刊行後のよしなしごと――『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』を出版して

永吉雅夫

 この年齢になって、ようやく単著を一冊まとめた。それが本書である。かなりの原稿量になっていることはわかっていたが、500ページを超えるものになろうとは思いもよらなかった。しかし、いわば古参の初陣としては、それぐらいでかえって見苦しくなかったのではないかと、いまは思っている。
 刊行後のよしなしごとのあれこれを記してみよう。
 ちょうど、定年退職を1年前倒しして2020年度末での退職を伝えた時期でもあったのでいい区切りの一冊にはなったが、わたしに退職記念という意識はそもそもない。しかし、知人たちは、なるほど退職するんだと受け止め、そのように言ってくる人もあったので、いやいや、そうではありません、これを最初の一歩としてこれから……と応じると、ニコニコ顔であきれられた。
 あきれるというと、出版した本が『「戦時昭和」の作家たち――芥川賞と十五年戦争』であることに多くの知人がオドロイタ、そのことに、かえってわたし自身が驚かされた。なにも、読んで拍案驚奇、一読三嘆というような話ではない。知友諸氏の多くが、わたしを近世の文学・芸能の徒と見なしていたらしく、その男の出版物なら、いまの関心からいけば石川五右衛門か歌舞伎を扱ったものにちがいないと思ったらしい。確かに、大学での担当科目ということで言えば、近世文学関係のシラバスが同僚諸氏の目には触れることが多かったのだ。それが、「戦時昭和」で「芥川賞」だったから、友人が面食らったというのも無理はない面はある。しかし、わたし自身はずっと日本文学近世・近代を守備範囲と決めて、そのように文章も書いてきたつもりだったから、諸氏のそうした反応にこちらが驚かされたのである。主観と客観のズレ、というと大仰にすぎるが、しかし、セルフ・イメージと第三者の眼というものはなかなか一致し難いものかもしれない。
 それとは少しズレるが、まして、ご時世、自己の信念の前では第三者にどう見えるかなど塵、芥、そんなものにこだわるのは信念薄弱か、へたをすると単なる八方美人の風見鶏だと思われかねない。その結果、第三者の眼を仮構して自己を検証するという、オトナなら当然の自己省察までがスキップされてしまい、逆に確固たる自恃が疑われるような事態が出来しているのではないだろうか。
 たとえば、「教養がじゃまをする」という言い回しを聞かなくなって久しい。こういうふうにすれば自分が得をする、有利になるということはわかりきっているのだが、そうであるからこそかえってそのように振る舞うのははばかられる、自分で許せない、そんなとき苦笑交じりに「教養がじゃまをして」とつぶやいて、結局、みずから自分の得や有利を取り逃がしてしまう。現在では絶滅危惧を通り越して絶滅、はっきりと死語になってしまったとみえる。その言い回しには教養の一種の特権化のにおいもあって、現在ではそれはある程度、平準化されたから、という面もあるだろうが、それ以上に、大学の教育課程に占めていた教養部の解体を通じて教養の時代の終わりを促し後押しした結果、加速された現象かもしれない。
 かわりに台頭したのが「効率」だろう。それは「教養がじゃまをして」というような対処を、目的合理性を欠いた行動とみなす立場の展開である。目的が定まれば、精神的・物理的、そして時間的にいかにローコストでそれを実現し、成果を手に入れるか、その最短性こそがなにより優先され、二者択一の選択を繰り返す場に、教養というかたちのその人のいわば人間が投企されることはないのだろう。そう考えなければ、わたしのような昔人間には理解不能な出来事が、わたしの職場から永田町に至る日本だけでなくアメリカをはじめ世界規模で頻発している。「戦時昭和」の人間模様はけっして過去のことではない。
 コロナの時代でなかったなら、友人諸氏はきっとそれぞれに祝杯の誘いをかけてくれたことだろう。いつもなら飲もうと言う人たちも、まあ、高齢者同士だからお互い誘うのがはばかられるのだ。といって、オンライン飲み会のような新様式にはとてもなじめない。東京大空襲のあと、焼け出された永井荷風は、勝山(岡山)に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねる。先輩に対する谷崎夫婦の接遇は、宿や酒食から切符の手配に至るまで実に行き届いているばかりか、許されるかぎりの贅をつくしたものだった。荷風は、なかなかお目にかかれなくなった白米や牛肉そして日本酒に、涙を流さんばかりに「欣喜」する。モノがない時代ゆえの欣喜落涙でもあるが、戦火をくぐり抜けてともにする知己との飲食なればこその感慨も大きかったにちがいない。いまは、幸いモノはある。しかし、人間関係の一次的な直接性がおびやかされている。知己を目の当たりに実感する荷風の欣喜落涙は、現在、我々にどのように可能だろうか。

 

第29回 宝塚のWith CORONA

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 2020年初頭から猛威を振るう新型コロナウイルス感染拡大の波は、いったん収まったかに見えたものの再び感染者増加のきざしをみせ、予断を許さない状況に陥っています。宝塚歌劇団は4カ月間の休演ののち再開、宝塚大劇場、東京宝塚劇場、系列の梅田芸術劇場を中心に感染拡大に細心の注意を払いながら公演をおこなっています。『宝塚イズム』は次号で42号を迎え、コロナ禍のなかでいかに宝塚歌劇が生き残りをかけたか、スターたちの思いなどをくみ取りながら、各組の現況を特集するなど、現在、21年1月刊行に向けての編集作業が鋭意進んでいるところです。
 そんななか11月7日から宙組公演、ミュージカル『アナスタシア』(脚本・演出:稲葉太地)が宝塚大劇場で開幕しました。この作品は葵わかなと木下晴香のダブルキャストで3月から4月にかけて東京と大阪で上演される予定だったブロードウェイミュージカル『アナスタシア』と連動して、5月に宝塚でも上演されるはずの大作でした。しかし先行したミュージカルバージョンが緊急事態宣言によって東京公演途中で打ち切りとなり、大阪公演も中止。宝塚版もいったん公演が延期され、ようやく11月に上演される運びになったものです。半年遅れの公演となって話題性はなんとなくそがれた感じにはなりましたが、自粛期間中の長めの自主稽古が功を奏し、開幕した舞台は充実した仕上がりになりました。
 怪我の功名というには気が引けますが、『アナスタシア』に限らず、長い自粛期間のあとに再開した各組の舞台はいずれも緊張感がみなぎり、歌もダンスもエネルギッシュで、観ているこちらにまでその熱意がダイレクトに伝わってくるようなテンションの高さが印象的でした。再開初日に花組の柚香光、雪組の望海風斗、月組の珠城りょう、星組の礼真琴、そして宙組の真風涼帆がそれぞれフィナーレのあいさつで述べたのは、「当たり前に舞台に立てることの幸せをかみしめ、舞台が好き、宝塚が好きだということにあらためて思い至りました」という同じ言葉でした。
 7月の花組の客席は1席空けでの公演でしたが、9月の月組公演からは通常に戻り、11月の宙組公演も最前列だけ空席でしたが、あとは通常どおりの公演でした。ただ、舞台上は3密を避けるために出演人数を少なくして、下級生はA班、B班の2班構成。演奏も録音で、オケピットに指揮者が入って出演者に歌のきっかけを指示していました。
 とはいえ、客席には熱心なファンが連日大勢詰めかけ、大劇場は盛況が続いています。宝塚ファンの熱い思いが新型コロナも吹き飛ばしてくれるといいのですが、これから冬季に入って、再び感染が拡大しないとは誰も言い切れません。宝塚歌劇はすでに来年8月までのスケジュールを発表しています。ベートーベンの半生を描く雪組の『fff――フォルティッシッシモ』(作・演出:上田久美子)で新年を開け、フレンチミュージカルのヒット作を再演する星組の『ロミオとジュリエット』(潤色・演出:小池修一郎、演出:稲葉太地)やローマ皇帝の生涯を描いた花組の新作『アウグストス――尊厳ある者』(作・演出:田渕大輔)など話題作が並びます。感染が拡大して再び緊急事態宣言が出て公演延期などということにならないように祈るばかりです。
 新年刊行の『宝塚イズム42』の特集は、激動の2020年を振り返るというテーマで、各組がコロナ禍のなかでどんな活動をしてきたかをまとめています。トップ披露公演開幕直前で公演が延期に次ぐ延期となり、結局4カ月遅れで開幕したものの、感染者が出て再び休演という憂き目にあった花組の柚香光。同じく東京でのトップ披露公演が感染拡大で中止、延期になった星組の礼真琴。サヨナラ公演の日程がずれて、退団日が大幅にずれこんだ雪組の望海風斗と月組の珠城りょう。公演中止こそまぬがれたものの、公演スケジュールがずたずたになった宙組の真風涼帆。5組すべてがたどった大変な一年を愛を込めて記録しています。
 一方、2018年初頭に上演され、エポックメイキングな話題を呼んだ『ポーの一族』(脚本・演出:小池修一郎)が21年、退団した明日海りおの主演によって本格的なミュージカルとして再演されることになりました。トップスターが退団後、外部で宝塚での当たり役を再び演じるというのは『AIDAアイーダ』(2009年)の安蘭けい、『るろうに剣心』(2018年)の早霧せいなに次いで3人目。最近のトップ経験者の通過儀礼的なイベントになりつつあります。そのことの是非も含めて、『ポーの一族』再演への期待を特集しました。
 ほかにも64年間の宝塚生活にピリオドを打つ日舞のベテラン、専科の松本悠里の功績のまとめ、そしてOGインタビューは昨年、惜しまれながら退団した元月組の美弥るりかが登場、コロナ禍の活動など近況をたっぷり聞きました。
 毎回好評の公演評も、新人公演評はありませんが、大劇場公演評、外箱対談、OG公演評など、できるかぎり多くの公演を所収しています。お手元に届くのは新年早々になりますが、ご期待のうえ、お楽しみに。

