第6回 フルトヴェングラーとトスカニーニ

 戦前戦後を通じて世界中の人気を二分した指揮者がフルトヴェングラーとトスカニーニだったことはあえて強調するまでもない。この両者はお互いを強く意識したことでも知られているが、ある新聞記者が「あなたのライバルは誰ですか? 教えてくださいよ」と何度もしつこく迫ったら、トスカニーニは激怒しながら「フルトヴェングラー!」と答えたという逸話がある。また、戦前のザルツブルク音楽祭のとき、2人は路上で鉢合わせし、トスカニーニがフルトヴェングラーに対して「ナチスの統治下で演奏するなど、もってのほか」と非難し、それに対してフルトヴェングラーは「ナチス統治下であっても人々がバッハやベートーヴェンを聴く自由はある」と言い返し、激論に発展したと言われている。
  この2人の巨匠だが、ともに1954年に活動の終止符を打っている。あと1年たてばステレオ録音が実用化されるというところで、2人ともが活動を終えているというところも、歴史の不思議というか、単なる偶然とは思えないのだ(トスカニーニにはいくつか実験的なステレオ録音は存在するが、正規のものはない)。
  さて、私が気になるのはフルトヴェングラーはトスカニーニが引退したニュースをどのように受け止めたかということである。1954年4月4日、トスカニーニは指揮をしている途中で記憶を喪失し、会場は長い沈黙に支配された。ラジオの生放送では「トラブルが発生しました」とアナウンスされ、ブラームスの『交響曲第1番』の冒頭がしばらく流されたあと、間もなく演奏は再開された。このショッキングな出来事のあと、トスカニーニは引退を表明、以後、公の場には一切姿を現さなかった。このニュースもフルトヴェングラーのところにはただちに伝えられたと考えるのが普通だろう。フルトヴェングラーは特に戦後になってから作曲する時間をほしがっていたので、これを聞いて「そうか、私も早く引退して作曲に専念したいものだ」などと思ったのだろうか。しかしながら、少なくとも私が知る限りでは、フルトヴェングラーがどんな感想を抱いたのか、それを記した文献はないように思う。
  一方、トスカニーニは引退後、1957年に亡くなっている。そうなると当然、トスカニーニも54年11月のフルトヴェングラーの訃報を耳にしているはずである。65年、ダニエル・ギリスはフルトヴェングラーの弔辞を集めた”FURTWANGLER RECALLED”(邦訳『フルトヴェングラー頌』仙北谷晃一訳、音楽之友社)を著している。同書に掲載されているのはワルター、カザルス、ストコフスキー、ベームなどの指揮者、オネゲル、シェーンベルク、ヒンデミットらの作曲家、メニューイン、シュナイダーハン、カーゾン、フラグスタートなどのソリストたち、あるいは旧西ドイツ首相アデナウアーなど、そうそうたる顔ぶれである。しかし、ここにもトスカニーニの名前はない。トスカニーニは戦後のウィーンですら「ナチスの残党がうようよいるところになど絶対に行きたくない」と語っていたらしいが、このフルトヴェングラーの訃報をトスカニーニはどう受け止めたのだろうか? 「フルトヴェングラーの死去、それは私にとってナチスの残党のひとりが亡くなったというだけだ」、というようなことを漏らしたのだろうか?

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第5回 アイダ・シュトゥッキのこと

 昨年末のこと、レコード会社の担当者から「アイダ・シュトゥッキ(Aida Stucki)というヴァイオリニスト、ご存じですか?」、こう言われて私は反応できなかった。担当者は続ける、「ムターの先生らしいですよ」。渡されたCDはTAHRAの663という番号のもの。それでも私はピンとこなかった。
『Discopaedia of the Violin』という本をご存じだろうか。これはカナダのJ・クレイトンが著したものだが、内容は古今東西のヴァイオリニストのディスコグラフィ集で、1990年頃に第2版が出ている。大きさはA4よりわずかに大きく、この第2版は4巻分が幅約11センチもある。収録されているヴァイオリニストの数は何人だろうか、おそらく数百人ではあるまいか。たとえば日本人では江藤俊哉、前橋汀子、漆原朝子、潮田益子なども含まれていることからもわかるように、世界的にはそれほど有名ではない奏者までも網羅している。ところが、この本にはシュトゥッキは出てこない。さらに調べていくと、彼女が録音したものと言えばモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第1、2、7番』(ピリオド)、シェックの『弦楽四重奏曲』(レーベル不明)くらいしか見あたらない。残した録音もこれだけ地味であれば、彼女の名が知られていないのはむしろ当然なのかもしれない。
  彼女の略歴はTAHRAの解説によると以下のとおりだ。1921年、ヴィンタートゥール出身の父とシチリア出身の母のもとでカイロに生まれる。母は美声の持ち主であり、シュトゥッキの名前アイダはイタリア・オペラ好きの母から授けられた。彼女の最初の先生はドイツの指揮者、ヴァイオリニストのErnst Woltersだった。37年、母の病気のためシュトゥッキはヴィンタートゥールに戻るが、その後カール・フレッシュに師事、さらにチューリッヒではバルトークと交友のあったStefi Geyer(1888-1956)にも師事している。彼女はハスキルともしばしば共演していたらしいが、その後の詳しい活動については触れられていない。
  シュトゥッキとムターとの出会いは1974年、ヴィンタートゥールでムターがメンデルスゾーンの『』ヴァイオリン協奏曲』を弾いたときである(このとき、ムターは11歳)。演奏の直前に楽器の調子が悪くなり、それを救ったのがシュトゥッキだった。これがきっかけとなり、ムターは彼女に教えを乞うことになったらしい。
  さて、このCDに含まれる演奏だが、1949年12月30日、ヘルマン・シェルヘン指揮、ベロミュンスター・スタジオ管弦楽団、曲目はベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である。音源はシュトゥッキ自身が所持していた78回転盤(おそらくアセテート盤だろう)とのことで、音揺れや歪みもあり、特に伴奏の音は強い音が終始割れぎみで、決していいとは言えない。だが幸いなことに、独奏はマイクに近いようで、極めて鮮明に捉えられている。その演奏だが、全く予想もしなかった美しさであった。古い世代に属する、特に女流ヴァイオリニストには独特の音程の取り方をしたり、一風変わった弾き方をする人も多く、そうしたものが独特の味わいを醸し出すことも多い。しかし、このシュトゥッキは全くの正統派だ。その意味では知性派フレッシュの教えを忠実に守っていると言える。しかし、微妙な変化と輝かしいほどの高貴な音も彼女の特色なのだ。たとえば第1楽章、ややゆっくりと、いかにも昔風な感じで手探りに始まる。だが、その音には何とも言えない柔らかさと気品が満ちあふれ、みるみるうちに引き込まれてしまう。緩急の付け方も見事で、実にさりげなく、かつ自然におこなわれている。第2楽章の美しさにも驚いた。この楽章のこんなにきれいな演奏も、ここしばらくは巡り会っていないような気がする。決して甘くべたべたと歌っているわけではないのに、いちじるしく夢心地にしてくれるのだ。第3楽章のいくらか遅めのテンポ設定も見事だ。これ以上遅くするともたついた感じがする、その一歩手前で踏みとどまっている。そして相変わらず硬軟、緩急のさりげない変化が実に見事。このCDのブックレットの冒頭にはムターの「この録音は弦楽器を弾く人、音楽愛好家すべてに必携である」という一文が掲載されているが、これは決して大げさではないと思う。
  余白にはバリリの独奏によるバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』が収められている。いかにも唐突なような組み合わせだが、ベートーヴェンと同じくシェルヘンの伴奏ということで採用されている(周知のとおり、このTAHRAはシェルヘンの娘ミリアムが切り盛りしているからだ)。ブックレットに記述はないが、このバッハは有名なウェストミンスター原盤である。
  今回の復刻盤は、さすがTAHRAである。自前レーベルGrand Slamにはとうていできない。

