第6回 フルトヴェングラーとトスカニーニ

 戦前戦後を通じて世界中の人気を二分した指揮者がフルトヴェングラーとトスカニーニだったことはあえて強調するまでもない。この両者はお互いを強く意識したことでも知られているが、ある新聞記者が「あなたのライバルは誰ですか? 教えてくださいよ」と何度もしつこく迫ったら、トスカニーニは激怒しながら「フルトヴェングラー!」と答えたという逸話がある。また、戦前のザルツブルク音楽祭のとき、2人は路上で鉢合わせし、トスカニーニがフルトヴェングラーに対して「ナチスの統治下で演奏するなど、もってのほか」と非難し、それに対してフルトヴェングラーは「ナチス統治下であっても人々がバッハやベートーヴェンを聴く自由はある」と言い返し、激論に発展したと言われている。
  この2人の巨匠だが、ともに1954年に活動の終止符を打っている。あと1年たてばステレオ録音が実用化されるというところで、2人ともが活動を終えているというところも、歴史の不思議というか、単なる偶然とは思えないのだ(トスカニーニにはいくつか実験的なステレオ録音は存在するが、正規のものはない)。
  さて、私が気になるのはフルトヴェングラーはトスカニーニが引退したニュースをどのように受け止めたかということである。1954年4月4日、トスカニーニは指揮をしている途中で記憶を喪失し、会場は長い沈黙に支配された。ラジオの生放送では「トラブルが発生しました」とアナウンスされ、ブラームスの『交響曲第1番』の冒頭がしばらく流されたあと、間もなく演奏は再開された。このショッキングな出来事のあと、トスカニーニは引退を表明、以後、公の場には一切姿を現さなかった。このニュースもフルトヴェングラーのところにはただちに伝えられたと考えるのが普通だろう。フルトヴェングラーは特に戦後になってから作曲する時間をほしがっていたので、これを聞いて「そうか、私も早く引退して作曲に専念したいものだ」などと思ったのだろうか。しかしながら、少なくとも私が知る限りでは、フルトヴェングラーがどんな感想を抱いたのか、それを記した文献はないように思う。
  一方、トスカニーニは引退後、1957年に亡くなっている。そうなると当然、トスカニーニも54年11月のフルトヴェングラーの訃報を耳にしているはずである。65年、ダニエル・ギリスはフルトヴェングラーの弔辞を集めた”FURTWANGLER RECALLED”(邦訳『フルトヴェングラー頌』仙北谷晃一訳、音楽之友社)を著している。同書に掲載されているのはワルター、カザルス、ストコフスキー、ベームなどの指揮者、オネゲル、シェーンベルク、ヒンデミットらの作曲家、メニューイン、シュナイダーハン、カーゾン、フラグスタートなどのソリストたち、あるいは旧西ドイツ首相アデナウアーなど、そうそうたる顔ぶれである。しかし、ここにもトスカニーニの名前はない。トスカニーニは戦後のウィーンですら「ナチスの残党がうようよいるところになど絶対に行きたくない」と語っていたらしいが、このフルトヴェングラーの訃報をトスカニーニはどう受け止めたのだろうか? 「フルトヴェングラーの死去、それは私にとってナチスの残党のひとりが亡くなったというだけだ」、というようなことを漏らしたのだろうか?

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