 

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「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンをめぐって――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を出版して

桑原ヒサ子

 10月1日掲載の「原稿の余白に」ではナチス機関誌「女性展望」の全号を入手するまでの顛末を記したが、今回はナチ時代の女性の髪形について書きたい。
『ナチス機関誌「女性展望」を読む』のカバーには長い三つ編みを頭部に巻いた若い女性の絵を掲載している。全国女性指導者のゲルトルート・ショルツ=クリンクも同じヘアスタイルであることから、あの髪形には何かナチ的決まりごとがあるのではないか。もしそうであれば不可解なことがある、と知人から質問があった。「キリストの幕屋」という宗教団体に所属する女性たちが同じ髪形をしている、というのである。その団体はキリスト教団体であるものの、ユダヤ教を基軸にしているそうで、反ユダヤ主義を掲げたナチスと同じヘアスタイルをするのはおかしいのではないかとのことだった。
 この疑問に私は答えることはできない。しかし、あの髪形はナチスが考案したわけでも、ナチスの専売特許でもないから、ナチズムとは関係なくあの伝統的な髪形にこだわることは大いにありうる。

 髪形としての三つ編みの歴史はきわめて古く、古代エジプトの絵画や古代ギリシャの彫像にもお下げ髪は見られる。ルネサンス期の複雑な編み方を駆使したヘアスタイルを別にすれば、中世以降、お下げ髪であれ、三つ編みを頭部に巻くスタイルであれ、三つ編みは身分の高い女性の髪形というよりも、農村女性や下働きの女性、結婚前の若い女性の髪形だった。
 労働や家事をする際に長い髪を束ねたり結い上げたりすることは、動きやすさや安全性、衛生面でも理にかなっていただろう。そのうえ、三つ編みには装飾性もあった。少女たちがお下げ髪をする一方で、腰まで髪が伸びると、ようやく三つ編みを頭部に巻けるようになる。後者のヘアスタイルをドイツ語では「三つ編みの冠」(両耳脇から2本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)あるいは「農民の王冠」(1本の三つ編みを頭部に巻くスタイル)と呼んだ。

 ナチ時代には、「アーリア人的なのは三つ編みで、ショートヘアはユダヤ人的だ」のスローガンがあった。この表現では、一定のヘアスタイルの推奨というより、政治的な主張が髪形の違いに象徴的に込められている。「三つ編み」という表現には、長い髪という伝統的女性像と、ナチズムが重要視した農業を女性性として捉える意味合いが合体されている。しかし、ショルツ=クリンクとお下げ髪の少女のわずかな数の写真を除けば、三つ編みが見られるのは民族衣装をまとった農村女性を描く絵画がほとんどである。絵画はアーリア人的な金髪の三つ編みに碧眼のイデオロギーを真面目に描いたが、本書に掲載した写真に写る中産階級の女性たちのヘアスタイルには「三つ編みの冠」も「農民の王冠」も全く見られない。「三つ編み」という言葉には「時代遅れ」の意味もあった。若いナチ女性たちは、時代遅れの三つ編みではなく、流行の髪形、すなわちウエーブがかかったショートヘアを好んだのである。ウエーブをつける電気器具やエッセンスなど多種多様な宣伝広告が「女性展望」には載っている。どんなにナチ指導部がイデオロギーの発信をしても、流行を求める女心には届かず、「ユダヤ人的」ヘアスタイルのほうが好まれたのだった。ショルツ=クリンクは、全国女性指導者という立場から手本を示すために「三つ編みの冠を被った」のだろう。
「ショートヘアはユダヤ人的」という表現も、ドイツ革命によって誕生したヴァイマル共和国を批判する道具でしかない。社会主義者にユダヤ人が多かったことに加えて、ヴァイマル政府の政治家にもユダヤ系ドイツ人がいたし、男女同権を謳ったヴァイマル憲法もユダヤ系の憲法学者によって起草された。そうした女性解放の空気のなかで、ショートヘアにミニスカートの「新しい女性」が登場した。もちろん、ショートヘアの「新しい女性」がみなユダヤ人だったわけではなかった。しかし、それは問題ではなく、ショートヘアはユダヤ的ヴァイマル共和国、ヴァイマル憲法を表象していたのである。

「農村のヴィーナス」1939年
ヨーゼフ・ゲッベルスが1万5,000マルクで購入した。

 本書のカバーに掲載した三つ編みの女性の絵のタイトルは「赤い首飾り」である。画家はゼップ・ヒルツで、ナチ時代に農村画家として一世を風靡した。たびたびミュンヘンの「ドイツ芸術の家」における大ドイツ美術展で作品が展示され、1939年の「農村のヴィーナス」(図参照)で農村画家として不動の地位を築いた。ヒルツはヒトラーのお気に入りの画家のひとりで、総統はヒルツの作品をいくつも購入し、画家に土地を与えて、ベルクホーフの別荘を設計したアロイス・デガーノにヒルツのアトリエを建てさせている。さらにヒルツを「天分豊かな人々のリスト」に加え、召集を免除した。42年に「ドイツ芸術の家」に展示された「赤い首飾り」もヒトラーが5,000マルク(当時の高校教員の年収はおよそ4,000マルクだった)で購入した作品だった。「赤い首飾り」は現在、ベルリンのドイツ歴史博物館に所蔵されている。

 

泰斗がいう「根源」を見極めようとした――『苦学と立身と図書館――パブリック・ライブラリーと近代日本』を出版して

伊東達也

「図書館を受験勉強のためにのみ利用した青年が、将来図書館の真の利用者になるというような甘い夢におぼれてはならない。(略)この学生問題の発生の根は深いところにある。それを図書館だけで解決することも、また逆にこれに触れないで通ることもできない。積極的に地域の課題として問題提起をし、学校その他の機関とも交流しながら実情に応じて具体的に問題を解決する方向を打ちだしたい」(日本図書館協会『中小都市における公共図書館の運営』日本図書館協会、1963年、128―129ページ)

「ここで席貸しについて注意しなければならない。図書館は資料を提供するところであって、座席と机だけを提供するところではない。いいかえれば席貸しは図書館の機能ではない。(略)図書館は学生生徒を含めたすべての住民に資料提供というサービスをすべきである。学生に限らず誰に対しても、席貸しは図書館サービスとは言えない。もちろん席だけを求めてくる市民をしめだすことはできない。しかし、これによって図書館が繁昌しているような錯覚にとらわれないよう、また図書館サービスが圧迫されることのないようにしなければならない」(日本図書館協会『市民の図書館』日本図書館協会、1970年、15ページ)

 先日、本書に目をとめてくれた大先輩から、「前川さんが生きていたら、この本をみて何と言っただろうね」という言葉をもらった。
 今年2020年4月、惜しくも亡くなった図書館界の偉大なリーダー前川恒雄。日本の公共図書館に革命を起こした報告書『中小都市における公共図書館の運営』(通称『中小レポート』)の作成に深く関わり、「市民が自由に本を借りて読めることが民主社会の基本で、それを支えるのが図書館」という信念を貫いて、「何でも、いつでも、どこでも、誰でも」と、貸し出しによる住民への資料提供を第一とする図書館サービスの模範を示し続けた伝説のライブラリアンである。

「私が日野市立図書館を移動図書館一台だけでスタートさせた最大の理由は、閲覧室(つまり勉強部屋)のない図書館を作りたいということだった。(略)本当の図書館を日本で初めて作るには、まず図書館の意味を分ってもらわなければならず、そのためには図書館の最も根本の部分だけをとりだして、市民の前でやってみせなければ、どうにもならなかったのである。(略)場所を貸すところから本を貸すところに変わったとき、図書館は市民のものになった」(前川恒雄『われらの図書館』筑摩書房、1987年、15―17ページ)

 いまから25年前、開館したばかりの小図書館の司書だった私は、公共図書館づくりのバイブルだった『市民の図書館』の前川の教えに従って、読書席を占領している受験生一人ひとりを説得し、広報誌で市民と論争して、とにかく勉強しにくる学生を図書館から追い出そうと必死になっていた。『中小レポート』には、「この学生問題の発生の根は深いところにある」とある。ならばその「根源」を見極めてやろうと、その頃ふと思い立ったのが本書のもとになった研究の発端である。
 前川先生なら、何とおっしゃっただろうか。

 

