第20回 『ムラヴィンスキー――高貴なる指揮者』を読む

 アルファベータがシューリヒトに続く評伝、グレゴール・タシー『ムラヴィンスキー――高貴なる指揮者』(天羽健三訳)を刊行した。これはムラヴィンスキーに関心のある人はもちろんのこと、ショスタコーヴィチなどロシア音楽全般に興味のある人にも非常に有益なものである。
  少し前まではムラヴィンスキーというと、私たち書き手にとってはとてもやりにくい指揮者だった。偉大であり、突出した存在であるということはわかっていても、通り一遍の履歴以外はほとんど何もわからなかったからだ。それが大きく変わり始めたのは日本ムラヴィンスキー協会の設立である。この協会は地元ロシアよりも先に設立されたムラヴィンスキーの研究組織であり、第1回の会報は1986年2月に発行され、今日に至っている。その協会がおこなった最も重要な行事は、ムラヴィンスキー夫人で元レニングラード・フィルの首席フルート奏者アレクサンドラさんを日本に招いたことだ(通算2回)。夫人の口から出てくる事実はそれまで私たちが全く知らないことばかりだった。そのなかで最も残念だったのは、81年以降の来日予定がムラヴィンウスキーの健康に問題があったわけではないにもかかわらず、すべてが政治的な問題で取り消されたことである。
  本書はムラヴィンスキーの家系の話から始まり、その全生涯を描いたものである。本書は著者のタシーが長く旧ソ連に滞在していたため、ロシアの関係者からの証言や資料を豊富に取り入れて書いてある。私自身も日本ムラヴィンスキー協会の厚意によって夫人に直接話をうかがう機会があったが、そうした夫人の話とこの本に出てくる記述は基本的な部分ではほとんど一致している。
  かつてヨーロッパで活躍していたほとんどすべての音楽家と同様に、ムラヴィンスキーもまた戦争の恐怖を体験している。しかし、ムラヴィンスキーの生涯は政府当局との闘いの日々だったと言える。彼は政治的な駆け引きを拒絶し、絶え間のないいやがらせに抵抗し、また甘い罠にはまって苦い思いをした。どんなことが繰り広げられていたか、それは本書を読んで確かめていただきたい。そうした状況であっても常にムラヴィンスキーが一流であり続けたのは、彼が鋼鉄のような強い意志を持ち、他の指揮者とは別次元のような音楽を繰り広げていたからである。
  訳者のあとがきにもあるが、翻訳作業は相当に困難なものだったと察せられる。まず、タシーの英語はイギリス人でさえも「癖がある」と言うほどだから、さぞや苦労したことと思う。しかし、読みやすさ以上に感心するのは、訳者天羽氏が原書の誤りを筆者に直接問い合わせたり、あるいはロシア語の文献についてはムラヴィンスキーの通訳を務めた河島みどり氏に確認するなどの作業をおこなっていることである。つまり、日本の読者は原書よりも精度の高い情報を得ていることになる。
  もうひとつ重要なことを指摘しておきたい。巻末には訳者天羽氏の労作であるディスコグラフィとコンサート・リストが付いていることだ(前者はF・Formanとの共著)。これらは原書にはないもので、最初は自費出版で発刊され、その後アルトゥスのムラヴィンスキー・シリーズの特典として再度お目見えし、今回がいわば第3版となるものである。この間に加筆・訂正がなされているが、特にコンサート・リストは天羽氏がレニングラードまで出向いて調査したものである(資料はまとまった形で保管されていなかったそうだ)。この2つはムラヴィンスキーの足跡をたどるうえでたいへんに貴重なものであるばかりではなく、本書の価値をいっそう高めている。また、これらは英文で書かれているので、イギリスの「CRC(Classic Record Collector) 」誌のオーナーであるアラン・サンダースにも本書を送ったが、彼は「素晴らしい記録だ。「CRC」でも紹介したい」と返事をくれた。その他、年譜や珍しい写真も多数含まれていて、帯にある「決定版」という言葉は決して大げさではないと思う。
  本書と『評伝エフゲニー・ムラヴィンスキー』(河島みどり監訳、音楽之友社)、『ムラヴィンスキーと私』(河島みどり著、草思社)、以上の3冊を揃えれば、ムラヴィンスキーに関する基本的な情報はほとんどすべて網羅できると言ってもいいだろう。

