第1回 現代日本の美術とは?
難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など。現在、キュレーションした坂本龍一の個展「坂本龍一: seeing sound, hearing time」が北京の木木美術館〔M WOODS Museum〕で開催中〔2021年8月8日まで〕)
突然だが、あなたは「日本美術」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。日本画や絵巻物、掛け軸、屏風絵などの墨や岩絵の具を使った絵画、浮世絵などの版画、あるいは漆器や陶磁器、金工、竹細工などの工芸品だろうか。仏像や寺院を思い浮かべる人、着物などの染色や織物を思い浮かべる人もいるかもしれない。では、「日本の現代美術」と聞くとどうだろうか。水玉で埋め尽くされる草間彌生のインスタレーションや、アニメのキャラクターを想起させる村上隆の作品などは、アートに普段なじみがない人でも、目にしたことはあるだろう。これらの「日本の現代美術」には、何らかの共通項があるのだろうか。また「日本の」現代美術は、世界のそのほかの地域の現代美術と何か異なるのだろうか。「日本」というキーワードをめぐる美術作品やその展示というのは、現代の瞬時につながるネット時代のグローバル化した世界でどういった意味をもつのだろうか。また、そうした「日本の現代美術」作品を展示するキュレーターは、日本人である場合とそうでない場合に、何か違いはあるのだろうか。そして「日本の現代美術」の展示を鑑賞する観客が日本人の場合とそうでない場合に、その受け止め方にどのような違いがあるのだろうか。あるいは、そういったことは大差がないことなのだろうか。そもそも日本人向けの展示というものはあるのだろうか。
ギモン4で、ミシェル・フーコーの言葉を手がかりに作者と作品の関係を考えた際に、「作家」や「作品」をめぐる言説はそれを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景となる時代や文化によって多様な姿を見せている、と駆け足で述べた。本ギモンでは、この点にもう一度立ち返り、日本の文化や歴史、社会的背景と日本の現代美術の関係に焦点を当て、いままでとはまた別の角度から作家、作品、展示、キュレーター、観客にまつわるギモンを捉え直す。そして「日本の現代美術」を日本人のキュレーターが日本の観客に向けて展示することについて、国内外である特定地域の美術に焦点を当てた展覧会のキュレーションの動向なども踏まえながらあらためて考えてみたい。
東京2020と文化プログラム
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、東京2020と略記)の開催が決まった2013年頃から、「インバウンド」というカタカナ言葉をやたら耳にするようになった。インバウンド(inbound)とは、もともとは「本国行きの」「市内行きの」など外側から内側へ向かう移動を意味する英語だが、日本では、もっぱら海外から日本を訪れる旅行、すなわち訪日外国人旅行のことを指す。日本は、07年に観光立国を目指して観光立国基本推進法を制定し、翌08年には観光庁を設置した。これを受けて、ビザの緩和や免税措置などさまざまな振興策が功を奏し、05年に670万人だった訪日外国人旅行者数は、15年には1,973万人を超えるまでに急増した(1)。また20年のオリンピック開催に向けて4,000万人まで全世界からの誘客を目指し、18年から3カ年計画での一大プロモーションが観光庁の旗振りのもとに計画された(2)。
一方、東京都と文化庁でも、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と緊密に連携をとりながら、それぞれ東京2020に向けて展覧会事業や公演事業などの各種文化プログラムを推進すべく、さまざまな政策をとってきた(3)。2020年春には、新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大によって東京大会が21年に延期され、それに伴って各種文化プログラムもその計画の多くは21年に延期され、さらにこの原稿を執筆している時点(2021年5月)でも、3回目となる緊急事態宣言が6都府県に発出され(4)、不透明な状況へと変更を余儀なくされていて、関係者の胸中を察するに余りある事態になっている。だが、この東京2020を契機として進められた文化・観光面での政策やプログラムの数々と、今日のコロナ禍が世界各地の美術展事業にもたらす影響は、現代美術の展示での「日本」というキーワードをめぐるあれこれについて考えるうえで、いくつかの有益なヒントを与えてくれると思われるので、ここで少し詳しく見ていきたい。