重いものを軽くするには――『近代日本のジャズセンセーション』を書いて

青木 学

 出版してからの感想を述べたい。「苦労話」というほどのものではないが、制作時のエピソードをいくつか披露しよう。
 執筆の過程で労力を費やしたのは図版だった。掲載した図版は全部で149点。2、3ページに1回は図版に出くわすような内容である。もちろん、これは意図してやったことで、図版を多く載せたのには理由がある。
 編集の担当者である矢野未知生さんもウェブサイト「版元ドットコム」掲載のエッセー「博士論文を本にする」で指摘しているが、カタい博士論文をいかに広く多くの人に読んでもらうかというコンセプトは、自身も折に触れて重要だと思っていた。
 せっかく労力を費やして明らかになった事柄を、小難しい(読者にいちいち辞書を引いてもらうような)言葉をチョイスして伝えたい内容が濁ってしまうのは、執筆者と読者の双方にとってデメリットだし、基本的には伝わってこそ価値があると思う。ましてや一般書であればなおさらで、少しでも多くの人に理解されるような内容と構成に努めなければならない。そんな思いが自分のなかにもずっとあった。
 ただ、そう大きな口をたたいてはみるものの、もともとが「博士論文」という性質のうえに「ジャズ」という大変軟派なテーマを学術的なアプローチで提示することにこそ意味があるとも考えていたため、どうしても硬い表現になったり注釈が出てきてしまい、結果として、学術論文の域を出ることは難しかったように思う(たとえ論文であってもスルスル飲み込めるような感動的にうまい文章力が備わっていればよかったのだが……。大いに精進すべき点である)。
 それを案じて、論文特有の硬さをカバーするためにどうにか少しでも面白くなるようにと苦心した末が「図版」だった。精読しなくても、ページをめくるだけでなんだか気になる、目でも楽しめるような内容を目指した。
 しかし、肝心の図版収集にはずいぶんと時間かかった。「あとがき」でも触れたが、掲載している史料は音楽大学などが所蔵しているものが多く、そのため収集の際はあらゆる大学図書館、資料館などに出向いた。
 ご存じの方もいると思うが、大学の図書館を利用する場合は紹介状が必要で、毎週のように自身が所属する大学図書館のレファレンスを訪ねては申請を依頼していた。おそらく「また、こいつか」と思われていただろう。自分だったら、思う。
 それほどレファレンスの方々にはお世話になった。執筆にあたってもっともお世話になった方々といってもいいだろう。
 そんなことも含めて、史料収集は決して自身の力だけではなく様々な人の支えがなければ、書籍は仕上がらなかったことを改めて実感している。
 本当のところを言えば、掲載したい図版はもっともっとあったが、くどい印象を与えると察し、断腸の思いでカットした。それについてはどこかでお披露目できればと思う。
 あと、もうひとつ、「原稿の余白に」に記しておくことといえば、執筆時のモチベーションとの付き合い方だろうか。
 書籍はふがいないことにスケジュールどおりとはいかず、出版までに約3年の月日を要した「長期戦」だった。
 いくら音楽好きであり好きなテーマといえども、根性だけでは押し通せない。やはり、壁にもぶち当たる。そうなるとモチベーションの保ち方というのは重要で、音楽や映画など当時の風景をイメージできるものは何でも頼った。いかに気分を軽くするかである。はたから見れば遊びにしか見えないが、これが結構大事な要素だった。
 残念ながら、現在、100年以上前の話を鮮明に語れる人物などほとんどいない。その時点で100点満点の「正解」にたどり着くことはまずない。だからこそ、当時の感覚に少しでも近づこうとしながら書くことはとても重要な作業だと思っている。
 戦前の音楽や映画などに触れ続けていると、テレビも「YouTube」もサブスクリプションもない時代の感覚になったような不思議な感覚に陥るときがある。感覚的なタイムスリップというのだろうか。このときに得られる「もしかしたら、当時の人たちもこういう感覚だったのかもしれない」という感覚を自分ではとても大切にしていて、執筆時の原動力にもなった。そういう意味で、音楽や映画を含めた文化は過去に誘ってくれる魔法とさえ思っている。
 戦前・戦後を問わず、もしその時代の空気に触れたいときは、ぜひ残存する当時の文化に触れてみるといいだろう。きっと時代の理解に役立つはずである。
 本書を手に取る機会があれば、こうした「B面」もイメージしながら、気軽にページをめくっていただければ幸いである。

 

「女性展望」を探し集めた頃のこと――『ナチス機関誌「女性展望」を読む――女性表象、日常生活、戦時動員』を書いて

桑原ヒサ子

「よく集めたもんですね」と驚かれることがある。
「女性展望」の創刊は1932年だから、ほぼ90年前の出版物である。歴史的にはそう古くはないが、ナチ時代の官製雑誌だったから戦後ドイツの保存の意思はきわめて薄かった。いずれにせよ漏れなく集めるのは容易でないという驚きだろう。『ナチス機関誌「女性展望」を読む』を刊行して、「女性展望」を収集し始めた頃の大胆で幸運に恵まれた自分を思い出した。
 フェミニスト歴史家だった加納実紀代さんが勤務校である敬和学園大学に赴任され、第2次世界大戦期の女性雑誌などのメディアの表象分析を通して、戦争とジェンダーについて国際比較をする共同研究会を立ち上げた。2005年のことである。
 ドイツを担当することになったものの、ナチス期の女性雑誌は読んだことも見たこともなかった。少し調べたら、当時出版部数第1位だったのが「女性展望」とわかった。最も読まれていたのだから、これを取り上げるしかない。でも、どうやって集めるのか。
 ドイツ文学を研究していた私は、日本国内で手に入らない文献はドイツに出向いて探して、コピーしていた。2005年の夏は、まだ別の仕事の資料をゲッティンゲン大学図書館で探していたが、ついでに検索しても「女性展望」は出てこなかった。途方に暮れたが、ネット時代の到来が雑誌の収集を助けてくれることになった。

 自宅のパソコンから古書店のサイトに試しにアクセスしたら、なんと「女性展望」が売られているではないか。ナチ時代には牛乳1リットル程度だった価格は、1,000円から2,000円ほどになっていた。複数冊をまとめてたたき売りしている場合もあった。ドイツの大都市から名も知らぬ村まで、古書店の店主とどれだけメールのやりとりをしただろう。クレジットカードを使えず、郵便局から送金したこともあった。毎晩古書店サイトを探し回り、12年半にわたって発行された「女性展望」全282号中57パーセントを数カ月で一気呵成に手に入れた。しかし、その後は一向に出回らず、買い尽くした感があった。
 マニアックな収集熱は収まらず、2006年夏にドイツで収集するために、これまた自宅のパソコンから検索が可能になった大学図書館の蔵書を検索しまくった。案の定「女性展望」を所有する図書館はまれで、所蔵していても部分的だった。手元に欠けていたのは主に最初の2年間と廃刊までの2年半、そしてその間の購入できなかった号だった。検討を重ねた末、ハイデルベルク大学図書館、ベルリン国立図書館、エアランゲン大学図書館で残りすべてを手に入れられることがわかった。

 まずハイデルベルクの司書にメールした。すぐに返信があり、確認したところ閲覧に堪えられる状態ではないということだった。それで、図書館が所有する最後の3年半分すべてをデジタル化して私のためにCDを作ってもいいというのである。その費用の半分の400ユーロを私が負担するという条件だった。由緒正しきハイデルベルク大学図書館が、見ず知らずの個人とこんな交渉をするかと唖然としたが、古書店で相場を熟知していた私には願ってもない申し出だった。さらに驚いたのは、「女性展望」の全号のデジタル化を計画し、私が作成した「女性展望」所蔵大学図書館リストに従って、まずエアランゲン大学図書館に話をもちかけたということだ。当時、どの図書館も書籍のオンライン化を進めていた。しかしエアランゲンの回答は、よりにもよってなぜナチズム関係の雑誌を優先するのかという拒絶だったそうだ。
 私はハイデルベルク大学図書館を予定どおり訪れてCDを受け取った。そのうえ図書館は、ベルリンから私が必要としたマイクロフィルムを取り寄せておき、デジタル撮影機器を手配してくれていた。私は、ベルリンへ行かずして、デジタル撮影が無料でできたのである。
 エアランゲンでも問題は生じた。デジタル撮影を依頼していたが、撮影係がバカンスで不在のため、私のドイツ滞在中にCDを手渡すことは無理だと言われたのだ。だが、撮影代金を前払いすれば、日本に郵送するという。前払いは心配だったが、初秋にはちゃんと、創刊から2年分の2枚のCDが自宅に届いた。こうして私は「女性展望」のすべての号を手に入れたのである。

 ハイデルベルク大学図書館で現在、「女性展望」の1941年7月第1号から廃刊になる1944/45年号まで誰でもどこにいてもオンラインで簡単に閲覧できるのは、私の問い合わせがきっかけになり、私が資金の半分を捻出したからである。ネット上の私の論文を読んだという明治大学の女子大生から2016年にメールがあって、「女性展望」を読んでみたいと言ってきた。そこで、ハイデルベルクのことを紹介した。念のためにサイトをひさしぶりに開いたら、「女性展望」の号数検索画面に進む前に、06年にはなかった警告画面が現れた。
「ハイデルベルク大学図書館は「デジタル図書館」で学問・研究・教育の目的で現代史の資料を公開しています。この資料のなかにはナチズムの時代の雑誌・新聞も含まれていることを注意しておきます。ハイデルベルク大学図書館は、いかなる人種差別、暴力賛美、そして国民社会主義的内容から距離を置くことを表明します」
 ドイツでは、20世紀末以来ネオ・ナチズムや保守化が問題になっている。一見誇張してみえる図書館のこの表明には、ナチズムに対して現在もなお堅持されている厳しい公的姿勢を見て取ることができるだろう。

 

実録! 書名が決まるまで――『面白いほどわかる!クラシック入門』を書いて

松本大輔

著者
そうそう、一応自分が考えているタイトルは『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』かな~と。

編集者
出版条件;書名;16歳からのクラシック入門

著者
タイトルは『16歳からのクラシック入門』でいきますか??
50代女子も読んでくれますかね・・・
対象を絞らない意味では『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』も好きですが。
著者
うちの50代女子は「「16歳から」でも買う人は買う、かえってそのほうがインパクトある」、とも申しておりました。サブタイトルはありですか?

