第1回 朝比奈は本当にフルトヴェングラーの『ロマンティック』を聴いたか?

 朝比奈隆が1953年にフルトヴェングラーと面会し、「ブルックナーは原典版でやった方が良い」と言われたことは、朝比奈自身が生前に何度も書いたり語ったりしていた。この訪欧時、朝比奈はベルリンでフルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルのブルックナーの『交響曲第4番「ロマンティック」』を聴いたと証言しているが、不思議なことにその演奏会は現在残っている資料には見あたらないのである。
  まず、朝比奈が書いて(語って)いたことをもとに、その前後の事実関係を以下のように照合してみたい。
①フルトヴェングラーの『ロマンティック』の前に、マルケヴィッチ指揮ベルリン・フィルの演奏会があり、朝比奈はそのリハーサルを見学している。そのときマルケヴィッチは「ブリテンの〈青少年のための管弦楽入門〉を練習していた」と記している。
→これは正しい。1953年11月29、30日にはマルケヴィッチ指揮で、チャイコフスキーの『交響曲第6番「悲愴」』、メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』(なぜか資料には調性も作品番号も記されていない。独奏はクリスティアン・フェラス)、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』の演奏会が記録に残っている。
  このあと、朝比奈はヘルシンキへと移動する。

②朝比奈は12月16日か18日に『ロマンティック』を聴いたと書いている。
→記録によると、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの12月の公演は6、7、8日の3日間しかない(場所はティタニア・パラスト)。しかも、この前後のベルリンでの公演は1953年9月15―17日、54年4月4―6日と間があいている。まず、考えられるのは朝比奈の単純な記憶違いで、6日を16日、8日を18日とそれぞれ思い込んでいた。記録によると朝比奈は12月11、13日にヘルシンキでヘルシンキ・フィルを振っている。しかし、朝比奈自身が書いていたヘルシンキ公演の日付は10、11日で、ベルリンには12日に戻ってきたとしており、記録と食い違っている。このヘルシンキ公演の日程は記録が正しいのか朝比奈の記憶が正しいのかは不明だが、どちらにしても「16日か18日に聴いた」という記述とのつじつまは合う。しかし、①のリハーサルをベルリンで聴いていた事実を見てもわかるとおり、6―8日のいずれかの公演を聴いたあとにヘルシンキに移動、そこでの公演を終えてからドイツに戻っているので、朝比奈がこの前後関係を取り違えて記憶していた可能性も十分にある。

③朝比奈がホテルでチケットを受け取った際、「ブルックナーの“ロマンティシェ(ロマンティックのドイツ語読み)”です」と添え書きが付いていた。さらに、朝比奈は曲のいちばん最後について「壁も床も鳴り響くような最後の変ホ和音が消えた」としている。
→公式記録によると、この12月6―8日の公演のメインはブルックナーの『交響曲第5番』となっている(他の演目はグルックの『アウリスのイフィゲニア』序曲、マーラーの『亡き子をしのぶ歌』、独唱:フィシャー=ディースカウ)。添え書き、そして最後の変ホ和音という事実が本当ならば、この日の演奏会は『第5番』ではなく、『第4番「ロマンティック」』だった可能性は非常に高いと思われる。事前の予告では『第5番』があがり、その後『第4番』に変更されたのかもしれない。それに、素人ならばいざ知らず、朝比奈くらいの指揮者が変ロで終わる『第5番』と変ホで終わる『第4番』とを聴き間違えるだろうか?
  ちなみに、1953年12月、上記のマルケヴィッチ以降のベルリン・フィルの公演は以下のようになっている。12月2日(ケンペン指揮)、6―8日(フルトヴェングラー指揮)、20、21日(ランゲ指揮)、26日(ローター指揮)。この日程を見ると、たとえば16―18日にフルトヴェングラーの公演があってもおかしくない。しかし、フルトヴェングラーは12、13日、ウィーンでウィーン・フィルとフランクの交響曲をメインとする演奏会を指揮し、14、15日にはそのフランクの交響曲のレコード録音(デッカ)をおこなっている。16日が移動日だとすると、17日が練習で18日が本番だったという推測も成り立たないわけではない。しかし、ベルリンでの公演は同一の演目がたいてい2日ないし3日おこなわれているので、16、17日、あるいは18、19日という日程も考えられるが、これは前後関係からしてありえない。そうなると、たとえば23、24日とか、28、29日といった日付も推測できないではない。けれど、この12月末にフルトヴェングラーは体調を崩して静養しているので、12月の後半、特に28日以降という説は成立しにくい。いずれにせよ、現在残された資料によると、フルトヴェングラーの1953年12月の公的活動は15日のデッカ録音で終了したということになっており、それ以降の演奏会の記録は残っていない。その次のフルトヴェングラー公的活動は翌54年2月のウィーン・フィルとのレコード録音である(HMV)。

④朝比奈は上記の公演後、何日かたったあとのフランクフルトのホテルでフルトヴェングラーと会った。
→先ほど触れたように、1953年のフルトヴェングラーの公的活動は12月15日で終了しているので、その後のフルトヴェングラーの同行を確認するのは困難である。

⑤朝比奈はフルトヴェングラーと会った翌年に訃報が届き、さらにその翌年、ベルリン・フィルの指揮台に立ったと述懐。
→これは朝比奈の記憶どおりで、フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年11月30日、朝比奈のベルリン・フィル客演は56年6月21日だった。

 私の知る限り、朝比奈が『ロマンティック』以外の演目について触れている資料はなかったように思う。たとえば、彼が「前半はマーラーが演奏された」ということを語っていたら、上記の6―8日の公演を聴いた可能性がぐんと高くなる。だが、この件に関して朝比奈に直接確かめることはできなくなってしまった。あとは、F=ディースカウの証言を得ることも可能だが、ソリストが自分の出番のないメインの曲目について覚えているだろうか?

