第3回 ミステリー・キャラクター・数学の固有性――『容疑者Xの献身』から『浜村渚の計算ノート』へ

西貝 怜

 現代の小説群は、キャラクターに代表されるように、新たな形質を取り入れその取捨選択を繰り返し、まるで進化の途中である。特にミステリー小説は、推理のあり方をいまも重要視しながら、キャラクターを導入することで新たな様相を獲得している。ならば、この推理におけるキャラクターの機能の一端を示せれば、現代の「小説の生存戦略」の理解も深まるだろう。

はじめに

 ミステリー小説といえば、作中で何か事件が発生してその犯人や謎の真相を探偵が推理によって明らかにする、というのが多くの作品に共通するスタイルである。しかし城平京『虚構推理(1)』(2011年)は、一見してミステリーとは思えないような事件の解決方法を描いている。妖怪が事件の一部始終を見ていて探偵にその真相を伝えたり、その探偵が殺人事件を沈静化するために嘘をついたりしている。このような事件へのアプローチの何がミステリーなのか。
 諸岡卓真は、『虚構推理』では嘘で事件を解決するという点で推理での「真実の追究」が後退することになっているが、そのために事件を解決するための様々なアプローチとしての推理の楽しさを描いていると述べている(2)。この『虚構推理』の推理のあり方について拙稿ではさらに考察を進め、罪を犯し謎を作り出す犯罪者と、本来は真実を探求することで立場を異にするはずの探偵が嘘を重ねるという点で接近してしまう倫理的問題を抱えている、と指摘した(3)。
 このような「変革」や「奇想」などと呼ばれるような事件への独特なアプローチを中心に、近年ではミステリー小説の多様性が大きくなっている。そのような様相は、キャラクターの描き方とも関連深い。たとえば『虚構推理』で主人公の2人は、不死者で都合のいい未来を選択できる能力を持つ青年と妖怪らの神となった女子高生である。この強いキャラクター性を持つ2人があってこそ、以上のような解釈が成立する。しかし、ミステリーでのキャラクターの機能についての言及は多いとは言えない状況である。
 そこで本稿では、数学の描かれ方に着目して、ミステリー小説でのキャラクターの機能の一端を示してみたい。数学を扱う理由は、以下の2点である。
 数学はその強い客観性から、ミステリーで真実を明らかにする道具として利用されやすい。しかし数学者という生き方があるように、数学はただの道具ではなく、人間のあり方に密接に関わっている。ならばミステリー小説での数学を考えることは、作品内の登場人物のあり方の考察にもつながるというのが1点目。2点目は、東野圭吾『容疑者Xの献身(4)』(2005年)と青柳碧人『浜村渚の計算ノート』所収「log.10『ぬり絵をやめさせる(5)』」(以下、「ぬり絵」と略記)がともに4色問題を扱っていながら、両者は大きく異なる数学と人の関係を描いているからである。特に後者はキャラクターを描いていることから、前者との比較でその機能が示すことが期待できる。
 以上から、まずは4色問題を解説しながら『容疑者Xの献身』から考える。

4色問題と後退する数学の固有性

 世界地図であれ日本地図であれ、はたまた架空の世界の地図であれ、平面に描かれたありとあらゆる地図を塗り分ける。隣り合った領域を同じ色にしてはいけない。このとき、地図を塗り分けるのに必要な色は、最小で4色であるか否か。これを検討するのが4色問題である。
 1976年のケネス・アッペルとヴォルフガング・ハーケンによる4色問題の「4色で塗り分けられる」という証明は、計算を機械におこなわせた複雑なものだった。その後、例えば2004年にもジョルジュ・ゴンティエがより簡潔に、機械を用いた4色問題の証明を発表している。このように4色問題については、これまで複数の報告が「4色で塗り分けられる」と主張している(6)。それにもかかわらずいまだ4色問題が検討されている理由の一つに、美しさの問題がある。そしてその一端を『容疑者Xの献身』は見事に描いている。
『容疑者Xの献身』では、石神という数学教師が、人を殺めてしまった母娘を庇い、罪を逃れられるように奔走する。探偵役は、石神と大学時代からの友人である物理学専攻の大学准教授の湯川である。この2人についての学生時代の回想シーンで、石神は4色問題の証明を手作業で試みている。湯川はアッペルとハーケンによって機械を用いて4色問題が証明されたことについて言及する。すると石神はその証明を「美しくない」と述べる。湯川はそんな石神を「エルデシュ信者」と称する。
 ポール・エルデシュは美しさを意識した数学研究をおこなっていたとして、たびたび数学の美しさを述べる際に言及される数学者である。この数学の美しさというのを一言で述べるのは難しい。ただ、4色問題ではその証明での美のあり方ははっきりしている。4色問題は、地図を塗り分けるという具体的なイメージを喚起させるものでありながら、いまだ機械に頼るという証明方法しかなされていない。この証明は、人間の具体的なイメージが介在する余地がない複雑な計算によるものなので、美しくないのである。この現状を踏まえ、「エルデシュ信者」として石神が人間の実感を伴った手作業による「美し」い4色問題の証明を志しているのだ。
『容疑者Xの献身』では、もう一場面で4色問題が登場する。のちに石神は罪を犯したその母娘を庇って逮捕され、留置所に収監される。そこでの就寝時間中に石神は、頭のなかで天井のシミを点と見なして、それらの点を結んで平面の図形を作っていくことで架空の地図を作る。石神はその図形を4色で塗り分けていくのだ。この場面で石神は、かつての自分は他者からの評価などにも悩んでいたが、数学の本質は他人と比較されるようなものでなく自分だけが理解すればよいこと、それは庇っている母娘を「美し」いと思ったことで気づけたと語る。この気づきによって自殺を思いとどまった石神は、「崇高なるものには、関われるだけで幸福」という境地に至ったとも述べる。
 石神にとって数学もその親子も「崇高」であり、その「美し」さの実感には具体的なイメージが必要である。ただ、数学にもその親子にも「関われるだけで幸福」であるために、石神は留置所でも耐えられるのである(石神はその親子のために別の罪を犯してはいるが)。より具体的に述べるならば、その親子との関係のうえで留置所に入り、そこで4色問題を「美し」く証明しようとするのではなく、その事例的問題を解くのが、作中のいまの石神の「幸福」なのである。
 4色問題で作中の過去と現在をつなぎ、石神の数学者としての内面という文学的命題が『容疑者Xの献身』では描かれている。ただ、そのためにせっかくの4色問題固有の「美し」さの問題もこの内面と結び付くことで薄れ、それは留置所内で脳内で解ける数学の問題はほかに多数あることからも言えるだろう。以上から本作では、4色問題は他の数学の問題として変換可能なものであることから、その数学としての固有性が後退しているのである。

渚というキャラクターによって保持される数学の固有性
 
『浜村渚の計算ノート』シリーズは、数学的な知見を用いてテロを実行する組織「黒い三角定規」と、女子中学生の浜村渚を含む警察グループとの戦いを主に描いている。「ぬり絵」では、「黒い三角定規」が洗脳した者らを利用して殺人事件を頻発させる。警察は当初、その事件の出現パターンが不規則に見えるために後手に回っていた。しかし渚の協力を得た警察は、「黒い三角定規」が犯人らの名前に含まれる色で市町村を色分けしていく4色問題の論理で事件を起こしていたことを突き止める。そして渚は市町村合併を提案する。その意図は地図を4色で色分けできないようにするための工作であり、それがかなえられることで「黒い三角定規」は敗北を認めて、この事件は沈静化した。
 以降もシリーズでは様々な数学上の問題も出てくるが、それはまず犯人側の論理として提示され、渚がそれを解いていくことで事件を解決していく。このミステリーという構造上、扱われる数学の問題は丁寧に説明され、その固有性は担保される。ただ、本作では、ミステリーとして謎の解明に結び付くゆえに数学のアイデンティティが強く描かれる、というだけではない。
 当初、事件の主犯格の実行犯は市町村合併が「ルール違反」と述べる。しかし、その場その場でなく先々の色分けも考えていれば市町村合併をおこなっても「黒い三角定規」による犯罪は完遂できたという渚の指摘によって、その実行犯は敗北を認める。そして事件が終わっても渚は4色問題で遊んでいる。誰よりも4色問題に渚は向き合う。そんな渚はシリーズを通して、犯罪を怖がり、同級生と遊び、苦手な科目の宿題に悩むような普通の中学生と繰り返し強調して描かれる。ただの女子中学生でしかない渚の数学への愛ゆえの真摯で具体性がある態度に、シリーズを通して警察も犯人らも感化され、魅了されていく。
 すなわち、ミステリーという構造に乗っかりながら、この渚の態度を読者に理解させるためにも、作中で数学の具体的で詳細な説明が必要なのである。強調される普通の女子中学生であるというように、渚のそのような数学をとことん追求するほどに好きというギャップのあるキャラクター性によって、『浜村渚の計算ノート』シリーズでは数学の固有性が強く表れているのである。

おわりに

 石神は犯人側、渚は探偵側という違いはある。ただ、どちらも数学を強く愛好し、それによって培った論理的能力で事件に関わっている。謎を解かせまいとする数学と、謎を解こうとする数学に、その固有性が表れる違いはそれほど大きくないはずである。石神は具体的な数学の問題を用いて事件を起こしてはいないということだけが、『容疑者Xの献身』で4色問題の固有性が薄れてしまっている原因ではないのは、先述のとおりである。数学への態度を、人間の内面に回収させるか、あるいはキャラクター性の一つにするかが、事件を追及する者としての石神と渚の大きな違いの一つである。
『浜村渚の計算ノート』シリーズのミステリーとしての構造は、『虚構推理』のように独特なものではない。しかし、渚というキャラクターを、事件を数学で解決するというわかりやすいミステリーの構造にはめ込むことによって『浜村渚の計算ノート』シリーズは、謎や事件を解決するための道具以上に数学の価値を強く描いている。ただ、人間の深い内面に触れないで、社会的役割や個人的な性質などのようにキャラクター性を示すのに数学を用いれば、数学とそれに関わる人間を縦横無尽に描けるかというと、そういうわけではない。
 たとえば王城夕紀『青の数学(7)』(2016年)では、ネット空間上での数学バトルが描かれる。そのために様々な数学の問題が提示される。ただこの作品は、主に高校生らの数学への価値観や、これに関する議論に代表されるような数学を通じた人間関係を強く描こうとしている。すなわち『青の数学』は、数学に関わる人々の青春を描くことが主眼に置かれているので、種々の数学の固有性が希薄になっている。数学好きというキャラクターをミステリーに配置する『浜村渚の計算ノート』と、青春物語に配置する『青の数学』では、数学の固有性のあり方が真逆である。
 青春、ミステリーと同様に、SFやファンタジーなどの小説のテーマ的なジャンルだけが、作中の数学の固有性を規定しないのは確かだろう。そのジャンル的な物語に、一つの内面に特化するのではなく、様々な特性を持つキャラクターが配置されることによって、数学と人との関係の描き方もより豊かになりうるのではないだろうか。『浜村渚の計算ノート』がミステリーとしては古典的でありながら、キャラクター概念を導入することで数学とミステリーの新たなあり方を示しながらも、『青の数学』のような作品もあるように。