編集者
理屈から言えば「16歳から100歳まで」なんですが(笑)、読者にはどう伝わるか、ですね。サブなしで一本勝負と考えていますが。

著者
あれから本のタイトルのことをいろいろアンケート取ってたのですが、「「16歳からの」と題名についてたら手に取らないと思う」、「「16歳から」だと読者を限定しそう」というような意見が多かったです。
うちのかみさんにいたっては「16歳からっていわれたら自分は関係ないと思うわ」と言ってました。
まあ一番の問題はあの本を書いた自分自身が、あの本のターゲットを40、50代の初心者に置いていたので、「16歳からの」という意識をまったく持って書いてないことですが。

編集者
書名、そうですか。では、
『いちばんやさしいクラシック入門』
『クラシック音楽って簡単!――14歳から大人までの入門書』
『やさしい!簡単!クラシック入門』
などでしょうか。もっと考えます。
松本さんも、『世界で一番やさしいクラシック音楽入門』のほかにいくつかご提案ください。
当社は「世界一」などの語感にどうも腰が引けるので。
総合して決めましょう。
編集者
社内から大募集中です。あとでメールします。
私案
『交響曲を聴けばわかる!クラシック入門』
『交響曲から始めるクラシック入門』
などはどうですか?

著者
唯一原稿を呼んだスタッフが「決して世界一やさしくはないと思いますが」と言ってました・・・^^;
ただ、「やさしい」「はいりこみやすい」「聴きたくなる」というのはウリにしたいのですよね・・・
いっぱい出てきたので、いただいた候補と一緒に列挙します。
『いちばんやさしいクラシック入門』
『やさしい!クラシック入門 ~14歳から大人まで』
『交響曲を聴けばわかる!やさしいクラシック入門』
『きっと聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
『まつもと兄弟クラシックの旅 やさしい!クラシック入門』
『まつもと兄弟クラシックの旅 聴きたくなるクラシック入門』
『クラシック音楽って簡単!――14歳から大人までの入門書』
『やさしい!簡単!クラシック入門』
『交響曲を聴けばわかる!クラシック入門』
『交響曲から始めるクラシック入門』
何か思いついたらぜひお知らせください!

編集者
書名は「メインに交響曲があると、入門者にはハードルが高い=そもそも交響曲が何かを知らないから」という社内意見もあって、迷いに迷っています。

著者
それは言えてるかも・・・
そもそも交響曲が何かを知らない人に読ませたいので書名に交響曲があると手にも取ってくれない・・・
著者
書名候補追加
『聴きたくなる!クラシック入門の旅』
自分がこの本を書いていたときの気持ちに一番近いかも。

編集者
あと二晩考えますが、社内からは以下が出ました。
『みんな最初はクラシックがわからなかった――やさしいクラシック音楽入門』
『クラシックの聴き方がわかる本』
『クラシックは交響曲を聴けばだいたいわかる』
『ゼロからわかるクラシック入門』
『入門 クラシックの世界』
『何から聴けばいいかわからない人のためのクラシック入門』
『クラシックの良さがわからない――16歳からのクラシック入門』
『ベートーヴェンがわからない――16歳からのクラシック入門』(モーツァルトでも)
『誰もがはじめはクラシックを知らない――交響楽でたどる早わかり入門書』
『クラシックは交響曲から聴こう!――14歳から大人までの入門書』
『交響曲で学ぶざっくりクラシック入門――14歳から大人までの入門書』
で、いまのところ一番人気は
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
です。
「の旅」はヨーロッパ観光ガイドと誤解される、という意見が大勢です。
とりあえず。

著者
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
いいですね~!
『絶対聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
という意見も出てきました。^^
> 「の旅」はヨーロッパ観光ガイドと誤解される、という意見が大勢です。
な、なるほど・・・確かに・・・

編集者
書名を
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
で決めたいのですが、いかがでしょうか。

著者
> 『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
了解です!
これがすっきりです!!
よろしくおねがいします。

編集者
諦めが悪くてスミマセン。最後の最後の案です。
『聴きたくなる!やさしいクラシック入門』
で決めましたが、
『クラシックが面白いほどわかる!』
『クラシックが面白いほどわかる!―――14歳からの入門書』
のどちらかは、やはりNGでしょうか。

著者
> 『クラシックが面白いほどわかる!』
あ、『面白いほどわかる!クラシック入門』はどうですか??
確かに他の入門書に比べたら「面白い」かなと思うし・・・
あ、
「たのしいクラシック入門!」
とか。。。
「年齢入れ」は不評なのでやめておくとして。
よけい混乱させてしまいましたね。

編集者
では、
『面白いほどわかる!クラシック入門』
で決定します。もう、変えません!

著者
> 『面白いほどわかる!クラシック入門』
よろしくおねがいします!

 

ギモン4:作品って何?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「作品」は誰が作るのか

 これまで美術館をはじめとする、「作品」を展示する環境と、その歴史的な成り立ち、また「作品」が展覧会での展示を通して「作品」として成立するうえでのキュレーターの役割などについて見てきた。これらのギモンでは、アーティストが「作品」を作り、キュレーターがそれを「展示」する、という大前提を基本にしていた。だが、ギモン1で少し触れた1990年代以降に急増した参加型の作品は、作品が成立するうえでアーティスト以外の複数の人が関わることが多く、こうした「大前提」にさまざまな問いを投げかけている。
 ところで、「作品」を複数の人による協働作業で作る、という行為自体は、美術史的に見れば、実は新しいものではない。ヨーロッパでは、特に中世からルネサンス期にかけて工房制度が長きにわたってあり、絵画の制作は、アーティスト個人の表現活動というよりは、工房で分業による集団作業でおこなわれていた。近代以降、師弟関係に基づく工房制度の時代とは、美術作品の制作のあり方も様変わりしたが(1)、現代美術では、単一の作者としてのアーティストという存在にかわって、地域住民や観客が作品の制作に関わることがごく一般的になってきた。例えばギモン1に登場したリクリット・ティラヴァーニャの「無題(デモステーション)」シリーズを思い起こしてみよう。展覧会の会期中、会場に用意された仮設舞台を、地元のバンドや俳優といった人たちが活用していき、そのプログラム自体が、作品の完成に結び付く。ティラヴァーニャは、作品のための設えを用意し、ファシリテーター的にそこでの出来事を見守る。このような展覧会においては、「作品」は誰が作ると言えるだろうか。そしてこうして作られた「作品」は、誰のものと言えるだろうか。またキュレーターは、こうした作品の「展示」に対して、どのような役割を担うのだろうか。
 今回のギモンでは、「作品」とは何かを考えるなかで、特に「作品」の作り手にまつわるギモンに着目し、近年盛んになっている参加型の作品や、アーティスト以外の人々との協働制作の形式をとるような作品を中心に、具体的な事例をいくつか見ながら、参加者・観客側の視点から考えていこう。またそれを受けて、あらためてキュレーターの役割についても考察してみたい。

「参加型」アートとは?