参考文献:「音楽現代」編『フルトヴェングラー――人と芸術』(芸術現代社)、朝比奈隆/小石忠男『朝比奈隆、音楽談義』〈芸術現代社)、『朝比奈隆、栄光の軌跡』(Ontomo Mook、音楽之友社)、“EIN HUNDERTJAHRE BERLINER PHILHARMONISCHES ORCHESTER”, Peter Muck, Hnas Schneider,“FURTWANGLER Concert Listing 1906-1954”, Rene Tremine, Tahra, “The Furtwanler Sound”, John Hunt

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『精神病の日本近代』というゴール、そして新たな地平へ――『精神病の日本近代――憑く心身から病む心身へ』を書いて

兵頭晶子

  小学生の頃、家族で六甲山に近い公園へ遊びに行った。広々としてあまり人もいないその公園は、ゴルフ場と住宅地に囲まれていた。住宅地には公園から見えるように白い大きな垂れ幕が下がっていて、そこには「精神病院建設反対」と書かれていた。その一角だけが、緑豊かでのどかな景色には馴染まず、ある違和感を放っていた。
  たいていの子どもにとって(あるいは大人でも)、病院はあまり行きたくない場所だろう。待ち時間は長いし、注射でもされようものなら痛いうえに、薬は苦い。でも、幼い頃から体が弱かった私にとって、病院は点滴や薬で病気を治してくれ、助けてくれる場所だった。だから、どうして病院を建てることに反対するのかよくわからず、隣にいる父に尋ねた。父が何と答えたのか、いまではもう覚えていない。

  縁というのは不思議なもので、十年後、私は公園の隣にできた高校に通い始めた。近くに広い公園があるのが気に入って、その高校に決めたようなものだった。もっとも、在学中は友達とのおしゃべりや勉強に気を取られて、公園まで足を延ばすことは結局ほとんどなかったけれど。かつて精神病院建設が反対された土地は、老人ホームになっていた。
  そして。
  阪神・淡路大震災が起こる数カ月前、ひとりの男性が自殺した。──彼が大学時代からうつ病に罹っていたことを、通夜の席で、遺された子どもたちは初めて知った。

  その頃、「うつ病」という言葉が持つ響きは、いまとはかなり違っていた。だから、子どもたちがもう少し成長してから話そうと思っていたのかもしれない。それに、彼は単身赴任で各地を転々としていたから、ゆっくり話す機会もなかったのかもしれない。
 でも、もしこれが違う病気だったなら。子どもにもわかるように説明したのではないだろうか。たとえ一緒に暮らす時間が少なくても、確かに家族だったのだから。
 ではなぜ、彼は、うつ病という病気を伏せたまま死を選んでしまったのだろう。

  高校を卒業して大学生になった私は、たまたま同郷だった一つ年上の先輩から研究会に誘われた。研究会に参加するようになった私は、卒業論文のテーマを精神病にしようと思った。すると、被差別部落について研究していた先輩は次のようなことを言った。
「精神病は難しいと思うよ。部落と違って、「実態がある」から」
  なにしろ十年前の記憶なので、特に「実態」という表現が正確かどうか自信はないが、とにかく、そういう意味の指摘だったことは覚えている。

  だが。
  精神病と呼ばれる病気が実在することは、病気に悩む当事者や家族への差別を正当化するのだろうか。「間違っている」部落差別の対極に、「正しい」差別なんてあるのだろうか。この世の中に、「あっていい」差別など、はたして存在するのだろうか。
  だから私は精神病をテーマに選んだ。部落差別でもなく、ちょうどその頃、国が隔離政策の誤りを認めたハンセン病でもなく、いまなお差別が続いている精神病についてこそ研究しようと心に決めた。
  ──本書の始まりは、このような原風景のなかにあった。

  現在、私は、学習院大学と大阪大学で非常勤講師として二つの授業を担当している。学習院のほうは病気で入院された先生の代講なので、テーマが既に決まっていた。そこでほぼ十年ぶりに、被差別部落の問題を調べ直すことになった。そして、本当にあきれた話だが、部落差別がいまなお続いていることを知り、心の底から驚いた。
  確かに小学校や中学校で、うろ覚えながらも同和教育を受けたし、現在進行形の問題だからこそ、先輩もいまなお研究し続けているのだ。それでも、なぜだか信じられなかった。
  大正期に喜田貞吉が歴史学の立場から部落差別の迷妄を説き、水平社も設立され、精神病とは比較にならないほどのおびただしい研究が重ねられてきたにもかかわらず、「いわれなき差別」の筆頭とも言える部落差別が21世紀になったいまも続いているなんて、そんなことあるはずがないと思った。
  ──つまり私は、「正しい」とされる差別を追究するあまり、「間違っている」と宣言された差別の側を見落としてしまっていたのだ。

  いまなら、もっと違う本が書ける気がする。
  部落差別も、路上生活者の強制排除や日雇い労働者の住民登録削除に体現される非定住への排斥も、喜田や、同時代に民俗学を樹立した柳田国男が説いたような、前近代の残存などでは決してないことを。そうした差別をいまなお正当化し続ける原理が日本近代の基底にあり、その一環に精神病への差別も含まれているということを。
  もちろんそれは、本書を書き上げたからこそ見えてきた問題に他ならない。

