱線しつつあるということも示している。このことは近代の政治的な理念としての民主主義が果たすべき統治の実効性を削ぐことになりかねない。
 話がここで終わるなら、ある種の資本主義の終わりのような(私たちにとってはハッピーエンドな)筋書きになるが、こうした高度なコンピューター的な合理性がもたらす矛盾から運動の欲動が備給されているのは左翼だけではなく、むしろ右翼や保守主義者もまた、左翼以上に、このコンピューターが支配的な社会の新しい合理主義に異議申し立てをしている。彼らのスタンスははっきりしている。合理主義近代の裏面にへばりついている非合理で近代以前を諸々の形態で想起させる(本当に近代以前にそうした形態が存在していなくてもかまわない)表象や文化の領域を足掛かりにしながら、さらに、伝統を過去へと遡りながら、彼らにとっての社会の正当性の根拠を再構成しようとする。この傾向は、表れは様々であっても、どの社会にも見いだされる反動のプロジェクトである。彼らは、コンピューターの合理主義がとりこぼしている人間の非合理な側面と、これに付随する感情を高度なコンピューターの世界に接合して補完する。あたかもスティームパンクのように、歴史の時系列を伝統や過去への眼差しに依拠しながら未来を観る、つまり未来を過去の伝統に則して、しかし技術のあり方としては高度にコンピューター化されたデータ化された個人の存在を徹底して肯定することで、資本主義の将来をこじあけようというのだ。たぶん、こうした世界は、民主主義を壊死させながら資本主義は生き残るということになりかねない。独裁と民主主義のコンピューターテクロジー至上主義による弁証法的統一、これが資本主義の次の時代を特徴づけるのであれば、私たちもまた、この構造を正面に据えた闘いを模索しなければならない。
 上記で描いたような世界からは見えない世界がある。それは、一般に、フェイクとかポストトゥルースなどと呼ばれて極右の陰謀や政府のプロパガンダ(政府の広報やウェブページのデータの類い、議会の議事録などを含む)や、無名の庶民が引き起こすネットの炎上やリベンジポルノやネットのテクノロジーと深く関わるようなハッカーや金銭動機から政治的な動機に至る「犯罪」とみなされている世界だ。社会が容認しえない動機や情動にコンピューターコミュニケーションの社会基盤は手段を与えているとみなしてしまえば、手段を遮断することで動機の実現を阻止すればいい、という安直な対症療法に陥るが、ほとんどの政治的な対処はこの範囲を超えることはない。他方で、動機を問題にするときには、必ずといっていいほど、社会から逸脱した動機を社会が「正しい」とみなす情動へと矯正(強制)することに向かうことになる。しかし、いま起きているのは上記のようなモデルではない。極右がメインストリーム化し、保守と革新が議会政治では本質的な差異がない存在へと収斂しつつある現在、極右の陰謀と政府のプロパガンダは「正史」の位置を獲得し、政治的社会的マイノリティの言論空間は構造的暴力に晒される。社会から逸脱した動機がある特定の傾向に正統性を与え社会基盤へのアクセスを保障するという事態が世界規模で起きている。こうして、左翼の言説だけが周縁化され、ときには「犯罪化」される。いま起きているのは、私からみて陰謀やフェイクであるとみなしうる事柄が、政府のプロパガンダとともに、その正統性を主張するときに、常に、神話を含む過去の物語が参照される、という事態だ。過去を参照し、過去を再定義するなかで、未来への可能性を見いだそうとする伝統主義だ。
 しかし、左翼はこうした状況に十分に対処できないように見える。過去は未来を創造するための否定的な教訓の書庫であって決してそこに立ち返るべき場所ではない。未来は、ある意味でいえばいまだにありえない世界の一(はじめ)からの創造であり、とりわけ、その条件は、現にある資本と国家が構想できるようなものとは本質的に異なる、つまり彼らには到底理解することができない世界を創出することでなければならない。この任務をいま現在の世界と過去の記憶と記録からなる総括という限られた駒を使って進まなければならない。
 このときにやっかいなのは、資本主義が過去に梃子の支点を置きながらも、未来という時間を先回りして常に彼らの世界のなかに囲い込むことに長けているという点だ。後述するように市場経済と資本の投資行動の基本がこの将来=未来への投企であり、コンピューターもまた予測の技術として開発されてきたという経緯のなかに、未来は過去の軛にとらわれ、私たちが描くべき夢を次々と市場の商品や国家の愛国心が奪いとってしまうメカニズムが存在している。このメカニズムそのものを解体する闘いを組むことが必須である。運動が資本と国家にとっては不可能な夢を見る必要があるのだ。本連載はそのための模索である。
 こうした見通しをもって、本連載が意図していることは以下の点にある。
 第一に、資本主義批判の核心となってきたマルクスの資本主義批判、とりわけ搾取をめぐる理論の拡張である。剰余価値論として商品価値論から導出された搾取の理論に対して、本連載は、マルクスが十分な検討を加えないままにした商品の使用価値を正面に据える。商品の使用価値は、その消費を通じて人々の生活を再構成して人口の日常的再生産と世代の再生産の具体的なありようを規定する。ここで問題になるのは、労働の量ではなく、市場での使用価値の調達から消費に至る過程のなかで商品の使用価値をめぐって形成される「意味」が人々の意識に作用するあり方だ。この過程は、資本主義における意味の剥奪を通じた身体性の搾取であり、これを通じて資本主義において人々は〈労働力〉となる。マルクスの搾取の理論に加えて、より包括的な搾取の構造がここにはある。こうした意味での使用価値を論じるには、狭義の意味での市場だけでなく市場を取り巻く情報環境、コミュニケーションのあり方を視野に入れなければならないが、現代資本主義はこの分野をコミュニケーションの労働化によって資本に包摂するようになる。これまでパラマーケット論として述べてきた議論のアップデートを試みることになる。
 第二に、資本主義の人間嫌いが機械化をもたらしてきた過去の経緯のなかで、人間をデータ化し管理する方向で開発されてきたテクノロジー進歩はいったいどのような思想によって支えられてきたのか。この問題を、行動主義からコンピューター科学へと至る人間を操作可能な対象とみなす道具主義的合理主義を中心に、監視社会を支えるイデオロギーとして批判を試みる。
 第三に、資本主義の基本的な構造を土台—上部構造として描いたマルクスの議論が、その後の資本主義によって脱構築される経緯こそが20世紀資本主義の生き残り戦略の基本にあることから、土台と上部構造が一体化する傾向をもっていることを指摘する。イデオロギーはもはや上部構造ではなく、これ自体が経済的土台が担う領域になる。そして法もまたコンピューターのアルゴリズムやプログラムに取って代られることによって、資本のテクノロジーが優位を占める。
 第四に、こうした傾向を支えているコンピューターコミュニケーションはこれまでのコミュニケーション分析では考慮されてこなかった機械化されフィードバックのメカニズムを内包させた非知覚過程に着目し、プライバシー空間の解体と人々の意識そのものの直接的な包摂を企図するものとしてビッグデータからAIに至るテクノロジーの問題を指摘する。ここでは、資本主義的な人間が機械に対して抱くフェティシズムがAIに対する同一化をもたらす点も指摘する。
 第五に、意識の資本と国家による実質的包摂の可能性に対して、私たちは、パラマーケットと非知覚過程を通じて、私たちの主体をも巻き込んで展開される意味世界がもたらす身体性搾取からの解放のためにとりうるとりあえずの方途について、いくつかの具体的な考え方を示す。人間の意識や行動を道具主義的に把握し操作可能な存在とみなす見方への有力な批判は、コンピューターを支えるプログラム思考そのものの本質に本質的な変更がなされないまま普遍化していることを考えたとき、この道具主義への有力な対抗でありつづけたフロイトの無意識の系譜をいまこの時代に再度検証すること意味のあることだ。とくに、ヴィルヘルム・ライヒからドゥルーズ=ガタリの前インターネット時代に存在した無意識をめぐる対抗政治が、なぜか監視社会化のなかでは影響力が削がれているのだが、いま一度この無意識の復権を考えてみる。


(1)日本の公式統計では、仕事をしたいがここ1カ月仕事が見つからないと諦めてしまえば失業統計に反映されない。実態としては失業者であるのに隠されてしまう潜在的な失業人口を日本の統計では「潜在労働力」と言い換えて失業のカテゴリーから排除する。
(2)たとえば、ジョルジュ・ルカーチ『理性の破壊』は、その早い時期に影響力をもった例だろう。
(3)人類学の知見は、この点で非常に有益な解毒剤になる。たとえば、モーリス・ゴドリエ『経済における合理性と非合理性』(今村仁司訳、国文社)、マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(山内昶訳、法政大学出版局)などを参照。
(4)Eduardo Bonilla-Silva、Racism without Racists : Color-Blind Racism and the Persistence of Racial Inequality in America、Rowman & Littlefield 参照。
(5)20世紀の社会主義を標榜する諸国は、いずれも半ば強制的な文化革命やイデオロギーの強制を通じた意識改変を試みて失敗した。教科書的なマルクス主義の教義に従えば、存在が意識を規定するとすれば、社会主義の建設=経済的土台によって上部構造としての意識はおのずとこれに規定されて変容を遂げるはずだから、トップダウンの意識変容の強制政策は不要なはずだ。ところが、そうならないとすれば、そもそもの教科書が間違っていたか、現実の経済的土台が社会主義の名にそぐうものではなかったのか、そのどちらかである。本連載では、この問題に直接アプローチしないが、資本主義がどのようにして人々の意識を資本主義的な意識として再生産するのか、という問題を、市場が供給する商品の使用価値の問題として考えてみる。これはマルスクが『資本論』でやり残した問題でもある。
(6)コンピューター開発の歴史は、20世紀の歴史がいわゆる社会主義と資本主義という二つの体制が共存した70年間の時代を間に挟んでいること、そしてコンピューター開発にソ連を中心とする社会主義圏の科学技術の動向も関わりがあること、このことを前提にすると、コンピューターを支配的なテクノロジーとして選択した体制を資本主義に限定すること自体が果たした正しい認識なのかどうか、という問いに私なりの答えを出しておかなければならないことになる。
 さらに、この問いに加えてやっかいなこととして、ソ連をはじめとする20世紀の社会主義、そして冷戦崩壊後も社会主義として資本主義諸国から敵対視される諸国(中国、キューバ、北朝鮮など)も含めて、これら諸国は資本主義とは本質的に異なるとともに、社会主義と彼ら自身が自称することをそのまま受け入れて社会主義として区別すべきなのかどうか、というもうひとつの問いである。このように問うということは、20世紀の冷戦の一方の当事者を社会主義とみなすことの是非という問題がここには含意されている。社会主義と呼ばれる体制が成立した当時から議論されてきた、社会主義を自称する諸国は社会主義の名に値するのかどうか、という問題は、簡単に解決できない半面、この問題に一定程度の答えを与えないかぎり、20世紀の資本主義にも自称社会主義にも共通するテクノロジーの問題への答えがうまく出せない。
 もし、自称社会主義諸国を文字どおりの社会主義あるいはその萌芽、過渡的形態とみなすにせよ、いずれにしても資本主義とは本質的に異なる統治機構と経済システムをもつ社会であるとすると、そうであってもなお資本主義と共通するテクノロジーの基盤をもっていたとすれば、テクノロジーへの問いを、資本主義とテクノロジーという枠組みで論じることが妥当かどうかが問われることになる。この問題はコンピューター以前の工業化のテクノロジーにも共通する問題だ。

 

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第38回 上田久美子退団の衝撃

薮下哲司(映画・演劇評論家)

