第9回 五味康祐『オーディオ巡礼』(ステレオサウンド)を読む

 これは1980年に出たものの復刊である。五味康祐(ごみ・やすすけ、1921-80)は剣豪小説で知られ、53年に『喪神』で芥川賞を受賞してる。オーディオにも造詣が深く、特にタンノイのスピーカーをこよなく愛したことでも有名だ。マージャンや手相にも詳しく、その分野の著作もある。しかし、五味は長く不遇な生活を送り、いまで言うホームレスも経験している。金になるものはなかなか書けず、LPレコードを聴くことで空腹をしのいだ日々もあった。そうした彼のつらい日々を救ったのが音楽だったのである。
  五味はあこがれのタンノイを手に入れ、それを思いどおりに鳴らすのに10年かかったと書いている。その試行錯誤はまさに格闘と言えるものだ。そうした格闘こそが尊いと彼は言う。だが彼は、高価な装置を買えなどとはひと言も言っていない。それどころか、五味は成り金趣味のようなオーディオ・マニアを「横っ面をひっぱたきたい」と嫌っていた。
  彼は常に「自分は本当に正しい音を聴いているのだろうか」と自問し、あちこちの家に出向いてオーディオを聴いた。むろん、その大半はごく一般的な装置のものが多い。五味は装置の総額が高いか低いかが重要ではなく、自分ができる範囲で少しでも音を良くしたいと願い、それを実践することが大切と説く。その結果出てきた音は「その人の人生そのもの」と言い切っている。また彼は、「同じ装置でも部屋が違えば別物の音がする。部屋がオーディオを鳴らす」と部屋の重要性も指摘する。
  五味はある日、得意のマージャンで大金をかせいだ。これでオーディオが買えるぞと意気込んだが、次の瞬間に「こんなやましい金で音楽は聴けない」と思った。彼は「音楽は私の倫理観と結びつくもの」としていたからだ。この考えはブルーノ・ワルターが「音楽には道徳的な力がある」と述べたことと似通っている。
  コレクションに関しても五味は以下のように言っている。「数ではない、その人にとって必要なだけのレコードがあれば良い。気に入らないものはさっさと処分せよ」、と。また彼は「若い時には装置に無理をせず、ひとつでも良い演奏、作品を聴いた方がよい」とも主張する。そして、「その人にとっての名盤は、聴きこめば聴きこむほど輝きを増す」と続ける。また、「LPが200枚あるとする。1日1枚聴いても、特定のLPにあたるのはせいぜい1年に1回」と記しているが、確かにそのとおりだ。これは当たり前のことなのだが、ためることばかりに夢中になっていると、こんなことまで忘れているのだ。また彼は「私は最近、音楽ではなく音質を聴いているような気がする」という一文には、我ながらはっとさせられる思いだった。
  ヒゲについてのこだわりもすごい。SPやLPはターンテーブルに装着するとき、よくレコードのレーベル面を先端にあてて中心の穴を探ろうとする。このとき、レーベル面にすじが入ってしまうが、これを俗に“ヒゲ”と呼んでいる。五味はこのヒゲを「一度ついたら永遠に消えない。私の300枚のコレクションにはヒゲはひとつもない」と断言し、「ヒゲをつけて平気な人は信用しない」とまで言い切っている。極端だと思う人も多いだろう。だが、レコードや作品を大切に思うからこそ、こう言えるのである。こんな話もある。彼は評判のいい医者のオーディオ・ルームに招待されたが、五味はその音に失望し、「こんな医者には二度とかかるまい」と決心したという。
  LP世代の方はご記憶だろうが、ある時期にはノイマンSX68というカッティング・ヘッドがはやった。五味は「このノイマンSX68が音をきたなくした。これを褒めるやからは舌をかんで、死ね」とまで書いているが、この本を読み終えた2、3日後、私はあるエンジニアから「日本でノイマンSX68がはやるようになって、LPの音が変になり始めた」と聞いたのには驚いた。
  さまざまな作品に関して、五味は素晴らしさを讃えているが、その文章になんと深い愛情と痛切な想いがこめられているのだろうか。なまじの曲目解説よりも、ずっと心に響く。本書で彼が「ハイドンの中でも白眉の名曲」と記した『交響曲第49番「ラ・パッシオーネ(受難)」』、私はこれを持っていなくて、早速買いに行った。
  この本を読んで、私は恥ずかしくなった。このメールは盤鬼としているのだが、この五味に比べれば、せいぜい小鬼、いや鬼の域にすら入っていないと思った。読んで本当によかったと思う。
  これは本とは直接関係のないことだが、音楽雑誌の編集者がこんなことを話してくれた。あるとき、その人は五味宅に電話をし、このようなテーマで原稿を書いていただきたいと言ったら、五味に「電話で原稿を頼むとは何事だ! 家に来い! 話はそれからだ!」と一喝されたという。電子メール全盛のいま、お互いの声を知らなくても仕事を続けられる。しかし、本来書き手と編集者とは、五味が言うような関係でなくてはならないだろう。
  読了して、忘れかけていたものをたくさん思い出したような気がした。本書を送ってくださったステレオサウンド編集部には謝意を記しておきたい。送ってくださらなかったら、読むのはだいぶあとになったかもしれないし、読む機会すら逸したかもしれない。
(この本は333ページ、2,667円+税)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

