ギモン7:どうして美術館は作品を集めるの?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

コレクションをもつ美術館

 美術館に行くと企画展や特別展といった展示のほかに、「常設展」「コレクション展」「収蔵品展」などの名称でその美術館が収蔵している作品が展示されているのを目にしたことはあるだろうか。もしくは、美術館の中庭や外庭などにいつも同じ彫刻作品が置かれていることに気づいたこともあるかもしれない。あるいは、逆にその美術館に行けば必ず見ることができる、著名な作品を目当てに美術館に行くこともあるだろう。ルーヴル美術館に行けば、レナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を必ず見ることができる。東京国立近代美術館に行けば、横山大観、梅原龍三郎、萬鉄五郎、岸田劉生、藤田嗣治など美術の教科書で一度は見たことがあるような日本の近代美術の代表作を鑑賞できるだろう。また金沢21世紀美術館に行けば、レアンドロ・エルリッヒの、上から水面下にいる人々が見える内と外をつなぐ不思議な作品『スイミング・プール』がいつでも出迎えてくれる。
 ギモン1で見てきたように、美術館、あるいは博物館の成り立ちから考えても、貴重な美術品のコレクション(収蔵品)を一般の人々に広く展覧するのは美術館の重要な役割の一つである。そもそも美術館はなぜ作品を収集するのだろうか。現代の美術館のなかには、常設展示室などを企画展示室と別に設けてコレクションをもつ館と、それらをもたない館があるが、コレクションはなぜ必要なのだろうか。また、館所蔵のコレクションの展覧会(常設展)とコレクションを用いない企画展には、何か違いがあるのだろうか。本ギモンでは、コレクションをもつ美術館に着目して、作品の収集と常設展示が果たす役割について考えてみたい。

作品の保管・保存と活用

 ここであなたがアーティストだと仮定してみよう。あなたがある展覧会に向けて作った作品は、展覧会が終わったら、通常、どこに保管するだろうか。画廊などでの展覧会では、作品がめでたく売れてコレクターの手に渡ったりすることもあるだろうし、美術館での展覧会をきっかけにその館が収蔵してくれることもある。だが、必ずしも全部の作品が手元から離れるわけではなく、スタジオの隅に立てかけられたり、十分なスペースが確保できずに額から外されてキャンバスだけの状態で重ねられたり、あるいは彫刻作品の場合は、賃料が比較的安価な街中を少し離れた場所に倉庫を借りてそこに置いたりすることも多いだろう。そうした場所は、必ずしも24時間、温湿度管理されている場所とはかぎらないので、保管状態が悪いとカビが発生したり、虫に喰われたりすることも少なくない。その点、収蔵庫をもつ美術館であれば、温湿度管理が徹底されていて、こうした作品のダメージは最小限に食い止めることができる。また個人の美術コレクターのなかには、こうした温湿度管理ができる倉庫を所有していたり、あるいは美術輸送会社の美術倉庫を一部借りたりして、作品のマネジメントをしている人もいるが、そうしたコレクターはごく一握りである。またコレクションも個人の場合、保管場所が足りなくなったり、本人が亡くなったりするなどした場合、こうした個人コレクションを美術館に丸ごと寄贈することもよくある。同様に作家本人が亡くなった場合にも、遺族が美術館に寄託(1)、あるいは寄贈を依頼するケースも多い。このように美術作品をコンディションが良好なままで長期間保管することは、個人レベルでは難しいため、美術館が最終的な作品の受け皿になることはよくある。
 博物館法が定める「博物館」の定義は、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(2)」となっている。美術館はこの博物館に分類されるのだが(3)、「芸術に関する資料」である美術作品を収集し、保管し、展示することや、それらを調査・研究することは、美術館にとってはその活動の根幹をなすものだと言えるだろう。よって、美術館は外部からの寄託や寄贈を受けるだけでなく、自らも積極的に購入したり、寄託・寄贈へのはたらきかけなどをして収集活動をおこなっている。展覧会は作品がなければ始まらない。コレクションをもつ美術館は、こうして収集した作品をきちんとした環境で保管し、それらの調査・研究を深め、さらに展示して活用する、という活動を総合的におこなっている。もちろん、コレクションをもたない美術館であっても、企画展をおこなうために一時的ではあれど、作品を他館や個人のコレクターから借用したり、作家に現地制作を依頼したりすることで、作品をその期間だけ、会場に集めてくる。ただし当然ながら、企画展の場合は、展覧会終了後に作品は各々の場所に返却されたり、解体されたりして、美術館には残らない。一方で、コレクションをもつ美術館は、一度収集した作品は基本的には何十年でも、極端な話、何百年先でも保管し活用していくことを考えてコレクションを形成していく。こうしたコレクションをもつ美術館では、どのようなことを基準に作品を収蔵していくのだろうか。

何を収蔵するのか

 コレクションをもつ美術館では収集方針を定めていて、館のウェブサイトなどでも見ることができる。各館の収集方針を見ると、それぞれの館の特徴がよくわかる。例えば、現代美術を扱う館では、第二次世界大戦以降(1945年以降)の美術という方針を挙げていたり、あるいは地方にある美術館の場合は、その館が所在する地域の歴史的な文脈などを反映したり、地元の作家の作品を収集したりするなどして、地域の特性を生かした方針を挙げているところも多い。
 国内初の公立の現代美術館として1989年に開館した広島市現代美術館では、次の3つの収集方針に沿って作品収集と保存をおこなっている(4)。

1. 主として第二次世界大戦以降の現代美術の流れを示すのに重要な作品
2. ヒロシマと現代美術の関連を示す作品
3. 将来性ある若手作家の優れた作品

 同館では、1989年から3年に一度、「ヒロシマ賞」という「美術の分野で人類の平和に貢献した作家の業績を顕彰し、世界の恒久平和を希求する「ヒロシマの心」を現代美術を通して広く世界へとアピールすることを目的とした」賞を創設している。これまで三宅一生、ロバート・ラウシェンバーグ、クシュトフ・ウディチコ、ダニエル・リベスキンド、シリン・ネシャット、蔡國強、オノ・ヨーコ、アルフレッド・ジャー(5)など11人の国内外のアーティストが受賞している。ヒロシマ賞受賞作家は、同館での授賞式のほかに受賞記念展を実施しているが、このヒロシマ賞受賞作家の作品も同館のコレクション形成に大きく寄与している。このようにコレクションにあたっては、その館で実施された企画展などを契機として購入や寄贈などに結び付くケースも多い。
 また、伝統工芸で知られる金沢市に2004年に開館した金沢21世紀美術館では、以下の3つの柱を収集方針として挙げている(6)。

1. 1980年以降に制作された新しい価値観を提案する作品
2. 1の価値観に大きな影響を与えた1900年以降の歴史的参照点となる作品
3. 金沢ゆかりの作家による新たな創造性に富む作品

 このうち、3番目の金沢ゆかりの作家の作品(7)については、主に次の2つの観点から工芸作品を中心に収集されている。1つ目は、金沢出身、あるいは金沢在住経験がある作家、ならびに金沢美術工芸大学や金沢卯辰山工芸工房出身者の作品の収集である。2つ目は、伝統工芸の保護と育成に力を入れている金沢市が主催する国際工芸コンペの入選作や、新たな創造性に富む工芸作品を収集している。
 また同館では、美術館の建築の設計段階から、6つの作品がコミッションワーク(制作委託)として、設置場所を想定して美術館のために新たに制作されることがあらかじめ計画に組み込まれて、恒久展示されていることが特徴的である。冒頭に紹介したレアンドロ・エルリッヒの『スイミング・プール』はその一つである。このほか展示室の天井を四角く、くり抜いて、空の移り変わりを眺めるジェームズ・タレルの『ブループラネット・スカイ』や、アニッシュ・カプーアの覗き込むと吸い込まれそうな巨大な穴に見える『世界の起源』など、建物と一体となった作品が設置されている。
 このように各地の美術館では、それぞれが独自の収集方針に基づき、その美術館ならではのコレクションを形成しているケースが多い。もっとも、近年は収集予算が大幅に削減されたり、凍結されたりした館も少なくないのが現実だ。だが、そうした館も、展覧会予算で制作した作品を寄贈してもらったり、長年の丹念なリサーチを重ね、作家やコレクター、またその遺族などと信頼関係を築いたうえで、寄贈や寄託に結び付け、コレクションを充実させている館も多い。
 反対に現在所蔵しているコレクションを保管しておく収蔵庫のスペースが手狭になり、倉庫を別途確保するのに苦労している館もある。美術館のコレクションは、基本的に国公立の場合は、大きく言えば市民の税金から購入することになるので、一度収蔵すると国や都、市などの財産になり、売却などして手放すことはない。よって収集方針に沿って慎重に収集計画を立て、予算をにらみながら収集をおこなっていく必要がある。また収蔵した作品は温湿度管理が行き届いた収蔵庫で保管することはもちろんのこと、定期的に点検などをして、必要に応じて修復などをおこなわなければならない。近年は、保存修復を専門とする学芸員を置いている館も増えたが、そうしたスペシャリストがいない場合は、外部の保存修復家を定期的に呼んで、点検・修復をおこなっている。また、海外の展覧会などに長期で貸し出す場合は、事前にコンディションに問題がないかをチェックし、何らかのダメージが見つかった場合は、作品に負担がかからない輸送方法を考えたり、修復などの処置を施したりすることもある。このように経済的・物理的な制約を受けつつも、各館が掲げた収集方針に沿ってさまざまな検討やリサーチを重ねながら、作品が収集・保管され、美術館のコレクションを形作っている。

美術史の編纂

 ギモン1でも少し見てきたように、ニューヨーク近代美術館(MoMA)では早くから写真、映画、デザイン、建築などが展覧会で扱われてきただけでなく、それぞれの分野に独立した部門を設けてキュレーターを配し、これらの新しいジャンルの作品・資料も絵画や彫刻と同様にコレクションに加えてきた。いまでこそ写真や映像、建築、ファッションや家具などのデザインなどを美術館の展示で目にすることは当たり前のようになっている。だが、美術館の枠組みで何を展示するか、またコレクションに何を加えるかということは、すなわちこれらの多様なジャンルの作品を美術史のなかにどう位置づけるかという問題と直結している。例えば建築などの場合、一口に「建築をコレクションする」と言っても、絵画や彫刻と異なり、建物そのものをコレクションすることは難しいので、図面や模型、ドローイング、写真、映像など美術館で保管・展示できる形態で、かつ、その建築家、あるいは建築物の特徴をいかに捉えて後世に伝えていくかを考えていく必要がある。また建築物そのものは、築年数の長いものは年月とともに老朽化が進み、取り壊しになったり、建築家本人が他界して建築事務所が解散し、資料が散逸したりするケースもあるため、最終的にはこうした美術館などに収蔵された図面や模型などの資料が、そのオリジナルの建築物などを知る重要な手がかりになることもある。
 東京都写真美術館は、日本で初めて写真の専門的総合美術館として1995年に開館した。名前だけ見ると「写真」だけを扱っているように思われがちだが、同館では写真だけではなく広く映像表現や映像文化についても扱い、写真・映像作品を中心にしたコレクションを擁し、企画展もおこなっている。また2009年から毎年、美術館全館を使って、周辺施設とも連携しながら、「恵比寿映像祭」というフェスティバルを実施していて、展示、上映、ライブ・イベント、講演、トークセッションなどを複合的におこないながら、映像表現をあらゆる角度から取り上げ、広く共有する機会としている(8)。よって写真だけではなく、映像作品やメディア・アート作品、あるいは同館コレクションの一部である写真機材や初期の映像装置(レプリカや模型も含む)など、各年のテーマに沿って幅広い写真・映像作品が紹介され、その定義を常に問い直し、拡張・成長していく場になっている。
 東京都美術館は、その前身の東京府美術館の時代から本格的な収集はおこなわず、主に貸会場として美術団体の展覧会を長らく実施してきたが、老朽化に伴って館を建て直して1975年に再出発した。その際に学芸員が入り、本格的にコレクションを形成して、戦後の美術史を積極的に体系づける方向に大きく舵を切った。76年の「戦後の前衛展」を皮切りに、80年代には「現代美術の動向」というシリーズで「一九五〇年代――その暗黒と光芒」(1981年)、「一九六〇年代――多様化への出発」(1983年)、「一九七〇年以降の美術――その国際性と独自性」(1984年)など、戦後の日本の美術史を十年ごとにまとめながら振り返るような企画展を次々と打ち出していった。そして95年に東京都現代美術館が開館する際に、こうした展覧会を通して収集されてきた東京都美術館のコレクションが、東京都現代美術館に移管されていくことになった。
 韓国、中国、台湾などアジアと古くから交流が深い福岡市にある福岡市美術館は、開館年の1979年からアジア美術を紹介する「アジア美術展」を開催し、以後、約5年ごとに同展を実施すると同時にアジアの近現代美術をコレクションしてきた。そして99年には、そのコレクションを基に福岡アジア美術館が開館した。そして「アジア美術展」は「福岡アジア美術トリエンナーレ」という形で継承されている。また福岡アジア美術館は、アジアの作家や研究者を数多く招聘して、滞在制作やアジア美術研究に関する講演会・展覧会を開催するなど、交流事業も息長くおこなっている。福岡市美術館と福岡アジア美術館のこのような取り組みは、アジアの美術をどのように美術史全体に位置づけていくか、日本にアジアの美術をどのように紹介していくかという重要な役割を担っている。
 これまで見てきたとおり、何をどのようにコレクションしていくかは、美術館にとってはその館の性格を決めるものであり、作品にとってはそれが「美術作品」として美術史のなかにいかに位置づけられていくかを決めるものとなる。なかでも現代美術の場合は、作家が展覧会に向けて新たに制作した作品を収集することができる、というそれ以前の時代の美術作品とは大きく異なる一面がある。もちろん近代美術以前の美術でも、忘れられていた作家を調査・研究して発掘し新たな光を当てるという作業や、長年の研究に基づいて従来の解釈とはまったく異なる形で作家や作品を紹介するという作業はある。だが、現代美術の場合は、その表現手段や領域横断性も多様化の一途をたどっていて、そうした新しい評価が定まっていない作家や作品の評価をすることに常に直面することになる。美術館のコレクションにその作家の作品を収蔵することは、美術館にとって非常に慎重な判断が求められるが、それはコレクションするという行為自体が、作品や作家、そして美術館の存在意義においても試金石になってしまうからにほかならない。コレクションするということは、美術史全体をどう編纂していくのか、そして後世にどのようにそれらのコレクションを残していくのかという大きな問いに、美術館が日々、向き合っていることを意味するのだ。