『宝塚イズム45』(7月発行)の編集会議のさなか、衝撃のニュースが飛び込みました。
 昨年、宝塚大劇場での初日を観て「宝塚史上に残る名作の誕生」と絶賛、「ミュージカル」誌(ミュージカル出版社)のベストテンでも5位にランクインした月組公演『桜嵐記(おうらんき)』(2021年)の演出家・上田久美子さんが3月末付で宝塚歌劇団を退団したというのです。
『桜嵐記』が好評を得ながら8月15日の東京公演千秋楽以降、上田さんの動向が歌劇団からぷっつりと消え、これだけの人気作家であるにもかかわらず次回作の発表もなく、秋ごろから退団の噂はなんとなく聞こえていました。しかし、雑誌「歌劇」2022年1月号(宝塚クリエイティブアーツ)の年頭のあいさつに簡単なコメントが掲載されたこともあっていったん噂は立ち消えていました。ところが、2022年のスケジュールが次々と発表されるなか、一向に上田さんの名前がなく、4月に入ってSNS上で退団の噂が一気に浮上。歌劇団もマスコミの問い合わせに対して3月末で退団したことを正式に認めたのです。
 退団の裏には複雑な事情があり、関係者の話を総合すると、昨年のかなり早い段階で本人から退団届が出され、歌劇団が慰留に努めたのですが意志は固く、年度末の3月末で受理という形になったと推測されます。
 宝塚に在籍したままでも外部の仕事はできるわけで、何も退団しなくてもと思うのですが、「無になってやり直したい」というのが本人の信念だそう。退団が明らかになったと同時に、外部の仕事が矢継ぎ早に発表され、宝塚での新作を期待していた者としては残念至極ですが、文化庁の海外研修でフランスに1年間の演劇留学をすることも決まっているとかで、日本演劇界の星として今後の活躍を大いに期待したいと思います。
 上田さんの退団を惜しむ原稿は『宝塚イズム45』でも単発で書きますが、ここで少し上田さんのプロフィルを紹介しておきましょう。上田さんは2004年京都大学文学部フランス文学専修卒。2年間の会社員生活を送ったのち、06年に宝塚歌劇団に演出助手として入団。13年に珠城りょう主演の月組バウホール公演『月雲(つきぐも)の皇子(みこ)』で演出家デビューを果たしました。
 2作目の朝夏まなと主演『翼ある人びと――ブラームスとクララ・シューマン』(宙組、2014年)で早くも鶴屋南北戯曲賞にノミネートされ、翌2015年、早霧せいな、咲妃みゆ主演の雪組公演『星逢一夜(ほしあいひとよ)』で大劇場デビューを果たしました。その後明日海りお主演の花組公演『金色(こんじき)の砂漠』(2016年)から最後の作品となった月組公演『桜嵐記』まで再演を含めて全10作品を担当、そのうち4作品がトップスターのサヨナラ公演という、若手作家としては異例のエース的活躍でした。
 その作品世界は、人の絆のもろさ、はかなさといった、人が生きるうえでの痛みを巧みなストーリーテリングに取り入れ、観る者の心にぐさりと直撃。退団することが宿命づけられている宝塚のスターたちの一瞬の輝きとリンクさせて、これまでの宝塚になかった重層的な物語を生み出しました。
『月雲の皇子』を舞台稽古で初めて見たときの衝撃はいまも忘れません。『日本書紀』と『古事記』で衣通姫についての記述にいくつかの矛盾があり、そこから物語を自由に紡いでいこうという冒頭のナレーションから上田さんが書いた物語世界にぐいぐいと引き込まれ、兄弟が同じ姫を愛するという宝塚の王道ストーリーと大和朝廷以前の古代ロマンのミステリーに魅了されたのでした。
 それまで優等生的な男役としてしか映っていなかった珠城が生き生きと舞台に息づいていたのにも目を見張りました。バウホール公演だけだったこの公演をぜひ東京公演でもと劇団に進言し、理事長が動いて、たまたま空いていた天王洲銀河劇場での公演が急遽決まったのでした。その後、朝夏まなと主演の宙組公演『翼ある人びと』もすばらしい出来栄えで、『宝塚イズム』で急遽小特集を組んだ覚えがあります。
 いま思えば最後の公演となった『桜嵐記』を書くときにはすでに退団の意志を固めていたのか、楠木正行の台詞の一つひとつに思いの丈の発露が見られるような気がしてなりません。観ているときは珠城の退団に合わせた台詞かと思っていたのですが、まさか自分のこととは。それにしてもこの『桜嵐記』はどこにも無駄がない見事な作品でした。戦前、軍国主義のプロパガンダに使われたことで戦後は舞台化を敬遠された主人公を逆手に取ったところもあっぱれ至極。上田さんが退団したことで、上田さんの作品の再演の道が閉ざされてしまうのではないかと、それが心配です。
 さて『宝塚イズム45』は目下、締め切りを前に執筆陣に原稿をお願いしているところです。ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻が激しさを増すなか、新型コロナウイルス禍も丸2年を過ぎても収束のめどがつかず、先行きの暗いご時世です。『桜嵐記』の楠木正行の台詞ではありませんが、「大きな流れに命を捧げ」これからも進んでいきたいと思います。『宝塚イズム』への応援もよろしくお願いいたします。

 

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船旅文化を築いた名もなき人々――『船旅の文化誌』を出版して

富田昭次

 本書で書き残したことがある。『愚か者の船』について、『絶望の航海』と『さすらいの航海』について、日本人によるユダヤ人救出について、そして阿波丸沈没の謎について。
 過酷な話ばかりである。だから、本書では取り上げにくかった。しかし、避けて通れないと思い直し、これを機会に少しだけ触れてみたい。
 アメリカ生まれのキャサリン・A・ポーターは1931年、メキシコからドイツへ航海の旅に出た。その船旅で、彼女は見聞きしたことをノートに書き留めた。それが『愚か者の船』(注1)というベストセラー小説に昇華し、同名で映画化もされた。「高級なドラマもあれば、低級な茶番もあり」(訳者の「あとがき」)という物語である。同書にこんな場面がある。教会の備品を販売するユダヤ人が「ユダヤ人の娘を侮辱することは、ユダヤ人全部を侮辱することですぞ」と言うと、多くのドイツ人乗客の一人が怒声を上げるのだ、「その汚らわしい口を閉じろ」と。ユダヤ人排斥思想の醜さについて描いていた。
 実話の『絶望の航海――ナチ・ドイツを逃れて』(注2)と、それを映画化した『さすらいの航海』(注3)もユダヤ人が主題だ。1939年、ナチス・ドイツは亡命希望者のユダヤ人937人をセントルイス号に乗せてキューバに向かわせる。「ナチが一番関心を持ったのは、船とその乗客がドイツを出発したあとで、これをどのように利用するかであった」(同書)
 キューバは、ナチスの策略もあってセントルイス号を受け入れることはなかった。ナチスから逃れる手立てはもうないのだろうか……。映画を見た同書の翻訳者・木下秀夫は「救いのない残酷物語」と題した一文を「キネマ旬報」に寄稿している(注4)。
「映画を見たときも、何回かハンカチを取りださなければならなかった」「船員と乗客の美しい娘が心中するが、あれは原著にはなかった。しかし一番感激的な場面の一つであった」
 第2次世界大戦下のユダヤ人救出に関して、日本人は杉原千畝の名を第一に挙げるだろうが、いつだったか、筆者はJTBの店舗でふと手に取った小冊子(注5)で、一つの秘話を知った。以下は、その小冊子に掲載してあったジャパン・ツーリスト・ビューロー(当時)の職員・大迫辰雄の詳細な手記(注6)によるものである。
 当時、日本はドイツと同盟の関係にあったが、同ビューローは人道的見地から、日本経由でアメリカに逃れる彼らを無事に送り届けようと尽力した。輸送するばかりか、アメリカ・ユダヤ人協会から送られてきた金銭を、本人確認をおこないながら手渡す業務も担った。
 その任務のなかで、まだ入社2年目だった大迫は、1940年(昭和15年)から翌年にかけて支給された船員服に身を包み、ウラジオストクから敦賀までユダヤ人を古びた天草丸で送り届けたのである。
 大迫は荒れる日本海を二十数回往復した。最初の往路で早速ひどい船酔いに苦しめられたが、復路では三等船室で雑魚寝する400人ほどのユダヤ人の世話に追われ、船酔いする暇もないほどだった。大きく揺れたときは沈没するのではないかと恐れたものの、航海を繰り返すうちに、案外沈まないものだと安心するようになり、また船酔いすることもなくなったという。
 過酷な事例をもう一つ挙げなくてはならない。
 ある古書市で、筆者は偶然見かけた有馬頼義の『生存者の沈黙』(注7)に手を伸ばした。『四万人の目撃者』などの推理小説で有馬の名が記憶に残っていたからだ。だが、これは単なる推理小説ではなかった。1945年(昭和20年)春に起きた阿波丸沈没の謎に迫った小説だった。
 太平洋戦争末期、阿波丸は連合国側から安全を保障されて航海を続けていたところ、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。ただ1人の生存者を残して、2,000人を超える乗客が命を失った。赤十字の物資を輸送する任務を負っていた阿波丸がなぜ攻撃を受けたのか、その謎が残った。のちに、阿波丸には金銀財宝や戦時禁制品が積まれていたという噂が立った。乗客数が正確に把握されていなかったという謎も浮上した。
 有馬は15年もの長い歳月をかけてこの作品を書き上げた。その理由は、それらの謎に対する好奇心ばかりではなかったという。仲が良かった従兄の外交官が阿波丸の乗客の一人だったのだ。「あとがき」でこう書いている。「一小説家に過ぎない僕が知ることは、ずい分困難であった。しかし僕は、執念深く調査を続けた」
 暗く、つらい話はこれでやめよう。本来、船はロマンチックな乗り物である。読者のみなさんには、かつての人々が船旅で豊かな文化を築いてきたことを本書で知っていただけたらと願っている。


(1)キャサリン・A・ポーター『愚か者の船』小林田鶴子訳、あぽろん社、1991年
(2)ゴードン・トマス&マクス・モーガン‐ウィッツ『絶望の航海――ナチ・ドイツを逃れて』木下秀夫訳、早川書房、1975年
(3)『さすらいの航海』スチュアート・ローゼンバーグ監督、1976年
(4)木下秀夫「救いのない残酷物語」「キネマ旬報」1977年9月15日号、キネマ旬報社
(5)『“命のビザ”を繋いだもうひとつの物語』JTB(発行年不明)
(6)大迫辰雄「ユダヤ人海上輸送の回想録」(1995年1月25日記)、同冊子
(7)有馬頼義『生存者の沈黙』文藝春秋、1966年

 

第37回 コロナ禍からの脱却はいつ?

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 宝塚歌劇の最新の状況と未来を展望する『宝塚イズム44』が1月17日に発売されるとほぼ同時に、オミクロン株が猛威を振るい始め、宝塚歌劇は東京の各劇場で初日の延期、公演中止が相次ぎまたまた大変な事態に陥っています。
 ことの起こりは1月10日開幕のはずだった東京国際フォーラムでの雪組公演『ODYSSEY――The Age of Discovery』(作・演出:野口幸作)が初日直前になって公演中止。当初は初日の延期と発表されたのですが、その後全公演中止が決定。東京宝塚劇場の花組公演『元禄バロックロック』(作・演出:谷貴矢)、『The Fascination!』(作・演出:中村一徳)も8日から29日まで公演中止になりました。
 本拠地の宝塚大劇場は当初は感染者が出ず、通常公演が続いていましたが1月下旬から雲行きが怪しくなり、2月1日からの宝塚バウホールの星組公演『ザ・ジェントル・ライアー――英国的、紳士と淑女のゲーム』(脚本・演出:田渕大輔)が全公演中止、名古屋御園座の星組公演『王家に捧ぐ歌』(脚本・演出:木村信司)が初日の延期、宝塚大劇場の宙組公演『NEVER SAY GOODBYE』(作・演出:小池修一郎)も初日が延期されるなど、中止、延期が続いています。宝塚音楽学校にも感染が広がり恒例の本科生による文化祭の開催が危ぶまれている状態です。
 感染防止には万全の態勢を取って慎重に公演を続けてきたにもかかわらず、感染力の強さにはかなわなかったということでしょうか。いずれにしても、なんとかこの事態を早く収拾して通常の公演形態に戻ってもらいたいものです。
 さて『宝塚イズム44』の特集テーマは「2022年各組新体制への期待」でした。花、月、雪、星、宙の5組とも何らかの形でスターの陣容が変化し、新たな布陣で臨む2022年を占うというのが骨子でした。
 しかし、原稿締め切り時点と発売時のタイムラグはいかんともしがたく、1月11日に月組の三番手スター、暁千星が星組に組替えになることが発表され、月組と星組の今後が大きく変化してしまうことになりました。
 月組は月城かなと・海乃美月の新トップコンビに二番手が鳳月杏という形が決まっていますが、三番手だった暁が抜けることによって風間柚乃がその位置に取って代わることになるのはほぼ明確となりました。一方、星組は二番手だった愛月ひかる退団後、礼真琴・舞空瞳のトップコンビに続く二番手スターが不在のまま年を越し、順当ならば瀬央ゆりあの二番手昇格かと思われていた矢先の暁の組替えということになりました。
 暁と瀬央は、入団年でいうと暁が98期生、瀬央は95期ですから暁のほうが下級生です。しかし、暁は月組最後の公演として梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ公演『ブエノスアイレスの風』(作・演出:正塚晴彦)が決まっていて、瀬央が主演するはずだったバウホール公演とはランクが違うのです。当分はダブル二番手のような感じで推移するのではないかと思われますが、暁を二番手にという劇団の思惑がうかがえる人事です。
 暁の組替えは『ブエノスアイレスの風』公演後の5月27日付。その時期、星組は宝塚大劇場公演中。次の東京公演には間に合わないという非常に中途半端な時期になり、暁が星組に合流できるのは、2023年最初の大劇場公演の前の外箱公演からということになりそうです。いずれにしても、4月から始まる星組公演『めぐり会いは再び next generation――真夜中の依頼人』(作・演出:小柳奈穂子)、『Gran Cantante!!』(作・演出:藤井大介)で瀬央が二番手として羽を背負うかどうか気になるところです。
 一方、2月に入って雪組の将来を担う位置にいた綾凰華が6月で退団というニュースが飛び込んできました。雪組は彩風咲奈・朝月希和が新トップコンビに就任したばかりで二番手は朝美絢ですが、三番手が流動的。ここへきて宙組から和希そらが組替えしたことにより、和希が三番手的な立場になりそうです。綾が劇団に退団の意思を伝えたことによって和希の組替えが実現したという見方もありますが、星組から組替えで雪組に配属、期待のスターだっただけに、ここへきての退団は残念というほかありません。
 ただ、退団後のスターの受け皿として設立されたタカラヅカ・ライブ・ネクストの活動がここへきて活発になり始め、元花組の瀬戸かずやの退団後初ディナーショーに続いてコンサートも主催、自主開催では到底望めない豪華なゲスト陣でバックアップするなど、梅田芸術劇場とともに系列ならではのパワーをいかんなく発揮しています。
 OGの活躍といえば元花組の明日海りおと元雪組の望海風斗、人気・実力とも近年抜きんでたトップスター2人が女性役で競演する『ガイズ&ドールズ』が6、7月に東宝の手によって上演されることが発表されています。2人の競演はファンにとっては朗報ではあり、それはそれで楽しみな公演ではあるのですが、同時にこれがなぜ男役だった宝塚時代になかったのかという思いが募りました。退団後に2人が女性役で共演しても、男役時代のファンにとっては何の意味もないのではないでしょうか。最近は『ベルサイユのばら』の役替わり公演くらいしか組を超えての共演がなくなりましたが、かつては合同公演のようなもっとフレキシブルな公演形態があり、組を超えた豪華顔合わせが話題を呼んでいました。退団後に夢の顔合わせが実現する前に在団中にそんなファンサービスがあってもいいのでは――。『ガイズ&ドールズ』公演の発表を聞いて、そんな思いに駆られたのでした。
 取り留めもなく書いているうちに、そろそろ紙数も尽きたようです。『宝塚イズム45』は7月1日の発行の予定ですが、それまでには現在の状況がドラスティックに変化していることを祈ってやみません。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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ギモン7:どうして美術館は作品を集めるの?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

