朝比奈隆が1953年にフルトヴェングラーと面会し、「ブルックナーは原典版でやった方が良い」と言われたことは、朝比奈自身が生前に何度も書いたり語ったりしていた。この訪欧時、朝比奈はベルリンでフルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルのブルックナーの『交響曲第4番「ロマンティック」』を聴いたと証言しているが、不思議なことにその演奏会は現在残っている資料には見あたらないのである。
まず、朝比奈が書いて(語って)いたことをもとに、その前後の事実関係を以下のように照合してみたい。
①フルトヴェングラーの『ロマンティック』の前に、マルケヴィッチ指揮ベルリン・フィルの演奏会があり、朝比奈はそのリハーサルを見学している。そのときマルケヴィッチは「ブリテンの〈青少年のための管弦楽入門〉を練習していた」と記している。
→これは正しい。1953年11月29、30日にはマルケヴィッチ指揮で、チャイコフスキーの『交響曲第6番「悲愴」』、メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』(なぜか資料には調性も作品番号も記されていない。独奏はクリスティアン・フェラス)、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』の演奏会が記録に残っている。
このあと、朝比奈はヘルシンキへと移動する。
②朝比奈は12月16日か18日に『ロマンティック』を聴いたと書いている。
→記録によると、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの12月の公演は6、7、8日の3日間しかない(場所はティタニア・パラスト)。しかも、この前後のベルリンでの公演は1953年9月15―17日、54年4月4―6日と間があいている。まず、考えられるのは朝比奈の単純な記憶違いで、6日を16日、8日を18日とそれぞれ思い込んでいた。記録によると朝比奈は12月11、13日にヘルシンキでヘルシンキ・フィルを振っている。しかし、朝比奈自身が書いていたヘルシンキ公演の日付は10、11日で、ベルリンには12日に戻ってきたとしており、記録と食い違っている。このヘルシンキ公演の日程は記録が正しいのか朝比奈の記憶が正しいのかは不明だが、どちらにしても「16日か18日に聴いた」という記述とのつじつまは合う。しかし、①のリハーサルをベルリンで聴いていた事実を見てもわかるとおり、6―8日のいずれかの公演を聴いたあとにヘルシンキに移動、そこでの公演を終えてからドイツに戻っているので、朝比奈がこの前後関係を取り違えて記憶していた可能性も十分にある。
③朝比奈がホテルでチケットを受け取った際、「ブルックナーの“ロマンティシェ(ロマンティックのドイツ語読み)”です」と添え書きが付いていた。さらに、朝比奈は曲のいちばん最後について「壁も床も鳴り響くような最後の変ホ和音が消えた」としている。
→公式記録によると、この12月6―8日の公演のメインはブルックナーの『交響曲第5番』となっている(他の演目はグルックの『アウリスのイフィゲニア』序曲、マーラーの『亡き子をしのぶ歌』、独唱:フィシャー=ディースカウ)。添え書き、そして最後の変ホ和音という事実が本当ならば、この日の演奏会は『第5番』ではなく、『第4番「ロマンティック」』だった可能性は非常に高いと思われる。事前の予告では『第5番』があがり、その後『第4番』に変更されたのかもしれない。それに、素人ならばいざ知らず、朝比奈くらいの指揮者が変ロで終わる『第5番』と変ホで終わる『第4番』とを聴き間違えるだろうか?
ちなみに、1953年12月、上記のマルケヴィッチ以降のベルリン・フィルの公演は以下のようになっている。12月2日(ケンペン指揮)、6―8日(フルトヴェングラー指揮)、20、21日(ランゲ指揮)、26日(ローター指揮)。この日程を見ると、たとえば16―18日にフルトヴェングラーの公演があってもおかしくない。しかし、フルトヴェングラーは12、13日、ウィーンでウィーン・フィルとフランクの交響曲をメインとする演奏会を指揮し、14、15日にはそのフランクの交響曲のレコード録音(デッカ)をおこなっている。16日が移動日だとすると、17日が練習で18日が本番だったという推測も成り立たないわけではない。しかし、ベルリンでの公演は同一の演目がたいてい2日ないし3日おこなわれているので、16、17日、あるいは18、19日という日程も考えられるが、これは前後関係からしてありえない。そうなると、たとえば23、24日とか、28、29日といった日付も推測できないではない。けれど、この12月末にフルトヴェングラーは体調を崩して静養しているので、12月の後半、特に28日以降という説は成立しにくい。いずれにせよ、現在残された資料によると、フルトヴェングラーの1953年12月の公的活動は15日のデッカ録音で終了したということになっており、それ以降の演奏会の記録は残っていない。その次のフルトヴェングラー公的活動は翌54年2月のウィーン・フィルとのレコード録音である(HMV)。
④朝比奈は上記の公演後、何日かたったあとのフランクフルトのホテルでフルトヴェングラーと会った。
→先ほど触れたように、1953年のフルトヴェングラーの公的活動は12月15日で終了しているので、その後のフルトヴェングラーの同行を確認するのは困難である。
⑤朝比奈はフルトヴェングラーと会った翌年に訃報が届き、さらにその翌年、ベルリン・フィルの指揮台に立ったと述懐。
→これは朝比奈の記憶どおりで、フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年11月30日、朝比奈のベルリン・フィル客演は56年6月21日だった。
私の知る限り、朝比奈が『ロマンティック』以外の演目について触れている資料はなかったように思う。たとえば、彼が「前半はマーラーが演奏された」ということを語っていたら、上記の6―8日の公演を聴いた可能性がぐんと高くなる。だが、この件に関して朝比奈に直接確かめることはできなくなってしまった。あとは、F=ディースカウの証言を得ることも可能だが、ソリストが自分の出番のないメインの曲目について覚えているだろうか?
参考文献:「音楽現代」編『フルトヴェングラー――人と芸術』(芸術現代社)、朝比奈隆/小石忠男『朝比奈隆、音楽談義』〈芸術現代社)、『朝比奈隆、栄光の軌跡』(Ontomo Mook、音楽之友社)、“EIN HUNDERTJAHRE BERLINER PHILHARMONISCHES ORCHESTER”, Peter Muck, Hnas Schneider,“FURTWANGLER Concert Listing 1906-1954”, Rene Tremine, Tahra, “The Furtwanler Sound”, John Hunt
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