コレクションの展示について

 各館で収集したコレクションは、収蔵庫にずっと眠ったままにしておくのではなく、調査・研究したり、実際に展示されたりして活用されていく。大抵の館は、常設展示室に収まりきれない点数の作品を数多く所蔵しているので、すべてのコレクションを一度に見せることはできない。また作品によっては、長期展示をしたあとはしばらく作品を休ませることでメンテナンスなどをおこない、より長期的に将来も保存・活用できる状態に保つことができる。
 コレクションをもっている館では、館の学芸員が常設展示室でコレクションを活用した展覧会を企画したり、また他館の展覧会にコレクションの貸し出しをおこなったりする。近年は、常設展示でもコレクションを活用して、企画展と同様に企画性が高い展示が多数おこなわれている。だが、一昔前は、常設展示室と言えば年代順・時代順に時系列でコレクションを見せることがごく一般的だった。その大きな変革の契機になったのは、2000年に開館したロンドンのテート・モダンの常設展示だった。
 旧火力発電所の建物をリノベーションして作られた7階建てのテート・モダンは、一フロアを有料の企画展示室、二フロアを無料の常設展示室としてスタートした(9)。その際に、常設展示室ではそれまで一般的だった年代順の展示ではなく、17世紀のフランス・アカデミーが確立した風景、裸体、静物、歴史という主題のジャンルに想を得たテーマ別の展示とした。開館時には、「風景、事物、環境」「静物、対象、実物」「ヌード、行為、身体」「歴史、記憶、社会」という四つのセクションに分けてコレクションが紹介された。このような展示方法は、観客の混乱を招くなどの批判を浴びた。なかでも、「風景、事物、環境」のセクションに展示されたクロード・モネの『睡蓮』の絵の前にランド・アートで知られるリチャード・ロングが石を円状に床に並べた作品『Red Slate Circle10(10)』を並置し、さらに同じ展示室内にテートが開館にあわせてロングに制作を委託した、泥で描いた壁画『Waterfall Line11(11)』も展示され、その斬新なアプローチは物議を醸すことになった。このように「風景」という主題を現代の環境問題や土地の歴史などと結び付けたり、「ヌード」というテーマを人体への関心やアクション・ペインティングとつなげて見せたりするなど、それぞれの主題を拡張しながら展示してみせることで、時系列・年代別ではなく、近代と現代を柔軟に交錯させながら美術史の多様な解釈を可能にしたテート・モダンの手法は、コレクションの新しい見せ方の一つの規範になった。

コロナ禍の常設展示

 この2年間、コロナ禍で、特に海外からの物流や人の移動が滞る事態になり、国内外の作品をほかから借用して実施することが難しくなった。緊急事態宣言などの影響で、美術館自体が休館になる期間も長く続いた。企画展の実施が中止や延期を余儀なくされるなかで、コレクションをもっている美術館はそのような状況を逆手にとって、創意工夫を凝らしてコレクションを活用した展覧会を企画してきている。東京都現代美術館では、2021年の3月から6月にかけてオランダ生まれでベルギーを拠点に活動しているマーク・マンダースの個展「マーク・マンダースの不在」を企画展で実施したが、緊急事態宣言が発令されてその会期の大半を休館せざるをえない窮地に立たされた。だが、開催期間の短縮を受けて、作家や所蔵者などの協力を得て、作品返却までの間、同年7月から10月にかけて同館の常設展示室の「MOTコレクション」で、3階部分を特別展示という形で、マーク・マンダースの企画展の出品作品の一部(同館のコレクションも含む)を用いながらも、企画展とは異なる展示構成で展覧会「マーク・マンダース 保管と展示」を実施した。また常設展示室の1階では、「Journals 日々、記す」と題して、人々の日常を一変させたコロナ禍や震災などの災害、オリンピックなどを背景に制作された作品と、日々の日常性から生まれた作品をあわせて展示した。

多様化する現代美術作品の収集

 ここまでは、絵画や彫刻など形が比較的はっきりしている作品の収集と保存、活用について主に見てきたが、現代美術の場合、その表現手段や使用する媒体も多岐にわたっていて、作家のインストラクション(指示書)に基づいた行為などを作品化するコンセプチュアル・アートなど、厳密な意味でモノの形をとらない作品も数多くある。例えば、東京都現代美術館の外庭にあるオノ・ヨーコの『東京のウィッシュ・ツリー(願かけの木)』は同館のコレクションだが、普段は紅葉の木が1本生えているだけで、そうと知らない人にとっては作品とは気づかれないことがほとんどだ。年に1回、ジョン・レノンの命日にあたる12月9日になると、白い願い札(願いごとを書く短冊)が用意され、来館した人がそれぞれの願い札を紅葉の木に結び付けて下げていくという作品である。この願い札はオノ・ヨーコのもとに送られ、アイスランドのレイキャビクにあるジョン・レノンに捧げた作品『イマジン・ピース・タワー』に納められる。つまりこのコレクションは、毎年12月9日に人々が願いごとを書いて参加し、それを送り届けるところまでが作品となっている。
 また、東京国立近代美術館のコレクションである冨井大裕の『 roll(27 paper foldings)』は、色とりどりの折り紙を1枚ずつ、くるっと丸めて両端をホチキスで留めてつなげた彫刻作品シリーズだが、その素材表記には「折り紙、ホチキス、指示書」とある。これは、市販の27色セットの折り紙を上から順に1枚ずつ使ってロール状にしていき、4本のロールを真四角状に組むなど立体的に組み合わせたものであり、作品ごとに折り紙27枚の組み合わせ方が異なる。折り紙の組み合わせ方は、全部で15通りあるが、このうち5通り分である5点が同館の所蔵となっている。折り紙に関する細やかな指定や組み合わせ方などは作家からの指示書に記されていて、展示するたびに新たに作ることもできる。つまり、折り紙そのものは代替可能であり、指示書そのものがコレクションの重要な一部を構成しているのだ。また基本的には、作家以外の人がその指示書に沿って作ることもでき、再制作に対して回数も制限されていないので、誰がどのタイミングで作り直すのかなど、所蔵者(この場合は美術館)にその判断を委ねられているユニークなコレクションである(12)。
 さらには、近年はギモン2で見てきたようなパフォーマンス作品なども収蔵の対象になっていて、そういった作品の収集・展示に対してさまざまな試みがなされてきている。次回のギモンでは、映像作品やメディア・アート作品など、機材や記録媒体などの変遷により保管や再展示に大きな影響を受ける作品や、パフォーマンス作品などの形が定まらない作品の収集や展示、再現展示などについて詳しくみていきたい。


(1)ちなみに寄託とは、ある一定期間(通常1年、ないし2年、また延長もあり)作品を美術館に預けることを指す。寄託期間を終えて、美術館と所蔵者との信頼関係が築かれてから寄贈となることも多い。寄託期間中でも、展覧会で展示したり他館への貸し出しを認めていることが大半である。
(2)「博物館法」第2条(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/014/shiryo/07012608/001.htm
(3)厳密には、国立館(独立行政法人)は、博物館法が定める「博物館」からは除かれているので、博物館法上は、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、国立新美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館の5館は、「美術館」という名称を用いているものの、博物館ではなく「博物館相当施設」である。この制度上の歪みは、現在も是正されていない。これは現行の博物館の登録の所管が教育委員会であり、国立館の設置主体が独立行政法人であることに起因しているが、1952年施行の博物館法の改正は、70年近くたったいまなお議論の途上である。
(4)広島市現代美術館ウェブサイト(https://renovation2023.hiroshima-moca.jp/about/
(5)第11回ヒロシマ賞受賞者のアルフレッド・ジャーについては、現在、広島市現代美術館が改修工事で休館中のため、2023年に同館での授賞式と記念展が予定されている。
(6)金沢21世紀美術館ウェブサイト(https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=97
(7)金沢ゆかりの作品、ならびにコミッションワークについては、『金沢21世紀美術館収蔵作品図録』(金沢21世紀美術館、2004年、p.Ⅴ)を参照。
(8)恵比寿映像祭については、ウェブサイト参照。「恵比寿映像祭とは」(https://www.yebizo.com/jp/information
(9)7階建ての建物は、開館当初は1階から7階と表記され、2012年の拡張時に0階から6階に改められた。開館当初の企画展示室は4階、常設展示室は3階と5階だった。また16年には、通称スイッチ・ハウス(Switch House)と呼ばれる10階建ての新館が併設され、そこでも常設展示や企画展示、教育普及プログラムをおこなっている。
(10)テート・モダン「Richard Long, Red Slate Circle」(https://www.tate.org.uk/art/artworks/long-red-slate-circle-t11884
(11)テート・モダン「Richard Long, Waterfall Line」(https://www.tate.org.uk/art/artworks/long-waterfall-line-t11970
(12)冨井大裕の作品については、東京国立近代美術館のMOMATコレクション(2021年10月5日―22年2月13日)の出品作品リスト、展示室内の作品解説テキスト、ならびに同館研究員の三輪健仁氏へのメールインタビュー(2021年10月27日)に基づく。出品作品リスト:「所蔵作品展「MOMATコレクション」」(https://www.momat.go.jp/am/wp-content/uploads/sites/3/2021/10/R3-2MOMATCollection_list_J.pdf

 

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第36回 花組100周年記念レビューからよみがえったニューヨーク公演の思い出

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 2021年も終盤にさしかかり、コロナ禍もようやく落ち着きをみせてきた昨今、宝塚歌劇も「ウィズコロナ」を徹底してほぼ通常の公演体制に戻りました。そんななか『宝塚イズム43』で小特集を組んだ花組100周年を記念したレビュー『The Fascination!』(作・演出:中村一徳)が、今年最後の公演として宝塚大劇場で上演されました。東京宝塚劇場では22年の年始の上演になります。
 花組といえば、1927年に日本最初のレビューとして有名な『モン・パリ――吾が巴里よ!』(作・演出:岸田辰彌)を初演、89年のニューヨーク公演でトップを務めた大浦みずきを輩出した組でもあり“ダンスの花組”というイメージが定着しています。『The Fascination!』もダンスには定評がある現トップスター・柚香光を中心にしたダンシングショーで、花組カラーのオールピンクで統一したプロローグから花をテーマに花組の歴史をつづった華やかなレビュー。数々の花組レビューにオマージュを捧げた名場面の連続で、軍服姿の士官が美少女に愛を歌う「ミモザの花」の場面や「すみれの花咲く頃」をフィーチャーした中詰めの場面など、「This is TAKARAZUKA」そのものでした。
 そのなかでもいちばんの注目は、1989年のニューヨーク公演の伝説のシーン「ピアノ・ファンタジー」(オリジナル振付:ロジャー・ミナミ)の再現でした。大浦が踊ったダンスを柚香がしなやかに再現、花組の伝統をいまに継承したのです。演出の中村は、ニューヨーク公演の前年、88年に試作公演として宝塚大劇場で上演された花組公演『フォーエバー!タカラヅカ』(作・演出:小原弘稔)の演出助手を務めていて、100周年のレビューを担当すると決まったときに、すぐこのシーンを再現しようと思ったそうです。
「ピアノ・ファンタジー」は都会的で洗練されたハイクオリティーなダンスシーンです。お手本はアメリカ映画にもあって当時はそこまですごいとは思わなかったのですが、いまあらためて観ると、ダンス力の向上もあって十分新鮮に映りました。演者がこの振り付けにようやく追いついたということなのかもしれません。
『フォーエバー!タカラヅカ』の演出家・小原は芝居とショーと両方で活躍した才人で、芝居の演出家の突然の退団で一公演の芝居とショーを一人で担当したことがある器用な人でした。芝居の代表作は、三木章雄に受け継がれいまも再演が絶えない『ME&MY GIRL』(1987年初演)があり、ショーはニューヨーク公演をはじめ『ザ・レビューII――TAKARAZUKA FOREVER』(月組、1984年)など、MGMのミュージカル映画のレビューシーンをそっくりそのまま再現した絢爛豪華なアメリカンレビューを得意としました。『ME&MY GIRL』では入団1年目の天海祐希を新人公演の主役に抜擢する大英断を下したのも小原です。ニューヨーク公演でも当時3年目だった天海を最下級生で起用、ラインダンスのセンターに抜擢しています。新宝塚大劇場のこけら落とし公演を担当後、しばらくして60歳の若さで亡くなりました。
「ピアノ・ファンタジー」を観て、ニューヨーク公演の思い出がよみがえりました。ニューヨーク公演で上演されたショー『TAKARAZUKA FOREVER』(試作公演とはタイトルが逆)は、宝塚歌劇団がニューヨークで初めて上演した洋物のショーでした。そこで小原は、手の内のアメリカ人なら誰でも知っているミュージカル映画の音楽やスタンダードジャズを駆使した正統派のアメリカンレビュー『ジーグフェルド・フォーリーズ』をそっくりそのまま再現したかのようなレビューを女性だけで上演するという大胆な挑戦に出たのでした。
 会場は、トニー賞授賞式などで知られる5番街にある6,000人収容のラジオシティ・ミュージックホールで、舞台のタッパもあり、60人の出演者が少なく感じるほどの大ホールでした。1989年10月25日から公演は5日間だったと記憶しています。世界中のエンターテインメントが所狭しと上演されているニューヨークで、ラジオシティでの5日間の公演を現地の人に周知徹底するのは至難の業。現地の電通支社がニューヨーク在住の日本人商社マンの家族らに動員をかけたのは有名な話ですが、それでも満員にはならず、ニューヨーク在住の演劇プロデューサー・大平和登の尽力で「ニューヨーク・タイムズ」に批評が出たことでやっとニューヨーカーにも認知されました。しかし5日間の公演では口コミもままならず、評判が立ったときには終わっているという感じではありました。
 当時のブロードウェーは『キャッツ』『オペラ座の怪人』『レ・ミゼラブル』といった質・量ともに最高のロンドンミュージカルが席巻していたときで、いわゆるレビュー感覚のショーの上演は皆無でした。そこへ突然、東洋の女性ばかりの劇団がシルクハットに燕尾服姿で登場したわけですから、なんともアナクロにみえたのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っていました。
 初日の模様を取材するために日本からも報道各社が同行、そのなかの一人として私もいましたが、劇場前にサーチライトが輝き、着飾った招待客がリムジンから次々に降り立つ映画などでよく見る初日風景が展開され、日本物の演出を担当した植田紳爾が「晴れがましいですねえ」と興奮ぎみに話していたのをよく覚えています。これはニューヨーカーにとっても久々に見る光景だったみたいで、昔の華々しいブロードウェーが再現されたようです。
 初日の観客の反応は、燕尾服姿の男役スターがステップも軽やかに大階段から降りてくるところで「ウォーッ!」という最初の歓声が起き、レビューの定番曲「プリティガール・ライク・ア・メロディー」が流れると客席全体が一緒に口ずさむなどショーを心底楽しんでいる様子があり、フィナーレの大きな羽を背負った大浦が登場すると、場内総立ちのスタンディングオベーションとなったのでした。終演後、銀髪の白人女性から「これがショーの本来のあり方。日本人のあなたたちが証明してくれた。ありがとう」と握手を求められたことが忘れられません。こんなノスタルジックなレビューをいまどきニューヨークで上演して笑われないだろうかと半信半疑だった私の思いをこの女性は見事に打ち消してくれ、小原の大胆な冒険は報われたとこのとき思いました。ただ一般の観客の興奮ぶりとは裏腹に、宝塚歌劇の本質をよく知らない批評家が書いた評が日本に打電され、国内ではまるで失敗したかのように伝わったのは残念なことでした。
 宝塚歌劇団としてはこの雪辱のため、2000年代初頭から長期間のニューヨーク公演を水面下で準備していたのですが、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が勃発。以降、情勢が悪化し景気の低迷もあって頓挫、OGたちによるミュージカル『CHICAGO』(2016年)の公演という番外公演はありましたが、本体の公演はいまだに実現していません。いつの日か再びニューヨークでタカラジェンヌが活躍する舞台を観たいものだと、今回の「ピアノ・ファンタジー」再現を観て思いをはせたのでした。
 さて、『宝塚イズム44』は現在、すべての原稿が集まり、鋭意編集作業に入っています。巻頭特集は、各組が新体制に生まれ変わり2022年はどんな展開になるか、膨らむ期待の分析です。12月末で退団する星組の人気スター・愛月ひかるのサヨナラを惜しむ特集や真彩希帆ロングインタビューなど、今号も読みごたえ十分です。新年早々にはお手元にお届けできると思います。楽しみにお待ちください。