  こうして、『精神病の日本近代』というひとつのゴールは、同時に、新たなスタートラインとなった。
  上記のような本を書き上げたとしたら、次は、どんな新しい扉が開くのだろう。
  ──その扉を開くのは、本書の読者であるあなた自身かもしれない。

1930年代の新聞の魔力――『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』を書いて

砂本文彦

  この本は、戦前の新聞をずっと読み込んで見えてきたことに記述の多くを依っている。
  東京や大阪で発行された新聞はもちろんのこと、仙台、新潟、栃木、横浜、静岡、長野、松本、豊橋、名古屋、大津、広島、呉、新居浜、高知、佐賀、柳川、熊本、長崎、そして植民地だった京城(ソウル)、大田、釜山。こうした地方紙は現地に行って見る。授業の合間をぬっては各地の図書館を訪ね歩き、閲覧室にこもってせっせとめくる。
 1年は365日。新聞を5年分、10年分と見ていく。新聞のページ数にもよるが、例えば、1930年頃の「京城日報」は、朝から晩まで見ても2カ月分見るのがせいぜい。1年分を見ようとすると、単純に考えて1週間かかる計算だ。万事この調子なので、ずっと見ていると気絶しそうになる。だから、いつ読み終わるとか、そんなせこい計算はしない方がいい。
  最近は、新聞記事がデータベース化されているものもあって便利だが、これは案外もれていたりとか、それこそ文字でデータベース化されない広告やマンガ、タイトルがあいまいな写真は落ちていたりとかで、頼りすぎると足をすくわれる。記事の「余白」に思いがけない発見もあるから、やはり、ここはローテクでも、攻めの気持ちでがんがん新聞はめくりまくるべし。
  大学院生の頃からちまちまと新聞を見る根気が続いているわけは、新聞記事そのものがおもしろいからだ。とくに関心をもった1930年代は、20年代よりもページ数が増すとともに(それはそれで頭が痛いのだが)、内容も充実。1面の政治、外交、経済からめくって社会、文化、スポーツ、芸能、マンガ、そして広告はかなりおもしろい。さらに、どこそこの帝大生がカフェーの姉さんに入れあげて町の話題になった云々の痴話話なんかは、もう、笑うしかない。当時は、男は女に対し、女は男に対し、神秘的なものを感じていた。そのせいか「男の甲斐性とは?」「女も○△なの?」のような、異性を妙に意識した変な連載も真面目に堂々と出てくる。記事の根拠もそうあるわけではないようで、噂話も多くて、「そんなわけないだろう!(笑)」とひとりつっこみをしながら見ていた。この硬軟織り交ぜた紙面構成は、当時の雰囲気を味わえて、かなり笑える。

 わかった! 重要なのは、これだ。笑える感覚が1930年代にあったことだ。

 実は、『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』も、そんな笑える感覚からできた分厚い本だ。あのとき、どうしてここまで「国際観光ホテル」をつくることが全国的なブームとなり、われ先と身銭を切ってまで外国人を呼ぼうとしたのか。当時のほとんどの日本人は、リゾートなんて見たことも行ったこともないのに。
  本書は、外国人向けの施設整備を始めてからのいきさつと利用の実態を記したが、実は、「外国人をわがまちに!」という類の話が新聞紙上に出てくるのを見るだけでも、充分におもしろい。「わがまちに、ホテルがいるんだ!」と熱にうなされる人々。そんな臨場感というか、高揚感というか、抑制が利かない「近代」というべきか。そういうことが、当時の新聞をめくるとダイレクトに伝わってくる。
  ただ、そんな新聞も、日中戦争ぐらいからあまりおもしろくなくなる。どの新聞をめくっても、わたしがほしい記事がぐっと減る。一時、落ち着いて持ち直すのだが、太平洋戦争開戦が近づくと次第に悲壮感が漂いはじめ、めくるこちらも気分が重い。
  鉄がない、木材がない、油がない。わたしの専門の建築で言えば、釘がないから家も建たない。竹筋コンクリートなんてものも開発される始末。そして1941年の秋頃から、ついに「この冬、暖をとる燃料はあるのか?」の記事まで出てくる。12月の真珠湾攻撃の数日前には、開戦不可避のような文字が挟み込まれ、開戦の翌日は、まさに教科書で見た「米英に宣戦布告」。こうなると、もう、観光やリゾート、住宅地開発とかの浮いた話は、出ようもない。このふたつの戦争の開戦で、新聞はその社会的な役割を大きく変質していったことを痛切に感じた。わたしの歴史文化的な研究の立場から言えば、一次資料としての価値が格段に弱まったことを意味する。
  あともうひとつ。当時の新聞は、新聞社によって編集カラーが全く異なる。現在の新聞は、新聞社としての「主張」は控えめに、支持球団の違いや経済面などの扱いに大小の差がある程度だが、当時の新聞は我田引水の極致というか、主張と噂だらけ。当時、人々は新聞に正しさを期待さえしていなかったのではないか? それよりは、新聞を通して読み手の力を試す社会、という感じか。地方紙はその傾向がもっと強くて、地元出身の誰それが東京で大活躍だとか、植民地で大事件だとか、あるようなないような話が紙面をところ狭しと躍る。新聞はスターを求めていた。そもそも当時の人々は、新聞に中立性なんか望んでもいなかったのだろう。
  そんな紙面構成だったせいか、新聞は戦中になってすべて右に倣うか廃刊に追い込まれ、戦後には改めて報道機関としての中立性が新聞に求められた。時代や紙面が異なれば、同じ新聞といっても、記事がもつ社会的な意義や、ときには正確性まで違ってくるのである。したがって、新聞を研究対象にするとき、字面を追うこと自体はほとんど意味をなさない。
  これではまるで、新聞が役に立たないような書きっぷりだが、決してそうではない。正確性はさておき、ともかくあちこちに散らばった記事を拾い集めると、それこそパズルを合わせるようにひとつの絵が見えてくるのである。多様な(雑多か?)報道があるからこそ、それを可能にしている。そもそもこうした異種格闘技のような新聞の雰囲気は、まるですべてをさらけ出す近所のおじさんのようで、人間臭くて、ある種の親しみをおぼえてしまう。とってもオープンマインドなのだ。
  人というのはいつも正しく倫理に忠実に生きているだけではない。わたしは、どうも、こうした訳のわからない新聞報道が許容された時代の方に、計り知れない魅力を感じてしまう。わたしが人として試されているような気もするのだ。どう考えるんだ?、お前、と。
  考える身体が自分にあることを問いかけ続けてくる1930年代の新聞。それを通してわが身の存在を21世紀のいまに感じられるのが、うれしい。みなさんも、この興奮を体験してほしい。

