「食」から広がる世界――『もんじゃの社会史――東京・月島の近・現代の変容』を書いて

武田尚子

 「もんじゃ」を切り口に、「食を考えるおもしろさ」を味わっていただきたいと思い、この本を書いた。私たちの頭のなかのグルメ・リストをチェックしてみると、なぜか地名とフードが一緒になってインプットされている場合が多いことに気がつく。月島もんじゃをはじめ、仙台の牛タン、宇都宮の餃子、尾道ラーメンなど、全国レベルで知られているもの、地方レベルで浸透しているものなどさまざまだが、たぶん誰でもすぐに2、3は名前を挙げることができるだろう。ローカルな地名がつくと特別の味わいであるように思われ、食欲をそそられる。
  このようなタイプのローカル・フードは、かつて高度成長期に生協などによって流通ルートが開かれて、地方の農産物が都市の消費者に直接届けられるようになった産直品タイプのローカル・フードとは異なる性格のものである。また、おみやげとして持ち帰る地方名産の郷土菓子とも異なるものである。グルメの時代に新たに登場してきたのは、ある程度の規模の都市で、そこの飲食店に腰をおろして味覚を楽しむローカル・フードである。供される空間やローカルな雰囲気もエンジョイする大事な要素である。だから、アクセスが不便な田舎のローカル・フードではなく、アクセスがいい土地のローカル・フードが有名になりやすい。グルメの時代に登場してきたローカル・フードは、利便性がいい都市におけるローカル・フードとしてプロデュースされたもので、外部から集客するための「媒体(メディア)」として、効果を発揮している。
  「ローカル」と「外部」を媒介しているローカル・フードは、詳しく考えてみるに値する味わい深い食品である。「月島もんじゃ」もこのようなローカル・フードの1つである。単純に昔ながらのローカル色を維持しているだけでは、メジャーにはなりにくい。適度にローカルなテイストを残しながら、外部から来た人をキャッチする何か「旨み」が必要とされる。つまり、ローカル・フードは、もともとその地域に根ざす何か由来があったわけだが、オリジナルなテイストは徐々に変化し、異なる「旨み」が加わり、メジャー化にいたるという、変化の過程があったと考えられる。この本で描きたかったのはその変化の過程であった。
  現代社会は、それぞれの人の好みに合わせた消費が楽しめる高度消費社会である。「食」に関する情報量は増え、流通ルートも多様化し、「食」の「媒介」機能は高まっている。「食」は、高度消費/レジャー社会の重要なアイテムの1つとなっていて、「食」に対する現代人の関心をじょうずに利用することが重要になっている。「食」の「媒介」機能の高まりは、情報・商品の流通、交通機関など社会的基盤の整備、ツーリズム/ビジネスによる人の移動の活発化など、マクロ社会の変化によって促進されている。私たち個々人は、このような環境のマクロ社会のなかで、「食」について恒常的に刺激されつづけている消費者であり、情報を取捨選択して、自分なりの食の楽しみの世界を創り出しているフード・ハンターでもある。「味わう」ことが、生活の楽しみを増す時代に私たちは生きている。味わうことによって、身体にエネルギーが満ち、活力が充実する。自分をとりまく社会についても関心が高まる。一石ン鳥の「食」の楽しさを堪能するメニューはいろいろある。『もんじゃの社会史』を読んだ方々の楽しみの世界がひろがるとうれしい。