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第19回 モノーラル・アレルギー

 今年に入って、自前のレーベルGrand Slamで初期ステレオLPからの復刻盤CDを2点発売した。4月にはクナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル、ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕全曲(GS-2033)で、5月はシューリヒト指揮ウィーン・フィル、モーツァルトの『ハフナー』、シューベルトの『未完成』、ベートーヴェンの『交響曲第2番』(これだけモノーラル)(GS-2034)である。この不況のなかにあって、すでに世に知られた名盤を新たにカタログに加えるのには多少心配もしたが、多くの方々のご協力もあってそこそこ順調に動いている。この次に発売するワルター指揮コロンビア交響楽団、ベートーヴェンの『田園』(GS-2035、5月27日頃発売予定)も同様になることを期待したいものだ。
  ということで、初期ステレオLPのCD化を進めるにあたり、この頃の演奏についてあれこれと調べているのだが、ちょっと面白いことに気がついた。ステレオLPは1955年頃から実用化されたが、ステレオ装置の普及に若干時間を要したせいか、しばらくの間はオリジナルのステレオ音源も、モノーラル盤とステレオ盤が並行してLP発売されていた。これはちょうどCDが登場した頃も同様で、「LP、CD同時発売」と記された雑誌の広告などを見かけた人も多いだろう。
  その初期LP時代、モノーラル盤が発売されて、そのあとにステレオ盤が発売されていたが、間もなくモノーラル、ステレオ同時発売が当たり前になった。しかし、時代がステレオへと流れが変わるにつれて、ステレオLPだけの発売も次第に増えていった。しかし、一方ではステレオ盤LPが発売されたあとに、あえてモノーラル盤が発売されていた例も珍しくない。
  今日の感覚で言えば、きっと誰もが「ステレオが先に出たのならば、追いかけてモノーラル盤を出す必要はない」と思うに違いない。けれども、当時の技術者にとっては、ステレオはまだわからないことが多かった。だから、発売する方にとってはステレオ盤よりもむしろモノーラル盤の方が自信を持って出せたのである。また、当時の雑誌の批評にも「これは○年○月にステレオ盤が発売され、今回はモノーラルでの再発売である。音は前に出たステレオ盤よりも優れており、私としてはこのモノーラル盤の方をお勧めしたい」といった口調のものも意外に多い。
  確かに、初期LPのステレオ録音にはちょっと変わった音がするものもある。全然低音が出ないもの、特定のパートがいかにもマイクに近いもの、左右のチャンネルに極端に分離して真ん中の響きが薄いもの、あるいはひろがりがなくてほとんどモノーラルのように思えるもの、などなど。こんな音だったら、まとまりのいいモノーラルの方が聴きやすいかもしれない。また、当時は聴く側もステレオの音には慣れていないことも考えられるだろう。
  新しいものが出てくると、必ずその反動が起きる。CDも、登場した頃は「音が固い」「20キロヘルツ以上の帯域がカットされているので、響きの成分が失われている」とか、さんざん言われていた。なかには「製造後6年以上が経過すると音が出なくなる」とか、「○○研究所によると、CDは後半になるにしたがってピッチが少しずつあがっていく」という、けっこうむちゃくちゃなものもあった。
  ステレオ初期に出たモノーラル盤は、確かにそれなりの味わいを持っている。これは未確認ではあるが、イギリスのデッカなどはモノーラルとステレオを別のラインで収録していたとも聞いている。もしもこれが本当だとすると、あえてモノーラル盤を聴く意味はある。私はステレオ音源をあえてモノーラル盤で聴こうとは思わないが、ちょうどこの頃のモノーラル盤をステレオ盤よりも高く評価するコレクターの気持ちは理解できる。いずれにせよ、モノーラルだろうがステレオだろうが、それなりに心地よい音で響けばいいのだ。
 
  ちょっと長い前振りになってしまったが、世の中には「モノーラル」と耳にしただけで拒絶する人が案外多いのだそうだ。これはCDショップの人からよく聞く話である。客がCDを持ってきて、「これはモノーラルですか? ステレオですか?」と尋ねてくる。「それはモノーラルですね」と答えると、すぐに棚に戻してしまうそうな。そんなことがしょっちゅうあるので、ある店員は「これはモノーラルですが、とてもいい演奏です。お勧めです」と言い続けたけれども、そうしたモノーラル・アレルギーの人は、ほとんど耳を貸さないそうだ。その店員は「モノーラルとステレオの区別と、演奏の良し悪しや自分の好みとは全く関係がないのに、なんででしょうねえ」と嘆いていたが。
  モノーラルは絶対に聴かない、こういった人々の心理は何だろう。モノーラルを聴くと脳が破壊されると信じているのだろうか? それとも、たまたま最初に聴いたモノーラル録音が非常にひどくて、それがトラウマになってしまったか? また、そんな人は古い映画も観ないのか? ラジオのAM放送が流れると耳をふさいでしまう? 
  いやいや、これはきっと某業界関係者が新録音の新譜を買わせるために、「モノーラルを聴くと難聴になる」という情報をひそかに流しているためだ。あるいは、モノーラルを聴くと体中に赤い発疹ができてしまうという、一般的にはほとんど知られていない病気があるからだ……。
  ということはあるわけがないが、でも、このモノーラル・アレルギーとは、いったい何だろう。