(1)城平京『虚構推理――鋼人七瀬』(講談社ノベルス)、講談社、2011年
(2)諸岡卓真「創造する推理――城平京『虚構推理』論」、日本近代文学会編集委員会編「日本近代文学」第87巻、日本近代文学会、2012年
(3)西貝怜「ミステリと謎――『虚構推理』の正義の行方」「ジャーロ」第69号、光文社、2019年、308―313ページ
(4)東野圭吾『容疑者Xの献身』文藝春秋、2005年。なお本稿では2008年に刊行された文春文庫版を用いる。
(5)2009年に講談社birthシリーズで販売された青柳碧人『浜村渚の計算ノート』(講談社)が初出ではあるが、本稿では以下を用いる。青柳碧人「log.10『ぬり絵をやめさせる』」『浜村渚の計算ノート』(講談社文庫)、講談社、2011年、5―69ページ
(6)この4色問題の論理的な詳細や歴史について知ることができるものとして、以下を挙げておく。ロビン・ウィルソン『四色問題』茂木健一郎訳(新潮文庫)、新潮社、2013年
(7)王城夕紀『青の数学』(新潮文庫nex)、新潮社、2016年

 


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第2回 なろう作家のひとりごと

山口直彦

「活字離れ」「出版不況」が叫ばれて久しい書籍業界だが、いま「なろう系」と呼ばれるジャンルが活況を呈している。
 縛りが少なく、斬新なアイデアを盛り込めることが大きなメリットだったが、作品が増えるにつれて新たな問題点も見えつつある。
 本稿は、とある「なろう系」作家が投稿した、一風変わった短篇作品を取り上げ、「なろう系」が露呈している問題点を議論する。

はじめに――小説書き(アマチュア)が作家になる話

 Webサイト「小説家になろう(1)」(以下、「小なろ」と略記)は株式会社ヒナプロジェクトが運営する小説投稿サイトである。作品投稿・閲覧は誰でも無料でおこなうことができ、ジャンルもほぼ問わない(2)。投稿者・読者の双方に使い勝手がよかったことから人気に火がつき、投稿作品数は約79万作品(3)。SimilarWebが分析・公開している日本の上位Webサイトランキングによれば、「小なろ」のアクセス数は第15位(4)。登録ユーザ数は約176万人(5)、ユニークユーザーが約1,400万人、月間約20億PV(6)(7)にもなり、小説投稿専門のサイトとしては名実ともに日本最大のWebサイトと言える。
 もともとは純粋にアマチュアの創作活動拠点として機能していたが、「小なろ」に投稿された作品が出版社に見いだされて商業出版されるようになり、なかでも「なろう系」と俗称される人気作品群が出現し、ある種のジャンルとして確立するようになった(8)。そのため現在では作家デビューしたい人の登竜門としての機能も実質的に果たすようになっている。

投稿したら流れていった件

「小なろ」には毎日膨大な量の作品が投稿される。一例として2019年12月25日に新規投稿された短篇小説を検索して作品数と文字数を集計してみると、136作品39万2,855文字という結果になった(9)。これは文庫本換算で約4冊分に相当し、毎分500字のペースで読み続けても読み終えるまで13時間かかる。短篇だけではなく、連載小説も含めればさらに膨大な量の作品が「小なろ」に投稿されていて、到底すべてを読み終えられる量ではない。作品を投稿すれば、その瞬間《だけ》は、トップページの新着作品欄に載るが、次から次へと作品が投稿されるため、すぐに新着作品欄からは見えなくなってしまう。
 この状況では、単純に作品がうまいとか面白いだけで作品は評価されない。作家デビューを夢見て「小なろ」に作品を投稿する作者は、まず「いかにして自分の作品を埋もれさせずに読者の目に触れさせられるか」が最初の難関となる。読者を獲得し、高評価を得られればランキングに掲載される。ランキングの上位10作品に入ればトップページに掲載されるため、新規ユーザの目に留まりやすくなり、さらに読者が増える好循環が始まる。この〈自分の作品をランキングに掲載させねばならないプレッシャー〉をいかに乗り越えるかが作者の死活問題になっている。

なろう系作家の下剋上

『無職転生――異世界行ったら本気だす』は、2012年から15年にかけて作者「理不尽な孫の手」が「小なろ」に連載(10)した作品である。14年に商業出版(11)されて『このライトノベルがすごい!2015』に初出(12)、『このライトノベルがすごい!2017』では単行本・ノベルズ部門第4位を記録している(13)。出版後すぐに漫画化されて現在も連載中のほか、20年にはテレビアニメ放映も決定されているなど、「なろう系」作品のなかでも特にヒットした作品として知られている。
 同作者が「小なろ」に投稿している作品のなかに、『小説投稿サイトでランキング一位を取らないと出られない部屋』(以下、『出られない部屋』と略記)という異色の作品がある。
 本作には以下のような紹介文が付されている。

 目覚めると、真っ白い部屋にいた。
 部屋に一台だけあるパソコンのディスプレイには、こう表示されていた。
【この部屋は、小説投稿サイト『小説を書こう』のランキングで一位にならなければ出られない】
 これは、何もない部屋に閉じ込められた男の、地獄の投稿生活を綴ったものである(14)。

 作中ではサイト名が「小説を書こう」という架空の名称になっているが、これが「小なろ」と重なる存在であることは明白だろう。『出られない部屋』は作家を目指して「小なろ」に作品を投稿する人が背負っている〈自分の作品をランキングに掲載させねばならないプレッシャー〉を、条件をクリアしないかぎり閉鎖空間から脱出することができずタイムループを繰り返すという〈脱出ゲームのプレッシャー〉に置き換えることでエンターテインメント小説に仕立てている。なろう系作家の姿をなろう系作家が書く「メタ〈なろう系〉小説」ととらえることもできるし、実際に「小なろ」で成功した作者による「ノンフィクション小説」あるいは「ルポルタージュ」ともとらえられる。エンターテインメント性を持たせるために多少の誇張も含まれるが、まったく素人の状態からループを繰り返しながらノウハウを学び、段階的に成長していく様子を見ていくと、なろう系作家を目指す人のための「教科書」にも見えてくる作品である。
 例えば『出られない部屋』の「L4」(4回目のループ)では、どれほど優れた作品であっても、投稿ペースや投稿の時間を考えないと評価に結び付かないことを主人公は学んでいる。たとえ投稿前に作品を完成まで書き溜めてあったとしても、一度にまとめて投稿すると評価に結び付かない。あえて章を小分けにして、1日につき1、2章のペースで投稿したほうが全体の評価は伸びることを、主人公は試行錯誤と分析によって学ぶ。また、連作作品の新章を投稿すると、トップページの「更新された連載中小説」に掲載される。これは初見の読者に興味を持ってもらうためには貴重な機会だが、掲載される作品数が決まっているため、後から別の作品が投稿されればすぐに流され消えてしまう。このチャンスを生かすためには「人が多く集まる時間に投稿すること」「毎正時は予約投稿機能により投稿者が一気に増えてすぐ表示が流れてしまうため、あえて手動投稿で自動投稿が落ち着いた1分後を狙って投稿する」というノウハウ(15)を学ぶ。

作者無双――小説家、業界で生き残るために歩む道

「小なろ」を通じて自分の作品をたくさんの人に見てもらおうと思う投稿者、特に「小なろ」を通じて作家デビューを目指す投稿者にとっては、「いい(=読者に受け入れられ評価される)作品」を書くことは必要条件ではあるが、必要十分条件にはならない。いい作品を書いたうえで、さらに「作品を読者に伝える工夫」を尽くすことが求められる。そこに必要なのは文学論でも創作技術でもなく、マーケティングと営業とSEO(16)のノウハウである。だから『出られない部屋』のなかで主人公が学ぶノウハウに、小説の内容に関わるノウハウ――すなわちストーリー構成やキャラクターの設計・描き分けなど――に関するものはほとんどない。代わりに主人公が学ぶのはほぼ一貫して「いかに作品を読者に届けるか」のノウハウである。いわばSNO(=Shosetsukani Narou Optimization=「小説家になろう最適化」)と言えるだろう。
 純粋な気持ちで創作に取り組もうとする人にとっては、邪道な小手先芸に見えるかもしれない。しかしながら、文学賞受賞を目指して投稿作を書くにあたって、賞の傾向や審査員の好みを分析して作品に反映することを必要な努力の一つであると考えれば、『出られない部屋』で主人公が会得するノウハウもその延長線上にある。なぜならば〈一般読者〉と〈審査員〉の間に明確な線引きがある従来の文学賞と異なり、インターネットの世界では〈一般読者〉こそが重要な〈一次審査員〉の役割を果たしているからである。ケアレスミスで一次審査に落ちることがないように文学賞投稿者が推敲を重ねるのと同じ理屈で、作品を読者に届ける努力と工夫がなろう系作家には求められているのである。
「小なろ」に限らず、インターネット上で自分の作品や各種の情報を公開することは、多少の知識さえあれば誰でも無料で簡単におこなうことができる。かつてはパソコンや通信回線などに初期投資をおこなうというハードルがあったが、もはやほとんどの国民が1人1台のスマホや携帯電話を持ち、自宅でも学校でも職場でもパソコンがあふれている現代ではもはや初期投資のうちに入らないだろう。
 しかしインターネット上の作品を他者の目に触れ「させ」、読んで「もらい」、評価に結び付けるためには、創作とはまた異なる次元の努力が求められる。いい作品であれば他者の目に触れ「る」、読んでもらえ「る」ような牧歌的な状況ではないのだ。

なろう作家のひとりごと

「小なろ」という開かれた場から、誰でも創作活動を楽しみ、世に公開できるようなインフラが整ったこと、そしてそのうえで創作活動が花開いていることは素晴らしいことだが、同時に弊害も生じていることに目を向けなければならない。
『出られない部屋』ではストーリーの都合上、小説投稿サイト以外のWebサイトにアクセスできないことになっているが、実際には「小なろ」の外部でも作者や作品に興味を持ってもらうための行動が必要である。例えば一般的なSEOに相当する行為や、SNS(「Twitter」や「Facebook」など)での露出などがある。従前の商業作家であれば出版社や編集や雑誌や新聞広告や書評が担ってくれた部分を、現在のなろう作家はすべて自分で引き受けることが必然的に求められていて、下手すれば創作活動以上の時間と手間を費やさなければならないという本末転倒な状況さえ起こりうる。
 また大橋崇行の論考(17)で詳しく解説されているとおり、現在「なろう系」とくくられる作品は、ほとんどが「異世界モノ」に偏っている。これは異世界モノに注目が集まったことで類似の作品を求める読者の要求、読者の要求に応えなければならない作者、この機会に類似作品を書いてみようと思う新規参入者の相互作用によって、加速度的に進んでいる現象である(ちなみに、異世界モノの前には特定職業に着目した作品群〔職業もの〕のブームがあり、同様に多数の派生作品を生み出した)。出版社は「小なろ」で評価が高い作品から刊行するため、商業デビューを目指す作家がさらに偏りを増長させる。「小なろ」そのものはあらゆるジャンルに開かれた場であるにもかかわらず、「なろう系」として評価されるためにはブームにうまく追従して作品を作るか、わずかな望みにかけて新たな鉱脈を掘り当てるしかない。むしろ「なろう系」が足枷になって作品の自由度が低くなってしまっている面があり、ジャンルの深み・厚みがなかなか育たない状況になってしまっている(定められた様式のなかで創意工夫を楽しむ、定型詩的なあるいは様式美的な楽しみ方があることは否定しない)。

おわりに――出版社のお仕事 in ネット社会

 本稿では、理不尽な孫の手『小説投稿サイトでランキング一位を取らないと出られない部屋』を紹介しながら、同作から垣間見える「なろう系」作家の見えざる努力と「なろう系」作品の問題点について述べた。
 インターネットや「小なろ」などの各種Webサイトといったインフラが整備されたことで、誰もが創作者として作品を発表し、消費できる環境が整ったことは文化的に大きな意義がある。その一方で、出版社が〈「小なろ」で人気の作品=売れる作品〉というと安易に結び付ける仕組みを作ってしまうと、せっかくの開かれた創作の場が有効に機能しなくなってしまいかねない。
 出版社には、「小なろ」でヒットした作品や作者を一本釣りして刊行するだけでなく、隠れて目立たない作品や風変わりだが個性のある作品を丁寧に拾い上げ、磨いて、整えて、世に送り出すという本来の仕事も忘れないでもらいたい。書籍の文化とインターネットの文化が対立するでも依存するでもなく、互いに刺激を与え合っていく関係になってほしい。