ジャンケレヴィッチファン倍増のために――『哲学教師ジャンケレヴィッチ』を訳して

原 章二

  ジャンケレヴィッチのファンは欧米ばかりか日本にも結構たくさんいる。だからその著作も15冊以上邦訳されている。しかし、この希有な哲学者・音楽家・音楽学者の人となり、その哲学と音楽観の相貌を身近から全体的に語ったもの、特にフランスでジャンケレヴィッチがどのように受け取られていたかをフランス人が語ったもの、しかもできるだけ哲学用語を使わずにその本質を語ったものは、これまで日本語で読むことができなかった。
 その意味で、どうみても不肖の弟子にすぎない私にとって、この翻訳はこの歳になってでもやるしかなかった。考えてみれば、師事というと大げさで、単に修士論文と博士論文を見てもらったうちの一人にすぎないのだが、ともあれその一員となったときの先生の歳に自分が近づいている。往事茫々とはいうが、先生のことは昨日のように、その華やいだ顔、話し方、口調、そのトーンまでいきいきと蘇る。こちらがまだ20代の若造で、なんでも吸収するだけの柔軟性をもっていたから当然だが、それにしても誰にとっても、この本のなかでも語られているように、先生の存在は鮮烈なまでに印象的だ。
 そんなわけで勇んで翻訳にとりかかった。本を手にした方はおわかりだと思うが、3分の1くらいのところまでは文字どおり先生の人となりを語っているので、懐かしく思い出しながら、また私と同世代で同じゼミナールに通っていた著者の文なので訳しやすかった。その余勢をかって、ほぼ半分まではよかった。しかし、そこからが大変だった。理由は私の怠惰もあるとはいえ、もう少しまともな理由もある。
 著者が「はじめに──感謝のしるしとしての不実」で明らかにしているように、ジャンケレヴィッチの著作からの引用と、著者がとった講義のノート・メモ(これがそもそもジャンケレヴィッチの実際に述べたことなのか、先生の話を聞きながら著者が思いついたことなのかがわからない)と、そして著者の地の文とが、入り乱れて区別のしようがないのだ。
  むろん、フランス語の原文では、前二者は引用の体裁をとっていて二重鍵括弧でくくられている(ただし、フランス語の本に通例の校正ミスがよくあって括弧の具合がよくわからないところもある)。それでもフランス語としてはまあ読めるのだが、そのまま日本語に訳すと文章の続き具合がどうもうまくいかない。
 これにはほんとうに難渋し、往生した。結局、予想外の年月がかかってしまった。どのように先の難所をクリアしたかといえば、著者が「はじめに」で述べていることを訳者もある程度おこなったのだ。つまり、訳出の過程で、自分も著者と同じ世代で、しかも同じころ同じ教室で講義を受けていたからには、自分がこの本を書いているつもりになって、そこから勢いをもらったのだ。たぶん、それは間違いではなかっただろうと思っている。ともかく、この本のおかげで先生の存在をふたたび身近に感じ、自分がいかに影響されていたかを思い知った。日本のジャンケレヴィッチのファンが少しでも増えて、若い人々をも巻き込んで、難しそうな硬い言葉をふりまわして観念遊戯に耽って学問しているつもりのお偉方が、おのれのカルタの城の心もとなさに少しは愕然とする契機になってくれればいいと思う。それは日本が変わることでもあるだろう。
 ジャンケレヴィッチが言うとおり、この本のなかでも繰り返されているとおり、「誰々がどう言った。だからどうしたというのだ。人生はそんなことのためにあるのではない」。
  まったくこの〈現代思想〉とやらの周辺をめぐって精妙な思索を展開しているつもりのお歴々の空疎さに対する一服の清涼剤としての役割だけは、この本が果たすことができるだろう。ただし、後半はゆっくり読まないとかなり面倒な記述もある。訳者としてはわかりやすく訳したつもりだが、2、3回読んでわからなかったら気にせずに、そこにジャンケレヴィッチの逆説が隠れているのだろう、著者リュブリナもよく消化せず、訳者もうまく訳せなかったのだろう、くらいに思って先に進み、本を閉じてそれで終わりにせずにジャンケレヴィッチのつぎの本に進んでくれたらありがたい。つぎにどれを読むかは「訳者あとがき」に書いておいた。
  最後になるが、著者の略歴はいろいろ調べてみたが、原書に記載されていることしかわからない。いかにもジャンケレヴィッチの弟子らしい振る舞いだ。そこで訳者も同じように年齢を記さなかった。リュブリナも書いているとおり、歳の上下など関係ない。若くても年寄りくさい連中はたくさんいる。歳をとってもジャンケレヴィッチのように若い人間もたくさんいる。

第13回 感動の力作『大指揮者カール・シューリヒト 生涯と芸術』

 シューリヒトに関する国内での初めてのまとまった文献が発売された。それはミシェル・シェヴィ『大指揮者カール・シューリヒト――生涯と芸術』(扇田慎平/塚本由理子/佐藤正樹訳、アルファベータ)である。
  シューリヒトについて、これまでは略歴程度のことしか知られていなかった。ダンツィヒに生まれるが、父はすでに他界、その後家計を支えた伯父も破産するなど、非常に厳しい生活を余儀なくされた。そんななかでも彼は音楽を生きる糧とし、才能を育んだ。本の虫と自負するほど読書をし、堪能な語学は8カ国語もあった。一時は作曲家になるか指揮者になるかで悩むが、「指揮は作曲と同等の創造的行為」と判断、指揮者への道を歩み始める。しかし、そんなシューリヒトも2度の戦争で大きな打撃を受けた。彼自身はゲシュタポにおびえ、また彼が育てたヴィースバーデンの人々も本拠地も失われた。さらに、私生活では3度も結婚に失敗している。だが、戦後はアンセルメの手助けによってスイスに住み、徐々にその活動を広げていく。そのスイスでシューリヒトはアンセルメ、フルトヴェングラーと親しく交わっていたことはあまり知られていない。
  本書はシューリヒトの生涯をたどりながら、多くの証言や批評などを引用して、彼の人間像や芸術を浮き彫りにしようとしたものである。その調査は実に詳細でありながら、重箱の隅をつつきすぎることなく、明解で変化に富み、読み手を飽きさせない。また、こうした評伝はえてしてレコードの情報が手薄になりがちだが、その点に関しても完璧に調査し(日本のキングインターナショナルが発売したシューリヒトの作品集にも言及している)、要所にそうした記述を取り込んでいる。しかも、未発表の録音についても多数触れており、これらがマニア心をくすぐることも間違いない。
  出世欲よりも音楽への愛を大切にしたシューリヒト。風邪をひきやすく、関節の持病を持っていた彼は、特に晩年は両腕を支えられながら舞台に登場したこともあったようだ。こうした彼の気質や健康がシューリヒトを華やかな舞台から遠ざけた一因にもなったが、シューリヒトの功績は明らかだった。本書に登場する多くの批評を読むと、誰もが彼の一途な姿勢、そしてその音楽の素晴らしさを心から賞賛していることが痛いほど伝わってくる。
  いつも気さくでおだやかなシューリヒトだが、彼はあてがわれた条件をいつもにこやかに受け入れたわけではなかった。むしろ彼は自分の要求が認められないときは、一切手を出そうとはしなかった。特に合唱や独唱を要するような大所帯の上演のときがそうだった。彼はオペラとも無縁と思われていたが、条件さえ整えば喜んで指揮をした。R・シュトラウスの『サロメ』やウェーバーの『魔弾の射手』などを戦後に手がけたようで、モーツァルトの『フィガロの結婚』も指揮したという記述がある(この『フィガロ』は録音が残っていないものだろうか?)。
  もうひとつ重要なのは、彼が自分のパート譜を使用していたことだ。シューリヒトはスコアに細かく書き込みをした。このスコアからパート譜にその指示を転記するのだが、この重要な作業を誰がやったか、それは本書を読んで確かめていただきたい。
  その他、弟子のアタウルフォ・アルヘンタやガブリエル・サーブのこと、あるいは1968年の東京オリンピックのときにシューリヒトが来日する可能性があったことなど(もしも彼が日本に来たのならば、この語学の天才はきっと日本語を勉強しただろう)、これまで知られていなかったことが山ほど書かれている。
  訳文はこなれていて非常に読みやすい。批評の多くは文学的・抽象的な表現が多いので、訳出の際の苦労が多かったと察せられる。また、人名の表記も最も一般的なものに準じており、この点に関しても全く問題はない。原書でも触れているとおり、各国の批評は語学に堪能だったシューリヒトにあやかって全部原語で記されているという。この批評の訳文と本文との統一も、さぞかし難題だっただろう。また、邦訳では削除されがちな人名索引(しかも欧文も併記)がついているのもありがたい。
  読み終わっての感想、これはひとりの指揮者の評伝というよりも、偉大な音楽作品から受けた感動にも等しい、そう思った。シューリヒトのファンはむろんのこと、フルトヴェングラー・ファンにも強くお勧めする。あるいは、戦前戦後のヨーロッパの音楽界の動向について知るためにも、非常に有意義な一冊である。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第12回 『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』を読む