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メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる〈日本人〉――『アメリカ雑誌に映る〈日本人〉――オリエンタリズムへのメディア論的接近』を書いて

小暮修三

  まずは、僕がまだアメリカ留学したばかりの頃のエピソードをひとつ。
  ある日、大学院生専用図書館のコンピュータ室でデータ処理をしていたところ、近くに座っていたアメリカ人女性が「オーマィガッ!」とPCを前に慌てふためき始めた。僕が彼女の方に目をやると、彼女は部屋を見渡し、僕と目が合うやこちらに近づいて話しかけてきた。
 「ごめんね、ちょっとファイルが消えちゃったんだけど、元に戻せるかな?」
  どうやら、レポートを書いている最中にデータが消えてしまったらしい。僕は、彼女が使っていたPCをイジり、自動バックアップ用のデータを開いてあげた。彼女は、感謝の言葉とともに、僕がどこから来たのか尋ねた。僕が日本だと答えると、「ちょっと待って」と言って、自分の大きなカバンのなかをかき回し始めた。お礼に何かくれるのかなという淡い期待に少しだけ胸を膨らませながら待っていると、僕の目の前にウォークマンを差し出して、こう言った。
 「これ、ちょっと音の調子が悪いんだけど、直せるかな?」
  あまりにパンチが効いた質問だったので、彼女が言っている意味が全くわからなかった。僕の目が泳いだ状態になると、彼女は日本人だったら直せるかと思って試しに聞いてみただけだと早口で続けた。僕が無理だと答えると、彼女は「じゃぁイイ」と言って何もなかったかのように自分の作業に戻っていった。もちろん、「わけのわからないことを人に頼んどいて、「じゃぁイイ」じゃねぇーよ、無礼なヤツだな、オメェ!」と言い返せなかったのは言うまでもない。
  その後、アジア人留学生やアジア系アメリカ人男性がメカに強く、特に日本人男性であればメカはお手の物だというステレオタイプ(固定観念)が、多くのアメリカ人に根強くあり、その背景となる言説がテクノ・オリエンタリズムと呼ばれていることを知った。少なくとも僕の滞米時期(2000年以降)、日本人男性のステレオタイプは、メガネをかけた出っ歯で、カメラを首に掛け、ジャルパックのカバンを肩から提げて、何にでもお辞儀し、バカ高いみやげ物を買いまくるニンジャの子孫というものではなかった。そこで、本書の「はじめに」で書いたように、アメリカ人の前では、あえて古い日本人男性のステレオタイプに拠った自己紹介をしてウケを狙ったのである。
  ここでウケるか否かは、そのステレオタイプの古典性をどれだけ相手と共有しているかにかかっている。特定の意味作用システムを共有していなければ、そこに「笑い」は生まれてこない。そして、幸か不幸か、当時のアメリカではテクノ・オリエンタリズムの視線の下で、古典的なオリエンタリズムに基づくネタが「笑い」の対象として認知されていたのである。しかしながら、僕がテクノ・オリエンタリズムに基づくネタとして「メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる」とボケた場合、それは「笑い」ではなく「事実」として受け入れられてしまっていただろう。つまり、そこには特定の意味作用システムが共有されていないのである。このような考察から、テクノ・オリエンタリズムという特定の意味作用システムと、その形成過程についての調査・分析が始まり、古典的なオリエンタリズムの形成も含めた内容の本書を世に問う次第となった。
  そのリサーチは、研究にたずさわる者のご多分に漏れずヒジョーに地味なもので、大学の図書館に常駐し、古雑誌のページをシコシコめくり、必要な部分をスキャンする作業の繰り返しだった。アメリカ人の友人からは、「スキャナーの番人」という称号まで与えられた。そして、あまりにも毎日のように図書館で作業しているものだから、常勤のスタッフと勘違いされてか、はたまたテクノ・オリエンタリスティックなステレオタイプのたまものか、アメリカ人学生にPCやソフトの使い方を聞かれたり、ノートPCの修理を頼まれたり、iPodの使い方まで尋ねられるまでに至る。実際には、そんなもん知らねぇっつーの。しかしながら、そのようなステレオティピカルな視線を日常的に浴びることも、リサーチの収穫のひとつではあった。
  さらにリサーチを進めるなかで、ここでも特筆すべき点は、世界に冠たる科学雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」のほぼ1世紀前の写真の「パクリ」を発見したことである。本書でも触れたが、同誌記者の撮影とされる日本に関する最初の「カラー写真」の何枚かが、実際は、日本人カメラマンの撮影によるみやげ物用「彩色写真」をトリミング(切り取り加工)したものだった。これは、シコシコ何万枚もの同誌に掲載された写真を見続けてきた過程で生じた違和感から、日本の古写真をも調べたことによって見つけ出すことができた。この発見によって、オリエンタリズムの相互補完関係という僕のロジックが、より強固なものになったと信じている。と同時に、同誌と同誌日本版発行元から目の敵にされることが想像できる。誠に名誉なことである。