コレクションをもつ美術館

 美術館に行くと企画展や特別展といった展示のほかに、「常設展」「コレクション展」「収蔵品展」などの名称でその美術館が収蔵している作品が展示されているのを目にしたことはあるだろうか。もしくは、美術館の中庭や外庭などにいつも同じ彫刻作品が置かれていることに気づいたこともあるかもしれない。あるいは、逆にその美術館に行けば必ず見ることができる、著名な作品を目当てに美術館に行くこともあるだろう。ルーヴル美術館に行けば、レナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を必ず見ることができる。東京国立近代美術館に行けば、横山大観、梅原龍三郎、萬鉄五郎、岸田劉生、藤田嗣治など美術の教科書で一度は見たことがあるような日本の近代美術の代表作を鑑賞できるだろう。また金沢21世紀美術館に行けば、レアンドロ・エルリッヒの、上から水面下にいる人々が見える内と外をつなぐ不思議な作品『スイミング・プール』がいつでも出迎えてくれる。
 ギモン1で見てきたように、美術館、あるいは博物館の成り立ちから考えても、貴重な美術品のコレクション(収蔵品)を一般の人々に広く展覧するのは美術館の重要な役割の一つである。そもそも美術館はなぜ作品を収集するのだろうか。現代の美術館のなかには、常設展示室などを企画展示室と別に設けてコレクションをもつ館と、それらをもたない館があるが、コレクションはなぜ必要なのだろうか。また、館所蔵のコレクションの展覧会(常設展)とコレクションを用いない企画展には、何か違いがあるのだろうか。本ギモンでは、コレクションをもつ美術館に着目して、作品の収集と常設展示が果たす役割について考えてみたい。

作品の保管・保存と活用

 ここであなたがアーティストだと仮定してみよう。あなたがある展覧会に向けて作った作品は、展覧会が終わったら、通常、どこに保管するだろうか。画廊などでの展覧会では、作品がめでたく売れてコレクターの手に渡ったりすることもあるだろうし、美術館での展覧会をきっかけにその館が収蔵してくれることもある。だが、必ずしも全部の作品が手元から離れるわけではなく、スタジオの隅に立てかけられたり、十分なスペースが確保できずに額から外されてキャンバスだけの状態で重ねられたり、あるいは彫刻作品の場合は、賃料が比較的安価な街中を少し離れた場所に倉庫を借りてそこに置いたりすることも多いだろう。そうした場所は、必ずしも24時間、温湿度管理されている場所とはかぎらないので、保管状態が悪いとカビが発生したり、虫に喰われたりすることも少なくない。その点、収蔵庫をもつ美術館であれば、温湿度管理が徹底されていて、こうした作品のダメージは最小限に食い止めることができる。また個人の美術コレクターのなかには、こうした温湿度管理ができる倉庫を所有していたり、あるいは美術輸送会社の美術倉庫を一部借りたりして、作品のマネジメントをしている人もいるが、そうしたコレクターはごく一握りである。またコレクションも個人の場合、保管場所が足りなくなったり、本人が亡くなったりするなどした場合、こうした個人コレクションを美術館に丸ごと寄贈することもよくある。同様に作家本人が亡くなった場合にも、遺族が美術館に寄託(1)、あるいは寄贈を依頼するケースも多い。このように美術作品をコンディションが良好なままで長期間保管することは、個人レベルでは難しいため、美術館が最終的な作品の受け皿になることはよくある。
 博物館法が定める「博物館」の定義は、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(2)」となっている。美術館はこの博物館に分類されるのだが(3)、「芸術に関する資料」である美術作品を収集し、保管し、展示することや、それらを調査・研究することは、美術館にとってはその活動の根幹をなすものだと言えるだろう。よって、美術館は外部からの寄託や寄贈を受けるだけでなく、自らも積極的に購入したり、寄託・寄贈へのはたらきかけなどをして収集活動をおこなっている。展覧会は作品がなければ始まらない。コレクションをもつ美術館は、こうして収集した作品をきちんとした環境で保管し、それらの調査・研究を深め、さらに展示して活用する、という活動を総合的におこなっている。もちろん、コレクションをもたない美術館であっても、企画展をおこなうために一時的ではあれど、作品を他館や個人のコレクターから借用したり、作家に現地制作を依頼したりすることで、作品をその期間だけ、会場に集めてくる。ただし当然ながら、企画展の場合は、展覧会終了後に作品は各々の場所に返却されたり、解体されたりして、美術館には残らない。一方で、コレクションをもつ美術館は、一度収集した作品は基本的には何十年でも、極端な話、何百年先でも保管し活用していくことを考えてコレクションを形成していく。こうしたコレクションをもつ美術館では、どのようなことを基準に作品を収蔵していくのだろうか。

何を収蔵するのか

 コレクションをもつ美術館では収集方針を定めていて、館のウェブサイトなどでも見ることができる。各館の収集方針を見ると、それぞれの館の特徴がよくわかる。例えば、現代美術を扱う館では、第二次世界大戦以降(1945年以降)の美術という方針を挙げていたり、あるいは地方にある美術館の場合は、その館が所在する地域の歴史的な文脈などを反映したり、地元の作家の作品を収集したりするなどして、地域の特性を生かした方針を挙げているところも多い。
 国内初の公立の現代美術館として1989年に開館した広島市現代美術館では、次の3つの収集方針に沿って作品収集と保存をおこなっている(4)。

1. 主として第二次世界大戦以降の現代美術の流れを示すのに重要な作品
2. ヒロシマと現代美術の関連を示す作品
3. 将来性ある若手作家の優れた作品

 同館では、1989年から3年に一度、「ヒロシマ賞」という「美術の分野で人類の平和に貢献した作家の業績を顕彰し、世界の恒久平和を希求する「ヒロシマの心」を現代美術を通して広く世界へとアピールすることを目的とした」賞を創設している。これまで三宅一生、ロバート・ラウシェンバーグ、クシュトフ・ウディチコ、ダニエル・リベスキンド、シリン・ネシャット、蔡國強、オノ・ヨーコ、アルフレッド・ジャー(5)など11人の国内外のアーティストが受賞している。ヒロシマ賞受賞作家は、同館での授賞式のほかに受賞記念展を実施しているが、このヒロシマ賞受賞作家の作品も同館のコレクション形成に大きく寄与している。このようにコレクションにあたっては、その館で実施された企画展などを契機として購入や寄贈などに結び付くケースも多い。
 また、伝統工芸で知られる金沢市に2004年に開館した金沢21世紀美術館では、以下の3つの柱を収集方針として挙げている(6)。

1. 1980年以降に制作された新しい価値観を提案する作品
2. 1の価値観に大きな影響を与えた1900年以降の歴史的参照点となる作品
3. 金沢ゆかりの作家による新たな創造性に富む作品

 このうち、3番目の金沢ゆかりの作家の作品(7)については、主に次の2つの観点から工芸作品を中心に収集されている。1つ目は、金沢出身、あるいは金沢在住経験がある作家、ならびに金沢美術工芸大学や金沢卯辰山工芸工房出身者の作品の収集である。2つ目は、伝統工芸の保護と育成に力を入れている金沢市が主催する国際工芸コンペの入選作や、新たな創造性に富む工芸作品を収集している。
 また同館では、美術館の建築の設計段階から、6つの作品がコミッションワーク(制作委託)として、設置場所を想定して美術館のために新たに制作されることがあらかじめ計画に組み込まれて、恒久展示されていることが特徴的である。冒頭に紹介したレアンドロ・エルリッヒの『スイミング・プール』はその一つである。このほか展示室の天井を四角く、くり抜いて、空の移り変わりを眺めるジェームズ・タレルの『ブループラネット・スカイ』や、アニッシュ・カプーアの覗き込むと吸い込まれそうな巨大な穴に見える『世界の起源』など、建物と一体となった作品が設置されている。
 このように各地の美術館では、それぞれが独自の収集方針に基づき、その美術館ならではのコレクションを形成しているケースが多い。もっとも、近年は収集予算が大幅に削減されたり、凍結されたりした館も少なくないのが現実だ。だが、そうした館も、展覧会予算で制作した作品を寄贈してもらったり、長年の丹念なリサーチを重ね、作家やコレクター、またその遺族などと信頼関係を築いたうえで、寄贈や寄託に結び付け、コレクションを充実させている館も多い。
 反対に現在所蔵しているコレクションを保管しておく収蔵庫のスペースが手狭になり、倉庫を別途確保するのに苦労している館もある。美術館のコレクションは、基本的に国公立の場合は、大きく言えば市民の税金から購入することになるので、一度収蔵すると国や都、市などの財産になり、売却などして手放すことはない。よって収集方針に沿って慎重に収集計画を立て、予算をにらみながら収集をおこなっていく必要がある。また収蔵した作品は温湿度管理が行き届いた収蔵庫で保管することはもちろんのこと、定期的に点検などをして、必要に応じて修復などをおこなわなければならない。近年は、保存修復を専門とする学芸員を置いている館も増えたが、そうしたスペシャリストがいない場合は、外部の保存修復家を定期的に呼んで、点検・修復をおこなっている。また、海外の展覧会などに長期で貸し出す場合は、事前にコンディションに問題がないかをチェックし、何らかのダメージが見つかった場合は、作品に負担がかからない輸送方法を考えたり、修復などの処置を施したりすることもある。このように経済的・物理的な制約を受けつつも、各館が掲げた収集方針に沿ってさまざまな検討やリサーチを重ねながら、作品が収集・保管され、美術館のコレクションを形作っている。