 昨年、川口マーン惠美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書、新潮社)を読んでいたが、これについて一度も書く機会がなかったので、今回はこれについて触れてみたい。
  帯に「二十世紀最大の巨匠は、果たしてどちらなのか!?」とあるように、本書は往年のベルリン・フィルの楽団員へのインタビューをもとに、彼らがどちらのシェフを高く評価していたかを検証するものである。結論を先に言うと、この大前提そのものにちょっと無理がある。なぜなら、フルトヴェングラーとカラヤンのどちらが偉大かは言うまでもないことだ。勝負はついている。この本はフルトヴェングラー、カラヤンの双方の時代を体験した元ティンパニ奏者テーリヒェンが著した『フルトヴェングラーかカラヤンか』(高辻知義訳、音楽之友社)の拡大版を狙ったのだろう。しかし、あの本は、カラヤンが生きている間にフルトヴェングラーとカラヤンの内情を知る人物が出版したからこそ意味があったのである。まあ、簡単に言うと、「われわれのようにフルトヴェングラーを体験した者にとってはね、あんた(カラヤン)よりもフルトヴェングラーの方がずっと偉いんだよ」と、こんな感じである。
  このことをカラヤンは百も承知だっただろう。だが、それをはっきりと突き付けられるのは、カラヤンにとっては決して触れられたくない話題だったに違いない。でも、何人かの楽団員が語っているように、彼らは指揮者の要求に応えることが最大の任務である。それに、フルトヴェングラーが偉大だと感じていたところで、その時代が永遠に続くわけでもない。フルトヴェングラーが世を去ってしまえば、それで終わりなのだ。聴き手は死者を懐かしもうが奉ろうが勝手だが、現場の人間はそうはいかない。
  したがって、本書で著者が無理に白黒をはっきりつけさせようとしているのも、いささか強引な印象を受ける。それに、フルトヴェングラーを知らない楽団員に、フルトヴェングラーとカラヤンに対する評価の違いを引き出そうとするのも適切ではないだろう。それ以上に、証言の間にはさまっている著者の素朴な疑問や驚き、あるいは推測などが、的を射ていなくていささか読みづらい部分もある。
  とはいえ、優劣や白黒を題材にしたのではなく、フルトヴェングラーとカラヤン時代の楽団員の貴重な証言集として読むならば、それはそれで十分に興味深いものだ。少なくとも、この2人の指揮者のどちらかに興味のある人には、読んで損はない。
  本の基本的な作りが以上のような内容なので仕方がないが、私はフルトヴェングラー・ファンのひとりとしてもっと聞いてほしいことがたくさんあった。特に戦前から在籍していたバスティアーンやハルトマンらだ。彼らは戦時中の困難な時代、どんな思いで演奏をしていたのか。それに彼らはきっとフルトヴェングラーのベルリン復帰演奏会にも出演していただろう。その最初のリハーサル、楽団員はどんな気持ちでフルトヴェングラーを迎えたのか。そして指揮者が最初に発した言葉は何だったのか。演奏会当日の会場の雰囲気はどのようなものだったか。あるいは、映像が残っているシューベルトの『未完成』はどこで収録したのか、など。
  テーリヒェンは先ほどあげた著作『フルトヴェングラーかカラヤンか』のなかで、カラヤンの目をつぶって指揮をする方法がとてもやりにくく感じたので、カラヤンと一部の楽団員とで話し合いが持たれ、「ある種の折り合いをつけた」と記している。私は本書にあるテーリヒェンの「カラヤンの音楽には感情がない」という過激な発言よりも、この「折り合い」がどんなものだったのかが知りたかった。でも、それはいまとなってはもはや尋ねることができない。テーリヒェンは昨年4月に他界している。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第11回 ナージャ健在!!!