  そんなこんなの明け暮れで、このような研究契機、リサーチ、そしてさらに地味なPCモニター監視員と化した分析を経て書いた本書を、楽しみながら読んでもらえれば幸いである。

第4回 奇々怪々、新発見の『第9』

 2月4日、ドリームライフから“フルトヴェングラー、ウィーン・フィル、1日違いの『第9』世界初発売”と題されたCDが発売される予定である(RIPD-0003)。これは1953年5月30日、ウィーン、ムジークフェラインザールでのライヴとのこと。ところが、この演奏だが、実に奇々怪々なのだ。
  このときのウィーンの第9公演は以下のような日程でおこなわれたとされている。
29日
30日
31日(昼と夜の公演)
  つまり、3日間で4回おこなわれたとされている。歌手は高域から順にイルムガルト・ゼーフリート、ロゼッテ・アンダイ、アントン・デルモータ、パウル・シェフラーとなっている。けれども、30日もしくは31日の昼公演のソプラノはゼーフリートではなくヒルデ・ザデックが歌ったのではないかとも言われており、これはいまだにはっきりしていない。
  このときのライヴ録音はさまざまなレーベルから発売されたが、最初期に発売されたLPには29/31日と日付が特定されていなかった。その後、初めての正規盤であるドイツ、日本のフルトヴェングラー協会盤では「31日」と特定していた。しかし、その後発売されたドイツ・グラモフォン(DG POCG-2624)、アルトゥス(Altus ALT076)の同じく2種の正規盤には「30日」と記されている。もちろん、協会盤とDGなどは中身は全く同一である。つまり、ソプラノの問題、日付の問題ともに未解決なのである。
  ところが、この新発見に関してのドリームライフの説明がまことに不十分なのだ。まず、ドリームライフは音源を一切明かしていなかった。これに対して、私は再三にわたって「出自不明の音源など社会的信用を得られない」と申し入れていた。だが、まもなくドリームライフの担当者は業界関係者に向かって「この音源はオーストリア放送(ORF)の提供」と言い始めた。しかも、「ORFの資料には31日とあったが、これは間違いと判断して30日として出す」とのことだった。ORFに再調査を依頼し、その結果が「30日」ということならば理解できるが、そういう説明もない。それに、ドリームライフのパンフレットには31日表示の協会盤、30日表示のDGも「31日」と一緒にし、自社の「30日」音源との違いを説明している。そこには他レーベルを一律「31日」と断定した根拠も示されていない。
  日付があやふやであっても、内容が明らかに別物であれば大きな混乱はないだろう。しかし、これは間違いなく過去に出たものと同一の演奏である。よく知られているように、フルトヴェングラーには1日違い、3日違いなど、日付が近接したライヴ録音がいくつか存在する。しかも、最近では有名なバイロイトの『第9』の同じ日の別演奏までも登場した。こうした近接した録音は、聴き始めてほんの数秒もしないうちに、ただちに別演奏だと判断できるものばかりである。ところが、この新発見の『第9』、何回聴いても同じにしか思えない。
  しかしながらである、比較すると実に奇妙な現象が起きている。ちょっと聴くと別演奏にも思える痕跡があると言えば、ある(以下、ドリームライフ盤=L盤、そして協会盤、DG、アルトゥス=D盤と略す)。最も大きな違いはティンパニにあった。
  まず第1楽章の295―296小節、スコアにはないティンパニが4回追加されている。ここをL盤は「別演奏の大きな証拠」としている。確かにD盤にはないし、フルトヴェングラーの他のすべての『第9』にはこのような改変をした例もない。しかし、よく聴いてみるとこのL盤では287小節からティンパニは全く叩いていない。つまり、この個所はこうした説明が成り立つ。「287小節からティンパニ奏者が落っこちてしまい、295小節からさぐりを入れ、297小節でやっと復帰する」。これはありえないことではない。だが、私にはこの追加された4つの音がさぐりを入れるような不安な音には思えないのだ。明らかに最初から叩く、といった明確な意志が感じられる。しかも、この4つの音は電気的に加えられた全く同一の音にも思える。
  第4楽章にもティンパニに大きな違いがある。「おお友よ!」と歌い始める直前の206―207小節、D盤ではティンパニが完全に叩き損ねており、全く音がない。一方のL盤はスコアどおりにきちんと叩いている。ここもL盤が「別演奏の証拠」としているところだ。確かにそうだ。けれども、私はフルトヴェングラーの同じくウィーン・フィルを指揮した1951年か52年ライヴのテイクと差し替えていると推測している。
  次のティンパニは最も不可解である。同じく第4楽章の164小節以降、ちょうど歓喜の主題が管楽器に移行したところである。L盤は全くスコアどおりだが、D盤は音の数をかなり増やして叩いているのがはっきりとわかる(楽器がいっせいに鳴っているので、楽譜にすることはちょっと難しいが、違いは明らかだ)。
  以上の2種のL盤、D盤のティンパニの違いをL盤のデータに沿って説明すると、30日では第1楽章に大きなミスをしたが、同じ個所を31日では完璧に叩いた。第4楽章、164小節以降、30日はスコアどおりに叩き、翌31日では大幅に改変したものを叩いた。さらに独唱の直前、30日ではちゃんと叩いたけれども、31日は全くの行方不明になるという大きなミスを犯した、ということになる。こんなつじつまが合わないティンパニがあるだろうか? 2日間にわたって大きなミスをし、しかもある個所において1日違いで全く違った音を叩く。絶対にありえない。むろん、こんな説明も成り立たないわけではない。30日、第1楽章で大きなミスをしたので、指揮者が31日は別の奏者に交替するように指示した。そうしたら、その奏者が改変した音を叩き、独唱の直前では大きなミスをした……。これもかなり苦しい説明だ。
  もう一カ所、第4楽章の最後のプレスティッシモに入る直前、4人の独唱のテノールにある。840小節、本来ならば「sanfter Flugel」(uはウムラウトが入る)と歌わなければならないのを、D盤では「Flugel sanfter」と間違って歌っている。ところが、L盤は楽譜どおり「sanfter Flugel」と歌っている。ここも別演奏の証拠とみなすことができる。しかし、その次の841小節が不可解だ。この小節ではテノールのみ「weilt」の音を半音変えて伸ばすだけで、他の3つのパートは「Flugel weilt」と歌うのである。ところが、L盤もD盤もテノールはソプラノと同じ音、同じ歌詞で「Flugel weilt」と歌っているのである。この841小節だけをとれば、指揮者の改変とも言えるだろう。でも、L盤が指揮者の指示だとすれば、テノールは840小節に「Flugel」と歌い、さらにその次の841小節にも再び「Flugel」と、つまり「Flugel」を2回繰り返すことになる。仮に841小節、テノールにソプラノと同じ「Flugel weilt」を歌わせたいと指揮者が指示をしたいのならば、その前の840小節で「sanfter」を他のパートのようにその小節内で伸ばし、841小節で「Flugel weilt」と改変するならば合点がいくというものだ。その点、840小節に間違いを犯して、それを引きずって841小節を思わず「Flugel weilt」と歌ってしまったD盤の方が収まりがいい。もちろん、単なるミスという可能性がなくはない。けれどもデルモータのような歌手が2日とも間違えるだろうか?
  その他、L盤は聴衆のノイズの違いなどを別演奏の証拠としているが、このような違いはもはやほとんど証拠にはなりえないのである。というのは、最近の技術では、加工した痕跡が確認できないほどきれいに直せる技術があるからだ。これは複数の技術者も証言している。
  一部の方は覚えているだろうが、確か2003年のはじめ頃だったか、アンダンテの『大地の歌』事件があった。ワルター指揮、ウィーン・フィル、マーラーの『大地の歌』、デッカのセッション直後のライヴということで発売されたCDがあったが、これはデッカの正規録音に前後の拍手や楽章間の咳払いを付け加えてライヴ風に仕立てた、完全な偽物だった。これは国内ではむろんのこと、イギリスの「グラモフォン」誌でも指摘され、世界的なスキャンダルとなった。しかし、音源提供者は「間違いなくORFのアーカイヴに所蔵された音源を使用したもので、本物に間違いない」と主張していた。
  私は今回の『第9』もこの『大地の歌』と同様、偽装音源であると思っている。この『第9』と『大地』の違いは、前者が演奏の前後にだけ拍手やざわめきを加えただけなのに対し、今回の『第9』はほぼ全曲に改変がなされている、相当に手の込んだものということだ。先ほども触れたように、こうした加工はいくらでも可能な時代である。これからも、こうした音源は出てくるだろう。
  いずれにせよ、最も大きな問題は、出自不明の音源を堂々と出してしまうことではないか。