美術史の編纂

 ギモン1でも少し見てきたように、ニューヨーク近代美術館(MoMA)では早くから写真、映画、デザイン、建築などが展覧会で扱われてきただけでなく、それぞれの分野に独立した部門を設けてキュレーターを配し、これらの新しいジャンルの作品・資料も絵画や彫刻と同様にコレクションに加えてきた。いまでこそ写真や映像、建築、ファッションや家具などのデザインなどを美術館の展示で目にすることは当たり前のようになっている。だが、美術館の枠組みで何を展示するか、またコレクションに何を加えるかということは、すなわちこれらの多様なジャンルの作品を美術史のなかにどう位置づけるかという問題と直結している。例えば建築などの場合、一口に「建築をコレクションする」と言っても、絵画や彫刻と異なり、建物そのものをコレクションすることは難しいので、図面や模型、ドローイング、写真、映像など美術館で保管・展示できる形態で、かつ、その建築家、あるいは建築物の特徴をいかに捉えて後世に伝えていくかを考えていく必要がある。また建築物そのものは、築年数の長いものは年月とともに老朽化が進み、取り壊しになったり、建築家本人が他界して建築事務所が解散し、資料が散逸したりするケースもあるため、最終的にはこうした美術館などに収蔵された図面や模型などの資料が、そのオリジナルの建築物などを知る重要な手がかりになることもある。
 東京都写真美術館は、日本で初めて写真の専門的総合美術館として1995年に開館した。名前だけ見ると「写真」だけを扱っているように思われがちだが、同館では写真だけではなく広く映像表現や映像文化についても扱い、写真・映像作品を中心にしたコレクションを擁し、企画展もおこなっている。また2009年から毎年、美術館全館を使って、周辺施設とも連携しながら、「恵比寿映像祭」というフェスティバルを実施していて、展示、上映、ライブ・イベント、講演、トークセッションなどを複合的におこないながら、映像表現をあらゆる角度から取り上げ、広く共有する機会としている(8)。よって写真だけではなく、映像作品やメディア・アート作品、あるいは同館コレクションの一部である写真機材や初期の映像装置(レプリカや模型も含む)など、各年のテーマに沿って幅広い写真・映像作品が紹介され、その定義を常に問い直し、拡張・成長していく場になっている。
 東京都美術館は、その前身の東京府美術館の時代から本格的な収集はおこなわず、主に貸会場として美術団体の展覧会を長らく実施してきたが、老朽化に伴って館を建て直して1975年に再出発した。その際に学芸員が入り、本格的にコレクションを形成して、戦後の美術史を積極的に体系づける方向に大きく舵を切った。76年の「戦後の前衛展」を皮切りに、80年代には「現代美術の動向」というシリーズで「一九五〇年代――その暗黒と光芒」(1981年)、「一九六〇年代――多様化への出発」(1983年)、「一九七〇年以降の美術――その国際性と独自性」(1984年)など、戦後の日本の美術史を十年ごとにまとめながら振り返るような企画展を次々と打ち出していった。そして95年に東京都現代美術館が開館する際に、こうした展覧会を通して収集されてきた東京都美術館のコレクションが、東京都現代美術館に移管されていくことになった。
 韓国、中国、台湾などアジアと古くから交流が深い福岡市にある福岡市美術館は、開館年の1979年からアジア美術を紹介する「アジア美術展」を開催し、以後、約5年ごとに同展を実施すると同時にアジアの近現代美術をコレクションしてきた。そして99年には、そのコレクションを基に福岡アジア美術館が開館した。そして「アジア美術展」は「福岡アジア美術トリエンナーレ」という形で継承されている。また福岡アジア美術館は、アジアの作家や研究者を数多く招聘して、滞在制作やアジア美術研究に関する講演会・展覧会を開催するなど、交流事業も息長くおこなっている。福岡市美術館と福岡アジア美術館のこのような取り組みは、アジアの美術をどのように美術史全体に位置づけていくか、日本にアジアの美術をどのように紹介していくかという重要な役割を担っている。
 これまで見てきたとおり、何をどのようにコレクションしていくかは、美術館にとってはその館の性格を決めるものであり、作品にとってはそれが「美術作品」として美術史のなかにいかに位置づけられていくかを決めるものとなる。なかでも現代美術の場合は、作家が展覧会に向けて新たに制作した作品を収集することができる、というそれ以前の時代の美術作品とは大きく異なる一面がある。もちろん近代美術以前の美術でも、忘れられていた作家を調査・研究して発掘し新たな光を当てるという作業や、長年の研究に基づいて従来の解釈とはまったく異なる形で作家や作品を紹介するという作業はある。だが、現代美術の場合は、その表現手段や領域横断性も多様化の一途をたどっていて、そうした新しい評価が定まっていない作家や作品の評価をすることに常に直面することになる。美術館のコレクションにその作家の作品を収蔵することは、美術館にとって非常に慎重な判断が求められるが、それはコレクションするという行為自体が、作品や作家、そして美術館の存在意義においても試金石になってしまうからにほかならない。コレクションするということは、美術史全体をどう編纂していくのか、そして後世にどのようにそれらのコレクションを残していくのかという大きな問いに、美術館が日々、向き合っていることを意味するのだ。

コレクションの展示について

 各館で収集したコレクションは、収蔵庫にずっと眠ったままにしておくのではなく、調査・研究したり、実際に展示されたりして活用されていく。大抵の館は、常設展示室に収まりきれない点数の作品を数多く所蔵しているので、すべてのコレクションを一度に見せることはできない。また作品によっては、長期展示をしたあとはしばらく作品を休ませることでメンテナンスなどをおこない、より長期的に将来も保存・活用できる状態に保つことができる。
 コレクションをもっている館では、館の学芸員が常設展示室でコレクションを活用した展覧会を企画したり、また他館の展覧会にコレクションの貸し出しをおこなったりする。近年は、常設展示でもコレクションを活用して、企画展と同様に企画性が高い展示が多数おこなわれている。だが、一昔前は、常設展示室と言えば年代順・時代順に時系列でコレクションを見せることがごく一般的だった。その大きな変革の契機になったのは、2000年に開館したロンドンのテート・モダンの常設展示だった。
 旧火力発電所の建物をリノベーションして作られた7階建てのテート・モダンは、一フロアを有料の企画展示室、二フロアを無料の常設展示室としてスタートした(9)。その際に、常設展示室ではそれまで一般的だった年代順の展示ではなく、17世紀のフランス・アカデミーが確立した風景、裸体、静物、歴史という主題のジャンルに想を得たテーマ別の展示とした。開館時には、「風景、事物、環境」「静物、対象、実物」「ヌード、行為、身体」「歴史、記憶、社会」という四つのセクションに分けてコレクションが紹介された。このような展示方法は、観客の混乱を招くなどの批判を浴びた。なかでも、「風景、事物、環境」のセクションに展示されたクロード・モネの『睡蓮』の絵の前にランド・アートで知られるリチャード・ロングが石を円状に床に並べた作品『Red Slate Circle10(10)』を並置し、さらに同じ展示室内にテートが開館にあわせてロングに制作を委託した、泥で描いた壁画『Waterfall Line11(11)』も展示され、その斬新なアプローチは物議を醸すことになった。このように「風景」という主題を現代の環境問題や土地の歴史などと結び付けたり、「ヌード」というテーマを人体への関心やアクション・ペインティングとつなげて見せたりするなど、それぞれの主題を拡張しながら展示してみせることで、時系列・年代別ではなく、近代と現代を柔軟に交錯させながら美術史の多様な解釈を可能にしたテート・モダンの手法は、コレクションの新しい見せ方の一つの規範になった。

コロナ禍の常設展示

 この2年間、コロナ禍で、特に海外からの物流や人の移動が滞る事態になり、国内外の作品をほかから借用して実施することが難しくなった。緊急事態宣言などの影響で、美術館自体が休館になる期間も長く続いた。企画展の実施が中止や延期を余儀なくされるなかで、コレクションをもっている美術館はそのような状況を逆手にとって、創意工夫を凝らしてコレクションを活用した展覧会を企画してきている。東京都現代美術館では、2021年の3月から6月にかけてオランダ生まれでベルギーを拠点に活動しているマーク・マンダースの個展「マーク・マンダースの不在」を企画展で実施したが、緊急事態宣言が発令されてその会期の大半を休館せざるをえない窮地に立たされた。だが、開催期間の短縮を受けて、作家や所蔵者などの協力を得て、作品返却までの間、同年7月から10月にかけて同館の常設展示室の「MOTコレクション」で、3階部分を特別展示という形で、マーク・マンダースの企画展の出品作品の一部(同館のコレクションも含む)を用いながらも、企画展とは異なる展示構成で展覧会「マーク・マンダース 保管と展示」を実施した。また常設展示室の1階では、「Journals 日々、記す」と題して、人々の日常を一変させたコロナ禍や震災などの災害、オリンピックなどを背景に制作された作品と、日々の日常性から生まれた作品をあわせて展示した。

多様化する現代美術作品の収集

 ここまでは、絵画や彫刻など形が比較的はっきりしている作品の収集と保存、活用について主に見てきたが、現代美術の場合、その表現手段や使用する媒体も多岐にわたっていて、作家のインストラクション(指示書)に基づいた行為などを作品化するコンセプチュアル・アートなど、厳密な意味でモノの形をとらない作品も数多くある。例えば、東京都現代美術館の外庭にあるオノ・ヨーコの『東京のウィッシュ・ツリー(願かけの木)』は同館のコレクションだが、普段は紅葉の木が1本生えているだけで、そうと知らない人にとっては作品とは気づかれないことがほとんどだ。年に1回、ジョン・レノンの命日にあたる12月9日になると、白い願い札(願いごとを書く短冊)が用意され、来館した人がそれぞれの願い札を紅葉の木に結び付けて下げていくという作品である。この願い札はオノ・ヨーコのもとに送られ、アイスランドのレイキャビクにあるジョン・レノンに捧げた作品『イマジン・ピース・タワー』に納められる。つまりこのコレクションは、毎年12月9日に人々が願いごとを書いて参加し、それを送り届けるところまでが作品となっている。
 また、東京国立近代美術館のコレクションである冨井大裕の『 roll(27 paper foldings)』は、色とりどりの折り紙を1枚ずつ、くるっと丸めて両端をホチキスで留めてつなげた彫刻作品シリーズだが、その素材表記には「折り紙、ホチキス、指示書」とある。これは、市販の27色セットの折り紙を上から順に1枚ずつ使ってロール状にしていき、4本のロールを真四角状に組むなど立体的に組み合わせたものであり、作品ごとに折り紙27枚の組み合わせ方が異なる。折り紙の組み合わせ方は、全部で15通りあるが、このうち5通り分である5点が同館の所蔵となっている。折り紙に関する細やかな指定や組み合わせ方などは作家からの指示書に記されていて、展示するたびに新たに作ることもできる。つまり、折り紙そのものは代替可能であり、指示書そのものがコレクションの重要な一部を構成しているのだ。また基本的には、作家以外の人がその指示書に沿って作ることもでき、再制作に対して回数も制限されていないので、誰がどのタイミングで作り直すのかなど、所蔵者(この場合は美術館)にその判断を委ねられているユニークなコレクションである(12)。
 さらには、近年はギモン2で見てきたようなパフォーマンス作品なども収蔵の対象になっていて、そういった作品の収集・展示に対してさまざまな試みがなされてきている。次回のギモンでは、映像作品やメディア・アート作品など、機材や記録媒体などの変遷により保管や再展示に大きな影響を受ける作品や、パフォーマンス作品などの形が定まらない作品の収集や展示、再現展示などについて詳しくみていきたい。


(1)ちなみに寄託とは、ある一定期間(通常1年、ないし2年、また延長もあり)作品を美術館に預けることを指す。寄託期間を終えて、美術館と所蔵者との信頼関係が築かれてから寄贈となることも多い。寄託期間中でも、展覧会で展示したり他館への貸し出しを認めていることが大半である。
(2)「博物館法」第2条(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/014/shiryo/07012608/001.htm
(3)厳密には、国立館(独立行政法人)は、博物館法が定める「博物館」からは除かれているので、博物館法上は、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、国立新美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館の5館は、「美術館」という名称を用いているものの、博物館ではなく「博物館相当施設」である。この制度上の歪みは、現在も是正されていない。これは現行の博物館の登録の所管が教育委員会であり、国立館の設置主体が独立行政法人であることに起因しているが、1952年施行の博物館法の改正は、70年近くたったいまなお議論の途上である。
(4)広島市現代美術館ウェブサイト(https://renovation2023.hiroshima-moca.jp/about/
(5)第11回ヒロシマ賞受賞者のアルフレッド・ジャーについては、現在、広島市現代美術館が改修工事で休館中のため、2023年に同館での授賞式と記念展が予定されている。
(6)金沢21世紀美術館ウェブサイト(https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=97
(7)金沢ゆかりの作品、ならびにコミッションワークについては、『金沢21世紀美術館収蔵作品図録』(金沢21世紀美術館、2004年、p.Ⅴ)を参照。
(8)恵比寿映像祭については、ウェブサイト参照。「恵比寿映像祭とは」(https://www.yebizo.com/jp/information
(9)7階建ての建物は、開館当初は1階から7階と表記され、2012年の拡張時に0階から6階に改められた。開館当初の企画展示室は4階、常設展示室は3階と5階だった。また16年には、通称スイッチ・ハウス(Switch House)と呼ばれる10階建ての新館が併設され、そこでも常設展示や企画展示、教育普及プログラムをおこなっている。
(10)テート・モダン「Richard Long, Red Slate Circle」(https://www.tate.org.uk/art/artworks/long-red-slate-circle-t11884
(11)テート・モダン「Richard Long, Waterfall Line」(https://www.tate.org.uk/art/artworks/long-waterfall-line-t11970
(12)冨井大裕の作品については、東京国立近代美術館のMOMATコレクション(2021年10月5日―22年2月13日)の出品作品リスト、展示室内の作品解説テキスト、ならびに同館研究員の三輪健仁氏へのメールインタビュー(2021年10月27日)に基づく。出品作品リスト:「所蔵作品展「MOMATコレクション」」(https://www.momat.go.jp/am/wp-content/uploads/sites/3/2021/10/R3-2MOMATCollection_list_J.pdf

 

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第36回 花組100周年記念レビューからよみがえったニューヨーク公演の思い出

