第15回 イダ・ヘンデルの存在感

 東京交響楽団のある奏者と話をした際、私が「最近共演したソリストで印象に残っている人はいますか?」と尋ねたら、その人は即座に「イダ・ヘンデル!」と答えていた。「もう80歳を超えているのに着ている物はぜんぜん年寄りくさくないし、ものすごく高さのあるハイ・ヒールをはいていた。オーラのようなものを発していたし、出てくる音のパワーにもびっくりした」
  このときヘンデルはシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』を弾いたが、これは私も客席で聴いた。席が若干良くはなかったが、それでも誰の表現にも似ていない、全く独特のものであることは確認できた。
  そのヘンデルが2008年に来日したときにスタジオで収録したアルバム『魂のシャコンヌ』(RCA BVCC-31116)が発売された。解説にもあるように、ヘンデルは録音の際には決してつぎはぎはしないそうだ。つまり、ダメであれば小品なら最初から、ソナタであれば楽章単位で弾き直すというわけだ。確かにこのCDを聴いていると、必要以上に細部のミスにこだわったような雰囲気は感じられない。というよりも、世の多くのディレクターや演奏者が聴けば「よくもこれだけほころびの多い演奏を平気で出せるものだ」と言うに違いない。
  私はそんなに頻繁に録音現場に立ち会ったわけではないが、そこでは往々にして「そんなに細かいところにこだわらなくても」と思うほどわずかなミスやノイズなどを懸命に排除しようという作業がおこなわれている。それに、小節単位、フレーズ単位で細かく分けて収録しているのもときどき目撃しているし、実際、そうした話はよく耳にもする。
  確かに商品であればミスや種々のノイズは許されるべきものではないだろう。しかし、CDを聴く私たちの立場からすれば、そうした細かなほころびよりも、音楽を感じさせてくれない音が多すぎることの方がよほど気になる。
  ヘンデルの演奏に話を軌道修正しよう。高齢の録音ために確かに歯切れが悪いところも散見される。しかし、この独特の歌い回しはヘンデルならではのものだ。たとえば、ブラームスの『ハンガリー舞曲第1番』、短いながらも無二の個性がしっかりと発揮されている。サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』も即興性に溢れ、ジプシーらしい雰囲気も満点である。モーツァルトのソナタも、こんなに遅くて濃厚な味わいは珍しい。また、無伴奏のラロ、バッハも逸品である。
  聴き終わって、久しぶりに「音楽を聴いた」と感じた。ヘンデルは今年も来日が予定されている。最近の調子を持続しているとすれば、聴きに行った方がいいだろう。ただ、こうした高齢の演奏者は、あるときガクッと調子が落ちることもある。ローラ・ボベスコの最後の来日公演がそうだった。でも、仮にヘンデルがそうなったとしても、こればかりは責めるわけにはいかない。
  いずれにせよ、この年まで日本に来てくれて、しかもスタジオ録音までしてくれたのだから、それだけでも十分に感謝しなければならない。

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第14回 予想以上だったパイクのベートーヴェン

 ある雑誌の「2008年度ベストCD5選」のなかに、私はためらわずクン=ウー・パイク(1946年、ソウル生まれ)のベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ全集』(デッカ UCCD-3983~91)をあげた。全集としては近年最も注目すべきものだと思ったからだ。その彼が5年ぶりに来日し、ベートーヴェンを弾くのを知った。しかし、あいにく体調が思わしくなく、行くのをいささか躊躇したが、これは聴いて大正解だった。
  4月3日、東京・四谷の紀尾井ホール、曲目は順に『第30番』『第14番「月光」』、休憩後は『第19番』『第23番「熱情」』だった。『第30番』が始まったとき、CDで聴くような冴えが不足していると感じた。一瞬、「しまった」と思ったが、その次の『月光』はそんな心配を完全に打ち消してしまった。
 『第30番』が終わってパイクは前傾姿勢のまま微動だにしなかった。しばし会場は沈黙に支配されたが、むろん、誰も拍手をする者はいない。やがて両手がゆっくりと鍵盤の上に置かれ、ひっそりとした弱音で『月光』が始まった。ここで私は息を飲んだ。何という暗く悲痛な調べだろうか! 深い深い暗闇の奥底からふつふつとわき上がるような音。こんな『月光』はかつて耳にしたことはない。むろん、CDでも聴いてはいたが、CDにはさすがにここまでの響きは入っていない。柔らかく明滅する第2楽章も見事だった。そして、次の第3楽章は心の中に燃えさかる情熱の炎である。物理的に彼よりも大きな音を出せるピアニストは他にいくらでもいるような気がする。だが、このパイクの音は一つひとつが実に濃密だ。極めて心が強い音と言ってもいいだろう。
  休憩後の『第19番』、これは規模からいっても後半の前口上のようなものだった。最初の『第30番』とは違い、実に渋く落ち着いた音色で歌ってくれた。次はこの日の白眉、『熱情』である。パイクは前半と同じく、『第19番』が終わっても鍵盤の方を向いたままで、立ち上がろうともしなかった。やがて、第1楽章の主題が『月光』のときと同じように、暗くうごめくように奏される。爆発する直前の短い間、ここでも再び息を飲まざるをえなかった。続くフォルテの牙をむくようなすさまじい響き、これは『月光』の第3楽章以上である。第2楽章もよかったはずだが、第3楽章の印象があまりにも強烈なために思い出すことができない。いずれにせよ、この第3楽章は近年聴いたベートーヴェンのなかでも最も忘れがたいものになった。荒れ狂うような音の連続ではあったが、その音が聴き手の心にガツンと太い杭を打つように、体全体に響き渡るのである。その昔、ロックのヒット曲で「黒い炎」というのがあったが、この『熱情』の第3楽章はまさしくそんな感じだった。
  すごかったと感動したが、また一抹の不安がよぎった。まさか、彼がたとえば初期のソナタの一部をアンコールで弾いたりしないだろうかと。もしもパイクがそうしたら、この『熱情』の後味は著しく薄まってしまう。けれど、彼はアンコールを1曲も弾かなかった。これには大きな共感と安堵を抱いた。
  私がパイクを聴いたのはショパンの『ピアノ協奏曲第1番』『第2番』(デッカ UCDD-1095~6)だった。この演奏については拙著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』(青弓社)にも記したが、これはベートーヴェンとは対照的な、驚くほど柔らかく優雅な演奏だった。このショパンとベートーヴェンが同一人物とは、ちょっと信じられない。この人の今後の動向は、もっと注視されるべきだと思う。

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