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第3回 いいアンコール

 小泉元首相の著作『音楽遍歴』(日本経済新聞社)に「アンコールへの注文」という項目がある。そこでは「最終楽章をもう一度繰り返すアンコールがあるけれど、これは興ざめだ」「ブルックナーとかマーラーとか、長大なシンフォニーなんかの場合は、アンコールをやらない方が、余韻を残せる」と記されている。こういうふうに書いたりしゃべったりする人は何も小泉元首相に限らないのだが、確かに当日のプログラムにはふさわしくないと思われるアンコールは日常的に少なくない。たとえば、一昨年だったか、パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア管弦楽団の公演、このときはベートーヴェンの『運命』+マーラーの『巨人』というプログラムだったが、アンコールは4曲もあった。それもすべてイタリア物。終了したときの会場の盛り上がりはたいへんなものだった。終わりよければすべてよし、第三者的に見れば大成功と言える。けれど、その沸き方を見ていると「だったらプログラムにもっとイタリア物を入れればよかったじゃないか」と思ってしまう。アンコールの4曲は日頃彼らが頻繁に演奏しているので、ほとんど練習なしでも演奏できる内容だとは思う。けれども、4曲もやる気力と熱意があるならば、予定されていた演目にもっと磨きをかけてほしいというのが偽らざる気持ちだった。
  2002年6月、アルブレヒト指揮、ワイマール州立歌劇場管弦楽団の公演があった。このときに注目されたのはフルトヴェングラーの『交響曲第1番』の日本初演だった。この作品は巨大な編成であり、総演奏時間に80分以上も要する大曲である。内容は渋くて錯綜しており、決して一級のものとは言えないが、フルトヴェングラー・ファンはむろんのこと、ドイツの交響曲に関心のある人にとっては興味深いものだ。その演奏は立派だった。ただ、シューベルトの『ロザムンデ』間奏曲とワーグナーの『ローエングリン』第3幕への前奏曲、この2曲のアンコールが、生きている間にはたぶん二度と実演では聴けないであろう、この大交響曲の余韻をほとんどかき消してしまった。
  大交響曲と言えば、2007年の上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団の公演も思い出す。このときに最も話題になったのは、90分程度もかかったブルックナーの『交響曲第7番』だった。これは演奏の途中でトイレのために離席した人が何人かいたほどだった。むろん演奏する方もたいへんだっただろうが、聴く方も、良くも悪くもぐったりと疲れた。ところが、そんなときでもワーグナーの『ローエングリン』第1幕への前奏曲がアンコールとして演奏された。それはまるで、十分に満腹しているのに、さらに一品追加された料理が運ばれてきたようなものだった。正直、「蛇足!」と思った。
  1月16日、ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に出かけた。この日は「プロコフィエフ交響曲全曲演奏VOL.1」で、『第1番「古典」』と『第7番「青春」』が演奏された(他にモーツァルトの協奏交響曲もあった)。通常、日本フィルに限らず定期公演ではほとんどアンコールをやらないが、この日は『第7番』の第4楽章をアンコールとして演奏した。こう書くと、それこそ小泉ではないが「興ざめ」とでも言いたくもなろう。しかし事情通はおわかりだと思うが、この第4楽章には2つの版がある。つまり、プロコフィエフは暗く静かに終わる方を最初に書いたのだが、当局からの物言いを恐れて明るく肯定的に終わるものも書いたのである。ラザレフが最初に振ったのは暗く終わる方だった。彼はマイクを持って、たどたどしい日本語で「コレカラ、カカサレタ、ダイヨンガクショウヲエンソウシマス(これから、書かされた第4楽章を演奏します)」と言い、明るく終わる第4楽章をアンコールとして指揮した。これならば初めて聴く人にもわかりやすい。この日ばかりは、すぐに帰路につかなくてよかったと思った。

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第2回 チョン・キョンファは引退したのか?