[追記]そういえば、デジタル録音でないと聴かない、という人がいると聞いたことがある。そういう人は“アナログ・アレルギー”か。

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第18回 音楽とスポーツの関係

 この4月にデビューCD『夢のあとに』(MAレコーディングズ MAJ-506)を発売した枝並千花(えだなみ・ちか)という若手ヴァイオリニストがいる。私はこのCDの解説を書くために枝並本人に会って話を聞いたが、そのとき、なるほどと思ったことがあった。
  新潟県出身の彼女はクラシック大好きの両親のもとで育ち、ごく自然にピアノとヴァイオリンを始めた。並行して、テニス、水泳、スキー、剣道などのスポーツもたくさんやったという。けれども、習い事のように押し付けられたわけではなく、彼女自身はどれも気軽に楽しんでやっていたようだ。
  枝並のようにあれこれとたくさんやるというのは、どうも日本ではよくないことのように思われがちである。スポーツなどが特にそうだ。日本の伝統的なスポーツは柔道、剣道、合気道と、“道”がつくものが多い(書道、華道というのもあるが)。国技と言われる相撲は道の字がついていないけれども、特に力士は昇進のときに「相撲道に邁進する」と口にすることが多い。野球だって「野球道」などと言われることも珍しくない。
  この“道”という漢字は周囲を見ず、ひたすらまっすぐ突き進むかのような印象を与えるせいか、日本では小さいときから野球なら野球だけ、サッカーならひたすらサッカーだけに打ち込むというケースが多い。これを“一種目主義”と呼ぶ。この主義は短期間で目標を達成しやすいが、明らかなデメリットがあるという。つまり、ひとつのスポーツだけをやっていると動きがいつも同じであるため、使う筋肉と使わない筋肉が早い時期にはっきりと分かれてしまい、結果として全身の筋肉がバランスよく鍛えられないというのである。
  スポーツ医学的には、中学生くらいまでは複数のスポーツをやって身体全体の筋肉を刺激した方がいいとされている。たとえばこんな例がある。日本人で初めて短距離の国際大会でメダルを獲得したハードルの為末大(ためすえ・だい)がいる。彼は「昨日までの自分を常に疑っている」と語っているように、コーチを置かず、自分自身でトレーニング方法を試みているアスリートとして知られている。為末は『日本人の足を速くする』(新潮新書、新潮社)で、たとえば日本人と欧米人の骨格の根本的な違いから、日本人には一般的に悪いとされるガニ股、猫背の走法の方が似合っているのではないかとか、足を速くするには負荷が大きな上り坂の練習を多用するよりも、下り坂の練習の方が効果的ではないかとか、独自の論理を展開している。
  為末の著作によると、彼は中学時代、陸上部の顧問からは彼の専門であるハードルの練習を少なめにし、砲丸投げ、やり投げ、走り幅跳び、マラソンなど、陸上の全種目をやるように言われていたらしい。これは文字どおり全身の筋肉を鍛えるためだが、為末自身もこれが非常によかったと記している。
  かつての剛速球投手、奪三振の日本記録保持者、元阪神タイガースの江夏豊も為末と似ている。『左腕の誇り――江夏豊自伝』(草思社)によると、彼は中学時代には陸上部に所属して砲丸投げをやっていた。さらに彼は週3回はバレーボールの練習をし、それに加えて相撲やラグビーの大会にまで駆り出されたという。江夏自身も、このときの経験はのちに非常に役に立ったと語っている。
“道”と化したスポーツはまた、“楽しさ”とも縁が薄いような気もする。たとえば、近所でもやっている少年野球、その指導者たちの罵詈雑言は聞くに堪えないものだ。それはまるで勝ちに妄執する醜い大人の姿と言えるだろう。こうした例はテレビ番組でもときどき見かけることがあるが、なんであんな野蛮なシーンを放映するか理解に苦しむ。つい最近の「朝日新聞」の夕刊で、ボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントの名前が出ていた。私がハワイ出身の日系人エディのことを知ったのは『メンタル・コーチング――流れを変え、奇跡を生む方法』(光文社新書、光文社)だった。彼は藤猛、井岡弘樹、ガッツ石松など、数々の世界チャンピオンを育ててきた人物である。ことボクシングのような格闘技だと、その指導者たちは鬼のような形相をし、竹刀を持って怒鳴り散らすのが定番である。だが、エディはまったく違った。彼はちょっとなよっぽい言葉で、うまくできると「ナイスボーイ!」と言って選手をハグするのだった。口癖は「ハートのラヴで教えるの」「ボクシング楽しいの。試合になればもっと楽しいの」だった。そのエディが竹刀を持った指導者を見て、「なんで竹刀なの? ボク、選手を殴らない」と言っていたのは当然のことだった。
  為末はスポーツだけではなく、投資にも詳しいが、その為末と似ているのがシアトル・マリナーズで活躍していた長谷川滋利だった。彼の著作『適者生存――メジャーへの挑戦』(幻冬舎文庫、幻冬舎)によると、長谷川自身、高校時代の野球部では年間に2日程度しか休みがない、まさに野球漬けの日々だった。しかし、大学時代、野球部の監督は野球漬けにはしなかった。その結果、彼には考える力が身に付き、これがのちにメジャーでの生活をする際に大いに役立ったらしい。長谷川はメジャーに行き、体格も劣るし、球速もさしてない自分がどんな練習をしたら生き残れるかを思案した。また彼は英語を勉強し、通訳なしでも取材に応じることができた。併せて「ウォール・ストリート・ジャーナル」に目を通し、株や経済の勉強もした。また、長谷川はその著作のなかで、日本とアメリカでは中学生・高校生の野球がどう違うかに触れている。彼が言うには、日本の中学・高校は組織だったプレーができているが、その時期に完成されてしまい、頭打ちのような気がする、反対にアメリカのそれは自由にのびのびとやらせておいて、そのなかで腕に自信のある者がメジャーに入り、信じられないくらいに伸びる選手も少なくない、そうだ。
  ここでやっとヴァイオリニスト、枝並の話に戻る。歌ったり楽器を演奏したりすることも全身の筋肉運動である。枝並のきれいでのびやかな音を聴いていると、小さい頃からあらゆるスポーツをおこない、自然と身体全体の筋肉がバランスよく発達した結果ではないかとも思う。さらに、この音の素直さは、彼女が音楽もスポーツも“楽しんで”やってきたからだとも考えている。やはり音楽もスポーツも根本は“楽しむ”である。もちろん、音がきれいで素直というだけで枝並の今後の活躍が保証されるわけではないが、長谷川が言うように「信じられないくらいに伸びる」ことを期待したいものである。