 ぶったまげた! その言葉がいちばん似合う。2月7日、東京交響楽団の定期演奏会に出演したナージャ・サレルノ=ソネンバーグである。弾いたのはブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』、指揮は秋山和慶。
  ともかく、こんな破天荒なブルッフは全く初めてだ。第1楽章の冒頭、オーケストラの短い序奏のあと、ヴァイオリンが聴こえるかいなかというほどの最弱音で始まる。しかも、始まったばかりなのに、いまにも止まりそうなほど遅いテンポだ。そこから徐々にペースを上げていくのだが、その後テンポはジェット・コースターのように激変するし、間の取り方も一定ではない。ヴィブラートのかけ方も濃淡をはっきりさせ、危なっかしい音程にも遠慮なしに強烈なヴィブラートをかける。その自由奔放さは水を得た魚という程度ではとても追いつかない。音楽に合わせてナージャは所狭しと動き回る。仁王立ちになったかと思うと急に前かがみになり、激しいトリルではそれと同期するように床を靴でコツンコツンと鳴らす。オーケストラの部分になるとリズムに合わせて身体を揺らし、次にソロが出てくる個所では背筋をピンと伸ばし、楽器をやや上に向けて弾き始めたりする。音楽をするのが楽しくて仕方がない、といった彼女の気持ちがこれでもかと伝わってくる。指揮の秋山もよく彼女についていっていた。というよりも、客席で見ていると秋山もこの大波小波を楽しんでいるかのようだった。
  ナージャは1994年のクリスマス、自宅で友人を招いてパーティーを開いていた。彼女はタマネギを切っていたが、そのとき誤って左手の小指を切ってしまった。その傷はあと数ミリ大きければ一生小指が動かなかったであろう、という恐ろしいものだった。そこから長いトンネルが始まった。一時は別の仕事も考えたそうだが、彼女は気を取り直して3本の指で練習したりしたそうだ(このあたりの経緯については『ナージャ/ユモレスク』、ノンサッチWPCS5095のCDに詳述した)。だが、結果としてこの試練が彼女を一回り成長させたのである。
  しばらくナージャのことを聞かなくなって間もないころ、彼女は自主製作のCDを出し始めた。ひとつはチャイコフスキーとアサドの『ヴァイオリン協奏曲』(エイベックス AVCL25111)、そしてもう一つは『白熱のリサイタル』(同AVCL25112)である。ともに2004年のライヴだが、もうすっかり復活したというよりも、以前にもまして音楽は熱っぽくなっていた。むろん、ライヴ収録ということもあるだろうが、これほど生き生きとした音がCDから出てくるという例はあまりない。その後、彼女は2005年から翌年にかけて録音した『メリー・クリスマス』(同AVCL25181)も発売したが、これもいかにもナージャらしいにぎやかなアルバムだった。
  でも、その自主制作から3年から5年も経過している。2月7日の公演もひょっとしたらすっかり変質したナージャを聴かされるのではという心配もあった。だが、演奏は最初に述べたとおりだ。この原稿を書いていても、第3楽章のスリリングさを思い出して胸が高鳴ってくる。EMIに録音していた頃は不良少女が突っ張っていたような雰囲気があったが、いまやその自由なスタイルを完全に独自のものとして消化してしまっている。ふと、ナージャが1988年に録音したブルッフの『ヴァイオリン協奏曲』(EMI)を久しぶりに鳴らしてみた。その当時は十分に個性的と感じていたが、このたびの演奏とは落差がありすぎる。むろん、生演奏とスタジオ収録との差はあるのだが、表現の練り具合や突き詰め方が全く異なっている。
  こんな演奏をする人が、わずか2回の公演だけで(もうひとつは翌2月8日、川崎での公演)、リサイタルもない。これは全く惜しいことだ。次はいつ来るのか、具体的な予定は立っていないという。おそらくこの公演は、私にとって2009年の最高の演奏会のひとつになるだろう。
  実はこの日の公演、そのわずか2、3日前にエイベックス・クラシックスの担当者から「いま、ナージャが日本に来てますよ。週末に東京交響楽団の定期に出ます」という電子メールを受け取って、初めて知った。彼がメールをくれなかったら、この日の演奏を間違いなく聴き逃していただろう。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第10回 ムラヴィンスキーを愛した大野弘雄さん、逝く