(1)「小説家になろう――みんなのための小説投稿サイト」(https://syosetu.com/)[2020年3月16日アクセス]
(2)厳密に言えば、二次創作作品は禁止(原作者許諾や著作権が切れた作品を原作にするものなど一部例外を除く)、R15作品は警告表示付きで公開、R18作品は成年向けサイトからだけ閲覧可という制限があるが、日本の法律に鑑みれば必要最小限の制限と言えるだろう。
(3)「小説掲載データ」(https://syosetu.com/index/data/)[2020年3月16日アクセス]
(4)SimilarWeb「Japan における上位ウェブサイト SimilarWeb ウェブサイトランキング」2020年2月1日最終更新(https://www.similarweb.com/ja/top-websites/japan)[2020年2月16日アクセス]
(5)前掲「小説家になろう」トップページ掲載の数値による[2019年7月20日アクセス]。
(6)KAI-YOU Premium「「小説家になろう」インタビュー――文芸に残された経済的活路」(「Vol.1 個人発サイトがエンタメ/出版業界を席巻する理由」〔https://premium.kai-you.net/article/53〕[2020年2月16日アクセス])で、2019年4月時点の情報として記載。
(7)PVはページビューの略で、ウェブサイト内の特定のページが開かれた回数を表す(ウェブサイトのアクセス統計で訪問者の多さを測る指標として最も一般的なもの)。
(8)大橋崇行「「異世界モノ」ライトノベルが、現代の「時代劇」と言えるワケ」2019年9月14日(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67125)[2020年2月16日アクセス]
(9)調査をおこなった2019年12月27日13時50分の段階で、小説種別「短編」になっている作品を新着投稿順に並べ替え、初出が19年12月27日00時00分から23時59分までの作品を集計。
(10)「無職転生――異世界行ったら本気だす」(https://ncode.syosetu.com/n9669bk/)[2020年2月16日アクセス]
(11)フジカワユカ、理不尽な孫の手原作『無職転生――異世界行ったら本気だす』第1巻(MFコミックス、フラッパーシリーズ)、KADOKAWA、2014年
(12)『このライトノベルがすごい!』編集部編『このライトノベルがすごい!2015』宝島社、2014年、168ページ
(13)『このライトノベルがすごい!』編集部編『このライトノベルがすごい!2017』宝島社、2016年、60ページ
(14)「小説投稿サイトでランキング一位を取らないと出られない部屋」(https://ncode.syosetu.com/n1077eb/)[2020年2月16日アクセス]
(15)予約投稿機能は、作品をあらかじめ登録だけしておき、指定の日時まで更新を遅らせる機能である。年月日時は指定できるが、分を指定することはできず、登録時刻の正時から順次公開される。
(16)Search Engine Optimization=「サーチエンジン最適化」。より多くウェブサイトが検索サイトの検索結果に表れるようにおこなう取り組みの総称
(17)前掲「異世界モノ」ライトノベルが、現代の「時代劇」と言えるワケ」

 


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第1回 聖地巡礼の一例――大洗と『ガールズ&パンツァー』

金木利憲

 私は『小説の生存戦略――ライトノベル・メディア・ジェンダー』(青弓社、2020年)で、「聖地巡礼」というテーマを担当した。これは小説をベースにしながら現実と接続し、作品の外に飛び出ていく行為である。聖地巡礼発生の仕組みと展開は本書中に記した。ならばこのコラムでは、巡礼をおこなう当事者としての私がどのように行動しているのか記録しておくのがいいと考えた。この意味で、本文と表裏一体をなしている。両者を読み合わせれば、より理解が深まるだろう。

はじめに

 私は本書で「聖地巡礼」というテーマを与えられ、1章を担当した。
 本書の企画は、ライトノベル研究会内で立ち上がったものだ。それが本格的に動きだした直後、テーマごとの担当者を決める会合を私は欠席してしまった。しかしながら、私自身、舞台探訪=聖地巡礼を好み、機会を作って現地訪問の旅へと出かけていることが研究会の面々に知られていたため、いわば欠席裁判でご指名を受けたのだった。
 その際の決め手は「この会にはガルパンおじさん(1)がいましたよね?」だったと聞く。
 聖地巡礼発生の仕組みと展開は本書中に記した。ならばこのコラムでは、ガルパン聖地巡礼の話を記録しておくのが筋というものではないだろうか。その前に、「ガルパン」とはなんぞや、という話をしておくことにする。
 なお、「聖地巡礼」の原義は宗教上の行為でもあるため、作品の舞台をたどる行為を指す用語としては「舞台探訪」を推奨する声もある。しかし、ここでは論考との用語統一を図り、主に「聖地巡礼」を用いる。

ガルパン概説

 ガルパンは、正式タイトルを『ガールズ&パンツァー』という。始まりはアニメ(制作:アクタス)で、テレビ版とOVA版、劇場版が2作ある。時系列順に整理しておこう。
・2012年10―12月+13年3月;テレビ版(全12話+総集篇2話)
・2014年7月:OVA版
・2015年11月:劇場版(1作目)
・2017年12月―:劇場版(2作目、全6話予定で現在2話まで上映)
 メディアミックスもおこなわれていて、小説・マンガ・ゲーム・パチスロなどを展開している。
 舞台となる世界では、戦車同士の試合が女性向けの伝統武道として「戦車道」の名で競技化され、華道や茶道と並ぶ「乙女の嗜み」として認知されている。この戦車道の全国大会で優勝を目指す女子高生たちの奮闘を描く物語である。なお、「特殊なカーボン」によって乗員たる高校生たちは保護されていて、戦車道の試合で人は死なない設定になっている。
 この作品の「聖地」と目される茨城県東茨城郡大洗町は、主人公チームが所属する架空の学校「大洗女子学園」が置かれている巨大艦船の母港としてしばしば登場していて、作中では町並みや商店、ランドマークや交通機関などがかなり忠実に描かれている。
 なかでも注目されるのが、劇場版(1作目)冒頭の、通称「大洗市街戦」と呼ばれる戦車道の模擬試合だ。ここで戦車が走り回るルートは、現実の大洗町の道路とほぼ矛盾なく一致する(2)。また、建物の様子など、町並みもかなり忠実に描かれている。
 これほど巡礼に適した作品はそう多くない。通っているうちに、聖地に加えて町の人との交流や巡礼者同士の交流も見えてきた。
 そんな大洗町のガルパン聖地巡礼の一例を紹介したい。

聖地巡礼

 2016年3月21日、友人K氏と上野駅で落ち合い、8時半の常磐線特急ひたちで出発。途中、水戸駅で鹿島臨海鉄道(大洗鹿島線)に乗り換え、10時13分、定刻どおり大洗駅に到着。観光案内所で巡礼マップとスタンプラリー台紙を入手(3)。
 この路線も駅も、作中に登場する。その縁もあって、キャラクターや戦車のラッピングを施した車両が2両走っている。また、月替わりでキャラクターイラストを刷り込んだ記念乗車券・入場券を発行するなど、ファン向けのサービスも手厚い。

写真1 ラッピングトレイン

 駅前で偶然、車で来ていた共通の知人と出会い、そのまま一緒に回ることにした。今回はたっぷり時間をかけ、先述の「大洗市街戦」ルートを徒歩で回る予定でいたのだが、車のおかげで半日ですんだ。さらに、私たちよりもずっと現地情報に詳しくて、まるで「ガルパン」専門ガイドのよう。本当にありがたいことだった。
 実際に道筋をたどると、ほぼすべて矛盾なくつながることに舌を巻く。入念な検討があったのだろうと思う。大きな改変があったのは2カ所だが、これは作劇上の都合だろう。
 一周した後は、ガイドのような知人も未発見だったという「立体駐車場」を探してしばし街中を探訪するも、ついに見つからなかった(4)。
 途中の土産物屋で、自分用と頼まれものの作品グッズと通常の土産物を購入した。
 一回りするとすでに15時半。お気に入りのキャラクター(福田)の看板が設置された店で遅い昼食にする。来店特典の缶バッジとオリジナル名刺をもらう。
 17時半、知人と別れ、K氏とともに本日の宿である肴屋本店へ。この宿は、「作中で戦車に二度も突っ込まれた宿」として、ファンの間では非常に有名だ。夕食は作品に関係する「あんこう鍋」を事前予約している。実を言うと、今回の巡礼は、K氏があんこうの季節に偶然この宿を予約できたからという理由でおこなわれているのだった。

写真2 宿の外観。作中では玄関部分に二度も戦車が突っ込むことになる

 人生初にして待望のあんこう鍋は美味だった。
 宿には巡礼者が多数いて、そのうちの一部と交流し、情報交換。時折、宿の主人も話に入ってくる。
 翌日は10時にチェックアウト。その際に、イギリスで自分で撮影してきた戦車の写真を渡す。この宿に突っ込んだ型式だ。フロントに立つご主人は一目でソレとわかった様子。……たくさんのお客さまたちに教えられてきたのだろうなあ。
 この日は徒歩で市街地をめぐる。
 まずは宿近くの曲がり松商店街を歩く。すぐに、多くの店先にキャラクターの等身大POPが飾られているのが目にとまる。それもそのはず、大洗の商店街ではこれまで2回にわたり、権利者と組んで希望する店舗にキャラクターの等身大POPを配布しているのだ。なかには店主によってマフラーが巻かれたりして(いわく「寒いだろうから」)、ファンだけでなく地元の人々からも大事にされているのがよくわかる。さらに、店とファンの結び付きが強くなってきたため、その隣に店主の等身大POPさえ置かれていることもある。

写真3 等身大キャラPOP・店主POPとスタンプ台

 大洗には、現地を訪れるファンのことを「ガルパンさん」と呼ぶ人がいる。かつては不安げな響きとともに使われていたが、いまは親しげになった。作品を核にしたファンと地元の共生関係がわかる言葉だと思う。
 歩くと小腹が空いてくる。買い食いしながら散歩は続く。等身大POPがある店にはたいていそのキャラゆかりのグッズが置かれ、店員と談笑するファンが数人いる。そういった人たちと挨拶を交わし、ときに作品やキャラ愛の話に興じるのも楽しいひとときだ。
 13時10分、昼食。作中のメニュー「鉄板ナポリタン」を再現した喫茶店だ。噂に違わないボリュームだったが、おいしく完食できた。
 昼食後、町歩きを再開。
 ショッピングモール・まいわい市場でおやつを買い、興味がない人からすれば平凡なエスカレーターと広場の写真を撮る。作中では、手すりを破壊しながら戦車が降りてきて、広場の噴水でぐるぐると追いかけっこをする場所だ。

写真4 まいわい市場のエスカレーター
写真5 まいわい市場の垂れ幕。これも作中キャラ

 他にも橋やホテルなどゆかりの場所を歩き、写真を撮りながら巡っていく。気心知れた友人と検証しながらの道中は楽しい笑いがたえない。
 16時10分、大洗駅から鉄路で帰る。帰り道、作中メニューを再現したとんかつ屋に寄っていく。こちらも大ボリューム。帰宅後に乗った体重計は……まあ、言わぬが花だろう。

写真6 戦車の形を模したとんかつ

 その後、同年5月1日に、茨城県久慈郡大子町の旧上岡小学校を訪れた。劇場版(1作目)で、大洗女子学園生徒の仮住まいとなった「廃校」のモデルになった場所だ。作中だと大洗町内にあるかのように描かれるが、実際は直線で約60キロ離れている。
 コスプレ撮影のマナーで問題になり、必ずしもファンを歓迎していない雰囲気だったが、それでも作中の黒板再現などがあって印象的だった。新緑の季節で、風が気持ちよかったことが記憶に残っている。