 今年に入って、ある事情通から「チョン・キョンファは引退してジュリアード音楽院の教師になった」という情報を得た。そう言えば、最近チョンの動向を聞かなくなって久しい。CDも2000年に収録されたブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』、ヴィヴァルディの『四季』(ともにEMI)がいちばん新しいものだ。03年にスーパー・ワールド・オーケストラのソリストとして来日したが、それ以降きっぱりと引退したというニュースも伝わっていないように思う。
  私がチョンを初めて聴いたのは1983年のことだった。会場は東京文化会館だったが、その公演のなかで忘れもしないのはバッハの『無伴奏パルティータ第2番』である。一挺のヴァイオリンが空間を引き裂き、会場内に嵐を呼び寄せるような、想像を絶した迫力を生み出していたことに心底驚いた。そのとき、私はこんなバッハは二度と聴けまいと思った。しかし、98年の来日公演でチョンは同じ曲を演奏し、さらに驚くことに、83年をも上回るものを聴かせてくれたのである。
  そのほか、ベートーヴェンとブラームスの2大ヴァイオリン協奏曲を一晩で弾くという注目すべき来日公演もあったが、チョンの公演にはちょっとした出来事もあった。ホロヴィッツの初来日公演で吉田秀和が「骨董は骨董でも、ちょっとひび割れがあった」と評したのは有名だが、この直後のチョンの来日公演のチラシには「ひび割れた骨董よりも盛りの花は美しい」といった挑発的な宣伝文句が使用されていた。また、先ほど触れたベートーヴェンとブラームスの公演はNHK交響楽団との共演だったが、当時のN響の理事がチョンとの公演に対して「神聖なドイツ音楽に異種の臭いを持ち込む」と発言し、問題になったこともあった。しかし、こうした事件もずいぶんと昔の出来事のようにも思えてしまう。
  チョンは録音に対しても非常に慎重だった。新譜は予告はされるものの、ほとんど毎回のように一時的に延期される。録音を完了しながらも彼女自身がOKを出さずにお蔵入りしたものもそれなりにあると聞いている。共演者の選択も厳しい。うまく帳尻を合わせるなどという文字は彼女の頭の中にはなかったようで、共演者に対する要求は過酷とも言われていた。彼女の要求の高さに耐えかねて、ある伴奏ピアニストは「私はあなたの専属ピアニストではない」と怒ったとか。デッカからEMIに移籍したのも、テンシュテットと共演するためだったらしい。これは噂なのでどこまで信用していいかは不明だが、チョンはブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』の伴奏指揮者にはカルロス・クライバーを指名したが、結局は実現しなかったとのこと。
  雑誌記者時代、私は一度だけチョンに会ったことがある。ああいった集中力の激しい音楽をする人である、予想どおりなかなかインタビューの許諾が取れない。やっと取れたものの、インタビューには決して乗り気ではない様子は周囲の私たちにもはっきりと伝わっていた。とは言っても、沢尻エリカのように取り付く島もないといった返答することはなかったが、その受け答えは演奏とは対照的に淡々としたものだった。後日、関係者からチョンが以下のように言っていたと耳にした。「私は公演のために日本にやってきたの。とにかく公演に成功することが私の最大の使命。インタビューに成功したって何の意味もない。だから、公演に直接関係ないことはやりたくない」
  2000年かその翌年か記憶ははっきりしないし、事の詳細も覚えていないが、とにかく自宅でチョンのインタビューができそうだということがあった。そのときは所用で海外に行く人にインタビューを依頼したが、その人物のスケジュールとチョンのそれとが残念ながらかみ合わなかった。その人は何回かチョンの自宅に電話し、会える時間を模索したけれども、結局はすれ違い。その人から聞いたのはチョンはとても積極的で、「あなたの仕事は何時に終わるの? ぎりぎりまで待っている」とできる限り合わせるようにしてくれたという。要するに、彼女は同時にあれやこれやとできない人なのだろう。
  チョンは1948年生まれだから、完全に引退するのはちょっと早い気がする。仮にすでに引退していたとしても、テニスのクルム伊達公子のように、再びふらりと舞台に戻ってくることを期待したい。

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第1回 朝比奈は本当にフルトヴェングラーの『ロマンティック』を聴いたか?

 朝比奈隆が1953年にフルトヴェングラーと面会し、「ブルックナーは原典版でやった方が良い」と言われたことは、朝比奈自身が生前に何度も書いたり語ったりしていた。この訪欧時、朝比奈はベルリンでフルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルのブルックナーの『交響曲第4番「ロマンティック」』を聴いたと証言しているが、不思議なことにその演奏会は現在残っている資料には見あたらないのである。
  まず、朝比奈が書いて(語って)いたことをもとに、その前後の事実関係を以下のように照合してみたい。
①フルトヴェングラーの『ロマンティック』の前に、マルケヴィッチ指揮ベルリン・フィルの演奏会があり、朝比奈はそのリハーサルを見学している。そのときマルケヴィッチは「ブリテンの〈青少年のための管弦楽入門〉を練習していた」と記している。
→これは正しい。1953年11月29、30日にはマルケヴィッチ指揮で、チャイコフスキーの『交響曲第6番「悲愴」』、メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』(なぜか資料には調性も作品番号も記されていない。独奏はクリスティアン・フェラス)、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』の演奏会が記録に残っている。
  このあと、朝比奈はヘルシンキへと移動する。

②朝比奈は12月16日か18日に『ロマンティック』を聴いたと書いている。
→記録によると、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの12月の公演は6、7、8日の3日間しかない(場所はティタニア・パラスト)。しかも、この前後のベルリンでの公演は1953年9月15―17日、54年4月4―6日と間があいている。まず、考えられるのは朝比奈の単純な記憶違いで、6日を16日、8日を18日とそれぞれ思い込んでいた。記録によると朝比奈は12月11、13日にヘルシンキでヘルシンキ・フィルを振っている。しかし、朝比奈自身が書いていたヘルシンキ公演の日付は10、11日で、ベルリンには12日に戻ってきたとしており、記録と食い違っている。このヘルシンキ公演の日程は記録が正しいのか朝比奈の記憶が正しいのかは不明だが、どちらにしても「16日か18日に聴いた」という記述とのつじつまは合う。しかし、①のリハーサルをベルリンで聴いていた事実を見てもわかるとおり、6―8日のいずれかの公演を聴いたあとにヘルシンキに移動、そこでの公演を終えてからドイツに戻っているので、朝比奈がこの前後関係を取り違えて記憶していた可能性も十分にある。