 ここで「参加型」という言葉の、本稿での位置づけを明確にしておきたい。そもそも展覧会は、観客が来て、作品を鑑賞する、という行為のもとに成り立っている。絵画や彫刻作品を観て、それについて観客が何かを感じる、ということも広義の「参加」にはなるかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの感染拡大による美術館休館ですっかりおなじみになった、オンラインでのライブ配信型の作品やVR(仮想現実)で撮影された展覧会を視聴することも「参加」と言えるだろう。逆に作品との直接的な接触などを伴ういわゆるインタラクティブ(相互作用的)な作品を思い浮かべる人もいるかもしれない。ボタンを押したら何かが動作するとか、観客が展示室に入るとセンサーが観客の動きを感知して映像のプロジェクションや音などに反映される、といったタイプの作品だ。極端な話、どの作品も、最終的には鑑賞者がいてはじめて作品が完成する、とも言える。だが、本稿で主に扱う「参加型」の作品は、観客や地域住民などが参加するプロセスそのものが、作品成立に深く関わっている類いのもの、そしてその結果を「展覧会」という枠組みのなかで展示する作品を論じることにしたい。例えば、台湾出身でニューヨーク在住のリー・ミンウェイは、1990年代から作家自身と参加者による直接の対話に基づくプロジェクトや、展覧会場を訪れた人が、リーの設えた環境で、何らかの作業や行為をすることを作品化したプロジェクトを数多く発表している。ニューヨークのロンバード=フレイド・ギャラリーで2000年におこなわれた「プロジェクト・ともに眠る(The Sleeping Project)」では、画廊のなかに作られた隣り合ったベッドをもつ寝室空間で、抽選により招かれたゲストがリーと一夜をともにし、さまざまな出来事を語り合う。ゲストは、普段、自分が眠る際に手元に置いている時計や写真立てなどの私物を持参し、ベッド脇のナイトテーブルに置いて帰る。会場を訪れた人は、ナイトテーブルの上に残されたものを見ながら、そこで交わされた会話などを想像する。この作品は、もともとリーが高校生のときに夜行列車でパリからプラハに向かった際に乗り合わせた年配のポーランド人男性と一晩を過ごした体験から着想を得ている。その人物はホロコーストの生還者で、当時の収容所での様子や体験などをリーに語り終えたあと、眠りについた。だがリーは、話を聞いて、その昔、もしかしたらいま、自分が乗っている列車と同じ線路のうえを走っていた列車に夜通し乗せられて、朝まで生きながらえなかった人もいたかもしれないなどと思いをめぐらせ、眠ることができなかった。この私的で強烈な体験をもとに、何年もたってから、「眠る」ことと、「(誰かと)ともに眠る」ことについて、作品にしようと考えたのがこのプロジェクトだったと彼は語っている(2)。このように自分以外の誰かと行為をともにすることが、リーの作品の根幹をなしている。その行為は、作家と直接協働作業をおこなう場合もあれば、展覧会場で観客の手に委ねられることもある。例えば「プロジェクト・手紙をつづる(The Letter Writing Project)」(1998年)では、会場内に障子の部屋を思わせる、すりガラスと木枠で三方を囲まれた3つのブースが設けられ、観客は、そのブースのなかに入って手紙を書いたり、読んだりすることができる。ブースのなかには机と便箋と封筒が置いてあり、観客は、誰かへの感謝、許し、あるいは謝罪の手紙を書くように促される。手紙を書き終えたら、持ち帰らずにブースの内側の壁に設えられた木枠に手紙を挟んでその場をあとにする。手紙の封はしてもしなくてもいいが、封をしていない手紙はほかの人が自由に読んでいいことになっている。そして封筒の表に送り先の住所が書いてあれば、作家か美術館スタッフがかわりに投函してくれる、というプロジェクトだ。ここでは、手紙を書く、あるいは読むという観客の参加、そしてその行為によってそれぞれが個人のストーリーに思いをめぐらすことが作品の重要な一部になっている。
 リーやティラヴァーニャのような参加型作品は、最終的な発表の場が美術館やギャラリーでの展覧会のことが多いが、こうした地域住民や観客の直接参加などを伴う作品は、1990年代後半から、リレーショナル・アート、コミュニティ・アート、あるいはソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)といった名称で、地方自治体や学校でのアートプロジェクトやワークショップとして美術館やギャラリー以外の場所でも実施される機会も多く見られる。例えばイギリスのアーティストであるジェレミー・デラーは、何らかの共通項をもつ地域住民など特定のコミュニティと協働して作品を制作することで知られている。初期代表作の一つ、『アシッド・ブラス』(1997年)は、街中のブラスバンドと、電子音楽とクラブ・カルチャーに端を発するアシッド・ハウスという一見全く異なる音楽文化の間に奇妙な共通性を見つけたデラーが、イングランド北部の町ストックポートを拠点として活動するブラスバンドにアシッド・ハウスの生演奏を依頼したことから始まったプロジェクトだ(3)。『アシッド・ブラス』は瞬く間に人気を博し、イギリス各地で演奏されたほか、アルバムも発売されて、バンドのレパートリーとしても演奏される長期プロジェクトになった。この作品についてデラーは、自身の制作のターニング・ポイントだったと述べている。「モノ(オブジェ)を作らなくてもいいんだ、と気づいた。こんなふうにイベントをやって、何かを巻き起こして、それを人々と一緒にやって楽しめばいいんだ。乱雑で野放しでオープンエンドなプロジェクトをすることで、伝統的なアーティスト像にこだわらなくてもよくなった。ブラスバンドが僕を解放してくれたんだ(4)」。デラーのプロジェクトは、単なる音楽のコラボレーションの域を超えて、それぞれの背景にある社会史を浮き彫りにし、異なるコミュニティ同士の新しい出会いを生み出すなど、さまざまな広がりを見せるプロジェクトになった。このように参加型作品の多くは、絵画や彫刻などのように物質的な「作品」として残るのではなく、何らかの出来事が起こり、そのプロセスや結果が共有されることそのものが「作品」になることを特徴としている。よって作品の形態も美術館での展示だけではなく、街中などでおこなわれるパフォーマンスやイベント、あるいはコンサートや映画など多岐にわたるケースも多い。だが、こうした作品を実現するにあたっては、展覧会やアートプロジェクトなど、アートの枠組みがその背景にあることがほとんどである。
 デラーは、このような手法を国際展の場でも取り入れている。例えば、ギモン1で少し触れたミュンスター彫刻プロジェクトは、ドイツの中世の面影が色濃く残る街ミュンスターで10年に一度開催される大型の国際展だが、デラーは2007年に参加した際に次回開催の10年後である17年まで続く作品を発表した。デラーは、ドイツで盛んな「クラインガルテン」、あるいはクラインガルテン運動を広めたシュレーバー博士の名にちなんで「シュレーバーガルテン」と呼ばれる市民農園に着目した。そしてミュンスター郊外にある50以上のクラインガルテン協会に、各農園での四季折々の天候や植物の移り変わりの様子、各協会での社会的・政治的な活動などを10年間にわたって日誌に記録してもらうよう依頼した。10年後の17年には、そのうちの一つのクラインガルテン内にある小屋に、各農園の10年にわたる日誌約30冊を自由に閲覧できるスペースを設けた(5)。各日誌にはそれぞれの農園の個性が反映されていて、家族やメンバーで集まってバーベキューやパーティーをしたときの写真や、収穫された野菜の写真、新聞や雑誌の切り抜きなどが思い思いにスクラップされ、子どもたちが描いた絵やメンバーが書いた詩などとともにつづられていった。またミュンスター彫刻プロジェクトに訪れた人も、メッセージやイラストなどを記すことができるように、農園のメンバーが使っていたものと同じ様式の白紙の日誌も用意され、会期中次々と来場者によって書きつづられていった。
 クラインガルテンの活動自体は、デラーの呼びかけとは関係なくドイツで200年以上の長きにわたって市民に親しまれている営みである。そのため、それだけでは「作品」にはならない。だが、アーティストが展覧会という仕組みや仕掛けを使って、普段であれば、関わっている当事者たちも気がつかないような人々の市民農園での活動を、当事者たち、市民農園のことを知らない人々、国内外から集まる展覧会の観客に、目に見える形で提示、共有する場を農園のメンバーたちと10年という長いスパンをかけて作っていくことで、一つの「作品」になった。このように参加型アート作品は、それを通してさまざまな人々が有形無形のつながりをもつことが特徴である。また、参加型作品の大半は、長くても2、3ヶ月程度の会期の展覧会に向けて準備され、そのあとは終了してしまうのだが、『アシッド・ブラス』やクラインガルテンでのデラーの息の長い活動は、展覧会やアート作品の枠組みを横断しながら、それらを超えて、参加者側がその試みに自発的に参加し、ともに作り上げていると言えるだろう。また通常は、展覧会での発表が作品の最終的な完成形だと見なされがちな参加型作品だが、このように長期のプロジェクトでは、どこまで(いつまで)参加すれば、その作品が完成したと言えるのか、どこからどこまでが「作品」なのか、という問いを図らずも投げかけている。

「作品」は誰のものなのか

 さて、ここでいま一度考えたいのは、こうした協働制作などを伴う参加型作品は誰のものなのか、またどこまでが作家の手によるもので、どこからが参加者の手によるものなのか、というギモンである。それを考えるうえで、2000年にロンドン北部の小学校の児童がイギリス人アーティストのトレイシー・エミンと作った作品をめぐるエピソードを1つ紹介したい。この作品は、ロンドン北部と東部にある教会や礼拝堂などの宗教施設でおこなわれた「聖なるところにあるアート(Art in Sacred Spaces)」という著名な現代美術作家12人によるグループ展の一環として展示されたものだった。エミンは、小学校の8歳児12人に「美しいと思うものを教えて」というテーマで、言葉を募るワークショップをおこなった。そして「木」「日の出」「イルカ」「おばあちゃん」などの単語をつづったフェルトの文字が、子どもたちが持ち寄ったカラフルな端切れに子どもたち自身の手によって縫い付けられていった。最終的には、こうして制作したパッチワークでできたキルトを、地元の教会の祭壇に1週間展示した。ここまでは、よくある地元の子どもたちとのワークショップで協働制作された作品の話で、普段は自らのプライベートを暴くようなスキャンダラスな作品で知られるエミンの別の一面を見せるプロジェクトで終わるはずだった。だが、話はこれで終わらなかった。展覧会から約4年たった04年に、この作品をめぐる騒動が起きたのだ。作品を保管していた小学校が、この作品を長期間、安全かつ劣化しない形で保管するための方策として、アクリル製の展示ケースを製作してはどうかと見積もったところ、4,000ポンドかかるとわかった。そのような費用を捻出することが難しいと判断した学校が、苦肉の策として、同作品を競売にかけて、その売り上げ(3万ポンドから3万5,000ポンド相当の見込み)を同校の芸術棟を充実させるために有効活用しようとした。だが、オークションハウスで有名なサザビーズは、この作品をまずはエミン本人が自身の作品だと認めないかぎり、作品の価値は端切れ代程度にしかならない、と学校側に伝えた。これに対してエミンは、もし作品を競売にかけるのであれば、それを自分の作品だと認めることを拒否するばかりか、作品の返還も求めると言い出す騒ぎになった。最終的にはこの騒ぎの顛末は、展示ケースのための費用4,000ポンドをエミンが負担する、ということで決着がついた(6)。作品を実際に00年に制作したときには、エミンがコンセプトを考え、子どもたちとのワークショップにも立ち会い、エミンが参加するグループ展の一環として展示された。だが、このキルト作品が「トレイシー・エミンの作品」として、いざ評価額をつけるとなったとき、それは純粋に作家の作品と言えるのか、それとも協働制作者である子どもたちもまた作家と言えるのか、また作った作品は一体誰のものなのか、という作家と作品の曖昧な関係性を図らずも明るみに出すことになった。一口に「協働制作」と言っても、参加している側の作品への作り手としての意識や作品に対する思い入れ、そして作家自身の参加者や作品に対する考え方は、作家によって一律ではないし、同じ作家による同じ枠組みで実施されたプロジェクトであっても、関わる人々が変われば異なってくるかもしれない。ここで「作品」の作り手についての考察をもう一歩進めていくうえで、エミンのプロジェクトとは全く異なる参加型アートを実践している、藤浩志の「かえっこ/Kaekko」を紹介したい。