はじめに、そもそもオリンピック開催がなぜ文化プログラムの推進と関係があるかについて疑問に感じた方もいるかもしれないので、まずは簡単におさらいしておこう。国際オリンピック委員会(IOC)が定めた近代オリンピックに関する規約であるオリンピック憲章では、その根本原則でオリンピズムを「人生哲学」と位置づけ、「肉体と意思と知性の資質を高めて融合させた、均衡の取れた総体としての人間を目指すもの」としている。そして同憲章の第5章第39条に、オリンピック競技大会組織委員会は、オリンピック村の開村期間に「複数の文化イベントのプログラムを計画しなければならない」と定めている(5)。つまり、文化プログラムの実施は、オリンピック開催国の義務になっているのだ。また近年の文化プログラムは、オリンピック開催期間を超えて長期化・大規模化していて、なかでも東京2020関係者の多くが参照している第30回のロンドン大会(2012年)での文化プログラムは、開催年に向けて4年間にわたるカルチュラル・オリンピアードという公式プログラムが過去最大規模でロンドンだけでなくイギリス全土で約17万7,000件以上が実施され、観光産業やクリエイティブ産業に大きく貢献したことは記憶に新しい。特にオリンピック開催中を含む12週間にカルチュラル・オリンピアードの締めくくりとして実施されたロンドン・フェスティバルは、200以上のプログラムが美術や音楽、映画、障害者芸術などの多岐にわたる分野で実現され、2,000万人が参加した(6)。
こうしたロンドンでの大きな成功事例を踏まえ、東京2020でも、文化プログラムをオリンピック開催前から長期にわたって日本国内各地で実施することが東京2020の基本方針にも位置づけられた。また2016年には国の文化審議会で、文化庁の移転や、東京2020を契機とした文化プログラムの推進による遺産(レガシー)の創出という2つの課題を踏まえて文化政策の機能強化について審議され、16年11月には、「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(7)」という答申がとりまとめられた。このなかで、東京2020を世界が日本に注目し、日本から世界に文化発信をする好機と捉えている。さらに東京2020終了後も、そのレガシーの創出までを政策のなかに位置づけて、メディア芸術などを含めた幅広い分野での新たな文化芸術活動への支援や人材育成、基盤整備を進め、「文化芸術立国」を目指すとしている。つまり、この東京2020が契機になって、観光立国と文化芸術立国という国の政策が文化プログラムを通して推進されることになったというわけである。
日本らしさと日本文化発信
こうして東京2020を取り巻く文化政策は、日本人が考える日本文化をさまざまな文化プログラムを通して海外に向けて発信することを目的として進められている。まず、インバウンドを促すには、ビザの緩和などの法的な整備に加えて、日本の良さ、日本でしか味わえない魅力、日本らしさを海外に向けてアピールすることが肝要であることは言わずもがなだろう。こうした魅力を備えた、いわゆる観光資源のプロモーションのなかで、日本文化が果たす役割は大きい。美術の分野で考えると、文化財などのほか、日本美術のコレクションを擁する美術館や博物館も重要な観光資源である。例えば、東京2020に向けて、公共交通機関や文化財が所在する観光地などに加えて、美術館や博物館も国立博物館・美術館を皮切りに2015年前後から多言語化対応が進められてきた。日本語、英語はもちろんのこと、特に近年急増したアジアからの観光客を意識して中国語、韓国語も含んだ4カ国語による作品解説やキャプション類は、いまでは国立の博物館・美術館では、常設展示だけでなく企画展示でも対応している。解説の文字情報が多い場合は、QRコードから各国語の言語の解説を観客がスマートフォンで読み込んでダウンロードする、といったケースも少なくない。またこうした他言語への翻訳は、外部の翻訳会社などの翻訳者に発注するだけでなく、国立の博物館では各言語を母国語とするスタッフを採用したり、日本美術を専門とする外国人スタッフを採用するなどして、こうしたスタッフが多言語対応にとどまらず、海外の美術館・博物館との人物・学術交流や、国際的な展覧会事業のコーディネートなどを務めている(8)。