『夢のあとに』(MAJ-506)の内容
フォーレ「夢のあとに」
フランク「ヴァイオリン・ソナタ」
フォーレ「ヴァイオリン・ソナタ第2番」
枝並千花(Vn)、長尾洋史(p)
録音:2008年7月

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第17回 若手の育成方法

 落語の独演会に行ったことがある人はおわかりだろう。独演会とはいっても、最初に必ずひとりやふたり弟子が出てくる。その弟子にもものすごくぎこちないのから、そこそこやってくれる者までいろいろだが、いずれにせよあとに出てくる師匠との格の違いは明らかである。でも、最初に出てくる弟子はまだましである。なぜなら、誰もが最低ひとりは出てくることを了解しているからだ。だから最初は、ま、一席はおつきあいをしましょうといった空気が会場に漂うが、これがふたりめの登場となると「え? まだ出てくるの?」といった、いくらか白々しい雰囲気に変わってくる。
  同じ舞台で弟子と師匠の格の違いがはっきりと示される、これは見方によってはなかなか残酷な方法とも言える。それに、弟子たちは出番が終わったあとにきっと師匠からあれこれとお小言をちょうだいしているにちがいない。「おまえね、あそこであんなにもたもたしてちゃあダメだよ。もっとパパッとやんなきゃあ」とか、「どうしてそこんとこで先を急ぐんだい? もっとのんびりやんなきゃあ気分が出ないよ」とか。かくして、客の冷たい視線に耐え、師匠のお小言を拝聴しながら、弟子たちは「いつかはきっと自分も独演会をやるぞ」という希望を胸に抱いて成長していくのである。
  クラシックの演奏会もこの落語の独演会方式で若手を育ててはどうだろうか? 通常のオーケストラ・コンサートでは序曲だけ、あるいは真ん中の協奏曲だけを指揮するとか。リサイタルでは最初の1、2曲をササッと弾いて引っ込む。そうしていくうちに、なかには後半の主役を食いそうなほどの力をたくわえてくるようなやつが出てくる。そうなったら、今度はその人が主役である。
  そう考えると、つくづくコンクールというのは罪作りだと思う。若いときのある一定の期間の演奏でその後の人生ががらりと変わることがしばしばである。コンクールの前後でその演奏家の音楽はほとんど何の変化もないのに、周囲の状況だけが一変してしまう。
  こうした芸事というのは、常にある一定の水準を長期間維持できることが重要である。たとえば、プロ・スポーツの世界では、ある特定の試合で大活躍したからといってその選手にいきなり途方もない高額の契約金を提示することはありえない。過去のデータをしっかり集め、分析してから契約を提示するはずである。
  話はまた落語に戻るが、最近は独演会ができる噺家が増え、落語界は活況を呈しているようだ。けれども、ほんのちょっと前は風前の灯と言われるくらいに下火の時期があったらしい。今年の初めに寄席で柳家小三治が言っていた、「ちょっと前ですが、あたしが舞台に出たら、300人の小屋でお客が5人しかいなかったんですよ」と。そこで、噺家たちは何とかしなきゃと危機感を抱き、最近の落語ブームにまで盛り上げていったのである。300分の5というと1・7パーセントの入りである。2,000人のホールに換算すると、33人ということになる。たとえば、33人しか客のいないサントリーホールを想像してみてほしい。クラシック界が不況だ、チケットが売れないと言ったところで、こんなにすさまじいことは起こっていないだろう。
  落語やスポーツとクラシック音楽とは単純に比較はできないけれども、これまでのクラシック音楽界は、その場しのぎ的な方法でやりくりしてきたのかもしれない。低迷していると言われて久しいクラシック音楽界も、いまはそのツケがきた状態なのだろう。現実的にはなかなか難しいかもしれないが、いまこそ長期的な視野に立った改善策が模索されてしかるべきではないだろうか。

