今年に入って、ある事情通から「チョン・キョンファは引退してジュリアード音楽院の教師になった」という情報を得た。そう言えば、最近チョンの動向を聞かなくなって久しい。CDも2000年に収録されたブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』、ヴィヴァルディの『四季』(ともにEMI)がいちばん新しいものだ。03年にスーパー・ワールド・オーケストラのソリストとして来日したが、それ以降きっぱりと引退したというニュースも伝わっていないように思う。
私がチョンを初めて聴いたのは1983年のことだった。会場は東京文化会館だったが、その公演のなかで忘れもしないのはバッハの『無伴奏パルティータ第2番』である。一挺のヴァイオリンが空間を引き裂き、会場内に嵐を呼び寄せるような、想像を絶した迫力を生み出していたことに心底驚いた。そのとき、私はこんなバッハは二度と聴けまいと思った。しかし、98年の来日公演でチョンは同じ曲を演奏し、さらに驚くことに、83年をも上回るものを聴かせてくれたのである。
そのほか、ベートーヴェンとブラームスの2大ヴァイオリン協奏曲を一晩で弾くという注目すべき来日公演もあったが、チョンの公演にはちょっとした出来事もあった。ホロヴィッツの初来日公演で吉田秀和が「骨董は骨董でも、ちょっとひび割れがあった」と評したのは有名だが、この直後のチョンの来日公演のチラシには「ひび割れた骨董よりも盛りの花は美しい」といった挑発的な宣伝文句が使用されていた。また、先ほど触れたベートーヴェンとブラームスの公演はNHK交響楽団との共演だったが、当時のN響の理事がチョンとの公演に対して「神聖なドイツ音楽に異種の臭いを持ち込む」と発言し、問題になったこともあった。しかし、こうした事件もずいぶんと昔の出来事のようにも思えてしまう。
チョンは録音に対しても非常に慎重だった。新譜は予告はされるものの、ほとんど毎回のように一時的に延期される。録音を完了しながらも彼女自身がOKを出さずにお蔵入りしたものもそれなりにあると聞いている。共演者の選択も厳しい。うまく帳尻を合わせるなどという文字は彼女の頭の中にはなかったようで、共演者に対する要求は過酷とも言われていた。彼女の要求の高さに耐えかねて、ある伴奏ピアニストは「私はあなたの専属ピアニストではない」と怒ったとか。デッカからEMIに移籍したのも、テンシュテットと共演するためだったらしい。これは噂なのでどこまで信用していいかは不明だが、チョンはブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』の伴奏指揮者にはカルロス・クライバーを指名したが、結局は実現しなかったとのこと。
雑誌記者時代、私は一度だけチョンに会ったことがある。ああいった集中力の激しい音楽をする人である、予想どおりなかなかインタビューの許諾が取れない。やっと取れたものの、インタビューには決して乗り気ではない様子は周囲の私たちにもはっきりと伝わっていた。とは言っても、沢尻エリカのように取り付く島もないといった返答することはなかったが、その受け答えは演奏とは対照的に淡々としたものだった。後日、関係者からチョンが以下のように言っていたと耳にした。「私は公演のために日本にやってきたの。とにかく公演に成功することが私の最大の使命。インタビューに成功したって何の意味もない。だから、公演に直接関係ないことはやりたくない」
2000年かその翌年か記憶ははっきりしないし、事の詳細も覚えていないが、とにかく自宅でチョンのインタビューができそうだということがあった。そのときは所用で海外に行く人にインタビューを依頼したが、その人物のスケジュールとチョンのそれとが残念ながらかみ合わなかった。その人は何回かチョンの自宅に電話し、会える時間を模索したけれども、結局はすれ違い。その人から聞いたのはチョンはとても積極的で、「あなたの仕事は何時に終わるの? ぎりぎりまで待っている」とできる限り合わせるようにしてくれたという。要するに、彼女は同時にあれやこれやとできない人なのだろう。
チョンは1948年生まれだから、完全に引退するのはちょっと早い気がする。仮にすでに引退していたとしても、テニスのクルム伊達公子のように、再びふらりと舞台に戻ってくることを期待したい。
Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。