また文化プログラムの一環として、文化庁主催の博物館や芸術祭などの展覧会を開催年に先立って国内外で開催しているほか、東京をはじめとする日本国内各地で、文化庁が中心になって「日本博(9)」という一大文化事業が企画されている。日本博は、総合テーマである「日本人と自然」のもとに「美術・文化財」「舞台芸術」「メディア芸術」「生活文化・文芸・音楽」「食文化・自然」「デザイン・ファッション」「共生社会・多文化共生」「被災地復興」という8つの分野にわたって「縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外へ発信し、次世代に伝えることで、更なる未来の創生」を目的としている。これには文化庁が主催するもの、美術館や博物館と共催するもの、また地方公共団体や民間企業の事業を補助する事業などがあり、2021年現在もコロナ禍によってさまざまな会期・内容変更などがあるものの、実施・計画されている。
この「日本博」が掲げるテーマと各分野は、現在の日本人が考える日本らしさ、日本の文化、日本の美術を海外から日本に来る外国人に向けて発信する一連の事業であり、各分野でどのような事業を展開しようとしているかという「日本博」のウェブサイトでの説明(10)と、実際にどのような事業が実施・採択されているのかを見渡してみると、大変興味深い。なかでも特に近年現代美術の領域として展覧会が実施されている機会が増加する傾向にある「メディア芸術」が、「美術・文化財」とは切り離されて一つの独立した分野になっているのは、長年「文化庁メディア芸術祭(11)」を実施してきた文化庁や、経済産業省が中心となって官民が連携して推進している「クールジャパン」戦略(12)と無関係ではないだろう。また全体のテーマは縄文時代から現代まで続く「日本の美」を国内外に発信、継承していくことを謳っているが、これはあたかも日本の美術が縄文時代から現代にいたるまで、単線的に発展してきたかのような印象を与える。だが、いまの日本の美術を形成している要素の多くは縄文時代よりもずっと後になって中国大陸や朝鮮半島からもたらされた文化の影響が大きく、さらに明治時代の近代化による西洋文化の影響や戦後のアメリカ文化の流入など、さまざまな要素を折衷的に取り入れてきたという事実を、日本のオリジナリティを強調するために都合よく排除しているようにも思われる。
このように今回の東京2020を契機とした海外に向けて発信する「日本らしさ」や「日本美術」というものは、国を挙げて戦略的にプロモーションされたものだった。この「日本らしさ」や「日本美術」というコンセプトや枠組みは、現代美術の文脈では、日本の現代美術が海外、特に欧米で紹介される際にさまざまな物議を醸してきた。ここで少し時間を巻き戻して、1980年代、90年代の欧米での日本の現代美術の紹介のされ方について、特に現代美術に焦点を当てて見てみよう。
1980年代から90年代の欧米での日本の現代美術の紹介
海外での大々的な日本美術の紹介はギモン1でも少し触れたが、古くは19世紀の万国博覧会が大きな役割を果たした。これを戦後の現代美術の分野に絞ってみると、日本の場合は、1952年に初参加したヴェネチア・ビエンナーレをはじめとする国際展への参加が主な舞台だったと言えるだろう。その後も66年にニューヨーク近代美術館で開催された「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展などいくつか日本の現代美術に焦点を当てた展覧会は開催されたものの、その評価は「日本の現代美術は欧米の模倣である(13)」という見方を長く欧米の美術関係者に印象づけるものだった。それが80年代に入って、日本がバブル経済で国際的な経済大国として注目を浴びるようになった時期と同じくして、日本の現代美術を紹介する展覧会が欧米の美術館で盛んに実施されるようになり、そのなかで日本の現代美術に対するアプローチも多様化した。日本の現代美術を海外で紹介することについては、72年に外務省の監督のもとに国際文化交流事業を通して国際相互理解の増進と国際友好親善の促進をおこなうことを目的に設立された国際交流基金のはたらきも大きい。ここでは紙幅の関係上、詳細は割愛するが、国際交流基金は、現在もヴェネチア・ビエンナーレ日本館の主催者であり、また特に80年代から90年代にかけては、海外の美術館などと共催して日本の美術を紹介する展覧会事業を数多く手がけてきた(14)。なかでもパリのポンピドゥー・センターで86年に実施された「前衛芸術の日本 1910-1970展(Japon des avant-gardes 1910-1970)」は、戦前から戦後にいたる日本の美術を絵画や彫刻、インスタレーションのほか、建築、デザイン、工芸、写真など多岐にわたるジャンルの作品を通して包括的に紹介した大規模な展覧会であった。