プライバシーをひけらかす人びと――『ポスト・プライバシー』を書いて

阪本俊生

  最近、プライバシーをひけらかす人の話をよく耳にする。集会所の片隅で若いカップルが仲良くしている。彼らは他人がいてもまったく平気といった感じである。電車や教室で鏡を見ながらの化粧直しは言うに及ばず、インターネットで「プライバシー」などと検索してみると、自室の生中継に出くわしたりもする。たくさん人がいる路上で、携帯電話で別れ話をしている女性は歩きながら泣きじゃくっている。感情にまかせて大声でしゃべっているので聞きたくなくとも聞こえてしまう。
  この前、「ミクシィ」なるものを知りたくて、ある学生に頼んで入会させてもらった。するとすぐに何人もの知らない方々から「マイミク」のお誘いが。もちろん各自それぞれの判断で情報に制限をかけているし、情報が本当なのかも定かでないが、それでもプライバシー情報のオンパレード。
  試しに学生のところを訪問すると、何だかとても接近した感じ。親近感がわくというよりはむしろ、いきなり部屋に上がり込んでいったような、大げさな言い方をすれば見てはならないものを見ている感覚に襲われて、はたして入会してよかったのだろうかと悩む私は、おそらく古いタイプの近代人なのだろう。もちろん彼らはプライバシーをひけらかしているわけではないが、それでもこんな世界があったのか、と改めて考えさせられた。
  プライバシーは変容しつつある。これについて明らかにしたいという思いから、この本を書きだしたのは10年前だった。そのときからプライバシーを取り巻く環境は大きく変化した。当時はインターネットも携帯電話もいまほどは浸透していなかったし、9・11のテロも起こっておらず、情報セキュリティへの関心もいまほど高くはなかった。ただその一方で、すでに監視カメラは増え始めていて、住民基本台帳ネットワークシステムをもたらした改正住民基本台帳法が国会で成立するなど、今日の情報化への方向に着々と進んでいた。
  プライバシーの変容の基本的方向性は、このときすでに定まっていたと思う。私のなかにあるのは、一言で表せば、環境経済学などが取り上げるエコツーリズムがいうところの「ゲーム牧場」のイメージである。これはアフリカなどでライオンやキリンなどの野生動物を野放しにして保護や管理をおこないながら生態系の維持にも役立てるというものだ。要するに野放しにしつつ、監視し、管理する。同じことが情報管理社会にもいえるとすれば、いわば「人間のゲーム牧場化」が進んでいるということになるだろう。
  これは東浩紀がいう環境管理型の社会に近いし、デイヴィッド・ライアンやジョージ・リッツァーも似たようなイメージをもっているといえるだろう。私自身もこれらに賛同する。しかし、私がこの本で書こうとしたのはこのことではない。
  この本は、実は、プライバシーの本でもなければ、監視社会論の本でもない。もちろんプライバシーをめぐって書いてはいる。しかしこの本のテーマは、個人と社会のかかわり方とその背景にある社会システムの変化だ。プライバシーを一つの社会意識としてとらえ、その変化を見ていくことから、私たちの社会的自己やアイデンティティの生まれ方について考え、さらにそれを変化させている社会システムの歴史的な変化をとらえようとしている。こう言うと引いてしまう人もいるかもしれないが、プライバシーを深く理解するうえで必要な視点の一つだと思っている。
  もちろんプライバシー意識は今日でも見られる。でもそのあり方は、以前と同じようでいて、微妙に変わってきているのではないだろうか。近代の主体の終わりとよくいわれたりするが、これは実際にどのようなかたちで起こっているのか。このような事態を示唆するような、実際の社会現象は見られないのだろうか。プライバシーへの着目はこうした取り組みの一環である。
  プライバシーの変化が、私たちのアイデンティティのあり方に変化をもたらしてきているとして、それは私たちをどのように変えつつあるのか。その結果、私たちはどうなっていくのか。これらについても、プライバシーの変化の考察はヒントを与えてくれるような気がする。
  プライバシー意識は近代に生まれた。そして今日、それは情報化のなかで、まさに問題の渦中にある。自動車の発明と普及が都市構造や生活スタイルを激変させたように、情報技術の発達と普及も私たちの生き方や存在のあり方を大きく変えつつあるだろう。しかもこちらは私たちのより身近なところ、すなわち身体や内面、親密性といったところに直接働きかけているように思える。
  すでにふれたように、この本はプライバシーについて書いたのではない。情報化がもたらすアイデンティティ形成の文化的・社会的様式の変化を、プライバシー意識の変容を通じて明らかにしようとしている。だから情報化に対する抵抗の戦略について語ろうとはしない。もしこのような抵抗との関連を問われたら、その抵抗が何のためであり、また何への抵抗であるのかについて、立ち止まって考えようというのがこの本である。