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 2021年も終盤にさしかかり、コロナ禍もようやく落ち着きをみせてきた昨今、宝塚歌劇も「ウィズコロナ」を徹底してほぼ通常の公演体制に戻りました。そんななか『宝塚イズム43』で小特集を組んだ花組100周年を記念したレビュー『The Fascination!』(作・演出:中村一徳)が、今年最後の公演として宝塚大劇場で上演されました。東京宝塚劇場では22年の年始の上演になります。
 花組といえば、1927年に日本最初のレビューとして有名な『モン・パリ――吾が巴里よ!』(作・演出:岸田辰彌)を初演、89年のニューヨーク公演でトップを務めた大浦みずきを輩出した組でもあり“ダンスの花組”というイメージが定着しています。『The Fascination!』もダンスには定評がある現トップスター・柚香光を中心にしたダンシングショーで、花組カラーのオールピンクで統一したプロローグから花をテーマに花組の歴史をつづった華やかなレビュー。数々の花組レビューにオマージュを捧げた名場面の連続で、軍服姿の士官が美少女に愛を歌う「ミモザの花」の場面や「すみれの花咲く頃」をフィーチャーした中詰めの場面など、「This is TAKARAZUKA」そのものでした。
 そのなかでもいちばんの注目は、1989年のニューヨーク公演の伝説のシーン「ピアノ・ファンタジー」(オリジナル振付:ロジャー・ミナミ)の再現でした。大浦が踊ったダンスを柚香がしなやかに再現、花組の伝統をいまに継承したのです。演出の中村は、ニューヨーク公演の前年、88年に試作公演として宝塚大劇場で上演された花組公演『フォーエバー!タカラヅカ』(作・演出:小原弘稔)の演出助手を務めていて、100周年のレビューを担当すると決まったときに、すぐこのシーンを再現しようと思ったそうです。
「ピアノ・ファンタジー」は都会的で洗練されたハイクオリティーなダンスシーンです。お手本はアメリカ映画にもあって当時はそこまですごいとは思わなかったのですが、いまあらためて観ると、ダンス力の向上もあって十分新鮮に映りました。演者がこの振り付けにようやく追いついたということなのかもしれません。
『フォーエバー!タカラヅカ』の演出家・小原は芝居とショーと両方で活躍した才人で、芝居の演出家の突然の退団で一公演の芝居とショーを一人で担当したことがある器用な人でした。芝居の代表作は、三木章雄に受け継がれいまも再演が絶えない『ME&MY GIRL』(1987年初演)があり、ショーはニューヨーク公演をはじめ『ザ・レビューII――TAKARAZUKA FOREVER』(月組、1984年)など、MGMのミュージカル映画のレビューシーンをそっくりそのまま再現した絢爛豪華なアメリカンレビューを得意としました。『ME&MY GIRL』では入団1年目の天海祐希を新人公演の主役に抜擢する大英断を下したのも小原です。ニューヨーク公演でも当時3年目だった天海を最下級生で起用、ラインダンスのセンターに抜擢しています。新宝塚大劇場のこけら落とし公演を担当後、しばらくして60歳の若さで亡くなりました。
「ピアノ・ファンタジー」を観て、ニューヨーク公演の思い出がよみがえりました。ニューヨーク公演で上演されたショー『TAKARAZUKA FOREVER』(試作公演とはタイトルが逆)は、宝塚歌劇団がニューヨークで初めて上演した洋物のショーでした。そこで小原は、手の内のアメリカ人なら誰でも知っているミュージカル映画の音楽やスタンダードジャズを駆使した正統派のアメリカンレビュー『ジーグフェルド・フォーリーズ』をそっくりそのまま再現したかのようなレビューを女性だけで上演するという大胆な挑戦に出たのでした。
 会場は、トニー賞授賞式などで知られる5番街にある6,000人収容のラジオシティ・ミュージックホールで、舞台のタッパもあり、60人の出演者が少なく感じるほどの大ホールでした。1989年10月25日から公演は5日間だったと記憶しています。世界中のエンターテインメントが所狭しと上演されているニューヨークで、ラジオシティでの5日間の公演を現地の人に周知徹底するのは至難の業。現地の電通支社がニューヨーク在住の日本人商社マンの家族らに動員をかけたのは有名な話ですが、それでも満員にはならず、ニューヨーク在住の演劇プロデューサー・大平和登の尽力で「ニューヨーク・タイムズ」に批評が出たことでやっとニューヨーカーにも認知されました。しかし5日間の公演では口コミもままならず、評判が立ったときには終わっているという感じではありました。
 当時のブロードウェーは『キャッツ』『オペラ座の怪人』『レ・ミゼラブル』といった質・量ともに最高のロンドンミュージカルが席巻していたときで、いわゆるレビュー感覚のショーの上演は皆無でした。そこへ突然、東洋の女性ばかりの劇団がシルクハットに燕尾服姿で登場したわけですから、なんともアナクロにみえたのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っていました。
 初日の模様を取材するために日本からも報道各社が同行、そのなかの一人として私もいましたが、劇場前にサーチライトが輝き、着飾った招待客がリムジンから次々に降り立つ映画などでよく見る初日風景が展開され、日本物の演出を担当した植田紳爾が「晴れがましいですねえ」と興奮ぎみに話していたのをよく覚えています。これはニューヨーカーにとっても久々に見る光景だったみたいで、昔の華々しいブロードウェーが再現されたようです。
 初日の観客の反応は、燕尾服姿の男役スターがステップも軽やかに大階段から降りてくるところで「ウォーッ!」という最初の歓声が起き、レビューの定番曲「プリティガール・ライク・ア・メロディー」が流れると客席全体が一緒に口ずさむなどショーを心底楽しんでいる様子があり、フィナーレの大きな羽を背負った大浦が登場すると、場内総立ちのスタンディングオベーションとなったのでした。終演後、銀髪の白人女性から「これがショーの本来のあり方。日本人のあなたたちが証明してくれた。ありがとう」と握手を求められたことが忘れられません。こんなノスタルジックなレビューをいまどきニューヨークで上演して笑われないだろうかと半信半疑だった私の思いをこの女性は見事に打ち消してくれ、小原の大胆な冒険は報われたとこのとき思いました。ただ一般の観客の興奮ぶりとは裏腹に、宝塚歌劇の本質をよく知らない批評家が書いた評が日本に打電され、国内ではまるで失敗したかのように伝わったのは残念なことでした。
 宝塚歌劇団としてはこの雪辱のため、2000年代初頭から長期間のニューヨーク公演を水面下で準備していたのですが、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が勃発。以降、情勢が悪化し景気の低迷もあって頓挫、OGたちによるミュージカル『CHICAGO』(2016年)の公演という番外公演はありましたが、本体の公演はいまだに実現していません。いつの日か再びニューヨークでタカラジェンヌが活躍する舞台を観たいものだと、今回の「ピアノ・ファンタジー」再現を観て思いをはせたのでした。
 さて、『宝塚イズム44』は現在、すべての原稿が集まり、鋭意編集作業に入っています。巻頭特集は、各組が新体制に生まれ変わり2022年はどんな展開になるか、膨らむ期待の分析です。12月末で退団する星組の人気スター・愛月ひかるのサヨナラを惜しむ特集や真彩希帆ロングインタビューなど、今号も読みごたえ十分です。新年早々にはお手元にお届けできると思います。楽しみにお待ちください。

 

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ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

赤ちゃんと一緒に楽しめる展覧会

「こどものにわ」は、テーマパークのようなイメージのこども向けの展覧会ではない。テーマパークには遊び方に答えがあらかじめ用意されているが、美術館の展覧会に「正解」はない。訪れた人々が、それぞれの楽しみ方を主体的に探して、それぞれの答えを見つけてもらうことが必要になってくるので、ある意味、不親切だ。そのかわり、小さなこどもでも親しみやすいように、視覚的にインパクトのある作品や体全体で感じる作品、参加型の作品を中心に展示した。一口に「こども」と言っても年齢によって大きく差があり、特に乳児などは、月齢によって発達段階も非常に大きく異なる。そこで、それぞれの発達段階に応じて、必要であれば、大人がこどもに声をかける、こどもと一緒に何かを体験するなど、さまざまな年齢層の人たちが関わりをもちながら鑑賞できるような作品を参加作家と話し合いながら具現化していった。
 展示は、大巻伸嗣の作品から始まる。大巻は、空間全体を生み出すような作品を通して、日常と非日常の境界を創り出す。展示室に入ると、絶滅危惧種の花を白の修正液と水晶の粉で球体に描いた『Echoes-Crystallization』が神秘的な空間を構成し、鑑賞者を静かに異世界への入り口へと誘う。そして、白い薄布をくぐると、床一面に色とりどりの花模様『Echoes-INFINITY』が広がる。美術館の絵は壁に展示してあるものが一般的だが、大巻の絵は、こどもの目線により近い床一面に広がる。絵を踏みつけるというタブーは、大人でもそうそうある機会ではないので、新鮮な体験だ。床一面の花は、柔らかな白いフェルトの上に顔料で描かれているので、時間の経過とともに踏まれて、その輪郭は次第にぼやけていく。また、部屋の奥に進んで振り返ると、柱の一面に床と同じようにフェルトに描かれた作品がアクリルのパネルで額装されて展示してあり、展覧会が始まる前の時間を留めている。
 出田郷は、視覚などの人間の知覚、身体と空間の関係などをテーマにきわめてシンプルな手法で、しばしば光を用いて作品を作っている。縞模様は、理由はわかっていないが、赤ちゃんが好むことで知られ、乳児の視覚実験などに用いられている(28)。『lines』は四面の透過性スクリーンに映し出すアニメーションの作品で、白黒の縞模様が幅を変えたり、伸び縮みしたり、縦縞から横縞へ変化したり、回転したりする。四方を囲まれた空間のなかにいる人は、周りの空間の視覚的な変化によって、自分が浮遊するような錯覚にとらわれる。『reflections』は、約8,000枚のアクリル・ミラーが埋め込まれた6メートル四方のウレタンマットの床面を歩くと、光の反射が万華鏡のように壁や天井に広がる作品だ。自分の動きにしたがって、影もキラキラとうごめく。赤ちゃんの明るさに対する感度は、色の識別よりも早く、生後2カ月から5カ月の間にすでに大人と同等の高度なレベルをもつとわかっている(29)。
 サキサトムは、日常生活でのなにげない一コマや異文化での所作、習慣の違いなどを映像やインスタレーションを通して表現してきた。「こどものにわ」では、異世代の差異に着目し、乳幼児の視覚世界を再現することを試みた。『ガーデン』は、作家が住むロンドンの夏の庭で、半径3メートルというごく狭い世界を16ミリフィルムで撮影した映像作品だ。庭に咲く花や焦点が合っていない事物の断片的な映像は、自分の周りの世界を少しずつ知り始めるこどもの認識世界や、非常に限られた自分の身近な世界が、世界のすべてだった頃の時間を象徴するようだ。一方、『メーヤの部屋』は、誰もいないはずのこども部屋で無機質なビニールの青い筒が動くことで繰り広げられるファンタジーを映像化し、床に置かれた2台のモニターで時間をずらして映し出す。最近の実験で、10カ月の赤ちゃんでも、テレビ映像と実物の区別をしていることがわかってきた(30)。モニターのなかで、生き物とそうでないもの、現実世界と空想の世界、映像世界と実世界が交錯する。サキの映像世界は、こどもがリアルタイムで経験しているこどもの時間と、その視覚世界や心象風景をある種懐かしく思い起こす大人の時間を詩的に重ねていく。
 広場のような高さ19メートルの広い吹き抜け空間で、KOSUGE1-16は、見知らぬ者同士の間でコミュニケーションが生まれる仕掛けを3つの作品で表現した。まず初めに目に飛び込んでくる高さ約6メートルの『大きな木(小)』は、木陰で休む要領で木の根元に集うと、カラフルな毛糸の毛虫が上下する。中央に設置された『AC-MOT』は、両手で遊べる卓上用のサッカーゲームが、一人一選手で操作するまでに拡大され、総勢12人で遊べる巨大なサッカーボードゲームだ。選手を操作する棒が重いので、小さなこどもが遊ぶには、大人の助けが必要になる。3つ目の作品『サイクロドロームゲームDX』は、身体能力が異なる大人とこどもが真剣勝負できるユニークな作品だ。大人用自転車1台とこども用自転車2台、三輪車が1台設置されていて、それぞれが自転車や三輪車をこぐと、ペダルからシャフトとチェーンで動力が伝わって、小さなサイクリストの人形が周りのコースを猛スピードで駆け抜ける。
 建築家の遠藤幹子は、KOSUGE1-16の作品の周りに、親子が一緒に楽しめる交流型の空間『おうえんやま』を創り出した。壁沿いに広がる「おおやま」と、その前に「こやま」が2つそびえ、ところどころに巨人の足のイメージのクッションが配されている。「おおやま」と「こやま」は黒で塗装され、チョークで自由に落書きができるようになっている。また「こやま」にはところどころに丸い穴が開いていて、その周りには、巨大人間の身体が描かれ、穴から顔を出すと、あたかも自分が巨大人間になったように見える。巨人の足のクッションは、こどもにとっては遊具となり、大人にとっては一息つく場所になる。

遠藤幹子《おうえんやま》(2010年)とKOSUGE1-16《AC-MOT》(2006/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館