また94年に横浜美術館で開催され、その後グッゲンハイム美術館やサンフランシスコ近代美術館に巡回した「戦後日本の前衛美術展 空へ叫び(Japanese Art after 1945: Scream against the Sky)」は、約100人の作家による絵画、彫刻、写真、ビデオ、インスタレーションなど180点の作品が展示されるという、戦後日本の前衛美術の流れを展観するニューヨークでは過去最大規模の日本美術展になった(15)。研究者の光山清子は、その著書『海を渡る日本現代美術』で戦後から95年までの日本の現代美術の海外での受容について、欧米で実施されてきた展覧会を詳細に分析・考察している。ここでは光山が取り上げたなかでも、欧米の日本美術研究者にいまでもよく参照されている「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」の2つの重要な展覧会について、彼女の分析と考察を参照しながら、少し見ていこう。
「前衛芸術の日本」展での日本の美術とその受容
「前衛芸術の日本」については、そのキュレーションについては、「展覧会は国際交流基金との共催であったが、このような包括的なもの〔視覚芸術だけでなくそれと関連した領域を取り込んだアプローチ:引用者注〕を提案し、全行程を通じてイニシャティヴをとったのはポンピドゥー・センター」であり、こうした包括的アプローチは「企画当初からの重要な原則であった(16)」という。この展覧会に先立って、ポンピドゥー・センターでは「パリ―ニューヨーク 1908-1968」(1977年)や「パリ―モスクワ 1900-1930」(1979年)などパリを中心とするフランスと他国の都市とのある時代の文化的関連に焦点を当てるような展覧会を催していた。したがって「前衛芸術の日本」も、日本がどのように西洋の前衛運動と関わったかを検証することを目的としていた。だが、そのアプローチは、特に日本の批評家や美術関係者からは、ヨーロッパ中心主義であるとの批判を受けることになった。この展覧会で扱う年代の区切りである1910年から70年という設定は、あくまでも国際的な前衛運動に対して設けられたものであり、日本のそれとは関係がない。またこの展覧会では、彼らが用いた「前衛」の概念に基づいて、ヨーロッパ的な観点からの日本美術紹介になったことが問題視された(17)。ここで興味深いのは、光山が指摘するように、こうした日本での批判に対して同展に関わった高階秀爾と千葉成夫が「この展覧会はフランスのイニシャティヴによってフランスの観客のために企画されたものであると述べてこれを擁護している(18)」ことである。つまり、フランス人のキュレーター(19)たちは、この展覧会がフランスの観客にとっては初めて20世紀の日本美術を包括的に紹介する展覧会となることを重要視し、観客が「慣れ親しんだヨーロッパ前衛美術運動の歴史に沿うかたちをとること」で、「日本美術には不案内な観客にも参照事項を与えられるだろうと考えた(20)」。しかし結果的には、こうしたキュレーター側の意図とは裏腹に、観客の大半は、この展覧会を通して、日本の前衛美術はヨーロッパの前衛美術の模倣であると受け止める結果になった(21)。
「ガイジン」のキュレーションによる「戦後日本の前衛美術」
1995年は、第二次世界大戦後50周年を迎える節目の年だったが、それに先立つ1年前の94年に「戦後日本の前衛美術」展が横浜美術館で企画され、その後94年から95年にかけてニューヨークとサンフランシスコに巡回した。この展覧会のキュレーションを担当したのは、当時ニューヨークと東京を拠点に活動していた20世紀の日本美術研究者でインディペンデント・キュレーターであったアメリカ人のアレクサンドラ・モンローだった。本展でモンローは日本の前衛美術がいかに「西洋美術の範疇で分類されることを拒み、理論の構築を「自己」の内に求めた(22)」かを描き出そうとし、日本国内の美術関係者のなかでもそれまでになかった視点を持ち込み、日本で大きな論争を引き起こした。それに対してモンローは、この展覧会が「ガイジン」によってキュレーションされたという「誤解」があったと弁明し、そうではなく、主催者である横浜美術館の学芸員との協議を踏まえながらキュレーションをおこなったと主張した(23)。だが、この点については、光山も指摘するように、本展のカタログに記載された主要テキストの大半を執筆したのはモンロー自身であり、「日本側がコンセプトのレヴェルで展覧会に本質的な貢献をしたとは考えにくい(24)」。光山は、モンローの高い日本語能力と日本文化に関する豊富な知見に根ざしたキュレーションによる本展とそれを支えてきた研究について、「戦後日本美術史の構成・修正に大きく寄与するところがあった(25)」と高く評価している。