第8回 クナッパーツブッシュ、1949年のステレオ録音ヨウラ・ギュラーを聴く

 ドリームライフから「クナッパーツブッシュ・スペシャル・ボックス」という2枚組み(RIPD-0002)が発売された。クナッパーツブッシュ指揮、ウィーン・フィル、曲目はハイドンの『交響曲第88番「V字」』、R・シュトラウスの交響詩『死と変容』、ブラームスの『交響曲第3番』、そしてワーグナーの『ジークフリート牧歌』である。ワーグナー以外は1958年11月8、9日、ウィーンでの、そしてワーグナーは49年8月30日、ザルツブルク音楽祭でのそれぞれライヴである。
  2枚組みとはいえ、このセットにはCD-ROMもついていて、そこにはプログラムや写真などの図版が数多く所蔵されているため、実質的には3枚組みと言ってもいいだろう。解説書も充実しているので、なかなかの力作と言える。
  ところが、このセットを手に取ってみると、不思議に思うことがある。それは『ジークフリート牧歌』に「ステレオ」と表示されていることだ。ドリームライフのホームページを見ると、そこには「実験的なステレオ」とある。しかし、このセットには単に「ステレオ」と表示されているだけで、どういう意味での実験的なものなのかに関する説明は全くない。実験的ということは、1949年のザルツブルク音楽祭でステレオ録音がおこなわれていた、と誰もが思うはずだ。
  商業用の最初のステレオ録音は1955年におこなわれている。これ以前にもステレオ録音はおこなわれていたが、一般的に最古のものとしては第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが開発したとされるものが有名である。このステレオ収録については一部の文献にも記されていたが、比較的最近になってカラヤン指揮のブルックナー『交響曲第8番』(ただし、第4楽章だけ)、ギーゼキングが弾いたベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』という実物がすでにLP・CD化されている。さらには、トスカニーニのファイナル・コンサート(1954年)も実験的なステレオとして有名であり、このCDも現在入手可能である。
  しかしながら、1949年のザルツブルク音楽祭でステレオ録音がおこなわれていたというのは全く初耳である。ヨーロッパで放送録音が実用化されたのは60年代に入ってからである。そういうことを考えると、この49年のステレオ録音は、録音史上でもちょっとした事件だろう。
  こうした放送用録音のステレオ騒動と言えば、何と言っても1950年春の、フルトヴェングラーがミラノ・スカラ座に客演した際のワーグナーの『ニーベルングの指環』が有名である。イタリア・チェトラから83年に発売されたこの全曲盤は、当初「オリジナル・ステレオ」と発表され、センセーションを巻き起こした。ところが、LPにカッティングされた音はまぎれもなくモノーラルで、情報の訂正にレコード会社、レコード店は奔走した。なぜこのような間違いが起きたか? それはチェトラのカタログに「2チャンネル・レコーディング」と記されていたことがその発端だったようだ。この表示があるLPレコードはほかにもフルトヴェングラーがザルツブルク音楽祭で指揮したウェーバーの『魔弾の射手』、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』などがあったが、それらはいずれもモノーラルのカッティングだった。また、CD時代になって『魔弾の射手』には“ステレオ”と表示されたものも複数のレーベルから出たが、これらもすべて本物のステレオではなく、加工された疑似ステレオであることが判明している(この疑似ステレオの音そのものは意外にいいと思う)。
  いずれにせよ、ザルツブルク音楽祭でステレオ録音がおこなわれたのではないかという未確認情報が以前からあったのは事実だ。そうなると、この『ジークフリート牧歌』が初めての実例であってもおかしくはない。でも、出てきた音を聴いてみると、ちょっと首をかしげたくなる。教会で録音したような、ものすごく長い残響がある。「レコード芸術」2009年3月号に誰かが「ザルツブルクの旧祝祭劇場がこんなに残響があるのは不自然」というようなことを書いていたが、確かにこれはいくら何でも不自然である。まあ、その残響は聴きやすく付け加えたと解釈しても、方向感覚や各パートの定位などが全く聴きとれないし、音は一点から出ているようにしか思えない。これは明らかにモノーラルを疑似ステレオ化したものだろう。        
  しかし、疑似ステレオであってもステレオはステレオである。でも、この場合は誰もがその当時におこなわれたステレオ録音だと思うだろう。ドリームライフのホームページ上では「実験的」と書いてはあるものの、「“当時の”実験的なステレオ」とはなっていない。現代の技術を駆使して加工しても実験的なステレオであることに変わりはなく、ホームページでの表記は虚偽とまでは言えない。けれども、この場合は非常に誤解を招きやすいものであるのは間違いない。それに、もしもオリジナル・ステレオであれば、その経緯に関して多少なりとも記述があってしかるべきだと思う。
  この『ジークフリート牧歌』は、いわばオマケである。本編の1958年の公演について少し触れておこう。演奏そのものは過去に出ていたもので、初出ではないようだ。音質はちょっと聴くと鮮明だが、しばらく聴いていると弱音と強音の差があまりないことに気づく。それに第1ヴァイオリンと木管楽器が異様にマイクに近く、金管楽器や打楽器は逆に遠いので、演奏の全体像がいささか把握しにくい。このセット、資料的な点を考慮すれば、熱狂的なクナ・ファン向け、といったところだろうか。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第7回 ヨウラ・ギュラーを聴く

 ヨウラ・ギュラーYoura Gueller(1895-1980)はその昔、「女優にならないか」と誘われたことがあるという。確かに若い頃の写真を見ると、そう言われるのも十分にうなずける。とはいえ、いくらきれいとはいっても演技ができるかどうかが問題なのだが。
  ギュラーの演奏は以前、ニンバスから出たベートーヴェンか何かを聴いたことがあるが、全く記憶に残っていない。しかし、今度Tahraから発売された『Inedits Youra GuellerⅡ』(TAHRA650)は強く印象に残るものだった。
  収録されているのは「シューマンの交響的練習曲」(1962年4月6日)、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(1958年1月15日、アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団)、アルベニスの「トリーナ――「イベリア」より」、以上の3曲。このなかで極めつきはベートーヴェンである。
  いかにも女流らしい柔らかいタッチで始まるが、やや遅めのテンポを一貫させ、それほど崩しては弾かない。和音の響かせ方に独特なものがあり、その気品溢れる音色とあいまって独特の個性を放っている。だが、カデンツァに入ってものすごく驚いた。通常の3倍かと思われるほどテンポは遅く、しかも極端なピアニッシモなのだ。私は、しばし口をあんぐりとしていた。それは、いままで全く聴いたことがないカデンツァである。第2楽章はこの気分を持続したように、いまにも止まりそうなほどゆったりしたテンポ、そして繊細な弱音で歌っている。途中、指揮者がこらえきれなくなって棒を下ろしてしまうような場面もある。でも音楽は決して陰々滅々と暗くはない。むしろ、温かい夢心地といった方が適切だろう。
  第3楽章は舞うように、軽やかに上品に歌うが、トリルのかけ方ひとつにも独特の味わいがある。こんな個性的な演奏があったのかと、感心するばかりだ。いずれにせよ、この演奏はこの曲を愛する人には一聴を強く勧めたい。音質は、この時代のライヴとしては最上の部類。
  シューマンはベートーヴェンと違って男性的で彫りの深い表情を見せている。しかし、逸品はアルベニスだろう。ベートーヴェンでもあったような和音の独特な響かせ方と、崩すとは言わないまでも、微妙に変化させた独特の語り口が鮮やかな色彩感を演出している。ソロの2作品はスタジオでの収録らしく、音質は協奏曲よりもさらに鮮明。