 

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ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

赤ちゃんと一緒に楽しめる展覧会

「こどものにわ」は、テーマパークのようなイメージのこども向けの展覧会ではない。テーマパークには遊び方に答えがあらかじめ用意されているが、美術館の展覧会に「正解」はない。訪れた人々が、それぞれの楽しみ方を主体的に探して、それぞれの答えを見つけてもらうことが必要になってくるので、ある意味、不親切だ。そのかわり、小さなこどもでも親しみやすいように、視覚的にインパクトのある作品や体全体で感じる作品、参加型の作品を中心に展示した。一口に「こども」と言っても年齢によって大きく差があり、特に乳児などは、月齢によって発達段階も非常に大きく異なる。そこで、それぞれの発達段階に応じて、必要であれば、大人がこどもに声をかける、こどもと一緒に何かを体験するなど、さまざまな年齢層の人たちが関わりをもちながら鑑賞できるような作品を参加作家と話し合いながら具現化していった。
 展示は、大巻伸嗣の作品から始まる。大巻は、空間全体を生み出すような作品を通して、日常と非日常の境界を創り出す。展示室に入ると、絶滅危惧種の花を白の修正液と水晶の粉で球体に描いた『Echoes-Crystallization』が神秘的な空間を構成し、鑑賞者を静かに異世界への入り口へと誘う。そして、白い薄布をくぐると、床一面に色とりどりの花模様『Echoes-INFINITY』が広がる。美術館の絵は壁に展示してあるものが一般的だが、大巻の絵は、こどもの目線により近い床一面に広がる。絵を踏みつけるというタブーは、大人でもそうそうある機会ではないので、新鮮な体験だ。床一面の花は、柔らかな白いフェルトの上に顔料で描かれているので、時間の経過とともに踏まれて、その輪郭は次第にぼやけていく。また、部屋の奥に進んで振り返ると、柱の一面に床と同じようにフェルトに描かれた作品がアクリルのパネルで額装されて展示してあり、展覧会が始まる前の時間を留めている。
 出田郷は、視覚などの人間の知覚、身体と空間の関係などをテーマにきわめてシンプルな手法で、しばしば光を用いて作品を作っている。縞模様は、理由はわかっていないが、赤ちゃんが好むことで知られ、乳児の視覚実験などに用いられている(28)。『lines』は四面の透過性スクリーンに映し出すアニメーションの作品で、白黒の縞模様が幅を変えたり、伸び縮みしたり、縦縞から横縞へ変化したり、回転したりする。四方を囲まれた空間のなかにいる人は、周りの空間の視覚的な変化によって、自分が浮遊するような錯覚にとらわれる。『reflections』は、約8,000枚のアクリル・ミラーが埋め込まれた6メートル四方のウレタンマットの床面を歩くと、光の反射が万華鏡のように壁や天井に広がる作品だ。自分の動きにしたがって、影もキラキラとうごめく。赤ちゃんの明るさに対する感度は、色の識別よりも早く、生後2カ月から5カ月の間にすでに大人と同等の高度なレベルをもつとわかっている(29)。
 サキサトムは、日常生活でのなにげない一コマや異文化での所作、習慣の違いなどを映像やインスタレーションを通して表現してきた。「こどものにわ」では、異世代の差異に着目し、乳幼児の視覚世界を再現することを試みた。『ガーデン』は、作家が住むロンドンの夏の庭で、半径3メートルというごく狭い世界を16ミリフィルムで撮影した映像作品だ。庭に咲く花や焦点が合っていない事物の断片的な映像は、自分の周りの世界を少しずつ知り始めるこどもの認識世界や、非常に限られた自分の身近な世界が、世界のすべてだった頃の時間を象徴するようだ。一方、『メーヤの部屋』は、誰もいないはずのこども部屋で無機質なビニールの青い筒が動くことで繰り広げられるファンタジーを映像化し、床に置かれた2台のモニターで時間をずらして映し出す。最近の実験で、10カ月の赤ちゃんでも、テレビ映像と実物の区別をしていることがわかってきた(30)。モニターのなかで、生き物とそうでないもの、現実世界と空想の世界、映像世界と実世界が交錯する。サキの映像世界は、こどもがリアルタイムで経験しているこどもの時間と、その視覚世界や心象風景をある種懐かしく思い起こす大人の時間を詩的に重ねていく。
 広場のような高さ19メートルの広い吹き抜け空間で、KOSUGE1-16は、見知らぬ者同士の間でコミュニケーションが生まれる仕掛けを3つの作品で表現した。まず初めに目に飛び込んでくる高さ約6メートルの『大きな木(小)』は、木陰で休む要領で木の根元に集うと、カラフルな毛糸の毛虫が上下する。中央に設置された『AC-MOT』は、両手で遊べる卓上用のサッカーゲームが、一人一選手で操作するまでに拡大され、総勢12人で遊べる巨大なサッカーボードゲームだ。選手を操作する棒が重いので、小さなこどもが遊ぶには、大人の助けが必要になる。3つ目の作品『サイクロドロームゲームDX』は、身体能力が異なる大人とこどもが真剣勝負できるユニークな作品だ。大人用自転車1台とこども用自転車2台、三輪車が1台設置されていて、それぞれが自転車や三輪車をこぐと、ペダルからシャフトとチェーンで動力が伝わって、小さなサイクリストの人形が周りのコースを猛スピードで駆け抜ける。
 建築家の遠藤幹子は、KOSUGE1-16の作品の周りに、親子が一緒に楽しめる交流型の空間『おうえんやま』を創り出した。壁沿いに広がる「おおやま」と、その前に「こやま」が2つそびえ、ところどころに巨人の足のイメージのクッションが配されている。「おおやま」と「こやま」は黒で塗装され、チョークで自由に落書きができるようになっている。また「こやま」にはところどころに丸い穴が開いていて、その周りには、巨大人間の身体が描かれ、穴から顔を出すと、あたかも自分が巨大人間になったように見える。巨人の足のクッションは、こどもにとっては遊具となり、大人にとっては一息つく場所になる。

遠藤幹子《おうえんやま》(2010年)とKOSUGE1-16《AC-MOT》(2006/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館

「こどものにわ」から「みんなのにわ」へ

「こどものにわ」がオープンしてしばらくすると、特別支援学校から来館の問い合わせが多数入るようになった。ベビーカーに優しい展示は、車椅子利用者にも優しい。また赤ちゃんが楽しめる展示は、知的障害をもつ人にとっても楽しめる展示だったのだ。異世代が自由に交流しながら楽しめる展示は、普遍的なデザインである、ユニバーサル・デザインの考え方を想起させる。ユニバーサル・デザインは、「年齢、性別、能力、環境にかかわらず、できるだけ多くの人々が使えるよう、最初から考慮して、まち、もの、情報、サービスなどをデザインするプロセスとその成果(31)」を指す。赤ちゃんから楽しめる展示を考え始めると、結局はほかの世代の人々、多様な背景をもつ人々が楽しめる展示について考えさせられる。もちろん、デザインと違ってアートという嗜好性に左右される分野ですべての人に受け入れられる展覧会というのは、不可能に近いのかもしれない。だが、一つの展覧会でも、さまざまな世代によって楽しめ、かつ、その楽しみ方が異なる、という展覧会のあり方を模索することは、パブリックな場としての美術館の役割を問い直すことにつながる。ニコラ・ブリオーは、『関係性の美学』のなかで、開かれた展覧会のあり方が必ずしも凡庸になるとはかぎらないと述べ、「あるイメージを前にして感じるこどもらしい純真な驚きと、そのイメージが引き起こすさまざまなレベルの解釈の複雑さ」の間にある理想的なバランスを探ることの可能性を示唆している(32)。作品に対峙してその美しさに感動したり、作品に込められたメッセージを読み取ったりすることは、美術に触れるうえで大切な経験である。そして同時に一緒に作品を観ている(あるいは、一緒に参加している)他者との関係を築くことを許す美術や展覧会の方法論は、小さなこどもや、こども連れの大人を優しく招き入れる。人々が集うアートの庭で、さまざまな人が関わりながら、単に鑑賞するだけでなく、互いに交流するきっかけになれば、子育て支援の観点からも美術館という場がもつ可能性が広がるだろう。アートが、日常とは異なる自由な空間と時間を生み出し、人々にこれまでとは異なる形での交流を促す。
 乳児は、近年、「人間の心の起源を科学的に研究する上で重要な研究対象とみなされるようになってきている(33)」。日本では、2001年に日本赤ちゃん学会が創設され、これまで脳科学、発達心理学などそれぞれの専門分野で扱われてきた乳幼児の心や体に関する研究を、医療や心理学だけでなく工学、社会学などさまざまな分野から多角的に考えていく「赤ちゃん学」が徐々にその成果を積み上げている(34)。美術に関しては、08年の小学校の図画工作の学習指導要領の改訂で、これまでの「表現」に加えて「鑑賞」にも重点が置かれるようになった。就学前の乳幼児に関しても、赤ちゃん学などと今後連携して美術鑑賞が赤ちゃんに与える影響などが研究できれば、赤ちゃん学にとっても美術教育のうえでも、新しい発見をもたらす大きな可能性を秘めていると言えるだろう。

「こどものにわ」を実施してから4年後の2014年に「ヨコハマ・パラトリエンナーレ2014(35)」(略称:パラトリ)という障害者と現代アート作家による協働プロジェクトの美術部門のキュレーターを務める機会に恵まれた。それまで障害がある方と身近に接する機会がほとんどなかった私にとっては全く未知の世界で、当然ながら新たなチャレンジの連続だった。なかでも最初のつまずきは、「協働/コラボレーション」というコンセプトだった。背景が異なる者同士が「みんなハッピーにコラボレーション」などとなるはずはなく、表現と表現のガチ勝負、個性と個性のぶつかり合いで、予定調和とは程遠い異なる価値観、世界観を共時的に提示するのが精いっぱいといった企画だった。しかしだからこそ、それまでになかったユニークな表現が数多く生まれたことも確かだった。パラトリに参加したギリシャ人アーティストのミハイル・カリキスは、特定の人が「disabled(「障害」の訳語で、不能、能力が欠如しているの意)」なのではなく、私たちは皆、「differently abled(異なる能力をもつ)」であると表現すべきではないか、と述べたが、非常に的確な指摘だと思う。また日用品から驚くほど小さくて精巧な作品を生み出すことを得意とする岩崎貴宏は、制作のリサーチのために織物の作業をおこなっている福祉作業所や特別支援学校を訪れた。そしてそこで求められている丁寧に織り目がそろった織物には目もくれず、糸の太さや色の組み合わせがバラバラな大胆な織りや、はみ出した糸が未処理のままにしてある織りに興味をもった。織り目がそろった織物は、バッグやポーチなどほかのものに加工して販売しやすいので、作業所ではこうしたものが推奨される。だが、福祉の世界では少数派である、織り手の個性や、そのときどきの心の動きがそのまま反映されている自由な織りのほうが、岩崎の琴線に触れたのだった。施設や特別支援学校に日々通う障害者の多くは、社会への適応を最終目標としている。だが、さまざまなこだわりやはみ出した織り目こそ面白い、美しいと評価する現代アートの価値観は一石を投じる。アートを通したパラトリの取り組みは、障害者を社会に適応させるのではなく、障害者が生きやすい場所になるように社会のほうを変えていくためのヒントを見いだすきっかけになったはずだ。

崎野真祐美×岩崎貴宏 《Out of Disorder》(2014年)
撮影:麻野喬介、写真提供:ヨコハマ・パラトリエンナーレ2014(横浜ランデヴープロジェクト実行委員会)