「こどものにわ」から「みんなのにわ」へ

「こどものにわ」がオープンしてしばらくすると、特別支援学校から来館の問い合わせが多数入るようになった。ベビーカーに優しい展示は、車椅子利用者にも優しい。また赤ちゃんが楽しめる展示は、知的障害をもつ人にとっても楽しめる展示だったのだ。異世代が自由に交流しながら楽しめる展示は、普遍的なデザインである、ユニバーサル・デザインの考え方を想起させる。ユニバーサル・デザインは、「年齢、性別、能力、環境にかかわらず、できるだけ多くの人々が使えるよう、最初から考慮して、まち、もの、情報、サービスなどをデザインするプロセスとその成果(31)」を指す。赤ちゃんから楽しめる展示を考え始めると、結局はほかの世代の人々、多様な背景をもつ人々が楽しめる展示について考えさせられる。もちろん、デザインと違ってアートという嗜好性に左右される分野ですべての人に受け入れられる展覧会というのは、不可能に近いのかもしれない。だが、一つの展覧会でも、さまざまな世代によって楽しめ、かつ、その楽しみ方が異なる、という展覧会のあり方を模索することは、パブリックな場としての美術館の役割を問い直すことにつながる。ニコラ・ブリオーは、『関係性の美学』のなかで、開かれた展覧会のあり方が必ずしも凡庸になるとはかぎらないと述べ、「あるイメージを前にして感じるこどもらしい純真な驚きと、そのイメージが引き起こすさまざまなレベルの解釈の複雑さ」の間にある理想的なバランスを探ることの可能性を示唆している(32)。作品に対峙してその美しさに感動したり、作品に込められたメッセージを読み取ったりすることは、美術に触れるうえで大切な経験である。そして同時に一緒に作品を観ている(あるいは、一緒に参加している)他者との関係を築くことを許す美術や展覧会の方法論は、小さなこどもや、こども連れの大人を優しく招き入れる。人々が集うアートの庭で、さまざまな人が関わりながら、単に鑑賞するだけでなく、互いに交流するきっかけになれば、子育て支援の観点からも美術館という場がもつ可能性が広がるだろう。アートが、日常とは異なる自由な空間と時間を生み出し、人々にこれまでとは異なる形での交流を促す。
 乳児は、近年、「人間の心の起源を科学的に研究する上で重要な研究対象とみなされるようになってきている(33)」。日本では、2001年に日本赤ちゃん学会が創設され、これまで脳科学、発達心理学などそれぞれの専門分野で扱われてきた乳幼児の心や体に関する研究を、医療や心理学だけでなく工学、社会学などさまざまな分野から多角的に考えていく「赤ちゃん学」が徐々にその成果を積み上げている(34)。美術に関しては、08年の小学校の図画工作の学習指導要領の改訂で、これまでの「表現」に加えて「鑑賞」にも重点が置かれるようになった。就学前の乳幼児に関しても、赤ちゃん学などと今後連携して美術鑑賞が赤ちゃんに与える影響などが研究できれば、赤ちゃん学にとっても美術教育のうえでも、新しい発見をもたらす大きな可能性を秘めていると言えるだろう。

「こどものにわ」を実施してから4年後の2014年に「ヨコハマ・パラトリエンナーレ2014(35)」(略称:パラトリ)という障害者と現代アート作家による協働プロジェクトの美術部門のキュレーターを務める機会に恵まれた。それまで障害がある方と身近に接する機会がほとんどなかった私にとっては全く未知の世界で、当然ながら新たなチャレンジの連続だった。なかでも最初のつまずきは、「協働/コラボレーション」というコンセプトだった。背景が異なる者同士が「みんなハッピーにコラボレーション」などとなるはずはなく、表現と表現のガチ勝負、個性と個性のぶつかり合いで、予定調和とは程遠い異なる価値観、世界観を共時的に提示するのが精いっぱいといった企画だった。しかしだからこそ、それまでになかったユニークな表現が数多く生まれたことも確かだった。パラトリに参加したギリシャ人アーティストのミハイル・カリキスは、特定の人が「disabled(「障害」の訳語で、不能、能力が欠如しているの意)」なのではなく、私たちは皆、「differently abled(異なる能力をもつ)」であると表現すべきではないか、と述べたが、非常に的確な指摘だと思う。また日用品から驚くほど小さくて精巧な作品を生み出すことを得意とする岩崎貴宏は、制作のリサーチのために織物の作業をおこなっている福祉作業所や特別支援学校を訪れた。そしてそこで求められている丁寧に織り目がそろった織物には目もくれず、糸の太さや色の組み合わせがバラバラな大胆な織りや、はみ出した糸が未処理のままにしてある織りに興味をもった。織り目がそろった織物は、バッグやポーチなどほかのものに加工して販売しやすいので、作業所ではこうしたものが推奨される。だが、福祉の世界では少数派である、織り手の個性や、そのときどきの心の動きがそのまま反映されている自由な織りのほうが、岩崎の琴線に触れたのだった。施設や特別支援学校に日々通う障害者の多くは、社会への適応を最終目標としている。だが、さまざまなこだわりやはみ出した織り目こそ面白い、美しいと評価する現代アートの価値観は一石を投じる。アートを通したパラトリの取り組みは、障害者を社会に適応させるのではなく、障害者が生きやすい場所になるように社会のほうを変えていくためのヒントを見いだすきっかけになったはずだ。

崎野真祐美×岩崎貴宏 《Out of Disorder》(2014年)
撮影:麻野喬介、写真提供:ヨコハマ・パラトリエンナーレ2014(横浜ランデヴープロジェクト実行委員会)

 これまで本ギモンでは、赤ちゃん向けの展示があるのか、ということについて見てきたが、その答えは「ある」と「ない」の両方と言えるかもしれない。東京都現代美術館では、「こどものにわ」をきっかけとして、現在に至るまで、乳幼児を対象とした企画展がシリーズ化され、各学芸員の関心と独自の視点を反映させながら、発展的に継承されている(36)が、それは「ある」の何よりの一つの証拠だろう。一方で、乳幼児を対象とした展示が特別支援学校の生徒にも受け入れられた例からもわかるように、一つの展示が企画した本人も予期しない形で新しい方向に広がっていくこともある。またそれが展覧会の醍醐味でもあったりする。パラトリでもアーティストと障害者の協働を通して、社会的包摂について、キュレーター、アーティスト、福祉施設職員、障害者自身やその保護者など、それぞれが思いも寄らない学びと刺激を受けることになった。展覧会は、異質なものを受け入れる寛容さを知る場でもある。展覧会に行く、ということがもっと身近なこととして、あらゆる世代のあらゆる背景をもつ人々の生活に根づいていくとき、「こどものにわ」は「みんなのにわ」へとのびやかに解放されていくだろう。


(28)前掲『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』130ページ
(29)同書133ページ
(30)旦直子「乳児における映像メディアの認識の発達」KAKEN 2004年度実績報告書、東京大学(https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-02J07003/02J070032004jisseki/
(31)関根千佳『ユニバーサルデザインのちから――社会人のためのUD入門』(Nextシリーズ)、生産性出版、2010年、140ページ
(32)Nicholas Bourriaud, “Relational Aesthetics,” (for the English translation), Les presses du réel, 2002, p. 58.
(33)前掲『乳児の世界』1ページ
(34)「日本赤ちゃん学会」(https://www2.jsbs.gr.jp/
(35)「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」(https://www.paratriennale.net
(36)「こどものにわ」の後にこども展シリーズとして企画された同館の展覧会に「オバケとパンツとお星さま――こどもが、こどもで、いられる場所」(2013年)、「ワンダフルワールド――こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展」(2014年)、「おとなもこどもも考える――ここはだれの場所?」(2015年)、「あそびのじかん」(2019年)、「おさなごころを、きみに」(2020年)がある。

 

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ローカル放送の送信所――『日本ローカル放送史』を出版して

樋口喜昭

 日本には多くのローカル放送局があります。全国組織のNHKは各地にローカル放送局を置いていて、民間放送は都道府県にローカル放送が免許されて広告放送をおこなっています。ローカル放送は、多くの番組を東京の放送局で制作されたものに頼っていますが、独自に制作したローカル番組をエリア内に向けて放送しています。
 インターネット全盛の現在に場所や時間が制限されたコンテンツにアクセスするということは、不便極まりないと感じるかもしれませんが、その場所に行かないと見られない、その時間にならないと始まらないというメディア体験は、ご当地料理を味わうような魅力も感じます。
 なぜ地上波放送は場所に縛られているのか。そして、なぜこのように全国各地に存在し、活動を続けているのか。その詳細については本書を読んでいただくとして、ここでは、本書ではあまり触れていない話のなかから、放送というシステムのハードウエアである「送信所」のお話をしたいと思います。

電波を出す塔の存在

 放送番組は、最近ではインターネットでも一部、同時に再送信されるようになってきましたが、放送というメディアは、放送局が送信した電波を、みなさんがテレビ受像機やラジオ受信機で直接受信して視聴することで特徴付けられます。ですので、送信所の電波塔(電波が発射される設備)は情報の源と言えます。発射される電波に乗った番組の華やかさに比べれば、多くの送信設備は非常に地味で、多くがその地域が見晴らせる場所にひっそり佇んでいます。
 一方で、都市のイメージを形成する風景の一部になっている送信所も存在します。東京タワー、東京スカイツリー、名古屋テレビ塔、さっぽろテレビ塔、といったように、もはや電波を出しているかは関係なく、観光施設としての地位を築いているものもあります。また、仙台の大念寺山のタワー群のように山頂にそびえライトアップされた電波塔も、塔の存在がその土地の景色の一部になっています。地デジ化後に本来の役目を終えたタワーもありますが、現在でも地元に愛され、車窓からその姿が見えると、その土地に来た実感を与えるランドマークになっていると言えましょう。
 このような放送用の送信所の存在は、大都市に限った話ではなく、中継局も含めれば実に多くの送信設備が全国各地に建てられています。なぜ、送信所がこれだけ多く建てられているのか。それは日本の地形に関係があります。
 日本は小さな島国ですが、周りを海に囲まれ、狭い地表にはいくつもの山脈が走っています。特にテレビ放送が利用している電波は、光と同様、基本的に送信所からの見通し範囲でしか届きません。放送をより多くの世帯に届けるには、山で隔てられたエリアごとに送信アンテナを設置する必要があり、その結果、多くの送信所が建てられました。それでも電波が届かない集落では共同受信アンテナを建てるといった方法で、全世帯が受信できるよう環境の整備がなされてきました。これまで日本の放送の最大の功労者は、送信受信技術者だったと言っても過言ではありません。

Googleストリートビューでの送信所巡り

 さて、本書で使用したカバー写真は、担当の方に選んでもらったパブリックドメインのうちの一枚で、静岡県島田市にある中継局のもの。実際にどの角度から撮影したものかは、Googleのストリートビューで確かめることができます。直接行かなくても送信所巡りができる、いい時代です。

「Googleストリートビュー」(https://goo.gl/maps/czrwwP39ngjPvf4D7)[2021年9月2日アクセス]

 早速、ストリートビューを使って、“金谷お茶の香通り”という道を島田中継局がある一帯に近づいてみます。写真では気がつきませんでしたが、その一帯は一面のお茶畑。ご当地感が出ます。さらに近づいていくと、カバーの右に写っている赤白の鉄塔は、NHKとK-MIXという静岡県域のFM放送のものとわかります。さらに進むと、いくつかの通信用の鉄塔を過ぎて、テレビ静岡の中継局が見えました。近くまで近寄れないのですが、お茶畑のなかに美しく自立しています。
 このようにバーチャルで送信所巡りをしていると、地デジ化以後、移転したり使用されなくなったりした送信施設が結構あることがわかります。今後、インターネットを利用した放送番組の送信が一般的になり、放送の送信所がどのように扱われるのか、そしてこれまで原則県単位ですみ分けられてきたローカル放送がどのように変わっていくのかに注目しています。

廃止されるAMラジオ、撤去される送信所

 山頂付近に建てられた鉄塔以外にも、平地にも放送用の送信所が存在しています。AMラジオ(中波放送)用の送信所で、使用している電波の波長が長いために長いアンテナ本体をワイヤーで支える構造で、自立型の塔のように目立ちはしませんが、長年各地でのラジオ放送の送信を担ってきました。写真は、福島県の会津若松市にあるNHKのAMラジオの送信施設です。住宅街にひっそりとあります。歴史は古く、戦時期の1942年に作られ、会津地方にAMラジオを送り届けてきました。

「Googleストリートビュー」(https://goo.gl/maps/T7JQEHwioNQ1j75Z9)[2021年9月2日アクセス]

 一時このアンテナをめぐって騒動がありました。白虎隊が自刃した地として有名な観光地である飯盛山から若松城(鶴ヶ城)を見ると、ちょうどアンテナがかぶって景観を損ねるというのです。観光のために撤去するか、送信施設を守るか。戦前から現存する電波塔に対して、当時の市長は「昭和の激動時を伝えてきた電波塔。全国的にこうした構築物を近代遺産として保存する動きもあり、今後も市民・観光客の声を聞いていきたい」(「福島民報」2011年12月7日付)と述べて撤去はされませんでした。

飯盛山より望む会津若松市街地。よく見るとお城に重なる電波塔
(出典:「飯盛山 (福島県)」「wikipedia」〔https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)〕[2021年9月2日アクセス])

 今年6月15日、全国の民間AMラジオ47局のうち44局が、2028年秋までにFMラジオに転換を目指すことを各局が加盟する「ワイドFM(FM補完放送)対応端末普及を目指す連絡会」が発表しました。すでに、多くのAMラジオ放送はワイドFMでも同時に送信(FM補完放送)されるようになっていて、将来的にAMラジオは完全に停波し、送信所も撤去されることになります。平地に広い土地が必要なAM送信設備は更維持コストもかかることから時代の流れと言えばそれまでですが、場所によっては戦前からの放送の歴史とともに歩んできた送信所が消えていくことを寂しくも感じます。
 地域での放送局のあり方を問う際には、経営面や番組といったソフト面に注目が集まりがちですが、送信所や放送局舎というハードウエアが、これまでその地域でどのような存在だったのかにも注目していきたいと考えています。