これまでとこれから――『音楽空間の社会学――文化における「ユーザー」とは何か』を書いて

粟谷佳司

  ポピュラー音楽研究の社会学者サイモン・フリスは、1988年に刊行した著書(Music for Pleasureのイントロダクション)で「ロックの時代精神」について書いていた。フリスによれば、ロックの時代はエルヴィス・プレスリーに始まり、ビートルズで頂点を迎え、セックス・ピストルズで終焉し、それ以降の音楽は時代精神が表現されていないという。私はそれから10年後の98年に刊行した論文でそのことについて論じた(「ロックの時代精神からオーディエンスへ」〔「ポピュラー音楽研究」第2号、日本ポピュラー音楽学会〕、あるいは「カルチュラル・スタディーズとポピュラー音楽のオーディエンス」〔東谷護編著『ポピュラー音楽へのまなざし――売る・読む・楽しむ』所収、勁草書房、2003年〕。なお、本書にはこの部分は収録していない)。このあたりの議論についてはこれから考えていこうと思っているが、本書で考察したのはこのようなロックの時代後のポピュラー音楽の実践ということになるだろうか。フリスについて言及した論文で私は、本書の「ユーザー」の議論にもつながる「オーディエンス」についてミシェル・ド・セルトーを取り上げた。
  本書の理論的バックグラウンドとしてカルチュラル・スタディーズがある。メディアと文化への関心によっているが、これは現代思想や文芸批評の著作を読み始めたころから続いているということに最近気づいた(1984年に出版された吉本隆明の『マス・イメージ論』〔福武書店〕あたりの著作やジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』〔今村仁司/塚原史訳、紀伊國屋書店〕、『シミュラークルとシミュレーション』〔竹原あき子訳、法政大学出版局〕など)。
  メディアと文化の問題として、本書で考察したアンリ・ルフェーヴル、マーシャル・マクルーハン、テオドール・アドルノなどの議論はこれからの研究で展開させていこうと考えているが、現在はマクルーハンの議論をよく読み直しながら、メディアの形式と音楽や文学などの表現について考えている。マクルーハンは、本書で取り上げたジョディー・バーランドやゲイリー・ゲノスコも言及している(ゲノスコは彼の著作のなかでマクルーハンとともにボードリヤールも取り上げている)。バーランドらはトロントを中心とした新しいコミュニケーション学派とでもいえる研究者だが、彼/彼女らは、カルチュラル・スタディーズや現代思想にも造詣が深く、同時代性を感じる。ちなみに、バーランドとゲノスコは、2004年にトロントでおこなわれたPROBING MCLUHAN: UNDERSTANDING MEDIA CULTURE というイベントでもともに講演している。
  本書はバーランドらの議論を手がかりにして、社会空間と「ユーザー」という観点から音楽やメディア文化の諸問題について論じた。事例の調査は主にミニコミやインターネット上に現れたオーディエンス(ユーザー)の声、主催者へのインタビューを中心におこなった。調査を進めていくうちに、音楽は喜びや悲しみなどさまざまな感情を表現し、心を癒すメディアであり、また人々を結び付ける力があることを実感した。
  音楽にかぎらず、ポピュラーな文化としてあるものは、それを「使用」することによる意味の生産という観点からも考えることができる。本書で取り上げた「つづら折りの宴」のようなイベントは、ポピュラー音楽を「使用」することで人々が協働して作り上げた文化の空間である。このような活動は、「ユーザー」という自律した存在をクローズアップするのだ。
  本書で取り扱った社会空間とメディアや音楽に関する諸問題は、これからも研究で引き続き考えたいテーマである。

「戦争の百年」に翻弄されてきた私たちの歴史を、新たな視点で見つめ直したい ――『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年――二十世紀初頭から現在まで』を書いて