 これまで本ギモンでは、赤ちゃん向けの展示があるのか、ということについて見てきたが、その答えは「ある」と「ない」の両方と言えるかもしれない。東京都現代美術館では、「こどものにわ」をきっかけとして、現在に至るまで、乳幼児を対象とした企画展がシリーズ化され、各学芸員の関心と独自の視点を反映させながら、発展的に継承されている(36)が、それは「ある」の何よりの一つの証拠だろう。一方で、乳幼児を対象とした展示が特別支援学校の生徒にも受け入れられた例からもわかるように、一つの展示が企画した本人も予期しない形で新しい方向に広がっていくこともある。またそれが展覧会の醍醐味でもあったりする。パラトリでもアーティストと障害者の協働を通して、社会的包摂について、キュレーター、アーティスト、福祉施設職員、障害者自身やその保護者など、それぞれが思いも寄らない学びと刺激を受けることになった。展覧会は、異質なものを受け入れる寛容さを知る場でもある。展覧会に行く、ということがもっと身近なこととして、あらゆる世代のあらゆる背景をもつ人々の生活に根づいていくとき、「こどものにわ」は「みんなのにわ」へとのびやかに解放されていくだろう。


(28)前掲『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』130ページ
(29)同書133ページ
(30)旦直子「乳児における映像メディアの認識の発達」KAKEN 2004年度実績報告書、東京大学(https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-02J07003/02J070032004jisseki/
(31)関根千佳『ユニバーサルデザインのちから――社会人のためのUD入門』(Nextシリーズ)、生産性出版、2010年、140ページ
(32)Nicholas Bourriaud, “Relational Aesthetics,” (for the English translation), Les presses du réel, 2002, p. 58.
(33)前掲『乳児の世界』1ページ
(34)「日本赤ちゃん学会」(https://www2.jsbs.gr.jp/
(35)「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」(https://www.paratriennale.net
(36)「こどものにわ」の後にこども展シリーズとして企画された同館の展覧会に「オバケとパンツとお星さま――こどもが、こどもで、いられる場所」(2013年)、「ワンダフルワールド――こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展」(2014年)、「おとなもこどもも考える――ここはだれの場所?」(2015年)、「あそびのじかん」(2019年)、「おさなごころを、きみに」(2020年)がある。

 

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ローカル放送の送信所――『日本ローカル放送史』を出版して

樋口喜昭

 日本には多くのローカル放送局があります。全国組織のNHKは各地にローカル放送局を置いていて、民間放送は都道府県にローカル放送が免許されて広告放送をおこなっています。ローカル放送は、多くの番組を東京の放送局で制作されたものに頼っていますが、独自に制作したローカル番組をエリア内に向けて放送しています。
 インターネット全盛の現在に場所や時間が制限されたコンテンツにアクセスするということは、不便極まりないと感じるかもしれませんが、その場所に行かないと見られない、その時間にならないと始まらないというメディア体験は、ご当地料理を味わうような魅力も感じます。
 なぜ地上波放送は場所に縛られているのか。そして、なぜこのように全国各地に存在し、活動を続けているのか。その詳細については本書を読んでいただくとして、ここでは、本書ではあまり触れていない話のなかから、放送というシステムのハードウエアである「送信所」のお話をしたいと思います。

電波を出す塔の存在

 放送番組は、最近ではインターネットでも一部、同時に再送信されるようになってきましたが、放送というメディアは、放送局が送信した電波を、みなさんがテレビ受像機やラジオ受信機で直接受信して視聴することで特徴付けられます。ですので、送信所の電波塔(電波が発射される設備)は情報の源と言えます。発射される電波に乗った番組の華やかさに比べれば、多くの送信設備は非常に地味で、多くがその地域が見晴らせる場所にひっそり佇んでいます。
 一方で、都市のイメージを形成する風景の一部になっている送信所も存在します。東京タワー、東京スカイツリー、名古屋テレビ塔、さっぽろテレビ塔、といったように、もはや電波を出しているかは関係なく、観光施設としての地位を築いているものもあります。また、仙台の大念寺山のタワー群のように山頂にそびえライトアップされた電波塔も、塔の存在がその土地の景色の一部になっています。地デジ化後に本来の役目を終えたタワーもありますが、現在でも地元に愛され、車窓からその姿が見えると、その土地に来た実感を与えるランドマークになっていると言えましょう。
 このような放送用の送信所の存在は、大都市に限った話ではなく、中継局も含めれば実に多くの送信設備が全国各地に建てられています。なぜ、送信所がこれだけ多く建てられているのか。それは日本の地形に関係があります。
 日本は小さな島国ですが、周りを海に囲まれ、狭い地表にはいくつもの山脈が走っています。特にテレビ放送が利用している電波は、光と同様、基本的に送信所からの見通し範囲でしか届きません。放送をより多くの世帯に届けるには、山で隔てられたエリアごとに送信アンテナを設置する必要があり、その結果、多くの送信所が建てられました。それでも電波が届かない集落では共同受信アンテナを建てるといった方法で、全世帯が受信できるよう環境の整備がなされてきました。これまで日本の放送の最大の功労者は、送信受信技術者だったと言っても過言ではありません。

Googleストリートビューでの送信所巡り

 さて、本書で使用したカバー写真は、担当の方に選んでもらったパブリックドメインのうちの一枚で、静岡県島田市にある中継局のもの。実際にどの角度から撮影したものかは、Googleのストリートビューで確かめることができます。直接行かなくても送信所巡りができる、いい時代です。

「Googleストリートビュー」(https://goo.gl/maps/czrwwP39ngjPvf4D7)[2021年9月2日アクセス]

 早速、ストリートビューを使って、“金谷お茶の香通り”という道を島田中継局がある一帯に近づいてみます。写真では気がつきませんでしたが、その一帯は一面のお茶畑。ご当地感が出ます。さらに近づいていくと、カバーの右に写っている赤白の鉄塔は、NHKとK-MIXという静岡県域のFM放送のものとわかります。さらに進むと、いくつかの通信用の鉄塔を過ぎて、テレビ静岡の中継局が見えました。近くまで近寄れないのですが、お茶畑のなかに美しく自立しています。
 このようにバーチャルで送信所巡りをしていると、地デジ化以後、移転したり使用されなくなったりした送信施設が結構あることがわかります。今後、インターネットを利用した放送番組の送信が一般的になり、放送の送信所がどのように扱われるのか、そしてこれまで原則県単位ですみ分けられてきたローカル放送がどのように変わっていくのかに注目しています。

廃止されるAMラジオ、撤去される送信所

 山頂付近に建てられた鉄塔以外にも、平地にも放送用の送信所が存在しています。AMラジオ(中波放送)用の送信所で、使用している電波の波長が長いために長いアンテナ本体をワイヤーで支える構造で、自立型の塔のように目立ちはしませんが、長年各地でのラジオ放送の送信を担ってきました。写真は、福島県の会津若松市にあるNHKのAMラジオの送信施設です。住宅街にひっそりとあります。歴史は古く、戦時期の1942年に作られ、会津地方にAMラジオを送り届けてきました。

「Googleストリートビュー」(https://goo.gl/maps/T7JQEHwioNQ1j75Z9)[2021年9月2日アクセス]

 一時このアンテナをめぐって騒動がありました。白虎隊が自刃した地として有名な観光地である飯盛山から若松城(鶴ヶ城)を見ると、ちょうどアンテナがかぶって景観を損ねるというのです。観光のために撤去するか、送信施設を守るか。戦前から現存する電波塔に対して、当時の市長は「昭和の激動時を伝えてきた電波塔。全国的にこうした構築物を近代遺産として保存する動きもあり、今後も市民・観光客の声を聞いていきたい」(「福島民報」2011年12月7日付)と述べて撤去はされませんでした。

飯盛山より望む会津若松市街地。よく見るとお城に重なる電波塔
(出典:「飯盛山 (福島県)」「wikipedia」〔https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)〕[2021年9月2日アクセス])

 今年6月15日、全国の民間AMラジオ47局のうち44局が、2028年秋までにFMラジオに転換を目指すことを各局が加盟する「ワイドFM(FM補完放送)対応端末普及を目指す連絡会」が発表しました。すでに、多くのAMラジオ放送はワイドFMでも同時に送信(FM補完放送)されるようになっていて、将来的にAMラジオは完全に停波し、送信所も撤去されることになります。平地に広い土地が必要なAM送信設備は更維持コストもかかることから時代の流れと言えばそれまでですが、場所によっては戦前からの放送の歴史とともに歩んできた送信所が消えていくことを寂しくも感じます。
 地域での放送局のあり方を問う際には、経営面や番組といったソフト面に注目が集まりがちですが、送信所や放送局舎というハードウエアが、これまでその地域でどのような存在だったのかにも注目していきたいと考えています。

樋口喜昭(東海大学文化社会学部広報メディア学科特任教授、TarTaruVision代表)研究ページ:https://researchmap.jp/yoshihiguchi

 

第35回 第6の組「夢組」始動

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 人気絶頂のトップスターも数年で退団という宿命を抱える宝塚歌劇団。以前は、退団=結婚という未来図が普通で、トップスターの退団理由も「結婚準備」なるいまや死語のような理由がまかり通っていました。
 21世紀も20年も過ぎた現在、トップスターの退団は「後進に道を譲る」というのが本当のところで、退団後は宝塚で培った舞台人としての経験を生かして、芸能活動に進むか、ダンスや声楽などの教師など様々な職業に転職するなど、結婚して家庭に入るというケースは逆にまれになってきました。
 ただ、宝塚を卒業したからといってトップスターや一芸に秀でた実力派以外は、ミュージカル全盛の現代とはいえ、そうそう仕事が舞い込むわけではありません。ただ何人かが一緒になると元タカラジェンヌの威光は捨てたものではなく、集客もばかになりません。そこで、あちこちでOGを中心にした公演のようなものが活況を呈しています。
 宝塚歌劇団としては、退団後のスターたちの芸能活動については一切干渉することなくオープンですが、昨今、元タカラジェンヌを売りにした公演が増加、悪質な芸能事務所によるトラブルなども表面化し、しばしば問題になってきました。そこで、宝塚歌劇団の親会社・阪急阪神ホールディングスは、歌劇団を卒業して芸能活動を続けようという意思があるOGのために、彼女たちが安心して第二の人生を歩めるようにサポートしようという新たなプロダクション「タカラヅカ・ライブ・ネクスト」を昨年4月に立ち上げたのです。
 人気絶頂で卒業したトップスターたちは系列の梅田芸術劇場が預かり、退団後の最初の仕事はここからスタートするのが、このところの定石になってきています。しかしこれは、あくまで人気があるトップスターに限られていました。タカラヅカ・ライブ・ネクストは、実力があっても在団時には十分に活躍できなかった人たちに第二のチャンスの可能性を広げてあげようという狙いも含めて設立されました。2025年に大阪で開催される万国博覧会に向けて、OGメンバーによる何らかのイベントをいつでもできる体制を整えておきたいという親会社の意向も見え隠れします。
 現在、元星組の音花ゆり、元宙組の純矢ちとせ、同じく元宙組の澄輝さやとら7人が在籍していますが、この9月、東京・日本青年館と宝塚バウホールで退団したばかりの元雪組の人気スター・彩凪翔を迎えて旗揚げ公演『アプローズ――夢十夜』(作・演出:三木章雄)が上演されました。
 彩凪を中心にライブ・ネクストメンバーからは音花、元月組の貴千碧、元雪組の透水さらさ、元宙組の風馬翔、元雪組の星乃あんりの5人が出演。元雪組の笙乃茅桜、元宙組の星吹彩翔がゲスト出演。東京公演は元月組のトップスター・彩輝なお、宝塚公演には元雪組の水夏希が特別ゲストとしてお祝いに駆け付け、各9人というこぢんまりとしたコンサートでした。
『セロ弾きのゴーシュ』をベースに、スターとして再出発を夢見る青年が古びたオペラ座でそこにすみついた舞台の精霊たちに新たな出発を後押しされるという、退団間もない彩凪の今後に重ね合わせた内容で、音花と透水は歌、貴千と笙乃はダンス、風馬・星乃は芝居とダンス、星吹は芝居と歌とそれぞれの特徴を生かした活躍ぶりで、メンバーのショーケース的な公演にもなっていました。
 彩凪の退団後初の本格的ステージということと、彩輝や水といったトップスターの出演もあって公演は完売の人気。宝塚の公演はライブ配信もおこなわれるなどOG公演としては破格の扱いで、さすが親会社肝いりの旗揚げ公演だけありました。
 今後はコンサートだけでなく、ストレートプレイや朗読劇、リサイタルといった公演も視野に入れるといい、宝塚で培った様々な表現のスキルを存分に発揮、在団中にはできなかった形で披露する機会もでき、無限の可能性が考えられます。
 いわゆる第6の組「夢組」構想ともいうべき展開で、トップスターを頂点に二番手、三番手という形態の組ではなく、宝塚を卒業したタカラジェンヌにもっと自由に活躍できるフィールドを提供しようというまったく新たな組になりそうです。
 卒業後も自分たちでハンドリングしようという親会社の意向は透けて見えるのですが、これまでは卒業したら他人みたいな、OGたちへの支援という意味では一歩前進したといえるのではないでしょうか。
『宝塚イズム44』(2022年1月刊行予定)では、第6の組・夢組(タカラヅカ・ライブ・ネクスト)の話題にもふれながら、コロナ禍のなかをなんとか順調に公演を重ねる宝塚歌劇の新しい年に向けた動きを探っていきます。楽しみにお待ちください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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ギモン6:赤ちゃん向けの展示ってあるの?(第1回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。企画した主な展覧会に「坂本龍一:seeing sound, hearing time」〔2021, M WOODS Museum | 木木美術館、北京〕など)

乳幼児を対象とした展覧会

 2010年の夏、東京都現代美術館で「赤ちゃん(1)から大人まで楽しめる」参加型・体感型の展覧会「こどものにわ(2)」がオープンした。同館では、それまで教育普及プログラムの一環として、乳幼児を対象にしたワークショップやギャラリーツアーを実施していたが、展覧会として実施するのは、これが初めてだった。結果的には約2カ月の会期中に8万3,000人を超える入場者があり、展示室入り口のベビーカー置き場は、連日ベビーカーであふれかえることになった。この展覧会は、卑近な例で恐縮だが、私自身が4年越しで準備して実現した展覧会だった。
 展覧会は通常、館の学芸員による企画会議で各学芸員からのプロポーザルなどと年間のプログラムの予算、同時期開催予定の展覧会同士の内容のバランス、実施のタイミングなどをもろもろ検討しながら決まる。この展覧会に限って言えば、実施が決まるまで3年、実施決定から展覧会オープンまで1年を要した。3年間、企画会議で却下されるたびに、何度も案を練り直し、ブラッシュアップした企画書を作成し続け、その根拠となるための調査研究を進めた。なかでも、上司から言われたいちばんの却下理由は、「赤ん坊にアートを見せても、わからないのでは? 展覧会に連れてくる意味があるのか?」というものだった。そう、そもそも赤ちゃんにアートを見せても、わかるのだろうか。赤ちゃん向けの展示というものはあるのだろうか。ギモン5「日本人向けの展示ってあるの?」では、日本人向けの展示に関するギモンを入り口として、キュレーションを取り巻く文化の表象の問題について考えてみた。本ギモンでは、同じ日本人でも世代が異なる場合、特に乳幼児を対象とした展覧会のケースについて、まず前半となる第1回で、近年の乳幼児の認識能力に関する研究についてひもといていきながら、赤ちゃんと美術館の関係について考えていきたい。また後半の第2回では、「こどものにわ」を具体的な事例として取り上げながら、世代や背景が異なる人々に対する展覧会や社会的包摂のことを考えた展示について、その可能性を探っていきたい。

「こども向け」の展示とは?