追記
  第5回のアイダ・シュトゥッキで、彼女は『Discopaedis of the Violin』の第2版には出てこないと書いたが、これは完全な見落としだった。その原因は、シュトゥッキがアルファベット順に入るべき場所に入っていなかったことによる。これは第2版を制作中に順序を誤ってしまったことが推測されるので、「出ていない」と書いたのは私の責任ではないとも言える。しかし、こうした文献にこの程度の誤りは日常茶飯事なので、それを見抜けなかった私が悪いと思う。これがたとえば、シュトゥッキがSではなくZの項にでも入っていたら、それは明らかに本が悪いと言える。詰めが甘いと反省します。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第6回 フルトヴェングラーとトスカニーニ

 戦前戦後を通じて世界中の人気を二分した指揮者がフルトヴェングラーとトスカニーニだったことはあえて強調するまでもない。この両者はお互いを強く意識したことでも知られているが、ある新聞記者が「あなたのライバルは誰ですか? 教えてくださいよ」と何度もしつこく迫ったら、トスカニーニは激怒しながら「フルトヴェングラー!」と答えたという逸話がある。また、戦前のザルツブルク音楽祭のとき、2人は路上で鉢合わせし、トスカニーニがフルトヴェングラーに対して「ナチスの統治下で演奏するなど、もってのほか」と非難し、それに対してフルトヴェングラーは「ナチス統治下であっても人々がバッハやベートーヴェンを聴く自由はある」と言い返し、激論に発展したと言われている。
  この2人の巨匠だが、ともに1954年に活動の終止符を打っている。あと1年たてばステレオ録音が実用化されるというところで、2人ともが活動を終えているというところも、歴史の不思議というか、単なる偶然とは思えないのだ(トスカニーニにはいくつか実験的なステレオ録音は存在するが、正規のものはない)。
  さて、私が気になるのはフルトヴェングラーはトスカニーニが引退したニュースをどのように受け止めたかということである。1954年4月4日、トスカニーニは指揮をしている途中で記憶を喪失し、会場は長い沈黙に支配された。ラジオの生放送では「トラブルが発生しました」とアナウンスされ、ブラームスの『交響曲第1番』の冒頭がしばらく流されたあと、間もなく演奏は再開された。このショッキングな出来事のあと、トスカニーニは引退を表明、以後、公の場には一切姿を現さなかった。このニュースもフルトヴェングラーのところにはただちに伝えられたと考えるのが普通だろう。フルトヴェングラーは特に戦後になってから作曲する時間をほしがっていたので、これを聞いて「そうか、私も早く引退して作曲に専念したいものだ」などと思ったのだろうか。しかしながら、少なくとも私が知る限りでは、フルトヴェングラーがどんな感想を抱いたのか、それを記した文献はないように思う。
  一方、トスカニーニは引退後、1957年に亡くなっている。そうなると当然、トスカニーニも54年11月のフルトヴェングラーの訃報を耳にしているはずである。65年、ダニエル・ギリスはフルトヴェングラーの弔辞を集めた”FURTWANGLER RECALLED”(邦訳『フルトヴェングラー頌』仙北谷晃一訳、音楽之友社)を著している。同書に掲載されているのはワルター、カザルス、ストコフスキー、ベームなどの指揮者、オネゲル、シェーンベルク、ヒンデミットらの作曲家、メニューイン、シュナイダーハン、カーゾン、フラグスタートなどのソリストたち、あるいは旧西ドイツ首相アデナウアーなど、そうそうたる顔ぶれである。しかし、ここにもトスカニーニの名前はない。トスカニーニは戦後のウィーンですら「ナチスの残党がうようよいるところになど絶対に行きたくない」と語っていたらしいが、このフルトヴェングラーの訃報をトスカニーニはどう受け止めたのだろうか? 「フルトヴェングラーの死去、それは私にとってナチスの残党のひとりが亡くなったというだけだ」、というようなことを漏らしたのだろうか?