鳥飼行博

 8月はたくさんの戦争関連書が出版されますが、本書『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』が、その1冊として書店に並べられることはとても光栄です。青弓社から企画を依頼されたのは、もう2年以上も前になります。刊行が遅れたのは多数のポスターや写真を集めて、整理したり、それに適った説明を加えようとしたためです。さらに、多くの図版を前に取捨選択に迷い、従来専門的な学術書を書いてきたために文章表現がカタくなりすぎ、何度もご指導いただきながらリライトしました。引用や原典にもこだわり、注も煩雑になりがちだったので、これは大幅に簡略しました。編集を担当していただいた矢野未知生氏からは、読みやすくわかりやすい表現・文章に直すようコメントを受け、とてもいい経験になりました。8月の刊行に間に合わせるために、タイ出張中にメールで校正することもしました。
  リライトを進めるうちに文章が長くなり、図版が増えて、368ページと当初の予定より大幅に増えてしまい、収拾がつかなくなりました。予定量を超えているので大幅に削減しなければいけないと心配していましたが、矢野氏のご好意で、そのまま出版することができ、うれしく思っています。
  本書は長らく携わってきた平和・人権研究の一環ですが、これまで書き溜めたものに加えて、新たに調べ直しをしました。写真・ポスターを調べていくと、同じものであっても提供機関や出版物によって異なる解説を加えていて、撮影対象や作成時期などの違いもあります。たった1枚のポスターでも、その作成にまつわる資料を入手するのは大変でした。ポスター自体には、作者、発行機関、発行時期の情報は必ずしも書き込まれていないのです。写真にいたっては、撮影時期や撮影者が不明なものがほとんどです。
  けれども、諸外国の公的機関やNPOは、戦争にまつわるポスターや写真など、歴史的資料の収集・整理だけではなく、その公開・利用について積極的に取り組んでいます。日本でも次第に図書館・博物館・大学などを中心に資料収集・公開が進んでいます。本書で多数の写真・ポスターを利用できたのも、そのような機関・NPOのおかげです。お世話になった方々に改めて感謝を申し上げますとともに、これからも、情報収集に利用させていただきたく存じます。
「戦争の百年」の著作を書き進めたのは、従来の研究成果を公表するだけではなく、心のうちにあるいのちへの希求を大きな戦争の流れのなかから拾い出して、具体的に表現してみたかったからです。百年という長期間を扱うので、1つの事象を論文風に書くだけの分量はありませんし、また従来の見解を要領よくまとめた20世紀の戦争通史を目指してもこれまでに出版されたものと変わらなくなってしまいます。そこで、百年間の写真・ポスターを1冊にまとめて掲載し、新聞記事や公式報告を絡めることで、客観的に戦争の百年を理解できるのではないかと考えました。戦争通史に、戦闘経過、兵器解説、戦争経済、人々の個人史をつなぎ合わせて、「戦争の百年」に翻弄されてきた私たちの歴史を新たな視点で見つめ直すことを目指してみようと思いました。
  できあがった本が届いた2日後、2008年8月24日(日曜日)の「毎日新聞」の「今週の本棚」に「図版で解説する百年間の戦争」として本書が取り上げられ、「「戦争の世紀」といわれる20世紀から現在までの近現代史を、写真やポスター、新聞記事、公文書など225点でたどっている」と掲載されました。本書を手にした方がいらっしゃるかと思うと、うれしいと同時に、緊張しました。
  書店店頭で本書を見かけたら、お手にとってごらんいただければ幸いです。

「音楽」は音楽であってほしい――『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』を書いて

戸ノ下達也

 懸案だった『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』をようやく刊行できた。「あとがき」でも書いたように、これはひとえに本当にたくさんのみなさま方のご協力、ご尽力、ご指導のたまものである。改めて、お世話になったみなさまに心から感謝を申し上げたい。
  実際に「音楽」を題材とする本書を書き進めるうえで励まされたのは、「海ゆかば」をはじめとする当時の楽曲群の「音」であった。これら生き証人である当時の楽曲を聴きながら、そのメロディーやハーモニーが当時どのように鳴り響いていたのか、また今日どのように聴こえているのかを意識せずにはいられなかった。そのこだわりが、本書を仕上げる唯一の機動力だったともいえるだろう。
  本書発売後の2月16日、上野の旧東京音楽学校奏楽堂で、私の拠り所でもある洋楽文化史研究会主催で「再現演奏会1941-1945――日本音楽文化協会の時代」を開催した。本書第2章で言及した社団法人日本音楽文化協会が何らかの形で関わった楽曲を中心に、第1部は寺嶋陸也のピアノや荒川洋のフルートによる器楽曲を3曲、第2部は栗山文昭指揮、コーロ・カロスの合唱による声楽曲14曲を演出付きで再演した。そこから聴こえてくるメロディーやハーモニーは、音楽の素晴らしさと表裏一体となった怖さ、社会と音楽文化の関わりを実感させるものであった。やはり音楽は、ナマの「音」で演奏し聴いてみないと本来の姿が理解できない。「Tokyo Cantat 2004オープニングコンサート」として開催された演奏会「《菩提樹》がうたいたい」のときに痛感した当然の事実を、改めて身をもって思わずにはいられなかった。本書の刊行と「再現演奏会」は意図して同じ時期に重なったわけではなく、偶然の結果だったのだが、本書で縷々述べてきた私自身の問題意識をこのタイミングで実際の「音」から考えることができたのは、本当に幸せであった。このような取り組みは、今後もぜひ継続していきたいと思っている。
「戦争の時代」の音楽は、その生まれた時代から現在に至るまで社会の荒波に翻弄され続けている。確かにその一部は「懐メロ」としてもてはやされた時期もあったが、受け手の世代の変遷とともに忘却の彼方へと葬り去られている。本書で取り上げた時代の音楽の営みは、その生まれながらにして背負わされた「重み」ゆえに、忌まわしい記憶、悲しい青春の記憶がないまぜになって人々の心の奥底に秘められている。「戦争の時代」を記憶している先達にとってはつらく苦しい思い出であることはよく理解できる。しかし昨今の社会の有り様を考えてみると、いまこそ歴史を正視し、その重みを再確認しなければいけない時期にあることもまた事実なのではないだろうか。そのためには「音」を再演し、また資料を読み込み、オーラルヒストリーを記録し、といった客観的かつ科学的で地道な作業を続けていく以外に方策が思いつかない。
  本書は、これまで書き溜めたのものを土台に現時点での総括を、と考えてまとめてみた。それであるために、試論や今後の課題を抽出して終わってしまっている問題も多い。特に戦後への見通しはこれからじっくりと見据えていきたいと考えている。
なぜ「戦争の時代」の「音楽文化」にこだわり続けるのか、自問自答の日々である。このこだわりは、私の意識のなかに通奏低音として響いている、イデオロギーや民族を克服してはじめて見えてくる人類究極の理想であるはずの「恒久平和」への祈りや願いを、自分なりに解決していきたいという想いを抱いているからなのかもしれない。本書で発信した課題を引き続き深化させていくことができれば……。まだまだたくさんの空白や課題が残されたままである。でも何より、いつも音楽は人々の慰安であり娯楽であってほしいと切に願うものである。