システムとしての「作品」

「かえっこ」は、藤浩志が2000年から始めたプロジェクトの総称で、家庭で不要になったおもちゃを交換するという仕組みそのものを作品化した、いわばシステム型の作品である。もともとは1997年頃に藤の家で生じたゴミ出し問題に端を発し、家庭内でゴミを排出せずに、ゴミを再利用して表現行為に転換する「家庭内ゴミゼロエミッション」プロジェクトが「かえっこ」へと繋がった。そこから2000年の福岡アジア美術館での開館1周年イベントの一環として開催されたアーティストフリーマーケットに、藤が自身の子どもたちと出店したことがきっかけになり、その後、子ども向けのワークショップとして国内外の美術館やアートプロジェクトの場で「かえっこバザール」などの名称で盛んに開催されるようになった。そのなかで、交換したおもちゃがかえっこバンクで「カエルポイント」として発行され、その貯まったポイントで気に入ったおもちゃを購入したり、オークションをおこなったりする仕組みが生まれた。また、おもちゃをもってこなくても、スタッフとして「かえっこ」の運営を手伝ったり、ワークショップの活動に参加するとカエルポイントがもらえるなど、おもちゃの交換をめぐってさまざまな活動が誘発される仕組みが整えられていった(7)。のちにこのシステムそのものを「Kaekko」というローマ字で藤は使い分けている。ここで注目したいのは、この「かえっこ/Kaekko」が、瞬く間に美術館やアートプロジェクトでおこなわれるアーティスト藤浩志のワークショップ型プロジェクトから、誰でも開催できるシステム型プロジェクトとして広まり、環境問題に関心があるNPOや子育て支援グループ、街づくりの関係者など、従来のアートに従事する層とは異なる団体などがこぞって開催するようになったことだ。「かえっこ」を開催するにあたっては、藤の妻である藤容子が担当するかえっこ事務局に連絡をすると、開催情報のウェブ掲載などの広報協力を受けることができるほか、カエルポイントを押すためのカエルスタンプやかえっこカードなどの開催に必要なツール、最初のおもちゃの貸し出しなどを受けることができる。だが、ここで「かえっこ」がほかの参加型作品と大きく異なる特徴的な点は、「かえっこ」の開催の規模や目的は、主催者の裁量に任されているということだ。つまり「Kaekko」は、システムとして誰でも使えるようになっていて、そこにはもはやアーティスト藤浩志の名前は登場しない。私も当初は「かえっこ」を藤のワークショップ型プロジェクトとして認識して、実際に美術館やアートプロジェクトの現場で開催された「かえっこ」を見てきたのだが、ある日、ローカルのニュース番組で「かえっこ」が取り上げられていたのを目にして、ちょっとしたショックを受けた。その番組では、とあるNPO団体(子育て支援系だったか、街づくり系だったかは記憶が定かではないが)の女性の主宰者が、「かえっこ」を開催していて、その活動について生き生きとした口調で語っている様子が取材されていた。そこに映る映像は、以前、藤のプロジェクトとして見ていた「かえっこ」そのものだった。おもちゃを交換する仕組みや、カエルポイント、運営をお手伝いする子どもたちなどが、レポーターにより「市民による素敵な取り組み」風に紹介されていた。だが、ニュースレポートはそこで完結し、それがもともとは藤浩志の発案だったことや、アート作品であることなどには全く言及がなく、当時、「え、これって藤さんの作品だよね? 著作権、大丈夫なの?!」とあらぬ心配をしてしまったことを覚えている。藤は「かえっこ」について次のように述べている。「《かえっこ》は最初から「仕組み」の表現作品だと考えていました。使う人がコンセプトやプログラムを決めることでどんどん変わっていくタイプの作品です(8)」。さらに藤は、このシステムとしての「Kaekko」をそこで終わりにせず、それを利用して『Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)』というインスタレーション作品として再び一つの形ある「作品」として引き戻す作業をおこなっている(9)。『Happy Paradies』は、マクドナルドの子ども向けのおもちゃ付きセットで知られる「ハッピーセット」でもらえるおもちゃと、それに類似したおもちゃ約14,000個、おもちゃの一部や破片約250個、おもちゃで作られた『夢の鳥』や『Toys Saurus』などの複数のオブジェからなるインスタレーション作品である。これらの素材になった大量のおもちゃは、全国で開催される「かえっこ」事業の終了後に残ったおもちゃが返却される過程で、次の「かえっこ」へと循環して活用されることがない、いわば「子どもたちでさえ不要と思うおもちゃ」である。それらを色や形、大きさ、キャラクターなどによって数百種類に分類し、インスタレーション作品の素材として用いている(10)。さらにこの作品を展示する際には、「美術大学の学生との関係を尊重し、同じような、あるいは理想的にはもっと若い、まだ感性が柔らかい状態の学生」が、作家の指示どおりではなく、「自らの感性と意志で自由に並べること」を重視している(11)。このように「Kaekko」から派生した『Happy Paradies』もまた、形ある「作品」でありながらも、複数の他者の手による開かれた展示のシステムを提供している作品になっている。エミンの作品で争点になった協働制作による作品の「作家性」は、藤の「Kaekko」や『Happy Paradies』では軽やかに解体されてしまい、物理的なモノではなく、システムそのものに宿る。藤のこのような実践は、小説などの文学作品の作者と読者の関係を想起させる。小説などの作品を書くのは作者だが、その作品をめぐる多様な解釈は、実際に作品を読む読者一人ひとりの手に委ねられていて、作者自身の作品に込めた意図に必ずしも縛られることはない。ここで参加型アートにおける作家についての考えを深めるための手がかりとして、文学作品での作者と読者の関係をめぐる議論を少しのぞいてみよう。

参加型アートの「作者」とは?

 文学作品などの「作者」については、1960年代のフランスで、ロラン・バルトが『作者の死』(1968年)、ミシェル・フーコーが『作者とは何か?』(1969年)と相次いで論考を発表している。なかでもバルトは、「作者の死」という象徴的な言葉で、テキストをめぐる作者と読者の関係について論じていて、その考え方はアートの理論にも大きな影響を与えている。バルトは、「一遍のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュール〔引用注:「書かれた言葉」〕によって構成され(12)」た「引用の織物である(13)」と言う。そしてこの多元的なエクリチュールによって織物のように編まれた作品の「多元性が収斂する場」は、「作者ではなく、読者である」とし、次のように結論づける。「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならないのだ(14)」。つまり、作者が書いた織物のようなものである作品は、作者の手を離れて、読者によって自由に解釈されていくというのだ。それまで作者というのは、作品の意図や解釈を支配する神のような存在と思われていた。だがバルトの「作者の死」は、作者ではなく、作品の受け手である読者がその作品を読む行為によってそれぞれの意味を見いだすと説く。これは、従来の作者と作品の関係性を根本から問い直すような考え方だ。それは、まるで美術作品の唯一の作り手とされてきたアーティストと作品の関係性が、参加型アートの台頭によって揺らぐさまと呼応しているかのようだ。例えば、先に見た藤の「Kaekko」システムは、参加者・鑑賞者によって藤浩志という一人のアーティストの手から離れて、自由に運用され、享受されている。だが、このことは、「Kaekko」というシステム型作品を生み出した藤自身の存在を完全に消し去ってしまうわけではない。
 バルトが言う「作者の死」に対して、フーコーは作者について、実在するものとして異を唱えている。ただし、ある一冊の書物を記した一個人としての作者、という存在としてではなく、作者というものが果たす「機能」に着目し、作家と作品の関係性をさまざまな角度から分析している。例えば、ジークムント・フロイトというのは単に『夢判断』という本の作者であるだけではなく精神分析学の創始者であり、それによって精神分析に関するさまざまなテキスト、概念、仮説などの言説を生み出す機能をもっている(15)、と説く。フーコーは、「機能としての作者」は、「言説の世界を取りかこみ、限定し、分節する法的制度的システムと結びつく」と言う。そしてそれは、時代や文明の形態によって「一律に同じ仕方で作用するものではない」と指摘している。さらにフーコーは、こうして生まれた言説は、それを生み出した「ある現実の個人」に帰属させるのではなく、「複数の立場=主体を同時に成立させることができる(17)」と述べている。美術作品に当てはめて考えてみると、バルトやフーコーの「作者」と「作品」をめぐる論考は、参加型アートにおいて、非常に興味深い視点を与えてくれる。作家と鑑賞者が、それぞれ作品の「作り手」と「受け手」としてはっきりと分断されていた従来の作品と異なり、参加型アートの場合、鑑賞者も書き手になり、織物のように作品を作り出していく。ただしそこで作者はバルトが言うような「死」を迎えるのではなく、フーコーが言うように作者も鑑賞者も複数の作り手になり、多元的・主体的に作品を形成していく。それぞれの作家の作品は、もともとは作家の個人的な原体験などから着想を得て、生まれているが(リクリットの祖母の家での料理、リーの夜行列車での体験など)、それが参加者を招くことで、それぞれの参加者個人の体験や経験などと重なり合いながら、「作品」になっていく。そういった意味では、「作品」は作家一人のものではないが、作家自身の存在を否定するものでもないと言えよう。そしてフーコーが言うようにこうして生まれた「作家」や「作品」をめぐる言説は、それを取り巻く社会的なシステムと結び付いていて、その背景になる時代や文化によって、多様な姿を見せている。