写真7 旧上岡小学校
写真8 黒板再現

 また、同年5月23日には大洗ゴルフ倶楽部を訪問することができた。これは先方の好意によって実現したファン向けのイベントで、常時公開はしていない。劇場版(1作目)の冒頭、「大洗市街戦」の直前のシーンが目の前に浮かぶよう。これで一連の戦闘シーンの現場をすべてこの目で見て、記録できたことになる。

写真9 大洗ゴルフ倶楽部で

 同年6月18日には、北海道に用事ができたついでに、大洗―苫小牧間を結ぶフェリー・さんふらわあに乗船。劇場版(1作目)の移動シーンを押さえることができた。

写真10 さんふらわあ船内、ゲームコーナー

 これで、主要な舞台は巡り終えた。長かったような短かったような、そんな旅だった。

おわりに

 アニメ作品に大洗が登場したのは、『ガルパン』が最初ではない。名前だけではあるが、1984年2月公開の劇場作品『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(監督:押井守)に「大笑海水浴場」というダジャレとして登場する。とはいえ、本格的に街が扱われたのは『ガールズ&パンツァー』が最初だ。
 聖地巡礼研究では、『涼宮ハルヒの憂鬱』の兵庫県西宮市と、『らき☆すた』の埼玉県久喜市(旧北葛飾郡鷲宮町)がしばしば扱われるが、事例としては古い。『ガルパン』も決して新しいとは言えない事例だ。聖地巡礼でファンと地元がうまく噛み合った成功例は少ないが、新たな事例研究が始まることを願ってやまない。
 現在、新型コロナウイルス感染症の拡大防止によって、聖地巡礼は中断を余儀なくされている。また現地を訪れることができる日が一日も早く訪れるように、いまは必要以上の外出を慎む日々である。


(1)『ガールズ&パンツァー』ファンの男性の俗称。ときに自称。
(2)ファンによる検証(「ガールズ&パンツァー劇場版 大洗市街戦 戦闘経過をGoogle Maps上で再現してみる」〔http://dragoner.heteml.jp/girlsundpanzer/〕[2020年3月1日アクセス])。
(3)商店街の店舗にスタンプを設置。かつて集めると景品がもらえるキャンペーンがあったが、終了後も継続して設置中。
(4)のちに調べてみると、背景は確定したが、駐車場本体については候補はあるものの決め手に欠けるようだ。

[付記]
『小説の生存戦略』の私の担当箇所で、誤植がありました。謹んで訂正します。
第9章「「聖地巡礼」発生の仕組みと行動」
177ページ、最終行 
誤:「ベーカー街十三番地」
正:「ベーカー街二二一B」

 


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第27回 コロナ禍中にたどり着いた『宝塚イズム41』の刊行

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 新型コロナウイルス感染拡大予防のための緊急自粛要請が徐々に解除の流れになり、全国の大型書店も再開の動きが出てきました。コロナ禍中の4月以来編集作業を重ねてきた『宝塚イズム41』は6月1日発売予定。絶妙のタイミングでみなさんの手元に無事お届けできるのではないでしょうか。
 巻頭特集は「望海風斗&真彩希帆 ハーモニーの軌跡」。2月に今秋退団を発表した雪組のトップコンビ、望海風斗と真彩希帆のこれまでの輝かしい軌跡を『イズム』執筆メンバーに振り返ってもらいます。通常なら「望海風斗、真彩希帆サヨナラ特集」となるところですが、コロナ禍で宝塚歌劇の公演が中断。再開後は、スケジュールを新たに編成しなおして公演されることになり、退団日が遅ければ来年にずれ込む可能性があるため「退団が決まっている二人の軌跡をたどる」という形をとったのです。とはいえ、さすが実力派の二人です。入団当時から現在まで、しっかりと見守ってくださったメンバーの珠玉の原稿が集まりました。抜群の歌唱力とともに二人の相性のよさの秘密が解き明かされます。ご期待ください。
 小特集は「小池修一郎、美麗な世界の創造者」。今年3月に65歳の誕生日を迎え、歌劇団を役職定年となった演出家小池修一郎氏の創作の秘密と作品の魅力、宝塚での功績を論じます。宝塚歌劇団は親会社が阪急電鉄ですので、劇団員も演出家も会社員で、否が応でも社則に従っての定年退職を迎えます。もちろんその後も「団友」という立場で歌劇団の仕事に携わることは可能で、これまでにも柴田侑宏、酒井澄夫、岡田敬二、三木章雄、中村暁といった各氏はことあるごとに新作や旧作の再演時に演出を担当しています。理事長を務めた植田紳爾氏は特別顧問という立場で別格ですが、『エリザベート』(1996年初演)を筆頭にここ30年間、ヒット作を量産、宝塚歌劇の隆盛を演出家という立場から支えてきた小池氏もそれに準じる待遇になると思われます。
 今年1月、自身の集大成的大作『ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)』(雪組)を発表して、歌劇団の演出家としての立場に一区切りをつけた小池氏の演出家としての原点や、今後の活躍への期待など多彩なアプローチで小池氏の創作の秘密に迫ります。
 一方、今年2月に肺炎で亡くなった、1960年代から70年代にかけて宝塚で一時代を築いた稀代のショースター、眞帆志ぶきさんをしのぶ特集も組みました。眞帆さんは、レビューがメインで芝居は前物だった宝塚の最後のスター。鴨川清作氏のミューズとして『シャンゴ』(雪組、1968年)や『ノバ・ボサ・ノバ』(星組、1971年)など数々のショーの傑作を生み出した眞帆さんですが、全盛時代はまだビデオが普及する前で音源は残っていても映像は全く残されておらず、その偉業は、ややもすれば忘れ去られがちです。きちんと記録を残しておかないといけないという思いから、追悼文と生前のインタビューを交えた葬儀のルポを掲載しています。
 OGインタビューは、昨年退団した元星組トップスター、紅ゆずるさんの登場。取材時点では公演予定だった退団後の初舞台、6月の熱海五郎一座新橋演舞場シリーズ第7弾東京喜劇『Jazzyなさくらは裏切りのハーモニー――日米爆笑保障条約』が残念ながら公演中止になってしまいましたが、宝塚への熱い思い、そしてこれからの抱負などをたっぷりお聞きしています。
 恒例の大劇場公演評や新人公演評、外箱公演対談さらにOG公演評なども、コロナ禍の休演で執筆担当者が観られなかったり取り上げる予定の公演が中止になったりとさまざまな障害がありましたが、なんとか原稿がそろい刊行にこぎつけました。こういう事態になってもみなさんの宝塚愛は変わらず、いつになく熱がこもった一冊になったと自負しています。
 肝心の新型コロナは、治療薬やワクチンが世界中の医療関係者の必死の努力にもかかわらず未開発のまま。緊急事態宣言の解除もさまざまな制約のうえでの見切り発車となりました。劇場も解除の対象に入り再開への兆しはありますが、閉鎖空間で客席はおろか舞台上も3密は避けられず、再開にあたって客席は1列おきの着席で両サイドは2席あけてとか、舞台と客席の空間を確保せよとか無理難題。キャパシティーの半分以下の入場者数では公演しても赤字は必至、第一こんな状態で観劇しても楽しむどころか不安が増すばかり。おまけにロビーでの滞留時間を短くせよとのお達しもあってグッズ販売もままならないという状態のなか、実際に再開できるのかどうかまだまだ先が見えない状態です。
 宝塚歌劇は6月末までの休演が決まっていて、7月再開を目指していますが、この様子だと自粛以前の通常の状態で再開するのは難しそう。一刻も早く、演者も観客も安心して心の底から楽しめる空間を取り戻すことができることを望むばかりです。『宝塚イズム42』発売時(12月1日予定)にはそういう状態になっていることを期待しつつ、とりあえず6月1日発売の『宝塚イズム41』をお楽しみください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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世代を超えて受け継がれていくもの――『有島武郎をめぐる物語――ヨーロッパに架けた虹』

杉淵洋一

 水滴が着水すると、水面に波紋が広がっていく。第一の波紋が、有島武郎が小説『或る女』を世に送り出したときだとするならば、1926年のパリでのフランス語版『或る女』の出版を第二の波紋としてとらえることも可能だろう。本書はこの第二の波紋について、その原因となる水滴がどのように構成されたのか、そして、どのように水面を波紋が広がっていったのかについて、2人の翻訳者である好富正臣とアルベール・メーボンを起点として著者なりに考察をおこなった努力の痕跡である。あえて「努力」という言葉をここで使うのには、この書籍は2013年に名古屋大学に提出した「有島武郎の思想とその系譜」という博士論文が原型となっていて、もともとは研究論文として書いたものが大部分だからである。
 有島武郎が自宅で主宰していた学生サロン「草の葉会」の芹沢光治良、谷川徹三、大佛次郎といった参加者たちが、有島について語った文章を読めば読むほど、有島武郎という人間が単なる作家という範疇に収まる人物ではなく、日本の近代化の一翼を担った人物として浮かび上がってくる。有島武郎の考え方や生き方は、当時の鎖国から解き放たれ、世界の列強と対峙する必要に迫られた日本の若者たちを激しく鼓舞していたのである。そういったこれまでの有島武郎像からは零れていた側面を本書では描きたかったのである。
 そして、この書籍を上梓するに至るまでに、本当にたくさんの人々のお世話になってきた。もともとは研究のためにと書いた論文の集まりではあったが、お世話になってきた人々へ感謝の証しとして、博士論文から本書に書き改める際は、できるだけ日常的な表現を用いて、内容について理解しやすいような文章を心がけた。特に芹沢光治良の四女・岡玲子様や芹沢光治良の出身地である沼津の沼津市芹沢光治良記念館には、本書の出版にあたって貴重な写真や証言を提供していただき、そのご厚情には深く深く感謝する次第である。芹沢光治良が「世の中を裨益する人間になりたい」という思いを強く抱く一端となった有島武郎の社会に対して真摯な生き方を、芹沢文学の愛読者の方々には少しでも本書から感じ取っていただけることを願っている。また、ここ10年以上にわたって参加させていただいた愛知県常滑市の有志の方々が運営している谷川徹三を勉強する会にも深く感謝を申し上げておきたい。有島武郎と谷川徹三の関係について考察した章などでは、この会で学んだことが大いに役立っている。この会の会長であり、大学時代に谷川徹三の教え子だった杉江重剛様の谷川についての実像に迫った証言は、有島と谷川の具体的な関係性を示唆するところが多く、本書の執筆を大いに助けたことをここに付言しておきたい。
 なぜ、有島武郎の『或る女』がフランス語に翻訳されたのか。それは、有島が、世界を渡り歩きながら、日本という国を牽引していくことになる当時の若者たちにとっての憧れの的だったからである。このような稀有な人間の実像について学ぶことは、SNSや移民などの問題によって21世紀の新たな意味での開国を迫られている我々にとっても、今後の社会が進むべき道を判断していくうえの指標にもなるだろう。本書が有島武郎という人間のすべてを描ききれているわけではなく、多くの点を見落としてしまっているところもあることは、私の力の至らなさによるものであり、その点についてはご寛恕いただければ幸いである。しかしながら、本書を手に取って、明治、大正という時代を駆け抜けるようにして去っていった有島の姿から、心に残る何かを感じ取っていただけるのならば著者にとっては望外の喜びである。
 有島武郎の恩師である新渡戸稲造の「願はくはわれ太平洋の橋とならん」という言葉はあまりにも有名だが、新渡戸はこの「橋」について、「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれて初めて架けられる」と述べたとされている。ある世界と別の世界をつなぐ橋は、思いを受け継いだ者たちによって、緩やかながら確実に架けられていくものなのである。私は本書を通して、近代化の最中にあった日本からヨーロッパに有島武郎の思いを乗せた虹の橋が架けられていく軌跡をわずかばかりでも描きたかったのである。