 大野弘雄(おおの・ひろお)さんが1月23日に亡くなった。享年68。大野さんはアルトゥスから発売されたムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルの来日公演の音源提供者だった。
  大野さんがムラヴィンスキーの公演を録音しようとしたきっかけは、レニングラード・フィルの楽団員からの依頼だったという。ムラヴィンスキーが生前発表した録音は非常に数が限られていた。ある時期は10年以上も全く新譜が出ていなかったこともあった。おそらく、楽団員にとっても自分たちの成果を音として聴く機会も極めてまれだったに違いない。大野さんはレニングラード・フィルの楽団員と直接の交流があり、その楽団員を自宅に招いた際に録音のことを切り出されたらしい。楽団員にとってはツアーの合間の日本観光もおおいに興味があっただろう。しかし、旧ソ連の国家の代表として来日し、特別な思いを込めて演奏したに違いない彼らにとって、その日本公演の音も聴きたいという思いは十分に理解できる。
  かくして、数多くの日本公演が大野さんの手によって保管されていたが、むろん日の目を見ることはなかったし、私もそのような噂すら耳にしたこともなかった。それが公になったのは日本ムラヴィンスキー協会主催の、ムラヴィンスキー夫人来日歓迎会の席だった。夫人は言うまでもなくレニングラード・フィルの首席フルート奏者で、公私ともどもムラヴィンスキーを支えていた人物である。夫人はこうもらした。「私の夫はときどき録音をしても、聴いたあとすぐに消せと命令していました。いまにして思うと、録音をした人が主人の言いつけを守らずに、とっておいてくれたらどんなによかっただろうと思います」。そのあと大野さんは、夫人に保管していた録音のことを伝えたようだ。むろん夫人は怒るどころか、望外の喜びだったという。
  こうして、この一連の来日公演はCD化されることになった。特に、私のようにその演奏を体験した人間にとっては、興味津々どころの話ではない。そのムラヴィンスキーの来日公演については「クラシックジャーナル」第020号に詳述したのでそれを参考にしていただきたいが、ここではそのなかでも最も印象的なところだけを書きとめておきたい。
  まず、シューベルトの『未完成』(ALT053、1977年)である。このとき、私は東京文化会館の最前列右側で、ムラヴィンスキーを見ていた。ムラヴィンスキーは一礼したあと、旧配置の左に陣取る低弦の方を見ていた。しかし、じっと彼らを見ているだけで、演奏がいつになっても始まらない。なぜ始まらないのだろうと思った次の瞬間、低弦奏者たちの左手のポジション移動が見えた。なんと、すでに演奏は始まっていたのだ。空恐ろしいピアニッシモだった。CDを聴くとこのときの様子がはっきりと思い出せる。しかし、実演に接していない人にとって、強弱が極端に激しく、またテープ・ヒスの多い録音という印象を受ける可能性が高いが、これは仕方あるまい。
  ベートーヴェンの『田園』交響曲(ALT063、1979年)も忘れることができない。しかも、このCDは当日のプログラムがそっくり1枚に入っている。この『田園』は霧のような柔らかい響きが千変万化する演奏だった。しかし、録音で聴くとやたらに筋肉質な演奏に思えてしまう。最も不思議に思ったのは第4楽章の「嵐」である。ここはものすごく弱く柔らかい音で一貫されていたと固く信じていた。その間、約3分半だったが、私は「なんと風変わりな嵐だろう」と感じていた。だが、このCDで聴くとごく普通にガツンと演奏している。この差は、いまでも全くわからない。そのときは夢でも見ていたのだろうか、とさえ思う。
  このCDの最後の『ワルキューレの騎行』は生の演奏にかなり近い。けれども、実際に響いた演奏はこのCDの数百倍もすごかった。私はショックのあまり、終わってもすぐに拍手はできなかった。
  ムラヴィンスキー夫人は「日本での演奏は特別なものだった」と語っていたが、実際、あれこれと比較してみると地元レニングラードでの演奏よりも優れたものが多いような気もする。いずれにせよ、二度と聴くことはあるまいとあきらめていた日本公演、これがCDとして聴けるということは、私にとっては言葉に言い表せぬほどの感激である。大野さんの努力に対し、改めて感謝を捧げるとともに、ご冥福をお祈りしたい。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第9回 五味康祐『オーディオ巡礼』(ステレオサウンド)を読む

