小泉元首相の著作『音楽遍歴』(日本経済新聞社)に「アンコールへの注文」という項目がある。そこでは「最終楽章をもう一度繰り返すアンコールがあるけれど、これは興ざめだ」「ブルックナーとかマーラーとか、長大なシンフォニーなんかの場合は、アンコールをやらない方が、余韻を残せる」と記されている。こういうふうに書いたりしゃべったりする人は何も小泉元首相に限らないのだが、確かに当日のプログラムにはふさわしくないと思われるアンコールは日常的に少なくない。たとえば、一昨年だったか、パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア管弦楽団の公演、このときはベートーヴェンの『運命』+マーラーの『巨人』というプログラムだったが、アンコールは4曲もあった。それもすべてイタリア物。終了したときの会場の盛り上がりはたいへんなものだった。終わりよければすべてよし、第三者的に見れば大成功と言える。けれど、その沸き方を見ていると「だったらプログラムにもっとイタリア物を入れればよかったじゃないか」と思ってしまう。アンコールの4曲は日頃彼らが頻繁に演奏しているので、ほとんど練習なしでも演奏できる内容だとは思う。けれども、4曲もやる気力と熱意があるならば、予定されていた演目にもっと磨きをかけてほしいというのが偽らざる気持ちだった。
2002年6月、アルブレヒト指揮、ワイマール州立歌劇場管弦楽団の公演があった。このときに注目されたのはフルトヴェングラーの『交響曲第1番』の日本初演だった。この作品は巨大な編成であり、総演奏時間に80分以上も要する大曲である。内容は渋くて錯綜しており、決して一級のものとは言えないが、フルトヴェングラー・ファンはむろんのこと、ドイツの交響曲に関心のある人にとっては興味深いものだ。その演奏は立派だった。ただ、シューベルトの『ロザムンデ』間奏曲とワーグナーの『ローエングリン』第3幕への前奏曲、この2曲のアンコールが、生きている間にはたぶん二度と実演では聴けないであろう、この大交響曲の余韻をほとんどかき消してしまった。
大交響曲と言えば、2007年の上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団の公演も思い出す。このときに最も話題になったのは、90分程度もかかったブルックナーの『交響曲第7番』だった。これは演奏の途中でトイレのために離席した人が何人かいたほどだった。むろん演奏する方もたいへんだっただろうが、聴く方も、良くも悪くもぐったりと疲れた。ところが、そんなときでもワーグナーの『ローエングリン』第1幕への前奏曲がアンコールとして演奏された。それはまるで、十分に満腹しているのに、さらに一品追加された料理が運ばれてきたようなものだった。正直、「蛇足!」と思った。
1月16日、ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に出かけた。この日は「プロコフィエフ交響曲全曲演奏VOL.1」で、『第1番「古典」』と『第7番「青春」』が演奏された(他にモーツァルトの協奏交響曲もあった)。通常、日本フィルに限らず定期公演ではほとんどアンコールをやらないが、この日は『第7番』の第4楽章をアンコールとして演奏した。こう書くと、それこそ小泉ではないが「興ざめ」とでも言いたくもなろう。しかし事情通はおわかりだと思うが、この第4楽章には2つの版がある。つまり、プロコフィエフは暗く静かに終わる方を最初に書いたのだが、当局からの物言いを恐れて明るく肯定的に終わるものも書いたのである。ラザレフが最初に振ったのは暗く終わる方だった。彼はマイクを持って、たどたどしい日本語で「コレカラ、カカサレタ、ダイヨンガクショウヲエンソウシマス(これから、書かされた第4楽章を演奏します)」と言い、明るく終わる第4楽章をアンコールとして指揮した。これならば初めて聴く人にもわかりやすい。この日ばかりは、すぐに帰路につかなくてよかったと思った。
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