 

ギモン3:何を展示するの?(第2回)

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 

コロナ禍に寄せて――「ギモン3:何を展示するの?(第2回)」の前に

 いま、コロナ禍のなかで展覧会やキュレーションについて考えることが非常に困難な状況となっている。
 この2カ月あまりの間に新型コロナウイルスの感染拡大により、文字どおり世の中が一変してしまった。ここで今回、これまでの連載の続きを掲載する前に、この場をお借りして、この状況下で展覧会やキュレーションに向き合うことについて、少しふれてみたい。書いたところでいますぐ何かの解決につながるわけではないのだが、とにかく私自身、本連載を続けるうえで、刻一刻と変わるいまの状況を備忘録的に書き留めながら、思考していくという以外にこれから先の原稿を書き進めるすべがない状況に陥っているので、このような脱線をお許し願いたい。またここで書いたことについては、今後も状況に応じてもともとの本連載全体の構成をアップデートしながら、連載後半の内容に反映していきたい。

 2011年の東日本大震災のあとも、しばらくアートについて考えることができない、あるいはすぐにアートを通じて何らかの行動を起こすことが難しいと感じる美術関係者は、私自身も含めて大勢いたと思う。もちろん、さまざまな芸術を通した救援活動やチャリティー、また津波被害にあった作品のレスキュー事業(1)などもおこなわれていたが、それは被災者支援、復興に向けた活動だった。現在進行中の世界的なパンデミックと9年前に東日本で起きた震災と放射能汚染では、単純に比較することはできないが、本連載でも追って危機的な状況に私たちの社会が陥ったあとのアートや展覧会のあり方などについて、考察していきたい。
 今回のコロナ禍について現時点(2020年4月末)で言えることは、1つの地域、あるいは1つの国にとどまらず、まさに地球規模で私たちが生きるということそのもの、また社会生活や経済活動に深刻な影響を及ぼしていて、しかもその「異常事態」が数カ月というごく短いスパンでもはや日常化しつつある、ということである。このような現況において美術の分野に限って簡単にこの2カ月あまりを振り返ってみると、中国を皮切りに韓国、ヨーロッパ、アメリカなど世界各国の美術館が2月から3月にかけて軒並み臨時休館に入り、多くの展覧会やアートフェアなどが中止・延期となった(2)。また私立美術館の多いアメリカでは、MoMAやメトロポリタン美術館をはじめとする名だたる館でスタッフの解雇が始まっている(3)。日本も首都圏など7都市を対象に緊急事態宣言が4月7日に発令される前から、大規模なイベント実施に関して自粛モードに入り、2月末からは美術館や博物館も床面積1,000平方メートル以上の館を中心に臨時休館に入っていたが、発令後には、細々と開けていたギャラリーも休廊を余儀なくされた。そして緊急事態宣言が4月16日に全国に拡大されてからは、実質的に日本国内の展覧会という展覧会が中止や再開見込み不透明なまま延期などに追い込まれている。
 このような状況下でも、なんとか芸術活動を続けようと世界各地でさまざまな試みがなされている。音楽や舞台芸術、パフォーマンスの分野で動画配信、ライブ配信などがおこなわれるのに続き、美術館でも、オンラインで公開するコレクションを充実させたり、展示したものの休館せざるをえなくなった展覧会をウェブサイト上で写真や動画を交えて紹介したり、カタログテキストをウェブサイト上で閲覧できるようにするなど、各館がしのぎを削っている。だが、展覧会というメディアは、本連載の冒頭でも述べたとおり、そもそもが非常にアナログなメディアであり、展覧会に観客が実際にいってなんぼの世界である。したがって、今回のような事態にすぐさま対応しろと言われても、そう簡単にはいかないのも事実だ。また今日の現代美術の展覧会は、国際的な協力のもとに成り立っているものも多く、作品を国内外に輸送することや、展覧会場に国を超えてアーティストやキュレーター、クーリエなどの人が移動することができない現状のなか、作品を展示する、という行為自体が不可能になっている。またアーティストやフリーランスのキュレーターなどについては、予定していた展覧会が中止や延期となり、収入が断たれる人も多い。ドイツ政府は、この事態のなかいち早く「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要な存在(4)」と断言し、フリーランサーや芸術家、個人業者に向けて500億ユーロという大規模な支援を約束した。日本では、ドイツのような国レベルでの動きは鈍いが、地方自治体が独自の支援策を打ち出したり、各芸術団体やアーティスト、民間企業などが、立ち上がって、基金を設立したり、クラウド・ファンディングや、各種の署名活動などが始まっている。
 明日の暮らしをどうするのか、を考えなくてはならない事態のなかで、こうしたいますぐ必要な支援や対応について、それぞれができることを考え、動いていくことは大事だ。だが、同時にポスト・コロナ、ポスト・パンデミックの世界について考え始めることも重要である。感染の収束にはまだ相当の時間がかかりそうだし、この状況によりさまざまな価値観の変容が否が応でも起こっていることは確かである。世界的にこの危機的状況を共有した(大半がまだそのただなかにあるが)あとのポスト・コロナの世界では、私たちの暮らしのあらゆる面で、従来どおりというわけにはいかないことは明らかだろう。それは、人間の文化活動でも当然同じであり、本連載の根本的なテーマである、展覧会やキュレーションとは何か、またどうあるべきか、という問いにもつながっている。

 連載は、ギモン3の第2回を執筆当時(2月中旬)のままの原稿で以下、掲載するが、ギモン4以降はそうしたポスト・コロナ社会で求められる展覧会やキュレーションとは何か、といった問題も考えながら、あらためて執筆していきたい。なお、本連載の書籍化の際には、これまでの執筆分も含めて大幅に見直しが必要となってくる部分も出てくると思われる。というか、見直さざるをえない状況にいると言ったほうが正しい。こんな時期に展覧会やキュレーションのことを論じるのか、と言われるかもしれないが、こんな時期だからこそ、見えてくるものがあると信じて、今後の連載を継続したい。


(1)文化財レスキューの具体的な事例については、例えば東京文化財研究所の「被災文化財レスキュー事業 実施状況」などを参照のこと(https://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/110627/index.html)。
(2)なお、先に流行して早くから都市封鎖に入った上海の美術館は、3月中旬から再開、北京の美術館も4月下旬から再開している。イタリアの美術館も5月中旬以降、再開の予定となっている。
(3)「MOMA AND NEW MUSEUM AMONG NY INSTITUTIONS CUTTING JOBS TO CURB DEFICITS」「ARTFORUM」2020年4月3日(https://www.artforum.com/news/moma-and-new-museum-among-ny-institutions-cutting-jobs-to-curb-deficits-82681)、「METROPOLITAN MUSEUM OF ART LAYS OFF EIGHTY-ONE EMPLOYEES」「ARTFORUM」2020年4月22日(https://www.artforum.com/news/metropolitan-museum-of-art-lays-off-eighty-one-employees-82782
(4)モーゲンスタン陽子「ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援」「ニューズウィーク日本版」2020年3月30日(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/03/post-92928.php

 

 

第2回 展覧会に出す「作品」を選ぶ行為

 展覧会では、世の中にあまたある「作品」から、ある特定のものを選んで展示する。その特定のものを選ぶ基準を決めて、何をどのように展示するかを決めるのが、キュレーターの仕事とも言える。
 ギモン2の順路の話のところで少し触れたが、キュレーターは、一本の展覧会に通底するストーリー、あるいは展覧会のテーマ、企画のコンセプトを考え、それに基づいてアーティストとその作品を選ぶ。アーティスト自身が企画をする場合はキュレーターを立てないこともあるが、その場合でも、アーティストがキュレーターの役割を兼務することには変わりない。つまり展覧会は、キュレーターによってなんらかの価値基準の下で選択される作品で構成される、極めて恣意的なものである、ということだ。
 旧東ドイツ出身の哲学者・美術批評家であるボリス・グロイスは、著書『アート・パワー』のなかで、キュレーターやアーティストによってもたらされる展覧会の恣意性について次のように述べている。
「アーティストやキュレーターはこれら芸術の対象とされる物すべてを、純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する。このようにしてアーティストやキュレーターは、選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会を得るのである(6)」
 グロイスの指摘は、半分当たっているが、半分は正直、首を傾げたくなる。確かに展覧会で何を展示するかは、キュレーターあるいはアーティストが決めるにせよ、「純粋に私的で、個人的で、主観的な秩序に従って空間に配置する」ことができるなら、世の中のキュレーターたちはこんなに苦労していないだろう。そんな思いどおりの夢の企画が実現できることは、まずないと言ってもいい。大抵は、予算の問題や物理的な制約、また人的・政治的要因などさまざまな軋轢があるなかで、それでも自分の理想とする展示に向けて、あらゆる創意工夫をして、多くの人の協力を得て、ようやくなんとか納得できる形に落とし込んでいく、というのがキュレーションの現場の実態に近いと思う。
 ただ、グロイスの指摘のうち、ここで注目したいのは、半分当たっているほうの部分の話だ。先に述べたように、キュレーターの仕事の根幹をなす部分は、展覧会のコンセプト作りとそれに基づく作品の選定にある。展覧会は、グロイスが言うとおり、「選択という私的な自己統治の戦略を公衆に表明する機会」にはちがいない。だが、それは単に自分が好きなものを展示して終わり、ではない。展覧会の規模や種類にもよるが、都内の美術館での大型展覧会となると、家が一軒買えるぐらいの予算を扱う。これが公立館の場合なら、その財源は市民や都民の税金ということになる。特に公金を投じるタイプの展覧会の場合、キュレーターがある選択をして展示する以上は、その作品をどのように美術や美術史の文脈に位置づけるのかについて観客に公的に説明する責任が生じる。一つの展覧会を作るときに、あるコンセプトやテーマを設定した場合、それに沿ってさまざまな選択のプロセスが生まれる。ときには、そのプロセスのなかでコンセプトやテーマそのものを軌道修正していくことも少なくない。なぜAという作家ではなくBという作家を選ぶのか、あるいは同じ作家の手によるものでも、なぜCという作品ではなくDという作品を展示するのか、など一つひとつの選択をしながら、その理由を展覧会の形で広く観客に向けて示していくことが必要になる。またなぜその会場で、このタイミングで、そのテーマの展覧会をやるのか、ということも問われるだろう。それでも、この「選択」という展覧会の宿命は、ときにキュレーターにある種の権力を生み出す危険性もはらんでいる。
「作品」は、作家の手で生み出されて、展覧会場に置かれて、観覧されることではじめて「作品」として多くの人が知ることになる。この「作品」を「作品」として位置づけるのがキュレーターだとすると、キュレーターがもつ責任は非常に重大だと言えるだろう。「作品」がなければ展覧会は始まらないが、キュレーターが選ばなければ、「作品」は日の目を見ることはない。ここでキュレーターは、その選定の根拠をしっかり説明する必要がある。ウォールテキストやカタログは単なる飾りや展覧会の付属物ではなく、展示だけでは足りない部分を言葉を使って補足する大切な役割を担っている。特に近年の多様化する現代美術の場合、見ただけではわかりにくく、その背景について説明を要する作品も多い。こうした展覧会に展示された作品を、その展覧会全体の説明や個々の作品に関する説明も含めて鑑賞した観客の反応、さらには美術史家や美術評論家といった人たちがそれらを論じていくことで、あらためてキュレーターのキュレーションや作品の意義や位置づけが問われていくのだ。