 もういまから15年以上前の話だが、当時2歳になったばかりの息子をベビーカーに乗せて、広島市現代美術館で開催されていたシリン・ネシャットの展覧会(3)に行った。息子は、親の仕事の都合上、0歳児の頃から美術館には連れ回されているのだが、その日も、たまたま帰省先の広島で開催中のシリン・ネシャットの展覧会に息子連れで訪れた。シリン・ネシャットはイラン出身の女性アーティストで、イスラム世界の女性の存在などをテーマにした写真や映像作品で国際的に活躍している。扱っている写真や映像は、黒いベールを被った女性や儀礼の様子、イスラム社会の男女の対比を描くものなど、深刻で重い内容のものがほとんどである。息子には悪いが、完全に親の趣味で行った展覧会だった。だが、『パッセージ』(2001年)という映像作品の部屋で息子が釘付けになり、ほかの展示室を回った後も、その部屋に戻って何度も観たがり、ほかの展示室はそそくさと後にして、ずいぶん長い時間、その部屋で過ごすハメになった。作品自体は埋葬の儀礼が題材になっていて、前半は、黒いスーツ姿の男性たちが海辺から砂漠へと屍を運んでくるシーンと、黒装束の女性たちが砂漠で埋葬用の穴を手で掘り進めるシーンで構成される。最後に屍が運び込まれて、大地が激しく燃え上がる圧巻の映像と、ミニマル・ミュージック(4)で知られる作曲家フィリップ・グラスが書き下ろした崇高なサウンドで締めくくられる。そんな作品にベビーカーに乗った息子が反応するとは思いもよらなかったのだが、この話はここで終わらなかった。家に帰ってしばらく自分の部屋にこの展覧会のチラシをうれしそうに貼っていた息子だったが、美術館に訪れた際に予約受け付け中だったカタログが後日、自宅に届いたときに事件は起こった。包みからカタログを取り出して、息子に「広島で行った展覧会のカタログが届いたよ」と話しかけたところ、「◯◯(自分の名前)の!」と言ってそのカタログを持ち去って、お気に入りの某きかんしゃキャラクターの絵本などが並ぶ自分の部屋の本棚にしまい込んでしまった。私は1ページもカタログを読む暇もなく、あっけにとられてしまった。それまで「こども向け」の本やイベントやテレビ番組などはカラフルで楽しげなもの、といった先入観にどっぷりハマって子育てしていた私にとって、お世辞にも「楽しい」とは言えない、かなり渋いシリン・ネシャットのカタログが息子にとっては、展覧会を観て、しばらく時間がたっていても、忘れ難いお気に入りの思い出の品になっていたことは、まさに灯台下暗しの、目からウロコの事件だった。そこから、大人が勝手に考えている「こども向け」展示ではない展覧会の可能性について、真面目に探求してみようとリサーチを始めることになった。

乳幼児の世界観

 1970年代頃までは、1890年にアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが「咲き誇るがやがやとした混乱(5)」と形容したように、乳幼児が知覚する世界は混沌としている、と多くの発達理論家が考えていた。生まれたばかりの赤ちゃんは目が見えない、痛みの感覚が鈍い、何もわからず何もできない、といった無力な赤ちゃん像が一般的だった(6)。しかし、近年の脳科学をはじめとする諸分野の研究成果から、乳幼児はいままで考えられていたよりもさまざまなことを認識し、感じていることがわかってきた。例えば、赤ちゃんは胎児のときから音を聞き、生まれたばかりの新生児でも目が見える。ただし視力は悪く、新生児は0.001程度で、生後半年までに急速に発達し、その時点で0.2程度(7)、4、5歳になってようやく大人並みに見えてくる。しかし、そのようなぼんやりとした視覚世界にいる生まれたばかりの新生児でも丸と三角の形を区別できるし(8)、人の顔も早い段階から認識し、特に母親の顔は生後数日でも注目することができる(9)。また、こうした乳児の視覚、聴覚、触覚などの個々の感覚は、関連することなくばらばらに独立して機能していると思われていたが、近年の研究で、乳児の個々の感覚は、生まれたときから調和してはたらき、統一された世界を知覚することがわかっている(10)。さらに、赤ちゃんは、外からの刺激によって反射的に動いているだけではなく、生まれた直後からすでに「意識的に四肢を動かしている」ことも明らかになっている(11)。このように赤ちゃんは、高度の認識能力を備え、能動的に行動していることがわかってきた。さて、ここで「赤ちゃんはアートをわかるのか?」という初めの問いに戻ると、美術館や展覧会に来た赤ちゃんは、少なくとも全く何もわからないわけではなく、むしろ、普段とは違う環境に置かれて、かなりさまざまな刺激を受けている可能性が高いと言えるだろう。特に現代美術の場合、視覚だけでなく、聴覚や触覚、ときには嗅覚など、五感を使って感じる作品も多い。しかし、公園に出かけるのと、美術館に出かけるのとでは、赤ちゃんにとって何か違いはあるのだろうか。

作品を観る行為と他者への共感

 これまでのギモンでも見てきたが、あらためて美術館、あるいは展覧会という場所を特徴づけているものは何か、と考えると、美術館は、美術作品が展示してあり、それを鑑賞する場、ということが挙げられる。作品は、一般的な事物と異なり、多くの場合、作家やキュレーターが、その作品をほかの人に鑑賞してもらうことを前提として制作・展示したもの、という人の意図が込められている。他者の意図を汲み取ること、あるいは作家やほかの鑑賞者の思いに共感することは、乳幼児にとって(そして大人にとっても)美術を鑑賞する行為をほかの日常的な営みとは異なる特別な体験とする重要な要因になっていると思われる。
 これまでに、2歳児でも、意図的に作られたものは絵と認めるが、偶然できたものは認めない、という興味深い実験結果がいくつか報告されている。例えば、男性の形に見える絵を見せて、一方のグループには、それが意図的に描かれたことを伝え、もう一方にはそれが偶然の産物だと伝える。つまり、一方には「ジョンがお絵描きの時間に、先生にあげようと絵の具で絵を描きました。それはこんな感じでした」と伝え、もう一方には、「ジョンのお父さんが壁にペンキを塗っていたときに、ジョンがうっかりペンキを何滴か床に落としてしまいました。それはこんな感じでした」と伝える。そして、その後、それぞれに「これは何かな?」と質問すると、意図的に描かれた絵だと説明を受けたグループは「男の人」など描かれた対象を答える傾向が強く、偶然できたものと説明を受けたグループは、材料の「ペンキ」と答えることが多かった(12)。さらに年齢が低い0、1歳児だと、言葉によるコミュニケーションが難しく先のような実験はできないが、別の実験や観察から、少なくとも他者の意図を汲み取ったり、他者の感情を理解したりすることは、かなり早い段階からできることが明らかになっている。
 乳児は、生後1年間の間に自分と他者を区別し、またさらに他者や自分以外のモノとの関係性を徐々に培っていく。生後2カ月頃には、大人がほほ笑みかけると、それに応じて乳児がほほ笑む、という「社会的微笑」と呼ばれる現象が現れ、自分と他者を区別して知覚する人-人の二項関係が成立し始める(13)。また生後5、6カ月には事物に関心が向かうようになり、見せられた物をつかんだり、振ったり、口に入れたりなどするようになり、人-物の二項関係も成立する。この頃から、他者が見ているものを目で追うことができる「共同注意」と呼ばれる現象も見られ始める(14)。さらに生後9カ月頃には、自分が遊ぶオモチャを大人に見せてその反応をうかがう、など乳児-物-他者の三項関係が成立するようになる(15)。また乳児は、成長するにつれて、自分の情緒について経験するだけでなく、他者の情緒に対しても共感したり理解するようになっていく。もっとも初期の他者との情緒の交流の形として、新生児に大人の「喜び」「悲しみ」「驚き」といった表情を見せると、大人と同じ表情を模倣する「新生児模倣」が知られている(16)。新生児模倣は、その後、成長すると観察されなくなってしまうが、生後2カ月には、先に述べた社会的微笑が観察されるようになる。さらに、生後7カ月頃から、乳児は周りの状況を判断する際に、母親などの信頼できる人の様子をうかがいながら自分の振る舞いに適用するようになる(17)。このような現象は、「社会的参照」と呼ばれている。有名な実験に、生後12カ月の赤ちゃんを見せかけの断崖である「視覚的断崖」に載せると、断崖の向こう側にいる母親が見せた表情によって行動が変わるというものがある。この視覚的断崖は、深さ約30センチの溝の上にガラス板が渡してあり、見た目は断崖だが、ガラスの上を渡ることができ、また断崖の向こう側には魅力的なおもちゃが置いてあるという装置である。この実験で赤ちゃんは、母親が否定的な表情や不安そうな表情を示すとガラス面の上を渡ろうとはしないが、母親がほほ笑むなど肯定的な表情を見せると大半が渡ることがわかった(18)。また、共感に関するメカニズムは、1990年代以降、脳のなかに他者の経験を自己に鏡のように写し取るようなミラーニューロンシステムと呼ばれるものがあることが明らかにされている(19)。例えば、快または不快な刺激を受けた他者の表情を知覚すると、観測者自身が同様の快・不快の刺激を知覚したときのような神経活動が脳内で生じる(20)。ミラーニューロンシステムについては未解明の部分も多いが、近年の実験で、6、7カ月の赤ちゃんも成人と同様に他者の行動を見るだけで、他者と同じ運動関連部位の脳活動が見られることがわかっている(21)。
 乳幼児の美術鑑賞に関しては、美術教育の分野でも比較的最近になって扱われるようになった分野であり、科学的な研究の方法論が確立されているわけでもない。そのため、あくまで推論にすぎないが、これまで見てきたような乳幼児の高い認識能力を考えると、「作品」として認識し始めるのは2歳ぐらいからだとしても、二項関係が成立しはじめる0歳児からでも、ある程度の大人の関わりなどがあれば、それぞれの年齢や発達段階に応じて美術鑑賞を楽しむことはできそうである。公園や家などの日常的な場所と異なり、美術館では、まず何よりほかの人が作った作品を「観る」という行為が特徴的である。乳幼児にとっては、美術館という場所は、新奇なモノがたくさんあること自体が興味の対象であるとともに、大人が観ている行為や、大人の反応や心の動きも、自らがそのモノをどう判断するかの基準になっていることだろう。大人が楽しそうに観ていれば、その気持ちが伝わってくるし、逆に自分が面白いと思ったものに対して、大人がそれを共有してくれることはこどもにとって喜びとなるだろう。また、気になった作品に手を伸ばしたときに大人に咎められれば、触らずに大切に観なければならないものがある、など、美術館での鑑賞のルールも成長に応じて徐々に理解していくだろう。