参加型アートでのキュレーターの役割

 これまで協働制作を伴う参加型の作品における、作家と参加者・鑑賞者の関係について見てきたが、ここで少し視点を変えて、こうした作品でのキュレーターの役割についても考えてみよう。先に紹介したデラーのような実践は、ソーシャリー・エンゲージド・アート(社会的な参加を伴うアート)という枠組みで論じられることも多い。ソーシャリー・エンゲージド・アートというカタカナの用語は、特に2000年代になって日本でも使われる機会が増えてきた。これらの多くは、美術館のなかではなく地域のコミュニティなどで実践され、ときにその地域が抱える社会的な問題を解決するための手立て、あるいはそうした問題をあぶり出すためのツールとして、アートの手法を使っていることが多い。イギリスの美術史家クレア・ビショップは、こうしたソーシャリー・エンゲージド・アートの実践を著書『人工地獄』で、美術史や美術批評に照らし合わせながら、パフォーマンス、演劇、美術教育なども含めた幅広い参加型の実践を、多数のアーティストや参加者たちへのインタビューなどを交えながら多角的な視点から紹介し、分析を試みた。そこで彼女はキュレーターの役割について、次のような重要な指摘をしている。「各プロジェクトに責任を持ち、ときに――しばしばアーティスト以上に――一部始終に立ち会う唯一の存在となるキュレーターの手に、参加型アートの主な語り手としての権利が委ねられる」。ビショップは、そうした「キュレーターたちの語りにおいて、批評的な客観性が排されていること」に失望し、そのことが彼女の研究の重要なモチベーションになったと述べている。ビショップが言うとおり、プロジェクト全体を把握しているキュレーターや、それについてキュレーターの言葉を頼りに研究・批評する者にとって、特に「プロジェクトの中心要素に人間関係の形成があり、それが特定の主体によるリサーチに否応なく影響を与えてくるような場合」に「かかわりが深まるほど、客観的で居づらくなる(18)」ことは確かだ。こうした状況に対して、ビショップは美術史家としての立場からあくまでも客観的に分析を試みるが、そもそも、参加型プロジェクトで、当事者としてのキュレーターが参加者、アーティストとともに人間関係を形成していくのは、ある意味必然的な結果であり、逆にそうした人間関係が形成されなければ、しばしば長期にわたるプロジェクトを遂行することは不可能になるだろう。そのプロセスのなかで、キュレーターは、そのプロジェクトの推進者、アーティストや参加者の伴走者であることが求められる。同時に、最終的にはその結果を展覧会やアートプロジェクト、あるいはカタログや報告書として外に向けて発信していく役割も担う。そこでビショップが言うような客観性をどこまで担保する必要があるかは、プロジェクトの目的や、対象にする観客によっても異なってくるだろう。ここで最後に参加型アートにおいて、こうした作品は誰のために作るのかについてあらためて考えてみたい。

「作品」は誰のために作るのか

 協働制作を伴う参加型アートで誰がその作品を享受するのか、ということを考えると、一義的には、そのプロジェクトに直接参加したある特定の個人やグループ、コミュニティの人たち、ということになるだろう。だが、それがアートの文脈で語られるとき、作品はその一義的な参加者のためだけのものにとどまらない。作品の展示やパフォーマンスのお披露目、映像上映などで、それらを鑑賞するより多くの人々が、一義的な参加者たちの体験を追体験したり、各々の記憶や体験、人生のストーリーなどと結び付けたり、重ね合わせたりしていく。もちろん、プロジェクトの協働制作を直接担った参加者と、それを展示室などで鑑賞する鑑賞者が全く同じ体験ができるわけではないだろう。それでも、一つの「作品」として展覧会の文脈で発表され、多くの人に共有され、享受されることで、最終的には、広義の「参加型作品」が成立すると言える。また参加型作品の作り手は、作家一人にとどまらず、参加者、鑑賞者も主体的にそのプロセスに関わり、キュレーターも加わって、多元的な織物のような「作品」とそれを取り巻く言説を作り上げていく。

 あらためて、「作品」とは何か、というギモンに立ち返ると、「作品」を成立させる諸条件は、作品を取り巻く環境、歴史的背景、作品制作の方法論など非常にさまざまな要素が絡み合っていることがわかる。参加型の「作品」をめぐって、作品が一人の作家により作り出され、完成し、展示されるもの、という前提から大きくはみ出していくなかで、作家と観客の間にある境界線が曖昧になっていき、アーティストとキュレーターの役割も交錯していく。従来の作品を作る人=作家、見る人=観客、作品を選んでその場を設える人=キュレーターといった構図がより有機的・複合的に絡まっていることを、これまで見てきた事例からも垣間見ることができる。本ギモンの後半では、参加型作品をめぐる作家と観客、キュレーターの関係について少し駆け足で論じたので、消化不良を起こした方もいるかもしれない。それらについては、これから続くギモンでまた別の視点を交えながら、あらためて解きほぐしていきたい。


(1)ただし、こうした工房制度スタイルは、現代美術でいまでも一部健在であり、それについては近い将来、また別の機会に論じてみたい。
(2)“LEE MINGWEI: THE SLEEPING PROJECT, 2000”(https://www.perrotin.com/artists/lee_mingwei/550/the-sleeping-project/48708)。オリジナルの作品では、交わされた会話は録音され、会場で聞くことができたようだが、近年の再制作では、ゲストが持ち込んだオブジェがナイトテーブルに置かれるだけになっている。なお、本稿に登場するリーの作品の日本語タイトルは、すべて森美術館「リー・ミンウェイとその関係」展(2014年)に掲載されているものを採用した。
(3)『アシッド・ブラス』については、BBC2で2012年2月24日に「The Culture Show」で放映された「Acid Brass: Jeremy Deller」に簡潔にまとめられている。“Acid Brass – Jeremy Deller – The Culture Show (24/02/2012),” YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=gBJxMQGYXM4
(4)“Acid Brass, 1997,” Jeremy Deller(https://www.jeremydeller.org/AcidBrass/AcidBrassMusic.php
(5)Skulptur Projekte Münster 2017カタログ、170ページ
(6)この事件については複数のイギリスメディアが報道しているが、本稿は以下のウェブサイトを参照した。“Blanket refusal,” The Guradian, March. 30, 2004(https://www.theguardian.com/artanddesign/2004/mar/30/art.schools),“Emin wants school quilt returned,” BBC News, March. 30, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3584273.stm),“Emin pays to show school’s quilt,” BBC News, April. 6, 2004(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/3603787.stm
(7)「かえっこ」誕生の詳しい経緯については、「《かえっこ》から《kaekko》までトークバトル」(『「かえっこについてかたる。」――かえっこフォーラム2008記録集』所収、水戸芸術館現代美術センター、2009年)16―29ページを参照のこと。
(8)同書24ページ
(9)『Happy Paradies』についての考察は、同作品を収蔵した金沢21世紀美術館の野中祐美子による以下の論考を参照されたい。野中祐美子「藤浩志《Happy Paradies(ハッピーパラダイズ)》――拡張する作品概念」、「Я[アール]――金沢21世紀美術館研究紀要」第7号、金沢21世紀美術館、2017年、92―96ページ
(10)同論文92ページ
(11)同論文95ページ
(12)ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年、88ページ
(13)同書85―86ページ
(14)同書88―89ページ
(15)ミシェル・フーコー「作者とは何か?」『作者とは何か?』清水徹/豊崎光一訳(ミシェル・フーコー文学論集1)、哲学書房、1990年、53―55ページ
(16)同書50ページ
(17)同書50ページ
(18)クレア・ビショップ『人工地獄――現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年、20ページ

 