現代美術における作家とキュレーターの関係

 現代美術の場合、作家が現役で活躍していることも多いので、展覧会に合わせて新作を作ってもらう、ということもできてしまう。ときには、評価が定まっていない作家の作品を展示することもあり、若手の作家にお願いすることは、最後まで結果が見えないというリスクも大きい。これは近代美術までのキュレーションとの大きな違いである。既存のものを見いだし、ときには全く新しい文脈から光を当てて選ぶという行為までは近代美術までの美術も現代美術も変わりないが、現代美術の場合、それに加えて、新しく作り出すという行為が可能になってくるのだ。そうしたプロセスにおいて、まさに展覧会で「作品」を「作品」として位置づける行為は、ある種作家とキュレーターによる共同作業になっていくとともに、緊張関係を生み出す。
 1990年代に入って、特に現代美術の展覧会でキュレーターの役割が世界各地で急激に台頭してきたなかで、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタといった大型の国際展を華々しく取り仕切るキュレーターは、「スター・キュレーター」ともてはやされた。そのスター・キュレーターに選ばれる作家はスター・アーティストと呼ばれ、国際展の常連組となり、作品が高値で取り引きされ、世界の名だたる美術館で展覧会が開催されていった。そうした国際的な舞台で活躍するにはスター・キュレーターのお眼鏡にかなう必要があり、そうしたキュレーターと「ワイン&ダイン(食事やお酒を一緒に飲んで仲良くする、の意)」するのが作家として成功への近道であるかのように揶揄されることも多かった。その一方で、そうした作家とキュレーターのパワーゲームに異を唱えるように特に2000年代以降、「アーティスト/キュレーター」と呼ばれるキュレーションを自ら積極的におこなうアーティストが登場したり、複数のキュレーターが一つの展覧会を作る共同キュレーションの試みなど、既存の一人のキュレーターがすべてを取り仕切る形とは異なる新しいキュレーションの方法が次々と実践されている。あるいは、従来の美術の展覧会の枠組みではなく、社会的な問題意識から、アーティストなどが自発的にプロジェクトを立ち上げるなど新たな方法論を模索する試みも近年増えている。例えばアーティスト集団のwah document(ワウ・ドキュメント)は、東日本大震災後の東北の被災地に赴き、子どもたちとワークショップを通してお手製の映画館を作った(7)。あるいは、詩人の上田假奈代が主宰するNPO法人のココルームは、日雇い労働者や路上生活者が多く住む大阪のあいりん地区・釜ヶ崎で「釜ヶ崎芸術大学」という名の地元の「おじさん」たちを対象とした狂言、書道、音楽、美術、天文学など幅広いジャンルを扱う市民大学、ワークショップを継続的に実施している(8)。
 こうしたさまざまな新しい試みは、「作品」を「作品」として位置づける行為が、これまでアーティストが「作品」を創り出し、キュレーターがそれを「展示する」という前提に成り立つ行為であったことを浮き彫りにする。と同時に、近年のキュレーションのあり方の見直しや、観客やコミュニティーが作品制作のプロセスに大きく関わるなかで「作品」を創り出し、それを「作品」として位置づける行為の主体者が必ずしもアーティストやキュレーターとはかぎらないという、現代美術ならではの状況が発生している。
 これまで見てきたとおり、展覧会は、確かに作品を「作品」と定義づけ、美術の文脈のなかに位置づける装置であったと言える。だが、その担い手については誰が「作品」を創るのか、という問いも含めて、あらためて考える必要がある。「作品」が「作品」として成立するときについて、本ギモンでは主にキュレーターの立場から考えてきたが、次のギモンでは、視点を変えて、観客とアーティストの立場からもう一度考えてみることにしよう。


(6)ボリス・グロイス「多重的な作者」齋木克裕訳、『アート・パワー』石田圭子/齋木克裕/三本松倫代/角尾宣信訳、現代企画室、2017年、151ページ
(7)詳しくは「wah in 東北 9日間の活動レポート」(「wah document」〔http://wah-document.com/blog/2011/07/wah-in-東北%E3%80%809日間の活動レポート/〕)を参照。
(8)釜ヶ崎芸術大学については下記を参照のこと。「NPO法人こえとことばとこころの部屋cocoroom」(http://cocoroom.org/釜ヶ崎芸術大学・大学院2019/)。なお、釜ヶ崎芸術大学は、2014年の横浜トリエンナーレに作家として参加している。

 

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旅が流れ着く場所――『お遍路ズッコケ一人旅――うっかりスペイン、七年半の記録』を書いて

波 環

 これを書いているのは2020年4月18日です。全都道府県を対象に新型コロナウイルス対策としての行動自粛要請が発表されて2日目です。世界中が緊張感で満ちています。そんな世の中に、あれよあれよという間に本書を出版しました。
 いまは、このタイミングで出版することがお遍路のゴールだったように思えています。お遍路を歩いているときのゴールは八十八番札所でした。歩き終わったあとは、終える気持ちを成仏させるために書き留めておこうと思いました。書いた先にこんな世の中が待っていました。
 思えば、1冊目(『宝塚に連れてって!』青弓社)を出版した22年前は妊娠中でした。ちょうどつわりがひどい時期に校正などをおこない、何でこんなことになったのか、そもそも自分から始めたことなので、どうもこうもないのですが、考える暇もないほどで、その先に本ができあがってきました。その本をもって私は、宝塚が大好きなおねえちゃんから、母親になりました。書くことでおねえちゃん時代を卒業したように思います。
 そこから30代は子育てと仕事で記憶なし。保育所や学童保育と会社と家の三角移動で10年ほど過ぎました。荒っぽく育てた息子は、そのうちに自分でごはんを炊けるようになっていました。彼がごはんを炊いたりカップ麺にお湯を入れたりできることを確認したころに東日本大震災があって、お遍路を歩き始めたという経緯は本書に述べたとおりです。
 東日本大震災→お遍路→本書という時間の流れがあるのですが、絶妙な、このタイミングしかないというところで出版できたと思っているのです。しばらくはスペインには行ける気がしませんし、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂も巡礼事務所も閉鎖になっていると聞きます。お遍路もしかりで、札所のお寺は参拝の受け入れを中止したり大きな法会をとりやめたりしているようです。タイミングとしては、巡礼もお遍路もぎりぎりセーフだったのです。
 さあ、こんなあとから考えると何もかもぎりぎりセーフの本書ですが、出版までの作業もぎりぎりでした。入稿したのが2月末。私が住む北海道は、早くから行動規制が始まっていて引きこもり生活は原稿執筆にぴったりでした。2月のころはまだ、3月になったら上京して青弓社を訪ねて打ち合わせをしようと日程を調整していました。が、みるみるうちにそれはかなわなくなりました。3月は飲食店への出入りも自粛になってきましたので飲み会もなくなり、今度は校正作業の日々。青弓社から「印刷所に入れましたので、来週からは当社も基本的には在宅勤務です」という連絡を受け取ったときには本当にありがたく思いました。青弓社のみなさんも、印刷所の方々も、デザイナーの和田悠里さんもカバーイラストを描いてくださった霜田あゆ美さんも、日々のリスクのなかで完成までたどり着いてくださったものになりました。
 出版について友人たちに触れ回ったときにいちばんに予約をしたと言ってくれたのは、看護師をしている2人の友人でした。それぞれ専門的な分野の仕事をしていて、いまは緊張の日々です。そんななか、届くのが楽しみだと言ってくれた2人に本書を届けることができて本当によかった。土曜の夜に食べるチョコレートのように、少し笑ってくれるのなら何かの役に立てる気がする。マスクを作ったり募金を集めたりするようなことはできませんが、長い旅のゴールに届けるものができたことは幸せです。本書には16歳のころから出会ってきた人たちがたくさん登場しています。しばらく会えないことになるかもしれない彼らにも、私からの長い長い手紙を届けることができました。
 本書を手にしてくださる方たちにも、長い手紙、長いおしゃべりをするつもりで書きました。会ってお話をするということさえ、あらためて貴重な時間であることをみんなが知りました。
 飛行機も列車も運行が減り、買い物に出ることさえはばかられるような時期に世の中に出ることになった本書、ましてや旅の本は不運なのか幸運なのか。それはまた何年かあとにわかるでしょう。どんなゴールが待っているのでしょう。本書で書いたように、私は執念深いようなので会って時間を忘れて長々と話せる日常が戻ることを諦めることはありません。それまではどうか四国の川の流れやスペインの風を想像しながらご一緒にそのときを待っていただけるよう、本書をお届けします。

 

第26回 コロナウイルス蔓延による休演に思う

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 猛威を振るう新型コロナウイルスの蔓延は宝塚歌劇団にも甚大な影響を与え、公演の中止が相次ぎ、6月1日刊行予定の『宝塚イズム41』の編集作業にも支障が出始めています。突然の公演中止で、公演評執筆者が公演を観ることができなくなったり、公演それ自体もなくなってしまうという事態が発生しているのです。しかも、東京や大阪に緊急事態宣言が出され、東西の移動がままならないことも編集作業のネックになっています。とはいえ、新しい執筆者の参加もあって何とか形が見えてきたきょうこのごろです。

 ことの始まりは2月28日の閣議でのイベント自粛要請でした。宝塚大劇場では星組の礼真琴、舞空瞳トップ披露公演『眩耀の谷――舞い降りた新星』と『Ray――星の光線』の上演中。25日には碧海さりお主演による新人公演が満員の盛況でおこなわれたばかりの直後の金曜日。横浜港に停泊していたクルーズ船内での感染が連日ニュースで伝えられていたころで、脅威はまだそれほど身近ではありませんでした。しかし、和歌山や北海道での感染が伝えられるに至っての自粛要請でした。
 歌劇団は28日、他の劇場よりも先んじて翌29日の土曜日から3月8日までの全公演の休演を発表。宝塚大劇場星組公演、東京宝塚劇場雪組公演、名古屋御園座月組公演、東京建物Brillia HALL月組公演が対象になり、月組の2公演は公演半ばでの突如の打ち切りとなってしまいました。大劇場と東京宝塚劇場は休演期間中に劇場内を完全消毒、観客全員の検温装置を完備して再開に備え、9日は大劇場の星組公演千秋楽。東京宝塚劇場は休演日だったため、翌10日から大劇場と同様の態勢で再開にこぎつけました。
 ところが、社会ではそのころからやっと自粛ムードが高まり始め、松竹系の各劇場が3月16日までの休演を決めたところだったので、宝塚歌劇の再開がテレビのニュースやワイドショーで大々的に取り上げられ、ネットなどで「なぜ宝塚だけが再開するのか」などと批判が殺到し、再開を心待ちにしていたファンの喜びをよそに、結局、東京宝塚劇場は10、11日と2日間再開しただけで再び休演。大劇場は13日から開幕するはずだった新トップスター、柚香光のトップ披露の花組公演『はいからさんが通る』の初日を20日まで1週間延期することを決断、東京宝塚劇場とともに19日までの休演を発表しました。
 しかし、感染は終息どころかますます拡大するばかりで、政府は3月20、21、22日の外出を自粛するよう要請、再び公演を中止せざるをえなくなり20、21日の2日間延長を発表、大劇場花組の初日は22日と発表されました。その日が東京宝塚劇場雪組公演の千秋楽だったこともあります。
 大劇場の3月21、22日は2回公演でしたが、そのうち2公演が貸し切り公演で、早くからキャンセルになっていて休演することになっていたこともあって結局、月末の31日まで延期がずれこみました。しかし東京宝塚劇場だけは公演を決行。全国映画館でのライブビューイングを中止、そのかわりにCS放送の宝塚専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」での生中継に踏み切りました。
 望海風斗は千秋楽の舞台を終えた後、「舞台はお客様があってこそということを改めて思い知りました。このようなときに観にきてくださったすべての方に感謝するとともに、大変な苦労の末、私たちにこの機会を作ってくださった関係者のみなさんの努力に対してこの場をお借りして感謝の念をお伝えしたい」と涙を浮かべてあいさつしたのが印象的でした。3月22日のこの公演から、宝塚歌劇はまだ上演されていません。
 花組公演『はいからさんが通る』はその時点で4月2日初日(1日は休演日)の予定で準備を進めていましたが、新型コロナウイルスの感染はさらなる拡大傾向をみせはじめ、3月30日になって4月12日まで『はいからさん』も含めた全公演の中止を発表しました。『はいからさん』の初日がまたまた延期になったほか、もともと27日開幕予定だった東京宝塚劇場の星組公演『眩耀の谷』『Ray』の初日がさらに延期、真風涼帆主演の宙組TBS赤坂ACTシアター公演『FLYING SAPA――フライング サパ』も初日がずれこみ、桜木みなと主演の宙組公演『壮麗帝』東京公演は全日程中止になってしまいました。当初1週間ぐらい自粛すれば大丈夫だろうと考えていたふしがあるのですが、少しずつずれこんで気がつくと1カ月の休演になってしまいました。そして4月7日、緊急事態宣言が出る直前に、期限を切らない公演の中止に踏み切りました。
 宝塚歌劇が公演中止に追い込まれたのは、106年の歴史のなかで初めてではありません。最初は、まだ草創期の1923年、東京公演が成功するなど人気が沸騰して宝塚パラダイス劇場だけでは手狭になり、箕面の公会堂劇場を宝塚に移設して2劇場で上演をするようになった矢先、失火で2劇場とも焼失するという大事故が起こりました。創始者の小林一三はそれを前向きにとらえて4,000人収容の宝塚大劇場を建設。約2カ月間の休演を余儀なくされました。その間、歌劇団は全国で巡回公演をおこなっています。次は44年4月から46年4月まで、太平洋戦争末期から戦後にかけての2年間にわたる休演です。そして95年1月17日に発生した阪神・淡路大震災のときです。このときは3月31日の再開まで約2カ月、宝塚大劇場とバウホールが休演しましたが、シアター・ドラマシティや東京宝塚劇場、名古屋の中日劇場での上演は予定どおりでした。それを考えるとこの事態はまさに戦時中以来ということになります。