すべての人が表現者となったあとの絵画――『絵画の「進化論」――写真の登場と絵画の変容』を書いて

小田茂一

  19世紀前半に発明された写真術という新しい技による視覚表現は、「ゆらぐ」ものへの関心を引き起こし、まずモネの絵画に取り入れられました。そして、写真から映像へと複製技術による視覚メディアが「進化」していくなかで、絵画の表現もまた変容していくことになったのです。本書『絵画の「進化論」』では、この流れをたどったのですが、写真や映像の絵画への影響や融合によってもたらされるさまざまな表現には、いまの世の中でも大変関心が集まっているように感じます。この本を刊行する前後の2008年2月から3月にかけても、液晶画面上に絵画的表現をおこなう「液晶絵画」展(三重県立美術館)や、昭和初期に活躍した大阪の写真倶楽部の前衛的写真や写真をベースとした現代の作品を紹介した展覧会「絵画の写真×写真の絵画」(大阪市立近代美術館〔仮称〕心斎橋展示室)などが開かれています。複製技術の進展、さらにデジタル化は、手作業をよりどころとしてきた「絵画」というジャンルの表現手段にも変化を促し、作品は多様な方法によって表出されるものとなっているのです。
  ところで、多くの人が自身の体験として複製技術を利用する表現者となり始めたのはいつのころからでしょうか。筆者は、それは1950年代末から60年代にかけてのことではなかったかと考えています。デジタルカメラが普及し、写真と私たちとの関わり方が急激に変貌した近年の状況と同様に、アナログの世界で誰もが視覚メディアを使いこなすことはそのころに可能になったのです。筆者は自らの体験として、この最初の大衆化に遭遇しました。筆者の小学生時代の途中あたりから、カメラで写すことは急速にポピュラーなものになったのです。それ以前は、お金のかかる大人の趣味あるいは職業であったことが、子どもの領分にまで広がったのです。
  こうしたことから、現在のメディア受容者の多くは、自分でカメラを操ることが大衆化されて以降に成長してきた人々といえるのです。19世紀半ば以来、受容者としてだけ接するものだった視覚メディアは、その時期を境として、子どもの趣味のレベルから自らが発信できるものになったのです。そして草野球の腕前と同じようなものとして私たちに身についていったといえるでしょう。またそのころは、テレビの普及とも重なる本格的な映像化へのスタートの時期でもあったのです。このことも当然のことながら、絵画制作や絵画の見方に大きな影響をもたらさないはずがありません。また、表現者としての手法も描くことより、まず写し撮ることが一層身近なものになっていったのです。
  いわゆる団塊の世代は、スナップ写真を撮ることの大衆化の担い手となったのですが、その経緯に簡単にふれてみます。国内メーカーによるきわめて廉価なカメラが相次いで登場したことでこのことは引き起こされたのですが、わが国の子どもたちは、当然その中心となって恩恵を受けたといえます。具体的には、1957年に発売されたブローニ判の「フジペット」に始まって、59年になると、筆者自身もこれで写真撮影に興じた「ペット35」(富士フイルム)という安いながらも大変よくできたカメラ、そして35ミリフィルムをハーフサイズにして使った「オリンパスペン」という累計、1700万台を超えるシリーズなど、コンパクトカメラの一大ブームへと拡大していったのです。そこには、自動調整(Electric Eye)機能もついて、文字どおり誰にでも写せるものになっていきました。
  こうして画像を作り出すことまでが日常に入り込んできたのですが、そのことはまた、描くことが変質していくプロセスだったとみることもできるかもしれません。本書で言及しているように、表現すべき「視覚的現実の大部分が自然そのものであったモネの時代」から、「印刷物などが身のまわりに溢れる視覚メディア万能のゲルハルト・リヒターの時代」への移り変わりをもたらしたといえるでしょう。その結果、私たち現代人は、切り取られた画像や映像のなかの現実にこそ、「絵画」表現への新たなモチベーションを見出すことを迫られるようになったのです。そのことをさらに推し進めるインターネット時代のインタラクティブな環境のなかで、私たちの想像力は、新たな表現としてこれから何を生み出していけるのでしょうか。