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第5回 アイダ・シュトゥッキのこと

 昨年末のこと、レコード会社の担当者から「アイダ・シュトゥッキ(Aida Stucki)というヴァイオリニスト、ご存じですか?」、こう言われて私は反応できなかった。担当者は続ける、「ムターの先生らしいですよ」。渡されたCDはTAHRAの663という番号のもの。それでも私はピンとこなかった。
『Discopaedia of the Violin』という本をご存じだろうか。これはカナダのJ・クレイトンが著したものだが、内容は古今東西のヴァイオリニストのディスコグラフィ集で、1990年頃に第2版が出ている。大きさはA4よりわずかに大きく、この第2版は4巻分が幅約11センチもある。収録されているヴァイオリニストの数は何人だろうか、おそらく数百人ではあるまいか。たとえば日本人では江藤俊哉、前橋汀子、漆原朝子、潮田益子なども含まれていることからもわかるように、世界的にはそれほど有名ではない奏者までも網羅している。ところが、この本にはシュトゥッキは出てこない。さらに調べていくと、彼女が録音したものと言えばモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第1、2、7番』(ピリオド)、シェックの『弦楽四重奏曲』(レーベル不明)くらいしか見あたらない。残した録音もこれだけ地味であれば、彼女の名が知られていないのはむしろ当然なのかもしれない。
  彼女の略歴はTAHRAの解説によると以下のとおりだ。1921年、ヴィンタートゥール出身の父とシチリア出身の母のもとでカイロに生まれる。母は美声の持ち主であり、シュトゥッキの名前アイダはイタリア・オペラ好きの母から授けられた。彼女の最初の先生はドイツの指揮者、ヴァイオリニストのErnst Woltersだった。37年、母の病気のためシュトゥッキはヴィンタートゥールに戻るが、その後カール・フレッシュに師事、さらにチューリッヒではバルトークと交友のあったStefi Geyer(1888-1956)にも師事している。彼女はハスキルともしばしば共演していたらしいが、その後の詳しい活動については触れられていない。
  シュトゥッキとムターとの出会いは1974年、ヴィンタートゥールでムターがメンデルスゾーンの『』ヴァイオリン協奏曲』を弾いたときである(このとき、ムターは11歳)。演奏の直前に楽器の調子が悪くなり、それを救ったのがシュトゥッキだった。これがきっかけとなり、ムターは彼女に教えを乞うことになったらしい。
  さて、このCDに含まれる演奏だが、1949年12月30日、ヘルマン・シェルヘン指揮、ベロミュンスター・スタジオ管弦楽団、曲目はベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である。音源はシュトゥッキ自身が所持していた78回転盤(おそらくアセテート盤だろう)とのことで、音揺れや歪みもあり、特に伴奏の音は強い音が終始割れぎみで、決していいとは言えない。だが幸いなことに、独奏はマイクに近いようで、極めて鮮明に捉えられている。その演奏だが、全く予想もしなかった美しさであった。古い世代に属する、特に女流ヴァイオリニストには独特の音程の取り方をしたり、一風変わった弾き方をする人も多く、そうしたものが独特の味わいを醸し出すことも多い。しかし、このシュトゥッキは全くの正統派だ。その意味では知性派フレッシュの教えを忠実に守っていると言える。しかし、微妙な変化と輝かしいほどの高貴な音も彼女の特色なのだ。たとえば第1楽章、ややゆっくりと、いかにも昔風な感じで手探りに始まる。だが、その音には何とも言えない柔らかさと気品が満ちあふれ、みるみるうちに引き込まれてしまう。緩急の付け方も見事で、実にさりげなく、かつ自然におこなわれている。第2楽章の美しさにも驚いた。この楽章のこんなにきれいな演奏も、ここしばらくは巡り会っていないような気がする。決して甘くべたべたと歌っているわけではないのに、いちじるしく夢心地にしてくれるのだ。第3楽章のいくらか遅めのテンポ設定も見事だ。これ以上遅くするともたついた感じがする、その一歩手前で踏みとどまっている。そして相変わらず硬軟、緩急のさりげない変化が実に見事。このCDのブックレットの冒頭にはムターの「この録音は弦楽器を弾く人、音楽愛好家すべてに必携である」という一文が掲載されているが、これは決して大げさではないと思う。
  余白にはバリリの独奏によるバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』が収められている。いかにも唐突なような組み合わせだが、ベートーヴェンと同じくシェルヘンの伴奏ということで採用されている(周知のとおり、このTAHRAはシェルヘンの娘ミリアムが切り盛りしているからだ)。ブックレットに記述はないが、このバッハは有名なウェストミンスター原盤である。
  今回の復刻盤は、さすがTAHRAである。自前レーベルGrand Slamにはとうていできない。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる〈日本人〉――『アメリカ雑誌に映る〈日本人〉――オリエンタリズムへのメディア論的接近』を書いて

小暮修三

  まずは、僕がまだアメリカ留学したばかりの頃のエピソードをひとつ。
  ある日、大学院生専用図書館のコンピュータ室でデータ処理をしていたところ、近くに座っていたアメリカ人女性が「オーマィガッ!」とPCを前に慌てふためき始めた。僕が彼女の方に目をやると、彼女は部屋を見渡し、僕と目が合うやこちらに近づいて話しかけてきた。
 「ごめんね、ちょっとファイルが消えちゃったんだけど、元に戻せるかな?」
  どうやら、レポートを書いている最中にデータが消えてしまったらしい。僕は、彼女が使っていたPCをイジり、自動バックアップ用のデータを開いてあげた。彼女は、感謝の言葉とともに、僕がどこから来たのか尋ねた。僕が日本だと答えると、「ちょっと待って」と言って、自分の大きなカバンのなかをかき回し始めた。お礼に何かくれるのかなという淡い期待に少しだけ胸を膨らませながら待っていると、僕の目の前にウォークマンを差し出して、こう言った。
 「これ、ちょっと音の調子が悪いんだけど、直せるかな?」
  あまりにパンチが効いた質問だったので、彼女が言っている意味が全くわからなかった。僕の目が泳いだ状態になると、彼女は日本人だったら直せるかと思って試しに聞いてみただけだと早口で続けた。僕が無理だと答えると、彼女は「じゃぁイイ」と言って何もなかったかのように自分の作業に戻っていった。もちろん、「わけのわからないことを人に頼んどいて、「じゃぁイイ」じゃねぇーよ、無礼なヤツだな、オメェ!」と言い返せなかったのは言うまでもない。
  その後、アジア人留学生やアジア系アメリカ人男性がメカに強く、特に日本人男性であればメカはお手の物だというステレオタイプ(固定観念)が、多くのアメリカ人に根強くあり、その背景となる言説がテクノ・オリエンタリズムと呼ばれていることを知った。少なくとも僕の滞米時期(2000年以降)、日本人男性のステレオタイプは、メガネをかけた出っ歯で、カメラを首に掛け、ジャルパックのカバンを肩から提げて、何にでもお辞儀し、バカ高いみやげ物を買いまくるニンジャの子孫というものではなかった。そこで、本書の「はじめに」で書いたように、アメリカ人の前では、あえて古い日本人男性のステレオタイプに拠った自己紹介をしてウケを狙ったのである。
  ここでウケるか否かは、そのステレオタイプの古典性をどれだけ相手と共有しているかにかかっている。特定の意味作用システムを共有していなければ、そこに「笑い」は生まれてこない。そして、幸か不幸か、当時のアメリカではテクノ・オリエンタリズムの視線の下で、古典的なオリエンタリズムに基づくネタが「笑い」の対象として認知されていたのである。しかしながら、僕がテクノ・オリエンタリズムに基づくネタとして「メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる」とボケた場合、それは「笑い」ではなく「事実」として受け入れられてしまっていただろう。つまり、そこには特定の意味作用システムが共有されていないのである。このような考察から、テクノ・オリエンタリズムという特定の意味作用システムと、その形成過程についての調査・分析が始まり、古典的なオリエンタリズムの形成も含めた内容の本書を世に問う次第となった。
  そのリサーチは、研究にたずさわる者のご多分に漏れずヒジョーに地味なもので、大学の図書館に常駐し、古雑誌のページをシコシコめくり、必要な部分をスキャンする作業の繰り返しだった。アメリカ人の友人からは、「スキャナーの番人」という称号まで与えられた。そして、あまりにも毎日のように図書館で作業しているものだから、常勤のスタッフと勘違いされてか、はたまたテクノ・オリエンタリスティックなステレオタイプのたまものか、アメリカ人学生にPCやソフトの使い方を聞かれたり、ノートPCの修理を頼まれたり、iPodの使い方まで尋ねられるまでに至る。実際には、そんなもん知らねぇっつーの。しかしながら、そのようなステレオティピカルな視線を日常的に浴びることも、リサーチの収穫のひとつではあった。
  さらにリサーチを進めるなかで、ここでも特筆すべき点は、世界に冠たる科学雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」のほぼ1世紀前の写真の「パクリ」を発見したことである。本書でも触れたが、同誌記者の撮影とされる日本に関する最初の「カラー写真」の何枚かが、実際は、日本人カメラマンの撮影によるみやげ物用「彩色写真」をトリミング(切り取り加工)したものだった。これは、シコシコ何万枚もの同誌に掲載された写真を見続けてきた過程で生じた違和感から、日本の古写真をも調べたことによって見つけ出すことができた。この発見によって、オリエンタリズムの相互補完関係という僕のロジックが、より強固なものになったと信じている。と同時に、同誌と同誌日本版発行元から目の敵にされることが想像できる。誠に名誉なことである。