 ウイルス感染の脅威が、人々の生命と生活にこれほど大きな影響を及ぼしたことが、かつてあったでしょうか。「不要不急」という言葉で文化すべてがなくなっていく現実は、まさに戦時下を思わせます。人の命の尊さにはあらがうことはできませんが、必死で舞台づくりをしている人々の努力が無に帰すのはなんとも切ないかぎり。ニュースによると、ヨーロッパ各国では国が要請して公演を中止した劇場の従業員や俳優には全額とは言わないまでもかなりの補償金が支払われるといいます。自粛だけ要請して「補償はできない」と堂々と言ってのける国のトップの無神経さがたまりません。それだけではなく、マスコミの報道も毎日あきもせず同じことばかり。政治家ともども文化的水準の低さが改めて浮き彫りになり、言ってもむなしいとわかってはいても愚痴のひとつもこぼしたくなります。
 ますます深刻さの一途をたどる新型コロナウイルスの感染拡大ですが、一刻も早い終息を願うばかりです。

 

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「乃木坂46論」書籍化のお知らせ

[青弓社編集部から]

香月孝史「乃木坂46論」のコンセプトを踏襲して全面的にアップデートし、新たに書き下ろした単著を刊行いたします。

ご興味がある方はお手にとっていただければ幸いです。

香月孝史
『乃木坂46のドラマトゥルギー――演じる身体/フィクション/静かな成熟』
定価2000円+税 2020年4月25日刊行予定 ISBN978-4-7872-7431-1

ギモン3:何を展示するの?(第1回)

第1回 展覧会における「作品」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(キュレーター。東京都現代美術館を経て、国内外での展覧会企画に関わる。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 これまで「展覧会」という時空間についてさまざまな角度から見てきたが、ここで基本に立ち返って質問を一つ。展覧会では何を展示しているのだろうか。そりゃぁ、「作品」に決まってるでしょ、とおそらく大半の人は躊躇なく答えるにちがいない。そもそも人は「作品」を観に展覧会に行くわけだし、それは映画館に映画を観にいったり、コンサートホールに音楽を聴きにいくのと同じくらい自然なことのように思われる。だが、ゴッホやモネ、ルノアールなど近代美術あたりまで美術館や展覧会で当たり前のように鎮座していた「作品」の「当たり前感」が、現代美術では、デュシャンを機に著しく崩壊あるいは変容しつつあることは、本連載をこれまで読んでくださったみなさんにはもうおわかりいただいていることだろう。展覧会に「作品」を展示するというよりも、ある意味、美術館や展覧会に展示してあるから「作品」が「作品」として成立する、という一種の逆転現象が現代美術の場合、多発している。本連載の冒頭で、「作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る」とさらりと述べた。キュレーターの仕事の要になるのは、展覧会に一体何をどう展示するのか、ということに尽きるだろう。
 今回のギモンでは、作品はどのように「作品」となるのかについて、キュレーターの立場から考えてみよう。具体的には、美術の展覧会で私たちが普段、至極当たり前のように見ている「作品」について、なかでもとりわけ現代美術特有の事情を抱えた「作品」の展示について、主に次の2つのキュレートリアルな視点からあらためて考えてみたい。まず1つ目は、「作品」を「作品」として展覧会のなかで位置づける行為について、そして2つ目は、「作品」を展覧会のために選ぶという行為について考える。どちらも「作品」を展示するにあたってキュレーターが大きく関わる行為であり、それが特に現代美術の場合、近代までの美術の展示では見られなかったようなさまざまなギモンを呈する。さて、何がどう問題なのか、これから一つひとつ具体的に見ていこう。

「作品」が「作品」になるとき

 まずここであらためて私たちが普段、現代美術の展覧会で「作品」を鑑賞するときのことを思い起こしてみよう。近代までに制作された絵画や彫刻などなら一目で「作品」と判別できるのに、現代美術となると、「これが作品?」「え、これも作品?」と途端にわかりにくくなってしまうのはなぜだろうか。言葉は悪いが、正直、一見ゴミみたいなものも「アート」だったりすることも少なくない。展示室内にあればまだしも、屋外のインスタレーションを中心とした展覧会になってくると、一体どこに作品があるんだ、となかなかに紛らわしい事態が発生する場合もある。逆に無造作に道端に積まれたバケツなどの日用品が、その色合いや積まれ具合が絶妙な味を醸し出して「これって現代アートじゃん」と言われそうになることだってあるだろう。さらにモノの展示ならまだしも、ハプニングやイベント、パフォーマンスなど形に残らない作品の展示になってくると、混迷を極める。例えばティノ・セーガルの『This is Propaganda(これはプロパガンダ)』という作品は、展示室に観客が足を踏み入れると、看視員に扮した人がおもむろに「This is Propaganda, you know, you know.(これはプロパガンダ、知ってるでしょ、知ってるでしょ)」と歌う。こうなってくると、もう気づく人は気づくが、それが「作品」なのかどうかよくわからずに通り過ぎてしまう人が続出してもおかしくない。展覧会場で作品を鑑賞するというときに、私たちは一体どこでそれが「作品」だと判別しているのだろうか。
 MoMAが建築やデザイン、映画、写真などを美術館で展示してコレクションにも加えることで、それまでアートと目されなかったものがアートの文脈に位置づけられてきたことは、ギモン1ですでに見てきたとおりだ。このように美術館や展覧会で何かを展示するという行為は、それを「作品」として美術の文脈に位置づける行為になる。現代美術は、領域横断的な性格を近年ますます強めていて、視覚美術にとどまらず、音楽やファッション、建築などの他ジャンルの芸術、あるいは科学や人類学、社会学、工学、医学、福祉などの芸術以外の分野と横断・協働する作品や展覧会が増加の一途をたどっている。これらの試みのなかには、従来の絵画や彫刻といったモノによるアウトプットだけではなく、地域のコミュニティーを巻き込むようなプロジェクト型になっていたり、最終的な形にはこだわらず、そのときどきの行為やプロセスを重視した形がない「作品」もたくさんある。多様化する現代美術で、「作品」や「アート」の概念は常に再定義を迫られる宿命にある。そもそも現代美術自体、何が「作品」なのか、何が「アート」なのかを開拓、挑戦し続けていくことを本分としているようなところもある。良く言えば懐が深いのだが、下手するとなんでもアリになってしまう危険もはらんでいる。そうした状況のなかで、ホワイト・キューブという展示空間や展覧会という枠組みで「作品」を「作品」として位置づけるのが、キュレーターの大事な仕事の一つである。では具体的に、キュレーターはどうやって「作品」を「作品」として位置づけているのだろうか。

逆パルメザンチーズ再考

 ホワイト・キューブの展示空間の場合は、そこに置かれているだけで「作品」と認識されやすい、というのはギモン1でも見てきた。だが、「作品」はただ展示室にポンと置かれているだけで自動的に「作品」と認識されるとはかぎらない。デュシャン の『泉』を思い出してみると、単に男性用小便器を展示室に持ち込んだだけであれば「作品」とはならないし、あんな一大事件にもならなかった。便器が「作品」になったのには、まず「泉」というタイトルをつけて、制作年と作家によるサインを添え、「展覧会」に出品し(実際には出品されなかったわけだが)、展示台にひっくり返して展示をする、という一連のこまやかな展覧会での決まりごとを経て、さらにそれについて美術雑誌で評論を掲載する、というところまでを全部含めて「作品」が「作品」として美術史における歴史的大事件として位置づけられた。
 ホワイト・キューブという環境、あるいは「展覧会」という枠組みそのものは、「作品」を「作品」たらしめる一種の舞台装置である。この舞台装置で「作品」を「作品」として、よりわかりやすくする小道具がいくつかある。ここで本連載の初めに登場した「逆パルメザンチーズ」に再登場してもらい、作品の展示を構成していた小道具とその役割をいま一度整理してみよう。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」

 まず「周り全部白いバック」が舞台となるホワイト・キューブ空間とすると、「白い台」と「ケース」がそれぞれ小道具の筆頭となる展示台と展示ケースになる。平面作品ならば、額も同じ部類の小道具と言える。これらは作品を保護すると同時に、壁や床に作品を展示することを可能にし、展示室内での作品の位置を明確に示してくれる。もっとも現代美術の場合は、額装されていない平面作品も多いし、展示台を使わないで床に直接配置するような立体作品も多い。次に「周りになんか紐みたいなの張って」いるのが「結界」と呼ばれるもので、ワイヤー状のものや金属製のバーなどがある。これも作品を保護したり、逆に作品によって観客がけがをしたり服を汚さないようにするなど観客を保護する役割がある。そしてこれらの小道具のなかでその最たるものが「四角い紙みたいなのに」あれこれ書いてあるキャプションだ。キャプションというのは、通常、白い四角いパネルなどに黒字で印字してあるもので、作家名、作品タイトル、制作年、素材・技法などを明記して作品のそばに掲示されている。ときには簡単な作品解説などのウォールテキストが別途添えられていることもある。屋外の展示の場合でも、立て看板のようになっているものや、長期的な展示の場合は、金属製のプレートなどで作られて台座などにしっかりと設置されているものもある。