③朝比奈がホテルでチケットを受け取った際、「ブルックナーの“ロマンティシェ(ロマンティックのドイツ語読み)”です」と添え書きが付いていた。さらに、朝比奈は曲のいちばん最後について「壁も床も鳴り響くような最後の変ホ和音が消えた」としている。
→公式記録によると、この12月6―8日の公演のメインはブルックナーの『交響曲第5番』となっている(他の演目はグルックの『アウリスのイフィゲニア』序曲、マーラーの『亡き子をしのぶ歌』、独唱:フィシャー=ディースカウ)。添え書き、そして最後の変ホ和音という事実が本当ならば、この日の演奏会は『第5番』ではなく、『第4番「ロマンティック」』だった可能性は非常に高いと思われる。事前の予告では『第5番』があがり、その後『第4番』に変更されたのかもしれない。それに、素人ならばいざ知らず、朝比奈くらいの指揮者が変ロで終わる『第5番』と変ホで終わる『第4番』とを聴き間違えるだろうか?
  ちなみに、1953年12月、上記のマルケヴィッチ以降のベルリン・フィルの公演は以下のようになっている。12月2日(ケンペン指揮)、6―8日(フルトヴェングラー指揮)、20、21日(ランゲ指揮)、26日(ローター指揮)。この日程を見ると、たとえば16―18日にフルトヴェングラーの公演があってもおかしくない。しかし、フルトヴェングラーは12、13日、ウィーンでウィーン・フィルとフランクの交響曲をメインとする演奏会を指揮し、14、15日にはそのフランクの交響曲のレコード録音(デッカ)をおこなっている。16日が移動日だとすると、17日が練習で18日が本番だったという推測も成り立たないわけではない。しかし、ベルリンでの公演は同一の演目がたいてい2日ないし3日おこなわれているので、16、17日、あるいは18、19日という日程も考えられるが、これは前後関係からしてありえない。そうなると、たとえば23、24日とか、28、29日といった日付も推測できないではない。けれど、この12月末にフルトヴェングラーは体調を崩して静養しているので、12月の後半、特に28日以降という説は成立しにくい。いずれにせよ、現在残された資料によると、フルトヴェングラーの1953年12月の公的活動は15日のデッカ録音で終了したということになっており、それ以降の演奏会の記録は残っていない。その次のフルトヴェングラー公的活動は翌54年2月のウィーン・フィルとのレコード録音である(HMV)。

④朝比奈は上記の公演後、何日かたったあとのフランクフルトのホテルでフルトヴェングラーと会った。
→先ほど触れたように、1953年のフルトヴェングラーの公的活動は12月15日で終了しているので、その後のフルトヴェングラーの同行を確認するのは困難である。

⑤朝比奈はフルトヴェングラーと会った翌年に訃報が届き、さらにその翌年、ベルリン・フィルの指揮台に立ったと述懐。
→これは朝比奈の記憶どおりで、フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年11月30日、朝比奈のベルリン・フィル客演は56年6月21日だった。

 私の知る限り、朝比奈が『ロマンティック』以外の演目について触れている資料はなかったように思う。たとえば、彼が「前半はマーラーが演奏された」ということを語っていたら、上記の6―8日の公演を聴いた可能性がぐんと高くなる。だが、この件に関して朝比奈に直接確かめることはできなくなってしまった。あとは、F=ディースカウの証言を得ることも可能だが、ソリストが自分の出番のないメインの曲目について覚えているだろうか?

参考文献:「音楽現代」編『フルトヴェングラー――人と芸術』(芸術現代社)、朝比奈隆/小石忠男『朝比奈隆、音楽談義』〈芸術現代社)、『朝比奈隆、栄光の軌跡』(Ontomo Mook、音楽之友社)、“EIN HUNDERTJAHRE BERLINER PHILHARMONISCHES ORCHESTER”, Peter Muck, Hnas Schneider,“FURTWANGLER Concert Listing 1906-1954”, Rene Tremine, Tahra, “The Furtwanler Sound”, John Hunt

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『精神病の日本近代』というゴール、そして新たな地平へ――『精神病の日本近代――憑く心身から病む心身へ』を書いて

兵頭晶子

  小学生の頃、家族で六甲山に近い公園へ遊びに行った。広々としてあまり人もいないその公園は、ゴルフ場と住宅地に囲まれていた。住宅地には公園から見えるように白い大きな垂れ幕が下がっていて、そこには「精神病院建設反対」と書かれていた。その一角だけが、緑豊かでのどかな景色には馴染まず、ある違和感を放っていた。
  たいていの子どもにとって(あるいは大人でも)、病院はあまり行きたくない場所だろう。待ち時間は長いし、注射でもされようものなら痛いうえに、薬は苦い。でも、幼い頃から体が弱かった私にとって、病院は点滴や薬で病気を治してくれ、助けてくれる場所だった。だから、どうして病院を建てることに反対するのかよくわからず、隣にいる父に尋ねた。父が何と答えたのか、いまではもう覚えていない。

  縁というのは不思議なもので、十年後、私は公園の隣にできた高校に通い始めた。近くに広い公園があるのが気に入って、その高校に決めたようなものだった。もっとも、在学中は友達とのおしゃべりや勉強に気を取られて、公園まで足を延ばすことは結局ほとんどなかったけれど。かつて精神病院建設が反対された土地は、老人ホームになっていた。
  そして。
  阪神・淡路大震災が起こる数カ月前、ひとりの男性が自殺した。──彼が大学時代からうつ病に罹っていたことを、通夜の席で、遺された子どもたちは初めて知った。

  その頃、「うつ病」という言葉が持つ響きは、いまとはかなり違っていた。だから、子どもたちがもう少し成長してから話そうと思っていたのかもしれない。それに、彼は単身赴任で各地を転々としていたから、ゆっくり話す機会もなかったのかもしれない。
 でも、もしこれが違う病気だったなら。子どもにもわかるように説明したのではないだろうか。たとえ一緒に暮らす時間が少なくても、確かに家族だったのだから。
 ではなぜ、彼は、うつ病という病気を伏せたまま死を選んでしまったのだろう。