  そんなこんなの明け暮れで、このような研究契機、リサーチ、そしてさらに地味なPCモニター監視員と化した分析を経て書いた本書を、楽しみながら読んでもらえれば幸いである。

第4回 奇々怪々、新発見の『第9』

 2月4日、ドリームライフから“フルトヴェングラー、ウィーン・フィル、1日違いの『第9』世界初発売”と題されたCDが発売される予定である(RIPD-0003)。これは1953年5月30日、ウィーン、ムジークフェラインザールでのライヴとのこと。ところが、この演奏だが、実に奇々怪々なのだ。
  このときのウィーンの第9公演は以下のような日程でおこなわれたとされている。
29日
30日
31日(昼と夜の公演)
  つまり、3日間で4回おこなわれたとされている。歌手は高域から順にイルムガルト・ゼーフリート、ロゼッテ・アンダイ、アントン・デルモータ、パウル・シェフラーとなっている。けれども、30日もしくは31日の昼公演のソプラノはゼーフリートではなくヒルデ・ザデックが歌ったのではないかとも言われており、これはいまだにはっきりしていない。
  このときのライヴ録音はさまざまなレーベルから発売されたが、最初期に発売されたLPには29/31日と日付が特定されていなかった。その後、初めての正規盤であるドイツ、日本のフルトヴェングラー協会盤では「31日」と特定していた。しかし、その後発売されたドイツ・グラモフォン(DG POCG-2624)、アルトゥス(Altus ALT076)の同じく2種の正規盤には「30日」と記されている。もちろん、協会盤とDGなどは中身は全く同一である。つまり、ソプラノの問題、日付の問題ともに未解決なのである。
  ところが、この新発見に関してのドリームライフの説明がまことに不十分なのだ。まず、ドリームライフは音源を一切明かしていなかった。これに対して、私は再三にわたって「出自不明の音源など社会的信用を得られない」と申し入れていた。だが、まもなくドリームライフの担当者は業界関係者に向かって「この音源はオーストリア放送(ORF)の提供」と言い始めた。しかも、「ORFの資料には31日とあったが、これは間違いと判断して30日として出す」とのことだった。ORFに再調査を依頼し、その結果が「30日」ということならば理解できるが、そういう説明もない。それに、ドリームライフのパンフレットには31日表示の協会盤、30日表示のDGも「31日」と一緒にし、自社の「30日」音源との違いを説明している。そこには他レーベルを一律「31日」と断定した根拠も示されていない。
  日付があやふやであっても、内容が明らかに別物であれば大きな混乱はないだろう。しかし、これは間違いなく過去に出たものと同一の演奏である。よく知られているように、フルトヴェングラーには1日違い、3日違いなど、日付が近接したライヴ録音がいくつか存在する。しかも、最近では有名なバイロイトの『第9』の同じ日の別演奏までも登場した。こうした近接した録音は、聴き始めてほんの数秒もしないうちに、ただちに別演奏だと判断できるものばかりである。ところが、この新発見の『第9』、何回聴いても同じにしか思えない。
  しかしながらである、比較すると実に奇妙な現象が起きている。ちょっと聴くと別演奏にも思える痕跡があると言えば、ある(以下、ドリームライフ盤=L盤、そして協会盤、DG、アルトゥス=D盤と略す)。最も大きな違いはティンパニにあった。
  まず第1楽章の295―296小節、スコアにはないティンパニが4回追加されている。ここをL盤は「別演奏の大きな証拠」としている。確かにD盤にはないし、フルトヴェングラーの他のすべての『第9』にはこのような改変をした例もない。しかし、よく聴いてみるとこのL盤では287小節からティンパニは全く叩いていない。つまり、この個所はこうした説明が成り立つ。「287小節からティンパニ奏者が落っこちてしまい、295小節からさぐりを入れ、297小節でやっと復帰する」。これはありえないことではない。だが、私にはこの追加された4つの音がさぐりを入れるような不安な音には思えないのだ。明らかに最初から叩く、といった明確な意志が感じられる。しかも、この4つの音は電気的に加えられた全く同一の音にも思える。
  第4楽章にもティンパニに大きな違いがある。「おお友よ!」と歌い始める直前の206―207小節、D盤ではティンパニが完全に叩き損ねており、全く音がない。一方のL盤はスコアどおりにきちんと叩いている。ここもL盤が「別演奏の証拠」としているところだ。確かにそうだ。けれども、私はフルトヴェングラーの同じくウィーン・フィルを指揮した1951年か52年ライヴのテイクと差し替えていると推測している。
  次のティンパニは最も不可解である。同じく第4楽章の164小節以降、ちょうど歓喜の主題が管楽器に移行したところである。L盤は全くスコアどおりだが、D盤は音の数をかなり増やして叩いているのがはっきりとわかる(楽器がいっせいに鳴っているので、楽譜にすることはちょっと難しいが、違いは明らかだ)。
  以上の2種のL盤、D盤のティンパニの違いをL盤のデータに沿って説明すると、30日では第1楽章に大きなミスをしたが、同じ個所を31日では完璧に叩いた。第4楽章、164小節以降、30日はスコアどおりに叩き、翌31日では大幅に改変したものを叩いた。さらに独唱の直前、30日ではちゃんと叩いたけれども、31日は全くの行方不明になるという大きなミスを犯した、ということになる。こんなつじつまが合わないティンパニがあるだろうか? 2日間にわたって大きなミスをし、しかもある個所において1日違いで全く違った音を叩く。絶対にありえない。むろん、こんな説明も成り立たないわけではない。30日、第1楽章で大きなミスをしたので、指揮者が31日は別の奏者に交替するように指示した。そうしたら、その奏者が改変した音を叩き、独唱の直前では大きなミスをした……。これもかなり苦しい説明だ。
  もう一カ所、第4楽章の最後のプレスティッシモに入る直前、4人の独唱のテノールにある。840小節、本来ならば「sanfter Flugel」(uはウムラウトが入る)と歌わなければならないのを、D盤では「Flugel sanfter」と間違って歌っている。ところが、L盤は楽譜どおり「sanfter Flugel」と歌っている。ここも別演奏の証拠とみなすことができる。しかし、その次の841小節が不可解だ。この小節ではテノールのみ「weilt」の音を半音変えて伸ばすだけで、他の3つのパートは「Flugel weilt」と歌うのである。ところが、L盤もD盤もテノールはソプラノと同じ音、同じ歌詞で「Flugel weilt」と歌っているのである。この841小節だけをとれば、指揮者の改変とも言えるだろう。でも、L盤が指揮者の指示だとすれば、テノールは840小節に「Flugel」と歌い、さらにその次の841小節にも再び「Flugel」と、つまり「Flugel」を2回繰り返すことになる。仮に841小節、テノールにソプラノと同じ「Flugel weilt」を歌わせたいと指揮者が指示をしたいのならば、その前の840小節で「sanfter」を他のパートのようにその小節内で伸ばし、841小節で「Flugel weilt」と改変するならば合点がいくというものだ。その点、840小節に間違いを犯して、それを引きずって841小節を思わず「Flugel weilt」と歌ってしまったD盤の方が収まりがいい。もちろん、単なるミスという可能性がなくはない。けれどもデルモータのような歌手が2日とも間違えるだろうか?
  その他、L盤は聴衆のノイズの違いなどを別演奏の証拠としているが、このような違いはもはやほとんど証拠にはなりえないのである。というのは、最近の技術では、加工した痕跡が確認できないほどきれいに直せる技術があるからだ。これは複数の技術者も証言している。
  一部の方は覚えているだろうが、確か2003年のはじめ頃だったか、アンダンテの『大地の歌』事件があった。ワルター指揮、ウィーン・フィル、マーラーの『大地の歌』、デッカのセッション直後のライヴということで発売されたCDがあったが、これはデッカの正規録音に前後の拍手や楽章間の咳払いを付け加えてライヴ風に仕立てた、完全な偽物だった。これは国内ではむろんのこと、イギリスの「グラモフォン」誌でも指摘され、世界的なスキャンダルとなった。しかし、音源提供者は「間違いなくORFのアーカイヴに所蔵された音源を使用したもので、本物に間違いない」と主張していた。
  私は今回の『第9』もこの『大地の歌』と同様、偽装音源であると思っている。この『第9』と『大地』の違いは、前者が演奏の前後にだけ拍手やざわめきを加えただけなのに対し、今回の『第9』はほぼ全曲に改変がなされている、相当に手の込んだものということだ。先ほども触れたように、こうした加工はいくらでも可能な時代である。これからも、こうした音源は出てくるだろう。
  いずれにせよ、最も大きな問題は、出自不明の音源を堂々と出してしまうことではないか。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第3回 いいアンコール