 これは1980年に出たものの復刊である。五味康祐(ごみ・やすすけ、1921-80)は剣豪小説で知られ、53年に『喪神』で芥川賞を受賞してる。オーディオにも造詣が深く、特にタンノイのスピーカーをこよなく愛したことでも有名だ。マージャンや手相にも詳しく、その分野の著作もある。しかし、五味は長く不遇な生活を送り、いまで言うホームレスも経験している。金になるものはなかなか書けず、LPレコードを聴くことで空腹をしのいだ日々もあった。そうした彼のつらい日々を救ったのが音楽だったのである。
  五味はあこがれのタンノイを手に入れ、それを思いどおりに鳴らすのに10年かかったと書いている。その試行錯誤はまさに格闘と言えるものだ。そうした格闘こそが尊いと彼は言う。だが彼は、高価な装置を買えなどとはひと言も言っていない。それどころか、五味は成り金趣味のようなオーディオ・マニアを「横っ面をひっぱたきたい」と嫌っていた。
  彼は常に「自分は本当に正しい音を聴いているのだろうか」と自問し、あちこちの家に出向いてオーディオを聴いた。むろん、その大半はごく一般的な装置のものが多い。五味は装置の総額が高いか低いかが重要ではなく、自分ができる範囲で少しでも音を良くしたいと願い、それを実践することが大切と説く。その結果出てきた音は「その人の人生そのもの」と言い切っている。また彼は、「同じ装置でも部屋が違えば別物の音がする。部屋がオーディオを鳴らす」と部屋の重要性も指摘する。
  五味はある日、得意のマージャンで大金をかせいだ。これでオーディオが買えるぞと意気込んだが、次の瞬間に「こんなやましい金で音楽は聴けない」と思った。彼は「音楽は私の倫理観と結びつくもの」としていたからだ。この考えはブルーノ・ワルターが「音楽には道徳的な力がある」と述べたことと似通っている。
  コレクションに関しても五味は以下のように言っている。「数ではない、その人にとって必要なだけのレコードがあれば良い。気に入らないものはさっさと処分せよ」、と。また彼は「若い時には装置に無理をせず、ひとつでも良い演奏、作品を聴いた方がよい」とも主張する。そして、「その人にとっての名盤は、聴きこめば聴きこむほど輝きを増す」と続ける。また、「LPが200枚あるとする。1日1枚聴いても、特定のLPにあたるのはせいぜい1年に1回」と記しているが、確かにそのとおりだ。これは当たり前のことなのだが、ためることばかりに夢中になっていると、こんなことまで忘れているのだ。また彼は「私は最近、音楽ではなく音質を聴いているような気がする」という一文には、我ながらはっとさせられる思いだった。
  ヒゲについてのこだわりもすごい。SPやLPはターンテーブルに装着するとき、よくレコードのレーベル面を先端にあてて中心の穴を探ろうとする。このとき、レーベル面にすじが入ってしまうが、これを俗に“ヒゲ”と呼んでいる。五味はこのヒゲを「一度ついたら永遠に消えない。私の300枚のコレクションにはヒゲはひとつもない」と断言し、「ヒゲをつけて平気な人は信用しない」とまで言い切っている。極端だと思う人も多いだろう。だが、レコードや作品を大切に思うからこそ、こう言えるのである。こんな話もある。彼は評判のいい医者のオーディオ・ルームに招待されたが、五味はその音に失望し、「こんな医者には二度とかかるまい」と決心したという。
  LP世代の方はご記憶だろうが、ある時期にはノイマンSX68というカッティング・ヘッドがはやった。五味は「このノイマンSX68が音をきたなくした。これを褒めるやからは舌をかんで、死ね」とまで書いているが、この本を読み終えた2、3日後、私はあるエンジニアから「日本でノイマンSX68がはやるようになって、LPの音が変になり始めた」と聞いたのには驚いた。
  さまざまな作品に関して、五味は素晴らしさを讃えているが、その文章になんと深い愛情と痛切な想いがこめられているのだろうか。なまじの曲目解説よりも、ずっと心に響く。本書で彼が「ハイドンの中でも白眉の名曲」と記した『交響曲第49番「ラ・パッシオーネ(受難)」』、私はこれを持っていなくて、早速買いに行った。
  この本を読んで、私は恥ずかしくなった。このメールは盤鬼としているのだが、この五味に比べれば、せいぜい小鬼、いや鬼の域にすら入っていないと思った。読んで本当によかったと思う。
  これは本とは直接関係のないことだが、音楽雑誌の編集者がこんなことを話してくれた。あるとき、その人は五味宅に電話をし、このようなテーマで原稿を書いていただきたいと言ったら、五味に「電話で原稿を頼むとは何事だ! 家に来い! 話はそれからだ!」と一喝されたという。電子メール全盛のいま、お互いの声を知らなくても仕事を続けられる。しかし、本来書き手と編集者とは、五味が言うような関係でなくてはならないだろう。
  読了して、忘れかけていたものをたくさん思い出したような気がした。本書を送ってくださったステレオサウンド編集部には謝意を記しておきたい。送ってくださらなかったら、読むのはだいぶあとになったかもしれないし、読む機会すら逸したかもしれない。
(この本は333ページ、2,667円+税)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

