薮下哲司(映画・演劇評論家)
『宝塚イズム45』(7月発行)の編集会議のさなか、衝撃のニュースが飛び込みました。
昨年、宝塚大劇場での初日を観て「宝塚史上に残る名作の誕生」と絶賛、「ミュージカル」誌(ミュージカル出版社)のベストテンでも5位にランクインした月組公演『桜嵐記(おうらんき)』(2021年)の演出家・上田久美子さんが3月末付で宝塚歌劇団を退団したというのです。
『桜嵐記』が好評を得ながら8月15日の東京公演千秋楽以降、上田さんの動向が歌劇団からぷっつりと消え、これだけの人気作家であるにもかかわらず次回作の発表もなく、秋ごろから退団の噂はなんとなく聞こえていました。しかし、雑誌「歌劇」2022年1月号(宝塚クリエイティブアーツ)の年頭のあいさつに簡単なコメントが掲載されたこともあっていったん噂は立ち消えていました。ところが、2022年のスケジュールが次々と発表されるなか、一向に上田さんの名前がなく、4月に入ってSNS上で退団の噂が一気に浮上。歌劇団もマスコミの問い合わせに対して3月末で退団したことを正式に認めたのです。
退団の裏には複雑な事情があり、関係者の話を総合すると、昨年のかなり早い段階で本人から退団届が出され、歌劇団が慰留に努めたのですが意志は固く、年度末の3月末で受理という形になったと推測されます。
宝塚に在籍したままでも外部の仕事はできるわけで、何も退団しなくてもと思うのですが、「無になってやり直したい」というのが本人の信念だそう。退団が明らかになったと同時に、外部の仕事が矢継ぎ早に発表され、宝塚での新作を期待していた者としては残念至極ですが、文化庁の海外研修でフランスに1年間の演劇留学をすることも決まっているとかで、日本演劇界の星として今後の活躍を大いに期待したいと思います。
上田さんの退団を惜しむ原稿は『宝塚イズム45』でも単発で書きますが、ここで少し上田さんのプロフィルを紹介しておきましょう。上田さんは2004年京都大学文学部フランス文学専修卒。2年間の会社員生活を送ったのち、06年に宝塚歌劇団に演出助手として入団。13年に珠城りょう主演の月組バウホール公演『月雲(つきぐも)の皇子(みこ)』で演出家デビューを果たしました。
2作目の朝夏まなと主演『翼ある人びと――ブラームスとクララ・シューマン』(宙組、2014年)で早くも鶴屋南北戯曲賞にノミネートされ、翌2015年、早霧せいな、咲妃みゆ主演の雪組公演『星逢一夜(ほしあいひとよ)』で大劇場デビューを果たしました。その後明日海りお主演の花組公演『金色(こんじき)の砂漠』(2016年)から最後の作品となった月組公演『桜嵐記』まで再演を含めて全10作品を担当、そのうち4作品がトップスターのサヨナラ公演という、若手作家としては異例のエース的活躍でした。
その作品世界は、人の絆のもろさ、はかなさといった、人が生きるうえでの痛みを巧みなストーリーテリングに取り入れ、観る者の心にぐさりと直撃。退団することが宿命づけられている宝塚のスターたちの一瞬の輝きとリンクさせて、これまでの宝塚になかった重層的な物語を生み出しました。
『月雲の皇子』を舞台稽古で初めて見たときの衝撃はいまも忘れません。『日本書紀』と『古事記』で衣通姫についての記述にいくつかの矛盾があり、そこから物語を自由に紡いでいこうという冒頭のナレーションから上田さんが書いた物語世界にぐいぐいと引き込まれ、兄弟が同じ姫を愛するという宝塚の王道ストーリーと大和朝廷以前の古代ロマンのミステリーに魅了されたのでした。
それまで優等生的な男役としてしか映っていなかった珠城が生き生きと舞台に息づいていたのにも目を見張りました。バウホール公演だけだったこの公演をぜひ東京公演でもと劇団に進言し、理事長が動いて、たまたま空いていた天王洲銀河劇場での公演が急遽決まったのでした。その後、朝夏まなと主演の宙組公演『翼ある人びと』もすばらしい出来栄えで、『宝塚イズム』で急遽小特集を組んだ覚えがあります。
いま思えば最後の公演となった『桜嵐記』を書くときにはすでに退団の意志を固めていたのか、楠木正行の台詞の一つひとつに思いの丈の発露が見られるような気がしてなりません。観ているときは珠城の退団に合わせた台詞かと思っていたのですが、まさか自分のこととは。それにしてもこの『桜嵐記』はどこにも無駄がない見事な作品でした。戦前、軍国主義のプロパガンダに使われたことで戦後は舞台化を敬遠された主人公を逆手に取ったところもあっぱれ至極。上田さんが退団したことで、上田さんの作品の再演の道が閉ざされてしまうのではないかと、それが心配です。
さて『宝塚イズム45』は目下、締め切りを前に執筆陣に原稿をお願いしているところです。ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻が激しさを増すなか、新型コロナウイルス禍も丸2年を過ぎても収束のめどがつかず、先行きの暗いご時世です。『桜嵐記』の楠木正行の台詞ではありませんが、「大きな流れに命を捧げ」これからも進んでいきたいと思います。『宝塚イズム』への応援もよろしくお願いいたします。
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