 小泉元首相の著作『音楽遍歴』(日本経済新聞社)に「アンコールへの注文」という項目がある。そこでは「最終楽章をもう一度繰り返すアンコールがあるけれど、これは興ざめだ」「ブルックナーとかマーラーとか、長大なシンフォニーなんかの場合は、アンコールをやらない方が、余韻を残せる」と記されている。こういうふうに書いたりしゃべったりする人は何も小泉元首相に限らないのだが、確かに当日のプログラムにはふさわしくないと思われるアンコールは日常的に少なくない。たとえば、一昨年だったか、パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア管弦楽団の公演、このときはベートーヴェンの『運命』+マーラーの『巨人』というプログラムだったが、アンコールは4曲もあった。それもすべてイタリア物。終了したときの会場の盛り上がりはたいへんなものだった。終わりよければすべてよし、第三者的に見れば大成功と言える。けれど、その沸き方を見ていると「だったらプログラムにもっとイタリア物を入れればよかったじゃないか」と思ってしまう。アンコールの4曲は日頃彼らが頻繁に演奏しているので、ほとんど練習なしでも演奏できる内容だとは思う。けれども、4曲もやる気力と熱意があるならば、予定されていた演目にもっと磨きをかけてほしいというのが偽らざる気持ちだった。
  2002年6月、アルブレヒト指揮、ワイマール州立歌劇場管弦楽団の公演があった。このときに注目されたのはフルトヴェングラーの『交響曲第1番』の日本初演だった。この作品は巨大な編成であり、総演奏時間に80分以上も要する大曲である。内容は渋くて錯綜しており、決して一級のものとは言えないが、フルトヴェングラー・ファンはむろんのこと、ドイツの交響曲に関心のある人にとっては興味深いものだ。その演奏は立派だった。ただ、シューベルトの『ロザムンデ』間奏曲とワーグナーの『ローエングリン』第3幕への前奏曲、この2曲のアンコールが、生きている間にはたぶん二度と実演では聴けないであろう、この大交響曲の余韻をほとんどかき消してしまった。
  大交響曲と言えば、2007年の上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団の公演も思い出す。このときに最も話題になったのは、90分程度もかかったブルックナーの『交響曲第7番』だった。これは演奏の途中でトイレのために離席した人が何人かいたほどだった。むろん演奏する方もたいへんだっただろうが、聴く方も、良くも悪くもぐったりと疲れた。ところが、そんなときでもワーグナーの『ローエングリン』第1幕への前奏曲がアンコールとして演奏された。それはまるで、十分に満腹しているのに、さらに一品追加された料理が運ばれてきたようなものだった。正直、「蛇足!」と思った。
  1月16日、ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に出かけた。この日は「プロコフィエフ交響曲全曲演奏VOL.1」で、『第1番「古典」』と『第7番「青春」』が演奏された(他にモーツァルトの協奏交響曲もあった)。通常、日本フィルに限らず定期公演ではほとんどアンコールをやらないが、この日は『第7番』の第4楽章をアンコールとして演奏した。こう書くと、それこそ小泉ではないが「興ざめ」とでも言いたくもなろう。しかし事情通はおわかりだと思うが、この第4楽章には2つの版がある。つまり、プロコフィエフは暗く静かに終わる方を最初に書いたのだが、当局からの物言いを恐れて明るく肯定的に終わるものも書いたのである。ラザレフが最初に振ったのは暗く終わる方だった。彼はマイクを持って、たどたどしい日本語で「コレカラ、カカサレタ、ダイヨンガクショウヲエンソウシマス(これから、書かされた第4楽章を演奏します)」と言い、明るく終わる第4楽章をアンコールとして指揮した。これならば初めて聴く人にもわかりやすい。この日ばかりは、すぐに帰路につかなくてよかったと思った。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第2回 チョン・キョンファは引退したのか?