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第16回 見過ごされがちなクレンペラーのヴォックス録音

 クレンペラーのようにモノーラルとステレオにまたがって録音を残し、なおかつ晩年の方がいいと言われるタイプの指揮者は、たいていの場合、モノーラルの方はあまり見向きもされない。
  このたび初めて国内盤として発売されたクレンペラー指揮、ウィーン交響楽団のブルックナーとマーラー(コロムビア/ヴォックス 84583~4)は、改めてその真価を問われるべきものではないかと思った次第である。クレンペラーは戦後、アメリカ・ヴォックスにまとまった量の録音をおこなっているが、この2曲はそのなかで1951年に録音されたものである。
  ブルックナーの『交響曲第4番「ロマンティック」』はSP時代のベーム、ヨッフムに続く史上3番目の録音で、LP用の初めての録音でもあった。第1楽章はかなり速い。統計をとっているわけではないが、史上最速かもしれない。そのみなぎる覇気には驚かされるが、このときクレンペラーは60代半ばなのである。第2楽章以降は第1楽章ほどは速くはないが、それでもいかにも張りがあって、若々しい。
  もうひとつ指摘しなければならないのは、この当時のウィーン響の音である。この頃はまだ古い楽器を使用していたのだろう、ホルンをはじめオーボエなどの管楽器がいかにもひなびた味わいである。特にホルンはウィーン・フィルそっくりで、そこらのマニアに「これはウィーン・フィルだ。指揮者は誰かわかるか?」と尋ねても怪しまれないだろう。弦楽器もかなり艶っぽい音を出している。たとえば第2楽章のヴィオラ、チェロなど、この頃のウィーン響がこんなに甘い音だったとは知らなかった。なお、クレンペラーはこの第2楽章の途中のヴィオラの旋律をソロに変更している。むろん、これはクレンペラー独自の改変で、賛否はあるだろうが、これはこれでなかなか味があると思う。また、輸入盤(CDX2 5520)はこの第2楽章冒頭に欠落があったが、この国内盤は正常である。
  マーラーの『大地の歌』はワルターのSP録音に続く史上2番目の録音で、ブルックナー同様最初のLP用録音である。『ロマンティック』同様、速めのテンポで処理しているが、ここでもオーケストラの柔らかい音色が十分に物を言っている。さすがにワルター/ウィーン・フィルほど結晶化はされているとは言えないものの、個性的であるのは間違いない。ヴァイオリン・ソロなども場所によってはかなり甘く歌っている。デルモータの美声はさすがで、この曲の名唱のひとつではないだろうか。
  一方のカヴェルティはポルタメントが多い古いスタイルの歌い方だが、この曲の退廃的な雰囲気とよく合っていて、決して悪いとは思わない。ただ、この2人の歌手があまりにもマイクに近すぎるのがちょっと気にはなるが。
 『ロマンティック』だけ国内盤と輸入盤とを聴き比べてみた。音の傾向は全く同じだが、国内盤の方がよりピントがぴったり合った音質のように思える。また、国内盤はブックレットに2曲の初版LPのデザインをあしらっているが、これはマニア心をくすぐるだろう。

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ダーウィン生誕100周年の頃の日本――『天皇制と進化論』を書いて

右田裕規

 今年はチャールズ・ダーウィンの生誕200周年にあたるという。彼の故郷イギリスの事情はわからないが、日本のメディアはダーウィンの特集をぼちぼち組み始めている。誕生月(11月)が近づくにしたがって、その企画や特集の数はさらに多くなるだろう。このたび青弓社から刊行した『天皇制と進化論』も、そういう流れに便乗できればと願っている。
 それはともかく、今年が生誕200年ということは、1世紀前が生誕100周年である。和暦でいうと明治42年(1909年)になる。この1909年頃から、日本でのダーウィン人気は相当な高まりを見せた。マスコミがダーウィンの特集を組んだり、学界が記念行事を開いたり、ビーグル号と日本との関係にまつわる噂話で盛り上がったりと、やはりさまざまな企画で祝っている。昔も今も人間が考えることは変わらないと、そのようにもいえるだろうか。
  とはいえ、100年という時間は長い。1909年の日本人が、ダーウィンやダーウィン進化論をどう受け止めたかは、当然ながら、2009年の日本人とは多少違っている。最大の違いは、進化論が「皇国史観」に反する「危険思想」として社会的に見なされていたという点である。天皇家や民族のルーツを神話の神々に求める「日本固有」の人類観を、真っ向から否定する科学理論。ダーウィン進化論は、そういう意味合いのもと、近代の日本社会に普及していった。
  とくに1900年代(明治40年代)は、皇国史観と進化論の対立にまつわる「事件」があれこれと起こり始めた時期である。皇国史観の信奉者が進化論批判をさかんに繰り出し、進化論の参考書が発禁処分をくらい、左翼運動家たちが(進化論から見た)天皇家の「真のルーツ」を暴露する内容のビラをばらまく、というようなことが、この頃から次々と起こり始めていた。そのなかでどうして1909年(明治42年)のマスコミや学界はダーウィンの生誕100周年を盛大に祝うことができたのか、不思議に思われるくらいである。
 『天皇制と進化論』では、それらの話も含めながら、皇国史観と進化論の対立の歴史を、当時の支配層の目線から追った。彼らは、進化論と皇国史観の対立という問題をどのようにとらえ、どのように処理していったのか。この点を歴史的に追跡した中身になっている。端的にいうと、それは混乱の歴史である。生誕100周年と200周年の間の日本では、皇国史観とダーウィン進化論の対立をめぐって、実にさまざまな政治的ハプニングが生じていく。たとえば「現人神」がアマチュア生物学者としての道を進み、しかもそのことが社会的にも周知の事実になっているという、昭和初期に起こった不可解な事態もまた、その一つである。そういうハプニングの記録を集めた本として、ご一読いただければと思う。