例えば、書や陶芸など、いわゆる伝統美術の分野で活動する前衛作家は、日本国内でも、戦後美術史の文脈のなかで見落とされてきていたが、この展覧会では墨人会(26)や走泥社など前衛書家や前衛陶芸家のグループに属する作家たちの作品も紹介され、こうした動きを再評価した。つまりこの展覧会は、日本のことをよくわかっていない「ガイジン」ではなく、日本研究を専門とするアメリカ人キュレーターが企画したものであり、日本美術の展覧会企画で、必ずしも日本人だけが優れた企画、より日本美術の実態に忠実なオーセンティックな(本物らしい)企画ができるとはかぎらないことを立証することになった。
このように海外で日本の現代美術を紹介した記念碑的な2つの展覧会である「前衛芸術の日本」と「戦後日本の前衛美術」は、性格は異なるものの、いずれも欧米出身のキュレーターが主導した展覧会であり、これまでにない切り口とスケールで欧米の観客に日本の現代美術を紹介することになった。しかしその手法に対して、現地だけでなく、(後者は横浜美術館で展覧されたこともあるが)、日本国内の美術関係者が物議を醸したことは興味深い。そこには、やはり日本美術のことは欧米人よりも日本人のキュレーターのほうがよりオーセンティックな企画ができるという幻想があったように思われる。それは、特に1990年代にアジアやアフリカなどの非西洋、非欧米地域(27)の現代美術を欧米に紹介する展覧会で、当の欧米諸国でも美術関係者の間でさまざまな物議を醸した動きとも関係している。そこで議論の中心になったのは、誰が誰(あるいは何)を誰のために表象するのか、といった問題だった。これは展覧会の場合で言えば、どこの国や地域出身のキュレーターが、どの国や地域の美術をどこの国や地域にいる観客に向けて企画するのか、という問題である。第2回では、ある特定の国や地域の美術を紹介する展覧会で、特に90年代に現代美術関係者の間で大きな問題になった「他者」の表象に関する論争から見ていこう。
注
(1)JTB総合研究所「インバウンド」「観光用語集」(https://www.tourism.jp/tourism-database/glossary/inbound/)
(2)観光庁「訪日旅行促進事業(訪日プロモーション)」(https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kokusai/vjc.html)
(3)本稿では、詳しく紹介できなかったが、東京都が進めている文化プログラムについては、「Tokyo Tokyo FESTIVAL」事業を参照されたい(https://tokyotokyofestival.jp)。
(4)東京都、大阪府、京都府、兵庫県の4都府県に2021年4月25日から5月11日まで発出。5月12日からは愛知県と福岡県も加わり、5月31日までの延長が決まった。緊急事態宣言に追加される県は2021年5月現在も増加傾向にあり、5月31日に解除される見通しも立っていない。
また5月12日からの延長に際して、当初、東京国立博物館、東京国立近代美術館、国立新美術館、国立科学博物館、国立映画アーカイブの国立館5館は開館、都の美術館・博物館は31日まで臨時休館延長となり、国と都での対応が異なるというちぐはぐな状況が生じた。これについて都からの要請を受けて、国立5館も休館を継続することが5月12日に決まった。
(5)オリンピック憲章と文化プログラムの関係については、文化審議会第14期文化政策部会(第2回)議事次第資料1-1文化庁説明資料参照。「文化プログラムの実施に向けた文化庁の取組について――2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を契機とした文化芸術立国実現のために」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/seisaku/14/02/pdf/shiryo1_1.pdf)
(6)“Reflections on the Cultural Olympiad and London 2012 Festival”(http://www.beatrizgarcia.net/wp-content/uploads/2013/05/Reflections_on_the_Cultural_Olympiad_and_London_2012_Festival.pdf)