子育て支援と美術館

 赤ちゃんを連れて美術館に行くことは、赤ちゃん自身だけでなく、一緒に行く大人にとっても普段の生活では気づかない、さまざまな発見や驚きを得られる機会になる可能性を秘めている。考えてみれば当然のことだが、赤ちゃんが自らの意志で美術館に来ることはない。赤ちゃんを美術館に連れてくるのは、たいていお母さんをはじめとする周りの大人たちだ。子育て中の母親などの育児者が、普段の生活のなかで行ける場所はスーパーマーケットや公園などに限られがちだ。だが、子育てをしていても、文化的な刺激を受けたいと思っている人はたくさんいるはずだ。小さなこどもがいても、映画やコンサートにだって行きたいし、美術館にも行きたいかもしれない。近年は、赤ちゃんを連れて鑑賞できる映画館も増えたし(22)、0歳児からの音楽会も開催されている(23)。では、美術館はどうだろうか。
 日本では、核家族社会での子育て中の母親の孤立化について、1980年代頃からその問題が指摘されてきたが、90年代に入ってようやく行政も子育て支援施策を本格的に展開するようになった(24)。また、それまでこどもを預けてまで仕事をしたり、趣味に興じることは親のわがままである、と否定的にとられていたが、現代の子育て事情をふまえて、「親子が心身ともにリフレッシュする時間を持つことの重要性から肯定的に受け止めることも必要(25)」であると、これまでの母性観の転換がみられるようになった。確かに一昔前と違って、最近の傾向として、こどもを預けて大人だけで何かを楽しむのではなく、こどもと一緒に楽しむ、また母親だけでなく、父親もさまざまな催しに参加する姿が見受けられる。中谷奈津子は、子育て家庭のための「継続的・定常的な「縁側」のような地域の居場所づくりへの支援」の必要性を説いているが、その際に行政主体の「預かる」「教える」子育て支援、遊びや遊び場の提供型支援だけでなく、子育てをする母親自身が主体的に組織や活動に「参加」するよう促進していく必要性を指摘している(26)。美術館は、自らが主体的に美術を鑑賞することで、こども自身だけでなく、周りの大人もさまざまな感性を呼び覚ますことができる場となりうる。特に現代美術では、これまでのギモンでも見てきたとおり、観客の主体的な参加を促す作品やプロジェクト型の作品が近年増加して、美術と社会の関係について広く議論されている(27)。美術館を地域社会により開かれた場としていくことで、美術館が地域の子育て家庭にとって、既存の提供型支援施設とは異なる第三の「居場所」になれる可能性は高い。
 一昔前までは、美術館の「こども向け」のプログラムと言えば、教育普及事業の一環として開催される小学生以上を対象としたギャラリー・ツアーやワークショップが主流だった。だが、美術館での赤ちゃん向けプログラムは、赤ちゃんが保護者と一緒に展示を観て回るギャラリー・ツアーなどを中心に近年、増加傾向にある。ただし、それらへの参加は、運営上の制約などもあり、人気があっても人数や回数が限定されることが多い。また、小さなこどもを連れて遠方に出かけるのは至難の業なので、子育て家庭が、ベビーカーだけで移動でき、いつでも気軽に行けるプログラムをもつ美術館が自分の住んでいる地域にないと参加しづらい。
 こうした状況をふまえて、2010年に開催された「こどものにわ」では、まず、それまで美術館を訪れたことがない美術館近隣在住の子育て家庭が美術館に来るきっかけになるように、美術館がある東京都江東区の協力を得て、展示に先駆けて区内4カ所の子ども家庭支援センター、児童館、保育園などの子育て関連施設で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを展覧会に参加する作家のKOSUGE1-16とおこない、その成果を展示の一部とした。また会期中に近隣の商店街と美術館をつなぐ形で乳幼児とその保護者を対象としたワークショップを同じく参加作家の大巻伸嗣とおこなった。そして、美術館では、ワークショップやギャラリー・ツアーなどのように一過性で終わるものではなく、小さなこどもを連れた家庭がよりいつでも気軽に美術館を訪れることができるように、約2カ月半の会期で開催する「展覧会」という形式のプログラムを実現した。次回は、「こどものにわ」で展示された作品についてもう少し具体的に見ていきながら、「赤ちゃん向けの展示」がもたらしたものについて、掘り下げて考えていきたい。

大巻伸嗣《Echoes-INFINITY》(2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館
出田郷《reflections》(2009/2010年)
東京都現代美術館「こどものにわ」展(2010年)における展示風景
撮影:森田兼次、写真提供:東京都現代美術館


(1)母子健康法では「赤ちゃん」を次のように定義していて、本稿でもそれに準じて各用語を用いる。新生児:出生後28日未満の乳児、乳児:1歳未満のこども、幼児:1歳から小学校就学前までのこども。
(2)「こどものにわ」2010年7月24日―10月3日、東京都現代美術館
(3)「第6回ヒロシマ賞受賞記念 シリン・ネシャット展」2005年7月23日―10月16日、広島市現代美術館
(4)ミニマル・ミュージックは、音型の反復や持続などで構成される現代音楽の形式の一つ。1960年代から70年代にかけてアメリカを中心に隆盛し、世界的な音楽文化にも影響を与えた。
(5)原典はWilliam James,‘one great blooming, buzzing confusion,’The Principle of Psychology, Macmillan, 1890.
 スイスの発達心理学者のジャン・ピアジェも「赤ちゃんは無力な存在である」と唱えた。またオーストリアのジークムント・フロイトをはじめとする精神分析の理論家は、乳児は「混乱しているというより、最初は周りの世界と関係していない」と考えていた(P・ロシャ『乳児の世界』板倉昭二/開一夫監訳、ミネルヴァ書房、2004年、32ページ)。
(6)榊原洋一「赤ちゃん理解の急速な進歩と赤ちゃん学」、産経新聞「新・赤ちゃん学」取材班『赤ちゃん学を知っていますか?――ここまできた新常識』所収、新潮社、2003年、346―351ページ
(7)山口真美『赤ちゃんは世界をどう見ているのか』(平凡社新書)、平凡社、2006年、17―18ページ
(8)小西行郎『赤ちゃんと脳科学』(集英社新書)、集英社、2003年、37ページ
(9)山口真美『赤ちゃんは顔をよむ――視覚と心の発達学』紀伊國屋書店、2003年
(10)前掲『乳児の世界』34-35ページ
(11)前掲『赤ちゃんと脳科学』110ページ
(12)ポール・ブルーム『赤ちゃんはどこまで人間なのか――心の理解の起源』春日井晶子訳、ランダムハウス講談社、2006年、109―113ページ
(13)岡本依子/菅野幸恵/塚田-城みちる『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理学――関係のなかでそだつ子どもたち』(新曜社、2004年)129―130ページでは、二項関係の成立を生後3、4カ月頃と紹介しているが、P・ロシャは、2カ月としている。三項関係の成立については、ロシャも同じく9カ月としている(前掲『乳児の世界』194―198ページ)。
(14)前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』146―148ページ
(15)同書129―130ページ
(16)同書121―122ページ
(17)前掲『赤ちゃんは顔をよむ』105―106ページ
(18)同書106―107ページ、前掲『エピソードで学ぶ乳幼児の発達心理』50―51ページ
(19)福島宏器「他人の損失は自分の損失?――共感の神経的基盤を探る」、開一夫/長谷川寿一編『ソーシャルブレインズ――自己と他者を認知する脳』所収、東京大学出版会、2009年、192―195ページ
(20)同書194ページ
(21)嶋田総太郎「自己と他者を区別する脳のメカニズム」、同書所収、66―70ページ、嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者――身体性と社会性の認知脳科学と哲学』(日本認知科学会編「越境する認知科学」第1巻)、共立出版、2019年、146―149ページ
(22)TOHOシネマズは2003年から赤ちゃん連れで楽しめる「ママズクラブシアター」を展開している(〔https://www.tohotheater.jp/theater/009/info/mamas_club_theater.html〕)。
(23)代表的なものにソニー音楽芸術振興会の「Concert for KIDS 0才からのクラシック®」がある(〔https://www.smf.or.jp/concert/kids/〕)。
(24)中谷奈津子「地域子育て支援施策の変遷と課題――親のエンパワーメントの観点から」、国立社会保障・人口問題研究所編「社会保障研究」第42巻第2号、国立社会保障・人口問題研究所、2006年、168ページ(〔http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/18095307.pdf〕)
(25)同論文168ページ
(26)同論文170ページ
(27)日本での具体的な事例のドキュメントとして、例えば荻原康子/熊倉純子編『社会とアートのえんむすび1996-2000――つなぎ手たちの実践』(ドキュメント2000プロジェクト実行委員会、2001年)など参照。

 

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地球は見つめられている?(いま何かをするのか、しないのか)――『アトランタからきた少女ラーラ』を出版して

広小路 敏

公私でいえば私人のラーラが

 このメモのタイトルを見ると、「見つめている」主語が神様のように思われるかもしれません。真意は、「ほかのすべての地球に住む人々」か、本当に「別の天体に住む人」。後者である可能性は、私たちが知りうる情報からはほぼ否定されますが、本書のラーラはSFとして、ほかの天体からきて、地球を「体験」しました。彼女にはどう映り、母星へはどう報告するのでしょうか。

犬は人間の友達?

 ケイティは本当に、僕(ケント)の役に立つユーマン(HumanOid)です。
「逆に……」、といいますか、歴史的に犬も、人の役に立つはたらきをしてきました。その点をもっと掘り下げて書くべきだったかな、と思い返します。とくに、この7月初旬の大雨のなかで、被災した人たちを救助するために、人間の数千倍の嗅覚を生かして、また持ち前の強い体力を支えとして、風雨を突いて瓦礫のなかに挑んでいく機動犬の姿を見ると、本当にありがたい気持ちでいっぱいになります。
 作中では、軍用犬の例を強調しすぎたかも、という反省も浮かびます。……あまり書くとネタバレ解説になってしまうのでこのあたりにとどめますが、いずれにしても、人と動物とが愛し合う……、人が、動物の「権利」(友人の浅川千尋という憲法学者が『動物保護入門――ドイツとギリシャに学ぶ共生の未来』〔世界思想社、2018年〕で「動物の権利」を数年前に書いていて、共感)を意識して睦み合うことができる……、そういう社会をめざしたいという気持ちです。
* 編集の進行のなかでプロのアドバイスに沿って、納得のうえで取り外しましたが、人が動物を食べることについて、どう考え、今後どんな道がありうるのかについて、SFは未来予測をしなければならないと思いますし、それは「タイムトラベル」のテーマと合わせて私の近未来課題のひとつです。

鬼軍曹(ルイス・ゴセット・Jr)?

 物語の終盤で、宇宙ヨットのクルーは、ラーラが誰に恋心を抱いたのかを論争します。いつ、どのように、誰に対して彼女は恋したのでしょうか。また、主人公のひとり、司郎が高校入学当初に出会う依子はどんな人だったのか。……これらはとても大切な点で、編集者とのやりとりのなかで、「充実を試みること」ができた諸点です。
 厳しい朱入れを頂戴しながら、「チキショー! それはこういうことなんだよ!」と切歯扼腕、補筆したものでした。こちらはリチャード・ギアのような俳優とは対極にありますが、編集者からの「教育的助言」には、邦題『愛と青春の旅だち』(監督:テイラー・ハックフォード、1982年)に登場したフォーリー軍曹のような厳しさを覚えたものでした。
 あの校正の数日間で、私は変わったかもしれません。感謝しています。

長い「おわりに」

 私は、書籍の出版という作業は、優れた監督者の下に、作者を含む各スタッフがそれぞれに個性(音色)を発揮して、オーケストラのように成り立つものと考えました。映画でも(現場を見た経験はありませんが、みんなが手を取り合って完成を喜び合う(『蒲田行進曲』のオールラストのように)シーンに向かうようなものであってほしいと、勝手に思っています。
 その気持ちがあって、まず、青弓社の編集者各位にお礼を申し上げますとともに、装画を担当してくださった谷川千佳さん、采配をくださったデザイナー(デザイン会社)の方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。本当にありがとうございました。
 また、もう一言だけ、「英訳はいつ出るのか」「アラビック版はあるのか」、“Let us pray for miracle! Good luck with your book!” 、「また早く読みたい」と声をくださっている友人(と私は考えています)のみなさん、本当にありがとうございます。
 そして読んでくださった方は、ぜひご意見をください。「私たちは何をしなければならないと思うのか」、そして「微力でも私がしたいと思っていることはこんなことだ」と。
 広小路はみなさんと、どんな立場に立つ間柄であったとしても、どんなことでも一つひとつ話し合いたいと思っています。お便りをお待ちしています。

筆者のフェイスブック:https://www.facebook.com/satoshi.matsuda.54390

 

第34回 ご挨拶と『宝塚イズム43』「宇月颯&如月蓮&貴澄隼人、スペシャル鼎談!」こぼれ話

橘 涼香(演劇ライター・演劇評論家)

 梅雨が明けた途端に一気に酷暑に突入しました。暑くなれば少しは収束傾向になるのでは?と期待していた新型コロナウイルスの感染拡大に残念ながら歯止めがかからず、東京は4度目の緊急事態宣言発出中という混乱が続いています。それでも現在、東京での宝塚歌劇公演は、東京宝塚劇場での珠城りょう&美園さくらコンビ退団公演でもある月組公演ロマン・トラジック『桜嵐記』、スーパー・ファンタジー『Dream Chaser』が、夜の部の開演時間を30分前倒しするだけの変更で華やかに上演中。7月21日から池袋の東京芸術劇場プレイハウスで、トップ・オブ・トップとして20年間、宝塚を牽引した専科の大スター・轟悠の、宝塚の男役芝居としては最後の作品となる『婆娑羅の玄孫』が開幕。さらに首都圏のKAAT神奈川芸術劇場では、7月22日から星組男役スターとしてますます精彩を放ち続ける愛月ひかる主演ミュージカル・ロマン『マノン』が開幕など、このコロナ禍にあって、宝塚歌劇が歩みを止めない姿に勇気をもらう毎日です。

 と、まず時候のご挨拶から入らせていただきましたが、この「『宝塚イズム』マンスリーニュース」では「はじめまして」となります、演劇ライター・演劇評論家の橘涼香です。『宝塚イズム』(青弓社)には、単発でのいつくかの寄稿を経て、『宝塚イズム38――特集 明日海・珠城・望海・紅・真風、充実の各組診断!』(2018年)にご登場くださった朝夏まなとさんのOGロングインタビューを契機に、続巻のOGロングインタビューや、『宝塚イズム41――特集 望海風斗&真彩希帆、ハーモニーの軌跡』(2020年)からは「OG公演評──関東篇」も担当するなど、様々な形で参加してきました。そしてこのたび、絶賛発売中の『宝塚イズム43――特集 さよなら轟&珠城&美園&華』をもって鶴岡英理子さんが共同編著者を退くことになったことから、ご縁をいただき、2022年1月刊行予定の『宝塚イズム44』から編著者の大任に就くことになりました。特に年2回刊行になってから、薮下哲司さんと鶴岡さんが目指してこられた健全な批評誌としての『宝塚イズム』の精神を引き継ぎ、『宝塚イズム』の未来に、微力ながら貢献できたらと考えています。中心になってくださっている共同編著者の薮下さんとは、19年年末に東京宝塚劇場前にある日比谷シャンテビル内の書店・日比谷コテージ主催『宝塚イズム40――特集 さよなら明日海りお』刊行記念のトークショーでもごいっしょしましたし、その前から演劇現場でも様々にお世話になっていましたので、胸をお借りして務めてまいります。自分で申し上げるのも、の感がありますが、人一倍の宝塚愛をもっていると自負していますし、これまでも貫いてきた「酷評するなら書かない」のポリシーを胸に、宝塚、スターさん、作家さんほか、関わる方々へのリスペクトを忘れず、何よりも同じ宝塚を愛する同志である読者のみなさまに喜んでいただける誌面作りを目指していきますので、今後とも『宝塚イズム』をどうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、私の所信表明演説(!?)だけでは「『宝塚イズム』マンスリーニュース」になりませんので、ありがたくも大変なご好評で発売中の『宝塚イズム43』で担当した「『エリザベートTAKARAZUKA25周年スペシャル・ガラ・コンサート』、宇月颯&如月蓮&貴澄隼人、スペシャル鼎談!」のこぼれ話をご披露いたします。