第15回 イダ・ヘンデルの存在感

 東京交響楽団のある奏者と話をした際、私が「最近共演したソリストで印象に残っている人はいますか?」と尋ねたら、その人は即座に「イダ・ヘンデル!」と答えていた。「もう80歳を超えているのに着ている物はぜんぜん年寄りくさくないし、ものすごく高さのあるハイ・ヒールをはいていた。オーラのようなものを発していたし、出てくる音のパワーにもびっくりした」
  このときヘンデルはシベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』を弾いたが、これは私も客席で聴いた。席が若干良くはなかったが、それでも誰の表現にも似ていない、全く独特のものであることは確認できた。
  そのヘンデルが2008年に来日したときにスタジオで収録したアルバム『魂のシャコンヌ』(RCA BVCC-31116)が発売された。解説にもあるように、ヘンデルは録音の際には決してつぎはぎはしないそうだ。つまり、ダメであれば小品なら最初から、ソナタであれば楽章単位で弾き直すというわけだ。確かにこのCDを聴いていると、必要以上に細部のミスにこだわったような雰囲気は感じられない。というよりも、世の多くのディレクターや演奏者が聴けば「よくもこれだけほころびの多い演奏を平気で出せるものだ」と言うに違いない。
  私はそんなに頻繁に録音現場に立ち会ったわけではないが、そこでは往々にして「そんなに細かいところにこだわらなくても」と思うほどわずかなミスやノイズなどを懸命に排除しようという作業がおこなわれている。それに、小節単位、フレーズ単位で細かく分けて収録しているのもときどき目撃しているし、実際、そうした話はよく耳にもする。
  確かに商品であればミスや種々のノイズは許されるべきものではないだろう。しかし、CDを聴く私たちの立場からすれば、そうした細かなほころびよりも、音楽を感じさせてくれない音が多すぎることの方がよほど気になる。
  ヘンデルの演奏に話を軌道修正しよう。高齢の録音ために確かに歯切れが悪いところも散見される。しかし、この独特の歌い回しはヘンデルならではのものだ。たとえば、ブラームスの『ハンガリー舞曲第1番』、短いながらも無二の個性がしっかりと発揮されている。サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』も即興性に溢れ、ジプシーらしい雰囲気も満点である。モーツァルトのソナタも、こんなに遅くて濃厚な味わいは珍しい。また、無伴奏のラロ、バッハも逸品である。
  聴き終わって、久しぶりに「音楽を聴いた」と感じた。ヘンデルは今年も来日が予定されている。最近の調子を持続しているとすれば、聴きに行った方がいいだろう。ただ、こうした高齢の演奏者は、あるときガクッと調子が落ちることもある。ローラ・ボベスコの最後の来日公演がそうだった。でも、仮にヘンデルがそうなったとしても、こればかりは責めるわけにはいかない。
  いずれにせよ、この年まで日本に来てくれて、しかもスタジオ録音までしてくれたのだから、それだけでも十分に感謝しなければならない。

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第14回 予想以上だったパイクのベートーヴェン

 ある雑誌の「2008年度ベストCD5選」のなかに、私はためらわずクン=ウー・パイク(1946年、ソウル生まれ)のベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ全集』(デッカ UCCD-3983~91)をあげた。全集としては近年最も注目すべきものだと思ったからだ。その彼が5年ぶりに来日し、ベートーヴェンを弾くのを知った。しかし、あいにく体調が思わしくなく、行くのをいささか躊躇したが、これは聴いて大正解だった。
  4月3日、東京・四谷の紀尾井ホール、曲目は順に『第30番』『第14番「月光」』、休憩後は『第19番』『第23番「熱情」』だった。『第30番』が始まったとき、CDで聴くような冴えが不足していると感じた。一瞬、「しまった」と思ったが、その次の『月光』はそんな心配を完全に打ち消してしまった。
 『第30番』が終わってパイクは前傾姿勢のまま微動だにしなかった。しばし会場は沈黙に支配されたが、むろん、誰も拍手をする者はいない。やがて両手がゆっくりと鍵盤の上に置かれ、ひっそりとした弱音で『月光』が始まった。ここで私は息を飲んだ。何という暗く悲痛な調べだろうか! 深い深い暗闇の奥底からふつふつとわき上がるような音。こんな『月光』はかつて耳にしたことはない。むろん、CDでも聴いてはいたが、CDにはさすがにここまでの響きは入っていない。柔らかく明滅する第2楽章も見事だった。そして、次の第3楽章は心の中に燃えさかる情熱の炎である。物理的に彼よりも大きな音を出せるピアニストは他にいくらでもいるような気がする。だが、このパイクの音は一つひとつが実に濃密だ。極めて心が強い音と言ってもいいだろう。
  休憩後の『第19番』、これは規模からいっても後半の前口上のようなものだった。最初の『第30番』とは違い、実に渋く落ち着いた音色で歌ってくれた。次はこの日の白眉、『熱情』である。パイクは前半と同じく、『第19番』が終わっても鍵盤の方を向いたままで、立ち上がろうともしなかった。やがて、第1楽章の主題が『月光』のときと同じように、暗くうごめくように奏される。爆発する直前の短い間、ここでも再び息を飲まざるをえなかった。続くフォルテの牙をむくようなすさまじい響き、これは『月光』の第3楽章以上である。第2楽章もよかったはずだが、第3楽章の印象があまりにも強烈なために思い出すことができない。いずれにせよ、この第3楽章は近年聴いたベートーヴェンのなかでも最も忘れがたいものになった。荒れ狂うような音の連続ではあったが、その音が聴き手の心にガツンと太い杭を打つように、体全体に響き渡るのである。その昔、ロックのヒット曲で「黒い炎」というのがあったが、この『熱情』の第3楽章はまさしくそんな感じだった。
  すごかったと感動したが、また一抹の不安がよぎった。まさか、彼がたとえば初期のソナタの一部をアンコールで弾いたりしないだろうかと。もしもパイクがそうしたら、この『熱情』の後味は著しく薄まってしまう。けれど、彼はアンコールを1曲も弾かなかった。これには大きな共感と安堵を抱いた。
  私がパイクを聴いたのはショパンの『ピアノ協奏曲第1番』『第2番』(デッカ UCDD-1095~6)だった。この演奏については拙著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』(青弓社)にも記したが、これはベートーヴェンとは対照的な、驚くほど柔らかく優雅な演奏だった。このショパンとベートーヴェンが同一人物とは、ちょっと信じられない。この人の今後の動向は、もっと注視されるべきだと思う。