沢田研二のココロザシ――『沢田研二という生き方』を書いて

佐藤明子

  昨2007年9月に京都会館でおこなわれた沢田研二のライブの模様を「まえがき」に書いた。
  今年60歳になる身体でステージを隅から隅まで走り回って歌い続けた終盤、彼が突然、思いっ切り「疲れたねー」と口にしたことに私は少し驚き、珍しいと感じたのだ。「ジュリー、それは言わないでよ、と思った」というファンの声もあったと知ったが、私はそれを「ジュリーは観客にブルースを伝えているのでは」と解釈した。
  大げさだろうか? 大げさだな、たぶん。だけどそれは、ライブ(人生)のなかで弱音を吐くことがあってもいいではないかというメッセージととれなくもない。
  もともと弱音ばかり吐いている人間があのような大スターにはなれないだろう、という前提がそこにはあるのだが、たとえばテレビでひきこもりの青年をさらしもののように引っ張り出してきて、よってたかって「いい仕事を見つけて今度こそ頑張れ」と一方向ばかりに励ます大人たちを見るにつけ、何か違うメッセージはないものかと思っていたものだから、沢田研二というスターのなかにそうしたココロザシを見つけたかったのかもしれない。
  彼は、ご存じのように、魅惑的な声はもとより女性的な化粧や衣装、きゃしゃな肉体、そして派手なパフォーマンスで芸能界のトップに立った人だ。それが近年は、きらびやかな衣装こそ変わらないものの、その下の肉体は「ただのオッサン」に様変わりしてしまった。それも、ダイエットを繰り返したあげく「力およばず、これまで!」となった結果だと聞いてはいるが、いまの彼は「これもありだよ」と言っているようにも見えるのだ(そのうえで無理のない努力は続けているだろうけど)。
同じように、彼はファンの心ない振る舞いに対して見過ごすことができずに指摘したり、「そんなこと言わなくても」ということまで口にする人だと聞いている。そうしたコミットを懲りずに繰り返すということは、相手に何かを期待するあまり、とは違う。本当はとことん覚めたところがベースにありながらも、「もうあきらめた」とは言わない彼のココロザシなのだ、きっと。

  最初のほうに入りづらいところがあるが、そこさえ抜ければあっけないほど読みやすい本になったと思う。人々がジュリーにさまざまな彩りをつけてきたように、それこそ解釈はいろいろであっていい、ジュリーファン以外にもぜひ手に取って楽しんでほしい。

「イケてないファンによるイケてないオッカケ録」か?!――『OSKを見にいけ!』を書いて

青木るえか

 アマゾンのカスタマーレビューで『OSKを見にいけ!』酷評されてます。☆1つです。ほぼ最低の評価です。「こんなもので本気で金を取ろうという、読者を舐めたような態度に心底がっかりさせられた。出版社も作者も猛省してもらいたい」そうだ。青弓社がどう考えているかはわからないが、私に関しては、確かに反省すべき点はある。
  このレビュワーさんは、この本が「ネットの日記をそのまま本にした」ことをたいへんに怒っていらっしゃる。確かに。そのお気持ちはとてもよくわかる。なんかズルされたような気がしますもんね。
  しかし、ネットの日記を本にした気持ちもわかってほしいなあと思う。何も労力を惜しんだわけではなく(いや、その気持ちがまったく一片もないといえばウソになりますが)ネットの文章を、どうしても紙に印刷された、本になったものを読みたかった。いや、それだって、自分でプリントアウトして綴じりゃいいだろうと言われそうだが、私は不器用で、プリンターに紙をまっすぐ入れたつもりでもナナメになってて印刷もナナメ、紙を折って綴じるのも丁寧にやったつもりなのに端が揃わなくてギザギザになったりして、うまく本の体裁にできないと思う。ちゃんとオフセットで印刷してあってちゃんと製本してある本になってほしかったのだ。なら、同人誌印刷専門の印刷屋で、タイトル箔押しでもなんでもしてつくれや、って話か。
  私は、他人が何かに熱中していることについて書いた本が好きで、各種マニア雑誌なんかは、その対象物については読んでいてもさっぱりわからないが、人が入れ込んだときの行動(それも、他人から見て“ヘンな”行動)をとってしまう気持ちはよくわかるので、とても楽しい。
  私は、人にモノを勧めるのがとても苦手なので、OSKを勧めるのも、正攻法でやるとぜったいにうまくいかないのはわかりきっている。好きなものをホメるのがうまくないのだ。ちゃかすのは好きなんだが。しかし、好きな人をちゃかして、その好きな人を怒らせてしまったことはなんべんもあってトラウマになってるので(それでもやめられないのだが)ここは避けたほうがいいだろう。ならば自分がOSKを好きで好きで入れ込むあまり、ヘンな行動をしちゃってる、というのをお出しするのがよかろう、となると、当時書いてた日記がいちばん、熱気むんむんでよかったのだ。しかし、これじゃあ読む人はワケわからんよな、と思ってそれなりに注釈もつけたりしたけれど、注釈読んだってワケわかりませんね、これ。お読みになった人はいったいどういう感想をお抱きになったのだろうか。ものすごく気になる。あ、だからその感想が☆1つか……。