  高校を卒業して大学生になった私は、たまたま同郷だった一つ年上の先輩から研究会に誘われた。研究会に参加するようになった私は、卒業論文のテーマを精神病にしようと思った。すると、被差別部落について研究していた先輩は次のようなことを言った。
「精神病は難しいと思うよ。部落と違って、「実態がある」から」
  なにしろ十年前の記憶なので、特に「実態」という表現が正確かどうか自信はないが、とにかく、そういう意味の指摘だったことは覚えている。

  だが。
  精神病と呼ばれる病気が実在することは、病気に悩む当事者や家族への差別を正当化するのだろうか。「間違っている」部落差別の対極に、「正しい」差別なんてあるのだろうか。この世の中に、「あっていい」差別など、はたして存在するのだろうか。
  だから私は精神病をテーマに選んだ。部落差別でもなく、ちょうどその頃、国が隔離政策の誤りを認めたハンセン病でもなく、いまなお差別が続いている精神病についてこそ研究しようと心に決めた。
  ──本書の始まりは、このような原風景のなかにあった。

  現在、私は、学習院大学と大阪大学で非常勤講師として二つの授業を担当している。学習院のほうは病気で入院された先生の代講なので、テーマが既に決まっていた。そこでほぼ十年ぶりに、被差別部落の問題を調べ直すことになった。そして、本当にあきれた話だが、部落差別がいまなお続いていることを知り、心の底から驚いた。
  確かに小学校や中学校で、うろ覚えながらも同和教育を受けたし、現在進行形の問題だからこそ、先輩もいまなお研究し続けているのだ。それでも、なぜだか信じられなかった。
  大正期に喜田貞吉が歴史学の立場から部落差別の迷妄を説き、水平社も設立され、精神病とは比較にならないほどのおびただしい研究が重ねられてきたにもかかわらず、「いわれなき差別」の筆頭とも言える部落差別が21世紀になったいまも続いているなんて、そんなことあるはずがないと思った。
  ──つまり私は、「正しい」とされる差別を追究するあまり、「間違っている」と宣言された差別の側を見落としてしまっていたのだ。

  いまなら、もっと違う本が書ける気がする。
  部落差別も、路上生活者の強制排除や日雇い労働者の住民登録削除に体現される非定住への排斥も、喜田や、同時代に民俗学を樹立した柳田国男が説いたような、前近代の残存などでは決してないことを。そうした差別をいまなお正当化し続ける原理が日本近代の基底にあり、その一環に精神病への差別も含まれているということを。
  もちろんそれは、本書を書き上げたからこそ見えてきた問題に他ならない。

  こうして、『精神病の日本近代』というひとつのゴールは、同時に、新たなスタートラインとなった。
  上記のような本を書き上げたとしたら、次は、どんな新しい扉が開くのだろう。
  ──その扉を開くのは、本書の読者であるあなた自身かもしれない。

1930年代の新聞の魔力――『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』を書いて

砂本文彦

  この本は、戦前の新聞をずっと読み込んで見えてきたことに記述の多くを依っている。
  東京や大阪で発行された新聞はもちろんのこと、仙台、新潟、栃木、横浜、静岡、長野、松本、豊橋、名古屋、大津、広島、呉、新居浜、高知、佐賀、柳川、熊本、長崎、そして植民地だった京城(ソウル)、大田、釜山。こうした地方紙は現地に行って見る。授業の合間をぬっては各地の図書館を訪ね歩き、閲覧室にこもってせっせとめくる。
 1年は365日。新聞を5年分、10年分と見ていく。新聞のページ数にもよるが、例えば、1930年頃の「京城日報」は、朝から晩まで見ても2カ月分見るのがせいぜい。1年分を見ようとすると、単純に考えて1週間かかる計算だ。万事この調子なので、ずっと見ていると気絶しそうになる。だから、いつ読み終わるとか、そんなせこい計算はしない方がいい。
  最近は、新聞記事がデータベース化されているものもあって便利だが、これは案外もれていたりとか、それこそ文字でデータベース化されない広告やマンガ、タイトルがあいまいな写真は落ちていたりとかで、頼りすぎると足をすくわれる。記事の「余白」に思いがけない発見もあるから、やはり、ここはローテクでも、攻めの気持ちでがんがん新聞はめくりまくるべし。
  大学院生の頃からちまちまと新聞を見る根気が続いているわけは、新聞記事そのものがおもしろいからだ。とくに関心をもった1930年代は、20年代よりもページ数が増すとともに(それはそれで頭が痛いのだが)、内容も充実。1面の政治、外交、経済からめくって社会、文化、スポーツ、芸能、マンガ、そして広告はかなりおもしろい。さらに、どこそこの帝大生がカフェーの姉さんに入れあげて町の話題になった云々の痴話話なんかは、もう、笑うしかない。当時は、男は女に対し、女は男に対し、神秘的なものを感じていた。そのせいか「男の甲斐性とは?」「女も○△なの?」のような、異性を妙に意識した変な連載も真面目に堂々と出てくる。記事の根拠もそうあるわけではないようで、噂話も多くて、「そんなわけないだろう!(笑)」とひとりつっこみをしながら見ていた。この硬軟織り交ぜた紙面構成は、当時の雰囲気を味わえて、かなり笑える。