(7)文化審議会第14期「文化芸術立国の実現を加速する文化政策(答申)――「新・文化庁」を目指す機能強化と2020年以降への遺産(レガシー)創出に向けた緊急提言」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_16/pdf/bunkageijutsu_rikkoku_toshin.pdf)
(8)例えば、東京国立博物館では、2018年の時点では中国人2人、韓国人2人、アメリカ人1人のスタッフが国際交流室という部署で業務にあたっている(東京国立博物館「多言語対応から感じた日本と中国の美意識」〔https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/06/29/多言語対応/〕)。
(9)日本博については、文化庁ウェブサイト「「日本博」について」(https://www.bunka.go.jp/seisaku/nihonhaku/pdf/r1413086_02.pdf)を参照のこと。「日本博」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp)
(10)例えば、「美術・文化財」と「メディア芸術」のそれぞれの分野の説明を比較して読んでみると、「メディア芸術」が「美術・文化財」から不自然に切り離されているような印象を受けるのは、私だけだろうか。文化庁「美術・文化財」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/art_and_cultural_treasures/)、「メディア芸術」(https://japanculturalexpo.bunka.go.jp/about/field-8/media_arts/)
(11)文化庁メディア芸術祭は、「アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門において優れた作品を顕彰するとともに、受賞作品の鑑賞機会を提供するメディア芸術の総合フェスティバル」であり、1997年から実施されている。詳細については文化庁「文化庁メディア芸術祭」(https://j-mediaarts.jp)を参照のこと。
(12)クールジャパン戦略については、内閣府の知的財産推進事務局による以下のウェブサイトを参照のこと。内閣府「クールジャパン戦略」(https://www.cao.go.jp/cool_japan/about/about.html)
(13)光山清子『海を渡る日本現代美術――欧米における展覧会史 1945~1995』勁草書房、2009年、65ページ
(14)国際交流基金に関しては拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)でも詳しく紹介しているので、参照されたい。
(15)両展覧会のデータについては、国際交流基金文化事業部編『国際交流基金展覧会記録――1972-2012』(国際交流基金、2013年)を参照した。
(16)前掲『海を渡る日本現代美術』158ページ
(17)同書159ページ
(18)同書161―162ページ
(19)同展では「コミッショナー」という呼称を使用しているが、キュレーターとほぼ同義なので、本文では便宜上、キュレーターと記す。
(20)前掲『海を渡る日本現代美術』162ページ
(21)同書162ページ
(22)同書167ページ
(23)同書166ページ
(24)同書166ページ
(25)同書168ページ
(26)墨人会は1952年に京都で結成された書家のグループ。走泥社は、48年に京都で結成された陶芸家のグループ。いずれもモンローが本展で紹介したことで、日本の現代美術史の文脈のなかに彼らの活動が位置づけられる大きなきっかけになった。例えば走泥社については、2019年に森美術館で特集展示が組まれ、本展示の共同企画者であったアーティストの中村裕太が、1950年代から60年代の現代陶芸に呼応する新作インスタレーションを発表するなど、ユニークな試みがおこなわれている。森美術館ウェブサイト「MAMリサーチ007:走泥社―現代陶芸のはじまりに」(https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamresearch007/index.html)
(27)本稿では、便宜上、「西洋」「欧米」といった用語を使用するが、「西洋」や「欧米」といった場合に、同じ西洋のなかでも正確には特に西欧諸国、また北米だけを指しており、東欧や北欧、中南米は、アジアやアフリカ諸国同様に長らく周縁地域とみなされていたことに留意することは重要である。
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