 本になったものを読み返してみて、ああ、これも書けばよかった、あれも書けばよかった、と思うところはあんまりない。
  固有名詞の説明とか、ほとんどなってない。自分で読んだってワケわからんことを書いてると思う。でもこれ、誰もがわかるように書くとなったら、この10倍ぐらいの文章量が必要で、そんなものを読んでいるヒマは(私以外の人は)ないだろう。だとしたら、なんだかワケはわからないが、何かに熱中して前のめりになってる人間の生態を面白がってくれたらいい、かと思うのだ。あとこれは私の夫が言ったことなんだけど、この本は「イケてないファンによるイケてないオッカケ録」であり、そういう「人類の進歩になんら寄与しない」レポートなんてなかなか本になって売り出されない、まあ、一種の病態記録みたいなものであろう、けっこう貴重である、と。なるほど確かにそうだ。でも内容の「深刻さがまったくない」この感じは、やはり☆1つってことになるだろうか。☆1つがよほどこたえているらしい。
  悔いが残るとすると、なかに入れた写真だ。もっといっぱい入れたかった。それも大貴さんの写真を。「いま、あなたが興味のあることは何ですか?」と問われると私はしばし考えて、いちおう見栄みたいなものもあるしそれっぽいことを答えようとするのだが、ムリヤリ考えたって何も出てこず、結局は「……大貴誠です」としか言えない。大ちゃんは去年2007年の4月の松竹座で退団しちゃったが、後ろ向き、という意味ではなくて退団して1年たったいまでも「大貴さんのことしか考えられん」状況で、毎日大貴さんのことばっかり考えている。本のなかの文章は、意識的に大貴さんに関する文章を少なめにしたんだけど(文章がアツすぎて読む人に胸焼けを起こさせてはまずいと思った)、文章に合わせて写真を選んだので大貴さんの写真も少なめになってしまった。
  べつに内容と関係なくていいから、大ちゃんの写真を大量に載せればよかった。そうすれば、もっとこの本の、ワケのわからなさが増しただろう。でもそんなことしてたら、☆1つどころかマイナスにされたかもしれない。相当、☆の件では恨みに思ってるんだな、こいつは。

触媒と舞台装置しての国際展――『ビエンナーレの現在――美術をめぐるコミュニティの可能性』を書いて

暮沢剛巳

  奥付の「編著者略歴」でも触れたように、ここ数年来国内外でいくつかの国際展を観て回る機会があった。そのうち「越後妻有トリエンナーレ」に関しては今回かなりのスペースを費やして論じたので、ここではそれと別に「リスボン建築トリエンナーレ」について述べてみたい。
   私がリスボンを訪れたのは2007年6月のことだ。初めて訪れたヨーロッパ西端の街は直行便がないこともあって予想以上に遠かったが、その疲労の分だけ、冷えたビールやワインの喉越しもまた格別だった。到着して早々にホテルで体を休めた翌朝、私は早速地下鉄に乗ってトリエンナーレ主会場の最寄りであるオリエント駅へと向かった。駅を降りた眼前には人工的な海岸線が開けており、その一角に主会場の「ポルトガル・パヴィリオン」も確かに建っていた。
   このトリエンナーレでは、「アーバン・ヴォイド」を記念すべき初回のメインテーマとして掲げていた。EU加盟を果たし、万博やサッカー・ユーロ選手権などの大規模な国家的イヴェントを実現したポルトガルだが、戦後長らくファシズムの独裁体制が続いた後遺症が尾を引いてか、国民の生活水準は現在も加盟国中下位に低迷しており、都市の再開発はなかなか思うに任せないようだ。一方、「ポルトガル・パヴィリオン」の設計者でもある世界的巨匠アルヴァロ・シザを筆頭に、著名なポルトガル人建築家の多くは北部の地方都市ポルトを拠点としており、首都リスボンはこの方面でも影が薄い。リスボンに滞在していた数日の間、何度か市街地を歩き回る機会があり、昔ながらの古い街並みと再開発された新しい街並みとがいささかチグハグな印象を否めなかったが、その意味では「アーバン・ヴォイド」というテーマには強い必然性が感じられたことは確かである。
   さて、ではこの「アーバン・ヴォイド」というテーマに対してはどのような回答が可能だろうか。メイン会場の国別展示には計12カ国が参加し、都市模型や映像インスタレーション、パネル展示などによってそれぞれ思い思いの回答を示していたが、なかでも日本の展示が示していた回答はそのユニークさにおいて際立っていた。日本の展示は全体で4つのパートから構成されていたが、その中心を占めていたのは「皇居美術館」、すなわち皇居を一種の空虚に見立てたロラン・バルトの「空虚の中心」を独自に再解釈し、皇居という空間に国宝・重文級の美術品を集中させるヴァーチャル・ミュージアムの仮想プロジェクトだったのである。このユニークな展示が、多くの観客の関心をさらったことは言うまでもない。
   その後、リスボンでの大きな反響はメディアの報道などを経て日本にも伝えられ、11月には新宿の多目的スペースで現地とはいささか装いをあらためた展示がおこなわれた。また、内外の展示の様子や新宿展と並行して開催されたシンポジウムなどを収録した単行本が出版されることも決まり、縁あってシンポジウムに出席した私は、その単行本にも執筆参加することになった。単身で外国の国際展を観に出かけるというごくプライヴェートな体験から発した意外な展開にわれながら驚かずにはいられないが、今後はこの貴重な経験を通じて得た「皇居」や「空虚」、あるいはそれとは裏返しの「混沌」や「戦争」への関心をさらに発展させ、ぜひとも具体的な作業を通じて深めていきたいと考えている。
   本書で論じた「越後妻有トリエンナーレ」では農村部のコミュニティにおけるアートの可能性を、共に本書を作った「国際展の文化政治学」のメンバーで訪れた「光州ビエンナーレ」では過酷な政治的現実の記憶がアートへと翻訳される瞬間を垣間見た。国際展はアートとアートならざるモノの思わぬ出会いを演出する触媒であり、舞台装置である。第3回の「横浜トリエンナーレ」や「ヴェネチア・ビエンナーレ建築展」などが予定されている今年は、一体私は何を見ることになるのだろうか。