プライバシーをひけらかす人びと――『ポスト・プライバシー』を書いて

阪本俊生

  最近、プライバシーをひけらかす人の話をよく耳にする。集会所の片隅で若いカップルが仲良くしている。彼らは他人がいてもまったく平気といった感じである。電車や教室で鏡を見ながらの化粧直しは言うに及ばず、インターネットで「プライバシー」などと検索してみると、自室の生中継に出くわしたりもする。たくさん人がいる路上で、携帯電話で別れ話をしている女性は歩きながら泣きじゃくっている。感情にまかせて大声でしゃべっているので聞きたくなくとも聞こえてしまう。
  この前、「ミクシィ」なるものを知りたくて、ある学生に頼んで入会させてもらった。するとすぐに何人もの知らない方々から「マイミク」のお誘いが。もちろん各自それぞれの判断で情報に制限をかけているし、情報が本当なのかも定かでないが、それでもプライバシー情報のオンパレード。
  試しに学生のところを訪問すると、何だかとても接近した感じ。親近感がわくというよりはむしろ、いきなり部屋に上がり込んでいったような、大げさな言い方をすれば見てはならないものを見ている感覚に襲われて、はたして入会してよかったのだろうかと悩む私は、おそらく古いタイプの近代人なのだろう。もちろん彼らはプライバシーをひけらかしているわけではないが、それでもこんな世界があったのか、と改めて考えさせられた。
  プライバシーは変容しつつある。これについて明らかにしたいという思いから、この本を書きだしたのは10年前だった。そのときからプライバシーを取り巻く環境は大きく変化した。当時はインターネットも携帯電話もいまほどは浸透していなかったし、9・11のテロも起こっておらず、情報セキュリティへの関心もいまほど高くはなかった。ただその一方で、すでに監視カメラは増え始めていて、住民基本台帳ネットワークシステムをもたらした改正住民基本台帳法が国会で成立するなど、今日の情報化への方向に着々と進んでいた。
  プライバシーの変容の基本的方向性は、このときすでに定まっていたと思う。私のなかにあるのは、一言で表せば、環境経済学などが取り上げるエコツーリズムがいうところの「ゲーム牧場」のイメージである。これはアフリカなどでライオンやキリンなどの野生動物を野放しにして保護や管理をおこないながら生態系の維持にも役立てるというものだ。要するに野放しにしつつ、監視し、管理する。同じことが情報管理社会にもいえるとすれば、いわば「人間のゲーム牧場化」が進んでいるということになるだろう。
  これは東浩紀がいう環境管理型の社会に近いし、デイヴィッド・ライアンやジョージ・リッツァーも似たようなイメージをもっているといえるだろう。私自身もこれらに賛同する。しかし、私がこの本で書こうとしたのはこのことではない。
  この本は、実は、プライバシーの本でもなければ、監視社会論の本でもない。もちろんプライバシーをめぐって書いてはいる。しかしこの本のテーマは、個人と社会のかかわり方とその背景にある社会システムの変化だ。プライバシーを一つの社会意識としてとらえ、その変化を見ていくことから、私たちの社会的自己やアイデンティティの生まれ方について考え、さらにそれを変化させている社会システムの歴史的な変化をとらえようとしている。こう言うと引いてしまう人もいるかもしれないが、プライバシーを深く理解するうえで必要な視点の一つだと思っている。
  もちろんプライバシー意識は今日でも見られる。でもそのあり方は、以前と同じようでいて、微妙に変わってきているのではないだろうか。近代の主体の終わりとよくいわれたりするが、これは実際にどのようなかたちで起こっているのか。このような事態を示唆するような、実際の社会現象は見られないのだろうか。プライバシーへの着目はこうした取り組みの一環である。
  プライバシーの変化が、私たちのアイデンティティのあり方に変化をもたらしてきているとして、それは私たちをどのように変えつつあるのか。その結果、私たちはどうなっていくのか。これらについても、プライバシーの変化の考察はヒントを与えてくれるような気がする。
  プライバシー意識は近代に生まれた。そして今日、それは情報化のなかで、まさに問題の渦中にある。自動車の発明と普及が都市構造や生活スタイルを激変させたように、情報技術の発達と普及も私たちの生き方や存在のあり方を大きく変えつつあるだろう。しかもこちらは私たちのより身近なところ、すなわち身体や内面、親密性といったところに直接働きかけているように思える。
  すでにふれたように、この本はプライバシーについて書いたのではない。情報化がもたらすアイデンティティ形成の文化的・社会的様式の変化を、プライバシー意識の変容を通じて明らかにしようとしている。だから情報化に対する抵抗の戦略について語ろうとはしない。もしこのような抵抗との関連を問われたら、その抵抗が何のためであり、また何への抵抗であるのかについて、立ち止まって考えようというのがこの本である。

第8回 クナッパーツブッシュ、1949年のステレオ録音ヨウラ・ギュラーを聴く

 ドリームライフから「クナッパーツブッシュ・スペシャル・ボックス」という2枚組み(RIPD-0002)が発売された。クナッパーツブッシュ指揮、ウィーン・フィル、曲目はハイドンの『交響曲第88番「V字」』、R・シュトラウスの交響詩『死と変容』、ブラームスの『交響曲第3番』、そしてワーグナーの『ジークフリート牧歌』である。ワーグナー以外は1958年11月8、9日、ウィーンでの、そしてワーグナーは49年8月30日、ザルツブルク音楽祭でのそれぞれライヴである。
  2枚組みとはいえ、このセットにはCD-ROMもついていて、そこにはプログラムや写真などの図版が数多く所蔵されているため、実質的には3枚組みと言ってもいいだろう。解説書も充実しているので、なかなかの力作と言える。
  ところが、このセットを手に取ってみると、不思議に思うことがある。それは『ジークフリート牧歌』に「ステレオ」と表示されていることだ。ドリームライフのホームページを見ると、そこには「実験的なステレオ」とある。しかし、このセットには単に「ステレオ」と表示されているだけで、どういう意味での実験的なものなのかに関する説明は全くない。実験的ということは、1949年のザルツブルク音楽祭でステレオ録音がおこなわれていた、と誰もが思うはずだ。
  商業用の最初のステレオ録音は1955年におこなわれている。これ以前にもステレオ録音はおこなわれていたが、一般的に最古のものとしては第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが開発したとされるものが有名である。このステレオ収録については一部の文献にも記されていたが、比較的最近になってカラヤン指揮のブルックナー『交響曲第8番』(ただし、第4楽章だけ)、ギーゼキングが弾いたベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』という実物がすでにLP・CD化されている。さらには、トスカニーニのファイナル・コンサート(1954年)も実験的なステレオとして有名であり、このCDも現在入手可能である。
  しかしながら、1949年のザルツブルク音楽祭でステレオ録音がおこなわれていたというのは全く初耳である。ヨーロッパで放送録音が実用化されたのは60年代に入ってからである。そういうことを考えると、この49年のステレオ録音は、録音史上でもちょっとした事件だろう。
  こうした放送用録音のステレオ騒動と言えば、何と言っても1950年春の、フルトヴェングラーがミラノ・スカラ座に客演した際のワーグナーの『ニーベルングの指環』が有名である。イタリア・チェトラから83年に発売されたこの全曲盤は、当初「オリジナル・ステレオ」と発表され、センセーションを巻き起こした。ところが、LPにカッティングされた音はまぎれもなくモノーラルで、情報の訂正にレコード会社、レコード店は奔走した。なぜこのような間違いが起きたか? それはチェトラのカタログに「2チャンネル・レコーディング」と記されていたことがその発端だったようだ。この表示があるLPレコードはほかにもフルトヴェングラーがザルツブルク音楽祭で指揮したウェーバーの『魔弾の射手』、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』などがあったが、それらはいずれもモノーラルのカッティングだった。また、CD時代になって『魔弾の射手』には“ステレオ”と表示されたものも複数のレーベルから出たが、これらもすべて本物のステレオではなく、加工された疑似ステレオであることが判明している(この疑似ステレオの音そのものは意外にいいと思う)。
  いずれにせよ、ザルツブルク音楽祭でステレオ録音がおこなわれたのではないかという未確認情報が以前からあったのは事実だ。そうなると、この『ジークフリート牧歌』が初めての実例であってもおかしくはない。でも、出てきた音を聴いてみると、ちょっと首をかしげたくなる。教会で録音したような、ものすごく長い残響がある。「レコード芸術」2009年3月号に誰かが「ザルツブルクの旧祝祭劇場がこんなに残響があるのは不自然」というようなことを書いていたが、確かにこれはいくら何でも不自然である。まあ、その残響は聴きやすく付け加えたと解釈しても、方向感覚や各パートの定位などが全く聴きとれないし、音は一点から出ているようにしか思えない。これは明らかにモノーラルを疑似ステレオ化したものだろう。        
  しかし、疑似ステレオであってもステレオはステレオである。でも、この場合は誰もがその当時におこなわれたステレオ録音だと思うだろう。ドリームライフのホームページ上では「実験的」と書いてはあるものの、「“当時の”実験的なステレオ」とはなっていない。現代の技術を駆使して加工しても実験的なステレオであることに変わりはなく、ホームページでの表記は虚偽とまでは言えない。けれども、この場合は非常に誤解を招きやすいものであるのは間違いない。それに、もしもオリジナル・ステレオであれば、その経緯に関して多少なりとも記述があってしかるべきだと思う。
  この『ジークフリート牧歌』は、いわばオマケである。本編の1958年の公演について少し触れておこう。演奏そのものは過去に出ていたもので、初出ではないようだ。音質はちょっと聴くと鮮明だが、しばらく聴いていると弱音と強音の差があまりないことに気づく。それに第1ヴァイオリンと木管楽器が異様にマイクに近く、金管楽器や打楽器は逆に遠いので、演奏の全体像がいささか把握しにくい。このセット、資料的な点を考慮すれば、熱狂的なクナ・ファン向け、といったところだろうか。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第7回 ヨウラ・ギュラーを聴く