樋口喜昭(東海大学文化社会学部広報メディア学科特任教授、TarTaruVision代表)研究ページ:https://researchmap.jp/yoshihiguchi

 

第35回 第6の組「夢組」始動

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 人気絶頂のトップスターも数年で退団という宿命を抱える宝塚歌劇団。以前は、退団=結婚という未来図が普通で、トップスターの退団理由も「結婚準備」なるいまや死語のような理由がまかり通っていました。
 21世紀も20年も過ぎた現在、トップスターの退団は「後進に道を譲る」というのが本当のところで、退団後は宝塚で培った舞台人としての経験を生かして、芸能活動に進むか、ダンスや声楽などの教師など様々な職業に転職するなど、結婚して家庭に入るというケースは逆にまれになってきました。
 ただ、宝塚を卒業したからといってトップスターや一芸に秀でた実力派以外は、ミュージカル全盛の現代とはいえ、そうそう仕事が舞い込むわけではありません。ただ何人かが一緒になると元タカラジェンヌの威光は捨てたものではなく、集客もばかになりません。そこで、あちこちでOGを中心にした公演のようなものが活況を呈しています。
 宝塚歌劇団としては、退団後のスターたちの芸能活動については一切干渉することなくオープンですが、昨今、元タカラジェンヌを売りにした公演が増加、悪質な芸能事務所によるトラブルなども表面化し、しばしば問題になってきました。そこで、宝塚歌劇団の親会社・阪急阪神ホールディングスは、歌劇団を卒業して芸能活動を続けようという意思があるOGのために、彼女たちが安心して第二の人生を歩めるようにサポートしようという新たなプロダクション「タカラヅカ・ライブ・ネクスト」を昨年4月に立ち上げたのです。
 人気絶頂で卒業したトップスターたちは系列の梅田芸術劇場が預かり、退団後の最初の仕事はここからスタートするのが、このところの定石になってきています。しかしこれは、あくまで人気があるトップスターに限られていました。タカラヅカ・ライブ・ネクストは、実力があっても在団時には十分に活躍できなかった人たちに第二のチャンスの可能性を広げてあげようという狙いも含めて設立されました。2025年に大阪で開催される万国博覧会に向けて、OGメンバーによる何らかのイベントをいつでもできる体制を整えておきたいという親会社の意向も見え隠れします。
 現在、元星組の音花ゆり、元宙組の純矢ちとせ、同じく元宙組の澄輝さやとら7人が在籍していますが、この9月、東京・日本青年館と宝塚バウホールで退団したばかりの元雪組の人気スター・彩凪翔を迎えて旗揚げ公演『アプローズ――夢十夜』(作・演出:三木章雄)が上演されました。
 彩凪を中心にライブ・ネクストメンバーからは音花、元月組の貴千碧、元雪組の透水さらさ、元宙組の風馬翔、元雪組の星乃あんりの5人が出演。元雪組の笙乃茅桜、元宙組の星吹彩翔がゲスト出演。東京公演は元月組のトップスター・彩輝なお、宝塚公演には元雪組の水夏希が特別ゲストとしてお祝いに駆け付け、各9人というこぢんまりとしたコンサートでした。
『セロ弾きのゴーシュ』をベースに、スターとして再出発を夢見る青年が古びたオペラ座でそこにすみついた舞台の精霊たちに新たな出発を後押しされるという、退団間もない彩凪の今後に重ね合わせた内容で、音花と透水は歌、貴千と笙乃はダンス、風馬・星乃は芝居とダンス、星吹は芝居と歌とそれぞれの特徴を生かした活躍ぶりで、メンバーのショーケース的な公演にもなっていました。
 彩凪の退団後初の本格的ステージということと、彩輝や水といったトップスターの出演もあって公演は完売の人気。宝塚の公演はライブ配信もおこなわれるなどOG公演としては破格の扱いで、さすが親会社肝いりの旗揚げ公演だけありました。
 今後はコンサートだけでなく、ストレートプレイや朗読劇、リサイタルといった公演も視野に入れるといい、宝塚で培った様々な表現のスキルを存分に発揮、在団中にはできなかった形で披露する機会もでき、無限の可能性が考えられます。
 いわゆる第6の組「夢組」構想ともいうべき展開で、トップスターを頂点に二番手、三番手という形態の組ではなく、宝塚を卒業したタカラジェンヌにもっと自由に活躍できるフィールドを提供しようというまったく新たな組になりそうです。
 卒業後も自分たちでハンドリングしようという親会社の意向は透けて見えるのですが、これまでは卒業したら他人みたいな、OGたちへの支援という意味では一歩前進したといえるのではないでしょうか。
『宝塚イズム44』(2022年1月刊行予定)では、第6の組・夢組(タカラヅカ・ライブ・ネクスト)の話題にもふれながら、コロナ禍のなかをなんとか順調に公演を重ねる宝塚歌劇の新しい年に向けた動きを探っていきます。楽しみにお待ちください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第1回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

乳幼児を対象とした展覧会

 2010年の夏、東京都現代美術館で「赤ちゃん(1)から大人まで楽しめる」参加型・体感型の展覧会「こどものにわ(2)」がオープンした。同館では、それまで教育普及プログラムの一環として、乳幼児を対象にしたワークショップやギャラリーツアーを実施していたが、展覧会として実施するのは、これが初めてだった。結果的には約2カ月の会期中に8万3,000人を超える入場者があり、展示室入り口のベビーカー置き場は、連日ベビーカーであふれかえることになった。この展覧会は、卑近な例で恐縮だが、私自身が4年越しで準備して実現した展覧会だった。
 展覧会は通常、館の学芸員による企画会議で各学芸員からのプロポーザルなどと年間のプログラムの予算、同時期開催予定の展覧会同士の内容のバランス、実施のタイミングなどをもろもろ検討しながら決まる。この展覧会に限って言えば、実施が決まるまで3年、実施決定から展覧会オープンまで1年を要した。3年間、企画会議で却下されるたびに、何度も案を練り直し、ブラッシュアップした企画書を作成し続け、その根拠となるための調査研究を進めた。なかでも、上司から言われたいちばんの却下理由は、「赤ん坊にアートを見せても、わからないのでは? 展覧会に連れてくる意味があるのか?」というものだった。そう、そもそも赤ちゃんにアートを見せても、わかるのだろうか。赤ちゃん向けの展示というものはあるのだろうか。ギモン5「日本人向けの展示ってあるの?」では、日本人向けの展示に関するギモンを入り口として、キュレーションを取り巻く文化の表象の問題について考えてみた。本ギモンでは、同じ日本人でも世代が異なる場合、特に乳幼児を対象とした展覧会のケースについて、まず前半となる第1回で、近年の乳幼児の認識能力に関する研究についてひもといていきながら、赤ちゃんと美術館の関係について考えていきたい。また後半の第2回では、「こどものにわ」を具体的な事例として取り上げながら、世代や背景が異なる人々に対する展覧会や社会的包摂のことを考えた展示について、その可能性を探っていきたい。

「こども向け」の展示とは?

 もういまから15年以上前の話だが、当時2歳になったばかりの息子をベビーカーに乗せて、広島市現代美術館で開催されていたシリン・ネシャットの展覧会(3)に行った。息子は、親の仕事の都合上、0歳児の頃から美術館には連れ回されているのだが、その日も、たまたま帰省先の広島で開催中のシリン・ネシャットの展覧会に息子連れで訪れた。シリン・ネシャットはイラン出身の女性アーティストで、イスラム世界の女性の存在などをテーマにした写真や映像作品で国際的に活躍している。扱っている写真や映像は、黒いベールを被った女性や儀礼の様子、イスラム社会の男女の対比を描くものなど、深刻で重い内容のものがほとんどである。息子には悪いが、完全に親の趣味で行った展覧会だった。だが、『パッセージ』(2001年)という映像作品の部屋で息子が釘付けになり、ほかの展示室を回った後も、その部屋に戻って何度も観たがり、ほかの展示室はそそくさと後にして、ずいぶん長い時間、その部屋で過ごすハメになった。作品自体は埋葬の儀礼が題材になっていて、前半は、黒いスーツ姿の男性たちが海辺から砂漠へと屍を運んでくるシーンと、黒装束の女性たちが砂漠で埋葬用の穴を手で掘り進めるシーンで構成される。最後に屍が運び込まれて、大地が激しく燃え上がる圧巻の映像と、ミニマル・ミュージック(4)で知られる作曲家フィリップ・グラスが書き下ろした崇高なサウンドで締めくくられる。そんな作品にベビーカーに乗った息子が反応するとは思いもよらなかったのだが、この話はここで終わらなかった。家に帰ってしばらく自分の部屋にこの展覧会のチラシをうれしそうに貼っていた息子だったが、美術館に訪れた際に予約受け付け中だったカタログが後日、自宅に届いたときに事件は起こった。包みからカタログを取り出して、息子に「広島で行った展覧会のカタログが届いたよ」と話しかけたところ、「◯◯(自分の名前)の!」と言ってそのカタログを持ち去って、お気に入りの某きかんしゃキャラクターの絵本などが並ぶ自分の部屋の本棚にしまい込んでしまった。私は1ページもカタログを読む暇もなく、あっけにとられてしまった。それまで「こども向け」の本やイベントやテレビ番組などはカラフルで楽しげなもの、といった先入観にどっぷりハマって子育てしていた私にとって、お世辞にも「楽しい」とは言えない、かなり渋いシリン・ネシャットのカタログが息子にとっては、展覧会を観て、しばらく時間がたっていても、忘れ難いお気に入りの思い出の品になっていたことは、まさに灯台下暗しの、目からウロコの事件だった。そこから、大人が勝手に考えている「こども向け」展示ではない展覧会の可能性について、真面目に探求してみようとリサーチを始めることになった。

乳幼児の世界観

 1970年代頃までは、1890年にアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが「咲き誇るがやがやとした混乱(5)」と形容したように、乳幼児が知覚する世界は混沌としている、と多くの発達理論家が考えていた。生まれたばかりの赤ちゃんは目が見えない、痛みの感覚が鈍い、何もわからず何もできない、といった無力な赤ちゃん像が一般的だった(6)。しかし、近年の脳科学をはじめとする諸分野の研究成果から、乳幼児はいままで考えられていたよりもさまざまなことを認識し、感じていることがわかってきた。例えば、赤ちゃんは胎児のときから音を聞き、生まれたばかりの新生児でも目が見える。ただし視力は悪く、新生児は0.001程度で、生後半年までに急速に発達し、その時点で0.2程度(7)、4、5歳になってようやく大人並みに見えてくる。しかし、そのようなぼんやりとした視覚世界にいる生まれたばかりの新生児でも丸と三角の形を区別できるし(8)、人の顔も早い段階から認識し、特に母親の顔は生後数日でも注目することができる(9)。また、こうした乳児の視覚、聴覚、触覚などの個々の感覚は、関連することなくばらばらに独立して機能していると思われていたが、近年の研究で、乳児の個々の感覚は、生まれたときから調和してはたらき、統一された世界を知覚することがわかっている(10)。さらに、赤ちゃんは、外からの刺激によって反射的に動いているだけではなく、生まれた直後からすでに「意識的に四肢を動かしている」ことも明らかになっている(11)。このように赤ちゃんは、高度の認識能力を備え、能動的に行動していることがわかってきた。さて、ここで「赤ちゃんはアートをわかるのか?」という初めの問いに戻ると、美術館や展覧会に来た赤ちゃんは、少なくとも全く何もわからないわけではなく、むしろ、普段とは違う環境に置かれて、かなりさまざまな刺激を受けている可能性が高いと言えるだろう。特に現代美術の場合、視覚だけでなく、聴覚や触覚、ときには嗅覚など、五感を使って感じる作品も多い。しかし、公園に出かけるのと、美術館に出かけるのとでは、赤ちゃんにとって何か違いはあるのだろうか。