 わかった! 重要なのは、これだ。笑える感覚が1930年代にあったことだ。

 実は、『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』も、そんな笑える感覚からできた分厚い本だ。あのとき、どうしてここまで「国際観光ホテル」をつくることが全国的なブームとなり、われ先と身銭を切ってまで外国人を呼ぼうとしたのか。当時のほとんどの日本人は、リゾートなんて見たことも行ったこともないのに。
  本書は、外国人向けの施設整備を始めてからのいきさつと利用の実態を記したが、実は、「外国人をわがまちに!」という類の話が新聞紙上に出てくるのを見るだけでも、充分におもしろい。「わがまちに、ホテルがいるんだ!」と熱にうなされる人々。そんな臨場感というか、高揚感というか、抑制が利かない「近代」というべきか。そういうことが、当時の新聞をめくるとダイレクトに伝わってくる。
  ただ、そんな新聞も、日中戦争ぐらいからあまりおもしろくなくなる。どの新聞をめくっても、わたしがほしい記事がぐっと減る。一時、落ち着いて持ち直すのだが、太平洋戦争開戦が近づくと次第に悲壮感が漂いはじめ、めくるこちらも気分が重い。
  鉄がない、木材がない、油がない。わたしの専門の建築で言えば、釘がないから家も建たない。竹筋コンクリートなんてものも開発される始末。そして1941年の秋頃から、ついに「この冬、暖をとる燃料はあるのか?」の記事まで出てくる。12月の真珠湾攻撃の数日前には、開戦不可避のような文字が挟み込まれ、開戦の翌日は、まさに教科書で見た「米英に宣戦布告」。こうなると、もう、観光やリゾート、住宅地開発とかの浮いた話は、出ようもない。このふたつの戦争の開戦で、新聞はその社会的な役割を大きく変質していったことを痛切に感じた。わたしの歴史文化的な研究の立場から言えば、一次資料としての価値が格段に弱まったことを意味する。
  あともうひとつ。当時の新聞は、新聞社によって編集カラーが全く異なる。現在の新聞は、新聞社としての「主張」は控えめに、支持球団の違いや経済面などの扱いに大小の差がある程度だが、当時の新聞は我田引水の極致というか、主張と噂だらけ。当時、人々は新聞に正しさを期待さえしていなかったのではないか? それよりは、新聞を通して読み手の力を試す社会、という感じか。地方紙はその傾向がもっと強くて、地元出身の誰それが東京で大活躍だとか、植民地で大事件だとか、あるようなないような話が紙面をところ狭しと躍る。新聞はスターを求めていた。そもそも当時の人々は、新聞に中立性なんか望んでもいなかったのだろう。
  そんな紙面構成だったせいか、新聞は戦中になってすべて右に倣うか廃刊に追い込まれ、戦後には改めて報道機関としての中立性が新聞に求められた。時代や紙面が異なれば、同じ新聞といっても、記事がもつ社会的な意義や、ときには正確性まで違ってくるのである。したがって、新聞を研究対象にするとき、字面を追うこと自体はほとんど意味をなさない。
  これではまるで、新聞が役に立たないような書きっぷりだが、決してそうではない。正確性はさておき、ともかくあちこちに散らばった記事を拾い集めると、それこそパズルを合わせるようにひとつの絵が見えてくるのである。多様な(雑多か?)報道があるからこそ、それを可能にしている。そもそもこうした異種格闘技のような新聞の雰囲気は、まるですべてをさらけ出す近所のおじさんのようで、人間臭くて、ある種の親しみをおぼえてしまう。とってもオープンマインドなのだ。
  人というのはいつも正しく倫理に忠実に生きているだけではない。わたしは、どうも、こうした訳のわからない新聞報道が許容された時代の方に、計り知れない魅力を感じてしまう。わたしが人として試されているような気もするのだ。どう考えるんだ?、お前、と。
  考える身体が自分にあることを問いかけ続けてくる1930年代の新聞。それを通してわが身の存在を21世紀のいまに感じられるのが、うれしい。みなさんも、この興奮を体験してほしい。

これまでとこれから――『音楽空間の社会学――文化における「ユーザー」とは何か』を書いて

粟谷佳司

  ポピュラー音楽研究の社会学者サイモン・フリスは、1988年に刊行した著書(Music for Pleasureのイントロダクション)で「ロックの時代精神」について書いていた。フリスによれば、ロックの時代はエルヴィス・プレスリーに始まり、ビートルズで頂点を迎え、セックス・ピストルズで終焉し、それ以降の音楽は時代精神が表現されていないという。私はそれから10年後の98年に刊行した論文でそのことについて論じた(「ロックの時代精神からオーディエンスへ」〔「ポピュラー音楽研究」第2号、日本ポピュラー音楽学会〕、あるいは「カルチュラル・スタディーズとポピュラー音楽のオーディエンス」〔東谷護編著『ポピュラー音楽へのまなざし――売る・読む・楽しむ』所収、勁草書房、2003年〕。なお、本書にはこの部分は収録していない)。このあたりの議論についてはこれから考えていこうと思っているが、本書で考察したのはこのようなロックの時代後のポピュラー音楽の実践ということになるだろうか。フリスについて言及した論文で私は、本書の「ユーザー」の議論にもつながる「オーディエンス」についてミシェル・ド・セルトーを取り上げた。
  本書の理論的バックグラウンドとしてカルチュラル・スタディーズがある。メディアと文化への関心によっているが、これは現代思想や文芸批評の著作を読み始めたころから続いているということに最近気づいた(1984年に出版された吉本隆明の『マス・イメージ論』〔福武書店〕あたりの著作やジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』〔今村仁司/塚原史訳、紀伊國屋書店〕、『シミュラークルとシミュレーション』〔竹原あき子訳、法政大学出版局〕など)。
  メディアと文化の問題として、本書で考察したアンリ・ルフェーヴル、マーシャル・マクルーハン、テオドール・アドルノなどの議論はこれからの研究で展開させていこうと考えているが、現在はマクルーハンの議論をよく読み直しながら、メディアの形式と音楽や文学などの表現について考えている。マクルーハンは、本書で取り上げたジョディー・バーランドやゲイリー・ゲノスコも言及している(ゲノスコは彼の著作のなかでマクルーハンとともにボードリヤールも取り上げている)。バーランドらはトロントを中心とした新しいコミュニケーション学派とでもいえる研究者だが、彼/彼女らは、カルチュラル・スタディーズや現代思想にも造詣が深く、同時代性を感じる。ちなみに、バーランドとゲノスコは、2004年にトロントでおこなわれたPROBING MCLUHAN: UNDERSTANDING MEDIA CULTURE というイベントでもともに講演している。
  本書はバーランドらの議論を手がかりにして、社会空間と「ユーザー」という観点から音楽やメディア文化の諸問題について論じた。事例の調査は主にミニコミやインターネット上に現れたオーディエンス(ユーザー)の声、主催者へのインタビューを中心におこなった。調査を進めていくうちに、音楽は喜びや悲しみなどさまざまな感情を表現し、心を癒すメディアであり、また人々を結び付ける力があることを実感した。
  音楽にかぎらず、ポピュラーな文化としてあるものは、それを「使用」することによる意味の生産という観点からも考えることができる。本書で取り上げた「つづら折りの宴」のようなイベントは、ポピュラー音楽を「使用」することで人々が協働して作り上げた文化の空間である。このような活動は、「ユーザー」という自律した存在をクローズアップするのだ。
  本書で取り扱った社会空間とメディアや音楽に関する諸問題は、これからも研究で引き続き考えたいテーマである。