 ヨウラ・ギュラーYoura Gueller(1895-1980)はその昔、「女優にならないか」と誘われたことがあるという。確かに若い頃の写真を見ると、そう言われるのも十分にうなずける。とはいえ、いくらきれいとはいっても演技ができるかどうかが問題なのだが。
  ギュラーの演奏は以前、ニンバスから出たベートーヴェンか何かを聴いたことがあるが、全く記憶に残っていない。しかし、今度Tahraから発売された『Inedits Youra GuellerⅡ』(TAHRA650)は強く印象に残るものだった。
  収録されているのは「シューマンの交響的練習曲」(1962年4月6日)、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(1958年1月15日、アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団)、アルベニスの「トリーナ――「イベリア」より」、以上の3曲。このなかで極めつきはベートーヴェンである。
  いかにも女流らしい柔らかいタッチで始まるが、やや遅めのテンポを一貫させ、それほど崩しては弾かない。和音の響かせ方に独特なものがあり、その気品溢れる音色とあいまって独特の個性を放っている。だが、カデンツァに入ってものすごく驚いた。通常の3倍かと思われるほどテンポは遅く、しかも極端なピアニッシモなのだ。私は、しばし口をあんぐりとしていた。それは、いままで全く聴いたことがないカデンツァである。第2楽章はこの気分を持続したように、いまにも止まりそうなほどゆったりしたテンポ、そして繊細な弱音で歌っている。途中、指揮者がこらえきれなくなって棒を下ろしてしまうような場面もある。でも音楽は決して陰々滅々と暗くはない。むしろ、温かい夢心地といった方が適切だろう。
  第3楽章は舞うように、軽やかに上品に歌うが、トリルのかけ方ひとつにも独特の味わいがある。こんな個性的な演奏があったのかと、感心するばかりだ。いずれにせよ、この演奏はこの曲を愛する人には一聴を強く勧めたい。音質は、この時代のライヴとしては最上の部類。
  シューマンはベートーヴェンと違って男性的で彫りの深い表情を見せている。しかし、逸品はアルベニスだろう。ベートーヴェンでもあったような和音の独特な響かせ方と、崩すとは言わないまでも、微妙に変化させた独特の語り口が鮮やかな色彩感を演出している。ソロの2作品はスタジオでの収録らしく、音質は協奏曲よりもさらに鮮明。

追記
  第5回のアイダ・シュトゥッキで、彼女は『Discopaedis of the Violin』の第2版には出てこないと書いたが、これは完全な見落としだった。その原因は、シュトゥッキがアルファベット順に入るべき場所に入っていなかったことによる。これは第2版を制作中に順序を誤ってしまったことが推測されるので、「出ていない」と書いたのは私の責任ではないとも言える。しかし、こうした文献にこの程度の誤りは日常茶飯事なので、それを見抜けなかった私が悪いと思う。これがたとえば、シュトゥッキがSではなくZの項にでも入っていたら、それは明らかに本が悪いと言える。詰めが甘いと反省します。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。