 コロナ禍で果敢に開催された『エリザベートTAKARAZUKA25周年スペシャル・ガラ・コンサート』では、私自身も一瞬にして往時がよみがえるという、歴代スターさんたちが集ったすばらしい公演の数々を堪能しましたが、その日替わりで登場するキャストのみなさまを支える全日程出演メンバーの方々が、どんな思いで公演の土台を築いていったのか。さらにガラコンサート全体を司る大任であるルイジ・ルキーニ役を数多く務められた宇月颯さんは、どんな気持ちで公演に臨み、舞台を牽引されたのか。ぜひお話をうかがいたい!と願ったところからスタートした企画は、関係各所のご尽力とご快諾をいただき、宇月さん、その同期生でゾフィーの取り巻きの「チーム重臣」でヒューブナーを演じられた如月蓮さん、宇月さんと同じく月組育ちで退団同期でもあり、如月さんと同じ「チーム重臣」でシュヴァルツェンベルクを演じた貴澄隼人さん、のお三方にお集まりいただくことができました。鼎談当日はあいにくの雨だったのですが、実はたっぷりゆとりをもって予約したつもりの都内某所の予約時間が超過寸前!! 「あと10分です~!」と大騒ぎになったほど、盛りだくさんのお話が飛び出して和気藹々。実は誌面に載せたものの倍以上のお話がありましたというほど、うれしい悲鳴のなかで、お話をうかがうことができました。
 
 宇月颯さんは宝塚歌劇団時代、なんと言っても優れたダンサーとしての評価が高かった方ですが、霧矢大夢さん主演版の『アルジェの男』(月組、2011年)の終盤「泥にまみれた~」ではじまる主題歌の影ソロを務められたときから、実はものすごく歌もうまい方なんだ!といううれしい喜びが常に記憶にあり、歌ってほしいな、もったいないな……と月組の舞台を観てはいつも思っていました。ですから珠城りょうさんのトップ披露公演『カルーセル輪舞曲』(2017年)で群舞のなかから抜け出した宇月さんが「1人では飛べないこの大海原をあなたの翼になって皆で飛んでいこう」という趣旨の、鮮やかなソロ歌唱を披露したときには、もう心でガッツポーズでしたし、取材仲間から「宇月さんってあんなに歌がうまかったの?」という話題がたくさん出たときにも「もともとうまいんですよ~!」とお前が歌っているのか!?(違います!)くらいに、なんの権利もなく鼻高々になってブイブイ言わせていた、ちょっとおかしいよ自分、な記憶がいまも鮮烈です。その後の宇月さんのご活躍は言わずもがなで、ダンス、芝居だけでなく見事な歌を数々聴いていましたから、ルキーニ役のオファーがうれしくありがたかったけれども、歌中心のガラコンサートで自分がルキーニでいいのか相当に悩んだ……というお話には、なんと謙虚な方だろうと思うと同時に、だからこそ歴代経験者に交じって、堂々とルキーニを演じることができたのだなと、深く得心がいったものです。
 
 その宇月さんの同期生で星組ひと筋の如月蓮さんは、宝塚時代からムードメーカーという言葉がピッタリくる明るさを常に感じさせてくれる男役さんでした。とても印象に残っているのが、紅ゆずるさんが初めて全国ツアーで主演を務めた『風と共に去りぬ』(星組、2014年)で、直近の宙組公演では悠未ひろさんと七海ひろきさんが役替わりで演じたのに象徴される、代々綺羅星のごとき男役スターさんが演じてきたルネ役を繊細に、相手役の妃白ゆあさんを大きくつつむ包容力で演じたかと思うと、紅さんトップ披露公演の『THE SCARLET PIMPERNEL』(星組、2017年)では、王太子ルイ・シャルルにつらく当たるマクシミリアン・ロベスピエールの崇拝者で靴屋のシモンを色濃く演じるといった役幅の広さでした。しかもそんなシモンを演じていても、如月さんの舞台には宝塚を逸脱するほどイヤなやつには決して役柄がならない矜持があって、「如月さんがいらっしゃると場が明るくなる」という貴澄隼人さんのお話に納得する思いでした。「エリザベートのハモリパートの難しさを初めて知った!」という、経験した方だからこその感慨や、無観客上演になってしまった際の涙と渾身を傾けた演技といったご自身のお話だけでなく、宇月さんがいかにルキーニ役として、歴代のルキーニ役者さんに献身されたかの、同期ならではの愛あるお話ぶりにも心打たれました。
 
 そして貴澄隼人さんは、宇月さんと同じく月組育ちの男役さん。三銃士を大胆に脚色した『All for One』(月組、2017年)で、珠城りょうさん演じるダルタニアンの父親ベルトラン役で、ガスコン魂を歌った温かい美声をご記憶の方も多いと思います。なかでもなんといっても『ロミオとジュリエット』(月組、2012年)新人公演でジュリエットの父キャピュレット卿を演じたときに披露した「娘よ」のソロが忘れられません。「どうだ、うまいだろう!」になっても「語り」になりすぎても違うと思えるビッグナンバーを、娘への心情を切々と歌う感情と、ビロードのようだなといつも感じる艶やかな歌声を両立させ、特に喉の調子が整っていた東京宝塚劇場での新人公演で披露した歌唱は、私個人としては歴代キャピュレット卿のなかでも非常に優れた名唱に数えられるものだったと信じています。全日程メンバーが例えば一日だけ入る歴代スターさんの空気を感じることにどれほど配慮されたか、毎日の舞台稽古、そしてご自身の役柄シュヴァルツンベルクの極端に低いソロパートに対する秘話などを、お話されるときもきれいなお声で語ってくださいました。貴澄さんのとことん真面目だけれども面白いという宇月さん、如月さんがおっしゃる側面が、これからの俳優活動でも見えてくるといいなと期待しています。
 
 そんなお三方がそろって出演される古典ラブバトル劇『ル・シッド』の初日も7月21日。池袋あうるすぽっとでの上演で、キャスト10人のうち8人が元タカラジェンヌという座組にも期待が高まります。ちなみに『宝塚イズム43』鼎談時には写真撮影の間だけマスクをはずしていただき、感染対策に厳重に注意しての取材でしたが、そのわずかな時間にも笑顔がこぼれでて素敵でした。中村嘉昭さんが撮影してくださった、そんな瞬間の数々を切り取られたお写真(こちらのカラーを見ていただく方法はないものか……といま、青弓社編集部とも相談を重ねています)も含めて、とても貴重なお話の宝庫である『宝塚イズム43』の鼎談全文をぜひお読みいただけたらと願っています。刷り上がった書籍をごらんになった宇月さんが「たまちゃん(珠城)の退団特集にいっしょに載ることができてうれしい」と言ってくださったのも、あー宝塚愛!を感じて胸に染みるひと言でした。そんな宝塚を、これからもOGさんたちを含め様々な形で見つめていきたいと思っています。末永くどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

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第33回 コロナ禍での『宝塚イズム43』刊行!

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 オリンピックが始まろうとしているのに新型コロナウイルスの感染拡大は一向に収まる気配がなく、東京は4度目の緊急事態宣言発出中。前代未聞の混乱状態ですが、宝塚歌劇は公演時間を変更するなど感染拡大に細心の注意を払いながら東西ともなんとか通常どおり上演しています。そんななか、わが『宝塚イズム43』も無事に7月初旬に刊行することができ、おかげさまで全国の大型書店で好評発売中です。
 今号は、トップ・オブ・トップとして20年間、宝塚に君臨した専科のスター・轟悠の突然の退団発表を受けて、すでに退団を発表していた月組トップコンビの珠城りょう、美園さくら、花組の娘役トップ・華優希に加えて、轟の退団をメインに据えた特集を組みました。轟の存在が宝塚歌劇にとっていかに大きいものだったか、どんな影響を与えてきたか、などを執筆メンバーに考察してもらい、単に惜別の特集というだけでなく、轟が存在しない宝塚歌劇が今後どんなふうに展開していくのか、将来の展望も見据えた特集になっています。
 そして、昨年3月、退団を発表していながらコロナ禍の休演で半年遅れとなった月組の珠城と美園、そして7月の『アウグストゥス――尊厳ある者』(作・演出:田渕大輔)東京公演で退団した花組の娘役トップ・華の3人の退団には、通常の惜別特集を組みました。華の大劇場千秋楽は無観客のライブ配信という不運に見舞われましたが、珠城と美園は退団の時期はずれたものの『桜嵐記(おうらんき)』(作・演出:上田久美子)というすばらしい作品で見送ってもらうことができた幸せなカップルでした。
 小特集は、今年は花組と月組が誕生して100周年という節目の年にあたることから、花組と月組にまつわるさまざまな思い出やスターの話題をピックアップしてみました。本来は4月に宝塚大劇場で、歴代のスターたちが勢ぞろいしての祝祭イベントがあるはずだったのですが、コロナ禍で中止になってしまい、せめて誌面で応援しようと企画していたところ、11月に大劇場花組公演と梅田芸術劇場で100周年記念公演が決定、タイムリーな小特集になりました。
 また、今年はミュージカル『エリザベート』の日本初演25周年の記念の年にもあたります。歴代出演者が勢ぞろいした『エリザベートTAKARAZUKA25周年スペシャル・ガラ・コンサート』が開催されました。全日程出演するアンサンブルキャストには在団中には出演がかなわなかったメンバーが選ばれるなど、これまでにないフレッシュなキャストで上演されました。そんなメンバーのなかから宇月颯、如月蓮、貴澄隼人の3人に橘涼香さんが貴重な話を聞いてくださいました。この裏話はまたあらためてここで書いていただくとして、『エリザベート』が宝塚の演目のなかでいかにカリスマになっているか、3人の鼎談を読むとよくわかります。
 OGロングインタビューは、2000年から06年までトップを務め絶大な人気を誇った元宙組の和央ようかに登場してもらいました。現在、滞在中のハワイからのリモート取材で、7月に開催する予定だった宝塚ホテルでの里帰りディナーショーの話を中心に『エリザベート』初演時の苦労話などを聞くことができました。しかし肝心のディナーショーが、新型コロナウイルスの感染拡大が収まらず、緊急事態宣言は解除されたものの、その後に発出された兵庫県独自のまん延防止等重点措置のため7月の開催を断念、10月23、24の両日に延期されてしまいました。ゲストも実咲凛音から綺咲愛里に交代するなど、インタビューの内容とはずいぶん変わってしまいますが、そのあたりはご了承のうえお楽しみください。
 それにしてもこんな状態がいつまで続くのか、もう元通りにはならないという悲観論者の声も聞かれますが、一日も早くマスクをしなくてもいい世界になることを祈りたいものです。

 

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ギモン5:日本人向けの展示ってあるの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)

「他者」の表象と日本の現代美術の表象

 ギモン1の「美術館と展覧会の歴史的背景」のところで少し述べたが、「美術史」と言えば、長年「西洋美術史」を示すことが欧米社会だけでなく、それ以外の地域でも一般的な認識だった。だが、1980年代末の冷戦の終焉と90年代の物流や経済のグローバル化、テクノロジーの発達による情報化の波を受けて、文化の面でも変化を余儀なくされ、そのなかで非欧米地域の美術史についての検証と理論化が進められてきた。現代美術史も長らく単線的な西洋美術の歴史の延長線上に位置づけられてきたが、90年代にポスト・コロニアル(ポスト植民地主義)の議論が盛んになるにつれて、複眼的な視点から、これまで美術史の外に置かれていたアジアやアフリカなど多様な地域の美術も含めて美術史を編み直す動きが見られた。国際的なビエンナーレやトリエンナーレでも非欧米地域の現代美術とその表象が大きなテーマとして各地で積極的に取り上げられるようになった。そこでの議論の中心になったのは、「他者」の表象を取り巻く言説だった。
「他者(the Other)」という英語表記で大文字の「O」を用いる言葉は、ポスト・コロニアルの言説でしばしば用いられる特殊な哲学用語である。「他者」とは、要は、異性愛者の白人男性から見た「他者」であり、有色人種、女性、そして近年よく耳にするLGBTなどの同性愛者やトランスジェンダーといった社会的少数派、マイノリティーを指す。こうした「他者」は、歴史的にも政治・経済・社会活動で表舞台から排除され、社会的弱者としての立場を余儀なくされてきていて、現在もその不均衡はまだまだ是正されきっていないのが現実である。美術の世界でもその傾向は同じであり、例えば一般的な美術史の教科書に名を残すような女性アーティストの数は、国や文化によって多少の差はあるものの、歴史的に見れば男性アーティストの数よりも圧倒的に少ない。また欧米諸国のアーティストに比べて非欧米諸国のアーティストは、1990年代に入るまでほとんど欧米で紹介されることがなかった。それが、グローバル化と情報化の流れを受けて、一気に世界中が簡易に移動できたり、瞬時にネットワークでつながるような動きが加速し、美術の世界でもこれまで知りうることが困難だった遠方の地での情報がリアルタイムで入手できるようになった。こうした状況に伴って、これまで文化的にも「周縁」とみなされてきた非欧米地域の美術が90年代に入って一気に紹介される機会が増大した。またこうした非欧米地域の美術を紹介する展覧会は、主に欧米のキュレーターが欧米の観客のためにキュレーションする、という帝国主義的・植民地主義的手法が長く主流を占めてきた。だが、そうしたアプローチに批判が高まってきたのも90年代であった。
「表象」という言葉についてもここで少し補足しておきたい。「表象(representation)」という言葉は、「他者」同様、記号論や人類学などで用いられる哲学用語である。文字どおり訳すと「(何かや誰かの)代わりに示す、表現する」という意味になるが、美術の場合だと、作品をある文化的な特徴を「表象」するものとして捉えたり、あるいはある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会のことを、その国・地域の美術を「表象」する事象として扱う。例えば、日本の現代美術作品を集めた展覧会は、日本の現代美術を表象するもの、ということになる。このように「他者」の表象というのは、現代美術の場合、非欧米地域の文化や美術をどのように作家やキュレーターが表し、紹介しているのか、という意味で用いられている。
 先に述べたとおり、1990年代に入って、非欧米地域の美術を欧米のキュレーターが欧米の観客に向けて紹介するという植民地主義的な展覧会への批判が高まった。それに対して、当該地域出身のキュレーターであれば、よりオーセンティックな、本物らしい、その地域の美術を表象できるのではないか、という期待が、欧米の美術関係者のなかでも寄せられていた。例えばアフリカの美術の展覧会ならアフリカ出身のキュレーター、アジアの美術ならアジア出身のキュレーターのほうが、欧米出身のキュレーターよりもより忠実にその地域の美術を理解し、欧米出身のキュレーターにはできない視点からよりオーセンティックな展覧会を作れるのではないか、と思われたのである。先に紹介した戦後の日本美術を紹介する2つの展覧会が実施されたのは、そうした論争が盛んになった時期でもあった。