作品を観る行為と他者への共感

 これまでのギモンでも見てきたが、あらためて美術館、あるいは展覧会という場所を特徴づけているものは何か、と考えると、美術館は、美術作品が展示してあり、それを鑑賞する場、ということが挙げられる。作品は、一般的な事物と異なり、多くの場合、作家やキュレーターが、その作品をほかの人に鑑賞してもらうことを前提として制作・展示したもの、という人の意図が込められている。他者の意図を汲み取ること、あるいは作家やほかの鑑賞者の思いに共感することは、乳幼児にとって(そして大人にとっても)美術を鑑賞する行為をほかの日常的な営みとは異なる特別な体験とする重要な要因になっていると思われる。
 これまでに、2歳児でも、意図的に作られたものは絵と認めるが、偶然できたものは認めない、という興味深い実験結果がいくつか報告されている。例えば、男性の形に見える絵を見せて、一方のグループには、それが意図的に描かれたことを伝え、もう一方にはそれが偶然の産物だと伝える。つまり、一方には「ジョンがお絵描きの時間に、先生にあげようと絵の具で絵を描きました。それはこんな感じでした」と伝え、もう一方には、「ジョンのお父さんが壁にペンキを塗っていたときに、ジョンがうっかりペンキを何滴か床に落としてしまいました。それはこんな感じでした」と伝える。そして、その後、それぞれに「これは何かな?」と質問すると、意図的に描かれた絵だと説明を受けたグループは「男の人」など描かれた対象を答える傾向が強く、偶然できたものと説明を受けたグループは、材料の「ペンキ」と答えることが多かった(12)。さらに年齢が低い0、1歳児だと、言葉によるコミュニケーションが難しく先のような実験はできないが、別の実験や観察から、少なくとも他者の意図を汲み取ったり、他者の感情を理解したりすることは、かなり早い段階からできることが明らかになっている。
 乳児は、生後1年間の間に自分と他者を区別し、またさらに他者や自分以外のモノとの関係性を徐々に培っていく。生後2カ月頃には、大人がほほ笑みかけると、それに応じて乳児がほほ笑む、という「社会的微笑」と呼ばれる現象が現れ、自分と他者を区別して知覚する人-人の二項関係が成立し始める(13)。また生後5、6カ月には事物に関心が向かうようになり、見せられた物をつかんだり、振ったり、口に入れたりなどするようになり、人-物の二項関係も成立する。この頃から、他者が見ているものを目で追うことができる「共同注意」と呼ばれる現象も見られ始める(14)。さらに生後9カ月頃には、自分が遊ぶオモチャを大人に見せてその反応をうかがう、など乳児-物-他者の三項関係が成立するようになる(15)。また乳児は、成長するにつれて、自分の情緒について経験するだけでなく、他者の情緒に対しても共感したり理解するようになっていく。もっとも初期の他者との情緒の交流の形として、新生児に大人の「喜び」「悲しみ」「驚き」といった表情を見せると、大人と同じ表情を模倣する「新生児模倣」が知られている(16)。新生児模倣は、その後、成長すると観察されなくなってしまうが、生後2カ月には、先に述べた社会的微笑が観察されるようになる。さらに、生後7カ月頃から、乳児は周りの状況を判断する際に、母親などの信頼できる人の様子をうかがいながら自分の振る舞いに適用するようになる(17)。このような現象は、「社会的参照」と呼ばれている。有名な実験に、生後12カ月の赤ちゃんを見せかけの断崖である「視覚的断崖」に載せると、断崖の向こう側にいる母親が見せた表情によって行動が変わるというものがある。この視覚的断崖は、深さ約30センチの溝の上にガラス板が渡してあり、見た目は断崖だが、ガラスの上を渡ることができ、また断崖の向こう側には魅力的なおもちゃが置いてあるという装置である。この実験で赤ちゃんは、母親が否定的な表情や不安そうな表情を示すとガラス面の上を渡ろうとはしないが、母親がほほ笑むなど肯定的な表情を見せると大半が渡ることがわかった(18)。また、共感に関するメカニズムは、1990年代以降、脳のなかに他者の経験を自己に鏡のように写し取るようなミラーニューロンシステムと呼ばれるものがあることが明らかにされている(19)。例えば、快または不快な刺激を受けた他者の表情を知覚すると、観測者自身が同様の快・不快の刺激を知覚したときのような神経活動が脳内で生じる(20)。ミラーニューロンシステムについては未解明の部分も多いが、近年の実験で、6、7カ月の赤ちゃんも成人と同様に他者の行動を見るだけで、他者と同じ運動関連部位の脳活動が見られることがわかっている(21)。
 乳幼児の美術鑑賞に関しては、美術教育の分野でも比較的最近になって扱われるようになった分野であり、科学的な研究の方法論が確立されているわけでもない。そのため、あくまで推論にすぎないが、これまで見てきたような乳幼児の高い認識能力を考えると、「作品」として認識し始めるのは2歳ぐらいからだとしても、二項関係が成立しはじめる0歳児からでも、ある程度の大人の関わりなどがあれば、それぞれの年齢や発達段階に応じて美術鑑賞を楽しむことはできそうである。公園や家などの日常的な場所と異なり、美術館では、まず何よりほかの人が作った作品を「観る」という行為が特徴的である。乳幼児にとっては、美術館という場所は、新奇なモノがたくさんあること自体が興味の対象であるとともに、大人が観ている行為や、大人の反応や心の動きも、自らがそのモノをどう判断するかの基準になっていることだろう。大人が楽しそうに観ていれば、その気持ちが伝わってくるし、逆に自分が面白いと思ったものに対して、大人がそれを共有してくれることはこどもにとって喜びとなるだろう。また、気になった作品に手を伸ばしたときに大人に咎められれば、触らずに大切に観なければならないものがある、など、美術館での鑑賞のルールも成長に応じて徐々に理解していくだろう。

子育て支援と美術館

 赤ちゃんを連れて美術館に行くことは、赤ちゃん自身だけでなく、一緒に行く大人にとっても普段の生活では気づかない、さまざまな発見や驚きを得られる機会になる可能性を秘めている。考えてみれば当然のことだが、赤ちゃんが自らの意志で美術館に来ることはない。赤ちゃんを美術館に連れてくるのは、たいていお母さんをはじめとする周りの大人たちだ。子育て中の母親などの育児者が、普段の生活のなかで行ける場所はスーパーマーケットや公園などに限られがちだ。だが、子育てをしていても、文化的な刺激を受けたいと思っている人はたくさんいるはずだ。小さなこどもがいても、映画やコンサートにだって行きたいし、美術館にも行きたいかもしれない。近年は、赤ちゃんを連れて鑑賞できる映画館も増えたし(22)、0歳児からの音楽会も開催されている(23)。では、美術館はどうだろうか。
 日本では、核家族社会での子育て中の母親の孤立化について、1980年代頃からその問題が指摘されてきたが、90年代に入ってようやく行政も子育て支援施策を本格的に展開するようになった(24)。また、それまでこどもを預けてまで仕事をしたり、趣味に興じることは親のわがままである、と否定的にとられていたが、現代の子育て事情をふまえて、「親子が心身ともにリフレッシュする時間を持つことの重要性から肯定的に受け止めることも必要(25)」であると、これまでの母性観の転換がみられるようになった。確かに一昔前と違って、最近の傾向として、こどもを預けて大人だけで何かを楽しむのではなく、こどもと一緒に楽しむ、また母親だけでなく、父親もさまざまな催しに参加する姿が見受けられる。中谷奈津子は、子育て家庭のための「継続的・定常的な「縁側」のような地域の居場所づくりへの支援」の必要性を説いているが、その際に行政主体の「預かる」「教える」子育て支援、遊びや遊び場の提供型支援だけでなく、子育てをする母親自身が主体的に組織や活動に「参加」するよう促進していく必要性を指摘している(26)。美術館は、自らが主体的に美術を鑑賞することで、こども自身だけでなく、周りの大人もさまざまな感性を呼び覚ますことができる場となりうる。特に現代美術では、これまでのギモンでも見てきたとおり、観客の主体的な参加を促す作品やプロジェクト型の作品が近年増加して、美術と社会の関係について広く議論されている(27)。美術館を地域社会により開かれた場としていくことで、美術館が地域の子育て家庭にとって、既存の提供型支援施設とは異なる第三の「居場所」になれる可能性は高い。
 一昔前までは、美術館の「こども向け」のプログラムと言えば、教育普及事業の一環として開催される小学生以上を対象としたギャラリー・ツアーやワークショップが主流だった。だが、美術館での赤ちゃん向けプログラムは、赤ちゃんが保護者と一緒に展示を観て回るギャラリー・ツアーなどを中心に近年、増加傾向にある。ただし、それらへの参加は、運営上の制約などもあり、人気があっても人数や回数が限定されることが多い。また、小さなこどもを連れて遠方に出かけるのは至難の業なので、子育て家庭が、ベビーカーだけで移動でき、いつでも気軽に行けるプログラムをもつ美術館が自分の住んでいる地域にないと参加しづらい。
 こうした状況をふまえて、2010年に開催された「こどものにわ」では、まず、それまで美術館を訪れたことがない美術館近隣在住の子育て家庭が美術館に来るきっかけになるように、美術館がある東京都江東区の協力を得て、展示に先駆けて区内4カ所の子ども家庭支援センター、児童館、保育園などの子育て関連施設で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを展覧会に参加する作家のKOSUGE1-16とおこない、その成果を展示の一部とした。また会期中に近隣の商店街と美術館をつなぐ形で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを同じく参加作家の大巻伸嗣とおこなった。そして、美術館では、ワークショップやギャラリー・ツアーなどのように一過性で終わるものではなく、小さなこどもを連れた家庭がよりいつでも気軽に美術館を訪れることができるように、約2カ月半の会期で開催する「展覧会」という形式のプログラムを実現した。次回は、「こどものにわ」で展示された作品についてもう少し具体的に見ていきながら、「赤ちゃん向けの展示」がもたらしたものについて、掘り下げて考えていきたい。

大巻伸嗣《Echoes-INFINITY》(2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館
出田郷《reflections》(2009/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館


(1)母子健康法では「赤ちゃん」を次のように定義していて、本稿でもそれに準じて各用語を用いる。新生児:出生後28日未満の乳児、乳児:1歳未満のこども、幼児:1歳から小学校就学前までのこども。
(2)「こどものにわ」2010年7月24日―10月3日、東京都現代美術館
(3)「第6回ヒロシマ賞受賞記念 シリン・ネシャット展」2005年7月23日―10月16日、広島市現代美術館
(4)ミニマル・ミュージックは、音型の反復や持続などで構成される現代音楽の形式の一つ。1960年代から70年代にかけてアメリカを中心に隆盛し、世界的な音楽文化にも影響を与えた。
(5)原典はWilliam James,‘one great blooming, buzzing confusion,’The Principle of Psychology, Macmillan, 1890.
 スイスの発達心理学者のジャン・ピアジェも「赤ちゃんは無力な存在である」と唱えた。またオーストリアのジークムント・フロイトをはじめとする精神分析の理論家は、乳児は「混乱しているというより、最初は周りの世界と関係していない」と考えていた(P・ロシャ『乳児の世界』板倉昭二/開一夫監訳、ミネルヴァ書房、2004年、32ページ)。
(6)榊原洋一「赤ちゃん理解の急速な進歩と赤ちゃん学」、産経新聞「新・赤ちゃん学」取材班『赤ちゃん学を知っていますか?――ここまできた新常識』所収、新潮社、2003年、346―351ページ
(7)山口真美『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』(平凡社新書)、平凡社、2006年、17―18ページ
(8)小西行郎『赤ちゃんと脳科学』(集英社新書)、集英社、2003年、37ページ
(9)山口真美『赤ちゃんは顔をよむ――視覚と心の発達学』紀伊國屋書店、2003年
(10)前掲『乳児の世界』34-35ページ
(11)前掲『赤ちゃんと脳科学』110ページ
(12)ポール・ブルーム『赤ちゃんはどこまで人間なのか――心の理解の起源』春日井晶子訳、ランダムハウス講談社、2006年、109―113ページ
(13)岡本依子/菅野幸恵/塚田-城みちる『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理学――関係のなかでそだつ子どもたち』(新曜社、2004年)129―130ページでは、二項関係の成立を生後3、4カ月頃と紹介しているが、P・ロシャは、2カ月としている。三項関係の成立については、ロシャも同じく9カ月としている(前掲『乳児の世界』194―198ページ)。
(14)前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』146―148ページ
(15)同書129―130ページ
(16)同書121―122ページ
(17)前掲『赤ちゃんは顔をよむ』105―106ページ
(18)同書106―107ページ、前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』50―51ページ
(19)福島宏器「他人の損失は自分の損失?――共感の神経的基盤を探る」、開一夫/長谷川寿一編『ソーシャルブレインズ――自己と他者を認知する脳』所収、東京大学出版会、2009年、192―195ページ
(20)同書194ページ
(21)嶋田総太郎「自己と他者を区別する脳のメカニズム」、同書所収、66―70ページ、嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者――身体性と社会性の認知脳科学と哲学』(日本認知科学会編「越境する認知科学」第1巻)、共立出版、2019年、146―149ページ
(22)TOHOシネマズは2003年から赤ちゃん連れで楽しめる「ママズクラブシアター」を展開している(〔https://www.tohotheater.jp/theater/009/info/mamas_club_theater.html〕)。
(23)代表的なものにソニー音楽芸術振興会の「Concert for KIDS 0才からのクラシック®」がある(〔https://www.smf.or.jp/concert/kids/〕)。
(24)中谷奈津子「地域子育て支援施策の変遷と課題――親のエンパワーメントの観点から」、国立社会保障・人口問題研究所編「社会保障研究」第42巻第2号、国立社会保障・人口問題研究所、2006年、168ページ(〔http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/18095307.pdf〕)
(25)同論文168ページ
(26)同論文170ページ
(27)日本での具体的な事例のドキュメントとして、例えば荻原康子/熊倉純子編『社会とアートのえんむすび1996-2000――つなぎ手たちの実践』(ドキュメント2000プロジェクト実行委員会、2001年)など参照。

 

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