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思索し続けるということ――『SF映画とヒューマニティ――サイボーグの腑』を書いて

浅見克彦

  書き物にタイトルをつけようとして、あーでもないこーでもないといろいろ考えていると、しばしば出口のない袋小路に入り込んでしまう。だが、今回の「サイボーグの腑」という副題は、構想の「詰め将棋」に疲れてベッドに体を横たえたときに、何げなく湧き出てきた。恐らくは、デヴィッド・クローネンバーグの世界に接しながら思考を紡ぎ出そうとしていたことが影響したのだろう。とはいえ、このタイトルに魅力を覚えたのは、それがサイボーグ表象に頻出する「ヒューマニティ」の色合いを、微妙に表していたからだ。サイボーグ表象に織り込まれた人間性は、メタリックでエレクトロニックなその身体に「腑」がおさまっているような矛盾を抱えていると同時に、その奥底には私たちが嫌悪する内臓と同じように、「ヒューマニティ」を否定する内実が潜んでもいる。しかも「腑」は、どれほど徹底して否定しようとしても、人間が捨てさることができない存在の基本でもある。
 つまり、この少々異様な副題が意味するところは、サイボーグ表象を通じて人間の現在を考えるということにほかならない。サイボーグ表象には現代文化を生きる人間存在の実情が投影されている、という理解が本書の骨格をなしているということだ。実を言えば、こうした理解の枠組みそのものは、決して目新しいものではない。ジェームズ・G・バラードはフランス語版『クラッシュ』に寄せた序文で、SFが描き出す世界には現代人の心の状態が映し出されていると書いていたし、室井尚の『情報宇宙論』(岩波書店)にも同様の主旨の分析を見ることができる。そして、押井守が『イノセンス 創作ノート』(徳間書店スタジオジブリ事業本部)で提出している「人間はなぜ人形に惹かれるのか」「人間にとって他者とは何か」という問いも、同じ枠組みのなかに位置づけられるものだ。その意味では、この書物は少なくとも20年以上も前から問われ続けてきた古い問題を扱っていると言うべきだろう。ただし、そうした自己の鏡像を描き出す物語やサイボーグ存在を、人間がなぜ繰り返し生み出すのか、そしてそうした表象のディスクールが人間をどのような自己意識に導くのかという問いには、これまで十分な答えが出されてこなかった。この本は、この痒いところを掻いてみたい、という主旨の書き物だと言っていい。問題が古かろうと新鮮味がなかろうと、十分な答えが出ていなければ思考し、文字を連ねていく。書き手なる者、とりわけ理論に携わる者は、こうした課題に背を向けてはならないと思う。
  最後にもう一つ。今回は、自分のこれまでの書き物に色気がなかったことを反省し、文字どおり色彩のイメージ世界が立ち上がるような文章を目指した。とりわけ、映像作品を批評するさいにこの点に心を配ったつもりだ。首尾のほどは読者の評価を待つしかないが、文章が映像の迫力を伝えきれていない個所があることは認めなければなるまい。だが、絵と文字というのは、互いの緊張関係のなかで独特の匂いを発するということもある。書き物が映像と相似的になることではなく、映像に寄り添いながらもそれとは違う変異体を生み出すことが大事なのではないだろうか。もちろん、あえてこの緊張の強度を高めながら、映像への「不可能」な介入を仕掛けることは、書き手が諦めてはならない刺激的な冒険なのだけれども。