 今年に入って、ある事情通から「チョン・キョンファは引退してジュリアード音楽院の教師になった」という情報を得た。そう言えば、最近チョンの動向を聞かなくなって久しい。CDも2000年に収録されたブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』、ヴィヴァルディの『四季』(ともにEMI)がいちばん新しいものだ。03年にスーパー・ワールド・オーケストラのソリストとして来日したが、それ以降きっぱりと引退したというニュースも伝わっていないように思う。
  私がチョンを初めて聴いたのは1983年のことだった。会場は東京文化会館だったが、その公演のなかで忘れもしないのはバッハの『無伴奏パルティータ第2番』である。一挺のヴァイオリンが空間を引き裂き、会場内に嵐を呼び寄せるような、想像を絶した迫力を生み出していたことに心底驚いた。そのとき、私はこんなバッハは二度と聴けまいと思った。しかし、98年の来日公演でチョンは同じ曲を演奏し、さらに驚くことに、83年をも上回るものを聴かせてくれたのである。
  そのほか、ベートーヴェンとブラームスの2大ヴァイオリン協奏曲を一晩で弾くという注目すべき来日公演もあったが、チョンの公演にはちょっとした出来事もあった。ホロヴィッツの初来日公演で吉田秀和が「骨董は骨董でも、ちょっとひび割れがあった」と評したのは有名だが、この直後のチョンの来日公演のチラシには「ひび割れた骨董よりも盛りの花は美しい」といった挑発的な宣伝文句が使用されていた。また、先ほど触れたベートーヴェンとブラームスの公演はNHK交響楽団との共演だったが、当時のN響の理事がチョンとの公演に対して「神聖なドイツ音楽に異種の臭いを持ち込む」と発言し、問題になったこともあった。しかし、こうした事件もずいぶんと昔の出来事のようにも思えてしまう。
  チョンは録音に対しても非常に慎重だった。新譜は予告はされるものの、ほとんど毎回のように一時的に延期される。録音を完了しながらも彼女自身がOKを出さずにお蔵入りしたものもそれなりにあると聞いている。共演者の選択も厳しい。うまく帳尻を合わせるなどという文字は彼女の頭の中にはなかったようで、共演者に対する要求は過酷とも言われていた。彼女の要求の高さに耐えかねて、ある伴奏ピアニストは「私はあなたの専属ピアニストではない」と怒ったとか。デッカからEMIに移籍したのも、テンシュテットと共演するためだったらしい。これは噂なのでどこまで信用していいかは不明だが、チョンはブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』の伴奏指揮者にはカルロス・クライバーを指名したが、結局は実現しなかったとのこと。
  雑誌記者時代、私は一度だけチョンに会ったことがある。ああいった集中力の激しい音楽をする人である、予想どおりなかなかインタビューの許諾が取れない。やっと取れたものの、インタビューには決して乗り気ではない様子は周囲の私たちにもはっきりと伝わっていた。とは言っても、沢尻エリカのように取り付く島もないといった返答することはなかったが、その受け答えは演奏とは対照的に淡々としたものだった。後日、関係者からチョンが以下のように言っていたと耳にした。「私は公演のために日本にやってきたの。とにかく公演に成功することが私の最大の使命。インタビューに成功したって何の意味もない。だから、公演に直接関係ないことはやりたくない」
  2000年かその翌年か記憶ははっきりしないし、事の詳細も覚えていないが、とにかく自宅でチョンのインタビューができそうだということがあった。そのときは所用で海外に行く人にインタビューを依頼したが、その人物のスケジュールとチョンのそれとが残念ながらかみ合わなかった。その人は何回かチョンの自宅に電話し、会える時間を模索したけれども、結局はすれ違い。その人から聞いたのはチョンはとても積極的で、「あなたの仕事は何時に終わるの? ぎりぎりまで待っている」とできる限り合わせるようにしてくれたという。要するに、彼女は同時にあれやこれやとできない人なのだろう。
  チョンは1948年生まれだから、完全に引退するのはちょっと早い気がする。仮にすでに引退していたとしても、テニスのクルム伊達公子のように、再びふらりと舞台に戻ってくることを期待したい。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。