キャプションをつける

「キャプション」という用語は知らなくても、ここまでの説明で「あぁ、あれね」と思い当たる人も多いだろう。あんな小さな四角い紙切れみたいなものが、そんな大事な小道具なのかと思う方もいるかもしれない。だが、おそらくいまこの文章をお読みになっているあなたも、作品だけを観て、キャプションにあるタイトルや作家名を確認せずに展示室を後にすることは少ないのではないだろうか。例えばルーヴル美術館で『モナ・リザ』の絵を観て、そこに「モナ・リザ」という作品名と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という作家名を記したキャプションを見て、「あぁ、いま、自分はあの『モナ・リザ』を観ているのだ」と確認する人は案外多いのではないだろうか。あるいは、近年日本でも人気が高まっているフェルメールの展覧会に行くと、そもそも現存する作品が30数点という寡作で知られるフェルメールの作品は、大抵フェルメール以外の画家の作品と一緒に展示されている。そこで人だかりができるのは、やはりフェルメールの作品だ。人々はキャプションをチェックして、似たような作風の同時代の他の画家の作品には目もくれず、「フェルメール」と記されたキャプションを確認して熱心にそのキャプションが示す作品に見入る。作家名をキャプションで認識するという行為、またそれが自分の知っている作家なのかどうかを確認する行為は、現代美術作品の場合でもよく見られる光景だ。いわば、私たちはキャプションとセットで作品を鑑賞している。こうした作家名や作品名など、作品にまつわる情報を一枚のキャプションの形で整えて展示室に作品と一緒に掲示するのは、キュレーターである。このキャプションは、作品を鑑賞するうえで多くの人がその解釈の手がかりにするものであり、作品が作品として展覧会のなかで位置づけられるプロセスを目に見える形で示す。このキャプションのなかに記されている一つひとつの要素をここで見ていきたい。

キャプションを構成する要素

 まずは作家名だが、通常は、作家名に加えて出身地や活動拠点、並びに生没年を添えることも多い。この情報だけで、その作家を知っているかどうか、ということだけでなく、その作品はどういった場所で活動した(あるいは活動している)作家の手によるものなのかがわかる。また制作年を見ながら、その作家が何歳ぐらいのときに作られたものなのか、どういった時代背景の際に作られたものなのか、といったことが明らかになる。
 そしてキャプションに記載された情報のなかでも、その作品を解釈するうえで最大の手がかりになるのが作品タイトルだ。作品タイトルをつける行為自体は作家によるものだが、キャプションにそれが示されることで、観客は目の前の作品とキャプションを見比べながら、それが何を表そうとしているのかをあれこれ想像することができる。作品の実物を先に見て、次にキャプションのタイトルを見てから、再びその作品の内容について考える人も多いだろう。

作品タイトルいろいろ

 作品とタイトルの関係については、古典的な例としては、ベルギーのシュルレアリスト画家、ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』(1928―29年)を思い起こす人もいるだろう。喫煙具のパイプの絵の下に「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプではない)」とフランス語の文章が添えてある一枚の油彩画である。絵柄としては「パイプ」だが、「イメージの裏切り」というタイトルが示すとおり、それはパイプではなく、一枚の絵にすぎない。マグリットのこの作品については、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが著書『これはパイプではない』(1973年)で言葉と物の関係について主題的に論じているので、ここでは割愛したい。だが、作品の主題を読み解くうえで、言葉と物の関係は切っても切れないこと、また作品タイトルは実に多くのことを示唆することが、マグリットのこの一枚の絵からも想像できるだろう。
 現代美術作家たちも、作品に実にさまざまなタイトルをつけている。例えば、1970年に大阪万国博覧会のペプシ館を水を使った人工の霧で覆った『霧の彫刻』で有名な中谷芙二子は、これまで手がけた霧の作品タイトルに必ず「国際地点番号」と呼ばれる5桁のアラビア数字を付している。これは、世界各国にある観測所に一つずつ割り当てられた番号で、各地点で観測された気象情報は、この番号とともに各国気象機関の世界的なネットワークで共有される。例えば、インド洋に浮かぶ大小1, 200ものサンゴ礁の島々からなるモルディブ共和国の首都マレの国際地点番号は43555である。同地の国立美術館に隣接する緑豊かな公園に出現した作品は、『霧の彫刻#43555「モルディブの雲樹」』と命名された。霧は、風や人の流れ、温湿度、光などによってその表情を刻々と変化させる。筆者が2012年にモルディブで企画した展覧会では、中谷は現地の気象台を訪れ、年間を通したマレの温湿度、風向や風速などの精密なデータを調べた。そして年間平均気温が30度前後という気象条件で、霧を見ることがないモルディブで人工の霧を出現させた(1)。あるいは、08年の横浜トリエンナーレの際に横浜市内にある有名な日本庭園である三渓園で発表された作品は、その外苑のいちばん奥にある人工の滝がある場所に設置され、『「雨月物語―懸崖の滝」 Fogfalls #47670』と題された。自然の物語を語る風の化身として、変幻自在に舞う霧を「雨月物語」になぞらえ、最後に横浜の国際地点番号が付されている(2)。中谷の霧は、芸術であると同時に科学的な眼差しに貫かれていて、それはそのタイトルにも色濃く反映されている。
 一方で1950年代半ばから70年代初頭にかけて関西を中心に活動した前衛美術グループ、具体美術家協会(通称「具体」)の作家たちの作品タイトルには、「無題」や「作品」などほぼタイトルらしいタイトルがつけられていないケースが多い。これは文学的な題名を嫌ったリーダーである吉原治良の意向によるものということだが(3)、具体のメンバーたちの作品タイトルは、押し並べて「作品」「無題」といったものが多い。例えば、具体の主要メンバーの一人、田中敦子は、エナメル塗料でカラフルな円と曲線で構成された絵画を数多く制作したが、そのほとんどが「無題」か「作品」だけ、あるいは「作品 66-SA」「WORK 1964」など、「作品」や「WORK(英語で「作品」、の意)」という言葉の後に制作年を表す数字やアルファベットを付しただけのタイトルにとどまっている。その昔、田中敦子の個展(4)の展覧会カタログの編集のお手伝いをしたことがあったが、とにかく作品を同定するのが大変で、作品画像とサイズ、制作年を必死に照らし合わせる羽目になった。キャプションも「作品」というタイトルと制作年だけ、素材もほぼ同じであるため、間違わないようにつける必要があるが、キャプションがついたところで、観客にとっては、「無題」や「作品」のほかは制作年が異なるぐらいなので、ただひたすらに目の前の絵画に向き合うしかない。既成の絵画や彫刻の概念を解体しようとした具体の意図に鑑みれば、作品につきもののキャプションにタイトルを付さず、ただそこに表現された作品をなんの先入観も与えずに観客に提示するというのは、誠に理にかなってはいるものの、私たちがいかに普段、タイトルを手がかりに作品を鑑賞しているかをあらためて認識させられる。
 このようにタイトルがつけられていないキャプションというのは、鑑賞者にとってはなかなか手強い相手だが、これとは真逆で、岡崎乾二郎は、一編の詩のように長いタイトルをつけることで知られる。岡崎の絵画作品のなかに、2枚1組になっているアクリル絵の具で描いた抽象画のシリーズがあるが、同じ大きさのカンヴァスの左と右でそれぞれタイトルがついている。例えばセゾン現代美術館所蔵の2001年に制作された作品は、左が「平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける」、右が「それを辿れば間違いなく家に戻れる一つしかない煉瓦敷きの道をゆっくり歩いていれば、どっと笑いがとまらない。やがて死ぬ景色は見えず蝉の声。陽の光をさんさん受けた気楽な世界のただ中で影に包まれ、爪先だって歩いている。自分が茄子であるのか南瓜であるのか分らなくてもよい。一生のうちに一回きっと蝶は飛んでくる(5)」という具合である。描かれた絵画自体は、色とりどりの絵具をコテのような形状のペインティングナイフで画面にのせて押し広げたり、絵具の盛り上がりをナイフで丁寧に造形したりした痕跡がわかるようなリズミカルな画面となっている。左と右とで見比べると、同じようなパターンが色の組み合わせや大きさなどを変えたりしながら、左右の同じ位置や、異なる位置にそれぞれ配された画面構成となっている。タイトルのほうは、左と右の文字数は合わせてあるが、それぞれの文章は関連があるようで、ないようで、一つの物語と、もう一つ別のありえたかもしれない物語のように左右のタイトルの関係性について考えさせられる。二枚一組の絵と、左右で対になっているタイトルの文章を鑑賞者は見比べながら、しばし反芻する。岡崎の絵とタイトルは、このように同じような重きを持って鑑賞され、キャプションと言えど、それは単なるタイトルを示す小道具の域を超え、もはや作品の一部となっている。
 と、少々脱線したが、作品タイトルにかける(あるいはあえてそれを意識させないようにする)作家たちのこだわりは、それだけタイトルが作品で非常に重要な役割をもっていることを端的に示している。もっとも、現代美術の場合、展覧会に向けて新作を発表する作家も多く、オープンギリギリまでタイトルが決まらなくて、キュレーターは冷や冷やさせられることもしょっちゅうだ。また作家のほうも、やっと決まったタイトルを時間がたつと忘れてしまったり、あとから変更してしまうことも少なくない。と、なんとも悩ましいものではあるが、作品にとってタイトルは不可欠な存在であり、そんなタイトルも、キャプションがなければ、観客はその作品がどういうタイトルなのか、誰による作品なのか、皆目見当がつかない。つまり、展示室で、ただ作品が置かれるのではなく、キャプションにそのタイトルと作家名が示されることで、「作品」が「作品」として位置づけられることは間違いないだろう。狭い会場であれば、ときに壁にはキャプションをつけずに、会場マップを別途用意してそこにタイトルがまとめて付されていることも珍しくない。ただいずれにせよ、私たちは、普段、タイトルや作家名を見ることなく作品のみを見る、ということはしない。
 ちなみに先に紹介したセーガルの場合は、実は、展示室内にキャプションをつけること自体を許さない。さらに作品を写真や動画で記録することもご法度であることで知られている。これは、キャプションを軽視しているのではなく、展覧会や美術館という枠組みのなかで「作品」を展示する際にいかにキャプションというものが作品を作品らしく見せているか、また、そうした枠組みのなかで作品を展示するという行為そのものに対する痛烈なインスティチューショナル・クリティークとなっている。

 さて、ここまでは「展覧会に一体何をどう展示するのか」ということについて、キャプションなどに象徴される作品展示にまつわる物理的な設えを中心として見てきた。だが、「作品」を「作品」として位置づけるうえでさらに大切なキュレーターの仕事がある。それは、その「作品」を美術の文脈のなかに位置づける、という論理的な設えだ。逆パルメザンチーズのエピソードで言えば、最後の部分、「「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明」を書く、という部分である。つまり、作品に関するテキストを書く、作品について論じるということである。テキストというとカタログを思い浮かべる人もいると思うが、カタログそのものについては、また追ってのちほど少し考える機会をもちたい。ここでは展覧会のためにある作品を選んで、それについて説明する、テキストを書くということについて次回考えてみよう。


(1)難波祐子「呼吸する環礁(アトール)――連なりの美学」、国際交流基金『呼吸する環礁(アトール)――モルディブ 日本現代美術展』所収、国際交流基金、2012年、59ページ
(2)『横浜トリエンナーレ2008カタログ――time crevasse』横浜トリエンナーレ組織委員会、2008年、197ページ
(3)加藤瑞穂氏へのメールによるインタビュー、2019年11月6日
(4)「田中敦子――アート・オブ・コネクティング」(2011―12年)、アイコンギャラリー(イギリス)、カステジョン現代美術センター(スペイン)、東京都現代美術館を巡回。
(5)岡崎の作品画像とタイトルは以下の記事を参照のこと。影山幸一「デジタルアーカイブを開始した美術家「岡崎乾二郎」」「artscape」(http://www.dnp.co.jp/artscape/artreport/it/k_0602.html

 

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