〈人々の暮らし〉へのこだわり――『戦時グラフ雑誌の宣伝戦――十五年戦争下の「日本」イメージ』を書いて

井上祐子

  昨今の経済状況は〈100年に1度の危機〉と言われている。前回の経済危機(世界恐慌)はちょうど80年前の1929年、アメリカの株価の大暴落に始まり、今回同様急速に世界各国に波及していった。1930年代は世界各国が恐慌から抜け出そうともがくなかでファシズム国家が台頭して国際体制を揺るがし、国際政治的にも危機に陥る時代であり、最終的には第二次世界大戦へ突入していく。日本もまた例外ではなく、その渦中にあった。本書はその時代の日本の社会、戦争、そして日本とアジアの人々の暮らしを写して海外に「日本」を伝えていたグラフ雑誌を紹介したものである。
  私は15年前に戦時下の社会について勉強したいと思って大学院に入ったが、そのときにはこのような研究をすることになろうとは予想もしていなかった。研究分野を決めかねている私に、「広告とかどう?」と勧めてくださったのは、当時の指導教授であり、以来ずっとお世話になっている恩師赤澤史朗先生である。純粋芸術よりも大衆文化的なものの方が好きな私は、「それはいいかも」と思い、飛び付いた。それから戦時下の広告やポスター、漫画などいろいろな印刷メディアを眺める日々が始まる。グラフ雑誌についても国内向けの「アサヒグラフ」「写真週報」「同盟グラフ」などには一通り目を通し、海外向けの「FRONT」を含めて、論文にも少し書いた。
  拙稿に目を留めてくださった青弓社から当初提案された企画は『「NIPPON」と「FRONT」』というタイトルで、2002年から復刻版の刊行が始まった「NIPPON」を題材にして、「FRONT」と比較考察しながらグラフ雑誌が展開した対外宣伝について論じるというものだった。「アサヒグラフ海外版」の存在を知ったのがいつだったか覚えていないが、私はそこに「アサヒグラフ海外版」も入れ、むしろ「アサヒグラフ海外版」を軸に書きたいと申し出た。青弓社編集部の矢野未知生氏には快諾をいただき、「アサヒグラフ海外版」を引き継いでアジア・太平洋戦争期に出される「太陽」、ジャワ現地で出されていた「ジャワ・バルー」、毎日新聞社が発行していた「SAKURA」も入れて、新聞社のグラフ雑誌を軸として、歴史的経緯を踏まえながら各グラフ雑誌を比較考察していくという本書のスタイルが決まった。
  新聞社、そのなかでも朝日新聞社のグラフ雑誌を軸にした理由は、論文風に硬く言えば、「FRONT」や「NIPPON」とは異なる特質をもち、〈宣伝〉と〈記録〉の間で揺れ動く新聞社のグラフ雑誌を取り上げることで戦時下のグラフ雑誌がもっていた可能性と問題性に関する考察を深めたかったからということになるだろう。しかし、これはいささか格好よすぎる答えで、ザックバランに本音を言えば、スマートでおしゃれな「FRONT」や「NIPPON」よりも、社会や生活の〈記録〉にも力を注ぎ、日本とアジアのさまざまな人々の暮らしを取り上げた泥臭い「アサヒグラフ海外版」の方が私の性に合っていたというのがいちばん大きな理由である。
  思い出話で恐縮だが、私が歴史に興味をもちはじめたのは小学校6年生のときである。当時の担任の先生は、教育熱心な青年教師だった。歴史の宿題は年表の作成だったが、その年表が普通とは少し違っていた。普通の年表のように大きな事件や政治や経済、外交上の出来事を書く欄もあったのだが、それに加えて「農民など人々の暮らし」という欄があって、その欄の方がむしろ大きかった。そこを埋めるには教科書だけでは足りず、参考書や百科事典を調べては書き込んでいた。ちなみにテストも普通のテストではなく、「~について述べよ」という記術式で、「大変よろしい」という二重丸の評価をいただくのがその頃の私の密かな喜びだった。先生は、大きな歴史の流れの背後にある一般の人々の暮らしを見つめることが大切で、両者を結びつけて理解していくことが歴史を学ぶということだと教えたかったのだろう。〈歴史〉といえば〈人々の暮らし〉と思ってしまう習い性は、このときに形成されたのだと思う。
  このようなわけで〈人々の暮らし〉がふんだんに掲載されている朝日新聞社のグラフ雑誌を見ることは、私には興味深い作業だった。しかし、その後が大変だった。内容を追いかけるばかりでは論にはならないのだが、内容に興味をそそられるあまりその紹介に傾斜して、論を組み立てることから離れていく。書いては消し、消しては考え、問題意識を確認し、軌道修正を繰り返した。
  試行錯誤のなかでようやく書き上げた拙い著作ではあるが、図版は豊富に入れることができたので、戦時下の社会を身近に感じていただけるのではないかと思っている。歴史に興味をおもちの方にはもちろん読んでみていただきたいし、「歴史はあんまり……」と思っている方にも一度当時の日本やアジアの人々の姿をのぞいてみていただけたらうれしい。本書がみなさんと戦時下のグラフ雑誌、そしてそのなかに写し出された人々とを結ぶメディア(媒介物)になれば幸いである。