ディアスポラなアーティストとキュレーターの登場

 グローバル化が進むなかで、同時に台頭してきた世界的な傾向が、グローバルとは対極にある「ローカル」を志向する流れであった。欧米中心主義で画一的なグローバルに対して、自分たちが住む国、地域、地元ならではの個性、良さ、価値観、文化を大切にして、それを外に向けてアピールするような流れである。美術の場合はそれが先に述べた国際展などで顕著に現れた。またこうした国際展も、それまではヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタ(ドイツ)、あるいはホイットニー・バイエニアル(アメリカ)など欧米を中心として開催されていたが、1990年代に入って、光州(韓国)、上海、台北、横浜、アジア太平洋(ブリスベーン、オーストラリア)などアジアを中心とする非欧米地域で新しいビエンナーレやトリエンナーレが次々と立ち上がった。こうした新興の国際展は、欧米のそれと差別化を図るうえで、その土地ならではのローカルな文脈を強調したり、その地域・国らしさを売りにする戦略が多く見られた。そしてこれらの国際展で台頭してきたのが、非欧米地域出身のキュレーターやアーティストだった。これらの国際展では、それまでの欧米の国際展では紹介されてこなかった、その開催地域出身のアーティストが、同じく開催地域出身のキュレーターによって数多く紹介された。だが、こうした非欧米地域出身のアーティストやキュレーターの多くは、実は欧米で教育を受けたディアスポラなアーティストやキュレーターが大半を占めていたことで、この「本物らしさ」や「その国・地域らしさ」をめぐる表象の問題はより混迷を深めることになった。
 ここで「ディアスポラ」という聞き慣れない言葉が突然登場してしまったので、少し説明しよう。「ディアスポラ」とは、ギリシャ語で「離散」を意味する言葉で、もともとはパレスチナを離れて世界各地で暮らすユダヤ人のことを指していた。それが転じて近年は、政治的・思想的な理由で国を離れ、自国以外の場所を拠点として活動をおこなう者のことを意味する。現代美術の世界では、1989年の天安門事件をきっかけとして、多くの中国人アーティストやキュレーターがほかの知識人とともにニューヨークやパリへと移り住み、ディアスポラなアーティストやキュレーターの先駆けとなった。また90年代は、アジアやアフリカの富裕層の子弟や国費留学生などが欧米に留学することが一般的になり、彼らが大学卒業後に自国に戻って活躍する機会が増えた。例えばタイでは、主にアメリカの大学や大学院に留学したアーティストやキュレーターが、タイに戻ってアーティスト・ランのスペースを設立して運営したり、アートプロジェクトを企画するなどの動きが活発化した。こうした欧米で教育を受けたディアスポラなアーティストやキュレーターは、英語、フランス語、ドイツ語などの欧米の主要言語と、アートの専門用語(ジャーゴン)という二つの特殊な「言語」を駆使することに長けていて、欧米の専門家に対して、わかりやすく非欧米の表象について語ることができるという、ある意味、特権的な立場にいた(28)。つまりこうしたアーティストは欧米の美術関係者に対して、わかりやすいオーセンティックな「ローカル」の作品を提示することを得意としたのである。またキュレーターは、そうしたアーティストを、「グローバル対ローカル」や「グローカル」「ハイブリッド」などのはやりの言説を巧みに用いながら、その地域の美術を代表するものとして積極的に紹介する役割を果たした。だが、こうした他者の表象の立役者だった彼ら自身が、それまで欧米出身者が主流だった「スター・キュレーター」「スター・アーティスト」と呼ばれる国際展の常連組に同じように名を連ねるようになるには、時間はかからなかった。皮肉なことに結果的には、世界中どこの国際展に行っても、同じディアスポラなスター・キュレーターが選定する同じくディアスポラなスター・アーティストの顔ぶれによる企画が散見されることになった。そしてこうした非欧米地域の美術についての展覧会は、同じく非欧米地域出身のキュレーターの手によるほうがよりオーセンティックな表象になる、という一種の幻想的な期待が欧米・非欧米双方の美術関係者のなかで徐々に崩れ始めていった。

共同キュレーションによる新しい試み

 2000年代に入って、こうした他者の表象をめぐる議論は、世界各地で盛んにおこなわれた共同キュレーションなどの試みによって、新たな方向性を模索していくようになった。そこでは誰が誰をというよりは、お互いがお互いに対話を通して新しい表象の可能性を切り開くというスタイルが主流になっていて、その傾向はいまも続いている。日本では、国際交流基金アジアセンターが主催した「アンダーコンストラクション――アジア美術の新世代」展がその好例の一つになった。この展覧会は、インドネシア、インド、韓国、タイ、中国、日本、フィリピンから9人の若手キュレーターが、アジア各地でリサーチして、アジアの表象について共同で模索する、という一大プロジェクトだった。このプロジェクトでは、2000年から参加キュレーターによる調査とセミナーがおこなわれ、01年から02年にかけて、アジア7都市で単独あるいは共同でキュレーションした展覧会を実施し、最終的には東京でそれまでのローカル展を総括する展覧会を開催した。このプロジェクトをきっかけにして構築されたアジア人キュレーターやアーティスト、美術関係者のネットワークは、その後の日本国内外のアジアの表象をめぐる展覧会にも大きく貢献することになった。
 また2013 年に森美術館で開催された「六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト――来たるべき風景のために」もオーストラリア人のキュレーター、ルーベン・キーハンとアメリカ人キュレーターのガブリエル・リッターが森美術館の片岡真実と共同でキュレーションをおこなった。「六本木クロッシング展」は、同館で04年にスタートした3年に一度開催される、日本における多様なジャンルのアーティストやクリエーターを紹介する展覧会である。4回目となった13年は、海外から日本の現代美術に精通している2人のゲストキュレーターを迎え、若手作家だけではなく、異なる世代の作家や海外在住の日本人作家なども加えて、日本の現代美術を多角的に検証する機会とした。ここで大切なのは、キーハンが述べているようにこの展覧会が、「日本美術とは何なのか、何だったのかという問いではなく、日本美術がどうなりうるか、そして何ができるのか」を日本に対して、それも「単に約1億3,000万人の住む列島という場ではなく、何十億という人々がその意味を共有し、協議している日本という考え、概念に対して何ができるのか(29)」と問題提起している点である。

「日本の」現代美術

 さて、ずいぶんとまわり道をしてしまったが、「日本人向けの展示というのはあるのだろうか」という今回のギモンを発端にして、ある特定の国や地域の美術を表象することについていろいろと考えてきた。ここでいちばん考えたかったことは、日本の現代美術は、誰にとって、誰が発信する「日本らしさ」「日本文化らしさ」なのだろうか、というギモンと、現在の日本人にとって、あるいは世界の人々にとってその国らしさを表象するということはどういった意味をもつのだろうか、という大きな問いだ。というのも、一国の文化をプロモーションするというのは、それが誰に向けたものであれ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの一大文化プロパガンダや、戦時中の日本の文化統制などを彷彿とさせるナショナリズムな動きと切り離して考えることができない、危険と背中合わせの行為だからである。異文化はもとより、LGBTや障害者など多様な背景をもつ人々に対する社会的包摂(インクルーシブ)が必要とされる現代社会で、ある特定の文化を表象することについて、私たちは注意深くあるべきである。
 また、ここでこれまで当たり前のように用いてきた「日本の」現代美術が規定する「日本」や「日本らしさ」は、実は一定の決まりきった概念ではなく、時代によっても、また個々人によってもその定義は揺らいでいるものであることには留意する必要がある。日本は長らく単一民族による単一国家であるという幻想があったが、近年のアイヌや琉球文化への見直しや、日本に長期滞在している日系ブラジル人やアジア人労働者などの地域コミュニティとの関わりへの眼差しなどは、そうした考え方に一石を投じている。
 また、同じ「非欧米地域」の「アジア」ではあっても、例えば日本の現代美術の国内外での紹介のされ方と、植民地支配を経験したほかのアジア諸国の現代美術の紹介のされ方を同一視することはできない。もっと言えば、「東洋」というコンセプト自体も、西洋側に規定されてきたものであり、そのことを忘れて十把ひとからげに「アジア」の美術とか、「日本」の美術という言い方をすることは、非常に乱暴な態度である(30)。したがって「日本の」現代美術の展覧会が開催されるときに、それが誰によって、誰のために開催されているか、というその背景にある文脈によって、その定義は常に流動的であることは頭の片隅に置いておく必要があるだろう。
 先に登場した「他者」や「表象」といった言葉も、もともとは英語の「the Other」「representation」という欧米の知識人層で用いられる専門用語である。そもそもこれまで見てきた展覧会や美術館という枠組みそのものや、現代美術というカテゴリー自体が西洋生まれの概念だった。明治の時代に翻訳された「美術」という用語が日本でなじみがなかった概念であったように、文化や地域によって「美術」や「現代美術」の定義そのものも統一されたものではないことは、ローカルの文脈を考えるうえで大切な要素だろう。
 国を挙げて推進されてきた東京2020の文化プログラムに関連する展覧会の多くは日本で実施され、コロナ禍の影響によって当初想定していた海外からのインバウンド客ではなく、日本国内の観客がその主たる対象になった。これらの展覧会を鑑賞する側から見れば、政府や組織委員会の思惑とは裏腹に、それが外国人向けに作られようと日本人向けに作られようと、もはや結果的には大差がないように見受けられる、というか比較検証することも物理的にできない、というのが正直なところだ。これらのプログラムの多くは、主には「海外」の観客に向けて日本文化を発信するものだったが、「海外」と一口に言っても、それは日本人や日本文化の定義が一様ではないように、「海外」を「日本以外」とした、かなり大ざっぱで漠然とした定義であると言えるだろう。先に見てきたように多言語化対応で中国語と韓国語が英語に加えられたことは、想定されていたインバウンド客のなかでもアジアの観客を意識したことは推察される。だが、ここで言う「アジア」も正確には東アジアの観客で、ここには西アジアや東南アジアは含まれていない。

コロナ禍における文化の表象

 ある特定地域の美術の表象が1990年代に問題になったように、それを享受する観客についても、単純に「日本」の観客、「アジア」の観客と一括りにすることは、このグローバルな現代社会で、時代錯誤的な発想であると言わざるをえない。むしろコロナ禍という特殊な状況で、どこの国のアーティストもキュレーターも、そして観客も自由に移動することが制限され、自国にとどまることを余儀なくされたことで、この問題はまた新たな局面を迎えているのではないだろうか。
 例えば、コロナ禍で展覧会や美術関係のシンポジウムもオンラインのプログラムが増えて、どこにいても、世界中のプロジェクトやプログラムを自宅にいながらにして享受できるようになった。そうしたプログラムでは世界各地をリアルタイムで同時に結ぶものも多い。そうなった場合に、対象となる観客の居住地域はもはや重要な要素ではなく、開催されるプロジェクトのテーマや内容に関心がある層であれば、言語や時差の問題はあるかもしれないが、基本的には誰でもどこからでも参加できる。そこでは何がオーセンティックなのか、ということはもはや問題にされないし、逆にいまを生きる私たちに何が必要なのか、またそれを異なる文化や社会に生きる各自がどう受け止めるか、それぞれの状況でどう対処しているのかを互いに学び、共有し合うことのほうが喫緊の課題になっていると言えるだろう。それは、キーハンらが提起した日本の現代美術に対する問いと共通する姿勢ではないだろうか。
 これまで見てきたように日本の現代美術の表象は、時代とともに変化し続けている流動的なもので、今日のグローバルな文脈では、日本の現代美術も、ほかの地域の美術の表象と同じく複眼的に思考されることが求められていると言える。一方で、本ギモンの冒頭で少し例示したように、「日本の現代美術」と言われて、私たちが何となく曖昧にそれらしく思い描くもの、があることも事実である。それが東京2020の文化プログラムでは、よりはっきりと極端な方向性をもって可視化されることになった。だが、そもそも「日本人」にしかわからない「日本の現代美術」の展示などあるのだろうか。「日本人」のアイデンティティや定義が揺らぐなかで、同じ日本人でも年齢や住んでいる地域、生きている時代、自らの関心の対象によって、現代美術の受け止め方もそれぞれであるにちがいない。そして展覧会で「わかる」ことは重要なのだろうか。次のギモンでは、こうした問いについてまた一歩考えを進めていくために、赤ちゃん向けの展示があるのかという問いを通して、展覧会の観客について、また別の観点からあらためて考えていきたい。


(28)ディアスポラの知識人については、香港出身のレイ・チョウ『ディアスポラの知識人』(本橋哲也訳、青土社、1998年)を参照されたい。
(29)ルーベン・キーハン「喪失の構造、解放の構造」、森美術館編『六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト――来たるべき風景のために』所収、平凡社、2013年、212ページ
(30)タイの美術史家であるアピナン・ポーサヤーナンは、こうした「西洋」に対するアジアの単一的な「東洋化」や「アジア化」といった見方に対して異を唱えている。Apinan Poshyananda, “Roaring Tigers, Desperate Dragons in Transition” in Apinan Poshyananda eds, Contemporary Art in Asia: Traditions/Tensions, Asia Society Galleries, New York,1996, p. 24.

 

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