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第28回 公演再開! 観客の熱気と感染対策

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 一時は収まりかけた新型コロナウイルス感染が再び拡大しつつあるなか、宝塚歌劇は7月17日から本拠地の宝塚大劇場、同31日から東京宝塚劇場、8月1日からは大阪の梅田芸術劇場メインホールと3劇場での公演を約4カ月ぶりに再開しました。ところが大劇場再開後2週間、8月2日に公演関係者に体調不良が判明、急遽4日までの公演が中止になる事態が発生。検査の結果、出演者8人とスタッフ4人の計12人の感染が判明、その後さらに1人増えて8月末までの公演中止を余儀なくさせられました。一方、東京宝塚劇場の出演者にも陽性者が出て再開後わずか1週間で公演中止、新型コロナウイルスは宝塚でも猛威を振るっています。
 3月末以降、全公演を休演していた宝塚歌劇ですが、本拠地の宝塚大劇場が花組公演『はいからさんが通る』(脚本・演出:小柳奈穂子)、東京宝塚劇場が星組公演『眩耀(げんよう)の谷――舞い降りた新星』(作・演出・振付:謝珠栄)と『Ray――星の光線』(作・演出:中村一徳)、梅田芸術劇場メインホールは宙組公演『FLYING SAPA――フライング サパ』(作・演出:上田久美子)。いずれも、新型コロナウイルス感染拡大で稽古を中断、上演が延期されていた公演で、花組公演がトップスター・柚香光の本拠地お披露目、星組公演が礼真琴の東京お披露目と、どんな形であれ新たなスターの披露公演がようやく実現したことは、劇団にとってもファンにとっても喜ばしいことでした。
 7月17日、宝塚花のみちには3月時点ではまだ工事中だった新「宝塚ホテル」がオープン、大劇場初日開場に急ぐファンも思わず足を緩めてその偉容を眺めながら劇場に向かう姿がちらほら、4カ月ですっかり様変わりした花のみちに休演期間の長さがあらためてうかがえて、今回のコロナ禍の異常事態を実感させられました。
 大劇場正門前にはテレビカメラや報道陣が多数詰めかけ、駆け付けたファンに感想を聞くなど、劇場再開が社会的にも注目されていることを裏づける光景も。入場は宝塚バウホール口1カ所で、入場者全員に手指のアルコール消毒を要請、体温をチェックしてからロビーに入場というシステム。初日とあってマスク姿の関係者がやたらに目につき、全社員総動員といった感じの物々しさ。ファンクラブのチケット出しもロビー大広間ではなくエスプリホール前、開演前のロビー大広間はいつもとはずいぶん異なった緊張感あふれる雰囲気でした。
 座席は感染拡大を予防するため、1席ずつ空けての販売、舞台と客席の距離を保つために最前列も空席にし、定員2,500人の半分以下の収容とあって再開を待ちわびたファンで初日のチケットは早々に完売。劇団は再開当日のフィナーレをCSの専門チャンネルで生中継し、翌日の公演をネットで有料配信するなど遠隔地で劇場に足を運べない人のための新たな取り組みも企画してこの事態に積極的に対応しました。当面の間は団体貸し切りも受けない方針で、そのためか座席数が減っているにもかかわらず、チケットは日にちを選ばなければ十分入手可能、思いがけずゆったりと観劇できる事態になったのがちょっぴり皮肉でした。
 公演は、舞台上の三密を避けるため、演出に工夫を重ね、オーケストラの生演奏を録音に変更、フィナーレの客席降りもなくすなど、感染予防に最大限の配慮をして上演。開演前の「場内での会話は控えてください」という場内アナウンスのせいか、しーんと静まり返った客席が、ざわついたのは5分前に緞帳が上がりピンク色の文字で「はいからさんが通る」と浮き上がったとき。そして高翔みず希組長の挨拶のあと柚香光の開演アナウンスになると爆発したように大きな拍手が。いつもの半分の人数のはずですが2,500人収容のときと同じくらいのパワーでした。
 伊集院忍役でトップ披露になった柚香は、まるでマンガから抜け出たような凛々しさ・美しさ・力強さのなかに純粋さとコミカルな部分もうまく引き出され、これ以上ない適役、代表作として長く語り継がれるでしょう。ここまで役と本人が二重写しになった例はこれまで見たことがないといってもいいぐらいです。花村紅緒に扮した華優希も、3年前に比べて段違いの成長ぶり。青江冬星役の瀬戸かずや、鬼島森吾軍曹役の水美舞斗と藤枝蘭丸の聖乃あすか、花組初登場の永久輝せあと、いずれも4カ月のブランクの間にため込んだパワーを最大限に解放していたかのようでした。
 31日の東京宝塚劇場、8月1日の梅田芸術劇場での公演初日も、普段の半分の観客数にもかかわらず、再開を待ち望んだファンの熱い視線が、劇場内に独特の温かい空間を作り上げていました。それぞれの再開初日はこうして無事幕を閉じましたが、感染拡大の荒波は宝塚に容赦なく降りそそぎ、8月に入って宝塚大劇場と東京宝塚劇場で最悪の事態が起こってしまいました。さらに8月17日から開幕の予定だった彩風咲奈主演の雪組公演『炎のボレロ』(作:柴田侑宏、演出:中村暁)、『Music Revolution!――New Spirit』(作・演出:中村一徳)の出演者にも1人感染者が出てしまい、公演延期の判断が下されました。
 1日からの梅田芸術劇場メインホールでの真風涼帆主演の宙組公演『FLYING SAPA』と14日からの同シアタードラマシティ、桜木みなと主演の宙組公演『壮麗帝』(作・演出:樫畑亜依子)は予定どおりおこなわれましたが、いつまた中止になるかわからない薄氷を踏む思いの緊張感あふれる毎日の公演でした。
 入場者全員の検温とアルコール消毒、マスクの徹底など劇場側の対応に加えて、これからの舞台が無事開幕できるように観客側も各自責任をもって予防を徹底、両者で安心して楽しめる空間を作り上げることがさらに必要になってくるでしょう。
 我が『宝塚イズム42』も、宝塚歌劇の公演再開とともに、12月発行を目指して動き始めようとしています。公演スケジュールの大幅な見直しがあり、雪組・月組の退団公演が先送りになることなどから特集をどうするか、これから検討することになりますが、新型コロナウイルス感染拡大のなか、宝塚歌劇の魅力をどうお伝えできるか、知恵を絞りたいと思っています。ご期待ください。

 

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絵本と、いつもうまく書けなかったある夏のこと――『絵本で世界を学ぼう!』を書いて

柏原寛一

 夏のあいだ、図書館の仕事のあとはいつも同じ店に入って、(大したものを注文もせず)くる日もくる日も絵本を読んだ。112冊(当初)の一つひとつに紹介文を書くつもりだった。ぼくの計算したところによると、1日5冊ずつ書いていかなければ、締め切りには間に合わない。絵本を詰め込んだリュックは重たかった。

 子どものための図書館で働き、子どもたちが絵本を選び、とびらを開くところにふれ、また、子どもの本に向き合う図書館員らと過ごしているうちに、ぼくにとって絵本は特別なひかりを帯びていった。美しく、清潔で、強いひかりだ。手軽に語ることをためらわせるような。
(いつもうまく言い表すことができないのだけれど)絵本はけっして「かんたん(イージー)」なものでなく、一人ひとりの作家によるかけがえのない厳しさ、優しさをもってつくられる。ぼくは、そう思っている。

 どんなものごとも、ほんとうに言い切ってしまうのは難しい。たとえば土とかコップのために、わたしたちはどんなふうに言い切ることができるのだろう。
 はじめに取りかかる絵本について、ひと文字も書きだすことができなかった。この仕事の途方のなさに気がつき、息苦しくなる感じがした。いったい何を書けばいいのだろう。あらすじ? もし、正しくその物語を表そうとするなら、そのまま書き写すほかないじゃないか。
 書けないとわかると、(この気持ちを説明することは難しいのだが)読むことができていない、と感じるようになった。きわめて後ろめたかった。
 ああ、今夜もちっとも進まなかった。こんなことに手をつけていいのだろうか……。
 そういう何日かが過ぎて、ぼくは少しずつ書くようになった。あるいは、いくつかの初々しい情熱を手放してしまったかもしれない。しかし、とにかく、ぼくは書き始めた。その絵本がどのような作品であるか(自分なりに)読み取り、そのあとで、自分が感じたことをそっと書きつけた。仕事のあとはいつもの店に行き、休みの日は大きな図書館にかよった。
 ぐん、と重たいリュックをかついだ夏の夜の帰り道、その昼その夜に読んだ絵本のことを考えて歩いた。またうまく書けなかった、と思いながら、あくる日に読む作品のことを思い浮かべた。何かに追い立てられるような、何かに立ち向かうような、ちぐはぐな気分だった。苦しくも、りんりんと勇気がわくようでもあった。

 図書館に勤めた日々、子どものための本と付き合う日々は、ぼくをいくらか偏った大人にしたかもしれないが、そのことを大切にしていたいと思う。むちゃくちゃな絵本、ちょっと変わった図書館員、子どもたち。ぼくはきみたちのことが好きだ。
 引き返しができない目つきでそれぞれの作品に向かい、それらに宛ててけんめいに書きたいと思った。せめて、そのようでなければ、一人ひとりの作家、翻訳者の仕事には近寄れないはずだから。
 ほかのブックリストがどのように編まれるものか、ぼくは知らない。おそらく、こんなふうにはだれも考えていないだろう。
 とはいえ、ぼくは、風変わりなものを書こうと考えていたわけではない。一つひとつの絵本について、誤りなく、だれにとってもわかりやすい紹介文であるように心がけた。夏につくった下書きのうち、あまりに熱っぽいところはそのあと数カ月をかけて取り去った。

 本書の刷り上がりと店頭に並ぶまでの10日ばかりに、この文章を書いてしまおうと思っていた。でも、うまく書きだすことができなかった。今夜こそ、と入る新しい喫茶店の席は空いておらず、結局いつもの店に向かう交差点で信号を眺めて立ち止まるとき、こんなことがあったよな、と思う。雨上がりの夕方はひどく蒸し暑い。そうだ、一つ前の夏のあいだも、汗をかき、どちらかと言えばうつむいて、絵本を背負い、ぼくはこの信号が変わるのを待っていた。